9.30.2017

[film] McCabe & Mrs. Miller (1971)

20日の晩、BFIでみました。 邦題は『ギャンブラー』。

BFIがたまにやっているでっかいスクリーンでクラシックを見よう、のシリーズのひとつで、BFIのキュレーターGeoff Andrewさんからのイントロがあって、これも(まだ続いてた..)お天気の映画シリーズの1本なのですが、この映画の天気ときたらとにかく最悪で、最悪なのは天気だけじゃなくて音もごっちゃりセンターに固まって団子状態のひどいもんだし、出来事も画面のフロントではなくバックとかはじっこで起こってばかりだし、画面には常にモヤがかかっているようで見晴らし悪いし、お話しそのものだってどうしようもないルーザーの物語で、とにかくすっきりしないことおびただしい。 けどわたしはこの映画はすばらしい、70年代の西部劇を代表する1本だと思う、と熱く語ったので、激しく同意する。

Criterionによる4Kリストレーションしたバージョンでの上映だったのだが、始まって数秒で数人がぶって噴き出して抑えた笑い声が続くくらいに画面のもやもやどよーんとしたかんじには素材が洗濯されたかんじなんてこれぽっちもなく、昔のPFFでこれの35mmがかかったときにひどい状態だったことを思い出したりもしたのだが、要するに4Kになろうが擦れて傷んだアナログだろうが音も含めて変わらないdenseな世界は揺るがずに広がっていて、その湯気のような雲のようなくぐもった光景に包まれて、そこにLeonard Cohenのギターと歌が雪のように散ったり降りかかったりしてくるとなんか気持ちよいのだった。

筋は簡単で、20世紀のはじめ、ワシントン州の山奥にJohn McCabe (Warren Beatty) が流れてきて、コックニー訛りの女衒Mrs. Miller (Julie Christie)を雇い入れて娼館を建てて商売していくのだが、そこにMcCabeに恨みをもつやくざもの達が絡んできてどうなる、ていうそれだけ。

最後のほうには対決〜決闘みたいなのもあるし、McCabeとMillerの恋みたいのもうっすらあるのだが、前者は建物が建てられてそれが火事になったり壊れたりしていく工程の一部のような描かれかただし、後者ははぐれノラとはぐれノラがすれ違いざまにシャーッてやって、すこし近づいて舐め合いして、また離れていく、そんなふうに描かれている。 そして後にはなにも残らなくて、ただ霧雨とか雪とかの奥に、湿気で曇った窓の向こうにぼんやりと何かがいた、でも確かにはっきりなんかが音をたてていたねえ、ていうその気配とか印象だけが柔らかく残る。

頭の奥に残るっていえば、ふたりと悪漢以外にもみんな残るの。娼婦のひとたちも酒場にいたひとたちもShelley DuvallもKeith Carradineも、ひとりひとりが遠い日の記憶のように古い写真のなかのように向こうの世界にはいて、どこか頼りなさげな眼差しをこちらに送ってくる。

これが70年代のアルトマンだ、とかわかったふうなことを言うつもりはないのだが、70年代のアルトマンの映画を見る、ていうのはそんな彼らひとりひとりに会いにいく、再会する、そして彼らもそれを待っているんだ、ていうのがわかって、それが大きな動機のひとつになる - Leonard Cohenの歌が彼のまわりの女性たちに捧げられて、ずっと歌われ続けるのと同じようなかんじでね。

[art] いろいろ - August, September

アート関係で、8月くらいから書けないままになっていたのが溜まってきたのでメモ程度だけど。ぜんぶじゃないけど。

8月6日
Tate Modern
Soul of a Nation: Art in the Age of Black Power
http://www.tate.org.uk/whats-on/tate-modern/exhibition/soul-nation-art-age-black-power

63年頃から始まったCivil Rights movementを支えた"Black Power"に対するアート、メディア、デザインの世界からの回答、というよりはそれ自体が強力な政治メッセージとして機能したのだ、見ろ! 聴け!  と訴えてきて、問答無用に強い。
今のアメリカを中心としたレイシズムのありように対しても、その周辺で政治とアートを分離したがる意味不明の志向に対してもクールに"No"を突きつけているようでかっこいいったらない。
こういうのを英国がやっている、っていうのも含めて。

この展示のメインビジュアルであるBarkley L. Hendricksの"Icon for My Man Superman (Superman Never Saved any Black People - Bobby Seale)" (1969) が全てを表しているかんじ。

ShopではSoul Jazz Recordsの編纂による選集とか必殺必須のアナログ盤もいっぱい売ってて、素敵だった。

ちょっとだけ思ったのは、ただの気のせいとか自分の鈍化なのかもだけど、「コンテンツ」とか言われてデジタル化されるようになっていった以降から今に至るこういうアートって、なんかださくなって「弱く」なってはいないだろうか、と。  それくらいここの展示のはソリッドでシンプルでかっこいいの。

8月12日
The British Museum
Hokusai:  Beyond the Great Waveものすごい人気でチケットはずっとSold Outで入れなかったのでメンバーになって(どうせなるつもりだったし)、最終日直前にみました。
なかなかのイモ洗い状態。 日本から来たやつはだいたい見ていたのだが、大英博物館蔵の"Ducks in flowing water" (1847) - 「流水に鴨図」とかが、BBCの番組で「鴨頭の羽毛のかんじがすげえ!」とか騒がれていたので見たかったの。 はい、たしかに。

「神奈川沖浪裏」については、8月2日にBFIのでっかい画面で"Big Wednesday" (1978) の35mmを見て痺れまくったところだったので、映画の波もすごいよねえ、であんまし来なかったかも。

8月13日
Dulwich Picture Gallery
Sargent: The Watercolourshttp://www.dulwichpicturegallery.org.uk/whats-on/exhibitions/2017/june/sargent-the-watercolours/

春先のVanessa Bell展のあとは、夏にSargentの水彩のみを集めた展示。 見ていてこんなに涼しくて文句なしで気持ちよくなる展示はそうない。
"The Lady with Umbrella"の腰の線と傘の線の連なりとか、人物以外でも水辺とか岩場とかの揺れたり透けたりしているのが視線とともに移ろっていくかんじとか。 めちゃくちゃうまいのね。あたりまえだけど。

そしてこの後、ここの秋の展示は Tove Jansson (1914-2001) !!
帰りにBrixton駅前のマーケットをいろいろみた。おもしろかった。

8月28日
St Paul's Cathedral Lates夏の終わりくらいの10日間ばかり、£10くらいで有料だけど夕暮れから日没までSt Paul'sのなかで光の死んでいくのを見ることができる特別オープンの期間、というのがあったので行ってみる。 こういうのないと行く機会もあまりないし。

天井付近のいろんな飾りとかでっぱりひっこみが薄暮に包まれていって、他方で構内のランプが別の角度からそれらを浮かびあがらせて、うっとりだった。
あと、ここってBill Violaとか Pablo Genoves とかの作品も展示しているのね。

それとお墓。お墓みるの好き。
John Donneの墓石が地上階にあって、地下にいくとJ.M.W.TurnerとかWilliam BlakeとかJohn Everett Millaisとか↑のSargentとかうじゃうじゃ並んでいる。

すっかり日が沈んだ21時前にお祈りの時間があって、残っているみんなでアーメンをしてから帰った。

9月2日
Leighton House Museum
Alma-Tadema: At Home in Antiquity
散歩ついでに寄ってみたらヴィクトリア朝時代の画家、Sir Lawrence Alma-Tademaの特別展をやっていて、これが映画的というかなんというか大仰なプログレのレコードジャケットみたいで、彼の家を飾っていた装飾や絵画も含めて、どれもものすごくかっこよくてほれぼれした。
大作"The Roses of Heliogabalus" (1888)のバラが嵐になって飛んでくるあんぐりの凄まじさ。 カタログ買ってしまった。

見終わって、そばのHolland Parkをぷらぷらしていたら Brian Mayさんが孫を含む家族(?)とお茶していた。

9月10日
Tate Modern
GiacomettiTate ModernのGiacometti展の最終日にもう一回見てきた。3回目。 最終日なのでイモ洗い状態。
映画"Final Portrait"を見たあとではどんなかしら、というとJames Lordの肖像はなかったけど、晩年の恋人Carolineのはいっぱいあって、やはり相当のお気に入りだったんだねえ、て思った。

9月23日
Christie's London
Audrey Hepburn: The personal collectionオンライン・オークション前のPreviewで、そんなにすごいファンでもないのだが、軽いかんじで行ってみたら結構な物量でなかなかびっくりした。
時々の映画の製作時期ごとに区切ってあって、そこで、その時に着ていた服とか小物とか靴とか書き込み台本とかスチール写真とか、なんでも。

靴は幅細いけどけっこう大きいんだ、とか、やっぱし袖はものすごく細いねえ、とか。
ミュージカルで歌入れしたときのアセテート盤がいっぱい置いてあって、聴いてみたいなー。
写真はCecil Beatonからなにから有名どころのが一揃いあって、Avedonの白猫と一緒のやつと、Norman Parkinsonによるロバと一緒のやつのがいちばん欲しくなった。


LibertyのChristmas Shopがオープンしてて、かわいいのが多すぎて悶絶している。危険すぎる。

9.28.2017

[film] Kingsman: The Golden Circle (2017)

少し前後するけどこっちから先に書く。
24日の昼間にPicaddillyのシネコンで見ました。

1作目もバカなやつだった(ほめてる)けど、予告を見る限りでは今度のも相当バカみたい(ほめてる)で、公開直後のレビューも総じてよくなかったので安心した。 箸にも棒にも引っ掛からないようなバカバカしいのをみたい。

冒頭でEggsy (Taron Egerton)は昔の仲間で金属の義手をもつCharlie (Edward Holcroft)に襲われて派手なドンパチがあって、そのしばらく後で、KingsmanのヘッドのMichael GambonとかRoxyとかみんな本部も施設もぜんぶふっとばされて、生き残ったEggsyと Merlin (Mark Strong)が非常時のプロトコルに従っていくと、米国のケンタッキーの蒸留所にたどり着く。

そこにはStatesmanていうKingsmanと似たような組織のヤンキー版があって、ヘッドはChampagne - "Champ" (Jeff Bridges)で、”Tequila” (Channing Tatum)がいて、”Whiskey”(Pedro Pascal)がいて、”Ginger Ale” (Halle Berry)がいる(.. バカじゃのう)。 更に彼らは記憶を失った状態で隔離されているHarry (Colin Firth)を見つけるの。

今回の敵はカンボジアの奥地で麻薬を作っているPoppy(Julianne Moore)で、ここのヤクをやると、顔とか首にまず青筋がでて、それからハイになって踊りまくるようになって、その次の段階で体が硬直して動かなくなって、最後に血を吹いて死んじゃうの。 で、それが世界中に広がって、TequilaやEggsyの彼女(前作の最後で彼が救ったスウェーデンのプリンセスね)も感染しちゃって、そのワクチンを巡って敵との駆け引きとか攻防が始まって、そこにKingsmanやStatesmanはどう絡んで暴れていくのか。

世界征服を企む悪の組織との間で繰り広げられるバカバカしいスケールの戦いをどこまでバカバカしく漫画にしてスカッとできるか、ていうことでいうと、あーしみじみバカだったねえ、で終われてあとには何も残らないのでよかったかも。
Sam Mendes以降の007の、あれはあれでぜんぜんよいとは思うのだけれど、そこで惜しくも失われてしまった世界 - バカをやっつけて世界を救うことができるのは真のバカだけ、ていう天才バカボンと鈴木則文の世界観と法則が確かにここにはあるの。

そうは言いながらも、結論からいってしまうと、Colin Firthがいる/いないだけでなにかが格段に違っているふうに見えることもたしかで…

もうちょっとだけJulianne Mooreがバカやってくれても、とか、でも他方でElton John(本人)は... あんなんでいいのか、とかあるけど、いいの。

John Denverの"Take Me Home, Country Road"がここでも吹きまくる。Channing Tatumものとしてはこないだの"Logan Lucky"に続けてで、これはいったいなんなのかと。

あと、NYのMetlifeビルをこれ以上いじるのはやめてね。 Avengersといいこれといい。

[talk] Vivienne Westwood: Get a Life

Southbank Centreの秋の文芸特集というかトークシリーズの一環というかただの本のプロモなのか、で24日、日曜日の晩にVivienne Westwoodさんのトークがあった。

わたしは、Johnny Rottenは偉大であろうが、VivienneとMalcolmがいなければロンドンパンクはあそこまでのものにならなかったと思うものなので、生ものの彼女を見る、というのは神さまにお参りするのと同じようなかんじだったの。

客席には男も女も着飾ったきれいな人たちがわんさかいて、そのなかでなんでかひときわ輝いているママたちがそれぞれ自慢の娘たちを連れてきて同窓会みたいになっている光景があちこちで。

ステージにはこないだのル・カレのときのように演台があって、その横に向かいあったふたつの座椅子があって、手話の通訳さんふたりが立っている。

開始の19:30過ぎに"BUY LESS"てでっかく殴り書きされたTシャツに銀ラメきらきらのドレスというのか布きれというかを引き摺って元気に現れて、いきなりノートを忘れちゃったんだけどさー... って取ってきて貰って、その後も取ってきたそのメモだか紙切れだかを見たり読んだり手元の本から引用したり、老眼鏡をかけたり外したり、そしてなによりも話はあっちに飛んでこっちに飛んで、あれ言い忘れていたけどそうそう、と戻っては脱線と脱臼を繰り返し、TEDみたいなトークがふつうだと思うひとには相当にめたくたのタチの悪いプレゼンの見本みたいなやつで、こないだのル・カレの一人芝居のような静かで厳かなかんじと比べると、だいじょうぶかしらこのひと、なのだが本人は極めて安定している、というか散らかしまくってきゃーきゃー言いながらも取り乱しているかんじは微塵もなかったので、楽しく見ていられた。

最初にAlice B. Toklas の引用から入って、わたしはActivistなんだからね、と今度はJulian Assangeをリリースすべしとか間違った金融システムのことを言い、そうかと思えばLord Leighton (?) の手記やDavid Hintonから中国の詩とか絵画とか文字 - 「詩」という漢字はなにとなにからできているのかしってる? - とかそれらが如何にシンプルで美しいかを語り、再びActivistに戻って、Naomi KleinからJane Austen に話が飛んで、気候変動の危機を語り、まあとにかくめちゃくちゃで、休憩を入れずに椅子に移動してのQ&Aも、本来SNSから投げられるファンからの具体的な質問は為されないままにおしゃべりがとりとめなく続いていって、そのつんのめった状態のままとんとんとんとステージから消えていった。

で、そうやって彼女は風のように消えてしまったので、見ていた我々はひゅー、としか言いようがなくて、とにかくおもしろかったの。 パンクだよねえ、って。 そんなことは一言だって言わないし四文字言葉だって使わないのだが、おもちゃ箱のひっくり返されかたと床の散らかしっぷりは見事としか言いようがなかった。

あと、とてもすてきな声のひとだった。 

メッセージは極めて明快で、"Get a Life"てことなのね。
売店でサイン本売っていたのでおみあげに買ったら"Don't Get Killed ❤️”て書いてあった。

わかったよ。

9.27.2017

[film] Detroit (2017)

用事が入ってばかりで放課後に映画行けなくてつらい。

18日の晩、終わっちゃいそうだったので慌てて見てきました。

143分、きつくて怖い、というのは十分わかっていて、でも絶対見なければと思っていて、結果はやはり見てよかった。あっという間。

67年の夏、Detroitの12th st Riotの3日目に起こったAlgiers Motel incidentの顛末を映画化したもの。事件の発生から50年ということもあるし、50年経ってもぜんぜん変わってないじゃないか、今の話じゃないかこれ、という絶望感 - 向こう側の、そしてこちら側の - いろいろななにかも含めて、叩きつけてくる、迫ってくる。 どうしちゃってるんだ? というその怒りと性急さを正面で受けとめる、それだけでも見る価値はある。

Algiers Motel incidentていうのは、Riotが起こった地点から1マイルくらい東にあるモーテルで、7月25日から26日にかけての晩、3人のアフリカン・アメリカンのティーンエイジャーが撃たれたり殴られたりひどい状態で殺されていた場所で、他に白人の女の子ふたりを含む9人も拘束されて痛めつけられていて、そこにいたのは市警、州警、州兵で、そこから銃声が聞こえて狙撃犯が隠れているという情報に基づいての行動だったとされているがどこまで本当かはわからない。 わからないところを裁判記録や証言をもとにこんなんだったのではないか、というふうに描いてみたのがこれで、でもそんなに違っていないんだろうな、と思った。

なんでそう思えたのかというと、こういうケース - ホワイトの警察がアフリカン・アメリカンの人々を混乱時になぶり殺しのような状態で殺しても、業務遂行時の混乱の収束とか自己防衛の一環のように片づけられて罪に問われない - を(極めて不幸なことに)何度も見てきているから。 でも、それがよいことだとは勿論思えないし、ものすごく怖い。 そこには絶望しかない。

モーテルにたまたま外から来た若者たちが2組いて、ひとつはレコード契約のために来たR&BグループのThe Dramaticsのメンバー、もうひとつは事態を収拾させるべくそこを訪れたセキュリティガードのMelvin (John Boyega)で、彼らは騒ぎの最初から全く関係ない第三者なので、それゆえの理不尽さ、無念さがより際立ってくる。

監督はKathryn Bigelowで、前2作 - "The Hurt Locker" (2008)や"Zero Dark Thirty" (2012) で見られた画面のどこかで必ず何かが生起しているのを四方八方から狙っているようなライブ感が今回もすばらしく生きていて、でもそれは過去2作のような特定の政治的な構図(ゲーム)やイベントがもたらす(解りやすい)もの、というよりは明らかにホラーのそれ - 意味がわからないままに巻きこまれて逃げられなくて次には自分がやられるかもしれない - として情け容赦なく充満してくるので、ただ震えるしかない。 これが今のアメリカで起こっていることなんだよわかってんのかおら、と。

もちろん日本でもね。 誤った情報に基づいて集団心理をあおって集団の暴行や虐待に持っていく - 権力の上のほうが、自分達の統治機構を維持するために無反省にこれをずうっと繰り返している - 治安維持法の頃から辺野古の人たちにも。 こっちの方が病巣は根深いのかも。
だから、公開してほしい。 "I Am Not Your Negro" (2016) ですらぜんぜん公開されないみたいだけど、もうさー、ほんとうにどうすんのあの国。

オリジナル音楽はJames Newton Howardだが、あの時代のデトロイトだもんだから街中で流れている音楽がただただすばらしい。
それでも、というのか、だから、というのか、そういうのを必要としないで音楽は跳ねて、輝いている。

あと、John Boyegaって次のDenzel Washingtonになれるねえ。

9.26.2017

[film] Victoria & Abdul (2017)

17日、日曜日の午後、バッキンガムお庭ツアーの後にPiccadillyでみました。
バッキンガム宮殿のツアーのあとに見るのに、こんなに相応しい映画があるだろうか。

ツアーの中ではVicroria女王の椅子が舞踏会の部屋に置いてあって、身長が152cmだった女王の足がぷらぷらしないように座面がとても低く作られたそれは、彼女が縮まってそこにいるかのような不思議な存在感を放っているのだった。

インドに暮らすAbdul (Ali Fazal)は女王への貢ぎ物を持って仲間と英国に渡って、それは別にぜんぜん歓迎されていないふうのただのいち儀礼だったのでとっとと片づけて帰ればよかったのに、謁見の際にぜったい目を見てはいけない、と言われたのに、つい彼女の目をガン見しちゃって、更に陛下の足先にキスまでしてしまったので、翌日にQueen Victoria (Judi Dench)に呼びだされて、いろんなことを話すようになる。 最初、彼女にとってはただの暇つぶしだし、彼にとっては聞かれたから答える、くらいのものだったはずなのだが、なんだか互いに気が合ってしまい、女王はふたりきりで会うようになったり、インドの文字や言葉を教わったり、インドかぶれになっていったりで彼の滞在はずっと延びてて、女王のお付きとか周囲にはそれがおもしろくなくて、彼には妻がいるとか、肩書きがうそだとか、彼はヒンズーではなくムスリムだとか、中傷に近いことも含めていろいろ妨害したりするのだが、あまり揺るがないの。

最後には悲しい別れがきて、ふたりの間でやりとりされた手紙とかは全て焼かれて、Abdulはインドに送り返されてそれきりになってしまったので、結局ふたりの絆がほんとうのところはどんなものだったのかはわかりようがない、でもこういう出会いって英国の女王とインドの男の間だからとか、国境を越えてとか身分を越えてとか、そういう類の話しではなくて、どこのどんな、誰との間でも起こることなんだと、そんなのふたり以外の誰にもわかるもんではないのだよ、ということを言っている気がした。 出会いってそういうものなのではないかと。

でもこの事実が明らかになったのは2010年にAbdulの手記が公になってから、というのはちょっと切ないなー。

それにしてもJudi Denchの女王としか思えない佇まいのすごさときたらどう形容したらよいものか。威厳とか貫禄とか枯れすぎてどうでもよくなったかんじとかアルバートのいない寂しさ弱さもあったり、とにかくいろんな人の貌が入り混じって、でも圧倒的に生きてて、生きなければいけない、という、女王の業をぜんぶ引き受けた凄味がぜんぶ固化して液化してなんというか。

Abdul役のAli Fazalもよかったけど実際の御本人とはずいぶん...

果物屋に並んでいるマンゴを触って難しい顔で、"It's.. Off..." ていうのをやってみたいなー。

9.25.2017

[art] Buckingham Palace

バッキンガム宮殿ていうのは観光客にとっては柵の向こう側の奥のほうにあって、その近辺をでっかいアフロ帽子の衛兵さんがてけてけ歩いたりしていくのを、あ、出てきた、とか、うごいた! とか動物園みたいに眺める場所、だと思っていたのだが夏から秋口にかけての10週間だけ、お金を払って中に入れるときがあって、それの16と17の土日のに行ってみたの。なんで2日間かというといろんなツアーがあって、夜のと朝のを取ってみたの。

これまで日本の皇居とかお城とかまったく興味なしで行ったこともなかったのに、Chatsworth行ったりKensington Palaceみたり、自分のとこのはなんでこんなに… とか思ったりしているうちになんとなく、になってきたのだとおもう。

土曜日のはExclusive Evening Tourっていうやつで、夕方の17:45に集合してなかに入る。これが入っていなければこの日はプラハで夜まで徘徊できたのだが、しょうがない。チケット取ったの7月だったし。

入り口でチケットを受け取り、椅子のある待合スペースみたいなとこで待つ間に、内部の撮影は厳禁です飲み食いもできませんから、とインギンブレイな説明があって、空港と同じセキュリティをくぐって中に入る。建物はおっきく二つあって、しもじもの我々がふだん柵ごしに眺めているのが居住しているほうの棟で、ツアーするのはその奥の賓客とかゲストを迎えうつ迎賓館みたいなほう。 周辺はやたらとヘリやサイレンの音がうるさくて、そういえば前日にテロがあったばかりだもんね。

ツアーしたのはThe State Roomsていう王様たちが君主としておもてなしとかの仕事をするいろんな部屋たちで、エントランスから驚異的にごてごてした階段をぐるりと回って(のぼりきったとこにメドゥーサの首)、ガイドのひとがここはKing George IIIが1761年に買い取って、建築家のJohn Nashがヴェルサイユ宮殿に負けじとバブリーに飾り立てて、1837年にQueen Victoriaが君主の館にしました、ていう通り一遍の説明(実際にはものすごく詳細なの)のあとに、それぞれの部屋を案内してくれる。 黄色の部屋、緑の部屋、青の部屋(Edmund Spenser, John Milton, William Shakespeareが見下ろしている)、絵画の部屋、音楽の部屋(パイプオルガンが)、舞踏会する部屋、ダイニングの部屋、あたりまえだけど、それぞれに床も壁も窓も天井も調度も色も素材も模様もぜんぶ違ってて、それって意匠の統一感みたいな視点からするとどうなのか、なのだがそれぞれに圧倒されてへえへえ、てなってしまうところはどこも同じだったかも。

中では特別展示として、世界各国から王室がもらったギフト展、ていうのをやっていて、それぞれの国でいろいろでおもしろいねえ(日本のは、なんか蒔絵箱みたいなやつ)、だったのだがいちばん見たかったのはやはりPicture Galleryで、フェルメールの”The Music Lesson”はあるわレンブラントの”Agatha Bas”(これすごい)はあるわルーベンスはごろごろしてるわ、なかなかとんでもなかった。 ガイドのおにいさんがこれらに加えてくる解説がなかなかで、フェルメールの室内の陰影と人物の角度とか、”Agatha Bas”のフレームについてとか、微妙な、でも的確なとこを突いてて、他にも、この絵画で描かれた姫は相当のやんちゃさんでございまして、27歳で亡くなられました  - 27といえばそう、皆さんご存知のとおりジャニス・ジョップリンとジム・モリソンとカート・コバーンが亡くなった伝説の年齢でございますね、とか。

あと、Princess of Wales - Dianaの机まわりが子供たちの監修のもと再現されていて、ふーんくらいだったのだが、机の端っこに置いてあったカセットテープの箱が泣けた。ラベルにはなにがどんなふうに書いてあったのかなあ。 デジタルになっちゃうとこういうのが残らないよねえ。

ちょうど陽が落ちていくところで、窓の外が薄暗くなっていくところに照明が映えて晩餐に呼ばれたひとはこんなふうに移ろう景色の陰影を楽しめたのだねえ、と、Evening Tourの意味がわかった。
ツアーの終わりはガーデンに通じる部屋でグラスのシャンパンが出て、ほろ酔いになったところで今回のお客様に限って売店の商品はすべて20% offとさせていただきます、とか商売もうまいったら。

翌朝のツアーは9:30からで、最初に昨晩と同じ経路を辿ってState Roomsをみた。 ただしこっちは人間のガイドはなしの、ヘッドセットによるオーディオガイドのみで、これの情報量は人間さんの1/3もなかったかも。 他方で昨晩の復習をしたりガイドさんが飛ばしていった、けど気になるとこを見直したりするにはよかったのと、陽がでていると、夜には見えなかった天井のガラスの模様の細かさも確認することができたので、時間があったら両方行くのがよいのかも。

これの後で少し時間があいて、11:30くらいからGarden Highlight Tourていうので、お庭を見た。庭にはでっかいグースとかカササギ(だよねあれ?)とか、ハトですらゆったり寛いでいるようで、ツアーはガイドさんに連れられてその奥の庭園とかお茶屋とかテニスコートとか池(Lakeって言ってた)とかをお散歩のスピードで歩いていくの。この2本の樹は植えられたふたりにちなんでVicki & Albertと呼ばれています(いいねえ..)、とか。 街中にあるので外から見られないようにするための工夫いろいろ、とか。
秋の木の実がいっぱい落ちていて、こんなところを気が向いたときに散歩できるなんていいなー。

あと、やっぱりキツネ - Fantastic Mr. Fox  - は生息しているんだって。 うちの近所でも2回みたの。

来年もまた来ようっと(まだいられたらな)。

9.21.2017

[film] Grosse Pointe Blank (1997)

12日の火曜日の晩、Prince Charlesで見ました。
20th Anniversary記念の35mm上映。
こんなおもしろいのが日本では未公開のままだなんて、ぜったいありえないわ。

Martin Q. Blank (John Cusack)はプロの殺し屋で、ライバルで格上の殺し屋Grocer (Dan Aykroyd)からは組合つくろうぜ、とか誘われているのだが、なんか嫌で、セラピスト(Alan Arkin)のところに行っても落ちつかない。 アシスタントのMarcella (Joan Cusack)からは卒業後10年の同窓会が故郷のGrosse Pointe - Michiganであるので行ってこい、と言われていて、セラピストも行ったほうがいい、ていうのでしぶしぶ行くことにする。

町に着いてみると、幼馴染でプロムに誘って、でも当日に放置したままそれきりとなってしまった可哀想なDebi (Minnie Driver)はラジオのDJをしていて、母親はボケて施設に入っていて、父親は墓の下に入っていて、住んでいた家があったところはコンビニになっている。 そうして気づいてみれば素性のよくわからない追手とか、明らかに彼を殺しにきている奴とかいろいろいて、それでも同窓会に行ってみると、やっぱりいろんなことが起こってばたばたで。
Martinの将来はどうなるのか、Debiとの恋は果たして、とかぐじゃぐじゃで、なのにMartinはたまにパニック起こしてセラピストに電話したりしつつも、殺し屋脳が勝手に働いて冗談みたいにふんふん片づけていくの。

あとさきなんて知らん、その場限りで生きることを是としてやってきた80'sのメンタリティ的には同窓会なんてのは一番恥ずべきイベントで、そんなのやってられっかよ、に違いないのだが、突っ張っている裏側で病んで瀕死のMartinが歯を食いしばって出てみたらやっぱり死にそうで耐えられなくなって、そうしたら向こうから自分を殺しにやってくる連中がいて、いっそ殺してくれれば楽だと思うのにそこでやっぱり80's的な見栄根性が起動してしまい、結果的になにかに打ち勝ってしまったことになる、というすばらしい御都合主義。

このでたらめないいかげんさ、てきとーさのすばらしいこと。 そしてこれをこんなにも軽やかに演じられるのはJohn Cusackしかいない。そしてこのキャラはアナログレコードへの一途な愛、過去の愛の傷痕から逃れることができずにぐるぐる回転を続ける"High Fidelity" (2000)の彼とも表裏一体なの。

Minnie Driverも素敵でさー。 ふたりのDJブースでのやりとりなんて泣きたくなるくらいよいの - なんで別れたのだかぜんぜんわかんなくなるけど。 これ、彼女の視点から『すてきな片想い』(1984) の10年後の物語として描いてもおもしろくなったよね。

そして勿論、Joan Cusackも忘れてはいけない。ひとりのオフィスなのにいつもぎんぎんのファッションでキメてて、さいごにさらりとぜんぶ焼き払ってしまうかっこよさ。

オリジナルの音楽担当はJoe Strummer で、それに加えて80年代英国の音 - The Specials, The Clash,  The Jam,  The Cure, Echo & The Bunnymenなどなどが泣きたくなるようなタイミングでステップを刻んできて、それだけじゃなくて、米国90年代 - Martinにとって現在の音 - Faith No More, Pixies, The Eelsなんかが鮮やかに迎え撃つの。 そんで、最後にはThe Poguesの"Lorca's Novena"が。

終わったら大拍手。 そんなのとうぜんだわ。

[film] Wind River (2017)

11日、月曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。
最初はAvengersのふたり(しかも同じCaptainチームだったよね)が一緒になにやってんだろう、くらいだったのだが、割と評判がよいのと、音楽があのふたりだったので見てみた。 ものすごくよかった。

最初に"Inspired by true events"て出るの。
ワイオミングのWind River Indian Reservationの雪に覆われた平原の上を夜中、若い女性が何かから必死に走って逃げているのが冒頭。

Cory (Jeremy Renner)は地元の鳥獣保護機関のようなところで、山羊を狙う狼を撃ったりしているレンジャーで、家に帰ると息子と妻がいて、でも娘はつい最近亡くなってしまったらしく、傷ついていてどんより寡黙で、そんな彼がパトロール中に冒頭の女性と思われる遺体を見つけて通報して、しばらくするとFBIからJane (Elizabeth Olsen)が派遣されてくる。

彼女が若くて多少危なっかしいのと、女性の死に方に不審な点があったのと - レイプされており、裸足で、直接の死因は肺の凍結によるバースト - 彼の娘の死とも重なるところがあったのかもしれない - でCoryは彼女の横に付いて案内したり捜査を見たりしていくことになる。
その過程で明らかになっていくのは「保護区」に隔離されたネイティヴアメリカンの暮らしの打ち捨てられた悲惨な現実とか、森の奥に放置された誰かの死体とか肉とか、そのつらいかんじは、"Winter's Bone" (2010)の行方不明となった父親を探すかんじにも近いのだが、果たして犯人は...

途中までは犯人や証拠を探して雪原を彷徨う犯罪サスペンスぽいのだが、ある地点でいきなり沸騰して西部劇になってしまう、その転調の強度が鮮やかですごい。 馬のかわりがスノーモービルで、事故としか言いようのないとてつもない緊張感の波にのまれて、「対決」があって「裁き」がなされる。
Elizabeth Olsenの必死さも、Jeremy Renner の苦虫もこのためのものだったのかと。

そして、地表を吹く風よりも静かに、微かに流れていくNick CaveとWarren Ellisの音楽、スカスカのカントリー調の伴奏にあの声のハミングとぼそぼそした語りが被ってくると、それだけで雪の表皮が剥がれて罪と赦しの大地、みたいのがむき出しになる - 異なる風景が見えてきてしまう不思議。

からからに干からびてしまったかんじのJeremy Rennerがすばらしい。 これがTom HardyだとややWetになっちゃう気がする。

そしてラストの横並びでじーんとして、エンディングで表示されるデータに戦慄する。

9.19.2017

[film] Le Deuxième Souffle (1966)

日本でももうじきPFFで上映されるようだが、BFIではこの8-9月に生誕100周年の記念特集 - "Jean-Pierre Melville: Visions of the Underworld" が進行中で、Stephen Kingの特集と合わせて慌しいったらない。

既に見逃してしまったのも2-3本あるのだが、ここまでに以下を見てきた。

8月15日に "Bob le flambeur" (1956) - 『賭博師ボブ』
8月18日に "Deux hommes dans Manhattan" (1959) - 『マンハッタンの二人の男』
8月21日に "Le Doulos" (1963) - 『いぬ』
9月10日に "Le Deuxième Souffle" (1966) - 『ギャング』
9月17日に "Un Flic" (1972) - 『リスボン特急』

再見のもあるし、何本かはまだ見れると思うのだが、とにかくどれを何回見てもおもしろくて、それらの感想とか書いたり読んだりするヒマがあるのなら一本でも多く見た方がいいよ、て言うしかないので、個々に感想書くのを怠けてしまった。

なんでこんなにおもしろいのだろうか?
メルヴィルの映画って、やくざとかギャングに関する映画がほとんどなのだが(ちゃんと調べてない。ごめん)、やくざとかギャングっていうのは、我々が普段会社に行ったり学校行ったり食事したり映画に行ったり、という我々がこれが「ふつう」と思っている暮らしかたとは別の - 綱渡りとか命がけとか一攫千金とかだまし討ちとか、そういうのを狙ったり追ったりして暮らしを立てている人たちのことで、でも彼らにとってはそれが「ふつう」というだけのこと、我々とおなじように寝坊したりつまんないとこで引っかかったり失敗してぶつぶつ言ったり、最悪の場合殺されちゃったりする。

それらを総合すると特集のタイトルにあるように"Visions of the Underworld"という、地下世界の見方、掟とか考え方とかロジックとか、あるいは仁義と呼ばれるものとか、彼らの視野とか言語とか、そういうものを抽象化するのではなく具体的に見せる、ということになる。

彼らは我々とこんなにも違う、ということを卑下したり矮小化したり、あるいは美化したり特権化したりすることもなく、ただ違う、こんなふうに違うのだ、というその境界 - 時に「非情」と呼ばれてしまうその線とその向こう側を、いいかげんに脚色せず具体的に説明しつつおもしろいドラマに仕上げてしまうって、両方の世界の言葉や生業や倫理を知っていないとできないことだと思うのだが、メルヴィルにはそれができてしまった - すごい画家が画布の上に対象の世界を見事に再構成してしまうのとおなじように、いやそれ以上に、メルヴィルの作りあげた世界は生きていて、その生きた世界の上でギャングたちは何度撃たれたって、背中から撃たれたって、何度でも蘇ってくる。 かつて「気狂いピエロ」で言われた「永遠」て例えばこういうものなのではないか。

なんでそんなに生きているふうに見えるのだろう?
例えば、『賭博師ボブ』のパリの朝、 『マンハッタンの二人の男』のマンハッタンの夜、 『いぬ』の延々続いていく道、『ギャング』のくねくねした崖っぷちの道路、『リスボン特急』の海辺の風ぼうぼうの道路、どれもぜんぶ、ものすごく的確な距離感でもって雨や風の感触、匂いみたいなとこまで含めて、我々の目の前に迫って広がっていて、ふと見ると車が寄ってきたりそのまま歩きだせたりする。それこそ、何度も見返したくなる写真集のかっこいい風景と同じようにメルヴィルの描く風景は生々しくそこにある。

もういっこは、あるシチュエーションでの行動に迷いとか悩みとか想像力とかの入りこむ余地がないように彼らは動く、ということ。
当たり前だけど、我々はなんか動くときには理由があっていくつかの選択肢のなかからそれを選んで動くわけだが、そこらの映画の登場人物の動きって、そういう明確な、こちらにも解るロジックのもと動いてくれることって、あんまりない。 それが映画のどこに連れていかれるかわからないおもしろさでもあるわけだが、メルヴィルの登場人物の動きは、常に明確な理由のもとでターゲットに向かって動くべくして動いて実行されて、失敗して死んじゃったりうまくいったりする。 これだけのことがなんでそんなにおもしろいのかというと、それがやくざとかギャングとかの掟とかヴィジョンをくっきりと見せて示してくれるから。

それで、そのことは見ている方に常にある問いを突きつけるんだ。 お前はどっち側なのか、と。『ギャング』の Lino Venturaが圧倒的にかっこよく見えてしまうのは、彼が命がけでそれをこちら側に問いかけてくる、その強さに打たれるからだと思う。 おまえは仲間を売るのか、守るのか、そのために死ぬことになってもいいのか、などなど。

でもそれを間近で熱く(うざく)訴えてくるのではなく、先程のような風景のなかのひとつの点として、水槽のなかの蟻のように世界を俯瞰して敵の挙動も味方の挙動も露わにして、どっちなのかね? と迫る。 それって我々が世界というもの、他者というものを学んでいく過程そのもので、それは生きていく上ととてもとても大切な知恵となるものなの。

とにかく、1本でもよいのでメルヴィルの映画を見てみることよ。 問答無用におもしろくて、胸打たれる場面がきっとひとつはあるから。

[film] The Limehouse Golem (2016)

9日の土曜日の昼、PiccadillyのPictureCentralで見ました。
原作はPeter Ackroydの小説 - "Dan Leno and the Limehouse Golem" (1994) - 翻訳は『切り裂き魔ゴーレム』 - 未読。
Peter Ackroydさんは最近出された"Queer City: Gay London from the Romans to the Present Day"がおもしろそう。
ロンドンを舞台にしたこういう映画はお勉強にもなるので、できるだけ見るようにしたい。

ヴィクトリア朝のロンドンのやばくて荒れたLimehouse地区で残虐な殺人が頻発して、人々はGolemの仕業って呼んでメディアはいちいち過剰に騒ぎたてて、そんななか、場末の見世物小屋女優のElizabeth Cree (Olivia Cooke) が夫のJohn Creeを毒殺した容疑で捕まって首吊りにされそうで、新たに捜査にアサインされた警部John Kildare (Bill Nighy)はふたつの事件の間に関連があるのでは、と調べを進めていくと、Golemと思われる奴が殺人の記録をがりがり書き込みをした大英博物館の図書室の本が見つかって、ではそれを書いた奴は誰なのか、と。

その書き込みがされた時、その本があった閲覧室にいたのは、亡くなったJohn Cree、Elizabethの小屋のスター俳優のDan Leno (Douglas Booth)、George Gissing(!)、Karl Marx(!!)の4人。 果たして犯人はこのなかにいるのか -

..マルクスだったらおもしろかったのにねえ。

切り裂きジャックが世間を騒がすより前の、それでも十分に腐れはじめていたロンドンの霧の中に冗談みたいな実在の人物を置いてみることで浮かびあがってくるリアリティ、というか、更なる嘘っぽさというか、がおもしろい。 見世物小屋のステージ奥に掛かっている絵はWilliam Blakeの"The Ghost of a Flea" (1819?20)だったりするし。
そういえば大英博物館の図書室はこないだ見た"Night of the Demon" (1957)にも出てきた。 きっと魔界と繋がっているんだねえ。

警部の推理が冴えまくる捕り物、というよりは魔人Golemの膨れあがった怨念がロンドンの下層社会の闇の奥で炸裂したり連鎖したりした挙句、その最期に正体を露わにする、現れるべくして現れる、それ自体が劇とか悪夢のように進行して為すすべもなく止められない、そんな物語で、難をいえば殺害シーンのおどろおどろがこわいよう - 殆どホラー - の印象ばかり残ってしまうことだろうか。
ゴシック・ホラーってあんなに血でべったべたになるもんなの?

Bill Nighyはいつもの彼からしたらおとなしめ、というか殆ど棒立ちでなにもしないかんじ(それもまた変な効果を出していたり)で、この映画では"Me and Earl and the Dying Girl"(2014) のOlivia Cookeさんがすばらしい。あの映画でもそうだったけど、与えられた不幸な境遇にクールに中指突きたてて向かっていくところがかっこよいの。

でもなんかもやもやしたなにかが残って、それってなんだったのだろう、と。
たぶんそれは ...

[film] Petulia (1968)

6日の水曜日の晩、BFIで見ました。
この時にBFIでは"Transformation and Tradition in 1960s British Cinema"ていうコンファレンスが開かれていて、その一環でご参考として上映されたもの。 上映前にUniversity of East AngliaのMelanie Williamsさんから簡単なイントロがあった。

Richard Lesterの最高傑作であり、当時の英国映画(舞台はSummer of Love - 67のSan Franciscoだが)の頂点としても位置付けられる、と。 撮影のNicolas Roegは彼のその後の自作品で多用することになるFlash-back/Flash-forwardの手法を転がしたり確かめたりを始めた作品でもあり、音楽はJohn Barryの他になぜかJanis Joplin (with Big Brother and the Holding Company)とかthe Grateful Deadのライブ映像まで見れてしまう、そういう珍しさもあるし、とにかく貴重なので見てね、と。

邦題は『華やかな情事』だって..

Petulia Danner (Julie Christie)は土地の社交界ではセレブで、お金持ちの新進建築家 - でもDV野郎で頭悪そう - の夫David(Richard Chamberlain)がいて、華やかな生活を送っているのに医者のArchie (George C. Scott - 前日の"The Changiling"に続いて二日連続になった)に惹かれて、彼も前妻との間に子供がいるのだが、彼女にずるずると惹かれていって、くっついたり離れたり修羅場だったり安らぎだったりがゆるゆるの67年のSan Franciscoで繰り広げられて、最終的になにがどうなったか、どういうことだったのか、などはあんま明確にならないのだが、あれはSummer of Loveの夢みたいなものだったのかしら、のようにして終わる。

ストーリーとしてはあんま締まりのないふうなのだが、一切の説明なし、時系列無視で繋げられて重ねられたりジャンプしたりしていく個々のエピソードやイメージが強引で不規則で、でもそれらの流れやうねりがPetuliaやArchieの理由のない欲動の波や塊、その点火とか呼び覚ましとかにうまく呼応して不思議な情景を生んでいる。 今だとたぶん誰かがロマンポルノなんかでやっていそうなかんじではあるが。

Julie Christieのどこか満たされない人妻のなにをやってもどこかから遊離していくしょうもないかんじも、George C. Scottの絶えずなにかを探し求めていて、でも追いきれない無力さに絶望している表情も、その絡みあいや追っかけあいがとにかくすばらしくていくらでも見ていられて、ただその背景をSan Franciscoにしたのはどうだったのか、"Don't Look Now" (1973) - 『赤い影』のようにVenetiaに持ってきたらどんなふうに見えたのだろうか、とか。

あと、Petuliaの義父として出てくるJoseph Cottenのものすごく冷たくてどこをどう押しても揺るがないかんじの貫禄とか。

あと、やや唐突にコラージュのように現れるJanis JoplinやJerry Garciaのぎんぎんでやばくてちんぴらなかんじ。 今見るとおおー!なのだが当時の英国からはどんなふうに見えたのかしらん。

9.17.2017

[log] September 16 2017 - Prague

13日の晩までドイツ、15-16でチェコのプラハにいっていました。はじめてのプラハ。

15日の午後が打合せで、その後は懇親会という名の飲み会で、土曜日は夕方から用事が入っているので午後いちには飛行機に乗らなければならない。
自分の好きにできる時間はホテルに着いてから打合せが始まるまでの1時間弱と土曜日の朝から昼までの数時間、数時間と言っても美術館がオープンする10:00から11:30までが勝負で、勝負とか言ってもプラハには呆れるくらいの数の美術館があり、土地勘はゼロ、行きたいとこと行きたいとこの間がどれくらい離れているのか見当もつかないので勝負以前だし。 でもとにかく行くよね。

行きの飛行機は9:50発で、とてもとてもタイミングの悪いことに来年6月のThe Theの復活公演のチケット発売(10:00開始)ともろ被りしていた。ダメなものはダメだろうがいちおうがんばってみようと9:00くらいにRoyal Albert Hallのサイトにログインしようとしてみると、その段階でキュー待ち2000人とか表示されて気を失いそうになる。
関係ないけどこれの前日の木曜日、Southbank Centreでのヒラリー講演のメンバー先行予約に少しミスって遅れて入ろうとしたら、あなたが中に入れるまであと40分かかります、て冷たく返されて、その間にSold Outしてしまった悪夢を思いだし、でもがんばるしかないよね、って待っていたら9:20くらいになんとかログインはできた。

フライトはフルで混んでて、少しだけ離陸が遅れてくれるとありがたいんだけどな、だったのだが9:50きっかりに飛行機はするするとゲートを離れ、滑走路が混んでて動けなくなってくれるとありがたいんだけどな、だったのだがここもすいすい抜けていってしまい、10:00になったときは最後の直線に入るところで、でも"BOOK NOW"の表示に変わってくれたのでえいって突っこんでみたらキューが1500って出たので白目むいてそのまましんだ。 約2時間のフライトのあとプラハの滑走路上で、だめだろうけどと見てみたらなんと接続はまだ生きてて残りキューは300人くらいになってて、飛行機から降りる頃に0になったので、やった、と思ったらあっさり"Sold Out"って。いろいろいじわるすぎ。

こんなのに加えてまたロンドンでテロのニュースよ。
ほんと、着いた途端にとか、もちろんテロそのものだって、やめてほしいよう。

そんな、なにもかもあーあの状態で入ったプラハは、来ているはずの車のひとがいなくて待たされて、もうこれはあかん、て着いてからの散策も諦めてホテルの近所のマーケットの屋台でホットドッグ食べた(おいしかった)くらいだったのだが、屋台とかショーウィンドウとかにかわいい木のおもちゃとかどうでもよさそうな小物がいっぱい並べてあって、これはやややばいかも、て思った。

ホテルは7階で旧市街を見渡せて窓を開けられたのでわーって見てたら横に石像のひとが立っていたのでびっくりした。 夜の飲み会のあと、街をぬけて河とお城の夜景を眺め橋を渡ってトラムに乗って(ぜんぶ団体行動)、ホテルに戻ったのは22時前くらいで、時間的にはもう少しひとりでふらふらできるはずだったが偏頭痛がひどくてしかも薬を持ってくるの忘れてしまい諦めて布団にもぐった。

朝は7:30くらいに起きて8:00にチェックアウトして11:30に空港行きの車に来て貰うようにして、外に出てからCafé Imperialっていうとこで朝食たべた。
朝食としてはふつうのホテルの朝食のようだったけど、アール・デコの内装は素敵だった。

そこからUberでVeletržní Palace (Národní galerie v Praze) - National Galleyに行って、開館まで30分くらいあったので併設されているカフェでお茶のんだ。店内にAi Weiweiの"Wild Flowers"ていう作品があった。
10時ちょうどに入って、脳内タイマーを30分にセットして、3階の19〜20世紀アートのあたりから怒られても怪しまれても文句いえないくらいのすごい速さで見て回る。建物はぺったんこの普通の近代ビル(それでいいのよ)なのだが、とても見やすいレイアウトだった。
セザンヌ、ピカソ、ボナール、クレー、ココシュカ、ムンク、どれもこれもよいのがいっぱいあったのでまた来よう、て誓った。
クリムトの「乙女」は貸し出し準備(SFに行くみたい)で見られなかった。 また今度ね。

特別展示されていたAi Weiweiのrefugeeをテーマにした”Law of the Journey”も見る。とんでもないでっかさであきれる。 でも実際の問題に比べたらまだちっちゃいよね。

お土産がほしかったので本屋 - Koenig Booksてロンドンにあるやつ? - で”Czech Modern Painters 1888 - 1918”ていうのを買った。知らないひとばっかり。

ここで40分使ってしまったので慌ててUber呼んで川縁のFranz Kafka Museumに行った。
ふつうの2階建の平屋で、最初に2階にのぼって、彼の経歴とか手紙を中心に見て、そこから下に降りると遺体安置室みたいに並べられたロッカーに作品の登場人物のラベルが貼ってあって、こんどは作品世界から彼の世界観みたいのを概観できる。最初から最後までずっと薄暗いゴスなお化け屋敷仕様で、やっぱしそうなっちゃうのかしら…  だった。

時間なかったのだが売店でなんか買わなきゃ、だったので(なんでだ?)チェコクリスタル製のGolem、ていうわけわかんないものを買ってしまった。 なんでこんなの買っちゃったのかしら?

次のUberが来るまで川を見て過ごして、Uberさんでホテルに戻ったのは11:29。そのまま空港向けの車に切り替えてばいばいした。

また来るからね。  でもプラハでこれだと、ウィーンはこの数倍やばいのではないか..

9.13.2017

[film] The Changeling (1980)

5日の火曜日の晩にBFIで見ました。 "Stephen King’s Picks"からの1本。 35mmでの上映。

冒頭、NYのUpstateの雪山で、家族でバケーションに来ていた作曲家のJohn Russell (George C. Scott)の妻と娘が突然の事故で亡くなってしまい、NY(ジュリアードのあたり)に戻っても力が抜けてどうしようもないのでシアトルに引っ越すことにする。

シアトルでは山の奥のでっかい古いお屋敷を借りて住み始めるのだが、ここはお化け屋敷で、夜中にとてつもない音がしたり扉が勝手に開閉したりうるさくてやってられないので(..ふつう引っ越すよね?)、Johnはこの屋敷のことを調べ始めて、やがて見えてくる上院議員のJoseph Carmichael.(Melvyn Douglas)とその家にまつわるいろんなことと。

まずはこの家にはなんかいるんだ、と思って、そいつがやかましい音をたてて注意を惹こうとしているってことは何か伝えたいことがあるのではないかと、じゃあそれが何なのかを探してみようか、というのを震えずに怖がらずにとっても正直にやっていると、音を立てているほうもあれこれ手伝って導いてくれる、はず。 教訓つきの昔話にはありがちな流れを相当おっかない方に反転させてみたかんじ。 骨格だけだとクラシックなお化け屋敷の怪談、坂田靖子にもこんなのあった気がするし。 でもとにかくいろんなのがおっかないのと、タイトルの「取り替え子」っていうのと、冒頭の事故の話とGeorge C. Scottの切羽詰まった表情と真剣さをあわせてみるととても辛い、かなしいお話しに見えてくる。

という大枠のところよか、個々の、がーんがーん、て地獄の窯みたいな音とか、階段からぽんぽん落ちてくるボールとか、壊れかけたベビーカーの軋みとか、一直線にぶっ飛んでいくコップとか、そういうのがたまらなく怖い。 "Salem's Lot"の館と同じくらいに薄気味悪くて、よくそれでもひとりで住み続けたもんだわ。 引越しが面倒だったのだろうか。

もういっこは、Melvyn Douglasの演技がすさまじい、アメリカの富とか権力とか所謂「象徴」にまつわる、それ自体がお化けのような気持ち悪さと奇怪さ。それに比べたらこの程度の怪奇現象なんて、と思えてしまう。 屋敷で起こるいろんなことの背後にいるのはモンスターではなく子供のイノセンスであって、ものすごく怖いのに、なんか透明で美しいくらいに見えてしまうのはその辺もある、よね。

この映画が日本で公開された当時、怖がりだったので当然見には行かなかったのだが、主題歌がヒカシューの「パイク」ていうのは宣伝していたのでよく憶えていて、なんで洋画の主題歌に日本のバンドが使われるんだよおかしいだろ、と少し頭きたのだった。 この頃から洋画のプロモーションに対する不信はずっとあるのよ。


昨日からドイツに出張してて、夕方の帰国の飛行機が遅れたのでIMAXでの”Christine” (1983)を見逃す。
くやしい。

さっきまでBBCで亡くなったSir Peter Hallの追悼番組やってた。 ナレーションはJeremy Irons。
知らないことが多すぎる。くやしい。

9.11.2017

[music] The Magnetic Fields: 50 Song Memoir

これもこっちから先にかく。

9日の土曜日と10日の日曜日、2日間に渡ってBarbicanで見ました。
今年3月、11作目のスタジオ作品としてリリースされた50曲入りの"50 Song Memoir"、それの全曲披露公演。

Stephin Merrittの生誕50周年を記念して1966年から2016年まで、各年1曲づつで構成された全50曲、1日目にはその1曲目から25曲目までが、2日目には26曲目から50曲目までが演奏された。
そんな私小説みたいなのに付きあっているヒマはないね、だったら別に無理しなくてよいけど、でも"69 Love Songs" (1999)にびっくりしたひとは行って見て聴いておいたほうがいいよ、と。
チケットの発売は3月中旬で、発売初日にめちゃくちゃ張りきって(オンライン)突撃したらそんなでもなかったので拍子抜けした。 イギリス人にはそんなにおもしろくないのかしら。
彼らのライブに行くのは2004年以来。

ステージ上にはきらきらカラフルで、アジア系の雑貨屋みたいにおもちゃが散らばって怪しく輝くStephinの部屋、みたいなセットが組み上げられていて、その外側には半円状に6人のミュージシャンのブースが囲んでいて、部屋のてっぺんには横長の鏡のように縁取りされた楕円のディスプレイが取り付けてある。

バックミュージシャンにはこれまでのようにClaudiaもSamもJohnもいなくて、ClaudiaとStephinの掛けあい漫才が見られないのは残念だったが、このステージはなによりもStephinのものなのだろう。
物販コーナーに殆ど本のようなツアーパンフ(サイン入り)、があって(Tシャツもポスターもすごくかわいかったのでもっと買えばよかったとしみじみ後悔してる)、それぞれの曲とそのエピソードをめぐるDaniel Handlerとの対話とかいろいろ入っているのだが、まだ読みきれていない。

Stephinは部屋の真ん中にどっしりと腰かけて(太ったよね)、たまに楽器やスイッチをいじったりするものの、ほぼ歌の世界に没入して朗々と歌い続ける。 たまにお茶をおいしそうに飲んだり。
生まれた年(66年)から順番に流していくだけなのだが、各パートがそれぞれ変てこな楽器(ノコギリなんてあたりまえ。ラッパのついたバイオリンとか)をじゃかじゃかぱおぱお鳴らしまくるのと、ディスプレイに映し出される各曲をイメージしたイラストレーションとかアニメーションとかが相当に変でおかしくて、曲に集中できなくて困るくらいだった。
(これらを担当したのはJohn Erickson, Roger Miller, Jocelyn O'Shea, Alex Prtrowsky)

前半の25曲はアマチュアの時代、ということでやんちゃでとっちらかった曲が多くて、後半はプロフェッショナルの時代、ということでエモーショナルかつメランコリックな曲が多い。割と繰り返されるテーマは母親(母子家庭だった)のこと、離れたり戻ったりを繰り返すNYのこと、盛り場とか、恋とか愛とかどん底とか(これはいつもの)。

客層はやはり年寄りが多くて、たしかに60年代生まれてなかったもん、みたいな人がみてもきょとん、だろうしな。

前半で胸をうたれた曲としては"'69 Judy Garland"、Stephin節全開の"'71 I Think I'll Make Another World"、身につまされて戦慄するしかない"'79 Rock'n'Roll Will Ruin Your Life"、John Foxxの肖像が映し出されて『当時の自分は本当にJohn Foxxになりたかった 〜 "Metamatic" (1980)は「去年マリエンバードで」に匹敵する衝撃だった』 と語る(激しく同意しかないわ)"'83 Foxx and I"、Teenagerに捧げる3曲として、Eddie Cochranの"Summertime Blues", Alice Cooperの"Teenage Lament '74", Beat Happeningの"Bad Seeds”(ここで拍手)が掲げられた"'85 Why I Am Not a Teenager"とか。 同時代のなんとか、なんてちっとも信じないほうだし、彼もそういうアプローチで書いていったと思うのだが、ここまでいろいろ繋がってくるとやはり考えてしまうねえ。

後半の2日目はどれもこれも美しい曲ばかり。
会ったことがないという父親 - Scott Faganというミュージシャンで、昨年Cafe OTOでライブもやってる - について歌った"'99 Fathers in the Clouds"、うっすらと911について言及した"'01 Have You Seen It in the Snow?"、 なんだかんだのNY愛が全開で泣くしかない"'12 You Can Never Go Back to New York"、 デジタルになってから写真がみんなどこかに行ってしまったよ、としょんぼり呟く"'14 I Wish I Had Pictures"とか、このバラードで美しく終われば最高なのに、ラストの"'15 Somebody's Fetish"は底ぬけの変態賛歌で終わってしまう。

もちろん、まだ続いているのだし、50年後に次のMemoirを出して、またライブをしてくれますようにー。 

どちらの日もアンコールはなし。 そういうの入りこむ余地まったくなしの完成度の高いショウでした。

[talk] John le Carré: An Evening with George Smiley

こっちから先に書く。
7日の晩、Royal Festival Hallで、John le Carréが立って歩いて、朗読したり話したりするのを見ました。

今やどこの書店に行っても新刊 "A Legacy of Spies"は山積みになってて、PiccadillyのWaterstones(大型書店)ではウィンドウに「スマイリーが帰ってきた!」の号外が散らばったり貼り出されていたり。 イベントの模様は英国だけでなくヨーロッパ中の映画館に同時中継されてて、単なるプロモーションとは思えない盛りあがり。

https://www.youtube.com/watch?v=lJWKfnMrAco

チケットはメンバー先行の発売日に買ったので悪い席ではなかったけど、軽く£100だった。そうだろうなー。
スパイとおんなじような彼だし、普段は人目を忍んでいるのだろうしなー。
当日の客席にはTom StoppardとかJarvis Cockerもいたそうだが、周りを見まわす余裕なんてぜんぜんなかったわ。
というくらいにLe Carréは好きで読んできていて、でもこないだ着いた船便の箱には入れたのかどうか。(まだ開けていない、と)

ステージ上には演台がぽつんとひとつだけ、聞き手がいて対話形式で進むと思っていたので少しびっくり。
19:45 - 時間きっかりに彼は登場して、原稿の束を置いて立ったままでマイクに向かい静かに話始める。
それが"A Legacy of Spies"からの、あるいはひとつ前の"The Pigeon Tunnel: Stories from My Life"からの抜粋なのか、そこに少し手を加えたものなのか、読んでいないのでわからないのだが、始めに自分こそがGeorge Smileyである、ということをはっきりと言って、自身のここまでの生涯 - 特にMI5〜MI6の時代とGeorge Smileyの活動を並べて比べて、Peter GuillamやJim Prideauxといった彼の仲間たち、TVや映画で俳優によって演じられたGeorge Smiley、などなどについて横にそれたりジャンプしたりしつつも、約1時間強、全く澱みないテンションと共に読みきってしまう。 演劇の一人芝居のようでもあって、ただそこに立っていたのはJohn le Carréその人だったのかGeorge Smileyだったのか、どちらかがどちらかの書いた台本を代読しているだけなのではないか、という疑念が湧いて奥の部屋でじりじり尋問したくなる、それくらいスムーズな語り口であり佇まいでありました。

休憩のあとはデザート(て言ってた)で、ツイートやFBで寄せられたみなさんからの質問に答えます、というコーナーが、これはニュースキャスターのJon Snow氏のモデレーションで、椅子に座って行われた。

相当にやばいひとであることを後になって知った父のこと、Smiley以外で最も近しく感じる登場人物は? とか、割とふわふわ和める話題が多かったのだが、現在のアメリカの(あの政権の)行方についてはかなり強い語気でもって懸念を表明していた。 経済危機に端を発するあの動きには30年代にスペインや日本やドイツで起こったこと - ファシズムの台頭 - の再現を見ているような、同種の危うさがある、って。 (...日本はふたたび、それいじょうにまったくおんなじくやばいんですよせんせい)

George Smileyという稀代のスパイを生んだ東西の冷戦、かつてのファシズムに端を発する分断された世界、その悲劇を生きたひとが、新たなファシズムの誕生を憂慮する - どれだけ後退してるんだよ世界、って。

でもとにかく、会えてよかったー。

911でした。忘れてはいけない。もう二度と..

9.09.2017

[film] Pet Sematary (1989)

3日、日曜日の晩、"Night of the Demon"のしばらく後に見ました。 ホラーの修行しているかんじ。

Stephen Kingの同名小説 (1983) の映画化で、脚本もKingが書いて、葬儀のシーンで一瞬出演もしている。
医師のLouis (Dale Midkiff)とRachel (Denise Crosby)の夫婦, Ellie(女子)とGage(男子)の子供たち、グレイ猫のChurchからなるCreed家はシカゴからメインの一軒家に越してきて、大型トラックがごうごう頻繁に通り過ぎる道路脇にある以外は幸せなかんじだった。

隣家にひとりで住む老人のJud (Fred Gwynne)が家の近所の森の奥にあるPet Cemetery - "Pet Sematary"て綴り間違いされている - に案内してくれて、暫くするとLouisのところに運ばれてきた患者 - 頭ぱっくり - がこのPet Sametaryのことを言って死んじゃったり(こいつはその後も頻繁に現れてくる)変なことがおこって、今度はThanksgivingで妻と子供たちが里帰りしているときに猫のChurchが死んでいるのが見つかって、Ellieが知ったら悲しむのは明らかだったのでPet Semataryに運んでいって埋めたら翌日にChurchは戻ってくる(機嫌わるくて目の光があやしい)。

家族も実家から戻ってきて再び暮らし始めたら、今度はピクニックの最中にGageがトラックに轢かれて亡くなってしまい、家族みんなが嘆き悲しんでどん底に落ちるのだが、あそこに持っていったらひょっとして... とLouisは思うようになって。

で、実はこれの周りにRachelのかわいそうな姉の話とか、Judの語るかつてこの土地で起こった惨劇とか、複数のエピソードが渦を巻いていて、この狂ったさまが単一のなにかではないかもしれないことを示すのだが、だからと言って悲しみの総量が減ってくれるわけではないし、そんなのどうでもいいから息子を返してくれ、てLouiseはおかしくなっていく。

ペットのネコが墓場から蘇って化け猫のようにゾンビのように... ていうような類のホラーかと思っていたのだが、ぜんぜんちがった。
どちらかというと古典的な怪談のようで、ほんとうに愛していた人が亡くなって、戻ってきてほしいよう、と切実に願うと、願いすぎると、いったいどんなことが起こってしまうのか、って。 或はその狂おしい願いや想いは「向こう側」から見るとどんなふうに見えてしまうのか、とか。

これも"Salem's Lot"に少し見られたイノセンスの暴走とかいろんなかけ間違いが巻き起こす悲劇、と見るべきなのか、いや別にただただ起こっただけのことなのだ、と見るべきなのか。 やりきれないのは誰もみんな、なにひとつ悪くないってことなの。ちょっとだけ想いが強すぎる、というだけなのに。

なので、どこまで行っても見えない向こう側、というのはあるけど、どこからか湧きあがってくるような理不尽な怖さはあんまなくて、あのかわいそうな終わり方しかないのかなあ、くらい。

戻ってきてよう系のホラーというとジョナサン・キャロルの「死者の書」が大好きなのだが、あの世界もちょっと思い出した。

監督はMadonnaのPVで有名な人で、これのオファーも"Like a Prayer"の編集をしているときに来たって、なんかすごい。

エンドロールでRamonesが流れる。
いまの彼らを思うと ”I don't want to be buried in a Pet Sematary - I don't want to live my life again" ていうのもまた、切ない..

9.08.2017

[film] Night of the Demon (1957)

3日、日曜日の午後、BFIで見ました。 "Stephen King’s Picks"からの1本で、これの他にPickされているのは"The Changeling" (1980) ← これは5日に見た - , "Village of the Damned" (1960), "The Hitcher" (1986), "The Stepfather" (1987) とか。

冒頭、イングランドの夜中、Harrington博士が怪しげなKarswell (Niall MacGinnis)の館を訪れて、Karswellのやっているカルトぽい行いのことで言い争いをして、Harringtonが車で自邸に戻ると向こうから悪魔が現れて電柱に雷がおちてHarringtonは亡くなってしまう。
続いてカルトとか悪魔とか超自然なんとかを一切信じない科学者のJohn Holden (Dana Andrews)がイギリスでのコンベンション参加のためにやってくる。 それはHarringtonがKarswellのいんちきを科学面から暴いてやろうとしていた会で、着いた途端にHarringtonの死を知らされたJohnは行きの機内で知り合ったHarringtonの娘 - Joanna (Peggy Cummins)と一緒にHarringtonが追っていたものを探して大英博物館に行ったりKarswellに会ったりしていくのだが、だんだんに周囲に変なことが起こったりすることがわかり、これって果たしてひょっとして悪魔の仕業なのか? と。

Harringtonの死の謎を追う、更に彼が追っていた謎 - どう見たって怪しいKarswellの奴も含めて追う、その過程で浮かびあがってくる悪魔や魔術の謎(が書かれた本)とか、それを追う側は(我々とおなじく)そんなもんあるわきゃない、という前提で入っていくので、まずはサスペンスとしての構成とか筋立てが面白くて、その後でやってくる不可解ななんじゃこれは?? についても、だからとっても説得力があってすごいの。 ウルトラQがやっていたようなネタの元祖、というか。

悪魔とか魔術とか、超自然的なあれこれの有る無しについて、それらが本当に有るか無いかはとりあえず置いておくとしても、不可解な、解りえないことが起こって人が死んだり消えたりすることはあって、それらの因果関係くらいは突きとめることができるはず。 それを追っていったその先、その因果をもたらしたものはいったいなんなのか、について、この映画はそこまで明確に踏みこんでいなくて、そうだよねー、となってしまうことで彼方から、その一番最後に新たな闇が入りこんでくる。 ここにあらゆるホラーの源泉がある。すてきだわ。

この辺の語り口は、同じJacques Tourneurの"I Walked with a Zombie" (1943) でも同じだったかも。
最後にやってくるなんとも言えない余韻、というか気持ちの悪さというか。

画面上に出てくる悪魔(?)の造型を巡って議論があったらしいが、あれってすごくよいと思った、夜の、遠くの中空に火の玉がぐじゃぐじゃ回って、あれってなに? てなっていると鬼みたいな怪獣みたいなあれがあれよあれよと迫ってきて、その距離感、速度感がとっても映画なかんじがした。 これが57年って、なんかすごい。

9.07.2017

[film] Salem's Lot (1979)

2日の土曜日の晩、BFIで見ました。 35mm, 186分版。

今週末の"IT"の公開に合わせてBFIで"Stephen King On Screen"ていうStephen King原作の映画特集と、"Stephen King’s Picks"ていうKingがPick upしたホラーの古典映画の特集が始まった。

何回か書いているけど、もともと怖がりなので怖すぎるホラーはだめだよう、だったのだが、もういいや、見る、にした。
理由はいくつかあって、ホラーなんかよか今の日本とか日本ばんざいしてる連中の方がよっぽど気持ち悪くて怖いわ、とか、もういつどんなふうにやられて橋の下とか瓦礫の下とか地面の下とか木っ端みじんとかわかんない時代だしな、とか、それにもう歳なんだしこんなんで怖がっていたってしょうがないだろ、とか、そういうので、そっちの気分にえいっ、て切り替えるのにこの特集はちょうどよいのではないか、と。  季節も冬に向かっていることだし。

あとはアサイヤスがかつて語っていた『ホラーは観客のダイレクトなリアクションを引き出すことのできる唯一のジャンル』ていうあたりとか。

でもいきなり冷たい小雨が吹きつける土曜の晩に3時間はどうなのか、と。 
邦題は『死霊伝説』 - 死霊の話でも伝説の話でもないけど。 原作本は「呪われた町」。
TVシリーズとして放映されたもの(前後編?)を繋いだやつで、たまにCMの切れ目に一瞬画面が止まったりする。

上映前にUniversity of RoehamptonのStacey Abbottさんがイントロを。 氏はバンパイア・ホラー、なかでも特にTVの小画面に現れてきたバンパイアを専門に扱っている(かっこいい!)ということで、この作品を語るのに世界で彼女ほど相応しい人はいない、と。

まずは当然のようにTobe Hooperへの追悼の言葉があって、それからこの作品を186分のフルバージョン、35mmプリントで見れることの幸運について。 当初ヨーロッパで公開された短縮版は氏によれば全く別物といってよい粗悪品である、と。 それくらいこのバージョン(の特に前半部分)のスローなペース(→雰囲気のつくり方)は絶妙でかけがえのないものなのだと。
ジャンルとしてのバンパイアもの、の観点から言うと、60-70年代のTVで量産されたキワモノとしてのバンパイアから離れて、モンスターとしての本来のバンパイアのあり姿に振り戻した、という功績があるのと、これに加えて子供が表象するイノセンスとその反対側にイーヴィルを置き、イーヴィル(モンスター)がイノセンスの崩壊・喪失をもたらす、というところまで踏みこんだドラマになっている、と。
そして窓ガラスの向こうからカリカリやってくるあれって、居間でTVに向き合う人たちを背後から... ていう点で位置関係としてもおっかなくて極めて的確なのだと。

冒頭にグアテマラの教会で聖水を手にしようとしている男ふたりがいて、話しはその2年前のメイン州の田舎町Salem's Lotに移って、その中心にマーステン館があって、そこにライターのBen Mears (David Soul)が現れて、怪しげな骨董屋 (James Mason) が店を開こうとしていて、館には大きな箱が運びこまれたりして、その場所のその動きのまわりで住民がおかしくなったり犬や子供が消えたりしていって、後半になるとその災厄ははっきりと住民の間に広がって、最後には善玉も悪玉もみんな館に吸い寄せられて向かい合わないわけにはいかなくなる。

なぜ、なんのためにあの町のあの館が選ばれ、そこに骨董屋が来て作家が現れたのか、空を飛ぶのとどんよりするのと凶暴になるのと何がどうなってそうなるのか、そもそもあの青くてでっかいやつってなに? 誰?とか、なにひとつわからないのだが、それらが夜の闇の向こうでゆっくりと動めきながら育ったり繁ってきて、その薄ぼけた闇の感触は窓ガラスのカリカリも含めて自分がついさっきまで見ていた夢のように生々しく伝わってくる。 そして最後に明らかになるマーステン館のとてつもなくやばい内観 - 捩れた仕掛中の剥製とかねっとりこびりついた埃とか、これじゃああんな化け物だって棲むわ、ていう。

そして魔物は杖の一閃とか光の一撃で魔法のように消えてくれない。 現れ出たときのねちっこさと同様、杭をぐいぐい押しこんでねじこんで、ようやく静かになってくれて更に館ごと焼きうちにして、へとへとになるのだが、でもまだ終わらないの。 そうやって連中は生き延びてきたのであって、でもそれって我々も、なのよね。

どこまでもすばらしくおっかなかった。 見ることができてよかったー。 これが79年 ...

9.06.2017

[music] Waxahatchee

4日の月曜日の晩、IslingtonのThe Garageていう小屋でみました。
地下鉄のIslinghtonの駅を出てすぐの道路の反対側、こんなに駅前にあるとよいねえ(..新代田 ?..)
ほんとにただのガレージみたいなとこで、広さは恵比寿のリキッドくらい、かなあ?  Sold Outしてた。

ほんとに不勉強で失礼でごめんなさいなのだが、アラバマの河の名前であるらしいWaxahatcheeをなんて呼ぶのかわからずに適当に「わちゃくちゃちー」とか呼んでて、でも彼女たちの新譜"Out in the Storm"はとっても素敵なので、ここんとこずっと聴いている。
女の子バンドとしては、Girlpoolと並んですばらしく好きで、このときめきってBlake Babies以来かも、とか。

20:30に前座のAllison Crutchfieldさんが3ピースの女の子バンドで出てきて、あーこのひと、Mergeから出ている、あのおかっぱ娘だ!と思って(こっちのライブハウスのって前座が誰とかちゃんとアナウンスされないのよね)、これも怠けてぼーっとしてんじゃねえよ、と後で頭をぼかぼかやったのだが、彼女がWaxahatcheeのKatie Crutchfieldの双子の妹だなんてちっとも知らなかったわ(威張るな) - ぜんぜん別々の人たちとして、どっちもいいよねー、と思っていたのだった。
その辺は反省するとして、音は彼女がギター半分くらい、キーボード半分くらいづつを弾き語りして約30分、軽快に走り抜けるかんじ。

21:40くらいにWaxahatcheeが出てきて、Allisonさんのバンドまるごとに、Katieとリードギターを加えた全員女子の5人編成。 KatieとAllison以外はちゃんとジャケット着てタイしてメガネしたりのおしゃれさんで、Katieはぶかぶかの白にぼわーんと広がる髪の毛がかっこよい。

"Recite Remorse"から始まって、音的にはべつに何ひとつ新しくない、CMJのカレッジチャートで30年前にかかっていたような音、て言っちゃってよいと思うのだが、たぶん今のは下のNY Timesの記事にあるようにZineとかも含めたD.I.Y. sceneとの関わりのなかでキノコのようにもこもこ出てきているような気がする。 それはそれでぜんぜんよいし、誰も彼もがLordeやTSやKPや「歌姫」である必要なんてまったくないのだし、好きなようにぶちまけて思いっきりやったれ、って。

https://www.nytimes.com/2017/09/04/arts/music/allison-katie-crutchfield-interview.html

KatieとAllison姉妹の力強さ - ギター2台 or ギター & キーボード and ヴォーカル - ときたら相当なもので、2人の発する音量だけで全体の8割くらいカバーしてしまうかんじなのだが、バンドの音の厚みとやかましさがこのふたりを揺さぶってその揺り戻しが音の幅をパンクにカラフルに押し広げ、真ん中くらいの"Never Been Wrong"から終わりまでは一心不乱に没入していくふうで、特に煽ったりするわけでもないのに、ただひたすら気持ちよかった。 別に女の子とかD.I.Y.とか関係なく。

アンコールは1回 - 3曲、23時少しまえに終わった。

Girlpoolのライブは別の小屋で7日にあるのだが、別のがあるので行けないや。

11月にはここでMetzがあるの。


R.I.P. Holger Czukay. 会いたかったなー。 
“Persian Love”を大音量でかけたいのにまだオーディオがない。

[film] American Made (2017)

1日の金曜日の夕方、BBC Promに行く前にCurzonのVictoriaで見ました。

"Tom Cruise"で"American Made"、なんかの冗談みたいよね、と思っていたら本当に冗談みたいな本当のお話だった。

70年代の終わり、Barry Seal (Tom Cruise)はTWAの旅客機のパイロットで、技術はあるけど退屈していて、そんなある日、CIAのMonty Schafer (Domhnall Gleeson)が声を掛けてきて、向こうが用意した小型の飛行機で中南米に飛んで、機に仕込んだカメラで現地の写真を撮ってこい、て言われて始めたら一回の飛行で結構お金をくれるしもっともっと、て言ってくるので止まらなくなって、そうしているうちに今度はコロンビアで声をかけられて、米国までコカインを運んでくれないかと言われ、これも危険だけどがんばって、そうしているうちにニカラグアのコントラへの武器輸出とかノリエガからの機密情報とか、あの辺のやばい国々の闇の物流全般を束ねて請け負う、そういうビジネスを始めるの。

やがてそれまでしょぼかったBarryの生活はいきなり豊かになって、はじめは疑ってやかましく食ってかかった妻Lucy (Sarah Wright)も何も言わなくなって、そのうちやっぱり当局に怪しまれてしょっぴかれるのだが、なぜかするりと釈放されてしまう。 もちろんそういう生活もずっと続くわけではないのだが。

カーター政権の終わり頃に始まって、レーガン政権の頃に全開になり、ブッシュ・シニアからクリントンを経てG.W.ブッシュまで。
歴代の大統領を跨って共謀が謀られて、なんとしても維持することが求められた(中南米諸国に対する)アメリカ最強、絶対優位の神話、それを裏でこまこま支えていたのはこんな程度の小型機飛脚ビジネスで、それを成り立たせていたのはTom Cruiseのあの笑顔だったのだから論理的な帰結としては誰がどう見たってTom Cruise最強、としか言いようがなくなってしまうのだが、そこにべつに異論は...  ないか。

やがてやばいことになるのを察して折々にビデオで自撮りしていたBarryの告白をベースに展開していくので、ところどころビデオの粗めでぺなぺなした映像(特にレーガンのニュース映像とか)がこの(当時の政界を巻きこんだ)企みの薄っぺらいイメージを代表しているようで、それはそれで成功していると思った。 ビデオのぺたんこな映像と彼の操縦席からがたがたした揺れと共に見下ろされる赤茶けた中空の景色、これが世界の像のすべて。 まだ地球をスムーズに丸く覆うネットなんて、ない。 発信だの共有だの、それってなに? の世界。

これらを通すことでオバマ以降のアメリカ - グローバル経済の拡がりに伴う米国の影響力低下とか("American Made"の)劣化とかそれに伴う混乱・混沌とか - その反動としてのトランプまで - もくっきりと見えてくる。 あの頃は幸せに笑っていられてよかったねえ、というか、笑っていられた時代のことを今のうちに笑っておく、というか。  
監督のDoug Limanにとっては、このふたつの時代の遷移はTom CruiseからMatt Damon (Jason Bourne)への移行、として説明できたりするのだろうか。

自分も90年代の中頃、パナマとかコロンビアとかガテマラとかエクアドルとか、マイアミをハブに往ったり来たりしていた時期があったので、とても懐かしいとこもあった。 飛行機から見る景色はあんなふうだったし、突然意味不明の、わけわかんないようなことばかり起こるし。
また行きたいなー。

9.05.2017

[music] Stax Records: 50 Years of Soul

1日の金曜日の晩、BBC Promsの65番で、Royal Albert Hallで見ました。
Lateプログラムで、Doorが21:45、Startが22:15、Endは23:30。

チケットは割と早くから無くなっていて、でもこれはきっとぜったい出るはず、とつけ狙っていたら1週間くらい前に空きが出たので取った。 ステージ&花道のほぼ真横、£30。 5m先にBooket T. Jonesのうしろ頭、その隣にギターを抱えたSteve Cropperが座っている。 ... ほんとにこんな値段でいいのか。

1967年の4月〜5月にStax/Voltが英国を含むヨーロッパツアーをしてから50周年をお祝いするライブ。
初の上陸時にはBeatlesが空港に車を出してくれて、バックステージにも来てくれたのだという。

バッキングはJools Holland & his Rhythm & Blues Orchestra、ていう大編成のコンボで、Jools Hollandていうと、自分にとってはSqueezeのキーボードなのだが、いまやこの人はTVの音楽番組のホストで、米国だとPaul Shafferみたいな位置にいるの。 あと、同じくSqueezeの爆裂ドラムス、Gilson Lavisもここにいる(ついに見れたよう)。

このバックで、シンガーとして登場するのが、Sir Tom Jones, Sam Moore, Eddie Floyd, William Bell, Ruby Turner, Beverley Knight, James Morrisonなどなど。 ゲスト奏者としてBooker T. JonesにSteve Cropper。  この編成であればOtis Redding もWilson PickettもIsaac HayesもDave Praterも幽霊としてわらわらステージに降りて一緒に踊っていた(のが、見えるひとには見えた)はず。

BBC Promsのサイトに動画とかライブまるごととか、いっぱいUpされているようなのでそちらをごらんください。

Tom Jonesとあとふたりによる"Sweet Soul Music"から始まって、誰もが知っている名曲ばっかし。
それから金ラメのジャケットで殿山泰司が蘇ったようにしか見えないSam Mooreによる "Hold On, I’m Comin’" とか"Soul Man"とか。
"Soul Man"のイントロのギターが聞こえたとき、しぬかと思ったわ。 "The Blues Brothers"のあれとおんなじなんだよ。(あたりまえ)
Eddie Floydは、"Knock on Wood"とか"634-5789"とか。
みんなとにかく体はよたっていたけど、声はまったく枯れていなくて、伸びるは響くは。 
Tom Jonesさまの立ち姿なんて神としかおもえない。

ハイライトは人それぞれだろうが、Tom JonesとSteve CropperとBooker T. Jonesの3人だけで静かに演奏された"(Sittin' On) The Dock of the Bay"としか考えられない。 Steve Cropperのギターが闇を裂いて痛切にでも柔らかくぶっ刺さってきて、最後に"Wastin' time..."を繰り返すところで泣きそうになって、これまでこの曲ってどこがよいのかあんまわからなかったのだが、はじめてわかった気がした。
Soul Music って、そういうふうに来るんだよね。

このような老人たちを迎え撃つべく英国の若手シンガーもがんばっていて、James Morrisonによる"Try a Little Tenderness"とか、やんやの喝采だったし、R&Bを懸命に熱唱する若者って、ふつうにいいよね。

聴きたかったのはほとんど聴けたかな、あ、"In the Midnight Hour"はやらなかったなー。


そういえば書いていなかったが、8月19日の晩、同じPromの46番でSchoenberg の"Gurrelieder" - 「グレの歌」ていうのにも行ったのだった。
指揮はSir Simon Rattleで、2時間びっちり、独唱いっぱいに120人くらいのコーラスに、ものすごい編成のオケが終始わんわんうなりをあげてて、シェーンベルクて、初期にはこんな大編成の大仰な、プログレみたいなやつもやっていたのね、だった。
(クラシックは好きなのだが、聴いて、いいなー、で終わってしまって、きちんと憶えていないことが多い。だめよね)

[film] Rough Night (2017)

8月31日、木曜日の晩、Islingtonのシネコンでみました。
まだ公開されて間もないのにロンドンの繁華街ではもう上映されていないの。

2006年、大学の同窓のJess (Scarlett Johansson) , Alice (Jillian Bell), Frankie (Ilana Glazer), Blair (Zoe Kravitz)の4人はバカなパーティで絆を確かめあって、そこから10年後、Jessは政治家になるべく奮闘していて、更に恋人のPeter (Paul W. Downs)と結婚しようとしていて、AliceはそんなJessのために週末、マイアミでのリユニオンを計画して、4人とオーストラリアからPippa (Kate McKinnon)が参加する。 ビーチ沿いの一軒家を借りてドラッグでハイになってお約束の男ストリッパーを呼んだら、そいつがちょっとタチ悪い奴でJessが困ってしまったのでAliceが横に無理やり入って、そしたらそいつは家具に頭ぶつけて簡単に死んじゃうの。 で、どうするどうするでパニックになり、でもドラッグやってるのでまともな方向にはいかなくて、とりあえず全員の携帯を捨てて、弁護士のおじさんのところに連絡したらとにかく死体を隠しとけ、というので、更にじたばたするのだが、隣の邸宅に住むエロしか頭にないようなDemi MooreとTy Burrellのカップルが絡んできたり、地元からは突然Jessと電話が通じなくなったPeterがやはりパニックになって、オムツ巻いてRedBullがぶ飲みしながら夜通し車で向かってこようとしていて、そんな彼らにとって最悪の週末になるか、なのだが果たして -

単になんとか死体を片づけて、なかったことにしてよかったよかった、じゃなくて、もういっこ大きなうねりがきて、簡単には終わらせてくれないとこもよいかも。

全体としてお下劣な下ネタのオンパレードだし、きゃーきゃーやかましすぎるし、死体ころがしを含めてストーリーもやや荒唐無稽すぎるし不謹慎かも(そうは思わないけどね)だし、打ち切りになりそうな理由はなんとなくわかるのだが、でもおもしろいよ。
真面目で人目を気にしてばかりのJess, 愛されたくて愛したくてたまらない暴走お姉さん肌のAlice, 腕組みアクティビストのFrankie, セレブ妻だけど満たされてないBlair, どこまでも得体の知れない異邦人のPippa, 思いこんだら一直線シンプルバカのPeter,  とかキャラクター置いたらそれぞれ勝手に動きだしてしまうかんじが心地よいし、こういうのってこれくらい過剰でちょうどよいの。

女の子のドラマとしては誰が誰のことを想っているのか、とかそれが裏切られたときの痛さ切なさとか、その果ての闇とかまでちゃんと描けているので、悪くないし、反対に出てくる男どもはどいつもこいつもしょうもないバカばっかしなので、なんだかとっても気持ちがよいの。
例えば同系の"Bridesmaids" (2011)ほどの完成度はないけど、よくもこの5人を揃えたもんだと思うし、"Rough Night"なんだからこんなふうでいいんだわ。 ひょっとして女子版の"The Hangover" (2009 -2013)あたりを狙ったのかしら、と少しだけ、いま思った。

あとはどこまで行っても、なにをやってもぎこちなくて不器用なScarlett Johansson - “Ghost World"(2001)の頃からの、あああたしなにやってんだろ、のおろおろしたかんじがとってもよく出ていて、いいの。 彼女をもっとコメディで使ってあげるべき。

9.04.2017

[film] Final Portrait (2017)

8月28日、日曜日の昼、Picturehouse Centralで見ました。

歿後50年のAlberto Giacometti展を日本でもTateでもやっているし、丁度よいかんじ。原作はみすず書房から出ている(今は品切れ?)『ジャコメッティの肖像』。著者のアメリカ人ライターJames Lord (Armie Hammer)が肖像画のモデルとしてGiacometti (Geoffrey Rush)のアトリエに通った18日間を時系列で綴ったもの。 監督は俳優のStanley Tucciさん。

64年、Giacometti は亡くなる2年前、60をとうに過ぎて当時の美術界ではぶっちぎり、文句なしの大スター、大御所なので少しは枯れた、マスターぽいナリや振舞いを見せるかと思いきや、底抜けどうしようもない我儘したい放題の風狂老人と、アメリカに帰国しなきゃいけないのに老人に好き放題に振り回されて滞在延期を繰り返してばかりの真面目なアメリカ人のまったくもう(溜息)なドラマに仕上がっている。

アトリエに入ると動物園の熊のようにうろうろ動き回り、イーゼルの前に座れば頭をかきむしって4文字言葉をまき散らし、ようやくできあがってきたと思ったら塗りつぶしてちゃらにして、愛人のCaroline (Clémence Poésy)がしょっちゅう遊びにくるので中断され、そのたびに妻のAnnette (Sylvie Testud)の機嫌が悪くなり、おまえら結局は金かよおら、みたいに開き直って札束をまき散らす、そういうのが通うたびごとにぐるぐる回って繰り返されるので、捗らないったらない。

それらを通してGiacomettiの絵画や美に関する思想や思いが搾り出されてくるのであれば我慢もできようが、そういうのはぜんぜんなくて、彼がブチ切れる前にこっちがブチ切れてモデルなんかもうやらん! て言ってもよいのにJamesは自分で滞在の延長をしているのだからご愁傷様としか言いようがなくて、でも最後のほうでは友情みたいなものも感じられる気がしたのでよかった、ということにしようか、と。

でもやはり一番の見どころはふたりの友情物語、なんかではなくてGiacometti自身のめちゃくちゃぶりに狂った老人ぶりで、それらの挙動が何かを生み出しているとはとても思えないのだが、展覧会の充実ぶりときたら問答無用にすごいので、この落差はなんなのか、と。 彼が常にアトリエに籠りきり、人間嫌いの孤独な老人だったのならわからなくもないのだが、あの狂騒が常態なのだとしたら、なんか痛快なじじい、としか言いようがない。  あの極限までそぎ落とされたひょろひょろの直立像が勝手に動き出す - とまでは言わない。 あくまでもJames Lordの目が捕えた晩年の彼、の姿、くらいに見ておく、でよいのではないか。

James Lord、演じるのはArmie Hammerで美化しすぎじゃないか、と思ったのだが、本人もぜんぜん堂々とした美形さんだったのね。

で、Geoffrey Rushって、こんなふうに変に凝り固まった(ちょっと怖い)老人を演じるのがうまいなあ、って。 前にそう思ったのは"The King's Speech" (2010)の先生の役だったけど。

矢内原伊作も少しだけ出てくるのだが、あれじゃただの怪しい東洋人でしかなくて、そこはちょっと残念だったかも。

音楽はEvan Lurieさんで、なかなかよかった。

TateのGiacometti展、終わる前にもう一度行かねば。

9.03.2017

[film] The Naked Civil Servant (1975)

8月26日の晩、BFIの"Gross Indecency"の特集でみました。
20世紀英国の文人(ライター、語り部 ? なんと言ったらよいのやら)、Quentin Crisp (1908 - 1999) )の68年の同名の自叙伝をTVドラマ化したもの。(をリストアしていて画面はとてもきれいだった)

冒頭に撮影当時の本人が登場してチャーミングに挨拶をしてからJohn HurtによるQuentin Crispのお話に入る。 お堅い、しっかりした家柄と教育で育てられたものの女装や化粧をやめることができず、家を飛びだして街角で拾われてSOHOのカフェに連れられていくと同じような仲間がいて、住むところも転々だし恋人も変わっていくし、まだゲイは非合法の時代だったので当然のように絡まれたり虐げられたり襲われたりは茶飯事で、そのたびにぼろぼろになるのだが、ぜんぜん逃げないの。 いや、もちろん暴力やいじめからは逃げるんだけど、自身のそういう習性・風貌・スタイルがそういう野蛮を呼びこんでしまうことに対しては毅然と、絶望も逡巡もなく淡々と逃げずに貫き通していて、その諦めの良さというか悪さというかは天晴としかいいようがなくて、しかも本人はそれを誇示したり押しつけたりするような素振りをこれっぽっちも見せずに笑っている。

タイトルの"Naked Civil Servant"は彼が生計のためにやっていたヌードモデルのバイトのこと(他にも男娼とかいろいろ)なのだが、いろんな意味でとても的確なものだと思って、そこからの連想でIggy Popのことを思った。"The Idiot"の、野生の圧倒的な明るさ、ポジティビィティと、それらが呼び込む有無を言わせない正しさと。

"Sexual intercourse is a poor substitute for masturbation." て軽々言っちゃうとことか。

この作品で BAFTA Television AwardsのBest Actorを受賞しているJohn Hurtのすばらしさ。これを見ることでQuentin CrispとJohn Hurtというふたりの個性が美しく、鏡のように向き合う瞬間に立ち会うことができる。

もともとこの作品の評判は聞いていたのだがここまで感動させられるものだとは思わなかった。画面を通してだけど素晴らしい人(人々)に出会ってしまった、という歓びが来て、米国にいたとき、本人を見たかったなー、としみじみ。

ちなみにStingの名曲、"Englishman in New York" (1987) て、彼のことなんだよ。

併映で、これもTVの”World in Action” というシリーズで放映された27分のドキュメンタリー “Quentin Crisp” (1970) も上映された。TVクルーが彼の自宅に来てインタビューをして、帰るまでをお茶目なかんじで記録したもの。 喋っている内容は"Naked.."で描かれたようなことが殆どだったのだが、彼のゆっくりした喋り方、どこまでもGentleな物腰、おしゃれな服装にやられてしまう。ほんとにびっくりするくらい素敵なおじいさんなのだった。

9.02.2017

[film] Logan Lucky (2017)

もう9月かあー。
8月26日の土曜日の午後、West Endのシネコンでみました。

"Behind the Candelabra" (2013) 以降(その前から?)、もう監督やらないもん宣言をしていた気がするSteven Soderberghの監督作。

建築現場で働くJimmy Logan (Channing Tatum)は、元アメフト選手だったけど怪我してやめて(足を引き摺っている)、妻と一人娘は金持ちのところに行っちゃって、でも娘を溺愛してて、そんなある日現場をクビになって憮然として弟のとこにいく。 弟のClyde Logan (Adam Driver)は、イラク戦争で左腕を失って義手でバーのバーテンをしていて、Jimmyが来たときも絡まれた連中と喧嘩しちゃったりして、要はふたり共どん詰まりで明日がなくて、これはもう悪巧みして一攫千金しかないだろう、てなる。
Jimmyがクビになった現場はでっかいレース場で、レースの日になるとレジの裏から絡みあったパイプを伝って札束を運ぶシューター(最近の子はしらないだろうけど、昔はふつうにオフィスにあった少し離れたとこに紙を飛ばす仕組み)があるので、カードの回線を壊してキャッシュのみにして、地下にあるその集約ポイントに向けて集まってくる現金を別のバケツに、と計画を立てて、実行のため獄中にいる爆発物専門のガラ悪いJoe Bang (Daniel Craig)を訪ねて、彼の弟ふたり(とってもアタマ悪そー)も仲間に加わり、概要としてはレースと盗みの当日のその時間だけ、Joeを牢屋から出して集金が終わったら彼を戻すようにする、というもので、その手引きのためにClydeはドラッグストアに車ごと突っ込んで自ら牢屋に入り、獄中の面々とも共謀してその計画を練っていって、当日がやってくる。

当然のように想定していないことが起こったり想定してない人物が現れたり、掛け違えて躓いて転んで、時間は迫って、さてどうなるかー。

クセのありそうな複数の連中が目配せして共謀して、さくさく作戦を遂行していく、というと誰もがOcean's 3部作(2001, 04, 07)を思い浮かべると思うが、こっちはクセはあるけど、 George Clooneyみたいな自信過剰な確信犯とかその道の卓越したプロはいなくて、ちっともゴージャスじゃない、村のチンピラみたいな寄せ集めばかりで、それを迎え撃つ(or 守る)敵側もふつーの村の警察くらいで、渦を巻き起こす謎の美女とか愛人とかも出てこなくて、かわりにJimmyのかわいー娘がいる、くらい。

うまくやって現金をモノにできるのかのはらはらどきどき以上に、それをどんな連中がどんな顔して切り抜けたりごまかしたり取り繕ったりするのか、という、そのリレーとかチェインリアクションとかアンサンブルがこのお話のコアで、いつものDavid Holmesの軽快な音楽がそこに乗っかってくるからひたすら気持ちよくて楽しいのと、真ん中の3人 - "Magic Mike"(2012)に続き、金がいるんだのよくわからない切迫感を湛えたChanning Tatum、何考えてるんだかわからない(Bob SegerのT着てる)Adam Driver、つべこべ言うとぶっ殺すぞおら - 五分刈り白髪のDaniel Craig - を見ているだけで何かしでかしそうでたまんなくなる。

そして最後のほうになって現れるSarah Grayson (Hilary Swank)の一番ふつうそうで実はそこがまたやばそうな臭気もまた。

愛も希望もあんまないけど、こんなふうに軽くて痛快でけらけら笑って見れるのって、最近あんまないよねえ。

そしてまたしてもJohn Denverが。 犯罪映画とJohn Denverの相性ってなにか。