7.30.2023

[film] PLASTIC (2023)

7月23日、日曜日の昼、”Houria”の後に移動してヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

最近メジャーなのもマイナーなのもアニメもゴミもなんでも絶好調らしい邦画界は、ミニシアターに入っても大量の予告が流れてくるし、映画興行が当たるのはよいことなのかもしれないしよいものもあるにちがいないのだろうが、そのほとんどがつるっとしたアイドル顔の男女が子供みたいに泣いたり叫んだり歯を食いしばったり、コピーも紋切りでなにが楽しいのかぜんぜんわからないし、こんな有象無象のせいで洋画の配給が遅れたり流れて配信にされたりするのは本当にもう .. はいはい、「マーケット」なんてずううーっとこんなもん、なのよね。

なので、他に見るのいっぱいあるし邦画はいいや、だったのだがこれはなんかひょっとして、と気になって見てみたら当たった。 すばらしくど真ん中にくる青春音楽映画。

まずいきなり、鈴木慶一おじいさんがカメラに向かって70年代のエクスネ・ケディ(以下、エクスネ)のベルリン〜ロンドン〜ワイト島のライブを目撃した昔話を語り始める。これだけだとボケ老人がなんか喋りだしたぞ、に見えなくもない.. と身構えると、続けて小泉今日子さんがやはりこちらを向いておじいさん(彼女にとっては父)に連れられて見にいったロンドンでのライブのこと - 小さかったから人のお尻しか見えなかったわー - って。 モキュメンタリーにしてはなんか豪華ではないか、と。

この2人が主人公でもよかったのだがそうではなく、2018年の名古屋でエクスネを聴きながらごきげんに自転車で走っていくイブキ(小川あん)と上の祖父や母の影響で聴いてきたエクスネをひとり路上でかき鳴らしていたジュン(藤江琢磨)がぶつかるように(同じ曲きいてる!)ってすれ違って、ジュンがイブキの高校 - 校長がとよた真帆で小泉今日子の同窓生だって - に転校してきてから始まるふたりの4年間。

出会いの奇跡がきちんとあって、恋が始まって盛りあがって、だんだんにふたりは疲れて壊れてきて、それでもふたりは … って次の曲がキックされるのか盤がフリップされるのかその瞬間を、1974年に解散して2022年に再結成したバンドの音が、パチン! て。

天文部にいるイブキは、1974年にNASAが宇宙に向けて放った地球のことを記した円盤メッセージが向こうの誰かに届いて戻ってくるまでの数万年間のことが気になっているし、タイトルの”PLASTIC”については音楽で食べていけなくなったジュンが関わるプラスチックを分解する微生物を扱ううさんくさいベンチャーのとこで、一万年も残って朽ちないプラスチック、について語っていたりする。

それがどうした、じゃなくていまここでこうして聴いている音だって、目の前にいるあなただって、何万年という同じ時間の旅のなかにいるんだからさ、というのを音楽は - 特にグラムロックとかブギーのリズムや鳴りはくどくしつこく、のり巻きに巻きこみつつ、でもかっこよく教えてくれる。

この電撃の呪い - じゃない魔法は、コロナ程度じゃびくともしない。数万年に渡って円盤と共に旅を続けることになるのじゃ、って覚悟しておけ子供たちよ、って。

このめちゃくちゃロマンチックな、やや岡崎京子ふうのボーイミーツガールのストーリーを前に押し出すのに、誰もが知っている懐メロではなく、74年に鳴っていたはずの、でも誰も知らなくてはっきり新しいエクスネ・ケディのブギーをもってきたのは素敵。曲がすごくよい - と思うんだけどよくない? (やや自信ない)
これならこないだのクアトロ、行くんだったなー。

続編は、PLASTIC をも溶かしてしまった2023年の酷暑から始まる、とか。

ふたりが初めてキスをしたのは『サッド・バケーション』(2007)が上映されている映画館だった。映画見てるならちゃんと映画見なよ、って思うが、あれは変に人恋しくなるやつだからなー、って。 で、この後に国立映画アーカイブで見た『EUREKA』 (2001) のニュープリントは、ブラックホールみたいなやつなのだった。

7.28.2023

[film] Houria (2022)

7月23日、日曜日の午前、新宿ピカデリーで見ました。邦題は『裸足になって』。

”Papicha”(2019) -『パピチャ 未来へのランウェイ』の監督Mounia Meddour & 主演Lyna Khoudriのコンビの次作 - 最新作、ということなら見なきゃ、と。

Houria (Lyna Khoudri) – “Houria”はアラビア語で「自由」の意だそう – はアルジェリアでプロのバレリーナ - クラシック寄り - になるべく厳しい練習の日々を送っていて爪先はボロボロなのだが、一人前のバレリーナとなってここを抜けて世界を回りたい、という夢があるので歯を食いしばってがんばる。同じ夢を見ている親友のSonia (Amira Hilda Douaouda)は、それもいいけど密航でスペインに渡る手もあるよ、とそっちの方のツテを探している。

一緒に暮らす母Sabrina (Rachida Brakni)のために車を買ったりお金も稼ぎたいし、と深夜に町の隅でやっている闇の闘羊 - トランプとかオバマとかいう名前をつけられた羊たちが角と角をぶつけあうの、あんなのあるんだ- にこっそり出かけて賭けて稼いだりしていると、負けてイラついた変な奴に目をつけられ、帰り路に追いかけられて乱暴され、石段から突き落とされて足首を折って、ショックで声も失ってしまう。バレリーナの道は簡単に消えてしまう。

顔の傷が消えてもリハビリをしてもなにをしてもお先は真っ暗で、自分はもう死んだのだ.. って塞ぎこんでいるばかり、なのだが、リハビリ施設にいる女性たちも同様にテロや男性の暴力に叩きのめされ悲惨な道をたどって傷ついたり喋れなくなっていたり、そんな彼女たちと水泳をしたり手話を習って会話したりしながら少しづつ近寄っていって、流れてきた音楽に体をあわせて揺らしてみるその顔と動きはマジに漲っていて、あなた踊れるのね!ってみんなが寄ってきたので、じゃあなんか踊ってみようか、って。

そして仲介業者が見つかったから、って切ないお別れのハグをしたあと、夜中の海に漕ぎ出していったSoniaは…

“Papicha”も学校に通いながらファッションデザインの世界で夢を見ていた女性が理不尽な暴力で唐突にどん底に落とされて、そこから仲間と手を取りあって前に進もうとするお話しだったが、最初の方で描かれる登場人物たちが見つめる将来の夢も含めた世界と、そこから騙されたり壊されたり叩き落された後の世界のギャップがものすご過ぎて、実際のアルジェリアの社会はもっと陰惨できついのかもしれないけど、はぁ… しかない。 Houriaを襲った男は恩赦で刑務所から出てきた奴で、彼女を暴行した後も平気で郵便配達とかをしたりそこらにいて、警察はすっとぼけて何もしてくれない、とか。

それでも、というかだからこそ、というか、カメラはHouriaと彼女の周りの女性たちのできる限り近くにあって寄り添い、彼女たちひとりひとりの身体の動きや眼差し、息遣い、それらを取り巻く美しい海の光や風をとらえて、その時を刻みこもうと、そういう女性映画であろうとしている。なかでもHouria - Lyna Khoudriの目 - 死んだ目も生きた目も – の強いこと。

もちろん、それだけで、そんなんでよいの? というのはあるのかもしれない。男性社会の野蛮で腐った地獄の闇と傷ついた女性たちが築いた壁のなかの庭園のような、でも光に満ちた世界があまりにきれいに分かれすぎているようで、ただのファンタジーになってはいないか、など。いや、ファンタジーであったとしても、これはこれで壁を厚くして彼方に弾きとばしてしまえばよいのだと思う。現実が実際にあんなふうなのだとしたら。あと、この「あんなふう」なありようは日本でもそんなに変わらないよね。

でも、他方で”Atlantique” (2019)のようなやり方もあったりするのだから、とか。

終わりの方で再びダンスに向かおうとしているHouriaが読んでいた本はMarie-Claude Pietragallaさんの、だった。なぜダンスなのか? なぜファッションなのか? にはおそらくはっきりと答えがあって、まずはとにかくわたしを見よ、ってLyna Khoudriが示して迫る。

ああ旅にでたい、とか思ったり - なんでだろう?

7.27.2023

[film] Opening Night (1977)

7月17日、月曜日の昼、イメージフォーラムのJohn Cassavetes Retrospective で見ました。

今回の特集でかかる作品たちはとうに見ているのだが、これらと”Love Streams” (1984)については何年かに一度は(Gena Rowlandsさまが見つめているものを)見て、腹わたに刻まないといけないので、見る。

この日の朝、『君たちはどう生きるか』を二子玉川で見終わったのが10:30、これの開始が11:00、既に死ぬほど暑くて坂を這いあがりながらしんじゃうかも、って諦めかけたのだが、なんとか間に合った。たとえばわたしはこう生きる、とか。

ベテラン舞台女優のMyrtle Gordon (Gena Rowlands)が新作劇”The Second Woman”のコネティカットでのプレビュー公演の後、ドアで出待ちをしていた若い女性にサインをしてあげて、彼女- Nancyの様子が少しおかしいことに気付くのだが大雨だったし急かされて車に乗りこみ帰ろうとするとMyrtleに手を振っていたNancyは後ろから来た車に轢かれてしまう。

その前のプレビューでの演技の時点でスタッフは彼女の様子がいつもと違っている – 台詞を勝手に変える、勝手に動いたり時間を取ったりして相手役に投げてしまう等 - ことに気付いて頭を抱えるのだが、この事故がその状態を変な方に転がしてしまったのかどうか、その原因を突きとめていく - そんなことより、このプレビューは乗り切れたとして本公演を迎えることができるのか、作者のSarah Goode (Joan Blondell)や演出家のManny Victor (Ben Gazzara)を巻きこんで、とにかくなんとかOpening Nightを迎えられるように、霊媒師のところでNancyを呼び出して貰ったりあらゆる手を尽くすのだが、Myrtleは不眠とアルコールと徘徊の闇に囚われているようで、初日もいつまでたっても現れず、ようやく来たと思ったら酔ってべろんべろんの立っていられない状態で..

とにかくすごいのは、彼女の(周囲から見ればの)逸脱が、説明不能なベテラン女優の錯乱、として描かれているのではなく、劇作で描かれるテーマや世界があり、演出家からの要請があり、共演俳優との過去あれこれがあり、それまでの彼女のキャリアと今後(の不安)があり、これらの塊りがいっぺんにぶつかってきたとき、そうなったっておかしくない/どこにもおかしいところなんてない、と見えてしまうことで、だから乱心した主演女優がみんなに迷惑かけて大変だったはらはら、という話ではなくて、だから最後のOpening Nightの彼女の振る舞いぜんぶが即興も含めて異様にかっこよく痛快でしかなくて、見終わると緊張による全身のこわばりが抜けないまま、なんてすさまじいドラマ - この顛末の劇的なありようときたら - を見てしまったことか、って毎度のように思う。


A Woman Under the Influence (1974)

7月22日、土曜日の昼、イメージフォーラムで見ました。『こわれゆく女』。

この邦題は昔からずーっと引っかかっていて、彼女はずっといろんな暴力とか影響を受けてプレスされて結果そうなってしまった、それはどこからか石が落ちてきて潰れるとか壊れるとか、そういう自然現象のようなのとは違って、単にあらゆる影響のもとに晒された状態にある女性、というのが正しくて、それでも - という映画なのにな。

LAに暮らす主婦のMabel (Gena Rowlands)は3人の子の母親で主婦で、子供を母親に預けて夫のNick (Peter Falk)と楽しい晩を過ごすはずだったのに、夫は建築現場の仕事で帰ってこれず、Mabelはそのままバーに行ってそこで目が合った男の言われるままに酒を飲んでダンスして一緒に寝て、放心状態で朝を迎えると、Nickが仕事仲間をどやどや引き連れて帰ってきてみんなでご飯だーってパスタを作らせてテーブルを囲んで、Mabelの振るまいで全員気まずくなったり、子供の誕生パーティで他の家の子を呼んだときもおかしくなり、それらはぜんぶ怒鳴ったり殴ったりばかりのNickがひどいからなのだが、彼女は入院して6ヶ月後に戻ってくる。

戻ってくる彼女にNickは親族友人一同を呼んでサプライズパーティーを開こうとして、でもどう考えてもだめなアイデアなので客は返して、限られた親族だけにしたのだが、Mabelがそんなによくなっていないことはすぐにわかり、みるみるうちに修羅場で溢れかえり…   こんなシーンが延々繰り返されるばかりで胸が痛いし、子供たちもかわいそうなのだが、それでも、ここでもMabel - Gena Rowlandsが見てその手に掴まえて抱こうとしているなにかはずっと彼女のなかに、動かずにある - それがなんなのかを見る、そういう映画。

Bo Harwoodの音楽もすばらしいよね。

2005年のBAM Cinematekでの上映の際のトークで、Gena Rowlandsさんが「女性の強さと美しさをこれほどまでにきちんと描いた女性映画はないのだ」 と断言していた通りだと思う。全米公開直前まで存在していたという4時間版が、いつかどこかで見れますように。

7.26.2023

[film] Mission: Impossible – Dead Reckoning Part One (2023)

7月21日、金曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。

シリーズの7作目で、監督は”Rogue Nation” (2015) – “Fallout” (2018)から続くChristopher McQuarrie。バイクに乗ったTomが崖からジャンプする宣伝 – 映画そのものよりTomすごいんだぞ、っていうのばかり見せられてどんな映画なのかはもうどうでもよいのか、って。

冒頭、ロシアの潜水艦Sevastopolが最新AIを搭載した画期的な航行システムを試そうとしていて、敵方には探知されない状態でミサイルを撃った、と思ったら敵方は消えてそいつがこっちに向かってきて、まさか.. で撃墜され乗組員はなんで? .. って顔で氷の海にぷかー。

IMF(the Impossible Mission Force って、前からあった?)のEthan Hunt (Tom Cruise)はお尋ねモノになっているIlsa Faust (Rebecca Ferguson)に接触して彼女の持っている鍵(物理的なやつ)の半分を貰え、っていうミッションをサウジアラビアの砂漠でどんぱちして、鍵を手にしてなんとかアメリカに戻るとCIAの偉い連中などがAI – “Entity”と呼んでいる - を話題にしてて、このAIは予測不能の制御不能ででもすでに世界の主要な軍事防衛や諜報や金融のシステムに入り込んで勝手なことをやり始めていて、こいつをどうにかするのが半分だけ手元にある鍵で、これのもう半分を手にして合体させて、コントロールできるようにするか破壊するかしないとやばいぞ、って。

そこでEthanのいつものチームはもう一個の鍵を手に入れるべくアブダビの空港に向かって、Ethanの昔の敵のGabriel (Esai Morales)とか手先の器用なコソ泥のGrace (Hayley Atwell)とやりあったり、預け荷物から出てきた核爆弾(なんで?)をBenjiがなぞなぞでアンロックしたり、でも結局鍵はGraceが持って消えちゃって、彼女を追ってIlsaを加えたチームがローマ経由でヴェネツィアに集まって、でも通常の通信での会話は全部”Entity”に傍受されているし、今後の計画についてもぜんぶ見透かされているので、思う壺のコースは避けなければ、って言っているうちに最後はオリエント急行 - 運転手は殺されてUnstoppableの暴走機関車になった – の上とか中とかでの追いかけっこになるの。

今回の敵は見るからに強そうな悪そうなヒトではなく、ぜんぶ先をお見通しのAIさまで、そのくせ肝は物理的な小さい鍵の奪い合いとか騙し合いで、Gabrielはその手先として動いているだけ(ちっとも強そうに見えないし)、なので作戦を立ててチームで連絡を取り合いながらができない、ぜんぶ行き当たりばったりでやるしかないぞ、という筋書きになってしまったものだから砂漠 ~ 空港 ~ ローマの路地 ~ ヴェネツィアのお城と水路 ~ オリエント急行などの人混みとかを使ったアクロバティックなアクションが満載で、それらをわーって眺めているうちに花火みたいに終わってしまう。

MIのシリーズって、1から3くらいまでだと悪役も含めて割と残っているのだが、前作(もう5年前かー)の”Fallout”なんて、もはや跡形も残っていなくて、その忘却度合いはアクションのスケールと比例して激しくなっている気がしないでもなくて、それってFast & Furiousのフランチャイズと同じかも、と思ったのはついこないだの”Fast X”と同じくローマの街を使ったカーアクションを見て。(アクションとしてはMIの方がおもしろかった気がする。好みだろうけど)

Tomがバイクで飛ぶとこは、ただあんなふうに飛んだ、って物理実験みたいなのに過ぎなくて、その前後がなんかしょぼかったかも。あの状態であのタイミングであの角度から、どうやって列車にぶち当たってなかに突入したのかを見たかったんだけどー。キートンだったらそれくらいは軽く、ぜったい見せてくれたはず。

列車のなかのあれこれ、おもしろかったけど折角ああいう列車設定にしたのだから乗客乗員のなかからなんか現れたりしてもおもしろかったのに。Steven Seagalのシェフとか。

まずはアクションありき、で、それを繋いで見せて転がしていくのはありなのだろうけど、やはりGraceの登場の仕方には違和感があって、なぜ手先が器用なスリさんがあんな形ですんなりチームに入れるのかわからない - 次ので明らかになるのか、ひょっとしてCaptain Americaの方の.. ?   あと、これだけ電脳がやられている事態なのにLutherは動かず、ハッカー系要員が誰もいないのっておかしくない? とか。

万能で物理的制約を受けないはずのAIのソースが沈んだ潜水艦のなかのハード結線された球のなかにあって、それは物理鍵を持っていかないと開けない、ってよく考えたもんだな、こんな面倒なことを考えられるのは日本のデジタル庁くらいでは?(影響受けたところはみんな紙仕事に戻されてしまうし) パート2ではダイビングの記録でも狙うのかしら。

あ、『ニューロマンサー』系の話にもできるのか。

あと、Ilsaが大好きだったので、彼女がいなくなってからあーあ、って喪失感が。

7.25.2023

[film] Bellissima (1951)

7月16日、日曜日の昼、シネマヴェーラの特集『ネオレアリズモ II』で見ました。
この特集、感想書けていないけど、地味に7本くらい見ていて、どれも衝撃的におもしろいよ。戦前状態のいまのこの国にもうまくはまるし。今回上映されなかった『神の道化師、フランチェスコ』(1950)は自分の生涯ベスト10に必ず入るやつだし。

英語題は”Beautiful”。邦題は『ベリッシマ』。
監督はLuchino Viscontiで、助監督にはFrancesco RosiとFranco Zeffirelliの名前がある。バックステージもので、貴族のViscontiはこんな庶民のホーム・コメディみたいのも撮っていたんだー。「ネオリアリズモ」って何? ってあんましわからない状態でネオリアリズモにおけるコメディとは? と問えば、例えば今回のラインナップにもあるフェリーニの『白い酋長』- “Lo Sceicco Bianco” (1951)のような、貧困などで失うものが何もなくなった女性がなりふり構わず走り回って結果なんとかなっちゃった、みたいなかんじもあり、この作品だとスターシステムへの批判や風刺とか、あるいは困窮生活への目線もあったりする? これらの中心でじたばたして笑いの対象とされてしまうのは割と女性、可哀想の対象にされがちなのは子供、っていうあたりがちょっとあれだけど。

Maddalena (Anna Magnani)は一人娘のMaria (Tina Apicella)をスターにすべく激烈に走り回っていて、有名な映画監督(Alessandro Blasetti - 本人も映画監督)の次回作の主演となる子役のオーディションにこの役もらった! って乗りこんでいって自分の娘がぜったい一番だ! って周囲に顰蹙をかったり大騒ぎしながらMariaをいろんな関係者にぶつけたりぶん回したり暴走が止まらない。夫/父親なんてクズの役立たずなのでいなくてよいし初めから相手にしていない。

なんで映画なのかといえば、それが今の貧困から抜け出すための最後の術であり夢であるから - 当時の映画産業というのはそれくらいの威光を放っていたのが最初のほうの群衆シーンだけでもわかって、だから役柄がバレリーナだと言われればバレエ教室に通わせてなんで他の子みたいにあんなふうに踊らせないのか?って文句を言ってつまみだされ、この世界はコネがすべてだからって、スタッフだという詐欺師にしか見えない若造にお財布はたいて大金を渡し、彼はその金でスクーターを買っていたり、美容室に行けばそこにいた関係ないガキがMariaのおさげ髪をばっさりしてしまったり、MaddalenaもMariaも、なにをやってもなにやってるのあなた? って場違いな笑いの対象にしかならずに地団駄踏んでばかり。(逆にずっとお人形扱いのまま、なにを言っても泣いても気づいて貰えない聞いて貰えないMariaのかわいそうなこと)

それにしても、Anna Magnaniはなにをやっても喋っても飛びぬけてすごすぎて、彼女が右に左にわあわあ叫びながら走り回るのを見ているだけでこのお話しは - 彼女にとってはそうでないだろうけど - おもしろくて目が離せない。Anna Magnaniが呻いて、腹の底から搾りだすような声をだして感情をむき出しにしてこっちに向かって思いをぶつけてくるその強さ - 『無防備都市』では倒されてしまったけど、ここでは周囲のぼんくらとか映画関係者をなぎ倒していく痛快さがあるの。BellissimaってMariaじゃなくて彼女のこととしか思えない。

でも、最後に候補者のテストリールをスタッフ全員で見る最終選考の様子を部屋の裏から見せて貰えることになったMaddalenaは、スタッフがスクリーン上のMariaを見て笑うのを見たところで、「私は誰かを笑わせるためにあの子を産んだのではない」って毅然と言い放って撮影所を蹴っ飛ばして出ていくの。彼女をあそこまで奮わせて狂わせて最後まで走らせたものはなんだったのか、がここで反転するように明らかになって、それを「リアリズム」のような分類で括ってしまってよいのかわからないのだが、それでぜんぜんよい気がした。その後のやっぱりね.. みたいなハッピーエンディングは、別になくても。


とにかくあまりに暑すぎてなんもやるきにならない … って我慢していたけどついに書く。ほんといいかげんにして。

7.24.2023

[film] 夢の涯てまで (2023)

7月17日、月曜日の晩、菊川のStrangerの『まだ観てなかった!/もう一度観たい! 邦画セレクション Vol.2』という企画で見ました。英語題は”Till The End Of The Dream”。

構成・編集・監督は草野なつか。24分の短編だが、こんなの必見だし。

「私は広島に行ったが、何も見えなかった」という女性の独白から始まる。おそらくその女性の住居なのかアトリエなのか、彼女は穴倉のようなところで(後の会話で明らかになる)アイスランドの妖精の絵を描いたりオブジェを作ったりしている。

その部屋に訪問者とは別の椅子に座った男性がいて、写りこんでいる。「写りこんでいる」としか言いようのない距離感空気感があるので - その写し取り方については技術的ななにかがあるのかも - 彼はもうこの世にいない人なのだろう、という推測がたって、それが何度かの部屋のショットと共に固まっていく。

その部屋の女性はそこから(あ、時系列は不明)古書店に入り、馴染みらしい店主と萩の月を食べながら彼に広島についての本を探しているのだが、と頼むと店主はすらすらとそこにあった数冊をピックアップして(久々に二階堂和美さんの名を聞いた)、しばらくしてその中からなのか原民喜の詩が朗読される。

世田谷経堂(古書店)、広島、アイスランド(妖精たち)、イタリア(本に挟まれていた展覧会のチケット) - いくつかの土地を巡りつつ、カメラはそのお堂のような部屋と誰かが座っていた椅子に戻る。- 「何も見えなかった」…

杉田協士『春原さんのうた』 (2021)もあると思うが、大島弓子の短編に似たようなのがあったような.. って探しているのだがでてこないー

24分にここまでのものを重ねて広げることができる、という驚異も。


NOUS (2021)

7月15日、土曜日の晩、日仏学院で見ました。上映後に監督Alice Diopのトーク付き。 映画の方は2月に見ているので、ここではトークで話されたことを中心に。

パリを南北に走るRER(イル=ド=フランス地域圏急行鉄道網)B線を舞台としたフランソワ・マスペロの本 『ロワシー・エクスプレスの乗客』(1990) - 彼が写真家アナイク・フランツとともに同路線沿いを旅した1ヶ月間の旅行記 - と、2015年1月7日に起こったシャルリー・エブド襲撃事件後に行われた1月11日の「共和国の大行進」というスペクタクルにインスパイアされて - 順番としては、テロの後にマスペロを読んだ - 自分に何を撮れるだろうか、という意識を転がしながらカメラを持たず、駅前の宿を転々と泊まったりしながら1カ月くらいかけて散策し、そこに暮らす人々と知り合い、多くの見えていない/見えないことにされている人々がいることに気づいた。

その1年後に再び彼らに会いにいってカメラを回し始めて、イメージしていたのはジョイスの『ダブリン市民』 - ひとつひとつの断片を重ねて見えてくるもの、そしてそこにカメラがあることで自ずと語りだす何か、を捕まえられれば、と。

Frederick Wisemanが”Belfast, Maine” (1999)などで試みたコミュニティの交響楽を作るような視点については、個人的にはちょっと違うかも、と思っていて、Alice Diopの場合ははっきりと自身の家族や移民としての自分のありようも含めて画面に置いて晒しているように思うから - Wisemanは語りたい自分を周到に不可視な場所に置いているのでは。

そしてトークの間に何度も言及されたフランスでの警察による少年の殺害に端を発した大規模な暴力の連鎖 - そのきっかけも含めてアートに何が可能かを問うてきた自分はいま大きな喪失感と無力感に苛まれている、と。

最新作の”Saint Omer” (2022)にもあった無人の町の風景が何度も映し出されること - そこに映らなかった人々のことも狙ったものなのか、についてはドアノーの写真にある郊外の姿など、過去の作品を参照しつつ最良のかたちを探している、と。

あと、危険な場所として描かれがちなパリの郊外のアンチのように描かれているような点について、郊外のシネアスト、というようなレッテル貼りには抵抗したい。フランスのマージナルなところをフォルムを重視して描いていく作家としてやっていきたい、と。

すでにどこかで見えなくなってしまったあなたを探そうとする『夢の涯てまで』と、ずっとそこにいたのに見えていなかった「私たち」を見出そうとする”NOUS”と。どちらも詩や文学があって、でもそれを映像が目の前に広げてみせる。

7.23.2023

[film] The Pope's Exorcist (2023)

7月16日、日曜日の午後、Tohoシネマズ日比谷で見ました。『ヴァチカンのエクソシスト』。

最初の”The Exorcist” (1973)の時は子どもだったしスチール写真見ただけで眠れなくなり、こんなの絶対ムリ、で大人になってから見たけどそれでも十分怖くて、でもこれは実在の神父が書いた本が元なら本人が死んじゃったりはしないのだろうし、Russell Croweがやられるとは思えないし。 実際そんなに怖くはなくておもしろかった。

元になった原作はヴァチカンのチーフ・エクソシストだったGabriele Amorth (1925-2016)による”An Exocist Tells His Story” (1990)と”An Exorcist: More Stories” (1992) - 未読だけどそんなにウソは書いていないと思う。

最初はガブリエル神父 (Russell Crowe)がイタリアの村で悪魔に取り憑かれたという青年の悪魔祓いをするところから。取り憑かれたといってもその殆どが精神疾患なのである、とか言いつつでっかい黒豚さんが犠牲になって、でも解決してヴァチカンに戻る。

ヴァチカンでは彼のやり方が執行部の上の方から反発と疑念を生んで審問されたりもするのだが、彼は文句があるなら法王に言ってみろ、って動じないでスクーターに乗って街をゆく。

スペインで修復中の古い教会に母のJulia (Alex Essoe)とティーンの娘のAmy (Laurel Marsden)と息子のHenry (Peter DeSouza-Feighoney)がアメリカからやってくる。教会は事故で亡くなった彼らの夫/父が所有していたもので、いまの修復が終わり次第ここを売却して出ていく予定だからそれまでの辛抱、と。 Amyはなんでこんな田舎? って退屈で死にそうでイラついてて、繊細そうなHenryは父の事故死の現場に居合わせたこともあり、それ以降喋れなくなっている。

着いて暫くしてHenryが崩れかけた壁の一部を取り払ったらやっちゃったふうの風が立ちあがりHenryの様子がおかしくなっていくと共に不可思議な惨事が居合わせた人たちに連鎖的に起こって、そこの神父トマース (Daniel Zovatto)ではどうすることもできず、ヴァチカンに支援要請がでて、これはやばそうと思ったらしいヴァチカン = 法王 (Franco Nero)はガブリエルを派遣する。

彼が到着する前からHenryは既にどう見ても取り憑かれて傷だらけの状態で、こいつはほんもんのやばい奴だ、って教会の奥とか葢がされていた古井戸の底をみたり、法王も自ら古文書を漁ってこの教会で過去に何があったのか(黒塗り… 笑った)、ここでHenryに取り憑いた悪魔はどういう奴なのか、その名前を探っていくのだが、悪魔の方もHenryを蝕んで自分のものにして、更にAmyを狙い最後にはガブリエルに取り憑いてヴァチカンまで行こうと…

病の元となっているウィルスを特定できれば治療できる、のと同じくそこにいる悪魔の名前さえわかれば、あとはその名前に向かって神の力をぶつける - ひたすら祈るのだ、ってトーマスも駆りだしてとにかく集中しろ祈れ、って、ゴーストバスターズみたいな武器も秘密兵器もなく法衣と十字架とメダルと祈りの言葉の空中戦ばかり - なのに肉体は結構ぼかすか引き摺りまわされてぼろぼろ - になっていく..   これだけで十分におもしろいもの。

悪魔は存在してあんなふうに取り憑いたりするのか? をそんなの知らんけどとにかく祈れ戦え、って歯をくいしばって立ち向かっていくこのドラマはTom Hanksの謎解きを中心としたあのヴァチカンのあれよか断然おもしろくて、だって、どうせ悪魔は悪いことするのだし悪ってあるし、悪いよね? こんなふうに(善もまた然り)。存在証明はわからん(知らん)けど、とりあえず悪いのはやっつけるよ、って。

いま一番悪魔祓いしてほしいのはにっぽんの政権の真ん中に堂々と居座って巣食って気持ち悪いあれとあれとあれなんですけど、宗教絡みだしほんとにタチ悪くて性悪で - なにしろ自分たちは悪いと思ってないから - ヴァチカンの管轄ではないのだろうけどどこに頼んだらよいのか。(神頼み)

すでにファンアートも出ているようにRussell CroweとDaniel Zovattoの組み合わせもよいしシリーズ化されてもおかしくない(もう検討されてる?)。次は北欧あたりで(あの辺にいそうなあれを)。

音楽、一家が教会に向かうとことで流れるThe Cultの”She Sells Sanctuary”はおもしろいなー、だったけどViolent Femmesの”Gone Daddy Gone”とか、Faith No Moreの”We Care a Lot”とか、The Saintsの”(I'm) Stranded”とか、ぜったい遊んでるだろ? って思った。好きだからいいけど。

7.21.2023

[film] Große Freiheit (2021)

7月8日、土曜日の晩、ル・シネマ 渋谷宮下で見ました。邦題は『大いなる自由』、英語題は”Great Freedom”。

監督はオーストリアのSebastian Meise、音楽はNils Petter MolværとPeter Brötzmann (演奏シーンも出てくる。RIP)。カンヌのある視点部門審査員賞他、いろいろ受賞していてふつうに見応えのあるすばらしい作品なのにル・シネマが直で買い付けてようやく公開、ってほんとひどいなー。(わかっているけど)

主人公のHans (Franz Rogowski)が第二次大戦中の収容所からそのまま刑務所に送られ、50年代にも刑務所にいて、68年にもそこにいて、彼は逃げも隠れもしない同性愛者で、同性愛を禁じた刑法175条の違反で捕まっていて、本人もそれは十分にわかっていて、そこを反省しようとする態度もそれに抵抗したり抜けようとしたりする態度も見せない、ただの常習者としてずっと檻の中にいて、おそらく塀の外にいた時期もあったはずなのだがそこでの生活が描かれることはなく、ただ同性愛者だった、というそれだけで投獄され、30年くらいを刑務所のなかで過ごした彼にとって「自由」とはなんだったのか。

戦時の収容所で同性愛者はほぼ病人・異常者扱いで隔離・排除され、終戦後もそのまま自動で刑務所に送られて、同房となったViktor (Georg Friedrich)は、Hansがここに来た理由を知ると怒り狂って忌み嫌って彼を向こうに遠ざけようとするのだが、だんだん近づいていって、Hansが収容所で彫られたタトゥーを消して – でっかい何かで上書き – あげたり、Hansが後に戻ってきた時にもまだ彼はそこにいたり。

Hansがいつ戻ってきてもそこにいるViktorとは別に、50年代には所内でOskar (Thomas Prenn)という恋人がいたり、60年代には捕まった時一緒にいた教師のLeo (Anton von Lucke)がいたり、刑務所なので決して居心地がいいとは言えないものの、少なくともそこで彼は生きているのだ、という目や背中や歩き方を示す – 自分が今どんなであるか、これからどうしたいかについては殆ど喋らない、まるで檻の中の動物のよう。ダンサーでもあるというFranz Rogowskiのすばらしい身体とその動き。

60年代の終わりになって175条が非犯罪化されてHansも塀の外に出られることになるのだが、彼の表情を見る限りそこに目立った歓びはなくて(長い闘争の末勝ち取ったものでもないし)、どちらかというと住処から追い立てられ追い出されるようにして、出てからそのまま解放の歓喜で沸くゲイバーに入って、無表情にあたりを見回して、そして…

最後のHansの行動で、タイトルの『大いなる自由』がものすごいスケールでがーんと被さってきて、刑務所の陰や日なたで動いていた彼の身体や目の動きを思い浮かべて、自由とは? 更にそこに被さる” Große” -「大いなる」とは? - について考えてしまうことになる。それって場所とか境界のことではないし、個人の心の持ちようとかそういうのでもないし、愛さえあれば、とかいうものでもないし、法によって自身の行動や権利や愛の行方が制約されないこと他者のそれも同様に、おそらくこのへんがベースで、でもそれだけならなんでHansはあんなにうかない顔をしていたのだろうか、とか。

あとは、やっぱし愛について。メインの写真にもなっているHansががっしり抱擁するとことか、彼が恋人と一緒にいるところには本当に感動してしまう、他方でひとりの男をずっと一途に想い続ける話でもなくて、この辺のありようも含めた「大いなる自由」なのだ、というのと、とにかくこれらを囲って封じ込めてしまう刑法と刑務所と。そもそもなんで同性愛が? って今だと信じられないかもだけど、これについては英国だって同様に監獄行きだったし、もっと変な話だと女性の同性愛は特に犯罪とならずに最初から見えないものとして視野から外されていた、というー。

いま、この「自由」を語らなければいけない理由は、この「自由」が別な方角からずるく嫌らしく浸食されつつあるように思うからで、それはもう本当にだめでやばくて、だからこの作品がこんなかたちで公開されざるを得ないことに余計にあったまきて。

いま、とっても見たい一本にChristian Petzoldの新作”Afire”があるのだが、ここにFranz Rogowskiは出てしないのかー、って。ちょっと残念。

あと、牢屋の中なのに画面はどこを切っても信じられないくらいに美しくて、ふらふら入っていきたくなるくらいで、だからそれも危険なのだ、って。

7.20.2023

[film] 甜蜜蜜 (1996)

7月13日、木曜日の晩、ル・シネマ 渋谷宮下の「マギー・チャン レトロスペクティブ」で見ました。
この特集、すごく見たいぜんぶ見たい – 特に『ロアン・リンユイ/阮玲玉 4K』(1991)と『クリーン』(2004) - なのに2本しか見れないまま終わってしまった..

邦題は『ラブソング』、英語題は “Comrades, Almost A Love Story”。原題をそのまま訳すと「とってもあまい」- エンディングで流れるテレサテンの曲名なのね(ティアン ミィ ミィ)。 35mmフィルムでの上映で、なんかよかった。

監督はPeter Chan、配給はGolden Harvest – エグゼクティブプロデューサーはRaymond Chow、香港でいろんな映画賞をいっぱい獲っている。

1986年、中国本土から香港に渡ってきたシウクワン(Leon Lai)は若い頃にこの地で一瞬で恋におちたWilliam Holdenとの思い出に溺れたまま時間が止まってしまった叔母の経営する売春宿のようなところに住処は確保したものの、働く場所については香港の言葉 - 英語も含めて - がほぼ使えないので右往左往の苦労をしてばかり、でもめげずに淡々とがんばっていて、なにかあると天津に残してきた恋人のシャオティンに手紙を書いている。

そんなある日、マクドナルドのカウンターで働くレイキウ(Maggie Cheung)と出会って、バイトを世話して貰ったり英語学校(Christopher Doyleが先生)を紹介して貰ったり、テレサテンのカセットを売る露店をやったり、なんとなく一緒に過ごすことが多くなっていくものの、彼とシャオティンの間柄は切れないので別れることにして、そのうち株の暴落で一文無しに転落したレイキウはマッサージ屋で働きながらやくざのPao (Eric Tsang)と付きあうようになって、彼の愛人から会社経営者にのしあがり、シウクワンはシャオティンを香港に呼んで結婚式をあげる。

しばらくしてふたりが町を車で走っていたらリアル・テレサテンがいて、いそいそとサインを貰いにむかうシウクワンの背中を見ていたらたまんなくなって吸い込まれるように愛を取り戻し、ふたりそれぞれ今の相手とは別れるから、って誓って離れるのだが抗争に巻きこまれて香港を離れるPaoについていくレイキウと、シャオティンと別れたシウクワンは再び離ればなれになる – と思ったら舞台は93年のNYに飛び、シウクワンはチャイナタウンで料理人をしていて、Paoと一緒のレイキウもNYに高飛びしていて、そのうちPaoは街角の喧嘩で殺されてしまい、でもシンクワンとレイキウは、すごく接近してもばったりぶつかることはなくて、でも95年、テレサテンが亡くなった日にふたりは電気屋のおなじウィンドウでTVを見ていて…

大陸的というのかシウクワンがどこまでものろまでのっぺりどんくさくて、それに従って話しは全然うまく転がっていかないのでこのバカぁ、ってうんざりすることばかり積みあがっていってどうするんだよ! ばかりなのだが、近くにあったふたりの顔が動物みたいに少しづつ寄っていってゆっくりキスをしていくところとか、Paoの背中に彫ってあるミッキーマウスとか、叔母さんのWilliam Holdenとか、どうでもいいところがたまらない困ったやつだった。

あと90年代のNYの街は住んでいたので、チャイナタウンの裏通りとか隅々を食い入るように見てしまう。テレサテンが亡くなった日のこともなんか憶えているなー。

テレサテンの歌が結んだふたりの.. で、それはとっても普通にありそうな歌謡曲の、カラオケの画面になりそうなメロドラマ(ふう)で悪くないのだが、でも実は86年のはじめからふたりはな.. と最後に軽くひっくり返してくれるお話しでもあった。『花様年華』(2000)もそうだけど、Maggie Cheungて、どれだけ年を重ねてもいろんな事情にまみれても、あのきょとんとした表情のままそこにいてくれる彼女像を求められてしまうのかー、とか。


東邪西毒:終極版 (1994)

6月29日、木曜日の晩、同じ特集で見ていたやつ。邦題は『楽園の瑕 終極版』 - 長いこと、「らくえんのえび(蝦)」だと思っていた。「きず」だったのか.. 英語題は”Ashes of Time Redux”。

監督はWong Kar-wai、撮影はChristopher Doyleで、出演者はMaggie CheungからLeslie CheungからBrigitte LinからTony Leungからすごく豪華.. なのだがみんな同じような傘被った焼け焦げた武者のいでたちなので誰が誰やらあんま見分けがつかない。 故事伝奇ちゃんばらもの、地の果てだから方角なんてどうでもよいかんじだが西の強者、東の剛者にいろんな曲者たちが絡んだりして順番に砂漠の彼方に消えていく - そこに留まるというより消えるためにやってくる西部劇みたいのを狙ったのだと思うが、服のぶぁさぶぁさいう音とかじりじり焦げたりのそういう熱みたいのが止まってしまった時間のなかにぜんぶあって、眺めているうちに終わってしまった。

なんとなく90年代のCDジャケットのグラフィックみたいなのを思い起こしたりー。

7.19.2023

[film] 君たちはどう生きるか (2023)

なんとなくもやもやしてあんま気持ちよくないので先に書いてしまう。
7月17日、月曜日の午前、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。

もともと宮﨑駿もスタジオジブリもきちんと追ってきたわけではない - 映画館で見たのは海外で『トトロ』と『千と千尋』くらい、あとはTV放映のが殆どで『もののけ姫』もなんかかわいそうで最後まで見れず、最近のはほぼ見ていない。いろんな人が指摘している彼の女性や家族の描き方、いかにもにっぽんのレガシー左翼の世界観がなんか嫌だし、しかも今回はタイトルが『君たちはどう生きるか』ときたもんだ。80年代育ちとしてはこのタイトルを聞いただけで白目むいて中指たててすたこら逃げるのが基本動作なのだが、これは監督の最後の作品となるとか、でも(だから?)事前のプロモーションや内容公開は一切なしで、そういうマーケティングがネタバレ禁が大好きな昨今の市況に嵌って見事に当たっているらしい、と。この内容だと海外でも当たって宮崎アニメすごい!って更なる神格化は進んでいくのだろう。

別にあのおじいさんの世界観や人物がどうたら、について興味はないのだが、彼のアニメーションが源流のようなマスターのようなかたちであると思われる今のどこに行ってもアニメとゲームだらけの世の中とか、彼が(青少年のためを思って?)問いかけたり戦わせたり、今回のみたいのも含めたああいう「けしかけ」みたいのがもたらした症例みたいのは感じることができて、それはそんなに気持ちよいものではないし、どうするんだ、というのは思ったりする。どう生きるか、なんていいから。 (あと、年齢的には「自分はどう死ぬか」の方だし)

戦争時に病院にいた母を空襲の火事で失った少年が、傷心状態で父の実家に疎開することになる。迎えにきたのは母の妹ナツコで、彼女は父と結婚するらしくお腹には既に子供もいるという。離れの洋館のような家に部屋をもらって学校にも通い始めるのだが馴染めずに石で自分の頭をぶん殴って血まみれになって寝込んだあたりから、庭の池にいたアオサギ(Heron)がなにかと絡んでくるようになるのと、庭の奥の森にある朽ちた塔などが気になり始めた頃に、寝込んでいたナツコが森の奥に消えてしまったので、少年とアオサギが塔の奥に踏み込んでいくと、そこは海とか風とか別の時空が広がっていて、最初はペリカンの大群がきて、風船みたいなマシュマロみたいなわらわらの大群もきて、インコの軍隊もいて、少年の傍には船乗りのキリコとか少女のヒミとかが現れて、最後は隕石のように天上からやってきたらしいあの塔がなんなのか、そしてその塔の天辺にずっといるらしい「大叔父」とは。

構造としては『千と千尋』の家族を人質に取られた子供が、「不思議の国のアリス」よろしく古い旅館に潜む魔物を相手に知恵比べとか冒険をして何かを掴みとった夏、の冒険ファンタジーに近いかも。こちら側と向こう側があり、上の方と下の方がある。ひとつあるのは少年は母を失い、その喪失感の中、父はいるけどあまり信用していない(従うしかない)、これからひとりでどう生きるかを自分に問おうとしていて、でも会いたい - そばにいてほしい母にはもう絶対に会うことはできない、ということをはっきりと認識するためにSF的な仕掛け(に見える迷宮的ななにか)を導入して、世界の均衡とか構造化された記憶などを示してみせるのだが、そんなものとかこんな時間なんて、いったいなんになろうか、って。

あと、亡母が吉野源三郎の映画と同じ題名の小説を遺していてくれたこと、それを読んで母さん...  て泣いて本はよいなあ、になるのだがそれだけかも。

新しい、それまで見たことがなかった世界を示して、そこに導くというよりは昔からずっとあって組み入れられるべく待ち構えていた何かを壊して/壊れちゃったけどこれからどうする? という話で、それは戦時という事情や作者の軌跡ともリンクしているのだと思うが、どうにかしなきゃ、っていうだけなのと、でもあなたには相棒や仲間がずっといたし、いるのよ、って。あのハイジの頃からあるあったかくとろける食べ物とかも。 でも、そこにすら届かない子供たちはいまも世界にはいっぱいいる。この状態で後はよろしく、なんてやめてほしい。とこの世界を絶賛しそうな富裕層の連中に向かって。 

アニメーションとしては絵画のようなところと落書きのような漫画のような粗く稚拙なところをぶつけて、めくるめく流麗な動きになりそうなところをあえて半歩押し戻して、それが結果的に描かれた世界に没入させる効果を生んでいるような。

大叔父については、名を名乗れ、って ← 『ヴァチカンのエクソシスト』の影響…

なんでアオサギだったんだろ?  カササギじゃなかったんだろ? とか。

7.18.2023

[film] Leonora addio (2022)

7月7日、金曜日の夕方、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。  

邦題は『遺灰は語る』。2018年に兄のVittorioが88歳で亡くなった後、91歳となった弟のPaolo Tavianiが初めて1人で監督した作品。同年のベルリン国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞している。90分、ぜんぜん長くない。

原題の「レオノーラ、さようなら」ってなんだろう? と思っていたらPirandelloによる同名の短編小説 (1910)があるのね。Paolo Tavianiのインタビューを読むと、そもそも『遺灰』を『カオス・シチリア物語』(1984) のエピソードに含める構想もあったそうだし、『カオス・シチリア』にも原作者であるPirandello本人(もちろん役柄として)が出てきたりしていたので、今度のもPirandello本人がなにも語らない遺灰として登場する、そんな作品構造を継承しているのかも。

偉いひとの遺灰を生まれ故郷のシチリアに運ぶ話、というのは予告で知っていたが、それがLuigi Pirandelloのものだというのは映画が始まってから知る。1934年にノーベル文学賞を受賞したPirandelloは、「自身の灰は故郷シチリアに撒いてほしい」と遺言を残す。しかしPirandelloはノーベル賞をファシスト政権に寄贈したりしていたこともあり、ムッソリーニは、ピランデッロの名誉を利用すべく作家の遺灰を10年間、ローマに封印・安置してしまう。

戦後、ようやく作家の遺言に従って遺灰の入った壺がシチリアへと帰還することになり(散骨散灰はカトリックが認めないとか)、シチリア島の特使(Fabrizio Ferracane)がその重要な務めを任されて、緊張感たっぷりの旅を始めるのだが、アメリカ政府の協力も得て米軍の飛行機で運べることになった、と思ったら他の乗客が遺灰と一緒だなんて縁起わるいって降り始めて、結果搭乗拒否されてしまったり、列車での旅になったと思ったら壺を入れておいた木箱がどこかへ消え - カードゲームの台にされていたとか、故郷に着いてからも名士なので壺を掲げて葬送するわけにもいかないので棺桶だろ、ってなるものの大人用のは出払っていて子供用の小さな棺しかないので、それで厳かに運んでいったらみんなの笑いが止まらなくなったり、思いもしない方に壺が転々と転がっていく様はPirandelloかも。(『カオス・シチリア物語』でも生首でサッカーとかあったよね.. ちがうか)

登場人物たちの周囲にずっと灰が舞っているように見えなくもなかったモノクロのパートに続いて、画面はカラーとなりPirandelloの別の短編 -"Il choido” – “The Nail” (1936)を原作としたお話しが始まる。これは彼の亡くなる20日前に新聞に掲載されたもので、1935年の彼のアメリカへの旅とそこで報道されていた実際の殺人事件がベースになっているそう。(原作はハーレムが舞台のようだが映画のそれはブルックリンになっていたような)

ごく普通の家庭の子が原っぱで屑鉄の屋台が落とした釘を拾って、それを手にした彼が、原っぱのまん中で喧嘩なのかなんなのか取っ組み合いして声をあげていた二人の女の子のひとり - 赤毛の子の頭に釘を突き立てて殺してしまう。少年は特に逃げもせずあっさり捕まって、動機を聞かれても無関心ふうに”On Purpose”しか言わなくて、”On Purpose”ってどういうことか? と聞かれても「それもまた“On Purpose”だ」って。不条理劇と呼ぶにしては相手は子供すぎるし、家庭環境や周囲の社会も含めて特に狂ったようなところがあったとも思えない、みんなが空を見あげてお手上げになるのだが、でも釘は落ちていて、少女は殺されたのだ、と。

『カオス・シチリア物語』の各エピソードにもそういうところがあった気がする – 再見したい。随分見ていないな – が、自然現象も含めてすべてがあまりに他人事としてやってきて、それは薄情とかそういうのでもなく、ただ思ったように転がらなくてどうしようもない、生も死もそういう土地の縛りとかそこに流れる時間のなかに作者も絡まってあって、メタとかいう前に全体としてすっとぼけておかしくて、でも人は生と死の間を行き来していて - そんなありようが神話的なのとは別の物語構造で描かれている、というかうまく言えない。

ただ、PaoloはVittorioをそういう物語時間のなかに置いて、彼の遺灰を撒きつつもう一度会ってみようとしたのではないか。

映画中にはロッセリーニの『戦火のかなた』(1946) や『カオス・シチリア物語』も挿入されていた、とエンドクレジットで知って、どこだったのか、もう一度見るべきか、になっている。

7.17.2023

[film] Pearl (2022)

7月8日、土曜日の午後、シネクイントで見ました。

A24のホラー。監督はTi West、脚本はTi Westと主演のMia Gothのふたり。 先に作られて公開された時代設定は後(1979年)であるらしい”X” (2022)の方は見ていない - なんか(なぜか?)とてもおっかなそうだったので。なので、ここのこれがあそこに繋がるのか、みたいな話はできないのだが、あんまりそういうところのない、きちんと完結した作品として見ることができた。

時代は1918年、周りに畑しかないテキサスの田舎の一軒家に両親と家畜たちと少し離れた沼のワニなどと暮らすPearl (Mia Goth)がいて、夫は第一次大戦に従軍してヨーロッパに行ったきり、父(Matthew Sunderland)は何があったのか全身が麻痺して介護が必要なので、母(Tandi Wright) - 興奮すると喋りがドイツ語になるのでこの頃のドイツからの移民? - が家の長として全てを厳格に仕切っていて、Pearlは母に言われた通りの奴隷仕事 - 家畜の世話、父親の食事に入浴、町への買出しなど - をずっとさせられて口答え禁止の日々 - これらがPearlの視点 - こんな家も土地も、絶対抜けだしてやる! で語られていく。

夢はムービースター! でお使いの合間に町の映画館でかかるダンスレビュー映画にうっとりしていると、映画館に寝泊まりしている映写技師(David Corenswet)に声を掛けられていつでもおいでよ、って仲良くなり、地元のお金持ちの家の義妹Misty (Emma Jenkins-Purro)からはもうじき巡回オーディションが来て、これに受かれば全米をツアーできる - つまり家を出ることができる! よ、と言われてこれしかないな、そして自分なら絶対選ばれるはず、って確信する。

そんな現実と夢の狭間で、なにもかもやってらんねーよ、って飼っているガチョウの串刺しをワニに与えたり、お使いで買った父親用のモルヒネでラリったり、やらしい映像を見せてくれた映写技師とやったりしていると、母はあなたのそんな悪事も思惑もとうにお見通しだからね、ってすべてを潰しにかかる。

彼女の手もとにあるのは、案山子からもらったシルクハットとオーディションの赤いドレスだけ、それでも彼女はここで立ちあがって戦わなければ、玄関先に置かれた蛆のわいた豚の丸焼きみたいにされてしまうからー。かの『オズの魔法使』(1939) の真逆をいく、家には絶対帰りたくなんかないんだ、って。

若いPearlにのしかかるいろんな抑圧がゆっくりと彼女を押し潰し蝕んで彼女からあらゆる希望の芽を摘み取ってしまったその果てに現れる”Pearl vs. the World” というホラーによくある構図 → ここにこうしてモンスターが… 見よ! という    Aのよりも、退屈な田舎暮らし、どうすることもできない親の縛り、とにかく明るい未来が一ミリも見えないこと、反対の外界にはそうでない世界や生き方がはっきりとあって見えること、などが格子模様のセットとして整然と配置され、その中でのサバイバルとしての彼女の行動(復讐、なのか? 少しちがう)が少し怖いけど、やや痛快かつ痛切に響いてきて、そこにはサイコホラーの一線を超えた先にありそうな闇も深淵も、超常現象もない。ぜんぶわかる、やったことなくても頭のなかで考えたことくらいはある(ない?)。

だから最後の、エンドロールに出てくるスクリーンテストのような、Pearlのいろんな笑顔模様がすごく沁みて、ここには祈りも希望も絶望も妄執も確信も、彼女の錯綜したエモーションぜんぶが最後の光に向かって溶けていくかのようで、あれをすれすれで狂人の笑みのようにも見せてしまうところはうまいなすごいなー、って。

そして、このはっきりと陰惨な出口なしの状態が1918年のアメリカの田舎には既にあって、今に至るまで脈々と続いていて、そこに別に違和感とかないのって、これもまた別の意味ですごいことなのかもー。

これって、邦画にもぜったいあっておかしくない設定のだと思うのだが、過去あったりしたのだろうか?
(でも陰惨になりすぎて見たくないやつになっていそう)


とにかく暑すぎてなんもやるきにならないー (そもそもやるきないけど)

7.14.2023

[theatre] Met Opera: Don Giovanni (2023)

7月6日、木曜日の晩、東劇のMetLiveViewingで見ました。

モーツァルト(台本:Lorenzo Da Ponte)の『罰せられた放蕩者またはドン・ジョヴァンニ』。
Ivo van HoveのMetropolitan Opera演出デビュー作品、というのであれば、見ておきたいかも、と。
女性指揮者のNathalie StutzmannもMetデビューとのこと。

モーツァルトのオペラはものすごく昔(25年くらい前)に、Metで『フィガロの結婚』を見た。あれはふつうに見て楽しいやつだったが、今度のは「罰せられた放蕩者」のトーンが強くて暗そう。 以下、オペラの歌唱のありよう(この場面でこんなふうに)や個々の歌手の実力や見事さみたいなところ、あるいは「通常」のオペラ演出みたいなのに踏み込んだ感想は無理だけど、どんなことが書けるかわからないままー。

舞台セットとライティングは昨年見た”The Glass Menagerie” -『ガラスの動物園』と同じくJan Versweyveld。幕が開いたところだと、楽屋つき抜けとか全体俯瞰方式とか、いつものIvo van Hove/ Jan Versweyveldみはそんなになさそう、ふつうのMetのオペラのセットみたいでなーんだ、になるのだが、これらの窓とか壁とか中庭とかバルコニーとか、実は刻々と細かく動いたり変わったりしていって、最後の方は全体が発光する魔の山のようなすごいの(怪物みたいな)になったりする(この辺、カメラがそういうのを追えていなかったのは残念)。最初はデ・キリコの描いた町や壁のかんじもあったのだが、幕間のインタビューによるとあれはエッシャー(抜けられない止まらないぐるぐる)なのだと。

Don Giovanni (Peter Mattei)と従者Leporello (Adam Plachetka)は、どちらもモダンなダークスーツ(タイも、時にコート)を着て主人と秘書 or 運転手、というより同じ顔と態度の「できる」ウォール・ストリートのビジネスマンのような、マフィアのような、映画関係者のような、なんにしても成功した系の顔をもつエリートに見えて、彼らがDonna Anna (Federica Lombardi)を戯れに襲ってレイプしようとして激しく抵抗されると態度を豹変させ、怒り狂った彼女の父The Commendatore (Adam Plachetka)が現れるとピストルであっさり、あっという間に殺してしまう。

続けてDon Giovanniの悪辣さをわかって憎みながらも彼から離れられないElvira (Ana María Martinez)が現れたり、Don Giovanniが次に狙いをつけた純朴なZerlina (Ying Fang)とその夫Masettoとか、Donna Annaの傍にいる恋人のDon Ottavio (Ben Bliss)がいたり、彼らの周りを追って隠れてまた追われたりを繰り返し、てめえらいい加減にしろよ、ってみんなに追い詰められるところまでが第一幕。

第二幕に入ると、Don Giovanniがおれは姿がばれててやばいから服装を替えようぜって、Leporelloのと上着だけ交換して、そこまでして懲りずに女漁りをしているとThe Commendatoreの亡霊が出てきたり、いよいよIvo van Hove的な止まらずにどこまでも上書きされていく欺瞞と誤認と嘘と、それらそれぞれに執拗に絡まって解けない欲だの情念だのがあちこちから湧きだして止まず、誰が誰やら仮面をした全員がその沼に嵌っていって抜けられない。これらがオペラ的にわかりやすいピークやドラマチックな破滅に向かう、というよりは気が付けばそうだったし、みんな知っていた(はずだ)し、世界の初めからあるみんな地獄 - 愛なんてどこにもない、食欲と性欲しかないあれだろ、という状態が晒されておわる。

ここでのDon Giovanniは服装こそまともだし傍らには秘書のようなLeporelloもいるので、彼らが女性に寄っていっても一見変には見えないのだが、でも実際には反省を知らないただの変態の性的虐待者で、自分はどんなことをしたってその責任から逃れられると思い込んでいる ← というだけで十分に異常者なのだが、どれだけ女性に酷いことをしてもそれが許される場のようなものも確かにあって(いまのこの国ね)、そんなんで1000人以上の女性とやってきた、どうだ! っていうのを今の舞台で言われても(たまに飲み会でいるけどさそういうじじい)とっととくたばれ、しかないのだがー。

というのを、例えばストレートな演劇でやると重すぎてぐったりになってしまいそうなところ、すでに決められた伴奏と歌がある、というだけで過去から積み重ねられた定型とのギャップとか、そのギャップも込みでああそこをそんなふうに見せたりごまかしたりするのか、などど楽しめてしまう、というのがオペラ化の見るべきところなのかしら。

実際に歌とオーケストレーションに込められた熱は十分に伝わって、最後にみんな大喝采していたのはようくわかった。けど、このセットと衣装ならヘヴィメタルやインダストリアル系でもはまって十分かっこよくなったかも。

7.12.2023

[film] Léon Morin, prêtre (1961)

7月2日、日曜日の夕方、日仏学院のメルヴィル特集で見ました。邦題は『モラン神父』、英語題は”Léon Morin, Priest”。見たことあるやつだったと思ったのだが見ていなかったかも。

原作はゴンクール賞を受賞したBéatrix Beckの同名小説(1952) - アメリカでのタイトルは” The Passionate Heart”。モノクロの撮影はHenri Decaë。

ナチス占領下にあるフレンチアルプスの小さな町で、ユダヤ人の夫を戦争で失い小さな娘をひとりで育てているBarny (Emmanuelle Riva)がいて、添削の机仕事をしながらオフィスにいる女性にぼーっと見とれたり、占領軍から守るために娘に洗礼を受けさせたり- でも自分は無神論者だしおもしろいこともないので、教会の野郎をからかってやれ、ってわざわざ告解に行って、ブルジョアじゃなさそうな田舎っぽい名前から”Léon Morin”ていうのを選んで、彼の登場を待つ。

こうして現れたMorin (Jean-Paul Belmondo)は確かに態度も外見もつるっとやわそうな若者で、Barnyは焚きつけてやれ、くらいのかんじでカトリックなんて、神様なんてさー、みたいな議論を吹っかけてみるのだが向こうは全然動じなくて真面目に余裕たっぷりに返してくれて、別れ際にはあなたはこれを読んでみるといい、って参考文献まで渡してくれる。

ま、いいか暇つぶしだし、程度だったのだが、会って議論を重ねていくうちにお互い離れ難くなっていって – Barnyにはそのように見えて、それはMorinの宗教者としての当然の態度なのかもしれないけど、それだけじゃないのかもしれない、ひょっとしたら。

まだ戦後でもなんでもない、占領下にある田舎で、自分はなんでこんなふうに燻らなければならないのか、神なんてどこにもいないじゃないかどうしてくれるんだ? というBarnyの怒りに近い鬱憤とMorinの揺るがない信心が正面からぶつかって、それが変わっていく戦況に関係あるのかないのか、BarnyのMorinへの恋愛感情に変わっていく。彼女の思いがどうなっていくのか、それはMorinの信仰を揺さぶったりそこになだれ込むとこまで行くのか。 その緊張の糸ときたらまるでギャング映画やサスペンスホラーのそれで、最後までなにがどう転ぶかわからない、Morinの法衣がいつ血で染まったり炎に包まれたりするのかはらはらだったのだが、彼があの笑みを浮かべつつ天に召されることはないのだった。 とにかく『賭博師ボブ』と同じようにほぼなにもしない主人公を中心に、揺るがないなにかと揺れまくるなにかが衝突して小さな音をたてて、世界はちっとも動かないったらない。

これ、本当は娘を抱えて戦争ですべての行き場を失ったかわいそうなひとりの女性のドラマとして描くこともできたはずなのに、そうはしなかった。『賭博師ボブ』と同じように愚直に自分の仕事、というかやることに没入して結果的に周囲をガタガタの不幸にして、それでもぜんぜん応えてないバカな男のお話し、をまるでファンタジーのように描いた - これってなんだろ? って見るべきなのか。

それにしてもJean-Paul Belmondo、前の年には”À bout de souffle” (1960) -『勝手にしやがれ』に出ているんだよ。それなのになんであんなに爽やかに微笑んでいられるのか。これだけで神なんているもんかぼけ、になるよね。


Voyage à travers le cinéma français (2016)

7月2日の昼、日仏学院のメルヴィル特集で見ました。 つまりこの日は午前に日仏行ってこれ見て、有楽町に行って『青いカフタンの仕立て屋』を見て、夕方にまた日仏に戻って『モラン神父』を見た、と。
邦題は『フランス映画への旅』、英語題は”My Journey Through French Cinema”。この翌年に10エピソードからなるTVシリーズも作られている。

Bertrand Tavernier(1941-2021)による3時間21分のドキュメンタリーで、彼自身の企画と選定、ナレーション(自身も画面に出てくる)による私的フランス映画史講義。 アメリカで同じようなことをやっている(というかこういうことをできる)のはMartin ScorseseかPeter Bogdanovichくらい。

年代としてはRené Clair、Jean Renoir、Julien Duvivierあたりの1930年代から入って、自分が映画と出会った頃のJacques Becker、Robert Bresson、Marcel Carnéを経由して、自分が始めて製作の現場に関わったJean-Pierre Melvilleからヌーヴェル・ヴァーグまでざっと年代順に。作家だけでなくJoseph KosmaやMaurice Jaubertといった映画音楽作家まで、次々にいろんなクリップが並べられて、どれも当然のようにおもしろそうで、あっという間に終わって、まだ見てないのだらけだわお腹へったもっと、しかないの。

7.11.2023

[film] Le Bleu du caftan (2022)

7月2日、日曜日の午後、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
邦題は『青いカフタンの仕立て屋』、英語題は“The Blue Caftan”。

“Adam” (2019) -『モロッコ、彼女たちの朝』の監督Maryam Touzaniの新作で、カンヌの「ある視点」部門で上映され、前作と同様、モロッコからのオスカー外国語映画賞候補となった。

モロッコのメディナにある小さな仕立て屋が舞台で、登場人物はほぼ3人。前作も街角の小さなパン屋を営む家に外からやってきた人が小さな波風をたてるお話しで、その巻き起こす風の強さというよりも、その力が柔らかく持ちあげて広げてみせてくれたその家や家族のありよう - そこに共にあるかんじが印象に残ったのだが、今作もその辺は少し似ているかも。

仕立て屋のHalim (Saleh Bakri)がいて、黙々と生地を切ったり縫ったり刺繍したりしている彼と訪れるお客を迎えるMina (Lubna Azabal)がいて – そうやってふたりで細々とやってきた店に見習いとして若者のYoussef (Ayoub Missioui)が来て、腕は悪くなさそうだし真面目そうだったので雇うことにして、Halimの指導のもとで一部の手仕事を任せていく。

店には伝統的な民族衣装であるカフタンを結婚式用にオーダーする客も来て、色や刺繍についての注文も細かかったり納期もうるさかったりするのだが、手仕事で時間が掛かるHalimのところにはそこそこの注文も入るのでYoussefのような手があると助かるし、Minaは身体がよくないらしくしんどそうに座り込んだりいらついて声を荒げたりすることもある。

そのうち、ひとりで公衆浴場に通うHalimがそこにいる男性客と目配せして個室に入ったりするところ、Youssefとも仕事の指示や指導をしつつ目を合わせて固まってしまったりするシーンが描かれて、その様子を瘦せていくMinaは肌で感じとっているように見ていたり。 そして見られる側のHalimの方もここに通ったりYoussefに触れたりすることで何かを発散できているようには見えない。ずっと目を伏せたまま自分に何かを問うているような。

予告編では、このあたり(Halimの指向、ふたりの距離と温度)に気付いてしまったMinaが3人の関係に緊張や亀裂をもたらすかのような雰囲気があって、実際にYoussefは途中で出て行ってしまったりもするのだが、映画はどちらかというと徐々に衰弱していくMinaがその事態を受け容れ、その容態をHalimが嘆きつつもやはり受け容れ、それをまたMinaが赦し、そんなふうに織物のように重ねられ織られ仕立てられていく夫婦の姿が中心にある。なかでも特に自分の、夫の、それぞれの事態と運命を戸惑いながらも受けとめて、部屋から限られた時間を見つめようとする彼女を静かに見守る女性映画なのだと思った。とても辛く悲しいけど、見たほうがよい。

前作はパン、その生地の肌理やこんがりにやられたが今回のはどう見たって機械ではできそうにない刺繍や編み紐の絡まりようとそれが乗っかる鮮やかな色合いの生地で、食べ物にはよだれしか出なかったけど、今作のカフタンは着る機会はおそらくないだろうけど、触ってなでなでしたい感がじんわり溢れてくる。どんなにか滑らかなことだろうかー。

今回もおいしそうな丸焼き煮込みふうの料理が出てきたり、公衆浴場のずっと籠った湿気とか、窓の下で中途半端な音量で鳴っていて耳に触ってくるラジカセの音楽とか、そういうのをみんな混ぜて含めたいろんな感覚が撫でたり触ったり覆ったりしてきて、その手触りの探りあったり掴んだりの奥、向こう側の、どうしても届かないところに行ってしまうMinaの肌とその冷たさ、そうなってもそれを柔らかく包もうとする青いカフタンの布がー。

こうなってこうだから悲しい、とか考えるまでもなく、とにかく悲しいくてやりきれない。 その指や掌を重ねたり結んだりすることができないから、って。

Minaが袋で買っていつも食べているみかんは(おそらく)クレメンタイン - Moroccan Clementineというやつで、New Yorkでも季節になると小さな木箱に入って店先に並べられて、最初に食べたときはとてもおいしいのでびっくりした。 大好き。(日本のみかん最高! しか言わないひとには通用しなかったけど…)

7.10.2023

[film] Indiana Jones and the Dial of Destiny (2023)

7月1日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』。

監督はJames Mangold、音楽はJohn Williams。このシリーズの5本目でこれが最後の1本となる、というのはずっと言われていた。べつに驚かない、そんなに悲しくもないかも。おじいちゃんお疲れさま、って。

Indiana Jonesのは学生の頃の最初のからずっと見てきてはいるものの、最初からあんましよくわからなくてそんなにのれていないやつで、考古学者が宝物を巡って悪と戦う冒険もの、って、考古学の探求がアクションアドベンチャーになるのはまだわかるにしても、それを別の角度から追う悪の組織と争奪して戦う、っていうのはどうなのか。考古学者ならそこまでの危険を想定して動かないといけないんじゃないか、とか思ったし、まあHarrison Fordが終始きびきびしない顔と態度で冒険にのぞんでいくのはそういうのもあるのか、とか。とにかく時代設定も含めてあまりに映画用に作られたキャラクターすぎる気がしてー。

1944年のフレンチアルプスの山中で、ナチスが奪った宝物品をもう一回奪い返そうとしているIndiana Jones (Harrison Ford)とオックスフォード考古学者のBasil Shaw (Toby Jones)がいて、宝物のうち、キリストを刺したロンギヌスの槍は偽物だったが、アンティキティラの機械(の半分)は本物だって、ナチス側の学者(?)のJürgen Voller (Mads Mikkelsen)とのちゃかちゃかした争奪合戦になるのだが列車が落っこちる前になんとかBasil Shawも含めて救いあげる。

1969年のNew York、月面着陸を祝うパレードが行われようとしている日のマンハッタン、Indiana Jonesがハンターカレッジの教授職を引退しようとしているところにBasilの娘でJonesが名付け親だったHelena (Phoebe Waller-Bridge) – “Wombat”って呼んでる – が訪ねてきて、そこの書庫に納められていた例の機械の半分を見せてほしい、って見せて貰うなりそれを引っ掴んで逃げて、そこにVollerの一味も加わって、大学の職員が撃たれてなくなり、Jonesは地下鉄の線路上を馬で走ったりの大騒ぎをした挙句に職員の殺人の容疑者にされてしまい、否応なくHelenaを追ってタンジールに渡る。

タンジールでHelenaは機械を競りで売り飛ばそうとしていたのをVollerに奪われて、それを追っかけてJonesとHelenaと若者のTeddyはギリシャの海の方に飛んで、そこでダイバーのRenaldo (Antonio Banderas)の手を借りて機械の半分の場所を記した石板を見つけて、更にそこからシチリアの洞窟に行って…

こんなふうに各地で獲物をめぐる追っかけっこを繰り返していった果てに、最後には起動された機械によって時間旅行して紀元前212年のシュラクサイ包囲戦の只中にまで行ってしまう。シリーズ前作の宇宙人と円盤もおいおい、ってなったけど、今度のも最後の方でとんでもない彼方に飛んで、Jonesは紀元前のこの場所に留まりたい、自分が追い求めてきたものがぜんぶあるなんて夢みたいだ、って言って、あ、残るんだーと思ったらHelenaがJonesをぶん殴る、そこはなかなかよかった。

ナチスの残党がこの機械を手に入れようと思うのは、まあわかるけど、Indiana Jonesが機械の導いた過去の世界に嵌ってそのまま残りたい、ってなるのって、そういうもの? それでいいの? って。もう妻も出ていっちゃったし歳だしどうでもいいのか、という投げやり感については賛否あるかも、と思った。

あそこでHelenaが、あ、そう、じゃあばいばい〜 しちゃってもよかったのかも、と少し。 数年後に発表される新Indiana Jonesシリーズの冒頭は、古代遺跡から初代Jonesの鞭と帽子が発見されるところから始まるの。

Helena = Phoebe Waller-Bridgeの役どころは”The Lady Eve” (1941)のJean = Barbara Stanwyckを狙った、と読んだのだが、ほんとかしら? “The Lady Eve”のJeanは詐欺師のパパに仕込まれた生粋ばりばりの詐欺娘で、彼女がぼんぼんの御曹司のHenry Fondaをきりきり舞いさせるのが楽しいのだが、Toby Jonesのあんな生真面目そうな教授からPhoebe Waller-Bridgeみたいな娘が生まれるだろうか? っていうのと、Jeanがかっこよくて痛快だったのはウブなHenry Fondaを最後のハネムーン列車のとこでずたぼろにしたからだったのだが、今回の相手となるのはよぼよぼ老人のJonesでしかないので(どちらにとっても)かわいそう過ぎないか、とか。

ほんとうは、彼女が向こうの世界から戻ってきた直後に、Mangoldの”Kate & Leopold” (2001)よろしく、紀元前の世界から戦士が現れて、Phoebe Waller-Bridgeと絡んでくれたらまだおもしろくなったかもなー、くらい。

あと、パレードの日の最中の追っかけのシーン、Jonesの大学があるのは68thのLex Ave、パレードが行われていたのは5th Ave - or Park Ave ? としたとき、ここから59thの地下鉄の入口までどういう経路を辿ったのかとか、かなりどうでもいいことを考えてあそんだり。

7.09.2023

[film] Marcel the Shell with Shoes On (2021)

7月1日、土曜日の昼、新宿武蔵野館で見ました。
シネマカリテで『小説家の映画』の初回を見てそのまま横に移動して。1日のファーストデイの料金だし、どちらも映画を撮ることについての映画、と言えなくもないし。邦題は『マルセル 靴をはいた小さな貝』。

もとはお遊びで作ったような/ように見えるストップモーションアニメのショートをYouTubeにあげていたらそれが評判になって、改めて映画作品として作られた、と聞いた(← 違ってたらごめん)。

監督にクレジットされているのはDean Fleischer Campだが、もとはMarcelの声をやっているJenny Slateが彼をおもしろがらせようって始めた声ネタが起源で、その後ふたりは結婚して離婚して、そんなふたりの関係の変遷と共に作られていった、という側面はあるのかないのか。そんなことはどうでもよいことなのかどうなのか。

靴を履いててどこにでも行くことができる小さな貝と同じひとつの家に住んで暮らす - 離れて暮らすこともできるよ、今もMarcelは.. というお話しなので関係ないこともないような。

ただMarcelはそんなのとは無縁に喋って会話することができる貝として気がついたらそこに生息していて、その家に元々暮らしていた夫婦になにやら喧嘩みたいのがあってふたり別々に出ていってしまった。それまでそこに揃って暮らしていたMarcelの家族一族の大半はそのとき(おそらく)夫の方のスーツケースと一緒にどこかに運ばれていってしまい、今の家に残されたのはおばあちゃんの Connie (Isabella Rossellini)とMarcel (Jenny Slate) のふたりだけで、その家に新たな間借り人としてDean (Dean Fleischer Camp)がやってくる。

Deanは小さな先住民MarcelとConnieの存在にびっくりしつつも、彼の境遇と事情を知るとその生活の様子と彼らの家族を知りませんか? を動画にしてネットにあげてみるとたちまち大評判になりTVにも取り上げられて、続けて彼らの家の場所も簡単につきとめられ人が頻繁にやってきて騒がしくなって荒らされて嫌なかんじになってきたところでLesley Stahlの60 Minutesからあなたたちの家族探しに協力できるかも、という取材と出演の依頼が入ってきて…

自分の貝殻を背負って移動する - 靴履いているので歩けるし、高速移動にはくり抜いたテニスボールを使う - というとヤドカリかな? とも思ったのだがヤドカリはエビカニの仲間なので違うし、靴を履いているということは脱いで脚(?)を伸ばすこともするのか? いや西洋なので家のなかでもふつうに靴履くしな、とか、海の貝と淡水の貝(タニシとか)だったらどっちなのだろう、とかどうでもいいことばかり考えたり。

Marcelの耳を澄まさないと聞き取れなさそうな小さな声、伝えたいことがありすぎるのでつんのめって息継ぎもうまくできない子供の喋りと疲れて面倒だし喋るのもしんどいConnieの声を拾って聞き取って、その場所を自分の暮らしているすぐ横に確保して一緒に暮らす、って、そういうのが例えばこんなふうにできたらよいなー、っていう寓話。

ほんとうはそうあってほしいし、でも実際には姿が見えなくて声が聞こえないだけで一緒に暮らしているファミリーは他にいくらでも - ネズミだっていろんな虫 - 言わないけど - だって太古からずっと同じ屋根の下で共存とか共棲はしてきているんだけどー、ってそんなことを思うのは野暮なのかしら。 どちらかというと鞄ひとつで海を渡ってきた移民の人々とのこととか? いや単に、ふつーにかわいいアニメーションなんだから楽しんで見れば? というあたりをぐるぐる数回まわってしまったり。

Connieの声をIsabella Rosselliniさんがやっていたのは嬉しい驚きで、彼女の”Green Porno”や”Link Link Circus”でのパフォーマンスを追ってきたものとしては、彼女以外にこの役(声)を演じることができるひとがいようか? なのだった。それは学術の世界で追っかけられてきた動物たちのヒトのそれとはかけ離れた生殖や暮らしの姿を自分で被り物を被ったりしてなりきっておもしろく演じていく、そういうやつなので、本来であれば彼女が貝の殻を被って出てきてくれてもよかったくらい。

続編は難しいだろうけど、”The Secret Life of Pets”の方に出てくれてもいいよ。Jenny SlateさんはGidgetの声と二役になるけど。

7.07.2023

[film] Bob le flambeur (1956)

6月30日、金曜日の晩、日仏学院のジャン=ピエール・メルヴィル特集で見ました。メルヴィル没後50年だそう。メルヴィルならなんでも何度でも見る派。邦題は『賭博師ボブ』、英訳すると"Bob the Gambler”なのだが、英語圏でも原題のままで通用している。

Auguste Le Bretonの犯罪小説を元にメルヴィルが初めてオリジナル脚本を書いたもの。そこにいるだけ、あるものを撮る、みたいにぶっきらぼうでかっこいいカメラはHenri Decaë。

冒頭の早朝のモンマルトル、ピガール広場の様子がすばらしくよくて、何度か寄ったことしかないけど、60年以上前のだけど、朝ってあんなだよねえ、っていうくらいパーフェクトな街の朝の光景がある。後のトークでこの場面の撮影に14日間かけたことを知る。それくらい念入れて手間が掛かっているかんじ。そこに落ち着いた(そんなに気合いの入っていない)メルヴィル自身によるナレーションが入り、背景に絶え間なく流れて続けていて場所場所で切り替わっていく軽音楽がおもしろい。その場所で本当に流れているのとサントラが絶妙に絡みあって、ギャングたちの影が浮かびあがる。

賭博師のBob (Roger Duchesne)がそんな朝の光景を抜けて自分のアパートに戻るところで、同じく朝帰りぽい女の子Anne (Isabelle Corey)を見かけたり、彼の落ち着いた物腰と風格、若者やくざのPaolo (Daniel Cauchy)とか刑事のLedru (Guy Decomble) – Bobに救ってもらった借りがある - とかのやりとりから堅気じゃなさそうなことはすぐわかる。アパートの部屋にも仏壇のようにスロットマシンがあり、拾ってきたAnneを連れてきても特になんもしない。無口だし表情変えないし何考えているのかさっぱりだし、落ち着きすぎてて負けてぼろぼろ大出血しても痛くなさそうで、そんな彼が元仲間の金庫破りのRoger (André Garet)から – 彼も又聞きなのだが – ドーヴィルのカジノの金庫に競馬用の8億フランが運ばれて待ってる、と聞いて銀行強盗でもやるか、ってなる。

いろんなツテを頼って資金を調達してカジノのフロア図や金庫の情報を集めて、実行部隊みんなで原っぱに白い線ひいてリハーサルをして、準備を整えていくのだが、Paoloがベッドでその計画をAnneに喋って、それがLedruの耳にも届いて、彼はまさか、っていうのだがどうやら本当らしい。

そんなふうになって、ばれているからやめさせなきゃ、っていうのと今度のは間違いないからやれる当たるやったれ、っていうのがせめぎ合うなか、決行の午前5時前少し前、時間潰しで賭博場に首をつっこんだBobがちょっと賭けてみたら大当たりして止められなくなり、号令かけるのをミスってPaoloが撃たれて..

スリリングな犯罪スリラーの体裁をとるようでいて、実際少しはどきどきするものの - 成功して笑うのでもなく、失敗して消されるのでもなく、裏切りや騙しによって血まみれ涙まみれになるのでもない。 時間と共に膨れあがっていく迫力と緊張感をなぎ倒すように暴力やアクションが炸裂する、そういう方には向かわなくて、結局Bobは賭博師であって銀行強盗ではなかったのか… というそれだけの話として終わる。Bob.. あんたなにやってんの? しかないのだが誰も彼にそれを言わないし、言ったところでなんになろうか、っていつもの顔でー。

上映後の須藤健太郎さんのトークがおもしろくて、偶然性に支配された(そこに魅せられる)賭博と綿密な計画と資金と人的リソースが要求される銀行強盗はそもそもの方向性が真逆で、後者の工程はほとんど映画製作のそれに似ていて、つまり映画製作とは銀行強盗みたいなものではないか、と。そして、今回の強盗で監督の立場にあったBobはじつはなんもしなかった(しないで済んでしまった..)と。確かに。 ギャンブルのノリでイチかバチかの銀行強盗を狙ったのか、とも思ったのだが、やっぱり違うもので(前科もそれだった?)、その世界に染まれずにあんなふうになってしまったのかしら? この線でいくと詐欺師は小説家に近いのかしら、とか。

Roger Duchesneの、無口でなに考えているのか一切掴めないでくのぼうぶり - なのに(だから?)かっこよくて、彼がべらべら喋りだしたらサッシャ・ギトリみたいになるのかも、と思ったら彼はギトリの“Le roman d'un tricheur” (1936) - 『とらんぷ譚』に出ていたのだった。

7.06.2023

[film] The Novelist's Film (2022)

7月1日、土曜日の午前、シネマカリテで見ました。
邦題は『小説家の映画』。 原題は”소설가의 영화”。2022年のベルリン映画祭で銀熊を受賞している。原作、脚本、監督、編集、撮影、音楽までホン・サンス。主演のひとりKim Min-heeがプロダクション・マネージャーも兼ね、このふたり以外だと録音だけ別の人で、スタッフは計3人。

ぜんぶモノクロ? かと思うと(予告を見たらわかるように)カラーになるところがある。

「こどもが映画をつくるとき」ではない「おとなが映画をつくるとき」の映画かも。

『あなたの顔の前で』(2021) - 見たのは丁度1年くらい前か - での女優役がすばらしかったLee Hye-yeongが書けなくなった小説家ジュニとして出てくる。冒頭、並べられた本を触るような触らないようなの手が映されて、小さな書店 - 新刊も古書もあってカフェもついている – の書店主で彼女自身も作家だったらしい友人(Seo Young-hwa)を訪ねて、近況をやりとりして若い店員と話して、別れたところで旧知の映画監督 (Kwon Hae-hyo)とその妻(Lee Eun-mi)と再会し、コーヒーを飲みながらやはり最近の話をする。

その会話のなかで、彼女が最近は書いていない、と言うと、映画監督が軽い調子で「もったいない」と言い、その「もったいない」というのはいったいどういうことか? って彼女が静かに怒るところがとてもよいの。(すばらしい怒りかた。そしていつもようにぼこぼこにされるKwon Hae-hyo…)

そこから公園を散歩していた女優ギルス(Kim Min-hee)と出会って - 高所から映画監督の望遠レンズを見せてもらうシーンがあるのだが、そこでズームされていた小さな歩行者って彼女じゃなかった? - 今は撮影の現場からは離れているというギルスとトッポギ屋でお茶して話をして仲良くなって、突然(でもおそらくずっと考えていた)ジュニは映画を撮れないかしら?と言いだして、女優の夫の甥で映画学校にいるという青年にカメラを持たせてまずは短編を作ってみたい、と。彼女たち夫婦に出てほしい、というので、ギルスは帰ってから夫に聞いてみないと、といい、そこからギルスは彼女の知り合いの詩人と会うので来ませんか、ってジュニを誘って、行ってみるとそこは冒頭に出てきた書店のカフェで、ギルスの知り合いはジュニの知り合いでもあり、そこでみんなでマッコリとかを呑みながら、いろんな話をしていく(いつもの)。

ただ今回は酒を呑みながら更に別の場所に行ったり口説いて転がったり関係が壊れたり、ということはなくて、作家として、女優として活動するというのはどういうことか、それをやめるのか休むのか(それもまた外野はあれこれ言うけど)どういうことか、などについて自分の思うところも含めてとりとめなく語っていくばかり。そういう語りのおおもとにあるのはこんなふうな人と人の出会いで、今回は5回くらい場所が変わって、そのたびに別々の「あなた」に向かって交わされて受けとめられる言葉たちはどれもなんでもないようで、その入ってくる、浸みてくるかんじの滑らかで気持ちよいことったらないかも。みんながそれぞれに語るのは、自分たちのそれぞれの事情についてばかりで、ふつうそんなの語っていれば、でしかないのに。

そういえば『あなたの顔の前で』は、女優をやめていたLee Hye-yeongが明日あなたの短編映画を撮らせてもらえないか、って映画監督のKwon Hae-hyoに請われるやつではなかったか、とか。

ホン・サンスの映画に登場する俳優の演技について、これまであまりそんなに意識したことってなかったのだが、今回のに関してはLee Hye-yeongとKim Min-hee、ものすごく、とてつもなくうまいんだな、って思い知った。あたりまえよ、なのかもだろうが。とにかくすばらしい女性映画なのよ。

最後に上映される映画の抜粋を見て、それを見終わって出てきたギルスの姿を見て、そういうことかー、というよりもなによりも、なんというか、びっくりした。全員そんなに酔っぱらわず、踏み外すようなこともそんななかったのはそういうことなの?(いや、わかんない。そうじゃないかもだけど)

映画監督の映画、なんじゃないのか? って。 できればもう一回みたい。

7.05.2023

[film] The Power of Kangwon Province (1998)

6月24日、土曜日の夕方、菊川のStrangerのホン・サンス特集で見ました。
邦題は『カンウォンドのチカラ』、原題は”강원도의 힘”。 カンヌ国際映画祭のある視点部門に出品されたホン・サンスの長編第2作。

『正しい日 間違えた日』とはまったく異なるかたちの、2パートからなる。『正しい日 間違えた日』が“Now”と”Then”のサンドイッチだったのに対して、ある避暑地を中心に綿あめをぐるぐると巻いていくようなー。

女子大生ジスク(Oh Yun-hong)が夜行の電車に乗って江原道(カンウォンド)に旅行に出かける。車内は混んでいて立っている脇をイカとかビールを売る車内販売が通る。着いたとこは海が見えて天気はきらきらで、友達ふたりも夏の休暇に向かってのびのびしていそうなのだがジスクはなんかもやもやして簡単にキレたりしてしまったり。暇そうで人のよい警察官と知り合って、いろいろ案内して貰ったりみんなでお酒を呑んだりして、酔いつぶれたジスクを介抱してくれたり、でもそんな彼には家族がいることを知る。

のだが、戻ったあと、ジスクはひとりでもう一回カンウォンドを訪れて、その警察官の彼を連れまわしたのかどこかに連れていってもらったのか、もうひと晩泊まってもよかったのだが、やっぱり帰るって。電車でも車でもなくバスで、その車内でジスクはわーわー泣いてしまうラスト。なにかが欠けていることに対してというより、自分がそういう状態にあることについて? ジスクの表情はずっとこわばってどこか固まっていて自分の内側の事情とかを一切語ろうとしない。他方で男の方は、いつものホン・サンスのまったく印象に残らない木偶の坊系。例えば ↓

大学講師のサングォン(Baek Jong-hak)は研究室を出ていかなければいけなくなったのか、仕事場をばたばた引っ越そうとしているようで、なのに誰かが運んできた金魚2匹を洗面器にあけて紙で日よけを作ってあげたりしている。

友人からあの人には会いにいった方がいい、と言われた大学関係者のおっさんの家にお酒を持っていっても、彼は相撲中継を見てばかりで話をするつもりがなさそうだし、出してくれたコーヒーのグラスには虫が入っていたりする(だめだこりゃ)。

なんだかぱっとしない彼も友人とふたりでカンウォンドに向かい、その列車の混雑した車両には冒頭のジスクたちがいるのが映るのだが、やはりすれ違って、サングォンは友人に連れられるままに滝壺に行ったり、カラオケに行ったり、その流れで不機嫌な売春婦を呼んで相手をしなきゃならなくなったりするのだが、たぶん自分でもなんでそんなことをしているのかわからなくて、なにやっているんだろ、って。

ジスクが最初のパートで語っていた別れた不倫の相手がサングォンであることはなんとなくわかるのだが、切れて戻らなくなった糸の先の行方について云々するのでも切ったのはどこのなんなのかを追うのでもなく、戻らない~(断固) って放りだされたその状態とかそれぞれが立っている場所とか夏の日差しの角度とかいろんなところに現れる水とか湿度とか、そういうのをひたすら示して、泣きたいのかもしれない叫びたいかもしれないふたりを、そこに放しておく。そこにおいて”The Power of Kangwon Province”なんてありうるわけない、どれだけ酒が入っていっても ”The Powerless ..”にしかならないし。気がつけば金魚は一匹になってしまっているし。

夏のバカンスを撮ったロメールの映画 – 例えば”La Collectionneuse” (1967) -『コレクションする女』あたりのやけくそっぽいけど、まだなにかが出てきそうな、少なくとも退屈が潰れそうなかんじとはまったく異なり、なにもかもが裏目に出る – というか裏目に見せてしまう何かが入りと出を塞いで - やけくそに向かう道すら塞がれてしまうのでされるがままでどうしようもない/どうしてくれよう、っていうど真ん中のつまんなさ。それが夏のバカンスを覆ってしまう。そんなんでよく「避暑地」なんて名乗れたもんだな? 彼らにとって希望も期待もゼロであまりにつまんなすぎて、これからどうするよ? ていうところに、例えば『正しい日 間違えた日』の冒頭のふたりはあったのかもしれないな、とか。

こんなふうに彼らはどこから来たのか、から入ってそれが画面のこちら側の見えない/見せないところも含めてせっかくの避暑地なのにさいてー、のほうに崩れていくドラマがなんだかたまんなくよいの。

『オー!スジョン』(2000) も見たかったのだが、もう終わってしまったようだ。残念ー。

7.04.2023

[theatre] National Theatre Live: Othello (2023)

6月27日、火曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。
原作はシェイクスピア、演出は黒人のClint Dyer、舞台装置はChloe Lamford。

オープニングで、年代の数字と共に過去の”Othello”の上演の歴史がざっと並べられる。白人の演出家、ブラックフェイスにした白人の演者たちにより、その上演行為そのものが劇の差別的なありようをさらけ出すかのように上演されてきた”Othello”がここ2023年まで来て(わかってるだろうな?)、という幕開け。

背後がだんだんになったシンプルな黒のセットで、そのだんだんに黒くて表情の見えない(黒仮面をした)人々が蹲るように座っていて何か起こると一斉にそちらを向いたりして、音楽というより音響は終始ぶぉーんぶぉーんていう圧迫する重低音(これちょっと苦手)がホラーのように仰々しく鳴っている - 社会システムの監視の目のようなばちばち光ったり点滅したり、見えにくいなにかを暴こうとする力がある/いる、と?

16世紀のヴェニスで数多くの武勲をなしていろんな方から崇められて敵なしの将軍Othello (Giles Terera)がいて、元老院議員の娘で聡明で快活なDesdemona (Rosy McEwen)とはずっと相思相愛の仲なのだが彼女の父はムーア人である彼との結婚にあまりよい顔をしなくて、でもふたりは結婚するとすぐそのまま戦地キプロスの方に手を繋いで向かってしまう。

常に方々から注目され、今回の結婚でさらに驚きをもって讃えられるスター軍人Othelloを妬んで憎む旗手のIago (Paul Hilton)はなんとか彼を貶めようと、Desdemonaに憧れるRoderigo (Jack Bardoe)を使って副官のCassio (Rory Fleck Byrne)を酔っぱらわせて失脚させ、それを慰めて復職させようとするDesdemonaの動きを浮気としてOthelloの胸に刺さるように仕込むべく、妻でDesdemonaの付き添いのEmilia (Tanya Franks) - 頬に痣があるのと彼女の怯えた挙動からDVを受けていることがわかる – にDesdemonaが浮気をしている証拠に繋がりそうなものを手に入れろ、って指示する。

そうやってEmillia/Iagoが手にいれたOthelloがDesdemonaに贈った最初の、大切な贈り物 – Othelloの母のハンカチ – をチラつかせCassioのDesdemonaに関する風評などを吹き込んでじりじり押して、その横でCassioをめぐるコントのようなテンポの殺傷劇が展開されると、戦争の只中のいろんな緊張感で筋肉が膨れあがっていたOthelloは木の枝が折れるようにあっさりとダークサイドに堕ちていって、その頭のなかの嫉妬と被害妄想の嵐が彼の目を塞いで、Desdemonaに手をー。

片方に狡猾な小悪党のIagoがいて、反対側に揺るがないと思われたOthelloがいて、一点の曇りのない人格者でパーフェクトな小娘のDesdemonaがいて、その横にIagoに虐待されてきたEmiliaを置き、これらの周囲に婚姻関係をめぐる偏見、差別 - 人種差別 & 性差別、妬み、恨み、高慢、憎悪、暴力などを見渡せるパノラマを示す、とそのありようが全員の立つ床をぶち抜いて一気に地獄に突き落とす、そのわかりやすさと、わかりやすさ故のこれってなんなの? なんでそんなちょろいことが? という(今更の)驚き。

古典悲劇を現代に蘇らせた、なんていうレベルではなく、これはそのままふつうに現代の悪とか虐待とかヘイトの痛覚に直結しているかんじにわかりやすく、その根にネタのようにして散りばめられた憎悪って実はこんなに昔からあるものなんだ、ということよりも、お金持ちたちの鑑賞用に消費される「悲劇」からここまでぶつけてくるものになるまでにどれだけのDesdemonaが、Othelloが死んだり殺されたり傷つけられたりしてきたのだろうか、とか。

他方で、ここまでストレートに「悪」がもたらされ簡単に拡がってしまうのであれば、もう戦争なんてなんだそれ - 最近の軍人なんてただのやくざでしかないし - ほんとにろくでもない世の中になっちまったもんだわ、って一回転してシェイクスピアの時代に戻っているかのような変な感覚。DesdemonaとEmiliaとBiancaをめぐる女性たちの話も見えたりするとやはり現代の話かな、とも思ったり。どっちにしてもいろんなことを考えさせてくれたりなので必見で。

7.03.2023

[film] 雄獅少年 (2021)

6月28日、水曜日の晩、グランドシネマサンシャイン(初めて)で見ました。字幕版が見れる最後の日だった。

中国のアニメーションで、邦題は『ライオン少年』、英語題は”I Am What I Am” (?)
日本では2022年に『雄獅少年 少年とそらに舞う獅子』のタイトルで字幕版が公開されたそう。

中国の伝統芸でもある獅子舞の技を競う若者たちを描く青春/スポ根(に近いかんじの)ドラマ。ここでの獅子舞は正月などのお祝いで舞うおめでたい縁起のよいあれ、というより大きな獅子の頭を被って前足を担当する1人と背中と後ろ足を担当するもう1人が獅子となり、そこに太鼓で拍子をとる1人が加わった計3人が一体の獅子として舞ったり跳んだり戦ったりするスポーツ – どちらかというとアクロバット・格闘技系の - としてあり、でもそれに触れたりやったりする機会はそうあるもんじゃなかったり。

広東の田舎で暮らす少年チュンは両親が都会の建築現場に出稼ぎに行っているのでしょんぼりぼんやり勇ましい獅子舞を眺めていると、獅子の頭を被った同じ名前の少女チュンがひとりでかっこよくいじめっ子系の男子をやっつけたのを見て自分でもやってみたい! ってなる。女の子のチュンは大会に出るくらいの実力の持ち主なのだが、少年チュンに君も獅子舞やりなよ、って誘って獅子の頭を置いてどこかに消えてしまう。

一緒にやる仲間として集めることができたのは女の子目当てで傍にいたマオと食べ物目当てで傍にいたゴウくらい。道具もなにもないけど、まずは師匠を探そう、って若い頃にはそこそこの踊り手だったらしいがいまはただの役立たずでサボってばかりの干物屋のチアンを見つけだして、渋る彼と機嫌のよくない彼の妻をなんとかたててがむしゃらな特訓になだれ込んでいく。

地区大会の予選をどうにか勝ちあがっていよいよ中央での本戦だ、ってなったところで出稼ぎに出ていたチュンの父が倒れて寝たきりの状態となって戻ってきて、獅子舞どころじゃなくなったチュンはお家を支えるために都会の工事現場での労働に出ていくことになり…

かつてどこかできっと見たことがあるスポーツもの(or 最近だとバンドもの?)のこてこての熱血展開そのままで、感覚としてはやはりスポーツ系というよりカンフー映画のそれに近くなってしまうかも。で、だからといってつまらない、ということでもなくて、お約束から外れた「意外な展開」になったらそれはそれでぶうぶう言うことになるのだろうと思われる – くらいの安定感、というのは誉め言葉にしてよいのかどうか。

特筆すべきは絵の美しさで、透明度と見晴らしのよい大陸のランドスケープ - 紅葉とか花とかも含めた - の鮮やかできめ細かいところと、そこを縦横に暴れまくる獅子舞の獅子のびらびらの毛玉(でいいの?)のしなやかな動きも含めた舞いの流麗で絵画のようなとこ。実際の獅子舞のそれよりも素敵なのではないか、とか。

人物はアニメに求められるそんなにきれいな顔立ちではない、松本大洋の描くガキどもの小汚いリアルがあって、その突飛さ剽軽さが獅子の頭の目のくりっとしたかわいいかんじにうまくはまっていて、それらが軽快かつ力強く跳ねまわるので全体として「ライオン少年」としか言いようのない少年たちの変容と成長をめぐるおとぎ話になっているような。

他方で、全体としては主人公 - 庶民の貧しさとか生活の辛さ - 日本の昭和30年代くらいの - がベースとしてある気がするので、中国のこととか何も知らないで見ると、こんなきつい世界あるの? なんでそんなふうになっちゃうの? どこにおとしたいの? って文句言いたくなってもおかしくないかも。獅子がどんだけジャンプしたって別の世界には跳べない。 でもなー、アニメーションなんだしジブリみたいのはムリにしても、最後は思いきり空を飛ばせてあげたってよかったのではないか、とか。

続編は決まってて既に動きだしているそうだが、虎と龍は出してほしいな。 できればトトロとカンフーパンダも。

[film] こどもが映画をつくるとき (2021)

6月25日の日曜日、日帰りで京都に行って、ばたばた見ました。

京都は3か月おきくらいに行っているのだが梅雨はちょっと、でも映画の上映会と絵の展示とトークがあるなら、映画は二本立てなので一石四鳥かも、って。


午前9時くらいに着いて、京都国立近代美術館の開館60周年記念展示 『Re: スタートライン 1963-1970/2023 現代美術の動向展シリーズにみる美術館とアーティストの共感関係』をみた。このテーマに沿ったわかりやすい展示だったと思うが、各年の美術館側の序言に必ずといっていいほど「めまぐるしく変わる社会と美術界」への言及があるのがおかしかった。もうこの界隈ときたら60年くらいえんえん激しく、変化し続けているんだ? つまりずううーっと「スタートライン」にいるってことよ、っていうあたりも含めた”Re: “なのね。

あとは細見美術館で涼しそうな扇たち(ほしい)をみて、マーケットのところで焼きそばフェアも覗いてみたのだがこんなの暑すぎてムリ、になって早めに恵文社一乗寺店のギャラリーに逃げこんだ。


こどもが映画をつくるとき (2021)


この翌週には井口奈己監督の新作の上映とトークもあったのだがそちらは売り切れていて、でもこの日の2本も見ていなかったので十分。『ニシノユキヒコの恋と冒険』(2014)以来7年ぶりとなった長編で宮崎映画祭の企画と連動して2020年12月26日から28日の3日間、宮崎で開催されたこども映画教室に参加した12人のこどもたちが2チームに分かれて初めてカメラに触って自分たちで考えて映画撮影にのぞむ姿をとらえたドキュメンタリー。116分。

チームは宮崎神宮を舞台に撮っていくおーちゃんと(青チームリーダー:大川景子)と商店街を撮っていくふかちゃん(赤チームリーダー:深田隆之)のふたつ、期間は3日間、大人のダイレクションや機材の使い方指導はあるものの、なにをどう撮るかどうしたいか、は全てこどもたちが話し合いながら決めていく。

自分がああいうワークショップ的なのにも、子供を相手になんかやるのにもそんなに興味が湧かない(もともと)のに、それに約2時間付き合えるのだろうか、って不安だったのだが、なかなかおもしろかった。こどもたちの撮影や試行錯誤の様子を計4人の大人が撮影し、そのところどころにこどもたちがそこで撮影したものが挟みこまれ、こどもが映画をつくる - ひとりで絵を描いたり写真を撮ったりするのとはまったく異なる、大人の集団が見えないところの共同作業で作ってきたなにかをとにかく懸命に学んで考えながら作っていく様子が見えてくる。

上映前の会場ではあーらなつかしのLangley Schools Music Projectの子供たちの歌が流れていたが、あのかんじ - 大人の作った大人の曲をこどもたちが、見よう見まねでやってみてできあがるなんともいえない柔らかい世界の手触りが感じられて、それははっきりとそこにあるのだった。

自分が子供になってあそこにいたら、チームからひとり離れて勝手に木や池をひとりで眺めたり地面を蹴ったりしていたあの子みたいになっていたんだろうな。


だれかが歌ってる (2019)

上の上映に続けての30分の短編。最後のところで聞こえてくる子供たちの歌声が上の作品の「こども」にも繋がっていったのだそう。

冒頭、男性がピアノに向かって弾く旋律が一緒にいる女性の首を揺らして外に流れ出ていくのと、同様に飾られていた鳥の絵が誰かの頭に引っかかってそのイメージの虜になっていくのと、それを追っかけるようにして女の子と男の子が最後にようやく出会う。だれかが「歌ってる」 - それは「聞こえてる」でもあって、その「聞こえてる」から「歌ってる」元に辿り着こうとする小さな冒険のお話し、でもあるよね、って。


金井久美子の世界 「映画(シネマ)と猫とウサギも、」

映画を上映していた隣のギャラリーでやっていた展示。「映画」については、展示作品を見ればわかるのだが、ルノワールのピクニック、ワイズマン、グレースと侯爵、ファム・ファタール、裁かるるジャンヌ、歴史は女で作られる、ラ・パロマ、などなどに関わるオブジェや小物が宝箱のように納められていて、箱の向こうに潜っていく - 箱のなかで映写機が回りだすかのように見ていけるのが楽しい。後のトークではなぜ作品が立体なのか? が少し語られて、そこでは映画について平面上に描いた和田誠についてのコメントがおもしろかった。 あと「ウサギ」は鏡花絡みだって。


金井美恵子 x 金井久美子トーク

というわけでものすごくおもしろかった。あのままだらだら2時間くらいやってくれてもよかったのに。
文芸誌の表紙に絵描きの絵が使われなくなった(ある時からデザイナーに代わって、いまはなんでもなくなっている)件とか。アートも展覧会に人は入っているけど、それがなに? にしかなっていなくてぜんたいにたそがれているよね、とか(激しく同意)。

トークの前にクジを引いて当たったらなんか貰える、という。手作りされたというクジも素敵でそれでじゅうぶんだったのだが、更に当たってくれたので日帰りしたモトとれたわ、って。ちなみに景品は泉鏡花文学賞制定五十周年記念のエッセイ集 - 結構いろんな人が書いている - でした。

トークの後のサイン会は、ほぼぜんぶサイン付きで既に持っているやつだったし、コロナのあれもあるだろうし、とそのままそうっと帰った。

しかしこの時期の京都の湿気は、やはりムリだわ。

7.01.2023

[film] Basic Instinct (1992)

6月22日、木曜日の晩、丸の内ピカデリーで見ました。『氷の微笑』

監督はPaul Verhoeven。アメリカの公開時に検閲でカットされていたシーンも含んでの公開30周年の4Kレストア版。いま配給権とかStudio Canalが持っているのね? 「サスペンスな女たち」特集を80-90年代アメリカ映画でやったら間違いなくリストされるであろう一本。

当時大ヒットした超メジャーな作品だったのに子供だったので見たことはなかった。
サン・フランシスコで引退したロックスターがセックスの最中にアイスピックでめった突きにされて殺される事件が起こり、殺人課の刑事Nick Curran (Michael Douglas)が呼ばれる。

被害者の近しい恋人で犯罪小説作家のCatherine Tramell (Sharon Stone) - 彼女の小説に全く同じ殺人シーンが出てくる - が簡単に線上に浮かんだので彼女の豪邸を訪ねて、こんなの楽勝じゃないかといろいろ調べはじめるのだが彼女は悠然と捕まえてみなさいよ、って自信たっぷりの態度で取り調べ中にタバコを吸ってボディを誇示し、小説のやり口と一緒だというのはシンプルな濡れ衣だと言い、ウソ発見器にもまったく引っかからないし、反発するようにいろいろ挑発してくる。でも調べていくと、彼女の家に暮らして同性愛的な関係にあるRoxy (Leilani Sarelle)や彼女が訪ねていくHazel Dobkins (Dorothy Malone)は過去に不可解かつ陰惨な殺人事件を起こしていること、Catherineの両親の事故死もなんか怪しくないか? など渦が渦を呼んで巻いて巻かれて。

他方でNickの方にも傷と弱点が晒されて、過去に誤ってツーリストを射殺してしまった事件のアフターケアというのか落とし前というのかで元妻で精神科医のBeth Garner (Jeanne Tripplehorn)のセラピーを受けていたり、Catherineがそんな彼の事件をもとにした小説を書こうとしていることを知り、その先で、警察関係者しか知らないはずの情報がCatherineに渡っていることを知ると、てめえーって思い当たる部署の奴をぶん殴ってしまい、それに続けて彼が簡単に殺されてしまったので、あなたやっぱりやばいから、って捜査から外され休職扱いにされてしまう。

いろんな疑念が湧けば湧くほど次の殺人が起こったり車で追ったり追われたり、その都度Nickは沸騰して走り回ってあれこれ引っ搔きまわすのだが、解決に結びつきそうなものはちっとも出てこない。そうやってアテが外れれば外れるほどギャンブルにのめり込むようにすっからかんのダメ男に堕ちていって..

自分は正常な判断も追跡もできるかっこいいデカ、って思い込みながらふつうの道端に置かれた地雷踏んで猛り狂って道を塞いでいく男と「わたしはあなたの考えていることなんてぜんぶわかっている、お見通し」っていう女が頭脳戦で絡みあう、というより、その手前の肉欲(Basic Instinct)にやられてぐだぐだに溶けて好きなのか嫌いなのかわかんないけどとにかく頭から離れなくて… という極めてわかりやすい破滅に向かう絵図。

昔のノワールならそっちに行っちゃ/触れちゃだめだ!のような、危機を危機として発動させる倫理的な枠組みやコードみたいのがあった気がするのだが、この作品の場合はその辺のタガが外れているというか、Sharon Stoneがあまりにパーフェクトにかっこよく立っていて揺るがないので、Michael Douglasが深みに嵌れば嵌るほど、いい気味、ざまーみろ、もっと苦しめもっと狂っておちろー、ってなる、そこに確かにやってくる爽快感のようなのってなんなのか、どこから来るものなのだろう?とか。

で、最後の最後までCatherineが犯人だった証拠は見つからず示されず、むしろNickの方のむしろあんたぜったいあるじゃろ? なかんじが浮かびあがってきて、でんぐり返ろうとするの、それでよいのかも、って。

ホン・サンス映画の、メロを凌駕してなだれ込んでくる抗しがたい、人をだめな方にずり落としていく酒やキスの魔力 - これもまた”Basic Instinct”と言ってよいのではないか - が、その腐れた源泉のような何かが、バブル後期のきらきらでもって力強く堂々と提示されている、と言ってしまってよいのかどうか。いま、こんなにきらきらゴージャスにやられていく快楽を描いた映画、作れないよね。

あと、Jerry Goldsmithの音楽の濡れてじっとりまとわりついてくるかんじ、最近の映画音楽にはないなー、とか。