2.29.2024

[art] Yoko Ono: Music of the Mind

2月18日、日曜日の午前、Tate Modernで見ました。91歳になられたYoko Onoの回顧展。ずっと楽しみにしていたので、これからも通うように見ていきたい。1950年代から最近までの、200点に渡る「作品」がぶちまけられたように並べられている。

作品を鑑賞する、というよりは、個々のピースに接して心がたてるいろんな音(自分のもある、隣の人のもある)を音楽のようにして聴いていく – “Music of Mind”ってそういうものなのではないか。今なら代理店が「観客参加型」と呼んだり、今ならYouTuberみたいな連中が得意になって威張り散らして「拡散」しきたがるようなことに、Onoは70年以上前からたったひとりで取り組んできた。

最初は詩のような言葉の断片で、その欠片が、楽譜のインストラクションが届いた先で立てる、こちらに返ってくる小さな音の連なりが音楽になること、その音楽が空間を作ること、その空間にひとが集まること、ひとが集まると…  こんなふうに全てが繋がっているとは思わないし、シンプルでわかりやすいことが生むであろう誤解や非難中傷も来るだろうし、そこには当然の苦難や苦闘もあったのだと思う、でもそういうのを含めようが外そうが、モノクロ - 全体にカラーではなくてモノクロ - 写真の彼女は笑顔ではなくて、つーんとしていてどこまでもかっこよいし、なんて素敵な声だろう、っていつも思う。

わたしはJohn Lennonの功績って彼女を表に引っぱり出したことくらいだと思うし、”Imagine”の本当の作者(なんてばからしいけど)はYoko Onoだと思っている。まじで。この展示でも一緒にやっているレコードとかBed-inのは出てくるものの、John Lennonはたまたま映りこんでいる、程度の扱いで、それは圧倒的に正しくて、それでもこれだけの内容になる。

展示のなかにあった自分の影の輪郭をチョークでなぞったり、板に釘を打ちつけるやつは自分でもやってみる、そういうのがいっぱいあって、もちろんそんなので何がどうなるわけでもない。ゴミが増えるだけじゃん、なのだが、でもこれって普段の会社のデスクワークとどう違うのか、説明できる自信はあんまないとか、こういう粒のような問いのひとつひとつが、つまるところアートには何が可能か? に繋がっているのだって、思っているとその最後に”The Personal is Political”というボードにぶつかる。こうして(こうしなくたって、もちろん)、例えば”Give Peace A Chance”って言うことができるのだって。

彼女のライブ作品は90年代のNYで、そういう(って?)現代音楽ばかりを演奏していたS.E.M. Ensembleというののライブで何度か聴いた。スリリングでかっこよくてさー。

9月までやっているので何度でも通いたい。それまでにロンドンに来る方はぜひ。
あと、カタログはコンパクトなサイズで、ものすごく充実しているので必携。


Sargent and Fashion

2月25日、日曜日の午前、Tate Britainで見ました。

みんな大好き - 英国人はほんとうに好きみたい - John Singer Sargentの肖像画ってなんであんなにかっこよいのか – かっこよく見えるのか、をファッションの観点を入れて探ってみる。いくつかの絵の横には肖像画のモデルが来ていたのに近い服やアクセサリーも展示されているのだが、その現物よりも、それを纏った肖像画のほうが断然かっこよくなってしまう。光の当て方、ドレープや裾のまくり方、もちろん肩や腕や指のつくるポーズそのもの – いまのファッション写真家がモデルに対して細かく注文つけたり補正したりしているところを、この人はひとりでちゃちゃっと – そうみえる - 最高のフォルムとイメージを作りあげてしまう。写実的であるのとはあまり関係なさそうなとこで、ファッションをどう使ってなにをどう見せるか、の肝になりそうなところを - どこまで探求していたのかわかんないけど、あっさりこんなもんでしょ、みたいに示してしまうところがかっこいいー、としか。

Tate Britainの誰もが知っている名品のひとつ”Carnation, Lily, Lily, Rose”はもちろん、“Madame X”がMETから来てるし、”A Lady in White”はあるし、Vernon Leeの肖像はあるし、ボストンからワシントンからスコットランドから、世界中から来ていて、どいつもこいつもとにかくきれいだなー、しかない。

Sargentは2017年にDulwich Picture Galleryで”Sargent: The Watercolours”ていう展示を見てて、この時もすごいなー、って思ったことを思いだしたりした。

あと、“Women in Revolt !  Art and Activism in the UK 1970-1990”の展示ももう一回見る。ものすごく人が入っていてびっくりした。上階の常設展示の一角にステージが組まれていて、この展示絡みで、午後にGina Birchさんがパフォーマンスするって小さく書いてあった。えー当日に言われてもなー(午後は映画入れちゃってたし) だったの。

2.28.2024

[theatre] Dear Octopus

BFI Southbankの川を背にしたすぐ左手にはNational Theatre (National Theatre Liveの本拠)の建物があって、これまであまり足を踏みいれたことがない地帯/領域だったのだが、今回の滞在ではそこも突っこんでいこう/いっちゃえ、と思っていて、そこに先月終わりくらいから”Dear Octopus”の看板が立つようになり、”親愛なるタコ” … なんだろう? って気になり始めた頃に、これの映画版の上映があることを知り、まずはそれを見てみようか、ってなった。

原作の戯曲はDodie Smith(1896-1990)で、この人が書いたので有名なのはなんと言っても”The Hundred and One Dalmatians” (1956) - 『ダルメシアン 100と1ぴきの犬の物語』- アニメにも実写にもなっているあれで、彼女自身が若い頃役者もやっていたので劇作については詳しい – と映画版の上映前に紹介されていた。

Dear Octopus (1943)

2月20日、火曜日の晩にBFI Southbankで見ました。

イントロで今回のNational Theatreでの上演版の演出・監督をしているEmily Burnsさんが(主に)Dodie Smithの紹介をした – それがおもしろそうだったので数日後に舞台版の方も見ることにした。

上映はもちろんフィルム - デジタル化されていない - で、ここで上映されるのは1996年以来のことだという。日本では上映も原作の翻訳もされていない模様。 映画版の監督はHarold French。”The Randolph Family”のタイトルでも上映されたそう。

なんの予備情報も入れないで見たので、まずついていくのが大変だった。
イギリスの片田舎の代々続く館(大きくない)に暮らすCharlesとDoraの Randolph夫婦のGolden Wedding – 金婚式を祝うべく、子供も含めて4世代に渡る家族が続々と集まってくる – というアンサンブル・コメディ/家族ドラマで、Nicholas (Michael Wilding)とPenny (Margaret Lockwood)の少女漫画みたいな恋物語が軸となっていることはわかるものの、モノクロでいろんな人物が次々に登場してみんなそれぞれの立場と過去のいろんなのをテンポよく喋りまくり口論したりしているので誰が誰、の関係などを追っかけていくのがなかなかしんどい。けど第二次大戦下に、こういう家族のお話しが必要とされて受けた、というのはとてもよくわかった。


Dear Octopus (2024)


2月24日、土曜日の晩、National TheatreのLyttelton Theatreで見ました。一回の休憩込みで2時間50分。

原作が劇作だから、というのは理由になるのかならないのか、映画版と比べるとこちらの方がものすごくわかりやすくて、あっさり感動してしまうのだった。モノクロではなくてカラーというのもあるのだろう、人の顔と衣装ですぐにこの人ってわかる、のは大きいのね。 セットは家のダイニングとドローイングルーム(客間)と子供部屋がぐるーっと回転して、そして人が出入りする玄関。客間では現在やこれまでのことも含めて、それぞれがいろんなことを語り合い、子供部屋では昔ここでこんなことをしたよね、というやりとりが現在の子供たちも交えて話し合われたり、あちこちで小さな喧嘩に失望、驚きや歓びが湧きあがって止まらない。

あの人いくつになったの? 普段なにしてるひと? いまひとりなの? などのひそひそ話、亡くなった家族を悼んだり、母は娘が疲れて落ちこんでいることを一瞬で見抜いてしまったり、久々に集まったので距離感がわからずにずけずけ言ってしまってから気まずくなったり、誰もが簡単に思い当る枕投げのようなあれこれ - 家族ってしみじみ変で怖い集団だと思う。

お話しはずっと一家の秘書をしているFenny (Bessie Carter) - 映画版での役名は”Penny”だった – とDoraとCharlesの息子Nicholas (Billy Howle)の、家族の誰もが見抜いて知っていた恋の上がったり下がったりをわかりやすく追っていって、たまんない。

でもそこがメインではなくて、クライマックスは、Nicholasが晩餐の最後に家族みんなに向かってやるGrand Toastのスピーチなの。 「家族へ - その親愛なるタコの触手から、私たちは決して逃れることはできないし、心の底では決して逃れたいなんて思っていないよ」 って。 これが”Dear Octopus”の正体なのだった。日本の家父長制だと樹木みたいに根を張って威張りたがるけど、生身のタコなのかー。ぬるぬる気持ち悪かったりするけど、生でも炭で焼いても、酢で〆てもおいしいやつ。だけどおっそろしいどろどろのホラーにもなりうるの。

Nicholas役、1938年の初演時は、John Gielgudが演じたのだって。Grand Toast、見事だっただろうなー。

 

2.26.2024

[film] Getting It Back: The Story of Cymande (2022)

2月23日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
金曜の晩の2本目だったのだが、まあ金曜の晩であるし、とにかく内容がおもしろくてためになる音楽ドキュメンタリーだった。最近のだと”Rudeboy: The Story of Trojan Records” (2018) あたりに近いかも。 Tracey Thornさんも褒めていた。

Cymande – カリプソ語で「鳩」だそう – という英国のジャズ(かな? くらい)・ファンクバンドが70年代にあって、このバンドの辿ったちょっと変わった道のりと今世紀に入ってからの奇跡の復活劇を追う。このバンドを知っている人も知らない人も、英国のブラックミュージック(史)に興味がある人なら必見。

自分が知ったのは90年代、たしかJohn SchroederのアンソロジーのCDで、でもバンド名までは憶えていなくて、映画で流れている音を聴いて、あー、って。

冒頭に出てくるのがMy Morning JacketのJim Jamesさんで、Fugeesが登場して彼らを初めて聴いた時の衝撃 - ここはわかる - とそこでサンプリングされていたCymandeの”Dove”がもたらした奇妙な感覚について語る。

そこから現在のバンドメンバーが振り返る過去 - カリブ海諸国から寒い英国に移民として渡ってきて、差別と貧困と寒さに耐えながら近所の若者たちでバンドを結成して1971年、John Schroederなどの下でレコーディングして、でも火がついたのは何故かアメリカで、向こうのシングルチャートに入ってAl Greenのツアーの前座をやったりアポロでのヘッドライン公演まで実現したのだが、英国に戻った途端に無風状態となってそのまま解散してしまう。

でもアメリカでは、サンプリングが巻き起こしたヒップホップの革命期にDe La Soulが、Jurassic 5とかOzomatliとか(なつかしー)のライブバンドがCymandeの音を使うようになり、サンプリングの音源お宝探しにおける「秘宝」のようなものとして「発見」されていくことになる。後半はそうやって中古レコード屋の雑多な餌箱からCymandeを掘りあてた衝撃と興奮についてMC SolaarとかCut ChemistとかJazzie BとかLouie Vegaとか、最近めのだとMark RonsonとかKhruangbinとかが得意げに語っていく – Cyamandeの音というより、そういうのを掘りだしたオレえらい、が半分くらいか。

そういう地味な盛りあがりを受けて、2006年にオリジナルメンバーでの一回限りのライブがあり、10年代には更なる活動開始があって。

当初から強いメッセージやバンドカラーを打ち出していた、というよりは幼馴染の身内同士で好きな音楽をずっと探求していったらその音が当たって、DJやミュージシャンたちからリスペクトされて支持されて、再結成ライブではみんなが踊ってくれて、長い目でみれば幸せなバンドなのかも。そしてもちろん、そうあってくれてよいし、彼らはこの映画のも含めて失われた時間を取り戻せてよかった、って。

彼らのあのベースリフ – 聴けばわかる – をDJが何度も何度も右左にリピートして、客も止まらなくなって幸せに狂って中毒になっていくかんじがたまんなくよくわかり、ライブでこれをやられたら絶対抜けられなくなるなー、クラブは随分行ってないけどライブ行きたいなー、ってなる。

Steve McQueenの“Lovers Rock” (2020)にはそうなっていく瞬間の夜の魔法が細やかに鮮やかに描かれていたが、70年代後半のロンドンで、どうしてレゲエは苛烈な闘争を経て生き残る - という言い方は正しいのか? - ことができて、こっちのは萎んでしまったのか – それが90年代初に突然息を吹き返したりしたのか等 – なんとなくの感覚でわかるところとわかんない穴がいろいろあったりして、包括的に書かれたなにかがあったら読みたい。(00年代以降はまったくわかんないまま..)

日本だと、Peter Barakanさんがぜったいに拾ってくれるはず (もう紹介されてる?)。

[film] Craig's Wife (1936)

2月16日、金曜日の晩、”Madame Web”の後にBFI SouthbankのDorothy Arzner特集で見ました。

原作はピュリッツァー賞を受賞したGeorge Kelly(Grace Kellyの伯父さん)による同名戯曲(1925)、1928年のIrene Rich主演による同名サイレント映画も同じ原作(未見)。1950年にはJoan Crawford主演で”Harriet Craig”としてリメイクされている(これは見た。こっちのもすごい)。みんなそんなに悪妻ものが好きなのか。

夫よりも他の家族親族よりも家のなかの壺とかチリひとつない整理整頓を大切にしているHarriet Craig (Rosalind Russell)がそういうのをまず第一に考えて女中から親戚から夫からみんなに居丈高に指示命令していくので、あきれられて次々と出ていかれて最後に家のなかひとりぼっちになってしまうまでの24時間。

そこまで極端な人なんていないし急にそんなふうになるわけでもないし、とは思うものの、芝居として何が彼女を独りにして何が周囲から彼女を遠ざけようとしたのかがなんとなくわかる(君は僕と結婚したんじゃない、この家と結婚したんだ、等)ようになっていて、その説得力がもたらす緊張感 - どっちも引かない - ときたらすごい。いまのミソジニーとはあまり関係ないと思うのだが、でもこうやって撒かれていった典型的な「嫌な女」のイメージが層として重ねられていった感はあるかも。

最後にアップになる彼女の顔のものすごさ - 怒りと悲しみと諦めとぜんぶが。


Working Girls (1931)

2月17日、土曜日の晩に見ました。
邦題は『めくらの鼠』?と思ったら、元になった戯曲のタイトルが”Blind Mice”だったのね。

Vera CasparyとWinifred Lenihanが書いた劇作 - ブロードウェイの初演時は全員女性キャストでひと部屋で展開したストーリーだったそう - これをZoë Akinsが脚色している。pre-Codeどまんなかかも。

インディアナの田舎からNYに出てきた姉妹 - 姉のMae (Dorothy Hall)と妹のJune (Judith Wood)がいて、お金もないし仕事を見つけなきゃ、ってJuneが見つけてきた中年科学者の速記者の職をMaeにあげて、Juneは電信オペレーターの職を得て、サックス奏者と付きあい始めて、Maeはいけいけ(死語)の弁護士とつきあい始めて、うぶな科学者からの求婚を断って、そしたら職を辞めてほしいって言われて、そこを辞めた途端に弁護士は別の娘と婚約したことがわかり、Maeがふぬけになってしまったので、Juneは再び科学者のところに行って彼女を復職させてあげてって頼んで、彼はわかった、っていうのだが自分が好きだったのはJuneの方ではないか、って思うようになり、やがてMaeが妊娠したことがわかって... (ぐるぐる)

仕事を得ることと恋人やリッチな結婚相手を探すことが都会で女性が生きていくためには必須で、そのためにはどんなことが起こったりどんなことに備えたりしなきゃいけないか、を極めていいかげんでてきとーとしか思えないストーリー展開と(男目線では)なんも考えてないふうに見えるモダンガールズ(= Blind Mice?)のなかできっちりと描いて、文句あるなら言ってみろ、愚かって笑えるもんならどうぞ(って言っているように思える)。

これが1931年のWorking Girls。

拍手が当然のように。見に来ている人たち、みごとに外さない。


Christopher Strong (1933)

2月19日、月曜日の晩に見ました。上映前に特集のキュレーターのCaroline Cassinさんからの簡単な紹介があった。

これも脚本はZoë Akinsで、Katharine Hepburnのふたつめの主演作で、彼女を有名にした一本。

前にも見てここのどこかに感想書いているのであんま書きませんけど、なんか変な作品で、Sir Christopher Strongとの一世一代の恋に賭けてきれいに散ったLady Cynthia Darrington (Katharine Hepburn)にしても、やはり妻のある男性と恋におちて親と諍いをおこすMonica (Helen Chandler)にしても、結局男性の秩序と論理中心社会の枠の中で機能してるだけのように見えてしまうのと、でもそんなこと言ったって恋は起こるんだぼけ知るか! っていうのが入り混じっていて、でも死んじゃったらだめだからー。天国のCynthiaが語っていく形式にすればよかったのに … とか。


ここでまた切る。 次でDorothy Arznerのシリーズはおわり。


2.24.2024

[film] Occupied City (2023)

2月18日、日曜日の午後、Barbican Cinemaで見ました。
A24制作&配給、Steve McQueen監督による4時間26分のドキュメンタリー。
(淡々と進んでいくので休憩ないかも… とこわくなったが15分のがあった)

ロンドンではこのひとつ前の週末にいくつかのシアターで一回だけ上映されて、監督のQ&Aなども行われていたのだが、気がついた時にはどこのもSold-Outしていて、残念だったのをようやく。

原作は監督の妻Bianca Stigterが母国語であるオランダ語で書いた”Atlas of an Occupied City, Amsterdam 1940-1945”、これをMelanie Hyamsが英語で淡々と読みあげるかたちでナレーションをつけていく。

1940年に始まったアムステルダムへのナチスの侵攻、そのひとつひとつの日々と場所(番地まで)と具体的な出来事 - 誰が何をしてどうなった - を語る。当時の、過去のアーカイブや記録映像、ナチスのイメージなどは一切出てこない。画面に映しだされるのは、それ – Occupation が起こった場所の現在の姿とそこで暮らしたり遊んだり仕事したりする人々の暮らし、いまがどんなふうになっているか、だけ。

その今のありようは、被さってくる過去の出来事の悲惨さ、重さによって見方というか色合いが変わる。
ここで処刑が行われた、その場で銃殺された、その場で自殺した、逮捕され連行された(行先はほぼアウシュビッツ等の収容所)、それが起こった場所で、いまの子供たちが笑ったり遊んだり家族が寛いだりしている。その平和の尊さ、有難さを思う - そういう映画ではないの(そう思いたければ思ってもよいけど)。微笑ましい暖かさはやってこなくて、なにがここの市民をここで語られているような異次元としか思えない事態や事実に追いこんでいったのか、見ていけばいくほど寒々しく、わからなくなってくる。

語られる場所が映されているのは夫々3~4分だろうか、ものすごく熱いなにか冷たいなにか怖いなにか、が映っているわけではない、注意深く計算したり編集したりはしているのだろうが、平時平常のなんの変哲もない画面 – でも/だから飽きることはない – を作ることに注力しているように見える。それが連なり重ねられ、並べば並ぶほど「平時」の謎が深まっていくかのような。撮られたのがコロナ禍のロックダウンだった、というのも「平時」のありようを強調しているかのよう。

侵攻してきたナチスが悪い。それは勿論いうまでもないことなのだが、秘密警察が置かれて密告者がいて(アンネ・フランクの件は勿論語られる、でも少しだけ)、彼らは今も残っている建物のあちこちに市民としてふつうに暮らしていた(もう現存していな建物については、ナレーションの終わりに“Demolished.”と簡潔に付け加えられる)。占領は一気に、爆撃のように数週間で起こったのではない。原作のタイトルにあるように1940-1945の間、毎日のように人々は逮捕され連行されて散り散りになって時間をかけていなくなり、殺されていった。いまがそうならない、そうなっていない保証がどこにあろうか。

アムステルダムは3回くらいしか行ったことはないけど、とてつもない美術館があり、最高の音楽ホールがあり、チューリップが咲いてて、ニシンがおいしくて、運河のほとりを散歩していくだけで楽しいし、冬にスケートをしたり橇で滑ったりするシーンとか、ブリューゲルの絵のまま、だし。(もちろん、暗い方では世界的に名の知れた赤線地帯もあるし)。そんな町でだって、起こることは起こったのだ、ほら…

Steve McQueenが”Small Axe” (2020)のアンソロジードラマで描いたような市民の悲劇(だけではなかったけど)はここの戦時下では茶飯事だったのではないか。

いくつか、町並みや建物から離れて過去の植民地主義と奴隷制に対する謝罪声明の式典(日本のインドネシアの件も言及される)、亡くなったジャーナリストの追悼式、気候変動や環境危機に対するデモの映像も流れる。ここでは過去からの連なりとしてある現在 – 切り離されてあるものではないことも示される。

ひとつの町の記録・歴史って、これだけ静かな映像と語りだけでも、ここまでダイナミックに力強く渦を巻くイメージを生むことができるのだ、って。濱口竜介の『なみのおと』(2010)からの3作とか王兵のと同じくらいの強いものを感じた。

あと、Occupyする側にどう見えていたのか、その目線についてはちょうど今、(フィクションだけど)”Zone of Interest”を見ることができる。同時上映してもおもしろいかも。へとへとになるだろうけど。

2.23.2024

[film] 悪は存在しない (2023)

2月17日、土曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。
3月初の全英公開前の”Preview”という位置づけで、BFIの3月のプログラム冊子の表紙にはこの映画でこちらを向いた花(西川玲)さんのスチールが使われている。

昨年のヴェネツィアで銀獅子賞(審査員大賞)を受賞していて、英語題は”Evil Does Not Exist”。

監督・脚本は濱口竜介で、はじめは本作でも音楽を担当している石橋英子より依頼された彼女のライブパフォーマンス用のフッテージ(これが”GIFT” (2003)なのかな?)を作っていくやり取りが膨らんで映画になっていった、と配られた紙には書かれていて、なので彼女の名前は”Original Concept”、のところにもあった。“GIFT” (2023)の方は見ていない。

いまや誰も「悪は存在しない」なんて思っていない(と思う)。むしろいまの世に悪ははっきりとあって、それがどういう局面で、どんなふうな現れ方、見え方をするのか、或いは見なかったふりをするのか – その解像度(最近この言葉が使われているようだがあまりよくないと思う)のお話しなのか – かつてのブレッソン映画の主人公に対してのように取りついて何かをしでかすあれ、とは違うのだろうか、とか。

冒頭、すぐそれとわかるJim O'Rourkeのギターと共に木々とその向こうの空を見上げて歩いていくショットが続いて、そこから薪を割ったり泉からタンクに水を汲む巧(大美賀均)ともうひとりの男がいて、遠くで響いた銃声を聞くと娘の花を学校まで迎えに行くのを忘れたことに気づき、慌てて学校に向かうと、もう彼女はひとりで歩いて帰りましたよ、と。

家族写真には写っているものの巧の妻/花の母親はいなくて、彼は東京近郊の小さな村で便利屋をやっていて、汲んでいた水は近所のうどん屋に頼まれたもので、村長も含めてこじんまりと幸せに暮らしているようなのだが、その村にグランピングサイト建設の話が来て、業者側から説明会があるという。聞けば芸能事務所がコロナの補助金をあてにした新事業でろくなもんではなさそうで、実際の説明会でも、浄化槽が村の水源を汚染するのが明らかだったり管理人の数が明らかに足らなそうだったり、事務所がコンサルに丸投げした企画もので、地元の声なんてはなから聞く気がなさそうであることがわかる。この説明会のシーンは”R.M.N.” (2022) -『ヨーロッパ新世紀』のタウンミーティングにあったようにスリリングで、しかしこの映画でのおもしろさは、村人が断固全面反対でふざけんな!になるのではなく、我々もずっとこの土地にいるわけではなく、流れてきたものであり、重要なのはバランスではないか - など、ふーん、みたいなところに落ち着くところ。 「バランス」のはなしになるのか。

話しはここから説明会で村人に火だるまにされた事業者側 - 高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)のふたりに移り、東京に戻って社長やコンサルに村人から言われたことを伝えて – 当然連中は計画を変えるつもりなんてない - それを受けて巧に村を代表するアドバイザー兼管理人になって貰うべくもう一度村に戻るところに移る。車中の会話で、彼らの間にもこんなのやっててなんになる? 感が漂う。

村に戻ると薪を割らせてもらったり、みんなで清水で作ったうどんを食べたりよい関係になるように見えるのだが、施設が鹿の通り道を遮ることなども新たな懸念として出てきて、そういえば、と再び花を迎えに行くことを忘れていた巧は…

世界的なヒットとなった前作 - ”Drive My Car” (2021)の(原作故の)わかりやすさも、『偶然と想像』(2021)のタイトルが想起するショートの小気味よさもなく、『悪は存在しない』という言い切りが誰によって、どこに向かって発せられたものなのか、ちっともわからないまま、悪というより「かみさま..」って空や樹を見上げて彷徨うようなその目は誰のものなのか、いったい誰が誰になにをした、したというのか.. 最後まで尋常ではない緊張感が続いて、ぷつんと切れるように終わって、「ね、こんなふうに悪は存在しないよね?」になるのか「悪は存在しない.. なんて言った奴はどこのどいつだ?」になるのか。
「バランス」? 鹿?

最後に再びJim O'Rourkeのギターが空から降ってくる瞬間の戦慄ときたらものすごい。

どうでもいいけど、「グランピング」って、なにが楽しいの?
あと、おいしいうどんを食べたくなるのが辛かった。

2.22.2024

[film] Madame Web (2024)

2月16日、金曜日の夕方、BFI IMAXで見ました。
公開は14日のバレンタインデーで、公開週の金曜の夕方の入りとしては相当にがらがらでやばいかんじって思ったが、その時点で評判とか見ていなかったし、(後からみた)Guardianの★がひとつだって見たいのは見るので、いいの。映画みてモトとれるとかとれないとか、昔からちっともわかんないしどうでもいいし。 監督はこれがFeatureデビューとなるS. J. Clarkson - 女性監督だからつまんない、なんて言い草は論外、恥を知れ。

これまでのMarvelのヒーローものとははっきり違うかんじなのと、ミステリーサスペンス仕立てみたいな言い方をしつつ実はぜんぜんそうではない辺りがいろいろ言われている根っこだろうか。「ミステリーサスペンス」なので、先を知りたくないひとはこの先(以下略)。

1973年、ペルー・アマゾンの山奥で身重のConstance Webb (Kerry Bishé)が変てこな蜘蛛を探していて、見つけた!ってなったら同じ探検隊にいたEzekiel Sims (Tahar Rahim)が彼女を撃って蜘蛛を奪って消えてしまう。スパイダー柄の衣装の謎の原住民が彼女を救いだし謎の泉で再生させるものの赤ん坊が生まれた後でConstanceは亡くなってしまう。

2003年、Cassandra – Cassie (Dakota Johnson)はNYのQueensでパラメディックとして大忙しで、橋から落ちそうになっていた車から運転手を救った際、自分は車ごと川に落ちて臨死体験をしたら未来を予知する能力が備わったことを知る。

他方で、いきなり富豪になっててNYに暮らすEzekielは、3人の蜘蛛装束のGirlsに殺される悪夢を繰り返し見ていて、こいつらを早く見つけだして始末しておかねば! ってNSAの職員からすべての監視カメラにアクセスできるKeyを奪って人を雇って3人娘の居場所を探し始める。(2003年の技術でそれは難しいと思うよ)

並行して、どういう縁の巡りあわせなのか、Cassieの周りに寄ってきた身寄りのない3人娘に降りかかる危難を予知してしまった彼女は、ぜんぜん言うこときかない(まあふつう聞かないよね)彼女たちをなだめたり子守りしたりしつつ、いきなり蜘蛛スーツで襲いかかってくるEzekielから彼女たちを守ることができるのか…

Cassieが前面に立って敵に立ち向かうわけでも3人娘が変身して戦うわけでもなく – 一応最後の方でイーストリバーの看板のとこでのバトルはあるけど - 悪夢だか妄想だかに勝手に取り憑かれた小悪党ひとり – これまでの蜘蛛世界に登場した悪党と比べると圧倒的に背景が薄いし強くないし – の騒動に巻き込まれてほんといい迷惑だわくそったれ、くらいで、それなのにあの”With great power comes great responsibility”とそっくりの見栄を切られちゃうとなー。

Spider-Verseのアニメーションが男の子目線のわらわらした小蜘蛛たちの大冒険を描こうとして、こっちでは女の子目線で蜘蛛の巣に引っかってくる悪をやっつける、そういう分担みたいなのを期待しているのだとしたら、なんか当たり前すぎてつまんないかも。

あと先のことが見える能力を画面上で表現するのって、まず彼女に見えた未来を描いて、それがその通りに起こる/起こったことをもう一度描く、しかないのかなあ? なんかムダな気がして。 Multi-Verseでも未来って見えるもんなの? とか。

それと、2003年のQueensが舞台で、Cassieの同僚としてBen Parker (Adam Scott)と彼の身重の妻Mary Parker (Emma Roberts)まで出しておきながら、なんで本尊にかすりもしないのか。ほんのちょっとでよいから、なんか見せてくれれば納得するのに。原作のコミックスの世界では説明されているのかもしれないけど、さ。 これじゃ続編が作られるとは思えないしー。

どうせなら居直って(お前らの見たいのはこんなもんだろ!)、Madame Webの館にやってくるすけべ男たちを彼女たちが端から縛りあげて宙吊りの血祭りにしていくSMホラーにしちゃえばよかったのに。機器と仕掛け一式はぜんぶ”Fifty Shades”シリーズのChristian Greyが提供してくれるの…

2.21.2024

[film] Your Fat Friend (2023)

2月15日、木曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。

公開規模は大きくないけど、少し前の公開直前の頃にはBFI Southbankでは監督のJeanie Finlayと主演(?)Aubrey Gordonを招いたQ&Aイベントもあったりした(Sold-Outで入れず)。

ポートランドに暮らすAubrey Gordonさんについてのドキュメンタリー。
彼女は2016年に”A request from your fat friend: what I need when we talk about bodies.”というオープンレターで始まる匿名のブログを始める。冒頭部分はここで(https://medium.com/@thefatshadow/a-request-from-your-fat-friend-what-i-need-when-we-talk-about-bodies-2442b5a8b06d
 
これはよくあるダイエットの宣言や記録ではなく、社会に向けた告発や要請でもなく、USサイズで26だという彼女はシンプルに“Fat”であることが、身の回りの社会 - 家族やコミュニティにおいてどういうことをもたらしているのかを具体的に示しつつ、なんでこういうことになっているのか、起こりうるのか、ごく普通になんかおかしいんじゃないの? を冷静に語っていく。(即座におかしいのはお前だ! って返ってくるのだろうが、そういうのも含めて)
 
これまで自分が生きてきた社会のなかで、”Fat” – でぶであることは余りよくないこととされてきた。自己管理ができていない、子供の場合だと親の管理がされていない、だらしなく食べてごろごろしているとそんなふうになってしまって、その体型を維持するための食費だってバカにならないし、公共交通機関を使う時だって特別の配慮やケアが必要になるし、あんなふうになってはいけませんよ、だし、そうなってしまった人に対してはお笑いのネタにしたりバカにしたり虐めたり、メディアも含めて社会全体がそういう傾向 – でぶになってはあかん、ひととして – をずっと後押ししてきたように思う。

でも、望まなくても、がんばってもそうなってしまう人はいる、生きているし、そういう人は普段どんなことを考えて自分のボディと向き合って暮らしているのか、をおもしろおかしく綴ったのが彼女のブログで、その文章は驚きと共感をもって受けいれられてフォロアーも増えて、本を出版するとNY Timesのベストセラーになった。映画の最初の方は彼女が自分で撮っていたv-logのようなかんじで、受けいれられたことへの素直な驚きと歓びがあり、同時にやってくる誹謗中傷の嵐 – 実名・住所にソーシャルセキュリティーナンバーまで晒される - に絶望して泣いてしまったり。
 
当たり前のように家族の事情はあって、彼女の場合もすでに別れている父母それぞれとの今の関係と過去に触れられて、しんみりするところはある。しんみりどころじゃない人もいっぱいいるだろうこともわかる。
 
ドキュメンタリーとしては本当にストレートに人としてのAubrey Gordonを追っていて、それができるのはブログやPodcast等で既にいろんなことが語られていることの余裕からかもだけど、日々の生活の描写 – Portlandなので少し”Showing Up” (2022) のかんじ - なども素敵で、これが東海岸だったら別のムードのものになったのではないか。
 
これまで見えなくされていたものを露わにするとか、「問題」を引っぱり出してどうにかする/したいではなく、おいおい見えてるだろどう見たって、ほら! というところから始まり、問題云々以前に、いまあなたの隣にもいるんだよー、Your Fat Friendだよ! っていうまっすぐな呼びかけの清々しさがある。そうだよね、やあ、ハロー、しかない。

フィクションだけど、こないだの”The Whale” (2022)にもあったような、どうしても距離を置いたり、測ってしまおうとしてしまいがちな我々のアタマを軽くノックしてくれる風通しのよさ、というか。

そして改めて、日本の「見た目」コンプレックスに対する病的としか言いようのない社会的圧の異様さを思う。痩身、美白、皺、頭髪、老化、あなたのこれらをどうにかしないと、という煽りとそれを容認して垂れ流す広告や嘲笑のネタにする産業の層の厚さ、そういう洗脳(これだけじゃないよ、道徳みたいなとこまで)がどれだけの人たちを傷つけたり蝕んだりしているか、どうやったらこの異常さを、って日本に帰国した途端に流れこんでくる大量の広告をみる/片っ端から消す - たびに思うわ。 その果てに日本にはアメリカみたいに病的に太ったひとがいない、日本ってすごいな、になるの。しみじみばかみたいで嫌だ。

2.20.2024

[film] Honor Among Lovers (1931)

BFI Southbankの特集 – “A League of Her Own: The Cinema of Dorothy Arzner”を見ていく続き。

BFIのサイトにはどこから見るべきか、っていうガイド(https://www.bfi.org.uk/features/where-begin-with-dorothy-arzner)もあったりするのだが、各作品の上映は2回くらいなので、見れる順に端から見ていくしかないの。以下、見た順で。

Blood and Sand (1922)

2月10日、土曜日の昼に見ました。これ、シネマヴェーラでも見たことがあったサイレント『血と砂』で、Dorothy Arznerはuncreditedで編集と監督に関わっている。

原作はVicente Blasco Ibanezによる同名小説(1908)で、舞台化もされている。

幼い頃から闘牛士になるのが夢だったJuan (Rudolph Valentino)が夢を叶えて、幸せな結婚もしたのに魔性の女Doña Sol (Nita Naldi)に魅せられて転落していくのと、並行して同じ運命を辿ることになるならず者のPlumitas (Walter Long) – いっぱい殺していてみんなに恐れられている - の運命が哲学者によって語られて、Juanもならず者も同じようなタイミングで亡くなる。というのがスペイン絵画のような影と光の造型のなかで仰々しく語られていって荘厳でかっこいいのだが、結局オトコのバカなのってバカよねー、に尽きるかも。


Honor Among Lovers (1931)

2月11日、日曜日の晩に見ました。
pre-Codeドラマで元のタイトルは”Sex in Business”だって。邦題は『女の名誉』。

超有能な秘書のJulia (Claudette Colbert)に何から何まで面倒を見て貰っているウォール街のトレーダーJerry (Fredric March)がいて、Juliaのことが好きでなんとか打ちあけようとして言い寄っていくのだが決定的な機会がなく空回りしてて、他方でJuliaにはやはりトレーダーをしている婚約者のPhilip (Monroe Owsley)がいて、ちょっとこのところのJerryの挙動が怪しく怖くなってきたのでPhilipとさっさと結婚してしまう。

一年後、Jerryの友人で投資をしているMonty (Charlie Ruggles)が日本の絹が大暴落したと言うとそこに他の客の預り金含めて全部ぶっこんでいたPhilipが青くなって、このままだと牢獄行きになる助けて、ってJuliaに泣きついて、困ったJuliaはJerryのとこに相談して..

お仕事とお金と恋愛と結婚をめぐる、ものすごくよくできた、どきどきしておもしろくて洒落た都会のrom-comで、上映後も大拍手だった。真ん中のふたりが最高に巧いし、Philipみたいなバカはいかにもいそうだし、あんな有能でしっかりしたJuliaがなんであんなバカと一緒に、もどこかにあっておかしくないし、Montyの恋人のGinger Rogers -映画出演の最初期だそう - のとぼけた風味もたまんないし。


Nana (1934)

2月12日、月曜日の夕方に見ました。
これもpre-Code映画扱いで、監督はGeorge FitzmauriceとDorothy Arznerの共同。Samuel Goldwynの肝いりで主演のAnna Stenを次のGreta Garboとして打ち出そうとしたそうなのだが、興行的にはそこそこ当たったものの結果的には… 邦題は『女優ナナ』。英国では”Lady of the Boulevards”というタイトルだったらしい。撮影はGregg Tolandだし、音楽はAlfred Newmanだし、画面はきれいでプロダクションはすごいのだけど..

同じÉmile Zola原作の映画化だともちろんJean Renoirの”Nana” (1926)があって、あの肉感の生々しさと迫ってくるなにかには勝てるわけがなくて、愚かな貴族たちを得意になって翻弄していくNanaの前半の勢いが後半に空回りして萎れていくのはきつくて、その切なさ悔しさをあとちょっとでも演技で補えたら… となってしまうあたりが残念だったかも。


Anybody's Woman (1930)

上のにそのまま続けて、12日、月曜日の晩に見ました。平日の夜に2本続けて見るのはしんどいのでやめたいのだが、1本の上映時間が80-90分くらいなのでしょうがないけどがんばれるかも、になる。こういう2本立てならほんとによいなー
脚本にZoe Akinsが参加している。 邦題は『夫なき妻』?

弁護士でいじけ虫のNeil (Clive Brook)は突然妻がどこかの富豪と一緒になって出ていっちゃったことを新聞で知ってぐでんぐでんに酔っぱらって、向かいのアパートで同様に飲んだくれていたバーレスクの踊り子Pansy (Ruth Chatterton)を部屋に呼んで一緒に飲んで騒いでいるうちに結婚してしまう – というか朝に目覚めたら結婚したことになっていた。

階層も話す言葉も違うし、互いに、周囲の友人たちすら長続きするとは全く思っていなかったのにとにかく一緒に暮らし始めて、それぞれが個別に勝手に反省してよくなろうとしたり辛抱したり、はっきりとした別れのきっかけもタイミングも作れないままになんとなく続いていって、Neilの友人でお金持ちのGustave (Paul Lukas)がPansyに惚れて結婚を申し込んできたり、Neilの前妻も未練あるかんじで彼のもとに寄ってきたり、いろいろあってずっとはらはらしどおしな(8割くらいはだめだとおもった)のだが、でも最後はAnybody’s Womanじゃなくてやっぱり君じゃなきゃだめなんだ、ってなるの。きれいごとも奇跡もジャンプもなしに、そうなってしまうのでなんだかわかんないけど見事な着地、としか言いようがない。
これも終わって大拍手だった。


ここでいったん切る。

2.19.2024

[film] The Iron Claw (2023)

2月13日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

Fritz Von Erichから始まるVon Erich家のプロレスリングにかけた一家の実話ベースのお話しを”Martha Marcy May Marlene” (2011)のSean Durkinが自分で書いて監督している。A24の。音楽はArcade FireのRichard Reed Parry。選曲もすごくよい。
 
Fritz (Holt McCallany)が必殺技「鉄の爪」で築いて頂点を目指していったプロレスラーの夢を息子のKevin (Zac Efron)が継ごうとして次の弟Kerry (Jeremy Allen White)やその次の弟David (Harris Dickinson)もそこに加わって、アメリカのショービズ界で成りあがっていく話。あとは幼い頃に亡くなった長兄とミュージシャンを目指す末っ子のMike (Stanley Simons)がいる。母(Maura Tierney)は静かで敬虔なクリスチャンでおとなしくてやさしくて、テキサスのレスリングに取りつかれた父とそれに懸命についていく子供たちの幸せなのかそうでないのか – たぶん幸せだったように見える家族の肖像を描いていく。”Martha Marcy May Marlene”にもカルトに触れて惹かれて危うくなっていく女性の姿があったが、そういう熱狂的に巻きこんでいく力とかなにかに対する距離の取り方 - 幸せの描き方 - がものすごくうまい。プロレスを、あの時代のアメリカのプロレスを知らなくても十分に楽しめると思う。

必殺技の”Iron Claw”は、手が大きくて握力が強い人にやられるときついのだろうが、一見そんなすごい技には見えなくて、でも目を覆われて頭を指でぎりぎりされるのって、しつこくやられたら嫌になって降参、になるのかも。そうやってFritzは子供たちを、あの家を締めあげていったのかも。父は息子たちを自分の好きなようにランク付けして、自分のお気に入りになるように仕向けて、子供たちは何の迷いも葛藤もなく筋肉を鍛え上げてスポーツの世界に入っていく。

映画で描かれた1970〜80年代のこの家族にどんなことが起こったのかについてはWebにいくらでもあるだろうから触れないが、他殺(自殺はあったが)とかDVとかものすごく悲惨な陰惨なことが起こるわけではなく、互いに憎悪や仮面にまみれていたわけでもなく、全体としてはひとつの家族として鉄の爪でがっちり固められていて、息子たちは決して父親に逆らわないし、父親は無理強いなんてせずに、みんなの合意のもとでひとつの栄光に向かう、典型的なスポ根ドラマになっていて、この映画のよいとこは、だから/それでも彼らはずっと幸せでした、家族すごい! えらい! みたいな描き方を1ミリもしていないところだろうか。5人男の子が生まれて、ひとりを除いて若いうちにみんな死んじゃって、うちふたりは自死、って…

そしてそんなふうにぼろぼろになっても、彼らはリングに向かうの。川に戻る鮭みたいに。ちっともわかんないけど。これを見ると、アメリカの中でなんでテキサスがあんなんなっちゃってしまったのか、なんとなくわかる気がした。説明できないけどやるぜ! おれは◯◯だからな! っていう非論理を強いられ、それが常態化してしまうのがとてもこわい。

日本にはプロレスおたくの人も多いしいろんなことが語られるのだろうが、日本の典型的な家族のありようとここで描かれたそれとの偶然のような近さについても語られてほしい。いまや日本は世界にとってテキサスみたいな位置にある.. とまでは言わないけど、それでも生き残った彼らは幸せのようにみえるしいいじゃん、とか。

音楽は予告でも流れるBlue Öyster Cultの"(Don't Fear) The Reaper"とか、レコード盤に針をのせるところからほぼフルで流れるRushの”Tom Sawyer”の他に、Kevinの結婚パーティーでみんなで踊るJohn Denverの"Thank God I'm a Country Boy"など、悪くなかったの。


David Bouleyが亡くなった、と。
初めて彼のレストランに行ったのはDuane Streetの最初のロケーションにあった頃で、フレンチってこんなに奥深くてすごいのか、って思い知らされた最初で、その近所にできた新しい方にも通って(頻繁に行けるわけではないのだががんばって)行くたびにお腹ぱんぱんになり、でも出てくる - お皿きれいにするといくらでも次を出してくる - から食べちゃうのでお腹破裂して死んじゃうかも - ここならこのまま死んでもいいや、って思った最初のレストランだった。ベーカリーをつくっても、オーストリア料理のお店 - Danube - を出してもどれもおいしくて、ここ数年は帰っても開いてなくてどうしたんだろう、って寂しかったら…

ありがとうございました。あなたのお皿、どれだけ戴いたかわからないけどどれも大好きで、他に替わるものがありませんでした。天国にいったら(いけたら)予約できるかしら?

2.17.2024

[film] A League of Her Own: The Cinema of Dorothy Arzner

2月はBFI Southbankで女性監督Dorothy Arznerの特集 – “A League of Her Own: The Cinema of Dorothy Arzner” – なんてかっこいいタイトル! - をやっている。彼女の作品の有名なのはBFIでも単発でよくかかっていたし、日本でもシネマヴェーラの2022年の特集 - 『アメリカ映画史上の女性先駆者たち』で何本か見ているのだが、改めて - 全部は無理だけど - 見てみよう、と。で、再見しても震えるくらいおもしろいのでいちいちひっくり返っている。

今回上映されるほとんどのフィルム(デジタルじゃないの、フィルム上映なの)はUCLAのFilm & Television Archiveで修復されたり焼かれたりしたもので、そのスポンサーにはJodie Fosterの名前が入っていたりする。

単に彼女の監督作品を並べて、ハリウッドの女性監督の先駆としてその視点やテーマを掘り下げるだけでなく、スタジオシステムの中に入ってタイピストやってシナリオ書きやってカッターやってエディターやって、そうして積みあげたキャリアの仕上げとして女性監督になって、それぞれのなかで女性はどうやって仕事をするのか、どんな仕事がありうるのかまで押さえて広げてみせて、その広がりのなかに - 仕事だけじゃなく、恋愛もパーティも結婚も家庭も – あってしかるべき女性のいろんな動きとか表情とかのありようを、こんなのだってあるよ!あっていいんだ! って押し広げて見せてくれた。彼女がそうやって広げた可能性の裾野が“A League of Her Own”なのだと思って、だからかっこいいったらないの。


The Wild Party (1929)

2月3日、土曜日の昼に見ました。サイレント時代の世界最初の”IT” GirlであるClara Bowの最初のトーキーで、最初にBoomマイクが使われた映画だそうで、みんなが彼女の声を聞きたいと思ったのか(思うよね)映画はヒットしたという。

ストーリーはどうってことなくて、パーティが大好きな女子グループが好き放題やって顰蹙を買ったりしながら若い教授のFredric Marchとどうにかなる、っていうrom-comで、この頃から(このもっとずっと前から)あったに違いない”Girls just want to have fun”の弾けた世界そのままで、でもこれすら鼻をつまむ人はやっぱりいたんだろうなー、とか。


Paramount on Parade (1930)

2月3日、土曜日の晩に見ました。
監督はDorothy Arzner単独ではなく、彼女の他に10人くらい、Edmund Goulding, Ernst Lubitsch, Edwin H. Knopf, Frank Tuttle, Victor Schertzingerなどが監督していて、パラマウントの宣伝目的で作られたレビュー形式の、短編というより断片のオムニバス。誰がどこを監督しているのか、どの映画の切り抜きなのかあんまわからず、部分テクニカラーだったり音声だけ消失していたり逆に音だけだったり、ああここ見たいのにー、みたいのが多くて困った。Gary Cooperが歌ってるってのに音声がない、って悔しすぎる。Dorothy Arzner のパートはClara Bowが出ているやつよねたぶん、くらい。


Get Your Man (1927)


2月4日、日曜日の午後に見ました。邦題は『恋人強奪 』。
53分の中編で、上映前にBryony Dixon, Caroline Cassin, Pamela Hutchinsonによるパネルディスカッション付き - 見事におちてた。

Dorothy Arznerが監督デビューした年に撮った、彼女がClara Bowを真ん中に据えた最初の一本。
アメリカ娘のClara Bowがパリでお金持ちのぼんで結婚相手も決まっているCharles Rogersをかっさらう、それだけのお話なのだが、すべてがシンプルに王道の逆を突っ切ろうとしているようなところがかっこいい。反逆の狼煙はここからこんなふうに。


Sarah and Son (1930)

2月4日、日曜日の晩に見ました。
脚本はこの後も”Anybody's Woman” (1930) – これすごくよかった - などで Dorothy との協力関係が続いていくZoë Akins。

オーストリアからの移民のSarah (Ruth Chatterton)はアメリカでヴォードヴィル芸人を目指している時に知り合ったJimと結婚して男の子が生まれるのだが、やくざなJimは彼女と喧嘩した腹いせに赤ん坊を連れて家を出てそのままいなくなっちゃって、数年後、第一次大戦の傷病兵のいる病院で歌っていた時に瀕死のJimと再会して、彼は赤ん坊を裕福なおうちに渡してあとは知らないというので、その家を訪ねていくのだが会わせてくれなくて、数年後、成功したオペラ歌手としてアメリカにやってきたSarahは…

日本にもありそうな人情にまみれた母子もの、のようでそんなに情に訴えるかんじはなくて、移民としていろんな階層の身勝手な男性たちに翻弄され理不尽に差別されたりしながらも歌と息子を思う心を捨てなかった女性映画として見事で、Ruth Chattertonはオスカーの主演女優賞にノミネートされている。

いったんここで切る。

2.14.2024

[music] Alessandro Cortini

2月10日、土曜日の晩、Barbican Centreで見て聴いた。簡単なメモ程度で。

Alessandroさんは、2018年の4月にもBarbicanの別の、もう少し小さいホールでライブをしていて、その時にも行ったのだが、今回は本体の方のでっかいホールでの公演で、もちろん売り切れたりせずに前日でもよい席が簡単に取れてしまったりするのだが、でもちゃんと上階のほうまで埋まっていた。

前座はKMRU。ケニアの人からきてドイツで活動しているJoseph Kamaruさんのユニット、ヴィジュアル担当の人(?)とふたりで出てきて、みょーん・びょーん、ていうアンビエントを。寝ちゃうかも、だったのだが白黒のパターンが瞬きつつその境界が刻々と変幻していくヴィジュアルがすばらしく、飽きがこなかった(いや、飽きとか言うな)。

客席にはやはり男性の年配の髭熊系のもっさりしたおじさんたちが多く、NINやHEALTHのシャツの人も当然いる。

ステージ上には机の上に操作盤と小さなライトとモニタースピーカーのみ。

ひとりで出て来てスイッチいれて、映像も自分で - 前回のときは自分で撮影した町や家の景色もあった気がしたが、今回のも自分でなんかこさえたのかも。マクロのレンズで部屋の床とか机の上に薄っすら積もったゴミだか化学物質だかをちりちりと拡大しつつ追っていくような(ぜんぜん違ってたらごめん)そういう緊張感とスケールでもってゆっくり動いていく絵というか写真。

音楽はやはり前座のアンビエントとは全く異なるスケールの音像が、立ちあがる、というかんじで立ちあがって投影された映像のチリだかホコリだかを微細に揺らしつつ大陸をスライドさせていくような。がりがりごつごつした塊りだけでなく、いろんなサイズ、いろんな色彩をもった音が壁を作る塗りこめる、というよりひとつひとつ積み木を置いて積んで組みあげていく。ベースぽい素朴な音のなんとも言えない鳴り方とか。ながーい1曲か2曲かを1時間やったかやらなかったか。あっという間だった。

あれだけ完成された分厚い音の塊り - ピザの生地をめりめりと練りだすマシーンのようなNINにおいて、ライブメンバーとしてなんで彼が必要とされるのか(Atticus Rossがいるからいいじゃん、ではなく)、彼のライブを聴いてみるとよくわかる。鍋をふって火花が散っている窯場でほんもんのパンチェッタやラルドを的確にさっさか撒いたり焼いたり使える料理人が必要、ということなんだろうな、とか。

彼、風貌がなんとなくJim O'Rourkeに似てきているような。なんであんなふうになっていくのか。


イスラエルはガザの大虐殺をとにかくやめてほしい。なんのために我々は本を読んで、音楽を聴いて、映画を見たりしてきたのか。すべてが台無しになる。そんなことより、とにかく人を、子供を殺すな。なんでこんなことが起こりえるのか。
 

[film] The Disappearance of Shere Hite (2023)

2月6日、火曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。

1976年に出版されてベストセラーとなり、当時のフェミニスト運動に貢献しながら近年はすっかり話題にものぼらない”The Hite Report”について、レポートをまとめたShere Hiteの足跡を辿りながらあれはなんだったのか、を追っていく。2時間近い内容だったがまったくだれない。監督はNicole Newnham、ナレーションとHiteの声を被せていくのはExecutive producerでもあるDakota Johnson(ものすごくうまい)。

60年代後半にコロンビア大学の貧しい大学院生(社会史専攻)としてセントラルパークの脇の半地下のアパートで穴倉の生活を送りつつ、男性の教員陣からやりたいことを端から削られ落とされ、お金のためにモデルやピンナップの仕事をこなしつつフェミニストの集会や抗議活動に参加するようになり、その流れで数千人の女性に手紙のアンケートを送ってその結果を元に男根に依存しない(と思われる)女性の性のありよう - 自慰やオーガズムや得られる満足などまで含めて幅広い世代に調査して、それを纏めて本にする。映画のなかで「男性」が指摘しているように「科学的ではない」のかもしれないが – たぶん実際にあんま科学的ではなさそう - 間違いなく隠れていた/表に聞こえなかった(誰も聞こうとしなかった)声を拾いあげて並べることには成功して、この本は売れて、彼女はTVを始めとしたメディアに出るようになり、ホテルに暮らしてセレブの日々を送ることになる。

が、3冊目のレポート - 男性の性にフォーカスしたあたりからバックラッシュが酷くなり、彼女がTVに出演した際のクリップも出てくるのだが、まあひどいことゲスだこと。男性のゲストたちが、「おれはこんなんじゃない」「友達に聞いてもちがうって言ってる」「勝手にこんなことを言われるのは我慢できない」等々。クリップされた番組で司会をしているOprahもあきれて顔色を変えるくらいなのだが、今のホモソーシャルのありよう100%そのまま、標本ビデオのように露わとなるあの男たちの醜さを見てみ。そしてSNSでヒステリックにわーわーわめきたてる今の幼稚な連中となにひとつ変わっていないことにびっくりするがよいのだ。 「なんで変わらなきゃいけないんだ(怒)」とか平気な顔して言うことでしょうよ。くそ野郎ども(って怒りに震えるよ)。

こうしてアメリカにいられなくなったのか嫌になったのかShere Hiteはヨーロッパに渡って、メディアから一切姿を消して、2020年にロンドンでひっそりと亡くなった。

そもそものコロンビアの教官の指導からして、女性が何かを書いたり表明したりすることに対してまずこちら(男性)の言うことを聞いてほしい、こちらの想定していなかったことを書いたりやったりしないでほしい、そしてそういうことをした場合の、見たくないし聞きたくないしなかったことにしてほしい、というような服従してもらって当然の俺様欲求/思考の謎 - ってシンプルにただの病気だよね。すでにそこにあるもの、そうなっているものに対してなに偉そうにわがまま言ってるのあんた? と。 Shere Hiteの場合、ルックスがお人形さんのようだったので、ああいうことをされたり晒されたりしたことに対するショックとか恨みも小さくなかったのではないか。

後半はそんなことばかり思ってしまったのであまり集中できなくなってしまったのだが、日本でもなんとか公開されますようにー。

2.12.2024

[film] American Fiction (2023)

2月5日、月曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

原作はPercival Everettによる小説”Erasure” (2001)、監督はこれがFeatureデビューとなるCord Jefferson、オスカーにも5部門でノミネートされていて、日本でももうじき配信で見れる?

予告を見た時はなんか地味かも、と思ったのだが、おもしろい。最近の映画にはあんましない、ほのぼのとした – でもよく考えてみると殺伐としたかんじが後から。

Thelonious "Monk" Ellison (Jeffrey Wright)は、LAの大学でアメリカ文学を教えていて、自身も作家(でも売れない)なのだが、Flannery O'Connorの”Artificial nigger”について白板に書いて講義していると生徒から、その言葉を使うのは不快なのでやめてほしい、と文句をつけられ、いやいやそんなことを言ってもこれは... と返してもわかって貰えず、クレームは上まで届けられ、上からは少し休んだらどうだ? と言われて家族のいるボストンに戻ることにする。

ブックフェアに参加しても自分のコーナーはほんの少しで、「私たち」の「ストーリー」はいったいどこに?って訴えてスラングまみれの叙述に終始する人気作家Sintara (Issa Rae)のが盛況で喝采を浴びるのをあーあーって眺め、実家に戻れば母Agnes (Leslie Uggams)にはアルツハイマーの兆候が見られ、医者の妹Lisa (Tracee Ellis Ross)は突然倒れて亡くなってしまい、整形外科医をしている弟のCliff (Sterling K. Brown)は離婚後ドラッグとカジュアルセックスに溺れていて、要するに母のケアなども含めてこれからほぼひとりに来そうなのでどうしよう、になっている。支えになってくれそうなのは隣人の弁護士で彼の本の読者だというCoraline (Erika Alexander)くらい。

こんないろいろもあってやけくそモードのMonkは、酒に酔った勢いでSintaraがやっていたのと同様の犯罪まみれゲットーテイスト満載の小説 - “My Pafology”をげらげら笑いながら書きあげてこんなのどうだ!ってエージェントのArthur (John Ortiz)に叩きつけるように送るととんでもないアドバンスに映画化権の話までついてきて、頭痛腹痛が止まらなくなるのだが、著者は逃亡中の元囚人"Stagg R. Leigh"ということにして、さらに調子にのって(無理だと思って)タイトルを”Fuck”にしてやれ、って要求してみたりするのだが、契約破棄どころかぜんぶポジティブに取られてしまうのであきれる。

“Fuck”は問答無用のベストセラーになり、やがてMonkが選考委員を務める文学賞の候補にもなって、同じく選考委員であるSintaraや過半数以上を占める白人選考委員たちとの間で作品を巡る口論になるのだが、”Fuck”は圧倒的に優位で、なんかぜったいまちがっていないか? って。

ブラックコミュニティのなかで(に向けて)自分はなにをどう表現すべきなのか、というMonkがずっと考えてきた問題のほかに、こんなふうにでっちあげられた(アメリカン)フィクションをブラックである自身はどう受けとめるべきなのか、ということ – それを巧みに利用するSintaraや、別にいいと思ったというCoralineもいるし、いろいろあってよいはずだし、自分はなんでそれを許せないのか、という葛藤の他に、ボケて差別的なことを言ってしまう母とか、ゲイであることを受け容れてほしい、というCliffとか、物語全体がメタ・フィクションのようにして動いていく。クライマックスは文学賞の授賞式で、Stagg R. Leigh を逮捕すべくFBIが張りこむなか、この物語はどんな結末を迎えるのか…

もちろんこれは”American Fiction”に留まる話ではなくて、売るための名目で勝手なオーディエンス(って誰なのかそもそも)のいろんな要求に応えなければならない事情はすごくシリアスで悲惨な事件(日本でも最近あったよね)に繋がることだってあるのだが、この映画はそのふるまいの波が家族のありようまで揺らしにくる。なぜならそれは.. というところまで含めて。 Spike Leeがやったら(もうやってる?)おそらくぜんぜん別のテイストのものになっていたりして、などと思うと、この映画はMonkの小説が辿ったパスとは別のやり方で決着をつけようとしているようで、それってどういうことなのだろうか? と。(賢い?)

浜辺にひとりで立つJeffrey Wright、打ちのめされて頭をがっくりしたり、たそがれてしまう彼がほんとうにすばらしくよいので、それだけでも。

[film] Spellbound (1945)

1月30日、火曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

邦題は『白い恐怖』。原作はFrancis Beeding (Hilary St George Saunders & John Palmer)によるサイコスリラー小説 - ”The House of Dr. Edwardes” (1927)。監督はAlfred Hitchcock。脚色はイギリス時代からずっと組んできたAngus MacPhailのをハリウッドでBen Hechtが仕あげている。

昨年のカンヌでお披露目された4Kリストア版のUKプレミア、ということでずっと売切れ印がついていたのだが、当日のお昼くらいになんとかもぐりこむことができた。

リストア版の美しさについてはものすごく強調しておきたい。もともと白と縞模様を巡るオブセッションが鍵となるので、その色と模様がそれなりの強さで迫ってこないとお話にならないのだがその質感まで十分にゴージャスに再現できているかも、と思ったのと、Ingrid Bergmanのしなやかさは勿論、SpellbindingされたGregory Peckの絵画的と言ってよい病的な白くて鋭い顔が夢に出てきそうなくらいにこわい – この人こんなこわい顔するんだ、って。

夢についてはダリがこの映画の悪夢のシークエンスを作ったことも有名で、トリュフォーによるヒッチコックへのインタビュー(の抜粋が上映時に配られる作品の解説一枚紙に載っている)によれば、パブリシティなんかよかもっと真剣に悪夢を掘り下げて、屋外で撮影してBergmanをアリまみれにしたかった、などと言っていて、確かにそれくらいのことをやればよかったのに、と思ってしまうくらいにやや普通すぎて弱いのが残念。

精神科医のDr. Constance Petersen (Ingrid Bergman)が勤めるバーモントの精神病院/療養施設で休職している所長の後任としてDr. Anthony Edwardes (Gregory Peck)がやってきて、若い彼にぽーっとなったConstanceは恋に落ちるのだが、白いものとかしましまを見ると彼の挙動がなんだかおかしくなったり、署名が違っていたり、彼はほんもののEdwardesではないと確信するのだが、それではこのひとは誰? となると彼自身にもわからないらしく、そのうち姿を消してしまい、彼を追っかけていくのと、NYで彼を捕まえてからは本物のEdwardes探しも含めてふたりでいろいろ探っていくことになる。

後任の所長が決まった時点でプロファイルも含めて写真など一式は来ているはずなので、現れた時点でのチェックがないまま、そのままふたりが簡単に恋に落ちてしまうのとか、挙動がなんかおかしいことがわかった時点で(病院なんだし)拘束して調べるべきだったのに、恋をしていたからといってなんか緩くて、おそらくSpellbindingされたGregory Peckを追いかけて/追いつめていく終わらない悪夢の迷宮をどこまでも(他の多くのヒッチコック映画同様に)掘りさげていくか、原作のように彼が病院を支配して悪の巣窟にしてしまうか、どちらかのがダークでおもしろくなった気もするのだが、恋ってやつは… こんな具合にこの映画のBergmanの描き方を見ていると物語をつまんなくする方に作用しているふうにしか見えなくて、そこも含めてほらね、って(ヒッチコックが)言っているように思えた。この頃のIngrid Bergmanにはなにをやらせたってものすごい、ということであればそうだねえ、しかないのだが。

その人の頭のなかで何が起こっているのか、なんでそうなっているのかなんて、本人にだってわからないことが多いのに、その状態でどうして恋なんてできるのかちっともわかんない、というありようを”Spellbound”って言い捨てて、最後をあんなふうに締めて(閉じて)しまうのは素敵としか言いようがない。

2.11.2024

[film] Mean Girls (2024)

1月31日、水曜日の晩、ODEON Luxe West Endで見ました。

Rosalind Wisemanの”Queen Bees and Wannabes” (2002)をTina Feyが脚色してLindsay LohanやRachel McAdamsが主演した映画版 “Mean Girls” (2004)が2017年にミュージカルになって、そのミュージカルを再びミュージカル映画にしたのがこれ。 学園ドラマをみんなで歌えるミュージカルにすることについては”glee” (2009-)のこととか、その舞台ミュージカルを映画化すること、についてはいろいろ考えるところもありそうであるが、学園内の階層と宗派、その攻防を描くこういうのはおもしろけりゃいい、って思うことにしている。どうせわかんない世界のことだし、Tina Feyが脚色に関わっている限り変なものになることはないだろうし。

2004年の映画版を見たのはNYのSONY(今はLoews)シアターで、客席のティーンと思われる女の子たちがみんなわあわあ大騒ぎしていたのが印象に残っていて、これは彼女たちの映画 - そこにいた彼女たちのありようにそれなりに触れている映画、なんだろうな、って。

さて、今回のミュージカル~映画版は? となったときにまず気になったのはXとかαとかマーケティングの世界で語られる最近の世代のこととか、デジタルとかソーシャルとかTikTokとか、あとはLGBTQIA+とか、モデルとなる彼ら彼女らを取り巻く環境とか属性などがものすごく変わってしまったように見えたので、”Mean”の意味とか笑いとかオチとかのありようも変わっちゃって、期待したような動きどころか、なにを言ってるのかやっているのかすら意味がとれなかったりわからなかったりしたらどうしよう、って心配していたのだが、制作はLorne Michaels + Tina Feyだし、なんの心配もいらないのだった。(というか、ひょっとしてそういう懸念を抱いてしまっている最初の”Mean Girls”を見ていた親の代を安心させるためのものだったりする?)

冒頭、母親の研究でずっとケニアで暮らして自宅学習で学校に行ったこともなかったCady (Angourie Rice)がいきなりアメリカのハイスクールに通うことになり、群れのはぐれ者コンビのJanisとDamianからいろいろ教わりつつ学園内の掟や縄張りなどについて学んで、みんなに恐れられている女王蜂のRegina (Reneé Rapp)とその仲間に召し抱えられたり、ReginaのExのAaron (Christopher Briney)にぽーっとなったりしていくのだが、そこには嘘に裏切り、忖度、脅迫、血も涙もなんでもありのものすごい世界があるので楽じゃないんだよ相変わらず… というあたりを伝えたい、そこで音楽とダンスががんがん鳴りだして、その曲が転写するエモの描写になってしまうのでそんなに迫ってこないのと、そういう気がしてしまうのはどうせ音楽がやってきてみんなで歌えばー、などと年齢的なところも含めて自分が思ってしまっているからだろうか、ふつうに楽しめて、ああよかったねえ、で終わってしまった…

もちろんそれでよい – ここ50年くらい、進歩も退化もしない平地の世界があって、それはなんだかんだ高慢と偏見に溢れた残酷な世界でもあってなかなかしょうもない – まさにSNLがそうであるように – のだが、相変わらずだめだよねえって思いつつしょうがないか、ってなってしまうのはたぶんこっちがよくない…. という具合に、それぞれ見る世代によって距離のとり方とか感想も違ったりするのではないか。でもミュージカルでそういうふうになってしまうのってよいのかな、とか。

でも、もうちょっときちんとReginaの闇とか虞れとか、描こうと思えばできただろうに、それをやるとシャレにならなくなっちゃうのでいろんな配慮もあってあの程度にしといた、のかしら。あるんだろうなー、くらいの配慮の度合いが透けるかんじが少しだけ。なんか。

あと、これは200%自分のほうの問題なのだろうが、音楽がぜんぜん来なかったかも。

2.10.2024

[film] Argylle (2024)

2月2日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。二晩続けてIMAX。

21時の回とはいえ、初日なのに、Matthew Vaughnの新作スパイものなのに、あんま入っていなかった。この二週間くらい前、BFI IMAXの座席が全部この映画の猫(Alfieっていうの)の肖像で埋まっていたりして宣伝はがんばっていたのに。

確かに、Guardianでは★一つだったりしたけど、ストーリーは相当にいいかげんでめちゃくちゃだけど、耳タレ丸猫が出てくるし、悪くなかったよ。Sam Rockwellがよくて、強がりを言いながらだんだん傷だらけになっていく姿とか変てこ(自分ではかっこいいと思っている)ダンスのステップを踏む彼が好きなひとにはたまんないと思う。以下、多少のネタバレはあるか。

冒頭、典型的な危機一髪のシーンで、万能スパイのArgylle (Henry Cavill)が仲間のJohn CenaやAriana DeBoseと敵方の殺し屋のDua Lipaを相手にやりあったりしていて、でもそれは人気小説家Elly Conway (Bryce Dallas Howard)の最新作のヤマ場を書店のイベントで朗読したのを再現したもので、でも実家の母親(Catherine O'Hara)とビデオで話していてその結末がなんかいまいち、って指摘されたこともあり、電車で実家の方に向かうことにする。

その電車の中で長髪の小汚い男が絡んできて嫌だな、と思っていると突然彼女を狙ったかのような殺し合いが始まって、そしたらその男Aidan (Sam Rockwell)が彼女を守ってくれて、彼が言うには彼女の書く小説の通りに世界の裏側でいろんなコトが進んでいて、小説に出てくるマスターキーを狙って悪の組織がやってくるのだ、と。本当にAidanを信じてよいのか半端に悩んだ状態のままロンドン~フランスと逃げていくところで、ママとパパまで実は悪の組織の.. とか更にはElly自身も.. とかどんでん、というよりも脱臼とか階段落ちみたいなのが延々続いていって、そのバカらしさときたら“Kingsman: The Golden Circle” (2017)をはるかにしのぐほどで、Matthew Vaughn映画の定番である最後のやけくそに弾けまくるドンパチも、今回のについては最高級にバカバカしいったらない(褒めてる)。

素人の巻きこまれ型スパイ・コメディというとみんな大好き”Knight and Day” (2010)があって、あれは確かにすばらしいのだが、だれもがCameron DiazではないしTom Cruiseではないしなー、ってなるし、家庭内だましの巻きこまれものだと、さらに古いけど、”True Lies” (1994)なんかもあるのだが、あれらと比べてしまうとあとちょっと… フィクション上のスパイものと現実のスパイの殺し合いを小説で繋いで交錯させるって、アイデアとしては面白いけど、画面上だとどたばた煩雑で落ち着かないかんじになるなー。では、かといって見るからに、のHenry Cavillを中心とした典型的なスパイアクションを見たいかというと、そういうかんじでもないし。難しいかも。

わたしはBryce Dallas Howardさんが好きなので楽しく見ることができたが、そうでもないひとにはなんなの? ってなるかもしれない。パパとママがBryan CranstonとCatherine O'Haraのふたりで、これだけですごくよいし。Catherine O'Haraさんが出てきてあたふたするやつだと、つい“Kevin!”て絶叫してほしくなるねえ。

猫にはもうちょっとがんばって何かやらせてあげたかったかも。実はすべてを握って操っていたのは猫さまだった、くらいにしちゃうくらいでよかったのに。 少なくとも(同じ役名の)Samuel L. Jacksonとなんで絡ませなかったのか、とか。


2.07.2024

[film] The Zone of Interest (2023)

2月1日、木曜日の晩、BFI IMAXで見ました。『関心領域』。関心なのか利益なのか。

上映後に監督のJonathan Glazer + スタッフ2名のQ&Aがあった。モデレーターはあらびっくりのAlfonso Cuaron(映画べた褒め)。封切にあわせて、ICAの方では音楽担当のMica LeviとのQ&Aもあって、そっちの方が興味あったのだがあそこはスクリーン小さいしなー、って。

Martin Amisの同名小説(2014)を緩く原作としたもので、昨年のカンヌではGrand PrixとFIPRESCI Prizeを受賞している。

ものすごい終末の腐れた光景が見れるかというと、そんなことはなくて、そういうのを期待すると綺麗で退屈でつまんないかも。予告でかかった”Civil War” (2024)なんかのがすごそうだった。

同じJonathan Glazerの“Under the Skin” (2013)の皮膚の2層くらい下部になにかがくいこんで、音と一緒になってぬたくって抜けられなくなってどちらも窒息しそうに剥がされながら潰されていくあの閉ざされた怖さはあまり来ない。でも後からものすごいのが生理的なのも含めてじわじわとやってくる。

1943年、ナチスの司令官Rudolf Höss (Christian Friedel - 実在した人物1901-1947)は、勤務先であるアウシュビッツの収容所のすぐ傍に建てたきれいな住宅に妻のHedwig (Sandra Hüller)と5人の子供たちと暮らしている。家の庭の先 - 向こう側からは煙が立ちのぼり、たまに悲鳴や怒声のようなものが聞こえてきたりするものの、Rudolfは夕暮れ時にタバコを吸って寛いで、Hedwigは庭仕事でお花を咲かせたり何人かいる召使に指示をだして、たまにどこかから箱に入った婦人服が送られてくるとそれを皆で分けたり、高級そうな毛皮や宝石が来るとそれはHedwig自身が身に着けて鏡に向かってうっとりしたりしている。

Rudolfが子供たちと川遊びをしていると頭蓋骨のようなものが足に引っかかってきて、大慌てで子供たちを川からあげて入念に洗い流したりして、気をつけてほしい、とか本部にクレームの手紙を書く。

今の世であれば、ほぼ「ふつう」と言ってよい、どこにでもある家族の、家庭の風景と変わらない - 夫は仕事に、妻は家事と育児に(with 召使)、子供たちは子供たちの遊びに - という分担と関心のありようは揺るがないし、その位置でそれぞれがそこでの暮らしを楽しんでいる。普段の会話のなかに隣の建物群、そこに誰がいて日々何が行われているのか、は出てこないし、勿論知っているけどわざわざ出す必要があろうか、気にするほうがおかしいし、という態度。

その反対側というのか別次元というのか、反転された夜の、夢のような世界では畑に食べ物を撒いている子供がいたりする。暗視カメラに映る夜の獣のような蠢き。

やがてRudolfは別の部署への転勤が決まって、その家を引き払わなければならなくなると、Hedwigは猛烈に反対して、自分と子供たちはここに残る - 残れるように軍に訴えて、と。このすべてを吹き飛ばすような傲慢さ、それを言わせてしまう何か、がすごい。とってもありそうで。

なぜこんなことが許されているのか、許されていたのかの考察も裁きも、その考察を促す描写も一切ない。圧倒的な落ち着きと揺るがなさでもってHössの一家はそこに確かにあり、その安定のもたらす確信が毎週数千人のユダヤ人を着実にガス室に送って焼いて灰にして、それをもっと効率的に実行する方法を考えるのも仕事で、その目標や数値を評価する人たちがいた - そういう人たちは、こんなふうに。

そう、こんなふうに、まるで今の/かつての我々とおなじようだよね。ほら、という風景を見事なカメラとサウンドでぶん殴るように示して、最後に。

そしてこれはいまの我々の「関心領域」の、そのありようと何ひとつ変わるところがないの。偶然としか思えないようなガザの虐殺に対する態度、性暴力に対する、政治腐敗に対する、ぜんぶこんなふうに傍観者=加害者となってなんでかみんなふんぞり返っている。そのとてつもない圧の恐ろしさ。「言ってもしょうがない」 - これもまた関心領域のひとつのー。

Mica Leviの音は、これまでのようにうねって暴れ回るようなことはなく、太線の重ねられた分厚い壁を一枚ぶおおーんと置いておく、それだけ。ものすごく怒っているかんじ。

上映後のQ&Aは、Alfonso Cuaronの絶賛の言葉をうんうん、て聞いているうちに落ちてて、目が覚めたら終わっていた…  見て聞けばわかる映画だから。

2.05.2024

[film] Miúcha, the Voice of Bossa Nova (2022)

1月29日、月曜日の晩、Curzon Bloomsburyにあるドキュメンタリー映画専門のシアター(DocHouse)で見ました。

“Miúcha”として知られる歌手/コンポーザーHeloísa Maria Buarque de Hollanda(1937-2018) - Chico Buarqueの姉でありJoão Gilbertoの2番目の妻でありBebel Gilbertoの母であり、自分もCDは何枚か持っていたはず(Vinicius de Moraesと一緒のだったか) - 彼女が遺した膨大な映像、メモ、日記、などを網羅してBossa Nova黎明期のシーンの珍しい映像てんこもり! という以上にいろいろ考えさせられるところもあった。

監督はLiliane MuttiとMiúchaのいとこであるDaniel Zarvos。Miúcha自身による喋りの他に姪のSílvia Buarqueが彼女の声をあてたりしている。ブラジル・フランス・アメリカの合作映画。

父はリオの歴史家でボヘミアンの家庭で育ち、シモーヌ・ド・ボーヴォワールとジャン=ポール・サルトルがブラジルに来た時には彼らが家にやってきたとか、そういう環境で育って、ヨーロッパ~パリにいた時(ブラジルは独裁政権下だった)にJoão Gilbertoを紹介されて付きあって結婚することになり、Bebelが生まれて.. というのとは別に音楽の方ではVinicius de MoraesにTom JobimにStan Getzに、あとからChico Buarqueにー、と当時も今もの巨星たちがごくふつうに彼女の周りにやってきたり、一緒に歌ったり、それらの映像も沢山残っていて、わーとか、えーとか、ばっかりなのだが、そういうのが続けば続くほど、彼女のいた場所や歌声って矮小化されて見えにくくされたままだったのではないか、って。

もちろん、João GilbertoもVinicius de MoraesもTom Jobimも、音楽史に残る巨人たちであることは言うまでもないのだが、彼らがいくらすごかったからって、Elizeth Cardosoは?Elis Reginaは? Maria Bethâniaは? Tania Mariaは? Joyceは? … って (Elisの評伝映画はあったか)。

最初はJoão Gilbertoの(いかにもありそうな気がする)DVを告発するような内容だったら.. と少しどきどきしていたのだが、それほどでもなくて(ふつうに変な人、はあるけど)、であればあるほど、いろんなサークルの中心でいつも人なつこい笑顔で歌っていたMiúchaがより素敵にすばらしく、そんな彼女を掬いあげて想う映画、でよいのかな、って。(最初の方でボーヴォワールをきちんと紹介していたのでもう少しその辺を掘り下げるのかと思った)

João Gilbertoとの婚礼の時のフィルムに写真、夫婦でTVインタビューに出たときのとか、そこに乱入してくるよちよちのBebelとか、Vinicius de MoraesもTom Jobimのも見たことないような映像ばかりで、Bossa Novaって人を繋いで幸せにするよねー、って改めてあたりまえの。また聴き始めようかしら、とか。 数年前、ロンドンでCaetanoの公演に行った時、自分を含むブラジル人にとってロンドンは特別な場所なのだと強く語っていて、独裁政権下での亡命の経験は重かったのだろう、と思ったが、ヨーロッパって、ブラジル音楽全般にとっても決して小さくない場所なのだろうな、って。

数年前までの極右政権を経てあの国の音楽がどう変わっていくのか、少しだけ興味がある。別の極右政権のままずっときているにっぽんの音楽については、もうずっと腐って死んでる、と思うのでなんの期待もしていない。

ぜんぜん関係ないけど、グラミーの切り抜きのなかで、Tracy Chapmanのはほんとうにしみた。中野サンプラザの来日公演、それはそれはそれはすばらしいものだったのよ。

2.04.2024

[film] Lady Windermere's Fan (1925)

1月28日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。『ウィンダミア夫人の扇』

前回英国にいた頃から、BFIでは月一回、日曜の午後に生伴奏つきでサイレントの古典を上映していて、そのシリーズをまだやっていたのはとても嬉しかった。上映前に解説をしてくれるBFI National Archive curatorのBryony Dixonさんもピアノ伴奏のStephen Horneさんも変わらず。

原作はOscar Wildeの1892年の舞台劇、監督はErnst Lubitsch。MOMAが4Kリストアした88分版。

Oscar Wilde自身が細かく手を入れていった舞台版を見たわけではないのだが、これに関してはLubitschの方が勝っているのではないかしら。Wildeがこれを見たらなんと言っただろうか? というくらいにおもしろくて、そのはらはらどきどきは最後の最後まで止むことがない。

ロンドンに暮らすWindermere卿(Bert Lytell)のところにMrs. Erlynne (Irene Rich)から会いたいという連絡が入り、Windermere卿夫人のMargaret (May McAvoy)はなにそれ?/だれそれ?になるのだが、自分のところにはDarlington卿(Ronald Colman)が言い寄ってきたりいろいろあり、自分はMargaretの母だというErlynneにいきなりそんなこと言ってもだめでしょ、とWindermere卿が口止めの小切手を切ったりしていると、ふたりの仲をMargaretは怪しむようになり世界がぐるぐる回りだし、それでも強い意思をもって会おうとやってくるErlynneを止められずに4者の攻防がばらばらとこんがらがって、なにがどっちにどう転ぶのか、まったく見えない状態になっていく – のが大きいのか小さいのか自在に伸び縮みする「社交界」で巻き起こる。サイレントなのに、ひそひその陰口も含めてものすごくいろんな声が四方八方から響いてきてうるさいったらない。

置き忘れていった「扇」は証拠の品、というよりも新たな火種とか炎をかきたてるためのものでしかなくて、それ以上に大きな部屋にぽつんとひとり、あたしはなにをやっているのか? ってきょとんとしてしまうMargaretとか、一瞥しただけであんたはお呼びじゃない/あんたはこっちにおいで、って自動振り替えマシーンになるパワフルなErlynneとか、そりゃわたしはただの犬ですけどものすごく賢いのでなめんな、っていうWindermere卿とか、彼女がこっちに寄ってきてくれるのなら種馬だろうがなんだろうが、っていうDarlington卿とか、全員がとんちんかんな方角を見てその人を引き寄せたり遠ざけたり、に全精力を傾けていて、しかもなんでそんなことをしているのか、その本人にしかわからないし共有してはならない、という全体の掟 - 貴族はヒマでいいなあ - のありように圧倒される。 どこか別宇宙の知らない生き物たちを見ているような。

これと同じようなことを我々も普段の生活でやっていることはわかる、のだがこんなふうに幾何学模様の方程式のようにして示されると、ヒトってなんかすっげーバカなのかヒマなのかお利口なのか、わかんなくなるかも。でもとてつもない時間と労力のムダである気はして、でも日々のコミュニケーションなんて、これらの簡易版の集積&大量の見て見ぬふり大会、なのではないか、って。なにかを回避するために別のなにかを用意したり敷きつめたり、の大盤振る舞いで、こんな状態だって恋は勃発する。

あと、これだけいろんなやり取りを四方八方に繰り広げながら悪とか悪いひとの在処などから離れている。コメディだから、って言うのは簡単だけど、これだけのはらはらどきどきを悪の添加物なしで均質に広げてみたのってすごいのではないか。

英国に来てもう1ヶ月が過ぎてしまった。
映画は見たりしているがそれ以外はなんもしてないよう。

2.03.2024

[film] Nosferatu: Phantom der Nacht (1979)

1月27日、土曜日の午後、BFI SouthbankのWerner Herzog特集で見ました。
英語題は “Nosferatu the Vampyre”、邦題は『ノスフェラトゥ』。

これの後に続けて『カスパー・ハウザーの謎』(1974)も見て、70年代のHerzogのフィクションの映像の(よくもわるくも)強烈な、引きずりこまれるおもしろさにびっくりしている。これを続けていくのはいろいろきつかったのだろうが、近年のドキュメンタリーばかり、というのもなんかなー。

原作はもちろんBram Stokerので、かつF. W. Murnauのクラシック - ”Nosferatu” (1922)に多くを負っている、といいながらまんなかのふたり - Klaus KinskiとIsabelle Adjaniがあまりに濃く強くそこにいすぎて、原作が、オリジナルがどうという話なんてどうでもよくなってしまうというかー。

不動産屋をしているJonathan (Bruno Ganz)が上司から貴族のドラキュラ伯爵(Klaus Kinski)がこの辺の不動産に興味をもっているというのでトランシルヴァニアまで赴いて商談として纏めてくれないか、と頼まれ、心配する妻のLucy (Isabelle Adjani)をひとり残して、野を越え山を越えのものすごく大変そうな長旅をしてようやく彼のお城にたどり着いたら、見た目だけだとものすごく怪しく変なおじさん – なんの前知識もなしに会ったらそんなかんじ - がいて、それがドラキュラ伯爵で、Lucyの写真を見た途端に興味がある、そちらに行こう、というのだがその頃には彼もLucyも悪夢にうなされるようになり、Jonathanを送り出した上司は精神病院にやられて、伯爵の乗った船には大量のネズミが湧いて船員はみんな死んじゃって…

ドラキュラ伯爵が歩いて移動する - それだけで死と悪夢と災禍をばら撒くばかりで、それはペストやネズミと同じで戦ってどうなるものでもない。なのでvan Helsingもなにもしないし、残されるものも殺されるものもまん中にいるドラキュラも「なんで?」って顔で全員が途方に暮れていて、その救いのない様がいちばんホラーで、それを引き起こしたドラキュラのLucyへの想いも「あんただれ?」みたいなかんじの空回りばかりで、でも彼らの真っしろの顔とガラスの目玉とコウモリの飛翔はものすごくリアルで、ずっと残る。

でも、Herzogの、撮影で使ったネズミさんたちへの扱いを読んでちょっとあきれた。いかにもやりそうだけど。


Jeder für sich und Gott gegen alle (1974)

上のに続けてBFIの別のシアターで見ました。 Werner Herzog特集のなかでも、この作品は公開50周年、ということでリバイバルに近い回数で上映されている。

英語題は”The Enigma of Kaspar Hauser”。原題をそのまま訳すと「人はみな自分のために、神はすべてのものに立ち向かい」。邦題は『カスパー・ハウザーの謎』。カスパー・ハウザーものというと、ペーター・ハントケによる戯曲 (1967) とそれを80年代初に上演しようとした寺山修司、とか、別系で『ブリキの太鼓』 (1979) - 自分で成長と止めてしまった少年の話 - などが思い出される(そんな世代)のだが、それとは別の。

1828年のある日、生まれてから17年間、地下室のようなところに繋がれ転がされて言葉も喋れない状態でおもちゃの馬と遊ぶだけだった彼が、黒マントの男に外に連れ出され、簡単な言葉と歩き方を教わり、というよりしつけられ、その状態で町のまんなかに置き去りにされる。町の裕福な教授Georg Friedrich Daumer (Walter Ladengast)が彼を拾って屋敷に引き取って、きちんとした服を着せてKaspar Hauser (Bruno S.)と名付けられた彼は驚くべきスピードで言葉や論述を習得して、たまになかなか面白いことを言ったりするので周囲からも注目されていくのだがある日再び黒マントの男が現れて…

実在した人物の話なので逸話も伝説もいっぱいあって、テーマも成長や発達に関すること、適応に関すること、自由であること、社会の見世物となること、など彼を前にした人によって、その関わり方によっておそらく多岐で多様で、その中心にあるKasparはどこまでも空っぽの大きな穴のような存在となって中心を風が吹いていて、ああいうお話しが進んでいくなか、彼の内側でどういうことが起こっていたのかは最後まで謎のまま、誰ともわかりあえないまま、ああいう形で突然に死んで(殺されて)しまう。解剖した脳をとりだして、でっかい… とか言ってみたところでそれがどうした、って。

彼の死の床に現れる砂漠をいくラクダの群れ、Werner Herzogが彼の映画のなかで捕らえようとしているのはこういう見たことも触ったことも嗅いだこともなかったような世界のまるごとなのではないか。

2.01.2024

[film] All of Us Strangers (2023)

1月28日、日曜日の昼、Picturehouse Centralで見ました。

山田太一の原作は未読、それを元にした大林宣彦の映画『異人たちの夏』(1988)  - 英語題は”The Discarnates”も見ていない。みんな異人なのだから、で許して。

彼方にロンドンのビル群を見ることができるモダンな高層アパートに独りで暮らす脚本家のAdam (Andrew Scott)はどんより浮かない日々を送っていて、自分でもなんとかせねば、と思いつつTVを眺めたり冷蔵庫の残り物を漁ったり、昔の写真を見たり、Frankie Goes to Hollywoodの”The Power of Love”をかけたり、自分でもどうしたものか、ていう顔をしている。

そんなある日、同じアパートの6階に住んでいるというHarry (Paul Mescal)がウイスキーの瓶を片手に扉を叩いて、さっき遠くでちょっと目が合ったよね、って人懐こく一緒に飲まないか? と誘ってきて、ちょっとだけ惹かれてどうしようか、ってなるのだがやっぱりやめておく。

そんなある日、Adamは電車に乗ってCroydonの近郊に行って、かつて住んでいた家の前にきて、昔の家の写真をあててみると、家はまだ前と同じかたちで残っていたので、へええってなっていると、中からママ (Claire Foy)とパパ (Jamie Bell)が現れてよく来たねー、って歓待してくれて、Adamは驚いたり逃げたりしてもしょうがないし、今の自分の年齢で亡くなった彼らと同じ目の高さで相対して、自分がゲイであることとか、昔のいろんなことについて懐かしく話したりして、つい時間を忘れて長居して、これを機に何度か通うようになって、だいじょうぶだろうか? と思いつついつも暖かく迎えてくれるのでされるがままで、雨に降られてびしょ濡れになった彼の服をママが脱がせたりしながら話をするところの細かさとか、なんかよくて。 もうこの世にいないはずの彼らは自分たちがそうであることを知らないか触れないし、Adamも確かめようとは思わない。それよりも話したいことが沢山あるしなによりそうしている時間が愛おしくて。

それと並行するかのように – 何かが開かれたかのように、Harryを好きになって一緒に過ごす時間も延びていって、誰に咎められることもなく、その関係は続いていくように見えたのだが…

ひとをそのひと(たち)と一緒にいたい、少しでも長く、離れたくない、いなくならないで、って思わせるのは過去の記憶なのか、現在の心地よさの持続なのか、情動なのか、そしてそれはどんなふうに終わったり消えてしまったりするものなのか。

なにも、なにひとつ起こらないお話し。Adamが見たり会ったりしていたのは幽霊かもしれないし幻影かもしれないし、それがそうだったとしても、別のなにかだったとしてもAdam以外の人たちにとっては極めてどうでもよいことで、それで世界が動いたり変わったりするものではない。

あるいは、最初の方の、うだうだしていた頃のどこかの時点でAdamは死んでいたのか、それに近い状態だったのかもしれなくて、だからHarryが親しげに近寄ってきた(or 誘いにきた)のかもしれない。どうであっても、風景も含めた画面全体から漂ってくるこの世ではない彼岸とか冥土のかんじが絶妙に心地よく、幽霊のお話しなのにちっとも怖くなくて、ああ向こう側に行けたら、こちらとあちらを隔てているものは何なのか、という切なさがやってくる。

そういう空気を漂わせてしまう真ん中のふたり - Andrew ScottとPaul Mescalがすばらしいことは言うまでもない。このままでよいのか向こうに行くべきか戻るべきか、のようなふにゃふにゃした、ちょっと痛みの伴う惑いを演じさせたらとんでもなく巧いのだが、このふたりでなければ成立しなかったくらいの場を作ってしまっている。

音楽は最後に再び流れるFrankie Goes to Hollywoodの”The Power of Love”の他に、こちらの予告で流れていたPet Shop Boysの”Always on my mind” - これは泣いてしまうのではないか、と思っていたら、家族みんなでクリスマスツリーの飾りつけをするシーンで、ママが曲に合わせて口ずさむところで… あんなのずるい。他にもThe Housemartinsの”Build”とか、他にもBronski BeatとかThe Psychedelic Fursとか、ぜんぶわざと、わかっててやってるんだわ。