2.28.2015

[log] February 28 2015

とりあえず、シンガポールの日程を終えて、帰りの空港まできました。

やれやれ。ほんとやれやれだったわ。

寒いところからいきなり暖かいところに行くと全身の毛穴たちが閉じとくべきか開けてよいのか困っていちいち相談しにくるのでうるさいし、でもそんなの相手にしているほど暇じゃないし、でもほんとに過ごしやすい夏のかんじだし、でも忙しいんだから外には誘わないで、と。

旧正月の最後の週だったらしく街中は華やかで、あと建国50周年というのもあってほんわかやかましく、よけいにやる気そがれた。もともとなかったやつが。 でもいきなり祝祭ムード持ちこまれても目のやり場に困るよね。

ホテルはRaffles Hotel の隣にある外資系ので、窓の下にはプールでぷかぷか浮かんでいるひととか、向こうには3本の上に横長の筏みたいのが乗っかった高い建物(名前しらん)が見えて、すてきー、なのだが別に出張の滞在だしな。 (あと、帰国の朝に気づいたのだが、立って水を吐くライオンのやつも窓から見えるのだった)

土曜日の午前までお仕事で、午後には子供たちを放り出して少しだけ外をうろつくことができた、けどとにかく陽射しが強いしあっついしタクシーつかまんないし。

映画は2本。 米国映画と英国映画。 異国の映画館ておもしろいよねえ。ほんとシステムもお客さんもいろいろだなあ、とか。

しかしショッピングモールとかセンターとか、なんであんな、いたるところに沢山あるのかしら。しかも同じようなのばっかし。 みんなそんなにお買い物好きなのかしら。
でもいまの日本が目指しているのも、経済に関してはああいうスタイルなんだよね、とか。
(あたまに浮かべただけで脳死するんじゃない)

パンダは遠そうだったので諦めたの。 またこんどね、かいかい。

ではまた。 さようなら2月。

[film] 20,000 Days on Earth (2014)

19日の木曜日の晩、終っちゃいそうだったので慌てて新宿でみました。
前日のライブがMike Patton(FNM)で、濃いひとたちが続く。

Nick Caveのドキュメンタリーフィルム、ではないことはタイトルロールの後、彼がベッドから起きあがる最初のショットでわかって、これはシナリオがあって映像作品として撮られることを狙ったもの、彼が映画を通してなにかを言わんとしたものなのだな、ということがわかる。

基本はインタビュー、というよりセラピストのような人たちとの対話と、彼の傍で仕事をしてきた人たち - Warren Ellisとか、Blixa Bargeldとか、Kylie Minogue -  と彼との、まるで冥界で話しているかのような対話。

アーティストのポートフォリオ、というほど作品や人物像に迫ったものではないのだが、生い立ちのこと、父親のこと、執筆や音楽のこと、などなどについて、ものすごく普通に、高揚することも激昂することも泣いたりすることもなく語っていく。 全生涯全作品の回顧、というよりは20,000日間の旅日記抜粋、のようなもの。そういうなかで、ゴリラみたいだったりヤク中みたいだったり凶暴だったり気難し屋だったり、というイメージで語られがちだった彼自身の像は気持ちよく裏切られていくのだが、でも、我々は彼がそういうひとだということはずっと昔から知っていた、わかっていたんだよね?  ということを改めて確認する、そういう映画でもあった。

比較するのは適切じゃないかも、だけど、1月の終りに見た”David Bowie Is”とはまったく異なる切り口。 
(あれはBowieの映画を通して彼の全体像に迫るかに見えて、結局はV&Aの展示内容の解説 - BowieというよりV&Aばんざい! の映画だった)

この映画に現れてくる彼の親密さ、とか真っ当さ - 例えば一番怖いものはなにか、と言われて「忘れること、記憶を失うことだ」と言うとき、彼がこういう形の映像を残したかった理由はすごくわかるし、極めてコンスタントに音楽や詩や小説を発表しつづけていることもわかるし、続けてよね、と切におもうのだった。

遺書のようなものになるのかしら、という懸念も最初は少しだけあって、でもたぶんそうではなくて、とりあえず20,000日で切ってみた、くらいのものなのだろう。
ラスト、彼をひとり海岸に置いたままゆっくりと海のほうへ遠ざかっていくカメラがすばらしいのだが(南極に置き去りにされた犬を思いだした.. のはよくない)、次のときには、これがゆっくりと寄っていくことになるのだろう。

そういえば、こないだのNYのレコードで唯一収穫らしい収穫だったのは、この映画のリリースを記念して発売された10inchだった。 映画のなかにも出てくるSydney Opera Houseでのライブから2曲。 “Give Us A Kiss” と”Jubilee Street”。 すんごくよいの。

2.27.2015

[film] The Disappearance of Eleanor Rigby: Her / Him (2013)

シンガポールにいます。 いろいろ言いたいことはあるよ。

NYに行く前に見た映画で書いてないのがいっぱいあってどうしよう、なのだが、渡米前でも後でも思いだせるやつとか書きたいやつから書いていけばいいや、ということにしたの。 適当にだらだらー

14日土曜日の夕方に”Her”を見て、15日日曜日の昼間に”Him”を見た。
あ、“Her”が「ラブストーリーズ  エリナーの愛情」、“Him”が「ラブストーリーズ コナーの涙」ていうの。

“Her”が100分、”Him”が89分、あと、2014年にふたつをマージして作られた”Them”が123分。

出会って恋におちて一緒になって子供が生まれてやがて別れた男女ふたりの、同じひとつの時間空間、ふたつそれぞれのあたまんなか、を専有していたあれこれを彼女の側から描いたのが”Her”、彼の側から描いたのが”Him”。 でもこれは「ラブストーリーズ」なんかではなくて、そう呼びたいひとはそう呼ぶのかもしれないけどそんなの大きなお世話で、原題にあるように彼の前から突然姿を消したEleanor Rigby (Jessica Chastain) の前と後に横たわるいろんな「?」に対する答えを探す物語なのだと思う。それをドライブしたのはかつての恋とか記憶、なのかもしれないけど、「ラブストーリー」に帰結する強さを持つところまでは至っていない。

どっちから先に見るか、で印象は結構異なる気がするのだが、わたしは”Her”からみた。

“Her”の冒頭、Eleanorは橋の上からぽちゃんと飛びおりて怪我して実家に引き取られ、髪を切ってリハビリしつつ父親(William Hurt)に勧められてCooper Unionに聴講に通うようになって、突然再会して追っかけてきた彼 - Conor Ludlow (James McAvoy) ともぎこちなくて、でも彼女も彼も真剣で、でもどちらかがどちらかをリードしようとしても絶えず失敗してその繰り返しで、でもその、もはや恋とは呼べなくなってしまったかもしれないふたりのあがきは、どこに向かってなにをもたらすのだろうか。

“Him”は、彼女が飛びおりるより前の、出会ったふたりの楽しい頃からじりじりとどん底に落っことされて、そこから延々続く彼の苦しみとかうんざりとかぐったりとか。 かわいそうにー。

“Her”では彼女をはらはら見守る家族 - Isabelle Huppert, William Hurt, 妹 - がいて、そこも含めてどこかに向かおうとする彼女の「逃走」が、”Him”では人生の先輩としての父親 - レストラン経営者として成功した - との確執も含めた交流と共に「成長」が、キーになっている気がして、ふたりはお互いそれぞれを過去の記憶や家族から切り離されたたったひとりの”Her”や”Him”として見ることができなくなっていて、でもそのことに気付いたときに、ひょっとしたら何かが始まるのかもしれない、という極めて控えめな示唆と共に映画はおわる。

まあ、あとは主役のふたりが巧いというのもあるけど、Herみたいにぎすぎすして触りようがない彼女とか、Himみたいにナイーブなんだか無頓着だかわかんない彼とか、ごくふつうに居そうだし、イーストヴィレッジを中心に展開する(恋)物語の足に地がついた感 - NYなんだから - の気負いゼロであの辺のアパートのインテリアとか町を自在に動き回るかんじとかの落ち着きようがすばらしかった。 “Her”と”Him”で我々はほぼ同じ風景を続けて見ることになるので、この辺が緩いとすぐわかっちゃうし。

Herが何度も駆けこむAstorの地下鉄の入り口、ちらっとうつるPorsenaのウィンドウ(ここのEscaroleサラダとラザニアとLemon Olive Oil Cakeは世界一おいしい)とか、コーヒーを買うVan Leeuwenの屋台、とか。

で、そこがきちんと描けているが故にふたりの、どこかに引っかかろうとする必死さ、切なさが際立って波を起こすの。

2.25.2015

[log] February 25 2015

週でいちばんかったるい水曜日の深夜、羽田にやってきてこれからシンガポールに飛ぼうとしていて、余りに楽しくなくてわくわくもないので今更ながらにびっくりしている。 
アジアからアジアに飛んでなにが楽しいのか、とかアジアのことなにも知らない奴が言ってる。 いまだにシンガポールもベトナムもインドネシアもマレーシアもタイも、どれがどういう事情でどこにあるのか、自分はなにもしらない。 更にすごいことを白状すると関東圏以外の日本の地理もあまりよくわかっていない。福井と福岡と福島のちがいもよくわからない。 どうしようもない筋金入りのアジア非国民だとおもう(だから国籍剥奪していいよ、こんなやつ)

まあとにかく、ホテルで2泊、機中で2泊、木金と土曜の昼まで仕事して土曜の夜便で戻ってきて、気がつけば2月はさようなら~ なのね。

果たしてその国は暑いのか寒いのか、と調べてみたらえらく暑そうじゃないか。
夏、なの?  どうするんだ?  と、空港に来てからいうか。

でも、ほんとにつまんない国なんてないし、ほんとにつまんない仕事なんてないのよ。 たぶん。というのはじゅうぶんわかっているのだが、厄介なのはやる気ってやつなのじゃよ、ていうのもじゅうぶんわかっているのだが、ずっと同じところにいるのもねむくてさあー、こいつばっかしは。

ゆいいつ興味があるとしたら、あれだな、 こないだNHK教育(てもう言わない)でやってたジャイアントパンダの「かいかい」と「じゃじゃ」だよね。 でもパンダなら四川にいかんと。

ではまた。

[music] Sharon Van Etten

金曜晩のSt. Vincentにふられて、週末のHostessにもふられて、Dot Hackerも売切れで、ちゃんと準備しなかった自分がわるいとはいえ、とにかくライブ欲が体の奥で溢れかえっていた23日月曜日の晩、21:30の回に見て、聴いた。

ビルボード東京なんてとこは初めてで、レイアウトも値段もよくわかんなかったし、立っていても寝てしまいそうなくらいへろへろだった(ならイス席ならよけい…)ので、バルコニーていうのにしてみた。
あとで勘定みてびっくらした。だってこないだMercury Loungeでみたときなんて$16くらいだったのにさ。 あそこからいきなりこんな小屋に来たらびっくりだよね、そりゃ。

前回みたMercury Loungeのライブは“Tramp”の発売前、先行7inchの"Serpents" - The NationalのDessner兄弟が参加していてよすぎて震えた - が出たか出ないかくらいで、たしか”Tramp”の全曲をやったやつだった。 この時点で彼女はじゅうぶんあの界隈(ま、Other Musicとかあの辺ね)では騒がれていて貫禄で、ああすばらしい、だったのだが、このひとは昨年の”Are We There”で更にその上をいってしまったの。 メジャー感とか一切関係ないところで。

バックは4人のバンド編成で、SVEはアコギとかオムニコードとか電気ギターとか、性急になったり荒れ狂ったり轟音に震えたり、ていうダイナミックなうねりやドラマはなくて、エレクトリックフォークの静謐さがあるのだが、聴くべきなのはやはりその声なの。

滑らかで冷たくて温かくて、ほんとうにそこに存在する声、吐息の生々しさがあって、でもそこに痛々しさや苦しみはない、絶対零度の声。 ばかなことだ、と思いながらもいつも誰に似た声だろう、て探して、結局諦める。 Hope Sandoval, Margo Timmins, Beth Gibbons, といった所謂Femme fatale系とはちがって、こちらを惑わせたり震わせたり、或いは拒絶したりするような声ではなくて、抱きしめたくなるような弱さ儚さ孤絶感を湛えているわけでもなくて、ただそこでひとりで歌っていて、いいなー、ておもうの。 ただ声と歌の強さとその鳴りのみがある。

酔っ払い女がわーわー言ってもぜんぜん動じない、ギターを鳴らして歌う、そこのみに集中した強さ。 後半に演奏した新曲の新曲とは思えない馴染んでくるかんじもすばらしかった。

次はもうちょっと居心地のよい場所でね。
26日はお誕生日だそう。 おめでとうございます。

あんま関係ないけど、Juliana Hatfield Threeを久々に聴きたいなあ、とか。

2.24.2015

[log] New Yorkそのた2 - February 2015

New Yorkの食べものとか本とかー。

今回、まともに動けたのは1日の日曜日 - 着いた日の午後くらいだったので、あんましないの。

Root & Bones
http://www.rootnbone.com/

ちゃんとしたFried Chickenのお店、としてオープンした頃から騒がれていて、ブランチに行ってみたのだが、やっぱし満員、30分くらいの待ちで、しょうがないのでその間、近所のMast Booksを訪ねてみたら、着いた直後で気分が揚がっていたところに、30分しかない、という焦りがぶつかって、ふんとにバカみたいな散財をしてしまう。 初期(LondonのとSFの)Punksの記録本なのだが、ああいうのの市場価格ってどうやって決まるんだろうねえー。

とにかく、Fried Chickenときたら、まあすごかった。
KFCとも大分の唐揚げともぜんぜん違う正しくFatでみっしりして繊維のまったくない、頬張った肉の塊がそのまま均等の強度と密度でふんわかはね返ってくる、軍鶏系の歯応えとはちがう、肌理の細かいしっかりめのパンみたいなかんじので、そこに貝殻みたいに被さったばりばりの衣がまた。ブランド鶏でもなんでもないのよ。 ただの鶏なのよこれ。  
この次はDaniel Bouludのロティスリーのお店にいきたい。

その晩11時、雨のなか出かけたのがー。

Dirty French

昨年の食べもの関係のかなしーニュースのトップは、なんといってもTorrisi Italian Specialtiesのクローズだった。あの狭くて冗談と紙一重の段ボールみたいなデコールのなか、こんなの作ってみましたけど… ていうかんじで申し訳なさそうにちまちま出てくるイタリア小皿の爆弾のような力強さがもたらす混乱とスリルときたら。

で、そこ(とかCarboneとか)をやっていたMajor Food Groupがついにフレンチのビストロを出す、というのだから行かないわけにはいかないでしょ。

http://www.nytimes.com/2014/12/10/dining/restaurant-review-dirty-french-on-the-lower-east-side.html
(このレビュー記事のスライド、すてき)

すでにNY Timesとかで取りあげられていたお皿 -  Millefeuille; Trumpet Royale, Green Curry
キノコのミルフィーユ+グリーンカレー、という文字面の印象を軽々と裏切ってくれる心地よさ。
貝のようにしなやかで堅い、ソリッドなキノコの断面にしみて波を起こす緑のソースの驚異的なこと。 なんと、ぎりぎりでキノコが勝つの。 キノコが緑カレーを抑えこむの。

この日、豚が売り切れていたのは残念だったが、ラムもおいしかった。
デザートのベニエもすばらし。 フライドチキンとビスケットで始まってベニエでおわった2月のあたまのいちにち。

ここ以外のお食事はほおんとにどうってことなくて、お仕事の会食でBetonyを再訪した、くらい。
Grilled Short Ribがシェフのお気に入りだというので取ってみたら、想像していたのとぜんぜん違う、低温調理された赤身のふかふかで、マスタードがざっくり斬りこんでくるのだった。 鉄の味が好きなひとにはたまんないかも。


あと、これもお仕事で朝の8時にSarabethとか。(Sarabeth20年ぶりくらいだったかも)
お仕事じゃなかったけど、これも久々に朝の9時にE.A.T.とか。
Shake Shackのモーニングセットは、ぜんぜん惹かれませんでしたわ。

本屋さんは、これまで書いたのと、いつものMcNally Jackson程度だったのだが、あんましなかった。
気がする。(ていうかまだ荷をほどいていない...)

レコ屋さんは、いつもどおりOther MusicとRough Trade NYCくらいだったのだが、こっちもあんましなかった。
Destroy All Monstersの箱をどうすべきかえんえん悩んでいた、くらい。

ほかにもなんかあった。 はずだけど。
今回はとにかくどんづまりだったようー

2.22.2015

[log] New Yorkそのた1 - February 2015

6日の金曜日、Howard Greenberg Galleryのあとは一旦荷物を置いて、6時丁度にAquagrillに入って生牡蠣25種類25個を流し込んで、7時過ぎに出てから最後のお買い物にとMcNally Jackson → Other Music → Generation Recordsと流れて(どこもあんま収穫なし)、8:30にFilm Forumにたどり着いた。

ここでは4日からCharles Laughton特集が始まっていて、その最初の演目が、”Jamaica Inn” (1939)。 Hitchcock英国時代最後の作品、原作はDaphne Du Maurier、ヒロインがMaureen O’Hara、なのでこれは見なきゃね、だったのだが寒さを緩和するために、ここに来たときの定番のOrange pekoeに蜂蜜いれたので暖まったらすんなり落ちてしまい、たまに目が開くとCharles Laughtonこわいー、とかMaureen O’Haraきれいねー、とかそういうのしか残っていない。
またこんどね。  今やってるJohn Boorman特集もいいなー。

他に、見たいと思っていたので見れなかったのは、IFCでやってた”The Duke of Burgundy” (2014) 。 夜11時すぎの一回しかやってないんだもの。

行き帰りの機内でみた映画。 行き→帰り、で見た順に。

This Is Where I Leave You (2014)

放送局に勤めるJason Batemanが昼間おうちに戻ったら妻が自分の上司とベッドでやってて、なんてこった、と頭抱えたとこで父が亡くなったと連絡を受け、葬儀のために実家に戻る。実家には、母(Jane Fonda)、兄(Corey Stoll) - 姉(Tina Fey) - 弟(Adam Driver)が揃って、ユダヤの教え(Shiva)に則って7日間ひとつ屋根の下で遺族が過ごすべし、ということになる。
でもこの一家にはそんなのに従うよいこは一人もいなくて、一緒に過ごせば過ごすほど過去のいろんな傷とか確執とか問題が露わになって大騒ぎの大喧嘩になるのだが、そこでいきなりJane Fondaが。
お葬式ホームコメディ、ではあるのだが、ひとりひとりの苦闘葛藤がきちんと描けていてしんみりよかった。

親たちの騒ぎからひとり離れ、自分でおまるを抱えて扉の外に出ていって用を足す男の子がなんかよいの。
しかし、Jane Fonda - Tina Fey が家族のなかにいるって、すごいよねえ。


The Expendables 3 (2014)

飛行機出張をよくするアメリカ人と「飛行機映画」ていう括りで映画の話しをすることがあって、それは映画館で見るほどのもんではない、機内で見ればじゅうぶんよね、ていう映画のことで、このExpendablesのシリーズはまさにそれなの。 1も2も見たのは機内だったし。

今回の悪役、Mel Gibsonがあんまし狂犬してなかったのが残念だった。
Harrison Fordはなんか中途半端だし。 Wesley Snipesは、いつ見てもこのひとが強いとは思えないの。運動神経わるそうだし。


Alexander and the Terrible, Horrible, No Good, Very Bad Day (2014)

ディズニーのホームコメディで、途中で寝ちゃったので行きで半分、帰りで半分みた。

Steve CarellとJennifer Garnerが夫婦で、4人子供(男-女-男-赤子)がいて、次男のAlexander (Ed Oxenbould)は12歳の誕生日の前日、悪いことがたて続けに起こったので、夜中に神様神様自分以外の家族みんなに悪いことが起こりますように、ってお祈りしたらその通り、失業中のパパの面接に、出版社のママの書店イベントに、長男のプロムに、長女の校内ミュージカルに、それぞれの重要イベントに惨事がてんこ盛りでやってきてAlexanderの誕生日どころではなくなっちゃうどたばた。
でもひどいことが起こったってへっちゃらさ僕らは家族なんだもの、ていうやつ。
Steve Carellとしては“Crazy, Stupid, Love.” (2011) とおなじくまじめな善きパパ役で、”Foxcatcher”(そろそろ見ねば)の予習としても効いたかも。


The Best of Me (2014)

これもあるいみ飛行機映画なのだが、それをひとにいうと、映画館に一緒に見にいってくれる相手のいない寂しいひと、と受け取られてしまう可能性があるので注意することよ。

どこかの沖合で石油かなんかを掘っているDawson (James Marsden)が爆発事故で遠くの海にふっとばされて、でも死ななかったのはなんかの思し召しかも、と思っていたところに弁護士から電話がきて、ある老人が亡くなったのでその遺言のことで来てくれ、と言われて、そこでAmanda (Michelle Monaghan)と再会する。 彼女と再会するのは20年ぶりで、ふたりの間には過去いろいろあったらしくてぎこちなくて、いったいなにがあったのか、と92年当時高校生のDawson (Luke Bracey)とAmanda (Liana Liberato)の物語を挟みつつ、いろんな巡り合わせを巡って合わせて新たにまわりだした愛の歯車はいったいどこに我々を連れていくのかー。

原作は土砂降りの中のキスとか水中でのハグとか身分違いの恋(女性はお嬢様で男性は野卑でもよいこ)とかが大好物のNicholas Sparksなので、あらあらそんなほうに、で飽きないのだけど、あの終り方はなかなかすげえとおもった。 あんなんでいいのか?

あと、92年版と現代版の俳優が違いすぎないか、と思いつつ、92年の子達があまりに92年してたのでなんか懐かしかった。 The Lemonheadsの頃…


Monica Z (2013)

邦題は「ストックホルムでワルツを」。 できれば映画館で見たかったのだがー。
実在したジャズシンガーMonica Zetterlund (Edda Magnason)の女の一代記。
歌好きのシングルマザーがアメリカに渡ってみたらElla Fitzgeraldに、あんた自分の歌を歌いなさいよ、って怒られて、母国に戻って母国語でジャズを歌うようになってだんだんスターにのしあがっていくのだが、その裏には恋も結婚も酒も煙草もいっぱいで大変だったの。 ていう流れは割とふつうで、でも音楽もファッションも、全体のプロダクションが見事で惚れ惚れとみてた。
しかしなんだね、ぼろぼろに堕ちていく主人公を影で支える奴って、ぜったいいるのね。
もうやっているのかもしれんが、ミュージカルにしてもいいよね。

映画周辺はこんなもんかしら--

2.20.2015

[art] On Kawara - Silence

ふたたびNYにもどる。

6日のごご、“Girlhood”が終った時点で3:40くらい。Film Comment誌を買ったり、近辺でお買い物したりして、Broadwayを上ってから、Cross townのバスで東に渡る。 寒さでがりがりに凍った夕暮れどきにタクシーなんて捕まるわけないの。

なんとかGuggenheim (シナモンロール by Annie)にたどり着いて走り込む。
昨年81歳で亡くなったコンセプチュアル/ミニマルアートの巨人の回顧展、この日が初日。
アートにおいてコンセプチュアルであるというのはどういうことか? 例えばこういうこと。

誰もが知っている日付絵画 - “Today”シリーズの他に、ポストカードを延々送り続ける“I Got Up”シリーズ、電報を使った“I Am Still Alive”シリーズ、地図を使った”I Went”シリーズ、名簿を使った”I Met”シリーズ、新聞を使った”I Read”シリーズ、竹橋のMOMATでも流れていた“One Million Years”のLive Reading(いたとき、やっていた?)とか。 タイトルそのままのシンプルでわかりやすい、しかし底なしの作品たち - 今ならスマホのアプリが反自動で勝手にやってくれそうなこと - をこのひとは40年以上も昔から極アナログでこつこつ組みあげていった。

モダンアートの展示にいけば必ずサンプルのようにひとつふたつは展示されている日付絵画が緩やかな曲線に沿ってずらりと並べられたとき、どんな光景が広がるか -  すごいの。

“I Got Up”のシリーズでいうと、68年から79年までの間に投函された約8,000のカードのうち、約1500枚を、4 feet x 6 feet(ちなみにカードは4 inch x 6 inch)のガラスのパネルに貼りつけて、これを16枚ぶん。 こういうのが、Guggenheimのあのスロープに間を置いて整然と並べられていて、見るひとは蝸牛の裏をゆっくりと(というわけにはいかなかったけど今回は)這いながら、その経過した時間の重みと軽みをいっぺんに感じることができる。

(ポストカードの件↓)
http://blogs.guggenheim.org/checklist/daily-mail-showing-on-kawaras-postcards-at-the-guggenheim/

こうして等間隔に並べられたアートの狭間や痕跡から立ちあがる影とか存在とか気配とか、高松次郎が「ミステリーズ」と呼んだそれらを、ここでは”Silence” - と。

おそらく今年のベストに入るであろう展示。
エレベーターとかあちこちに日付絵画のその日のが貼ってあって、そういうとこも素敵で。

カタログはシンプルな布装のが4色あった。 こんなの買わないわけにはいかず −

Guggenheimを走り出て時間ないからタクシーひっつかまえて57thまで降りて、ふつーのビルの14階 - Howard Greenberg Galleryで、これを見た。

Ken Schles: Invisible City/Night Walk 1983-1989

http://www.howardgreenberg.com/#exhibitions/325

Twelvetrees Pressから出ていた伝説の写真集2冊がSteidlからリプリントされたのを機にオリジナル40点を展示したもの。 60年、Brooklyn生まれのKen Schlesが80年代に撮ったLower East(Ave. B周辺)やBrooklynの夜の風景。 写真集は小さいけど写真は大判で、その粒の粗さがダウンタウンの夜、部屋の隅 - 生暗い生乾きのかんじと対照をなしていて、なかなかだった。

サイン本があったので2冊どっちもかった。 だから重いってば。

[music] Faith No More / Le Butcherettes

18日のごご、これを見るために半休とった。 いろんな意味でまったくもお、だがしょうがない。
ライブまでの間の時間に"Annie"みた。 ほんとは「さらば、愛の言葉よ」(タイプすると恥ずかしいな)を見たかったのだが、あの気圧でああいうの見ると頭がしんでしまうのでやめて、軽くて楽しいのにした。

とっても楽しかったけど、"Tomorrow"がえんえんまわり続ける状態で一旦帰って着替えて新木場について、着いたら開場していたのだが、整理番号をひとつひとつ読みあげて人を入れていたのでうんざりして、でもとにかく中には入った。

Le Butcherettes

6:15から。 女の子ふたりとベース男のトリオ。

まずはベースが的確にリズムを刻んで、ドラムスはそのケツとか合間にケリとスティックを叩き込む系のやつで、このフォーマットって、ベースが緩いとただの素人バンドになってしまうのだが、そうはなっていないのはさすが(TAAS!)。

最初は大股開きのキーボードで、それからギター抱えて叫んだり仰け反ったりやかましいのがフロントのTeri Gender Benderさんで、Anthropologieふうのプリント柄ワンピで後ろ姿だけならZooey Deschanelさんみたいにキュートなのに、突然海老反りしたり顔を歪めて絶叫したりリーガンかキャリーかみたいに変容して、暴れっぷりがかっこいいの。
かといって、ごくありがちなビッチ系でも巫女系でもなくて、アンサンブルのまんなかに頭つっこんでふんばって体を揺らせ震わせ叫んでいる、そのバンド感もよいの。 

「むちょぐらしああーす!」の爽快さ、片手でキーボードむしりとるのもかっこよくて。

音はぜんぜんちがうけど、Le Tigreを思いだしたり。
あと、はやくScreaming Femalesを来日させろ。

しかし招聘元の解説文がおもしろすぎ。
『Le Butcherettesは シュールレアリストLuis Bunnelと大胆なロックアイコンのPJ Harveyを合わせたようなバンドで、 その強烈さとシンプルでお茶目なキャッチ―さで過激な主張を調和する。』 とのこと。

たった30分、もっと見たかったよう。


Antemasque
Mars Volta周辺というのは未だにわたしにとって謎の領域で、すごいねえ、とは思うもののスポーツのすごいのを見ているような印象しかもてないの。 マッシブでハイパーでサイケ、てくるとなんかお手上げで耳から泡が。
ほんと音は悪くないとおもうし、悪いのは自分だとおもうし、ごめんね、でもなんか。


Faith No More

Imperial Teenはだいすきだったし(The Breedersの前座でみた)、FantômasもFantômasMelvins Big BandもTomahawkもライブも含めて相当に聴いたものじゃったが、FNMはまともに聴いたことがなかったのはなんでだったのか。
まあ、理由はいろいろあったのだろうけど、当時わらわら出てきた西海岸の肉体系のに括られていたこともあって、一聴して子供っぽいとか思っちゃったのね、たぶん。

でも今回の結成20周年の写真とか、7inchの新譜とかがすごくよかったのでやはりこれは行かねば、と。

前日になにごとかあったらしく延々サウンドチェックしてた。 ステージ上には観葉植物が並んで全員白の衣装で、狙ったのはアジアンリゾートホテルの怪しげな従業員あたりか。

音もアンサンブルもすんごくよい。 じゅうぶんな技術をもった奏者が破綻なくどかどかとアグレッシブな楽曲を再現する、というところがもたらす快楽はNINのそれに近くて、それをヴォーカルの咆哮が真っ向から受けとめてこっちに汗涎と共にぶちまけてくる、というところもNINに近いかも。

もちろん、Trent ReznorとMike Pattonの共通項といったら「哺乳類」くらいのもんだしどうでもよいのだが、今回のMike Pattonの漲りっぷりときたら、なんだったのか。 いろんなバンド、プロジェクトでの実験くん、前衛くんの成果を肥やしに、それらを存分に食っては吐き出すその猛々しさ、強靭さがこの極めてまっとうかつ王道のアンサンブルを隅から隅まで強引に支配していて、要するにこれこそがFNMの音なのだねえ、というのをしみじみおもった。  
まあ、たんに「おおえどおんせんものがたり」が効いただけなのかもしれんが。

アンコールの巻上先生の登場は、ある程度予想はしていたので大喝采もせずにふむふむ、とか頷いてしまったが、ほんとはものすごく、泣きたくなるくらい嬉しかった、ということは強調しておきたい。  Mike Pattonにも巻上さんにもありがとう、て言いたい。

笑えるところはいっぱいあったけど、"Eat Poo Poo!"がいちばんおかしかった。
気持ちはわかるけど、あんたらいい歳してなに連呼してんだ。


土日のチケットが売り切れてしまったので当日券があるようだった今晩のに思いっきりずる抜けして走りこんだら売り切れていて、脱力感がはんぱない。 もう週末おわったかんじ。

2.17.2015

[film] Girlhood (2014)

6日の金曜日、最後のいちんち、午前で仕事がおわる予定で、おわる予定で、おわれおわれ、て朝からずうっと念じていて、でもなかなか終らなくて鼻血がでそうで、Lincoln Centerの1:45の上映にぎりぎりですべりこんだ。 これがだめだったらこの後の予定が全部ひっくり返るところじゃった。

というような際どい予定を組むのはよくないこと。

仏語原題は”Bande de filles”。監督のCéline Sciammaさんは80年生まれで、評判のよかった”Tomboy”(未見)を撮ったひと。 “Boyhood”を見たんだから”Girlhood”も見なきゃね、程度だったが、いやー、すばらしくよかった。

冒頭、女の子アメフトのチームが試合してて、それが終って、夕闇のなかわいわい帰る女子の一団からひとりひとりと抜けていってMarieme (Karidja Touré)がひとりおうち(郊外の団地)に帰ると妹とか兄とかがいるものの、全体としてはどんよりどん詰まりで自分の場所はあまりない。 やがて彼女は近所で野良猫みたいにたむろしていた3人の女の子組とつるむようになって”Vic”ていう名前をもらって、パリに遊びに出たり、部屋を借り切って夜通し騒いだりする。 近所にBFができたり、敵対グループの娘と喧嘩したり、ドラッグの運び屋みたいなことやったり、でもだからといって一人前とか、大人とかになったかんじはしない。

話しの区切り区切りで画面が暗転して、その後でモードが切り替わったMariemeが向こうに歩いていくのを見て驚いたりどきどきしたりするのだが、でも彼女は彼女で、無言で仏頂面でじっとなにかを見つめ、考えていて、でもなに考えているのかはわからない。  殆ど感情や苛立ちを表に出さない彼女が唯一エモを曝すのが仲間といるときに「あのときさあ、楽しかったよね…」てぼそっと言うとこで、なんかいいの。

画面の緊張感と彼女の仏頂面が強いので、はらはらしっぱなしなのだが、ものすごく野蛮な事件とか過酷な仕打ちとか喪失とか罰とか傷とか流血とか、そういうのは表には出てこなくて、裏ではあるのかもしれないけど、それは誰にだってあるよね、程度のもので、いつもMariemeはひとり超然としていて、かっこいいの。
親もあんま関係ない、友達も薄い、けどそれがなにか?

ラストのMariemeの横顔の清々しさ美しさときたら、とんでもなかった。

“Boyhood”にもあった、大人になるってどういうことなのか、いったいなにが変わるのか(醒)、というテーマが静かに控えめに反復されて、その答えをどこにも、誰にも求めないところも似ていて、そこいくと(予告でしか見たことし、見たくもないけど)最近の女の子が出てくる邦画のヒステリックなやかましさ、音がびっちり詰まったうっとおしさときたら、なんなんだろうか、て改めて思うのだった。

あと、"Boyhood"を見たときにも思ったのだったが、例えばこれらの"Hood"と、例えば"The Breakfast Club"(祝30周年!)の"Club"とは、そこに描かれた少年と少女の像は、どこが違うのか同じなのか。 もちろん、違うに決まっているのだけど、例えば彼らの眼差し、とか、さ。

2.15.2015

[film] Paddington (2014)

NYのにもどる。

5日の木曜日の晩、しぬほどつまんない事情で会議室に缶詰にされてリリースされたのが8時過ぎ、ものすごく殺伐としてしまったので少しでも和まねば明日はない、ということで9時くらいにUnion SquareのRegalで見ました。

もちろん、頭のなかで事前の審議・激論はたっぷりあって延々悩んでいた。
なんであのPaddingtonを実写にする必要があるのか?  くまのPoohを、いぬのSnoopyを、実写で見たい奴なんているだろうか? 実写熊ならあのくだんない”Ted”でじゅうぶんではないか? などなど。
特に熊が耳掘り歯磨きする予告を見たとき、その不安は頂点に達して、これはやっぱしちがう、見るべきではないのではないか、とおもった。
世界中の熊ファンも同じことを思っているに決まってるし。でもそうやって悩んでいたらNew York Magazineかなんかは「あんま悪くなくてびっくり」とか言っていたりして、結局負けた。どっちみち見るんだろ。見たいんだろ。熊を。

ペルーの山奥で育った子熊が、おじさんを失い、おばさんに別れを告げて船でロンドンに渡り、Brown家と出会ってPaddingtonと名付けられ、家族の一員となる。 それだけ、なんだけど。

ものすごく愛嬌たっぷりでかわいい熊でも、嫌味臭み存在感たっぷりの熊でもない。
ごくふつうに英国だいすきで、そこに流れてきてしまった熊が家族を見つけて英国熊になる、それだけでほっこりするのは、相手が熊だからか。

ピタゴラスイッチに”Home Alone”の世界、そしてHarry Potterシリーズに見られた、ありえないはずの魑魅魍魎をごく普通に紅茶ワールドに溶かしこんで落ち着かせてしまう魔法があって、そこから家族は大切なんだしそこにやってきた熊も大切なんだよね、というごくごくあたりまえのとこにすとんと落ちて、なんの違和感もなくて、(自分でもびっくりしたのだが)じーんとしてしまったりもするの。 青のダッフルに赤のペルー帽をかぶった熊がいる家族の風景がいいなあ素敵だなあ、と思えてしまったのだから、この映画は当たり、なんだと思った。 家族ばんざいとか絆が肝心とか騒ぐこともなくて、なにひとつ過剰なところはないの。熊以外は。 

あとは悪剥製屋となってPaddingtonを追いまわすNicole Kidmanが久々にNicole全開で楽しそうなので、よいの。 彼女独特の吐き出すような呻きが聞けるのがたまんない。

Paddingtonの声、当初アナウンスされていたColin Firthから替わったBen Whishawはとても繊細に孤独な熊の吐息と(英国)英語を伝えていて、こんなの吹き替えなんてありえないんだから、ね。

ラストに流れるGwen Stefani & Pharrell Williamsの主題歌もよくてー。

あ、でもPaddingtonはじゅうぶんに幸せになったのだから無理にシリーズ化とかしなくていいのよ。

とにかくご機嫌なおった。こんなのばっかし。

2.14.2015

[music] Benjamin Booker

NYのをちょこっと中断してライブのを。

13日の金曜日、渋谷で当日券で見ました。 前座が終ったところで中にはいった。
Swansを逃し、NYでもライブに行けず、スニッカーズを食べてない泉ピン子みたいになっていた。

ご機嫌なおった。 いじょう。

ドラムスとベースが入った3人編成。
ブルース、ガレージ、グランジ、それらを通過した音、などなど、いろんな言い方はできるだろうが、とりあえず、アメリカの道端で鳴っているような音、といおう。(ジャケットアートにはAlan Lomaxの写真が使われている)  ストリート、というとかっこつけすぎのごくふつうの道端の。

缶からでも段ボールでも、そこらに叩けるものがあったらなんでも叩き始めそうなつんのめりドラムスに、ぶっとい空気孔から風を送り続けるベース、ワイアーを束ねてじゃらじゃらエレキとジャンクをまぶして引っ掻かれるギター、豪放でも凶暴でもない、作為から遠く離れてまっすぐに耳を捕らえるギターノイズ。くっきりとした境界を持たないままある温度に湿度、光量でそこに流れこんでくる音の塊。 そしてそのやや擦れた、擦れて裂けた声帯を通過した複数の声が撚り合わされるかのように響く声。 こういうのが音の土管を伝って静脈にダイレクトに入ってくるかのようで、しみる。

エモーショナルでソウルフルな声とはちがう、捨て鉢のドラマチックな絶唱でもない、とりあえずKurt Cobainということもできるかもしれないが、Leadbellyくらいまで遡ってもよいかも。 ひとによっていろいろだろうけど、Tom Waits、ある時期のIggy Pop, PJ Harvey. などなどなど。

曲はキャッチーに飛びこんでくるタイプのではないが、よく聴けば3分間の玉手箱でChuck BerryにBo DiddleyにT.RexからBuzzcocksまで(あ、Nirvanaもね)、おっそろしく豊潤な男の子ロックンロールの歴史が一望できて、でも同時にすぐその場でくるくる踊れてしまう。
各曲の柔と剛、静と動の配置も絶妙で、でもどっちにしても音が鳴りだして5秒で、わあぁ、てなるはず。
あと、ブルースのひとからすればまったく別の眺望がうかがえるに違いない。

本編1時間きっかり、アンコール1回。 映画だと90分代に相当するパーフェクトな尺でした。

今年も、ひとつでも多くこういうライブに行けますようにー。(といいながらどんどん難しくなっているねえ)

[film] The Humbling (2014)

3日の火曜日の凍える晩9時からQuad Cinemaで見ました。  こないだここに来たのはGus Van Santの”Restless” (2011)のときだった。 見に来ていたのは自分をいれてもふたり。

2009年のPhilip Rothの同名小説(読んでない)の映画化権をAl Pacinoが買って、Buck Henryが脚色、監督はBarry Levinson、というどこから見ても加齢臭ぷーん、の老人達による老人のための映画。

舞台俳優のSimon (Al Pacino)は老いてステージでもぼろぼろで大怪我してリハビリ施設に入れられて、自宅に戻ったある日、友人の俳優夫婦の娘でレスビアンのPegeen (Greta Gerwig)が押しかけてきて一緒に暮らし始める。

自分はぜんぜんおかしくないと思いこんでいる風狂偏屈老人とやはり変な、でも確信犯のレスビアン娘(平気で自分の彼女を連れこんだり)の同居生活はところどころおかしくてやがて哀しきで、復帰できそうなくらいまで回復したSimonは「リア王」のオープニングまでこぎつけるのだが、やっぱし…

他にもリハビリ施設で知り合った夫を殺したくてたまらない女とか、Pegeenの親(Dianne Wiest, Dan Hedaya)との喧嘩(この色狂い!きーっ)とか、おもしろいエピソードもあるのだが、なんか笑えなくてしんどく見えてしまうのはなんでなのかしら。

やっぱしAl Pacinoがあまりに巧すぎというか、周囲から隔絶したオーラを放ってしまうのでお手上げなの。 突出した(変な臭み込みの)存在感でもってAl Pacinoが自ら演じるAl Pacinoのおはなし、としか思えなくて、そのAl Pacinoの着ぐるみみたいのから目を離せなくなるのがきつい。 最後にSimonはステージ上で自殺してしまうのだが、観客はそれを迫真の演技と思ってわーわー喝采する、そのなんともいえない気持ちわるさがそのままこっちにもくる。
(最近の仲代達矢にもそういうのを感じてしまうのだが)

見にきた理由は勿論Greta Gerwigさんだったのだが、最近の”Lola Versus” 〜 “Frances Ha”の彷徨う風来娘から、今回のは”Greenberg” (2010)の変な男にぶつかってくる変な娘の線で、でも変人相手ならBen Stillerくらいまででよかったかも。  Al Pacinoとの激突はなんというか… でもあれならどんな娘がぶつかっても厳しかったのでは。

でもふっくら丸くなってて幸せそうでしたわ。

映画でSimonが復帰作として演じるのは「リア王」なのだが、原作では” Long Day's Journey into Night” なのかー。 そっちもあるなあ。

2.12.2015

[film] Desperately Seeking Susan (1985)

2日の午後のお仕事が終わって、みんな寒いし、着いたばかりで眠いよね? と勝手にまるめこんで早めにご飯を取って散らして、そのあとで町に出て、みました。

MOMAの映画部門でこの日から始まった"Carte Blanche: Women’s Film Preservation Fund?Women Writing the Language of Cinema"ていう特集で上映された。
Women’s Film Preservation Fund (WFPF)ていうのは、映画における、映画産業における女性の分化的価値向上に貢献すべくそれに関わる映画資産の保護保全継承うんたら... という団体でその設立20周年を記念して古今のいろんな「女性」映画を上映する、というもの。 よい特集よね。

http://www.moma.org/visit/calendar/films/1551

最初にWFPFの会長の挨拶があって、続いて今日の"Desperately Seeking Susan"の監督 - Susan Seidelmanの挨拶もある。 Susanさんは、前にBAMから自分がインディー時代に撮った"Smithereens" (1982)のフィルムを貸してほしい、て言われて自宅のクロゼットの奥に押し込んであったフィルム缶を開けてみたらピクルスみたいになっててびっくりしちゃってさあー、ていうおばさんトークから始まり、要するにフィルムの保存てだいじよねー、ということなのだった。

"Desperately Seeking Susan"については、2010年9月、Lincoln Centerで開催されたこれの25周年Reunion & 記念上映会のとき、わたしはたまたまNYにいてキャンセル待ちの列に1時間並んで最前列かぶりつきで見て、それはそれは楽しく幸せなReunionだった。 製作スタッフの殆どが女性で初めて成功した商業映画 - 製作中にマドンナがブレークした、というのはあったにせよ - でもあり、作った人たちみんながこの作品をとっても愛していたことがようくわかって、ああ自分が愛した映画は正解だったんだわ、としみじみした。 で、今回は30周年である、と...

監督が他に語っていたのは、俳優さんがみんな若くて新鮮でやるきいっぱいだった、と。
Rosanna Arquetteはまだ"Baby It's You" (1983)に出ていた程度、Aidan QuinnもJohn Turturroもまだ端役でしかなかった時代で、MadonnaとSt. Marks Pl.でふつーにロケしてても誰も見向きもしなかったのに、それが撮影が終わるころには見事なスターになっちゃっていた、と。

あとは当時のNYのアンダーグラウンドシーンがほぼまるごと。 Richard Hell, Richard Edson, John Lurie, Arto Lindsay, Rockets Redglareにー。 Susanが担いでいた丸いバッグに絵を描いたのはKeith Haringで、バッグはいまも消息不明で、見つけたら数億かも、ていうのは前のトークで言われていたことだったが、映画のなかに出てくる車にも同じ模様があるのを見つけた。車と鞄セットだったらおいくら…

映画のはなしは、いいよね。 公開時、嬉しくて楽しくていちんち映画館にいた。(上映前に”Material Girl”のPVが上映されてた)
最強の女の子映画で、NY映画で、ソーシャルネットワーク映画で、はらはらどきどきで爽快で。

40周年上映のときにも来るからね。

あと、本編の上映前にAlice Guy-Blacheの14分の短編 - ”Matrimony's Speed Limit” (1913) も上映された。 かつてオーディトリウム渋谷でも特集上映が組まれた女性監督の。
御婦人が自分の資金援助を受けようとしない男に対して、正午前に結婚しないと伯母の財産相続はないんだからね、て吹きこんだら、そいつは大慌てで相手を探し始めて、それを御婦人が追っかける、ていうこれもDesperately Seekingな物語で、おもしろかった。
これだけのためにピアノ弾きのおじさんが現れてがーっと弾いてさーっと消えて、かっこいかった。

2.11.2015

[art] Madame Cézanne

2日の月曜日の午前、雪みたいな霙みたいのがぼたぼた落ちてくるなか、久々に(12年ぶりくらいかも)E.A.T.で朝食をいただいて、そのあとにMetropolitan Museumで見ました。

この日の仕事は午後からで、後発部隊はそこ目がけて月曜の午前に上陸することになっていて、でもこの陽気なら飛行機着陸できずに仕事つぶれていちんちふらふら、というのも夢想(...そんなのばっかし)したのだが、やはりぜんぜんうまくいかない。

週7日オープンになった(昔は月曜は休みだった)Metに行くのは初めてで、こんなに腐れて凍える陽気の月曜日、エントランスの階段のところには鳩さん達が群れて固まって震えていて、ヒトはぜんぜん群れていない。 これなら美術館の廊下を手を繋いで駆け抜ける(だれと?)例のやつだってできる、のだったがとにかくしーん、と静まりかえっていておそれおおいかんじ。

見たかった展示はひとつだけ。

セザンヌが描いた妻 - Hortense Fiquet (1850 - 1922)の肖像画、20年以上に渡って描かれた29点のうち、24点を一箇所に集めて見せているやつ。 なんかねえ、おもしろいのよこれ。

どの肖像の彼女もちょっと中心線から傾いて頭も斜めで口ひんまげた仏頂面で、ぜんぜん楽しくないふうに、なにやってんのあんた? ていう顔でこっちを見て固まっている。 そういうのが24点。
もちろん、有名な"Madame Cézanne in the Conservatory" (1891) とか "Madame Cézanne in a Red Dress” (1888–90)はあるし、赤ドレスのシリーズ(という訳ではないらしい)がずらりと並んでいるのは壮観なのだが、なんだろこれ、ておもうの。

ルノワールやマネが描く女性の肖像はわかりやすい。 そこには画布のむこう側とこちら側の間の、見るものと見られるものの間の生々しいやりとりが光や曲線のなかに再生・投影されている。

セザンヌは彼女に手紙を書いたりしたことはなかったそうだが、彼は彼女のことをどう思っていたのか、何度も何度も絵の具を画布に置いたり擦ったりしながら自分の妻についてなにを考えていたのか、ここにはそういうのの一切がない。見えない。

いちおう本棚の奥から30年ぶりくらいにガスケの「セザンヌ」(求龍堂版)をひっぱりだして見てみたのだが、妻についてはなんも書いてない - 「プロヴァンス」の章に『恋愛をした。息子が生れた。結婚をした。』てあるくらいなの。

そこには愛おしさからも欲望からもどんな感情からも離れた、人の形をした外郭とその陰翳を形作る色と線の層があるのみで、まあ、それこそが網膜の反対側で「セザンヌが」「存在」させようとした世界であることは間違いないのだし、その一貫したありようは確かにひとつの「世界」なのだといおう。

でもあれか、あたしゃ Mont Sainte-Victoireとかリンゴとおんなじようなやつなのか? とか。

(そうなのじゃよ…)

なんでか異様に分厚いカタログに込められた熱には感動したのだが、ちょっと考えよう、ということで買うのはやめた。

これの後、折角なので他もふらふらした。 館内から見る雪景色がすてきで、モダンのコーナーで久々に”Thérèse Dreaming” (1938)の猫をみて、あと企画展でやっていた”Wolfgang Tillmans : Book for Architects”ていうのをみた。

真っ暗な室内で直角に交差した2面のスクリーンそれぞれに世界中で撮られたいろんな建物の写真が自動投影されていくやつで、ところどころ退屈、ところどころ新しくて古くて。


このあと、渡米組は無事上陸してしまったことが判明したので、ちっ、とか言いつつバスでホテルに戻った。 そいでバスは当然のようにぜんぜん来ないしさあー。

2.10.2015

[film] The Hunger Games: Mockingjay - Part 1 (2014)

なんの問題もなく帰国してしまったので、とってもつまんない。

着いた日の午後3時過ぎ、Union SquareのRegalで見ました。
前回ここに来たときには"The Interview”のでっかい看板があったのに、もうどこもやってないし、”Dumb and Dumber To” だってぜんぜんやっていやしないしもおー。

これ、日本公開が6月とか聞いて、例によってふざけんじゃねえよ!(それになんだよあの頭わるそうな邦題! 例によって) で見ることにしたのと、着陸直後の一番眠くなる時間帯にこういうどんぱちものを見ておくと、少なくとも眠くはならないので時間を有効に使えますね、というのと。

ひょっとしたらネタバレしているのかもしれない。 けど、そんないうならとっとと公開することだな、て言ってやる。

前作の終わりに明らかになった反乱軍の全容と帝国側に捕獲されてしまったPeetaの運命やいかに、の続きで、もうHunger Gameみたいな象徴的な国家イベントによる封じ込めは機能しなくなっていて、映画で描かれる世界、支配するものとされるものの攻防のすべてがHunber Gameそのもの - 見つけたらぶっころせ - になっていて、その荒廃ぶりときたらあまりに今の世界と地続きなので、なかなかうんざりさせられてすばらしい。

そして、しかし、その世界を彷徨うKatnissときたらほぼすっぴんのような真っ白顔で髪ぼうぼうで、おおよそ英雄とか女傑とかいうかんじではなくて、ただ震え慄きながら目の前の廃墟や焼死体を睨みつづけているばかり、という。 その態度が反戦とか厭戦を煽ることもなく、おっかなくてだれも触れることができない場所でひとりでむくれて怒っている。 それは“Winter's Bone” (2010)で父親を探す彼女にとても近い。

今回もダム爆破、みたいな、前回の雷神どーん、に匹敵するカタルシスもないことはないのだが、どこまで行っても苦く澱んでいて出口が見えない。 Hunger Gameのステージに張られる見えない境界 - 逃げようのない柵 - がDistrictを超えてそこらじゅうに拡がっているかんじ。

この荒れ野に野良猫いっぴき、の構図が見事で、これだけで何時間でも見ていられる。
Jennifer Lawrence、やっぱしおそるべしとしか言いようがない。

そして、次作では金の代紋 - 黄金のMockingjayがキングギドラに巨大化してすべてを焼き払ってくれることを祈る。 やっちまえー。

それにしても、Katnissのぼそぼそしたあの唄はなんなのか。そしてそれを継いだかのようにラストに流れるLordeの恨み節も。 Billie HolidayかNina Simoneか、みたいな重力に抗いつつ地を這っていく。

それにしても、反乱軍のリーダーがJulianne Mooreで参謀みたいなとこにPhilip Seymour Hoffman + Woody Harrelsonて、なんかすごい。 変質者とか変態ばっかしじゃないか、とか。

最後にPSHへの追悼メッセージが出るのだが、この映画でのPSHはやや軽め、薄めにそこにいて、なんかしんみりした。

2.07.2015

[log] February 07 2015

もうぜんぜんおめでたくはないとはいえ、お誕生日の朝にJFKにいて、これからぜんぜん楽しくない東京に戻らなくてはいけない、そのあまりの不幸と理不尽に憮然としている。
先週からずっと、JFK周辺を超極地的なストームが襲って空港一帯ぜんめん封鎖、復旧まで一週間以上、ていう事態をお誕生日神を含めていろんな神様にお願いしていたのだが、叶わなかった。 神様なんていない。

フライトがなくなったら、とりあえずBrooklyn Fleaの”mini” Record Fairに行って、今回は行けなかったあそことあそこと食べれなかったあそことあそこと、夢想するのは自由だからいくらでもしてやる。 神様なんていなくたって。

JFKではJALのラウンジがなくなってAir Franceのラウンジを使うように、ということになっていた。
拡声器つかって大声でおもいっきしびっくりしてよいと思うのだが、チーズがない。 Air Franceのラウンジに。チーズが。ない。 アメリカのチーズなんて置くに値しないと思ったのかしらんが、チーズがない。 クラッカーはあるのに、バターもジャムもあるのに、George Clooneyのコーヒーメーカーまであるのに、チーズがない。  あのビニールパックされたしょぼいMonterey Jackとかでじゅうぶんなのに、それすらない。チーズがないんだったら空港に来る意味なんてない(そこまでいう)。 神様なんてぜええったい、いない。

着いた日からずうっと氷点下で、日曜の晩から雪とみぞれで、月曜日は更に積もってふぶいて、火曜日にはそいつらが凍って、水曜日にはその上を風が渡って華氏の12までいった(体感だと摂氏のマイナス12くらい)。 寒いのは嫌いじゃないし楽しいくらいだったが、このたびは手袋も襟巻きも荷物に入れてなくて、更にスーツ2つのうちひとつはぴらぴらの春夏のだった。 寒さも突出すると間接とか体のエッジを物理的に襲う、ということを久々に思いだした。 自業自得だから神様はかんけいない。

お外がこういう状態だったし、お仕事もぱんぱんにぶちこんでくれたおかげで、活動のほうもさっぱりだった。 エマさんの“Cabaret”は取れないし、BoweryのFrankie CosmosもRough TradeのNatalie Prassも売切れちゃったし、BAMのJohn Carpenter先生のトークはキャンセルになっちゃうし。 神様がいないから、こういうことになる。

さ来週はなー  Boweryでhelmetの”Betty” 20th Anniversary Show (…) とかあるのになー。

映画は新作4、旧作1.5。 0.5ていうのは落ちてて半分くらい記憶が失われてしまったので書けないよね、なやつ。 
展覧会は3。 こんなもんなの。ついてないよね。
レコードも本も、おおこれこれ、ていうのはあんまなかった。 あんまなかったくせになんで荷物、30kgまでいったの?

Super Bowlはひととおり外で遊んでから戻って、うとうとしていたところでKaty Perry&鮫の直撃を受け、やっぱしこの娘はすごいねえ、だった。 あとは、Jimmy Fallonでの Neil Young(テレキャスターだった) + The Rootsとか。

というわけで、どこでなにを、は戻ってからぼちぼち。
でも来週はとっても眠くなる気がする。

ではまた。

2.01.2015

[log] February 01 2015

いろんなところが寒いったら。
というわけで、2月になったばっかしというのに成田に来て、これからNYに向かおうとしているの。

次の日曜日に戻ってくる。ほんとは1月の2週目に企画していたやつがぐしゃんて潰されて(おぼえてろよ)だから行くのは決まっていたのだが日程を固定できずに、ようやく決まったときにゃあっちのいろんなのは既に売り切れたり一杯だったりして身動きとれない、というこれもまいどいつものー。

着いたその日はSuper Bowlの日であるが、CM以外は興味ないし、みんなでwingかじってういぃー  なんてやるわけないし、こいつのせいでお店が早仕舞いしないことを祈るばかりである。
今回もずうっと会議で缶づめで、自由は自分の手でもぎりとって夕闇に向かって走りだすしかない。

前に書いたかもしれないけど、缶づめを実行する会社の会議室にはそれぞれ近代の映画監督の名前が付いていて(入り口には写真まで貼ってある)、ここんとこここにくると必ず”Kubrick Room”に閉じ込められて、あんま調子がよろしくないの。 会議がいちばん捗るのはBryant Parkに面したAllen Room(べらべらべら)で、ほかにEastwoodとかHitchcockの部屋もあるのだが、それらはなぜかとてもちいさい拷問部屋みたいだったり。

Film Forumの"Orson Welles 100"は3日に終わっちゃうのだが、BAMでは5日からJohn Carpenter特集がはじまって、監督本人も現れたりするのだが、まあ抜けるのは無理だろうなー。

http://www.bam.org/film/2015/john-carpenter-master-of-fear

先週のブリザード予告 - 史上最強最悪のがやってくる! - にはとっても嫉妬して、なぜってマンハッタンの都市機能がマヒするとあれこれとっても大変でいろんなおもしろいことがおこるから -  は期待外れで終わってしまったが、今週はせめて、とてつもない大寒波でも来てくれないかしらん。

というような夢想が叶ったことはないので、今回もところどころで妥協と嫌悪とうんざりを繰り返しつつ、あそこのあれくらいはせめてーて泣きそうになりながら走りまわることになるのだろう。

いや、あそこの風と冷気が頭をすうっとさせてくれるだけでもいいや。

ではまた。