4.29.2022

[film] Tokyo Vice (2022) - episode 1

4月21日、木曜日の晩、丸の内ピカデリーで見ました。
たしか昔は有楽町マリオンとか呼ばれていたこの建物の上には「日本劇場」なんて名前の映画館もあったのよね、とか思い出して、でも映画館としてはまだここだけ残っていたようで、広さも画面も十分でっかい。上映されているのも予告もゴミみたいのばっかりでもったいないー。

WOWOWで全8エピソードが放映されるこのシリーズの最初のエピソード(58分)だけ特別上映されるということで、WOWOWに入る予定も希望もないし、こういうのを最後まで見れたこともないし、このエピソードだけはMichael Mannが監督しているというので。

ただMichael Mannはシリーズ全体を統括する製作者として関わっているらしく、彼のなかでは”Miami Vice” (2006) - 未見 - と同じような位置にあるのかも知れない。 2009年に出版されたJake Adelsteinのメモワール - “Tokyo Vice: An American Reporter on the Police Beat in Japan”を元に東京という都市のVice - 悪徳- をあぶり出す、のかしら。

冒頭、99年の東京、Jake Adelstein (Ansel Elgort)と片桐 (渡辺謙)がこれから向かうレストランでの会食について相手方との座る位置などの確認をしていて、この時点ではふたりがどういう関係でなにをやっている人達なのかもわからず、実際に着いてみると見透かされたように彼らの予約は個室に変更されており「… 」ってなって、明らかにその筋のやばそうなお兄さんからあのレポートを表に出すのはやめろ、って強めに言われて、ふたりが固まってしまったところで話は2年前に遡る。

Jakeは電話もないぼろい一軒飲み屋の2階に下宿して英会話教室で教えたりしながら日本語の読み書きを学んでいて(あとでミズーリから上智大学にきて日本文学を学んだって)、日本で最大発行部数を誇る明朝新聞 - 実際には読売だって - の事件記者になるべく入社試験の筆記で最後のページを書き忘れたり面接で屈辱的な質問 - ほんとにあんなの? - をされたりしつつも合格する。

同社で最初の外国人記者として上司の丸山 (菊地凛子)の下で編集長(豊原功補)に「おらガイジン!」て怒鳴られたり、最初の原稿記事で被害者を「殺された」と書いたらえらく怒られて - 警察の公式報告書をそのまま掲載とけばいいんだぼけ、って教育される - これだけで十分 Tokyo Viceだわ。あとはやや悪めの刑事宮本(伊藤英明)にくっついて外人ホステスをひっかけるやり方と引き換えに現場のあれこれを教えてもらったり、彼と行った歌舞伎町のクラブでSamantha (Rachel Keller)と出会ったり。

殺しの現場は昼間、眺めのよいビルの上かどこかで、刃物をぐっさり刺されて切腹した(させられた?)ような状態で座っているおじさんと、灯油をかぶって自分で火を点けて焼身したおじいさんと、どちらにもサラ金業者っぽいマークの会社が残されていて、Jakeその場所に訪ねていくとなにもなかったり。

まだ捜査の現場にいる片桐とJakeが交わる場面は描かれないのだが、渡辺謙が渋面で現場を嗅ぎ回るように歩いているだけで、”Heat” (1995)のAl Pacinoの狂犬が思い起こされ、とてつもない事件の予兆がやってくる/既にあるようでー。

“Heat”は全米公開直後に、NYのLincoln Centerの近くにできたばかりだったSONY Theatre(現在はLowes)の一番でっかいスクリーンで見て痺れたのだった。ただの街や屋内の景色がなんであんなに堂々とでっかく見えてしまうのかの謎があって、それは今作にもいっぱいある。90年代末の東京のどうってことないはずの「現場」や地下鉄やクラブの空気が「ノワール」としか言いようのない不穏さ隠微さとそれを際立たせる(のか?)境界と奥行きのスケール感で目の前になんだかでっかく - 西部劇のように現れてしまう驚異って。技術的にはいろいろあるのかもだけど。

これだけでも映画館のサイズで見れてよかったし、ほんとはAnsel Elgortの自分語りなんてどうでもよいから渡辺謙とヤクザの親分との狂犬対決に絞りこんで2時間でシャープに撮ってほしかったなあ、って。

それにしても、90年代終わり近くでまだポケベルと(PCじゃなくて)ワープロだったのかあの新聞社は、とか、日本はこの辺からだだ滑りして転げ落ちていったのがなんかわかるなー、とか。

 

4.28.2022

[film] Le Pont du Nord (1981)

4月17日、日曜日の夕方、ヒューマントラスト渋谷のJacques Rivette特集で見ました。
邦題は『北の橋』。 英語題は”The North Bridge”。

これ、ずいぶん昔に見た気がするのだがきちんと思い出せない。今回の特集、ここまでで見たのは”Duelle (une quarantaine)” (1976)と “Noroît” (1976)。 この2本と” Céline et Julie vont en bateau” (1974)はロックダウン期間中のロンドンのストリーミングで見ていて、でもやっぱりどこで何回見てもおもしろいったら。ストーリーの勘所とかこれぞ、っていう見どころがあるわけでもないのに、なんなのかっていつも。

現代のパリの街を革ジャンでふらついているBaptiste (Pascale Ogier)がいて、バイクで街を回りながらそこらじゅうのライオン像にガンを飛ばして、そこに勇ましくピアソラのタンゴが被さってくるだけでなんか盛りあがる。ライオン像といえばBaptisteってAgnès Vardaの”Vagabond” (1985) -『冬の旅』のSandrine Bonnaireをトッぽくしたかんじの野良の目つきと挙動で、トラックの荷台に積まれた荷物のように降りてきたMarie (Bulle Ogier)とぶつかって、ふたりはその日のうちに3回くらい別の場所で鉢合わせするものだから - 暇なだけだと思うけど - これはなんかあるよね、って一緒に行動するようになる。Marieは強盗をやって刑務所から出てきたばかりで、そこで閉所恐怖症になっておとなしそうなのだが挙動不審でなにしでかすかわからない怖さがありそう。Baptisteは元気いっぱい、屋根なしのところで起きても空手の型をぱきぱきクリスピーにきめて、これに対してMarieはなにごとも猫のようにスローで押されないと動こうとしない。「ドン・キホーテ」なんかあてはめなくたって、このふたりを見ているだけで十分におもしろい。

そんなMarieたちに変につきまとってくる -ようにBaptisteには見える - 彼女の恋人 - 獄中にいるときも頻繁に訪ねてきてくれたという - が抱えていたカバンをすってその中身を広げてみると、蜘蛛の巣のように手書きで区分けされて番号が振られたパリの地図とやはり番号が付いた新聞の切り抜き(いろんな犯罪)などが出てきてすごろくなのか数合わせなのか、なにがどうなったらなにが起こるのか or 起こったのか、その理由は?

これって謎解きなのかゲームに乗ってこいってことなのか、どこかで進行中の陰謀なのか、そこに彼女たち(or Marieが)は巻きこまれようとしているのか狙われているのか - 狙われているんだとしたら上等じゃねーかよお、とか、とにかく暇だし世界はふたりに何かをされたがっているとしか思えない。実際にふたりが歩いていくパリは建設現場や穴だらけのぼこぼこで何かが壊されようとしているのか、新たな何かが立ちあがろうとしているのか。

でもそうやって歩いていくとBaptisteは滑り台から現れたドラゴンと戦わねばならなかったり、蜘蛛の巣を吹きつけられたり、空き地でリアルに男が死んでいたり、やばいのかどうなっちゃうのか固唾をのんで見ていると..

誰かがなにかを企んでいる – その企みは地理と歴史に関わることとして太古の昔からずっとある – それはたぶん我々の日々の生活や動きの現在や今後にも深く関わっている – それに気がついている人とそうでない人がいる – それらを表層に引っ張り出そうとする(主に)女性たちの冒険を日々の恋愛や結婚に近いところで捕まえようとしたのがRohmerであり建物とか地下とか島とかで捕まえようとしたのがRivetteなのかしら。とてもおおざっぱにいうと。だから彼女たちの行動は屋外での冒険だったり活劇だったり、キュートで目が離せなくて見るべし! になるの。

で、これが終わりのない通りや延々たどり着かない橋へと向かい、土地の暗号を端から解いていって”Out 1: Noli me tangere” (1971)並みの長さになったであろう可能性はじゅうぶんに感じられて、でも実際にはやや唐突に2時間くらいで切られて - 北の橋は落とされてしまうのだった。

それにしてもPascale Ogier −『満月の夜』(1984)のLouise役以上に岡崎京子の漫画の主人公していて、81年あたりだと、彼女がまだ『ポンプ』とかに描いたりしていた頃だよね、とか思い出したり。

4.27.2022

[film] Blood and Sand (1922)

4月16日の土曜日、シネマヴェーラの女性監督特集で”Outrage”の前に見ました。サイレントで、邦題は『血と砂』。
監督のクレジットはFred Nibloだが、Dorothy Arznerが編集と初監督作 - クレジットなし - で関わっている。今からちょうど100年前の映画。

原作は『黙示録の四騎士』を書いたVicente Blasco Ibáñezで、脚本はJune Mathis。これと同じタイトルの小説(同じものかどうかは不明)を元に英国のミステリー作家Dorothy Leigh Sayerがサイレントの脚本を書いていたそう。

スペインの小さな村で、近所の仲間たちと闘牛ごっこをやるのが大好きだった子供時代のJuanはちょっかいを出した牛に突かれた友達を闘牛士っぽい動きで救ったことで - その子は亡くなってしまうのだが - 有名になって、そこから闘牛士を志す若いマタドールJuan Gallardo (Rodolph Valentino)としてのしあがって、マネージャーやスタッフも付いて、村のお嬢さんであるCarmen (Lila Lee)を妻に貰って幸せの絶頂にあって、でも同時に縁起担ぎとか勝ってなんぼじゃ、のぴりぴりした傲慢セレブに少しづつ変わっていく。

そんなところに現れたお金持ちの未亡人Doña Sol (Nita Naldi)がJuanを気に入って無理を言って呼びつけるようになり、強引な彼女のされるがままになって、その状態に疲れて自棄になり闘牛さばきも雑になっていく。彼はその反対側でCarmenへの罪悪感にも引き裂かれて、そのうちみんなの前でCarmenが辱められたりして..

この流れとは別に哲学者の - 浮世のあれこれを冷静に眺めているおじさんがいて、村に現れたならず者でお尋ね者の悪漢Puntillero (Harry Lamont)と、Juanを見比べた彼は、PuntilleroとJuanは同じような最期を迎えることになるかも、とか不吉なことをいう。

人気の絶頂にありながら(あるが故に)不安定で落ち着きがなくなってしまったJuanは闘牛の本番でミスをして牛にやられて哀れ.. になるのだがJuanを殺したのは獣と化した牛の野性ではなく - 本当の獣はここでわーわー騒いでいるわれわれ大衆なのだ、っていう字幕が最後に出る。

驕れるものは久しからず、であり、破滅にまっしぐらの若さや蒼さの話であり、ファム・ファタール - 悪女の話しであり、それらをなぎ倒して熱狂をもたらす大きなドラマとしての闘牛があり、でもこのお話しが異様なのはこのドラマの中心にあるスターの闘牛士とやはり名をあげた世紀の悪党 - 彼も最後には撃たれて死ぬ - とを並列に並べて(もうひとつ、愛欲にまみれたDoña Solと貞淑なCarmenを同じ軌道上に置いて)、それらの根源としてある大衆(文化)の興隆とそれがもたらす野蛮と残酷さ – 牛の血もヒトの血も砂に吸い込まれて少し経てば後にはなにも残らず忘れられ – そんな1920年代を冷徹に描いていることではないか。 そしてそんな視点を入れたのは“Dance, Girl, Dance” (1940) - 『恋に踊る』で対照的なふたりの女性ダンサーの攻防を通して社会構造のようなところまで踏みこむことのできたDorothy Arznerだったにちがいないわ、って思う。 

で、1922年の闘牛(スポーツ)のことも1940年のショウビズのことも、どちらもちっとも古くない、今だに生きたテーマ(根底に現れる衆愚とかそこからの差別に虐待)として続いているし、そんなでも生きづらさを保ったままずっと止まずに続いているのってなんかすごい(ほめてない)。“Dance, Girl, Dance”とでも言うしかないのか…

あとはナイーブで見栄っ張りな闘牛士のRodolph Valentino、寡黙ですぐに壊れそうなLila Lee、どこから見てもヴァンプとしか言いようがないNita Naldiなど、見事にぜんぶはまっているキャストのすばらしさ。


土日月と京都〜奈良に行って藤の花を見てきて、ついでに仏教芸術とか神仏とかが少しだけおもしろくなってきたかも。まだぜんぜんわかんなくて奥に入ってひえーとか言っているだけなのだが。藤の花もロンドンからだったし、お寺も欧州でいろんな教会を見た延長にあるのだが、いろんなのがあるねえー

4.22.2022

[film] Outrage (1950)

4月16日、土曜日の晩、シネマヴェーラの特集『アメリカ映画史上の女性先駆者たち』で見ました。『暴行』。

こないだの国立映画アーカイブの『フランス映画を作った女性監督たち―放浪と抵抗の軌跡』(4つしか見れなかったよう)と並べて – 更にこれからのMati DiopやChantal Akermanの特集と並べて - できる限り見た方がいい。女性だから、というと「女性」だから何が違うねん、て絡んでくる人がいそうだけど、女性であるが故に見過ごされたり正しく評価されてこなかった過去の文化的な背景や経緯があった(それは映画の世界だけではない)ことはどうやら事実のようなので、それらを踏まえた上で見て(見直して)みるときっと、絶対おもしろいものが見えてくるし、そこからなんでこういうのを知らなかった/知らないできたのだろう、ってなる – これは映画が好きな人であれば、やってみて。(まあそれでも見ないひとはぜったい見ないよね) そーしーてー早く全14時間のドキュメンタリー - ”Women Make Film” (2018)をこの国でも見れるようにして。

さて、シネマヴェーラの特集ではアメリカ映画の初期に活躍した5人の映画監督をピックアップしていて、うちAlice Guy(の短編集)だけはNFAJのフランス特集のと両方に登場する - この辺は夏に公開されるらしい彼女のドキュメンタリーを見てほしい(いろいろびっくりするよ)。

そしてこの5人のなかで、Ida Lupinoだけは20世紀の生まれで、他の4人の「開拓者」のイメージとはやや異なって、はじめの49年の”Not Wanted”の頃から近代のアメリカにおいて「女性」であることとは、というテーマやその周囲を行き交う視線を - そこで語られる物語を超えて - 意識的に捕まえて語ろうとした人、という気がしている。

冒頭、夜の人気のない通りを何かに追われて必死の形相で逃げていく女性の姿が描かれる。彼女はこの後にどうなってしまったのか – という映画。ここでなにかがフラッシュバックしてしまった人は無理に見なくてよいからー。

会社で会計係をしているAnn Walton (Mala Powers)は朝の売店で、嫌なかんじの店員に絡まれつつも二人分のランチを買って、いつものように恋人のJimと一緒に食べて、やっぱり結婚しようか、ってAnnの両親に彼を紹介して、幸せいっぱいのはずだった。 のだが残業して帰る途中で誰かに追われて夢中で逃げて(冒頭のシーン)、傍にあった車のクラクションを鳴らすのだが逃げられずにレイプされてしまう。どんなふうにされたのか、どうやって帰ったのかは一切描写されず、彼女の記憶に残っているのは犯人の喉元の傷跡だけ。 少し回復して警察で喉元に傷のある男たちを並べられて憶えのある奴はいるか? と聞かれてもパニックに襲われるだけ。

家族もJimも優しく介抱してくれるのだが、会社に戻っても町を歩いているだけでも自分のことを噂されたり好奇の目で見られている気がするし、なにを言われても、将来のことを考えるのも辛くて、飛び降りるようにLA行きの片道切符を買ってバスに乗りこんで、でも休憩で立ち寄ったダイナーで自分に捜索願が出ていることを知ってパニックになり、外に出れば足を挫いて、地元の牧師のBruce Ferguson (Tod Andrews)に助けられる。

BruceはAnnの様子からなにかを察したのか警察にも通報せず、寝泊りする家とオレンジ収穫のバイトを紹介してくれて、そのうちそこの簿記も手伝えるようになって馴染みはじめるのだが、村祭りの日、やや強引にキスを迫ってきた男をレンチでぶん殴って殺しかけたので、彼女は捕まってしまう。

加害者- Ann側と被害者側だけの簡易な裁判が開かれてAnnの弁護に立ったBruceは彼女の過去のトラウマに触れて、彼女をそこまで追い込んでしまったのは我々 - 帰還兵でもあった犯人も含めて - 我々こそが加害者なのだ、と訴えて、判決は彼女に一年間療養してもらって様子を見よう、ということになる。

襲われた人の傷は決して消えないし癒えない、共感や同一化によって克服できるものではない。その重さは傍にいる人や家族がどんなに親身に寄り添ってもわかって貰えるものではない - 終わりにAnnはBruceのところにいたい/実家には戻りたくない、ように見えるのにBruceは彼女を送りだして見送る – 今の彼にはそれしか/そこまでしかできない、と思ったのではないか。そしてこれは誰にとっても幸せな終わり方ではないの。「暴行」というのはそうして全ての人を最後まで傷つける。

おそらく、よく見た気がするドラマだと、Annの傷はBruceの献身的な介護と愛によって – その過程にいろんな困難や障害があるにせよ – 癒されて乗り越えてふたりは結ばれて、になる(or 情け容赦ない復讐か)のだろうが、この映画では決してそんなところには落ちない。そんな安易で甘い能天気な結末を(主に男の側 - 大多数の傍観者が)無意識に思い描いてしまうからこそレイプ犯罪はいつまでたってもなくならないのではないか、とか。

で、この部分 – ひとによっては冷たいと言うかもしれないある種の厳格さがIda Lupinoの作品を貫いている倫理 – のようにあって、その背後には彼女が女性として見てきた現実のグロテスクで過酷な世界がある。彼女のようなやり方で世界を切り取って物語として提示するひとはそれまでいなくて - ノワールの変種のように捉えられがちだけど、現実はノワールの数倍の闇に満ちている、と。 この切り取り方にフェミニズムという概念をはめるのに違和感はないの。

だからとにかく彼女の映画はひとりでも多くの人に見られてほしいし、女性作家による映画が見られるべき、って思うのもそういう理由によるの。 もちろん辛いテーマなので無理することはまったくない(念押し)。

4.21.2022

[film] Lancelot du Lac (1974)

4月16日、土曜日の昼にシネマカリテで見ました。『湖のランスロ』。
監督はRobert Bressonで、今回は『たぶん悪魔が』(1977)と一緒に、どちらもデジタルリマスター版での公開。74年のカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞している。

これは大昔(00年代?)、たしかNYのAnthology Film Archivesでみた。登場する騎士たちのようにぼろぼろの16mmフィルムで、冒頭の字幕も血の色も茶色に近いオレンジで、今回ああこんなに赤かったんだわ、ってなかなか新鮮。甲冑のがちゃがちゃした音やバグパイプの音も気持ちよいったらない。

冒頭、甲冑鎧の首が飛んだりぐっさり刺さったとこから血がぴゅーぴゅー飛んだり見たくない死体が木にぶらぶらぶらさがっていたり、これぞ中世! みたいな陰惨な絵が広がってて、「足音が先に聞こえてくると1年以内に死ぬ」って。『たぶん悪魔が』と同様にその始めに死が置いてある物語。

みんな大好きアーサー王伝説に出てくる聖杯探しの旅が終わって帰ってきたのだが、うまく見つからずに死者も沢山でてがっかり.. に終わった後のことを12世紀フランスのChrétien de Troyesのいくつかの本に基づいて、ランスロ(Luc Simon)とグニエーブル妃(Laura Duke Condominas)の諦めたり拗ねたりくっついたりの不義の恋のこと、グニエーブルを慕ってランスロを嫉妬していじめっこ騎士団を作る騎士モルドレッド(Patrick Bernhard)のこと、ランスロを兄貴のように慕うゴーヴァン(Humbert Balsan)のこと、王妃を幽閉しても効果ないしぜんたいを見渡してどうしたものか、になっているアルテュス王(Vladimir Antolek-Oresek)のこと、最後にはランスロがゴーヴァンを殺し、反乱を起こしたモルドレッドも殺し、自分も死んで…  などなど騎士道ものとは思えないローなテンションで全体がずり下がっていくさまを描いていく。

それぞれの台詞は詩歌のように短く独り言のように詠われて響いて、その言葉が相手に届く手前でとにかく鎧を纏って槍を手にしてがちゃがちゃ向こうに行ったり馬に乗って飛んでいったり。思いを遂げるか決闘するか(生きるか死ぬか)しかないかんじで、でもランスロはめちゃくちゃ強いのでみんな直接対決はびびって腰がひけてて。でも、全体としては『たぶん悪魔が』と同じように既に世の中は腐りきってどうしようもなくて(聖杯なんてないし)、こんなところで戦ったり愛しあったりする意味も価値もあろうか、それが見えてしまったランスロは..

決闘 - 馬上の一騎打ち - に匿名の騎士として参加したランスロが、相手を次々に倒していくので途中であれはランスロだ、ってみんなにわかって、それを(少し嬉しそうに)何度も繰り返すところがおもしろい。木の槍と走っていく馬の脚 ~ 転がる騎士しか映さないのに圧倒的な決闘のかんじは伝わってくる。こないだの『最後の決闘裁判』(2021)のようにお金かけて盛らなくても。

王への忠誠なのか王妃への愛なのか同志との誓いなのか騎士道とか神への信仰なのか、あるいは自分の前に立つ「敵」全般への憎しみなのか、いつものブレッソンの主人公たちのようにあまり苦悩せずに映ったときにやることは決まっている潔さと速さ、そこにおいては死すらもー という形でようやく見えてくる中世の「ロマンス」とか騎士たちのありよう。そこらの獣と同じ死。

騎士だの王だの偉そうに言っても鎧はがちゃがちゃと重いし顔もわかんなくて滑稽だし、鎧を脱げばタイツで脆いし肉から血はどばどば出るし、こんなもんなのだけど、って騎士道伝説を嗤う、というよりも聖も俗も善も悪もこの程度の団子になって転がってきたのだ、って。

ロメールの『聖杯伝説』- ”Perceval le gallois” (1978)にあったぺったんこの書割の背景と歌うような台詞まわしと、ここの世界とはぜんぜん違っていると思っていたけど、実は同じもの/騎士たちを解像度の異なるレンズで撮っただけなのではないか、って。

あとはもういっこ、ここに“Monty Python and the Holy Grail” (1975)をぶつけてみたら見えてくるものはあるのかないのか。

David Loweryの“The Green Knight” (2021)って公開しないの? ゴーヴァンも出てくるしおもしろいのに。

4.20.2022

[film] Casting By (2012)

4月13日、水曜日の晩、イメージフォーラムで見ました。邦題は『キャスティング・ディレクター ハリウッドの顔を変えた女性』。なんで2012年のドキュメンタリーを今?.. って思うけどおもしろいのでまったく文句ない。

監督はTom Donahue。2012年のTorontoとNYFFで上映されてHBOでも2013年に放映されたもの。240名の関係者にインタビューして50数名が実際に喋っている。みんなMarionに感謝して、いま自分がこうしているのは彼女のおかげなのだ、という。

ハリウッドで”Casting Director”と呼ばれる役割、スタッフがどうして重要なのか、それはどんな経緯で生まれてきたものなのか、をこの分野のパイオニアであるMarion Dougherty (1923-2011)の足跡と功績を彼女と関わりのあった監督や俳優のインタビューを散りばめながら追っていく。まあとにかく出るわ出るわ - Martin Scorsese, Woody Allen, Robert Redford, Clint Eastwood, Al Pacino, Robert Duvall, Dustin Hoffman, Jon Voight, Christopher Walken - などなど。

彼女がCastingという作業の重要性を表にひっぱり出さなかったら、今我々が見ている映画の景色はぜんぜん違うものになっていたのかもしれない。彼女がいなかったらGlenn Close(『ガープの世界』(1982))もBette Midler(”Hawaii” (1966))もAl Pacino(”Me, Natalie” (1969))も映画の世界にはいなかったかもしれない。

ペンシルベニア州立大学を出て演劇をやったりした後、NYに出てBergdorf Goodmanでウィンドウディスプレイの仕事をした後に、友達に誘われて盛りあがりつつあったTVドラマのキャスティングの仕事を手伝うようになる。こうしてライブの一発撮りがふつうだったTVドラマ - ”Kraft Television Theatre” (1947-1958)や“Naked City” (1961-63)や  “Route 66” (1963-64)に、NYのActors Studioでメソッドを学んだ生きのよい俳優たち - James Deanとか - を送りこんで – あの俳優は誰だ? っていうのと同じようにあの俳優を見つけてきたのは誰だ? - って注目されて、どんどん仕事が入ってくるようになる。(IMDBで彼女がキャスティングした作品は81本、とでる)

映画を見る時、まず目に入り込んでくるのは個々の俳優の顔とか動きとか喋りとかで、ストーリーはその結果として見えてきたり形作られりするものなので、どんな人がその役のパートを演じているのか(そして我々はどこをどう見るのか)って、映画を見ていく上で実はすごく大事なことなのだなー、って当たり前のことを。バレエやオペラのレパートリーものだと、みんなが知っているキャラクターに嵌められたダンサーや歌手がそれをどう捌いたり乗りうつったりするのかが見るところで、この辺の目線の違いも含めていろいろ引き込まれる。もしXXがいなかったらこの映画は.. とかよく思ったりする(ちっとも意味ないの)けど、彼女がいなかったら間違いなく今我々が見ている映画のありようは変わっていた、はず。

でももちろん、彼女が脚本やプロットのどこをどう見て、キーとなる俳優のプロファイルや直接会った時のインパクトのどこをどう見て、そのマッチングとしてキャストを決めていくのか、その方法や奥義のようなものは開陳されない - 膨大なインデックスメモが出てくるくらい。それはNYの彼女のオフィスに集まった弟子のような女性たち - Woody Allenのキャスティングを手掛けてきたJuliet Taylorなど - についても同様で、その辺からなぜこの分野で活躍しているのは女性が多いのか? (彼女たちの他に男性のキャスティング・ディレクターとして登場するのは西海岸のLynn Stalmasterくらい) という問いに繋がり、更にはそこから「キャスティング・ディレクター」という映画の質を左右する(に決まっている)極めて重要な役割にも関わらず”Casting By xxxx”としかクレジットされてこなかった - 最初のうちはクレジットされることすらなかった - いまだにこの役割がオスカーの受賞対象からも外され続けている理不尽な状況にも言及されていく。

なぜキャスティング・ディレクターはきちんと認知されてこなかったのか? - 映画の監督はたったひとり、「監督」だからだ - でも撮影監督は監督って付いているしオスカーの対象にもなっているよね? - あくまで映画の最終的な責任を負うのは「監督」だからだ、って延々屁理屈をこねるディレクターズ・ギルドの総裁であるTaylor Hackford。こんなふうにのさばってしがみつく(なにに?)くそ野郎がオスカーをあんなしょうもないものにしているわけだな、とか。

映画監督や俳優たちがMarionにオスカーを! って散々言っても運動しても受け入れられないまま彼女は亡くなってしまうのだが、毎度のことながら、なんかなーって。これと同じようなの(同じように不当に無視され続けている/きた役割とか人とか)って他にもいっぱいあるはずで、ようやく公開されたヒルマ・アフ・クリントにしても、もうじき公開されるアリス・ギイのにしても、遅いわ(溜息)...

4.19.2022

[film] くちづけ (1957)

4月11日、月曜日の晩、ラピュタ阿佐ヶ谷の『はじめの第一歩 -映画監督50人の劇場デビュー作集』で見ました。この特集、他にも見たいのいっぱい。
監督は増村保造(イタリアから戻ってきた直後のデビュー)、原作は川口松太郎、脚色は舟橋和郎、製作は永田秀雅(こてこて)。

暑い夏の日、埃っぽい道を抜けた先にある小菅の拘置所に欽一(川口浩)は選挙違反で入っている父親の大吉(小沢栄太郎)に面会に来て(わざとらしく杓子定規な口調)、そこで同じく父親の面会にきて悲しそうにしていた章子(野添ひとみ)を見かけて、少し気になったので追いかけて病弱な彼女の父の食費をなんとかすべくお金を工面してあげて、そこから彼女はそのお金を返すべく彼を追いかけまわして、そんなふう右往左往した果てにようやくぶつかった彼と彼女は一緒に競輪に行くと、わかんないわって彼女が言っていたばくちが一発で当たって、その金で今日一日遊ぼうよ、って始まる最高のデートムーヴィー。

そうやって友人にバイクを借りて後ろに彼女を乗せて気持ちよく突っ走って、カレーライス食べてアイスクリーム食べて海に行って水着と帽子を選んで、海でばしゃばしゃ泳いで(もちろん彼女は泳げない)、こわごわローラースケートをやって、バーでピアノを弾いて歌って踊って、彼女を知っているらしい強引な男(若松健)が横に現れるのだが、とにかく楽しかった夏の休日が別れ際のくちづけをするとこまでいく – 音が出るくらいになかなか激しめのやつ。

あとは、章子の父親を拘置所から出すために必要な10万円を巡って、彼女が金持ちの若松健 - こいつは彼女が絵のモデルのバイトをしている画家の息子 - に嫌々頼むのと、欽一はデートの途中で偶然会った宝石商の母(三益愛子) - 今はすっかり疎遠になっている – に10万円投資してみないか、と持ちかけてなんとか小切手を切って貰い、でもその小切手を届ける先 - 彼女の住所を書いた紙をどこかでなくして、ないないって走り回っているうちに彼女のアパートにはぎんぎんの若松健が現れて… (このあと定番の殴り合いになるのだが欽一はものすごく弱い)

野添ひとみのひょろ長い手足と大きな目の輝きとか、こんな絵にかいたような、というか漫画みたいにきらきらの一日、よく並べたものだ、と思いつつ、そこに現実離れしたかんじはあまりなくて、今から60年以上昔の話のようにも見えなくて、バイクの疾走から海辺の遊びから定番クラシックな写真のような普遍性を湛えているかんじ。

あと、どちらも父親が刑務所にいる、というところから始まった付き合いでも、欽一の父親は選挙の買収容疑で開き直って懲りているかんじはなくて、章子の父親はやむにやまれぬ着服容疑で体も壊してかわいそうで、そこに至るまでの見えない力とか階層段差のようなところがそのままふたりの間にも降りてくるのかな、と思ったらもろそんなかんじがして、これ父親の状況が逆だったらどうだっただろうか、とか(映画にはならない?)。

原作の川口松太郎と母役の三益愛子は実の夫婦だしその実息子は川口浩だし彼はこの3年後に野添ひとみと結婚するので、ものすごくリアルな家族総出の実演ドラマである、と思うと、ラストに実父を連れて出所した野添ひとみを車のなかから三益愛子と川口浩が値踏みするように見て、彼らを車に乗せてあげましょう、って母が言うラストは、なんかすごいなー、とか。こんなふうにとっても爽やかでも後から這うようにやってくる生々しさって既に増村保造のものではないか? とか。

そして章子とよれよれの父が車に乗ったところで「娘よ、よくやった」って後部座席の父が突然変貌して、親娘で三益愛子と川口浩をぼこぼこにしていく - 過去に酷いことをされたらしい - というのが続編で、ようやく出所できた川口浩の父がかつて妻だった女のためにこの戦いに身を投じるのが第三弾になるはずだったんだって。

それにしても増村保造、このデビューの年にあと2本、『青空娘』と『暖流』も撮っているなんてすごい。(この翌年は4本..)

4.18.2022

[film] 次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊 (1954)

4月10日、日曜日の昼、神保町シアターの特集『映画で愉しむ―山本周五郎と時代小説の世界』で見ました。山本周五郎も時代小説もそんなの歳取ってからでええ、とか言っているうちに老人になってしまった。なにもかもどうしようもない..

でも、この東宝版の「次郎長三国志」は別で、2007年(たしか)にシネマヴェーラで見てぶっとんで以来、この後にもどこかで通しで再見して、でもDVDはパッケージが嫌なので買わず、バラで見るのは今回が初めて。エピソードとしてはこれが一番好きで、でも原作の村上元三の小説にはないエピソード - 石松(森繁久弥)を主役に置いたスピンオフで、なのにこれが一番おもしろいってどうなのか。

前作で亡くなった次郎長の女房お蝶と豚松(加東大介)の盛大に行われた法事に、百姓姿の大親分 - 身受山鎌太郎(志村喬)が子分も連れずに現れて香典として五両を置いていく。大親分にしては額が小さいので石松は勝手に二十両って書いて貼りだして、終わってから鎌太郎にいいもん見さしてもろうた、残りの十五両は借りじゃ、とか面倒な難癖をつけられてなんだこのじじいは、って。

その後に、石松は刀を讃岐の金比羅様へ納める旅にでるお使いを任され、酒も喧嘩もだめ、っていうのでふてくされるのだが、女はよいから ~ おめえに見つけられればな、とか散々からかわれて、みんなに見送られて一人旅を始める。ここまでは楽しく転がっていくのだが、途中で浜松の政五郎(水島道太郎)- 後の小政と出会って、夜の川辺で野宿するときに彼の女のことを聞かされて、そうかそんなによいものかー、って恋に恋してしまう。

金比羅様へのお使いを終えて、四国の女は情が厚いってよ、という言葉を胸に宿屋をあたるもののなんかいないようで、あーあってなったところでようやく「笑っていても泣いているようなうるんだ眼をした」夕顔(川合玉江)と出会って、旅立ちの、別れの朝に夕顔から手紙を貰って、法事の御礼に鎌太郎のところに行って会いたかった女性と出会えました、と言って夕顔の手紙を見せると鎌太郎の顔色が変わり、娘おみの(青山京子)にもそれを読ませて、こんな素敵な娘に出会ったというのにそのままのこのこ帰るつもりなのかこのあほんだら、こんなことがわからんようなアホは死んだほうがましじゃ - おれがぶった切ったるわ、とかまた絡まれて、おまえは夕顔と一緒になりたいんだな、って強引に意思を確認されると、おれは身受山だから、って夕顔の見受けに行ってしまう。

そうして帰り道、石松は幼馴染の小松村七五郎(山本廉)とお園(越路吹雪)夫婦の許に寄る途中、盆踊りの後の豪雨のなか難癖としか言いようのない騙討にあってしまうの。ここも現れたやくざに応対するお園の啖呵と槍捌きが痺れるくらいかっこいいのと、「おれは死なねえんだよ」って言いながらばさばさ斬りまくっていく石松の殺気が凄まじいったらない。

ほんもんの恋を知らなかった石松がそれを手にしたと思って舞いあがった途端に殺されてしまう – 過去のエピソードでは片目を斬られた途端に吃音が治り、今回斬られたところで塞がっていた片目が開眼する、という流れも含めて悲劇的なのだが、もともと政五郎と出会ったあたりからずっと夜が続いていく映画で - ノワールの暗さ、不吉さ、それゆえの儚い美しさへの希求も常にあって、そこに石松のなにも考えていないアホの明るさと底の抜けた劇物のような強さが絡んで、全体として異様な迫力をもたらしている。残酷といえばこれほど残酷な物語もないかも。

とにかく森繁久弥と越路吹雪がすごすぎるので、それだけでも。いまだにあの石松が死んだとは思えないくらい。

この全九部作をさー、ちゃんと4Kレストアして、二代目広沢虎造の浪曲にもちゃんとした英語の字幕をつけて、クロサワしか見てないくせに知ったふりをしている西欧人たちに叩きつけてやりたいなー。おまけに『鴛鴦歌合戦』(1939)もつけて。 BFIでは『鴛鴦歌合戦』がかかって、ふつうに受けていたから下地はあると思うのよ。Cool Japanて、これだと思うのになー。


ざあざあ雨のなか、おそらく6年ぶりくらいにアナログばか一代 −「おい、青山聴いてるか?!」を見てきた。どれもよかったけど、Neil Young & Danny Whittenの “Cinnamon Girl”とかQuicksilver Messenger Serviceの”Shady Grove”とか、よいのねえ。 やっぱしアナログだよね、とか。

4.17.2022

[film] 女体 (1964)

4月9日、土曜日の夕方、シネマヴェーラの武満徹特集から恩地日出夫監督作品を2本続けて。
1月に亡くなられた監督の夫人で美術監督でもあった星埜恵子さんが上映前にトークを。

『女体』で生牛を殺して製作から3年間干されてしまった監督に武満がアンブローズ・ビアスを引いて『あなたは嘘つきであるより詩人の側に立つ人だ』と励ましの手紙を書いた、それが恩地の生涯の支えになったという話、よかった。

女体 (1964)

田村泰次郎の小説『肉体の門』と『埴輪の女』のストーリーをベースに、恩地日出夫が脚色・監督した作品。読みは「じょたい」 - 英語題は”The Call of Flesh”。 こないだ神保町シアターで見た浅丘ルリ子のとは関係ない。同じ年の鈴木清順の『肉体の門』のマヤは野川由美子だったねえ。

デパートで子供と姑と一緒に買い物をしていたマヤ(団令子)はセン(楠侑子)に声をかけられてあら!、ってなって、そこに原爆に終戦(玉音放送)に東京裁判にマッカーサーに闇市に、昭和のこの時点までの泥沼がコラージュされてタイトルがでる。

現在のマヤはそれなりに落ち着いたふつうの家庭の主婦で、夫は埴輪を愛でて集めたりしていて、でもその落ち着き(ふり)がセンとの再会で揺らいで、終戦後にセンたち仲間と体を売りながら穴のようなとこで暮らしていた頃のことを思い起こさせる。そこに突然現れた荒っぽい元軍人の新太郎 (南原宏治)が共同生活をしていた彼女たちの間に波風と生気をもたらし、彼が盗んできた牛一頭をみんなで殺して食べて、その後に新太郎と交わったマヤは仲間からリンチされるのだがそこで初めて彼女はリアルな生を実感して、その頃からすれば今の自分は夫も含めて埴輪のように乾いて固化してしまっていると思う。

そしてそんなふたりの前にやくざとなってドラッグの密売をしているらしい新太郎が、まずはセンのところに現れて、そこからマヤにも声をかけてきて、いまの落ち着いたマヤには会う理由なんてないはずなのに彼の待つ旅館に赴くと、彼は死ぬつもりで薬を飲んで…

戦後の混沌から立ちあがった我々が安定と引き換えに失ったものがあったとしたら、それはおそらく - という問いかけに対して、過去の混沌そのもののような雨と闇と肉体(女体)を並べてみる。「女体」は69年の映画でもサバイバルの道具として機能していたが、両者でその意味は結構異なって、こちらははっきりと門 = ゲートとなって彼女を突いて、痙攣するような生を呼びよせて掴もうとする。そして背広を着てビジネスをしているような男たちは(どちらの映画でも)ろくでもない。

その反対側で照射される戦争の野蛮と凄惨 - なぜ牛を殺さなければいけなかったのか、は闇を貫いてはっきりと説明されて、それは新太郎の最期にも繋がっていく。生きるために - 生きるというのはこういうこと、というのを示すにはあれしかなかったのだと。


めぐりあい (1968)

脚本は山田信夫と恩地日出夫の共同。かわいいタイトルデザインは和田誠。英語題は”Two Hearts in the Rain”。 主題歌は武満徹と荒木一郎。

自動車工場の組み立て工として働く努(黒沢年雄)がいて、通勤電車から元気いっぱいに飛び出して走って職場に向かう途中でベアリング部品屋で働く典子(酒井和歌子)を突き飛ばして怪我をさせて、そうやって知り合ったふたりが近づいていくまで。

努の家には定年間近でぱっとしない父親がいて弟は大学に行きたがっているがお金がないので行けるかどうかは微妙 - それは努の時も同じだった - で、父親がいない典子の家は母の森光子と弟の3人暮らしで、母は死んだ夫の弟・有島一郎から求婚されて揺れている。

休日、努が借りたダンプでデートしよう、って海辺に行って泳いで岩場で横になっていると潮に濡れた努のボディに典子がショックを受けて、帰りの土砂降りのなか、ダンプの荷台で宙づりのキスをして、でもこの後からなんかぎくしゃくするようになって、努の家では父がクビとなって弟の大学進学は無理に、努も仕事でミスをして別の過酷なラインにとばされて、典子の家では有島一郎に会いにいった母がバスの事故で転落死してしまう。

最後には横浜ドリームランドで再会して話してめでたしになるのだが、いまの世の生き難さを貫く宙吊りの肉体の普遍 - とにかく生きよう - というテーマは『女体』から継続している気がした。 形式も語りもまるごと青春しててがたがたと蒼くて、でもそんな彼らの側に立って語らせたり聞き取ろうとしたりする注意深いやさしさ - 共感を強いてくるそれとは別の - があるような。


Coachella、日曜の昼にてきとーに流していたがあまりに知らないのばっかりすぎた。 Danny Elfmanぐらい、ってだめよね..

4.15.2022

[film] Okros dzapi (2019)

4月9日、土曜日の昼、岩波ホールで見ました。 邦題は『金の糸』、英語題は”Golden Thread”。
同ホールでの『ジョージア映画祭2022 コーカサスからの風』でも予告が流れていたので行かないと – 映画館もなくなっちゃうし – と思っていたやつ。すばらしかった。

ジョージア映画祭でも3世代に渡る女性映画監督として旧作が上映されていたラナ・ゴゴベリゼ(Lana Gogoberidze)が91歳で書いて(当初は共同で書き始めたその相方は亡くなられたそう)監督したジョージアの映画。

トビリシの旧市街の古い建物に暮らして79歳の誕生日を迎えた作家のエレネ(Nana Dzhordzhadze)は同居している娘夫婦からもなにも祝ってもらえず、こんなもんか、と思っていると、ふたつの出来事がある。
ひとつは娘の姑のミランダ(Guranda Gabunia)がアルツハイマーでボヤを起こしたり危なくなってきたので今の住居を引き払ってここに住ませよう、って娘たちが勝手に決めたこと。

もうひとつは、60年くらい昔の元恋人で建築家だったアルチル(Zura Kipshidze)が誕生日なのに誰も相手にしてくれないだろう? って電話をかけてきたこと。

前者の件について、ソ連の時代に政府の高官だったミランダは自分の作家としてのデビュー作を発禁にしてキャリアに傷をつけたやつだ、なんでそんなのと一緒に暮らさなきゃいけないのか? それなら自分がここを出て彼女のとこに引っ越すから、というのだが家はもう売ってしまうのだと → 地団太。

後者の件、アルチルはずっと車椅子で家から出ることができなくて – エレネはなんとか歩けるけど家の外には出ようとしない - 友達はみんな死んでしまったので話ができるのは君くらいだ、って通りで夜明けまでずっとタンゴを踊っていたときの話なんかをしてきたりする。最初はなんか面倒だと思っていた彼からの電話が楽しみになってきた頃に、TVでインタビューを受けているアルチルの姿を見たミランダが、あら彼、昔言い寄ってきた人だわ、とか言うのでエレネはあったまにきて。

他人や肉親にケアされないと生きていけないことに絶望や苛立ちや諦めを感じ始めた頃、そうやって生きている/生かされている老人たちが余り向き合いたくなかった過去 or とても甘い過去を掘り起こしたり向かいあわされて、更に戸惑って窓の外を眺める。誰もが嫌な思い出に埋もれて死にたくなんかないし。

だからここに金の糸が必要となって、破れたり壊れたりしてしまった記憶でも金の糸で繋ぎ合わせてくっつければ和解できる - 宝物になる、と。でも金の糸はどこにあるのか? 砕け散った破片はどうやって寄せ集めるのか? エレネは冒頭「失われた時を求めて」について呟いて、作家だから言葉が金の糸になりうるのだろうけど、そうでない人は? それに、ほんとうは掘り起こさないで地中深くに埋めてしまった方がよいもの、焼き尽くしてしまった方がよいものもあるのではないか? とか。 こういうのはもう少し歳を取らないとわからないものだったりするものだろうか?

この金の糸が出てくるシーンは、エレネが同じ名前のひ孫に独り言のように言って聞かせるところ、というのもある。小さいエレネにとってはおそらくなんのことだかわからないけど、それを若い頃の自分が知っていたら、とか。

そして、アルツハイマーで記憶が揺らいでふらふらと外に出ていったミランダにとっての「記憶」もまた、そういうものなのだろうか? 他者から見れば憎しみの対象でしかないものであっても? - ここの答えは出していないように思う。そしてミランダとエレネが抱擁して互いが和解するようなシーンはない。ミランダは記憶の涯てのどこかに旅立ってしまったまま..

記憶は人を縛って孤立させ、でも場合によってはアルチルのように(外に出られなくても)旅とダンスに誘う。エレナも同様にアパートの部屋とベランダを行き来しながら、そこに住む人たちの暮らしを眺めている。そんなエレナにとって世界の中心であり果てでもあるアパート〜ベランダの佇まいのすばらしいこと。

エレナの燃えるような赤毛も、ミランダ - Guranda Gabunia(これが遺作となったそう)の強さも素敵で、家のなかの演奏会で登場するふたりのおばあさん - どちらもとんでもないキャリア - のすさまじい演奏、やはりこれが遺作となった音楽のギヤ・カンチェリ (Gyia Kancheli)のずっと頭のなかで回り続けるメロの強さ、どれもが控えめそうだけど、残る。

最近いろいろぼろかすなので、最後にはどこでどんなふうに、とかなにを見る思い浮かべるとか、ぽつぽつ考えるようになって、そういう時に見れたのはよかったかも。

4.14.2022

[film] あこがれ (1966)

4月5日、火曜日の夕方、シネマヴェーラの特集『日本の映画音楽家Ⅰ 武満徹』で見ました。
監督は恩地日出夫、原作は木下惠介、脚本は山田太一。

大雨の日、父親の小沢昭一に手をひかれて親のない子達の施設に入れられる少女信子(林寛子)がいて、信子は父親から離れたくないって泣いて叫んで暴れて、でもやくざな酒飲みの父親は手放したがって捨てるように置いて帰っていって、それを施設の先生の園子(新珠三千代)が面倒みて、しばらくの間ずっとひとりで暴れたり唾はいたりしている猛獣の信子を遠くから一郎が見て気にしている。

やがて一郎は施設から加東大介と賀原夏子の営む平塚の陶器店に養子として貰われていって(出ていく一郎を信子がじっと睨んでいる)、よい養父母に大切に育てられてよい青年に成長して、そこのおばの沢村貞子からは縁談が頻繁に持ちこまれるようになるのだが、一郎(田村亮)はあまり乗り気ではないらしい。

そんな時、近所の中華料理屋で大きくなった信子(内藤洋子)が働いているのを見て声をかけるのだが、彼女は土方の仕事で転々としている小沢昭一にくっついてお金や生活の面倒を見ていて、自由な時間を取れる余裕もなさそう。でも、施設での互いのことも忘れられないので少しづつ会うようになって、一郎が小沢昭一に彼女を縛らないで、って直接言いに行ったりするのだが、信子がそうしたくてやっているようなのでどうすることもできなくて、園子先生に相談してみても駆け落ちして失敗した自分の過去からあまり賛同してもらえなくて、そのうち信子はまたどこかに消えてしまう。

やがてもう逃げられないような縁談が一郎に来て、でもやっぱり信子がいいんだ.. ってなっている時に再婚の時に一郎を捨てた母すえ(乙羽信子)が施設の園子のところに現れて、一家でブラジルに移住する - もう戻ってくることはないだろう、と…

ここから先は一郎と信子のお好み食堂(なんかなつかし)での運命の再会と、一郎の見合い話(で養父母は相手方のいる修善寺のほうに)の行方と、旅立ってしまうすえは最後に一郎と会うことができるのか、ってはらはらして、横浜の埠頭の船出の紙テープのお別れのところではみんなぼうぼう泣いてしまうの。乙羽信子、涙を浮かべて手を振っているだけなのにすごい。

なにが「あこがれ」なのかよくわかんないけど、とてもよくできた青春&家族ドラマで、悪者 - 小沢昭一ですら - はひとりもいなくて、大事件が起こるわけでもなくて、みんなが不器用ながらも精一杯に生きたり話したり走ったりしていく様を昭和の雑踏からのクローズアップや遠近をうまく使ってその表情とか背中を中心に焼き付けていく、その丁寧なやさしさ(としか言いようがない - これって木下惠介なのか山田太一なのか恩地日出夫なのか、おそらくぜんぶ)がすばらしいと思った。最後にふたりが浜辺を走っていくところとか、それだけなのに、ぜんぶわかってしまうスケール感。

武満徹の音楽はギター中心の前衛なんてかけらもない、エモにきっちり伴奏/変装していく王道メロのやつで、よかった。  あと、ドーナツと紅茶が。母さん、ブラジルに行くのに紅茶のカップを..


この特集、最初に見た『土砂降り』(1957)は、あ、見たことあるやつだった、で、あとは短編を4つと恩地日出夫作品をふたつ、だけになってしまう模様。残念。  短編4つは、ドナルド・リチー、勅使河原宏、市川崑、松本俊夫の監督作品で、それぞれにおもしろかったのだが、ドナルド・リチーの『熱海ブルース』(1962) がすごくよかった。熱海の旅館ですれ違うように出会った男女ふたりの数日間の恋(のような)を遠めからサイレントのように追って、まるで洋画のようで。 勅使河原宏の『白い朝』(1965)も同じような休日ひと晩限りの、朝までの若者たちを追っていて、これもざらざらひりひりと切ない。
 

4.13.2022

[film] The Bubble (2022)

4月7日、木曜日の晩、Netflixで見ました。126分。
日本語字幕があまりにしょぼいので途中で英語字幕に切り替える。あんなんでいいの?

Judd Apatowの”The King of Staten Island” (2020)に続く新作で、目の前にいるおもしろ哀しい変な人物にフォーカスして、そのじたばたした愛(?)だの成長(?)だのを描く人情噺ではなく、大昔にドリフがやっていたようなぐじゃぐじゃどたばたアンサンブルコメディになっている。笑えるかどうかは微妙、というか、今求められているお笑いなんてこんなもんじゃろ、ほれ、みたいな目線がある気がした。 ノリとしては”Tropic Thunder” (2009)あたりのに近いかも。

フランチャイズのアクションホラー大作 – “Cliff Beasts”シリーズの最新作 “Cliff Beasts 6” – 製作費1億ドル - がキックオフされてパンデミックの下、隔絶された英国の古城ホテルにスターたちが集まってくる。迎えるのは英国人プロデューサーGavin (Peter Serafinowicz)に、監督はiPhone6で撮った作品でサンダンスで賞を獲った(のが自慢の)Darren Eigen (Fred Armisen)。その他のキャスト - 登場人物は、落ち目であることを自覚してやや焦っているCarol (Karen Gillan)、元夫婦で自意識過剰のLauren (Leslie Mann)とその反対ですべてがどうでもよくなっているDustin (David Duchovny)、スピリチュアル系宗教にはまっているSean (Keegan-Michael Key)、セックス狂のDieter (Pedro Pascal)と彼がつきまとうホテルの受付のAnika (Maria Bakalova)、演技経験はゼロだがTikTokで1億2千万のフォロワーがいる18歳のインフルエンサー Krystal (Iris Apatow)、Krystalと友達になる(あとで取っ組み合いの大げんかをする)アシスタントのCarla (Galen Hopper)、彼方のスタジオでぶいぶい言ってるエグゼクティブのPaula (Kate McKinnon)、などなど。 彼らにカメラを向けているだけで十分に変てこなものが自動でできてしまうであろうことはわかる。

これらの面々が、撮影となればグリーンスクリーンをバックに逃げたり走ったり叫んだりぶちかましたり – Beastをやる側は緑の着ぐるみを着てずっと宙吊りで、誰かがひとりでも羅患すれば全員2週間ホテル隔離になって、ドラッグ漬けになってみんなで踊って、そんなのの繰り返しでもともとおかしいのが更に病的におかしくなって伝搬していく。Covid-19の隔離政策で用いられた”Bubble”という言葉が映画撮影の隔離された現場下で、肥大化した自意識とか過剰な被害者意識とかただの変人とかが防衛したり攻撃したりする蓑のように用いられて、だれもなにもコントロールしない/できない事態になだれこんでいくのだが、それがどんなに酷くなっても、それ自体がバブルのなかなのだしー。

もともと映画製作の現場なんて古今東西、変人の巣窟魔窟で碌なことが起こらないし変なことが起こって当たり前よ - って映画のネタにされてきたものだから、そんなもんと思ってしまえばよいのか。あるいは、そのありようがなんでもCGとか過剰なコンプラ縛りとかCovid-19とかで特異に変容してきているということなのか、でもそれってSNSでコミュニティや人間関係のありようが変わってひともおかしくなった、っていう(ほんとか?)言いっぷりと同じようなもんなのだからそんなに面白い話でもないよね。

というようなことをいろんなスケッチを重ねて好きなように撮っていったら126分になってしまっただけ、のような。個々のエピソードや俳優はそれぞれにおかしい - Pedro Pascalなんて最高 – のだが終わってみると後になんも残っていなくて、それってたぶん“Cliff Beasts”を見た後とおなじだよね。見たことないけど。

なんでこいつはここでこんな行動に走ったのか、というのを固定で追っかけていくなかで見えてくるバカでしょうもなくて、でもなんか愛おしい人間(模様)への距離感覚がディスタンシングとバブルで狂って捩れて、その結果映りこんでしまったあんなものこんなもの。 こんなふうになったとしても、撮る撮らないでいうと、やはり撮るのだ、ってJudd Apatowはいう。そして、こんなのでも - こういうのこそ見たいかんじではあったの。

James McAvoyとかDaisy RidleyとかBeckとか、カメオも中途半端に豪華だったり。
あと、Galen Hopperって、Dennis Hopperの娘さんなのかー、とか。

音楽は “Donnie Darko” (2001)のMichael AndrewsとAndrew Bird (!) 。

Kate McKinnonは”Yesterday” (2019) でも同じような役柄だったよね。

とにかくはやく“This Is 40” (2012)の次のを見たい。

4.12.2022

[film] Fantastic Beasts: The Secrets of Dumbledore (2022)

4月8日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。 ※ ふつうにネタバレしているかも。

“Fantastic Beasts: The Crimes of Grindelwald” (2018)に続く、シリーズでは3つめのお話し。もともとこれってHarry Potterのよりはもう少し軽い、ファンタスティックな妖怪やもののけがいっぱい出てきて大騒ぎする、そういう楽しいものになると思っていた。のだが前作はものすごくダークで政治的な方に振れてその結果はとても苦くて、『帝国の逆襲』を見たあとのような戸惑い(『帝国..』がよくないというのではなくて単に勝ち負けのとこ)が残った。そういうやつの後のなので、今度のはきっとだいじょうぶかも、って思ったらやはり悪くなかったかも。

原作と(共同)脚本はJK Rowling、監督はずっとおなじみDavid Yatesで、前作までいたJohnny Deppは降板している。これだけじゃなくてJK Rowlingはしょうもない差別発言を続けているし、公開直前にEzra Millerは暴行で逮捕されているし、コンプラ的には問題だらけのぼろぼろで、それでもわたしは「キャンセル・カルチャー」なんてものを持ち出して公開〜見ることの是非を語ったり迫ったりするのはすごく愚かなことだと思う。

こんなにも魑魅魍魎とか変態にまみれた物語を編んできたJK Rowlingが、なんであんな差別発言ばかり繰り返すのか、配役でもダークサイドにいるJohnny DeppやEzra Millerはどうして実際にもあんなことをしてしまったのか、きちんと見て考えてみる必要がある。もちろん、加害の規模や程度によっては見る価値のこれぽっちもないゴミ作品があることも確かだけど、「キャンセル・カルチャー」の「カルチャー」の括り方ってほんと雑でばっかみたい(一時期の「買ってはいけない」とおなじかんじ)だし、こうした「カルチャー」の扱われ方にはずっと文句を言ってきたし、言っていきたいし。

1930年代、中国の桂林の山奥でNewt Scamander (Eddie Redmayne)が探検の果てに動物を探し当てる – そいつが麒麟 – Qilinで、彼の到着を待っていたかのように子供を産んで、そしたらGellert Grindelwald (Mads Mikkelsen)が差し向けたCredence (Ezra Miller)たちに襲われて母親は亡くなり子供は連れ去られる。(連れ去られた後に麒麟は双子だったことがわかる)

牢屋に入っているGrindelwaldの今後を巡ってAlbus Dumbledore (Jude Law)が語るところによると、彼とは若い頃に強い愛 - 血の絆で結ばれてしまったので、どうしても憎んだりできなくて、その絆を断とうとすると大変なことになるのだ、とか言われてそいつはやばいぞ、って。

そんなことを言っているうちにGrindelwaldはベルリンの牢獄からなぜか出されて、魔法使い連盟のトップを選ぶ選挙に出るとか言っているので、それを阻止すべくNewtと兄Theseus (Callum Turner)とLally Hicks (Jessica Williams) – かっこいい – とまだQueenie (Alison Sudol)に未練たらたらのJacob Kowalski (Dan Fogler)とかが集まって、ふつうに計画を練っても察知されるから奇襲作戦で行こうぜ、っていう捕物劇みたいなやつ。

で、後半は選挙をめぐるごたごたで逮捕されてしまったTheseusの救出から選挙が行われるブータンの山奥に向かって、選挙キャンペーンと陰謀論の作られかた、がGrindelwald組の内部に潜入したYusuf Kama (William Nadylam)の目で明らかにされ、さらわれて亡霊にされた麒麟の子 - ちゃんとした人の前に跪く - がうまい具合に利用されてGrindelwaldが選ばれようとしたその時に..   

というメインの流れに、一作目からずっとかわいそうな子だったCredenceの出自が明らかになって、でもその時に彼はもう弱りきっていて、とか、マグルなのになぜかこの戦に呼ばれて巻き込まれたJacobのQueenieへの片思いはどうなるのか、とか。

ファシズムの勃興と大戦に向けた人間界のうねりは魔法使いの世界でもこんなふうにどす黒く覆っていた(あるいは逆に.. )、ということなのだが、今はウクライナの件があるのでMads Mikkelsenのつるっとした面の皮がプーチンのそれのようにしか見えなかったり(前作はトランプだったし)。

まだ続いていくらしいこのお話が大戦を経てどうやってLord Voldemortをめぐる血の物語に繋がっていくのか、暗いものになることはわかりきっているので映画だけをじっとり追っていくことにしよう。

Jacobが暮らすブルックリンの通りのとこ、いいなー。雪の上に足跡が残っていったらもっとよかったのに。
“Big Heart”をもつJacob - Dan Fogler - はあとちょっと枯れてきたら志村喬みたいになると思う。

コスチュームはみんな素敵なのだが、特にDumbledore - Jude Lawの着る緑色、いいなー。ぜったい無理だけど。

今回も動物たちはみんなかわいかった。あれらを図鑑構成にした偽ドキュメンタリーを見たい。ぜったい当たるから。

4.11.2022

[film] Shadow in the Cloud (2020)

4月3日、日曜日の夕方、シネクイントで見ました。
監督はRoseanne Liang、脚本は彼女とMax Landisの共同- 書き上げたところでLandisがセクハラ告発されて監督が仕上げた - のニュージーランド/米国映画で、83分。

2020年のトロント国際映画祭で”People's Choice Award for Midnight Madness”というのを受賞している。清々しいくらいにジャンクで、でも言いたいことがきりっと詰まったB級もので、この辺、映画が投資ビジネスに近くなった昨今の、フランチャイズでもなくNetflixでもAmazonでもない、こういうのにがんばってほしいな、っていうのもある。

冒頭、戦時中の公共広告(PSA)様式のカートゥーンが流れて、空にはグレムリンっていう悪いことをする化け物がでるので要注意ですよ! とかいわれる。

1943年、ニュージーランドのオークランドに駐留する米軍基地で、サモアに飛ぼうとしていた軍用機 - “The Fool’s Errand”- 「バカのお使い」に四角い箱型のカバンを抱え左腕に三角巾してやややつれたMaude Garrett (Chloë Grace Moretz)が極秘任務の書類を携えて現れる。同機の荒っぽくてやる気なしのクルーはそんなの聞いてないしあんたに命令される覚えも権限もない、ってあしらうのだが、書類やサインは本物のようなので、仕方なく乗せることにするが、座る場所はないから銃座に座っていな、って狭いとこに彼女を押し込み、大事な荷物だけは、唯一まともそうだったQuaid (Taylor John Smith)が預かる、というので手渡す。

飛び立ってから、両手両足の自由が利かない銃座に閉じこめられた状態で上の機内にいるクルーたちの会話を聞いてみれば、ものすごいセクハラ、ミソジニーまみれの中学生レベルの戯言くそ話にまきこまれて、いい加減にしろよ、ってブチ切れたところで足の下にゼロ戦が現れてどうする? になるのと更には翼の下のところで配線を齧ったりなんかやっている図体は大猿 - 顔はネズミかコウモリで羽があってなんも考えてないふう - こいつがグレムリン? - が目に入り、手元の拳銃で撃ってみたり、とにかく放っておけない/なんもしなければ墜落、みたいな事態が想像されてー。

で、それを機内の連中に報告しても当然のように信じて貰えず、そもそもお前だれだ? 本当のミッションはなんだ? って問い詰められて、大切に持っていたカバンの中身を見られてしまう。で、この荷物はやばいだろう… ってなったところでそれ以上にやばいグレムリンとゼロ戦が示し合わせたように襲いかかってきて、混乱のなか銃座はずたずたになって足場はぶっ飛んで、クルーもひとりまたひとりとやられていって.. (そらみろ)。

という、足元すら覚束ない空中で ①戦争の敵方と、②味方のはずなのに執拗にいじめてくる奴と、③その向こうで知らないけどちょっかい出してくる獰猛な奴、の三者と繰り広げられる”Die Hard” & “Alien”なサバイバルゲームで、その中でぜったいにやられるわけにはいかないMaudeはどんなことがあってもぜったいにやられなくて、そのあまりの滅茶苦茶な曲芸や玉突き展開においおい、って笑ってしまったりもするのだが、それくらい真剣なんだから黙れ、って彼女はいうにちがいない。

正義は勝つ、っていうのと同じ正しさと強さでもってフェミニズムは勝つのだ - 正義だから、ということについて、彼女があの荷物とああいう旅をしなければならなかった過去の経緯も含めて、違和感はない。 というか説得力は十分にあって、それはエンディングでこの映画を捧げられた女性兵士たちの映像を見てもうんうん、てなる。

そしてそこまで行ってから改めて、あの野獣みたいにやらしく執拗に絡んできた下等なグレムリンとは何だったのか、の正体 - そのグロさがわかって、最後のMaudeの行動も台詞もぜんぶ腑に落ちて、かっこいいな、って。 結局どこまでも追っかけてくるさいてーなやつだったぜ。って今の我々に向かって語る。

続編は”Shadows in the Cloud”で、Maudeが新たな任務を担って飛ぶことになるのだが、積荷のなかにはギズモが紛れていて、グレムリンがグレムリンズ、になって襲いかかってくるの。

4.10.2022

[film] Haute couture (2021)

4月2日、土曜日の昼、ル・シネマで見ました。
前日に見た”Morbius”があまりに男一色だったのに対して、これはとても女一色なかんじ(それがどうした)。原作・脚本・監督は小説家でもあるSylvie Ohayon。

パリのDiorのアトリエのお針子のトップで現場の責任者をしているEsther (Nathalie Baye)がいて、一人暮らして朝起きると転がったままがさごそチョコをつまんで食べて、食事は外食ばかりでみるからに糖尿病っぽい。

Jade (Lyna Khoudri)が団地仲間のSouad (Soumaye Bocoum)と朝の地下鉄の駅でEstherのバッグをひったくって、中にユダヤのシンボルとかがあったので祟られるぞとか言われて怖くなって返しにいくと、一通りの文句を言われた後に、あなたは器用そうな指先をしているのでこの仕事に向いている - 明朝アトリエに来れるなら来なさい - それなら警察には言わない - どうせ仕事してないでしょ、などと指示されて、むかついたけど少し興味もあったので行ってみる。

こうしてアトリエに入って針仕事を始めて、Estherの他に親切に教えてくれるCatherine (Pascale Arbillot)、意地悪に針を刺してきたりするAndrée (Claude Perron)、やさしいモデルのGloriaなど、いろんな職人さんの間で揉まれながら少しずつオートクチュール制作の仕事と現場に馴染んでいく。

職場で意地悪されて嫌になって飛びだして行かなくなったり説得されて戻ったりの繰り返しと、結果ずっと友達だったSouadとの間にできてしまう溝とか、いつもいてくれるトランスのSéphora (Romain Brau)とか、ずっと家に籠ってTVを見ている鬱のママとか、身内・身近でのごたごたがあって、ショーを目前にEstherが倒れて手首を怪我して使えなくなって、などいろんな出来事や変化があるのだが、だんだん縫製とか制作の現場がおもしろくなっていって…

それぞれの境遇や立場の人たち全員がばりばりに我を張ってどつきあって収拾がつきそうにないのになんとなくケ・セラ・セラに転がっていって、結局みんなよい人に見えて幸せになってしまうフランス人情噺の典型みたいなやつで、この枠のなかでは移民のことも差別や格差のことも提起はされてもどこまでも解決はされない。最後の団地での喝采シーンのように寧ろこれでいいのだ、って地固めされてしまうかんじ。「適応」の物語としてこれを少しエクストリームにぶちかましたったのが今やっている”TITANE”ではないか、とか。

こういうのの反対側に、例えば”La Haine” (1995)とか”Les Misérables” (2019) - *V・ユーゴー原作のじゃないやつ - などがあって、こういうバランスのありようとか、おもしろいなー、って。(でもなんでもかんでも「生きろ! 」とか「信じろ! 」ばっかりやってる日本映画{←偏見}よりは遥かにまともで健全だと思う)

そうは言っても、この映画に関してはNathalie Bayeの、ちょっと疲れて表情もうまく作れなくて、でもきっとだいじょうぶだからね、っていう柔らかな笑顔を見ることができるだけで十分な気がする。底なしにすばらしい人。
そして、主演のLyna Khoudriさんは”Papicha” (2019) - でも服を作っていたよね - の人で、あの後パリまで行くことができたのだねえよかったなあ、って。

あと、レストランのキッチンものもおもしろいけど、こっちの舞台裏のも改めてすごいなーって。ミリの狂いやほつれや失敗が全体に遡ったり波及したりしてぶち壊してしまう可能性とか恐怖があって、それって日々のいくらでもやり直しのきく人同士のすったもんだと正反対の緊張感に溢れていて、だからドラマにも形成しやすいのだろうけど改めて。 でも、昔ほどこういうのに乗れなくなったのは、これらを供される「貴族」の側にちっとも思い入れできなくなってしまった世界のいろんな事情がある。

ほんとうはメゾンを仕切る変人でパワハラ気味のデザイナーを登場させて”Phantom Thread” (2017)よろしく、全員で力を合わせて毒キノコを盛ってあげる、っていうのがあっても面白くなったかも。そしたらまあDiorの全面協力はないか..

4.07.2022

[film] Morbius (2022)

4月1日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。

MCUと言うべきなのかSSUのみっつめ、と言うべきなのか、TVで始まった”Moon Knight”とか、もう毎月のようにいろいろ出てくるのでわけがわからなくなっている。子供の頃、毎週いろんな怪獣とか怪人がTVに現れて世界を征服しようとするのでこんなんじゃそのうちみんな死んじゃう、とか絶望的になったあのかんじが蘇る。そうしてみるとマルチバースっていうのはうまい逃げ口だよね。(そもそも見なきゃいいのに..)

コスタリカの山奥にへりで調査隊が乗りこんでいって、渋るガイドを横に、Jared Letoが洞窟の前に仁王立ちになり、掌を切って流した血にコウモリの大群が襲いかかってくるのが冒頭。(威勢いいけどどうやって終えて帰ったんだろ?)
続いて、病院で血液の病で杖をついて弱弱しいMiloとずっとそこに同じ病で入院しているMichaelがいて、ふたりはこれからもずっと兄弟のように一緒にいような、って誓う。

時が過ぎて、MichaelはDr Michael Morbius (Jared Leto)になって、ノーベル医学賞を貰えるところまで実績をあげているのだが、受賞を辞退して、同僚のDr Martine Bancroft (Adria Arjona)と同じ血液の病気の治療に向けて邁進していて、冒頭のコウモリ採取もその一環で、あのコウモリの血液に治療のカギがあることを掴んだ - ネズミ実験では - ので、次の人体実験で自分にコウモリの血清を順番に注射していく。

注射実験がやばいことになるとやばいので、傭兵がいる密輸船のなかで、Martineと一緒に実験をしたらMichaelの体に変化が起こって瞬間移動とか瞬間弾除けとか牙とか爪とかがすごくなって、傭兵たちをばりばりに引っ掻いたり嚙みついたりしてどこかに消えてしまう。

この事件に警察も動きだして、被害者の血がぜんぶ抜かれていたりするので、ホシはどう見てもあいつだろう、って追い詰めていくのと、Michael = Morbiusは自分の身体に起こった吸血鬼としか思えない変容 - 超音波ですぐに居場所がわかるとか - に驚いたりしつつ、一番困るのは時間が経つと血液(ナチュラルでも人工でも)が必要になってへなへなになってしまうことだった。

他方で、突然元気になってしまった兄貴を見たMilo (Matt Smith)は自分にもそれをやってよ、ってねだるのだが、Morbiusはダメだって拒否して、でもMiloは勝手にこっそり自分に打ってばりばりに強くなって、そこらの人を襲うようになって、ひとりで悩んだりしているMorbiusと対立していくようになる。

後半は血抜き死体事件をめぐる警察とMorbiusとMiloの三つ巴の噛みあいになっていくのだが、MorbiusとMiloがなんであんなにがうがういがみ合うのかがあまりよくわからないの。X-Menのように人間に対する恨みとか拘りの濃淡があるわけでもTwilightの良いヴァンパイア - 悪いヴァンパイアのように人間への愛が絡んでいるわけでもない。どっちもおなじような境遇と病に冒されていたふたりがコウモリ人間 - 吸血鬼になって、その時点では善悪がどうの、とか判定できる状態ではないし、ただ血が欲しくなると容姿が変わってがうううとかなるのは同じで、Morbiusも最初に数人殺してて、Miloも殺してて、でもなんかMiloの方が悪っぽいかんじなのでふたりでいがみ合って取っ組みあって、不毛な兄弟げんかみたいで、流れとしては、治療法みつけた → 元気になりすぎた → こらしめた、それだけ? それだけであんな大騒ぎ? って。

たぶんその戦いを経ることで吸血鬼として生きることも含めた罪と業を背負う、っていうことにしたいのだろうけど、その先にあるであろう(たぶん蜘蛛男との)戦いもまだ見えない状態なので、スリムででっかい大人が犬みたいに吠えて絡みあっているだけみたいな。それだけでよいのだ、っていう見方があるのもわかるけど…   Martineをのぞくと女性の影がぜんぜん薄いメンズのお話でー。

長髪で痩せた吸血鬼、というと好みだろうけど、”Only Lovers Left Alive” (2013) のTom Hiddlestonの方だよねえ。それにしても、デブでいがぐり頭の吸血鬼ってあんま見ないねえ。噛みにいったときに絵にならないからかなあ(どうでもいい)。

あと、こないだの”Venom”にしてもこれにしても、最後にでてくるMichael Keatonにしても、なんであんなにPeter Parkerを憎んでいるのかが謎すぎて.. (ネットで絡みにいく中年男みたいなかんじ?)
 

4.06.2022

[film] Ambulance (2022)

3月30日、水曜日の夕方、Tohoシネマズの日本橋で見ました。邦題は『アンビュランス』。「救急車」でいいじゃん..

2005年のデンマーク映画 - “Ambulancen” (未見)- のリメイクで、元のは76分の低予算映画だったのを、Michael Bayがステロイドをぱんぱんに打ち込んだメガ盛りの136分のにビルドアップしていて、驚かない。ものすごく見たいやつでもないのだが、たまにこういうの(ってどういう?)を見て頭をからっぽにしたくなる、これはこれで病気の類のあれだとおもう。

冒頭、白人の男の子と黒人の男の子が仲良く遊んでいる回想のような絵がでてくる。
それと、救急車に乗りこんだ救急隊員のCam (Eiza González)が事故にあった女の子に現場で応急処置を施して励ましながら病院まで運ぶところ – 正義感が強くて頼もしいかんじ。

現代のLAに暮らすWill (Yahya Abdul-Mateen II) はアフガンからの帰還兵で、乳飲み子を抱えた妻の手術費用をなんとかするためいろんなところに電話をしても埒があかなくて気が変になりそうだったところに義兄弟 - 冒頭のふたりの少年はWillとDannyだった - でワルのDanny (Jake Gyllenhaal)から電話を受けて、今から30分後に銀行強盗をやるけど来ないか、と誘われる。本当はやりたくなかったけど、妻と家族のことでどうしてもお金が必要だったので渋々参加することにする。

ぜんぜんスマートじゃない銀行窓口からの現金強奪が銃撃戦 – “Heat” (1995)の100倍しょぼい – になり、パトロールで居合わせた警官のZach (Jackson White)が撃たれて負傷して、Camの乗った救急車が呼ばれて、Zachを車に乗せたところで陰に潜んでいたDannyとWillが滑りこんでハイジャックして、救急車だから戒厳令状態の現場からうまく抜けて街中に飛び出す。Zachは殺してしまってもよかったのだが、人質にできそうなのと警官を殺してしまうと刑が重くなるので生かしておく。Camは最初なんとか自分だけ逃げようとするのだが、Zachの危険な状態を見て車内に留まることにする。

ここから先は”Speed”よろしくノンストップでひたすら爆走しようとする救急車 – LAを知り尽くしているWillの運転の腕 - とそこに乗せた重傷患者 - 一刻も早くERに運ばないとやばい - の一進一退と、捕まえるのはちょろいだろとなめてかかっている警察のトライアングルの駆け引きで、すぐ決着もつきそうな気がしたのだが、逃亡工作でDannyが父の代から世話になっている地元のラティーノギャング団に分け前をちらつかせて助っ人を頼んだり、Dannyの大学の同窓で彼の行動パターンを知るFBIが横から入ってきたあたりからぐじゃぐじゃに転がっていくの。

そこらにたくさんある段差とか小競り合いでいちいちぎくしゃくするので、ジェットコースターで転がっていくスピード感とカタルシスには欠ける(小爆発 → 大爆発にはあんましならず)ものの、CamがやばくなったZachへの応急処置で、Willからダイレクトに輸血するとか、ゴルフ場で遊んでいる専門医をリモートで繋いで脾臓を引っ張りだすとか、ギャング団とのやりとりがタランティーノふうの内輪もめに捩れていくところとかは少しおもしろい。

Michael Bayにしてはキャラがきちんと描き分けられている気もして、医師を志していたのに挫折したCamの熱さとか、忠義に篤いWillとか、でもやっぱしDannyだけは、ものすごく周囲から怖れられているわりにはなんも考えていないしょぼさがあって、なんでこんなぼんくらのためにこんな大騒ぎにー にはなってしまうかも。

CGとか一切使わずにどこまでも即物的に - 故にガキのまぬけさがあって、なので実際に起こってもおかしくなさそうな隙 - リアリティ? - に満ち満ちている、というあたりは賛否かも。で、これが90分で纏まってくれたらなー、とか思う反面、それだとMichael Bayにならないよね、とか。

最後の最後に救急車が、おまえらいいかげんにしろや、ってオートボットにトランスフォームしてくれるのを期待したのだが、やっぱしそれはなかった..

音楽はふたりがぶっちぎっていくところで流れて一緒に歌うChristopher Chrisの”Sailing”のあたりが浮きあがっててよかった。

あのわんわんがどうなったのか、ちょっと気になる。

4.05.2022

[film] Freakscene: The Story of Dinosaur Jr (2021)

3月29日、火曜日の晩、シネマート新宿で見ました。Dinosaur Jrのドキュメンタリー。
来年あたりで結成40年(ひぃ)になってしまうらしい、ほぼ恐竜になりつつあるバンドの「公認」ドキュメンタリー、であると。

冒頭に主題歌(?)の"Freak Scene" (1988)がフルでがーんと流れる。1秒もカットしてほしくなかったのでうれしい。そこから先はお手本のようなRockumentaryで、J Mascisを中心としたバンドの苦難と変遷について、それぞれの局面での関係者やミュージシャンのコメントを散りばめて、ああこのバンドのファンでいてよかったわ、と思える内容になっている。

わたしが聴きだしたのはごくふつうに”Bug” (1988)が出たころからで、そのすぐ後に出たシングルの"Just Like Heaven"でわーい、って喜んで、次の”The Wagon” (1990)で「ん?」になって、”Green Mind” (1991)でだいじょうぶかな?ってなって、初来日のクラブチッタでSGを延々振り回して酩酊するJを見て少しひいて、そのあとはなんとなくずるずる聴いていくかんじになって、オリジナルメンバーで戻ってきた2006年くらいのライブでやっぱりすごいや、ってなった。現役のトリオとしてはいまも最強だと思う。

音楽的に特にとんがったことをやってきたわけでもなく(してきたのかもだけど)ファンベースを大事にしてきたわけでもなく(してきたのかもだけど)、Jのかき鳴らすギターを浴びてそんなに強くない歌を聴いてなんとなくだらだら付きあってきた(そういう聴き方がふさわしい気がしていた)であろう大多数のファンには納得できるものだったかも。

Jがそんなに饒舌なひとではないのをうまくカバーして(語らせて)いるようで、でもやっぱり、もうちょっとLou Barlowにいろんなことを語らせてあげてもよかったのではないか、とか。

米国音楽の流れでいうと、映画のなかでも少し言及があったCMJでぼちぼち広がっていったガレージ~メタルも含めた轟音ギターの流れがメジャーなところでもアンダーなところでも交錯して、ギターの荒んでささくれた音とやや甘めにふやけるメロをかき混ぜるの(Don Fleming周辺)が出てきて、そういう流れのなかで彼らの音は現れて、この少し先にグランジが出てきた。この映画のなかでも “1991: The Year Punk Broke” (1992) などが少しだけ貼られていたけど、ほんとうは、個々のバンドというよりは、CMJ~グランジ~オルタナティブの流れをプロデューサー、エンジニアも含めて包括的に追ったドキュメンタリーが見たいなあ、とか。もう30年前の話で資料も枯れてきているし関係者も死んでいくし、なー。

こういうかんじでMeat Puppetsのドキュメンタリーを作ってほしい。
音楽ドキュメンタリーだと”Meet Me in the Bathroom”を早くみたい。あと、まだ作っている最中のようだけど”Rip It Up and Start Again”も。


Other, Like Me: The Oral History of COUM Transmissions and Throbbing Gristle (2020)

見たのは少し前だけど、これも音楽ドキュメンタリー。2月26日、MoMAのドキュメンタリー映画祭で見ました。BBC Fourでも放映されていたらしい。

タイトル通り、60年代末に立ちあがった英国のアート集団 - COUM Transmissionsの全容とそこから出てきたThrobbing Gristle (TG)の成り立ちから消滅まで。

TGについては70年代末から聴いてきたのでわかっているつもりだったが、前身のCOUMが学生運動(の挫折)やダダやシュールレアリズムやビートを起点としたアートとして狙っていたものを踏まえてみると少し違って聴こえてくるかもしれない。 のと、どちらかというと(自分が聴いたタイミングとしてほぼ同じだった)ポストパンクの流れのなかでTG を聴いていて、その文脈で彼らの音に対してかんじた違和のようなところが割とクリアになったかも。 (実際にはTGの結成は1976年なのでパンクと同時期くらいなの)

TGの音って、いま聴いてもいつ聴いても氷枕のように触覚とか痛覚を突いてきて生々しくて気持ちよいなー、っていうのを改めて思ったのと、Genesis P-Orridge - Cosey Fanni Tutti - Peter "Sleazy" Christopherson - Chris Carter の4人て、すごい4人だったのだなあ、っていうのがしみじみわかる。

ロンドンのICAでの展示 - “Prostitution”見たかったなー。ICAの建物の、あの空気とレイアウトにどんなふうにぶちまけられていたのか、想像しただけで震えがきそうな。

タイトルの”Other, Like Me” って素敵。

4.04.2022

[film] Belfast (2021)

3月27日、日曜日の夕方、シネクイントで見ました。
監督はKenneth Branaghで、彼の少年時代を描いたドラマで、こないだのオスカーでは脚本賞を受賞している。ベルファスト生まれのVan Morrisonが音楽を担当して旧作に加えて新曲も書いている。

冒頭、現代のベルファストの街(たぶん)をカラーで俯瞰した(どうってことない)後に、モノクロの物語が始まる。コントラストの強いヤスリで引っ掻いてくるようなモノクロではなくて、”Roma” (2018)にあったようなやや淡い、乳白色の柔らかく包んでくれるようなモノクロ。みんなで映画を見にいくところ、そこに映しだされる映画のパートはテクニカラーのそれになったり。

1969年のベルファストの北、プロテスタントの住む地域で、少しだけそこに暮らしているカトリックに対する弾圧が横行して、街角がしょっちゅう閉鎖されたり警察が出たりしていた頃、元気いっぱいの主人公Buddy (Jude Hill)はそんな長屋の一画で、厳しいけどやさしい母 - Ma (Caitríona Balfe)、兄のWill (Lewis McAskie)、どこをどう見たってやさしい祖父母 - Pop (Ciarán Hinds) とGranny (Judi Dench)と一緒に暮らしていて、父のPa (Jamie Dornan)は頻繁にロンドンに出稼ぎに出ていてたまに帰ってくる。

Buddyには土地の紛争の原因も経緯も、プロテスタントとカトリックがどう、というのも勿論わからない。家族のみんなのいうこととTVのCM - 洗剤はBio – とか映画やTVに出てきた世界は信じるけど、どれがどう正しいかとか、そういうのもわからない。みんなと一緒に見た映画の世界 - 『恐竜100万年』(1966)とか”Chitty Chitty Bang Bang” (1968) - はふつうに地続きだし、そんなBuddyが学校のCatherine (Olive Tennant)に憧れて近い席になるために勉強したり、いとこのMoira (Lara McDonnell)とつるんで駄菓子屋でチョコレートを万引きして捕まって怒られたり、懲りずにもう一回やってMaに引き摺られて店に返しに行ったところで暴れん坊のBilly Clanton (Colin Morgan)に捕まって絶体絶命になったり。

他方で家族の方は、国への借金返済を終えたと思ったMaが念の為の確認の問い合わせをしたらさらに500ポンド上積みされたり(すごくありそうでわかる)、Paのロンドンでの仕事が認められて向こうでの家も確保できるとか、いっそのことバンクーバーとかシドニーに移住するかとか、そういう話も来るのだが、Maはあたしはここで生まれて育ったんだから、って言うし、Popはここならみんながおまえの名前を知っているぞ、って言うし。

でもやっぱり地域の暴力が自分たちではどうしようもなくなってきたのと、入院していたPopが亡くなってなにがなんでもここに留まらねば、でもなくなってきたことから、渡ってみようか、になる。この場所がなくなるわけではないから、って。

こんなふうにBuddyに残っている幼年時代の出来事や家族とのことがとても甘くふんわりユーモアたっぷりに描かれていて、ベルファストの紛争の過酷さを見たり知ったりする人たちからしたらそんなはずないだろ、もあるのだろうが、だって実際そうだったんだもの、としか言いようがない強さ - それは強いっていうのかしら? - で迫ってくる。予告にあったように、その思い出を特別なものにしているのは、それがどんなふうに終わったか、ではなくて、それが始まった場所にいつまでも渦を巻いて留まっている自分のあたまのなかに広がる通りの連なりだったり人たちの顔だったりで、Kenneth Branaghはそれらを引っ張りだそうとしたのだと思う。

Terence Daviesの描くあの頃の家族の肖像 - あのほんのちょっと苦くて渋いのと、どこがどう違うのだろうか、子供の目? - それだけだろうか、とか。

そういえば、紛争によって引き裂かれてどこかに行っていた妹が突然戻ってきて騒動を起こす姉妹の話だと”Wildfire” (2020)があって、これはみんなが一緒だった「あの頃」をぐるぐるしながら引き寄せようとする切ないふたりの話だった。

どうしようもなくベタだけど、PaとMaがLove Affairの“Everlasting Love” - だいすき - でダンスするところ、そこだけはあと何十回でも何百回でも見たい。こないだの”West Side Story”のどんなダンスシーンよりも素敵で胸にくる。

あと、最後にひとりで残るGrannyの姿も。でも彼女はあの後やっぱりロンドンに向かい、MI6に入るの。そんな顔をしている。

バンクーバーとシドニーだったらどっちを選ぶだろうか..  とか。(ロンドンがいいな)

4.03.2022

[film] 太陽を抱く女 (1964)

ラピュタ阿佐ヶ谷の番匠義彰特集もここまでで、結局たったの6本しか見れなかった。やはり阿佐ヶ谷はちょっと遠くてしんどかった。またどこかで出会うことができますように。

明日の夢があふれてる (1964)

3月23日、水曜日の晩に見ました。撮影は厚田雄春。きれいなニュープリントだった。

浅草の老舗天ぷら屋の「天勝」では娘の鮎子(鰐淵晴子)と板前の明(三田明)たちががんばって店を切り盛りしている反対側で父の金助(益田喜頓)はふらふら明の母伊沙子(月丘夢路)のいる小料理屋に通いつめていたり、兄の宏(松山英太郎)は落語家になろうといつでもどこでも落語をはじめたり - そんなに上手くもない - で、割としょうもないけど、幸せに暮らしているっぽい。

鮎子はお参りにいった観音様で、背後から賽銭をぶつけられたり泥をかけられたりした青年実業家の一郎(勝呂誉)と頻繁にぶつかってなによあんた、になるのだが、彼の父 - 道平(佐野周二)も伊沙子目当てで小料理屋に通って金助と競り合っていたり、他に鮎子の恩人の玩具屋のおじいさんの必要とする特許 - オタクの大泉滉の開発したやつ - が一郎の会社にいじわるく横取り専有されてしまい倒産するところまで追い詰められているとか、明の恋人のチコ(柏木由紀子)が家庭の事情で田舎に帰って売られてしまうとかいろいろあって、でもなんといってもおそろしいのは、一郎のどこがいいんだかいちミリも見えてこない - せめてライバルくらい出してこないと - ことだとか、今日の泥まみればかりで明日の夢なんてちっともあふれてくるかんじがしないのだが、でももちろんさいごには一応なんとかなる。たぶん。

それにしても厚田雄春のカメラ(というよりもっとでっかいなにか)の普遍性というのか安定感というのか、がとてつもなくて、例えば三田明が歌うミュージカルのようなシーンでも河を背景にこちらに向かって歌いだす瞬間の広がりようとかびっくりだった。


太陽を抱く女 (1964)

3月26日、土曜日の午後に見ました。オープニングタイトルが真鍋博でいつものようにかわいくて素敵。ここにも天ぷら屋がでてくる。

代々木上原の南家にお手伝いさんとして現れた結城光子(真理明美)がいて、そこの主人は定年退職してどこかの嘱託をしている元成(佐野周二)で、同居しているのは繊維会社に勤める長男(柳沢真一)とその妻(久保菜穂子)と、長女(三ツ矢歌子)はまだ独身で、町工場の慎吾(杉浦直樹)を紹介されてよいかんじになろうとしていて、次男(小坂一也)は絵描きの修行をしていて、あとは大学生の三男(山本豊三)の大所帯で、次女(清水まゆみ)は天ぷら屋の菅原文太のところに嫁いでいる。

光子は料理からなにからなんでも給わりなんでもそつなくこなしてしまうスーパーお手伝いさんで、気だても器量もよいので長男の会社の宣伝のモデルを軽く手伝ってみればTVに映って評判になり、次男の絵のモデルをやれば絵が入選し、ひっぱりだこになった彼女をなんか家族にとってよくないかも、って次女の天ぷら屋に手伝いに行かせてみれば思わぬところから菅原文太の浮気が発覚し、彼女はなんも悪いことしていないのだが吹いてくる波風がひどすぎてもう辞めます、って静かに姿を消したところで、彼女の母たみ(沢村貞子)が北海道から出てきて..

たぶん誰もなにも期待していないお手伝いさん、という家庭に入りこんで働く職業に突然なんでもできてしまうすばらしい美貌の「女性」が現れたら、というコメディで、それがなんで「コメディ」として機能してしまうのか - 彼女が魔法使いだったり、受け入れ先の家族にきりきり舞いさせられるのならまだわかるが - というのは、日本の家族のありようなどを踏まえてきちんと考える必要があると思うが、彼女が「太陽を抱く女」なのかしら? というあたりがちょっと謎で、それはどちらかというと彼女をあんなふうに育ててかつての恋人佐野周二の家庭に(まるで復讐のように)送り込んだ沢村貞子の方なのではないか、とか。

最後に沢村貞子が割烹着で登場したところでうわーほんものの「365日の献立日記」やってくれないかしら、とときめいたのだが、あの番組、もう日曜の朝にはやってくれないのだろうか? そしてこの後の「日曜美術館」は「美の巨人たち」と同様にくそつまんない、美とはかけ離れたものになっていってしまうのだろうか(って、今朝のを横目でみて思った)。

4.02.2022

[film] Le Diable probablement (1977)

3月20日、日曜日の昼、シネマカリテで見ました。

邦題は『たぶん悪魔が』、英語題は“The Devil, Probably”。むかし日仏で見たことがあったが、こんなのは何百回見てもいいの。作・監督はRobert Bresson。音楽はPhilippe Sarde。同年のベルリンで銀熊賞を受賞している。

70年代のパリ、新聞にペール・ラシェーズ墓地で若者が銃撃を受けて死亡、自殺か? のような見出しと記事が出て、そこから数ヶ月前に遡って何が起こったのかを追っていく。

Charles (Antoine Monnier)が主人公で、環境や生態系のアクティヴィストっぽいMichel (Henri de Maublanc)の住居から恋人のAlberte (Tina Irissari)が飛び出してCharlesのところに向かって、それをEdwige (Laetitia Carcano)とCharlesが出迎えて、そんな半分同志、半分友だち、半分恋人のように一緒の時を過ごす緩い4人が、集会に出たり集会を企画したり、ただ集まってだらだらしたりしながら、明らかに少しづつ挙動がおかしくなっていくCharlesを見てなんとかしなきゃ、になるのだがなにをどうすることもできない。

学生運動の挫折の空気とその反動のようなシラケを背負っているとはいえ、世の中には公害 - 海洋汚染、大気汚染、土壌汚染があり、それを集約したような水俣があり、冷戦と核の脅威もあり、血の果てでアザラシは毛皮のために殴り殺され、なにもかも、なにをしようにもどうすることもできないくらい腐っていて、腐っているのでどうしようもない、のぐるぐるのなかを泳がされている日々。

こんなふうだから死にたい、とか自殺衝動を抱えて、とか、そんな単純なことではなくて、そういう世の中の端っこに繋がって生きている/あらされている自分もまたどうしようもなく、必然的に切って捨ててしまうべきなにかなので、見れば見るほどこれらをどうしてくれようか、って彷徨っていると夜の公園で浮浪者から銃を手に入れて..

Charlesの世に対する痛みや苦痛が彼自身の言葉や叫びとしてどろどろと表に出ることはなく、世の不条理や諸処の「問題」が悪魔のように彼を追い詰めたり孤立させたりしているようにも見えない。なにもしていなくても、壁の色とか床に散らばるなにかとか階段の手すりとかエレベーターとかバスとか、それらの端々を見ているだけで、そこには不浄で不穏な「たぶん悪魔が..」としか言いようのないなにかが映りこんできて、やっぱりな、って切って捨てるべきなにかが挟まったり溜まったりしていく。その様子をとっても冷静に、醒めた目をして眺めている(しかない)。

例えばこれをドストエフスキー的な自嘲/自爆の呟きとして捉えようがどうしようが勝手なのだが、そんなのもまたラジオから流れてくる遠くのノイズのようなものでしかない。ラジオを切るように一切を遮断、カット、ダン、してしまうことにしよう、と。Charlesからすると、そこにはっきり悪魔がいるわけではなくて、「たぶん悪魔が」って言うしかないのは、彼の友人たちとそれをフレームに収めているBressonだけで、これはCharelesの死について、「たぶん悪魔が」やったのかもしれないけどそうとも言い切れない報告、のようなものになっていて、その「たぶん神は」そこにいないかんじも含めてすべてが網羅されきれいに並べられている。若者であろうが老人であろうが、死なんてこんなふうに切り取ることしかできないのだ、っていうことを淡々と語る。

これが77年、パンクがそのとおりにパンクした瞬間(直後)の世のありようで、Charlesは長髪でぜんぜんそうは見えないしそういう挙動も見せないのだが、彼の態度と目つきは明らかにそうで、こいつはやばいと判断した当局はこの映画を上映禁止処分にする。ここから数年後、Ian Curtisがおなじようなものを見て、”Love will tear us apart again” - て歌った、”again”っていうのはこの映画の「たぶん」のところだ。

最近の“The Batman”とか”Nightmare Alley”とか、ぱんぱんに暗く黒く膨れあがった世界、あんなふうに構築されてしまう今の世のなにかに意味はある(たぶん)のだろうけど、こっちの方がそこにいる/あるものをだんちがいの殺傷力で一瞬のうちにわからせてくれると思う。その気持ちよさをぜひ劇場でー。


4.01.2022

[film] Nightmare Alley (2021)

3月26日、土曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。

原作はWilliam Lindsay Greshamの同名小説(1946)- 未読、最初の映画化はEdmund Gouldingによる1947年の(昔見たけど憶えが..)、監督はGuillermo del Toroによるオールスターキャスト映画 - 『ナイル殺人事件』よかすごい。

冒頭、むき出しのぼろぼろの家屋でStan (Bradley Cooper)がひとりで床下に布袋 - 死体が包まっていると思われる - を投げ込んで火を放ち、燃えあがる家屋を振り返らずに後にする。

Stanはどさまわりのカーニバル/サーカス/遊園地/見世物小屋が固まった一画に流れ着いて身を寄せて、生きた鶏を食いちぎる(出し物の)獣人の面倒をみたのをきっかけにClem (Willem Dafoe)から仕事を貰うようになり、透視術とタロットをやるZeena (Toni Collette)とPete (David Strathairn)の夫婦にコツを教えてもらった後で、電気ショック(びりびり)のショーをやっていた芸人Molly (Rooney Mara)と一緒になってシカゴに渡り、ホテルのボールルームでなんでも当ててみせまショーをやって評判になる。

その芸自体は、Mollyとの間でサインを決めておいて、相手とふつうのやりとりを絞り込んで事実を当てていく(ように見せる)種も仕掛けもない他愛ないものなのだが、客席のテーブルにいた精神分析医のLilith (Cate Blanchett)から挑戦を受けて、ホームズばりの推理で見事に打ち返したことから彼女と関わるようになって、彼女の抱える高級顧客をターゲットに金儲けをしよう、ってお金持ちのEzra Grindle (Richard Jenkins)を突っついてみるのだが..

もともと血も涙もない孤独なごろつきが興行の世界に関わって身を浸してみたらその奥には想像を超えた鬼畜の世界が広がっていて、抜けられないまま破滅 – というか絡めとられてしまう、というー。欲深さ、快楽の探求、金、邪悪さ、畏れ、罪の意識、貧困、絶望、いろんな中毒 - これらをぜんぶ巻きこんで掻くのをやめることができない中毒、としか言いようのない業が蝕んでいって、気がついてみればー、という絵巻もののような因果のありよう。光に対置される「ノワール」、というより異世界まるごとのごった煮が。

Guillermo del Toroはかつて “Crimson Peak” (2015)で幽霊との愛を、”The Shape of Water” (2017)で異生物との愛を、愛=いびつなものが真ん中にやってくる(そしてひょっとしたらハッピーエンディングかもの)世界を描いてきたが、今回のここで描かれる「愛」は全体のほんの一部でしかなくて、愛というよりはなにかの企てや実践がもたらす/それが見せてくれる世界の像に淫してずぶずぶと溺れて、自身がその一部になっていくので救いはどこにもない。気づいた時にはもう遅くて、怪物の胃酸で自分の体が溶け出している。

そんなことが可能になるのは世界の隅の端っこの、果てのようなところで、だいたい夜で雨が降っていて、人は誰もが中毒だったり変態だったり狂ったり腐ったりしてどうしようもなくて、それがつまり”Nightmare Alley”で、そこに入り込んだら誰も抜けることができない。という隠れ里のような、みんなが知ったり感じたりしているそのありようを描くのは、世界をまるごとひとつ作ることに等しくて、それを実現してしまったプロダクション・デザインはやはりすごい。

思えばこないだの”THE BATMAN” (2022) のGotham Cityもこんなふうに、ずっと雨が降って暗くて、「だーれだ?」の謎々が支配していて、その隅で富裕層ががっちり絡みとられていた。こんな世界の真ん中に突然ぽっかり現れた「ヒーロー」の”THE BATMAN”があんた誰さ? って変に浮きあがってファンたちに寄ってたかって弄られてしまったのは当然のことだったのかも、とか思う。

あと、原作があるからかも知れないけど、なーんとかしてほしかったのは、Cate BlanchettとRooney Mara - ”Carol” (2015) の最強のふたりを揃えておきながら、彼女たちにほぼなんもさせなかったこと、だろうか。Bradley Cooperがああなる前にふたりでとどめのドスを突きたててほしかったかも。 Lady Gagaを場末の歌姫で呼んでもよかったし、そのへんがなー…


クラウス・リーゼンフーバー先生が亡くなられた。わたしにとってあの方こそが地球のキリスト者の象徴で哲学するひとで、あんなに目を開かせてくれる授業はありませんでした。ありがとうございました。