4.30.2023

[film] 愛神 手 (2004)

4月20日、木曜日の晩、シネマート新宿で見ました。
邦題は『若き仕立て屋の恋』、英語題は”The Hand”。

監督はWong Kar Wai、撮影はChristopher Doyle、音楽はPeer Raben。
Michelangelo Antonioni (1912-2007)によるオムニバス映画 “Eros” (2004) - 『愛の神、エロス』 (未見)の一篇として公開された際の44分版に12分を加えた56分のLong versionで、日本の劇場では初公開となる。このオムニバス、AntonioniとWong Kar Wai の他にはSteven Soderberghの名が。 一週間の公開期間の最終日だったせいか結構混んでいた。よいこと。

冒頭、男女の会話 -女性の姿が見えない状態で「こんな姿になってしまって」と静かに嘆く女性の声とそれを首を振って懸命に打ち消そうとする男性の姿があって、そこから過去に遡る。

60年代の香港、店子でお使いもしている若い仕立て屋のチャン(Chang Chen)がお得意さまのホア(Gong Li)の家に行ってメイドに案内されて居間で待っていると男女の喘ぎ声が響いてきて、その後に彼女の前に立ったチャンは、腰の前に置いているその手をどかしなさい、って命令され、そのあとはされるがままで、今だったらパワハラ&セクハラ混合のあれなのだが、そうやってやられてしまったチャンは彼女に持たされた粽にも欲情してしまう - その反対側で粽を巻くホアの腕の白くて細くて絵画のようにすごいこと。

(おいしい粽たべたいよう)

こうして彼女のお気に入りの仕立て屋となったチャンは採寸やお届けで頻繁に彼女の家に出入りして、彼女からの注文は精魂こめて作るようになるのだが、彼女の家の中で待っている時に伺われる様子から、彼女の仕事はそんなにうまくいっていないこと - パトロンだか客だかとの罵しり喧嘩とか予定がころころ変わるとか滞っていく仕立て屋への支払いとか - が明らかになり、彼女の仕事は高級娼婦であることがわかるのだが、そんなことをとうに知っていたであろうチャンは彼女がどんなに傲慢でも意地悪でも顧客である彼女の言うことや言いつけを忠実に聞いて信じて、彼女の纏う服やドレスの仕立てや寸法に集中する。

やがてその家を引き払って、”Palace Hotel”という名の場末の安下宿に流されてしまうホアは、海岸で観光客を拾って連れ込むようになり、でも体を壊してて相当やばそうなんだけど、という大家に家賃を払ってあげたり、かつて頼まれたままだったドレスを届けようとするチャン…

愛だの恋だのそういうのではなく(そりゃ勿論あるけど)あくまでも仕立て屋とその顧客、という関係を固持してその針と糸にありったけを込めて思いを遂げようとする、それしかできなかった/許されなかったチャンの、決して悲恋、ではない彼の恋。 彼にとっての彼女が美しくあってくれれば、その美しい体に触れて包む服を裁ったり縫ったりできればそれで十分なのだ、と。

『春光乍洩』 (1997) - 『ブエノスアイレス』で、やくざな野良猫のウィン(Leslie Cheung)をなんとか繋ぎとめようとしていたファイ(Tony Leung)とファイの前に現れた純朴なチャン(Chang Chen) - 役名は”Zhang”と”Chang”でほんの少し違うが - を演じていたあのまっすぐな青年が南米から戻った後に仕立て屋としてファイの後を継ごうとする。

そしてこれが(今のところ)WKWとの最後の仕事になっているChristopher Doyleの切り取る建物の滲んで爛れた街の光と湿気のすばらしさ。その滲みが人肌と服に染みていって、その仕上げは仕立て屋の針と糸で。

こういう静かで、でも皮膚の裏で沸騰しているようなエロスを表現するのって、少し前であれば溝口健二や増村保造が若尾文子あたりでふつうに撮っていたやつだと思うが、もう日本ではできない気がしてしまうのはどうしてか。

2003年、SARS流行下の香港で撮影されたそうだが、感染防止に万全の注意を払いつつこういうドラマ - 触れてはいけない・いや・でも、って右に左に悶える - が撮られた、ってなんだかおもしろい。 コロナの世だったら仕立て屋はまず彼女のためにパーフェクトなマスクをつくったに違いない。

今年も1/3がいってしまわれた、と。 あーあー。

4.28.2023

[film] The Sheltering Sky (1990)

4月16日、日曜日の午前、新宿に新しくできた109シネマズ Premiumとかで見ました。

“Ryuichi Sakamoto Premium Collection”としてセレクトされて5月まで上映されている作品のなかの1本。見たいから見に行ったのだが35mmでもない普通の2Dで4000円はねえ.. ポップコーンも飲み物も別にいらないし、映画泥棒のCMがついてきたのにはうんざりした(あれ、ほんとになんの効果があるの?)。 階下の食堂のぐじゃぐじゃも、別に好きにやってればいいけどあれをかっこいいとか思うのって相当だよね。(いつまで「ブレードランナーの世界」、とかはしゃいでいるんだろ)

この作品、2016年に恵比寿ガーデンシネマで、やはり坂本龍一お墨付きのスピーカーシステムでもって上映されたことがあって、それに行った。

原作は隅っこで出演もしているPaul Bowlesの同名小説(1949)、監督はBernardo Bertolucci、製作はJeremy Thomas、撮影はVittorio Storaro、音楽は坂本龍一 .. もう半分以上のひとが亡くなってしまったねえ。

何度見ても冒頭に切り取られている戦後(設定だと1947年)のマンハッタンの描写がすごく好きで、大画面でこれを見たくて映画館にいく。ここを出た船がフランス領・アルジェリアの港に向かい、3人のアメリカ人 - 作家のKit (Debra Winger)と作曲家のPort (John Malkovich)の夫婦と彼らの若い友人George (Campbell Scott) – が降りたち、ホテルの手前の雑踏に紛れて酔って、それぞれの思いや興味で少し浮かれていて、それをバーの隅にいるPaul Bowlesが眺めていたり(彼はナレーションも)、イギリス人旅行者の変な母子 - Mrs. Lyle (Jill Bennett)とEric Lyle (Timothy Spall)が近寄ってきたりする。

最初の数晩でPortは町外れの娼婦のところに行って騒動にあったり、KitとGeorgeの仲を疑ったり、Kitは疑われることにうんざりしたり、Georgeはずっと無邪気にはしゃいでいるばかり。そのわかりやすい人系のごちゃごちゃを吹っ切るかのように3人は砂漠の奥のほう、人がいない方、いても言葉が通じない方に向かって、大量のハエだのにも襲われながらゆっくりと正気を失っていくの。

単に都会の暮らしに飽きたブルジョワがリフレッシュよりもう少し深く(touristではなくtravelerとして)未開とか野生とかに憧れて旅に踏みだしていったら深みに嵌って.. というヒッピーの時代にドラッグも絡めていくらでも語られた物語、のようで、でもそれよりはもう少し真摯に正直に戻れなくなってしまった生のありようとその分岐点について語ろうとしている。それは最後にナレーターであるBowles自身の声で、すべての出来事は回数が決まっている – あと何回満月を見ることができるだろうか?(おそらくあと20回)って。

KitとPortがすべてを見晴らせる崖の上でセックスをしながらこの終わり(そして覆いかぶさってくる空)を見て感じて、それからしばらくしてPortは穴に落ちるように疫病で亡くなり、Kitはその少し先で自分の意思なのか流されたのか戻れないところまで自分を押していったか、空の覆いを被ってしまったのか、かつてのKitではなくなっている。でもそれについて語れる人はもうどこにもいない。

今であれば終わりの方のKitの姿は幸せといえるのかどうかとか、自己責任がどうのとか、どうでもいいことばかり言われそうだけど、そんなのうるせえ、って戻ってきた町の壁に貼ってあるJean Grémillonの”Remorques” (1941) -『曳き船』のポスターが力強くいうのだった。


Ryuichi Sakamoto; Playing the Piano 2022+ (2022)

4月22日、土曜日の午後、同じシアターで見ました。昨年の12月?に配信されたライブ映像に1曲プラスした決定版を坂本龍一自身がここで、と指名したシアターで見る。昨年末の配信は見れないままで、亡くなられてから見ることになってしまったのは残念だったが。

画面も音も(?) モノクロの、NHKの響きがよいというスタジオでのライブ。音響はZAK。
広い空間にピアノが一台、それに彼がひとりで向き合い、弾いていく姿をカメラ数台でとらえただけの。

世代的にはYMOもろ、のはずなのだがポストパンクを追っていたのでこのバンドと全く接点はなくて、初めて見たライブはつくば万博のジャンボトロンでの(1985)で、最後に見たのは(たぶん)NYのJoe’s PubでのMorelenbaum2/Sakamotoので、どちらもここで聴かれる骨を叩いているようなシンプルなのではない、でもそれでも、鳴りはじめる音は森のように豊かに広がって風を起こして、こちらを包み込む。東風でも映画音楽 – 上の“The Sheltering Sky” – も、もっとシンプルに静かに鳴らすこともできたのかもしれないけど、そうはならなくて、鍵盤を押す音、ペダルが踏まれる音、弦の鳴る音、それぞれがオーケストレートされるべく勝手に枝を伸ばして捩れていく。彼の、老いて少しおとなしくなった魔法使いのような貌の、自分と音楽の両方に魔法をかけてきょとんとしているかのような姿を見つめるしかない、そういう磁場が。

彼の姿を一番多く見かけたのは演奏の場ではなく、NYのSOHOにあった(今はない)本むら庵と、(これも今はない)精進料理の嘉日だったかも。どちらも普段使いできるようなところではなくて、それでもあれだけ見かけることがあったのだから相当に通っていたのだと思う。そこでの寛いで楽しそうだった彼の姿ばかりが浮かんできてしまった。

4.27.2023

[film] Missing (2023)

4月17日、月曜日の晩、Tohoシネマズ日比谷で見ました。
邦題は『search/#サーチ2』。”Searching” (2018)の続編のような扱いになっているが人物もストーリーも繋がりはないのが紛らわしい。べつに”Searching” / “Missing”の対で並んだって充分かっこいいのに。

”Searching”で編集をやっていたふたり - Nicholas D JohnsonとWill Merrickが監督をしている。

映画のスクリーンが主人公の操作したり見つめたりするWebやTVやスマホの画面のほぼそのままの投影となり、その画面上で人探しが、事故事件が勃発・推移していくドラマ – 主人公には推理・推測する力に加えて検索や絞り込みや連携といったITスキルも必要とされる、更に見る側も主人公たちが画面に向かってなにをやっているのか、がわからないとわけわかんなくなる、そういう難易度を抱えながらすごい速度で勝手に動いていく(ように見える)画面たちを追っていくことになるので、目もやたら疲れる(年寄りには)。”Searching”のJohn ChoはまだPCのデスクトップが中心だったのでまだなんとかついていけたが、今度の娘さんはスマホでSiriとかも使いまくるし。

ママのGrace (Nia Long)と娘のJune (Storm Reid)は母娘の二人暮らしで、パパのJames (Tim Griffin)はJuneが小さい頃に病気で亡くなっていて、パパが亡くなる少し前、家族で山歩きをした後に鼻血を垂らしたりで具合悪そうなパパの動画を見たりしている。

ある日、ママの恋人でITヴェンチャーをやっているらしいKevin (Ken Leung)がママを連れてコロンビアの方に休暇にでるというのでJuneは少し腐っていて、でも出かけて暫くするとママからの連絡が途絶えて到着予定日に空港でいくら待っても現れない。向こうのホテルを出てから何かが起こったにちがいない、と彼女の足跡を追うJuneの奮闘がはじまる。

で、なんとしても現地の監視カメラへのアクセスがほしい、となって、Webでオーダーできるなんでも屋サービスで現地のJavi (Joaquim de Almeida)を雇い - 彼の時間単価と英語スピーカーであることとレビューのバランスで、こんなもんか、って – ちょっと緩めで頼りない彼とのスマホごしのやりとりを通して現地での彼女たちの足跡を追っていくのと、やっぱり怪しいKevinの過去 - ママとの出会いはマッチングアプリだった – を掘っていくと、彼が前科者だったことや、ママの他に女がいそうなことなども見えてきて、そうしているうちに失踪事件はメディアでも騒がれるようになり、やがてママの友人の弁護士が殺されて、更にはKevinまでが。

ママは生きているのか死んでいるのか、生きているならどこにいるのか、Kevinが消されたとすると今回の失踪はママが仕組んでいる可能性もないとはいえない、などなどの推論が、いろんな検索をぶつけたり掘ったりしていくなかで段々と明らかにされていって、最後にはやっぱり… って、ここにそんなにどんでんの意外性はなかったのだが、とにかくJuneが悩みながら繰り出す技 – アプリや機器を使うその使い方には悩まずにさくさく - ミレニアルおそるべし – に感心するばっかりになってしまうのは、よいことなのかわるいことなのか。自分の身内にこういうことが起こってもあんなの絶対むりだしなー、とか、まるでスポーツ選手の技をみるように。

自分とその周囲の行動がぜんぶデジタルで追跡可能であること、その追跡を可能にするにはSNSも含めて自分のあれこれの足跡がデジタルの世界に残されていること、このドラマはそれらの意識したやつも無意識なやつもとにかく痕が残されていることがベース、大前提で、真犯人もそれらを餌にして執拗にモニターして追っかけてくるので、映画がスマホやPCの画面の上をずっと滑っていくことはわかるものの、そうではない動物とか突発事故とかが出てきたらおじゃんになる。

逆にそういうのを避けるかたちでもっと複雑で膨大なデータのなかに紛れているものがあるのだろうな - 大半のサイバー犯罪がそうであるように – などど思い始めると、今回暴かれた事件の全貌はなんだかスケールの小さいお話 - でも結構ありそう - のように見えてしまったり。このスケールであればこんなふうに解決を導くことだってできるのだろうな、とか。

そうかSiriはあんなふうにも使えるのか、とか新鮮。

次はなにがくるだろう? “Hiding” とか?
ChatGPTもネタとして出てくるかな?

4.26.2023

[film] 少年 (1969)

4月15日、土曜日の晩、国立映画アーカイブの企画『没後10年 映画監督 大島渚』で見ました。
これまで大島渚ってあまりきちんと見てこなかったし。しかし『幻滅』みて『るつぼ』みてからのこれは、とってもきつかった。もうやらない。

実際の事件、そこにいた家族をベースに全国でロケをして撮った1000万円映画(低予算映画)路線の作品。

父親(渡辺文雄)と母親(小山明子)と息子 - 父の連れ子 - の少年(阿部哲夫)とその下にもうひとり小さい子のチビ(木下剛志)がいて、一家4人は家を持たずに地方を転々としながら道路脇でやってきた車にわざと飛びこんで転んで「いたたた… どうしてくれんねん?」て因縁つけてお金をふんだくる「当たり屋」をやってて、それでお金が入るとその土地の温泉とかに浸かって団らんして次の土地に移っていく。

父は乱暴で先のことを考えていない遊び人で、母は少しはソフトだけど雌ライオンでやはり強くて、初めのうちは父が「当たり」をやっていたのだが具合が悪くなってきたので、替わって母が腕まくりしてやるようになり、やがて見よう見まねで少年が「当たり」をやるようになって、でも金をたかる時の相手とのやりとりとか、絶えない父と母との諍いとか、移動ばかりの日々が嫌になったのか、ひとり旅館を飛び出して列車に乗って遠くに行こうとするのだが、一晩を海で過ごして戻ってきたりする。

でも喧嘩のやりとり以外のところで少年の独白とか思いが語られることはほぼなく、子供らしいお喋りというと宇宙のことくらい、でも親もチビ- まだ喋れないし - も相手にしてくれなくて、少年は少し上を向きほぼずっと白目を見せる状態でむっつり黙っているしかない。

最後、北の雪に覆われた町での「当たり」の際に、車中の少女を殺してしまったかもしれない赤がずっと残って。

戦後の貧困のなかにあった家族の像を、きつかったけど家族は家族(暖)、のように詩情や情緒みたいのを挟んだり引っ張り込んだりで描いてしまうのって『万引き家族』(未見)とかにもあったのかもしれないけど、でもどんなに映画として優れていて評価されたとしても、やはり子供がかわいそうすぎて個人的には見たくないやつで、この作品だと作る側のひりひりした怒りと絶望感は伝わってくるのだが、日本の家族って昔からずーっとこんなこのままじゃん、って。(映画とは関係ないけど)


月見草 (1959)

4月16日、日曜日の昼、国立映画アーカイブの同じ企画プログラムから見ました。

松竹大船の助監督によるシナリオ同人誌に発表されたメロドラマ「美しき水車小屋の少女」の映画化で、大島渚は脚本担当、監督は岩城其美夫で、これが監督デビュー作となる。

海辺の小さな町の高校生修一(清川新吾)は恋人の恭子(十朱幸代)と水車小屋の脇で会ったりする恋仲だったのだが、大学受験に失敗して浪人になった彼が一年間東京に勉強に出ることになり、勉強に集中したいから試験に通るまでは会わないようにしよう、って修一は恭子に伝えて厳しくて、見送りすら許してくれない。 修一の弟の健次(山本豊三)はそんな彼女をかわいそうに思って話しかけたりするのだが、彼が恭子を好きになってしまったのは明らかで、もじもじしていると恭子の家の事情に起因した縁談が立ちあがり、このままだと彼女貰われていっちゃうよ、って修一のところに行くのだが、この大変重要な時期(受験だって。大人になるとこれが「仕事」になる)にそんな話を持ってこないでくれ、って固まってしまうので、そんななら僕が、って健次が恭子に近寄って、彼女の縁談の件もなんとかするしいざとなったらふたりで駆け落ちしようよ、と告げると彼女は驚きつつも親の決めた相手のところに行くよりは、って少し明るくなるのだが、親たちと健次が話し合うことになった場面で…

これ、「メロドラマ」というより100%バカで愚鈍な兄弟が引き起こしたディザスター悲劇(人殺し)で、こいつら救いようのない独りよがりのクズだな、って途中からなんだかとっても腹がたってしかたなかったの。 (ふつう、彼女が海に向かったことがわかったら大慌てで大騒ぎして捜すよね? なに泣き崩れてるんだ?)


明日の太陽 (1959)


↑のにも出ていた十朱幸代とか山本豊三とかを含む、松竹の新人スターたちをミュージカル仕立てで順番に紹介してよろしくね! という大島渚助監督時代の6分間の短篇で、みんないかにも若手っていうかんじで見得きったり華やかなコスチュームで登場したりして微笑ましいのだが、↑ でなんだこの悲しいのは明日の太陽なんてしるか... になってしまったので、あんまり楽しめなかったかも。

4.25.2023

[theatre] National Theatre Live: The Crucible (2023)

4月15日、土曜日の午後、『幻滅』を見たあとにTohoシネマズ日本橋に移動して見ました。 続けてみるとなかなかしんどい。

原作はArthur Millerの『るつぼ』。演出はLyndsey Turner。全4幕、休憩一回。
幕間、境界には雨が降っている(セットはEs Devlin)、水の幕で遮断されたその内側で起こった出来事。

17世紀、マサチューセッツのセイラムで実際に起きたセイラム魔女裁判 – 200名以上の村人が「魔女」として告発され、19名が処刑させられた事件に題材をとったもの。

学校の教室でAbigail Williams (Erin Doherty)ら生徒たちが明らかに奇妙な行動を取ったり昏睡状態になったりしていて、それを問題視した教会側が、魔女や魔法の存在について(他の地域での「前例」もあったので)疑念を持ち始め、その証拠を集めるために村人に聞き込みをしたり、真面目な農夫のJohn Proctor (Brendan Cowell)や彼のところで働くMary Warren (Rachelle Diedericks)らが順に呼び出されて、Hale牧師(Fisayo Akinade)らとの間で問答をしていくのだが、次々に深みにはまったり罠にかかったり、不利なことばかりが明らかになって彼ら(って誰?)の思う壺になって壊れていく陰惨なお話し。

明らかに魔女の、魔法を用いているとしか思えない事象(彼らが「…としか思えない」、という)が起こり、それらが神の庇護のもとにあるはずの我々の間で、どうして起こりうるのか? → 魔女だから/魔女がいるから。 ここの右矢印の間には怨念があり憎悪があり裏切りがあり恐怖があり、その皮を剥くようにひとりひとりを問い詰めて暴いていく過程はホラーサスペンスとしか言いようがない痛みと緊張感に満ちていて、はっきりと怖いし見ていて辛い。穏やかな日々の愛や感情を圧し潰すようにして審判が下される、というか予め用意された審判を下すために騙しや脅しを含むあらゆる手が用いられ非情な力が有無を言わさず村人たちを引っ立てていく。

ここで用いられて適用される裁判だか神学だかのロジックはものすごく変で歪んでいると思うのだが、そこを突くより先に獲物にされてしまう彼らひとりひとりがかわいそうすぎて、ああ神さま、って(← ちがう)。

一番狡くて悪いのはどいつだろう? って思った時にまず浮かんで目に入るのが教会関係者の傲慢さと裁判する側の狡猾さで、彼らはみんな自分らではなく神の代理として審理を行うので、裁きをくだすのは自分らではない - 神がそうさせるのだ、って。 ぜんぶこのロジックが貫いていて、Arthur Millerはこれを通して赤狩りの時代のアメリカを、恐怖とヘイトを煽って分断をもたらす支配者の手口を明らかにした。

このお芝居は2016年にNYのブロードウェイでIvo Van Hove演出のを見ている。
John ProctorにBen Whishaw、Abigail WilliamsにSaoirse Ronan、Hale牧師にBill Camp、Mary WarrenにTavi Gevinson、オリジナルスコアはPhilip Glass、というなかなかのメンツで、舞台は廃れて荒れ果てた教室のなか、黒板の文字が動きだしたりといったエフェクトがあるくらい、俳優の演技がすべてを引き摺りまわしてこちらに入りこんでくる凄まじいドラマで、彼らが教室で導きだした残酷な結論と荒廃 - 魔女は狩られる/魔女に関わったものもやられる - は、こちらの世界の荒れようにそのまま繋がって向こうから風が吹いてくるようだった。見終わって自分が裁かれたかのようにぐったりへとへとになったけど。

Ivo Van Hove版の掃き溜めのような世界の投げやりな置かれ方と比べると、こっちの世界はシリアスで凍える雰囲気と緊張感に溢れているものの、どちらかというと閉じて封印された過去の、きちんと作りこまれた海の向こうのどこかの土地 - 昔そこにいた彼らのいつの間にか封されてしまった声 - 録音された声のかんじが強かったかも。(なので怖さはそんなに)(なんであんなふうに閉ざされたふうに見せた/見せようとしたのか)

魔女はすぐそこにいるのだ、と確信させ、それがもたらす目の前の災禍について震えあがらせてくれないと、あるいは、魔女は極めて恣意的に魔女にされてしまうのだ、そこらのふつうの男によって、とか、その怖さが痺れるようにやってきてほしかったのだが、そこまでは行かなかったような。
 

4.24.2023

[film] Illusions perdues (2021)

4月15日、土曜日の午前、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
邦題は『幻滅』、英語題は”Lost Illusions”。2022年のセザール賞を7部門で受賞している。

原作はバルザックの『人間喜劇』の『幻滅 - メディア戦記』 - 翻訳本のタイトル - から、主人公Lucienがしょんぼりと田舎に戻る第二部まで。監督はXavier Giannoli。

1820年代のフランス、革命だの恐怖政治だのにいい加減飽きてしまった世間では貴族だの王政だのが蘇ってだらだら享楽的な一攫千金バブルの時代が来ていて、主人公のLucien (Benjamin Voisin)はアングレームの田舎の印刷所で働きながら自作の詩集を刷ったりして成功を夢見ている青年で、地元の貴族夫人のLouise (Cécile de France)はそんな若い彼に惹かれて集会で朗読させたりするものの村人の反応はさっぱり、がっかりする彼を慰めたりしているうちにふたりは恋におちて、その勢いのまま駆け落ちするようにパリにでる。

安いアパートを借りてもらってこれからだって張りきるLucienだったが張りきりすぎて田舎者丸出しの格好でパーティに出たりしたものだからLouiseも目を合わせてくれなくなり、寝取られた夫側の復讐も挟まって援助を絶たれ、自活するか畳んで田舎に戻るかしかなくなってしまう。

そんな時に当時乱立していた中小新聞社 - 社主は字が読めないらしいDauriat (Gérard Depardieu) - のやり手編集者/ジャーナリストのLousteau (Vincent Lacoste)と王政派がバックにいるらしい作家Nathan (Xavier Dolan)と出会い、ひょっとしたら分かり合える連中もいるのかも、って彼らに近づいていろいろ教えて貰いつつ、もともと文学や詩には自信があったので貴族連中を風刺でコテンパンにするスタイルでのしあがり、大衆演劇で人気の出始めた女優のCoralie (Salomé Dewaels)と親密になり、書いた端からお金が入ってくるのでそれらを全部彼女とのつきあい~結婚とか自身の貴族位獲得のためのロビー活動などに湯水のように使っていくのだが、いろんな情報 - 噂、口コミ、醜聞などが渦を巻くなか、自分も別アカウントを使ったりして書き分けたりしていると、日頃Lucienのことをよく思っていない連中とかの間からそういうのがばれたり中傷されたりしていくし、Coralieのキャリアを賭けたラシーヌの上演もはめられて失敗して…

そんなにわかりやすい単純な自滅/転落話ではなくて、背後で糸を操っていそうなMarquise (Jeanne Balibar)とか、劇場で観客をコントロールするSingali (Jean-François Stévenin – これが最後の映画出演となったそう)とか、いろいろ雑多な連中が出入りして日々お祭りのように騒がしい新聞社の内部とか、怪しげな連中が場面局面で群れで層をなしてはうようよ現れては消えて、原作は更にわけわかんなくなるくらいに濃い面々の泥沼(でも喜劇)なのだが、映画は150分あっても画面も含めて結構きれいに整理されて、そこらにある陰謀モノのTVドラマのように見えなくもないところがやや残念かも。(理想はシーズンを分けたTVシリーズかなあ)

単に田舎から勇んで都会に出てきた彼 – 詩人(自称)&母方は貴族だった(自称) - の夢が端から崩されて「幻滅」する話、だけではなく、文学や理想主義のあり姿が資本主義の、お金の、大衆の倫理にのまれて為すすべもなく瓦解して虫食いにされていく話、それをやっちまえの熱狂的な大衆メディアが下支えしたり煽ったりしたこと、などが仔細に描かれていて、それは約90年前にルカーチがこの小説の先進性を讃えていることでも明らかだし、この映画の宣伝文句にもあるように今のSNSを使ったマーケティングとメディアの乗っかりようなどに吐き気がするくらいよく似ている、というか200年前から人類は同じようなことを延々やって揃って右に左に揺れたり靡いたり、大戦も含めてものすごく人が死んだりしているのに、あまりに厚顔で相変わらずすぎて「幻滅」どころじゃない絶望しかないんだけど、って。

映画については、美青年Lucienの夢と挫折を描く、ということに関しては「幻滅」というタイトルがきれいにはまって、”Summer of 85” (2020)でもやってやられてぶりが見事だったBenjamin Voisinがそんな生き様を不敵に演じていてちっともかわいそうに見えないのもよかった。

こういうのを見てしまうと、やっぱり自分でZineでも作るか、になるかも。ならんか..



最近は体力が落ちてレコードプレーヤーのところに180gのとかを運ぶのすら面倒になってしまったので、少しだけCDに戻りつつあったのだが、Record Store Dayは年一回のお祭りだししょうがないか、って以下のようなのを買ってしまったのだが、トータルでびっくりの金額になってしまったのでもうやらない。 というのを毎年繰り返しているねえ。

Suede Demo, Haircut 100 - Live 1983, The Fall: Live 1977, Prefab Sprout, The Pogues - The Stiff Records B-Sides, Slits - Rough Cut,  Sunn/Boris - Alter,  Taylor Swift,  The Specials - Work In Progress, Swell Maps C21

4.20.2023

[film] Tori et Lokita (2022)

4月14日、金曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。『トリとロキタ』。

作・監督はJean-Pierre DardenneとLuc Dardenne。カンヌの常連で、これも2022年の75th Anniversary Prizeというのを受賞しているのだが、そういう大作のかんじは見事にない。

Dardenne 兄弟による子供が出てくる(出てこなくても、だけど)ドラマは見ていて辛いところも多々あるのだが、そこに感傷とかかわいそう、とかあまりないし、彼らが見せようとしている先に情感や共感のようなものが追ってくることはないし、このテーマなら見るべき、と思うので。88分、これが120分だったらしんどいかも。

ベナンからベルギーにやってきたTori (Pablo Schils)とカメルーンから来たLokita (Joely Mbundu)がいて、ふたりは「姉」「弟」として移民を収容する施設に暮らしながら、Lokitaは滞在許可 – 就労ビザを取得するために延々と続く役人からの尋問に答えていく。 Toriがあなたの弟であるという証拠は? と問われても答えにつまり、そうするとまた審理は自動で延期、とされてしまう。この冒頭のやりとりだけでも、日本の人管での差別・虐待を思い起こさせてくれて、彼らは自分たちの仕事をこなしているだけで、やましいことをしていないのであればすんなり答えられるはずだ、自分たちの応対に誤りはない云々と返すあれが..

こうして(ビザがないので)きちんとした仕事に就くことができないふたりは、イタリア料理屋の表では歌を歌ったりのバイトをしつつ、裏ではシェフがやっているドラッグの運び屋の下請け(デリバリーと集金)をしている。Lokitaは更に故郷の母親への仕送りがあり、更には自分を運んだ移民ブローカーへの支払い/取り立てへの対応もあり、毎日がぎりぎりで逃げようがなくて、でも弁護士にそんなのがばれたら滞在許可なんてもってのほか、って止めさせられるに決まっているので言えなくて、闇で黙って我慢してひたすらお金を稼ぐしかない、Lokitaのその我慢と事情はToriにも十分わかっているので手伝おうとするが、LokitaはToriに汚れた仕事をさせない。あなたは学校で好きな絵を描いていればいいの、って母親のようにいう。

いよいよ首が回らなくなってきたLokitaにつけこんで悪い奴らから更によい収入が得られるらやるよな? って話がきて、渋々乗ると車で山奥のどこかに運ばれて、厳重に施錠された温室のような建物に幽閉されると、それは大麻を育てているプラントで、衣食住に耳栓まで用意されてそこで3カ月間暮らして、大麻の面倒をみるように、って携帯のSIMを取りあげられてしまう。(ひどい..)

やがてLokitaのいる施設に向かう運び屋の車に忍びこんだToriが建物の屋根や隙間から中に入ってなんとかLokitaと再会することができて抱擁するのだが、外に人が来たので隠れて逃げようとして、捕まって、でもぶん殴って倒してなんとか外に出るのだが…

大括りでの移民 - 保護を求めて命がけで渡ってきた彼らなのに、そうやって外からやってきたものはその国の正規の仕組みの中に入ることを許されず、結果として逃れようのない闇のシステム – なにをやっても犯罪者 - に身を置くしかなくなる、という昔から指摘されているEUの腐った諸事情をとにかくかわいそうで救われることのなかった姉弟のケースを取りあげて描く。金持ちがドラッグで気持ちよくなるために安い賃金で彼らが買われ、結果的に犯罪者として社会の隅に追われて、結果的に市場経済がまわる - 犯罪組織と地続きの政府、という構造。

「可視化」なんてやらしい言葉を使わなくても見えているのに見えないふりをしているだけで、彼ら姉弟はずっとそこにいるのだ、って、“Lokita!”っていう姉を呼ぶToriの突き刺すような声が訴える。

映画としては情感を盛りあげるようなところは一切なく、ひたすら走ったり飛び越えたり歌ったりするToriと、祈るように目を伏せて身をすくませるばかりのLokitaの、姉弟ではないけど互いの名を呼んで手を差し伸べあう姿と、彼らを待ち伏せしたり追ったりする闇世界の大人たちのどうでもいい姿を重ねるだけで、ものすごくあっさり、情感に訴える音楽も、痛ましい別れも涙もなく、ぶっきらぼうに(そこに怒りが)重ねていく怖さがある。Ken Loachの描くきつさの方がまだ希望や暖かさがありそうな。

そしてとりあえず入管に対して怒りをー、はまず来るから。

[film] Tytöt tytöt tytöt (2022)

4月12日、水曜日の晩、シネマカリテで見ました。 『Girl Picture』
フィンランド映画で、英語タイトルは国によっては直訳の”Girls Girls Girls”のところもある。
監督は77年生まれの女性Alli Haapasalo。

冒頭、体育の授業でつまんねー、って反抗的な態度をとってあっさり怒られているMimmi (Aamu Milonoff)がいて、親友のRönkkö (Eleonoora Kauhanen)とはモールにあるスムージーバーでバイトしながら、突っかかってくる客とか気になった客などをからかったりして遊んでいる。

小さい頃からずっとフィギュアスケートをしてきたEmma (Linnea Leino)は少し前にはできていたトリプルルッツが突然できなくなってしまい、コーチからは怒られるし母親には心配されるし、でも自分でも理由がわからなくてもやもやしている。

ふたりのバイト先のカウンターにやってきたEmmaをいつものように軽く突っついてみて、ふたりが呼ばれた友人のパーティでいつものバカ騒ぎをしつつも、そこで再会したEmmaのことが少し気になったMimmiは彼女を追っかけてみたところで恋におちてしまう。

自他共に絆は固いけど負け犬っぽく世を眺めている(それでも自称最強の)仲良しのふたりがいて、パーティの喧騒のなか、運命の女性と出会って.. ここまでだともろ”Booksmart” (2019)のようだが、アメリカのティーンのセックス・コメディにある怒涛の勢いや噴きあがる妄想はこちらにはない。(ねんのため、どっちも大好きだけど)

Mimmiは、幼い頃に自分を捨てて父親ではない若い男の方に行ってしまった(まだ会おうと思えば会えるけど)母との間でわだかまりを抱えているし、Rönkköは、自分は不感症になってしまったのではないか?という疑念に怯えて、それを確かめるようにぶつかる男たちと手当たり次第にカジュアルな関係を持とうとして、結果うまくいかずになにやってんだろ、になってしまったりを繰り返しているし、Emmaは小さい頃からコーチと母と一緒に取り組んできたフィギュアへの壁にぶつかって(なのか壁がやってきたのか)自分のすべてを否定されたかんじになっている。

こうしてそれぞれが自分しか見えない状態に陥って、自分がいかにグロテスクで取返しのつかない動きをしてしまったのか、の後悔ぐしゃぐしゃが暗い夜とか寒そうな外の風景にぶつけられて心細くて先が見えないまま、その肌寒さときたら容赦ない(家族は助けてくれない)。そんな時に彼女たちはどんなふうに、誰にぶつかっていくのか、とか。

ここにおいて男子は、カウンターに並んだ客(捌いておわり)程度のもんでしかなくて、なんの意味も持っていない。痛快なくらいに出番も立ち場もない。いる必要はまったくない。(何度でもいう)

3人の誰もがそれぞれもう少しだけ強く、よくなりたくて、そのために近くにいてくれる誰かを必要としている。わかって貰えなくても愛して貰えなくても、そのために相手を傷つけてしまうであろうことも気づいているのだが、切羽詰まって勝手に暴走して結果なにかを壊して落ち込んで、を繰り返してしまう。この辺、三人をいたずらに三角関係に置かず、自傷や他傷にも向かわせない距離と温度湿度のところに置いて家族からも切り離したこと、MimmiとEmmaの関係も最初からクィアでもなんでもない(そこはちっとも悩まない)ところに置いたこと、などがうまく機能して、結果として3人のくっきりとしたポートレートが浮かびあがってくる。 そこには教訓も共感もそんなに必要なくて、ただ3人の顔立ち、髪形、立ち姿、どれもとても素敵で好きになるような。Rineke Dijkstraによる若者たちのポートレートを思い浮かべたり。

北欧の若者、青春映画 – 「北欧」という大括りが失礼で適切でないことは十分わかっているものの、少女(たち)が主人公となる(例えばこんな)映画については、彼女たちが生きてて本当によいもの(いくつかタイトルを探しているのだが出てこないや)が多いのはなんでだろうかー? というのを考えたりしている。

そうそう、彼女たちの像と、“Compartment Number 6” (2021)の彼女がなんとなく繋がって、どっちもフィンランドかー、って。スナフキン派とか。

4.18.2023

[film] Saute ma ville (1971)

4月10日、月曜日の晩、ヒューマントラストシネマ渋谷のChantal Akerman映画祭で見ました。 邦題は『街をぶっ飛ばせ』、英語題は”Blow up my town”。

2016年の日仏学院の特集でも見ている。15歳で出会ったゴダールの『気狂いピエロ』にやられてしまった彼女が18歳の時、数カ月通ったベルギーの映画学校を中退して、自分で資金と35mm(なんとしても35mm)のフィルムを調達して、手伝って貰える知り合いを寄せ集めて、自分で演じて撮って一晩で編集して形にした、デビュー作となる13分の短編、モノクロ。

彼女が鼻唄を歌いながら外から帰ってきてアパートの階段を駆け上って部屋に入り、掃除をしてパスタを茹でて食べて、歌って(ずっと歌ってる)、猫を外にだして(猫は無事)、床に洗剤をぶちまけて掃除して、靴を磨いてそのまま自分の脚も磨いて、顔に化粧水を塗りたくり、ドアや窓の隙間をテープで目張りして、ガス栓を全開にして、紙に火をつけて、画面が暗転して.. (どーん).. そういう音はするけど、本当に吹っ飛んでしまったのかどうかは不明。

これについて、少女が自殺する話 – ずっと思い詰めていたというより、普通のことをしていてちょっと調子を崩して – これはJeanne Dielmanの正反対で、あれは傍観だったがここには怒りと死がある、とChatalは言っている。彼女の母親はアウシュビッツを生き延びたというのに、彼女は自分の部屋をガスで満たして…

デビュー作にはその作家の全てが、という通り、ここには彼女の全てがあるように思う。ひとりの女性がいて、部屋には内と外があり、彼女は部屋にいて、歌がありダンスがあり、そしてこちらを見つめている。ここから全てが始まるのだが、この最初の作品で彼女は、部屋を爆弾にして自分を含むそのすべてをぶっ飛ばしてしまう。これ以降の彼女は囚われと脱出、そこに関わる他者との出会いとそのありようを、自分がぶっ飛ばした後の破片の軌跡を、見つめていくことになるの。

5年早かったパンク、は確かにそうかもだけど、それを言ったところでどうというものでもなくて、パンクって個の覚醒だからいつでもどんな形でも起こりうるし、寧ろ今のあんなして群れをなすほうがおかしいわ、って。


News from Home (1976)

『街をぶっ飛ばせ』に続けてそのまま。 邦題は『家からの手紙』。これも2016年に見て感想も書いていた..

↑で部屋ごとふっ飛ばされたChantal - 幽霊になってしまったのか姿は映らない – が夏のNew Yorkの街を彷徨う。映りこむのはNew Yorkの街と道と駅と人、などで、そこにChantalの声で、最初のNY滞在時(71年)に彼女の母から受け取った手紙が読みあげられる。

家族の近況に加えて、もっと手紙を書いて、元気? だいじょうぶ? 送った小包は届いた? なにをしているのかわからないけど気をつけて、会いたい、などなど。 決して賑やかではない、どちらかと言えば物騒な雰囲気が漂うNYの情景に、淡々と読みあげられる手紙の声が被さる。 初めてNYに着いた頃、部屋で手紙を読む彼女の前にあった光景がこんなふうだったのだろうか。

これの前の”Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles” (1975) ではブリュッセルのあの番地に刺さっていたピンが外れて、家の外にでる。でもそれでもタイトルは”News from Home”で、凧糸のように遠くから彼女を引っ張っているような。

短編の“La chambre” (1972)でひとつの部屋のなかをぐるーっとカメラは回って、その次の中編 - “Hôtel Monterey” (1973)では、NYダウンタウンのホテルのなかを彷徨って、その少し離れたところにある一点を凝視するような視点と姿勢を維持したまま、NYの通りにでる。

NYの映画となると、つい映されているのはどの辺かばかりを見入ってしまってよくないのだが、ダウンタウンの西の方が圧倒的に多くて、最後の方の10th Aveを30thくらいから車でゆっくり北上していくとこ - カメラはずっと東を向いている - とか、スタテンに向かうフェリーが島を離れていくところ - とか、その前のTimes SquareからGrand Centralに向かうシャトルのホームとか、ずっと悶えてばかりでこれってなんだろう? って。古い日本の映画を見てもたまにそうなるけど、もう消えてしまってどこにもない光景が映っていて、でもあそこに立っていたことがある、って。

4.17.2023

[film] Toute une nuit (1982)

4月9日、日曜日の午後、ヒューマントラストシネマ渋谷のChantal Akerman映画祭で見ました。
上映後に斉藤綾子さんのトークつき。邦題は『一晩中』、英語題は”A Whole Night”だったり”All Night Long”だったり。 これまで見るのが難しかったのをようやく。撮影はCaroline Champetier。

すばらしい、絵画のように美しい一枚 - 一本だけど一枚、って言いたくなる。
『アンナの出会い』(1978)の興行的失敗の後、Isaac B. Singerのユダヤ教をテーマとした歴史小説を映画化しようとハリウッドに向かうがうまくいかず(まだ早いって言われて、なのに83年にはSinger原作 - Barbraの『愛のイエントル』が..)、この時の企てがやがて”Golden Eighties” (1986)に繋がっていくのだが、その前に地元ブリュッセルで小規模なもの - 断片が積み重なって、その連なりが何かを語ろうとするような - をやろうとしてフジの16mmで撮ったのがこれである、と。

ブリュッセルのある夏のひと晩 - 突然雷が鳴ったりしたある晩のこと、場所も後のトークで三箇所、と聞いてそうだったのね、と思うくらいで、登場人物も子供を含めて80名くらいいる(Chantalのママもいる。知り合いばかり)そうなのだが、主人公となって立ち回る人物はいない、とにかく夜の話なので画面が暗くて誰なのか何なのかよくわかんないのも多く、なんでそんなに暗いんだ? というとこれは夜の映画なのだから、暗いのはあたりまえではないか、と。

そして暗くても – 暗いから、人々は眠れずに人と会うために外に出ていったり、外の人を迎い入れたり、外のカフェとか酒場とかに居たり居あわせたりして語り合ったりたりキスしたりダンスしたりする。昼の明るさの元では難しそうなことが夜の暗がりでうまくいくとは思えないし、発せられた言葉が相手に届いているのかどうかすら確認できないのに、夜は夜できっと何かが変わるし起こるに違いない、って外に向かう。カメラはその暗さに従順で闇に潜んで、そこに蠢く動物たちを追い立てたりはしない。

なんで夜は眠らないといけないのか、その反対でなんで眠らせてくれないのか、なんで昼間はあんな(以下延々)ってやってられなくなって頭をかきむしって、外に飛び出してしまうのだが、そうやってコトがうまく運んだことなんてないし、しまいには『街をぶっ飛ばせ』とか言いだすのでろくなことにならない。そうなるのがわかっていても、ひとは誘蛾灯にむかう虫のようにカメラのほうに吸い寄せられていく、その生態ときたら不思議に美しいとしか言いようがない。

ドキュメンタリーではない、絵画のようにスライスを切り取って、その断面を重ねていくような映画で、最初のほうはドレスの色(深く滲んだ赤)も含めて、”Rose”という看板が見えるバーだかカフェだか、まるでEdward Hopperではないか、とか。部屋のなかに立ち尽くす女性とその目の向かう先とかやりどころとかも含めて、あの絵の枠に、部屋に、一緒にいたい人と、あるいはいたくない人と - 人生ごと閉じ込められているかのようで、でも絶望までは行かずに相手がどう来るのか、来てくれるのか、そしてやがて朝は来るのだろうか、などを息を呑んで壁の端から見つめているかのような。

あるいは、その状態に持っていくために、なにかを突破するために、とりあえず隣に座った人と唐突にダンスをしてみる – このあたりの不審かつ切羽詰まった挙動とコレオグラフはPina Bauschの世界 - Véronique SansonやGérard Berlinerといった流行歌の使い方も含めて - のようでもあって、あのうねりに押されて居ても立っても居られなくなる。

あと、夜の映画でいうと、昨年国立映画アーカイブで見た石田民三の『夜の鳩』 (1937) なんかも思い出したり。

夜の、その時間に囚われたひとりひとりの話なのに、パジャマを着ているひとも、TVをつけているひとも、PCをつけているひとも、スマホを見ているひとも出てこない。今の時代だったら成立しそうにない設定かも。全員がしかるべき衣装を纏って鞄を抱えたり書類にまみれたりして、夜に、あるいはその先の朝に備えている。なにが起こるかはわからないがなにかが起こるであろうことは確信している、その無防備でどうしようもない確信 - 朝がきたらぜったい後悔するやつ。

あと、夜の騒々しさ。NYの夜はサイレンとか救急車とかものすごくやかましいし、ロンドンはそういうのに加えて明け方に鳴きだす鳥がうるさくて、ヨーロッパの街もそんなノイズに溢れていたなあ、って思い出したり。東京は静かすぎてつまんないなー。

こんなふうにいくらでも書いていって止まらなくなる、それもまた夜の、夜中のなんかで。(朝になるとうんざり)


4.16.2023

[film] 春の夢 (2016)

4月8日、土曜日の晩、菊川のStrangerのチャン・リュル監督特集で見ました。
モノクロ(最後に少し… )の韓国映画。この監督のは見たことなかったし、どんなものかなー、くらいで。 原題は”춘몽” - 翻訳にかけると「春夢」、英語題は”A Quiet Dream”。

テントみたいな掘立て小屋みたいな居酒屋「故郷酒場」- 看板は「酒慕」?だったか - があって、ひとりそこのカウンターに立って客の相手をするイェリ(ハン・イェリ)とずっとそこのカウンターに入り浸っているぱっとしない3人の男たち - もう若くはなく中年なりかけかほぼ中年 - のだらだらうだうだした、春の夢のような毎日を描く。

イェリは父親が仕事でやってきた中国で浮気して生まれた子で、母が亡くなった後、父を追って韓国にやってきた。居所をつきとめた父親(イ・ジュンドン)は今や寝たきりの車椅子生活で喋ることもできずにイェリがずっとひとりで彼のケアをしている。

チンピラのイクチュン(ヤン・イクチュン)は元気で威勢はよいけど、少し前に組で問題を起こしたらしいことがたまに寄ってくるやばそうな連中とのやりとりでわかる。

寡黙な脱北者のジョンボム(パク・ジョンボム)は勤めていた工場を解雇され、未払いの賃金を払ってもらうべく経営者の行き帰りの車の前に立ちはだかってお辞儀をしているのだが、相手にされないままで、ずっと躁鬱病のタブレットを飲んでいる。

自称金持ちのぼんなので働かなくてもよいらしい大家のジョンビン(ユン・ジョンビン)はイクチュンとの凸凹感が楽しいのだがたまに癲癇の発作を起こして倒れてしまう。

他には、イェリに想いを寄せているらしい少女(イ・ジュヨン)がいて、いつもバイクに乗っているかサッカーボールを蹴っているかで楽しそうにやってくる。

全員がすごく仲がよいようにも見えなくて、することがないし行くところもない半端な連中で、ただそこにいて酒を酌み交わしてほんとどうでもいいこと - どうでもよすぎて内容残っていないわ - を喋ったりうろついたり国立のアーカイブに(タダの)映画を見にいったりしているだけ。 飲んでばかりのホン・サンスの映画の登場人物のほうがまだ欲望に駆られて具体的な行動を起こしてくれるのでわかりやすい、と思う。

話が進んでいるようないないようなアキ・カウリスマキのオフなかんじもあるが、軸がなさすぎてオンもオフも関係なく、ただ散らかしたままみんな平然とうろうろしていて、それがなにか? - まあそんなもんか、って。

入ってくる客だと、明らかにやばい目つきで拳銃を散らつかせてなんかぶつぶつ言って去る若者 - TVのニュースにでてくる、とか、ジョンボムの昔の彼女(シン・ミナ)とそのお付きの男がアメリカに一緒に来て、って頼みにくるとか、動けないはずのイェリの父が突然ひと言発したり目を開けたり、とか、粗大ゴミ置き場の小さな物置に入って祈りごとをする、とか、高台から川の向こう側を眺める、とかどれもリアルとは思えないし、このままずっと続いていくとも思えない、でもところどころ生々しく目醒めたあとにも断片だけが残って張り付いている夢そのもののような、と思い始めたところで唐突に映し出されるあれが。

世間一般で言われる生産性のある人々ではまったくない彼ら - というレッテルとは別のところで、こんな土地でこんなふうに暮らしていて、そのリアリティが云々、という話もどうでもよくて、それでも彼らがそこにいるであろうことはとてもよくわかるし、いてくれてなんかうれしいの(伝わるかどうか)。

いまのこの状態は目醒めた後なのか目醒める前なのか、それをそう思わせているのはどこのどいつなのか、それがわかったからと言っていったいどうしろというのか、などについて、酔っぱらいの戯言のように並べてみてうーん、なんかすっきりしないからもう少し寝ていようかな、っていう春の夢(ぜんぶ許す)。

4.14.2023

[film] Die Büchse der Pandora (1929)

4月8日、土曜日の昼、シネマヴェーラの特集『「ハリウッドのルル」刊行記念 宿命の女 ルイズ・ブルックス』で見ました。
邦題は『パンドラの箱』、英語題は“Pandora's Box“。

刊行された「ハリウッドのルル」、映画館の窓口で割引価格だったので買って読み始めているのだが、編集者で序文を書いているウィリアム・ショーンの明らかに女性をバカにした文章に引くものの、ルルの文章がすばらしくおもしろい。(学生の頃、大岡昇平が騒いでいるのを見て、歳取ってからでいいや、と思っていた。もうそういう歳になった..)

ドイツの劇作家Frank Wedekindの当時上演禁止に追いこまれた同名戯曲 (1904)と“Erdgeist“ (1897) - アルバン・ベルクの未完のオペラ“Lulu“ (19)の原作でもある – をオーストリアのG. W. Pabstが脚色して監督した古典。 昔、MoMAでワイマール映画特集をやった時に見ている。

世紀末のベルリンで、新聞主のDr. Ludwig Schön (Fritz Kortner)の愛人Lulu (Louise Brooks)がいて、彼女の周りには胡散臭い老人Schigolch (Carl Goetz)とその連れのQuast (Krafft-Raschig)とかSchönの息子のAlwa (Francis Lederer)とかがうろついたり付きまとったりしていて、錯乱したまじめなSchönは結婚式に拳銃を持ちだして、自分で自分を撃ったのにLuluのせいにさせられる。

殺人罪の裁判でLuluは5年の刑を言い渡されるのだがSchigolchたちが火災報知器を鳴らして逃げることができて、Alwaと合流して列車で国外に逃げようとするのだが車中で伯爵夫人(Alice Roberts)とかCasti-Piani侯爵(Michael von Newlinsky)に会って助けて貰えた、と思ったらこれが罠でエジプト人の賭博船に売られて、そこをボートで抜け出してロンドンの裏町で売春とかをしながら暮らしているとそこに改心したがっているJack the Ripper (Gustav Diessl)が現れて…

誰もが知っているファム・ファタルものとして有名なやつなのだが、男たちを翻弄して地獄に堕としていく魔性の女(… 恥ずかしい)モノ、として見たとき、Luluは別にちっとも悪いことないししてないし、他方で群がってくる男たちは狡猾だったりゴミだったり悪だったりスケベだったり殺人鬼だったり全員どうしようもなくて、Luluはそういうどうしようもない連中から結婚~殺人~裁判~逃亡~堕落~破滅、といったイベントを通して彼らの写し鏡のように都合よく使われただけだったのではないか、事前も事後も、というのがわかるので、とてもかわいそうなお話し。圧倒的に醜くて悪くて酷いのは男の方なのに女の方にも非があったはず、って言われる典型のやつ。いまだに恥知らずの手口として広く使われているあれ。

本『ハリウッドのルル』の「パブストとルル」という章では、この映画でパブストがいかに厳格にルルの動きから衣装までコントロールしていたか、彼女がどうして、どんなふうにその個々の演出に感銘を受けて応えていったのかがその理由も含めて、クールにユーモラスに綴られていて、そしてこうして問答無用の「ルル」ができあがったのだ、というのがわかってとてもおもしろかった。女優と監督の理想的な関係。


A Girl in Every Port (1928)

同じ特集で、↑のひとつ前に見ました。 どうでもいいけど、『港々に女あり』 - 「こうこうにおんなあり」なのね。ずっと「みなとみなとにおんなあり」だと思っていた。

Howard Hawksのサイレントで、G. W. Pabstはこれを見てLulu役はLouise Brooksだ、って確信したのだそう。

タイトルバックに出てくるハートに錨のマークがなんかかわいい。あの柄のパンツとかあれば。

世界をまたにかける船員のSpike (Victor McLaglen)はどこの港にどういう女がいる/いた、みたいのをメモに書いて持っていて、港に着くとそれを頼りに知っている女性を訪ねてまわって○Xつけたりしてるのだが、どの彼女を訪ねていってもハートに錨のチャームを持っていたりその刺青をしていたりするのでなんか気分が悪い。そんなある日、Spikeは船員のSalami (Robert Armstrong)と会って飲んで一緒に喧嘩して、やがて彼がハートに錨の野郎だってわかって喧嘩しようとするのだが、海に落ちたりなんだりで結局ふたりは親友になる。

マルセイユで、そろそろ丘に上がって落ち着くことを考え始めたSpikeが見世物小屋で飛びこみ(ダイブ)をやっている娘 Godiva (Louise Brooks)と出会って一目惚れして、彼女こそが運命の、と思ってSalamiに紹介すると、彼らふたりはかつてコニーアイランドで恋仲で…

漫画みたいにわかりやすく単純な飲んだくれ男ふたりのあつい友情物語なのだが、女よりも俺らの友情 - こんな僕らをわかって許して、みたいに無邪気で甘えた高慢ちきの話しは前世紀までで終わりにしてほしかった(けどまだそこらじゅうに跋扈するいろんなのを思い起こしてなんか不快に .. そういう点では秀れた映画なのかも)。

ここでもLuluはもちろん、ちっとも悪くないのにー。

4.13.2023

[film] Golden Eighties (1986)

4月7日、金曜日の晩、『シャンタル・アケルマン映画祭 2023』の初日に見ました。
『ゴールデン・エイティーズ』、上映後に坂本安美さんのトーク付き。 以下、トークで話されたことも参照しつつー。

それにしても、昨年の特集のときの人気にもびっくりしたし、同様の映画祭が「今年も」行われて、この回の上映もほぼいっぱい、日曜のトーク付きの『一晩中』も売り切れていた。 この人気はなんなのだろう? よいことには違いないのだが、どれも決して明るい映画とは言えない(なんか気持ちよい、はあるかも)し、今公開されている邦画なんかとはなにもかも違うし(→だからだ)。 自分の部屋をまるごと爆弾にして街をふっとばす映画から始まった彼女の冬の旅、やっぱり見たくなるの。何度でも。

この作品は、日本で封切りされた時に見たし、2016年の日仏学院のカイエ・デュ・シネマ週間「シャンタル・アケルマン追悼特集」でも見たし、ロックダウン中のロンドンでも見たし、彼女たちが資金集めのためにLAに行ったときのすごくおもしろい短編”Family Business” (1984)も見たし。

もっと商売気のあるものをやれば、とJeanne MoreauからJean Gruaultを紹介されて(他にクレジットされているのはPascal Bonitzerなど)、リハーサルシーンを収録したデモ/プロトテープ - ”Les Années 80” (1983)を作ったあとに、テクニカラーのMGMミュージカルを目指して本作を作ってみる。

舞台は地下に降りたところにあるショッピングアーケード – モデルはChantalの両親が勤めていたというGalerie Toison d'Or – mapを見るとまだある – のファッションブティックとヘアサロンとコーヒーショップ。コーヒーショップの店員Sylvie (Myriam Boyer)はカナダに渡った恋人のことをずっと思っていて、両親のブティックを手伝っているRobert (Nicolas Tronc)は、向かいのヘアサロンのLili (Fanny Cottençon)にめろめろの盲目になっていて、Liliは店のオーナーで妻子持ちのJean (Jean-François Balmer)に囲われていて、そこの店員のPascale (Pascale Salkin)とMado (Lio)はRobertに憧れていて、Robertの母のJeanne (Delphine Seyrig)はかつて戦後収容所を出たところで恋に落ちた米兵のことを思っているとその彼 – Eli (John Berry)が現れて…  こんなふうに主な登場人物は恋にやられているか、恋にやられた状態を想って悶えているかで、そうでない連中は彼らの周りでひたすら歌って踊る。

RobertがLiliと一緒になる/なりたいようって、だだをこねてもだめなので拗ねてMadoと結婚しよう、って宣言して結婚式の手前まで行ったところでやっぱりLiliに手を出して式が潰れるのと、Eliから一緒にここを抜け出そう、って誘われていたJeanneはやっぱりムリ、って返す。最後に彼女が傷心のMadoを連れて地上に出てみると新たな恋人を連れたEliが。

格言も教訓もない、どれだけ華やかに惚れたキスした恋をした、って歌って踊って煽っても、うまくいくのもあればいかないのもある – 誰もが他人の恋をそうやって眺めて噂して、それだけの、あたりまえの、天に昇るハッピーエンディングも、出口なしの孤独な生き埋めもないけど、次のステージはあるよ、っていうのを「人生」みたいなとこまで敷衍しないで受けいれて鮮やかにスライスしてみせる。そんな一日の終わりを淡々と振り返って受けいれる軽さ。

これのひとつ前に作られている長編『一晩中』(1982) - 9日の午後に見た - 後だと、これとの対比でいろいろ思ったりもした。あの街の三地点を繋いだ暗がりで紡がれたいろんな出会いと別れのダンスが明るいアーケードの3店を結んだきらきらのダンスに転換されたとも言えるし、ダークな70年代からカラフルでゴールデンな80年代、というのもあるし、暗くても明るくてもそこだけ浮かびあがって電気のようななにかが空中に充満してある - 人々の生きているかんじ、は共通していないだろうか。

そしてその空気感はChantalの母 - アウシュビッツを生きのびた – の底なしの孤独を抜けた先にあったものにちがいない、と思ったのと、”News from Home” (1976) - 『家からの手紙』で周りの近況を細々と伝えながら、どんなことでもいいのであなたの近況を教えて、手紙を書いてってずうっと書き送ってくる「母」のせわしなさもあるな、って。そして、その反対にいる「夫」と「父」の薄さ、どうでもよさときたら。

冒頭の、すたすたまっすぐに歩いていって交わることのない女性たちの早足、これが黄金の80年代を貫く速さと軽さで、それだけで十分、でもあるの。

4.12.2023

[film] 青春怪談 (1955)

4月6日の晩、久々に神保町に行く用事があったので、神保町シアターに寄って特集 -『デビュー70周年記念  恋する女優  芦川いづみ』で見ました。

英語題は”Ghost Story of Youth” または “Fantasy of Youth”だって。どちらもちょっと微妙。
原作は獅子文六による新聞連載小説、これを和田夏十が脚色し、市川崑が監督している。とてもおもしろかった。

奥村鉄也(山村聡)の家を宇都宮蝶子(轟夕起子)が訪ねている。どちらもとうにパートナーを失っていて独り身で、それぞれの娘 – 奥村千春(北原三枝)と息子 - 宇都宮慎一(三橋達也)のつき合っているのかいないのか、互いに気があるのかわからないふたりのことが気掛かりなのだが、自分たちも先のことを考えた方がよいのでは、と、蝶子は初対面の鉄也にめろめろになり、鉄也は趣味の時計修理とかしていて興味なさそうなのだが、子供たちが一緒になってくれればありがたい、という点では一致して合意したので蝶子は喜んで帰っていく。

千春はバレエに打ち込んでいてクールで、バレエスクールにいるシンデ(芦川いづみ)- シンデレラの略だって – がずっと横にいて、慎一も同様に冷徹に学生の頃から打ちこんでいる投資と金勘定に夢中で、経営していたパチンコ屋を芸者の筆駒(瑳峨三智子)に売ろうとしたり、バーをやるためにマダム船越トミ(山根寿子)を連れてきたりして、でも本人の思惑とはぜんぜん別のところで千春との件に嫉妬したトミと筆駒、シンデなどがいろいろ取り乱したりかき混ぜたりの脅しや中傷をしてきて、でもそんなので互いを好きになるわけでも嫌いになるわけでもないから、なんだろうね? ってきょとんとしている。

要するにあまり恋愛とか恋愛関係とか結婚にも興味がなさそうなふたりで、でも周囲はそこに強い関心をもってぶつかったり煽ったりしてくるようなのだが、そういうのに煩わされずにどうにかするにはどうしたらよいのか? やっぱりふらふらしていて先が心配な互いの父と母をなんとかしないと落ちつかない → 結婚してもらえばいいじゃん? 特に蝶子は鉄也がだいすきみたいだから、と犬猫をやりとりするように持ちかけてみると、彼らの方ではあんたら - 娘と息子が一緒になって片付いてくれたら安心して逝ける、というようなことを言うので、わかった - それならこっちも一緒になるか、って。

結婚を世間一般がいうような落ち着き先/落ち着くための方策、として捉えてはいるものの、そのイメージはどちらかというと棺桶のような、この先ゆるやかに安心して死んでもらいましょう、みたいなかんじで、まあ実際にそうだと思うけど、その手始めとして少し棺桶寄りの鉄也と蝶子の結婚式が神前式で行われてああよかった、って娘と息子は安心する。

この辺、ふつうだと結婚は愛と夢のゴールで、その若者たちの門出を父母が暖かく見送る(はず)、そこを目がけていくものなのにこのドラマではぜんぶがほぼ逆のベクトルで動いていって、それなのにみんななんとなく淡々と幸せそうにしていて相手にそんなに関心がない - この辺が怪談、とくに「青春」の時期に起こってはならないようなこと、なのだろうか? そしてそれ以上に、そんな事態になっていても当事者たちの温度は平熱以下 - 冷血動物のそれでちっとも動じていないあたり、も怖い?

家父長制の呪いによって家から強いられて一族揃って地獄門をくぐる婚礼のほうがよっぽど怪談でホラー、というあたりを見据えているのと、登場人物のなかで最も一途でまっすぐな蝶子やシンデらがまるで化け物のように奇異に描かれているのが、(視点として)おもしろいかも。結婚とか婚姻とかどうでもいいし、お金とかバレエのほうがよっぽど大切。

主人公たちは最後まで、自分はこう思う、とかわたしはこういう主義だから、などと言うことはなく、それでも彼らの行動にブレはなく、自分の思いなんて届かなくたってへっちゃらで、嚙みあっているようで実はあまり嚙みあっていない頓珍漢な状態を維持しつつ、淡々と人を動かしながら決着させてしまう脚本が魔法のようにすばらしい。

そして我々はそのヘンテコなドラマを北林谷栄の婆やとなって、襖の裏で聞いたりしているの。



RIP Vivian Trimble..   Luscious JacksonもKostarsもだいすきだった。 やってらんないよう。

4.11.2023

[film] Living (2022)

4月5日、水曜日の晩、109シネマズ二子玉川で見ました。邦題は『生きる LIVING』。

黒澤明の『生きる』(1952) - 黒澤明 - 橋本忍 - 小國英雄による脚本をKazuo Ishiguroが脚色し、Oliver Hermanusが監督した。すばらしいコスチュームは(やはり)Sandy Powellさん。

志村喬主演による『生きる』は見ていない。あのブランコのスチール写真がなんかかわいそうすぎて... 同様に『七人の侍』も見ていないの - 「侍」とかだいっ嫌いだから。そのうち時間があったら見よう、とか思っているうちに『生きる』と同じくらいの年頃になってる…

1953年、ロンドン(郡)のお役所に新たに勤務するPeter (Alex Sharp)の朝の通勤風景から始まる。駅には同じ課の同僚や上司が揃っていて(げろげろ)、紳士の挨拶をして(禁冗談)一緒に通勤電車に乗り込み、次くらいの駅には上司で課長のWilliams氏 (Bill Nighy) – 誰も彼をファーストネームでは呼ばない – がいて、彼も同じ電車に乗り込んでくるのだが下々の輪に加わることはない。

職場に着いてからもPeterの目でお仕事の様子が紹介され、児童向けの公園を作ってほしいという嘆願書を持ってきてたらい回しにされている女性3人の相手を通して極めてインギンブレイなお役所仕草 - 書類を山の上に上乗せして「影響はあるまい」とか、を目にする。

そんなある日、Williams氏が会社を早退して医者に行くと検査した結果、よくなくてあと半年、とあっさり告げられ、彼もそれをあっさり受けるのだが、その晩、同居している息子夫婦 - 彼らからも疎まれている – にはそれを言うことができず、翌日会社を無断欠勤して海辺のリゾート地に向かい、不眠症でくだを巻いていた作家のMr. Sutherland (Tom Burke)に持っていた大量の睡眠薬をあげて、貯金もおろしてきたことを告げると、Sutherlandは彼を夜の街に連れていってへべれけにして、Williams氏は「ナナカマドの木 – “The Rowan Tree” (1822)」をひとりで歌ったりする。

ロンドンに戻った彼は、自分の職場にいてレストランに転職するからやめると言っていたMiss Harris (Aimee Lou Wood)に会って、彼女からみんなあなたのことを"Mr. Zombie"って呼んでいたのに、ほんとは気さくな方だったんですね、とか言われ、それでも推薦状を書いてあげたり、Fortnum & Masonで食事したり、映画の日にCary Grantの出ている”I Was a Male War Bride” (1949)を見にいったり(いいなー)するのだが、それを目撃した近所の人が義理の娘に告げ口して、「義父さんになんか言ってよ恥ずかしい」と言われた息子はそれを言い出せず、反対側の父の方も自分の病気のことを言い出すことができない。

もうひとつ、たらい回しの棚上げで放置していた児童公園の件も、突然先頭に立って部署間交渉とかを始めて、雨がひどくても現場にいくぞ! ってかっこよく決めたところで場面は突然Williams氏の葬儀に切り替わってしまう。

葬儀の場で、彼の息子はなんで自分の病状について家族に言わなかったのだろう? ってMiss Harrisに問うの。(そりゃあんたらがそんなだから…)

Williams氏がいなくなった職場は暫くすると元のコトナカレに戻り、その様子を見て辛くなったPeterは彼に遺された氏からの手紙を読んで、彼の作った公園に行くと彼が亡くなった晩、そこに居合わせた警官がどんなだったのかを…

昨今の巷に溢れている難病モノではあるのだが、家族を含めて当事者たちの苦悩はほぼ描かれないし、「死」は葬儀の場面以外きれいに回避されていて - この点でも”Living”の映画 - Bill Nighyはいつもの鳥のような佇まいをずっと崩さない – ので辛く悲しいトーンはない。むしろ宣告を受けた後の彼の振る舞いのみを描くことで、その前のゾンビだった彼はどこかに消えてしまう。それ故にこそ最後のなぜ? と 彼は幸せだったのだろうか? が活きる。その答えがあるとしたら、そんなの気にしないであなたの生を生きなされ、でよくて。そういうところも含めて明るい映画なのだと思った。

もういっこ、オリジナルの「生きる」は公開された1952年当時の世の中をそのまま描いているのに対して、こっちのは2022年から1953年を – 約70年前の英国を振り返るかたちでフィルムのテクニカラーぽい色味からタイトルから当時の街角の様子から”The End”まで、あの当時ならありえたかもしれない生のあった場所を人工的に造形していて、それは決定的に届かないところに行ってしまった何か、なのではないか、と。

今、末期ガンが見つかったら家族も含めた対応方針のディスカッションがあるだろうし、それで会社を無断欠勤したら追跡されるだろうし、そもそも仕事をあんなふうに棚上げしておくのだって許されないし – などを思い、あーあ、ってなった。自分があと半年って言われたら、やっぱり海のほうに向かうか海の向こうに行くかだなー、もう会社に行くのはやめちゃうなー、そうなったら映画館に行くかなあ(たぶん行かない)、などなど好き勝手に。でもそろそろ。

Bill Nighy、死に向かう毅然とした態度を描く、というところだと“About Time” (2013)があって、これはほんとうに悲しくて泣いてしまうのだが、今度のはそんなでもなくて、その辺うまいなー。

闇の向こうから酔っぱらったWilliams氏が現れるところとか、ホラー映画のようにも見えたので、Bill NighyとAimee Lou Woodのふたりで“I Walked with a Zombie” (1943)のパロディをやってほしいかも。

あと、酔いどれ作家を演じたTom Burke、”The Souvenir” (2019)でも同様の毒男をやっていたがすごくよいな、って思った。
 

4.10.2023

[film] Phenomena (1985)

4月3日、月曜日の晩、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。 『フェノミナ』。

この週末のDario Argentoの10年ぶりの新作”Dark Glasses”公開に向けて、『サスペリア』の1と2とこれの3本がリバイバル公開されていて、新作はものすごく怖そうなので無理、『サスペリア』は1とそのリメイクしか見ていないけどもう十分、だからせめてこれくらいは、って。どっちにしたって怖いわ。

スイスの郊外の田舎道で、ひとりバスに乗り遅れた少女が、寒いし誰もいないので、道路を少し入った家の扉を叩いて、中に入ってみると(そんなのぜったい入っちゃだめ)家のどこかの部屋に鎖で繋がれていたなにか(どんなのかは映らない)が解き放たれて少女に襲いかかって、彼女は森に逃げこむのだがぐさぐさにされて首をだっきん。

LAから寄宿学校のリヒャルト・ワーグナー女子アカデミーにやってきたJennifer (Jennifer Connelly)は有名俳優の娘で、昆虫と仲良くなることができて、夢遊病で放っておくと屋外に出てしまったりする。

ある晩そうやって外に出てしまうと女性が殺される夢だか現実だかに遭遇して気を失い、気がつくと車いすの生物学者McGregor教授(Donald Pleasence)と、彼の助手のチンパンジーのIngaに介抱されていて、虫を使って事件の捜査解明を手伝っている教授と虫が友達で交信できるJenniferは仲良しになる。

続けてJenniferと同室のSophieがおそらくJenniferと間違えて殺されて、再び夢遊病と蛍に導かれて外に出てしまった彼女は、犯人の手がかりと思われるウジ虫のついた手袋を見つけて、それを教授のところに持っていくとこのウジは人の屍肉にしかたからないやつなので、犯人はそういう屍体をいっぱい貯めこんで熟成している可能性があるかも、って。

学校ではそんなJenniferの特性 - 虫とお話ができる – をみんなが笑うので、それならほらって軽く見せてパニック起こしてあげた後に気を失って、校長はこんな娘は精神病院に送ってしまえ、って勝手に救急車を手配して、でもどうにかそこを抜け出した彼女はMcGregor教授のところに逃げこむのだが、その教授も殺されてしまいー。

もうとにかく起こることぜんぶありえないし嫌なのでとっととアメリカに戻して! ってパパのマネージャーに連絡して、なんとか帰路を手配して貰って、翌日のフライトまでこちらに来た時に付き添ってくれた女性の家に連れていかれるのだが…

母を失ってはいるもののなに不自由なく育てられた御令嬢がスイスの全寮制学校に入れられた途端に- 虫を操ることができたり夢遊病だったりという個の事情があったにせよ - 酷い目にあわされて、最後に残ったのは彼女と身よりのないチンパンだけ.. みたいな。

Argentoはこの作品をドイツロマン派のCaspar David Friedrichの絵画(Jenniferの部屋にそれらしいのが貼ってある)にインスパイアされ、2次大戦後でナチスが勝利した後の世界を想定して書いたそうで、つまりJennifer(=アメリカ)が横から入りこんでこなければ、殺人鬼がいてもそこらの虫が協力して見つけだして退治してくれたかもしれない、そんな神的な「現象」について描いただけ、というのと、でもそれにしてもウジが涌くのと血が滴ったり首が飛んだりするのを並列で「現象」ってクールでよいかも。そしてそんな現象を意図せずして繋いで紡いでしまうJenniferもまたクールで、虫と話すことができるのも夢遊病も彼女にとってはふつうのことなので、極度に怖がったり怯えまくったりすることもなくて、べつにいいじゃん(とまでは言わないけど)なのは人によってはつまんない、になるのかも。(わたしも虫が涌くのも本が涌くのも一緒なかんじでどんとこい! なのでそんなには)← そっちじゃない。

かつて、Olivier Assayasが2010年のNYFFに”Carlos” (2010)を持ってきた際、影響を受けた映画あれこれについてのレクチャーをやってくれて、そこでDario Argentoの傑作としてこれが紹介された – と思っていたの(で今回のを見たの)だが、過去のを調べてみると紹介されたのはこれではなくて、“Inferno” (1980)の方だった。あの映画で女性が地下に落ちた鍵を拾うべく水中に飛びこんで、そこに浮かんできた死体が絡まる、というシーンで、Assayasは主人公のアクションとの繋がりで、夢とコネクトしつつ常に未知の世界の何かが生起している感覚に導いてくれる、という言い方をしていたのだが、この”Phenomena”にもJenniferが燃えさかるボートの上から水中に飛びこんで岸にたどり着く似たようなシーンがあって、こちらも同様にすばらしいと思った。

伴奏音楽はもちろん、のGoblinなのだが、合間合間にIron MaidenとかSex Gang Childrenとか、80’sのメタルとかゴスが聞こえてきて、これも変なかんじだったかも。

JenniferのパパにはAl Pacinoを想定していたそうで、最後に彼が実際に現れてみると、実はこいつが悪魔だった、とかだとまた(それは別の)。

天涯孤独の身となったチンパンジーのIngaは、あのあとJenniferに連れられてLAに行って、TVにでる人気者になるのだが、あるTVドラマの収録中にとつぜん(→ NOPE)。

4.09.2023

[film] Pour don Carlos (1921)

4月2日、日曜日の午後、日仏学院で見ました。
ここの“Irma Vep”特集で見る最後の1本 -『ドン・カルロスのために』 。
昨年春の国立映画アーカイブでの「フランス映画を作った女性監督たち」特集で見逃していたやつでもある。

原作はフランスの小説家Pierre Benoît (1886-1962)の同名小説 (1920) - この人、映画の原作本もいっぱい書いているのね。 Louis Feuilladeの”Les vampires” (1915-1916)でIrma Vepを演じたMusidoraが製作、監督、脚色、主演している。(監督にはもうひとり、Jacques Lasseyneという名前があるが、原作者から指名されたカルリスタ派の元軍人でこの映画に関してはほぼなにもしなかったらしい)

あまり情報がないIMDBには彼女には短編を含めて6本の監督作がある(ただ、Webを見ていくと諸説あり)ようで、これは4作めの監督作。前の3作は友人だったColetteとの共同制作で、”La vagabonda” (1918)にはColetteの原作があるし、”La flamme cachée” (1918)はColetteがシナリオを書いているって(でもぜんぶ失われている)。彼女の出演作の”Minne” (1915)も、原作のクレジットは”Willy”ってあるけど、こいつはColetteの名前を奪っていた夫のあいつだし。 Musidoraのあれこれ、少し調べてみたらすごくおもしろいの。Alice Guy-Blachéと同じくらいの重要人物ではないか(なにを今更)。

スペインのバスク地方で1833年から1876年までスペインの王位継承権をめぐりドン・カルロス派(カルリスタ)とフランスのイザベル2世派が争った内戦 - カルリスタ戦争でのお話、なのだが、この戦争の史実がどう、とかバスク地方の地政がどう、とか、一瞬しか姿を見せないように見えるDon Carlosって? といった要素は、物語上そんなに重要ではないように見える - プレミア前のオリジナル版は3時間あったそうなので相当削られてしまっている印象も受ける。

カルリスタのAllegria (Musidora)が副知事を務める地域に若い新任のOlivier de Préneste (Stephen Weber) がフランス側から派遣され、新婚生活は向こうで、と婚約者のLucile (Chrysias)もうきうきついてくる。

そこの副知事であるAllegriaの役割と策謀は彼らを骨抜きにしてカルリスタの側につかせることで、彼女はぱりっとした男装の軍服で表情も硬く威厳たっぷりかっこよくて、初めからふにゃふにゃの若いふたりを陥れるのなんてたやすいことのように思えたし、実際に簡単にこちら側についてきてくれる - Lucileと会うときのAllegriaのドレス! - のだが、まずいことにAllegriaは彼らそれぞれと会っているうちにふたりのことが大好きになって(ふたりといっぺんに)恋に落ちてしまったらしい。

やがてフランス側が攻勢を強めてカルリスタ派が劣勢にたってくると、彼女は軍服を捨てて髪はぼさぼさ(ややRobert Smithふう)、ラフでワイルドな戦闘モードに切り替わり(コスチュームの使い分けの巧みなこと)裏切りや逃走や暴虐や暗殺がふつうに行われている戦場を渡っていくのだが、OlivierとLucileのふたりを敵方にそのまま置いていくことはどうしてもできなくて、彼らを無事に逃がした後で ー。

Musidoraの目、彼女の強い眼差しは”Les vampires” のIrma Vepでもずっとそうだったように、相手が敵であれば「あなたになにをしてくれようか?」と不敵に問うように見つめ、相手が味方であれば「わたしがいるから大丈夫、一緒に来て」って安心させて、つまりは吸血鬼そのままにぴったりと張りついて頭の奥まで寄り添ってくるので、画面に出てくる彼女を、彼女の目をずっと追いかけていくことになるのだが、この映画のラストは本当に悲しい。彼女がどんなふうにその最期を迎え(あの手足!)その目を閉じて埋葬されたのか、忘れないでいて、って訴えてくる。そして、忘れられなくなるの。

Irma Vepが”Vampire”のアナグラムから名前を取って、その組織に殉じた女性を演じたのと同様に、ここでも「ドン・カルロスのために」と言いながらIrma Vepよりも遥かに複雑に繊細に、愛した人たちと組織と、戦争の大義などに引き裂かれながらも最後まで愛に生きようとした女性の像が残る。 機会があったらもう一回見たい。

4.07.2023

[film] Dungeons & Dradons: Honor Among Theives (2023)

4月1日、土曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXレーザーで見ました。
邦題は『ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り』 - アウトローっていうよりただのろくでなしども、よね。

元になっているらしいロールプレイングゲームはやったことないしやることもないだろうし、知らない。たぶんNintendoもPlayStationも一生触らないでしぬんだろうな。

監督のJonathan GoldsteinとJohn Francis Daleyは“Spider-Man: Homecoming” (2017)とか“Game Night” (2018)を作ってきた人たちなので、その辺から惹かれた。

騎士団のハーパーズにいたEdgin (Chris Pine)は極道のレッド・ウィザードに妻を殺されてから娘のKira (Chloe Coleman)とふたりになって、友達で力持ちのHolga (Michelle Rodriguez)と詐欺師のForge (Hugh Grant)と彼が連れてきた謎めいた赤いSofina (Daisy Head)と三文魔術師のSimon (Justice Smith)と一緒に窃盗団を組織して、ハーパーズの本拠地に乗り込んで妻を蘇らせるためのタブレットを盗もうとしたところ、そこで嵌められて、EdginとHolgaは牢獄に入れられてしまう。

2年が経って恩赦の審査をするタイミングが来たところでふたりはズルしてどうにか牢獄から抜け出してみるとForgeは領主さまに出世していて、彼の側にいたKiraは父と目を合わせてくれなくて、背後には邪悪な魔法使いのSofinaがいてどうしようもないので、改めてForgeの金庫に入ってタブレットを盗んでKiraを取り戻してふつうの父娘に戻るんだ、って仲間と道具とかお宝を集めていくことにする。

こうしてもう一回Simonを呼んで、Simonはどんなものにも変身できるDoric (Sophia Lillis)を仲間に加えて、あとは常につまんない正論しか吐かない騎士のXenk (Regé-Jean Page)とかも加わって、討ち入りに必要な刀とか兜とか杖とかを集めるために墓を掘って死者を呼んだりすり抜けたり忍びこんだりの冒険があって、最後にはそれらぜんぶを総動員して闘技場のようなところでの危機一髪まみれの大勝負になるの。

ファンタジー・ゲームの世界なのでなんでもありの無法地帯かと思っていると、これまでのゲームのファンにも配慮したキャラクターや物語構成にもなっているらしいことがネット等での受け方を見ているとわかって、でもゲームだのその起源だのストーリーラインだの決まり事だの、そんなの知るか、みたいな人たちにも楽しめるものになっている気がした。ただそのやり方は、キャラクターや物語の幹を太くしたり深化させたり、というよりは可能な限りいろんなネタみたいな要素をナンセンスも含めてぶっこんで、キャラクターや道具を戯画化して「なんだそれ」って突っこみやすくするとか – でも取りこぼしないように目配りはしているから – その程度のもので、小手先の気はするもののおもしろいからいいかー、のような気がする。

なので、真ん中にいるEdginはべらべら空疎な言葉をくりだすだけ(たまにリュートを弾く)のヴェンチャーの起業家みたいな胡散臭さ満載 – “Don't Worry Darling” (2022)でChris Pineがやった役そのまま - で、彼と空っぽな根拠なし正論おしゃべり野郎であるXenkがぶつかり、更にこの手のべらべら詐欺師役がいつでもどこでも見事にはまるForge - Hugh Grantが絡まるので、男どもがロクな働きをしない反対側で、パワーと身体でぶつかっていくMichelle RodriguezのHolga(別れた夫がBradley Cooper..)とDoricが変態するOwlbear(ほしい..)といった女性たちの働きがすばらしい、というか男たち、べつにいらないんじゃないか? くらいに彼女らは強い。Kiraは戻ってきたパパじゃなくて、HolgaとDoricのふたりのほうに惹かれたのだと思う。そして、登場人物間の恋愛関係のようなのが一切出てこないのは画期的。

よって、アニメの実写化の時によく起こる、あのキャラをあの俳優が(嘆).. の傲慢な議論は、今作ではおちゃらけ/すっとぼけ路線に徹することでうまく回避できているように思えたのだが、世の勇者たちはそれでいいのか。これって結局、眉間に皺で見得をきって血を吐いたり腹切ったりして鬱陶しくてしょうもなかった時代劇のオトコ共(”RRR”もおもしろいけどそれでもまだ臭)を無化するようなところがよいと思った。“Pokémon: Detective Pikachu” (2019)の彼とか、“Bridgerton” (2020)の彼とか、いかにもー。

あと、唯一でてくる(あれ一匹よね?)太っちょドラゴンがたまんなかった。あれができるなら”How to Train Your Dragon”の実写もできないかなー … やめたほうがよいかなー。

最後に流れてくる80’sのばったもんみたいなこの曲はなに? と思ったらTame Impalaだった。更に続いてひどい音質の曲がながれて、日本語で歌っているらしいのが聞き取れたが、日本語版テーマ曲とかくそくだんないやつ、まだやってるのね。

4.06.2023

[film] 女の暦 (1954)

4月1日、土曜日の昼から午後にかけて、シネマヴェーラの特集『香川京子 畢生の純情派』から2本続けて見ました。

香川京子さんは、2003年にNYのリンカーンセンターで小津の生誕100年の特集上映があった時、『東京物語』(1953) のトークで登場して、結婚したあと、夫の駐在についてアストリアに住んでいたと聞いていいなー、って。アストリアよいとこ。

原作は壷井栄のデビュー短編集『暦』(1940)から、監督は久松静児、脚色は井手俊郎、中河百々代。

小豆島の見晴らしのよい一軒家に杉葉子と香川京子の姉妹が暮らしていて、両親は他界して、二人は生き残っている5人の姉妹のうち、結婚していない4番目と5番目で、杉葉子は学校の先生で庭に朝顔を植えてでっかい花を咲かせる・結婚なんてするもんか、って元気で、香川京子は留守番と家事をしつつ、畜産農家で働く舟橋元とこっそり会って – デートについてくる豚たちかわいい - 結婚を考えたりしている。

今年は両親とか祖父母のx回忌とかいろいろ重なるので法事をしましょう! ずっと会っていないお姉さんたちを呼びましょう! って姉妹は広島にいる長女の田中絹代、大阪にいる次女の花井蘭子、東京にいる5女の轟夕起子に手紙を書いたり、東京出張のついでに会ったりして手はずを整える。

最初に帰ってきたのが夫の三島雅夫と大喧嘩をしてもう絶対に戻らないという勢いの花井蘭子で、次が5人の子供を抱えて貧乏生活がとまらない田中絹代、最後に夫が労働争議で収監されている轟夕起子が現れて久々の再会を喜んだ後に、いろいろ事情はあれど結婚したってロクなことはねえぞくそったれ、って互いの家の愚痴合戦になり、そこに結婚反対派の杉葉子がそれみたことか、て乗っかるので、この機会にみんなの前で自分の結婚のことを切り出そうと思い詰めていた香川京子はどうしよう.. ってなって、それでも意を決して、舟橋元から貰った首なし鶏一羽を差し出してわたし結婚します、って言ってみると、その場の一同大爆笑になったので、彼女は泣いて家を飛び出しちゃうの。

時間が経つと轟夕起子が慰めてくれたり、他の姉たちもおめでとうよかったね、って言ってくれるのだが、なんであそこで突然爆笑になっちゃったのか、ちょっとわからないかも。まずはふつうにおめでとう、ではないの?

でもとにかく、法事が終われば姉たちは散々文句をぶちまけていた自分たちの家に - 田中絹代はお腹を空かせた子供たちが心配そうだし、花井蘭子は夫が来てくれたのでご機嫌直っているし – いそいそと戻っていくので、杉葉子はふん! っていつもの自分に返るの。

みんなそれぞれ、いろいろ大変だけどよかったねがんばろうね、みたいなとこに落ちて、映画はそんなんでも家族があるといいよ、のようなかんじなので、杉葉子がんばれ、になる。あんなよい場所に一軒家でひとり暮らしできるなんてうらやましいし。

あと、とにかく豚さんがー。


暁の合唱 (1955)

↑のに続けて見ました。フィルムセンターの16mm - 途中でリール交換タイムが入る。原作は石坂洋次郎の同名小説 (1947)、脚色は八住利雄、監督は枝川弘。

香川京子は女子大の試験に向かう朝、成績優秀だったので試験は心配していなかったのに、家の弟の将来のこと - パイロットになりたいって - を考えてしまい、試験場に行くのをやめて、そこに貼ってあったバス会社の求人広告を見て、その場で申し込んで住みこみの車掌として働き始める。はじめは車掌でも将来は運転手になりたい、って床磨きから入って、事務所では社長の小沢栄太郎の他、社長の甥で遊び人の根上淳とか、運転を教えてくれる運転手の高松英郎とか、いい人たちがいっぱいで、彼女が盲腸で倒れるとか立ち往生したバスでのお産がはじまるとか、困難がやってきてもみんなやさしく手伝って協力してくれて、運転免許も取ることができるのだが、最後にはやっぱり結婚話を持ってきた社長の前に屈して(あんなの断れないし)その相手がたいして好きそうにも見えない根上淳なので、えー、ってなり、結末はあまりに安易だし気持ちわるいし。

バス路線でのそこに乗り合わせた人々を巡る出来事が「よい話」の方に転がってほんわかする系のお話しだけど、なんで終点に結婚がいるねん?


50年代にっぽんのこういう家族が絡むコメディ、おもしろいのはおもしろいから今後も見たいけど、結構きつくなってきたかも。 結婚や家を出ること作ることを巡る騒動があっても、結局、結婚するのが一番だし子供をいっぱい産むのがあたりまえだし。で、そのメンタリティは今の今までなーんの反省もなく維持されたまま、個々の人としてはみんなよい人で、悪意なくにっこり笑いながらぐいぐい押しつけてくる。戦前からずっとこのまま芋づるの官民一体で。この目の前にある気持ち悪さをとりあえず横に置いて昔話を楽しむ、なんて芸当はムリだししんどいし。リアルはこんなもんじゃない甘えるな、とか言われそうだし。

4.05.2023

[film] Das geschriebene Gesicht (1995)

3月30日、木曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
邦題は『書かれた顔 4Kレストア版』、英語題は“The Written Face”。チラシには『黄昏の夢、あるいは夢の黄昏』とある。

監督はDaniel Schmid、撮影はRenato Berta。 ユーロスペースで過去何度か行われた気がするDaniel Schmid特集で昔も見ている。

坂東玉三郎、女優の杉村春子、日本舞踊家の武原はん、舞踏家の大野一雄、日本最高齢の芸者-蔦清小松朝じへのインタビューや彼らの過去&現在の活動(映像)を織り交ぜつつ紹介するドキュメンタリーのパートと、フィクション(であろうがなかろうが)パートの『黄昏芸者情話(The Twilight Geisha Story)』からなるのだが、Daniel Schmid自身の言葉として、これはドキュメンタリーではなくフィクション - 黄昏についての物語で、黄昏とは映画のことなので、これは映画についての映画なのだと語っていて、Daniel Schmidは自身の作品 -『人生の幻影』(1983)でも『トスカの接吻』(1984) でも、黄昏を撮り続けてきたひとであるから納得する。なので、これは海外からやって来た映画監督が日本の伝統芸能を取りあげてよくできましたー(日本すごい)などというものではまったく、ぜったいないの。

黄昏とは、終わっていく、消えていく運命にあるものがそれを受け容れつつその最後の光のもとでなにかを浮かびあがらせようとする最後の振る舞いとかひと息とか試みとか – そのなにかには自身も他者も世界のすべてが包摂されて、やがては暗闇がやってくる(のがわかっている)。 ここにおいて和だの洋だの、いったいどんな意味があろうか? 

ここで前日の『音の映画 Our Sounds』(2022)のトークにあった、芸能におけるコスモロジーの回復 – 闇を手繰って音(光)を獲得していくような話と、この映画の黄昏において光が減衰していく話が重なる気がして、それにしてもここで見ることができる坂東玉三郎の舞い「鷺娘」「大蛇」「積恋雪関扉」のとても美しい、とは一言で言えない異様な艶やかさや動態、埠頭の水の上に浮いているような大野一雄の立ち姿、杉村春子の『晩菊』のはしゃぐシーン、三味線を手にする蔦清小松朝じのテンション、すべてが来たるべき闇に向けて、そこにある音や葉や羽を落としていくような、それでも次に継がれていく芸能のありようについて考える。

もうひとつ、フィクションパートの『黄昏芸者情話』のほうは、古い屋形船の上で若い二人の男たちが芸者に扮した坂東玉三郎を陰で取りあうさまを、サイレント映画の画面設計で見せて妙に生々しい。この「情話」は玉三郎がソロで見せる3つの舞いのバリエーションなのか、更に化粧と衣装を落とした彼が90年代の街中を車で行ったりホテルにいたりする現代のシーンもあって、これらを総合するとやはりぜんぶフィクションなのだ、というのが一番しっくりくるのかも。

あと、「描かれた」ではなく「書かれた」顔である、ということ。彼らの顔は、自由に受け取ったり解釈できたりするイメージとして描かれているのではなく、大昔からテキストとして書き継がれて読むことのできる人が読んで咀嚼し、写しとったり上書きしたり推敲したりしながら舞台の上などで実行してきたものである。そういう厳しさ(今の世だったら許されないような嫌なこと - 差別や迫害も含め)が表出したものなのだ、というのの反対側で、それが書かれたものであるならば(翻訳が必要かもしれないが)我々はそれを読むこと、演じることができる、という開かれたありようもある - 男が書いた女の貌を男が舞う、演じる、というアート/芸能。

そして、この書かれた顔はどのようなドラマ(これも書かれたもの)の台本にのって、どのような役割を演じて、歌って、舞ってきたのか/演じていくことになるのか、など。芸能の世界の底なしの広がりの交点にいる玉三郎と老いた者たちはなんでそんなふうにいるの? あることができてきたの? など。とてつもなく男性中心社会、というのも、あることはある。

あと、パンフレットの終りに掲載されているプロデューサーの堀越さんとアソシエイト・プロデューサーの松本さんの対談 - 『80年代シネクラブの総決算としての『書かれた顔』- にある撮影の舞台裏がめちゃくちゃで、総決算としか言いようのないおもしろさ。いろんな意味で奇跡のような作品だったのだな、って。

4.04.2023

[film] 音の映画 Our Sounds (2022)

3月29日、水曜日の晩、イメージフォーラムで見ました。
上映後に宇野邦一さんと監督ハブヒロシさんのトークつき。

映画のサイトには、”Bộ Phim: Âm Thanh Của Chúng Ta”とベトナム語があって、これを翻訳にかけると『映画:僕らの音』。 岡山県高梁市の日本語教室に集まったメンバーたちが登場して「みんな で あつまって いっしょに うた を つくる ドキュメンタリー・ミュージカル・フィルム』とのこと。(そのひらがなの、かたことのたどたどしさに寄り添いながらつくられた映画があり、それを聞く我々もその域内に取り込まれていくイメージ)

画像のない映画、ということで時間になると予告編もなしに突然電気が落ちて、正面のスクリーンは灰白色の、なにかが映り始めそうな淡い瞬きの状態(これ好き)を維持したまま、音(だけ)が聞こえてくる。最初はPCを操作している音からTV会議かなにか、向こう側に繋がって(繋がったから)挨拶しているような様子がうかがわれて、向こう側は片言の日本語を喋り、たまに疎通に困ると翻訳ソフトにタイプしてベトナム語に変換して会話が成り立っているらしい様子とか。

次のシーン(場面が切り替わったり何が見えたりするものでもないので、この言い方でよいのか)では音のトーン(というか肌理というか、その音がどういう環境のもとで鳴って響いているのかがおおよそわかる)が変わり、ひとつの部屋とか教室のようなところで直接会って話しているようで、その次には電車の音(よい音)が入ってみんなで外に遠足に行っているようだ(行先は神社)、とか。

彼らが話しをして、こちらに聞こえてくる内容はというと、好きな言葉、とか、海の向こうにいる家族のこととか、いくつかの言語が混じったシンプルな受け答えが殆どで、容易に想像できそうな異国で暮らす困難など、ストレートに個別の問題を提起したり喚起したりするものではなく(あったのかもしれないけど、編集されていたりするのか)、気がつけば遠くでかたかたリズムが鳴っていたり、言葉が鼻唄のように流れて繋がり始めたり、合図や掛け声もないままにその小さな囁きや呟きの音やノイズがより大きなうねりに取り込まれて、気がついてみればものすごく気持ちよい歌と音に囲まれている。その気持ちよさって、ヘッドホンやライブで聴く音楽のそれとはちょっと違うかんじで、でもとにかくすごくよいのでびっくりする。あと1時間、あれだけずっと流れていてもよかった。

前方のスクリーンを睨んでもなにも出てこないし、目を瞑ると寝てしまう気もしたので、スクリーンを「見る」しかなかったのだが、やはり、どうしてこんなにもこの目と頭は「見る」ことをしてしまいたがるのか、とか、リスニング・パーティとはどう違うのか、とか、そんなことを考えていた。それは普段映画を上映している場所で行われているから、とかタイトルに「映画」と入っているからではなく、「映画」の定義がどうたらでもなく、それにふれている時の知覚のありようとかその推移とか往復運動は、「映画」のそれとしか思えなかったので、これは映画と呼んでもよいのかも。

そしてそこから、これを「映画」とした時に改めて見えてくる貌のようなもの、映像をシャットアウトして初めて聞こえてくるもの/知覚されてくるものについても考える。移民の人たちの声や歌は、映像と共に示されたら果たしてこんなふうに聞こえてきただろうか、など。(あと、少し昔だと七里圭の『闇の中の眠り姫』(2007)とかもあった - けどこれとも違うな、とか)

上映後の監督と宇野邦一さんの対話は、30年代にアルトーが演劇について考えていたこと - 映像をなにかに従わせてはいけない - からドゥルーズの、見ているものと聞こえているものの共犯関係を断ち切る、という話まで、そしてやっぱり、Derek Jarmanの”Blue” (1993)への言及があり、更にリュミエールからではなく芸能 = performing arts の系譜・世界観から共同作業としての映画を捉え直す。芸能の根本はコスモロジーの回復でありストーリーを伝えるため(だけ)の閉じたものではない、と。 まとまりすぎるくらいにまとまってしまったのできょとん? ってなったけど。

4.03.2023

[dance] ROH Live Cinema Season: Like Water for Chocolate

3月28日、火曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。

英国Royal Opera Houseのライブ配信シリーズで、Royal Balletによる『赤い薔薇ソースの伝説』。

原作は世界的ベストセラーとなったLaura Esquivelの同名小説 - “Como agua para chocolate” (1989)、1992年にはメキシコのAlfonso Arauによって映画化されている(どちらも未読で未見 - 渡米していたからか)ものを3幕からなる新作バレエとして2022年6月に上演したもの。ABTの方でも先月プレミアされている。

バレエはライブで、をずっと信条にしてきたので(床を叩く音とか客席のどよめき- 小さい悲鳴とか、理由はいろいろ)、バレエの配信はこれまで見ないことにしていたのだが、この国でバレエをライブで見ようとすると料金がバカ高くて、興行界の方も観客の方もそこになんの課題も感じていない幸せに腐れた世界のようだからもう配信でいいや、にした。

振付・監督はChristopher Wheeldon、音楽はJoby Talbot、セットデザインはBob Crowley - Luis Barragánに影響を受けた茶褐色。メキシコ音楽に関するコンサルと指揮にAlondra de la Parra、原作者のLaura Esquivelも協力していて、最後の方でメゾソプラノの歌唱も入る。収録されたのは、メインがFranchesca HaywardとMarcelino Sambéの回。

インタビューで関係者も語っていたが、この時代にレパートリーでもモダンでもない完全に新しくまっさらな原作もののプロダクションを一から作る、しかも舞台は手慣れたヨーロッパではなく、原作も古典ではない、マジック・リアリズムがうねりまくるラテンアメリカ小説で、これなら実現までに数年かかった、というのも頷けてしまう。よくこんなの作ったよね、っていう感嘆がまずくる。

冒頭、スクリーンに「末娘は結婚せず母親が死ぬまで面倒を見なければならない」という文言が出たあと、黒衣(反対を向くと白)の13人の花嫁がぞろぞろ現れて後方横一線に並んで不吉に舞台を眺めている。台所で生まれた家の末娘Tita (Francesca Hayward)は料理人のNacha (Christina Arestis)に料理を教わりながら、近所のPedro (Marcelino Sambé)と仲良くなって、このままずっと一緒にね、って思っていたら、TitaのママのMama Elena (Laura Morera)はしきたりだから一緒になることは許さぬ、ってPedroはTitaの姉のRosaura (Mayara Magri)と結婚することにされていて、それでもPedroはTitaの近くにいられるのなら、と結婚を承諾するのだが、結婚式でTitaの料理とケーキを食べた出席者たちはおかしくなってNachaは死んでしまったり、もうひとりの姉のGertrudis (Meaghan Grace Hinkis)はなにかに目覚めたのか革命戦士と機械の馬に乗って駆け落ちしてしまうし、ここから一族全体を覆う呪いと地獄 - 会うも地獄会わざるも地獄 - の情念の日々と世界が繰り広げられていく。

第二幕でMama Elenaによって強引かつ物理的に引き離されたTitaとPedroの苦しみと、それにより精神を病んでしまったTitaを救うジョン医師 – Dr. John (Matthew Ball)の登場とふたりのにじり寄りと接近、Mama Elenaの死と共に明らかになる彼女の悲しい過去、そして亡霊/怨霊としての復活、捩れが戻ったと思ったら今度はPedroが倒れる等、昼メロ並みに大波大嵐のてんこもりで、ただTitaとPedroの愛と絆の深さはふたりの一幕目からのダンス、というより親密かつエロチックな絡みで十分伝わってくるので、そんなに踏み外しているかんじはないの。

でも、二幕までの怒涛の流れ比べると、第三幕はやや蛇足というか、なくてもよいくらいかも。古からのしきたりがパワーを失った – のは別にそんなのなくて当然なので、ママとRosauraの死により消滅、で十分な気もした。

ホット・チョコレートを作る時に牛乳の替わりに水で作る、原題はそのための水(お湯)を指してて、ここから、情熱 - 激情に溢れた状態、更にはオーガズムを指したりもするそうで、それは中盤に向けての水が絡まるようなふたりの舞いを見れば納得できるのだが、邦題だけだとなにがなんだかさっぱりわかんないよね。 映画と翻訳本の日本でのリリースは同時(1993年)のようなので、映画のタイトルに引っ張られたのだと思うけど、なんか勿体ない。少なくともこのバレエは「伝説」を語ろうとしているものではないし。

家の、しきたりの呪縛と恋の挟み討ちで純粋な少女が狂ってしまう、というお話しだと、その狂いようから”Giselle”などを思い浮かべて、”Giselle”は相手の男がくずだったからという違いはあれど、あれも母親と娘が始めにあった、とか、あれは本人が亡霊になったけど、これは母親が亡霊になる、とかいろいろ思ったり。あと、ヨーロッパとラテンアメリカにおける狂気の現れようの違いとか。

これ、日本でもごく普通にありそうな話だねえ、ってMama Elenaが亡霊となって現れるところで「新八犬伝」の玉梓が怨霊みたいだ、と思ったり、でっかい人形劇にしてもおもしろくなりそう、とか。”Like Water for Sticky Rice”か。

でもやはりこれはロープや布といった縛るもの覆うものと生身の女と男の身体がどうやってそれらに絡み絡まれ覆われて、数十年に渡るがんじがらめの隙間や切れ目から互いを見つけてその身をなにがなんでも委ね解き放そうとしたのか、その身悶えに寄り添おうとしたダンス、なのだと思った。テーマだけならAkram Khanあたりがとりあげてもおかしくなさそうな。

真ん中のふたりは本当に素敵で申し分なくて、他の(唐突すぎてわけわかんない)革命軍のパートですら力を抜かない見事な踊りを披露してくれた。

配信で見たバレエはやっぱり、そこはなんで引いて全体を見せない? とか、なんで上半身しか見せない? とか、なんでそこで切ってあっち側に飛ぶか? とかなかなかのストレスが押し寄せてきた。これならいっそFixで全景だけ映してくれていた方がまだ。 やっぱりライブで見たかったなー。

カーテンコールの後はあそこの狭い通路を抜けて地下鉄のCovent Gardenの駅に向かい、混雑のなかエレベーターでホーム階に下りて電車がくるのを待って … を脳内再生してしんみりしたの。

4.02.2023

[film] Irma Vep (1996)

3月26日、日曜日の午後、”Les vampires”の上映の合間に日仏学院で見ました。
作・監督は後に2022年のHBOの同名ドラマシリーズを手掛けることになるOlivier Assayas。

大学で19世紀末の連続大衆小説作家のGustave Le Rouge (1867-1938) - Paul Verlaineとも親交があった - について論文を書いたAssayas がその同時代に映画を撮っていたLouis Feuillade (1873-1925) に関心を持つのは当然の流れだったと思うのだが、”Les vampires”のオリジナルのストーリー展開や設定をそのままなぞるのではなく、舞台を現代に置いて、どちらかというとサブキャラに近いIrma Vepをフロントにして、更にその映画制作の現場を - バックステージものとして撮ることには、ものすごく一貫した意味と倫理(のようなもの)があるはず。 (その辺の話を聞けたかもしれない31日のAssayasのオンライン講義を聞けなかったのが悔しいよう)

まず時代設定は現代に置かないと意味がない - オリジナルはあの時代の世相や街のありようをダイレクトに映し出すことでLes vampiresという組織の出現と暗躍を生々しく活写しようとした、これをガイ・リッチーがシャーロック・ホームズでやったような荒唐無稽な時代劇パッケージにしてしまうことだけは避けなければならない。

他方で、ギャング団やその抗争、事件を巡る捕物などにしてしまうことも同様の理由でそんなに意味がなさそう、となった時に唯一、フロントに立って磁場となり惹きつけてかき混ぜてくれそうなのが”vampire”のアナグラムとして生成加工された”Irma Vep”なのではないか、と。

そしてその舞台は、普通の会社組織でも裏社会でも社交界でもないようなところでなんかないか? って見回してみたら足下にあった。映画制作の創作現場が首をつっこまざるを得ない表と裏の社会の割れ目の諸相あれこれ、縛りとストレスとプレッシャーまみれの「現場」こそ、現代のIrma Vepが - 配役でもリアルでも - 出現してもおかしくなさそうな坩堝、と言えるのではないか。

最後にあるのが、連続ドラマがその本質として持ちうるスピード感とか追い立てられ感のところ。これを実現するには予算とか規模とか簡単ではなさそうなので、まずは1本ものでデモのようなラフスケッチのようなのをさらっと描いてみたのが96年版、そこから26年後に本来あるべき姿だった連続活劇巨篇として完成させた。

というコースで考えてみることもできるし、実はそんなのはぜんぶはったりで、Maggie Cheungの魅力にやられてしまった悪の首領Assayasが、彼女に近づいて捕えるために張り巡らせた罠 - スクリーンテストとぜんぶ後付けの口実 - だった説も根強い。(うーん、後者かな)

こうして、香港映画のアクションスターとして”Irma Vep”を演ずるべく監督のJean-Pierre Léaudに呼ばれて、フランス語がまったくできない状態で、先が見えていない撮影現場に放り出されたMaggie(役名もMaggie Cheung)の格闘の日々 - 呼んでくれた監督の期待に応えるべくあのコスチュームで動き回ってみると、その扮装が彼女にIrma Vepを憑依させて、実際にホテルで盗みを働いてしまったり。

現場の方は、かつてカルト的な人気を誇り慕う人も多かった監督があまりに好き勝手にやり過ぎて現場をコントロールできないことが露わになり、その結果逃げたのか外されたのか、新たな監督 - Lou Castelに変わって、その彼は主演女優がアジア系であることが納得できないらしい。(1910年代のヴァンピールがどんな人種・階層構成だったのか、それが90年代にどうなっていてもおかしくないのか、は考察に値するテーマではないか?)

Jean-Pierre Léaudはヴァンピールのサタナス(の映し絵)で、彼が自死したあとに別の首領に替わって組織は壊滅する - 本作の上映タイミングがそのエピソード7-8と9-10の間に置かれたのは偶然なのかヴァンピールの策謀なのか。

Louis Feuillade的な世界(観)をどうやったら現代社会(pre 911)で映像化できるだろうか、というとりあえずやって見る系のデモセッションなのでどうしても座りがよくなくて、あんなざらざらノイズまみれの画で撮られた、というのと - それでもその向こうに立ち上がるMaggie Cheungの姿がそれとわかればOK、なのかも。Sonic Youthの”Tunic (Song for Karen)”が鳴り出すところ - この時期のSonic Youthはよいねえ - と、Jean-Pierre Léaudが失踪前に遺していったアイビームの落書きのとこだけで十分、実際あれで1/4世紀は持ちこたえたのだった。 2022年版も、時間をおかずに再見せねば。



RIP  八重洲ブックセンター;
わたしは学生の頃にここでバイトしていた。まだ人文書コーナーが2階にあった頃の2階にいて、とても楽しかったのだが、新刊が入るとつい取り置きしてしまうので月の手取りが5千円くらいにしかならなくて、これはだめだろう、って自分からやめた。本が好きなら本屋やれば? ってたまに思っても自分で打ち消してしまうのはここでの経験があったからなの。その呪いが解かれた、と解釈してよいのか?


RIP  Ryuichi Sakamoto;
音楽はなぜそんなふうに鳴って聴こえて、その粒や束がどんなふうに耳の奥を伝わってきて、美しいとか哀しいといった不思議ななにかを我々のなかに呼びさましたり訴えてきたりするのか、を常に考えてわかりやすい言葉と音楽で教えてくれる - その思考の最中に引き入れてくれる人であり音楽だった。 その意味での「教授」で、でも決して権威にはなることなく、常に思索者、実践者として導いてくれた。
ありがとうございました。


こちとら安らかどころじゃないってのにさ..

4.01.2023

[film] Les vampires (1915 - 1916)

3月24日、金曜日の夕方にep.1-2-3(39分-17分-48分)を、25日、土曜日の午後にep.4-5-6(38分-45分-72分)を、26日、日曜日の昼にep.7-8(55分-65分)を、間に”Irma Vep” (1996)を挟んで、夕方にep.9-10(60分-68分)を見ました。

邦題は『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』。英語題は”The Vampires”。
上映している3日間、ほぼずっと雨がざあざあの暗く湿った週末で、そこがまた雰囲気としてはたまんなくて、低気圧頭痛と共に吸血の沼に沈められてしまうようだった。

作、監督はLouis Feuillade。ピアノ伴奏は柳下美恵さんで、演奏がとにかくすばらしくて、特にGaumontのロゴが表示されたあと、低音のテーマがでけでけ鳴り出すところがたまんなかった(まだたまに頭の奥で鳴ったりしている)。あのピアノ伴奏付きでDVDだしてほしい。

Louis Feuilladeの作品は、シネマヴェーラで一日がかりで上映したりしていた”Judex” (1916)もあったのだが、まずはどこかでこっちを見なきゃ、ってずっと思っていて、その熱が昨年のTIFFでのOlivier Assayasによる(オマージュというのかリメイクというのかなんというのか)”Irma Vep” (2022)を見て再燃したので、なにがなんでも見なきゃ/見たい、になっていたところでの今回の特集。

1910年代のパリを舞台に当時の観客を熱狂させていた連続活劇のフィルムが30年代、ふつうに舗道に捨てられていて、それをアンリ・ラングロワが拾ったとかいうそれ自体ノワールっぽいいかがわしさ満点のエピソードも含めて、吸血ギャング団は実在していて今も秘密結社として暗躍しているのではないか、とか。

各エピソードのタイトルは、以下のとおり。こうやって並べてみても(こういうタイトルの本が並んでいるのを想像したりすると)、不穏でやばいかんじが満載で、しかも表紙にIrma Vepの絵があったりしたらすぐ手にとるしかない。

ep1:“La Tête coupée”『首なし死体』、ep2:”La bague qui tue”『殺しの指輪』、ep3:”Le Cryptogramme rouge”『赤い暗号文』、ep4:”Le Spectre”『幽霊』、ep5:”L’évasion du mort”『死者の逃亡』、ep6:”Les Yeux qui fascinent”『幻惑する眼』、ep7:”Satanas”『サタナス』、ep8:”Le maître de la foudre”『稲妻の主』、ep9:”L’omme des poisons”『毒の人』、ep10:“Les noces sanglantes”『血に染まった結婚』。

各エピソードの個々の筋を追っていくのはしませんけど、ポイントはこれが1本の長いドラマではなく、連続活劇ドラマとして作っていく端からリリースされていったことで、たぶん観客は「幻惑する眼」にやられて催眠術にかけられたように次を追っかけて劇場に向かった、その目は彼方の第一次大戦の方からも、戦場に吸い込む魔の力として吹いてきて、これが生きて最後に見る映画になる、Musidoraが生きて最後に見る女性になるのかもしれない、そんな切迫感も感じられたりもする。(このかんじが画面上のどこから来るのか - 死体の雑な扱われ方とか、だろうか?)

新聞記者のPhilippe Guérande (Édouard Mathé)はあちこちで頻発する怪事件の裏にヴァンピールという組織が動いていることを突きとめ、その動向を追っているうち、オフィスでファイルが盗まれていることがわかり、横にいたMazamette (Marcel Lévesque)を捕まえるのだが、彼は3人の可愛い子ら(写真を見せる)を養うために仕方なくヴァンピールで働いているのだ、って泣き言を言って許してもらって、これ以降Guérandeの協力者としてなくてはならない存在になる – というかこの人、後半はGuérandeよかずっと活躍して偉いのだけど。

最初のエピソードで、死体のすり替え - 死んだと思ったら生きてた、とか別人だった & 生きている方だっていくらでもすり替わる、っていうヴァンピールのやり口というか方程式が示され、それに従って団の親玉も最初のLe Grand Vampire (Jean Aymé)からSatanas (Louis Leubas)へ、最後のVénénos (Frederik Moriss)へと変わって、その攻め方も変えていくようだし、Irma Vep (Musidora)も敵対ギャングのMoréno (Fernand Herrmann)のところで動いたり戻ったり、敵も味方も変幻自在に規模や姿を変えて、でも人殺しとか悪いことはいくらやっても懲りない飽きないような。(でも人数いる割にはそんなに稼げていないのではないか。みんな副業なのかな)

エピソードが細かく切られているので気にならないだけなのかもだけど、悪玉善玉それなりに間が抜けていて、あちこち突っこみどころは満載で、Guérandeは記者みたいなことをほとんどしていないようだし、警察はあまりに間抜けでなにもしていないようだし、悪い奴らもいちいち催眠術かけたり麻酔したり針仕込んだりしてないですぐに殺しちゃえばいいのに、とか。

でも本作で見るべきはやはりそこではなく、そうやって地下・地中で蠢いてやまない悪への渇望 – なんで悪いことをしちゃいけないのか? - をそこらの路上とかドアの向こうから突然にやってくるもの – そして突然暴力的に日々の均衡や安定を壊すものとして描いて暴いてしまったあたりではないだろうか。(やっちまえ! のやりくちが映像として街中に広がっていく)

結局、ヴァンピールとは何だったのか、何を起源として、そこにどんなルールがあって、何がメンバーを惹きつけて集めるのか、なにひとつ明らかにされていない、けど、リーダーが替わってもみんな楽しそうに宴とかやっているし。Mazametteだって最初は生活のために入っていたし、これなら加わっておいてもいいんじゃないか、というような秘密結社のありよう。

その反対側の、正義の味方っぽいGuérandeとMazametteもなんのためにやっているのか、見返りとかあまりなさそう(アメリカのお金持ちから棚ぼたはあったけど。Guérandeはいつの間にか婚約したりしてるけど)だし、その割には絶えず危険に晒されるし、シリーズ全体を通してみれば、どうみても悪の道に誘っているようにしかー。

あと、Irma Vep = Musidoraのなんとも言えない魅力については、明日の日仏で『ドン・カルロスのために』を見てから改めて。

こういうの、映画館でエンドレスで流し続けてくれて、ふらっと入って見たいとこ見て、さっと抜けたりできたら最高なのになー。