6.30.2018

[film] The Hitch-Hiker (1953)

6月のBFI SouthbankではIda Lupino 特集 - “Ida Lupino: Actor, Director, Writer, Producer, Star” - をやっていて、どれもすごくおもしろそうで、でもMeltdownだなんだでぜんぜん通うことができなくて、結局見れたのはこれを含めて5本(全15本 - トークとかも含むけど - のうち)だけ。あーあ。

これは14日の木曜日の晩に見ました。問答無用のサイコ犯罪もののクラシックなのに見たことなかった。

冒頭に、これはあなた自身の身にも起こることかも知れませんよ、って出る。
で、最初に今回の犯人と思われる男がそれまでに犯してきた一連の殺人が短く紹介されて、そいつ= ヒッチハイカー がメキシコの方に釣りに出かけたふたりの仕事仲間に拾われ、そいつが車内で突然極悪人に変貌し、銃でふたりを脅して力を握っていいように振る舞っていくところ、襲われたふたりの恐怖 - 殺されないためには運転するしかない、でも運転してもどこに連れていかれるのかまったくわからない - をねちっこく丹念に描く。

犯人の狙いはボートを拾えるカリフォルニアのバハまで行ければ、それまでこのふたりを足 & 人質として確保しておければ、で、囚われたふたりの方のは相手の隙を見つけたり先々に手掛かりを残して警察がなんとか突きとめてくれるのを祈るか、で、途中で車が使いものにならなくなってからは残された体力、というのがどちらにとっても重要な決め手になってくる。それらが体力を除けば互いによく見えない状態のまま、日が沈んでは昇っていく。 終わりがまったく見えない。

普通のドラマだったら犯人の背景や心理をもう少し掘り下げたり、その状況から抜け出そうとするふたりの心理的な葛藤や駆け引きやいちかばちかの賭けに時間をかけたりする気がするのだが、ここにはそういうのはあまりなくて、突然現れた不条理に慌て戸惑い、銃の暴力に蹂躙されてどうすることもできなくなってしまう怖さ、フリーズして疲労に負けて怖さが蝕んでいく恐怖、この恐怖が更にそのフリーズ状態を進行させて思考を麻痺させていく救いのなさがじりじり精緻に描かれていて、その辺はやはり女性監督、というかIda Lupinoのすごさというべきか。

これ、最近よく言われる襲われたり拐われたりしたときなんで抵抗しないのか、ていうガサツで愚鈍な男共が振りかざす理屈を軽く蹴飛ばす内容でもあって、この状態で抵抗なんてしたら殺されるんだよ、わかんないのか? ということを映像できちんと示してくれる。

この恐怖映画で描かれているのはほぼそれのみ、と言ってよいくらいで、最後に解決しても爽快感はあまり来ないの。束縛状態から解放された安堵はくるけど、トラウマのようにあの恐怖はべったり張り付いて消えなくなっていることがわかる。 次に車に乗るときに同じことが起こらないって誰が言えようか、と。

この、外面だけだととても埃っぽくて男とか獣の臭い満載の作品を35歳の女性が撮っちゃったというすごさ、かっこよさときたら。

ああ夏至をとうに過ぎて、6月が、1年の半分が行ってしまうよう - - 

[film] It (1927)

13日の水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

サイレントで、2回上映があるうち、1回はライブのピアノ演奏つき、1回はBFIの人によるイントロとCarl Davisのスコアによるオーケストラ伴奏つき、で後者のほうを。
邦題は、調べてみたら『あれ』だと。… あれ?

昨年公開された同名ホラー映画ともその原作小説ともまったく関係なくて、ファッションとかメディアの世界で言われる”IT Girl” – Information-TechnologyのGirlじゃないよ、おきゃんでぶっとんでてとんがってて見てよあの娘、って一般市民から顰蹙込みで指さされてしまうような「イット ガール」のことを映画で最初に描いたRom-Comである、と。

そもそもの”IT Girl”の起源を遡ると1904年くらいまで行ってしまう(軽く100年以上前… )らしいのだが、この映画は1926年のCosmopolitan誌に掲載されたElinor GlynのNoveletteで描かれた「それ」が元で、それを読んだプロデューサーのBen Schulbergが当時”Brooklyn Bonfire”として売り出そうとしていたClara Bowって「それ」になるのではないか、とElinor Glynを焚きつけ、彼女も(やがてはGloria Swansonあたりに替わられてしまうことを認識しつつも)そうかも、と合意したのでParamountはこの映画に$50,000を出資する。
この映画のなかにもElinor Glyn女史本人が登場して”It”についてコメントするシーンがある - “Self-confidence and indifference as to whether you are pleasing or not - and something in you that gives the impression that you are not all cold. That's "IT"!”。

ストーリーや登場人物の枠組みは今でもぜんぜん通用する典型的なRom-Comのそれで、元気いっぱいのデパートの売り子Betty Lou (Clara Bow)がいて、彼女が勤めるデパートのオーナーで殿上人でお金持ちのCyrus (Antonio Moreno)がいて、彼には上流のお嬢さまのつーんとした彼女がいて、でもやったれ、ってBetty Louにぽーっとなっているぼんくら男友達Montyを使ったりして突っついてアプローチしたらCyrusもめろめろになってConey Islandoとかで楽しくデートしたりして、うまくいくかと思ったのだが一旦ぜんぶだめになってあーあ、になるのだが最後の最後で逆転勝利するという。

Betty Louを演じるClara Bowは - 当時の典型的な美人さんをそんなに知っているわけではないのだが - そういう典型からはちょっと外れていて、でも不思議と目を惹くflapper感があることは確かで、そんな彼女が男どもの周りをぐいぐい引っ掻き回していくのを見るのは爽快だしおもしろいし。

他方で、ここで描かれているやりとりや話の転がり方って(or そもそもの映画の作られかたとかその売りだしからして)、今のジェンダーやフェミニズムのありようからすると相当あれよね、という感もないことはなくて、でもそれはそれとして(← 歴史から学ぶこと)女の子はやりたいようにやっちゃっていいんだから、やっちゃえいっちゃえ、ていうメッセージも確かにあって、ここでのBetty Louのお茶目な力強さはとってもすばらしいので、いいの。

それにしても昔の遊園地の乗り物(ていうほどのものでもないけど)、おもしろそうなのがいっぱいあるよねえ、って昔の映画のデートシーンみるといつも思う。 再現したら当たる気がする。

6.28.2018

[dance] Swan Lake

少し遡って12日の火曜日、Royal Opera HouseでのThe Royal Balletの公演を見ました。

これもチケットがぜんぜん取れなくて、ここんとこなんでチケットの話にばかりなるかというと、ふつう自分が本当に行きたい公演とかって、発売日に前売り買ってその日が来るのを待つわけだが、そこまでの情熱あれこれが摩耗してきている & 当日までの予定が手前になるまでわかんない自分のようなのにとって、直前とか当日にリリースされるリターンチケットを手に入れるのがとても大切で肝心で、で、それをじりじり待っている無駄な時間に、なんでこれに行くのか? そんなに、ほんとうに行きたいのか? とかいろいろ自問しまくることになって、それって前売りを買って指折りながら楽しみに待つのと変わらない時間で、なんかよいの。

もちろん取れないこともいっぱいあるので事前に取れるのは取っておくのに越したことはないのだけど、こんなふうに直前になっても正価で入手できるのはありがたいことだわ。

それにしても、この日のはあまりにぜんぜん取れなかった。表示が出てもごく一瞬で消えてしまうし、バレエの場合遠くのバルコニーとかの遠めの席ははじめから狙ってないので、ようやく手に入ったのは当日の昼間くらいで、しかも、またしても一番前だった(注:ここの一番前のは真ん中へんよか価格は少し安い - おそらく足先がちょっと見えにくいから)。

で、みんなが知っているSwan Lake。 メインで踊るのはMarianela Nuñez & Vadim Muntagirovのふたりで、フィルム撮りがあって世界中に配信されるし、同時中継で英国中の野外(ロンドンだとトラファルガー広場とか)にも流されます、と。 

振付は旧来のPetipa-Ivanov版(+ ACT IIIのNeapolitan DanceだけFrederick Ashton)に加えて英国のLiam Scarlett – こないだ3月のBernstein Centenaryでは、モダンの”The Age of Anxiety”を振付してた- が入っていて、でもどこをどの程度変えた加えたのかは不明。 そう簡単にいじれるもんでもなかろうに。

バレエを見るのが、なんで前の方の席のがよいかというと、ジャンプして着地したり回転したり固まって移動するときの床を打つ足音とか衣摺れの音とかがでっかく聞こえることで、これがあるのとないのとでバレエを見る快楽の度合いは違ってきて(個人差はあります当然)、べつに足音が聞こえないのであれば映画館配信のでっかい画面で見たほうがよい、と思うくらい。
もういっこ、最前でおもしろいのはオーケストラピットが真下にあるので、普段は聴けないような距離でクラシックの楽器の音(当たり前だけどすごくいい音)とか楽譜をめくる音とか指揮者の鼻息とかが鳴っているのでおもしろくて – カスタネットを両手に持って招き猫のかっこで叩きまくる奏者とか - このへん、舞台に集中できないのであんまよくないのだが、そういうのもある。

これまで一番Swan Lakeを見たのはABTのFull Length versionで、一番多くみたのはNina AnaniashviliさんのSwanで、ACT IIの終わり、彼女の”The Dying Swan” - 瀕死の白鳥 -で客席がぞわわわあー ってなるのを見るのが楽しかったのだが(でもちなみに、いちばん鳥肌がたった「瀕死」は90年代に見たMaya Plisetskayaさんの - )、Royal Balletのにはそのパートはなくて(誰にでもできるもんじゃないし)、でも隅々までまったくブレもダレもないクオリティはさすがRoyalだねえ、て思った。

Marianela NuñezさんのOdetteとOdileの対比も見事(Odileの方がだんぜん楽しそう)だし、Vadim Muntagirovの(素のときと違いすぎる)ぎんぎんの王子様っぷりも楽しかったし、悪漢Von RothbartのドSな佇まいもたまらなかった。でもACT IIIの民族音楽のとことか、もうちょっと冒険してほしかったかも。 全体におとなしくてお行儀よすぎかも。紅茶じゃなくてウォッカあおってやってほしい。

終わって、オーケストラピットのお片付けを見るのが楽しくて、びっくりだったのがハープの片付けで、下にシート敷いてから上にくるくる巻きあげて、ひとりであっという間に一丁あがりだったの。

会場にMaggie Smithさんがいた。すごく話しかけられたくなさそうだった。

[music] My Bloody Valentine

23日の土曜日の晩、Meltdown Festで、Royal Festival Hallで見ました。

これのチケットの発売当日、NINの方はサイトに入る前に売り切れで泣いたのにこれのはなぜか最前列が取れてびっくり、ていうのは前に書いた。 で、しばらく経ってMeltdownの次のアーティストたちが発表になってそこでSuzanne Vegaを取ったら、これがこのmvbとだぶっていたことがわかって、今度は彼女の方を諦めた。 (そしたら当日の昼間、Southbankで彼女、バスキングしてたって…泣)

このイベントとは関係ないけど、Barbicanの方では”Japanese Innovators: Pioneers in Experimental Sounds”ていう特集をやっていて、22日にAlva Noto & Ryuichi Sakamoto、23日にHaruomi Hosonoのライブがあって、Yukihiroさんも来ていることを知ったので、YMOやるんだろうな、くらいは予想できた。けど高校の頃、YMOにはケツむけてTGとかCabsとか聴いていた派なので、今回もスジ通してケツ向けてしまった。

これも関係ないけど、この週のMeltdownは、月曜日がDeath Cab for Cutieで、土曜日がMy Bloody Valentineで、どっちも映画由来のバンド名だよね。

mbvはこれまであまりきちんと聴いてこなかった。”Loveless” (1991) も出た当時に買ったけどどこれのなにがすごくて革新的のか、なんであんなに騒がれるのかよくわかんなかったのね。ライブも、昔のFujiでKevin Shieldsがなんか(Primal?)に飛び入りしていたのを横目で見て通り過ぎた、くらい。ちゃんと聴かなきゃねえといいながら1/4世紀なんてあっという間に過ぎてしまう。

前座はThe Soft Moonで、エレクトロからドラム缶まで駆使したイキのよい3人組で、自分がここまでMeltdownで見たなかでは初期~中期のThe Cureに一番近い音を出しているかんじで、なかなかよかった。

mbvは20:30の開始。自分の席は少しラメの入った夜会服の装いのBilindaさんの前で、Kevinは反対側だったのだが、彼、少しやせて、髪は変わらずもしゃもしゃで、どっかの映画作家みたいだと思った。

一応耳栓が配られていて最前だし覚悟しなきゃ、だったのだがそんな爆音でもなくて、途中で試しに栓してみたらあんま聴こえなくなったので外して、それでちょうど気持ちよいくらいだった。(年取って耳が遠くなっただけなのかも)(これまで、耳栓ないとやばいかも、てなったライブは不失者とNapalm Deathくらい)

この前の晩のNINはフロアの椅子席にいる全員ぜんぶが最初から立ちあがってがんがんでそのまま最後まで行ったが、この晩の客席はほぼ着席で、終盤に一部が立ってわあわあ、程度で、順番におとなしく(わあ、とか言いながら)聴いていくかんじ。

前方・背後のスクリーンに映し出されるぎらぎらぐるぐるのサイケビジュアルがきれいで轟音にうまく同期していて、花火大会のようだわ、て思って見ていた。問答無用にきれいでやかましいだけで、無理してハイになったり拝んだりする必要のない瞬間瞬間に立ち上る快楽の曼荼羅。

曲の速度や濃度によってギター音のテクスチャーはその表情や触感をころころと変えていって、まるででっかい森のなかにいるように心地よくおもしろく、しかも飽きない。でもそれを焚きつけたり風を起こしたりしているのはColm Ó Cíosóigのぱたぱた手数多めのドラムスで、このリズム隊がもうちょっと重心低くしていたらぜんぜん違った系の音に – たぶんつまんなく- なっていたのではなかろうか、と。
ギター轟音の最初のノートを乗っけて点火したらあとは自動で地平線の彼方地に突っ走っていくかのような軽快で無鉄砲で無責任なかんじ、それは88年にJ Mascisが、91年にButch Vigが刷新したギターノイズのありようを想起させるものだった。 あーそういうことなのかもー、と。

で、この気持ちよさは終盤に向けてどんどん増幅されていって、”Soon”からラストの” You Made Me Realise”までの4曲が持ちこんでくる異世界感ときたら対岸の花火が延焼して大変なことになっているのをお手あげで見ているようですばらしくて、それは終始客席にいるらしい知り合いに手を振ったりはにかんだりしているBilindaさんのどこか場違いな佇まいと併せるとなかなか快感だったの。

だいたい2時間、アンコールなし。アンコールなんていらない。

Meltdown関係はこれでおわりかしら。あっという間。 1ヶ月くらいやってくれればいいのにな。

6.27.2018

[music] Kristin Hersh

21日の木曜日、Meltdown Festで、Queen Elizabeth Hallで見ました。

このチケットはDeath Cabのときと同じタイミングで売り出されて、そりゃ行くでしょ、と問答無用で取ったら裏のMogwaiと被っていることが後でわかった。で、Mogwaiくんには悪いけど、こっちにした。

それにしても、この週のRoyal Festival HallのMeltdownのラインナップ、Deftones – Mogwai – NIN – My Bloody Valentineと並んでて、やかましいの好きなひとにはたまらないよね。お財布も含めて。

少し驚いたのは彼女のチケット、簡単にSold Outしたの。Throwing Musesって4AD(米国のバンドで最初に契約した - Pixiesの契約は翌87年)だったし英国では根強いんだろうなー。

ところで自分は米国にいたときにThrowing Musesを見たのだっけ?というのが定かではなくて、Tanya DonellyのBellyは見た(こないだLondonでもやってた)し、Kristin Hershも誰かのライブの時にゲストでちらっと出てきたのを見た記憶はあるのだが。(だから備忘でこんなふうに書いておくのはだいじ)

用事があったので前座には間に合わず、20:45に始まる本編から。時間がきたところでひとりで現れる。シンプルなワンピースで、少しだけ踵があがったつっかけを履いて、すたすた歩いてきてギターを手にして歌い始めて、ああこの声だわ、って思った。特にすごく 美しかったり節回しが独特だったり歌が巧かったり、絶叫したりするわけでもない。 背筋をまっすぐ伸ばしてほとんど動かず、少し擦れて引き攣った声 - でも周囲から孤絶屹立してしまうのではなく、ギターのストロークにぴたりと貼りついて不思議に馴染んでこちらに親しげに入ってくる声。 声/歌のかんじだと、やはりR.E.M.のMichael Stipeあたりに近いかも。もっと歌って、もっと聴かせて、って言いたくなる暖かさと豊かさ。 ギター1本なのにフォークとかSSW系の香りがぜんぜんしない不思議。

数曲やったところで隣にチェロのMartin McCarrickさんが伴奏で入って、やや音に幅ができて包みこまれるかんじにはなったものの流れていく空気感はそのままで、どこまでもこちらの耳の側に寄り添ってくる。

真ん中あたりで”Your Ghost”(ほんと名曲だわ)をやってくれて、終盤はほぼThrowing Musesの曲だったようだが、”Cottonmouth’くらいしか憶えてなかった。でも、曲なんて知らなくても間違いなく虜になって聞き惚れてしまう、そういう歌と歌声なんだよ。

終演後、彼女が最新Book + CD - “Wyatt at the Coyote Palace”にサインしてくれるというので、別の場所に並んでサイン貰った。 ほんとに人懐こくて素敵な笑顔のひとだった。

サイン会で自分の前に並んでいたおじさんが彼女とふたりの写真を撮ってほしい、というので撮ってあげたら、しばらくしてその写真が自分のTLに流れてきて(紹介もなんもしてないのに)妙なかんじだった。

[music] Low

20日の水曜日、Meltdown Festで、Queen Elizabeth Hallで見ました。

Queen Elizabeth Hall はRoyal Festival Hallの隣にあるやや小さめのホールで、普段はクラシックの小規模編成のとか、現代音楽系とかをやっている。 最近だとSteve Reichの”Different Trains”とか、Tyondai Braxtonの世界初演のとか、The NationalのBryce Dessnerの世界初演のとか、そういうの。

前座はJo Quailさんという女性の電気チェロ奏者で、ステージには床に固定されて直立している電気チェロがあり、Joさんは、これを叩いたり擦ったり弾いたり揺すったり、もちろん通常のチェロとしても奏でて、それらの音をエフェクタかけてループさせてひとり万能オーケストラにする。 この電気チェロって、打楽器にもベースにもふつうの弦楽器にもなんにでも使えるのね。
関係ないけど、「うずらのジョー」って、ちょっとかっこいいよね。

休憩を挟んで、Low – ついにこの3人組のライブを見れる。
これまでレコードはちょこちょこ買って聴いていたのだがライブは見たことがなかった。
東の珍獣トリオYo La Tengoほどポップでも人懐こくもなくて、盛りあがるような代表曲もほぼなし、音はゆったりがりがり不穏で不機嫌でヴォーカルふたりがデュエットしても不安を煽るばっかりで、でもどこか不敵に揺るがないこの北の珍獣トリオをライブで見てみたい、という欲望が常にあった。

開演30分前になると背後のスクリーンに30:00から00:00に向けて始まるカウントが表示されて、これが00:00になる手前でメンバーが出てきて、きっかりに演奏が始まる。背後のスクリーンには満月に寄っていったり引いていったりとか空港内のシャトルとか滝とかいろんな、超スローで、でも魅力的な動画が映しだされて、それらは彼らの音と同様どこまでも無骨で、ただそこにあるだけ撮られただけ、のような風景・背景として映しだされて誰も気にしない、そんなふうな。

音はそれまでベースが出しているのかギターが出しているのか不明だったあのチリチリビリビリの弦ノイズがほぼ電気ギターのそれであることがわかり、AlanとMimiのヴォーカルハーモニーも、どっちがどっちだかわからないくらいに絶妙に絡まったそれであることがわかり、でもだからといって彼らの音の魅力、その不思議が解きほぐされたかというとそうでもないまま、でもだからといってその魅力が減衰したかというと、もちろんそんなことはないまま、肌の上にチリチリと纏わりついてくる微細電流に痺れっぱなしなのだった。 ノイズミュージックの、ノイズの洪水に身を浸すのとはやや違う – 背後の映像にあるような海を眺めたり月を眺めたりしてひたすら無為に過ぎていく時間の感覚の生々しさがそこにはある気がした。

各自楽器を一回も替えず、ほとんど喋らない状態で進行したが、Alanさんが最後の方でRobert Smithに対する感謝を述べて、娘も喜んでいたと、でも息子は(丁度同じ時間帯にメイン会場の方でどかどかやっている)Deftonesの方に行きたいって(とやや悲しげに呟いた)。

本編ラストの曲だけNeil Youngふうに地を這うギターノイズが荒れ狂って、ギターを歯でがしがしやったりして(フリだけ?)、ノワール風にぶっきらぼうにステージを去って、アンコールなんてやらないでしょ、と思っていたのに再登場した。

もうじきリリースされる新譜 “Double Negative”のコンセプトなのかなんなのか、黒い厚紙の上部がふたつの丸でくり抜かれたマスクが全員に配られて、観客全員がそれをつけた状態でステージ上からカメラのひとが撮影してた。 いったい何に使うのかは謎。

物販コーナーで、クリスマスの靴下(昔出たクリスマスアルバムの時の)があって、ちょっと欲しくなったが我慢したの。

6.25.2018

[music] Nine Inch Nails - June 24 2018

24日、日曜日の晩、Royal Albert Hallで見ました。 London公演の2日目。

チケットが取れていないので直前までどうなるのかわからず、ついでに悩ましいのが、この日の晩、Meltdown Festivalのクロージングイベント - CURÆTION-25ていうのもあって、Royal Festival Hallに主宰者のRobert Smithが登場してなんかやる、と。 こちらのほうも軽くSold Outしていたのでまずチケット取ってから悩めよ、だったのだが、悩むのはタダだからいっぱい悩む。

Robert Smithの方は、おそらくThe CureのSongbookのようなものになるであろう、と言われていて、でもどうせSongbookならThe Cure本体のライブいくよね – 7/7にHyde Parkであるし – で、唯一気掛かりなのはゲストで誰が出てくるかで、でもそれは諦める - 遠くの席だったらどうせ見えないだろうし。(当日の特別ゲストはとくになかった模様 – 今のCureメンバー以外は – )
で、これと比べるなら22日のライブでとてつもなく圧倒的な変貌を見せた「今」のバンドであるNINにしたほうがよいのかも、と。 この日と同じメニューになる可能性はまずないし(断言)。

でも、土曜日から張っていてもチケットはぜんぜん釣れず、日曜も朝から釣り糸垂らして(←ひま?)、あまりに来ないのでCURÆTION の方にも垂らしてみて、先に取れた方でいいや、ってやっていたら昼過ぎにRoyal Albert Hallのほうでついに引っかかる。 どんな席でもいいから、でよく見ないで取ったらGrand Tierていうボックスで、鍵つきの部屋になっているからめんどいのだが、とにかく取れたからいいや、って安心して映画1本見てから会場に行った。

MeltdownのメインホールだったRoyal Festival Hallのフロアはぜんぶ椅子で、Royal Albert Hallのフロアは取り外してスタンディングにできるので世界中から暴れん坊がいっぱいくる(ちなみにこないだのThe Theのときは椅子が出ていた)。自分のボックスはステージの右手のすぐ真上で、よこにばかでかいパイプオルガンがそそり立ってて荘厳なかんじになるのだが、下を見下ろすとむきむきの人達がみっしりフロアを埋めていてわお、ってなる。

前座は22日とおなじBMSRで、上から見るとこういう分担でやっているのね、というのがわかっておもしろかった。正面からだとVoのひととか機材に隠れてぜんぜん見えないの。

NINの開始は21:00きっかり、前日よりも大量のスモークが焚かれてステージが全く見えない中、「来たことある気がするけどもうそんなのどうでもいい」とか吐き捨てる”Branches/Bones”が性急に走りだし、それは22日のオープニング - ”Somewhat Damaged”との対比も鮮やかだったので、かっこいいーと唸っていたらそのまま”Wish”になだれこんだので場内大絶叫の大爆発で、その勢いのまま”Less Than”にいって”March of the Pigs”にいって、ああこの調子でやられていったら死んじゃうかも、と思ったとこで” Piggy” – “Frail”で少し息をつなぐことができた。 という出だし。

この日の午後にRough Tradeに行って”Bad Witch”のアナログは買って – だって会場の物販より£3くらい安いんだもの – ライブ行く前に2回くらい通して聴いてみたら、中心部にごりごり固まった音の粒にびっくりして、ラジカセでWireとかFallとかCabsとか聴いてた頃を思い出し、つまりこれは野良パンクってことよね、と適当に納得した(注:後でヘッドフォンでちゃんと聴くとものすごく作り込んであることがわかった)のだが、そこの1曲目 - ”Shit Mirror” – なんて出だしをRobin Finkががうがう勝手に(そう見えた)歌いだし、横目でそれを受けたTrentが継いで流して、その間合いの取りかたとかを真上から眺めているとそこらのバンドみたいで(バンドだよ)、しかもパンクみたいじゃんかっこいいじゃん、という新譜からの3曲。

22日の感動モーメントはAlan Moulderへの謝辞だったが、この日のは” I Can't Give Everything Away”の前、Bowieのことを切々と語り、でもその終わり、曲に入る前に「この曲を捧げるのはBowieにじゃない、君たちにだよ」って。

もういっこの洲流しパンクスタンダードの”Digital”の後、ど真ん中の” The Hand That Feeds”持ってきて、” Head Like a Hole”やって – このふたつは王道すぎてもうやらなくていいと自分の中では思っている – とにかくぶちあげにあげて、フロアの連中を暴れるだけ暴れさせて、本編を終えた。

アンコールは”Hurt”の前に”The Day the World Went Away”を持ってきて、これをIlanを入れた3台のギターで真ん中に輪をつくってぐあんぐあん鳴らして、ヴィジュアルだけだと70年代バンドの風景のようだった。あの絵でこの音と詞で、さらに”Hurt”に繋がってしまうとやたらヒロイックにノスタルジックに響いてしまう気もしたが、たまにはそういうのもいいかも。

22日のライブは、NINが今立っている場所とそこからの眺め・見晴しについてスローに誠実に訴えてくるものがあって感動的だったが、24日のは衝動のみでおらおらがんがん攻めて扇動してくるので我々は煙と混沌のなかでおろおろするばかりで、でもそれもまた極めてきちんとコントロールされた今の彼らの手口やり口で、Survivalismなのだと思った。 このまま行ったれ。

この日もTrentは極めて上機嫌で、タンバリンの他にハーモニカからトラメガまで。
カメラクルーがうろうろしていたのでどこかで作品になるのかも。

ね、Guardianのレビューも満点でしょ。
https://www.theguardian.com/music/2018/jun/25/nine-inch-nails-review-ferocious-saw-toothed-gothic-wonders

この内容が10月の米国ツアーまでにどう変わっていくのか、と –

[music] Nine Inch Nails - June 22 2018

やはりこっちを先に書いてしまおう。

22日 - “Bad Witch”の発売日 - の金曜日の晩、Meltdownでみました。
これのチケットがSouthbankのメンバー先行の発売日にも取れず、サイトの入り口でキュー待ちしているうちにさっさか売り切れて唖然、しょんぼりというのは前に書いた。

この程度で諦めるわけにはいかないので、あれこれやってはみて、NINも薦めていたチケットを公正な値段で取引するTwiketsとかにも登録して、でもあれってアラートメールが届いたときには100%売り切れているのでぜんぜん使えなくて、最悪チケットサービスていう公営ダフさんかなあ、だったのだが、Southbankのサイトに釣り糸を垂らして覗いていたら3日前に突然・偶然、釣れたので大変びっくりした。しかもオーケストラのL列のまんなか、なんかの罠とか囮ではないか、とも思ったが神様ありがとう、ということにする。

サポートはBlack Moth Super Rainbowで、背後のディスプレイにサイケ画像を映しながら前座としては結構長めの1時間弱。 いかにもTrentが好きそうな音だねえ、とは思ったけどちょっと名前負けしているかも。

NINの開始は21:00とアナウンスされていて、このフェスのメインの出番はだいだい20:30か20:45なのでやや遅め。

これの前のライブは昨年7月、NYのPanoramaで(一年経ってないんだ..)、その前となると2014年8月のHolywood BowlでのSoundgardenと一緒のやつで、その前は同年2月のStudio Coastで、その前は2013年10月のBrooklynで、その前は2013年のFujiになって、更にその前だと2009年のNINJA、とか。

彼らのライブはそれなりに追いかけてきたつもりだが、今回のはAtticus Rossの正式加入と3部作の完結を受けて、どれにも増してリブート感が強いかも。それはTrentやバンドの内側の変容、というだけでなく、ボウイの死やトランプ的なアメリカの台頭といった外的な要因によるものも十分にある気がしていて、その辺りを確かめたかったの。

開演前の音楽にはBowieの”Low”から"A New Career in a New Town”とか”Warszawa”とかいろいろ。

このホールは普段はクラシックとかやっているとこなので音はめちゃくちゃよくて、それでこの至近距離だとどうなっちゃうのか、と思っていたらやはりとんでもなし。音の肌理の細かさもあるけど、それ以上に密室感・密集感とその圧迫感が。秋の米国ツアーがアリーナではない中規模ホール中心、というのもそういうことなのだろう。
ステージが狭いせいか、照明板とかの縦横移動は大勢の人力のせーの、でじたばたしたりしていて大変そう。

それにしてもあんな近いとこからこのバンドを見たのは初めてだったかも。Trentの無精ヒゲ汚れもふだんはでっかいモップにしか見えないIlan Rubinの頭も、彼の顔までわかるし。

最初の“Somewhat Damaged”は野外で聴くと工事掘削現場の轟音なのだが、今回のは自分の頭蓋の奥で偏頭痛のように響いてくるし、続く”The Day the World Went Away”のやかましさときたらおまえなんか潰されてしまえ、って言ってくる。

ここから始まって、この日のトーンはほぼ”Fragile” だった。この作品ほど制作当時のTrent自身の内側と外側の相克を精緻に生々しく刻んでいったものはなくて、しかもその対峙する目線とかその在りようといったもの、その拘束力は未だに更新され続けていて、何かある度に振り返ったり逸脱したり(→  ”Deviation 1” (2106) 参照)を繰り返しながら自身の胸や腕に叩き込んでいく何かなのだと勝手に思う。
この流れに監視社会に向けた黙示録(どう闘うか)である”Year Zero”(2007) と新譜(今日買ってきた)が加わることで、彼がなぜ今のシーン(音楽だけでなく)でこれをやらなければいけないのか、が見えてくるようで、でも勿論そんな成り立ちや構成を知らなくても音はひたすら尖った現在形で攻撃してくる。

“Even Deeper”の後、Trentはこの会場に来ているはずというAlan Moulderに向けてとっても丁寧に誠実に長めの感謝の言葉を述べて、ものすごく力の籠った”The Big Come Down“へ。 
この曲には”There is no place I can go - there is no place I can hide - It feels like it keeps coming from the inside” ていう詞があるの。

あとおもしろかったのは、”The Great Destroyer”の間奏のAtticusのエレクトロとAlessandroのカセットテープ操作のすさまじい応酬。ずたずたにされたトランプの声が遠くから聞こえてくる。

アンコールではかんかんに固く乾いた”Metal”から湿度粘度全開べったべたの”Reptile”への無反省な振れっぷりがすばらしく、それでも最後は”Hurt”に落ちる。

そういうかんじなので、Trentさまのご機嫌は終始すばらしくよくて、タンバリンもぱりぱり叩きまくっていたし、”Metal”の後にはメインのキーボードを軽々放り投げてくれたり、スタッフの慌てぶりがおもしろかった。

いやーこれ以上の、そうはないよね、と思ったのだが、さっき行ってきたRoyal Albert Hallのはこれとぜんぜん違うごりごりハードコア地獄だったのでどうしたものか、て頭かかえてる(いつものことよ)。

会社いきたくないよう。

6.23.2018

[film] Hereditary (2018)

16日、土曜日の昼、CurzonのBloomsburyのでっかいスクリーンで見ました。

みんながあまりに怖い怖い今年一番怖いとかホラーのイノヴェーションだとか言うので、どんなもんかしら? と。怖くなったら出ちゃえばいいし、見たくなければ目をつぶればいいし、泣きたくなったら泣いちゃえばいいし。

怖かった。けど怖さの種類がこれまでのとはなんか、ちょっと違うかも。

ミニチュア・アートの製作をしているAnnie Graham (Toni Collette)がいて、あとは夫のSteve (Gabriel Byrne)がいて、ティーンエージャーの息子のPeter (Alex Wolff)と13歳の娘のCharlie (Milly Shapiro)がいて、Annieの母のEllenの葬儀から始まってそこでのAnnieの弔辞によるとEllenは相当変な、厄介な人だったらしいのだが、そこから一家に変なことが起こり始める – というだけなら割と簡単なのだが。

例えば、ある家族 - 血縁、ある家、ある建物、ある土地、此岸に彼岸、この世にあの世、あるいは、神話、伝説伝承、言い伝え、風習、呪い、あるいは、憑依憑りつき、悲嘆、喪失、虐待、生贄、去勢、損傷、変異、転移、感染、増殖、減衰、消滅、放置、あるいは、だっきん、どばどば、ぐじゃぐじゃ、ぐりぐり、ぴゅー、などなど、ホラーって、それが展開される場所とか文脈、そこで登場人物たちに加えられる苦難の度合いとか性質とか頻度とかそのやりようとかの組合せで、だいたいどんなものかはわかるし、それがわかるから広告になって、それを見て見たいひとは見にくるし、見たくないひとは見ないで目と耳を塞ぐわけよね。

この映画だと、予告のなかでToni Colletteが見せるすさまじい形相と娘Charlieの老婆のような無表情とその対比から、この親子とか家族に災難試練が降りかかって、それは祖母Ellenの死に起因したものなのだろうな、くらいの推測はできて、はじめのうちはその通りに進んでいくかに見えるのだが、途中から突然「エクソシスト」みたいになって、最後は「地獄の黙示録」みたいになる。
 
その話の運び方がなにかのイベントにキックされるものでもセリフにキックされるものでもなく、気がついたらそっちにいってあんなんなっているので唖然で戦慄して、なんだよこれ! になるのだがそうなったときには既に遅かったりする。 登場人物たちの恐怖に取り入っている暇はなくて - 彼らもおそらく恐怖を感じる前に首がなくなったり火だるまになったりしてて、更に「おまえはとっくに死んでいる」と後になって気付かされる怖さ、でもそれを知る死んだ自分てなに… ていう間抜けさも、どこかしらにあったり。

書けるのはここまでかなあ。

冒頭、Annieの作ったミニチュアのGraham家に空からカメラが寄っていってそれがそのまま現実になるところとか、Charlieがひとりで住んでいるらしい離れの高いとこにあるウッドハウスとか、突然現れる屋根裏部屋とか、アリとかトリとか、細かな小道具といちいち耳に触っては逃げてく音響設計(ぜったい、音のよいシアターで見ること)とColin Stetsonの音のエッジと。

監督のAri AsterさんがCriterion Collectionの棚から選んだTop 10、で、1がBergman、2が溝口って、そうかー、って思った。特にBergmanの3本 - “Persona” - “Cries and Whispers” - “Fanny and Alexander”って、なるほどなー(ちなみに溝口だと「雨月物語 -「山椒大夫」-「西鶴一代女」の3本)。 怖さの性質からすると、これらの映画の方に近いのかもしれない。

それにしてもToni Colletteさんの顔は怖いよう、とか、怖さとは、怖いというのはどういうことをいうのか、を考えるにはよい題材だと思った。

6.21.2018

[music] Death Cab for Cutie

音楽関係のは後が詰まってくるのでとっとと書いていく。

18日月曜日の晩、Royal Festival Hallで見ました。Meltdownのー。
今回のMeltdownのチケットは2回に分けて発売があったのだが、これは後の方でアナウンスされたやつに入っていて、例によってチケット販売のタイミングを逃してサイトに入ったときは軽く1時間超えのキュー待ちで、ようやく中に入って必要なの確保して、ひょっとしてこれ取れるかしらん? とクリックしてみたらなぜか最前列が取れてしまった。よくわからない。

Death Cabとわたくし、ということで過去を掘ってみると、最初に見たのは2002年のDismemberment Planとの対バンで、曲は当然”The Photo Album” (2001)と”The Forbidden Love EP” (2000)からのが殆どで、これらがものすごーくよくて、後に出てきたDismemを完全に喰っていて、いっぺんに好きになり、その後、Barsuk Recordsの全員集合ライブ – どのバンドもよかったなー – とか、2005年くらいまで、NYでのライブがあると割と追っかけてはいた。

”Transatlanticism” (2003)以降で当たり前のようにみるみるブレークして、なんか「熱い」バンドになってしまったのと、Chris Wallaさんが抜けてから更に湿度があがった気がして疎遠になっていた。
メンバーが5人になり、新譜の発売を2ヶ月後に控え、それの秋ツアーも既に発表になっている、そのタイミングでのこのライブはなんでかというと、やはりRobert Smith師に呼ばれたから、らしい。

前座はFear of Men – 女子がVo, GとB、男子がGとDrで初期のThe Cureぽい重心低めのもわもわじゃりじゃりを聴かせてくれた。こういう音って女性がやったほうが男のよか数段かっこよくなる気がするのはなんでだろうなあー、とか思った。

Death Cab、最初にBen Gibbardがひとりで出てきてアコギで大声で元気いっぱい歌う。元気でなにより。

初期のDeath Cabの魅力は本来であれば汗びっしょりのエモになだれ込んでもおかしくないようなテーマを冷たい硬質なテクスチャーで包んで投げてきたことで、それはステージ上でもホットなBenとクールなChrisの対比としてもきれいに現れていて、その在りようは911後のいろんなことに疲れていた耳にはとてもやさしく、かっこよく響いたものだった。

で、Chrisのパートはギターとキーボード(たまにギター)の2名に割れて、このバンドのもうひとつの魅力であるボトムのしなやかさと強靭さはそのままで、Benはギター(1曲ごとに取り替える – ぜんぶテレキャスターだけど)以外にエレピも叩いたり、音には広がりが出て、ギターが3台で喧しくなるとガレージのようにも聴こえたりした。リリース予定の新譜からも数曲披露されたが、ごく普通によい曲群でヒットはするのだろうけど、例えば初期のリズムセクションとシンセの交錯がもたらす音構造のスリル、みたいのからは遠くなってしまったかも。(その辺の追及は – まだやっているのかどうかはわからないけど – The Postal Serviceの方、なのかしら?)

アンコールは1回、3曲で、最後の"Transatlanticism"はみんな大合唱で、えんえん”I need you so much closer..”を歌って幸せそうで、あーこれあったねえ…  て当時のいろんなことを思いだしたり。
とにかくBenは一生懸命ひとりで奮闘してて、でもこの人ってどんなに熱くなってもどこかしらあっちの方を向いてるかんじがあって、うざくなくて憎めないのよね。 これのライブの間だって、丁度ワールドカップの英国戦の最中で、律儀に結果を伝えてくれたりして。

久々にアメリカのあの頃の音に触れた気がして、なんかよかった。

6.20.2018

[music] The Psychedelic Furs

15日の土曜日の晩、Meltdown Festivalの初日、Royal Festival Hallでみました。

Meldownは2010年のRichard Thompsonがcurateしたとき、たまたま出張で来ていて、Elvis Costelloのを見たことがあって(アンコールで2人で”The End of The Rainbow”をやってくれて泣いた)、昨年のM.I.A.がcurateしたのは、知らないのばっかりなのでビビって行かなかった(後悔)。今年はRobert Smithで、彼の名が出てから何がくるかなー、と思っていたら想像以上にロックなのが八百屋みたいに並べられて(まさかNINがでるとは思わなんだ)、これならCureのフェスやったほうがよくない?(昔やってたよね、Curiosa..)とか思ったけど、しょうがない。  泣きながらチケット取ったり取れなかったりの感覚を久々に味わったわ。(買ったチケットは8枚、あとから2枚被っていることが判明。 それがなにか?)

The Psychedelic Fursのライブを見るのは初めてで、これまであまりよい聴き手でもなくて、この辺のことを書きだすと止まらなくなる可能性があるのだが、例えばThe Psychedelic Fursという名前にしてもRichard Butlerというヴォーカリストにしても、80年代の頭くらいにはなかなか微妙だったの。例えばEcho and the Bunnymenというバンド名は問答無用だったし、そのヴォーカル - Ian McCullochと比べたりすると、あるいは当時は飛び道具のように風船のように得体知れずに浮遊していたThe Cureなんかと比べてしまっても、どうなのか、と。 ジャケットのセンスもなんかよくわかんなかったし、3枚目でTodd Rundgrenに行ったのもえー、だったし(当時はね)。 もちろん、Richard Butler命、で英国まで行っちゃうような人もいなくはなかったし、それもべつにわかんなくはなかったし、けどさー、ぶつぶつ(えんえん)。

前座はなんとThe Church。 こういうバンドまで見れてしまうという驚異。 なんて馴染んでくる音だろうか、なーんでこんなに居心地がよいのか、と涎垂らして聴いてた。アンサンブルは多少よたっていたが、灰色のシンセの森に2台のギター木こりが切りこんでいく。ああこれにずっと浸っていたらだめ人間になる … もうなってるか …  とか。

休憩時間に流れていた曲たちがこれまた..  Juliana Hatfield “My Sister”に、The Sundays “Here's Where the Story Ends”に、Dinosaur Jr. “Start Choppin’”に、The Sugarcubes “Birthday”に… 

The Psychedelic Fursは盤石だった。最初のほうこそSaxophoneがややうるさいかねえ、だったが気にならなくなって、4曲目の”President Gas”で座っていたお年寄りのみんな(あんたもな)は立ちあがって前のほうに走っていって団子になって(しばらくしたらぜーぜー言いながらみんな戻ってきた)そこからはずっとお祭り状態で、どの曲もGreatest Hitsだし、Richardはほぼ”Thank you”しか言わなかったけど客席のほうに頻繁に手を延ばしてきてスターのオーラ満載だったし、前の列で踊り狂っている明らかに同年代の女性があんたなんで踊んないのよ立ちなさいよ、て頻繁に目で攻撃してくるのだったがやりすごす。 中盤過ぎに映画”Call Me by Your Name”で再び光を浴びた”Love My Way”も出て、もうちょっと盛りあがるかと思ったけど、わりと普通で、あそこでArmie Hammerがやった踊りをみんなで… でもそもそもみんなあんなふうに踊ってたのだった。

バンドの音はだれたり澱んだりがまったくない硬い一枚板になっていて、Richardのヤスリのような声質ときれいな火花を散らして気持ちよいったらない。

本編のラストは”Heaven”、アンコールの終わりは”Pretty in Pink”で、まったく予想した通りで、でもつまんないわけないの。オリジナルのリリースから37年、映画での再リリースからも32年、それだけ経ってもなおこの曲はあの頃の浮かれてバカっぽかったバカの熱を再燃させて、なんてしょうもないことでしょう、帽子でも被るか、とかしみじみした。

ところで、この夏はなんとしてもエヂンバラに行かねば。

https://www.theguardian.com/music/2018/jun/19/60-years-scottish-pop-biffy-clyro-orange-juice-ivor-cutler-rip-it-up

6.19.2018

[film] L'amant double (2017)

11日の月曜日、なんかだるかったので会社を休んで、CurzonのVictoriaで見ました。
英国はこのままのタイトルで公開、米国のは“Double Lover”、日本のは『2重螺旋の恋人』? 。

François Ozonの新作で、原作はJoyce Carol Oatesの短編 - ”Lives of the Twins” – これを翻案したものだそう(未読)。 最初にJoyce Carol Oatesの名前が出ただけでああこれはこわいやつだわ、て思った。確かにこわかった。

冒頭、Chloé (Marine Vacth) が長い髪をばっさり切るところと診療台で両脚を広げているシーンがあって、神経質そうな彼女はずっと原因不明の腹痛を抱えているので別にセラピストを紹介してもらって、Paul (Jérémie Renier)のところを訪れる。 Paulは穏やかなかんじで治せるかどうかわからないけど、と言うのだが、彼女はだんだんよくなって(どんな治療をしたのかは不明)、Paulとも仲良くなって、やがてふたりは一緒に暮らすようになる。

その後Chloéは街中でPaulにそっくりな人を見かけて、でもPaulは知らん気のせい、というのだが気になって探っていくとそいつもセラピストで、Louis (Jérémie Renier 二役)といい、試しに訪れて治療を受けてみるとやたら挑発的で乱暴でドS風でなによこいつ、になるのだが、なんだか(昔のロマンポルノ風に)ずるずるいってしまい、そいつが言うにはPaulとは双子の兄弟だという。Paulはそのことを明らかにしていなかったのでなんかおかしいわ、と。

書くとつまんなくなるのでここでやめるけど、そこから更に掘って探っていったら驚愕の過去とか因果が明らかになってひええー、になるの。双子にまつわるいろんな類型とか言い伝え、あるいはオスの三毛猫(あの猫いいなー)の生殖確率にまで言及しつつ、それでも捕捉しきれずにこぼれる奇妙な愛の謎とか不可解とかに迫っていく。

前作の”Frantz” (2016)にもあったわたしが愛してしまったあなたは誰なの? というテーマが戦争を介した敵国間ではなく双子、という関係のなかでわんわんこだまして更に自分にまで降りかかってくるの。これ、双子を双子に割って固化してしまった暴力とか残虐さとかのほう - ホラーとかゴスとかSMとか - に行ってもおかしくないテーマなのだが、そっちには向かわずになんとか愛の領域に留まろうとする。それも、同じようなのがふたりいるんだからどっちでも、とか、めんどくさそうだからどっちもいらん、のではなくある意味とってもまじめに誠実に。

で、そのまじめさでもって”Frantz”でもPaula Beerをどこまでも苛めぬいていたが、ここではMarine Vacthに対してなかなかひどいことをする。ああいうつーんとしたタイプの女性をいたぶるのが相当お好きなようで、François Ozonてやっぱし相当の..

でも結果的にそういうのを通じて治療できたようだからよかったのかなあ、とか。

いっこあるとしたら、Chloéがそこまで執拗に追って求めていく愛というのが、全体を覆う冷たいトーンとなんか乖離している気がすること。そこまでしてあの双子に拘るか? 愛がほしいのか?  べつに猫でいいじゃん、とかその辺。いや双子の磁場というのはそこまで強力で怖ろしく逃れられないものなのじゃ、というのであればやっぱホラーにしたほうがよかった気もするしー。
あとこれ、相手を二重人格者の設定にしても変わらなくないか、とか。

でもぴりぴり(ハッタリ込み)の緊張感は毎度のFrançois Ozonだったかも。

6.18.2018

[film] Eighth Grade (2017)

10日、日曜日の夕方、Picturehouse Centralで見ました。 この前の週に行われたSundance Film Festival in LondonでAudience Awardを受賞した作品が、1回だけアンコール上映された。

冒頭、女の子が自分の部屋の隅をライティングして、PCのカメラに向かって明るくスピーチ - 「自分自身であること、とは」みたいなの – をして、ひと通り喋ったあとで、「じゃあまた来週ね!ぐっち~(注、よくわからず)」みたいなことをやってPCオフして、要は自分のチャンネルにそういうのをいつもUpしたりしているらしいのだが、それがEighth Grade – あと数週間で高校に行くことになっているKayla (Elsie Fisher) のやっていることで、それなら彼女はみんなに引っ張りだこの人気者なのかというと、顔はニキビぽつぽつでややぽっちゃりで背中もやや丸まってのっそりしててあんま喋らなくて、住んでいるのも父Mark (Josh Hamilton)と二人暮らしで、要するにあんまぱっとしないどこにでもいそうな女の子で、こんな彼女のEighth Grade最後の数週間はこんなふうに。

Kaylaにものすごい秘密があるとか隠れた能力があるとか闇で交際しているとか、あるいはものすごいことを計画していてやがてとんでもないことが起こるとか、そういうのでもなくて、小学生のときの宝箱を出してきて眺めたり、人気者の子のうちに招かれて緊張しすぎて浮きまくったり、夜中にもそもそPCしたりスマホしたり、誰でもやっていそうなこと(最近の子がどんな生活をしているのかまったくわからないので推測だけど)を淡々とこなしていて、そういうのがちょこちょこ気になってお伺いにくる父親との間で小競り合いを繰り返していて、そんなのがおもしろいのか、と言われればおもしろいのだからしょうがないの、これは。

やがて入ることになる高校の上級生とも知り合って(そういうお見合い会みたいのがある、らしい)、いろんなことを話して、その彼女の友達にも紹介してもらって少しだけ大人になった気もして高校生活に期待が持てたりもするのだが、同様にやなことも起こって萎んだり。

自分のときはどうだったのか、なんて思いだしたくもないことばかりなのでそんなの断固見たくない、というずるい大人(=自分)にも、この頃ってほんとどうでもいいようなことでいちいち死にたくなったり世界中を呪ったり穴掘って籠ったり、そんな暗いのばっかりだったな、ということを思い起こさせてくれて、その辺のちくちく追い詰められるようなかんじがたまらなくて、従来の青春映画や子供映画にあるそうだよね(!)、みたいな高揚感とか拳とか納得感とかはあんまないのだが、それはそれでよいのかも。 だってそんな程度のしょぼいもんだったし。

でもさー、いちいちあんなチャンネル作って公開したり、チャットだソーシャルだなんだで追いまくられたり、そういうので空振りしたり白目で見られたりその都度あがったりさがったり、今の子供たちってほんと大変なんだろうな、って改めて思った。 それにあんなことこんなことしたのがぜんぶデジタルでどこかにアーカイブされていて10年後とかにどこかから現れるなんてぜったい耐えらんなくて死にたくなる気がするのだが、そういうのも平気なのかしら。

で、この辺の大変感をだすのにどろどろじめじめの真っ暗にしてしまうこともできたのかもしれないけど、そっちには行かずに、くすくす笑えるコメディに包んで、なおかつこういう子ってそこらにいそうかも、と思わせてしまうところはよいな、って。

主役のElsie Fisherさんの堂々たるずっこけ彷徨い女の子っぷり – まるで”The Florida Project”のMooneeが捩れたよう – が光っていて、彼女がこの数年後に自分のことを”Lady Bird”とかうわ言のように言い出すようになるのかどうか、静かに見守りたい。

[film] Zama (2017)

10日、日曜日の昼にBloomsburyのCurzonで見ました。

Lucrecia Martel監督作品は、これの公開を機にNYのLincoln Centerでは特集が組まれて、ロンドンでもICAとBFIで小規模ながら過去作品の上映と本人のQ&Aとかもあったのだが、ぜーんぜん行く余裕なかった(のはなぜ ?)。

Antonio Di Benedetto の同名の原作小説(1956)は、翻訳はされていないようだがラテンアメリカ文学の世界では結構知られた古典であるそうな。

Don Diego de Zamaは17世紀のアスンシオン - パラグアイ - に官吏として駐留してて、その地のインディオとかを管理管轄する立場にあるのだが、そんなの限界あるに決まってるしつまんないし、ずっと本国とかもっとよい地域への異動を希望して便りを出し続けているのに聞き入れられなくて、そうするとモチベーションは下がる一方で、そういう状態に置かれたZamaの苛立ちと焦りと自棄で孤立していく日々と、ここから移れるのであればと、どんなことにでもに手を出すようになってやがてじわじわと自滅していく。

背景のひとつとして南米の未開の地があり、半泥のでっかい河と湿地帯とジャングルがあり、相対している現地のインディオは言葉もあまり通じないし半裸でなに考えてるかわかんなくてそこらをうろつくアルパカなんかとかと変わらなくて、こんな場所でなにかすごいことができるわけないのは明らかなのだからつまりこれは塩漬けで、だから早く戻してほしいお願いだから、と。

もうひとつは、地元の神出鬼没の賊 - Vicuña Portoとやらで、こいつを捕まえることができればその手柄で帰れると言われるのだが、あそこに出たとか捕まったとか野生動物のような未確認情報ばかりで、そのまわりでなにやら止まってしまったり。

大きな野望とかやらねばならぬことを前にして、茫洋とした浅瀬というか中間地帯のようなものが広がってしまい、特に立ち止まりたくもないのにその状態での停止・静止を余儀なくされて、憤懣やるかたないのだがどうしようもないんだよ(怒)みたいな古典劇、というと、こないだのAlbert Serra の”La mort de Louis XIV” (2016)とか、2月にベルリンで見た彼の演劇 – “Liberté”も、さらにその前の『騎士の名誉』 (2006)とか『鳥の歌』(2009) とかにも、そういうかんじはあった。

むかしむかしこんなところで、こんなふうに時間が止まってしまったことがあって、それはこんなかんじだったのだが、今だったらどうなるのかしら? 今も割とこんなふうに竦んでいたりするようね、ていうような。

あるいは、そんなに古い話ではないけど、未開の地への志向、というところではMiguel Gomesの”Tabu” (2012)の熱風に煽られて溺れてどうしようもなくなっていくかんじとか、あるいは、James Grayの”The Lost City of Z” (2016) – これは逃れようとする話ではなく、めろめろになって突っこんでいく話だけど、未開の地に入って触れていくことで開かれたり変異したり壊れたりしていく(西欧的)自我、の症例(?)のようなものとして見ることもできるような。

これらをものすごく落ち着いた動きと微細な陰影のなかで捕えていて、虫の音鳥の声にまみれながらいくらでも見ていることができて、特にZamaを演じたDaniel Giménez Cachoの容貌のHolbein the Youngerの肖像画みたいな貌とか、でもそういうのよか、平気な顔して映り込んでくるアルパカとか馬の目線とか、そっちのほうもすごくて、熱帯のなにかに触れて感覚が麻痺していくってこういうことなのか、ていうのがわかって、それで十分なのかも。

アスンシオンて、90年代に一度仕事で行ったことがある。 内陸のほうなのに建物もあるのに、なんか地の果てのかんじが濃くてすごかった記憶があるの。

6.14.2018

[music] Microdisney

9日、土曜日の晩、Barbicanで見ました。その前に“Ishmael’s Ghosts”を見て、Bishopsgate Instituteに寄ったり、いろいろあった。

この日の晩は、The Theのバイオグラフィー”Long Shadows, High Hopes: the Life and Times of Matt Johnson and THE THE”の刊行記念イベントがあって、ついでに初版特装本の販売とサイン会があるというのでなんも考えずに速攻でチケット取っておいたら見事に被っていることが前日にわかってあらら、だった(最近ほんとこんなのばっかし)。 このイベントの開始は19:30、ライブは20:00、ふたつの会場間の距離はだいたい30分。ライブの方は前座があるかもだし、20:00ていうのがドアオープンなのかライブ開始なのかでも違ってくるのでBarbicanに問い合わせたら、ドアは19:30、ライブは20:00開始、前座なし、とのことでうううむ → じぶんのばーか、になった。

でもそれでも、本だけでも欲しいから(サインは昨年”The Inertia Variations”のときに貰ったから諦め)、とにかくThe Theイベントの会場であるBishopsgate Instituteに行って中に入り、売りものの本を並べようとしている女性に本だけ先に購入できないものでしょうか?と聞いてみたら、当たり前のようにイベントのトークが終わってからね、と返され、でもどうしても終わる前に抜けなきゃならなくなって(別のライブが、とは言えない)… としょんぼりしたら、少し考えてからあなただけね、ってこっそり売ってくれた。 ありがとうおねえさん!

で、Matt Johnsonトークの方は19:30を過ぎても始まりそうになかったので諦めてBarbicanに向かうことにしたのだが、地下鉄は週末のごたごたで死んでいる(いつものこと)らしく、バスに乗りこんだらそいつが突然迂回を始めてどこ行くんだよおい? になり(割とあること)、しょうがないので歩けそうな地点まできたところで降りて小走りを始めたら途中の道路を閉鎖して自転車サーキットみたいのができてて、わあわあレースやってる。しかも自転車がびゅんびゅんひっきりなしに走っているので渡りも含めて完全閉鎖で、反対側に渡るのにぐるーっと遠回りしなきゃいけなくて、おまけに小雨まで降ってきたのではんぶん泣きながらBarbicanに走りこんだのが20:02、座って3分で客電がおちた。

今回の目玉は30年ぶりの再結成というのと、“The Clock Comes Down The Stairs” (1985)の全曲披露、のふたつがあって、ライブを見るのも聴くのも初めてなのでいろいろ感慨深い。

85年に“The Clock Comes Down The Stairs”が出たときって、まだCDもなかったので試聴なんてそうできないし、ネオアコだギタポだなんてカテゴリーもなかったし(せいぜい英国のどことかアイルランドとか)、輸入盤のレビューなんてないし、そういうの話す友だちなんていないし、こういう半端なバンドについてはレコード屋でジャケット眺めたりせいぜい顔写真みたりして決めるしかなくて、結局はおうちで針落として泣くか笑うかしかなかった。 で、これは当たりだったよねえ、くらい。

あとでSean O'Haganがthe High Llamas経由で出てきたときも、彼がMicrodisneyだったのを知ったのは結構後だった記憶とか、そんなもんなの。

最初にCathal Coughlanがバンドの歴史を一気にざーっと喋って、これからやるのは“The Clock Comes Down The Stairs”だからね、と言って”Horse Overboard”のぶーかぶーかっていうキーボードが鳴りだして、あのジャケットの線路の上から電車が走りだす(気がした)。

80年代のライブを知っているわけではないので、上手くなった下手になったは言えないし、始めのほうで出だしをとちったりバランスが悪かったりはあったものの、極めて今っぽい音として鳴っていた。つまり85年当時にそう聴こえたような、たんに爽やかだったり切なかったりするだけでない、徒労感とか後悔とか(.. 30年)も含めた冷やかでダークなトーンを纏って聴こえてくるのだった。全曲が終わったあとは旧レパートリーから8曲くらい流していったのだが、段々に調子も勢いもあがっていって、アンコールの2曲のテンションときたらとてつもなくて、最後なんてThe Four Seasonsの”The Night”を(The Pulpもカバーしていたねえ)。
”The night begins to turn your head around” って歌うんだよ。 また始まるってことなのね。

終わってからメンバーのサイン会もあるようだったが走り回ってへろへろだったので帰ることにした。
そしたらまだ自転車サーキットやっていて遠回りさせられたのでふざけんじゃねえよ、って。

The Theの特装本、まだぱらぱらだけどなんかすごい。 函入りでナンバーは25/500 でした。

そして、あしたからいよいよMeltdownが始まるのでメルトダウンします。

6.13.2018

[film] Les fantômes d'Ismaël (2017)

9日の土曜日の午後、近所のCiné Lumièreでみました。“Ismael's Ghosts”  『イスマエルの亡霊たち』
これ、英国ではほぼぜんぜんプロモーションされていなくて、最近だとC. Eastwoodの”The 15:17 to Paris” (2018)なんかもそうだったのだが、理由わかんなくて気付いたら終わっているパターンになるとこだった。

自分が見たこの回も客は5人くらい。とってもおもしろいのに。

冒頭がIvan Dedalus (Louis Garrel)という名の、得体は知れないけど実力はなんかすごいらしいスパイの話で、やがてその件は主人公の映画監督Ismaël Vuillard (Mathieu Amalric)が作っているらしい映画であることがわかって、Ismaëlには長く付き合っている恋人のSylvia (Charlotte Gainsbourg)がいて、ふたりには何の問題もないのだがある日、21年前に消えてしまった妻のCarlotta (Marion Cotillard)が戻ってきて、そこからいろいろな錯乱・錯綜・混乱が始まって、映画製作は止まっちゃって、どうすんだよこれ、になっていく。

過去のArnaud DesplechinでMathieu Amalricの演じるキャラクターがどれだけ大騒ぎの顰蹙野郎であったかを知っている – その中には“Ismaël”ていう名前のも” Dedalus”ていう苗字のもいる - 我々は、またこいつのこれかと思うのだが、今回の暴れっぷり、支離滅裂っぷりときたら過去最大級にひどい。”Jimmy P.” (2013)でいうとはっきりと「魂をケガしている」状態、というか。(これは賛辞なの)

タイトルの亡霊は、(たぶん)Ismaël自身のことではなくIsmaëlの周りに現れて彼を陥れる複数の連中のことのようで、しれっと戻ってきたCarlottaを筆頭にいろいろいて、でもCarlottaがほんとうに死んでいる亡霊なのか精霊なのかはわからないし、映画に出てくる弟のIvanも(スパイではないけど)なんか生きているみたいだし、Carlottaの父で高名な映画作家らしいHenri Bloom (László Szabó)も同様に荒れて暴れて大変なのだが生きているみたいだし、ここでの亡霊を定義をするとすれば、ふだんは全く関係ないところにいるくせに突然現れて過去から仕事から何から引っ掻き回して陥れてどうしてくれる、みたいな奴らのこと、と言えばよいか。

でもそれなら、別に生きていような死んでいようがどっちみちやかましく来るよね? そんな奴。
そういう点で、ここの亡霊は、これまでのDesplechinの映画に出てきた亡霊とはちょっと違う気がした。これまでの彼岸にいてじっと見ているふうではなくて、はっきりと目の前とか耳元にいてひたすらかき回す。実はかき回しているのはIsmaël自身ではないか、って思うのだが、彼はこれを彼にとっての見える亡霊とすることで - 彼がそれを明示的に言うわけではないけど – それで彼のなかで腑に落ちたりするものがあるのではないか。 ”Jimmy P.”で精神科医の彼が治療していったように、あるいは、”Trois souvenirs de ma jeunesse” (2015)での国境で封じ込められた彼が自身の過去を旅していったように。

Desplechinの映画で一番近いかんじがしたのは“Comment je me suis disputé... (ma vie sexuelle)“ (1996) – “My Sex Life... or How I Got Into an Argument” - 『そして僕は恋をする』で、あそこでのPaul Dedalusの、症例としか言いようのないような混乱はこの映画のそれ - 映画監督としてのキャリアの途上でどうしようもなくお手あげになって、それが境界もエンドも見えなくて、でもその彷徨ったり這いずったりの感触は、そこにあって、あるよね/いるよね、でそれで十分なの。
(この映画の場合、魂は実は向こう側にあったわけだが)

あとは、この混乱と騒乱の劇をすばらしい俳優たち - Mathieu Amalric, Marion Cotillard, Charlotte Gainsbourgが演じている。特にMarion Cotillardの孤児・ホームレス感たっぷりの、言葉少ないのに全てを語りつつ襲いかかってくるような生々しさときたらすごい。


この饒舌な - いろんな人がいろんなことを語る映画を寺尾次郎さんの字幕で見れたらな、と思いながら見ていた。

映画を見るとき、字幕がこの人だと絶対安心、という人は何人かいて、彼の字幕が付いたフランス映画とか香港映画は、とにかく彼の字幕さえ追っておけばラストに絶対に見えてくるものはあるから、というものだった。 ページをいくらでも遡ることができる翻訳とは違って、巻き戻すことができない、瞬間勝負の映画の字幕は、同時通訳で険しい山登りのガイドで、或いは映像と音楽に加えてフィルムに加えられたHidden Trackで、それが的確でないと側溝に落ちて泥にまみれて死ぬしかない。でも彼の字幕が画面から逸れてへんな感触とか化学調味料のかんじをもたらすことはなかった。登場人物たちの言葉が運んでいくストーリーは映像とひとつになって彼らの声としてダイレクトに入ってきて、そうやって何本かのフランス映画は本当に特別の、自分にとってとびきりのご馳走になった。

映画が人生や世界のいろんなことを教えてくれるもの - 自分にとってはそうだ - であるならば、彼の字幕は本当にいろいろなこと、大切なことを教えてくれた。
ありがとうございました。

[film] That Summer (2017)

8日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

かの“Grey Gardens” (1975)の前日譚、ということらしいのだが、これのCriterion版のDVDは自分が老いてまじで銚子の海辺のゴミ屋敷とか(橋の下よりは家があるほうがー)に暮らすことになったときのために取ってあって(日本にある)、まだ見ていないのだった。この作品の公開にあたり、一回だけCurzonで上映されたのだが、別のと被っていて見に行けなかった。

監督はなぜか、どういう経緯なのかドキュメンタリー - “The Black Power Mixtape 1967-1975” (2011) – おもしろかったよね - を撮ったGöran Hugo Olssonさん。

冒頭は2016年のMontauk、Peter Beardが彼の写真日記のページをめくりながら思い出話をしていく – これがMick Jagger, これがBianca, これがAndy Warhol, Paul Morrissey, Truman Capote, Isak Diresen, これがでっかい象, でっかいワニ、などなど、70年代のEast Hamptonは本当に刺激的でおもしろかったんだよ(そりゃそうでしょうとも)と、そこから話は72年のEast Hamptonに飛んで、ここから先は以下3人が監督したFootageを編集したものになりますよ、と。
その3人ときたらPeter Beard, Jonas Mekas, Andy Warholなの。なにこの豪華なのは。

最初はJacqueline Kennedyの妹さん - Lee Radziwillをガイドに、カメラはLeeのおばさん - Edith Bouvier BealeとLeeのいとこ - Edith 'Little Edie' Bouvier Bealeが住んでいる家に入っていく。
その前にPeter Beardからおもしろい人達がいっぱいいた当時のことを散々聞かされているのでそれなりの覚悟はできているのだが、それでもあんなところに、あんなふうに人がいる、ということの輪郭の強さと不思議さに魅せられてしまう。屋外の椅子に丸まって日向ぼっこしたり唄を歌ったりしているBig Edithと落ち着きなく館の中と外をひっきりなしに出入りしながら神経質にあれこれ喋り続けているLittle Edith – これら2匹の老猫と、 NY - Hamptonの夏の光とか湿気とか茂みの描写が古いフィルムの肌理と色味のなかで浮かびあがって、あの夏(That Summer)の景色として忘れがたい印象を残す。 この、どこかで見たかんじってどこから来るのだろうか。

“Grey Gardens”を見ていないのでなんとも言えないのだが、2人のエキセントリックさはさほど際立ってこなくて、70年代初の正調の変態で溢れていたNYアートシーンの1風景、その変奏のように見えなくもなくて、そうすることの違和はあまり感じなくて、もういっこはあの(猫)屋敷のまわりにがさごそ寄ってきてくだを巻いて転がっている猫たち(どいつもこいつもすばらしいの)のようでもあって、あそこに立っていたらどんな音が聞こえてどんな匂いがしたのだろう、雨の日は… 夜中には… とかそんなことばかりを想像してひたすら楽しい。

最後は再び2016年のPeter Beardのアトリエに戻って、これは彼にとっての「失われた時を求めて」なのだろうな、と思って、そうするとMontaukとかHamptonとかが彼にとってのコンブレーなのかもしれないねえ、とか、やたら感傷的になれたりもする。

6.12.2018

[film] Jurassic World: Fallen Kingdom (2018)

7日、木曜日の晩、BFI IMAXで見ました。ふつうに恐竜すきだし。 あ、ふつうにネタばれしているのでちゅういね。

冒頭、もう廃墟になっているJurassic Worldのそばの海に潜って恐竜の骨を切り出して運びだそうとしている連中がいて、一部はでっかいのに喰われちゃうのだがなんとか持ち帰れたらしい。

で、その島自体が火山噴火でもうやばいのでそこに残されている恐竜をどうすべきかを議会で議論していて、Dr. Ian Malcolm (Jeff Goldblum)もコメントしたりするのだが、結果はそのまま絶滅させるしかないよね、になって恐竜の保護活動をしているClaire (Bryce Dallas Howard)はがっかりするのだが、その後彼女は北カリフォルニアの山奥にあるお屋敷 - Lookwood EstateのEli (Rafe Spall)に呼ばれて、そこで島に残った一部の恐竜 – 含. 前作に出てきたBlueとか - を別の島に運ぶ計画があるので手伝ってほしい、と言われて受けることにして、ぼーっと暇していたOwen (Chris Pratt)と仲間の2人(ふたりともよいかんじ)を連れて島に向かい、武装した運び屋の連中と合流してなんとかBlueとかを見つけるのだが、ここから先が実は罠で、見つけるもの見つけて船に乗せたらあばよ、であったことがわかる。

噴火で焼かれる手前で脱出して船内に隠れた彼らは、恐竜荷物がLookwoodのお屋敷に運ばれて、そのまま金持ち相手のオークションにかけられようとしていること、更に冒頭の骨のDNAから生み出された最強のハイブリッド恐竜もリリースされようとしていること、などなどを知って、OwenたちとLookwood家の孫娘Maisieは力を合わせてなんとか阻止して恐竜たちを救おうとするのだが、連中だっておとなしく黙っちゃいないので暴れだして大騒ぎの大混乱になるの。

前半の火山島からの脱出と、後半のお屋敷での大パニックと、ヤマはふたつあって、前半の脱出劇のほうが圧倒的に面白くてはらはらで、後半はお約束の悪い奴らは喰われちまえガブー、になるのでやや月並みで、もっと面白くできたかもなのになー、だった。

DNAをいじって絶滅させた種を復活させたりDNAを掛け合わせてより強力な種を生みだしたり、そういうことを考えたり実行していたそもそもの総本山の、いうなれば悪の巣窟というか、フランケンシュタインのお屋敷のようなところが舞台になったのだし、実際じゅうぶんにでっかくて変態な仕掛けもいくらでも組めそうなのだから、さらにぐちゃぐちゃどろどろの妄執・異形の人々的な阿鼻叫喚のほうに行ったって(実は少しだけあるけど)おかしくないと思うのだが、やはりChris PrattとBryce Dallas Howardのコンビだとちょっと明朗になりすぎちゃうか。このふたり、ぜんぜん悪くないのだけど。

個人的には石頭恐竜ががんごん大暴れしてくれるのが嬉しかった。子供の頃、こいつの絵とか描いてた。

続編とかはもうないのかしら? 世界 = Jurassic Worldになってしまうようだからもう誰にもどうすることもできないよね、だし、遺伝子操作されて高度化した獣が北カリフォルニアの森(北カリフォルニア、あれこれ雑で緩すぎ)に放たれる、って”Planet of the Apes”のシーザーたちとほぼ同じなのではないかしら。 この流れでそのままKing Kong vs. Goz .. に行っても誰も止めないし、ますます人間お呼びでないかんじだし。

[film] The Breadwinner (2017)

6日の水曜日の晩、Picrurehouse Centralで見ました。 この晩のCourtney Barnettのチケットも、ROHのSwan Lakeのチケットも、どっちもぎりぎりまでねばって結局だめでさー。

アニメーション制作は、”Song of the Sea” (2014) のチームなので、これは見ないと、だった。プロデューサーの中にはAngelina Jolieの名前もあるけど、それよりも。
ベストセラーとなった原作には翻訳もあって - デボラ・エリスの『生きのびるために』(2000) - 更には主人公パヴァーナが出てくる連作もある。(未読)

2001年、タリバンが支配するアフガニスタンで、父と一緒にマーケットに出ている11歳のパヴァーナはブルカを着けていても女性というだけで虐められて、家に戻ってもやな奴に付け狙われて、嫌がらせのように父を刑務所に連れていかれてしまう。 母と刑務所を訪ねて行っても追い払われ、母は叩かれて怪我をして、そのうち食べ物もお金もなくなってきたので、一家 - 母と姉と幼い弟 - を養うためにパヴァーナは髪をばっさり切り、父の甥という設定の男の子になって町に出ていくと、同じように男の子になっている幼馴染のショーツィアと会って、そうやって商売を始めたらうまくいくかんじで、お金を貯めて、なんとか父を刑務所から出してもらおうとがんばるの。

このメインの流れとは別に、パヴァーナが弟にせがまれて創ったお話 - むかしむかし村の青年が魔法の種を手に入れるためにあらゆる困難を乗り越えて険しい山のてっぺんにいる魔の巨象と対決しましたとさ - ぎこちない切り絵風のアニメ - がところどころ、パヴァーナ達が辛くなってくると挿入されて、これも先のJoan Jonasのところで出てきた、生きのびるために必要なストーリー、だし、パヴァーナとショーツィアが海外の絵葉書を手にして、海がこんなに青いなんて信じられないよね、て言い合うのもそうだと思うし、彼女たちの語るストーリーを祈るように、拳を握ったりしながら聞いてしまう。(予告にもあるのだが、ショーツィアが素朴に尋ねる - “Is it a happy story? or sad story?” だけでじーんとしてしまうの)

終盤は父の救出どころか、(アメリカとの)戦争が始まるからみんな家を捨てて逃げろ、になって戦闘機が飛んできたりみんなてんやわんやの散り散りになってしまうので、こんな状態では、甘い、誰もが救われる結末なんてありえないことはわかっているのだが、それでも単なるかわいそうだねえ、では終わらない、”Song of the Sea”にもあった決して負けない、困難に立ち向かう女の子の冒険譚になってはいる。 - 甘すぎ、だろうか?

これがフィクションとは言え、00年代 - 911でしょんぼりしたりブッシュのやり口にうんざりしたりしつつ我々が見ていたアフガニスタンに暮らす女の子の周辺で起こっていたことをアニメーションで柔らかめに包んで描いたもので、これと同じかもっとひどいことが今はシリアの子供達の間にも - あるいは事情によっては日本の子供達の間にだって - 起こっていて、 国威とかいうのを掲げるろくでなしのしわ寄せはいつもこういうところに行って、どうしたものか… になってしまう。

で、こういうものでも見ること - 知ることが、何かに繋がってくれれば、というのはこちら側の都合のよい「ストーリー」に過ぎないのだろうか…    日本でもみんな見てくれますように。

6.09.2018

[art] Joan Jonas

1日の晩、Tate Modernで開催中のJoan Jonasの展の関連企画として彼女のトークがあったので行ってみた。 売り切れていて、客層はやはり圧倒的に女性多し。男性は老人ばかりなり。

展示そのものは5月の始めに見ていて、彼女の50年以上に渡る – 60年代初からの – パフォーマンスの記録を当時の映像やそこで使われた作品や道具、衣装、仮面、オブジェ(動物のかわいい)等々と共に並べてあって、それはパフォーマンス・アートそのものの限界でもあるのだろうが、発表時のコンテキストや空気から切り離されて置かれているとふうん、で終わってしまうものが多かった。つまり、当時は斬新でびっくりだったものかもしれないけど、現在の視点で見ればちょっと古く感じたりあんま響かなかったり、それは彼女の作品が、ということでは決してないと思って、その辺のパフォーマンスに対する考え方のようなところは現在の彼女の発言を聞いたほうがよいに決まっているし。

聞き手・進行はMarina Warnerさんで、存じていなかったのだが、この方自身の人文領域での経歴も結構すごくて、質問の仕方や捌き方はすばらしく的確で素敵だった。

まず、彼女が50年でやってきたことはとんでもなく膨大で簡単にカバーしきれるものではないわけだが、それでも基本的なところから入ると、我々はどうやってものを見る(Look)のか(or 見ないのか) 見るという経験を構成するのはどういうものなのか、辺りが起点になる。そうやって知覚されたものはどうやってイメージとなって我々の経験のなかに根付いて、別のイメージを作り出したり、別の認知によって変えられたりしていくのか。といったそこから派生した問いに常に立ち返りながら、彼女の作品を構成する背景やモチーフ - ランドスケープ、シースケープ、動物たち(犬だの蛸だの魚だの樹木だの)、子供たち、鏡、魔女、旅、ストーリー、詩、などなどについて、実際の作品をスライドで映し出しながら解説とか昔話しをしていく。 で、その語り自身が単なる解説というよりは旧作に新たな物語が加わって再び動きだすような、そんなかんじ。

シンプルといえばシンプルで、普段我々が見ている風景とか形とか記憶とか、これって何でこんなんなっているのかなあ? の素朴な問いから入って、そのイメージが広げたり繋いだりするなにかをJoan Jonasのパフォーマンスが(Joan Jonasというメディアが)更に広げたりでっかくしたり壊したりする。そこにおいて導入されるのがストーリーとか詩というやつで、なぜ人はストーリーを求めるのか、必要とするのか?  というと、昨年4月にこの場所であったDonna Harawayの映画  - “Story Telling for Earthly Survival” (2016) - 上映とトークのことを思いだし、更にオバマのドキュメンタリー”The Final Year” (2017) にあった「人はお金とか権力とかばかりに惹かれるわけではない。ストーリーにも惹かれるのだ」ていう言葉も思いだし、これってなんなのだろう、と。

今や誰もがストーリーに惹かれるし憧れるし、他方で後から辛い思いにさせるフェイクも溢れかえっている。ストーリーがサバイバルのためのおいしい食べ物のようなものだとしたら、できればおいしいほんものだけを食べて生きていきたい。 それってどうやったらできるのだろうか? というようなのを考え始めると止まらなくなって、お話しに集中できなくなるのだったが、Joan Jonasのアートを見る、接するっていうのは、そういうストーリーを見出したり出会ったりするための旅で、彼女自身がそういう道行きのなかで発見してきたものなんだろうな、というのはなんとなくわかった。

ふと思ったのはJoseph Beuysのことで、彼のパフォーマンス・アートって彼女と同じようなモノやテーマ- 獣とか自然とかゴミとか- への変てこな執着を扱いながらも、断固アンチ・ストーリーみたいなところに留まり続けた気がしていて、それってやはり戦争ってやつのせいだろうか。とか。

あと、彼女が70年代に滞在した日本での歌舞伎とか能の話をされると恥ずかしくなってしまうのは、なんとかしたい。これは100%自分のせいだけど。

6.08.2018

[theatre] My Name Is Lucy Barton

4日の月曜日の晩、Bridge Theatre(900人規模)で見ました。

この日の晩、裏番組としてはRoyal Festival Hallで”Bill Murray & Jan Vogler Present: New Worlds”ていうのがあって、小編成のアンサンブルをバックに詩を朗読するBill Murray氏も見たかったのだが、こっちの方のチケットを先に取っていたので、しょうがない。

演出はRichard Eyre、Elizabeth Stroutの2016年の小説(翻訳ある)をRona Munroが脚色してLaura Linneyがひとり芝居する休憩なしの90分。

Laura Linneyさんは自分と誕生日が2日しか違わないこともあってずっと惹かれていて、昔々に”The Squid and the Whale” (2005)が公開されたとき、BrooklynでのNoah Baumbachとのトークに行ったことがあった。 そこではあの映画の中と同様のBrooklynのぶっ壊れた家庭で子供時代を過ごしたことについて監督と楽しそうな同世代トークを繰り広げていたことを思いだす。

原作の翻訳『私の名前はルーシー・バートン』は未読で、チケットを取ってからペーパーバック - 表紙に四角の穴が切ってあってそこからクライスラーが見える – を買って半分くらいまで行ったところで当日が来てしまった。

舞台の上には病室のベッドとその足下のほうに来客用の椅子がひとつ。ひとつある窓からはクライスラーとMetlifeのビルが見える – この景色はたぶん合成で、あの二つのビルがあの角度からあんなふうに見える地点はないはず – どうでもよいけど。 彼女がいた病院ってBellevueとか、East River沿いに病院が固まってあるあの辺りだろうか。

オープニング、Lucy (Laura Linney)は無造作に無頓着にすたすたステージ上に現れて客席のほうに気づいているのかいないのか、こちらを見てるような見ていないようなそんな温度で喋り始める。服装は外出用の普段着 - 首に何か軽く巻いてカーディガンつっかけて、派手すぎず地味すぎず、そこらのスーパーに買い物に出ました、のような恰好で、それこそスーパーで買い物しているような足取りとスピードで置いてある椅子、ベッドの縁、窓際を行ったり来たりしながら、喋って喋って止まらない。

話す内容は、昔この病室に9週間いたこと - デキモノを取るくらいだったのがなぜか長引いて9週間もいた - その間、ふだん飛行機にも乗らないような母がイリノイから病室までやってきて5日間(!)もここにいてお喋りをしたこと、そこで母が喋った知っている人達のこと、夫のこと、子供たちのこと、イリノイで育った小さい頃のこと、こんなことがあんなことがあった、誰それが言ったことやったこと、話は脈絡なく、あるいは彼女の中の脈絡に応じて自在に飛んだり跳ねたり留まらず、本当のことなのかフェイクなのか妄想なのかもわからない。

話しの進行に応じてなのか関係ないのか、窓の外は明るくなったり暗くなったり雨になったり、彼女が育ったイリノイのコーンだかの畑の光景に変わったりする。音は淡く薄いのがほわーん、と耳鳴りのように遠くから聞こえてくる。

そうやって話している内容は彼女の身の回りの人やコトを端からきちきちと網羅していく一方で彼女自身のことについては周到に回避しているかに見える – なんで母親はLucyのことについて喋ろうとしないんだろう? あるいは なんでLucyは自分の思いをこちらにストレートにぶつけてこないのだろう? - でもそうではないかたちで、表に出てくる、明らかにされることがあって、それって。

それは原作の本を読み進むのとは明らかに異なる体験で、Lucyの自分に語りかけているのか客席に向かって何かを語ろうとしているのかが明確には取れない(もちろんそれは意図しての)あの発話、というか演技は、話された出来事を窓の向こうのクライスラービルディングの方に追いやる、或は走っていく電車の窓の外をさっさか過ぎていく風景にしてしまう。(他方で、読書は電車の旅、というよりは階段を昇っていくようなかんじ、だろうか)

それらは、彼女の話したことは、窓の向こうに一瞬で流れていってしまうからと言って、それらがどうでもいいなんかになるってことではないの。むしろ逆に光の粒や星の渦になって彼女の顔を、名前を、背後からくっきりと照射するものになるの。

そしてなによりもそれを可能にしたのはLaura Linneyのとてつもない、壊れちゃったみたいに(でも極めて滑らかに)延々止まらずに流れていく語りに他ならない。母親の口調を真似するときだけやや甲高い荒れた老婆の声になるものの、それでもダイナミックに彼女を取り巻いていた複数の声や言葉を並べたり壁に貼ったりしていって全く飽きることはなかった。 彼女はそれだけの声と言葉を発しながら、いったいどこに(立って? 座って?)いるのだろうか? 

シアターで買ったパンフには脚色をしたRona Munroさんと原作のElizabeth Stroutさんの電子メールでのQ&Aが収録されていて - 創作の過程について、とか「Lucy Burtonはどこにいるのでしょうか?」についてのコメントがあり、Elizabeth Stroutさんの新作短編集 - ”Anything is Possible”からイリノイのLucyの実家と彼女の兄のPeteが出てくる”The Sign”が収録されていて、なかなかお得だった。

6.06.2018

[music] The The

5日の晩、Royal Albert Hallでの 2018 Comeback Special。

忘れもしない昨年9月15日、これのチケット発売開始のとき、プラハに向かう機上で、丁度滑走路の上にいて、スマホが繋がったと思ったら購入のキューが前方に1500人いて白目剥いてしんだ状態で飛びたって、プラハに着いたら売り切れていたので二度しんだ ..

その後戻されたらしいチケットがちょこちょこサイトには出るようになり、どの辺で思い切って買っちゃうか悩ましかったのだが、悩んでもしょうがないので適当なとこで押さえた。

90年(?)のクラブチッタ以来。”Dusk”のツアーはUSでは見なかったんだっけ?(たぶん)。
今年はThe Cureの40周年とか誰それの引退とかいろいろあるけど、個人的にはここ数年でいちばん重い意味をもつ音楽のライブとなる。 理由? 重いんだからしょうがないって。

7:30くらいにホールがどんより暗くなって、DJ FoodがRadio Cineola (Matt Johnsonがやっているラジオプログラム)のブースから音楽を流し始める。The Theの曲の断片をちりばめたコラージュ作品のようなの。20分くらいで一旦引っ込んで、また現れて開始直前まで。その合間には尺八をベースにしたようなアジアぽい音がわんわん流れていてへんなかんじだった。

8:35くらいにバンドが出てきて、まずMattがふたつ言いたいことがある -  ひとつはiPhoneばっかりこっちに向けないでほしい、このライブはちゃんとFilmingしているので後でそっちを見ろ、もうひとつは2日に父が亡くなった – この週に行われるライブは全て父に捧げるから、と。後者の方はえ…  になったが、Facebookにある彼のStatementを読んでほしい。

背後には真っ白の布スクリーンがあって、そこを照らした真っ白の状態で”Global Eyes”から。ここにだんだんいろんな映像が被さってくる。シンプルといえばシンプル。

b.のJames EllerとkeyのD. C. Collardを除いて一新されたバンドの音は、Johnny Marr, David Palmerがいた頃の密室感は薄れて、よりスイングしてて膨らみがあって、でも縦揺れになったとき- “Armageddon Days Are Here (Again)”とか”Infected”とか - の食いこみの強度ときたらすごい。 Mattのマイクスタンドの先は分岐した3つのマイク、たまにワイアレスを手に動き回り、終わりまでずっとシンガロンしろ、一緒に歌え、って煽っていた。

活動休止していたとは言っても、ドキュメンタリー“The Inertia Variations” (2017)にあったようにずっとラジオプログラムを通して音楽には関わっていたし、それが兄Andy Dogの死をきっかけにSong writingを再開するようになった、ので「戻ってきた」感はあまりない。声の張りも艶も勢いもまったく申し分なく、時として狂犬のように獰猛に迫ってくるあの声のエロスはそのまま。

全体のトーンは”Dusk”と”Soul Mining” だったかも。 客席から"Good Morning, Beautiful"のリクエストが飛んでも「それはやらない」と即座に返していたし。

昨年復活を告げたシングル” We Can’t Stop What’s Coming” ~ ”Phantom Walls” ~ ” Love Is Stronger Than Death”のところ、背後のスクリーンには幼い頃若い頃の彼、最近の彼、家族のアルバム、亡くなった兄弟たちの像、そして父の.. 彼はどれだけの死を、死と共に生きてきて、それでもなおこの曲はこんなにも強く鳴ってこちらを捕えるのだろう、と。 更に続けて、ここからは死ではなくLove & Sexにいくよ、と告げて”Dogs of Lust”へ、更に続く”Dusk”の曲達で肌の、生の輪郭を確かめるようになぞっていって、”This Is the Night”まで行った後、”This is the Day”に鮮やかに反転する - この曲に来てみんな立ちあがって歌いだしたのにはちょっと感動した。

こんなふうに確信犯のストーリーでもって流れていく曲たちと、その背後に流れていくかつての”Infected”のビデオにある野生・野蛮のイメージ + ”The Inertia Variations” での枯れた静謐なイメージの雑多なミックスを見ていると、Matt Johnsonの見つめてきた生と死、闇と光、ジャングル(野生)と都市(人工)それに廃墟、USAと51st State、欲動と日常、過去と現在、これらの対比と温度差に改めてくらくらして、この極間の振幅を振り返って”The Inertia Variations” ~ 退屈変奏曲 - なんて呼んでしれっとしているのだからあきれるしかない。

アンコールは1回、3曲。
最初の1曲で “The only true freedom is freedom from the heart's desires” と歌い、
最後の1曲で “If you can't change the world. Change yourself ~
 And if you can't change yourself... Change the world” と歌う。
お前がやるんだ、やるのはお前なんだ、わかってるよね、って。

ここまでで丸2時間。もうなんも言えない。

ロンドンにいる人、今週8日からICAで”The Inertia Variations”を再上映するので是非。

6.05.2018

[film] American Animals (2018)

3日、Sundance in Londonの最終日、15:00からSurprise枠となっていた1本があって、面白そうだからとりあえずチケット取ってあれこれ予測して、”Wildlife”かこれかなあ、て思っていたらこれがきた。”Wildlife”のほうがちょっと見たかったけどなー。

タイトルが発表になって監督が少しだけ挨拶してすぐ始まったのでどんな話なんだか、誰が出ているのか見当もつかない状態で見る(のって楽しい)。

一番最初に、”This movie is based on the true event”  とかよく出るあれの真ん中の”- based on -”が抜け落ちて、”This movie is the true event” になる。

そこから複数の男達が白系のメイクアップして重装備で車に乗り込んで移動して車から降りて建物の前に鞄とかを抱えて横並びするシーンになって、ああこれから強盗とかするんだな、血みどろになるのだったらやだな、とか思っていると話はそこから数カ月前、に遡る。

2004年のKentucky、大学に入ろうとしているんだか入ったんだかのSpencer (Barry Keoghan) は、君はいったい何者だ?(どこで生まれたとか親が誰とかそういうのじゃなくてキミ自身だよキミ)、とか面接で言われて、そんなこと言われてもさ、と部屋で自画像とか描いている。大学 - Transylvania Universityの施設見学でそこの図書館の稀覯本コレクションのところでガラス棚に入ったJ.J.Audubonの”The Birds of America”  -『アメリカの鳥類』のベニイロフラミンゴの首筋が目について離れなくなった彼は、あれいいなー、と幼馴染のWarren (Evan Peters) に話すと、それはすごいしぜったいお金になるんだったら分捕ろうぜって。 でふたりで画策を始める。

で、ここのところで突然、”Real” Spencerていうのと”Real” Warrenていうの – ぜんぜん俳優ぽくない人達が顔を出してこちらに話しかけてきて、実際に、ほんとにこいつらがしでかしたのだということと、ここにこうして出てきているということはこの先彼ら死んだり殺されたりはしないのね、ということで少しほっとする。

そのうち盗んだ本を捌くための闇屋のコンタクトを求めてNYに行って、Warrenは更にそこからAmsterdamに飛んで(怪しげなUdo Kierとかと会う)、更に実行するためにもう二人 – EricとChasを招き入れたり(このふたりもRealなのが登場する)、Social Networkは広がって、で、“Rififi” のDVDなんか見たりして研究して、配置とかロジとか決めて車調達してリハして、とにかくライブラリのあの部屋にいるばばあをなんとかすれば、とか、名前で呼び合うのは危険だから色にしよう、とか言って俺Pinkかよ… とかぶちぶち言ったりして、とにかく当日がきて…  (でも当日は躓いたのでその翌日になって)

実行した当人たちがしゃあしゃあと画面に出てきてべらべら喋っていることからもあんま上手くはいかなかったのね、というのは初めからわかるのだが、見事にずっこけたもんだねえ、とか、そういうずっこけ間抜けぶりを楽しむやつなのかも。 音楽だけは”Ocean’s Eleven” (2001) みたいにキレがあって威勢よかったんだけどねえ。

でもさー、そもそも『アメリカの鳥類』盗もうって時点であなたアタマだいじょうぶ? て思うよね。2004年当時の相場はしらんけど、丁度今月14日にNYのChristiesでこれのオークションあるからサイト行ってみ - 800万 - 1200万USDするのよ。 しかもあんなばかでかいやつ、5cm動かしただけでもお縄じゃん、とか思うのだが、宝石とかよりも狙えるし狙うべし、の方に行っちゃったのね。なんとなく。

ただそんなずっこけ犯罪ものでも、実際に実行した連中の目線と証言が加わるだけでとても面白い厚みが出てくるものだねえ、と思った。のと、”The Killing of a Sacred Deer”のBarry Keoghanの期待通りの不気味な鈍重さとX-MenのQuicksilver – ほんとにQuicksilverだったらねえ – のEvan Petersの軽快さの組合せがなかなかよくて、青春映画として見れないこともなかったかも。


あんま関係ないけど、5月25日、金曜日の夕方にABA Rare Book Fair London ていうのに行ってみたの。ABAって、調べてみると1906年に設立されたAntiquarian Booksellers’ Association(日本だと古書組合?)ていう由緒正しい団体らしく、Sloan Squareの駅からのシャトルで行ってみると、会場にすごい数の古本屋がブースを組んでて、英国はもちろん、ヨーロッパ全域から、米国のNY, Brooklynから(知らない店ばっか…)とか幅広くて。 それ以上にびっくりだったのが金額で、普段こまこま漁っているやつと桁が2つ3つ違っているので泣きそうだった。でもみんな値札があったから売り物なんだよね。 『アメリカの鳥類』に到達するまでにまだまだいっぱいあるんだなあ、って。


ぜんぜん関係ないけど、さっきThe Theの復活見てきて、もうこれでいつしんでもいいかんじになっている。
でも今月はまだまだしぬわけにはいかないのだった。

[film] The Miseducation of Cameron Post (2018)

2日の土曜日の晩、”The Tale”の後に続けて見ました。既に”The Tale”に結構打ちのめされてへとへとだったのだが、これもまたすばらしいのだった。今年の SundanceではGrand Jury Prize for US Dramaていうのを受賞している。
原作はEmily M. Danforthによる同名のYA小説。

上映前に監督のDesiree Akhavanさんと製作・共同脚本のCecilia Frugiueleさんが出てきて挨拶して、やたら威勢のよいおねえさんふたりだったので少しだけ気が晴れた。

93年のアメリカの田舎(モンタナの辺り)、Cameron Post (Chloë Grace Moretz)はレズビアンで、プロムの晩に恋人のColeyと車のなかでやっているところを彼氏に見つかり、彼はわなわなぶるぶるしちゃって(まあ、するかも)、親がいなくて誰からも守って貰えない彼女は、おばにより山奥のGod’s Promiseていうキリスト教ばんざいの矯正施設に送りこまれる。(入口の荷物チェックではBreedersのカセット取りあげられちゃうの。かわいそうすぎる)

そこは同じような問題を抱えて送られてきた子達がいっぱいいて、同性愛は罪なんだからどこまでもお祈りしなされ神さんは見ていらっしゃる、で、アイスバーグ・モデルを使って海上に出ていない氷山 = 自分の内面の問題で思いつくとこを振り返って書いてみましょうとか言われてて、やってらんねーぜ、になる(表には出さないけど)。

そこには素直に真面目に神の道へ精進している子もいれば隠れてはっぱやっている子もいて、彼女は後者のJane (Sasha Lane)とかAdam (Forrest Goodluck)とうだうだ一緒に過ごすようになって、施設を仕切っている牧師のRick (John Gallagher Jr.)とか鉄面皮の医師Lydia (Jennifer Ehle)と対峙していくのだがそう簡単にはひっくり返らなくて、そのうちColeyは別れましょうってくるし、おばに泣いて助けを求めてもあなたのためなのよ、しか言われないし。

最初はそうやって我慢と忍耐を重ねていったCameronがその限界を超えて仲間と一緒に大反撃に… というコメディぽい(or “Kick Ass”)展開も期待していたのだが、そっちの方には行かず、山奥のゆっくりした季節の経過と共に、でも決して曲げようとしない彼女の強さしぶとさ、その裏側で溜まっていく辛さとか疲れがくっきりと滲んでくる。 画面全体のトーンはとても静かで、意のままに愛することを封じられた子供達の怒りと不満が充満している。

でもほんとにいろんな顔、表情の子がいるので彼ら彼女らを追っていくだけでもおもしろくて、目線は少し違うけど“Short Term 12” (2013)を思いだしたりもしたし、”Lady Bird” (2017)の不屈の闘いもあると思うし。 洗脳したり調教したり屈服させたりするのではなく、彼らが生きやすいようにする、生きられるようにする、ていうのはそんなに難しいことなのか、それはなんでなのか? を大人ひとりひとりに問いていかないといけないのだろうか。 自殺未遂をしたMark (Owen Campbell)のことについてCameronが牧師にゆっくりと問い詰めていって泣かしちゃうシーンのすばらしいこと。
神は万能でもなんでもないし。(同様に、国も会社も学校も親もな)

これが93年のアメリカ – まだほんの25年前で、そしてまだこの状態はどこかで続いているのだとおもう。

Breedersのカセット(もちろん”Last Splash”よ)もそうだし、キッチンでみんなして4 Non Blondesの"What's Up?" (1993)を合唱して怒られるとことか、93年だねよねえ、とか。
(いまLincoln Centerでやっている“Summer 1993” て、見たい)

あと、このタイトルって”The Miseducation of Lauryn Hill” (1998) から来たのかしら?

上映後のQ&A、主人公たちは街へ出ていってどうなっちゃうのでしょうか? という質問に、未成年のホームレスのゲイとして扱われるに決まってるでしょ、そんな時代だったのよ、って腹立たし気に返していたのが印象的だった。

あと、キャスティングで最初に決まったのが(”The Little Mermaid”がなくなった後の)Chloë Grace Moretzで、彼女が来るとは想像もしていなかったのでみんなで大騒ぎしてそこからころころ決まっていったのだそう。確かにこれまでの彼女のイメージとは違って少し暗く落ち着いていて、でも目の強さは紛れもなく彼女の。

Sundance、無理してももう少し(本数)見ればよかったかな。
いつかユタの本家のほうも行ってみたい。

6.04.2018

[film] The Tale (2018)

今年もやってきたSundance Film Festival in London – 4日間のうち、2日間行って計3本見ました。  2日の土曜日の午後に見たやつ。

主人公はJennifer Fox (Laura Dern) - 監督と同名で、つまりこれは監督自身の身に起こったお話しなのだと。

Jenniferは、ドキュメンタリー映画作家で、恋人 (Common)と一緒に暮らしていて、ある日母親Nadine (Ellen Burstyn)が興奮して電話してきてこんなのが出てきた、と言う。それはJenniferが13歳の時(始めは15歳だと思いこんでいたが後で違うことがわかる)に自分に起こったことを書き留めたもので、そこからJenniferは当時の人達に会ったり写真や手紙を掘ったり漁ったり、自身の過去を、そこに書いてあることを確かめるために奔走を始める。

13歳のJenniferは乗馬教師のMrs. G (Elizabeth Debicki) のところに預けられて、Mrs.Gはすらっとかっこよくてみんなの憧れで、そこには彼女の恋人であるというBill Allens (Jason Ritter)もいて、彼はランニングのコーチで、彼らは情熱的にいろんなことを教えてくれるしJenniferをいっぱい褒めて励ましてくれるし、彼らの元で週末にトレーニングをするのが楽しみになっていって、やがて週末に泊りがけでトレーニングに行こうと誘われて、断る理由もないのでJenniferは付いていって。

というようなことを現在のJenniferは13歳のJenniferとの間を往ったり来たり、自身の中で過去の像と対話したり母親のところで昔の写真とかを探したり話をしたりしながら、当時のJenniferが紙の上に“Beautiful Tale”として残そうとしたことはなんだったのか、をじりじりと追っていく。その緊張感ときたらとてつもない。

それは現在のJenniferにとっては断然苦痛で、なぜならそれは13歳のJenniferが受けた性的虐待に関わることだったから。
13歳の彼女が記憶の底に(なかったこととして)沈めてしまったものを掘り起こして、彼女を単なる犠牲者ではない地点まで引っ張り起こして、救いださなければならない、それをしなければ13歳のJenniferだけじゃない、今の自分だって救われない。犠牲者のままで終わってたまるか。

最初はなぜそこまでするのか、自分のことなのに思いだせないのか、とか見ている我々は思うのだが、そんなに簡単なことではないということが彼女が受けた傷の深さ、重みと共に見えてきて – それはトラウマと呼ばれる - そのJourneyが監督自身 – Jenniferにとってどれほど大変なことだったのか、そこから更にこれまで、世界中でこれと同様の”Tale”がどれだけ埋められて、なかったことにされてきたのか、等々に気付かされて慄然とする。

ラストシーンは目に焼きついて、これを単なるドキュメンタリーではなく、こういうドラマにしたかった理由はここに込められているんだな、ってわかってじーんとするの。

音楽はCarole Kingが2曲。 エンドロールで流れる”Way Over Yonder”がねえ ...

上映後、監督とのQ&Aの前にアナウンスがあって、これを見て混乱したり何かが溢れてきて耐えられなくなったりした人がいたら扉の向こうにカウンセラーが待機しているので遠慮なく言ってください、と。 実際に質問しながら泣きそうになっている女性もいた。激しいシーンはないのだがそういう強さで訴えてくる作品だと思う。

映画のなかではLaura Dernの(いつものことながら)凄まじい演技に感動するのだが、彼女の演技は即興がものすごく多くて、それで相当足されてよくなった部分も相当あった、と。 恋人のCommonと喧嘩するシーンなんて5時間くらいああでもないこうでもないと延々やっていたんだって。

#MeTooとの関係については、これがムーブメントになる数年前から製作準備は進めていたのでこれがきっかけになった、ということはなくて偶然、ではあるけどよいことよね、と。

これ、日本でも絶対に絶対に公開されてほしい。ついていかなければいい、だの、拒否できたはず、だの、いろんな幸せのかたちだの、子供に対してまでそんな吐き気がするような卑怯者の論調が平気で蔓延って誰ひとり咎められない、そんなの絶対におかしいし狂ってるし腐ってるし。

6.01.2018

[film] River's Edge (1986)

5月23日の晩、BFIの”Lost in America: The Other Side of Reagan’s 80s” 特集で見ました。
これのスチールが特集のKey visualにもなっている作品。岡崎京子の同名漫画との関係は、わかんないわ。

冒頭、薄汚れたガキ - Timが意味ありげに人形を川に流すシーンがあり、その川の反対側にはでぶで目がふつうじゃないSamson (Daniel Roebuck)がいて、その横に目を虚ろに開けた裸の女性の死体が転がっている。(どちらもやっちゃった.. かんじのイメージ)。

そのガキが家に帰ると彼の妹らしい小さな女の子が人形がいなくなったようって泣いていて、その兄のMatt (Keanu Reeves)のところにはやたらテンションの高いLayne (Crispin Glover)が来て、ふたりで車に乗ってボロ屋にひとりで暮している怪しいFeck (Dennis Hopper)のところに行ってマリファナ貰ったりしていて、そうやってぐるりとまわっていくと、彼らはみんなおなじコミュニティの、同じ学校でうだうだしている仲間たちで、殺されていた女の子も仲間のひとりのJamieであったことがわかって、やがてSamsonがJamieを殺したことをみんなに言うと、まじかよ、みたいな反応になるのだがそこまでで、Mattは荒んでいる弟Timのことも気になるし、Clarissa (Ione Skye)のことも好きになったみたいなのでそんなの関わりたくないし、Layneだけはてえへんだてえへんだ、て大騒ぎしているのだが、Samsonを守ろうとして結果ぜんぶ裏目に出ていったり、やがてSamsonはFeckのとこに行って、警察も動きだして、それで。

彼らは自分達がぜんぜんいけてないいかれとんちきであることを十分わかっていて、でもだからといってどうすることもできないので一緒に葉っぱ吸ったり公園で一緒に寝たり川に行って女の子を殺しちゃったりしていて、それでも自分達はひょっとして特別ななんかになれるかもと思ったりもしていて、つまり支離滅裂すぎて途方に暮れて、川縁に佇むしかないという。

“We could just take all our parents’ money, take off, discover America, and make like we’re Easy Rider plus five”

川縁っていうのは向こうから流れてきた何かがそこに溜まっていく場所なのか、ここから何かを流してさようならする場所なのか、どちらにしてもそこは世界の端っこ(そこに海はない。まだ見たことない)で、そこから川を下って世界に漕ぎだして行く、旅に出ていくだけの度胸もそんな必要もない。そこに流れはあるのに見えるのに、すべてが停止して動けなくなっている世界。

そしてそこにいる大人ときたらFeckみたいな世を捨てたごろつき変態か、Mattの親みたいに喧嘩ばかりしているか、警察みたいなのしかいない。どん詰まりばんざい。

これらって確かに80年代の真ん中過ぎた頃から何か(何?)に疲れたかのように現れてきた態度で、これがもっとストレートにダイレクトに溢れかえって、たまらず”Real Me”みたいなふうにゲロはじめるのが90年代のあたまで、そういう節目みたいなところはなんかよくわかって、とてもあれこれ考えさせてくれる群像劇だった。

その辺を確かめるためにもこの特集でかかったドキュメンタリー”Streetwise” (1984) は見ておきたかったよう。

この頃のKeanuはまだかわいらしいかんじなのだが、これの8年後、更にネジが外れて化け物に変貌したDennis Hopperと、逆に何かを見出したらしいKeanu Reevesが改めてLAで激突することになるんだね。 ... “Speed”

で、川縁でたむろしていた若者らは今どこにいるかというと、ネットの縁でわーわー言っているばかりでとても静かで、そのぶん相当やばいかんじはする。

音楽はSlayerとかががんがん流れる合間に、Wenders作品を手掛けてきたJürgen Knieperがすばらしい音をのっけてくる。