5.31.2017

[music] The Afghan Whigs

30日の晩、KOKOていうダンスホールみたいなところで見ました。
入口のボディーチェックと鞄検査は2回。 まあそうでしょうな。
NYだとホールのサイズも含めてWebster Hallを縦に延ばしたかんじ。天井にでっかいミラーボールがはまっているところとか。

中に入ると、ちょうど前座のEd Harcourtの最後の声が消えたところだった。

The Afghan Whigsのライブを最後に見たのは(いろいろ掘ってみると)94年の4月7日、NYのAcademyていう今はもうないvenue(ここ、よい小屋じゃった..)で、とにかく素晴らしかったの。 ギターが3台いるのにうるさくないし、メンバーはグランジの雑巾じゃなくてスーツとか着てるし。
93年にリリースされた"Gentlemen"がグランジ一色だった当時のシーンのなかでどれだけ異色で、しかしかっこよく響いたか説明するのは難しいのだが、いまの彼らの前ではそんなの全く不要になってしまっている。どっちにしたってすごかったんだわ。

その後、The Twilight SingersとThe Gutter Twins(08年のロラパ)でそれぞれ一回づつ、Greg Dulliは見ているのだが、再結成後は初めてで、そこに向けて何度か渡米を試みたものの失敗して泣いた苦い思ひ出はある。

オープニング、オペラのアリアみたいのが荘厳に流れ、それが止まって一瞬の静寂ののち、"Birdland"のイントロが始まると、Greg Dulliがひとり歩いてきてハンドマイクで歌いあげ、最後のパートでギターを受け取るとメンバーが入ってきて間を置かずに"Arabian Heights"のジェット機の轟音のなかに踏みこんでいって、ギター4台のやかましさ、その砂嵐の勢いは次の"Matamoros"でも留まることはなくて、気がつけば"Debonair"のイントロが滑りだしているのでみんな大絶叫して、とにかく冒頭の4曲で鼻水→鼻血→涎→涙がだらだら垂れ流しで、頭部の汁分がなくなってやばいかんじになった。 

"Debonair"の"It's in our heart 〜 Tonight I go to hell"のところは観客全員が天を仰いで一緒に叫ぶ。 干支2回転ぶん前のときもそうだった。 どこにいたって、ずっとそうなんだわ、ずっと地獄に堕ちっぱなしなんだわ、て思って少し身震いした。

ほぼずっとギター3台〜4台、うちひとりがたまにキーボードやフィドルになるだけで全体としては弦のがりがりじゃりじゃりが隙間を埋めつくしていて、やかましくけたたましいことときたらSWANSあたりを思い起こさせる。 SWANSになくてこっちにあるのはリズムの間とかタメのとりかたで、ここにはR&Bのうねって跳ね回るかっこよさがあって、(信じられないかもだけど)The Whoみたいだわ、と、ところどころで思った。

ていうのと、そんなバンドの音にまったく負けずに素手で天井をぶちぬこうとするGreg Dulliのヴォーカルのとてつもない強さ、ボディもThe Gutter Twinsの頃、John Belushiに見えなくもなかった体型を見事にリビルドしてて、よい意味で安定感ばつぐんだった。

終盤の3曲くらいでGreg Dulliが鍵盤を叩いて、その乾いたトーンもよかったのだが、"Lost in the Woods"は再び全力疾走になって、最後はなんでか"Penny Lane"で締まった。

アンコールは1回4曲(?)、ラストはBonny Raittの"I Can't Make You Love Me"を感動的に歌いあげながら"Faded"に突入して、 Fadedした。

[film] Toivon tuolla puolen (2017)

英語題は"The Other Side of Hope"。 Googleで訳してみると"I hope beyond that"とか。

26日の晩、CurzonのSOHOでみました。 ここだけデジタルと35mmの両方のバージョンを交互に上映してて、35mm版のほうを。
これの2週間くらい前の土曜日、ここで”Le Havre" (2015)との2本立て(どちらも35mm)のプレビューがあったのだが、それは行けなかった。
冒頭の夜の波止場の風景からして素敵で、字幕の滲んだようなかんじといい、やっぱり35mmいいなー、だった。

で、その波止場に繋がれている貨物船の石炭みたいなのの積荷の缶からウィラード大尉みたいにぬうって頭を出してきたのがシリア難民のKhaled (Sherwan Haji)で、彼はそのまま船を出て駅のほうに向かい構内のシャワーを浴びて、難民申請をしに警察にいく。 もうひとり、シャツ配送サービスの仕事をしているがっちりして強そうな初老のおじさんWikström (Sakari Kuosmanen)がいて、彼は何を決意したのかガラ悪そうな妻のとこに指輪を投げ捨てて出ていって、賭博でいきなり大金を稼ぐと、それを元手に売りに出ていたレストランを従業員3人ごと買ってレストランをはじめる。

Khaledのほうにはシリアを出たあとで離ればなれになってしまった妹がいて、彼女以外の身内はシリアでみんな殺されてしまったので、彼はなんとしても難民登録された状態で彼女を探しだして一緒に暮らしたいと思っている。

移民局との面接の後でKhaledには非情にも強制帰国の決定がくだされて、その結果に彼は無表情で、悲しむことも悲嘆することもなく、でも送還直前に彼はするりと塀を越えて逃走して、おじさんのレストランのゴミ置き場にいるところをおじさんに見つかり殴り合い一往復のあとで、気づけばレストランで働き始めている。どこからか怪しい人たちが現れて偽の滞在許可証を作って貰える。 でもレストランのほうはあまり儲かっていないようでいきなりスシやってみたり苦労していて、楽じゃないよね、なの。

こんな具合に、シリアを中心とした誰が見たって絶望しか見えないような状況のなかで泣くことも笑うこと狂うこともできなくなってしまった男がいて、これほどひどくはないものの(なんて誰にも比べられるものではないけど)自身の人生のどん詰まりを見据えて同様に無口に不愛想になってしまった男がいて、彼らふたりほど詳細には描かれないものの同様に右往左往している(少なくとも希望に溢れて輝いているわけではない)人たちがいて、彼らのまわりではカントリー・ロカビリー・浪花節・パンクみたいのが楽団によってじゃかじゃかやかましく奏でられていて、そういう状態を "The Other Side of Hope"なんて呼ぶことは適切なのかどうなのか。

難民問題について、あるいはフィンランドの社会福祉についておおまじめに論じたり問うたりしている映画ではないことははっきりしていて、たぶん、登場する誰にきいても「希望? そんなのしるかボケ!」になるのだと思うのだが、それでもこの映画がふたりの仏頂面と共に描きだそうとした路上に寝ているひとを拾ったり、犬が(犬だけは)寄ってきたり、ていう波止場の風景、は悪くないよね、て思った。

Aki Kaurismäkiのどの映画もそうだけど、ひとりひとりの顔がどいつもこいつもたまんなくよくて、今回は特にKhaledの(無)表情がすばらしいったらない。 すばらしいなんて言うな、て彼は静かに言うのだろうけど。
KhaledとWikströmが並んで立っているだけで、じーんとくる。

やけっぱちのようにがしゃがしゃどこかで鳴り続けている音楽もよくてねえ。高揚するわけでもどんよりするわけでもない。Alternativeではない、Other Sideで鳴っている、誰かが延々鳴らし続けている音。

あと、紀伊國屋書店の文庫のカバーが唐突に出てきてちょっとじーんとした。(カバー付きの本を展示? しているの)
誰が置いていったんだろうねえ?

5.28.2017

[art] Marc Quinn: Drawn from Life

いまSir John Soane's Museumで行われている展示があって、その関連イベントとしてトークがあって、ほんとうは展示を見てから行くべきだったのだが、間に合わなくて17日の晩にトークを聞いて、展示のほうは27日の昼にようやく見れた。

http://www.soane.org/whats-on/exhibitions/marc-quinn-drawn-life

Marc Quinn in conversation with Darian Leader
場所は、John Soane's Museumの公園を挟んで反対側、The Royal College of Surgeons。
トークの聞き手はDarian Leaderという精神分析学者 - 日本でも『本当のところ、なぜ人は病気になるのか?』ていう翻訳(未読)が出ている - で、今回の展示のカタログにも彼の作品についてのエッセイを書いているひと。
精神と身体の統合とか分断を巡るよくありがちな議論に終始したらやだな、と思っていたがそうはならずに、Marc Quinnさんが聴衆も含めて聞かれた質問に丁寧に答えつつ自分のアートについてとってもわかりやすく明快に語る、というものだった。

今回展示された12個(体 or ?)の像はすべて女性の体で、頭部はなくて、肩のあたりから翼のように鎧のように男性(と思われる)の二本の腕 - 腕のみが背後から伸びて、女性を支えているようにも繋ぎとめているようにも抱きしめているようにも拘束しているようにも見える。(つまりは愛をめぐる - )
作品によっては下半身が別につぎはぎされているようにも見え、背後にまわるとその背中はぱっくりと開いていて、その内側はからっぽの外皮のみなので、とてもFragileなものに見える。 いろいろな断片が組み合わされているようで、でも立像としてのバランスや統合感はすばらしく、どこかの遺跡から発掘された彫刻の一部、と言っても通用してしまうかもしれない。

そして、そういうアートが世界中から集められた断片やこわれものの集積地であるところのJohn Soane's Museumに置かれている。12体は実際にここの上階の展示室に並べられているのではなく、地下から上まで、ギリシャ彫刻や古今東西いろんなガラクタの間に紛れて置かれていて、その違和感のないことときたら驚異としか言いようがない。この小さな館に来ていつも感じる、時代も地域もばらばらなアートの破片や欠片があの狭い空間に並べられることであきれるような整合感 - 数百年前からそれらはそこにあるべくしてあった、みたいな - 感覚が来て、その不思議さがふたたび。

で、彼のトークはこういった作品のコンセプトや展示場所について、見る側の想像力に委ねるとしながらも、自身の見解を淡々と語って、それがあまりに思った通りすぎたので、ああなんてまじめな方なのでしょう、と思った。

印象に残ったのは、この作品はグラスファイバー製で、壊れやすいように見えるけど、実はものすごく強いんだ(つまり… )とか、作品の構成について考えることは世界について考えていくことと同じで、その点で自分の仕事はサイエンティストのやっていることに近いと思う、とか。
あと、あのボディは彼のガールフレンド(ダンサー)の身体から型取りしてるんだって、さ。

最後の展示室には今回の作品群の型と製作過程の写真があって、型の欠片たちは脱皮したあとに残された皮のように見えた。 そして今回の展示作品もまた(背中が開いているし)脱皮後の殻なのだな、と思った。

Marc Quinnさん自身は、最初とっつきにくそうだったけどヤンキースの帽子を被っていたのでこのひとはいいひとなんだ、と思ってカタログにサインもらった。


もういっこ、Tate ModernでAlberto Giacomettiのレトロスペクティブ。5月14日に見ました。
ロダンとおなじく必見すぎるので詳細は書きませんが、針金彫刻ばかりのひとだと思ったらおおまちがいだからね。 デッサン群がすばらしかった。矢内原伊作先生もとうぜんいる。

Marc Quinnのあれらの像が脱皮を繰り返していくと最後にはGiacomettiのになるのだとおもう。
(あと何回? 何年?)

[log] Toronto -- May 2017

トロントのおもひで、は実はあんましない。
過去に4~5回は行っているのだが、どの滞在のときも少ししかいれなくて、いつもMulti-Curturalな町、と説明されて実際にいろーんな人とすれ違うので、そうなんだろうな、くらい。 ふつうの会社の一画に缶詰になってずっと会議していただけで、いい会社のいい人たち、くらいなの。 それでぜんぜんよいのだけど。

天気はずっとよくて、暑くも寒くもなくて、食事はホテルのしかなくて(出かける気分になれない)、晩の7時くらいにそこの裏庭には大量のカナディアングースとその雛どもがどこかから湧いてでて、リスと喧嘩したりしてて、8時にはどこかに行ってしまった。
TVもJimmy Fallonはがんばって見たかったのだが23時ってロンドンの朝4時なので眠くて落っこちてしまった。

行きのBAがファーストになって、初めて行ったそこのラウンジで書き忘れていたのは、いろんな部屋とか区画があってわけわかんないのだが、トイレの個室にPeter Doigのほんもんがあったり、トイレを出たとこの通路にJulian Opieの連作がどかどか並んでいたり、他にもいろいろありそうだったが怖くなってきたのでやめた。あれ、雑誌みたいに持ち帰ってよければいいのに。

ファーストの座席はへんてこな操作パネルとかつまみがいっぱいで、そんなのいじって遊ぶほど子供ではないし、そういうのはいじっているうちに勝手に壊れてしてしまうことがなぜか多いので、そんなの知ってるもん、ていう態度でよいこにしていた。
ご飯は極めてふつうにおいしかった。 びっくりするほど、ではなかったかも。

行きの便でみた映画いっぽん。

A Monster Calls (2016)
原作は Patrick Ness の同名ファンタジー - 邦題は「怪物はささやく」(未読) - で、脚本もNess本人がやって、これをスペインのJ.A. Bayonaが監督している。 日本では来月公開みたいね。

13歳のConor (Lewis MacDougall)は具合のよくない母親 (Felicity Jones)とふたりで暮らしていて、母のかわりにむっつり家事をしてひとりでご飯を食べて絵を描いたりする以外はすることがなくて、学校にいってもみんなに虐められてばかり。 祖母(Sigourney Weaver)やアメリカで離れて暮らす父からはそれぞれの家に来て一緒に暮らすように言われるが、彼には全く納得がいかない。 ママを一人にするのか? と。でもママがそんなに長くないことは彼にもわかっている。

彼には時刻が12:07になると見る夢だか幻覚があって、それは自分の家もなにもかもが地割れの奥に消えてしまうというやつで、繋いでいる誰かの手を離しそうになって汗びっしょり、で目覚めるのだが、ある日そこにでっかい老木の怪物 - Grootが巨大化したようなやつ - 声はLiam Neeson - なんでああいう樹の声っていつも渋いじじいの声なんだろ? - が現れて、これから3つの物語を聞かせるからそのあとで、お前が4つめの話をするんだ、ていうの。 あんたの話なんて聞きたくないし聞く理由もないし構うな、ていうのだがいいから聞け、って無理やり聞かせるの。
でっかい木の怪物が動いて話かけてくるのも、その話の内容も、ママの病気も、いじめっこのいちゃもんも、Conorにとっては理不尽でぐちゃぐちゃわかんないことだらけで、子供と大人の中間にいる彼はそれにどう決着をつけるのか。

こういうのを大人の教条目線にも克服路線にも頼らずに混沌のまま差し出していて - 映画としてだいじょうぶか? くらいのことは思うのだが - Conorの風体も、所謂孤独なかわいい少年のそれではない、ずっとなにかに取りつかれたぎすぎす異様な目をしていて、Sigourney WeaverもFelicity Jonesも地球外にいるときの強さはまったくなくて、ひたすらやつれて打ちひしがれている。

結論はあそこしかなくて、切ないに決まっているのでなんかずるいわ、なのだけど。

帰りの便でもいっぽんだけ見た。 すぐにでも寝たかったのだが、ご飯食べないで寝ると後ですごく調子がわるくなるし、ここの便は寝過ごしたら後で持ってきてくれるほどやさしくないので、ご飯食べ終わるまでがんばって起きていないといけない。

で、”I, Daniel Blake” (2016)を見ようと思ったのだが冒頭のやりとりの英語(よね? あれ)でこれはあかんわ、て字幕をだそうと思ったのだが字幕も嫌がって出てくれないので、別のにした。眠くならなそうなやつ。

xXx: Return of Xander Cage (2017)
“Return of..”とあるのでシリーズものなんだな、と思ったが前のは見ていなくて、”Fast & Furious”のまるっこいほうのハゲ(どっちがどっちだかあんまし)が出ていて、でもSamuel L. Jacksonが出て来たのでAvengersなの? とか思っていると彼はいきなり落ちてきた人工衛星にぶつかってしんじゃって、その人工衛星を落っことした装置をめぐってのどっちが善玉でどっちが悪玉かよくわからない(わかんない言葉を喋るほうが悪)追っかけっことどんぱちが始まって、それはAvengersよりは地味で、“The Expendables”よりは若々しくて、”Suicide Squad”より溌剌としてて、Donnie Yenさんの立ち回りが見れたのでいいけど、あのハゲってほんとうに強いのだろうか? って。

Samuel L. JacksonはやっぱりAvengersと同じように死んでいなくて、ひょっとしたらこいつはどこまでも不死で、ひょっとしてひょっとしたら、The Last Jediっていうのはこいつだったりして、とか。

xXx、って結局なんなのかよくわかんなかった.. 

今日(27日)いちにち、BAはシステム障害とかで止まっていたらしいのだが、話を聞けば聞くほどおそろしいねえ。

5.26.2017

[film] The Levelling (2016)

14日の日曜日、Tate Britainのイベントに行く前にBFIで見ました。

2014年のSomerset Floods(という災害があったのだ、とこの映画で知った)のしばらく後、大学に通っていたClover (Ellie Kendrick)は弟が亡くなったという連絡を受けて実家の農場に戻ってくる。 乳牛はまだいるけど家は住める状態には復旧していなくて、父(David Troughton)と犬がぼろぼろの状態で暮らしている。

弟は自分ちでやったどんちゃんパーティの最中に銃で死んで、それが酔っ払っての暴発事故によるものだったのか、自殺だったのかは不明で、弟が亡くなった現場を掃除したり部屋を整理したり、搾乳を手伝ったり、自分の気持ちを整理して落ち着こう落ち着こうと思って未だに打ち解けなくて弟が亡くなってから更に疎遠になりつつある父との間で今後のことを話そうとするのだが、父はいいから葬儀が終わったら学校に戻れ、しか言わない。

弟は家業の牧畜を継ぐのだか継がされるのだかの境目にいて、災害からの復旧がぜんぜん進まない今の状況でのそれは彼にとってはじゅうぶんな重荷で前途もまっくらで、自殺だったとしたらこれが動機としてじゅうぶん考えられるのだが、父は弟の最後の頃の様子について口を閉ざして語らずに酒ばかり飲んでいて、このままだと跡取り不在で牧場は閉鎖、乳牛は屠るしかないのだが、ここを出て大学に逃げてしまった自分にはどうすることもできないしその資格もないし、という苛立ちがCloverを二重にも三重にも縛って苦しめて、どうする?

すべては災害のせい、と言ってしまうのは簡単だし事実そうなのだろうが、それにしてもあまりに(出てくるひとたちみんなが)過酷でかわいそうで、おそらくこういう状況はここだけではなくて、日本の被災地でも同じようなことが起こったり今も続いているであろうことは容易に想像がつくし、そういう成り行きの普遍的なところを最小限の人物構成と家族単位で緻密にきちんと描いている。

マンチェスターのテロを受けてのMorrisseyのTweet - 政治家たちが「怖れない」とか「分断されない」とか言うのは簡単だ - ではないが、災害から「立ち直る」とか復旧の辛苦に「負けない」とかも同様にスローガンのように言ったりすることはいくらでもできて、でもそれらにどう対処すべきかを具体的に指し示すことってほんとうに難しい。 被災状況が、その悲惨さが露わになればなるほどひとりひとりに立ち入られたくない領域は出てきて、それを守るには黙って消えるしかないのだろうか。だから、そういうのを災害と呼ぶのだ、とか元に戻って間抜けなことを思ったり。

そういういろんなことを Ellie KendrickさんとDavid Troughtonさん、この二人の静かな演技と後ろ頭と切り返しが考えさせてくれて、とてもよい小品だとおもった。

5.24.2017

[film] Snatched (2017)

21日の日曜日の夕方、”Colossal”のあと、なんも考えなくてもへらへら笑える、さらなるバカを求めてLeicester Squareで見ました。

Amy Schumer、Goldie Hawnが出てて、監督がJonathan Levineで、製作にPaul Feigがいるんだからぜったい見ないわけにはいかない。 夕方の回は小さい部屋だったけど売り切れてたし。ほうら。

いつものようにEmily (Amy Schumer)は不良でしょうもなくて勤めている婦人服売り場もクビになって、恋人といく予定だったエクアドルへのバケーションも彼にフラれておじゃんになりかけで、でもチケットがリファンド不可、だったのでおうちで猫と兄Jeffrey(Ike Barinholtz)の世話ばっかりで引きこもりのような生活をしているママ(Goldie Hawn)を無理やり外にひっぱりだして、一緒にバケーションに出かける。

エクアドルはなんでも揃った滞在型のリゾートで、声をかけてきたイケメンにふらふらくっついてすこし山奥のほうにアドベンチャー気分で車で行ってみたら、やっぱり車をぶつけられて山賊みたいのに囚われてどうしよう、ていう母娘のアドベンチャー活劇なの。

なんとかおうちに電話してみると、マザコンでやはり引きこもり気味の兄はパニック起こしてワシントンD.C.に電話してそこの担当とえげつないやりとり合戦を始めるし、ホテル従業員の変なふたり組(Wanda Sykes & Joan Cusack)も動きだすし、なんといっても黙っているだけの母娘ではないので、それぞれが脱出・救出に向けて勝手に動いて収拾がつかなくなって、決着なんてなくてもいいや、くらいにはなる。

というようなどたばたじたばたはあるものの、これはスマホを放すことができなくて承認欲求の塊になってしまった娘とそんな子供達の世話に忙殺されてきた母親との戦いと和解のお話でもあって、ふたりがまじで喧嘩するシーンは、他のどんな場面より迫力があって切なくて、母の日映画、でもあるなー。

他方でEmilyの腹に入ってしまったサナダムシを生肉でおびきよせて口から引っ張りだすとか、ありえないシーンもたっぷりで、たまんないの。
ありえないでいうと、Goldie Hawnの娘がAmy Schumerでよいのか問題もあるのだが、この映画のなかではびっくりするくらい二人の母娘ははまっていてよいの。
Amy Schumerさんの演技って、改めてぐにゃぐにゃでふにゃふにゃで、明らかに従来の意味での「演技」ていうなにかとは違う気がするのだが、目を離すことができない。

あとは、救出に向かうホテル従業員 - 一言も喋らずに忍者のような動きで周囲を圧倒するJoan Cusackなんだが、この映画で唯一不満が残るとしたら彼女の見せ場をもっと、もっとJoan Cusackを !  ていうことに尽きる。

こーんなにおもしろいのに、どうせ日本ではDVDスルーか、“Trainwreck” (2015)みたいに1年以上経ってゴミみたいな邦題つけられてリリースされるんだろう。 別にいいもん。🖕

[film] Colossal (2016)

リスボンから戻った翌日、21日の昼、CurzonのSOHOで見ました。 公開直後なのにお客いなさすぎる。

Anne Hathawayさんによる待望のバカ映画、と楽しみにしていったのだが、そんなにバカなやつでもなかったかも。悪くはなかったけど。

恋人できちんきちんとしたTim (Dan Stevens)とNYで暮らしていたGloria (Anne Hathaway)は朝帰りばっかりでふしだらで酔っ払ってすぐ記憶なくしたりするのでもう出てってくれ、と追いだされて、泣きながら田舎の空き家になっている実家に戻ってきてしょんぼりと暮らし始めたら、小学校のときの幼馴染のOscar (Jason Sudeikis)と再会して、彼の経営する地元のバーでバイトを始める。Oscarは家具を持ってきてくれたり親身になってあれこれ親切にしてくれるのだが、そんなある日、韓国に現れた巨大怪獣のニュースを見ているうち、ある場所での彼女の動きと怪獣の動きがシンクロしていることに気づいてパニックになって、怪獣が攻撃受けると自分も痛かったりするので、それってどういうことよ! になる。

細かく書いちゃうとつまんなくなるので書きませんけど、やがてGloriaが怪獣で、Oscarが巨大ロボットであることがわかって、映画はなんでそういうことになっちゃったのか、という話と、彼女はそれにどうやって決着をつけるのか、というあたりが中心になって、彼女の動きが怪獣のそれとおんなじゃん! てなるところとか、しかもなんであんなにでっかくなっちゃってるんだよ? ていうところは割とおもしろいし、最後の決着のつけかたも痛快で握りこぶしつくってやったれ! になるのだが、髪の毛ぼさぼさ、気性ぼろぼろですさんで疲れきった彼女がなにかを掴んで、というところだと”Rachel Getting Married” (2008) とかに案外近いのかもしれない。

肝心のテーマも結構込み入ったものかと思ったら昔からよくあるあれで、怪獣戦闘ものとして見ても荒らされちゃった韓国の人たちにはほんとうに悪いけど、そんなでもなくて、どうせなら”Pacific Rim” (2013)のJaegerに乗りこんで思いっきりどかどかやる、くらいにしちゃえばよかったのに、て思わなくもない。
あとこれは100%自分の問題なのだが、やっぱり彼女って”The Princess Diaries” (2001) なんだよね、どんだけがんばっても、ほんとに申し訳ないけど。 でもこの映画であれば、別に王室にいたって通用する設定かも。

それ言うなら、彼女の大きい目があれば、になってしまうのではないか..

[art] The Animals: Love Letters between Christopher Isherwood and Don Bachardy

トロントにいます。 飛行機から降りたところでマンチェスターのテロのことを知って、ウェストミンスターのときもそうだったが、異国に着いた途端に自分の住んでいるところのテロを知る、ってとっても辛いし悲しい。 今回のように子供達の集まるコンサートで、というのは胸が張り裂けそうになる。 だってコンサートって、一生の思い出に残るものなのに、なんでそこで…

トロントの滞在はダウンタウンから離れた、周りになんもないところで缶詰状態になってて、一番近所の映画館でも2マイルくらい先なので、脱出は諦めてなんか書くことにする。

5月14日、日曜日の晩の19:30からTate Britainで行われた、今月末で終わってしまうDavid Hockney展の関連イベント。

http://www.tate.org.uk/whats-on/tate-britain/special-event/david-hockney/animals-love-letters-between-christopher-isherwood

まずはここで展示されている”Christopher Isherwood and Don Bachardy” (1968) ていうふたりの肖像画(上のリンクが見れれば)があって、この絵に向かうかたちで椅子が並べられて(50個もなかったかしら)、絵の前でふたりの俳優 - Alan Cumming と Angus Wright - が絵のなかのふたりとおなじ服、格好、姿勢で座って、ふたりの間で交わされた手紙の抜粋を朗読する。

ふたりの関係は53年のヴァレンタイン・デーに始まって、Isherwoodが86年に亡くなるまで33年間続いて、52年にSanta Monicaで出会ったとき、Bachardyは18歳、Isherwoodは48歳だった。
彼らの文通は56年にロンドンにいたIsherwoodのほうから始まって14年に渡って続いて、その書簡集が”The Animals: Love Letters Between Christopher Isherwood and Don Bachardy”としてKatherine Bucknellさんによって編纂・出版されたのが2014年、ここではKatherine Bucknellさんがナレーションをしながら、ピックアップされたいくつかの手紙をふたり - Alan CummingがBachardyを、Angus WrightがIsherwoodを演じる - が交互に、それぞれが相手から受けとった手紙を読みあげていく形式で行われた。

おおもとのHockneyの絵のはなし。 HockneyがIsherwoodに最初に会ったのが64年の2月(わー)、西海岸で、すでにそこのオープンなゲイコミュニティではBachardyとIsherwoodの関係は有名になっていて、ふたりの絵もその交流のなかでごく自然に描かれたものだったようで、左側に正面を向いて快活そうな青年と右側にその青年になんかいちゃもんつけたそうな初老の男のコントラストがおもしろいの。
(BL漫画の表紙みたいにも見えないこともないけど)

ちなみにこの絵が描かれたおうちはまだ残っていて家具とか(除. フルーツ)はこの絵に描かれたそのままに保たれているそう。で、この絵はプライベートコレクションで、南ロンドンにあるビルの10階にあって、今回の回顧展に出すためにオーナーを説得するのが死ぬほど大変で、ようやく決まってからもビルの窓からクレーン使って降ろしたり大わらわの散々で、なのでこれが一般に公開されるのは最後になるかも、とTateのひとは言ってた。

手紙のなかのふたりはいろんな愛称で互いのこと自分のことを呼ぶのだが、Bachardyが基本は子猫 - “Kitty”で、Isherwoodが馬 - "Dobbin”と呼ばれて - だから”The Animals”なの - これはラブレターなので、いろんな名前で相手のことを呼びあってて楽しい。 内容はBarchardyがアメリカのいろんな出来事 - Martin Luther King Jr.のこととか - をアメリカの若者らしい簡潔さ快活さで送って、Isherwoodがロンドンでのシアターとか進行中の作品とか文壇のこととかをいかにも英国の面倒な老人ぽい言い方で送っていて、その対比もおもしろいのだが、それ以上にやはりこれはラブレターで、きみがここにいてくれたらどんなに素敵だろうー、ということしか訴えていない、とも言える。

それらの愛の言葉が68年に描かれた肖像画の前で、2017年を生きる二人の俳優のライブの声を通して、読みあげられることのおもしろさ。あたりまえだけど、こうして描かれたふたりの背後にはこれだけのドラマがあるし、ドラマ以上に愛があるし、それが美術館でこんなふうに飾られていること。

関係ないけど、Alan Cummingさんはこれの数日前にもういっこの特集展示- ”Queer British Art 1861–1967”のほうでトークをしていて、こちらはチケット取れなかったの。
Alan Cummingさん、目の前2メートルくらいのとこで見たけど、ものすごくかっこいいねえ。

朗読は40分くらいで終わって、その後の45分くらいは、Hockney展を好きなだけご覧ください、になったのでわーい、てじっくり見ることができた。 この展示、既に4回くらい通っていて、いつも結構きちきちなのだが、余裕たっぷりで好きなところを隅々までみた。 この絵が置いてある部屋は2人組の大きな肖像画ばかりなのだが、他の肖像の背後にもそれぞれのドラマはあるんだろうなー、とか。

5.22.2017

[log] May 22 2017

トロントに向かうべくHeathrowまで来ました。
なんかここんとこ毎週Heathrowに来ている気がする。

今回の往路は、キャンペーンをやっているとかで座席をFirstにしてくれて、セキュリティも当然Fast Trackになったのだが、ここでは毎回必ず荷物が引っかかって - Heathrowの厳しさときたらすごい、8割9割引っかかる - モスクワでは水のボトル入れたままでも通ったのに -  個別チェックのキューで30分以上待たされるので、Fast Trackの意味はあんまりないの。 マークされている、というわけではなくて多分荷物のなかの何かが何かに反応してしまうのだと思うが、キューで待っている人たちの前で荷物をぜんぶ開けられて出されてもう一回詰め直す、ていうのはなかなか恥ずかしいしうんざりなのだが、係のひとも意地悪しているわけではないので、しょうもないよね。 国境を越える、という行動をそういううんざりする何か、そういう徒労を強いる世界にしてしまった責任の一端は自分にもあるのだとおもうし、それが嫌なら美しいにっぽん、とか自我自賛しながら自国にいればいい、それだけだよね。

それにしてもBAのFirstのラウンジは豪華すぎてなにをどうしてよいのかわからない。
いちいち注文しないといけないし、それはそれでいちいち面倒だし。

いろいろ書きたいのが溜まってて、書かないと端から忘れていくので私用のPCを持ってきたのだが、なんか書いてる時間あればいいなあ。 トロントって、なんもない印象しか残ってなくて、たぶん部屋戻ってばったん、で終わってしまうんだろうなー。

急に入った出張なのでライブいっこ逃してしまうのがくやしい。
23日の晩、Cafe OTOでPsychic TV / PTV3がDerek Jarmanの”In the Shadow of the Sun” (1981)の上映に合わせて音楽をつけるの。
これ、オリジナルのサントラはThrobbing Gristleだったので必見だよ、ってがんばってチケット取ったのになー。

ああもう行かないと。
ではまた。

5.21.2017

[log] Lisboa - May 2017

19日の金曜日の朝から20日の晩まで、いっぱく二日の休暇でポルトガルのリスボンに行ってきました。

その前、15日~16日に仕事で行ったマドリッドのことを少しだけ書くと、スペイン初めてだったし人に連れられて右も左もまったくわかんない状態で動いていたたので、15日の晩と16日の昼の食事くらいしか書くことがない。

15日月曜日、マドリッドはサン・イシドロの祝日で、お店がほとんど開いてなくて、ホテルの近所の開いているところに入っただけ。あとから調べたら”Restaurante El Principado”ていうとこ。 でもハモン・セラーノの生ハムはありえないくらいのやさしさで、トマトソースにのっかったアンチョビも、石焼きの牛の赤身もすごいねえ、としかいいようがないやつだった。これがふつうの居酒屋のレベルだとしたらこわい。  食事が終わって解散して、喉が乾くに決まっているので水を求めて駅(と思われる)の方に行って、水は入手できたのだが、駅の構内にでっかい熱帯植物が植わっていてその下で大量の亀とか鯉が群れていた。 あれはなんだったのか。 しばらくその辺をうろうろしたのだが、夜の10時くらいでも店の外にテーブルを出してわいわいやってて、楽しそうだった。
16日、移動中に車の窓からプラド美術館 が見えて、泣きそうだった。今度必ずいくから待っててね。それからMuseum of the National Libraryの前も通った。 Barbieri (1823-1894)の特集をやっるのが見えた。そのうちね(以下略)

ランチはリオハ州が経営しているというレストラン - “Centro Riojano de Madrid Restaurante”ていうとこで、デコールはえらくゴージャスで、前の日に豚と牛はいっぱい食べたので、Red Legged Partridge - “Partridge”て「山うずら」だと思っていたのだがこれをそのまま辞書にかけると「アカアシイワシャコ」 - キジの仲間なのね - のエスカベッシュ(酢漬け)にしてみた。 大きさはうずらの3倍くらいあって、ものすごく上品でまろやかな酢漬けで、あっという間に消えた。

さてポルトガル - リスボン。
どうでもよいことかもしれないが、ロンドンとの間に時差がないの。 マドリッドは - マドリッドってロンドンより西にあるのに、1時間早くて納得いかなかった。少しは時差があったほうが旅行しているかんじがでるのね。 

もともとポルトガルは90年代、ブラジルに何回か通っていたときからいつか絶対に行ったる、と誓っていたところなので、ブラジルの食べ物があそこまでおいしいのだからそのルーツであるここは悪いわけがないし、銚子という野蛮でイワシばっかり食べている町で生まれたのでここのイワシを食べないことにはご先祖様 … には関係ないけど。

というわけなのでチケットと宿だけは早めに(ろくに調べないでBAのサイトで誘導されるままに)取っておいたのだが、そのあとは事前調査しなきゃ、と思いつつほとんどなんの手も動かしていなくて、ひとつだけ、ポルトにもできれば一瞬行きたいんだけど可能かしら、とやってみたが時間切れで諦めた。 こんな状態でホテルの名前すらメモしてない状態でじたばたしていたくらいなので、たぶん何の参考にならないかもしれないが、あくまで備忘で、以下、ポイントのみ。

最初に行ったのが、Museu Nacional de Arte Antiga - 国立古美術館で、ボッシュの「聖アントニウスの誘惑」を見たくて、平日の昼間、がらんとしたとこでほぼ独り占めでじっくり見れた。 いまブリューゲルのあれが行っているはずだが、あれの数倍変てこだと思う。 もういっこ、この日から始まっていた企画展、”Madonna”ていうヴァチカン美術館から聖母を描いた絵画、ドローイング、彫刻、タペストリーなどをごっそり運んできて展示してた。

美術館の3階にはポルトガルの宗教画や木彫りの彫刻とか、とっても素朴でほんわか趣のある聖母とか女神とかがいっぱいいたのだが、ヴァチカンの聖母さまたちに漂うセレブ感というか育ちの違いみたいのはなんかとんでもないねえ、と見ていくと、ラファエロの「受胎告知 - マギの礼拝 - 聖母の神殿奉献」の3連が出てきたのでまじか、とかミケランジェロの「ピエタ」がでーんとあったので、これレプリカよね? と思ったらやはり75年に造られたレプリカだった(それにしたってとんでもねえわ)。あとは大好きなバロッチの「エジプトへの逃避途上の休息」。 聖母さまとやらが幸せを与えてくれるなんかだとしたらこの絵がそれ、というロバですら後ろ向きでほんわか微笑んで輝いているやつ - があって跪きたくなった。

ボッシュの魑魅魍魎たちが頭蓋の裏側を気持ちよく這いずり始めていたのに大量の聖母さまが除菌して浄化してしまった気がして少しだけ残念なかんじもした。でもこれだけの聖母さま御一行をリスボンに持ってきちゃったということは、いまのヴァチカンは聖母不在の闇のなかにある、ということではないか。 そんなことでだいじょうぶなのだろうか、とか、展示初日でこんなにがらがらで許されるのか、とか、特別料金とらないで平気なのか、とか、いろいろ心配になって、お賽銭のかんじでカタログ買ってしまった。 あと、ボッシュの「聖アントニウス」に出てくる魔物のフィギュアをどうしようか悩んで、あと数ミリの繊細さに欠ける気がして買うのやめた。

美術館の次は本屋、ということで「世界で一番古い本屋」 - ほんとかな~「本屋」の定義にもよるよね - であるという”Livraria Bertrand”とあとその山だか丘の上のほうの古いおうちがいっぱいあるあたりも散策した。本屋はここのほかにもいくつか見たのだが、どこにでもフェルナンド・ペソアのコーナーがあって、Tシャツとかフィギュアもあるんだねえ、と記念に英語訳のを一冊かった。 ペソアについては博物館になっている彼の家に行くつもりだったのに土日は休みである、ことを金曜の晩に知って、泣いた。

映画は、リスボンのシネマテーク- Cinemateca Portuguesa - になんとしても行っておきたくて、金曜の夕方、プレミンジャーの「悲しみよこんにちは」(1958)をやっていたのでこれを見た。外壁に貼ってある垂れ幕にはでかでかとFUJIWARA / PREMINGERとあって、Chris Fujiwara先生が特集に加わっているらしかった。
とーっても素敵なシネマテークで、かんじとしてはNYのAnthology Film Archivesをお金をかけてリストアしたふうで、ああ近所にこんな映画館があったらなー(を世界中でいい続ける)のリストに追加しておいた。

“Bonjour Tristesse” - 「悲しみよこんにちは」についてはいいよね。前回これを見たのはLincoln Centerでのテクニカラーってこんなにすごいんだから特集だったが、カラーの美しさとJean SebergとDeborah Kerrたちの美しさが見事な調和を見せて、それがモノクロ・無調に転じていく顛末を、青春の終わりを、クールに - 決して残酷ではないの - 描いていて口あけて見ているだけで終わってしまう。

二日目は観光しようと思って、でもシントラに行くか近場のジェロニモス修道院とベレンの塔にするか直前まで悩んで、結局後者にした。 現地に着いたのが9:40くらい、10時オープンでみんな並んで中に入ってすごいなーでっかいなー、だった。ふーん、だったのはペソアのお墓があったことで、死後50年のときにここに持って来たんだって。

そこからかんかん照りのなかベレンの塔まで歩いて大西洋をみて大砲を撃つ部屋のなかに立って、この窓から見えたらとにかくどーん、てやったのかしら、でもこの部屋でみんなが一斉に射ったらすごくやかましかったんじゃないか、とか。

戻る途中でMuseu Coleção Berardo - ベラルド近現代美術館 - ていうのがあって、暑かったし、入ってみた。地下も含めた3階建てくらいで、ながーい回廊に1900- 1960のと1960 - 1990までのモダンアートがビデオやインスタレーションやでっかいブツまで、いっぱいあって、だいたい一作家一作品の余裕たっぷりで展示しているようだった。 歴史みたいなところはシュールレアリスムから表現主義、CoBrA、未来派、といった括りでそれぞれに一部屋づつ使って、ヨーロッパのはどれもしれっとかっこよくてつい見いってしまった。Mark Rothkoの30年代の素朴なやつとかもよくてねえ。

食べもの関係は3食くらいだし。
着いてすぐのランチはホテルのひとに聞いて、近くのChampanheria Do Largoていうとこでイワシと鮭とムールの3色丼 - じゃない皿、みたいなやつで、晩は同じくホテルの人に予約して貰ったのだが、希望していた9時頃のは取れなくて10:30になってしまい、お腹へってしにそうになった。

Cantinho do Avillez、ていうポルトガルのスターシェフである José Avillezが開いた高級ビストロ系のお店で、Daniel Bouludのdb bistro moderne、みたいなもんだろうか。 ハンバーガーもあったし。 メニューにベストセラーと書いてあった前菜のFish Soupはそんなでもなかったが、メインのAlentejo black porkのグリルはなかなかとんでもなかった。柔らかいのだが、自分の知っている豚の柔らかさとは違うなんかがあって、どういう処理しているのかしりたい。
あと、こういうお店のサービスがしょうもなくなるのはどこも同じだねえ。

2日目はまず、あの近辺に行ったらこれを食べとけ、のPastéis de Belémていうとこのエッグタルト(Nata)から。 エッグタルトだけだとつまんなかったので、揚げクリームパンみたいなの - をどう言ったらよいかわからなかったが、とりあえずなんか説明したら当たった。エッグタルト、皮が絶妙だったのと、揚げパンはクリームがほとんど黄身みたいな色で、とっても濃くておいしいんだけどこれ毎日食べてたらたいへんなことになる。 鳩が寄ってくるのもたいへんだったし。

ランチはこれも定番のCervejaria Ramiro、ていうシーフードのお店で、生牡蠣たべて、アサリ一山を蒸したのたべて、でっかいカニいっぴきたべて、アイスクリームたべた。 この手のシーフード屋って鮮度があれば、ていうのかもしれないが、アサリを鍋で茹でただけであんなんなるとは思えないし、カニを茹でてざく切りしただけであんなんなるとも思えない。 カニはとんかちで各自叩き割りながら甲羅に満たされたカニミソに浸して食べる。iPhoneがあっというまにカニの破片まみれになって、そういうのも含めてすごいとしか言いようがなかった。カニさんたちのあいだからあまりにむごいって声があがりはじめているのは当然だとおもった。

お店を出てからイワシまるごとを食べていないことに気づいたので、また今度、ということにした。

あとは公園にいた変な鳥とか。鶏とアヒルを足して割ったみたいなやつ - たまにすごい喧嘩してた - と、なぜか放し飼い(なのか?)にされていた立派な雄鶏と。 食べちゃうひといないのだろうか?

あと坂で足がしんで、サンフランシスコに最初に行ったときのことを思いだしたり。 坂の途中とかに建っているおうちはほんとに大変だろうな、うちの階段の比じゃないな、って思った。 ケーブルカー、結局乗らなかったのでこれもまた次回に。 イワシもあるのでまた行かないわけにはいかないし、次はポルトも。


なんかほんとにバカみたいだし、スタンプラリーしてるでしょ? と言われたら、う.. うん、と目を逸らして返さざるを得ないのだが、明日 - 月曜日の夕方からトロントに飛んで木曜日の朝に戻ってきます。
きっとそういう星回りなんだ、と星のせいにして、再びカバンひろげてパッキングする。

ではまた。

5.18.2017

[film] Alien: Covenant (2017)

14日、日曜日のお昼、BFIのIMAXで見ました。

前に書いたかもしれないが、わたしは”Alien” (1979)の公開時、胸を食い破ってエイリアンが出てくるとか聞いて、おっかなくて見にいけなかったひとで、それよりも更におっかなくて数も倍、とか言われた"Aliens" (1986)もじゅうぶん大人だったのに見れるわけなくて、だいぶ後になってTVで見て、こんなの劇場でみたらしんじゃう、て思った。

これのひとつ前の"Prometheus" (2012)は見た。 でも怖かったのかその内容を余り憶えてなくて、そこが残念だった。
見直してから行ったほうがいいかも。

コロニー船のCovenant号が移住用の人とか胎児とかをわんさか積んで、AIロボのWalter (Michael Fassbender)が面倒をみつつ目的の星に向かって航行していると、電気系の事故かなんかで船長のJames Francoが冬眠カプセルのなかであっというまに丸焼きにされちゃって、そしたらターゲットとは全く異なる別の星からコンタクトが来て、新しい船長(Billy Crudup ..)はざっと行ってみよう、って反対意見を押し切って探査に降りてみることにして、降りてみたらやっぱり...

そこにはWalterと同じ顔した初代AIのDivid (Michael Fassbender)がいて、Davidはそこでなにをやっていたのか、Covenantの乗組員になにをしようというのか。

冒頭で、Davidが動き始めたときのパパ - 作ったひと - との対話のなかで、死ぬことを運命づけられた人間とそれを考える必要がない我々とでは理想とするもの、それに向かう考え方も異なりますよね… パパ「…」みたいなシーンがあるのだが、この辺が出発点なのだろう。
(一点、ここで議論になりそうなところがあるとしたら、なぜDavidはそう言いながら絵や音楽を愛することができるのか、いらないでしょあなた? じゃないのか)

びしゃぐしゃ血まみれのシーンはこれまで通り。背骨の関節のとこに小さい穴が開いてぴきーって出てくるやつとか。
それにしてもさー、空気あるからってなんでヘルメットしないで未知の星の探索に出るのかしら。 しかもタバコなんか吸うかしら。
とか、あのカニみたいなやつって、なんでいつも顔のまんなかにぴったりヒットするのかしら、とか、あれってひっつくとやっぱりカニ系の匂いがするのかしら、とか。
あいつらの糸をひく粘液の元の水分てどこからくるの? 元の人間がそんなにジューシーには見えないんだけど、とか。 突っこもうと思えばいろいろ。

あと、怪物と最終的に対峙するのがいつも女性である、というのと、Davidは「母」を作ろうとしている、ていうのと、Covenantの操作を統括するAIが”Mother”と呼ばれている、とか、AIと人間、文明と永遠、みたいな壮大なテーマに向かうかに見えて実は父性と母性の衝突みたいな原始的なシンプルなところに落ちていくのではないか、とか。 シリーズはまだ当分続きそうなので見守りたい。こわいのでとっとと終わってほしいのだが。

あと、James Francoはまだわかるけど、Danny McBrideを乗組員になんかしちゃだめよね。
“This Is the End” (2013)でいちばん腹黒かったやつなんだから。


それにしても、Chris Cornell …  耳にしてまさか、嘘であってほしい、と強く思ったのに。
あの声をもう聞くことができないなんて。  どうか安らかに..


明日の朝4時半くらいに起きてリスボンに行ってきます。こんどのは1泊のお休み。
4月に飛行機取ったときにはこの頃こんなにばたばたになっているなんて思わなかったの。
現地のこと、なにを見るかとかこれから一から調べるの、かわいそうにー。

[film] Manhattan (1979)

そういうわけでAllenの”Manhattan”に行こう。

モスクワから戻ってきた12日の晩、BFIで見ました。
ほんとうはFassbinder特集の”Despair” (1978)を見たかったのだが、これは売り切れてて、Stand-by ticketを狙って早めに行ったのに目の前、あと数人のところで持っていかれて無くなってすごいショックで、でもなんか帰るのやだな、って始まったばかりのこれの4Kリストア版のRe-Releaseを見ることにした。

BFIにはスクリーンが4つあって、NFT1ていう一番でっかいスクリーンでの上映。
この映画はでっかい画面のでっかい音で見るに限るの。 冒頭、Gershwin”Rhapsody in Blue”のぷぁ〜 ♪とかじゃかじゃん〜 ♬ とかに乗って切り取って並べられていくマンハッタンの光景、ここだけ見て帰っちゃってもいいくらいに素敵なNYがあって、ここのGordon Willis のモノクロに匹敵するくらい見事なカラーのNYとなると “The Sheltering Sky” (1990)の冒頭 - Vittorio Storaro、だろうか。

ストーリーは別にいいよね。 42歳、バツ2で17歳のTracy (Mariel Hemingway)と暮らしているIssac (Woody Allen)がMary (Diane Keaton)と出会っておかしくなってしょうもなくじたばたするサマ、というよりザマがひたすらおかしくて、あーあ、で、Allenがあんなヤツだったことを知ってしまった今となっては複合的な意味でおかしくて、うううむ、て唸るしかないという。

40を過ぎた彼があんなふうに己を顧みずに恋愛に突っ走ってしまうそのかんじ、わかんなくはないのだが、昔みても今みてもまあったくわかんないのは、結果的にふられたり逃げられたりいい気味とはいえ、なんであんな四六時中べらべら喋ってて髪もしゃもしゃでハゲかけひょろひょろのおっさんが、一時的とは言えモテたりするのだろう、ということなの。 前妻がMeryl Streepで、恋人1がMariel Hemingwayで、恋人2がDiane Keatonって、ぜったいありえないよね。

で、そういうありえないことが起こってしまう場所としてのマンハッタン、というのも30年前だったら信じたかもしれないけど、もうムリだわ。 Upper EastがどんなところでUpper Westがどんなところか知り過ぎてしまった今となっては。 この「今となっては」が反省とか後悔とか悔恨とかと一緒に至るところで渦を巻きながら襲ってきて、この映画をドライブしているのもIssacのぐるぐる循環する「今となっては」のやけくそ感なんだろうなー、って。

これが”Fear of Fear”のほうに向かわないのはアメリカ人だから? ということでいいの?

そして、スカイラインがすっかり変わってしまったManhattanの最後の美しさがすばらしいモノクロの映像で蘇ったことを堪能しよう。 これも今となっては、のおはなし。

ぜんぜん見たことのなかったモスクワから、少しだけ馴染んできたロンドンに戻って、ずうっと住んでいた街の映画を見る、ていうのは変なかんじで、なんかくすぐったかった。

5.17.2017

[film] Angst vor der Angst (1975)

まったく追えていなくて嫌になっているBFIのRainer Werner Fassbinder特集、5月2日、火曜日の晩に見ました。
英語題は"Fear of Fear"。

上映前にUniversity of KentのDr. Mattias Freyによる簡単なイントロがあった。 これがTVドラマとして撮られたということ、Margit Carstensen主演なのでMartha (1974) - これはSingleの話だけど - と比較されることが多いが、こっちは心の病の行方を描いたものではなく、あくまでふつうの生活を送ろうとする主婦のお話 - 少なくともFassbinderはそういう意図をもってこれを作ったのだ、って。

主婦のMargot (Margit Carstensen) には少しだけ忙しいけど優しい夫がいて、かわいい娘がいて、妊娠して息子もできて、世間的にはごくごく普通の家庭の主婦なのだが、たまに視界が歪んでものすごい不安に襲われていてもたってもいられなくなる。 彼女もその症状は自覚していて、起こると娘にあたってしまったりすることがあるのでなんとかしたいと思っている。 そういうふうにしてお酒をあおったりバリウムを求めて近所の医者のところに行ってよくわからぬままに彼と関係を持ってしまったり気がついたら手首を切っていたり、その変な挙動は同じアパートの別のフロアに住む母(Brigitte Mira)や妹(Irm Hermann)にも知られて呆れられて、だんだんに理解者も見てくれるひともいなくなって、孤立が深まるとさらに彼女の視野は歪んで狭くなっていって、その恐れが別の恐れを呼んでという連鎖と循環がひたすらおそろしい。

不安や恐れはFassbinderの映画のベースとして、基調音として空気みたいに常に流れているものなので、これもそういうものとして見ておけばよいのかも知れないが、ここまでふつうの、なんの変哲もない家庭のなかにそいつが家具のように持ちこまれて居座ってしまうと、改めてその異物感に驚かされるし、それがありがちな「向こう側の世界」に突き抜けて殺戮や異常行動に簡単に行かないがゆえにかえって、なんて厄介なものか、て思うし、なによりも我々はMargotの恐れや不安がどんな性質の、どんな感触のものか、どんなふうにやってくるのかわかる/知っているということの、なんとも言えない居心地のわるさ。 これこそが"Fear of Fear"ていうものなんだろうな、と。 (そういうのわかんない、というひとはFassbinderなんか見ないで一生幸せに暮らしてな)

ラストは隣人としてただそこに突っ立っているだけ、ていうすさまじい演技を繰り広げていたKurt Raabが、あのひと自殺したんだって、という声が聞こえて、救急車がちらっと見えて、ぷつんと切れるように終わる。 それもまたこわいの。簡単に向こう側には行けませんよ、行くの? って。

それにしてもMargit Carstensenのきりきりとおっかないこと、目を離すことができない磁場の強力なこと。
最近の映画で近いとこだとWoody Allenの"Blue Jasmine" (2013) 、だろうか。 Cate BlanchettとMargit Carstensenを並べてみるとなんか… 映画監督としての力量みたいのは置いておいて、FassbinderとAllenて明らかに特定のタイプの女性を崇めて、ある特定のタイプの女性を畏怖して怖がっているのではないか、とか。

[film] Frantz (2016)

夕方にマドリッドから戻ってきました。

8日月曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。 上映後に François OzonとのQ&Aつき。
一次大戦後のドイツで、婚約者のFranzを戦地のフランスで亡くして沈んでいるAnna(Paula Beer)がいて、他に身寄りのない彼女はFranzの両親と暮らしている。
ある日Franzの墓に花が供えてあるのを見つけて、更に彼の墓の前に佇んで泣いているひょろっとした若者を見かけて、声をかけるとそのフランス人はパリでFranzを知っている、単に知っている以上に彼とFrantzとの間にはなにかあったらしい。

フランスで彼になにがあったのか、彼はどんなふうに死んだのか、Frantzのことを少しでも知りたい彼女は彼- Adrien (Pierre Niney) を家に連れて帰って、でも戦後間もなくだしドイツ万歳の義父は敵兵 - 息子の仇としか彼のことを見ることができない。そのうち話を聞いていくとAdrienが本当にFranzの死を悼んでいることがわかって義父母も打ち解けて、食事を共にしたり散歩したりしていくうち、彼女はFranzと同じように文学や音楽を愛する彼を好きになり始めて、両親も一緒になることを勧めるようになるのだが。

この後にAnnaはドイツを去ってしまったAdrienを追ってパリに渡り、行方不明になっていた彼と再会して、でもお話はそう簡単には決着しないの。

まずロスタンの戯曲(未読)があって、それを原作としたルビッチの"Broken Lullaby" (1932) (未見、たぶん)が元にあるのだが、ルビッチのにいろいろ付け加えたりひっくり返したりしているので別のものとしたほうがよいかも、と監督は言っていた。

画面はほぼモノクロで、美しい思い出や回想シーンになると淡いカラーに変わる。すべては夢のなかのような。 Franzの死も含めてすべては夢であってほしかったのに、ともいう。

秋に結婚するはずだったのに夏が来る前にフランスで死んでしまったFranz、亡骸すら戻ってこないので、彼に関する欠落した記憶を求めて、その穴を埋めるために彼女はなんとかAdrienを探して話をせがんで、彼の語るFrantzを、彼の記憶にあるFranzをどこまでも求めて、でもどうあがいても彼は戻ってこなくて、Franzの最後の姿はAdrienの頭のなかにしかいない。 そんなの我慢できないし、それであるならば。

ああなんてかわいそうなAnna.. というそれだけのメロドラマなのだが、いいの。 こんなにむごい、かわいそうな話はないわ。 

というような残酷なメロドラマとして見ることもできるし、ひとは愛するひとのイメージのなかで/イメージがあればどこまでも生きていけるものなんだねえ、ていうコメディ(のようなもの)として見ることもできるのかも。
なんで死なんてもんが簡単にひとを引き裂くことができるのか? ちがう、ひとを引き裂くのは生の世界なんだわ、って。

Annaを演じたPaula Beerさんの強い目がすばらしくて、それだけで見る価値はじゅうぶん。
ふたりの佇まいがモノクロのコントラストにとっても似合っているなあ、とか。

ルーブルにあるマネの"Le Suicidé” (1877-1881)、こんど見ないと。

上映後のQ&Aでおもしろかったのは、あるシーンが”Casablanca” (1942)を思い起こさせるのですが? という質問に「実は”Casablanca” って見たことないんだ」とか。
あと、二人が田舎をデートするシーンはカザンの”Splendor in the Grass” (1961)を参考にしている、とか。
第一次大戦後のドイツを舞台として撮るのは結構大変だった、とか。
ひとによっては思うかもしれないLGBT的ななにか、はまったく考えていなかったって。

5.14.2017

[film] Réparer les vivants (2016)

こっちから先に書いておく。 英語題は“Heal the Living”。 邦題は「あさがくるまえに」。

13日の土曜日の昼、CurzonのBloomsburyで見ました。
気がついたらCurzonではここだけ、1日1回の上映のみになっていた。
あぶなかった。 こんなにすばらしいのを見逃すところだった。

予告が臓器移植を巡る家族の葛藤とか癒しとか救いとか時間との闘いとかのドラマのように見えて、ちょっと苦手かも、だったのだが、監督が”Suzanne” (2013) のKatell Quillévéréさんと知り、なら見ないといけないわ、になったの。

早朝、家を抜け出して仲間とサーフィンに出かけたSimon (Gabin Verdet)は、その帰りに自動車事故にあって脳死状態になってしまう。病院側は両親に臓器提供の可能性について話をして、彼らは苦しみながらも結論を出す。 その反対側で、成長した息子ふたりがいる音楽家のClaire (Anne Dorval)は自身の心臓病が悪化して臓器移植しか残された道はないと言われていて、息子たちと一緒に過ごしたり(”E.T.”を見るの)、ピアニストの恋人(女性)のコンサートに行って再会したり、自分がいなくなる時に向けて準備を進めていくのだが、臓器が見つかったと連絡が入って。

メインのストーリーラインだけを書くとこんな感じなのだが、決して片方の電球は消えたけどもう一方のが点灯した。うまくつながってよかったね、みたいな話ではない。”Suzanne”の監督がそれだけの話を作るわけがないの。

Simonの両親のことはもちろん、彼が亡くなる朝までベッドにいたSimonの彼女のJuliette (Galatéa Bellugi)とのこと、病院のSimonの担当医、gold finchを愛する臓器コーディネーターのThomas (Tahar Rahim)、Simonへの態度で病院をクビになってしまう看護婦、Claireがちょっと心配している次男、かつての恋人のピアニスト、Claire側の医療チームのひとりひとりまで、どんなひとの挙動も暮らしも眼差しも思いも決して疎かにしないし、彼らひとりひとりの生も確かにそこにあって、SimonやClaireの生と共にある - 結ばれているとか繋がっているとか胡散臭いなんかを語るのではなく、ただ同じ時間のなかにあるのだ、ということを驚くほど精緻に丁寧に描いている。

”Suzanne”でもそうだったが、この監督はちょっとした眼差しの振れとかその交錯だけでドラマを紡ぐことができて、その振動や交錯が波のうねりとなってSimonが最後にサーフィンをした海(の描写がすばらしいの)ように深く分厚く押し寄せてくる。このうねりと勢いに圧倒されつつもひとは自分のパスを、ボードの切っ先をコントロールしてバランスを取りながら波を渡る。そこにある危なっかしさと、それでも波に乗れてしまう驚きと共に。

SimonとJulietteが最初に出会って恋に落ちる場面の胸が苦しくなるくらいに初々しい波ときたらどうだろう。この5分ぽっちだけでも見る価値じゅうぶんあるよ。

後半はずっとめそめそ泣きながら見ていたのだが、ラストカットでBowieの"Five Years"のイントロのキックが聞こえてきたところで決壊してぼろんぼろんに泣いてしまった。客が3人くらいしかいなくてよかった。
ずるいよあんなの反則だよ、て思ったが、よく考えてみればこの映画の主題はあの頃のBowieが必死で手を差し伸べてきた悲痛なまでの想いにはっきりと共振している。 

そして「母に捧げる」という字幕が。 母の日に格好の一本でもあるのだが、フランス映画祭で一回だけ上映されてから一般公開は9月って ...
(おそすぎ。それと”Hidden Figures"は性懲りもなくやっぱりやりやが…(怒・略)
一刻も早く、フランス映画祭で見てください!(おすぎの気分)

あと、Alexandre Desplat さんの音楽も見事なのだが、なんだかんだBowieの一曲でふっとばされてしまうの。


あした、月曜日の午後からマドリッドに行って、火曜の晩に戻ってきます。
ちょっくらサッカーでも見に、とか言えたらいいんだけどねえ。仕事なんだねえ。

[log] Moscow - May 2017

12日、金曜日の夕方にモスクワから戻ってきました。
ロンドンから飛行機で3時間半くらい、時差は2時間。 DenverとNYくらいのかんじかしら。
遠くから来た、と思っていたのだが、ハバロフスクからやって来たひとなんか8時間だって。同じ国内の移動(飛行機だよ)で8時間…

行くとき、ロシア関係の音楽なんかないか、てiPodをぐるぐるしていたのだが、Orange Juiceの”Moscow”くらいしかなかった...

降りてみると夕方とはいえ気温は4℃で、空港の外に出た途端、タクシーの運転手とその客ががちで互いの顔面に拳がくいこむような殴り合いをしていて、そのすぐ脇を平気な顔でさっさか通り抜ける我々の運転手さん.. 
目に入ってくる文字は全くわからなくて、どの看板とかサインとかなにを見てもロシア構成主義!とか、そういうふうに見てしまうし、耳に入ってくる言葉は全て - これはほんとによくないことだと改めて思ったのだが、ハリウッド映画のなかで爆薬を仕掛けたり闇に潜んだりする人たちが喋っている言葉 - たいてい字幕はない - に聞こえてしまう。 要するに全てがファンタジーの世界にいるようなかんじで過ごしていた。仕事で行ったんだから間違えるな。

2日目の晩は日本/韓国系の居酒屋で懇親会、と聞いていたので初日くらいはロシアご飯が食べたいんだから(ふん)、と自分で探して勝手に予約してここの2階のThe Library Roomていうとこにいった。 付きあわせてしまった会社のひとには悪いことをしたかも。

https://cafe-pushkin.ru/en/

なんで本がいっぱいあるところで食事をすると落ち着くのかしら? どっちもおいしいと天上に昇れるくらいに嬉しくなって満ち足りてお腹いっぱいになって、もっともっと食べたくなるからよ。
そこに音楽が流れていたりすると更に言うことなくて、快適快調に喉の奥に流しこんでくれる。(ここ、ハープとフルートの生演奏が入っていた)

なので、このフロアではロシア人になったことにして、ニシン食べてピロシキ食べてピクルス食べてボルシチ食べてチョウザメ食べて、デザートにアイスクリームケーキ食べた。 お腹もロシア人並みにとってもふくれた。 お料理のほんもの認定とかまったく興味ないけど、ニシンやピクルスやボルシチの酸味もチョウザメのスモークの芳味も、どれもここ!て唸るしかない決まり具合で、やっぱしほんものだからこんなにおいしいのよね、て思った。

二日目の居酒屋も日本食ではなくて韓国焼肉のほうに寄ってくれたのでありがたかった。悪くなかったし。 一生使うことがないであろうウォッカのちゃんとした飲み方、というのを教えてもらった。20代の頃は毎日1リットル飲んでたんだ、って。 べつにいいけどさあー。(省略)

あとはとにかく寒かった。 起きると2℃とかで、昼の会議中、窓の外で雪が舞っていたのに呆れて、夜中にはうっすら積もるくらいの横殴りで降り注ぐのには笑うしかなかった。 5月の雪はさすがにあんまないらしいのだが。
帰るときになって素晴らしく晴れて5月の緑としか言いようのない輝きを帰りの車の窓から覗くことができた。春があんなだとしたら、あんななのだからひとは厳しい冬に耐えることができるんだわ、って(演歌調)。

それにしても運転はめちゃくちゃ雑で荒っぽくて、ふだんからワイルドスピードだねえ、って思った。生活するのは大変そうだねえ。 

街でSystem Of A Downのライブのポスターみつけた。

あと、どうでもいいのだがインスタのフォロワー数がモスクワの写真をのっけた途端に倍に増えて(これまでだいたい20前後で、それでよかったの)なんか地雷踏んでしまったのかも、とかすこし怯えている。
きっとそのうち、早朝の公園でウラジミールみたいに葬られちゃうんだわ。

行きと帰りで見た映画いっぽんづつ。 行きはなぜかアップグレードしてくれたので大きい画面だったけど、帰りはエコノミーの小さい画面で音もちいさなイアフォンだったので字幕出してみてた。

War Dogs (2016)

アフガン戦争時、ふたりのごろつきの若者がペンタゴンとの間で兵器調達の契約を取りつけてぼろ儲けしていた実話を映画化したもの。 マイアミでマッサージ師をしながら老人向けの寝具を売っていたDavid (Miles Teller)が中学の同級生だったEfraim (Jonah Hill)と再会して誘われるままに兵器ビジネスの世界に足を踏み入れ、ブッシュ政権下のめちゃくちゃもあって危ない目にあいながらも橋を渡っていく。

監督は”The Hangover”シリーズのTodd Phillipsで、基本はぶっとんだ野郎共が目を疑うような狼藉をやらかしちゃって、でもこれは現実なんだなんとかしろ、てじたばた奮闘する姿と、彼らの反対側には必ず真面目で彼らを信じて見ている家族とかがいる、その構図はおんなじで、でも実話なのでその辺の自由度はあんまない。けど実話なんだねえこれ、ていう驚きは確かにある。

Jonah Hillは”The Wolf of Wall Street” (2013)のWolfに続いて、こんどはDogで犬みたいに嗅ぎまくって吠えまくってすごいなー、だった。

Split (2016)

帰りの便で見たやつ。 日本でも公開始まったみたいね。
3人の女の子が突然連れ去られてどこかに監禁されてしまうのだが、相手の男(James McAvoy)は多重人格者のようで現れるたびに人格も服装も違っていて、なんなのこれ?  ていうのと最後に彼と対峙することになるCasey (Anya Taylor-Joy)の話と、彼のことをケアしている精神科医との話と、いろいろ錯綜しながら解放と謎(なんでこんなことに?)解きが進んでいくのだが、最後の人格として現れる”The Beast”のことが気になりすぎてあんま集中できないの。
James McAvoyさんはうまいなー、とは思うものの、X-Menだからあれくらいやるよね、て思っちゃうとことか、精神病を扱うとなんでもありになっちゃうかもねえ、だった。

わたしはシャマラニストではないのでシャマラン映画としてどう、というのはわかんないわ。
でも、今度のはそんなに超常してないよね。

いま、BBC FourでKate Bushの特集してる。
ばぶーしかばぶーしかばぶー♬

5.10.2017

[film] Lady Macbeth (2016)

更にもどって、5月1日(休日)の昼間、CurzonのSOHOで見ました。
これも引き続きおっかない、女の子の、お話。

シェイクスピアの「マクベス」とは関係なくて、原作は19世紀ロシアのニコライ・レスコフの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(未読)。
こないだパリに行ったとき、これのポスターがかかっていて、そのタイトルは"The Young Lady"...

英国(たぶん)の田舎の村のお屋敷に暮らすKatherine (Florence Pugh)がいて、毎朝に下女が起こしにきてコルセットをぎゅうぎゅう嵌められて着替えるともうすることがなくて窓辺でぼーっとしたり荒野に出て行ってぶらぶらしかすることがない。
彼女はいまの主人に家ごと買われて、家の付属品としてついてきたので夫(買主の跡取り息子)はいるけど二人の間に会話も愛もまったくなくてしらじら荒みきっている。

暫くの間、夫が町のほうに出掛けていなくなって、その緩んだ空気のなか下女をいじめる下男らがいたのでどなりこんで、あまりに野卑で乱暴だったので叱りたのだがその中のひとりSebastian (Cosmo Jarvis) にはぜんぜん堪えなくて、逆ににやにやしながら付きまとってきて、はじめは近寄んないでよ!て毛を逆立てていたのだが、無理やりキスされたらなにかが外れてしまい、「夫のいない隙に」おおっぴらにいろいろやりだすようになって、やがて酒蔵のワインもなくなっちゃって、飼い主の義父が雷落として怒り狂うのだが、彼はとつぜん苦しみだして死んじゃって、そのうち、よりによって彼と一緒のときに夫が帰ってきて...

始めのうち、Katherineは明らかに疎外されて迫害されて、行き場のないどん詰まりの生のなかにいて、その殻をSebastianていう野蛮な獣が揺さぶってぶっ壊したら彼女のある部分が解放を通り越して暴走を始めて、ていう単なる上下逆転・復讐の物語を踏み越えてダークサイドに目覚めてしまう娘のお話としてとても見応えはあった。 ものすごくおっかないし救いようないし後味わるいけど。

主人公がKatherine でぼうぼうの荒れ地の中で暮らしていること、そこに野蛮な男が現れてなにかを一変させて、というあたりは「嵐が丘」かも、とも思ったが、そういう物語とか伝説みたいななにかとは関係のないところで退屈さや不毛さと正面からぶつかってぎざぎざに荒れて、そういう淵にのみ自己を見出していくKatherineの凄味。 だれも相手してくれない構ってくれない理解してくれないが常態化して、それが苦痛でもなんでもなくなったとき、みんないなくなっちゃえ、に向かうのは当然で、あとは例えばそれを「悪」と呼ぶことは可能なのか、とか。

彼女はなにも言わないし言えるような状態にも置かれないので、最後までその本音のようなのを吐かずにほぼ仏頂面に終始して、最後の最後に見せる表情がすべてを語ってしまうのかしまわないのか… でぷつり。おっかなかった。


これから金曜の晩までモスクワに行ってきます。 PC持っていかないので更新止まります。
チェブラーシカに会えますように(←くらいしか出てこない)

ではまた。

5.08.2017

[film] XX (2017)

少し戻って、またホラー映画。
3日の水曜日の晩、Prince Charles Cinemaでみました。
The Final Girlsていうグループが企画した1回きりの上映会。
2017年のSandanceでも上映された4人の女性作家によるホラー短篇オムニバス。

The Final Girlsて、初めて知ったのだが、"Exploring the intersections of horror and feminism"をテーマにいろんな上映会をやってて、サイトを見るとセレクションも含めてなかなかかっこいい。

https://www.thefinalgirls.co.uk/

怖がりなのでホラーはほんとうに苦手なのだが、4人の監督のうちひとりはAnnie Clark (St.Vincent)さんで、彼女の初監督作であるからにはこれは見てあげなければ、になった。

4つの短篇間にストーリーとしての関連はないが、各篇の間にSofìa Carrilloさんによるちょっとゴスでダークなお人形アニメが挟まっていて、そのじっとり湿ったかんじもよいの。

The Box
監督はJovanka Vuckovic.  原作はJack Ketchumの(たぶん・どれも)後味わるいやつ。
子供ふたりとママが電車で帰宅中、変なおじさんが持っていた箱の中味を見てしまった息子のDannyは、その後で普段の挙動はそのままなのだが食べ物を一切受けつけなくなって、彼からその秘密を耳うちされた娘もパパも同様になって、衰弱してやがてみんなしんじゃうの。 それでひとり残されたママは..

 The Birthday Cake
監督はAnnie Clark. 原作は彼女とこの後の短編の監督でもあるRoxanne Benjaminさんの共作。

娘の誕生日の朝、部屋で背広を着た状態で夫がぐったりしんでいるのを発見したMary (Melanie Lynskey)は、めちゃくちゃ動揺しつつも娘とかみんなを悲しませたりびっくりさせたりしてはいけないと死体の夫に着ぐるみとかを被せたりして平静を装おうとするのだが.. (...無理よね)

配られた冊子(Final Girls製作)には監督のコメントとして、ホラー映画はおっかなくてたまんなくて、眠れなくなるとか書いてあるのでおいおい、なのだが、ふつうのホラーよりはブラックコメディふうにしてみた、と。
で、狙ったところは “Weekend at Bernie’s” meets “Who’s Afraid of Virginia Woolf?” なんだって。 なるほどそんなかんじ。
インテリアとか衣装の色遣いのセンスはさすがで、あと瞬間の出音の強烈さ、けたたましさは言うまでもなくおっかないプロの仕事でした。

Don't Fall
監督はRoxanne Benjamin.
キャンピングカーで砂漠だか山だかのほうに遊びに来た男2名、女2名が砂壁に描かれた模様のような影のようなのを見ちゃったらその夜、闇の向こうからなんかがやってくる。 今回の4作のなかでは一番古典的なお化けがでてきてきゃーぐざぐざー、のやつだった。

Her Only Living Son
監督はKaryn Kusama.
"Rosemary's Baby” (1968)にインスパイアされたというシングルマザーと成長して言うことを聞かなくなり始めた息子のお話で、息子が同級生の女の子の爪を引き剥がしたというので謝罪モードで学校に行ってみると先生たちの態度が変で明らかに息子を畏れて崇めている。 この子はひょっとしたら... ていう。

終わってからSkypeで監督のひとり、"The Box"を作ったJovanka VuckovicさんとのQ&Aがあった。
燃えるような真っ赤な髪で今回のアンソロジーを作っていった経緯をさくさく話していってすごくかっこよかった。
(ホラーつくるひとって怖いものなさそうでかっこいいよねなんか)

DVDは本日8日にリリースされた、はず。

[music] Max Richter “Sleep”

6日、土曜日の晩23:00から翌7日、日曜日の朝7:00までの8時間ライブ、そのためのSleepover。
Barbicanのイベントで、例によってずっとSold Out状態だったのでえんえんつけ狙って、空きが出たところでクリックしたら「£100」とか出たので、え… と思ったがとりあえずなんも考えずに押した。
しばらくしたら参加するみんな宛のメールがきて、ベッドは用意するけど寝具はないので布団とか枕とかは自分用のを持ってくるようにね、とあって、これも、え… (余分なの持ってないし)だったが、当日の昼間にJohn Lewisとかに行ってブランケットと小枕買いましたよ(こういうのは楽しいね)。

22時開場だったのでその時間くらいに行ったらもう結構並んでいて、みんな格好がてんでばらばらなのがおかしかった。キャンプに行くみたいな重装備のひともいれば、ほぼパジャマにスリッパ、素の布団を両手で抱えただけの女の子(あれで地下鉄乗ってきたのか?)もいる。

会場はいつものBarbicanのとこではなくて、ロンドンブリッジの傍のOld Billingsgateていう19世紀に魚市場として建てられて、いまはイベント会場になっているとこ - お魚のかわりに横たわるってか - で、そこのフロアがエリアのAからCまでテープで仕切られて、そこにパイプのベッド(マットレス直じゃなくてよかった)がずらっと並べられていて、入ったひとから順に自分のエリア内の好きなベッドを確保して寝支度を始める。 各ベッドの間は1メートルくらい離れているのでなんか(ってなに?)あっても安全かも。
比べちゃいけないとは思うが、フジのRed Marqueeの床で寝るのの1000倍は快適でしたわ。

寝る準備もひとによってそれぞれ、敷布団からちゃんと敷いて固めるひと、いつもの寝巻きに着替えるひと、トイレで髭そったり歯磨いたりするひと、とりあえずなんか(グラノーラバーと水は配られる)食べ始めるひと、などなど。あとBarbicanのメンバーは小さな布袋のお泊まりキットを貰うことができて、開けたら歯ブラシセットとかAēsopのローションとか小物がいろいろ入っていた。

エチケットについてはうるさいくらいにアナウンスされていて、これは単に音楽を聴くだけでなく、聴くという体験の共有とその尊重によって成り立つプログラムなので、くれぐれも(音楽に加えて)隣人の眠りを妨げるようなことをしてはいけません、だからお酒もタバコもぜったいだめよ、って。

TVカメラみたいのが入っていて、隣のベッドのひとにインタビューしている元気なひとがいるので誰かと思って顔をみたらJarvis Cockerさんだった(たぶん。 どうみても)。 彼、客としても4つ向こうくらいのベッドに寝て、普通に脱いで着替えしたりしてた。 Jarvisに夜這い(死語)をかけられるポジションにあった、ということね。

2015年に発表されたこの作品は、発表当時BBCのRadio3でライブ放送され(ラジオ史上最も長いライブ中継放送となったって)、その後のライブ上演はLondonとBerlinとSydneyで行われている。 ライブで演奏するMax Richter EnsembleはPiano/Keyの彼の他、ソプラノ1、Violin3、Cello2、その他サウンド1で、とにかく8時間ずっと演奏し続けるの - 我々の仕事でいうと9時から5時まで休憩取らないでタイプし続けるようなもん - だから重労働だよねえ、て思う。

Max Richterの作品は、2月のRoyal BalletでかかっていたWoolf Worksの伴奏とか、最近の映画だと”Arrival”とか、これらのアナログはRough Tradeでもふつうに並べられて、ずっと売れているみたいなので、所謂クラシック的な聴かれかたはあんまりしていない。音のうねりとかダイナミズムの造りがマッシブで、でもよく聴くと緻密で、要はかっこいいの。 今回の客もふつーの若者がずいぶんいたし。
この”Sleep”は米国の脳神経学者David Eagleman(翻訳もある)にコンサルテーションして潜在意識にちゃんと効くようにデザインされている、てプログラムには書いてあった。効かせてもらおうじゃねえか。

そういう音楽なのでがんばって無理して起きていないように - 例えばRed Bullみたいのとかコーヒーも飲まないようにして、滑り落ちるがままにしておこう、と。それって例えばゴールドベルク変奏曲やアンビエントを聴きながら寝るのとはどう違うのかしら、とか。
簡単な挨拶のあと、ほぼ23時きっかりに始まって、ピアノとアンサンブル、ソプラノのシンプルな絡みのほかにエレクトロの単調なベース音が雲として全体を包みこむように鐘の音のように響いてきて、気持ちいいというよりは堂々とかっこよくて、これ、よすぎてもったいなくて寝れないんですけど、と少し心配になり、20分くらいして雲のかんじが少し変わって、1時間くらいしてはっきり曲調が変わるのがわかって、憶えているのはその辺まで。

両隣のベッドから即座に鼾が聞こえてきたのもおかしくて、片方は無呼吸系のやつ、もう片方はカエル系のやつで、トイレに起きたときにベッドの間を抜けていくとみんなそれぞれがーがーしたりうなされたりしていて、夜の動物園じゃないけど、こんなにうるさいもんなんだねえ、て思った。そういうなかでも演奏は淡々と続いていって、起きあがって真面目に追っかけているひとも当然いれば、ふたりで抱き合ってるひとたちもいれば、ああ聴いていたいよう、と思いつつ再びずるずる落っこちる、脚がつったりしてまた起きる - これが4回くらい繰り返されただろうか、最後に目覚めたときには6:20で、エンディングはちゃんと聴かなきゃって前のほうにいって体育館座りして聴いた。最後はどうやって終わるんだろ終わらないでもぜんぜんよいのに、このまま気を失ってしんじゃったらいいのに、とか思って、最後のトーンが静かに消えて終わった瞬間は7:08くらい、もうみんな割と起きていてわーって拍手したけど、それにも負けない鼾があちこちから聞こえてきたのでみんなで笑った。

朝の川べりに出ると寒くてコーヒーでも買おうかと思ったけど並んでいたのでやめて地下鉄でおうち戻って、駅前でベニエを2個買って部屋で食べたらそのまま落ちて、気づいたら11時でああいかん映画とか行かなきゃと思いつつも再びずるずる落ちて、13時過ぎになんとか立ちあがった。 晩も夜寝しちゃって、約8時間、潜在意識に流れこみ続けた彼の音楽が頭のなかの何かを閉めてしまったのか開けてしまったのか染めてしまったのか、なんか眠くてしょうがなくなった。 ぜんぜん悪いかんじはしないのだけど。

夢の8時間だった。また行きたいなー。毎年やらないかしらこれ。
もし王様になったら毎晩これを枕元で演奏させて寝るんだ。

5.07.2017

[music] Deftones

5日の金曜日、こどもの日に行きました。 こっちは当然休みじゃないよ。

最近やかましいの行ってないなー、と思ってなんかを探していたらChino Morenoが足の甲を骨折したというニュースが入ってきて、でも金曜日のロンドンのライブはやるから、チケットまだあるよ、ということだった。 フル・スロットル踏みこめない、手負いのDeftonesなら年寄りでも相手にできるかもしれないし、まだチケットが取れるということは英国ではあんま人気ないのかもしれないし、じゃあ久々に行ってやろうか、と前日に取ってみた。(←どれもめちゃくちゃあまかったバカ)

Deftonesは2003年にNY(たしかHammerstein Ballroom)で見ていて、そのときの彼らは”White Pony” (2000)を経て”Deftones” (2003)をリリースした直後、絶賛大爆発の真っ只中だった。 フロアに立ってたら死ぬ予感があったのでバルコニーから見下ろしていたのだが、あそこに落ちたら瞬間でミンチにされて破片の同定不可だな、くらいのものすごい肉塊の束と渦がありえないスピードでぶつかりあっていて、これは勝てん(←なにに?)てあっさり思ったのだった。

場所はAlexandra Palaceていう行ったことないところで、地下鉄とバスを乗り継いで1時間くらい、バスを降りると高台の公園で遠くにロンドンの街が見えてきれいだった、のだがそれよかものすごい行列が延びて続いていて、これがぜんぶ同じ建物に入るの? ひょっとして屋外? とか心配(ものすごく寒かった)になったがとにかく並んで、入り口まで行ったらまだチケットピックアップしてないひとはあっちよ、と逆サイドのBox Officeを指さされて、あうー、ってチケット拾ってさっきより少しは短くなった - 200mくらい - の列に並び直して、ようやく中に入れたのが9時少し前。 前座のおわりのほうで、垂れ幕をみたらAFIってあって、前のほうのみんなは大合唱していたので、あれはAFIだったのか(← 調べとけ)。

ここ、表示を見ると普段はアイススケートリンクをやっているとこらしくて、そこにものすごくいっぱいの人が入ってスケートじゃない、おしくらまんじゅうをしていた。フジのグリーンくらい入っていたのではないかしら。 ステージからうーんと離れて遠ざかって(こわいから)、それでも次から次へと人が詰まってくる。

Deftonesが出てきたのは9時を少し回ったくらいか、ライティングばりばりのおお盛りあがりで、会場がでっかいのでボトムが割れちゃうのはしょうがないけど、隙間からうんと遠くに見えたChino Morenoは仁王立ちでぜんぜん元気そうで手負いの獣とはとても思えない。 2003年のライブ以降、あまりきちんと聴いてこなくて、ややデジタルとかヒップホップ色が出てきているかんじはあったが、わたしはChinoの声 - バックが激しく、速く、強く走れば走るほど流されそうになって、でも必死で踏み留まろうとする彼の声が醸す色気みたいのが好きで、その点が損なわれていなかったので、とっても満足した。 (00年代前半の彼らは、砂を踏みしめていくようなバックの音とChinoの声の組み合わせが見事だったの)

でもここまで来るのに結構消耗したのと、寒さと、帰り、ライブが終わってからこれだけの人々がバスに殺到するであろうことを考えたら少し怖くなって(怖がってばかり)、"Digital Bath" - "Change (In the House of Flies)" - “Passenger”の白馬3連発を聴いたところで - 10:30くらい - 抜けて帰った。 あとでセットリストみたらその後もよかったのなー。 ちきしょう。 

他にやったのだと”Sextape”とか、すばらしかったなー。

5.06.2017

[film] Guardians of the Galaxy Vol. 2 (2017)

30日、日曜日の朝いちに、BFI IMAX - 3Dでみました。 初日土曜日のチケットは取れなかった。
レビューの点、低いとこがあったりするけど、ぜんぜんそんなことなかったし、おもしろいったら。

ストーリーは割とどうでもよくて、今回はStar-Lord - Peter (Chris Pratt)の自称父であるというEgo (Kart Russell) が現れて、我が種を持つ息子よ一緒に宇宙を我らのものに、って優しく誘ってくるのでどうしよう... て悩んで、その逡巡が仲間たちの結束や挙動にも影響を与えるかも、ていうよくあるやつなのだが、基本はあんまどうってことないの。 こないだの"Fast & Furious 8"とおなじようなもんで、あれでハゲ共が揺るがないとのおなじく、銀河のけだものたちも揺るがない、ていう漫画で、これでいいのだ、つべこべ言うと銀河の果てにふっ飛ばすぞおら、なの。

Grootの成長とかひょっとしたらのStar-LordとGamoraの恋とか、育ての親であるYonduのこととか、姉妹ゲンカが止まらないふたりとか、いろいろ細かいのはあるけど、ミックステープが快調に流れていくのとおなじで、あ、これこれ、とかふんふん、て見て聴いて、たまに一緒に口ずさんだりしていればいいの。そのうちVol.10くらいまで行って好きなところを好きなように切り取ったりできればよいな。

特に冒頭のタコ🐙怪獣みたいのとの戦いはつかみみたいなもんだと思うが、Guardiansのそれぞれが考えなしにやりたいことを勝手にやってて収拾がつかなくなりそうで最後には冗談みたいにどうにかなってしまうところが見事としか言いようがない。 このてきとーな、ひとをどこまでもバカにした不遜さいい加減さはAvengers(自分がいちばん強いと思ってる)にもこないだのSuicide Squad(自分がいちばん狂ってると思ってる)にもなくて、Deadpoolが近いといえば近いけど、彼はほとんどソロだし。やはりバンドで、メンバーにアライグマとか木片がいるのは違うのよね。

なかでもやっぱりChris Prattの軽さは捨て難い。彼の父親役でKurt Russellが登場と聞いたとき、あら素敵、だったのはChris Prattの軽さにKurt Russellの影を見ていたからだったよね。(どの辺のかというと、”Big Trouble in Little China” (1986)のあたり。”Escape from New York” (1981)もいいけどちょっと違うの)
冒頭に1980年、Peterのママと出会った頃のKurt Russellが出てくるのだが、80年頃の彼はもっとぜーんぜん小汚くてかっこよかったの。

あとはなんといってもアライグマRocketよね。
「おれのことをRaccoonて呼ぶんじゃねえ!」がたまんなかった。それに続けてPeterが ..

Baby Grootもかわいいけどさ、なんで彼いっぴきなの?
枝いっぱい落ちてたじゃん? ニョロニョロみたいに、ミニオンみたいに、いっぱい群れていたほうがおもしろいのになー。

音楽はひとによってそれぞれだろうけど、今回のはCheap TrickとCat Stevens だったなー。


あんま関係ないけど、明日の晩、BFIで”Hot Fuzz 10th Anniversary Screening”があって、あのキャストが勢揃いするんだよ。 チケット全然取れないし、別件あるから行けないけどさ。

5.04.2017

[film] Raw (2016)

4月29日の午後、SOHOのCurzonでみました。 強い女の子映画のいちにち。
原題は”Grave”(仏語) - フランス映画。

通勤の地下鉄の乗り換えの通路にこの映画のでっかいポスターが貼ってあって、それは真っ黄色をバックに右斜め上をこんにゃろーていう目で睨んで鼻血を 一筋垂らしている女の子ので、毎朝その前を通るたびにああ今日もがんばらねばという気になるのだったが、映画はそろそろ終わっちゃいそうだったので少し慌てて。

なかなか踏み切れなかったのは、予告とかレビューを見た限りでは血がたっぷり溢れる学園ホラーぽくて、人肉食のお話も入ってて、晩ご飯の前には見ないほうが.. とか書いてあって、苦手なネタばっかりだったからで、でも女の子の面構えの強さと青春学園モノぽいので見ておきたいし、ということでがんばってみた。 青春映画.. かなあ。たぶん。

ヴェジタリアンでアレルギー持ちのJustine (Garance Marillier)は両親に連れられて大学の獣医学部の寮に新入生として入るところで、そこには姉のAlexia (Ella Rumpf)もいるので安心できそうだったのだが、寮の新人歓迎の儀式がなかなかおっかなくてびっくりで、生のウサギの腎臓食べろとか言われて口に入れたけど戻しちゃって、その晩に全身に発疹がでてひどい状態になったり、でもだんだんに彼女の側にも(やばいのも含めて)変化が起こって馴染んで受け容れられるようになっていく..  かに見えて実はそんな簡単ではなかった。

どこまで書いていいのかわかんないのだが、追いつめられて首が飛んだり脚が飛んだりのスプラッターとか阿鼻叫喚じごくはなくて - 指はちょっとだけ飛ぶけど - なんとか見ることができた。 ベースはいろいろ不安定な女の子が苦しみながらもなにかを乗り越えてなにかを悟って少し前に踏みだす、という話なので見守らなきゃ、ていうのと、そこに学校とか寮とか姉妹関係とか家族とか圧迫してくるいろんなのが入ってくるのだが、最後の展開はえーそっちなんだー、みたいな。

ポスターになっているJustineのぴーきゃー決して泣き叫んだりしない、それがなにか? みたいなパンクな佇まいがあるのでよいのだけど、でも先の全身湿疹ぼつぼつ、とか、そのかいかい、とか、その皮むき、とか、姉妹で立ちしょんとか、ブラジリアンワックスびりびり、とか、肌感覚をじかに刺激してくるいろんなネタがてんこもりなので、そういうのが苦手なひとにはきついかも。

いろんな関係に縛られるなかで身体・肉が過激に/過酷に扱われて反応して、それでも。 例えば、大島弓子の世界を生々しく映像化しようとするとこの辺りまで行くのではないか。 こういうのを若い女性監督が撮ったって、なんか素敵かも。

IMDbにはスウェーデンでの上映の際、30人が席を立って、2人が気絶して、トイレで吐いちゃった人も、とか書いてあったけど、そこまででもなかったような。 でもいきなり見たらやはりびっくりかしらん。

上映開始が16:30で上映終わったら18時過ぎだったのでなにか食べないわけにはいかなくて、でもすぐにはなーと思ってレコード屋に移動して、そのあとでいつもの英国料理屋に入って、はっと気がついたらSweetbread(胸腺)を頼んでいて、指先大のぷよぷよしたのを頬張ってああ、とか思ったがやっぱりおいしかったのでどうでもいいや、になった。


あー「PARKS」みたいなー。

5.03.2017

[film] Beauty and the Beast (2017)

Bank Holiday(てなに?)の三連休初日、4月29日の土曜日にVictoriaのCurzonで見ました。
ここ、でっかい画面も3Dもないのだが、4Kのすごくよい音と画面で客席がものすごくゆったり作られているのでとってもだらしない恰好でだらだら見ることができる。もう終わりそうなメジャーなやつをたまにやってて、ガキもいないし快適。

こっちに来て、映画は結構見ている気がするのだが、こういうブロックバスター上位のやつって実はぜんぜんカバーできていないのが謎。 "Sing"も見れなかったし。 他にそんなに見るやつがあるのだろうか、って。

ミュージカル(舞台)版はNYで90年代に、観光客のアテンドで見たおぼえがあるが、中味の記憶はほとんどない。なかった。

呪いをかけられて野獣になってしまったお城の王子 (Dan Stevens)がいて、村のみんなから好かれる本好きのBelle (Emma Watson)がいて、町にオルゴールを売りに出たBelleの父 (Kevin Kline)が帰りの道に迷ってお城に囚われてしまったことを知ったBelleが乗りこんでいって、野獣に父親じゃなくてあたしを囲いなさいよ、って強引に迫って居座ったらお城の器物とか備品のみんななんだかやさしくしてくれて、更に野獣の書庫の蔵書に目が眩んでここは天国だからここにいる! になるのだが、出ていかれた村のほうでは相手にされないGaston (Luke Evans)がむくれて魔女狩りじゃ、って村人と一緒に大挙して城に押し寄せていって妖怪大戦争みたいになるの。
ちょっとちがうかしら?

狼も野獣もしゃべって動く家具とかも、ほんとだったらすごくおっかないはずなのに、そっちはあんま怖がられなくて、でも気に食わないことに対しては恐怖を煽って魔女狩りをやっちゃうあたりの政治のありようはもろ現代だよね、とか。

あれだけ本がいっぱいあったら本好きはすぐに落とせるとおもうけど、でもあれだけ本読んでいるのに呪いにかけられちゃうってなんか間抜けじゃないか? そうかだから野獣なんだね、とか。

いろいろ突っ込みたいところはあるけど、これはひとを外見で判断してはいけません、野獣みたいなひとでも根はやさしい王子さまかもしれないんですからね、ていう「六つの教訓物語」のひとつなので外見で判断してはいけませんよ、ていうとなんでも許されてしまうというとこがきついかも。 でも王子になった途端につまんなくて物足りなくなっちゃったらどうするんだろう? このふたりはそっちに行きそうな気がとってもするのが心配で。

でもなー、ふたりが正装してダンスするシーンはもっと照明ちゃんとしてめちゃくちゃ盛りあげて燃えあがってほしかったのに。

Emma Watsonさんはちっとも悪くないのだけど、あまりに毅然としすぎてパーフェクトすぎてあれじゃどんな野獣だって王子だって劣等感抱いてしおしおになると思った。
子供がこれ見て、あたしBelleになりたい! ていうかなあ。ハードル高いかんじがするよねえ。
背伸びしないでAnna KendrickさんとかKristen Bellさんでコメディ仕立てにしちゃってもぜんぜんよかったのに。
それか、せっかくLGBTQ風味をまぶしているのだから、戻ったときにジェンダーもひっくり返って、それでも、とか。
どうせならぜんぶEmma Thompsonにしちゃう、とか。

主題歌、変わんないのね(そりゃそうか)。 でもあとで見たら歌っているひとが新しくなってた。
それに気づかないのは果たしてよいことなのかわるいことなのか。

5.02.2017

[film] Their Finest (2016)

27日木曜日の晩、Chelsea (Kings Road)のCurzonで見ました。
40年代、戦時下のロンドンでプロパガンダ映画を撮ろうと奮闘する人々のドラマで、これも後年には(Brexit絡みで?)プロパガンダ映画、て呼ばれることになっちゃうかもしれないやつ。 けどなんかよかった。

Catrin (Gemma Arterton)は秘書の仕事を貰いにMinistry of Informationに行ったのに政府直轄のプロパガンダ映画製作のチームでスクリプトを書くことになって、同じ部屋のTom (Sam Claflin)とタイプを叩き合うことになるのだが、いろんなとこからいろんな注文や横槍が入ってくるし戦局は厳しくなっていくし、スペイン内戦で足が不自由になった画家の夫もいるし、ほんとに大変なの。
映画はダンケルク撤退作戦のときに父の漁船で救出に向かった双子の姉妹の冒険を描こうというもので、父親役としてオファーが行ったのがかつてのスター、Ambrose (Bill Nighy)で、最初は落ち目になるっぽいしと乗り気ではなかったのだがやってくれることになって、みんなでがんばって手作りの撮影を進めていく。

ダンケルクの話があって、突然やってくる空襲とか地下鉄のホームに避難するところとか、女性が主人公だったりとか、コニー・ウィリスの『ブラックアウト』を思い起こしたりもして、実際にCatrinがひとり奮闘するさまは、現代の女性が過去に潜っていってなにかを変えようとしているかのように見えなくもないのだが、それは考え過ぎというもので、戦時下のちょっと柔らかめのコメディとして見るのがよいのだろう。

それを際立たせているのが、Ambrose (Bill Nighy)のたまんない存在感で、彼が出てくるだけで英国のコメディとしての臭み、というか風格が漂ってしまうのがすばらしい。 まさにアメリカのコメディにおけるBill Murrayとおなじようなかんじよ。

でも、最後のほうの展開はあらあらびっくりで唐突で - 監督はあの”One Day” (2011)のLone Scherfig.. -   口をあけているとついほろりと泣かされてしまったりもする。それでもいいか。

Gemma Artertonさん、”Hansel & Gretel: Witch Hunters” (2013)くらいしか知らなかったけど、柔らかいJessica Chastainみたいでよいねえ。


この映画の公開を記念してBFI(←お国の機関)では"Girls Like Us" - なんでこのタイトルか、は”Their Finest”のなかに出てくる - ていう戦時下の女性を描いた(プロパガンダ)映画の特集をやっていて、"Went the Day Well?" (1942)とか"The Life and Death of Colonel Blimp" (1943)とか有名どころを含めて戦時下の名作がごっそり上映されるのだが、26日にそのなかの一本 - “The Gentle Sex" (1943)ていうのを見た。 ※ポルノじゃないからね。

戦時下、イギリス陸軍が組織した女性部隊 - Auxiliary Territorial Service (ATS) - 補助地方義勇軍 - に志願した7人の女性たちのそれぞれの奮闘を監督のLeslie Howardのナレーションと共に、それぞれの家庭の事情とかを絡めつつものすごくまじめにストレートに描いたやつで、これが当時はボックスオフィスで当たったというのだから、なんかすごい時代だったのね。

これと併映で、飛行機の組立工場に働きに出た女性をドキュメンタリーふうに描いたお仕事勧誘のショートフィルム - “Jane Brown Changes Her Job” (1942) - も上映された。
こういうの見ちゃうと英国の女性の社会進出とか貢献とか、こうやって積み重ねてきたタフな歴史があるんだなあ、って。 日本なんていまだにお茶汲みの是非、みたいなレベルだもんな。

でもこれらは戦争のために作られたものだ、っていうことはまず頭に入れておかないと。
戦争は人を殺すことで、絶対やってはいけないことなのだ、って。

[music] Bob Dylan and His Band - April 30

4月30日の日曜日の晩、London Palladiumていう中規模のホールで見ました。
彼がここんとこずうっとやっている"Never Ending Tour"のLondonでの3daysの最終日。
チケットは2月の発売日の早めのタイミングで取りにいったのだが、2階席しかなかった(3階まである)。 お代はだいたい£100くらい。

さて。Bob Dylanについてなにを書いたらよいのかしら。
NYでライブは2回くらい行って、アーカイブのシリーズもいくつか持ってはいるけど、そんなによい聴き手ではなくて、彼の詩を読みこんで世界や人生についてあれこれ考えたことがあるわけでも彼の音のスタイルやその変遷について考察できる軸があるわけでもなく、単に聴かないよりは聴いたほうがぜったいよくて、聴くのだったらライブのほうだねえ、程度のものだった。
ただBob Dylanを聴け、みたいにDylanをネタに講釈を垂れたがるくそじじい共だけはいまだに死ぬほど憎んでいて、ああいうふうにはならないようにせねば、というのだけはずっと心に留めてきた。(StonesもBeatlesもおなじだけどね、「大人のロック」を語りたがる大人たちのしょうもなさ)

チケットには18:30 Openとしか書いてなくて何かを見逃すといやだったのでその時間に行ってじっと待って中に入ると、前座もないまま20:00きっかりに始まる。 それまでの間、みんなビールのんだりシャンパンのんだり、だらだら楽しそうだった。 だいたい老人(←お財布)とその息子とか孫とか、そんなのばっかし。

ステージの真ん中にはマイクスタンドが4本立っていて、誰かくるのかしらと思ったがそうではなくて、どれを取ってもいいように、てことらしかった。 Dylanはほとんどグランドピアノを立って叩いて座って弾いて、たまに(杖のような)スタンドマイク。 音は会場の鳴りも含めてものすごくクリアですばらしい。低〜中域の弦の絡みがぜんぶ細やかに解れて聴きとれて、その脇から結構乱暴な鍵盤が横割りしてかき混ぜで散らして、そのうねりの気持ちよいことったら。 他方で彼の声というか歌というか咆哮というか、はどこまでも自在にでっかく、バランス度外視で唸ったり吠えたりしていて、これこそが無敵で唯一無二で、Never Endingなのね、とか。

セットリストはずっと変わっていないようだし、その並びやカバーの解釈について何をどう言えるというものでもないのでずっと黙ってクラシックを聴くようにじっくり聴いていくのだが、やはり真ん中くらいの"Tangled Up in Blue"から"Desolation Row"あたりまでの5〜6曲の、漲って縛りあげられて宙吊りにされて身動きとれなくなっていくようなかんじはすごいかも、って。 これこそがノーベル賞なのかもって。(言っちゃった..)

ただ、Frank Sinatra、Harold Arlen、Johnny Mercer、Yves Montandといった往年のスタンダードのカバーの間に自身の初期の代表曲を散りばめて歌ってみることで、発表当時と明らかに位置が変わってしまった自分の歌のありよう、それがそもそも投げようとしたものを問い直す、咀嚼しなおす、ということはあったのかもしれない。 それは我々聴き手に対しても同様の問いになっていることは確かで、その答えは風のなかに… なんかじゃなくて、だからNever Endingだって言ってるだろ、もう一回でも二回でもようく聴いて考えろ、トラメガで耳元で怒鳴ってやるから、って。

5.01.2017

[film] Hymyilevä mies (2016)

Londonに来て 3ヶ月が過ぎてしまった。
あっというまでした、と書いてしまうであろうことは3ヶ月前から予測できていたよね。
いつ - 例えば明日に - 帰されても後悔しないようにしとかなきゃ、ということはずっと思っていて、そういうふうに後悔しないために見たり聞いたりしておかなきゃリストは膨らんでいくに決まっているから毎日いろんなところに行ったりするのだが、行けば行くほど積もっていってしょうもない。 ちょっとバカすぎる。

23日の日曜日の夕方、引越しでぐだぐだになったこころとからだを鎮めるべく、BloomsburyのCurzonでみました。
英語題は、”The Happiest Day in the Life of Olli Mäki” (2016)。
2016年のカンヌの「ある視点部門」賞を受賞したフィンランドのモノクロ映画で、日本では「オリ・マキの人生で最も幸せな日」という題で東京国際映画祭で上映されている(らしい)。

「ノリ・マキの…」 とやるとちょっとだけ村上春樹ふうになるかしら。

62年、ボクシングのフェザー級で世界タイトルマッチに挑戦した実在のフィンランド人ボクサー、Olli Mäki (Jarkko Lahti)と彼女、彼のトレーナーと、それぞれのタイトルマッチまでの日々 - 突然フィンランドの英雄のようになってしまった彼と彼女の戸惑ったりほんわかしたり切なかったりきりきりしたりの日々を描く。

実話だし、試合はあっさり負けちゃうし、ロッキーみたいなドラマチックな世界になったり、そういう出来事が起こったりするわけではなくて、特に体格や容貌に恵まれているわけでもないふつーの男がボクシングの世界で認められてほんとかよ、みたいな事態に巻きこまれていくなか、突然彼女との愛に目覚めてしまってどうする、それどころじゃないだろ今はタイトルマッチだろ、満たされてないで減量しろよ、などなどでおろおろあたふたする - そんな誰にも起こりそうな”The Happiest Day in the Life”のおはなしを丁寧に綴っていく。 60年代の恋人たちをセンスよく撮った写真集みたいなかんじ。

Olli Mäkiもよいけど彼女のRaija (Oona Airola)のふっくらした笑顔と仏頂面がすばらしく素敵で、彼が彼女にやられておっこちてしまうのがとってもよくわかるのだった。 ふたりで自転車漕ぎなんて定番中の定番なのに、それでも(見ているこっちが)やられてしまう、不思議ではないけど、やっぱり不思議かも。 なんだろうあれ。

最後、ずっと一緒にいることを決めたふたりがすれ違って通り過ぎた老人夫婦を見て、あたしたちもあんなふうになれるかしらね? ていう(そしてその老夫婦はほんもんのMr. & Mrs. Olli Mäkiであると)、それだけで見てよかったなー、でしたわ。

TVでとつぜん”The Grand Budapest Hotel” (2014) が始まってしまう。 月曜の深夜からやめてほしい。