8.30.2023

[film] Gloria (1980)

8月23日、水曜日の晩、下高井戸シネマで見ました。

あれこれ見れていないいろんな場所でのJohn Cassavetes特集、この作品くらいは見ないと、Strangerのも行かないと、って途方に暮れている(見たいよう.. でも.. )状態。

MSGでPatti Smithが最後に演奏した”Gloria”がすばらしく新鮮に響いてまだ耳に残っているから、というのもあった。
“G- L- O- R- I- A- - G.L.O.R.I.Ai !!” って口ずさみつつ。

女優Gena Rowlands - 監督John Cassavetesラインの作品で(”Faces” (1968)と”Minnie and Moskowitz” (1971)をどうするのよ、は置いておくとして)、“A Woman Under the Influence” (1974)があって、“Opening Night” (1977)があって、この作品があって、最後の”Love Streams” (1984)がくる。だいたい3年の間隔を置いて作られてきたGena Rowlandsを中心に添えた女性映画 - ”Love Streams”は主人公じゃないかもしれないけど、テーマをぶちまけるのは彼女 – のなかで、”Gloria”はちょっと特殊で異色で、それは”Gloria”という固有名だから、ということに尽きて、GloriaのありようはMabelやMyrtleやSarahとは違っていて、その違いってなんなのだろう、というところを考えたりしている。ストーリーとしてのわかりやすさ、ジャンルものである、などはあるとしても。

NYのサウスブロンクスで、買い物から荷物を抱えて戻ってきた主婦のJeri (Julie Carmen)がアパートの入り口で見るからに、の恰好の男とすれ違い、はらはらしてエレベータからドアに向かうと夫で会計士のJack (Buck Henry)はもうだめだ、って明らかに取り乱して諦めてて、そこに同じフロアのGloria Swenson (Gena Rowlands)がコーヒーの粉を貰いにドアをノックしてきたので、息子のPhil (John Adames)とJackがFBIに横流ししていたマフィアの帳簿を預けようとする。

Gloriaは子供なんて好きでもないしこんなのに巻きこまれる面倒なんてご免だし、Philもなんで自分ひとり? って嫌がるのだが、やばそうな連中 – リアルにそういう人たちだったらしい - がJackのところになだれこみ、やがて銃撃の音が響いて近寄れなくなり、アパートから出るGloriaとPhilの姿がタブロイドに捕らえれて、彼らは否応なく町中を逃げて彷徨うことになるのだが、一家を皆殺しにしたマフィアは帳簿を持ったGloriaとPhil - 顔や姿はわれてる - を追ってくるので、タクシーでマンハッタンのアパートに向かって、でも一箇所に長いこといられそうにない。

そうやって路上や地下鉄を抜けて逃亡していくなかで明らかになっていくGloriaの過去 – 追っかけてくるギャングの愛人だったり老ギャングが説得にきたり - とか、Gloriaはやっぱりあんなガキとはずっと一緒に暮らせないし、Philは自分は一人前の男なんだからおばさんの世話なんていらない、って出ていってしまったり、いろいろある。

彼女は前の“A Woman Under the Influence”でも“Opening Night”でも、「近寄るな触るな危険」マークだったわけだが、ここでもはっきりとそうで、でもその理由は銃を持っているから、だけでは勿論なく、やはり彼女がなにを思っているのかさっぱりわからない、というのは続いていて、それがこれまでと変わらずオトコたちを苛立たせて、そしてなんといっても痛快なのはそんな愚かな連中に銃をぶっ放して中指をつきたてて去っていくその瞬間で、前2作でもずっと頭のなかでそうしてきたに違いない彼女がようやくフィジカルに! というのはあるのかも。実際にめちゃくちゃかっこよいし。彼女のUngaroのドレス。

冒頭、NYの空撮 – どうだ見ろこれがオレの街だ! のような堂々としたかんじではなく、低空で天使がひかえめに見下ろしているような、視界よくなくてごめんこんなもんなのよ.. みたいなかんじで、そこから降りてきたNYの路上もざわざわごちゃごちゃしていて、もしここではぐれたらやだな怖いな、に溢れていて、GloriaとPhilが地下鉄ではぐれた時も、もう絶対に再会は無理だわ、って思った。けど、ふたりは案外あっさり、あっけなく出会えてしまう。そんな街なのよ。

ラストの墓地での再会のとき、Gloriaは既に亡くなっているのではないか問題、でも亡くなっていたのなら鬘をつける必要なんてないはずだし、あれはかつての彼女がリボーンしただけ – もっと子供好きになったとか - なのではないか、って。

John Cassavetes映画に出てくる女性がタフなのはいつもの通りだけど、ガキどもも相当目障りで小憎らしい奴らとして出てくるよね。そして男性はみーんな愚かでクズで臭そうで。この愛すべきトライアングルもまた。

8.29.2023

[film] Les naufragés de l'île de la Tortue (1976)

8月22日、火曜日の晩、ユーロスペースのジャック・ロジェ特集で見ました。

アメリカから戻った翌日、(自分の)ヴァカンス後の泥のように溜まった疲れ & 仕事したくないーをどうにかするには、こういうのをぶつけるしかない。 邦題は『トルテュ島の遭難者たち』。英語題は”The Castaways of Turtle Island”。 ”Du Côté d'Orouët” (1973) -『オルエットの方へ』の次となる長編。なかなかとんでもなくて、大好き。

冒頭、暗い部屋の中で黒人女性のヌードのポスター、ぐんにゃりサイケな照明などがある部屋で悶々としているJean-Arthur Bonaventure (Pierre Richard)がいて、彼の嫉妬深い妻をどうにかするために架空の恋人をでっちあげてみれば、現れたのはポスターの女性とそっくりの女性で想定と違って強引で、あれこれやってられないわ、になってそこから逃げるように勤務先のツアー会社で思いつきのように架空のヴァカンス・ツアーをでっちあげ、ロビンソン・クルーソーよろしく無人島でのサバイバル体験、みたいな企画をてきとーに立てみたらあっさり通ってしまい参加者も集まって、Jean-Arthurに同行する予定だった社員はそいつの弟 - 'Petit Nono' (Jacques Villeret)に替えられたりしたものの、ツアーが始まってしまう。

まったくきちんと計画を立てていなかったので、なにもかも想定外の行き当たりばったりで、なんか起こればPetit Nonoが適当に動いてなんとかするか、文句を言う客を放置するか - 客は離脱するわけにもいかないので、ずっとその辺にいるし - で、全体としてはめちゃくちゃ、目的の島に着いてからも別に無人島でもないしサバイバルもないしふつうに不便なだけだし、今ならSNSでさらされて大炎上しそうな事態が次から次へと起こって退屈はしない。「トルテュ島 – 亀島」というありもしない島の風土などが現れるわけでも、そこでの「遭難者たち」なんて人々が出るわけでもなく、このタイトルからしてツアー宣伝のそれと同じような詐欺まがいのでっちあげなのだが、全員がどんなにひどい状態になっても/されても、牢屋に入れられたってヴァカンスを楽しむんだから黙っとけ、みたいなやけくそでがむしゃらの意思で会社側も客側も結ばれていって、というか各自勝手に動きまわっていて、それはヴァカンスで新たな恋を、みたいのとはかけ離れた狂ったドキュメンタリーのようなノリを生んでいて、その狂いようときたら”Maine Océan” (1986)の比ではない。”Maine Océan”はまだ自分たちでなんとかコントロールできそうな余裕、みたいのがあったけど、こっちのはまるで戦争状態のような混沌が次々と襲ってきて - ヴァカンスなのに – 全員が狂った夢のなかにいるようで。なので、後から足されたというパリに戻ってからの話はなんだか白々しい。それもまた、ではあるのだろうが。

あと、全体をどうしようもなく怪しくしてしまっている(←ほめてる)のがツアー客でもないのに船にいてビリンバウをべんべん鳴らして歌っていたりするNana Vasconcelosで、歌は「バイーア」の地名も聞こえてくるDorival Caymmiの曲で、この危機的というのか野性的といってよいのかの状況にはまっていて楽しい。Nanaがこんなところに登場するとは。あと、Pierre Barouhもいるのね。Jacques Rozierのブラジル音楽人脈、少し気になる。

夕陽に照らされた船のシルエットからなんとなく“Apocalypse Now” (1979) -『地獄の黙示録』を思い浮かべてしまったのだが、あの映画も室内で燻っておかしくなったウィラードが扇風機を凝視するところから入り – 軍のミッションではあるが - 船で河を上って予測不能なありえない経験でかき混ぜてひとりひとりのタガが外れていって… 目指すは冗談のような「王国」だったりとか、Jacques Rozierがヴァカンス(人を生き返らせるやつ)を題材に撮ったやり口を戦争(人を殺していくやつ)に適用してハリウッド的なスペクタクルとして再編成したのが“Apocalypse Now”という戦争についての戦争映画、だったのではないか。 制作現場のありようがテーマに直接的な影響を及ぼすあたりも。

あと、'Petit Nono'の人って『カルメンという名の女』(1983)でジャムの瓶に指つっこんでなめなめしていた彼だよね。ゴダールも「監督」役で出てきたら(絶対馴染むし)おもしろくなっただろうにー。

8.28.2023

[film] Maine Ocean (1986)

8月5日、土曜日の午後、ユーロスペースの特集 -『みんなのジャック・ロジェ』で見ました。

この特集のタイトルはやっぱり素敵で、「みんな」にとって待望のヴァカンスの到来でありその映画である、というのと、彼の映画の基本にありそうな、それを見るみんなが緩く巻きこまれて単に主人公たちを見守る、というよりまず自分だったらどう動くか、動かなきゃいけないかのアタマになってしまう – なんたってヴァカンスなんだからさ – というみんなの楽しさへの期待に撚りあっていく、という点など。

前回(or 前々回?)の特集でやった『オルエットの方へ』(1971)は入っていないものの、見たことないのも忘れているのも多いので見ないと。『メーヌ・オセアン』、1986年のジャン・ヴィゴ賞を受賞している。脚本はJacques Rozierと女性弁護士役で出演しているLydia Feldの共同。

パリからナントに向かう夜行列車「メーヌ・オセアン」号にコートを羽織ったDejanira (Rosa-Maria Gomes)がばたばたと乗りこんで、それをなんか怪しいと思ったのか列車の検札長 (Bernard Ménez)と検札係のLucien (Luis Rego)のふたりが彼女の切符をチェックするとパチンをしていないし二等車の切符で一等車にいるし、いろいろ問い詰めても言葉があまり通じないので困ってて、その様子を横で見ていた弁護士のMimi (Lydia Feld)が声をかけて彼女を助けてあげて、検札組は面倒なのにあたっちまったぜ、というかんじで引き下がる。

それで仲良くなったDejaniraとMimiはこれから向かう先でMimiの引き受けた裁判があるのでそれを片付けてから一緒に遊びましょうか、って漁師のPetitgas (Yves Afonso)が起こした自動車事故の裁判の弁護にあたるのだが、法廷で言いたい放題べらんめえでぶちまけてしまったPetitgasの圧倒的敗訴に終わって、でも全員ちっともめげずに彼の住むユー島で寛ごうとすると、そこに検札長と検札係のふたりがちっとも楽しくなさそうに – でも一応休暇で現れたので、なんだてめえら、ってざわざわするのだが、それもNYからDejaniraを追いかけてやってきた興業主(Pedro Armendáriz Jr.)の登場で搔きまわされて、Dejaniraってすごいんだから見せてやるぞ、と島の公民館のようなとこにみんなを集めて歌と踊りのどんちゃん騒ぎが始まって…

ここまで、まあなんとてきとーにいいかげんに転がっていくことだろうか、こんなにぐだぐだの展開でよいのか、って思いつつもサンバの歌(Chico Buarque !)と踊りがくすぐられるように楽しくて – ここでのカメラの動きとか音の入り方とかぞくぞくするくらい素敵 - 他の村人たちと同様になにがどうなっているのかよくわかんないけど引きこまれちゃっていいのか.. いいよな! になってしまう不思議。パリの夜更けの改札からここまで、なんとおもしろい線が引かれてしまうことか。もちろんそれを引いたのはJacques Rozierなのだろうが、彼の作為のようなものはちっとも見えてこないの。

この後だって、検札長の歌をすばらしい!(←どこがすばらしいんだかわかんない)って讃えた興業主が一緒にNYに来ればスターにしてあげるぞ(←なにを根拠に言ってるのかわかんない)、って彼を口説いて、舞いあがった検札長は家族にそれを告げて支度を持ってこさせてもう仕事も捨てるぞ、って興業主の用意した飛行機に乗りこむのだが、滑走路を動きだしてから気の変わったDejaniraが飛行機に乗る、って言ってきたので検札長は飛行機から放り出されて勤務先である「メーヌ・オセアン」にとぼとぼ – これはこれで乗り物を継ぎながらの冒険だったり - 戻ることになるの。

誰が主人公なのか、お話しの軸となるのはなんなのか(教訓? 格言? 伝説?…)、まるで見えない、というか監督の作為なども含めてそういうのを回避するように動いていく – そうやって残されたものがなんなのか、というと、これこそが目の前にひろがるまっさらなヴァカンス! - どんなくだんないしょうもないことが起ころうとも上等よ! っていう状態に態度、そこに向けた決意ではないか。Jacques Rozierの映画に触れる経験って、その心地よさって、そんな陽光にさらされたまっさらのシーツみたいのが見えるからではないか、とか。(この映画の季節は冬だけど)

そしてそれこそが、「みんな」が映画に求めてやまない特上の興奮であり、Jacques Rozierをいつ何回見ても新しいと感じさせるなにかなんだな、って。

8.27.2023

[film] Elemental (2023)

夏休みがいってしまったので元のトラックに戻る。
8月4日、金曜日の晩、TOHOシネマズ日本橋で見ました。邦題は『マイ・エレメント』。Rom-comだと聞いたので。

本編上映前に短編の”Carl’s Date” (2023)が流れて、"Up” (2009)のおじいさんとわんこの日々が描かれる。これがまた、この時点でじーんとなる(させる)やつなのでこの後のは覚悟しておけ、ということなのだと思った。あの冒険から10年以上経って、あのガキがどうなったか見たかったかも。

Pixarのアニメーションだと、人間ではないキャラクターたちが暮らす都市のお話し、として”Zootopia” (2016) - 『ズートピア』があったし、人間界のお話しではあるがその頭の内側で起こるドラマとして”Inside Out” (2015) - 『インサイド・ヘッド』があり、その設定というか建て付けの説得力にどこまでのれるかどうか、という点からすると”Inside Out”はちょっと微妙できつかったかも。

今回のは「火」と「水」と「風」と「土」、それぞれ四大元素の属性をもった種族? - 人間の人種や民族よりそれぞれの溝は深く決定的に違ってて互いに相容れなさそうな区分のある世界で、この4族が共存するElement Cityっていう都市があって、それぞれの種族は自分たちでゲットーのような居住区域を作ってその中で暮らしている。なぜならそれぞれの属性は互いにとって危険かつ破壊的な要素を持っていたりするから。 (最初はこの設定、やや大げさで無理あるんじゃないかと思ったのだが、見た後だと案外こんなもんかもね、って)

なかでも「火」は誰からみても危険で忌み嫌われるところがあって、主人公の「火」のEmber (Leah Lewis)の一家はそれまで暮らしていたファイアランドから苦労してここに辿り着いて雑貨屋を始めて軌道にのせて、幼い頃からそんな両親の苦労を見てきたEmberは自分もそれを継ぐのだって当たり前に刷り込まれてきた。 のだが、ある日「水」のWade (Mamoudou Athie)と出会って、こいつとはムリムリ、だって「水」だしー、とか思いながらデートしたりしているうちに互いのことを本当に好きになってしまう。基本は主人公のEmber目線でWadeがなに考えてEmberに声をかけてくっついていったのかがあんま見えないのだが(水だからちゃらちゃらあんま考えてないのかも)。

ここまでで、アニメとは言えこんな設定をありとするかなしとするか、いろんなRom-comを見てきた者からすれば、こんなのありに決まっているのだし、むしろRom-comというのはこういう段差 - ホラーにおける「恐怖」のようなもの - を恋愛によって乗り越えるために存在するジャンルなのだからちゃんと見る、見届けるしかない。 というか、こうしたありようをわかりやすく示すために四つのエレメントを題材としてし持ち込んだのではないか、とすら思えた。

WadeとEmberの発火した恋はEmberの進路や家族 - 特に父親との関係も根本からひっくり返してしまう破壊的なもので - なんたって「火」だしね - Emberの自分の怒りを抑えきれなくなる性格と気性も晒されてしまったり、家族親族には困惑を、町には大混乱をもたらして、Rom-comの定石通りに、一度はすべてご破算になってしまったかに見えたのだが。でも火は消えないんだよ、っていうのと、たとえ炎上したって水が傍にあれば安心だろ、って - この辺よく考えたもんだなと思った。

監督のPeter Sohnはストーリーに韓国系移民としての自らの家族の経験も織り込んだそうで、だからか家業を継ぐ継がないを巡る確執のわかりやすさ - わかるけど日々の柔らかい呪いとなってのしかかってくる生々しさなどはくっきりと伝わってくる。きっと描きたかったのだろう。 この作品が公開当初はそんなでもなかったのにだんだん興収を伸ばして広がっていった話、とってもよいなー、

あんま関係ないけど、魔法使いサリーの雪だるまさんの話がずっとトラウマで、最後にああなったらどうしよう、ってはらはらしたのだがなんとかだいじょうぶだった。だいじょうぶだから。

あと、これもどうでもいいことだけど、ふたりのお墓はどうするんだろうか、とか。

8.25.2023

[log] New York - 0318

8月18日の午後、電車でマンハッタンに戻る途中の125th St.で地下鉄に乗り換えて86thでおりてMetropolitan Museum of Artに向かう。ふつうであれば、Neue Galerieは絶対に行くのだがいまはCloseしているし、Guggenheimもそんなでもないし、それをいうならMETだってそうなのだが、でもなんかは見たいし、くらい。

途中、昔Dean and Delucaがあった場所にButterfield Marketができていた(入らなかったけど)。むかしはLexington Ave.にあったグローサリーで、野菜のクオリティが(値段も)とんでもなかったとこ。

Richard Avedon: MURALS

Avedonの生誕100周年で1969年に彼が制作した壁画のようにでっかいポートレート – 集合写真3点を、その大きさのまま。ウォーホルのファクトリーのメンバー、ベトナム戦争を起こした政治家たち、ベトナム戦争に抗する者たち、など。このあたりからポートレートの意義やありようも変わっていって、こんなの今の若者たちが見ても広告写真としてしか見ないんだろうなー、とか。

Berenice Abbott’s New York Album, 1929

ヨーロッパ滞在を終えて母国アメリカに戻ってきたBerenice Abbottが、到着した1929年のNew Yorkになにかあるかも、と感じて、写真機を携えて変わろう(生まれよう)としていた「都市」を撮りまくった結果 - 266枚の小さなモノクロ写真たち。のちに”Changing New York” (1935–39)に結実する前のデモテープのような草稿のような作品群だが、彼女がなにを見て、なにに驚いていたのかがよくわかる生々しいドキュメント。他にWalker Evansの肖像とか、よかった。

あと、西洋絵画の通路になぜかFrederic Leightonの“Flaming June” (1895) が飾ってある。君は7年前にロンドンのLeighton Houseからプエルトリコに戻っていったのではなかったか?

Cecily Brown: Death and the Maid
Cecily Brown (1969 - )の50点。古典絵画や写真からの影響がわかりやすくわかるものからイメージが飽和して形と境界を失いぐちゃぐちゃになったもの – そうやって積まれた肉片の彼方や隙間に透けて見える死、などについて。ものすごい引力があって捉えて離さない。よかった。

In Praise of Painting: Dutch Masterpieces at The Met

METにあるオランダ絵画の古典を寄せて纏めたやつ。ただの館内改修対応だった。

Van Gogh's Cypresses
混んでいたからか館内の展示口近くで別途予約が必要で、QRコードからエントリーしたら120分後、とか言われたのでやめた。こんななら時間指定のチケット出せばよいのに。

ここからバスでLincoln Centerの方に行って”Passages”を見た。 映画館の裏手のGourmet Garageはまだあったので、スイカのジュースを買ってのんだ。


19日の土曜日、この晩、25:40にはJFKを発たなければならない。

朝、Morgan Library & Museumに行ったらまだ開いていなかった(10:30オープン)ので、近くのNew York Public Libraryに行ってまだ見ていなかったプーさんのぬいぐるみなどを見る。Hip Hop 50の図書館カード、ほしいなー。

Into the Woods: French Drawings and Photographs from the Karen B. Cohen Gift

19世紀のフランスの森や自然を描いたドローイングや写真を集めたもので、なんでこの時期の森などがそんなに魅力的なものに見えてしまうのだろうか。それは自然や森に対する人間の見方や接し方が変わってきたからなの、というのをわかりやすく。 というかフランスの森っていいなー。イギリスの森もよいけど。

Ferdinand Hodler: Drawings—Selections from the Musée Jenisch Vevey
スイスのMusée Jenischからスイスの象徴主義、世紀末画家のFerdinand Hodler (1853–1918)のドローイングを中心とした小規模の展示。なかでも恋人Valentine Godé-Darelの闘病から死に至るまでの肖像など。シンプルで粗いタッチのぶん、痛ましさが伝わってくる。

Bridget Riley Drawings: From the Artist’s Studio
Bridget Rileyは、Heyward Galleryでの大規模回顧展で見て好きになった。目の前で見ると画板上のキズとか歪みとか、そういうのがとてもキュートで、描かれている線の軌跡や揺れと併せてめろめろにやられる。

ランチはRubirosaっていうとこでピザを。アルグラの葉っぱ、辛めのトマトソースで食べるカラマリのフライ、縁がばりばりクラッカーのようにせんべいのように固いNYのぺったんこピザ。この3つがあればいつだってごきげんなので、この3つを食べてため息。日本にもイギリスにもこいつらはいない。

そこからいったんQueensに荷物を置きにいって、BrooklynのGreenpointに向かい、Oak St.から少し南に移転したAcademy Record Annexに行った。Brooklynでは3箇所め。引越し祝いでなんか買おうかと思ったけど、結構疲れがきててあんまなかったので買わず、よいこだった。

そこから更に地下鉄でCarroll Gardensの方に向かい、本屋 – Books Are Magicを覗いて(買わなかった)、17:00のオープンの頃にワインバー(だと思う)のAnaïsに入る。

ワインもお酒もほぼ飲めないのだが、ここにはワイン棚と本棚があって、ワインを買うように古本を買うこともできる。
古本、店の名前の由来であろうAnaïs Ninを含む20世紀前半の欧米作家の小説、詩、画集・写真集も少し、本のセレクションは個人的にどまんなかで、しかもどれもだいたい$10くらいで安いの。(本棚の奥にAnaïs Ninに引っかけたのかTrent Reznor氏の似顔絵が貼ってある。だれが描いたのかは教えてくれず)

更に店内にかかっている音楽がPavementにGuided by VoicesにWilcoにLCDに、90〜00年代の極上のくずみたいのばっかで、陽がたっぷり射してくる明るい店内でワインとチーズと古本にこの音楽って、地元にこんな店があったら毎日通うし、自分がお店開いていい、って言われたら絶対こういうのやる/やりたい、っていう見本のようなお店だった。5冊くらい買ってしまったが、酔っぱらってしまったら相当やばい。

旅の終わりは更に地下鉄で奥地に入り、Prospect Parkでやっている毎年夏の野外コンサートシリーズ - Celebrate Brooklyn! でJohn CaleとTomberlinのライブを。19:30からのTomberlinはバンド編成でゆったりたっぷり1時間。夕暮れの公園の森にふわーんと響いてよいかんじ。John Caleは飛行機もあってぜんぶ見れないことはわかっていたので、前の方に行って4~5曲くらい。

2018年にロンドンで見た時よりも音はより重く荒れてやかましいギターががりがりと鳴っていて、これが81歳のおじいさんの音かよ、って。 あとでセットリストをみたら、ここを出てすぐくらいのタイミングで”Heartbreak Hotel”をやっていた..  

最後の最後に地下鉄にやられたりしたが、なんとか飛行機には乗れて、月曜の朝4:30に羽田について、そのまま自宅からふつうに(はならないけど)お仕事した。

これで楽しかった夏休み報告はおわり。 次の4月のライブに向けて、それまでは生きのびたい。

[log] New York - 0316

8月16日水曜日の晩から19日土曜日の晩までのNYでのそのた。 時系列で。

NYに最後に行ったのは2020年3月、全世界規模のロックダウンが始まる直前で、あの時行っておいてよかった、しかないのだが、その後まさか3年半行けなくなるとは誰が想像しようか。

先週ロンドン便に乗ったばかりだったし、前週の時差ボケも出てくるだろうし寝なきゃ、なので機内映画はご飯食べながら1本だけ。

John Wick: Chapter 4 (2023)

170分もあった。前作のChapter 3で少しやりすぎじゃないかの感はあったが、ここまでくるともう無理、だった。いくらなんでも大量に殺しすぎ。Chapter 1の頃の俺の犬を殺したなー、はまだわからないでもなかったけど、組織の掟を破ったJohn Wickに世界中の殺し屋が押し寄せてきて、という古くからある任侠アクションを漫画的に広げただけ、なのだろうしゲーム(Matrix)の世界なのかもだし、あれらはゾンビのようなものだと思えば、なのだろうが、それにしても。 あれだけ狂ったようにいっぱい殺しておきながらあのラストってなに? しかなかった。 Donnie Yenも真田広之もなんかもったいないったら。


JFKからはAirTrain($8)とJamaicaからのLIRR(Off-Peak $5)でGrand Centralまで行ってみる。これまでタクシーかUberか、えんえん地下鉄か、の選択肢しかなかったけど、これはこないだのElizabeth Lineと並ぶ快挙、としか言いようがない。ここにくるまでに何十年かかってるんだよ!! はあるにせよ。

今回のホテルはライブのあるMSGから歩ける範囲、ということでChelseaにした。
チェックインしたのが20:30過ぎで、ここからの晩御飯はー、となると選択肢はそんなになくて、Cookshopにした(最後に行ったのは2011年だって..)。

とにかくもうPruneも、Porsenaも、Prime Meatsも、Pearl Oyster Barも(ぜんぶ”P” だな)、かつて大好きだったレストランはみーんななくなってしまった。もちろんそんなのどこでだってふつうに起こりうることだし、90年代から見ればもっとあれもこれも、なのだが、3年ぶりのこの場所で、改めて地道に探していかなければならないのか – いやもうそんな時間も体力も.. を何度も思い知らされてしまうのだった。

17日は10:30から”Oppenheimer”だったので、その前に、そのそばのVeselkaで久々のボルシェとパンケーキを。テラスの方でJohn Zohnさんと彼女もミュージシャンだとおもう女性がおしゃべりしていた。

映画の後は、そのまま12thを東に行ってAcademy Records → Mast Booksといういつものコースで、Academyは移転したBrooklynの方にも行かねば、だったので無理して買わず。Mast BooksではStéphan Crasneansckiの写真集 - ”The Encounter”。 Jean-Luc NancyやPatti Smithのテキストを収録。パウル・ツェランとハイデガーが出会っていたかもしれない黒い森のおはなし。

Mast Booksの並びにあって、T-MagazineやNew York Magazineの古いのを置いてくれていた怪しいデリがなくなっていたのがショックだった。

そこからバスで東に行って、J.Crewで当面の仕事着などをまとめ買いし、少し西の方に移転したMcNally Jacksonへ。昔のRizzoli Bookstoreがあったとこの近く。本屋ってほんとに好みだと思うけど、前の地下と1階に分かれていたほうが好きだったかも。ちょっとふつうの平屋建ての本屋ぽくなっちゃったかも。(本屋は1フロアだけだとつまんなくて、2フロアあると素敵で、でも3階までが限界主義) 雑誌も少なくなっちゃっていたし。

そこからFilm Forumに行って”Winter Kills”を見た。

晩御飯は、PruneのスーシェフだったNed BaldwinがつくったHousemanというところで、バーガーとかステーキの丁寧なつくりはさすがだし、デザート(桃のショートケーキ)もたまんない、と思う反面、やはりPruneの期待の斜め上から魔法としか言いようのない七変化の驚きを降り注いでくれたあのお皿たちにはまだ。 Gabrielle Hamiltonはなにをしているのか。Updateはないのか。

18日の金曜日、Strand Book Storeの開店(10:00)にあわせて飛びこんだものの、3階の古書コーナーが閉まっていてがっかし(前にもあった)。買ったのはJoan Baezの絵本 - サイン入り - くらい。

そこからMetro-Northで北の方に遠出すべく、Grand Central Stationへ。ここの地下のマーケットの並びも随分変わって、なんとVeselkaがオープン準備中でしたよ。

電車でハドソン河沿いを北上してTarrytownまで行ってそこから車で奥に入って、Blue Hill at Stone Barnsでランチ。ここに来るのは3回目くらい。蝉の声まで気持ちのよい夏の日で畑の方を歩いたり、牛をみたり(牛もこっちをみたり)、ここのカフェテリアのランチトレーで、ローストビーフ(ソースとか、なにもいらないの)と穀物のかたまりみたいにたまんないパンにエッグサラダに、ヨーグルトチーズケーキに。ここの晩のはとんでもないのだが、このお昼だけでもじゅうぶん。シネコンにいくとNYのこの辺の野菜をネタにしたと思われるキューピーのCMとか流れるじゃん、キューピーなんてお呼びじゃないのよ。

ここでいったん切ろうー。

8.24.2023

[film] Passages (2023)

8月18日、金曜日の夕方、Lincoln Center内のElinor Bunin Munroe Film Centerで見ました。
Metropolitan Museum of Artからバスで西に渡って南に降りる。これだけで楽しくてしょうがない。

できれば古いWalter Reade Theatreの方を再訪したかった – ここではPTAの”Boogie Nights” (1997)の70mm版上映をやっていた。すごく見たい。けど、時間がないんだから文句言わないしょうがない。
あと、次回の予告でやっていた特集 - ”Korean Cinema’s Golden Decade: The 1960s” - おもしろそうだった。これもすごく見たい。

“Oppenheimer”のような大作じゃない新作もなんか見たいな、って、でも時間もないので候補はほぼこれ1本、だった。Ira Sachsがパリで撮った新作。脚本は“Love is Strange” (2014)と同じくIra SachsとMauricio Zachariasとの共同。

冒頭、スクリーンにIra Sachsからの短い挨拶動画が流れて、3人のすばらしい俳優たち、これに尽きると。そうだよね、しかなかった。Franz RogowskiとBen Whishawが向かいあっているポスターだけでとんでもない臭いが。

Tomas (Franz Rogowski)は映画監督で、パリで映画を撮影していて(その映画のタイトルが”Passages”なのだが、この映画がこの後に大きくフォーカスされることはない)、俳優に対する演技指導も暴力的ではなくて辛抱強く的確にやっているかんじ。そんな彼が撮影現場を出て自転車をこいでパリの街を走っていく、そのクローズアップだけで、この人の身体の動きのとんでもないことがわかる。作中では肌にぴっちり張りついたどぎついめの服で登場して - なんか似合っているのでぜんぜんOKなのだが、Franz Rogowskiが誰かとハグしたときの背中の羽のような動き – こないだの『大いなる自由』(2021)にもあった - だけでも、十分見る価値あると思う。

彼は印刷屋に勤務するMartin (Ben Whishaw)と結婚していて同じアパートの部屋に暮らして、でもバーで出会った小学校で先生をしているAgathe (Adèle Exarchopoulos)とダンスしてそのまま親密になって、Martinのところに帰ってもそれを隠そうとはしなくて、前半はTomasとの関係を深めていくAgathe、Tomasから離れて冷めてこわばっていくMartinの様子が描かれ、その上に映画の仕事が被さって、忙しいのか自身の勝手な都合でAgatheのところに泊まったり、Martinのところに戻ったりしていくTomasがいて、どちらもそれが彼だからー のように諦められてて、Tomasはそれに甘えて好きにさせて貰っているような。

そんな複数の家の間の出たり入ったり追いだされたりを繰り返したのち、もう一緒には暮らせない、ってTomasはMartinのアパートを出てAgatheのところに身を寄せ、やがて妊娠したAgatheとは結婚の話もでてきて彼女の両親と会うことになるのだが、かっちり堅めの彼女の両親は、①時間に遅れて、②すごくやくざな恰好で現れて、③そのうちドイツに帰ってしまうかもしれないというTomasにおろおろして、そんなホームドラマ展開にうんざりしたTomasはMartinのところに戻ろうとするが、彼はもう作家のAmad (Erwan Kepoa Falé)と付きあっていてよりは戻せそうになくて、そんなTomasを見たAgatheはこりゃだめだ、って彼との間の子を堕してしまい...  というドラマとしては大昔からありそうな三角 or 四角関係のどろどろを描いたものなのだが、それをこの3人 – の身体と声が演じるとここまで深くおもしろい(ややおそろしい)ものになってしまうのか、と。

Tomasのアーティスト(映画人?)にありがちな不遜さ傲慢さ、Martinの生真面目な頑固さ、Agatheのしなやかな弾力、これらがにじり寄ったりぶつかったりハグしたりキスしたりだけでなくて、3人の - 男と男、男と女それぞれのセックスシーンが結構長めにあって – ご近所から来たと思われるおばさんたちがきゃーきゃー騒がしかった – その交尾、としか言いようのない変な具合に絡まったり固まったり、それぞれの身体をパサージュのように通り抜けているようで、その背骨とか脚とか含めて変な生物だねえ、というのがじみじみくるのと、Franz Rogowskiの、Ben Whishawの、Adèle Exarchopoulosの、それぞれの声、声の出し方って、それが彼らの演じることの根幹にあるように見えて、それが震わせる肉の強さも切なさもぜんぶ露わになっていて、なんてすごいことだろうか、と思った。

そして、ラストのTomasの自転車の走りときたら…

エンドロールのThanksにはOlivier Assayas とかKelly Reichardt とかBette Gordonとか。

8.23.2023

[film] Winter Kills (1979)

8月16日の夕方、Film Forumで見ました。邦題は『大統領の堕ちた日』。
Film Forumは70年代からある非営利系の映画館 - シアターは3つ - で、独立系の新作とレパートリーと呼ばれる旧作を上映しているところで、00年代の初め頃はほんとうによく通った自分にとっての映画の学校で、成瀬も溝口もここの特集で初めて知ったの。

ここはポップコーンもおいしいし、デリダが来た時に絶賛したというバナナブレッドが有名で、実際にLife Saverのおいしさ(でもキャロットケーキも好き)なのだが、今回は疲れたり眠かったりしたので食べず。でも始まるまでロビーでぼーっとしているだけでしんみり。ライトが落ちて予告が始まる前のジングルとかも、昔となにひとつ変わっていなくて泣きたくなる。こういうのって大事よね。

原作は“The Manchurian Candidate”のRichard Condonによる同名小説(1974)、監督はWilliam Richert、撮影はVilmos Zsigmond、音楽はMaurice Jarreとなんだか豪華で、でもプロデューサーのうち2人はマリファナの売人で、ひとりは封切り前に射殺されちゃっていたり、なんというか..  今回のリバイバルはQuentin Tarantino Presentsによる35mmのニュープリントでの上映だって。

1960年に暗殺されたアメリカ合衆国大統領 – ほぼJFK - の暗殺実行犯は裁判を受ける前に殺される - の異母弟で富豪の御曹司でもあるNick Kegan (Jeff Bridges)は、暗殺から19年たって石油タンカーに運び込まれた包帯ぐるぐる巻きの男から、自分は暗殺犯の片割れだと言われ、包帯男は犯行に使ったライフルがある場所を言い残して死んでしまう。

Nickは友人と大尉と一緒にライフルがあるという場所に行ってみるとブツは本当にあったのだが、その横を女性が笑いながら自転車で通った直後に大爆発が起きて、Nick以外は死んじゃってライフルも消えてしまい、亡くなった大尉は後で2年前に亡くなっていたことがわかる。

Nickは父のPa Kegan (John Huston)に会いに行くと、彼はいきなり逃げようとするのだが、真相究明を約束して誰それに会うように息子に指示して – Nickがそこに向かうとまたしても.. こんなふうに玉突きのように誰かに会いにいったり追いかけたりするたびに逆に追われたり誰かが死んだりあんた誰? だったりが繰り返され、いつまで経っても真相に辿りつくどころかその外延をぐるぐる回ってその面積は広がって誰ひとり信じられなくなっていく。

この内容だと殺すか殺されるかの緊迫したサスペンスホラーになっていってもおかしくない(原作はそっちの方らしい)のだが、大統領暗殺の真相を軽々とすっとばし、あまりにあっけらかんと事故や殺しが勃発して連鎖していって、出てくる人々のあまりの中味のないかんじに、その沼の底なし意味なしの濁り汁の攪拌にこれはなんだ ? って笑うしかなくて、実際にみんなげらげら笑いながら見ている。

真実と思いたいものが真実になるのよ、っていうQAnonの時代にふさわしい幾重にも連なる陰謀なのか単なるフェイクなのかただそのままなのかが渦をまく嵐が「真実」のありようをどうでもよいものに替えて、そうなると主人公たちの存在もとっても軽い紙風船かただのウソ人間だかに見えてきてしょうがなくて、でもそんなでも(そんなだから?)人は人を恋しいと思ってしまうんだわ、とか。このすっとこどっこいのドラマを書割の様式美のなかで病的にきっちり見せたのが、例えばWes Andersonのカラフルな世界だったりしないだろうか、とか。

出演者はやたら豪華で、中心にいる父子に加えて、父の主計官役のAnthony Perkinsとか、執事の三船敏郎とか、Eli WallachとかDorothy Maloneとか Sterling Haydenとか、カメオでElizabeth Taylorとか、そんなどこかでよく見た顔たちが右から左から湧いてくるところもまたフェイクぽさに磨きをかけているような。

まだちっとも枯れてごわごわしていないJeff Bridgesの疾走ぶりも素敵だし、でも絶妙な余韻というか後ろ髪を引っ張って残す切ないかんじは彼のものだと思うし、見てお得なやつだったかも。

8.22.2023

[film] Oppenheimer (2023)

8月17日、到着した翌日木曜日の昼、Village East by Angelikaで見ました。70mmフィルムでの上映。

ものすごく、なにがなんでも見たい、という訳でもなかったのだが、唯一の被爆国だというのにリリースの日が(もう決まっているかも知れないけど)伝わってこないのはあんまりではないかと思うし、見たばかりの”Barbie”との関連で思うところもあったし。

見るのだったらIMAXの70mmで、と思って探したのだが、リンカーンセンターのAMCもUnion SquareのRegalも、平日の10:30の回なのにほぼ埋まっている状態で - 英国のBFIのIMAXもそうだった - 取れないので、普通の70mm版にする。 興行収入で”Barbie”の方が圧勝したのは、どうせ見るなら70mmで、って、急がずに混雑を避けた結果なのではないか、たぶん。

Village EastをやっているAngelikaは独立系の映画を沢山上映しているチェーンで、NOHOにあるぼろいシネコンにはよく行った。Village Eastは大昔からあるすごく古いシアターで、むかーし、PTAの”The Master” (2012)の65mm版を見たのもここだった。

原作はKai Bird and Martin J. Sherwinによる評伝本 - “American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer” (2005) で、Christopher Nolanの監督による米国の原爆の研究開発 – マンハッタン計画 - に貢献した物理学者J. Robert Oppenheimerの評伝ドラマ、に留まらず彼を中心とした研究者サークルや軍関係者、家族に愛人、開発と成功に向けた困難や葛藤を中心とした重厚な時代劇となっている。 3時間、まったくだれないことは確か。

1920年代のドイツで量子物理学を専攻していてアトミックが蠢き飛び散るビジョンにとらわれている若いOppenheimer (Cillian Murphy)の姿と白髪頭になり、疲れ切った様子で赤狩りの網にかかって尋問 - 原爆の機密情報をロシアに漏らしたのではないか等 - を受けていく彼、ニューメキシコ州ロスアラモスの荒涼とした土地に建設された秘密の研究所の所長としてひたすら前に進んでいく彼、などを行ったり来たりのランダムに繋いで、全体としては戦争の勝利 = 大量破壊兵器-核開発の妄執にとりつかれた個人と集団を巡るどす黒いホラーのようで、映画は頑としてこの集団域の外に出ず – 戦況でドイツがこうなった/日本は降伏しない、等がこの集団ヒステリー状態をドライブし加速していって、それがもたらした結果についても伝聞として中に伝わってくるだけで – 彼らの内輪の狂騒がもたらした広島、長崎の惨状やここから20世紀後半の世界を支配した冷戦についても同様、すべては彼らの脳内とサークル周辺で満たされて完結して、ただそんなでも混沌と怒号が渦を巻いて、くだんないプロジェクトなんとかみたいなハッピーエンディングのドラマにはならない。見る側のことかも知れないが、なりえない何かがずっとある、という矛盾だらけの視点を飲みこんでそれが引き裂かれたフランケンシュタインのような肖像をつくる。少なくともOppenheimerには「よいヒト」っぽいところもあった、みたいな描き方はしていない。

だから彼の周りにいる科学者や軍人、政治家の臭みと強み - Matt Damon, Robert Downey Jr., Gary Oldman, Benny Safdie, Rami Malekなどはどれもじゅうぶん匂うし、女性ふたり - Florence PughもEmily Bluntもほぼ男性のような振る舞いを見せて、彼らが境界線強めのカラーとモノクロそれぞれで内輪のお喋りと小競り合いを延々続けて、あんな歴史と死者の山を築いた。

そして、優秀な科学者であるOppenheimer はこれから起こりうることを、この爆弾が都市を一瞬で灰にしてその健康被害が延々続いていくことも、この爆弾が大国のパワーバランスを狂わせて終わりのない兵器開発に向かわせてしまうこともぜんぶわかっていた。あの窪んだ虚ろな目で。 これでも、それでも科学は中立だとかまだ言うか?

“Barbie”もこれも「歴史的な事実」をベースに20世紀の歴史や価値観が変わった瞬間や節目について、それがどうして起こったのか、起こる必要があったのか、ということに着目していて、”Oppenheimer”はそれを誰もが知っている象徴的な偉人の周辺に集約させ、”Barbie”はRuth Handler、というよりは、彼女が作り出した虚構の世界を軸に現実世界を反転させようとする試みを描く。”Barbie”はその「フェミニズム」のありようも含めて極めて脆くて弱いが、”Oppenheimer”が作り出したオトコ社会のそれは、生々しくどろどろと今も目の前にあり、我々はアメリカ – Oppenheimerがもたらした死そのものとして、腐臭ぷんぷんでここにあって、これらをどうするか、真剣に考えるしかない。あーめん。
 

8.21.2023

[music] The National + Patti Smith and Her Band

8月18日、金曜日の晩、Madison Square Gardenで見ました。

夏のライブ、昨年はLAのPrimaveraに行って楽しかったのだが今年はやってくれないようだし、そろそろNYに行きたくなってきた1月頃、チケットが出たところで買ってしまった。数日間のフェスに没頭して行ったり来たり歩きまわるのもしんどくなってきたお年頃だし、なにか入って行けなくなったら売っちゃえばよいか、くらいで。

The Nationalのライブを最初に見たのは2008年のLollapaloozaで、この時の彼らは”Boxer”が出たばかりで波に乗っていたのだったが、この日のメインはNINだったので数曲聴いただけで移動してしまった。その後は来日公演にも行ったよ、くらい。NYに渡る直前までチケットは取れたようだったが、当日にはSold Outしていた模様。

前座はPatti Smith and Her Band。前座が彼らだったから(行くことにした)、というのもあった。90年代初からライブを見てきて、年末のBowery Ballroomのお誕生日ライブも通っていたし久々に会いたくなったし。7:30きっかりに出てきて、出てきた瞬間の笑顔で、彼女はいまとてもよい状態にあるのだな、というのはわかる。

Devoふうの変な帽子を被ったJay Dee Daughertyのバウンドするドラムスから入る”People Have the Power”から、背後にRobert Mapplethorpeによる彼女のモノクロの肖像がでっかく映し出される。リリースされた当時(1988)は微妙かも、って思ったけど、いまはとてもよい曲だなー、ってしみじみ。

続けて、微笑みながら眼鏡をかけて本を取り出し、これは今年70周年を迎えるCity Lights Bookstoreの4番目の出版物です – とAllen Ginsbergの”Footnote to Howl”を読みあげる。背後にはAllen Ginsbergの写真。これに続けて、彼もまた偉大な詩人でした、とTom Verlaineの写真と共にTelevisionの"Guiding Light"を。そしてもう一人、「彼」もね、ってFred "Sonic" Smithと一緒の写真を掲げて”Because the Night”を。ここまででなんかものすごくよいの、当然大合唱になるし若者が楽しそうに踊っているし。

この後は”Dancing Barefoot”をやって“Pissing in a River”をやって、彼は50年前からずっと環境のことを考えてきたんだよ、ってNeil Youngの” After the Gold Rush”をやって、最後には”Gloria”。だいたい1時間、大好きな曲 – 何百回聴いても変な曲… って思いつつ最後は搔きむしられてぴょんぴょんはねてくるくる回ってしまう曲ばっかしだった。

これだけで終わったとしても、あの航空運賃とホテル代のもととれた、って思ったね(泣)。


続けてThe National。新譜はよかったけど、数回しか聴いていなくて、そんなんでもよいのか? ていうのもあんまわからないし、ライブも圧倒的にすごいから、って万人に言いきったり言いふらしたりする自信もないのだが、このバンドのって、なんか見たくなる。

ふつうの横のスタンド席にいたのだが始まったら周囲はみんな立ちあがって、えー立つのか.. って、でもそのうち疲れて座るじゃろう、と思ったら終わりまでほぼぜんぜん座らなかったのでなんだよ.. って少し(よいこと)。

あくまで個人的な感想でしかないのだが、エモになりそこねた文学中年 – Tシャツとかにも書いてある”SAD DAD”による中年エレジーというか変な文学で、すごいサビがあって盛りあがったり歌ったりうねったりの大技をわざと回避して、いつまでもダッダカダッダカ... 行進曲のイントロのようなのばかりを奏でて突撃前でうじうじ壁に頭をぶつけたりしていて、ラッパも鳴ったりするけど威勢よいものではなくて、Morrisseyのような変態カリスマを狙えるわけでもないし、Nick Caveみたいに客席に降りてきたりもするけど彼はNick Caveではないのでやる側も受ける側もどうしたものか、みたいなかんじになって、ステージ上で彼のマイクのケーブルを必死で手繰る人が鵜飼いみたいに必死で、でもこのアンサンブルはいつ何度聴いても瑞々しく入ってくる - 現代音楽のようなところは確かにある。

もう少しゴスに寄ったりエレクトロを入れたり売れるふうにしようと思えばできる人たちなのに、絶対やらずに、どこまでもうねっていくボトムを担当する兄弟と、その上に別のうねりを重ねて散らしたり捩らせたりする別の兄弟がいて、その螺旋のなかに閉じこめられた中年のバリトンはそんなに明るいことは歌わないし錯乱して大暴れすることもない - たまに思いついたように客席に降りてくる程度。

曲は新譜の1曲目から入って、まん中くらいに”Cherry Tree”~”Abel”が来て、本編終わり前に”Fake Empire”がくる。 アンコールは”Light Years” ~ “Mr. November” ~ “Terrible Love”の後、出したばかりの新曲”Space Invader” – どこまでもうねうねして変なやつ - を挟んで、”Vanderlyle Crybaby Geeks”の”Crybaby Cry”を大合唱して終わった。

あそこを目指そう、というより、とにかくみんな生き延びてまたどこかで会おうな、と、そんなかんじでおわった。

背後の映像、カラフルでサイケなエフェクトにバンドの映像を被せていくのは花火のようにせわしなくきれいだったが、十年前のNINのそれのようだった。もっとシンプルに歌と楽曲に集中させる落ち着きがあってもよかったのでは、くらい。

たっぷり2時間を超えて、MSGの帰りの階段の混雑 - みっしり動かない - も久々で楽しかった。
おみやげにNew Order - New YorkのTシャツと、MSGが描いてあるポスターを買って帰った。

このバンドではないが、次のNYでのライブは来年4月。それまで生きていられればー。

8.16.2023

[film] Barbie (2023)

8月14日、月曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。いろいろばたばたでやばい。
Greta Gerwig監督作品なので、どんなもんだろうとまず見るつもりだったが、あんなに大ヒットするとは.. もちろんよいこと、ではある。それがどう、どうしてよいのかは置いておく(かも)。

冒頭、「2001年」のパロディで女児が母となって赤子を育てるタイプの女児 - 人形のありようが、Barbieの登場により破壊されて進化の次なるステップに移行して、それを可能にした- 現実世界の変革をもたらしたBarbieとパステルピンクの理想郷 – BarbielandがHelen Mirrenの落ち着いたナレーションで紹介される。ここには大統領のバービー、ノーベル賞を受賞したバービー、医者のバービー、弁護士のバービーなどがいっぱいいて、男性のKenはKenとしていろんなのがそこらをぷらぷらしてて – Kenとは別の、固有種としてのAllan (Michael Cera)ていうのもいて、彼らには性器なんてないし、フェミニズムに関する問題も男女平等に関する問題もすべてクリアされている(と彼らはいう)。

でも、いちばんBarbie (Margot Robbie)がある日突然「死」のことを考えてしまったり、足がぺったんこになったりセルライトが出てきたり異変を感じて、これを村はずれの変てこバービー(Kate McKinnon)に聞いてみるとBarbielandと現実世界とのポータルにやばい裂け目ができておる、というのでディズニーの“Enchanted” (2007) - 『魔法にかけられて』みたいに - Ryan GoslingのKenがくっついてくるのだが – リアルワールドのLAに行ってみることにする。

現実のLAでふたりの派手な恰好は笑いものにされ、マテル社でCEOのWill Ferrellに会っても箱に戻れ! って大騒ぎされ、持ち主と思われたティーンのSasha (Ariana Greenblatt)に会ってもあんたたちがフェミニズムを後退させミソジニーのおおもとを作ったんだ、って悪態をつかれ、散々だったのだが、Sashaの母親でマテルの従業員でもあるGloria (America Ferrera)がBarbieを見出して、創造主であるRuth Handler (Rhea Perlman)にも助けられて、CEOら経営陣 - 全員オトコ - の追っ手から逃れてBarbielandに辿りつくと、馬とマチズモと家父長制(The Patriarchy – 男社会って訳すな)に目覚めてしまったRyan GoslingのKenがKendomを築いてBarbieたちを支配していて、これはやばいぞ、って3人はBarbielandを立て直すべく動きだす。

現実とは次元を隔てた異世界があって、鏡のような調和が保たれていた両者の間に亀裂が走って、その境い目で両者の溝を埋めて調和を元に戻すべくじたばた、という過去にいくらでもあったSFとかファンタジーに近いドラマなのだが、この作品で中心になって動いていくのはフェミニズムとかマスキュリニティとか家父長制とか消費社会とか老いとかプライドとか、概念とか観念に近いところのそれで、主人公のお人形たちはそれらを単純化して表象する記号的な何かでしかない。という難しさがあるので、子供向けではないのかも(見ているだけで楽しいとこも沢山あるけど)。そして概念とそのありように関して、という話になると、その裾野は歴史も含めてものすごく広がって、アカデミックな視点からすればちがうんじゃねーの、みたいな話も当然出てくるのだと思うし、「オッペンハイマー」のあれみたいにネタとして消費されやすいものになってしまう。ものすごく皮肉なことだけど。

が、そういうのを含めても、ここまでいろんなものを詰め込み、やりたい放題に膨らませて、表面上のものだったとしてもBarbieが勝利して - 洗脳を解く、という形での - Ryan Goslingを虚無の沼に沈めたのは見事としか言いようがない。Margot Robbieのパーフェクトな意味なしのきらきらとRyan Goslingの最後の方のふぬけた目の光とか、すばらしいったらない。

そして最後のとこ。記号が肉としてアクティベートされる瞬間をさらっと示す。かっこいい。

あと、日本とか家父長制が包括で無反省に肌レベルで浸透してしまっている - しかも更に推し進めようとしている - 国だとぜんぜん理解されないのかも。この国はマテルよりも「あしたのジョー」と「巨人の星」で洗脳されている昭和のじじいどもを洗濯・解毒しないとどうしようもない。それでもみんな幸せらしいから勝手に滅びろ、って。

音楽はずっと楽しいのだが、Billie Eilishの"What Was I Made For?"がみごとで、ずっとここが出発点で、常にここに立ち返るのだろうな、と思った。
あと、Greta Gerwigさん、Matchbox Twentyのファンなのか。ふーん。

プルーストバービー、あったのならほしかったかもー

これから休暇にでます。たった3日間だけど…

8.15.2023

[log] London - 0312

8月12日、ロンドンでの最後のあがきなどのつづき。

予定していた美術館まわりを終えて、重いカタログ2冊抱えて既にじゅうぶんへろへろだったのだが、できればやっぱりRough Trade(東)には行きたいな、って。もちろん本屋にもスーパーマーケットにも行きたかったのだが、これ以上紙の束は.. っていうのも少しはあったかも。

レコ屋は、日本でアナログ盤がばかみたいな値段になっているのでここのとことんと行かなくなっていて、この状態で行くと目に入るものなにもかも珍しいので大変なことになるにちがいない.. と簡単に予測できるのだが、できることと言ったら時間で縛ることくらいか、実際そんな時間ないしなー。などとぶつぶつ考えつつBrick Lnをてくてく歩いて、猫いなくなっちゃったのかなー、とか。

お店に入るとレジのところにNick Caveの7inchのPicture diskがいっぱい並んでいて、なんだよこれかわいいじゃねえか、ってどれか一匹を捨てることができずに4匹全部手に取る... とあとは止まらなくなって…

気がつけば CRASS RecordsのBullshit Detector volume 2(2枚組)とか、Barbra Streisand “Live at the Bon Soir  Greenwich Village, NY November 1962”とか、Lana Del Reyの新しいのとかを抱えてて、本はもうだめだ、って言ってるのにぶ厚いNick Soulsbyの“Everything Keeps Dissolving – Conversations with Coil”(カード付、サイン本)とかペーパーバックになっていたVashti Bunyanの自伝(サイン本)とかを手にしてしまい、考えたらいかん、てレジに運んでしまった。全体としておおばかだったが、15分で出てきたのでよいこ。

あと、Liverpool Stationの前にできた    Eataly、3月にも見て驚愕したものだったが、一階のお菓子売り場を眺めて、あううお昼食べていないー、と思ったけど時間がないのでホテルに戻って荷物を詰め直す。

帰りは地下鉄のElizabeth Lineを試そう、って決めていてバスで最寄りの駅に行ってからエスカレーターで降りて、乗った。びっくりするくらい気持ちよくて快適でこれまでの(まだあるけど)Piccadilly Lineのあれはなんだったのだ、になるよ。

ターミナル3はものすごく賑わっていて、ロックダウンのときのがらーんとしんだようなフロアを思い出すと改めて感慨深い。よくぞここまで。

Love Again (2023)

2016年にドイツで作られた映画 - ”SMS für Dich”のリメイク、というのは後で知った。

NYに暮らしてあおむしの絵本などを描いているMira (Priyanka Chopra Jonas)は結婚間近だった恋人のJohn (Arinzé Kene)を交通事故で失ってから傷が癒えずにぼーっと2年が経ってて、音楽系の出版社に勤めるRob (Sam Heughan)も結婚式の直前に相手に逃げられてから半分死んだ日々を送っている。

Miraはいくら時間が過ぎたって恋しいよう会いたいよう、って想いをJohnの携帯番号にショートメッセージで送ってぼんやりするようになって、そのメッセージが会社から貸与されたばかりのRobの携帯に流れてきて、Robはなんだこれ? って思いつつもその暗い呟きにだんだん惹かれるようになり、相手はどんな人だろうって探し始めて、職場仲間の助けもあってMiraと会うことができて、デートしてみるとよいかんじでずっと一緒にいたくなるのだが、彼女の喪失感の深さを知ってしまっているのでどこまで踏みこんでよいのかどうしたものか、ってうじうじ。

そこに出てくるのがCéline Dion(本物)で彼女の本を書くように命じられていたRobは彼女へのインタビューの場でぼーっとしていたところを彼女に突っ込まれ、実はこれこれこういうことが… って正直に話すとCélineが相談にのってアドバイスをくれて(よい人じゃん)、共に傷を負ったふたりの恋の行方は.. っていうRom-comなの。 こういうの久々に見た。 悪くなかったかも。

でもバーガーにフレンチフライを挟んで食べたりする? おいしいのかなあ?

あとは、”Guardians of the Galaxy Vol. 3” (2023)のロケットの家族の悲しいところを早送りで見ないようにして、見た。

あとは、”The Secret Life of Pets” (2016)のラストのBill Withersの”Lovely Day”のとこだけ見てじーんとしたり。

で、日本の暑さにはあらためて戦慄した。ぜったいむり。

[art] London - 0312

8月12日土曜日、日本へのフライトは19:20発、それまでになにをどこまで見ることができるか。
この日はお買い物よりも映画よりも絵画のモードになっていた。日本を発つ前からなんとなく。

美術館が開くのは10:00なので、8:30に開く泊まっていたとこの近くのSt Paul's Cathedralに入って、いつものように地下のお墓をうろうろしてお祈りなどをした。
で、10:00に間に合うように向かったのがDulwich Picture Gallery。ぜったい見たいやつから。

Berthe Morisot: Shaping Impressionism

本当か、と思うのだが英国では70年ぶりとなる展覧会だという。マネが描いたMorisotの肖像は有名だが(でも彼女はマネを描いていない)この展示はマネの死後に彼女が描いた”Self-portrait” (1885)から始まる。かっこいい、これだ、って思う。自身の娘や妹、夏の日の遊びとか、日常の身近な題材をふんわり描いた日曜画家のへたうま風味、って言う人(まだいるのかそんなの)は言うのかもだが、本当にブラッシュのうねりとか素敵で、この展示ではFragonard(Morisotの母はFragonardの曾姪なんだと)やBoucherからの、更には英国のGainsboroughやReynoldsからの影響もフォーカスされていた。Musée Marmottan Monetからの貸し出し以外にはプライベートの、見たことないのも結構あって痺れた。

そこからバスと地下鉄を乗り継いでNational Galleryに向かったのだが、まわる順番を間違えたかなー、って(終了直前で危なそうだったので時間指定のチケットを早めに取ってしまっていた)。

After Impressionism - Inventing Modern Art


3月に来た時にはまだ始まる手前であーあ、だったやつ。後期印象派でもポスト印象派でもなく、印象派以降、モダンアートの始まったあたり - つまりほぼなんでもあり、って。最初の方はセザンヌもゴッホもゴーギャンもマティスもあるのだが、そのうちナビ派もキュビズムもクリムトもムンクもカンディンスキーも出てくる。印象派がパンクだったのだとしたら、パンク以降にうじゃうじゃ湧いてきた有象無象をこんなかんじ? くらいで束ねて纏めていて大雑把すぎない? って思ったのだが、ざーっと流してみたら思いのほかおもしろかったので、カタログ買って後でちゃんと見る。クリムトの”Portrait of Adele Bloch-Bauer II” (1912)があったねえ。

ここから隣のNational Portrait Galleyでふたつ。2020年に(直前の展示 – “Cecil Beaton's Bright Young Things” - がすばらしくよかったのに)ロックダウンに入って、そのままリニューアルで閉じてしまったとこがようやく戻ってきた。ただいまというかおかえりというか。

Yvonde - Life and Colour

英国の女性写真家 - Yevonde Middleton (1893 – 1975) - Madame Yevondeのキャリアを総括した展示。身近なポートレートから入ってカラーの世界に目覚めて自分のスタジオを開いて、展示されていたのはほんの一部だと思うが、もっと見たくなる。Vivien LeighやJudi Denchのポートレートも素敵なのだが、お茶目で楽しそうな自撮りの数々がなんともいえずよくて。

Paul McCartney Photographs 1963-64 - Eyes of the Storm

こちらの展示の方が賑わっていたかも。英国でブレークしたばかりのThe BeatlesのPaul McCartneyが、演奏やレコーディングの合間に自身でカメラを手にして撮ってのこしていた写真たち。特に1964年2月のアメリカ上陸前後 - なかでも上陸直後のNew York – 追ってくる報道陣やファンたち - をとらえた写真が生々しく、見事なドキュメンタリーになってしまう驚異。

ここからTateに。今回ここで見たい展示は3つあって、個々にスケジュールを考えてチケット押さえるのは面倒だったのでメンバーに入ってしまう。入ってしまえばいつでもどこでも何回でも。


Hilma Af Klint & Piet Mondrian

今回もっともわくわくしていたやつ。Hilma Af Klintの絵の実物をついに目にすることができるから。
Piet Mondrian(1872-1944)とHilma Af Klint(1862-1944)を時系列で交互に並べていく構成。

抽象に移行する前のMondrianがどんなにすごいやつだったかは、2019年のMusée Marmottan Monetでの展示”Mondrian figuratif"で思い知ったのだったが、そんな彼の初期の具象 - 風景画とHilma Af Klintのそれが静かに対照され、その対象に接する目が徐々にシンプルな面と線とに解かれていって、まるで必然のように「抽象」というフリースタイルに転調というかジャンプする。初めはこのふたりを並べるのって強引じゃないか、とも思ったのだが、同じような進化を辿った別々の生き物標本を見るようだった。抽象(化)というプロセスの不思議なありよう。ここに大戦に向かう欧州の辺境、という時代は作用したのかどうか。

そしてそれにしても、Hilma Af Klintの実物のとんでもないこと。頭のなかがずっとわあああああ!!って騒いでいた。画面の引っ掻き、ストロークの強さ。こんなのを倉庫の隅に追いやっていたスウェーデンの画壇に改めて呪いあれ、だわ。

カタログを買って、ここからTate Britainに向かおうとして、昔は川をいく渡し船があったよな、と探したらまだやっていたようで、船出直前だったので走って乗りこんで西に向かったのだが、Tate BritainのあるMillbankの手前でUターンして戻りやがって…(ちゃんと船内放送を聞こうな)

Isaac Julien What Freedom is To Me

これ、すごく見たかったのだが、展示されているインスタレーション作品はそれぞれ20分以上だったりしたので表面だけざーっと見て(いや、そんなの見たことになっていない)。

The Rossettis


みんなだいすきDante Gabriel Rossettiを中心にElizabeth Siddal, Fanny Cornforth, Jane Morrisまで、絵画から詩、ドローイング、写真、デザインまでライフスタイルまるごとをアートで覆いつくそうとした彼らのレトロスペクティブ。ちょっとごてごて装飾過多、綺麗すぎのところはふうん、なのだがたまにすごくかわいいのがあったりしてやられる。時間があったら何度か通いたくなるやつ。


ここまででだいたい午後2時過ぎくらい。買い物も少しはしたいのでWallace Collectionの展示-”Portraits of Dogs: From Gainsborough to Hockney”は泣きながら諦める。今更だけど交通のとこで失敗しなければー。

ここでいったん切る。

8.14.2023

[film] Variety (1983)

8月11日、金曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。

出張の最後の日で天気はぽかぽかと気持ちよく、最後の平日なので晩の食事だか飲み会だかを早めに切り上げてなんか見れたらよいなー、くらいで、本日はお腹の具合がそんなによくないのでさくっと食べて早めにあがれればうれしい、と申し出たら、それならなしにしてまたの機会に、ということになった。ので、いそいそとチケットを取る – もう子供じゃないのでくよくよしない。

公開40周年を記念した2Kリストア版が少しだけリバイバル公開されるのを記念して、上映後に監督Bette Gordonのトークがある。

BFI Southbank、自分にとってはNYのFilm Forumと並ぶ映画の学校で、2017年から2020年のロックダウン前まで、さっき数えてみたらここに来て261本見ていた。その前の長期出張で滞在していた時も含めると相当の数になるはずで、久々に来れてうれしいよう、しかない。 2日前の”Groundhog Day”の上演前にも来たのだがNetflixの映画のプレミアかなんかのイベントをやっていて中には入れなかったの。

ロックダウン直前にはWeb予約のみで窓口もなくて、作品紹介のプリントアウトもなくなっていたのが、ぜんぶ、何事もなかったかのように復活していた。よいこと。

“Variety”はNYのインディペンデント/アンダーグラウンド映画の古典で、Bette Gordonのストーリーを元にKathy Ackerが脚本を書き、撮影はTom DiCilloとJohn Foster、音楽はJohn Lurie、Special ThanksにはSara Driverの名前がある。

2018年にもBarbicanで上映された際に見ていたのだが、すごくきれいな画面になっていた。冒頭のプールの場面の水、女性たちのコスチュームの色や模様、夜景や朝のFulton Marketが美しいこと。

ジムのプールで泳いでいたChristine (Sandy McLeod)が着替えながら友人のNan (Nan Goldin – まだそんなに有名になる前、本作ではスチール写真も担当)にお金がなくてやばい、とこぼしていると、手っ取り早く稼ぐなら、って映画館のチケット売り場のバイトを紹介してくれる。そこはTimes Squareのポルノショップが並ぶ界隈にある”Variety”というシアターで、やっているのはポルノ映画だけ、人ひとりが入れるだけのボックスに入って、やってくる男性客にチケット($2)を売る。もぎりはいつも気のいい陽気なJose (Luis Guzmán)。

座って機械的に売るだけ、の簡単な仕事ではあるが、客が彼女を見る目やたまにチケットを渡すと握り返してきたり、背後でずっと鳴っている喘ぎ声などに少しづつ影響を受けて変容していく。

男友達のMark (Will Patton – ”Desperately Seeking Susan”の変態)と会って話しても、ポルノ上映館でのバイトについて話し始めると雄弁だった彼がおとなしくなって帰ってしまったり、頻繁に映画館にやってくる上等そうなスーツをきた中年のLouie (Richard M Davidson)に声を掛けられて、運転手付きの車でヤンキース・スタジアムのプライベートボックスでデートしたり、その後に彼のことが強迫的に気になって追いかけてしまったり、バーで女友達と話していてもこれまでと全く違う聞こえ方がしてきたり。あと、電話機に残っているSpalding Grayの声とか。

これまでふつうに暮らしてきた、と自分では思ってきたChristineが、お金が必要だから、という理由で”Variety”という看板の特定の性別のある欲望に特化した映画をエンドレスで流し続ける場所の突端に置かれて「彼ら」の目に晒されること – 彼らはChristineを「ふつう」の女性としては見ないだろう - を通して、「彼ら」が彼女をないものとしてスルーして、続けてポルノ映画を見ることで得ようとしたものはいったい何なのかを見よう、と探り始める。確信的に、というより自分でもわけがわからず、なにかに突き動かされるようにして。

そういうこと、そういう作用を及ぼす街としてのNew Yorkの夜と朝、彼女の小さな部屋の風景もここには活写されていて、”Taxi Driver” (1976)のようなすごいことが起こるわけではないものの、あれを女性視点で反転させたようなものでもあるのだろう、と思った。

上映後のBette Gordonさんのトークは当時のNYのハウジングマーケットの話から(当時のNYのアート関係者ってだいたいこの話題を通るよね)、そこらじゅうに知り合いや関係者がいて話したり頼んだりすることができて、そういう中から生まれたものだ、というのをものすごい勢いで話して止まらなくて、初めてなのになんか懐かしく、ああNew Yorkもよいなあ、って。 James Benningはこの人と”The United States of America” (1975) で旅をしていったのね(ふたりは夫婦だった)。

終わったのが20:30で、外はまだ明るくて金曜日なので川辺でみんな楽しんでいて、ああこのかんじ! って踏みしめながら橋を渡って帰った。

8.12.2023

[theatre] Groundhog Day

8月9日、水曜日の晩、Old Vicで見ました。昔から大好きなシアター。

出張している間、ずっと晩は押さえられてどこかに連れていかれて会食というのか飲み会というのかの慣例、みたいなのはいいかげん勘弁(お酒のめんしもう何十年もおんなじようなのばっかし)なのだが、ひとりで映画をみたりライブに行ったりしたいのです、なんて言うこともできず、せめてひと晩だけは好きにさせてください(とは言わず、昔の友人に会うのでーとか適当)、って逃げる。ひと晩くらいなら。

はじめはRoyal Albert Hallでやっている夏のBBC Promの夜遅い方(22時くらい)の回でやるヴォーカルグループのでも見にいこうと思っていたのだが、なんかこちらの方が気になって、チケットを取ってしまった。

元はBill Murray主演の同名の王道ラブコメ (1993)だが、こちらはミュージカルで7年前に上演されたもののリバイバルでもあるのだそう。えんえん止まない日々の繰り返しムーブのなかでゆっくりと積もっていく悪意 – それが反転して愛、というか愛が反転させるのか - みたいなのは映画という様式の方が合っている気もしたのだがこちらもなかなかおもしろかった。

脚本は映画版も手掛けたDanny Rubin、音楽はTim Minchin、演出はMatthew Warchus。

ローカル局のベテランお天気キャスターPhil Connors (Andy Karl)はお喋りは当然うまいけど傲慢で自分が世界でいちばんて思いこんでいる誰もが認めるそこらにいそうな嫌なやつで、朝に安い宿屋のベッドで起きて毎年恒例2月2日の”Groundhog Day”でGroundhog – ウッドチャック – でっかいネズミ – のPhilが春が近いのか冬がまだ続くのかを告げる – 正装したおじさんたちがGroundhogを住んでいる小屋というのか箱というのか から引っぱりだしてぼーっとしてる彼になんかを聞きだす – 虐待じゃないの?ってたまに思う - お祭りイベントを中継すべく番組のプロデューサーRita (Tanisha Spring)と現地に赴くのだが、その中継の何が何の呪いになったのか何度寝て起きても繰り返され – いつも同じ2月2日の朝6:00の目覚ましで起きることになってしまう。

この呪われたとしか言いようのないループに閉じこめられた状態を、ブラスバンドとかチアーとか、ミニチュアの中継車を眺めている巨人とか、Groundhogの着ぐるみ?(カワウソみたいだけど)を着たひとがただ立っていたり(こいつは後で生ドラムスを叩く)とか、変な酔っぱらい組とか、田舎の狂騒と不気味な伝説のようななにかの交錯のなかで描いて、人間のPhilはだんだんおかしくなって自殺してみたりもするのだが、何度死んだって目覚めるのは同じベッドの上の同じ時間なのでなんだこれはやめてほしい、になっていくの。

この状態からどうやって抜け出すのか/抜け出せるのか、がテーマのひとつでもあるのだが、そもそもなぜこの状態の、なにがどうしていけないのかについてはあんまよくわかんない。死ぬ心配も老いる心配もないし、記憶はリセットされずに貯まっていくようだからずっと本読んだり映画見たりしていればいいじゃん。(新作は見たり読んだりできないのか)(パンフにはニーチェの永劫回帰とアリストテレスと仏教の教えが紹介されている...)

あと、人に毎朝きちんと挨拶してリスペクトできるよい子になればループから抜けることができますよ、みたいな話でもないしそれだとつまんなすぎるので、周りを歌と踊りで飾りたてて盛りあげて、なんか変だけどまあいいや、みたいなノリで押し切ろうとしているかのようで、ひょっとしたらその強引さを愛と呼ぶのかもしれないねえ.. など意地悪な目でみれば。実際、ラストの紙吹雪が舞い散るフィナーレはなんだこれは? ってなりつつも感動してしまったりして。

真ん中でひとり踏ん張って喋りまくり歌いまくるAndy Karl - 切れ味がちょっとPaul Ruddぽい - がすばらしい。自殺した直後の変わり身の早さとかどうやっているんだろう?

これを日本でリメイクするとしたら、そらじろうとかを出さないわけにはいかなくなるだろう。どうするんだ?

[log] London - 0307 -

8月7日、月曜日の昼に羽田を発ってロンドンに行って、まだわかんないけど8月13日の日曜日の夕方に羽田に戻ってくる、という出張をやっている。

3月以来のロンドン、お仕事であっても東京の暑さから逃げられるのはうれしいし。

行きの便はBAので、婦人画報に載っていたかっこよさげな座席だったらー、と少し期待したのだが、昔ながらの、誰がデザインしたんだかの変てこなビジネスのあれ(窓側の人は寝ている通路側の人をまたぐとか)だった。フライトは14時間、3月のときは北極の真上を越えていったが、今回のはカナダの北を抜けてグリーンランド~アイスランドの上を通っていった。

機内で見た映画は2本。眠いしだるいし集中力ないので重そうなのと長いのはだめよ、で。

65 (2023)

映画館で見ていなかったやつ。93分。製作にSam Raimiの名前がある。

6500万年前、どこかの星で運送パイロットをやっているAdam Driverが病気の娘の治療費を稼ぐために宇宙に旅立つよって妻に告げて説得して、旅立ったら船は大量の隕石群にぶつかってどこかの星に不時着して、そこは地球らしいのだが(それがどうした?になるけど)他の乗客だか乗組員だかはみんな亡くなってて、絶望して死のうとしたら生き残った小さな女の子を見つけて、彼女は英語(なぜ英語?)が通じなくて通訳機も使えないのだが、身振り手振りで山の上にあってどうにか飛ばせそうな脱出用の船に向かってふたりで移動していく。 のだがその辺りには恐竜がうじゃうじゃなのだった…

ジュラシック・パークのリアルタイム・ほんもん版(or Adam Driverはプレデター)、で、次から次へと襲ってくるいろんな恐竜(だよね? あれ)を最小限の武器(光線銃みたいなやつ)で撃退したりやっつけたり、ふたりで助けあったり励ましあったりしながら山の上に向かうのだが、落ちてくる隕石の数も増えていってどうするどうなる? って。

そもそもはモンスターランドだった地球にいた恐竜 - 大きいの小さいの - が木の陰とかから突然、次々となんも考えずに襲ってくるホラーサスペンス、を狙ったのかもしれないが、たぶん、Adam Driverがずうっとはあはあ喘いだり呻いたり歯をくいしばったり脱いだり、走り回って全力で守ってくれる姿とか、その辺を見せたかったのではないだろうか、と思うくらい、Adam Driverが全身で踏ん張る映画になっていると思った。ゾンビ相手のときはあんなにやる気なさそうだったのに…

最後に彼がいた場所から6500万年経った地球のいま - 住宅地かなにかになっている – が映されて、彼が置いていった武器などが化石として掘りだされてざわざわ.. でもよかったのに、って思ったがそこまでのことにはならずー。


80 for Brady (2023)

65の次は80、で98分。こんなの日本ではぜったいやらないじゃろうし。

NFLのNew England Patriotsの、更にはクォーターバックのTom Bradyの熱狂的なファンであるLily Tomlin, Jane Fonda, Rita Moreno, Sally Fieldの4人のおばあちゃんが2017年のSuper BowlでTomを応援しよう、って苦労してチケットを手に入れてヒューストンまで旅をして、チケットをなくしたりいろんな人に会ったり助けられたりのどたばたの末に会うことができました、っていう実話(だったのか… って少しびっくり)。

萎れたり病気だったりで先がない(見えない)老人たちがベガスとかのお祭り地帯に行って一族郎党大騒ぎ、になるコメディって昔からある – 特におじいさんたちの方 - し、わざとらしくて嫌なところ - 老いを笑いのネタにしていたり - もあったりするけど、これは実話がベースということもあるのか割と切実なシーンもあったりよいかんじ。というかこの4人が真ん中にいるので、ものすごい安定感で違和感なく見せてくれる。 アメリカンフットボールがそんなよくわかんなくてもTom Bradyくらいはわかるし。

でもなー、Lily TomlinとJane Fonda が揃ったならここにDolly Partonも加えて”9 to 5” (1980)の続きでも見たいよねえ。みんな元気なんだし。

で、ロンドンに着いたら寒いくらいに涼しくてちょうどよくて。

街もずいぶんきれいになって… というほど動けていないのがもどかしいー。

だらだらしているうちに土曜日の朝になってしまった。いまから16時くらいまで、どこまで行けるか、なにを見れるかー。
 

8.06.2023

[film] Simone, le voyage du siècle (2021)

8月1日、火曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
邦題は『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』、英語題は”Simone Veil: a Woman of The Century”。「政治家」は一面でしかないことが映画を見ればわかるのに。

シモーヌ・ヴェイユって、最初は当然思想家のSimone Weil (1909 - 1943)のことだと思ってて、なんかへん違くない? と思ったらSimone Veil (1927 - 2017)の方だった(恥)。軽く1時間半くらいの評伝映画だと思っていたら2時間20分びっちり、すばらしい濃さだった。それだけのことはある、のは見れば..
監督は、エディット・ピアフやグレース・ケリーなどの評伝を作ってきたOlivier Dahan。

晩年のSimone Veil (Elsa Zylberstein)が夫のAntoine (Olivier Gourmet)や孫たちと落ち着いて平和に暮らすなか、過去を回顧する形で、冒頭に家族で幸せな夏の時間を過ごすJacob(彼女の旧姓)一家が描かれ、戦時下で若いSimone (Rebecca Marder)がやはり法律を志すAntoine (Mathieu Spinosi)と出会って結婚して、周囲から反対されながらも弁護士への道を目指し - この辺の様子はRBG - Ruth Bader Ginsburgのそれに近いような - 74年に腐れた男性議員達からの非難を正面から受けとめつつ中絶の合法化 - 中絶法を通して、79年には女性として初の欧州議会議長に選出され、そんな輝かしい、というか信念を貫き通したキャリアの裏では常に周囲の無理解や孤立に晒されつつも、彼女の記憶は常にアウシュビッツでの「死の行進」の辛い記憶 - 母Yvonne (Élodie Bouchez) を失ったこと、父や兄とは離れ離れになってそれきりとなったこと、戦後に事故で失った姉Milou (Judith Chemla)との思い出に還って、それらがどんなに歳を重ねてもPTSDとして彼女を苦しめていった。

中絶法のところ、EU議長のところは割と誰でも知っているところで、他にもホロコースト被害者の救済やそのアーカイブ作成、HIV感染者の人権やアルジェリアの活動家への虐待問題、刑務所の受刑者の人権問題など、その現場に赴いてなんとかしようと奮闘する姿が出てきて、その人権に対する目線は一貫していてぶれがない - だって人権とはそういうものだから。そしてそれは「死の行進」という極限状態を家族と抜けなければならなかった、その経験が彼女の視野と行動をそう向かわせた、のだと。

結構頻繁に、その必要性があまり見えないかんじで時系列が切れたり変わったりジャンプしたりしてやや戸惑ったりもするものの、どこを切っても何かや誰かに(あるいは自身の記憶に)追い詰められ苦しめられて大変そうで、そんな中でもやはりアウシュビッツでの体験の凄まじい描写は終盤の長いパートを占めて、これらは既にいろんな映画や本で見たり読んだりしてきたとは言え、なぜ人類があんなことをできてしまったのか、Simoneがどんなに安定した老後を迎えてもフラッシュバックしてくるありえない地獄であったことを改めて叩きつける。それが原題にあった”the voyage of the century”なのだと。

映画は彼女が亡くなるシーンなどは示さず、最後まで海辺でこちらに向かって微笑んでいるところを残し、その像と彼女が戦ってきたものぜんぶを閉じないまま、なぜ人類は虐待やヘイトや歴史の改竄や忘却を許したまま同じことを繰り返そうとするのか、こちらに叩きつけるようにして終わって、それは彼女がずっと自身の活動を通してずっと訴えてきたものなので、これを最後に持ってきたのはよかった。本当に本当にそうだと思うから。バカな政治家はしょうもないけど(しょうもなくないけど)、教育もメディアも、この点については果てしなくどうしようもない。絶望しかないわ。

というのを『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を巡るモグラ叩きのやりとりを見たり、原爆の日の恥を知れ、しかないこの国の政治家の言動を見たりして改めて思った。 あと、バカに扇動されてEUを離脱したあの国のことも改めて、とか。

自民党の例の「研修」も現地行かなくたって、この映画1本見せて感想書かせれば十分だったと思うわ。


明日からどこかに出る(仕事)ので更新は滞るかも。

8.04.2023

[film] Lady Chatterley (2006)

7月30日、日曜日の夕方、日仏学院の「映画、気象のアート」特集の最後の1本で見ました。

邦題は『レディ・チャタレー 完全版』168分、ぜんぜんまったく長くない。設定はイギリスの炭鉱があるシェフィールド、のはずだが、みんなフランス語喋っているし、映しだされた四季の山々の景色や気象はどうみてもフランスのそれで、でも構うもんか。すばらしくよかった。 その年のルイ・デリュック賞とかセザール賞のベスト・フィルム等をいっぱい獲っている。

監督はPascale Ferran。原作はD. H. Lawrenceの後に有名な“Lady Chatterley's Lover” (1928)となる前の、第二稿と呼ばれる”John Thomas and Lady Jane” (1927) – 未読 - で、猟番の名前や過去の設定が少し違っているそうだが、監督によるとよりシンプルで直截的なお話しである、と。

カントリーハウスに暮らすSir Clifford Chatterley (Hippolyte Girardot)がいて、第一次大戦で負傷して車椅子での生活を送っていて、妻のLady Chatterley - Constance (Marina Hands)はそんな夫を日々ケアしつつも将来も含めて漠然とした不安を抱えて – いるとは言わないものの、突然不安定になったりして医師に診てもらっても身体に問題はなさそう、と。

散歩に出たりディナー用のキジを頼んだりに行ったときに会った森の猟番のParkin (Jean-Louis Coulloc'h)のことが気になり始めて、でも向こうは当然不愛想なままで、でも花はきれいだし外は気持ちよいので小屋の合鍵を貰えないか頼んでみたりしたあたりからー。

森のなかを歩くのは身体にもよさそうなので、勝手に猟番の小屋に通うようになり、彼もそんなに不愛想でもなくなってきて、キジのふわふわのヒナを持たせてもらった彼女はそのまま泣き崩れてしまい、それを介抱するかのようにふたりは抱き合い、その状態のまま転がるように小屋に入って床に彼女が下で彼が上に乗って、彼の方がずっと声をあげてて、彼女は天井の方を見たまま固まってほぼ動かず、あっという間に終わっちゃって衝動に任せたのでも愛の交歓もなにも動物みたいなそれだったのだが、それでも彼女は通ってくるようになり、これまでより快活になったり、そうしているうちに別の不安が – これは彼にも彼女にも - やってくる。

夫のCliffordは彼女の変化からなにかを感じ取ったのか、彼女が妊娠して後継ぎを作る可能性について聞いてみると、あるかも、とか、姉と地中海の方に旅行に行く機会もあるしね、などとあっさり返してきたので、彼は少し狼狽えて、突然電動車椅子を試してみたりアグレッシブになったりもするのだが、もうそんなの遅くて彼女は妊娠しているのだった。

彼女が休暇で旅立つ前にConstanceとParkinは小屋でひと晩と夜明けを一緒に過ごして、旅先から戻ってきたらConstanceがお金を出して農場を買ってあげるから一緒に暮らそう、とかそういう話もして旅に出てバカンスを楽しんでいると、家政婦からの手紙でParkinを捨てて別の男に走った妻が相手に捨てられて戻ってきて、いろいろ大変なことになっている、ってあった…

設定だけだとなんか大変そうなのだが、周囲からの苦難を乗り越えて突き進むふたり、とか負けずに前に進もうとする女性主人公、という渦やネジを巻くトーンはあまりなくて、森や原っぱで、薄暗い小屋や屋外で陽に照らされたり雨でずぶ濡れになったり花を摘んだり乗せたりしながら一緒にいるとなんか気持ちよくていいねー、くらいで体を重ねたりして生きていくさまがよくて、そう、とにかく森のなかで生きて転がって体を伸ばしてみる感覚、のようなのが伝わってくる – このかんじは前の日に見た”Van Gogh” (1991)にも確かにあったような。

金持ち貴族だけど身体の自由がきかなくなっている夫といろいろ先が見えずに塞がれている妻、性愛のどん詰まりをどうにかしないと、と思っているところに森の熊のような男が現れて、その野生に.. みたいな定番の展開を裏切るかのように、まずはそういった邪魔を排した気持ちよさと自由の探究みたいのがあって、その線で見ているほうもなんだか気持ちよくなっていくのと、あのなんのひねりもないエンディングのそっけない終わり方、大好き。

Parkin役のJean-Louis Coulloc'hさんは素人らしいのだがなんかよくて、少し前ならVincent Macaigneとかでもはまったかも。 

8.03.2023

[film] Schatten der Engel (1976)

7月30日、日曜日の昼、ル・シネマ渋谷宮下のファスビンダー特集で見ました。

上映後に渋谷哲也さんのトークつき。邦題は『天使の影』、英語題は”Shadow of Angels”。今回の3本のなかでは見たことがなかった唯一の、必見の一本だったかも。

監督Daniel Schmid、撮影Renato Berta、原作はRainer Werner Fassbinderによる戯曲 - “Der Müll, die Stadt und der Tod” (1975) (ゴミ、都会そして死(塵、都会、死))、この戯曲はGerhard Zwerenzの1973年の小説“Die Erde ist unbewohnbar wie der Mond” - 直訳すると『地球は月と同じように人が住めない』をモチーフにしているそうだが、反ユダヤ主義的な描写 – 「金持ちのユダヤ人」が悪い小物人物として出てくる – によりドイツでは80年代の初演後、2009年まで上演が禁止されていたという。

舞台はフランクフルトだそうだが、どこの都市なのか明示はされていなかった(撮られたのはウィーン)ような。橋の下だかガード下だかの溜り場に仲間と立って客を待つ娼婦のLily Brest (Ingrid Caven)がいて、男たちが次々とやってくるのだが、彼女は他の女性たちと比べると細くて顔色も真っ白なので声が掛からなくて、本人もどうでもよいと思っているようで、家に帰るとヒモのRaoul (Rainer Werner Fassbinder)がねちねちぶちぶち – ああFassbinderとしか言いようがない粘度で彼女を虐めて転がして再び町に送りだす。

やがて運転手付きの車に乗って現れた金持ちのユダヤ人(Klaus Löwitsch) - 古く老朽化した建物を買って高いのに建て替えて売りつけて儲けている地上げ・不動産屋 - がLilyに目をつけ、声をかけてピックアップして衣類宝飾類を与えてぴかぴかに磨いて、元ナチス = 彼の両親を殺したLilyの父親も呼びつけたりするので、彼女は贖罪の思いで自分を殺すように頼んで、ユダヤ人は彼女を締め殺して、でも捜査にあたった警察署長は金持ちのユダヤ人を逮捕することはせず、彼の忠実な手下やRaoulを逮捕して窓から捨てたりする。

Alfred Döblin - Fassbinderが『ベルリン・アレクサンダー広場』でパノラマ的に俯瞰してみせた戦後(あっちは第一次大戦後、だけど)の復興と混沌に曝された都市の歪んだありようや人々の群像を、あそこまでどろどろ地を這うようにではなく、乾いたシュールなトーンとちょっと芝居がかったタッチで – とてもDaniel Schmidふうのアングルで - 描いていて、おもしろい。 こんな内容なのに原作の戯曲のそれとはぜんぜんちがう『天使の影』なんてタイトルを付けてしまう抽象的な目線も含めて。(自身もユダヤ人であるDaniel Schmidの見えざる意向のようなものはあったのかどうか)

戦後ドイツの復興を巡る言葉とかイメージの後ろに隠されたり弾きだされたりしたアウトサイダーたちの、過激なほうではない、地べたに這って地味に客引きしたりポン引きしたり掠め取ったりしていた小物たちの、それでもそうやって生きていかなければならなかった彼らの、例えば愛とか執着とか美醜とかはどんな絵模様や境界線を描いたのか – なかでも彼らはどんなふうに死んだり消えていったりしたのか、カメラのこちら側をどんなふうに見つめようとしたのか、など。

上映後のトークは原作の戯曲から主人公たちの名前が変えられていること – LilyはRoma B.だったしRaoulはFranz B.だったこと - とか、映画アカデミーの一期生だったDaniel Schmid とそこを落ちた不良のFassbinder、そこにWerner Schroeterを加えた三角形と、それに加えてもうじき「ベルリン三部作」の特集が始まるUlrike Ottingerが描いた「女性」のいる世界と。 おもしろいのはみんな都市的な何かを写し取ることを目指しているようで結果として「世界」まるごとがそこに倒立して入ってしまっているようなところだろうか。 狙ってそうしている、というより計らずして写りこんでしまった、というか。

はっきりと腐って落ちていく戦前を生きるいまの我々には、だからこんなにもFassbinderが必要なのだ、って改めて - と言いながらいつもなのだが - 思うのだった。そこに天使の影とかゴミとかクズとかしか映っていなくても。

8.02.2023

[film] Van Gogh (1991)

7月29日、土曜日の午後、日仏学院の企画『映画、気象のアート』で見ました。

この企画については、そうだよねえ、光と闇もあるけど、室内劇でない映画って、それはそれは気象や天候に支配されているものだなーと7/19に実施された坂本安美さんによるレクチャー『エリック・ロメール 四季の物語をめぐって』を聞いて思って、でもいろいろ慌しくてロメール作品はちっとも見ることができず、7/22に”O Sangue” (1989) - 『血』を見て、7/28にJean Epsteinの3本を見て(これはすごかった)、そうやっているうちに日々の気象がレッドゾーンの我慢ならない状態になってきたので、やっぱり見ないとだめだ殺される前に、って見る。

いちおう(何がいちおうだ)、朝一で上野の都美術館で『マティス展』を見て、西洋美術館で『スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた』を見て、頭を絵画モードにして(たいして意味ないし)、日仏に向かったのだが、たどり着くまでに簡単にへろへろになり、ふざけんなよ気象、になった。

Maurice Pialat監督・脚本による本作は、前にもたしか日仏で見ていて、大好きな1本で158分だけどちっとも長くなく涼しい暗がりで過ごすには本当に心地よくて、いくらでも見ていられる。

Vincente Minnelliがゴッホを描いた”Lust for Life” (1956)も好きだけど、やはりこっちかも。ゴッホという画家本人にも彼の描いた絵画にもそんなに強い思いがあるわけではないので、この映画に描かれたオーヴェル=シュル=オワーズの風景や四季や気象に溶けていくような画家の肖像がなんでか気持ちよいの。

Vincent van Gogh (Jacques Dutronc)が田舎の駅に降りたって、ほぼ自動で運ばれた先の酒場の2階に下宿することにして、近所に住む医師で彼の画を買ってくれたりしているGachet (Gérard Séty)を訪ねて、彼の娘のMarguerite (Alexandra London)を遠くに眺めつつ近寄っていったり、訪ねてくる弟のTheo (Bernard Le Coq)とその家族と会ったり、田舎に集団で遊びに来た娼婦たちとちゃらちゃらむっつり遊んだりしながら、屋外では村や畑を描き、それとは別に軽く頼まれたりすればてきとーに絵を描いたり、の日々を追う。

この時点のゴッホは既に晩年で、耳を切ったりした後で、心身双方の病がそれなりに進んでいるイメージがあったのだが、この画面のなかの彼は少なくとも表面は穏やかな能面で、取り返しのつかない修羅場が展開する場面が映されることはない。ゴッホ本人の表情はほぼずっと変わらなくて、周囲も(人によるものの)おっかなびっくり彼に接していて、そのゆらゆらした緊張と、その線を超えているのか見えていないのか彼がそこを歩いたり相対したりしている村や田舎の美しい景色や女性のドレス、川を進む舟などがまるでルノワール(父のも息子のも両方)だったりモネだったりするのはなんとも言えずおかしい。

やがてゴッホはなにかと傍に寄ってくるMargueriteと仲良くなって一緒に踊りにいったり寝たりするのだが、Margueriteの方はともかく、彼がこの関係を今後どうしようと思っているのかはちっともわからないまま、持っていた拳銃を絵筆を振りおろすように自分の腹に向けて、動けなくなってしまう – ねじ回しで彼が動いている状態と同じようにただ動きが止まって動かなくなる – そういう動物のような動静のなかで彼の死が野良犬のそれのようにやってきて。 そこにはなんのドラマもエモもなくて、それがとてもゴッホらしい、というか。

そしてこういうのが、あの穏やかで乾いた気持ちよさそうな大気や緑のなかで緩やかに輪郭をなぞって動いていくのがよくて、ロメールの映画の登場人物のように開かれていてどこに向かうのかわからない(ロメール作品を見ていていらっとするようなところもなく)、そうなったところで、ではあの、星の降る夜も渦を巻く糸杉などは彼のなかのいったいどこにどんなふうに見えていたのだろうか?って。

あと、最後の方でギュスターヴ・ドレのドン・キホーテの話が出てきたので、少し前に上野で見たのに繋がった。どうでもよいけどうれしい。

この後の『草の上の昼食』(1959) も見て、ここには↑のとぜんぜん種類の異なる人々が登場してじたばたするのだが、ここでも田舎の風景だけは絵のように変わらず(やや風が強めに吹く)、いいなー、ってなるのだった。

いつかはこういう夏休みを、ってもう何万回も唱えている。

8.01.2023

[film] L'Amore (1948)

7月25日、火曜日の晩、シネマヴェーラのネオリアリズモ特集で見ました。
邦題は『アモーレ』、英語題は国によって、で英国だと”Love: Two Love Stories”だったり。 おおーむかしに三百人劇場で見た、たしか。

監督はRoberto Rossellini。2部構成になっていて、第一部がJean Cocteauの戯曲”Una voce umana” (1929) – “The Human Voice”が原作、第二部の” The Miracle”がRamón del Valle-Inclánの小説 - ”Flor de santidad” (1904)原作のをFederico Felliniが脚色している(少しだけ出演もしている)。映画はAnna Magnaniに捧げられている(あったりまえ)。

第一部はホテルの部屋にいる女性(Anna Magnani)が受話器を手に恋人と思われる彼 - 彼の方の声はちりちりで聞こえない - と話をする。電話の様子からふたりはもう別れて彼の方は結婚しようとしているようで、なにが悪いのか遠かったり途切れたり何度か掛かってきたりする向こうの声に女性は必死でしがみつきながら、懇願して諦めて絶望して祈ってを繰り返す。ふたりの仲がどんなだったか、相手がどんなでなにが起こってどう別れたのか、は一切明らかにされず、ふたりの間にあるのは受話器と電話線と、そこを抜けていく彼女の声のみ。そんな彼女の声の大小、抑揚、肌理が、向こう側にいるらしい相手に握られてしまっている彼女のこれからの生のすべて。 そんな生の輪郭が。

同じCocteauの原作を元にしたPedro Almodóvarの監督 - Tilda Swinton主演による短編”The Human Voice” (2020)と比べてみるとあまりに違うのでびっくりなのだが、現代のフツーの反応としては、地味でめそめそしたAnna Magnaniに対してカラフルでかっこよいTilda Swinton、になるのだろうか、そういうところも含めてヒトの声が女性のありようをどう映しだしたり動かしたりするのか、を約70年のスパンで見てみる、とか。

“The Miracle”は↑のと対照的にずっと野外 - 野宿の話で、丘の中腹でヤギの世話をしていたNannina (Anna Magnani)がぬっと現れた浮浪者だか僧侶だか、得体の知れない男を聖ヨセフと思いこんで彼に話しかけるのだが、彼はそれに応えずに持っていたワインを彼女に飲ませて彼女はそのまま寝込んで、彼 = 聖ヨセフを見たのは奇跡に違いない、って思いこむ。

そのうち彼女は妊娠していることがわかり、それもまた奇跡だって騒ぐのだが、町の人々からは揶揄われてちょっかいを出されて追われるようにヤギに導かれて山の上の教会に這うようにたどり着いて倒れて、そこで子供を出産して、溶けたような表情になるの。

どちらのエピソードもひとりになって(されて)しまう女性の苦難とそれをたったひとり(ひとりしかいない)で受けとめるAnna Magnaniを描いて、それだけで十分で、そこに「愛」というタイトルを被せてしまうので力強く圧巻で、聖なるなにか、について考えたくもなるのだが、これって今の世の中の表象としてどんなふうに位置づけられてしまうのだろうか、とか。(例えばLars von Trierが描く女性などと比べて)


Luci del varietà (1951)

7月26日、水曜日の晩、シネマヴェーラの同じ特集で見ました。この特集での最後の一本となってしまった。 邦題は『寄席の脚光』、英語題は” Variety Lights”。

作・監督はFederico FelliniとAlberto Lattuadaの共同で、Felliniの名前が監督としてクレジットされた最初の1本。

イタリアの小さな町に立ち寄って公演する旅回りのボードヴィル一座の舞台を見ていた野心たっぷりの若い娘Liliana (Carla Del Poggio)が舞台に参加して、最初はなんだこいつ状態、だったのを満員御礼に変えて自信をつけた彼女は座長のChecco (Peppino De Filippo)にべったりになって一座の旅に同行しCheccoの愛人のMelina (Giulietta Masina)とか全員から顰蹙を買うのだが、ふたりはお構いなしでローマで自分たちのシアターを立ち上げようとして…

万年貧乏でそんなにうだつの上がらない旅芸人一座に巻き起こるいかにもありそうな波風と、そんな程度の浮き沈み程度では懲りない変わらない芸人たちが絡まって漂うどたばたコメディで、よたよたした旅の終わらないかんじと、でもなんだかんだそういうのが好きなんだよねー、の突き放し感がたまんない。イタリア映画を見てよく思う、ずっとやっていなはれー(関西弁)が滲んで浮かんで。

[film] EUREKA (2001)

7月23日、日曜日の午後、”PLASTIC”を見たあとに国立映画アーカイブの企画『逝ける映画人を偲んで 2021-2022』で見ました。

この作品は青山真治の没後、2022年5月に新宿で追悼上映されたデジタルリマスター版を見ていて、これでも十分すばらしかったのだが、これはぜんぜん違うものとして見ることができた。フィルム上映大好き、デジタル嫌嫌派ではぜんぜんないの(いまやそんなこと言っていたら映画見れないよ)だが、画面が4K-8K-16Kになったとしても映しだされ得ない何かがあることはあって、それがなんなのかは、あるんだもん! しか言えないのだが、そんな何かが映されている。これって現物を見ないことにはわかんないんだけど。

この作品はモノクロ・フィルムで撮影したものをカラー・ポジに現像・プリントして、その際に撮影の田村正毅の発案による特殊な色調「クロマティックB & W(ブラックアンドホワイト)」というのを採用していて、これは相当に細かな手(目)調整が要求されるものらしいのだが、今回、当時のタイミング担当・上野芳弘氏の監修によりニュープリントされたと。監督も撮影も既にいなくなってしまっているので、こうあったはず、というのを知っている方が手掛けられたのは大きい。

この映画、冒頭に正面を向いた宮崎あおいの像から入って、旅を続けている彼らの過去から現在に向かう – なんで自分たちの生はこんなことになってしまったのかを見つめて問い続ける時間のなかにあって - 映画ってそもそもそういうものだと思うが - その問いは生きている限りいつまでもどこまでも続いて止むことがなく行ったり来たりを繰り返し、へとへとになってどうにか現在(色付き)に追いつくまでを追っていく。

そうやって何度も再生される時間・記憶の色調として、この映画のカラーについてはセピア色、というのがよく言われているもので、モノクロではないのでそう呼ぶ - あるいは「クロマティック」と - しかないのかもだけど、この映画で使われているセピアのトーンは、単に半音階(クロマティック)と形容できない全音階と半音階の間の、その隙間にある無限の段々のバリエーションを含んで単に昔のスクラップや絵葉書の枯れて萎れた写真の色のかんじではない、人によっては豊かさと言うかもしれない、人によっては不安定で脆い、と言うかもしれない、そんなふうに生々しく震わせ、惑わせる効果を生んでいると思う。そこに流れてくるAlbert Aylerの”Ghosts”やJim O'Rourkeが歌う主題歌の死にかけた蚊のような声。

だから最初の方のバスジャックの犯人とのやりとりのところ、何度も映される兄妹の家屋、なにもない家の周りの景色、パイプで作られた墓標、バスの窓から移って消えていく風景、「ママドック」の看板、これらはぜんぶ異なる質感で撮られ、登場人物たちの記憶のなかで何度も何度も再生され擦られて、決して記憶の特定の引き出しとかページのどこか、にすんなり収まってくれない。特に役所広司と宮崎将が対峙する夜の場面で浮きあがってくるノワールの悪夢のようなあれ、とか。

あの夏の日、暴力的に奪われていった生の像は亡霊のように何度も現れてなぜ今がこんなふうになってしまったのか?を繰り返し折り重ねていく、彼らのそんな擦り切れた日々は、この映画を再び見る我々の感覚にも覆い被さってくるような気がした - 毎夏にやってきて留まる原爆の記憶を語る声のように。同じ本を何度も読み返していくうちにその痕が重なってページの方が引っついてくる、あの感じがこのプリントにはあって、これからも何度も見返していくことになるに違いない、って。

あと、少し繋がっていそうな気もしたけど『君たちはどう生きるか』とはあんま関係ないかなー、って。秋彦(斉藤陽一郎)ってアオサギみたいなもんなのかしら、とか思ったのだが。 どうでもいいわ。