1.31.2016

[music] METZ - January 29

29日、金曜日の晩、新代田で見ました。雨でした。 当日券。

ここんとこ、仕事のほうはくそみたいにバカみたいに慌ただしく、ふつうに考えたら週2回もライブに通える状態ではぜんぜんないのだが、ふつうに考えることをしたがらない脳が、現実をちゃんと見ようとしたがらない目が、巻き起こったどさくさまぎれの偶然のなか、隠れろ逃げろ! て叫び続けた結果、遠くに抜けることができたの。 そのツケはぜーんぶ、あしたの朝からやってくるんだからね。しんないからね。

このバンドのことはよく知らなくて、音も聴いたことなくて、Sub Popでトロント発、ていうのをチラシで見た程度。 でもがりがりごりごりやかましいのを聴きたい、ていうのはずっと念じていて、そういうときにしれっと行ってみるやつがはずれることはない、ていうのは知っている。 ほうらな。

情報をほとんど持っていないのであまり書けることはないのだが、金曜の雨の晩、いろんな理不尽さから来るむしゃくしゃともやもやを棄てきれないほどに抱えこんでて、せめて週末くらいはそいつらをぜんぶそこらに散らして放り投げてあたまからっぽにしたいのだったら、そこにこんなに素敵にはまる音は他にない。

頭蓋にドリルで穴あけて糞詰まってたゴミぜんぶ掻きだして掃きだしてクレンジングして風と水流を送ってくれる。それをものすごい速さと強さで撹拌しながらノンストップでやる - 気持ちいいったら。
これだ、これが必要なんだ、こういうのが好きなんだわ、てずっと思ってた。

Sub Pop独特の叩きつけるドライブとバウンドにトロントのほんわか人情味をまぶしたふう、とか最初は思っていたが、頭をぶんぶん振って汗を飛び散らせて突っ走るフロントの巨漢メガネは湿り気ゼロでざーっと流していって、なんか80年代初のがりがりしたギターとエモ抜きのヴォーカル - PILとかを思い起こさせたりもして - とにかく気持ちよくて、そういう気持ちよさは想定してなかったのでとっても得した気になった。

60分やったかやらないか、アンコールもなしでさっさか消えて、でも清々しててちっとも不満はない。
また来てくれるに決まってる、ね。

[music] Joanna Newsom - January 27

27日の晩、品川で見ました。今年の初ライブ。

彼女のライブを見るのは2010年の11月、Sold OutしたCarnegie Hallの以来。
このときのバックは5人で、違いはトロンボーンとか管楽器のひとがひとり。 アンサンブル全体のリードは今回と同じRyan Francesconiさんで、彼はこのときソロで前座もやっていた。 あと、今回はnordのキーボードがピアノの横に追加。 ステージ上の配置はおなじ。 向かって右にドラムス、ハープまんなか、左にRyanさんと弦の女性ふたり。

彼女の楽曲とアンサンブルの仕様て、あきらかにクラシック器楽曲のそれなので、会場はクラシック用のとか今回のような天井が高くて遠くて響きのよい教会とかがよいに決まっているの。
(ちなみにNYの会場はApollo TheatreとBrooklynのKings Theatre。 いいなー)

新作”Divers”がヴィジュアルも含めて結構かっちりと作りこんであったのでライブはどうなるかしら、ていう興味はあったのだが、しょっぱなは”Bridges and Balloons”で(新作のは2曲めから)、要するにライブは彼女の唄とハープをぶっとく聴かせるもので、それでよいのだね、と改めて認識させるような構成だった。

それにしても、あの空間でなんと気持ちよく響き渡る楽団であり楽曲だったことか。 いろんな弦の糸やリコーダーの吐息が撚りあい絡まりあって天に伸びていったりちりちりと花火のように散っていったり風にたなびいたり、それを裏で表で支え、吹きあげる繊細なドラミング - (兄のPeterによるもの)。冬の冷気を湛えた教会のつーんとした空気溜まりが彼女の音楽と共に緩やかにその温度の層を変えていくのが見えるようでした。

個人的には”Emily”のうにょうにょ止まらないうねりと”Peach, Plum, Pear”のなーななーなー♪が聴けますように、とお祈りしていて、で、それらを演ってくれたのでとっても満足した。 チューニングした後の”Peach, Plum, Pear”の輝きがすばらしくて、それに続いた新作からの”Goose Eggs”もなんのギャップもなしに繋がっていた。

彼女自身もよい意味で変わらない。 演奏中に身体が固定されてしまわざるを得ないハープ奏者 & シンガーであるので、曲の間にきゃっきゃうふふと飛び回って、直後にしーんとつーんと演奏に集中するその変てこな挙動、それを人によっては妖精と呼んだりするのかもしれないが、おもしろいねえ、といつも思うのだった。

教会行ってぶつぶつ文句いうひとがいないように、満足しなかったひとなんかひとりもいなかった晩だった。よね。

1.27.2016

[film] La fille coupée en deux (2007)

17日のごご、「悪の華」に続けて見ました。 これもすんごくおもしろくてねえ。
「引き裂かれた女」。英語題は “A girl cut in two”。

それなりの知名度の初老の作家、サン・ドニ (François Berléand)がいて、妻もいるのだが自宅によく来るエージェントの女性ともなんかあったふうで、要は女好きでグルメで、彼がTVのお天気キャスターのガブリエル (Ludivine Sagnier)に目をつけて一緒に食事をするようになって、彼女は抵抗しつつもだんだんに調教されていく(「調教」の場面があるわけではないが、そんなようなかんじで彼の虜になっていく)。

それを横目で見ていた富豪のドラ息子で遊び人のポール (Benoît Magimel)が彼女に執拗にアプローチをかけて、ガブリエルは最初嫌がっていたのだがサン・ドニに冷たくされた腹いせだかなんだか(よくわかんないけど)で、結局ポールと結婚してしまうのだが、そこには愛のない世界がどんより広がっていて、ぜんぶあのじじいのせいだ、て激昂したポールは。

片やインテリの金持、片や成金のぼんぼん、それぞれに(こちらには見当もつかない)闇だのゴミだのを抱えた野郎同士の割とどうでもよい不寛容と諍い、その間で引き裂かれてしまった小市民の女の子 - 二人の男を翻弄するのだが、ファム・ファタールとはちょっと違う。 これも「悪の華」と同様、どこのなにが悪いのかよくわからないまま事が進行して、あれってなんだったのかしら? になる典型のようなお話し。 例えば「悪の華」は屋敷の奥で、「引き裂かれた女」は公衆の面前で進行するような違い。

あと、作家が彼女をオークションに連れてってピエール・ルイスの「女と人形」の挿画入り初版を2000€でひょいって落としてプレゼントするシーンがあるんだけど、あんなことされたらいちころで落ちる、て思った。(でもこの娘ときたら...)

映画の後で元New York Film Festival (NYFF)のディレクター、Richard Peña氏によるトーク。
なんとぜんぶフランス語でやってた。 すごいねえ。

JLGの「勝手に逃げろ」での黒板上のカインとアベルの対立関係を20世紀初から始まるフランス映画とアメリカ映画の、更にはフランス映画批評とアメリカ映画批評の歴史を貫く対立・相互作用のメタファーと置いて、両国の映画と批評の歴史を概観した上で、60年代にヌーベルヴァーグの映画作家として、批評家としてそのキャリアをスタートさせたシャブロルにクローズアップする。

そこから5人組のなかで最もアメリカ映画のスタイル - 特にフィルム・ノワール(定義 : ①Visual Style - 表現主義的なそれ ②ストーリーテリングに重要性を与える ③社会 - 特にブルジョワに対する厳しい批評的目線)がもたらした様式を更に拡げて進化させようとしたシャブロルの作家論と「引き裂かれた女」の詳細に入っていく。

んで、ノワールを家族の持つ本質的な暴力性 - 家族が如何に自分たちを守るか - を暴く邪悪なメロドラマとして再定義するあたり、なるほどなー、と。 「悪の華」もそうだよね。

1906年に実際に起こった事件を元に、1955年のRichard Fleischerの"The Girl in the Red Velvet Swing" - 「夢去りぬ」を経由(したかしなかったかは不明だが)して、事件発生から100年後、現代のフランスを舞台に映画を撮る。 50年単位の、冗談みたいな飛び石の不思議とおもしろさと。

55年の映画 - の題材となったのは1906年、建築家のStanford White(有名なとこだとWashington Squareの凱旋門はこの人のデザイン)が、観劇中にHarry Thawに撃ち殺されてしまった、ていう事件。 Fleischerの映画ではStanford WhiteをRay Millandが、Harry ThawをFarley Grangerが、引き裂かれてしまったEvelyn NesbitをJoan Collinsが演じている。 Peñaさんの説明だと、Harry役のFarley Granger(「夜の人々」の彼ね)がキャラクター的にちょっと弱い、とのことで、そこのとこはなんかわかったかも。 
とにかく「夢去りぬ」は見たいなー。

ものすごくシンプルで包括的で、それこそ彼がNYFFでやっていたように(今もやっているように)アメリカとフランスの歴史や文化も含めての連環を表に出し、並行して個々の作家作品にも切り込んでいく - そういう楽しさに溢れた講義だった。 わたしがこの上映に来たのは彼のトークがあるって知ったからだったの。

NYにいた頃、この人が前説やトークをやる映画はぜったい面白いから見なきゃ、ていうふうに見る映画を選ぶ傾向は確かにあって(だって知らない映画ばかりだったし)、このひとがいたLincorn Centerでの特集上映とか、もちろんNYFFとか、ぜんぜんはずれがなかった - 今だとKent Jones氏がいて、Gavin Smith氏がいる。 Film ForumにもMOMAにも。 

例えば、2010年(48th)のNYFFのラインアップなんか:
オープニングが”The Social Network”, クロージングがイーストウッドの”Hereafter”, JLGの”Film Socialisme”, キアロスタミの「トスカーナの贋作」、ラウル・ルイスの「ミステリーズ 運命のリスボン」、ホンサンスの”Oki's Movie”、オリヴェイラの「アンジェリカの微笑み」、アピチャッポンの「ブンミおじさん」、そしてアサイヤスの”Carlos”..  これらを全部オーガナイズしたのが彼なんだよ。
そしてこの時の、”Carlos”上映後のトーク、更に”The Cinema Inside Me: Olivier Assayas”ていうタイトルで行われたAssayasとPeñaの対話の濃かったことすごかったこと。

あと、Richardさんとはトイレで何故かとってもよく会うのだった。 最後に会ったのは彼が最後にDirectorを務めた2012年のNYFF,  Bertrand Bonelloの”Ingrid Caven, Musique et Voix” - Ingrid Cavenさんの圧巻のライブパフォーマンスを記録した(だけの)フィルム -  そのときのトイレだったねえ。 解説ももちろんすばらしかったけど。

どうでもよいけど。  彼、ずいぶんやせたよね?

1.26.2016

[film] La Fleur du Mal (2003)

17日の日曜日の午後、アンスティチュのシャブロル特集で2本見ました。
こんなにどっしりみっちりした2本を見て、しかも講義まで付いてて1600円なんて、犯罪みたいに安い。

「悪の華」。 英語題は”The Flowers of Evil”。

冒頭、茂みの奥にぼうっと浮かび上がるお屋敷のなかにカメラが這うように進んでいって階段を昇ったところの手前の部屋で女性が蹲っていて、その次の部屋に流血した男性が転がっている。導入としてまずぞくぞくくる。

米国に数年間滞在して戻ってきたフランソワ (Benoît Magimel)を父のジェラール(Bernard Le Coq)が空港で迎えて、その車中で母さん- アンヌ (Nathalie Baye)が今度の市長選に出るんだけどどんなもんか、とか嫌味を言って、随分新しく変わった町の様子、更に家族全員の紹介があって、家には血の繋がっていない母とその母の連れ子で心理学を専攻しているミシェル (Mélanie Doutey)と、母の叔母で朗らかそうなおばあちゃんのリーヌ(Suzanne Flon)がいる。
(うなぎ料理、おいしそう)

父はドラッグストアの経営をやっているが酒好き女好きで裏がありそうで、母は選挙運動で慌ただしく飛びまわっていて、フランソワとミシェルはとっても仲がよくて、仲が良すぎて問題になりそうだったのでフランソワはアメリカに渡った、ようなこともわかってくるのだが、ここらへんまではごく普通のブルジョワのおうち、なかんじがする。 多少のどす黒さは許容しよう、と。

アンヌの選挙事務所に匿名の手紙が投げこまれた、という辺りからちょっと不穏な空気が流れ始めて、アンヌの父は戦時中、対独協力者でレジスタンスだった自分の息子を殺した、とか、そのあとでリーヌが自分の父を殺した疑惑もあるとか、とか。
これも選挙活動ではよくありがちな誹謗中傷だし、本人とは関係ない過去の話だし、てきとーにやり過ごすこともできるし、実際にアンヌはそんなの構ってられないくらい慌ただしく支持者まわりをしている。 

でもそうして投げられた小石が家族のなかで割と暇にしているフランソワとミシェルとリーヌの間でなんとなく渦を巻きはじめて、そんなに遠くない過去の事件の記憶と共鳴を始めたところで、(ぜんぜん意図なんかしていなかったのに)起こるべくして事件は起こるのだった。

両親のうちのどちらかひとりは血が繋がっていない。兄妹だけど血は繋がっていない。血が繋がっている一部の肉親は昔やってはいけないことをした(らしい)。 やってはいけないことのなかにもやってよいこととわるいことがあるよね。 でもこれらはすべて内輪の、内縁のことで誰にも迷惑かけてないし危害加えてないし。 こんなふうに閉じた輪のなかでとぐろを巻く血と憎悪と愛と善悪の編み目の隙間にひっそりと咲くのが悪の華である、と。

あとはあの終わり方の後に続くであろうこと、あの後に開いてしまうかもしれないアナザー悪の華をイメージする、それだけでたっぷり追加で1時間は楽しめると思う。 対独戦から市長選へ、家族の輪のなかで閉じているようで、なかなかの広がりをもった罪を巡る映画なの。


ぜんぜん関係ありませんが、New Yorkのキッチン用品店、Broadway Panhandlerがこの春、40年の歴史を閉じてしまうのだと。

http://www.nytimes.com/2016/01/25/dining/broadway-panhandler-longtime-manhattan-cookware-retailer-to-close-in-spring.html

今のロケーションの前 - SOHOのBroome stにあった頃は結構通って、店猫によく引っ掻かれていた。
かなしいなあ。 お気に入りのレコード屋や本屋が消えてしまうのとおなじかんじ。 

1.24.2016

[film] A Band Called Death (2012)

16日の土曜日の晩、渋谷の「未体験ゾーンの映画たち2016」で見ました。
特集「未体験ゾーン…」 て、タイトルからしてホラーとか変態系に寄りがちのようだけど、もうちょっとラブコメみたいのもやってもらえないものかしら。 そういうのはカリテのほうでやることになっているの?

タイトルそのままに、”Death” というバンドのドキュメンタリー。
2013年のSXSW Film FestivalでAudience Awardを受賞している。
Deathは70年代初、Punkの遥か以前にデトロイトに現れた”Punk”バンドで、その音源が2009年、34年の時を経て奇跡のようにDrag Cityからリリースされた、その辺の事情は映画でも引用されていた以下の記事もあって一応知ってはいた。

http://www.nytimes.com/2009/03/15/arts/music/15rubi.html

映画の前半はバンドが生まれてから消えるまで - デトロイト郊外のHackney家の次男三男四男のDavid, Bobby, Dannisが3ピースのバンドを組んで自宅内の部屋でばりばり練習をして、デモを作って売り込みに出て、AristaのClive Davisのところまで行くのだがバンド名がネックとなってリリースには至らずにお蔵入り、バンドは77年に解散して、やがてリーダーのDavidも亡くなってすべてはどこかに埋もれて消えて。

後半は00年代後半、かつて500枚を自主制作した最初の7inchの音がアンダーグラウンド市場とネットの片隅で話題になって、その曲をどこかのパーティで耳にしたBobby Hackneyの息子が、これ歌ってるのうちの父ちゃんじゃね? て驚愕して父親に聞いてみたらそれを認めて... この辺がいちばんおもしろくて、そこから実家のどこかに眠っていたマスターを掘り起こして、レコード発売と再結成と。

バンドの歴史と共にPunkとしての、或いはバンドとしての軋轢や戦いの軌跡がぐさぐさと描かれているかというとそういうのはあまりなくて、残っているメンバーや家族の証言はとってもフレンドリーでポジティブで、トーンとしてはR&BやSoul系のBehind the ceneドキュメンタリーとあんま変わらなくて、いや、別にいいんだけどね。 デトロイト郊外の家族のお話しとして見れば。

さて、この”Punk Before Punk”を、未だ”Punk”の概念が存在しなかった時代に生まれた音を、果たして後付けのようなかたちでPunkと呼んでしまうことが可能なのだろうか?  についてはそもそものPunkの定義や起源をどこに置くのかとか、そんなの別にいいじゃんかっこよけりゃ、とかいろいろあるのだろうが、わたしはDon Lettsを師と仰ぐUK Punk原理主義者であるので、まあなんというかぶつぶつぶつ、であった。

でもインディーなんて存在しなかった時代、どれだけ積まれても泣かれても断固バンド名を変えずに走ろうとした意固地さ石頭とかは偉かったかも。

エンドロールのとこで流れるDavidのソロ”Yes He's Coming”が、なんかとってもしみた。
結局のところ、いなくなってしまったDavidへの家族からのラブレターで、それでいいんだろうな、って。

しかしレコードコレクターの世界っておそろしいな。そのひとりとして登場するJello Biafraさんとか。
あと、Elijah Woodさんとか ...

1.23.2016

[film] Apichatpong in the Woods 2016 - Art Program

16日のごご4時、ロイドのあと、イメージフォーラムで見ました。
ホットドッグからトムヤムクンへ。
Apichatpong Weerasethakulの特集 - ”Apichatpong in the Woods 2016”

アピチャッポンを初めて見たのはたしか、2008年のTIFFでの”O Estado do Mundo” - 『世界の現状』のなかの一編 - ”Luminous People"(聡明な人々)で、あのグローバリゼーション(ていうのがあったのよ、昔)をテーマにしたオムニバスのなかで、彼の作品ははっきりと異様で異質で、ものすごく変なものを見てしまったかんじがあった。(ところで、いま『世界の現状』みたいのを撮ってみたらどんなんなるだろうか ..  だれも見たくないよね。たぶん)

で、今回のアピチャッポンの特集、「世紀の光」は早く見なきゃ、と思うものの、このアートプログラム(中・短編集)のような半端な切り落とし肉みたいな方につい目が行ってしまうのだった。
“Mekong Hotel” (2012) とかもなんか予測不能でおもしろかったし。

上映されたのは以下。

■ The Anthem (2006)
■ Worldly Desires (2004)
■ Emerald (2007)
■ My Mother's Garden (for Christian Dior, 2007)
■ Vampire (for Louis Vuitton, 2008)
■ Phantoms of Nabua (2009)
■ A Man who ate an entire tree (2010)

色彩や構図がなんかすごい、ていうのは余りなくてどちらかというとふつーの、しろーとが撮ったような、監視カメラが捕らえたような映像 - 撮るひとが明確な意図や意思をもって切り取ったものというよりどこかしらで何某かが自動で記録していたかのような感触のしらじらした平熱の映像、エフェクトもたまたまやってきたノイズや電波や砂嵐のせいでそうなっていましたわざとじゃないもん、みたいなふうで、そういう状態でなんか突然へんなやつが。

画面の端っこになにか変なものが映りこんでいるという感覚が常にずっとあって、で実際にたまにほんとになんか映ってしまっていて、そしてそれをみてしまってなんかぞっとして狼狽して念のためもう一回確かめようとしてももうそこにそれはいなくて、それって誰を責めるべきなのか - 森か? - みたいな、延々とだるまさん転んだをやっている(着実に近寄ってくるけどどこまでいっても触れてこない)、相手はあちらの世界に半身突っこんで浸かっていて、あちら側でもなんかやっているようなので、自分で自分の知覚をうまくコントロールできなくなる。そういう悪寒とか戸惑いとか。

東洋とか西洋とかをこういう文脈であまり使いたくないのだが、線があるとすればこの辺 - 自身の知覚や認識を統御・コントロールしているのはほんとうにまちがいなく自分なのか? 自分と言ってしまってよいのか? という問いに対する揺らぎや迷いを持ちこんでくる、そんな不穏で物騒なのを持ちこむ、持ちこもうとしているのはどこのだれ、そもそもそれってヒトなのかなんなのか、みたいな。

深い森のなか/奥のざわざわでなにかが遠のいてなにかが近まって、全体として距離の遠近が麻痺してくるのと同じような感覚。 それが嫌なら森には入らないほうがよいだけさ、と。

というようなかんじに彼の映画を見るとつきまとってくるもの、それはあまり他の監督の映画では感じられるなにかではなくて、これとはぜーんぜん違うけど、ホン・サンスの作品がもたらす時間感覚への揺さぶり、は見ているものをちらっとイラつかせる、という点で似ていないこともないかも。

前にも書いたけど、坂田靖子の世界のを映画化できるのはこのひとしかいない。

[film] Speedy (1928)

16日の土曜日の昼、シネマヴェーラで見ました。『ロイドのスピーディー』

ロイドとキートンはとにかくどんなのでも見るし、できれば毎週でも見たいくらい。
フリッツ・ラングをいくら見ても極悪人にはなれないし、ルビッチをいくら見ても恋愛の達人にはなれない気がするが、ロイドとキートンをずっと見続けていれば、どうやって危機をのがれて生き延びることができるのか、やばい状況からすたこら逃げることができるのかの知恵とか手口とか度胸とかを授けてくれそうな気がする。 
もちろんロイドみたいにキートンみたいに逃げられるようになるのってオリンピックに出るのよか難しい - ていうか死ぬよ - と思うけど。

Harold 'Speedy' Swift (Harold Lloyd)はカフェのバーテンやったり(Yankeesの試合結果が気になってしょうがない)、タクシーの運転手やったり(スピード出しすぎてめちゃくちゃ)するのだが、うまくいかなくて、ひとつの職に落ちつくことができなくて、恋人のJane (Ann Christy)からは、だいじょうぶかしらこのひと…  みたいになっている。 彼女のおじいちゃんは馬が引っ張る路面電車(バス?)みたいな乗り物の運転手を長年やっているのだが、大手のバス会社だかなんかがその路線を横取りしようとやくざを連れて嫌がらせに来たりしていて、それを見たSpeedyは近所のお年寄りとかみんなを集めてバスを憩いの飲み屋にして味方を増やして、しまいにはやくざ vs. 南北戦争生き残りおじいちゃん軍の大喧嘩になるの。 20年代、マンハッタンのまんなかで。

(よれよれのじじい達が集まってくるところ、Daniel Schmidの『ベレジーナ』のコブラ団を思いだした)

ものすごく強引に決着がついたり感動的なオチがあったりするわけでもなく、Speedyがものすごくスピーディーだったり、曲芸みたいな技や綱渡りが出たりするわけでもなく、最後は西部劇みたいにお馬さんが奇跡の大爆走して、気がつけば勝っていました、みたいな軽さといいかげんさがたまんなくて、要するにかっこいいんだよ、ロイドって。

あと、SpeedyとJaneが休日に正装して(スーツで遊園地)コニーアイランドのLuna Parkにデートに行くとこ、定番中の定番だけど、いいんだよー。 昔の遊園地のアトラクションのほうが絶対に魅力たっぷりで遊んでみたいのがいっぱいあるの。 いまのコニーアイランドにも少しだけこの頃の名残のぼろいアトラクションは残っているので試してみたい方はぜひ(目がまわってかなりげろげろになるけど)。

1.20.2016

[film] Creed (2015)

11日、日曜日の午後、”.. Malala"に続けて見ました。

わたしは"Rocky"の3部作だか4部作だか何部作あるのかしらんが - を見ていない。 TVで流れているのを横目で見たことがある、くらい。 殴り合いもスポーツもトレーニングも(だいっ)きらいだし、公開当時、階段を上りきったところで両手をあげてくるくるするバカとか、片腕で腕立て伏せをしようとして顔面をぶつけてるバカとか、周囲にはうじゃうじゃいたのでそういうので十分だったんだ。

これはホラー映画も同じことだが、それなりの耐性がついた(きらいなやつにもバカにも)ので見るようになったけど、やっぱし得意ではないなー。

Rockyの宿敵だったApolloの息子が成長してボクサーになって、老いたRockyがそのコーチについて、ていう大筋の説明はいらないよね。

子供の頃のAdonis Johnsonは問題児で少年院に入れられても暴力沙汰ばかり起こしていて、彼を引き取りにご婦人が現れる。 そのApolloの未亡人によって西海岸の裕福な環境で育てられたAdonis(Michael B. Jordan)はちゃんとした会社に就職して真面目に働いているのだが、週末になるとメキシコに渡って闇ボクシングみたいなので稼いでいて、ある日、やっぱし会社やめるわ、といってフィラデルフィアにひょいと旅立ってしまう。 
やっぱり血なんだわ、とそっと見送る育ての母。

で、その血が求めた場所がフィラデルフィアの地であり、その筋肉が求めたのが、かつて父と対峙したRocky(Sylvester Stallone)であった、と。
ボクシングなんて関係なく地元で地味にレストランをやっていた彼に頼みこんでコーチをしてもらって、Rockyとかつて一緒にやっていたコーチのボクシングジムの一番星を叩き潰したあたりで、メディアにAdonisの出自が明らかになって、こいつは金になるぜ、とふんだ連中からこんどはムショ帰りの凶暴な英国野郎との対戦がセットされてしまう。

実力でいうと向こうのほうが断然上、お育ちは向こうのほうが数段お悪くて、対戦は完全にアウェイの英国で、Rockyは病に倒れていて死にそう、ていう最悪の状態で試合になるのだが、自分はCreedなんだ、て覚醒して、ママからはApolloとおなじトランクスが送られてきたりするものだから、こんなの盛りあがらないわけがあろうか。

育ち(Johnson)じゃねえんだ、血(Creed)なんだよ、みたいなおらおら成り上がり話にしてしまえば漫画みたいにおもしろくなるのだろうが、それだけではないナイーブなところもあって、そこがよいの。 "Straight Outta Compton"もそういうところがあったけど。

歌手のBianca(Tessa Thompson)とのやりとりのところが個人的にはいちばんよかったなー。
“Rocky”の頃の恋人たちの姿とは違うよねえ。

あと、フィラデルフィアの町とか路地の風景の擦り切れたかんじもたまんないの。
主人公の脇をバイクが走り抜けるとことか。

あと、EP7もそうだったけど、なんかオリジナル(1976)と相似形を描いているような気がしてならなくて、なんだろうねえ、とか。  次はDolph Lundgrenの息子が出てくるんでしょ?

1.19.2016

[film] He named me Malala (2015)

11日の月曜日、連休最終日の昼間、新宿で見ました。 「わたしはマララ」

冒頭、アニメーションでパシュトゥーン人の女の子英雄であるマイワンドのマラライ(Malalai of Maiwand) - 民を奮い立たせて侵略に立ち向かって亡くなった - の話しが出てきて、そういう目線で彼女を美化するような映画だったら嫌かも、と思ったがそういうのではなかった。  もちろん、人によってはいやいやそれでもとんでもねえよあんな描き方、なのかもしれないけど、印象としてはとってもプレーンなかんじの。

父親は娘 - Malala Yousafzai - を(あるいは子供たちを)性別に関係なく均等に学びの機会を与えて育てるべきだと思って、そうした。 娘はそれに応えるかたちで成長して学んで自分の言葉でいろいろ言うようになった。 そういう傾向を間違っていると思う人たち・勢力があって、彼らはそれを暴力で抹殺しようとして、実行した。 彼女は致命傷を負ったけど一命をとりとめて回復し、学ぶことも書くことも言い続けることも止めなかった。

映画は誰もが知っているであろうこの事実関係をなぞって進行していくだけ。
わたしは彼女の父親がたてた方針はごくあたりまえだし、それに応えて大きくなったMalalaもおかしくないとおもう。 でも、そうした彼女(とそのそばにいた女の子)に銃弾を放って黙らせようとした連中ははっきりとおかしいとおもう。 そして、そうやって傷ついても決して口を閉ざさなかった、おばさんのように執拗に言い続けたMalalaはえらいとおもう。

まだ若い女の子なのに、とか、ああいう地域・境遇に生まれたのに、とか、ひどい目にあったのに、という美談ぽいところから離れて、このひとは淡々と揺るがずぶれず、にこにこしているけど火の玉みたいに燃えていて湿り気ゼロなのがかっこよいの。 還るべき国や故郷を失ってしまった女の子とは思えない。 にこにこ穏やかだけど、フェリオサみたいな娘。

映画のタイトルは"He named me Malala"だけど、 "He named me Malala after Malalai of Maiwand, therefore ..."ではなくて、"He named me Malala after Malalai of Maiwand, but ..." なのだとおもう。 父はこう名付けた、けどわたしはわたしなんだ、ていうことなのではないか。

映画は彼女の笑顔や揺るがない言葉と共に淡々と朗らかに進んでいく分、やはり、それ故に、こんな女の子に銃を向けた連中の異様さ、気持ちわるさがはっきりと際立つ。 闇とか不寛容とか言うのは簡単だけど、その暴力 - ひとを痛めて傷つけて引き裂く力(物理的なのだけじゃないよ。言葉とかもだよ) - は確かに存在して、いまだに、ここだけじゃなくて世界中で沢山のひとを殺したり突き落したりしているのだということ。 それは彼女の背後だけじゃなくて、自分の家族とか恋人とか近所のおじさんおばさんとかの周りにもしっかりと根をおろしてしまっているのが現代なのだ、ということ。

それをわかっておけ、そして、そいつらをぜんぶ無力化してしまえ。
て、彼女の笑っている顔を見ていると思うのだった。 負けるもんか。
 

1.18.2016

[film] Nostalgia de la Luz (2010)

10日の日曜日の夕方、Uplinkで見ました。
「光のノスタルジア」。 英語題は”Nostalgia for the Light”。
ずっと見たいよう見なきゃと思っていて、「真珠のボタン」の方を見る目処が立っていないのだが、とりあえずこれだけでも。

冒頭、天文台かなんかの機械が重々しく動いていって、チリの北部の砂漠のまんなかにあるらしいその施設がどんなすごいことをしようとしているのか、の説明がその解き明かされる対象である宇宙や星の、その兆しであり表象である「光」の特性と共に語られる。

光は我々の目に届いた時点で既に過去のものである(現在形の光なんてない)、云々。

それから、その砂漠のどこかに点在しているらしい古代遺跡からの発掘物の話とか、そして週末になるとシャベルを持って砂漠になにかを掘りにくる老婦人たちの話になる。 彼女たちは70年代、ピノチェト政権下で行われた粛清-虐殺の犠牲として行方不明になったままの自分の家族の遺骨や遺物を探しに来ているのだという。
収容所がこの砂漠にあったことは確かで、自分の息子や夫たちはここに連れてこられた可能性が高くて、でも未だに何の情報も公開されないので自分たちで探しているのだと。 もう40年以上も。 だって会いたいんだもの。

砂漠の砂の山や海から小さな骨の欠片を探そうとする行為と宇宙から採取される大量のデータの海から星の、生命の起源を探ろうとする試みと、単にそれらを並べて場所や行為の符合を示すのではなく、これっていったいどういうことよ? と考えさせるところまで持っていく。 フィルムは監督Patricio Guzmánの思考の道筋を明確に示して、我々になにかを促す。

太古からの天空と人とのいろんな関わり、国家の政変の犠牲者を束ねて破棄して見えなくしてしまうことと、見えない形で提示される宇宙の謎を見えるようにするために組まれる国家プロジェクトと、それぞれを地表に這いつくばって実行する人たちひとりひとりの言葉と。 こんなふうに考古学者と現代史学者と天文学者を等しく呼び寄せてしまう過去時間の磁場としてのチリの砂漠。 こんなの、地球の反対側のお話し、であってよいはずがあろうか。

探しているのはカルシウムかー、とか言うことではなくて、どちらも時の権力者が指揮して主導した/している、一方は隠して、他方は広める話、一方は過去を、他方は未来を向いているかに見えて、実はどちらも過去の時間に縛られた、閉ざされた世界のことなのだ - であるとしたらこのふたつをドライブするもの、隔てているものって何なのだろう。
最後のほう、砂漠で遺骨を探す女性たちが望遠鏡から空を見るシーンの何とも言えないかんじ。そこに希望なんてないのだが、あえて言うならChris Markerの笑い猫、とか。

そして虐殺の歴史、残された者たちにとっての不条理な時間のありようについては、王兵の『鳳鳴 中国の記憶』(2007)とか、『無言歌』(2010)もあわせて考えたい。 星は結局なかったんじゃないか、風と砂しかなかったんじゃないか、とか。

「真珠のボタン」を見たい。 それと「チリの戦い」も。

1.17.2016

[film] 婦系図 (1962)

9日の土曜日、「失われた時」のあとで京橋に移動して見ました。「三隅研次」特集。
この日の京橋は「白子屋駒子」(1960)から見るべきだったかも、だけど、いいの。

原作は言うまでもない泉鏡花 - ずいぶん昔に読んだが見事におぼえてない、マキノ雅弘版は見てない。
びーびー初泣き。 すばらしい女性映画でした。

子供の頃、スリをしていてドイツ文学の酒井教授(千田是也)に拾われた主税(市川雷蔵)はそこの娘の妙子(三条魔子)と兄妹のように育てられて、大きくなってからは酒井教授を師としてドイツ語方面で出世が見こまれている、のだが実生活では芸者のお蔦(万里昌代)と恋仲になって独立を機に一緒に暮らし始める。

妙子のほうには静岡の実力者で医者一族のいけすかねえぼんぼん - 河野が母子で縁談を画策してきて、酒井教授はいいじゃないか、というのだが主税は気にくわないのでしらっと妨害していたら仕返しにスリだった過去を暴かれ、更に教授にお蔦のことで責められて、俺を棄てるか女を棄てるかどっちかにしろ、て迫られてお蔦に別れてくれ、ていうの。
(教授もクソだけどそんなこというクソじじいをなんで蹴っ飛ばさないのかこのボケなすは)
(『切れるの別れるのって、そんなことは芸者の時に云うものよ。私にゃ死ねと云って下さい』)

あともうひとつ、妙子を生んだ実の母はお蔦のとこのおかみの小芳(木暮実千代)なんだから教授だってさあ、ていうのとそんな妙子にうちは名家でございますから、ていう河野家だって裏ではいろいろ後ろめたいのがあって、お蔦と切り離された主税は静岡に単身乗りこんで河野家にねちねち復讐していくの。

でもそんなしょうもない小競り合いしているうちにお蔦は病に倒れて…

主税とお蔦の別れとか、小芳と妙子の再会とか、髪結いをしてがんばるお蔦とか、妙子がお蔦を訪ねてくるとことか、お蔦が亡くなるとことか、とにかく泣ける台詞とか泣けるシーンの波がすごくて今思いだしただけでもきついの。 脚本は依田義賢で、そういえばこのひとの溝口健二(が描く女性)を見るたびに泣いてばかりになるのだからそもそも要注意なのだった。

ていうのと、とにかくもうほんとに(女性の反対側にいる)男共ときたら主税も含めて壊滅的にしょうもないしバカだしクズだし(除.めの惣)、こんなバカ連中が偉そうににっぽんの近代をデザインして担ったんだから今がこんな惨状なのは無理もないことなのね、て思った。

カラーの瑞々しさも日本家屋の奥行きのかんじも日本美術、としか言いようのない美しさ。そういう四角四面格子のなかで泣き崩れたり倒れたり震えながら立ち上がる日本女性たち。
これが日本の … うんたらとは全く別のところでそうっと、でもしっかりと留めておきたい。

1.15.2016

[film] The Lost Moment (1947)

9日土曜日のお昼、シネマヴェーラの「映画史上の名作14」で見ました。
「失われた時」。 原作はヘンリー・ジェイムズの「アスパンの恋文」 - The Aspern Papers (1888) で、翻訳は岩波文庫から出ているのだがもう絶版。未読。

原作は英国詩人シェリーが恋人メアリーに宛てた恋文に想起されて書かれていて、映画のなかで出てくる詩人のポートレートもシェリーにそっくりなの。

NYの編集者のLewis (Robert Cummings,)は19世紀に行方不明になった詩人- Jeffrey Ashton の失われた恋文集を探していて(出版すれば絶対に売れるから)、驚くべきことに彼が手紙を綴った恋人のJulianaは105歳でまだ生きている、と聞いて、その恋人のヴェニスにあるおうちに身分を隠して滞在してこっそり探りはじめる。

その屋敷にはすごく冷血そうな又姪のTina (Susan Hayward)と頑固で意地悪そうな家政婦とその娘家政婦(やさしい)と猫(かわいい)がいて、女性ばかりの館では当主Julianaのケアにものすごく気を配っている他方で、Lewisのような来訪者にはつんけんして厳しい。

でもやがて105歳のJuliana (Agnes Moorehead) - ずっと椅子にうずくまっていて殆ど顔も見せない - と面会することができて、彼女がお金に困っていることがわかったり、夜中に屋敷のどこかからピアノの音が聞こえてきたのでなんだろう、と探していたら猫が案内してくれたり、そもそもJeffrey Ashtonはどこに消えてしまったのか、とか、いろんな事情を知っているらしい怪しい僧侶とか、Lewisの正体を知る強欲な奴とか、ゴスでミステリーの要素もいろいろあっておもしろかった。

届いたのか届かなかったのかどこかに仕舞いこまれた手紙の束と、肉体と共に朽ちて滅びていくなにか、或いは別の肉体に転移して生きようとするなにか、などなどが不滅の愛をめぐって最後に燃えあがって、それだけだと19世紀のお話しなんだけど、少しだけ不純で胡散臭いなにかも入ってきて、そのだんだら模様もおもしろいの。
そして、彼らの生を生として繋ぎ留め、操っているのは死で、その死をもたらしたのは不滅の愛で、ていうぐるぐる回る怪談でもある。 

お屋敷をめぐるゴシックホラーとしてリメイクもできるねえ。 あんまこわくないやつ。

[film] うるさい妹たち (1961)

8日の金曜日の午後の2本目、阿佐ヶ谷の特集「東京映画地図」のなかで見ました。 邦画はじめ。

冒頭、夜中に運転している男がうとうと眠そうになったところで車の前に立ちはだかる女の子がいて、おじさん車乗せてくれない? と聞いてきて、いいよ、ていうと後ろの暗がりから男女のグループがわらわら現れて車に乗りこみ、おじさんは休みたいという彼らの求めに応じてホテルに入り、最初の女性(純子18歳 - 仲宗根美樹)はおじさんと二人部屋になってちょっと怪しいかんじになるのだが、おじさんが突然欲情して襲いかかってしまったので雰囲気がぶち壊れておじさんは帰ってしまう。

おじさん(山村 - 永井智雄)は丸一物産ていう会社の副社長で、自分の秘書にアプローチしつつ、病気でいなくなりそうな社長の次を狙いつつ、自分の娘(尚子 - 江波杏子)には自分の会社の大株主の御曹司との縁談を進める、というマルチでいろいろ強欲なことをやっている。おじさんたら。

純子の恋人は売れてないけど自分には絶対才能があると信じているこれまた傲慢な若者(健二 - 川口浩)で、健二は御曹司とのお見合いがつまんなくてぼんぼんへの当て付けで六本木のナイトクラブにやってきた尚子と出会って恋(この上玉を自分のものに)におちて、彼女に絵のモデルをやってくれないかと頼む。

副社長に言い寄られている秘書の里子には同じ会社につきあっている真面目な彼がいるのだが、こいつは貧乏で先がなさそうだしどうしようかと思っていて、里子の妹は不良の純子で、姉妹であまりぱっとしない暮らしをしている。

やがて純子は副社長と秘書 = 自分の姉 - の逢瀬を目撃して、更に自分のものであるはずの健二が尚子と会っているのも見ちゃって、妹はどんどん不機嫌にうるさくやかましくなって暴れはじめる。

いろんな人物が面倒くさく入り乱れるので沢山の矢印や実線点線で人物関係図が描かれてしまうようなドラマの典型。 でも焦点は無軌道で制御不能な若者たちとそれによって掻き回される社会の上の方の人たちとか下の方の人たち、或いは男と女の、女と女の戦い、とかいろいろ、ひとによって受けとめ方は異なるのだろうが、結局のとこ、上の方でも下の方でも強欲でヤンキーなやつはほんとうざいねえ、とか。

こんなふうにテーマは割とどろどろなのだが、カミソリのように研ぎ澄まされた白黒のエッジがすごい江波杏子の佇まいとか、割とするする裸になってしまう女の子たちとか、そういうほうに感心した。

あと、どうでもいいけど、今のオフィスの窓から見える風景とほぼ同じのが映ったので仰天した。
あそこって…

1.14.2016

[film] Comet (2014)

8日の金曜日の昼間、清澄白河から渋谷に移動して見ました。 最終日の最終回だった。

冒頭は、Dell (Justin Long)がいよいよその時が来た、みたいに決意を固めてドアの外で踏みこむか殴りこむか、みたいな状態で、そこからタイムスリップするかのように場面は6年前(おそらく)、ふたりが出会ったLAで天体観測のツアーか何かの列に並んでいて、そのとき彼女 - Kimberly (Emmy Rossum)は当時の彼とデートしていたのだが、Dellは構わず彼女にくらいついて、という場面の後、場面は更に時間を隔てたいくつかのシーン - 友人の披露宴に一緒に出かける直前のバリのホテルとか、Brooklyn(彼)とLA(彼女)の電話とか、久々に再会して電車のなかで、とかに切り替わったり行ったりきたり。

それは一見するとなんでもないふつーの情景で、なにか決定的なことを言ったりやったり起こったりする、というより、後々のなにかどこかに影響を与える予兆のようなことがあるようなないような、で、その行方や結果は明示されないまま次の場面に飛んでいく。

ある男女の6年間とパラレルワールド、のような説明は既にあって、ということはこの男女はうまくいかなかったことは既にわかっていて、ここでのパラレルワールド、ていうのは、ひょっとしたら彼らが幸せにカップルになれていたかもしれないどこか別の時空のお話しなのだな、ということはわかる。 

でも映画はあの時のあれが実は決定的ななんかだった、みたいにこまこま責任追及とか原因解析をするわけではなくて、誰にでもどこにでもありそうな恋愛の風景スケッチに留まっていて、そこはなんかよかったかも。 パラレルワールドとか言ったって、それって、時間空間軸の問題、とかいう以前にひとがふたり、というところで既にじゅうぶんパラレルで、つまりはどうしようもないといえばどうしようもないんじゃねーの、って。

もちろんそんなこと言いだしたら恋愛ドラマなんて成り立たなくなってしまうので、ふたりの間の物理的だったり心理的だったりする距離とか、ふたりのキャラクター - べらべら喋りまくるJustin Longとそれを適当に鷹揚に受け流して時折ブチ切れたりするメガネのEmmy Rossum(すてき)を横並びにして、で、その組合せがなんかよくて、こういうのってどっちかがおしゃべりじゃないとだめよね、とか改めておもった。

で、あのときもし君が君じゃなかったら、みたいなパラレルものの近年の最高峰としては『あの頃エッフェル塔の下で』がまちがいなく聳えていて、あの映画でのMathieu Amalricとこの映画でのJustin Longはどことなく似ている。 自分が一番偉いしモテるしと思っているくせに、実は一番脆弱で、実際すぐにやられてばったり寝こむ、みたいなとこ。

ふたりが出会った晩、帚星(Coment)(だよねあれ? ちがうの?)がふたつ空にあって、つまりそれくらい、何万年に一回くらいのありえないこと、て言っているのだろうが、ありえないからもう地球なんてなくなっちゃえ、くらいのところまで引っ張ればなー。


ああ、Alan Rickmanさんまで ...

1.13.2016

[art] YOKO ONO: FROM MY WINDOW

まだ立ち直れない。 星が消えるというのはこういうことなんだ、と実感している。
“Black Star”とはよく言ったもんだわ。 こんちくしょうめ。

8日の金曜日は朝から築地で目の定期検診があって、ずいぶん長いことサボって行っていなかったのでいろいろ面倒になりそうだった(実際、そうなった)から、会社休むことにして、そのまま美術館行ったり映画行ったりした。

午前中に東京都現代美術館で見ました。
行くのも含めてあまり好きな美術館ではないのだが、これだけは。

昨年のMOMAでの展示 -“ Yoko Ono: One Woman Show, 1960 - 1971" - 彼女が昔、半分うその個展案内として出したやつを40年の時を経て実現させたやつ - の方が見たくて、それとどの程度違うのかわからないのだが、とりあえず見る。

個々の作品についてはいいよね。 彼女の個々の作品をこんなふう、あんなふう、と形容したり説明したりすることほどかったるく、彼女の作品の本質から外れていってしまうことはないと思うし、See - Touch - Feel するのが一番手っとり早い、そういうたぐいのアートなのだし、興味あるひとには彼女の本(「グレープフルーツ」必読)だってあるし。

見て、なるほどー、とか、これかー、とか、一目で、一瞬でわかってしまうものと、詩や文章のようにちょっとだけ咀嚼して飲みこんで染みてくるものと二通りあるのだが、どちらもシンプルでダイレクトで、彼女の窓がどこにあるのか、それがわかってしまえばあとはそれを自分のに同期させて開け放つだけ。 風とか光とか気持ち良く流れこんでくる。

わたしが彼女の作品とか、Nam June PaikとかFluxusの活動も含めたあれこれにはまっていたのは80年代初だったので、ずいぶん時間が経ってしまったねえ、というのと、今どき、あれらの作品が色褪せてみえてしまうのだとしたら、それってどういうことなのだろうか、とか考える。

おそらく、当時の受け取られ方のひとつだったかもしれない瞬間芸的なおもしろさ、でいうといまの時代は、万事インタラクティブで可視化してリンクしてタグして共有して、みたいなのを誰とでも、どこでもできて、しかも場所も容量も制約なし、であるから、例えば、おもしろいおもしろくない、とか、要不要の議論でいうと、昔のは(いまの時点でみれば)あんまおもしろくないし、(いまの時点でみれば)あんまいらないかも、なのだろう。 金になんないしね(嫌味)。

「アート」がコンテンツだったりコンテキストだったりアセットだったりクリエイティブだったりイノベーティブだったり社会貢献だったりするかもしれない今の時代の子供たち、35年前のJohn Lennonの死もおとといのDavid Bowieの死もあんまよくわかんない、そもそも彼らを知らない今の子供たちにとって、ここに並べられたような「アート」の数々はおっそろしくかったるい変てこなポエムとか電波とかに見えてしまうのかもしれない。

べつにアート至上主義云々いうつもりはないけど、会場を流していくと、所謂「ソーシャル」な最近のいろんなのとはまったく別の、寧ろそれとは対極の、ひとりひとりの窓と向かい合うパーソナルな表現だよね、とおもった。 届けられた手紙、手渡されるインストラクション、手渡されるハサミ、手渡されるズタ袋、それらでなにができるだろう、なにが見えるだろう。 というところから自分の窓を。

Bowieに”Breaking Glass” (1978) ていう曲があるのだが、それなの。
(なんでもBowieに繋いでみる)

葉書アートを見て、昨年のGuggenheimでの河原温を思いだした。 NYでふたりの関わりはなかったのかもしれないが、なんか不思議でおもしろいねえ。

彼女のライブで印象深かったのが、911の直後、Beastiesが主催したベネフィット - ”New Yorkers Against Violence” で、ひとりステージに仁王立ちになり、「うぎゃううううーー」とか絶叫して咆哮して、それだけで消える、ていうやつ。 惚れました。
 

1.11.2016

[music] RIP David Bowie

今日は昼間に新宿で”He named me Malala”を見て、それから”Creed”を見て、やっぱし戦わなければいけないんだ、と拳を握りなおして外に出たら、スマホでニュースを知って、もうなんもやる気なくなってしまった。 言葉もない。 なんかもう、ぜんぶどうでもいい。

2014年に出たCompilationでは”Nothing Has Changed”と言っていたし、最新作の”★”は、こんなに気持ちのよいドラムスの音は”Low”以来だからこれからまた始まるのだわ、と強く思わせる内容だった。 逆に今にして思えば、なことばかりだったのがとても悔しくて残念で …

彼の歌は、宇宙でも異界でも冥界でも、別の次元にいなくなってしまった彼、不可視の、遠い遠い砂漠の向こうにいる彼からのメッセージとして届いてきた。彼の音楽はそういう地点からぴゅんと投げられた命綱として我々を生かし、それによって彼もまたどこかの世界で生きているのだと、Bowieの音楽はそういう極めて切迫したパーソナルな共犯関係のなかで、我々の生と愛と孤独と死を雷鳴のように貫いて響き渡るものだった。
BeatlesもStonesもなくなったって一向に構わないが、彼の音楽をこれらと同列で考えることはできない。

The Little Princeと同じように、「ぼくはいなくなるからね」と死と戯れるようにしていなくなってしまった。 「あと5年しかない」と、”Let's turn on with me”と手を伸ばしてくれるひとはもういない。
彼はいま、どこにいるのだろう?   そして我々は … ?


最後に見たライブは2005年9月15日、Central ParkのArcade Fireのアンコールだった。”Queen Bitch”と”Wake Up”をやった。 その前のフルのライブだと、2002年10月12日、BrooklynのSt. Ann's Warehouseのだった(Five boroughs tourのふつか目)。アンコールで”The Bewlay Brothers”をやってくれた。 その前だと97年の1月9日、MSGでの50th Birthday concertになる。 これでももう19年前、共演したLou Reedさんももうとうにいない。

ご冥福をお祈りいたします。
また地球に落ちてきますように。


Don't believe in yourself
Don't deceive with belief
Knowledge comes with death's release
(from “Quicksand”)

[film] Pawn Sacrifice (2014)

順番は前後しますが、9日の土曜日の晩、日比谷で見ました。「完全なるチェックメイト」
“Bourne Supremacy”と韻をふみそうでふまない。

冷戦の頃、国の威信をかけて米ソ - Bobby Fischer (Tobey Maguire)とBoris Spassky (Liev Schreiber) - がアイスランドでチェス対局をしたときのお話し。
大一番の初戦で敗れたあと、周囲から行方をいったん晦ませて部屋の暗がりに籠ったBobby Fischerの姿から遡って、BrooklynのJewishコミュニティの片隅でチェスに目覚めた子供時代から時代時代のBobbyの動きを、神経質な変人の挙動を、チェスの駒の動きを追うかのように(そんなふうに追えるものかどうかも含めて)辿っていく。

あの時代の国家同士のやりとりをチェスのゲームに例えて、みたいな解りやすい見せかたはせず、すべてはBobby Fischerの頭のなかで絶えず呪文のように渦を巻き続ける - そこには常に影の脅威として底から突きあげ、つきまとってくるソ連のSpasskyの姿もある - 駒の交錯や食いあいどつきあいとして世界は、見えて、聞こえてくる。 ここでは過去も現在も、頭のなかで起こるそれらの召還や混濁も、ものすごい情報の奔流として、そのバリエーションとして、ひたすらやかましく脳内を圧迫する目障り耳障りななにかとして現れてくる。

最後の方でBobbyが、すべては思考と記憶の産物で、だから無限にあると思われがちな駒の動きも実はものすごく限定されたものにならざるを得ないのだ、というようなことを言うのだが、ここに勝敗もことの次第も集約されてきて、そんな安易なふうでよいの? と思わないでもないのだが、この映画のBobby Fischerと世界の描き方 - すべてがなんかいびつでぼやけたり滲んだりくすんだりノイズに覆われたりしているそれ - を見るとそういうもんなのかも、と思ってしまう。 冷戦の時代の「正史」なんて誰がどうやって描くことができるのか、という問いに対する答えのサンプルがここに。

Bobbyの頭のなかで絶えず鳴って蠢く音 - 硬くてごつくてリアルなよい音 - のドラマ、として聴くこともできる。 そして世界は当時のポピュラー音楽やラジオの音声を通してちゃらちゃら右から左に流れていくばかり。

同じ耳鳴り自閉系の天才のドラマとして”A Beautiful Mind” (2001)と見比べてみたらどうか、とか。

彼特有の醒めた目の動きをして揺るがないTobey Maguireがすばらしくて、Spassky役のLiev Schreiberも、Bobby Fischerのお付きの神父役のPeter Sarsgaardもゆったり優雅で素敵で、優れた男優たちのドラマでもある。

アイスランドに移住した晩年の彼の写真(本人)が最後に出るのだが、彼はかの地でひつじ飼いなったのだな、ということがわかる。 「ひつじ村の兄弟」を見てからこれを見ると、ぜったい笑うよ。

1.10.2016

[film] Hrútar (2015)

新作の洋画初め。3日の午後、新宿で見ました。
「ひつじ村の兄弟」。 英語題は"Rams”。
本来であれば12月中に - 羊年のクリスマスに見るべき映画であった。そんな盛りあがる内容でもないけど。

恥ずかしいことだが、ずっとアイルランドの羊の話しだと思いこんでいて、アイルランドの羊なら見にいかねばなるまい(なんで?)、て中に入って、始まってからも英語じゃないねえゲール語かしら、とか思ってて、この土地ってひょっとしたらアイスランド? ..  アイスランドだねえ、となったの。
まあとにかく、北のほうででっぷりした酔っ払いみたいな男たちともふもふの毛玉が右往左往する話だよ。

アイスランドのどっかの村(別にひつじ村て名前じゃない)で隣同士で羊飼いをしている兄弟 - Kiddi (兄)とGummi(弟)がいて、外見は髪も髭もまっ白ぼうぼうの牧神赤ら顔であんま見分けつかなくて、兄のほうが少し禿げあがっているくらい、でもなにがあったか知らんが仲はとっても悪くてほぼ40年間口もきかない目も合わせないでいる。 そこで年一回の羊の品評会があって優勝したのがKiddiのとこの羊でGummiのとこのは2位、Gummiは負け続けているらしく悔しそうで、終ってから兄のとこの優勝羊をいじってみたら、なんか様子がおかしかったのでこれはひょっとしたら… て調査してもらったらこれまで発生したことのなかった疫病で村の羊をぜんぶ処分しなければならないことがわかる。

Kiddiは見つけて通報したGummiのとこに怒り狂って怒鳴りこんでくるし、Gummiはこんなことになるとは、て悔やむのだがもう遅くて、自分で銃を取って自分の羊たちを処分して、Kiddiはやけくそで飲んだくれてぼろぼろで、村全体で力を合わせなければいけない時なのに、中心にいる兄弟の亀裂は更に広がってどうしようもなくて、もう羊飼いをやめるわ、ていう家も出てくる。

でもじつはGummiは家の地下で2位だった牡羊と取り巻きの牝羊数頭をこっそり隠して育てていて、
それが当局にばれちゃってやばくなって、兄に助けを求めたら山の向こうで放牧すれば火山もあってあったかいから、と二人でひとつのバイクに跨がり羊を連れて逃亡の旅に出たら、とんでもない嵐がやってくる。

間に羊が挟まっているので暖かかったりふわふわしているかと思った兄弟同士の確執は実はものすごく深く険しくて、牡羊が巻き角をがんがんぶつけあっているのと同じく激しく当たりすぎて互いにへろへろになっている、犬も喰わねえ羊だし、そういうのがアイスランドの原野の点景としてぽつん、とあって、ここはそれしかない国、星みたいなかんじで。

兄弟はわりとなんでか割と簡単にヌードになってしまうのだが、そうするとWilliam Blakeの版画 - “The Ancient of Days”とか - みたいで、すると途端に世界がでっかく神々しくひろがって、なんかよいの。

でもやっぱし羊だよねえ。 アイスランドの固有種らしいけど、角の巻き具合とかそのバランスが素敵で兄弟よか羊のほうに見とれて気になっちゃってさあ。

1.08.2016

[film] The Little Prince (2015)

もうずっと昔々、11月の28日の土曜日の晩、日本橋で見ました。

冒頭で、Wild Bunchのロゴが出てきたので、あ、だいじょうぶかも、よいかも、て思った。

おおもと(≠原作)の「星の王子さま」(内藤濯訳)は小学校の頃からずっと読んでて、大学でも半年間(日本語テキストだけど)中味を勉強するゼミにいた、くらいずっとお気にいりで、「バナナブレッドのプディング」と並んでいまの自分を作った本のひとつで、映画も予告をみたとこで内容はだいたい予測ついて、外れなかった。 (あ、成長した王子が出てくるとは思わなかったけど)

ママ(The Mother - Rachel McAdams)はシングルだけどばりばりのお仕事ウーマンでお受験を控えた小学生の女の子(The Little Girl)が、冒頭で入学面接に失敗して、最後の手段として志望校の通学圏内に引っ越してくる。 引っ越してもお勉強と規則正しい生活は必須でがんばるのだが、隣にへんなじじいが住んでて、余りにやかましいのでなんか覗いてみたら何故か飛行機とか置いてあってなんか楽しそうでだんだん道を踏み外していくの。

老師との出会いを経た少女が大人の世界を渡りながら大切なことを学んでいく。 ていういつもの、ほんとによくあるお話し。
原作は砂漠に不時着して先が見えなった、死を覚悟したパイロットが変な子供と出会う、というお話し。(だから本当は大島弓子の「金髪の草原」みたいになればなー、とちょっと思っていた)

ふたつの矢印の方角はやや異なるが、偉大すぎる原作のコアにあるものは変わらないし断固ぶれてないし、多少の謎かけ、多少の脚色があったくらいで崩れるもんではないの。
生きていくのはしんどいし、恋をするのも大変だし、大人の世界はわけわかんないし、要するにこんな世の中生きててどこがいいわけ ?  うーん、でもね、たぶん、きっとね … みたいなかんじ。
日本の勤勉アニメみたいに「生きろ」とか「がんばれ」とかお願いだから言わないで、と思っていたらそこはなんとかだいじょうぶだったかも。

声優がなかなか素敵で見事で、Marion CotillardのThe Roseとか、Benicio Del ToroのThe Snakeとか、Bud CortのThe Kingとか、そして成長した王子さまがPaul Ruddとか、仏語版のThe FoxがVincent Cassel(英語版はJames Franco) とか、この声優キャストでそのまま実写版を作ってほしいくらいだった。

アニメーションとしては、少女の世界が最近のふつうのアニメ、老飛行士の体験した世界が紙(?)アニメ、そのつなぎに原作本の紙と3層になっていて、そりゃそうなんだけどもうちょっと冒険したりぶっ壊したりしても、とか。 少しだけ。

でも2015年のアニメーションは、"Inside Out”があって、”The Peanuts Movie”があって、これがあって、よい1年だったのではないでしょうか。ね。

1.07.2016

[film] Heaven Knows What (2014)

それにしても、毎日しぬほどねむい。 どこか壊れているのか。

31日の大晦日の午後、新宿で見ました。 今年最後の1本。年が明けてから見るもんでもない、気がしたので。

「神様なんかくそくらえ」

NYの路上(おそらく、Upper Westのほう Needle Park?)でからからに擦りきれて鼻が嘴みたいに尖がった女の子 - Harleyが同じようなぼろぼろの風体の男 - Ilya(Black Metal好き)にびーびー泣きながらごめんよう許してよう、て喚いていて、Ilyaのほうはうるせえ死んじまえ、みたいに怒鳴って、Harleyはわかったよう、って剃刀買ってきてやっちゃうからねマジだからね、とか言ってほんとに手首切って病院運ばれて、でもとっととそこを抜け出して仲間のとこに戻って、食事するみたいに薬もらって薬が切れるとわめいて暴れて喧嘩して、みたいな修羅場がえんえん続いていく。 仲間にしても薬にしても煙にしても、自分がハイになれるかなれないか、その境界、一線を求めて、屋外を雀とか鳩みたいに彷徨っているばかり。 やがて泥棒とかをやって得たお金でどっかに行こう、と北行きの長距離バスに乗って二人旅に出るのだが、Harleyが寝ている間にIlyaだけ降りちゃって、彼は寒いからそこらの廃屋にもぐりこんで寝ているときに火事で丸焼けになっちゃって、彼女は泣きながら元の場所に戻って、結局なにもかも前とおんなじで。

修羅場も喧嘩も注射針もアルコールも煙も、ぜんぶ苦手で見たくない関わりたくないと思いながら片隅でひっそり生きようとしているのでなかなか見ているのはきつかったのだが、なんでそういうことになってしまったのか、とか経緯や背景の話も、親兄弟も学校も職場の話も一切なく、タイトル通り天国もくそもない地点(神様なんてとてもとても)から始まっている、その突き放したかんじはよかったかも。 救いがあるとしたら注射針か、みたいな。 
主人公の実体験に基づく実話、らしいが"Heaven Knows What"て始めからケツまくっているので、「たいへんでしたねえ」とでも言っておけばよいのかどうか。

そういう始まりもなく出口もない底抜け状態を表すのにうにょうにょとうねってくねって止まらない電子音楽は恰好で、74年の冨田勲の「月の光」とAriel Pinkがあっさりすんなり同居している。 たぶん200年前から路上で繰り返されてきた擦り切れた木っ端のような風景と中心のない空洞で鳴り続ける電子音はとっても相性がよいのかも。

あと、タイトルバックとか、John Cassavetesなんかを意識しているのかしら。 果てしなく流れていく、みたいな。

同じ系統の薬まみれでせつない青春映画、というと"The Panic in Needle Park" (1971)が思いだされて、あれもUpper Westが舞台だったけど、青春映画としてはこっちのがよかったかなあ。 "The Godfather" 前のAl Pacinoが出ていて、Film ForumとかでNY映画の特集なんかがあるときには必ずかかる古典。

どうでもいいけど、主人公達がドラッグストアで万引きしてマガジンスタンドに転売する"5Hours"のドリンク(5時間眠くなりません、てやつ)、ぜったい、ぜんぜん効かないんだよね。


Pierre Boulezさんが亡くなりました。
クラシックだと、ポリーニさんに次いでたくさんライブに行ったひと。 2003年の3月、Carnegie HallでEnsemble Intercontemporainが演奏した”Répons”とか”Éclat”はすごかったなあ。 古典とモダンを極めて理路整然に繋いでしまう音楽家であり指揮者でありすばらしい笑顔のおじいちゃんでした。
天国ではどんな音を鳴らしているのでしょう。 ご冥福をお祈りします。

1.06.2016

[film] Sylvia Scarlett (1935)

お正月の2日は毎年そうであるように、映画初めでシネマヴェーラに行くしかない定めになっていて「映画史上の名作14」から2本見ました。
そしてほぼ満席。  TV死ぬほどつまんないし、世界のどこにも居場所ないもんねえ。

(ほんとうは元旦の深夜にTVでやってた”Silver Linings Playbook”を少しみたけど)

Sylvia Scarlett (1935)  「男装」

George CukorにKatharine HepburnにCary Grantなんだから、失敗作と言われていようがなんだろうが見ないわけにはいかない。

冒頭、マルセイユに暮らすSylvia (Katharine Hepburn)は母を亡くして、父が英国に行って母の遺したレースとかを売ってくるというので一緒に連れていって、と頼むのだが女は面倒なことになるからだめだ、と返されたので頭きて長髪をばっさり、Sylvesterていう名前の男の子になって父と一緒に海を渡る。 道中でJimmy (Cary Grant)ていう怪しげな男にひっかかってすっからかんになった父子は、もうひとりメイドのMaudieを加えてキャラバンのどさ回りをしていくの。

その過程で父とMaudieは仲良くなって、Sylviaは画家のMichael(Brian Aherne)にちょっと惹かれたりするのだが、「男の子」なのでどうすることもできなくて、とにかくいろんなことが起こる。

ストーリーの焦点があんまし定まらないのとか、Sylviaが女の子であることを明かすところがあっさりしすぎてて盛りあがらないとか、なかなかしょうもないのだが、ショートヘアのKatharine Hepburnと彼女が女装に変わったとこ(浜辺に脱ぎ捨ててあったのを盗っちゃう)がすんごくキュートでとってもよいし、最後にJimmyが吐き捨てるようにいう”It's a pig's world” て台詞で「んだんだ!」ってすべて救われるかんじがするの。

Scarlet Street (1945)

“Sylvia Scarlett”から”Scarlet Street”へしりとり。 (最後の”t”がちがうけど)

もう何回も見ているのだが見るたびに金縛りになって戦慄するやつ。
銀行の出納係として真面目に働くChris (Edward G. Robinson)は、勤続25年で会社から表彰された晩、道路で小競り合いする男女を見て女性のほうを助けてあげる。 彼女 - Kitty (Joan Bennett)は女優の卵とか(うそです)で話をいろいろ聞いてあげるとなんかかわいそうで、Chrisも自分を貧乏画家だ、みたいに軽く嘘ついて会うようになる。 Kittyの裏には実はJohnnyていうちんぴらがヒモみたいにくっついて金をせびっていて、Chrisにはがみがみやかましい妻がいて、あまり若い女性と接したことがなかったChrisは、そのままずるずる彼女の虜になって言われるままにアパート借りてあげたり、やがては会社のお金を着服するようになって、いろんなのが崩れ始める。

Kittyの部屋に持ち込まれたChrisの絵を金欲しさに露店に出してみたらそれが売れて評価されて画廊が札束もってやってくるのだが、Chrisの絵を無断で売ったとか言えないので、描いたのはKitty、ということになったり、こんなふうにいろんな嘘が重なって塗り固められてその上をChrisは転がり落ちていって、その成り行き、顛末、筋運びの機械のように精巧な進め方が生々しくて、加えて機械故の非情さときたら半端じゃない。 転落とか絶望とか、その描きかたはいろいろあると思うけど、慟哭も涙もほとんどなしで、ここまで人やエモを織りこんでしまうってなんて恐ろしい(Fritz Lang)、としか言いようがないの。

Joan Bennett、ほんとわるそうだしー、Edward G. Robinson、ほんとあわれだしー。


シネマライズが閉館なのかー。 新宿ミラノの時とかはべつにぜんぜんだったけど、ここはなー。
「ホテル・ニューハンプシャー」とか、ほぼゆいいつ、とっても甘酸っぱいなんかと映画館と映画が結びついているのよねー(遠い目)。

1.05.2016

[film] Spectre (2015)

12月5日の夕方、六本木でみました。

もう既にあんま細部は憶えていなくて、感想というより印象レベルのはなしになってしまうかもしれないが、なんか書いてみよう。
多くのひとが気付いていると思うが、アクションとかどんぱちに関してはMission: Impossibleのシリーズとの違いがわからなくなっている。 べつに同じでもおもしろければよいのだが、なんなのかしらね、とか。  イギリスとアメリカじゃよ、とか言われてもそれがどうした、だしね。

悪の組織との因縁・繋がりが、前作、前々作あたりまで遡ること、それらが自組織から不可避的に発生した双子のようなもん("Rogue Nation"もそうね)であること、更にそこにJames Bondの出生とか家族の思い出にまでくっついてくるので、いまの自分のミラーや影のようなかたちで悪は存在する、ずっとそこにいた、ていうのがベースで、だから悪をやっつけることは半分自殺みたいなことでもある、と。
で、実際に前作で生家をぼろぼろに壊され、その場所で母のように慕っていたMを失って、その流れもあってなんか自棄に、不愛想に不機嫌になっている。 

職くらい失っても、自分が死んだって構うもんか、くらいに彼の内部でなにかがぐつぐつ滾って怒っていて、それがなかなかの勢いを生んでいる。 (これに対して、Ethan Huntを動かしているポジティビティのコア、てなに? とあれはあれで謎でおもしろくて -  American?)

という具合にどんぱちは派手だが割りとパーソナルに籠ったトーンでお話しは進んでいって、でもどんだけ暴れても相手は組織だから結局は総力戦にならざるを得ない。 ガジェットだのハッキングだのを駆使しないとそんな悪党には到達できないので、前作で悪党から奪ったUSBを自分とこのネットワークにそのまま繋ぐというシロート以下のど失態(損失影響を考えたら軽くクビよね)を演じたQは、このへん自他共になんか後ろめたいところがあるせいか、いいようにこき使われていて、かわいそうというかおもしろいというか。

でもこの道は最終的には財力のあるほうの勝ちになるよね。 サーバー小屋や暗号の強度って、単純に金かければなんとかなる世界だから、そのうちものすごい富豪の悪漢が出てきたらほんとにImpossibleになる可能性が高い。 そしたらどうするんだろ。 現実にはそうなりつつあるわけだがー。

もこもこ暗いトーンと派手なアクションがだんだら模様を描いていって、どうするのかと思ったら最後は以外なほどあっさりしゃんしゃんと終ってしまう。 Daniel CraigのBondはこれで終りか? とか言われてもしょうがないくらいさらりと。

あと、Monica BellucciにしてもLéa Seydouxにしても、裏がなさすぎてつまんなかった。
一方は夫を、一方は父親を殺されてる(自殺だけど)のになんであんなに素直でいられるの? ボンドガールはそういうもんだから?  って、ここんとこだけ手を抜いてない?(→ Sam Mendes)
二人ともそこらの男をしおしおのからからに絞りとれる実力たっぷりなのに。
Monica Bellucciにねっちり絡まれて骨抜きにされるBen Whishaw、とか見たかったなー。

あと、ヘリコプター禁止だよね。何台ぶっ壊せば気が済むのか。 あんなの、ドローンの数百倍危険じゃん。

[film] Fehér isten (2014)

結構むかし、12月5日、土曜日の昼、渋谷で見ました。
「ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲」。 英語題は”White God”

13歳の女の子リリはママが長期間どっかに行ってしまうので、あまり仲のよくないパパ(離婚済、独り、食肉工場勤務)のところに預けられる。 彼女の友達は犬のハーゲンだけなのだが、パパは犬のことをよく思っていなくて、近所のひとに雑種犬は税金がかかると通報されたりしたので、ハーゲンを車で運んでいって捨ててしまう。

リリは張り紙して町を歩いて走って懸命にハーゲンを探すのだが見つからなくて、ハーゲンは当局の雑種駆除隊の網から逃げまくっているうちにホームレスに拾われて、ホームレスから更に闘犬ブローカーに売られてしまうの。 闘犬屋はハーゲンの牙を磨いて薬をうってビルドアップして闘犬に仕立て、ハーゲンは強くて凶暴な犬になってしまう(見ていてきついよう)のだが、やがてそこを逃げだして犬のシェルターを襲って雑種たちを解放し、人間たちに復讐を始めるの。 町はパニック大騒ぎになるのだが、リリはそれでもハーゲンがいるはず! って町中に出ていって。

トランペットを背負った自転車の女の子と犬、ていうだけでなんか絵になるな素敵だなー、ていうその詩情に期待していったのだが映画は途中から「猿の惑星」みたいに恨みで膨れあがった獣の群れが人を襲う系のおっかないのに変貌して、猿の惑星は特殊メイクだったけど、こっちはリアルな二百数十匹のわんわんで、犬に追っかけられるのがこわいという人はやめたほうがいいかも。

誰もいなくなった町中をひとり自転車で走るリリの背後からわんわんがざーっと集まって追走していくところはなんかよいの。 出演した犬たちはみんなシェルターから集められたらしいが、よく訓練したもんだねえ、とか。

昨年アンスティチュでみた「少年たち」(1999) も義父と仲悪い女の子が相棒のブル犬(キム)を勝手に闘犬に売られて激怒するお話しだったけど、ああいう闘犬の闇マーケットってヨーロッパにあるんだろうなー。 なんかかなしいなー。

あと、言うまでもなくこの映画で捨てられて寄せられる雑種犬たちははっきりと今のヨーロッパにおける難民の喩えでもある。 「機嫌の悪い父」「通報する隣人」「捕獲網をもった当局」そして「闇のマーケット」などなど。 でも彼らは雑種でも犬でもないから、ていうところもわかって敢えて出している。  さて、そうすると“White God”ていうのは?

そしてこの国はなんもしないで高見の見物しながら「うちの国は世界一」て自画自賛しているばかりで世界一みっともない。

あと、女の子と犬の風景、に対置されるのは、おじさんと猫、なんだろうなー、とか思った。


さて、ぜんぜん関係ない話ですが、年明けのNYを襲った衝撃のニュースといえば、80年代からNYの地下鉄広告を飾ってきた美容整形外科のDr.Zizmorが引退する、というやつである。 そもそもめちゃくちゃ胡散臭い広告だったので、引退と聞いても本当に引退なのか? そもそも開業していたのか? とか新たな疑惑が浮かんできてしまうのだが、あの広告がなくなってしまうのはかなしいよう。
こっちで例えるなら、東横線の車両から亀屋万年堂の広告が消えてしまうようなかんじ、だろうか。(ちがうか ...)
 

1.03.2016

[film] La princesa de Francia (2014)

ちょっと昔になるけど、12月11日 - 12日のアテネ・フランセ文化センターでの特集「マティアス・ピニェイロ映画祭2015」でみました。 
マティアス・ピニェイロのことはぜんぜん知らなくて、11日の金曜日の晩、時間があいたのでなんか見たいかも、と思ったところに”Rosalinda”をやっていたので立ち寄って見たらおもしろくて、上映後にSkypeで登場した監督もよいかんじだったので翌日も続けて行った。

12日の土曜日はアンスティチュでサミュエル・フラーのリベンジ大会があって、前売りでふたつ買っていたのだが「ベートーヴェン通り..」を見たあとの「フラーライフ」は止めてこっちに移動したのだった。

Rosalinda (2010) - 43分

シェイクスピアの「お気に召すまま」の翻案。
バケーションなのか夏休みなのか、船遊びをしたり泳いだりする水面と光、きらきらした自然のなか、リハーサルで繰り返される「お気に召すまま」。 男装したロザリンドの恋物語とリハーサルでの役柄の境界が反転していくような。

Viola (2012) - 63分

シェイクスピアの「十二夜」の翻案で、これも主人公(ヴァイオラ)が男装するお話。
ヴァイオラは自分たちで立ち上げた宅配ビジネスでブエノスアイレスの街を自転車で走り回っていて、リハーサルに取り組む劇団の人たちは別にいて、この素性を暴いたり確かめたりする(芝居をする)人たちとの出会いがヴァイオラをなにかどこかに導く。

La princesa de Francia (2014)  - 67分

「フランスの王女」 - “Rosalinda”のときに見た予告が素敵だった。
シェイクスピアの「恋の骨折り損」の翻案で、元のは恋なんてしないと誓った4人の男が「フランスの王女」の登場によりがたがたになる話だったが、ここでの「フランスの王女」はメキシコからブエノスアイレスに戻ってきたビクトルていう男(ここでも転倒が)で、ビクトルと過去いろいろあったらしい女たちのリハーサルは過去との決着だのなんだのでがたがたになっていく。

あと、ブーグロー(William Adolphe Bouguereau, 1825 - 1905)の乙女絵のたくさんの引用。
と、サッカー場とかキスいっぱいとか。

3作共、なぜシェイクスピアの喜劇なのか、なんでリハーサル風景で、それが近くで遠くで反復されるのか、とかいろいろ考えるところはあって、でも基本は恋せよ(そして傷つけ)乙女、ということではないか。
いや、どちらかというと、彼女たちの瑞々しい(そして短い - せいぜい1時間程度の)恋を切りとるための基本設定なのではないか、と思ったり。
3作共、出てくる女優さん達はだいたい共通していて、みなさんそれぞれにすばらしいったら。

スタイリッシュ過ぎ、ペダンチックでちょっとねー、ていうひとと、いろいろ詰まっていて(詰めこもうとしていて)おもしろいー、ていうひとに分かれるかもしれない。もちろんそれでいいんだけど。

上映後、監督とのSkypeの通話があって、Fort Greene Parkが映ったのできゅんとした。
あの辺で撮影しているのだろうか。 たのしみー。


お正月おわっちゃうよう。 会社行きたくないようー(結局そこね)。

[film] They Drive by Night (1940)

26日の午後、シネマヴェーラ(祝10周年!)の特集「映画史上の名作14」から1本みました。
もうこの特集なしの年末年始なんてありえない体になっている。

「夜までドライブ」。 ちなみに”They Live by Night” (1948)は「夜の人々」ね。

Raoul WalshとGeorge Raftの組み合わせが素敵で大好きで、“The Bowery” (1933) とか”Manpower” (1941) とか、多くのひとにとってはいやいやそれはJames Cagneyじゃないの?  かもしれないが、George Raftの丸太みたいなぶっとさとそこから繰りだされるパンチの破壊力がたまんないのよ。 
Humphrey Bogart ?  うーんここではあんまし。

Joe(George Raft)とPaul (Humphrey Bogart)のFabrini兄弟は長距離トラックの運転手で、大陸をかわりばんこに運転して、仕事はきついし借金もまだいっぱいあるけど、将来自分たちでトラックを持って独立することを夢見ている。

もうじき子供が生まれるPaulは事故で片腕を失ってしまい、車も大破しちゃったので、Joeは昔世話になったEdの会社で少し現場を離れて働くことにして、真面目で人望も厚いJoeは重宝されて出世していくのだが、おもしろくないのが昔JoeにふられたらしいEdの妻Lana (Ida Lupino)で、Joeにはつきあいはじめた大人の女性Cassie (Ann Sheridan)がいるのにお構いなしにぐいぐい割り込んできて、やがてとんでもないことをしでかすの。

こうして前半の任侠トラックものから後半は犯罪ノワール - 悪女ものに変わってしまうのだが俳優さんの柱々がどっしりと揺るがないのでドラマとしてまったく無理なく、拳を握って負けるなJoe! になって最後まで一気に走ってしまう。 おもしろいったら。

George Raftのすばらしさにはため息つくしかないのだが、Lana役のIda Lupinoがおっかなすぎてついたばかりのため息をそのまま飲みこんでしまう。 だれか彼女の出演作と監督作をまとめて特集してほしい。(すこし前にMOMAがやっていたよね)

1.02.2016

[film] Two Night Stand (2014)

29日の午後、新宿でみました。 「きみといた2日間」。

Megan (Analeigh Tipton)は友人と同居しているのだが、失職中でお金ないし彼とも別れたばかりでなんもやる気でなくてごろごろしてばかり、友人からはそろそろ出ていってほしいんだけど、とか言われている。 パーティに出かけてもIDで引っ掛かったり元カレとぶつかったり散々で、こういうときにはネットで誰か見つけていっぱつやって憂さ晴らしすることよ、て言われたので、そういうもんか、と登録してチャットを始める。

そうやって引っかかったのがAlec (Miles Teller)で、Skypeでいちおう風貌を確認した上でBrooklynの彼のアパートまで行って遊んで朝起きて帰ろうとすると豪雪でドアが開かない。しょうがないので彼のとこに戻ってご飯食べたりTV見たりするのだがそうやって会話していくと相手の嫌なとこもいっぱい見えてきて(それはAlecにとってもおなじく)、あーとっとと離れたい帰りたい、になるのだがそう簡単にはいかない。

トイレで手にとった男性雑誌に自分のことかみたいな記事があったので嫌になってちぎって丸めて流したらトイレが詰まって一面水浸しになってPlunger(ぱこぱこやる棒)プリーズ!  になるのだが人に貸してるとか言われて、しょうがないので屋根伝いに留守になっている隣人宅に押し入ったり、そういう小競り合いを繰り返しているうちにだんだん仲良くなっていって、どうせすぐ別れるんだしお互いの嫌なとこをちゃんと伝えあって、お互いに気持ちのよいセックスをしませう、ていってやってみたらなんかとってもよかったのでひょっとしたらこれって ... になるのだがそう簡単にはいかない。

同じ設定で、部屋にいってみたら始めはフレンドリーだった相手が実は超変態で囚われになって、ひーひー逃げ出して隣家にいったらそこもグルで輪をかけた極悪変態で最悪で死にそうになる、ていうサイコサスペンスなら簡単に思いつきそうなもんだが、それをぎりぎりのところでひっくり返るラブコメ風味に仕立てたところがよかったのと、Miles TellerもAnaleigh Tiptonもどこにでもいそうな一見よいこ、でも裏ではモヤモヤたっぷり - まあそれが案外ふつうなんだよ - をとてもうまく表情に出せるふたりであることがあたりだったと。

“Crazy, Stupid, Love. “(2011) で、Steve Carellに惚れて追っかけまわし、他方で彼の息子の小学生に好かれてしまうという微妙に健気でかわいそうな彼女を素敵と思ったひとは見て損はないかも。

でも、Storm Warningをこまめにちゃんと見ておくことと、トイレの水周りに注意しておくことはNY生活の基本だよ。

[film] In No Great Hurry: 13 Lessons in Life with Saul Leiter (2014)

どうやって書いていったらよいものか、考えるのも面倒なので最近見たやつから書いていくことにする。
まだ憶えていて書きやすいし。

12月29日の午前中、渋谷で見ました。
「写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと」

同じ映画館では、丁度いま、もうひとつ写真家のドキュメンタリー「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」をやっていて、こちらも見たいなー、とは思うものの、ヴィヴィアン・マイヤーさんはこんな形で探されたくなかったんじゃないかしら、というのが引っ掛かってあまり乗れないの。
そこいくと、冒頭で被写体であるSaul Leiter本人が「映画にする価値なんてあるもんか」とカメラに向かって毒づくこっちのほうが、まだおもしろいのではないか、と。

2006年にSteidlから出た”Early Color”の衝撃 - そのかっこよさは十分わかるのだが、2014年(もう一昨年か..)- おそらくこの映画の発掘・整理の成果が反映されたと思われる2冊組 - ”Early Black and White”がものすごくよくて、あれに出会わなかったらこの映画を見たいとおもうこともなかったかも。 映画のなかで、W. Eugene Smithとの接点が確認できたのはよかったし。

Saul LeiterさんがEast Village (9thか10th st?)の仕事場でお片づけ(いろんな箱からいろんなものを引っぱり出して並べたり)をしながらいろんなことを語ったり、近所を散策して写真を撮ったりしながらいろんなことを語ったりする。 それだけ。
タイトルにある”13 Lessons”はそんな大上段なものではなくて編集段階でつけたようなかんじもする。 肝心なことは”In No Great Hurry” - そんなに急がないことじゃよ、ていう仙人の言葉のほう。

そして「人生で大切なのは何を得るかではなく何を捨てるかだ」ていうメッセージも、お片づけの文脈で見ると「あぁん?」であるがその後にはこう続くのである。

I've enjoyed having books.
I've enjoyed looking at paintings.
I've enjoyed having someone in my life
that I care about who cares about me.
I attached more importance to that
than I did to the idea of success.

いいよねー。

あと、仕事場にいる灰白猫(名前はLemon)がすばらしい猫映画でもある。 Saul Leiterって猫のひとだよね、と思ったとおりに、そこに転がっている猫。

彼の暮らしていた界隈に関するレポートはここに。
http://aperture.org/blog/saul-leiter-east-village/

1.01.2016

[log] Best before 2015

新年あけましておめでとうございます。

2015年最後に見た映画は、新宿での”Heaven Knows What” - 「神様なんかくそくらえ」でした。
2016年最初に聴いた音楽は、もちろんアナログで、Mission of Burmaの"Signals, Calls, and Marches”から"That's When I Reach for My Revolver" を聴いて、そこからJawboxにいって、Fugaziにいったら止まらなくなりそうだったので、The Replacementsにいった。
こんなかんじになりそうな一年である、と。

2015年最後に買った本は紀伊国屋で、たまったポイントでセザンヌの評伝とシネ砦を買った。
元旦はお片づけしながら、お片づけで発掘されたあんなのこんなのを落ち着きなく拾い読みしていた。

というわけで2015年のベストあれこれ。

[film]

新作の20本;(順番は見た順。下のほうが古い)

■Happy Hour
■Trois souvenirs de ma jeunesse : nos arcadies 「あの頃エッフェル塔の下で」
■Mustang
■La princesa de Francia (2014)  「フランスの王女」
■Brooklyn
■Heart of a Dog
■螺旋銀河 (2014)
■聶影娘  「黒衣の刺客」
■Aloha
■Spy
■Mistress America
■Trainwreck
■Dressing Up (2012)
■Clouds of Sils Maria (2014) 
■Eden (2014)
■Love At First Fight (2014)
■While We're Young (2014)
■Mes séances de lutte (2013) 「ラブバトル」
■Girlhood (2014)
■National Gallery (2014)

上の20本からはもれたけど、すばらしかった10本。

■Ricki and the Flash
■Bird People (2014)
■La Patota 「パウリーナ」
■Straight Outta Compton
■Sleeping with Other People
■Suzanne (2013)
■Deux jours, une nuit (2014) 「サンドラの週末」
■Mercuriales (2014)
■The Disappearance of Eleanor Rigby: Her / Him (2013)
■Jimmy P. Psychotherapy of a Plains Indian (2013) 「ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して」

フランスの国は悲惨なことが沢山起こって大変だったことでしょうが、映画のほうは充実していた。 アサイヤスとデプレシャンとミア・ハンセン=ラヴの新作を見ることができた幸せ。
アメリカのは、そもそも肝心な作品たちが殆ど公開されないのだからお話しにならないの。(ネット配信に移行するからいいとか言うひともいるようだが、ネット配信ていうのはビジネスモデルの話だからね、文化の話じゃないんだよ)
日本のは、「Dressing Up」と「螺旋銀河 」と「ハッピーアワー」と出会えたのでそれだけでよかった。 これら+数本を除いてシネコンでかかるような「日本映画」はぜんぶ映画ではない別の業態のなんかとして地の果てに蹴飛ばして臭いものにフタしてしまいたい。

旧作10本。

■戯夢人生 (1993)
■Yoyo (1965)
■Les Tontons flingueurs (1963) 『ハジキを持ったおじさんたち』
■Summer Trip to the Sea (1978)  『海に出た夏の旅』
■La belle personne (2008)  「美しいひと」
■Petits frères (1999) 「少年たち」
■ハナコサン (1943)
■恐怖份子 (1986)
■La chute de la maison Usher (1928) 「アッシャー家の末裔」
■The Iron Horse (1924) 

[art]

■Jacqueline de Ribes : The Art of Style    @Metropolitan Museum of Art
■Jim Shaw: The End is Here    @New Museum
■Berlin Metropolis: 1918-1933    @Neue Galerie
■Wolfgang Tillmans - Your Body is Yours    @国立国際美術館
■Cy Twombly - Fifty Years of Works on Paper    @原美術館
■長新太の脳内地図    @ちひろ美術館
■GUERCINO 「グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家」    @国立西洋美術館
■Monet and the Birth of Impressionism    @Städel Museum
■On Kawara - Silence    @Guggenheim Museum
■Madame Cézanne    @Metropolitan Museum of Art


[music]

ライブはやっぱしぜんぜん行けなかったよう。

■Shellac     - Nov.25  @Unit
■Melvins     - Nov.22  @Studio Coast
■Erykah Badu     - Aug.30  @Hollywood Bowl
■The Jesus and Mary Chain : 30th Anniversary of Psychocandy    - May 5  @Riviera Theater
■Sharon Van Etten     - Feb.23   @Billboard
■Faith No More / Le Butcherettes     - Feb.18   @Studio Coast
■Benjamin Booker     - Feb.13   @duo

今年はNINとPJ Harveyが再起動して、LCD Soundsystemも復活する。
ライブお休みはこれらを目がけて画策していくことになろう。

録音もの。新しいやつは、あんまないかも。

■Courtney Barnett  “Sometimes I Sit And Think, And Sometimes I Just Sit”
■Sleater-Kinney  “No Cities to Love”
■Sufjan Stevens “Carrie & Lowell”
■Sharon Van Etten  “I Don't Want to Let You Down” - EP
■Beirut  “No No No”
■Low  “Ones and Sixes”

あと、Kendrick Lamar、おもしろい。

Reissueもの。

いろんな箱とかが一杯出過ぎで、とにかくスペースないんだから控えめになった。
なんかあれよね、雰囲気としてあとあとの投資狙いみたいのも出てきていてやなかんじかも。

Ork Recordingsのふたつは取り寄せたのだが送料だけで8000円以上、かつてない厳重梱包でやってきたのだが、その価値はじゅうぶんあった。 でも自分の持っていたいくつかの7inchとミックスが明らかに違うのがあってなんじゃろう?  になっている。 べつにいいけど。

■Ork Records :  NEW YORK, NEW YORK
■Ork Records :  COMPLETE SINGLES
■Jawbox   “My Scrapbook Of Fatal Accidents”


[book]

お片づけをしながら(山をあっちにこっちに移動したりしながら)なにを読んだかしら、とか思いめぐらせていたのだが、食い散らかしてばかりだったらしく、あまり残ったものがないようだった。
ホセ・ドノソ「別荘」、「トリュフォー最後のインタビュー」、リディア・デイヴィス「サミュエル・ジョンソンが怒っている」、ハーマン・G・ワインバーグ「ルビッチ・タッチ」くらい。

落ち着いてぜんぜん読む時間が取れなかったので、今年はちゃんと読みたい。

お片づけはがんばった。 がんばったけど限界もありすぎた。
映画「ハッピーアワー」に斜めにした椅子の重心を探って椅子でも瓦礫でもなんでも立てちゃう変なひとが出てくるのだが、その真似でどんなに不揃いな本の塊でも崩さずに積みあげてみせる、ていう作業に途中から夢中になって、でもそんなのちゃんとやれば普通にできるじゃん、と気がついてから醒めちゃったので失敗だったかも。 ← 成功とか失敗とかいってる時点でお前は負けだ ← お片づけは勝ち負けじゃない ← いや、片付けだから勝たなきゃいけないんじゃないか (以降、えんえんやる)
(結果はInstagramで見てね)

(以下は昨年のコピペ)
今年もたくさんのよいものに出会うことができますようにー。
出会うことができるくらいの時間が取れますように。

あと、現政権を倒すこと。 ぜったい許さないから。