8.29.2011

[music] アナログばか一代

日曜日も引き続いてシネマヴェーラに通うつもりだったのだが、昼間は少し横になっただけでまったく立ちあがることができなくなり、夕方から少しは軽そうに思えたこっちのイベントにした。

夕方5時半からだらだら始まり、終わったら9時を過ぎていた。
こんな締まりのない、茶の間でレコード掛けながらだべっているだけみたいな会のことを書くのはどうか、とちょっとだけ思うが、でもおもしろかったんだもの。

もうじき公開される”Get Loud”ていう映画にちなんで、ギタリスト/ギターの音をアナログでばりばり。
映画で取りあげられている3人のギタリストについてはいろいろ思うところもあるし、あんたらに"Get Loud"なんて言われてもねえ、というのもなくはないのだが、それはちゃんと映画を見てからね。

開場したときに流れていたのはDuane Eddyのいいかんじので、そのあとの一発目がYoung Marble Giantsの"Final Day" (1980)ですよ。 アナログのギタリスト特集の一発目がStuart Moxhamというとこがいいよねえ。

んで、そこから突然、Loren Mazzacane Connorsに飛ぶのね。 すごいでしょ。
そっから、Table of the Elementsから出ていた元素記号シリーズの何枚かを。 
そうか、あのジャケットのなかみはこうなっていたのか、というのがはじめてわかってうれしい。

電気ギターの音て、よく「がつんと」とか「稲妻のような」とか形容されることが多いが、それって、そういう音を追及したギタリストのちゃんとした録音ブツをアナログのでっかい音で再生すればほんと稲妻になるのね、というのがしみじみわかるのだった。

個人的に圧巻だったのは、The Whoの"I can see for miles"のUKのモノ盤。
このとんでもない過剰さには笑うしかなかった。
「ぼくにはうーんと遠くが、遠くが、見える、見えるよ!見えるよ!!」とか歌いながら足下の地雷で粉々にふっとんでしまうバカ、みたいな絵がうかぶ。

いつかきっと、こいつのUK盤を入手してやる。

ギタリストの選択は、やはりがつん系、妄執系、弦1本1本を濃ゆくぶっとく鳴らす系にやや寄っていて、さらさらしゃりしゃり系はやや少なめだったか。
今回取りあげられなかったのはどんなのがあっただろう。 いくらでもあるか。

John Fahey, Ry Cooder, James Burton, Steve Cropper, Roy Buchanan, Gary Lucas, Mick Ronson, Fred Frith, Bill Frisell, Richard Thompson ...   あとはあとは。

Jeff BeckもJimmy Pageもかからない。ClaptonもCreamで一曲だけ。そういうもんよね。
そのJimmy Pageさんが師と仰いだLink Wrayの"Rumble" と、ついでにそのB面の"The Swag"をかけて終わり。 

これが今から50年以上昔の音。 音のやかましさとかエッジとかって、ほんとに物理的に耳を直撃するもんだから、再生装置とかあんま関係ないように思われるのだが、今のところはこんなふうに針をがりがり引っ掻いて増幅されてくる音にかなうもんはないようだった。 - 50年たっても危険物は危険だ。

今回は即売がある、ということで楽しみにしていったのだが、あんま手を挙げるひとがいないし、いいのかなあ、というかんじで買ってしまった。 4枚だけ。
だって、デパ地下で試食やってて、しかもほんのちょっとじゃなくてフルで食べさせてくれて、そのあとで、いるひと? て言われたらふつう手挙げるよね?  なんどでも食べたいよね? 

でも、あまりに安すぎやしなかったか。

ついこないだ、約10箱に封印されていたアナログをようやく棚に展開することができたし、ごちゃごちゃ虫よりもひどく、どっからでも湧いてくるCDにはうんざりしてきたし、これを機に、オーディオなんとかする計画をちゃんとしよう、と改めて思うのだった。 
その前に片づけろ、はあるにしても。

次は9月のアテネかー。

[film] 鉄砲玉の美学 (1973)

土曜日は半分仕事で、終ってからアテネのハルーン・ファロッキ特集に行くつもりだったのだが、思っていたよか早く終ってしまったのと、なんかあたま使いたくなかったので、久々にシネマヴェーラに行った。

特集『中島貞夫 狂犬の倫理』。 初日、トークがあるせいかすんごく混んでいた。

『くノ一忍法』(1964)
徳川の攻めにあって落城寸前のお城で真田雪村から5人の女忍者に指令がくだされて、子供ができない千姫に代わって豊臣秀頼の子種を受けてなんとしてもそれを守れ、豊臣の血を絶やしてはならぬ、と。
こんなのパワハラ&セクハラの極致じゃん、とか、よれよれの秀頼からどうやってよってたかって5人分搾りとったのか、とか、いろいろ思うところはあるのだが、お話しはそっから先の、それを察知した徳川が差し向けた5人の伊賀忍者(全部男)とのぐさぐさのやりあいがメインなの。

攻める男忍者と守る女忍者、やや(遺伝子)のTransporterとしての女忍者、という構図設定なので、だれがどうみても差しつ差されつ、みたいになっていくのだが、まあとにかくおもしろい。 
映画、というよか原作の山田風太郎がえらいのかもしれんが、よくもあんなの思いつくよね。 菩薩みたらへろへろそのまま無間地獄行きとか、いったんさしたら体液をぜんぶ搾りとってしまう(なのに死なない)、とか、さしこんだら抜けなくなる、とか。 あとは、胎児の別の人体へのTransport、とか。男にも移してたから子宮ごと可、ってことだよね。 すごいねえ、どうやってやるんだろ。

基本はどっちかがどっちかをめろめろにした時点で、あとは殺るか殺られるか、なにごとも最初のメンチ切りがかんじん、ということのようだ。

あと、最後のほうで出てきたピンクの毒ガスみたいなやつ、あれ、おならじゃないよね。 ねんのため。

約400年前にあったX-Men同士の死闘。 修行とかどうやったんだろうねえ。


『鉄砲玉の美学』(1973)
かっこいいタイトル(監督が自分でつけたのだという)。本特集のタイトル『狂犬の論理』とおなじく、美学がありえないところに、論理が成り立たないところに、あえてそれを見出し、組立てようとする、映画というのはそういう無謀な試みなんである、と。

冒頭、頭脳警察の「ふざけんじゃねえよ」のぱんぱんにつまったモノラルのギターカッティング(すんごくよい)にのって、鉄砲玉指名された渡瀬恒彦がいきがって強がって、でも狙ったところには届かずに、ただの流れ弾(しかも当たらない、捨て弾)になってしまう様を、その流れ弾の軌跡そのものにフォーカスして描いたような作品。

鉄砲玉、という上からの役割期待に応えられなかった、失敗した、という話ではなくて、与えられたピストルと100万円で完全に舞いあがって、とんでもない方向に銃口を向けて自滅してしまう、とほほなお話し、でも、それでも彼は彼なりに神の地を目指そうとしたんだ、という。

宮崎まで行って小規模に暴れまくる主人公との対比で、アパートの部屋でラーメンばっかり食べながら待つ女と、キャベツをもふもふ食べまくり、でっかくなっていくウサギ達が描かれ、結局のところ君の居場所はここで、無心にキャベツでも食べていればよかったんだよ、というところに落ちつくかに見えて、でも、ふざけんじゃねえよ、キャベツだっておいしいし、ウサギにだって牙はあるし、走れば速いんだよ、と目玉をひんむいてあさっての方角に突っ走る。

鉄砲玉とかちんぴらとか、或いはそれらの美学 - 特定のイメージにむかって落ちついていくことを終始カメラは許さず、また渡瀬恒彦のせっぱつまった過剰さがそのカメラをぐいぐい引っ張っていく。 その引っ張り具合がそこらのやくざ映画とは全然ちがう、青春映画にしかありえないテンションと、結果としてそういう血の赤をスクリーンの上に映しだしている(廃車置き場の血はいちぶほんもの、とか)

そういえば、”Super”もウサギだった。 この主人公がそのままおやじになると、"Super"みたいのになる、のかもしれない。 とすれば、ウサギだってじゅうぶん危険獣なのよね。

上映後のトークは、おもしろかったねえ。
映画の話は、和やかすぎてこちらが引いてしまうくらいで、とても楽しかったが、飛び入りしたパンタさんの、映像が出来ていなかったので鉄砲玉とはなにか、だけ聞いて曲作ったとか、頭脳警察ではじめて詞がレコ倫通ったのはこれ、とか、そのへんがふーん、だった。

あと、霧島って、島じゃなくて山だったのか、というのが個人的にはまじでしょうげきだった。


8.24.2011

[film] Super (2010)

日曜日の天候はほんとに最低で(ここんとこずっと最低なのだが)、何度か意識を失ったのち、夕方に渋谷に出て見ました。

これまで、結婚式と強盗の居場所をポリスに伝えたことのふたつを人生のベスト・モーメントとして、これを支えにして生きてきた主人公が、妻(Liv Tyler)をやくざ(Kevin Bacon)に取られちゃったことに取り乱して、TVでみた「神」みたいなやつに啓示を受けて、悪をやっつけるべくCrimson Boltとして立ちあがる、と。

全体のノリはほんのりとぼけたB級で、だからくすくす笑って見ていられるのだが、そんなに楽しいものでもない。監督は"Slither" (2006)のひとだから、わざとそういう悪意まぜまぜで作ったのだとおもう。

へなちょこヒーローものということで"Kick-Ass"がよく対比されているようだが、あれとはずいぶんちがう。
あれは古典的な親子の復讐譚に、ナードの成長物語が絡む、という結構クラシックなつくりだった。
今度のは、あまり幸せじゃなかった主人公が思いこみで暴走していろいろ大変な目にあう(周囲も自分も)、という。 トーンとしては、"Taxi Driver" とかのが近い。 

最初は通り魔かと思われていた主人公の行動は、だんだん世間に認められるようになって、最後、ヒーローものの常として決着がついてみんなが幸せになるのだが、その構図はなんとなくグロテスクで、気持ちわるい。心の清いひとはそれを切ない、とかいうのかもしれない。

主人公の私憤、みたいなとこから始まったあれこれは結局プライベートな幸せ、みたいなところに落着してしまう。でも、それじゃなにも変わらないし、この世から悪がなくなるとは思えないし。 悪と正義の戦い、というのは質・量ともにほんとは絶望の、どん底の這いずりと隣り合わせであるべきだとおもうのだが、主人公はへなちょこであるが故に、この辺には目をつむって近所のゴミ箱の陰でほんわか出待ちをしている。 24時間で地球を救おうとするメディアやWeb活動家みたいに小さな幸せの積み重ねこそが世界を救うのだと、信じて疑わない。 

じゃあパブリックな「正義」ってなによ?とかいうと、映画のヒーローとか国連とか軍隊とか、そういうとこに行ってしまうのだろうし、それでも、なにもやらないよりはましなのだ! "Shut Up, Crime!" とか言われたらへえへえ、なのだが、別にこんなの映画で見たくないじゃん、みたいなとこを、わざと出してくる。 このへんのじわーんと陰険なかんじとか。

だから、"Super"で、びっくりマークは付いていないの。 邦題のマーク付きは、明らかに読みちがい。
ついでに言うと、字幕に伏字を入れる意味がわからない。 既にR-15なのに。 ほんと泥の底からばかみたいだ。

どうでもいい話しではあるが、こういう割と半端に小規模な洋画公開のたびに

-公開されるのかされないのかではらはらし、
-受け狙いだけのくだらない邦題にいらつき、
-くそおもしろくもないタイアップだのコラボだのにうなだれ、
-またデジタル上映のみか、とがっかりし、
-字幕のなかみにいちいちうんざりし、
-映画泥棒のCMで吐きけをもよおし、

と、なんでこんなにぎりぎりと虐げられなければいけないのか。
なんで、リリースされた状態に限りなく近いところで見ることを許されないのか、こういうのこそCrimson Boltになんとかしてもらいたい。 じゃあ見なきゃいいじゃん、とか、見れるだけましじゃん、とかいつものように返されることを100も承知のうえで。

Ellen Pageさんはなかなか痛いかんじだった。 彼女もNatalieみたいに彷徨ってしまうのだろうか。
あそこで、ほんとは彼女ではなくて彼が... だったらもうちょっと違ったものになっていたのに、とか。

あと、うさぎさんがなんかやってくれると思ったのにな...


8.22.2011

[film] Nashville (1975)

週末は天気がもうぜんぜんだめで ...

土曜日に新宿で見ました。
この作品は、2002年の暮れにFilm Forumであった「70年代のアルトマン」特集でも逃してしまっていたので、見たのはたぶん20年ぶりくらい。

アメリカのNashvilleのお話し。いろんなひとがいっぱい出てくる。

パフォーミングアートとしてのCountry & Western、パフォーミングアートとしての政治(大統領選挙)を横並びにしてそのぐだぐだな様を描写していく。

ひとつには領域(音楽)と領域(政治)のぐだぐだがあり、ひとつにはパフォーマーとオーディエンスのぐだぐだがある。 それらはぐだぐだであるが故にきっちりと閉じたもんではなくて、BBCのレポーターが入りこんだり、セレブの実物が立ち寄ってきたりする。

アルトマンにおけるぐだぐだ、というのは例えばこんなようなことをいう。

・ひとは大抵、地位とか立場とか家族のありようとか慣習とかでぐるぐるまきになっている。
・そんななか、偉いひとが思いこみでなんかやったりやらせたりする。
・それを受けたふつうのひとが、まちがったり勘違いしたりして変なことをしでかす。
・それを受けたいちぶの変なひと(自分は変だと思っていない)が、更に変なことをしてかきまわす。
・そういうのを防御したりコントロールしたりする体制側のひとがびっくりして更にかき回す。
・収拾つかない状態のなか、銃とか暴走とか衝突とか墜落とか爆発とか、そういうのがおこる。
・混乱は収まるがだれも自分がわるいと思ってない  →  なんも変わらずふりだしに戻る。 

こんなごだごだの中にあって、なにかを暴きたてるわけでも、なにかを乗り越えたりがんばったりするはなしでもない。
そういう暴きたて、とか乗り越え、とかひとつの視点、力こぶ、ひとつのドラマに集約されることを断固として拒む、それは民衆のうんたらとか、ドラマトゥルギーがどうの、とかそういう要請からでもなく、たんに放っておく。 このざまを見ろ、って。
だって元々そういうもんだし、手をつけたらおんなじ、別のごだごだを生むに決まっているし。

今回も全てを終わらせるはずだった銃声は、なにも終わらせることはできず、変えることもできず、ふだんのざわざわに戻っていくだけなの。 歌でも歌うしかねえか、とか。 最低なの。

"I'm Easy〜" とか "It Don't Worry Me〜" とか。

そして、その最低のぐだぐだの一部始終に鳥籠のようにふわっと被せられる蔽いが、今回の場合だと"Nashville"で(あるときはアストロドームだったり、カリフォルニアのホテルだったり、ウェディングの家だったり)、その加減というか、境界の置きかたが、絶妙なんだとおもう。

例えば"M*A*S*H" (1970)では、その最低さしょうもなさは「戦争」だから、ということでそれなりの説明がついていた。  今回のこれらは、"Nashville"だから、ということで説明がつくのだろうか。

そんなふうに見ることもできるし、(当時としては)新種の、ローファイでトラッシュでゆるゆるのミュージカル、みたいに見ることもできるとおもう。

或いは、オリヴェイラの『春の劇』から干支一回転の後、地獄の門がとっくに開け放たれて、すっからかんのゴミしか残っていないアメリカからの回答、とか。

ほんとに間口の広い、風通しのよい作品で、いくらでも見ていられるの。

この映画には、"Nashville Chronicles: The Making of Robert Altman's Masterpiece"
ていう結構ぶあついペーパーバック解説書があって、こないだ箱のなかから発掘されたので、だらだら読んでみることにしよう。


8.21.2011

[music] Public Image Ltd. - Aug.15

サマソニは、例によって立ち入り禁止エリアでの開催だったので行かず、15日のこれだけ行った。
会社は病気、ということで休む。 会社の休みは有限なのにライブは無限にある。 いつまでもこんなことやってられないのだが。

開始は7時きっかり。 昨年5月のTerminal5のライブも前座なしの8時過ぎスタートだった。
前座なしで、とにかく集中しろ、ということなのか。

売り切れていたら、という懸念もすこしだけあったので一応前売りを買っていったのだが、さすがにそれはなかった。売り切れていたりしたら、それはそれでこわかったかも (失礼な)。

オープニングの"(This is Not a) Love Song" ~ "Poptones"も昨年のセットから変わらず。
最初は音の分離がえらく悪いかんじで、だいじょうぶかよこれ、だったのだがだんだんによくなっていった。 

"(This is Not a) Love Song"、幸せそうに手拍子なんて叩いてるんじゃねえよぼけ!
と、これは83年の初来日のときにも思ったことだったな。

昨年、アンコール冒頭に置いてあった"Public Image"が前のほうに来て、ほぼキャリア順になめていって、"Chant" ~ "Religion"で締める、という構成はおなじ。
"Annalisa"も"Four Enclosed Walls"もなかったか。

世界のどこにでも現れる"Public Image"と個の相克に目をひんむき、声をひっくり返しつつもぐら叩き方式で糾弾する、という当初の基本コンセプトよりは、オープニングの「愛」とエンディングの「宗教」、このふたつに的を絞って集中爆撃をかけていくような、そんなかんじがした。
いまの我々にとって一番やっかいで面倒なこのふたつに。

全体としては今のバンドの音構成を活かすような、マッシヴでベースがくどくど鳴りまくる中~後期の音が映えるかんじ。 このバンドは、巧い、というのとはちょっと違ってて、それはJohn Lydonのヴォーカルをうまいとかへたとか、そういうレベルで括れないのとおなじで、ねちっこいおっさん達の情念プレイが吹きまくってさいごはお手上げ、降参、みたいな。

たぶん、今のこのバンド編成での音像、というのがはっきり見えているのだろう、そういう鳴り方だった。 たんに今年のツアーの締めくくり、というだけではない音のぶちまけよう。
誰かレコーディングさせてやれ。

特にいちばん最後のLeftfieldのあれ、すごかったねえ、あの陰険でだらだら止めてくれないかんじ。 あれこそJohn Lydonだよねえ。

紙ジャケで出ていた"Live in Tokyo"を買って、20数年ぶりに聴いてみる。
これもまた、なんというか、当時はあうー、だったが今聴いてみるとそんなでもない、それなりに固くて軽くて悪くないかも、と思ってしまったのだった。

こうしてひとはゆるゆると腐っていくのである。

[film] Transformers: Dark of the Moon (2011)

14日、日曜日の夕方にみました。
なんとなく日曜ぽい映画がみたくて、でもあんましないし、でもこれなら1も2も見てるし、今度の3Dはすごいって、みんな言うもんだから。

2時間半以上。 ながいよね。

前半はなんだかよくわからないまま、あーん? みたいな。
べつに筋はわかんなくないのね。 アメリカの月面制覇の裏側の陰謀みたいのがざーっと流れていって、ロボ達がなんで黙ってた?とか怒って、ロシアが出てきて、というふうに事実が並べられていくのだが、その並べ具合があまりに神の目線というか、超絶的にのっぺりしているので、なんだろこれ、と。

役者さんも、Frances McDormandがいて、John Malkovichがいて、John Turturroがいて、Patrick Dempseyがいて、ついでにKen Jeongまでいるのに、この薄さはなんなの、とか。
いくらロボ中心とはいえ、これらの俳優さん達はほとんどストーリーのなかに入りこんでこないの。

あと、今回Megan Foxに代わってでてきたお嬢さん、ぜったい別種のエイリアンかなんかだと思っていたのにちがった。尻尾みたいに長い脚でShia LaBeoufに絡みついてるし。いろんな点であんなのありえないし。

後半になって髭ロボがごにょごにょやりだしてから、ようやくいろんなものがぐじゃぐじゃしだすのだが、それはほんとに手がつけられないようなぐじゃぐじゃで、もともと機械の塊が生き物みたいに変態したり接続したり絡まったりして互いに互いをぶっ壊しあう話だからしょうがないのかもしれないが、今度のは3Dということで、更にめたくそになっている。なんか、3Dの使い方、根本的にまちがってないか、遠近わざわざ複雑に、混乱させて喜んでないか、とか。

でも、なんで連中、わざわざ戻ってきたんだろ。 あのまま南の島とかで平和に暮らしとけばいいのに。

あとはなんといっても、Shia LaBeoufのしぶといこと死なねえこと。
もともと"1"のときから、こいつの走り芸(そんなすごい芸でもないが)は見ものではあったのだが、今回のはトムとジェリーの鼠なみに走りまくり逃げまくり、なにしろぜったい殺られない。
あれなら苦労して職探しなんかしないで、障害物競走のプロ(なんてあるのか)でも目指せばいいんだよ。

とにかく、なんだかんだ大騒ぎしたあげく、今回も地獄の門が開かれて地球に災厄が降ってくることは避けられてしまったようだった。 信頼のMichael Bayブランド。

でもね、もういい。開かれちまえ、と何度思ったことか。
侵略されてロボ連の奴隷になったところで、今とたいして変わりやしねえよ、職探しだってしなくてもすむじゃん、なあ、とつい思ってしまったことだった。

8.20.2011

[film] Acto de Primavera (1963)

昨年、NFCで開催されたポルトガル映画祭2010は、海の向こうにいて参加できなかった。
先週の土曜日、最終上映、ということでアテネでやっていることに突然気がついて、その最終日にManoel de Oliveiraの2本をかろうじて。

Aniki Bóbó (1942)

海辺の街の子供達のおはなし。

「アニキ・ボボ」っていうのは子供達の遊び歌で「アニキ・ベベ ~ アニキ・ボボ ~ 警官 ~ 泥棒 ~♪」とかいうの。

ちょっとまぬけで内気で一途な男の子がいて、かわいい女の子がいて、かわいい女の子は悪ガキが囲ってて、ことあるごとに男の子は悪ガキとぶつかる。男の子は女の子を気をひくために雑貨屋から人形を盗んでプレゼントしたりして、さらに衝突が激しくなって、男の子は孤立しちゃって。

子供達ひとりひとりをちゃんと描けていて、雑貨屋の主人とか警官のような「大人」もちゃんと描けていて、カメラは港町の路地を自在に動きまわりながら、子供達の間に起こったちょっとした、でも大事件の顛末をきちんと纏めあげている。 
子供映画、というよか普通の映画としても見事な詩情に溢れているの。

それにしても、夜中の3時に人形をプレゼントするために屋根を伝って彼女のところに向かう男の子のとこなんて、しみじみ感動する。 
どこまでロマンチストなのあんた、と思うし、このエモとかイマジネーションのレベルときたらつい最近の”The Strange Case of Angelica" (2010)までまっすぐぶち抜かれているようでした。


Acto de Primavera (1963) 「春の劇」

ポルトガルのどこかの田舎の村の村祭りで、キリストの受難劇が上演される。
上演される劇そのものと、劇の準備をする村人、祭りを訪れた人々、等を境目なしに繋いでいって、でもドキュメンタリーではないの。 村人が語るアメリカの宇宙計画なども参照しつつ、63年、という年、田舎の村の生活を映像に収める、というのはどういうことか、をまず明らかにしようとしている。

途中からは、キリストの受難劇にフォーカスして、そのドラマを衣装や光も含めて精緻に練り上げている。詠みあげるような台詞まわしやそのタイミングで劇であることはわかるが、それがドラマのテンションを削ぐようなことはなく、悲劇のコアがだんだんにあぶりだされていく。

んで、最後にはもちろん復活、のシーンとなるわけだが。
ここに挿入されるのは原爆の雲、戦争の悲惨、等のニュース映像なの。
これが冒頭の村のシーンと繋がって、見るひとは、キリストの受難〜「復活」によって開かれた地獄の門を(なぜ開かれてしまったのが地獄の門だったのかも含め)、その余震と余波のなかに生きている現代を、都市であろうが田舎であろうが - をはっきりと意識することになる。

現代においてドラマを撮る、ということはそういうことなのだ、そういうことでしかありえないのだ、という決意表明でもあるの。

そこを経由しているが故の、例えば2月にみた”Doomed Love” (1978)のとてつもない濃さなのだなあ、と。

彼のフィルモグラフィーを全部追っかける、というのは立派なライフワークになりうるねえ、と思ったのだった。 彼の半分も生きることはできないだろうが。


8.16.2011

[film] Monsters (2010)

8月6と7の週末は、お墓参りに行って、晩は銚子の花火大会だった。あんず飴は2本。全体に低調。

12日の金曜日にシアターNでみました。
昨年、NYのSunshine Landmark Theaterで予告を見てから、ずうっと見たかった怪獣映画。

6年前にNASAが打ち上げた探査船が地球外生命体のサンプルを採取するが帰還の直前に消息を絶つ。 その後、突然でてきたそいつによってメキシコの半分がInfected Zoneとして立ち入り禁止になって、お話はメキシコから社長令嬢を連れて帰るように言われたカメラマンと令嬢のZone超え〜アメリカまでの旅を描く。

想像していたような怪獣がのしのし支配して、ひとを喰ったり暴れたりするような映画ではなくて、突然怪獣が入りこんでしまってそこにいる世界をすたこら横切っていくロードムーヴィーだった。
怪獣はちょこちょこ出てくるが、それは食うか食われるかの命懸けの遭遇、というよりもいろんな痕跡や傷跡を残す/残していくなにか、世界を壊したなにか、というより壊れた世界を作ったなにか、として、そこにいる。 侵略者としてのAlien、というよりも、幽霊や妖怪のようにそこらに漂っている怪獣たち。

なので、期待していたのとはぜんぜん違うテンションがそこにはあって、それは賛否あるのだろうが、たぶん意図したものに違いない。
怪獣がいて、Infected Zoneがあって、そこを抜けて帰らなければいけない、とする。
男には別れた妻のとこに子供がいるし、女には婚約者がいるし。

でも、本当になにがなんでも、這ってでも帰らなければいけないかというと、そんなこともないの。
だからZoneの手前で飲んだくれてパスポート盗まれてもあんま動じないし、そいつが目の前に現れてもそんなに慌ててパニックになることもない。もうちょっと焦れよ、早く動けよ、とかいらいらするが、怪獣のいる世界では、そういうもんなのかもしれない。

土地のほうも、立ち入り禁止区域なのに普通にひとはいるし、Zoneのむこう、大要塞が築かれている壁のむこう側(=アメリカ)に漸くたどり着いても、誰もいなくて、狂った老婆が歩いているだけだったりする。 軍は呼べば救助にきてくれるようなのだが、そこで明らかになったのは、封じ込めは失敗していた、ということだったり。

これをいうのは野暮、というものだろうが、ここで描かれた世界と311以降の世界は、わかりやすいくらいにわかりやすく、繋がっている。 原爆水爆以降に登場したゴジラと同じように、Deadly Virusや放射性なんたら以降に登場した"Monsters"。 

ゴジラは、Oxygen Destroyerで退治できた。 今度のは ... 


8.15.2011

[film] 死ね!死ね!シネマ (2011)

8月5日の最終日に、すべりこみで。
結構混んでいたかも。

映画美学校のことはほとんど知らないし興味もないのだが、「死ね!死ね! xxx」の気分はここんとこずうっと続いているので、そっちのほうから。

チラシには究極のホラー、とあったが怖さはそんなでもなくて、あえていうなら音が気持ち悪いのと女性の叫び声がだめなひとにはきついかも。きつかった。

映画やめますか人間やめますか、というロジック。
映画は世界とか人生とかのすべてを教えてくれた、映画には人生を変える力がある、だからそれに全力で取り組む意志のないやつは人生を捨てているのと同じことだ、だったらそんならそんな人生やめちまえ。
そうそう、そうでなくたってこんな人生、どっちみちどんづまりの地獄だどっちにしても同じようなもんだろ、やっちまえーずぶずぶずぶー。

ごもっともだし、異論はないけどね、でもこっちのほうも根性なしのいくじなしのずるずるでずうっと何十年もやってきたんだもん、そりゃ逃げるよ。

というわけで、念はひとからひとへ連鎖して伝染して、追われるひとは映画館の闇のなかをどこまでも逃げまくる。 映画が闇のなかでしか上映されない限り続いていく、この永遠の循環運動を究極のホラー、と呼びたいひとは呼ぶのかもしれない。

でも、それがなんでホラーなのか、というのは少しだけおもう。
たぶん、ホラーというジャンルだけが、観客の直接的なリアクションを引き出すことができる(by O.Assayas)というあたりに鍵はあるのか、ないのか。

映画館の椅子の間に挟まって逃げられなくなって、その間にぐさー、というのはよく思ったりする。
ライブハウスだと、床が抜けてどさー、とか。
ま、出かけなきゃいいだけなのよ。

併映の『殺しのはらわた』(2006)は、すんばらしくクリスピーで、かっこよかった。


8.14.2011

[music] Konono No1 + Kasai All Starts = Congotronics

+ Juana Molina, Skeletons

29日土曜日の夕方に戻ってきて、例によって湿気でげろげろになりつつ、日曜日は半死状態でたまにぞわーと起きあがってフジのレポートとかを眺めつつ、あうーWilcoだけでもー … て泣いてた。
予定通りに帰国できていたら日曜日だけでも、とか思っていたのだが。

で、こんちくしょう、ということで、8月になったし、時差ぼけ直し、とかいろいろ理由つけて月曜日の晩にクアトロにいった。もちろん当日券。

親指電気ピアノ、といってもよく知らない。
バンド名も、なんかよくわからない。なにが「このの」でなにが「かさい」なのか、Funkadelic + Parliamentみたいなもんなのか、どうでもいいかー。
夏だし、大勢でがんがんじゃんじゃかやるんでしょ、程度。きもちいけりゃ、なんでもいい。

Juana Molinaが参加しているのも会場で知った。 お嬢さん、なんであんたがこんなとこに。

最初に笛(?)をぴーひゃらしながらばらばらと前にでてくる。村祭りの練習並みにゆるい。
パーカッションはJuanaを入れると4、でっかいピザスライスみたいのを抱えてどあどあ鳴らすおじさんとか、耳のとこに鉛筆はさんで市場とかにいそうな爬虫類系のおじさんとか、おもしろそうな人たちがいっぱい、でも、でっかい腰まわしつけてとてつもない段腹でぶるぶるするおばさんが圧倒的。

で、ぴーひゃらの後、そのままずるずると音が鳴りだし、始まってからもどたどたとなんか落ち着かない。
むかしのこういう、アフロビートとかそうゆったやつは、最初の一音から吹っ飛ばしてなぎ倒してくれて、一分の隙もなくひたすら圧巻で、終るとこりゃかなわん、とかうなだれて帰るのが習わしだったものじゃが。

ここのこののの人たちは、全部で12人くらいいるのに、ゆるい。音はそれなりにいっぱい鳴っているのに、がたがたずるずるこんがらがって糞玉になって横に転がっていくばかりで上にあがっていかない。
これがグローバリゼーション以降の、ポストコロニアルのグルーヴということなのか、そんなのどうだってええやんか、的にとりあえずじゃかじゃか吹いていく。

で、そんな糞玉に、鉤爪ひっかけてふんわり、地上30cmくらいのとこに浮上させてくれるのがお弁当箱みたいに地味な親指電気ピアノのちきちき音で、なるほどそういうことかーと気づいた時には30ふんくらい過ぎていた。

でもさすがに最後の2曲くらいは気持ちよく盛りあがった(おそいか)。本篇1時間強、アンコールは一回。

Juana Molinaさんはたまにヴォーカルとったりギターひいたり、ひょこひょこ楽しそうだったが、かつてBowery Ballroomのなんかの前座で、そこにいた客全員を床に寝っ転がらしてしまったあの殺傷力はあえて抑えていたようだった。 ポジションとしてはTina Weymouthさんとおなじようなとこか。

でもこれならフジのvs. Rockersのがすごかっただろうなあ、とか。
あとは、これならやっぱし野外がよかったよなー、とか。

というわけで、今年にはいって、まだちゃんとしたライブにありついてない気が。


8.13.2011

[log] NYそのた - Aug.2011

メモがわりのNY滞在その他、買ったものなど。

アナログ、あんま時間がなかったので、行けたのはOther Musicのみ。
オーディオを新調する予定なので、当分の間は聴けないのに。

・Martin Newell "Songs for.… A Fallow Land"  85年にカセットでリリースされたやつ。
・Joanna Newsomの新しいEP。片面のみで、裏にはすんごく細かいエッチングが。
・The National "Cherry Tree" きれいな赤い盤
・Joan of Arc "Life Like" きれいな青い盤 +コラージュブックレットつき。

・Liquid Liquid "Lock Groove" 12inch 中古、これはたぶん、すでに持っていたはずだ。

あとは、The Fallの復刻された7inchとか。

McNally Jacksonで買った雑誌はー

・MomofukuのDavid Changによる季刊誌 "Lucky Peach" (桃福の英訳ね)
McSweeney'sのスタッフが編集を手伝っているらしく、デザインはすてき。
この創刊号特集は、ラーメン。 Anthony BourdainとDavid Changの対談とか、日本のラーメンルポとかも含めていろいろ。

わたしはそんなラーメン喰いではないし、できた頃のMomofukuに行ってもあまりぴんとこなかった人なのだが、お勉強にはなるか、程度で。

記事で面白かったのは、かのRuth Reichlさんによるインスタントラーメン食べ比べ。
このひとの食べ方はスープの袋を捨てて自分でブロスを作るというもので、なるほどねー、と。 
これ、小学生の時、自分もよくやってた。ほら、なんでこの袋のスープ、こんな味になるんだ? とか思うじゃん。 で、自分で味噌とか醤油とかで作ってみることはできるのか、と。で、こうして実験しているうちに「だし」ていうのが必要なんだな、とか悟ったのだった。

あ、それで、RuthさんのBestは、チャルメラ、でした。ふつうに納得。

・Lydia Davisの"The Cows"のサイン入りがあったので買った。"The Cows"、2冊め。

・"AFTERZINE" ニュースペーパースタイルのZineの2号め。
"Beginners"を語るMike Millsさん, "The Future"を語るMiranda Julyさん,
他には、Zooey Deschanelさんによる"Morning Records for Night Owls and the Faint of Heart"。よい趣味ね。

あとは、"The Believer"誌のMusic Issueとか、Film Commentとか、カナダのCinema Scope(表紙にでっかく"THIS IS NOT A FILM MAGAZINE"て書いてある)とか、Cook's Illustrated誌の American Classics特集 - こんなのばっか、何冊もってるんだ - とか、いつものを。


でも、今回の滞在でいちばん感動したのは、なんといっても24日の朝、NY1でライブ中継していた同性婚の様子でした。 最初のおばあちゃん達カップルのあの笑顔と拳、そしてハグ。
あれを見てしまうとこういう制度って誰の、何のためのものなんだか、と考えてしまうことだったよ。


他にはえーと ...

8.12.2011

[film] Cowboys & Aliens (2011)

夏休みなんかじゃないの。しごとでずうっとしんでるの。

まだNYのおはなしね。

せめて29日まで滞在できたら、とずうっとお願いしていた。
Walter ReadeのJudy特集もあったし、Anthologyの80's musical特集もあったし、新作だとなんといってもMiranda Julyの"The Future"があったし、"Crazy, Stupid, Love."があったし、Film Forumでは、お料理ドキュメンタリー"El Bulli Cooking in Progress"が始まっていたし、きりがないの。 

で、ごみよりひどいトラブルのおかげで離陸は29日の昼ということになったので、28の晩、24:01はじまりのこれを見ました。 "Crazy…"はやってなかったの。

大々的に宣伝しているわりには3Dでもないし、シネコンのでっかいスクリーンでもないし、そんなに混んでもなかった。 Times Squareの深夜0時のシアターなんて、ごろつきばっかしの無法地帯だよね。

最初は、西部劇とエイリアンもののmix、とか思っていたのだが、ごくふつうの西部劇だった。
もうちょっとSFホラーみたいにぐちゃーげちょーとしたとこもあるかと思ったのに、ほんとかんかんに乾いたB級のウェスタンだった。 これなら3Dはいらない。ぺったんこのほうがいい。
きっとこういうのやりたかったんだろうなー、というのはわかる。

でも"Iron Man"の豪快なハードロックのりを期待していくとちょっとびっくりかも。
結構まじでカントリーやっていたりして。 しかも案外ちゃんとしていたり。

道に倒れて記憶を失っていた男 とか 酒場のいざこざ とか 権力者 とか 謎の女 とか そういう砂漠のなかにあるごくふつうの街場の設定のなか、突然エイリアンが現れて人々をさらっていくの。
で、みんなで人探しして、やっつけようとする。 悪党もインディアンも酒場のへっぴりも子供もみんな合流してくる。  Cowboysていうよか、地球人 vs. 宇宙人。

Daniel Craigののっぺりした、とかげみたいな風貌が砂漠の乾いた風景にあってて、ミステリアスでよい。白目むくとこも、立ち姿もいいし。 
あーでもこれがー70年代のイーストウッドだったら、とかそういうのはちょっとおもった。

Harrison Fordはちょっと薄い。これを"True Grit"のJeff Bridgesがあのままでやってくれたらなあ、とか。
酒場の弱虫のSam Rockwellはいい。 Paul Danoもねちねちいやらしくててよい。

エイリアンの造型はもうちょっとなんとか。 Alien+Predatorの外見でもそんなに強くない、と。
西部劇の銃器でやっつけられる程度感がよいのね。

あーでもなー、これ、John Carpenter先生がやってくれたらどんなにか、とかそういうことも言わない。 でもそんなことばっかし思い浮かべてしまう作品、ではあった。

8.07.2011

[film] Friends with Benefits (2011)

26日、火曜日の晩にみました。 Sold Outしてた22日のリベンジ。
ほんとは、これが最後の晩になるはずだった、のだがな...

これはおもしろかったねえ。

Mila Kunisのヘッドハンターが西海岸(LA)のJustin TimberlakeのWebデザイナーを引きぬいて東海岸(NY)に連れてきて、引きぬきついでに仲良くなって、お体だけの関係になりましょう、という契約を結んでやりまくるの、そいで後になって、やっぱしそれだけというわけにはいかなくなってお互いもやもやうにゃうにゃする、という。

そうですね、テーマも結論も、こないだの”No Strings Attached”とおんなじく、そして"Black Swan"(2010)に引続いてNatalie Portman とMila Kunisがほぼ同じような役柄をめぐって激突している。

そして、あの映画でMila Kunisのが断然活き活きと奔放だったのとおなじく、この映画でのMila Kunisはさばさばとっても小動物してて魅力的で素敵なの。 あの睫毛はほんもんなのか、とかあの目ん玉のでっかいことときたらなに、とか。

あとはねえ、Justin Timberlakeもすんごくよいのよ。
どこまでも西海岸的に軽くていいかげんで、その軽さでひとを惹きつけて転がしていく。 
これも"Social Network"(2010)のSean Parkerそのままのかんじなのだが、でもああいう奴っているんだからしょうがないじゃん、というしかないの。

それにしても、”No Strings Attached”といいこれといい、体だけの関係なんてゆってもやりまくるにつれ情が移っていくし、それぞれに家族がいて、みんないい人たちだし、なんだかんだ結局うまくいかなくなる、ていうことを言ってる。
これってなんなのかしら。 あらゆる困難を排してそういう表層の関係を死ぬまで維持したとか、そういうドラマもあっていいと思うのだが。

今回、彼女のほうのママにPatricia Clarkson、彼のほうの痴呆がはじまったパパにRichard Jenkins、彼の職場の体育会系ゲイの同僚にWoody Harrelson、と脇もすてきでさー。 あと、監督の前作、"Easy A"つながりで、Emma Stoneさんも出てくる。

クライマックスのGrand Centralのシーン、居合わせたら楽しかっただろうなー。

で、終ってBBみたら、前日とおなじくがんがんCallが落ちてて、だって前日のは解決したはずじゃん、だったのだが、それとはまったく別のあれで、ぐだぐだしているうち、翌朝の4時になってとりあえず滞在延長、ということになりました、とさ。

[music] Jane's Addiction - Jul.25

既にえらい昔になってしまった気がするが、7月の25日、月曜日のおはなし。

旅にでる1週間くらいまえに、どういうルートかしらんが(たぶん、ロラパのメーリングリストか)、Freeのチケットあるよ、のメールが来て、ちょうどその頃は現地にいるし、だめになってもただなら、ということで取っておいた。

携帯メーカーのプロモーション営業イベントなので真剣にやるとも思えなかったが、Dave NavarroもCitibankのCMに出てたり、このバンドはもうそういうもんでよい、ということにどっかの時点からなってしまったのだろう。
こんなんでもいいや、くらいの。

場所はTerminal5, 時間は9時きっかりスタート。
天井に風船が仕込んであるのが見えた。風船だけじゃなくて網にかかったパンダとか動物もいっぱいいる。
あれ、本物が落ちてきたら素敵なのに...

ほんとにカウンターが置いてあって、その9:00きっかりにはじまった。 ”Whore”から。
ストリーミングだかHD撮りだかをしているようで、きっかりに音ががんがん鳴りだしてカメラがぶんぶん動き回ってサイドで紐に吊るされたお姐さんふたりがくねくねまわりだす。

客層は自分とおなじような若者たちとのチケット争奪にいいかげん疲れた中年層と思われ、はんぶんやけくそで盛り上がるかんじ。

バンドは、BがオリジナルメンバーのEric Averyさんが抜けた分、やや軽くきちきちしたかんじになった感があったが、このバンドのバックはStephen PerkinsとNavarroのきりきりぐるぐるしたもみ合いが全てのようなとこがあるので、基本は快調に。

2009年のNINJA(ありましたねーそんなの)のときの滲み出てくるような禍々しさは、ほとんどなく、こんな近くでこんなゆるゆるでこのバンドを見れていいのか、というかんじ。
でも、いいんだよべつに、という程度の楽しいノリでした。

3曲目を過ぎたあたりで、自分のBBがわんわん鳴りだしメールがどこどこ落ちてきてとつぜん緊急事態になってしまい、半分泣きながら"Been Caught Stealing"のとこで退場した。 なので0.4なの。 

っちきしょう。

あとで聞いたらライブ自体は約1時間+アンコール一曲というほんとにイベント用のセットだったもよう。