6.30.2017

[film] American Valhalla (2017)

28日、水曜日の晩、SOHOのCurzonで見ました。
21時開始で、上映前に監督ふたりの挨拶とQ&Aがあるというので、ホールにはDJが入ってパーティスタイルになっていた。
挨拶と言ってもロックスターであるところのJosh Hommeさんであるからこれまでに見てきたそういうイベントとはぜんぜん違ってわーわーきゃーきゃーで質問もお行儀よく挙手して指名、の前に勝手に声かけちゃうは酔っ払いはクダ巻いてるはで、なかなか大変だった。

もう1人の監督Andreas Neumannさんの言うところによるとある日突然Joshから電話が入って、明日から砂漠に来れるか? というのでそれに応えて行ったのが始まり、と。 その時点では現地にIggy Popがいるなんて知らされていなかった、って。

Q&Aのやりとりは制作のプロセスとか考え方に関するものがほとんどだったが、もうびっくりするくらいにふつうのきちんとした、想定通りの答えしか返ってこなくて、この人は不良でかっこつけているようで、やっぱりほんとに真面目で誠実な努力のひとなんだな - こういう外見のひとってそうであることが多いけど - としみじみ感動した。 Iggy Popという巨人への憧れ、畏れとリスペクト、彼と競演・共同作業をすることの自分にとっての意味、達成点、プレッシャー、リスク、それらは映画の中でも語られているが、自分史のなかでも決して小さなものではないのできちんとジャーナルを記して、こうして映像として残そうと思った、と。このようにして撮られた(ライブも含めて)40時間分のマテリアルを編集してできたのがこのドキュメンタリーで、ポスターに腕組みした二人が写っているようにIggy Popひとりにクローズアップしたものではなく、それなりに成功してイメージを確立し、自身のやりたいことをそれなりにやれるようになったミュージシャンであるところのJosh Homme氏が予測・制御不能な老人・猿人・巨人であるところのIggy Poo翁を彼の砂漠のスタジオに呼び寄せて迎え撃ち、レコーディングしてライブに出て、やんやの喝采と賞賛を浴びるまで。

なんといっても映像に登場しただけでやばい臭気、雰囲気が漂ってしまう被写体Iggy Popのすごさ - 皺にシミ、皮のたるみ、その裏と奥でなにが蠢いているんだか - これを眺めるためだけに見にいってもいい、それくらいの異物感、変な人は変なことするから変なんじゃなくてそこにいるだけで変なんだっていっぱつでわかるから。 これがAmerican Valhalla - 歌詞のなかでは”I don't know”とか”I’ve Nothing”とかばかり言っているが、そういうのが一番こわいんだから。

そんな天然IggyとかっちりかっこつけのJoshの和かに微笑みながらとぐろを巻く真剣勝負がはらはらでおもしろいの。
ああそれにしても、”Gimme Danger” (2016) 見たいよう。 こっちではとっくにDVDになってるのに。

陰が射してざわざわするのがレコーディングの最中に突然入ってきたBowieの訃報で、唯一ここだけとても生々しく、こちら側にも繋がってくる。

レコーディングが終わったあとの後半はツアーの日々となるのだが、ライブシーンはおおっ! ってなってもすぐに切られてしまうところがきつい。ライブフィルムでないことがわかっていても、このバンドのライブを目撃できなかった悔しさがじわじわと、後からだけどくる。
Q&Aでも - すばらしかったありがとう - と何度か言われていたLondonのRoyal Albert Hallでのライブがクライマックスででてくる。
あーあーあーあー、ったらない。

唯一わかんないのが聞き手として出てくるAnthony Bourdainなんだけど。 なんでこいつなの?

[film] The Graduate (1967)

25日の夕方、SOHOで”The Seasons in Quincy: Four Portraits of John Berger”を見たあとにBFIに移動して見ました。 “The Seasons..”が終わったのが17:54で、これの開始は18:15で、地下鉄の駅まで走っていって目の前で扉を閉められたときにはぜったい無理だと思ったのだが、Waterlooで下りてから走って駆けこんだら丁度始まる手前で、席に座ってDustin Hoffmanみたいににーっ、て笑った。

BFIではDustin Hoffmanの特集上映をやってて、そのなかの目玉が、これの4Kリストア版。これだけは他の映画館でもリバイバル上映されている。「卒業」 ← よい邦題ね。

中学校のときに映画館で見て以来で、そのときはS&Gの音楽を聴く、ていうのが大義名分としてあったりして(うそつき)、内容についてははらはらどきどきだったわけだが、そののち自分がこの歳になって、BenではなくてMrs. Robinsonの年齢目線で見るようになったり … そんなはずはないのだった。

大学を輝かしい成績で卒業して西海岸の実家に戻ってきたBen Braddock (Dustin Hoffman)は、歓迎パーティーの晩にMrs. Robinson (Anne Bancroft)に激しく誘惑されて、その晩はなんとか逃れたものの結局押し倒されてやられて関係ずぶずぶになって、でも彼女の娘のElaine (Katharine Ross)に出会ったらそっちにめろめろになって揺れまくって、どうするんだ、になるのだがやっぱりElaineだ、てなったらMrs. Robinson は激怒して娘は別のと結婚させるから、て言われてBenは ..

今だとここで描かれる挙動のあれこれにセクハラ - パワハラ - 童貞喪失 - ストーキング、といったラベルを貼ってしまうのは簡単なのだが、これらはあくまでもBenが自分を発見して「卒業」するための「通過儀礼」としてあって、40年前の西海岸はそんなふうだったんだから、とかいわれてもちっともおかしくない。
というか、そういった人と人の交錯よりも、プール(の底)、プールサイド、ランニング、夜のホテル、クラブ、夜の通り、動物園、などのイメージが昔に見たときよりより鮮烈に映って、これらの場面場面が演劇の書き割りとしてかっちりBenの逡巡にはまるように機能していて、この辺は我々の知る青春映画のそれ - 主人公たちのエモが画面を作ったり壊したり - とはちょっと違うかも、て思った。
そういう、60年代アメリカ西海岸のエスタブリッシュメントの(演劇)ドラマとして見てみるとめちゃくちゃ面白くて、実際客席はみんなげらげら笑いながら見てて、昔はみんなしーんとして見てたよねえ(なんでだ?)  って。

60年代の西海岸、プール、とかから、ここにLBGTを絡めてみる、ていうのは今ならありかも、とか、同様の女(達)と少年を巡る物語である"20th Century Women"の続編 - Jamieのその後 - をこのプロットで撮ってみることは可能か、とか、今これをリメイクするとしたら誰が誰? とかいろいろ想像して遊ぶことができる。でもDustin Hoffmanみたいな演技 - むっつりいきなり乳を揉む、とか - ができる俳優、いそうでいないかも。

脚本のBuck Henryさんがホテルクラーク役で出てる。
前にLincoln Centerでの"The Owl and the Pussycat" (1970)のトークのときにこれのことを言っていたなあ、って。

音楽、”The Sound of Silence"が何度か流れて、大好きな曲なのだけど、この映画のトーンというか色味とはちょっと違うよねえ、とこれは昔も思ったかな。"Mrs. Robinson"はとてつもない、といまだに思うけど。

6.28.2017

[film] The Seasons in Quincy: Four Portraits of John Berger (2016)

25日、日曜日の午後にSOHOのCurzonでみました。
タイトルの通り、今年1月に亡くなったJohn Bergerの肖像を4つの短篇を重ねつつ浮かびあがらせたもの。

日本だと『見るということ』とか『イメージ—視覚とメディア』を中心にどうしても学術の人として語られてしまいがちだが、こっちでは彼自身がTVプログラムに出ていたこともあってとてもポピュラーな存在で、2〜3月はどの書店でも追悼で彼の本が平積みになっていた。

70年代からフランスの山奥の村Quincyに移り住んだJohn Bergerをいろんな人が訪ねて対話をしたり、過去と現在を重ねたり。
"Four Portraits"の4編は"Ways of Listening" 〜 "Spring" 〜 "A Song for Politics" 〜 "Harvest”で、冬 - 春 - 夏 - 秋の順番で、それぞれ監督もばらばらなのだが、見事な統一感があって、それは四季ごとに表情は異なるのにその土地の空気の感じや光の感触が変わらないのと同じようで、それはつまりJohn Bergerという人がそう人なんだろうな、と。

http://seasonsinquincy.com/

Tilda Swintonさんがナレーションしたり顔を出したりしていて、彼女とJohn Bergerは80年代からの付き合いで、同じ誕生日で、同じロンドン生まれで、Tildaさんがリンゴの皮を剥いたりしながら対面でとりとめなくいろんな会話をしていく"Ways of Listening"がすばらしい。

ものを見ること、話を、声を聴くこと、ものを、あるいは/例えば美術作品を見る、それも正しい見方で見る、というのはどういうことか、それが何故大切で必要なことなのか、ということを彼は繰り返し説いていて、それは聴くことについても同様で、美を味わうという体験の本質はそこにあるのだと、そしてそれはひとと話す・語るというところにも繋がってくるのだな、ということがようくわかる。 70年代の"Ways of Seeing"のアーカイブ映像でこちらに語りかけてくる彼も、3つめのエピソード"A Song for Politics"で政治について語る彼も、"Ways of Listening"でTildaと話をする彼も、その目と語り口はおなじように真っ直ぐで、変わらない。

"Play me Something" (1989)で共演しているTildaとJohnの切り返し映像が一瞬挿入されて、なんだか泣きたくなる。

"Spring"は農場に住むいろんな動物のお話で、彼らの姿を見ること(すばらしい豚さん)、考えることからStory Tellingのほうに話は転がっていって、これってこないだのTateでのDonna Harawayの"Story Telling for Earthly Survival"に繋がる気がしたのだが、ふたりの間に交流とかなかったのかしら?

"Harvest"は、監督がTildaで、Quincyを訪れたTildaの子供たちとJohnの息子との間の交流と対話があって、それは最初の"Ways of Listening"のエコーにもなっている。 こうして季節は移ろって少し膨らんで次に継がれていくよ、ということなのだろうが、ここで一番印象に残るのはTildaの子供みたいに素敵な笑顔なの。

全編でうねる見事なストリングスはSimon Fisher Turner、製作はDerek Jarman Lab。
ある意味イギリス的な美が凝縮されているようでたまらない。舞台はフランスなのだが。
日本でも公開されてほしい。

日本のJohn Bergerっていうと誰になるのだろう? やっぱり吉田 喜重かなあ。


John Berger関連で、もうひとつ。

26日、月曜日の晩にBFIの"Architecture on TV"のシリーズのラストで、"Berger on Buildings" ていうタイトルの上映があった。 彼が建築について語っているTVやフィルムを3本集めたもの。

- The Visual Scene (1969)  31min
- A City at Chandigarh (1966)  Dir Alain Tanner.  44min
- 10 Thousand Days, 93 Thousand Hours, 33 years of Effort (1965)  Dir Michael Gill. 28min

このうち、Alain Tanner監督による"A City at Chandigarh"がおもしろかった。ル・コルビュジエが設計した都市や建物のコンセプトや詳細には一切立ち入らずに全編にインドの音楽をがんがん流して、彼らの生活、学校、家族形態、などを紹介して、その断面断面にル・コルビュジエの建物やデザインしたなにかが映りこむような、そういう撮りかたをしている。 建築を撮るっていうのはそういうことでしょ、と。

もういっこの、"10 Thousand Days, 93 Thousand Hours, 33 years of Effort"は、郵便配達人のFerdinand Chevalがフランスの田舎に33年かけて作り上げた彼のパレス = 理想郷の紹介。 Berger自身がパレスのなかに入って彼が構築したぐちゃぐちゃな宇宙のすばらしさを解説してくれる。

でっかいNFT1での上映だったのだが、結構埋まっていて熱心にメモを取っているひとが多かった。


この後、NFT1ではトルコの猫映画"Kedi"のPreviewが。 ついにやつらがやってくる。

6.27.2017

[film] Transformers: The Last Knight (2017)

ネタばれしてるからね。

24日の土曜日の夕方、BFIのIMAXで見ました。 いっぱいにはなっていなかったけど、"The Mummy"の公開直後よりは入っていた。
3DのIMAXカメラで撮ったというのでどんなかなー、とかそれくらい。 シリーズ5作目(なんだって)で、前作で恐竜ロボみたいのが出てきたあたりでもういいかげんにしてほしい、になっているので、機械系のぐじゃぐじゃをどこまで映像としてジャンクなぐじゃぐじゃとして見せることができるのか、しか興味はないのと、あと米国での反応がなんかひどいようなので、どれくらいひどいのかしら、と。

...  なるほどなー。 

オープニングは今から1400年前、中世の英国の戦争ばっかしやっていた時代に魔術師マーリンが洞窟に潜んでいたTransformerと取引をして、そのおかげでアーサー王は勝つことができた、みたいな話があって、そこから話は現代に飛んでOptimus Prime は宇宙を放浪してて、Transformerは一切御法度で、それらを取り締まる組織が暗躍してて、でもCade Yeager (Mark Wahlberg)とか子供たちはアンダーグラウンドでカウンターしてて、ある日救えなかった年寄のTransformerからYeagerが古代のメダルみたいのを貰ったらそれが実はやばいやつで、追っかけっこが始まって、その由来と謎を知る英国の教授Anthony Hopkins が動き出して、宇宙では Optimus Primeが女王ロボみたいなのに捕まって洗脳されて、やっぱり地球と地球人は全滅させないと、ってでっかい船団組んでやってきて、と、あれこれてんこ盛りの150分。 とにかく長い。

要するに人類の戦争の歴史は、Transformerたちの代理戦争だったので、自分たちの歴史を取り戻せ! って宇宙の極右Transformerたちが叫んで地球に押し寄せてきたもんだから人類は絶体絶命で、そんななか、最後の希望(Last Knight)としてクローズアップされたのがどんな危機が襲ってきても"Oh Shit!" しか語彙がないアメリカ人で、こんなので大丈夫なのか人類? なのだが。

戦争をやって勝ったほうが強い・偉い・正しい、という考え方がベースにあると歴史修正主義とか神話化とかフェイク、みたいな話は必ず出てくるもので、それを宇宙全体に敷延して、地球で行われてきた全ての戦争をこの流れのなかで正当化しようとする。 で、更についでに、そこにやっぱしアメリカがいないとね、みたいな流れに持っていこうとするプロパガンダ映画で、そこまでは考え過ぎじゃないの、かも知れないけど、でもこの映画(フランチャイズ)の舞台になっているとこでは戦争は永遠になくならない - まだ続編ありそうだし、どれだけ地面や建物が崩れても飛ばされても主人公たちは無傷で死なないし、女性はみんなあんなふうな恰好してるし。 もちろん、そんなこと言いだしたら最近のハリウッド映画なんてみんなこんなのじゃん?  なのかもしれないけど、まあここまで露骨にバカバカしく開き直ったのってないよね。 やっぱしあの大統領のせいなの?

映像的には目の前の場面と俯瞰した場面がちゃんと繋がっていかないので、がーがーがちゃがちゃどかどかやっているだけ、お金は掛かっているけど右翼の街宣と同様のやかましさしかない。

でも、こういうのが(案の定)こういう時代に出てきた、というのを確認しとくために見る、ていうのはあるかも。
こういう挑発は適当に流しておくのが一番、なんだろうけど、あまりにうざいからさー。
でも、この150分に2000円以上(?)払うんだったら、名画座で2本立てのほうがぜんぜん。

英国のシーンで、Sir John Soane's Museumの内部が一瞬出てきて、そこだけおお! でしたわ。

6.26.2017

[film] Ma Loute (2016)

23日、金曜の晩、BloomsburyのCurzonで見ました。 英語題は"Slack Bay"。

自分にとっては血も涙もない鬼畜系の監督 - "Twentynine Palms" (2003) とかいまだにトラウマ - Bruno Dumontの「コメディ」だという。
確かに笑えないこともないのだが、なんかわけわかんないけどおかしい、ていうよりは、わかんないことはないけどどう受けとめたらよいのかわかんないので笑うしかない、という、そういう系の笑い - かと言ってブラックなかんじでもないの。

フランスの海岸 - たぶんこれがSlack Bay = 閑散とした入り江 - でムール貝を採ったり、観光客の浜辺や入り江の横断を担いだり船で渡したりして暮らしているBrufortの家があって、父母がいて、Ma Loute (Brandon Lavieville) はそこの長男で、彼の下に幼いガキ共3人がいる。
そこを見下ろす高台の別荘に毎年恒例の避暑にやって来たのが貴族でお金持ちっぽいVan Peteghemの一族で、André (Fabrice Luchini) とIsabelle (Valeria Bruni Tedeschi) の夫婦と子供たちとかで、後からAude (Juliette Binoche)もやってきて、いつもからから陽気でかしましい。
あと、この浜辺の近辺で人が消えたり行方不明になったりしている、というので巨デブの捜査官Machin (Didier Desprès)とその部下たちが現場周辺をいつも捜索してまわっている。
ていう3つの集団の動きとその間でぽつんと咲いたMa LouteとAudeの娘Billie(Raph)との恋 - をひと夏の浜辺の上で追っていて、爽やかな夏の思い出が残る、というよりは浜辺で立ち尽くしてぼーぜん、系の。

たぶんそうだろうな、と思っていたとおり、まともな人がほとんど出てこない。「まとも」っていうのはそれはちがう、とかそっちじゃない、とか、そういうことよ、とか突っ込みも含めて交通整理のようなことをしてくれるひとをいうのだが、そういうのがなくて、いるとしたら天を仰いで嘆き悲しんでばかりのIsabelleくらいなので、ことの成り行きを見ているしかない - どんなことが起こっても- ヒトがヒトを食べたって、ヒトが空を飛んだってそういうもんなんだ、と受けとめるしかない。

というわけで、由利徹が憑依したとしか思えないAndréのやばい動きがあり、絶えずきゅうきゅう音を立てて風船のように移動したり転がったりしているMachinがいて、すっかり豪快な大阪のおばはんに変貌してしまったので目を合わせられないJuliette Binocheがいて、そういう外から来た人々の反対側に無表情で殆ど喋らず、目配せのみで不気味に動いて「仕事」をしていく地元のBrufortの家の人たちがいて、その間で、たまに男装をしたりするBillieとMa Louteが動物のように出会って動物のようにふうぅって引っ掻きあって離れて、こんな場所に神はあるのか、と嘆くといないこともないよ、ほれ、とか。

そんなふうに見ているしかないのだったらしょうもないんじゃないの、かというとそうでもなくて、これまでもフランスの田舎の不寛容で冷酷非情な光景(with 宗教)を切り取ってきたBruno Dumontは、ここの入り江の光景にこれらの半腐れした人々の表情や挙動を的確に置いたりスラップスティックに飛ばしてみたり、見て楽しい一枚の絵にしている。 シュルレアリスムの絵にこんなのあったよな、みたいな。

シネマヴェーラの「妄執・異形の人々」特集への数年後のエントリーは絶対確実なやつで、だから、原題の"Ma Loute"よりは場所を示した英語題の"Slack Bay"のほうがよいかなあ、とか思った。

なにが起こるか予測つかないので最後まで釘づけ、というとこはあんまコメディぽくなかったかも。
最後に"FIN"が出るとなんかほっとしたし。

[film] Our High-Rise Heritage (1978 - 1988)

19日、月曜日の晩にBFIで見ました。
6月いっぱいどっかで開かれているLondon Festival of Architectureの一環としてBFIで"This Was Tomorrow: Broadcasting the arts - Architecture on TV"ていう過去の建築に関するTV番組アーカイブを束ねた特集上映をやっていて、そのなかの1つ(3本の短編をまとめて)。 そういうイベントがあるのも特集をやっているのもこれを見にきてから知ったのだが。

King's Collegeの教授で “Brideshead and the Tower Blocks” (1988)の監督でもあるPatrick Wrightさんによるイントロがあった。
ここでは英国の二次大戦後の建築、というより住宅政策のふたつの相反する方向性とそれが作りだした都市のイメージについて考察しています、ここにこの間発生したGrenfell Towerの火災を重ねてみると、いろいろなことが見えてくるはず、などなど。

Brideshead and the Tower Blocks (1988) by Patrick Wright.  40min.

イーヴリン・ウォーの『ブライヅヘッドふたたび』が出たのが1945年、戦後、その舞台となったBrideshead Castleを始めとする横に長く伸びる貴族の栄華を象徴する住居建築は(貴族そのものと一緒に)凋落の一途を辿り、かわりに縦に長く伸びたタワーブロックが都市部の住宅政策のなかから登場して、これと並行してNational Trustとかが主導する旧型の住宅を文化遺産として壊さずに保護修復しながら使い続ける動きもあって、その結果としてものすごく古い外観の建物の周辺を高層のタワーブロックが囲む、そういう形の都市が形成されてきている。 それぞれが抱えるいろんな問題を関係者証言と共に記録している。

Hackney Marshes (1978)   by John Smith.  32min

ハックニー地区の原っぱとかサッカーグラウンドを見下ろすところに建てられた高層住宅コンプレックス - というか日本だと団地群、の住民へのインタビューとかその暮らしをスケッチしたもの。
こういうの、いつの時代のどこの場所の、なに聞いてもおもしろい。 不満不平とかが噴出するのは当然として、それでもこんなふうに暮らしているんだー ← つっこみどころ満載で、でもこれって誰にもどうすることもできないよね?  みたいな問題のありようを示す。
撮影時から40年が経とうとしていて、今彼らはどこでなにを? ていうのは当然おもうこと。

The Kids from the Flats (1984)   by Julian Ashton.  26min

これも同じようにChelsea’s World’s End Estate - Vivienne Westwoodのお店の近所 - うちからも割と近所 - に暮らす10代の子供達の夏を描いたもので、コミュニティでのいろんな活動 - 沢山のスポーツとかダンスとかミスコンみたいのとか16歳のママとか、住宅問題というより子供達の笑顔や走ったり跳ねまわったりする姿が印象的で、それはこういう長屋構成だから、なのかしら。 彼らも今はもう40代になっているはずで、元気であってほしいなー、とか。

Grenfell Towerの火災で顕在化した老朽化したタワーブロックの問題は、たんなる耐火壁の不備というだけでなく、貧困層の切り離しではないかとか、実際に住んでいる/住んでいた人々をこれからどうしていくんだとか、いろんな方面に飛び火しつつあるが、これらの、建てた後で人を囲って寄せてそのままにしてしまうとなんかやばいのではないか、という意識は70~80年代からあったのだな、ということがわかる、ていうのと、これって、日本だと「団地」,「ニュータウン」問題にそのままなるよね - 地方の空洞化や少子化との複合なので「ニュータウン」のありようそのものが問題としてクローズアップされてはいないのかもしれないけど。

あと、自分で物件を2ヶ月くらい探してみて、ロンドンの住宅のへんなかんじは少しわかった気がしたので、なるほどなー、だった。 大きな二択としてヴィクトリアン・スタイル(て言ってた)の古いフラットをリノベしたのするのか、割とモダンで設備が整っていてフロア数もあるアパートにするのか、があって、それぞれ全然ちがうので散々悩んで、結局日本では住めないようなかんじのとこにしてみよう、と今のところにしたのだが、まあいろいろあっておもしろい。 まだおもしろがっていられる余裕がある、というか、ずっと住むのとは別だから、というのがあるのか。住むのと考えるのとは別 … なのかなあ? でもとてもよい上映会でした。 

6.23.2017

[film] Gifted (2017)

18日、日曜日の午後、Piccadillyで見ました。

恰好の父の日映画、のような宣伝をしていたのだが、実は「父」と娘のおはなしではないのだった。
でも、"(500) Days of Summer" (2009) のMarc Webbの映画なので、どっちにしたって見るの。

Mary (Mckenna Grace) とFrank (Chris Evans)と片目猫のFredは一緒に幸せに暮らしてて、7歳になったMaryは初めて学校に通うところで、パパ(じゃないけど)のFrankは少し心配で、Maryは小学校の算数の授業なんてたるくてやってらんない、て態度だし、気に食わないいじめっこに突っかかって相手の鼻折っちゃうし、やっぱり問題起こして、でもMaryの算数というより数学の才能がとんでもなくて、びっくりした担任があれこれ調べてみると、彼女の亡くなった母Dianeはボストンでナビエ - ストークス方程式の解決にあと一歩まで迫っていた数学者だったこととか、Frankは父親ではなくて彼女の叔父であることがわかって、これはそういう特殊な才能を持った子供向けの教育を受けさせたほうがよいのでは、となったところで、彼女の祖母 - Evelyn (Lindsay Duncan)がどこかから現れて、やっぱりそうよねその時が来たわ、ていう。

Evelynもかつては数学者で、娘に数学の夢を託していて、この孫となら再び、と燃えあがるのだが、Dianeに何があったかを知っているFrankは、まず普通の教育を受けさせるべき、とそれを拒んで、そしたらEvelynはMaryの面倒を見る権利を巡って訴訟を起こすの。

ものすごくよくできた娘とちょっと弱くて頼りないパパのお話、というと最近のだと"I am Sam" (2001) が浮かんで、確かにあそこのDakota FanningとここのMckenna Graceはなんか似ているのだが、あっちが娘と父の危なっかしいシーソーゲームだったのに対して、こっちは娘を中心にしたおしくらまんじゅうの取り合いで、どっちにしてもよいこは大変なんだねえ、とか思ったりする。

いまどき珍しくなーんのひねりもあんぐりの修羅場もない、誰の目にも結果が明らかで納得できるかっちりした長屋のホームドラマで、やさしいパパ(じゃないけど)と、おっちょこちょいでFrankを好きになっていく担任教師と、過剰な愛でつんけんしている祖母と、訴訟の過程で明らかになっていく悲しい過去と冷酷な結果と、ちょっと乱暴だけど頼もしい近所のおばちゃん (Octavia Spencer)と、そういうのに囲まれてみんなが世話をやきたくなるMaryはすくすく育っていくし、どんな子供だって"Gifted"なのよね、て誰もが思うに決まっている。

それにしてもChris Evansの抜群の安定感というか、Captain Americaとしかいいようのない頼もしい笑顔はもうなんかたまんないし、彼がシェルターに突撃して猫3匹を危機一髪で救うとこなんてあんたそれずるいわ、くらいなのだけど、Captain America(じゃない)をあそこの位置に持ってきたのはよかったのか、とか思わないでもない。 かつてはボストンで哲学を教えてて、Maryの世話をしながらマイアミでボートの修理工をしていて、金曜の晩だけひとりバーでぼーっとしている、そんな男があんなふうにいたりするもんなのか。 哲学教師崩れなんてJoaquin Phoenixくらい危なっかしいのでちょうどよいのではないか、とか。

Chris Evansって、このままじゃTom Cruiseみたいになっちゃうぞ -  それがどうした、だが。

あと、これが数学じゃなくて、体育だったらどうか、とか、それぞれの性別が逆だったらとか、どうでもいいこともいっぱい考えた。

BBC2でずっとGlastonburyやってる。 来年はまってろ。

6.21.2017

[music] Tindersticks presents Minute Bodies

冗談みたいにあっつい。 毎年こんなにひどいの? って職場のおばさんに聞いたら76年以来ね、て涼しい顔で言われた。

17日、土曜日の晩、Barbicanでの映画上映 + ライブ。
Tindersticksのライブに行く、演奏している彼らを目撃するのは長年の野望のひとつで、Claire Denisの数本の粒子の粗い闇の奥で常に蠢いている彼らの音、その謎はライブで確かめるしかないよね、と思っていた。

今回のは "Minute Bodies - The Intimate World of F. Percy Smith"ていう映画上映に合わせた演奏があって、そのあとでバンドのライブ。
Frank Percy Smith (1880 - 1945) は、英国のナチュラリストで映像作家で、自分ちの庭での植物や微生物の撮影・記録をしながら接写や低速・長時間撮影等の技術や手法を開拓したひと、と言われている。 たぶん誰もがどっかで見たことあるのではないか。
動植物科学映画のHenry Fox Talbotというか、ひとりSSWなNational Geographicというか。

"Minute Bodies"はそんなF. Percy Smithの映像作品を横断的に編集して(監督はTindersticksのStuart A Staplesさん)、そこに彼らの音楽をのっけた作品で、LP/DVDが発売されたばかり(とうぜん買った)。前半のライブは約1時間、スクリーンに"Minute Bodies"を投影しながらライブでサウンドトラックを被せていく。

F. Percy Smithの映像はビーカーに庭の藁草を入れたら翌日は水中に微生物が湧いてた、みたいなのから胞子とか花粉とかミクロで覗いてみた植物の不思議がいっぱいで、後半はそれがやや大きくなってカエルとかサンショウウオの幼生とかオタマジャクシとか、でもどっちにしても小さくて、常に動いて変化していく。 一見止まって動かないように見える周りのものでも、拡大したり時間を引き延ばしてみればものすごく活発に動いているんだよ、多様性なんて今更言ってんじゃねえよ、ていう今から100年前の映像、というより100年前に記録された出来事をライブでの微細な打楽器、管楽器、エレクトロの鳴り・揺れと共に再生して撹拌していく。 F. Percy Smithがそのレンズに収めようとした生命のぷちぷちした点滅がそのまま目の前で再現されているかのような、異次元にずり落ちていく感に溢れていて、それはClaire Denisの映画を見ているときに感じるあれ、でもあった。

演奏が終わったところで、幸せそうにネズミと遊ぶF. Percy Smithの映像が流れてこっちも幸せになる。
ずっとネズミと遊んで暮らしたいな。

休憩20分を挟んでのライブセットは、インスト中心(唸り声はあった)のサントラとはぜんぜん違うもので、ヴォーカルが入るだけでこんなに違っちゃうんだねえ、としみじみびっくりする。それくらい低音で唸り、囁くStuart A. Staplesの声が作り出す幻灯機の世界は独特なの。
うまく言えないけど、前半が自分がいなくても成立してしまう、でも確かにそこにある世界を描きだしていたのに対して、後半は自分がいることで、いるだけで収拾がつかない、どうしようもなくなってしまうならず者の世界を描こうとしている/してきた、というか。 ごめんよう微生物たち、て酒場でしんみり語っているかのような。

サポートも含めて7人のアンサンブルはすごく巧いわけではなくて、ところどころで踏み外したりこぼれ落ちたりをちょこちょこやっていて、でもその切れ目とか裂け目とかから浸みて滲んでくるなにかがまた別の風景や形象を連れてくる。 生き物の世界とおなじで、でもその影とか痕跡の強さは相当なもんだった。

”Say Something Now”から“Drunk Tank” -  ラストの“What Are You Fighting For?” までの地面にべったり潰れていくかんじがたまらなくよかった。そのまま墓に入りたくなる。

アンコールは1回、3曲で、こないだの"The Waiting Room"のジャケットにいるロバさんがでてくる映像を流しながら、ていうのがあった。 Claire Denisの映画まるごとライブ、とかやってくれてもよいのになー。

6.19.2017

[film] Baby Driver (2017)

こっちから先に書く。 とにかく金字塔。

誰もが待ち望んだPreview + 上映後にEdgar WrightとのQ&A。
18日の晩、BFIで見ました。 これの前売りのとき、発売開始から1時間遅れて、しまった、と思ったらもう端っこしか残っていなくて、当日のキャンセル待ちスタンバイにも長い列があったし、4月にあった"Hot Fuzz" の10th anniversary screeningもあっという間になくなってたし、すごい人気なのね。

上映前に監督から簡単な挨拶があって、この映画は22年前、映画の1曲目に流れる曲を聴いたときに思いついたものです、って。 その曲、もうネットではいっぱい情報として流れているので知りたいひとは探しましょう。 知らないでいたので、うわあああこれかあー! ってなった。

Baby (Ansel Elgort)は銀行強盗を現場まで送って、実行後に現金ごと彼らを拾って無事に安全なとこまで運ぶのをやっているドライバーで、Doc (Kevin Spacey)に雇われてて、オープニングはその仕事っぷりを見せて、ここでの客にBuddy (Jon Hamm) と彼の妻Darling (Eiza González)とあとひとり、みごとに切り抜けて、その次の仕事 - これで抜けるつもりだった - がBats (Jamie Foxx)とFleaとかの一味で、これも少しじたばたしたけどなんとか片付けてこれでやっと自由の身で、ダイナーで素敵な女の子 Debora (Lily James)とも出会ったし、一緒に暮らしている唖のおじいちゃんも安心させられるし、だったのだが、やっぱりそうは問屋がおろさなくて、今度はBatsとBuddyとDarlingの3人と一緒に郵便局を襲撃することになって。

Edgar Wrightが22年間温めていて、15年前の彼が監督したミュージック・クリップ(これもWebで探してみよう)でプロトをやって、3年間音楽とミニカーとストーリーボードをいじくりまわして到達したのがこれで、なーんの文句があろうか。 個人的には、”The Blues Brothers" (1980)以来、と言おう。 あの映画が子供の頃の自分にとってAtlantic SoulやSNLを中心としたアメリカ文化への入り口になったのと同じように、この映画もそれだけの起爆力と喚起力をもって、音楽とアクションが次々交互にノンストップで襲いかかってくる。 そして更にとんでもなく恐ろしいことに、夢のようなBoy Meets Girlものでもあるという、どこまで贅沢いってんだこのくそガキ(Baby)!  と、そういうやつなの。

映画の素になったのは先の特集の10本が大きいが、そのなかで特にあげるとしたら、"The Driver" (1978), “The Blues Brothers", "Vanishing Point" (1971) - の3本である、と。

音楽をこれでもかとぶちこむのと、”The Blues Brothers"がそうだったようにミュージシャンがうじゃうじゃ出てくる。 FleaにSky FerreiraにPaul Williams (!) にBig BoiにJon Spencerに、他にもいそう。(更にKevin SpaceyもJamie Foxxも歌えるオスカー俳優 - ここでは歌わないけど) 
そしてサングラスを含むコスチュームへのこだわり、とか。
たぶんこの辺はにっぽんの人たちのが詳しく楽しく騒いでくれそう。

特に"Neat Neat Neat"とか嬉しくてさー。 でも曲が短い(2:44)のでどうやるか悩んで、ああいうふうにしたのだ、って。
あとはラストに流れるおなじタイトルのあの曲。とっても粋で痺れる。
“Guardians of the Galaxy”の、わかるけどなんかずるいや、感がないの。ぜんぶ前のめりになる。

最初はロスを舞台に考えていたのだが、他の可能性を探しているうちにアトランタの街が道路交通事情とかも含めて最適であることがわかってきたのでこっちにした、と。 Q&Aでアトランタの住人がびっくりするくらいアトランタの街中をきちんと網羅している、って。

そしてiPod - 特にiPod Classic - への愛。 うん、やっぱりあれがないとだめよね。

もういっかい見にいく。 “The Blues Brothers”を何十回も見たのとおなじことになる。

[film] Freebie and the Bean (1974)

16日、金曜日の晩、BFIで2本立てをみました。
平日の晩に2本立てはきついのだが、たぶんなんも考えなくていいかも系だよね、と。

"Baby Driver"の公開(今週!)を記念して、"Edgar Wright presents Car Car Land" - たぶん、"La La Land"にひっかけてるんだよね? おっさん? - ていうEdgar Wrightが選んだカー映画クラシックの小特集(10本)があって、そのなかから2本。

10本のリストはこちらに。
http://www.frontrowreviews.co.uk/features/41487/41487

Dirty Mary, Crazy Larry (1974)

昔NYで見た記憶があったのだが、まったく残っていなかったのでひょっとしたら初見かもしれない。
筋はあってないようなもんで、運転手のLarry (Peter Fonda)とメカニックのDeke (Adam Roarke)がスーパーマーケットのマネージャーを脅して金を強奪して逃げようとしたところにMary (Susan George)が置いて逃げるんじゃねえよ、って絡んできたので3人で車で逃げまくるの。 警察も次から次へといろんな刺客を送りこんでくるのだが、歯が立たなくて、最後はヘリに乗ったFranklin (Vic Morrow)との対決になるのだが、そこも振り切ったと思ったところでどっかーん。

へらへら腑抜けて笑っててなんも考えていないのだが、車の運転だけはすごい(どれくらいすごいのかは車のことわかんないのでわかんないや)Larryと、同様にからっぽでいつもにたにた笑っているMaryと、少しだけ思慮深そうで人間ぽいけど、最後は彼らの言いなりになるしかないDekeと。
時代的なところだと60年代が終わって政治的なあれこれに嫌気がさして、うざいもんはうざいからやだ、ていう動物の時代、いいからやっちまえの時代、に突入しようとしていたあたり - パンク前夜 - なのか、そこには学びも教訓も感傷もなんもない、ただDirtyなやつとCrazyなやつ、この二匹がぶっとばして笑いながら消えちゃいました、ていうそれだけで、でも十分おもしろくてかっこよいくて。

Freebie and the Bean (1974)

上のを見たあとで、NFT1のでっかいシアターでこれを。 ちなみにどちらも35mm上映。
そしてどちらも猫はじまりだった。 "Dirty Mary, Crazy Larry"はちっちゃい黒猫だったが、こっちはデブでふてぶてしい茶猫。

これ、ぜんぜん知らなかったのだが、めちゃくちゃおもしろかった。 楽しみにしていたファンもいたようで上映前に拍手が。

Super Bowlの週末のSan Franciscoが舞台で、ふたりの私服警官 - Freebie(James Caan)とBean(Alan Arkin) - がゴミ漁りをしたりしながら組織犯罪の端っこをつかんで、デブのRed Meyers (Jack Kruschen)を殺しにデトロイトから殺し屋がくる、というので張りこんで見張ったりするのだが当然いろんなことが起こって大混乱になって。

FreebieもBeanもどっちも高速でぶちきれてめちゃくちゃをしでかす、でも互いにあんなのとは違って自分のが偉いしかっこいいしすごいって思いこんでいて、それぞれに野望とか野心があって、要するにでこぼこ組が周囲の迷惑顧みずに暴れまくってなんとかしてしまう、という今では割とどこでもあるようなやつなのだが、とにかくおもしろい。 それって今ではチームプレイなんてしそうにないJames Caanがあんなことしてる、とかAlan Arkinにまだ髪の毛があって全力疾走したりする、とかそういうのがあるせいかもしれないが、このふたりが犬みたいに取っ組み合いして延々がーがー言い合っているのを見てるだけで楽しい。

肝心の車だけじゃなくてバイクも自転車もあるし、でも基本は追い詰めるというよりやけくそになって至近距離でお釈迦になるまでぼこぼこ叩き潰すかんじ、レストラン厨房での乱闘も女子トイレでの格闘も相手を逮捕するとか真相を掴むとか、そういうのではなくてただぶん殴って叩きのめしてわかってんのかおら! に持ちこみたい(だけの)ように見える。

ラストなんて、ええー、と思わせておいてあんなの落語としか思えないし。

そういうとこまで含めて、振り返らないで一挙にぶっとばしてぷつん、のスピード感は確かにあって、車映画に分類するのは間違っていない。

あとは70年代のSan Francisco。 Embarcaderoの辺りとかはまだぴかぴかで、でもハイウェイから町を一望するとこの眺めはあまり変わってないし。

終わったらみんな大拍手で、外にでたら川面から花火をあげてた。 やかましいので雷でも鳴ってるのかと思ったら花火だったの。

[music] Belle and Sebastian

15日の木曜日の晩、Chelseaの野外でみました。
この晩は仕事があってどうなるかわからなかったのだが、2階の椅子席が空いていたので前日に取った。最近そんなのばっかり。
場所はRoyal Hospital Chelsea、ていう1692年に建てられた退役軍人のケアをする施設で、地図を見ると敷地はやたらでっかくて、仕事を抜けて地下鉄降りてバスに乗り換えて、バスを降りてぐるーっと回ってゲートに辿り着いたらチケットのピックアップは反対のゲート、て言われてうんざり死にそうになりながら元きたほうをぐるーっと回り戻って、ようやくなかに入れた。こういうのがあるからこっちのVenueは侮れない。

なかには昔のお屋敷みたいなきれいな建物が並んでいて、屋外のテーブルでは食事とかサーブしてて、大砲とかもあって、ライブ会場は屋内と思ったら建物を背にした優雅な中庭みたいなとこ、広さはCentral ParkのSummer Stageくらいか。 後ろのほうに金色のでっかい像(チャールズ2世 だって)が立ってみんなを見下ろしている。

椅子席は前方のスタンディングエリアから後ろのとこに段々パイプで組んであって、割とがらがら。これはたぶん、チケットが売れなかったというよりも吹きあげてくる夕刻の風が寒くて冷たいのでみんな前のほうに詰めちゃったからだと思われる。自分も最初は震えながら見ていたのだが、1時間過ぎて完全に陽がおちたあたりでこれはあかん、と前の人混みのなかに行った。 あったかかった。

椅子に着いたのは前座のあと、始まる少し前の20時40分くらい、電気が落ちると赤い衛兵姿の老人ふたり(退役軍人?)が出てきてごにょごにょボケ老人漫談みたいのをやって、なかなかウケて、そのあとでBelle and Sebastianが登場する。

さて、わたしはこのバンドのライブはNYで2回くらい見た程度、90年代のと00年代のレコードもいくつかは聴いてはいるのだが、彼らの音や音楽がものすごく好き、というわけではないし、メンバーのこともあまりよく知らないし、流しておくにはなにも考えなくていいし、いいよね、くらいで、じゃあなにが良くてライブに行くのか、というと、彼らのライブで腕をぶんぶん振り回したりしながら楽しそうに踊って跳ねている女の子 - 大抵はじっこのほうにふたり組とかでいる - とかを見るのが好きなのだ、ということに気づいた。

それを決定的にしたのが"God Help the Girl" (2014)の映画とサントラで、あれはBelle and SebastianではなくStuart Murdoch なのかも知れないけど、彼らの音楽は彼女たちのために、彼女らを笑顔にしてダンスさせるための音楽なんだよね、ということに気づかされて、たぶんそれは英国だとより激しく、強力に炸裂するにちがいない、て確信したのでライブに行ったの。

ということでライブは(寒いのを除けば)とっても快調に弾んで気持ちよく、建物の向こう側に広がって表情を変えていく夕焼けも素敵で、寒いので体を揺らしてふんふんしているうちにどんどん流れていって、Stuartもいろんなことをべらべら喋っていた。こんなにしゃべるひとだったのね。 「今宵は折角Chelseaのランドマークでやるのだから"Chelsea"が歌詞に入っている曲をぜんぶやります」、とか、「そこの君たち、96年からずっと来てるだろ?」 とか。

曲については、みんなでステージ上でわいわい踊ったり歌ったりでっかいバルーンを飛ばしまくったり、最近の明るく楽しい曲もいいけど、3曲目の"Seeing Other People"とか、アンコールの最後でやった "The State I Am In"とか、やっぱり昔のほうに反応してしまうねえ。 これらの曲と最近のヒットパレード・ポップス風の曲とのトーンの違いってなんなのだろう、とか少しだけ気になるのだが、べつにいいや、になってしまってもいい … よね。

6.18.2017

[film] My Cousin Rachel (2017)

あっつい。 昼間かんかんで、夜ひんやりは気持ちよいのだが、全体として体がなんかぐったりする。

13日の火曜日の晩、ChelseaのCurzonで見ました。

Daphne du Maurierの原作は未読、1952年の映画化版(Olivia de Havilland & Richard Burtonだって!)も見ていないのだが、とにかく見る。 これの予告でがんがんかかっていたのが20世紀エロPVの金字塔Chris Issak - "The Wicked Game"のカバーで、原曲のPVに出ていたHelena ChristensenとRachel Weiszの面影がだぶって見えたりして、年寄りにはなかなかしょうもないのだった。

Philip (Sam Claflin)は後見人Ambroseからの手紙で、彼がいとこのRachel Ashley (Rachel Weisz)とイタリアで結婚する、と手紙で知って少し驚いて、その後の手紙でなんだか具合が悪くなっているようなので気になって行ってみると彼は亡くなっていて、Rachelがひっそり殺したのではないか、と疑念を抱くのだが、彼の家に現れたRachelを見たらうぶなPhilipはころりとやられて、いろんな貢ぎ物をするようになりやがては結婚まで口にしてしまう。他方でもし結婚することになればこれが3度めのRachelは手練れの狐で、陰と陽を使い分けながらPhilipの骨を巧みに抜いていく(ように見える)のだが、さすがにあかんと思った周囲の忠告やたまに町に出ていくRachelの不審な挙動や最近なんか具合よくないんだけど毒盛られてない俺? とかいろいろあって、本当のところはどうなのか - Ambroseの死の原因は、Rachelはそれに関わっているのかいないのか、Rachelはほんとうに、どこまで悪いやつなのか、ていう疑念と、Rachelは自分のことを好きなんだろうか、ただの金づるにしか思っていないんだろうか、ほんとはいいやつなんじゃないか、とかいう疑念が火花を散らしてとぐろを巻いて、そのぐるぐるって結局恋とか呼ばれる熱病みたいなあれか? いやそんなこと言ってる場合じゃない殺されるぞおまえ、とか、とにかく金盥ひっくり返すようなどしゃぶり状態で、Wicked Gameで、そういう狂った状態を恋とよぶ、こともある。のか? どっちにしても恋は命がけなんだわ、とか。

Rachelを演じたRachel Weiszの、Charlotte Ramplingを小ぶりにしたようなファム・ファタールっぷりはどうか、とか、PhilipのRachelに対する当初の疑念や嫌悪がどうでもよくなっていく過程をもう少し丁寧に描いたほうがよかったのでは、とかいろいろあるのだろうが、そんなに悪くないと思った。 もっとダークに、おっかなくしてもよかったかもしれないけど、ああいう結果を置くのならあれくらいで丁度いいのかもしれない。

Philipを演じたSam Claflinさんはなんかよいかも。
こないだの“Their Finest” (2016)でも、”Me Before You” (2016)でも、”Love, Rosie” (2014)でも、いま伸び盛りの勢いねえ。

52年版をどっかで見たいなー。

6.14.2017

[film] Angel Heart (1987)

昨晩1時過ぎ、外をずっとヘリのようなのが低空で飛んでいてなんだろ? と思っていたのだが、朝起きたら窓の向こう、遠くで煙が高く上がっていた。 家を失った人たち、離れ離れになっている人たち、病院で苦しんでいる人たちが一刻も早く救われますように。


11日の夕方、Price Charles Cinemaで見ました。 "The Mummy"のあとだったので、いちにち呪われっぱなしだったことになる。
これも30周年記念Screeningで、上映後にSir Alan Parker(..Sirなんだ)とのQ&Aがついてる。

これ、実は初見で、公開当時は大量の牛の血、とか心臓ごろん、とか宣伝を聞いただけでだめだったの。
30年経てば見れるようになる、と。

1955年、NYで私立探偵をしているHarry Angel (Mickey Rourke)が Louis Cyphre (Robert De Niro)ていう怪しげな金持ちぽい男から “Johnny Favorite"- 本名 Jonathan Liebling という男が生きているのか死んでいるのかを含めて突きとめてほしい、と請われて、最後の痕跡があったアップステートの病院に行って担当だった医者を突きとめるのだが、その直後に医者が死んでいるのを見つけ、こいつはぜったいやばいから抜ける、と Cyphreに言うのだがお金を積まれたので続けることにして、こんどはNew Orleansでかつてのバンド仲間や恋人 Margaret (Charlotte Rampling)などをあたっていくのだが、彼らもひとり、またひとりと陰惨な殺され方で転がっていって、いいかげんJohnny Favoriteは何者なのか、彼を探すことがなんでそんなにやばいのか、が大きな疑問として沸きあがってきて、そこにNew Orleansの湿気とか雨とかヴードゥーとかがぼうぼう降りてきて押し潰そうとする。

途中でなんとなくネタはわかってしまう(30年..)のだが、戦後の閉塞感のなかで音楽と宗教とカルトが、大都市の喧騒と南部都市の埃が、路地裏や階段、換気扇を抜けていく光や風が渾然となって魔術の、呪いのイメージを吹きつけてくる、その強さと臭みに圧倒される。 それは、それなしではやっていけない何か - 音楽であり宗教であり、悪魔の場合だと、彼らがどんなふうに人を - 天使の心臓すらも - 支配して囲っていくのかを語る。

Mickey Rourkeの落ち着いたり狂犬になったりのじたばたもRobert De Niroの不敵な猫のように丸っこい(茹で卵)演技もひたすらこれらの禍々しさの淵にどす黒く居座っていて、とにかくおっかない。 意味なく理由なく禍々しくそこらにいる、ていうのがそもそも悪魔、なんだよね。

"Fragile"のピアノの音が聴こえてきた気がしたのだが、関係はないのかしら(New Orleans)。

上映後のAlan Parker監督とのQ&Aは聞き手が相当マニアックなかんじのひとで制作プロセスのことばかりをねちねち聞いてて、監督もいちいち丁寧に答えたりするもんだから、ふつーの人にはなかなか退屈で眠くて、途中で抜けてしまった。

"Midnight Express" (1978)の話になったとき、最大の難関は脚本のOliver Stoneだった、人間的には最悪で、でも最高の脚本を仕上げてきた、ていうのと、"Pink Floyd – The Wall" (1982)では、それがそっくりそのままRoger Watersに変わった、とか。 Bob Geldof が泳げなくて大変だった、とか。


ところで日本はもう終わりなのね。 くそったれ。

[film] The Mummy (2017)

11日、日曜の昼にBFI IMAXで見ました。 (がらがらじゃった...)
昔の、 Brendan FraserのMummyモノとなんか関係あるのかしら、と思ったがそもそもあんまりよく覚えていないのだった。
(そしたら遡るべきは1932年のMummyモノだって...  みんな掘るのが好きなんだねえ)
でもだいたいこういうのって、なんかを掘ったらミイラが蘇って、そいつがいろんな災厄を一緒に連れてきて大騒ぎ、でしょ。
起こしたほうも悪いけど、起こされたほうもそんなに怒らんでも... とかいつも思う。

物語はエジプトではなくて現代のイギリスから始まって、こないだロンドン博物館に展示を見にいったCrossrail(地下鉄)の掘削作業で12世紀頃の棺がいっぱい出てきて(なのでこっちの人たちは前のめりになる)、そこから古代エジプトの痴情沙汰で棺桶に押し込まれて生き埋めにされた姫の話になって、と思ったら舞台は現代のイラクに飛んで、Nick Morton (Tom Cruise)とその相棒が危ない地帯だけどなんかあるから、と墓堀りに行こうとしてて、行ってみたらやっぱり集中砲火にあって、でも結果すごいお墓みたいのが現れて、なぜエジプトの棺がこんなところに? なのだがそいつはイギリスに運ばれることになって、でも途中でその飛行機は鳥の大群に襲われて墜落して、Nickは死んだはずなのに死体袋のなかで生き返って、並行して棺のなかにいたミイラも生人間のエキスを吸って若くなっていって。

ここに自然史博物館(大英博物館じゃないのね)で超常現象を追っているチームのDr. Henry Jekyll (Russell Crowe)が絡んできてNickはあのミイラにみいられてミイラ取りがミイラなのじゃ、で、蘇ったミイラ - Ahmanet (Sofia Boutella)とNickの決着はつくのかつかないのか? (相当どうでもいいかんじになっているようだが)ついでに人類の未来はどうか?  などなど。

Tom Cruiseが飛んでいる機上でめちゃくちゃ危機一髪状態になったり、水中を潜らされて死にそうになったり、全力で走り回ったり、全力で殴りあったり、恋人が死んじゃって悲しみに暮れたり、もう何十回も見ている気がするのについ見てしまいたくなる人はやっぱり見た方がいい。(一式ぜんぶ揃ってるから)
TomのファンはTom要素を除いたら見るところないじゃん、と怒って、Tomのファンじゃない人たちはなんでも寄せ集めりゃいいってもんじゃない、って怒っているようだけど、そんなことなくて、普通におもしろかったよ。 Avengersみたいな政治の面倒くささもJustice Leagueが旗をふる正義の胡散くささも、X-Menみたいな生まれ育ちの因果悲しみも関係なくて、闇の世界で生まれたなにかと闇の世界で生まれたなにかが争って葬って、の古代から続く呪いの連鎖、その闇の底しれなさとそこに生まれた悲しみと。 基本はゲゲゲの鬼太郎なの。

という魑魅魍魎関係を扱う"Dark Universe"ブランドの第一弾で、ここでアナウンスされてるのがこれから順次リリースされていくのだとしたらやっぱり見てみたいよね。 怪物くんとか妖怪の世界。 Adams FamilyとかCasperも入れちゃってくれないか。

確かに雑多なガラクタの寄せ集めになってしまうのだろうが、それって今が正にそうだから、とかいうのは許されるのかどうなのか、まっさらの正義なんてどこにもなくて、誰もが毒をくらって呪いをかけられた状態でうろうろせざるを得ないという。

Ahmanetを演じたSofia Boutellaさん - "Kingsman: The Secret Service" (2015)での刃物のような(刃物化した)身体が印象的だったが、今回も活きのいい魚のようにしなるすばらしいミイラを演じている。 あれなら包帯するする解けても納得。

6.13.2017

[music] The Wedding Present: 30th anniversary of "George Best"

10日の土曜日の晩、Roundhouse、ていう割と大きいホール(こないだMark Almondの還暦記念ライブやってた)で見ました。
"George Best"のリリース30周年記念の完全再現ライブ。
日本でもつい先週、30周年を武道館でお祝いしたちょっと素敵なバンドがありましたが、ここんとここんな30周年ばかりな気がする。

"George Best"が出た頃って、こんなのOrange Juiceのコピーじゃん、くらいにしか思えなくて余りきちんと聴かなかったのだが、今となってはとってもエバーグリーンな青春の一枚になっていることは疑いようがない。 じっさい緑だし。

行くのどうしようか直前まで悩んでいて、前日に見たら2階の椅子席の一番前が空いていたので取った。
9時くらい、ちょうど前座が終わったあたりで小屋に着いて、男性トイレの列が女性のに比べると圧倒的に長く伸びてて、それがどうした、なんだけど、要はそういう連中に支えられてきたバンドの、そういう音なんだよねー。

サポートのキーボードの女性を入れた5人編成でキーボード中心のしっとりめの曲から入って、最初の40分くらいは新しい曲をさらさら流していく。 まあそうだろうな、逆にしたらみんな帰っちゃうかもしれないし。 客はフロアいっぱいにびっちり、だったのだが、この前半部分、はしゃいで跳ねているのはステージ前の4畳半ぶんくらいの人たちで、残りはホームゲームで点を取られた人たちみたいに静まり返って立ち尽くしててぜんぜん動かない。 わからないでもないよ。 みんな年寄りだし体力残しておきたいんだよね。

この前半、曲もその構成も展開もとってもざっくり深くて気持ちよくて、この人たち、地味だけど音楽的にはほんとに着実に変化して進化して強くなっているよねえ、て感心した。今更ながら。 
そして、いつも思うことだなこれ、とも思いつつ。

で、唐突に."Everyone Thinks He Looks Daft"が鳴りだすとステージ前の4畳半が8畳くらいになって、だんだんに広がって30畳くらいにはなった。
このバンドを最初に見たのは90年代、NYのCBGB(もうないよ)で、そのあとはO-Nestとか、小さい小屋ばかりでだったのだが、でっかい、鳴りのよいホールで聴くとギターのがりがりがものすごく気持ちよいことを初めて発見したかも。 特に"A Million Miles"とか"My Favourite Dress"とかのイントロのギター。

前方のモッシュで汗だくでぎゅうぎゅうやっているのはどこからどうみてもおっさんばかりで、そのうちサーフィンまでやるようになって、前方柵の前に押し出されたあと、汗まみれの茹だった状態で自分の娘や息子みたいな連中に誘導されているのを見ると、ううむ、て思った。
あと数年後、いろんなとこでリアルグランジの連中の再現ライブが始まった頃が見ものだよね。 あと40周年、(あるのか?)とか。

A面が終わったとこで、「次の曲はCDにはない、オリジナルのVinylにしか入っていない曲です」 - 「うそです」とか。
あーでも、"Getting Nowhere Fast"はやってほしかったなー。

アルバムひと通り終わって、いつものようにGedgeからアンコールはやりませんからね、ありがと、ばいばい、のあと、渾身としか言いようのない”Kennedy"が思いっきり振りおろされて転がっていって、それはこれまでのライブで聴いたどんな"Kennedy"よりもかっこよくどかどか鳴って、中盤の大合唱もそれはそれは感動的で、泣きそうだった。

もうじき"George Best"のドキュメンタリー映像と、バンドのハードカバーの歴史本が出るよ。

帰りはみんな相当によれよれに疲弊してて、地下鉄の階段思いっきり踏み外したり(たぶん、ものすごい音だった)、たいへんそうだった。
どこかでまた会おうね。

[dance] Marguerite and Armand

英国に来て、日本では途絶えていたバレエを見る、というのを再開して、だんだんゆっくりと深みにはまりつつあるのを感じるのだが、そういうのをここで書いておくべきかどうかが悩ましい。 それは食べ物やレストランレビューをあまり載っけたくないのとおなじで、自分にはバレエに関する知識と語彙が圧倒的に足らないと思うし、そういう状態では多分に相当に嗜好みたいのが作用してしまう気がするし、結局おいしいんだからおいしいんだもん、みたいなものになりがちだと思うから。 そんなら、じゃあ、映画やライブはちゃんとしてんのかよ、とか、本の感想だって書いてみろよ、とかいろいろ出てくるので、ここはやはり基本に戻って、自分にとっての備忘と、書きたいものを書きたいように書く、ていうのでいいよね、ということにする。 

で、バレエふたつ。 どちらもRoyal Balletの。 少しだけ。

Mayerling

すこし昔の4月28日に見ました。

1978年初演、Kenneth MacMillan振付による3幕もの。邦題は『うたかたの恋』...

19世紀末のオーストリアで起こった実話 - Mayerling Incident - を題材に、皇太子ルドルフ(Edward Watson)のステファニーとの婚約 〜 結婚からどこまでいっても不安定で妄執のひとで、いろんな女性とくっついたり離れたり狼藉おこして友人達に救われたりしながら、最後は男爵令嬢マリー・ヴェッツェラ(Natalia Osipova)とのやけくそみたいな心中でおわる。
冒頭が葬儀、エンディングも葬儀で、黒と赤でゴスでどんよりおどろおどろで、宣伝文句には「大人のバレエ」とかあったけど、そんなかんじ。
歓喜とか幸福に向かうダンス、の要素はこれぽっちもなくて、ルドルフがいろんな女性達ととっかえひっかえやけくそで踊っては疲弊して(踊るのほんとに大変そう)、自分で自分を縛って自壊していく、その息苦しさ、閉塞感と生々しさがなかなか見事だった。 音楽は緩急はげしいリストのいろんなの。

The Dream / Symphonic Variations / Marguerite and Armand

6月7日の水曜日にみました。
でっかいカメラが入っていて、屋外上映用に全英に中継配信されるのだと。 こんなの屋外でみたら気持ちいいだろうなー。ぜったい寝ちゃうだろうけど。

Frederick Ashton - ちゃんとした名前は Sir Frederick William Mallandaine Ashton - 振付によるベーシックな中編3本立て。

The Dream (1964)は、George Balanchineの"A Midsummer Night's Dream" (1962) - Shakespeare, Ken Russell, etc. -をベースに、妖精2匹の恋と2組のカップルの取り違えばたばた恋とぴょんぴょこロバ踊りを中心に。 筋わかんなくても、見ているだけで楽しい。

Symphonic Variations (1946) は、NYでも何度か見ている古典で、最小限のセット、シンプルな衣装で、3人の男子、3人の女子によるコンビネーションの連打。 これが第二次大戦中に作られた、というとなるほどー、とも思うし、えええー、とも思う。 舞台をめいっぱい使って静止を多用して緩急激しいのでダンサーには相当しんどいのではないかしら、とか。

ラストのMarguerite and Armand (1963)がいちばん見たくて、AshtonがRudolf NureyevとMargot Fonteynのために振りつけたやつで、最近ではSylvie Guillemが踊ったのが有名。 死の床にあるMargueriteが最後の情熱を振り絞って舞って恋人のArmandの腕の中で息絶えるまで。 音楽はリスト、セットデザイン(背後に投影される写真も?)はCecil Beaton - 超絶クール。
とにかくMargueriteを舞ったZenaida Yanowskyさんの力強さと狂おしさが渾然となった美しさがとんでもなくて、Armand役の彼もがんばったとはおもうのだが、悪いけどあと5年くらい待ちな坊や、てくらい。

当然のように怒涛のスタンディングオベーションだったのだが、上の階から投げ入れられて降り注ぐ花の量が尋常ではなく、そのうちにセレモニーみたいのが始まっていろんな男たちが花束を持って現れるので何かと思ったら、彼女の(英国での)ラストステージなのだという。(唖然)
だからさー、バレエってほんとにちゃんと追っていないとこういうことになって地団駄ふむことになるのよね。
ああ、彼女のSwanやManonをライブで見たかったよう。

これでRoyal Balletの2017年シーズンはおわり。

6.11.2017

[art] Pink Floyd: Their Mortal Remains

英国の選挙、とりあえずよかった。

少し戻って、5月28日、日曜日の昼、V&Aで見た展示ふたつ。

Pink Floyd: Their Mortal Remains

結成から50周年、Pink Floydのすべてを回顧する。
"Their Mortal Remains" - 「彼らの死の遺跡」 - タイトルは"Nobody Home"の"I've got a grand piano to prop up my mortal remains"から取られていて、ではここでの"Their"とは誰のことか、というのはいつものあれな。 

V&Aで前回開催されて世界的な成功をおさめた展示"David Bowie Is"に続くロックミュージシャンもの、とされているが、それ以外にもここではついこないだの”You Say You Want a Revolution? Records and Rebels 1966-1970” といった文化史系の展示もやっているので、そちらに連なる、とすることもできるのだろうが、まあ、ミュージシャンものだよね。

日曜日のチケットは当然のように売り切れていたのだが、メンバーなので行列をふんふん横目に入ることができる。何回でも。

入口でSENNHEISERのヘッドホンとレシーバーを渡されて、というのもこれまで通り。
メンバーごと、リリースされたアルバムごとに、録音機材、レコーディング時、ツアー時の記録、資料、当時のファッション、世相まで、メンバーの私物も含めて集められるあらゆる資料を寄せ集めて、順番に展示していく、というのも"David Bowie Is"と同じような構成なのだが、なのだが、Bowieの展示では、層になって束ねられた大量の情報のなかからDavid Bowieその人の像 - ひょろひょろがりがり、新しもん好きで、錯綜してて混乱してて、でも孤独で思慮深くて、でもお茶目で、などがきらきらすっくり立ちあがってきたのに対し、Pink Floydのは相当ちがう。

前期のサイケデリックの頃は彼らの初期作が編みあげようとしていたサイケなイメージや世界観をなぞる(他になにができよう)のに留まり、中後期 - 「狂気」以降のは.. どうなんだろう?  既にHipgnosisのジャケットや歌詞が十分に説明しようとしてきた個の内面と外の世界との相克 - 批評性/狂気をもってぶちまけられた世界、聴き手にとっては自身のなかで(作品との対話を通して)それなりに完結していたはずの世界、の補足情報が並んでいるだけ、に見えてしまわないだろうか。
(Bowieの場合はたとえそれがちり紙の欠片であっても、それは彼と我々が作りあげる「世界」に、簡単に変貌した)

もちろん、そんなこと言ったら世の文学館にある資料なんてぜんぶ同様の補足になっちゃうだろ、なのだが、でもやっぱりPink Floydていうのは文学ではなくて音楽で、緻密に練りあげた音とビジュアルと(批判的・啓示的な)言辞と、更にそれらをトータルにぶちまけるライブと、そのスケールがもたらすカタルシスなどなどで、その時々の世界観・歴史観をまるごと世界に提示し続けた、そういうことをメジャーな規模で初めて実現したバンド、だったのだと思うので、なんかなー、だった。 50周年を回顧するお祭りで、ネタはいくらでもあるのだし、どっちみち"Mortal Remains"なんだし、ということなのだろう。

わたしはというと、Bowieの時と比べると瞳孔の開き具合がぜんぜん違って、それなりに聴いたのって"Meddle" (1971)くらいまで、中学生のときに聴いた"The Dark Side of the Moon" (1973)は、既にじゅうぶん売れていて、更にまだ売れ続けている状況で、そういうのもあったせいか、なんか嫌だった。(← ガキだよね)
今回の展示コーナーに"Punk vs. Pink"ていうのがあって、Johnny Rottenが着ていた"I Hate Pink Floyd"シャツもあったりするのだが、要するにそういうことだったの。 直観的にうぜえだせえ大仰..  とか思って、それはずっと"The Wall"の頃まで続いて、ちゃんと聴いたことはなかった、と言おう。 で、そういうしょうもないバカも、こういうところに来るときちんと振り返ってそれなりに反省したりすることはできる。 個と社会の軋轢や疎外→狂気、あるいは正しさの反射鏡としての狂気、といったテーマをここまで誠実に追い続けて、しかもその規模を世界的に拡げていったバンドって、確かにあんまなかったよね。

ライブとか音源の映像は、ふつうの四角いだだっぴろい部屋の、異様にクリアな四面スクリーンに投影されて、どこに立ってもサラウンドでものすごくよい音が襲ってくる、地味だけどなかなかすごいやつだった。

ショップは、アナログ盤を含めていろんなグッズがいっぱいあったけど、なんかそういうのをこぞって買うのってPF的にどうなのかしら、って少し。


Balenciaga: Shaping Fashion

V&Aで始まったばかりのもうひとつの展示。 実はこっちのほうが楽しみだったことを白状しよう。
開始直後だったせいもあって、こっちもSold Outで、メンバーのカード見せたらちょっとやな顔された。(こんなに混んでるんだけど... って)  
たしかに沢山の女性でぱんぱんだった。 (PFのほうは圧倒的にじじいだらけだったが)

場内に(割と控えめに)掲げてある彼の言葉が全てを語る。

"A Woman has no need to be perfect or even beautiful to wear my dresses. The dress will do that for her"

なので、これまでのファッション系の展示の豪勢で煌びやかな宝飾品を飾り奉ってひれ伏すかんじとはちょっと違って、なんでこんな不思議で変てこなシェイプやドレープがあんな素敵なことになっちゃうんだろうか/見えちゃうんだろうか、の眼差しと驚きと戸惑いで、腕組みしたり首を傾げたり回りこんで凍りついて動けなくなっている人多数、のおもしろい状態になっていた。 冗談のように服のレントゲン写真まで飾ってあったが、彼のデザインはファッションのありようを骨格レベルから再構成する("Shaping Fashion")みたいなことを、アヴァンギャルドではないやり方で、ものすごくスマートに、滑らかにやったのだと思う。

1階がBalenciaga自身のデザインによるもので、2階が彼の没後のブランドとしてのBalenciagaで、服のオーラみたいのが圧倒的に、かわいそうなくらい違うかんじがしたのは自分だけかしら?


というわけで今V&Aでやっているこのふたつ、全く別もんですけどとっても20世紀だねえ、て思った。

6.08.2017

[music] Billy Bragg on Skiffle and the Roots of British Counter-Culture

Royal Albert Hall では7月まで"Summer of Loe Revisitied"ていう60年代のカウンターカルチャーを振り返るシリーズイベント(フィルム上映とかトークとか)をやってて、そのなかのひとつなのか関連しているのかわからんが、"Classic Album Sundays"ていうシリーズがあって、アナログ盤をかけながらゲストと主宰のColleen Murphyさんがトークをする、そのひとつで"Billy Bragg on Skiffle and the Roots of British Counter-Culture"ていうのがあったので6日の晩、行ってきました。

Classic Album Sundaysのサイトはこれ。 なかなか...

http://classicalbumsundays.com/

これまでのゲストにはSoul II SoulのJazzie Bとか、来週は"The Zombies Present Odessey and Oracle"ていう題目でRod ArgentとColin Blunstone, Chris Whiteがおしゃべりする、とか。
もっと早く知っておけばよかった。

会場はRoyal Albert Hall、といってもでっかいホールの方ではなく、そのなかのElgar Roomていう小さな視聴覚室みたいなとこ。
はじめて行ったのだが、アパートから歩いて10分のとこにあったなんて。

部屋には椅子が100くらいかしらん。 椅子の上に(全ての椅子ではないけど)、色刷りのマッチ箱くらいの小さなブックレットがぽつぽつと置いてあって、手に取るとイラスト入り手書き文字でびっちり、今回のこのイベントの主旨やポイントが説明されている。Billy Braggのファンはこういうことをやったりするの。 大切にとっておくことにする。

わたしもそんなBilly Braggさんが好きでずっと聴いてて、最後にライブを見たのは2003年のNYで、こっちではBBCの討論番組とかに出ているのを見ると嬉しいし、彼の政治スタンスも込みで選挙も応援してるし、ライブも11月に行くし。  進行のColleen MurphyさんはボストンでThe Smithsの前座でBillyを見てるんだって.. いいなー。 このおねえさん、経歴とかなかなか筋金いり..

今年60歳になる(やれやれ、てかんじで君たちのおじいちゃんおばあちゃんに労働党に入れるように言おうな!を動画でやってた)Billy Braggさんは出たばかりの本 - "Roots, Radicals and Rockers: How Skiffle Changed the World"を紹介しつつ、Lead BellyやAlan Lomaxから入ってアメリカのJazzが英国に上陸して、それがKen Colyer、Lonnie DoneganらによってSkiffleになり、それが当時の英国の若者のなかでDIY的に爆発して、それがいかにその後の英国音楽やレベルミュージックとしてのロックに流れていったのか、影響を与えたのか、を時間の制限もあるのでそうとう端折ったのだと思うが、包括的に紹介する、ものすごくスリリングで刺激的な内容だった。

2月にShirley Collinsのライブを見たとき、次々と登場してよくわかんない楽器を奏でたり朗々と歌ったりする人たちに触れて、ここの音楽の地下鉱脈だか水脈だかってとんでもないかも、て思って、掘りだしたらしぬかも、けどここまで来て掘らんでどうするそのために英国に来たんじゃろ(ちがうけど...)くらいのことを思ったのだが、その一断面を、最良のガイドから実際の音楽つきで教えて貰えたかんじ。

Skiffleって、弦がちゃかちゃか洗濯板しゃかしゃかのせわしないパーティ音楽、みたいなイメージしかなかったのだが、順を追って聴いていくとバディ・ホリーやビートルズの登場もこれを背にして繋がって転がっていったものなのね、というのがよくわかった。
ばっさり言ってしまうと伝統芸ぽかったJazzからギターを前面にだして誰でも歌えて自由に細工、加工できるようにしたのがSkiffleであった、と。 つまりはパンクであった、と。

説明もわかりやすくてさー、Skiffle以前のTrad jazzは、70年代のパンク前夜にDr.Feelgoodやパブロックがやっていたのと同じような土台固めの側面があった、とか、あるバンド(The Vipers)はパンクでいうとClashに相当する、とか、あるバンドはSkiffle界ではPeter and the Test Tube Babiesみたいなかんじ、とか。(客がうんうん力強く頷いているのもおかしかったけど)

われわれ日本人にはPeter Barakanという、英国音楽(に限らない)のすばらしい導師でありガイドがいるわけだが、異国にきて彼の名解説を聞けなくなってしまった今、こういうプログラムがあるのは本当に心強いかも。 あと、アナログばか一代もなー。

音楽の発達・伝承のしかた、形態の類似に迫るだけでなく、Skiffleの奏者や聴き手(戦後の混乱期にすることがなかった若者たち)のコミュニティの間で育っていったラディカル、反レイシズム、といった側面、ファンジンを作ったり自主製作でアルバム(12inchなんてないので、ソノシート12枚組とか)作ったり、といったDIY - 自分たちで自分たちが聞きたいものを自分たちのために作っていく文化、という角度からもSkiffleがいかにパンクだったか、に迫ったところもおもしろい。

他にも、シングル盤を中心としたマーケットを確立したのがLonnie Doneganで、それをアルバム中心に転換・展開させたのがThe Beatlesの"Sgt. Pepper’s…”だった、とか、戦後のSOHOのカフェ文化では紅茶よりもコーヒーのほうが多く消費されていた、とか、へええー、な話もいっぱい。

終わってから、"Roots, Radicals and Rockers: How Skiffle Changed the World"にサインしてもらった。
約25年前(あうー)にクアトロで"Accident Waiting To Happen"のEPにサインしてもらったのと同じ字、同じ笑顔に力強い握手だった。
この本、まだぱらぱらしか見ていないけど、誰か翻訳しないかしら。 音楽史本としてはSimon Reynoldsあたりよかおもしろいよ。きっと。

Royal Albert Hall のぐるっとした丸い廊下に貼ってある沢山の写真を見ながら帰った。 沢山のBowieが...

6.06.2017

[film] A Ghost Story (2017)

Sundance Film FestivalのLondon版ていうのが、1日〜4日までPiccadillyの映画館で行われて、そんなに沢山上映するわけでもなくて、平日は仕事あるし土日は他に見たいのもあるし、結局Closing作品であるDavid Loweryの"A Ghost Story"と、それに併せてやってきた監督とのトーク+"Ain't Them Bodies Saints"の上映、のふたコマだけ、取った。 トークが土曜日の夕方6時から、"A Ghost Story"が日曜の夕方6時から。 アイスクリームをただで配ったりしてて、もっとチケット取ればよかったな、とか今になって。

3日の監督とのトーク、もっと暗くてミステリアスなかんじのひとかと思ったらとっても快活でいろんなことを喋るひとだった。

映画経験はふつうの子供と同じくStar WarsとかRoboCopとかから始まって、中学のときに友達のうちのCamcorderを借りて自分で撮るようになってからは夢中になって、映画学校には行かずに全て自分で学んだ。自分でスクリプトを書いて、撮って、編集して、をやるのが重要だと思ったので、学校に行く必要はないと思ったって。  今でもスクリプトを書くことと編集はとても重要だと思っていて、"Ain't Them.." で成功してからも他の監督の編集を請け負ったりしてて、これはとても勉強になるんだ、と。(彼が編集した他監督の作品のクリップが二つ、上映された)

監督として最も影響を受けたのはP.T.Andersonで、16歳のときに"Boogie Nights"に出会って映画で実現できることの可能性に目覚めた。今も変化し続けていてすごいとおもう。 あとはAltman(とうぜんね)。 Terrence Malickは人から言われるほど影響は受けていない、と。

いまはPeter Panのスクリプトに取り掛かっていて、過去のPeter Pan作品はすばらしいのが多いので、難しいけど、楽しい。 などなど。

それから"Ain't Them Bodies Saints"の上映、見るのは2回目でここでも既に書いているのであんま書きませんけど、溜息ばかりで息が詰まりながら画面を見つめる、泣きながらふたりを見届けることしかできない傑作。  Rooney MaraとCasey Affleck、このふたりのケミストリーがすばらしかったのでそれを活かすことに注力した、と監督は言っていたがほんとそうだねえ、て思った。

そして次の日。 Rooney MaraとCasey Affleckを再びまんなかにもってきた"A Ghost Story"。
上映前に監督が登場して、予告編とかには惑わされず、先入観抜きでまっすぐに受け止めてほしい、と。

うけとめた。 "Ain't Them.."とも"Pete's Dragon" (2016)ともぜんぜんちがう。 ひとによって受ける印象は全く異なるとおもうが、ものすごく、たまんなく好きなやつ。  怪談でもホラーでもないの。 SaintsがGhostになったの。

冒頭、Virginia Woolfの短編 "A Haunted House"の冒頭の一節 "Whatever hour you woke there was a door shutting"が引用される。
(この本の一部はまんなか頃にもういっかい出てくる)

M (Rooney Mara)とC (Casey Affleck)の夫婦(?)が田舎の一軒家に住んでいて、ふたりはそこからの引越しを考えて整理片づけを始めている(だいじよね)のだが、夜中に一瞬ピアノが鳴って目が覚めたりしている。 そんなある日、自動車事故でCは突然死んじゃって、遺体を確認してからMは帰るのだが、そのあとでCを覆っていたシーツがむっくり起きあがってそいつは山を越え丘を越えて自分の住んでいた家に向かうの。 だぶだぶシーツで目のところに穴があいているそれって、幽霊というより日本ではオバQって呼ばれるのだが、彼はふつうのひとに姿は見えなくて、少しだけものを動かしたり落としたり倒したりはできるものの、基本は無力でそこにいる、ずっといることしかできない。

最初は放心状態のMのそばにいてあげるのだが、やがて彼女も立ち直って別のところに越していってしまい、そのあとに別の家族が越してきたり、パーティが開かれたり(Will Oldhamがまた変人を..)、Cはずうっとそこに座ったり立ったりしているだけで、そのうち家が取り壊されて。

そこから話は壮大というかなんというか、あらあら..みたいなほうに転がっていくのだが、ぜんぜん変ではないし、どちらかというとクラシックなほうかも。 世界中に昔から同様の幽霊譚、フォークロアはあるのではないか。 ていうのを踏まえてシーツを被ったCasey Affleckが山を越えて野を越えてRooney Maraを追っかけていくのを振り返るとじーんとくるし、となりの一軒家にいる幽霊(柄入りのシーツ)との窓越しの会話なんてせつなすぎるし...

カメラはほとんどFixで長まわしが多くて台詞もほとんどなくて(幽霊、しゃべんないから)実験映画のようにも見える。
前日のトークで、監督はプロットや構成は重要ではなくて、いちばん大事なのは見終わったあとに、見たひとになにが残るかだ、と強く語っていて、これはものすごく残るやつだねえ、てしみじみした。

あと、(それらしく見える)Rooney Maraではなく、Casey Affleckのほうを幽霊にしたのはなんでか?  ここだけQ&Aで聞いてみたかったかも。

英国では8月公開。 もういっかいみたい。

[film] Wonder Woman (2017)

4日の日曜日の午後、BFIの3D IMAXでみました。
さすがにLondon Bridge周辺の地下鉄・バスは動いていなかったが、手前のEmbankmentの駅までは行くことができた。
待望の、と言ってよいだろう。 前夜のテロのニュースの生々しさがぐるぐる回っているところで、こういう映画を見たところで気休めになるとも思えなかったが、でもどっちにしたって見てきたんだし見るんだから、楽しみにしてたんだから、と行った。

行ってよかった。 ある意味どまんなかだった。

現代、ルーブルで学芸員として働く(学芸員なめんなよ)Diana (Gal Gadot)がBruce Wayneからの荷物を受け取ると、そこには第一次大戦の頃の古い写真があって、話はこの頃に遡る。

人類から隔離された島で女性ばかりのアマゾン族の姫として武芸をばりばり叩き込まれて大きくなったDianaがどこからか飛行機ごと落ちてきた英国情報部の Steve Trevor (Chris Pine)を助けて、彼から戦争の渦中にある世界(ヨーロッパ)のことを知り、この背後にいるのは我々の宿敵 - 悪の神Aresだ、わたしが行って彼の暴走と戦争を止めねば、と周囲の制止を聞かずにSteveと共に彼の地に行って、ガス兵器の開発を進めるドイツ軍に立ち向かうの。

ぴかぴかに綺麗で美人で、でもめっぽう強くて、でも世の中とか恋愛のことについては知らなすぎて無邪気で(数十か国語に堪能なのに歴史とか戦争のことは一切しらない、なんてありうるのか、とか)、でもどこまでも正義正論で突っ走ろうとする彼女のことをジェンダー観点で都合よすぎ、とか作り過ぎ、ていうのは簡単なのだが、簡単すぎるのでそんなのはどうでもいいの。
かっこいいんだから。 かっこよければなんだっていい、とこの際だから言ってやれ。

彼女が泥沼の戦場でたったひとり立ちあがって唖然とする男たちを後目に敵のフロントに突っ込んでいくシーンの見事さ、ここだけ、これがあるだけで十分、ていうくらい。

悪の神はいなくなったはずなのになぜ人は殺し合うことを止めないのか? みんな苦しんでいるじゃないか? という彼女の問いにまともに答えられないSteve Trevor。 こっち側の我々はこの問いに(どっかの大統領みたいに)他人のせいにしないで答えられるようにならないといけないんだ。

Captain Americaが同様に過去の大戦に起点を置いて、それによって現代とのリンクを - ずっと続いている戦争の歴史との連続性(とその正当性)を保持しようとして、でも彼って結局のとこアメリカ軍じゃん、になってしまうのに対し、こっちも同じ大戦始まりだけど、ギリシャ神話(でもてきとー)の頃からだからこっちのがロジックも含めて強そうに見える。 
神の国から来た、というとこでThorと比べてみてもどうでもいいお家騒動で弾かれたり穢れたりしてないぶん、素敵に見えるわ。
別にだからといってDCの世界がよい、てわけでもないのだが。

映画として弱いとこはいっぱいあって、Steveとのロマンスの描きかたが半端で後に活きてこないし、Steveが組織した愚連隊のキャラも面白そうなのにあんま活きてこないし、雪のシーンだって、あそこでたっぷり盛りあげないでどうするよ、だし。

でもこれは世界中の女の子を「あたしあんなふうになりたい!」 て熱狂させるためのプロパガンダ映画で、それでいいんだと思うし、それができているからいいんじゃないか、って。

(AvengersのBlack WidowもScarlet Witchもつまるとこ男社会が作り出した兵器、じゃん)

アマゾン族からあと10人くらい引っ張ってくればいいのに。 そうしたら世界は変わるのに。

[film] My Life as a Courgette (2016)

3日の午後、CurzonのSOHOで見ました。
オリジナルのタイトルは”Ma vie de Courgette”、米国だと”My Life as a Zucchini”、になる。オリジナルの仏語字幕版と英語吹替版があったのだが、時間がうまく合わなかったので、英語吹替版にした。 英語吹替版のキャストは、Will Forte, Nick Offerman, Ellen Pageとか、わるくないでしょ。

さて、英国にきて4ヶ月が過ぎて、米国英語と英国英語の違いで泣きそうに... とまでは行かないけどあーあ、になることが多いなか、一番ありえないわと思ったののひとつが"Courgette"で、なーんで「ズッキーニ」が英国では"Courgette"になるんだよ? ぜんぜんちがうじゃんかよ、だった。 でも、あたりまえだけどだれも教えてくれない(ただの野菜の名前だし)。 という割とどうしようもなくどうでもよい系のギャップを踏みしめつつ、このストップモーションアニメを見ました。

あと、Gilles Parisの原作を脚色したのは"Tomboy" (2011)、"Bande de filles" - "Girlhood" (2014)で常に子供のありようを描いてきたCéline Sciammaさんで、これだけで見なきゃ! になるよね。 

ママとふたりで暮らすCourgette(ズッキーニ)は、どこかに行ってしまったパパの絵が描いてある凧とかでひとりぼんやり遊んでいて、ママはいつも台所でTV見ながらビール飲み散らかして怒鳴るのでちょっと怖くて、そしたらある日、ママは梯子階段から落っこちて突然あっけなく死んじゃって、Courgetteは施設に送られることになる。

施設にはそれぞれにいろんな事情があって親から引き離されている子供たちが共同生活を送っていて、ひとりひとりいじめっこだったり動かなかったり病気みたいだったりいろいろで、Courgetteも当然のようにちょっかい出されておまえズッキーニじゃなくてジャガイモだろ、とか言われて騒動になったりするのだが、だんだんにみんなと馴染んでいく。
やがて施設にやってきたCamilleていう女の子をちょっと好きになって、両親のいない彼女を引き取ろうとする邪悪な叔母とみんなで戦ったり、世話役の警察のおじさんとの交流とかいろんなエピソードを通して、Courgetteは、ぼくはぼくで、ズッキーニ、いやCourgetteでいいんだ、になっていくの。

クレイアニメぽい、ほんわかぽんこつな風合いが施設の子供たちひとりひとりの凸凹の風体にうまくはまっていて、はまりすぎていてちょっと出来過ぎでずるいわ、と思ったりもしたのだが、最後のシーン、施設の先生に赤ん坊が生まれたところに子供たちがやってきたところのダイアログではらはらと崩壊する。 全ての親も、教育関係者も、そうでなくてもみんなが見るべきだわ、って思って、さらにテロのあとでなんかたまんなくなって、Courgetteたちの像を自分のインスタに貼った。 この子らのためにも、くらいでよいのだと思うし。

6.05.2017

[music] Half Japanese

3日、土曜日の晩、Sundance Film Festival in London、ていうのがあって、PiccadillyでDavid Loweryのトークのあと”Ain’t Them Bodies Saints” (2013) を見て、ご飯食べ終わって帰るときに東のほうにものすごい勢いで走っていく警察の車が数台あって、TVをつけたらBreaking Newsが。
最初はLondon Bridgeで、という話で、やがてそこにBorough Marketが加わって、Vauxhallも加わって、やがてVauxhallは消えて、まだわかっていないことも多いが、人が亡くなって、テロである、と。 土曜日の晩、あの辺には素敵なバーが沢山あるし暑くもなく寒くもなかったし楽しんでいた人も多かっただろうに、ただただ悲しい。 このあと、関係ない人々に憎悪や腹いせの矛先が向かわないことだけを祈る。そしてアメリカ(大統領)のコメントは相変わらず糞以下だとおもう。 
恐怖に囚われてはいけない。恐れることはなにもない。 これまで通り映画もライブもお食事も出かけるから。


少し戻って、夕方の風が心地よかった1日の晩、Cafe OTOでみました。
ここはさすがにボディチェックも荷物チェックもなかった。

入ったときは前座のThe Blumbergsていう3人組がやっていて、リコーダーとかラッパのぴーひゃらとギターノイズをどんがらで回してジャンキーなトイポップを奏でる若者2+年寄1のトリオ。
ずっと聴いているのはしんどいけど、たまに波打ち際にふらふら吸い寄せられる、そんな音。

Half Japaneseのライブにきたのは初めてで、やっぱり見ておいたほうがいいかなー、くらい。
70年代の終わりくらい、レコード屋というところでぱたぱたを始めたころから、その変なバンド名と怪しげなジャケットは十分気になっていたのだが、手をつける気にはならなくて - 中古のコーナーに死ぬほど積んであったし - 彼らの名前が再び出てきたのは94年あたりのオルタナの時代のアメリカで、最初に聴いたのもその頃で、その時点で20年前のバンド、て言われていたのだから、もう元祖確定だよね。

Jad Fair以外のメンバーはギターとベースとドラムスのトリオで、最初にJad Fairが出てきて、容貌は白髪ぼうぼうの晩年のJohn Cageみたいで、穏やかに微笑みながらバンドの連中を引き摺りまわしていくかんじ。 足下には結構長いセットリストが置かれていたが、途中から関係なくなっているようだった。 
で、一曲目が”Better than Before”で、なんかふつうにかっこよくぶっとばしたのでびっくりする。
終わったとこで「このへんから始まったんだぜ!」とか言うのもすてきで、そのまま2〜3分くらいの曲を、ときには伴奏なしでアカペラでわーわー呻く、みたいのを繰り返して途切れることなく1時間強。 最後のほうで自分のギターのネックをぐんにゃり折り曲げて(既に何度もやっているようだった)足下に投げ捨て、マイクに向かって変なタイトルの曲をひたすらわーわー歌いまくる。

アンコールは何をもって一回と数えるのか不明なのだが、3回くらい、だろうか。
なんでもありだし、下手を口実にいくらでも好き勝手にできるはずなのだが、大らかに歌ったりがなったりしつつも終始だれることなく、宙から糸で攣られたようなテンションと風のような爽やかさでみんなを変てこなダンスの渦に巻きこんでいた。

こないだ見た"The Other Side of Hope”に出ていたバンドの音もこんなふうだった。 あと3時間でも半日でもずっと聴きつづけることができる音。 ああいうことがあった今となっては抱きしめたくなるくらい愛おしく響くことだ、て改めておもう。
見ることができてよかった。

いま自らをJapaneseである、と名乗ることは国際的にとっても恥ずかしいこと(やりたい奴はやってな)だとおもうのだが、この、半分JapaneseはWHFかなんかでちゃんと保護されるべきよね、と改めておもった。

6.02.2017

[film] Pirates of the Caribbean: Dead Men Tell No Tales (2017)

5月29日の月曜日 - Bank Holidayの祝日の昼、BFIのIMAXでみました。
このシリーズ、最初のくらいしか見ていないのだが、なんかずっと眠いので見たら目が覚めるかなあ、程度で。

邦題はしらんが、本国のタイトルは"Dead Men Tell No Tales" - 「死人に口なし」、英国のタイトルは"Salazar's Revenge" - 「サラザールは去らざーる」、てかんじかしら。

これまでの経緯とかキャラクターとか一切忘れてしまった状態で見たのだが、あんま関係なかった気がする。
Jack Sparrow(Johnny Depp)が伝説のカリブの海賊で、伝説だから昔からの宿敵が海にも陸にもいっぱいいて、Orlando Bloomは呪いをかけられているらしく海の底でほっぺに藤壺とかつけて漂ってて、今回はその息子のHenry Turner (Brenton Thwaites)と、魔女狩りで追われる天文読みのCarina (Kaya Scodelario)のふたりの若者が動き回って、あとは昔からの宿敵?のBarbossa (Geoffrey Rush) も出てきて、今回の敵はJackに恨みがあって船ごと部下ごといっぺんに幽霊になって彷徨っていたSalazar (Javier Bardem)で、こいつが蘇って、それをなんとかするためにはポセイドンの三又のヤスが必要で、いろんなのに追っかけられながらそいつを探して追っかけまわる、と。

最近のJohnny Deppのどこがいいんだかまあったくわからないものにとってはますますぜんぜん、なにが伝説なの?としか言いようがないやつだった。 終始バカ殿みたいな、ナルってイキがってKeith Richardsのマネとかしてる中年(よく使われる例え)みたいな - でも結局はただの酔っ払いでしかないという。 見せ場があるとしたら最初のほうの家ごと引き摺って陸上のいろんなのをなぎ倒してごろごろ行列移動していくとこで、キートンやロイドみたいな動きをしてくれないかなー、なのだが、あまりに平板すぎて予測できちゃうし。
「伝説」がお得なのはそれが伝説のように機能していなくても、結果のありようによって「伝説」としてこじつけるのが可能 - しかもこういう設定だと確かめようがないし - ってことなのだが、まあそれにしても。 ディズニーていうのはそういうのを商売のネタにしてきた場所なのでしょうがないとはいえ、ほんとにこんなんでいいのか。

敵側も要するに幽霊船&幽霊なので体からっぽで糸ひいててのらくら自在のなんでもできちゃう万能系のやつなのだが、あれならひとりひとりぐさぐさ刺したりする必要ないだろ、とか、万能なやつの個体差ってどこでどうやってつけるんだ、とか、水がないところではだめって、その要件、幽霊ていうより妖怪だよね、とか。 あとさー、Javier Bardemの顔以外はぜんぜん怖くないのよね。 これって怖がらせなきゃいけないやつなんじゃないの?

こういう状態なので若いふたりには思いっきりがんばって暴れてほしかったのだが、走らされているばっかり、上でのさばる年寄り共があんなんだからかわいそうなくらいだった。 あんなのそうっと海に落としちゃっても酔っぱらってたよね、って誰も文句いわないのにな。 正直だよな。 ていうか海賊なんて「賊」なんだから悪党なんだから、情け無用で好き勝手にやっちゃっていいのにさ。

それならば、とOrlando Bloom & Keira Knightleyの復活組に希望を託す人たちもいるのかも知れないので言っておくと、ふたりが揃って出てくるのは最後のおまけみたいな5分くらいのとこだけで、ストーリーには殆ど関わってこないので、だまされないでね。

というわけで、海洋冒険活劇としてはあまりにも冒険なさすぎるし、神頼みすぎるし、ロマンスぜんぜんないし、あれじゃ誰も海賊になんかなりたくないよね、だった。 それでいいのか..

つぎは"Transformers"か..な...

6.01.2017

[film] Lola (1981)

ああもう6月になってしまったねえ。
5月27日の土曜日の午後から晩にかけて、BFIのR.W.Fassbinder特集から81年の2本を見ました。
マンチェスターでのテロを受けて、BFIの出入り口も一箇所になって、荷物チェックされるようになってしまいましたわ。

Theater in Trance (1981)

81年、コローニュで行われた世界演劇フェスティバルの様子を撮って繋いだだけのぶっきらぼうなドキュメンタリー。
いろんなパフォーマーによるいろんなパフォーマンス - Pina Bauschから笈田ヨシまでをキャプションも紹介もなく、ランダムに流していって、そこにFassbinder自身によるアルトーの「演劇とその分身」の朗読などが被さる - らしいのだが、でもどの箇所がアルトーだったのかあんま自信がない。

世界中から寄せ集められた100以上のパフォーマンスが上演される、そういう演劇の「祭」で各パフォーマーは当然自分たちの劇世界に没入して、観客はそれを見て反応して、という共時体験の集積っていったい何になりうるのだろう? という根源的な問いを投げているように思えて、それはこの前年に"Berlin Alexanderplatz"を作り、この年にこれと"Lola"と"Lili Marleen" - の3本の映画を作り、世界中の映画祭を駆け回って多忙を極めていた彼の姿とも重なってちょっと複雑なかんじがする。
そこにはそこにカメラを向ける彼の苛立ちのようなものが確かにあるのだが、それが何に対する苛立ちなのか、わからない、というか。
音楽はそれこそトッピングとして乗っけてみただけ、のようなKraftwerkのぴこぴこ。

まさに"Love Will Tear Us Apart" (1979) あたりが聞こえてくるようなひりひりしたかんじ。

Lola (1981)

晩の8:45からの上映はNFT1ていうでっかいスクリーンで、Digital 4Kバージョンでの上映。
これの翌日くらいにNYのMetrographでも"Lola"を上映していて、そっちは35mm版の上映だった。 比べてどうなるもんでもないが、この作品に関しては4Kの勝ちではないか、という気がした。 それくらい4Kのカラーがヴィヴィッドなこと、半端なかった。

冒頭のタイトルバックに映っている白黒写真のおっさんは誰かというと、ドイツ連邦共和国の最初の首相 - Konrad Adenauerで、体を少し傾けて音楽を聴いている様子の彼の上にけばけばカラフルな文字でスタッフやキャストの名前が貼られていく。

まだ復興期にあった戦後ドイツの地方都市で、そこのキャバレーのスター歌手をやっているLola (Barbara Sukowa)は、そこを経営している土建屋のボスSchuckert (Mario Adorf)に囲われて彼との間に子供もいて、でもなんかつまんなくて、そこに町のお役人としてvon Bohm (Armin Mueller-Stahl)が町の整備・再建計画を練り直すべく新たに赴任してきて、Lolaはこいつだわ、って目をつけて仕込みをして彼にアプローチして、純朴で紳士な彼はころりとやられてしまうのだが、すべてはSchuckertとLolaの手の内であることがわかって、この展開であれば通常だと ①von Bohmが絶望して自殺、②von BohmがやけくそになってLolaを殺して自殺、③von Bohmの気が狂ってぜんいん皆殺し、のどれかだと思うのだが、そのどれにもならない。 むしろすべてがきちんと整合してみんなが幸せのまま終わってしまって、こないだ機内でみた"A Monster Calls"vvの樹の化け物呼んでこい! くらいの理不尽さに囚われてしまうのだが、町の復興っていうのはこれくらいエネルギッシュに食い合いするもんなんだ、ていうのか、これが愛なんだよ愛、ていうのか、もうなんでもいいわなんなのあんたたち、ていうのか、どれであっても別によくて、肝心なのは彼らひとりひとりは間違いなくあんなふうにして生きている/生きていた、というその輪郭の強さなのだと思った。

"The Marriage of Maria Braun" (1979)のMaria Braunがすさまじい強さでそこにいて、それこそ爆弾でふっとばされない限りそこにのさばっていた、のと同じくらいのありようで、Lolaもそこにいる。 喜怒哀楽なんて軽く超えたところで彼女は歌っていて、だからその歌声はすばらしいったらないの。

あと、こういった女性の描き方がフェミニズム批評の観点ではどうなのか、という辺り、既にいっぱい議論されているのかもしれないが、今の時点のものを改めて(あるのであれば)読んでみたいかも。 それって80年代初のPost Punkの頃を振り返るような作業にもなっていくはず。

とにかく、画面上の色彩の豊かさ、美しさに圧倒される作品でもあった。 メロドラマ的な陰の要素が美しさを更に際立たせる、というよりもただなんか砂糖細工みたいに美しいの。