3.31.2016

[music] Tweedy

30日の晩、恵比寿でみました。 幸運なことに3月は音楽のライブに3回も行けた。 ぜんたいはぼろかすだけど。

Jeff Tweedyが息子のSpencerくんと二人でバンドを始めた、と聞いたときは親ばかだねえ、とか軽い遊びくらいのものと思っていたのだが、来日メンバーを見たらDarin Grayはいるしバンドのライブ写真もなんかよさそうなのでチケットを買ってみたの。

バンドとしてのWilcoは"Yankee Hotel Foxtrot" (2001) 以降、特にDrにGlenn Kotcheが入ってGにNels Clineが入って今の6人編成になって以降はあまりにも無敵で巨大で、アヴァンにオルタナにフォークまで、(よい意味で)なんでもござれの盤石バンドになって、アメリカではチケットぜんぜん取れないし、だから昔みたいにJeffがひとりでふらりとソロ、みたいなことができなくなっているのではないか(たまにやってるけど)、て思っていたところにこんなバンドが。

Wilco-Liteとか呼んだら失礼なのかもしれないが、おそらくGlenn KotcheにコーチしてもらったであろうSpencerくんの腰の据わってキレのよいドラムスにDarin Grayの木炭のようなベースにきらきらしたアコギにエレキにエレクトロと、のコンビネーションがまず気持ちよくて、そこにJeffの歌声が心地よく、着ふるした服のように被る。 「ワルツだよ」てJeffはしきりに言っていたが、ハミングしながらゆったりくるくる踊るのに丁度よい音楽なのだった。

最初の1時間はTweedyの”Sukierae”からさーっと、ひたすら気持ちよく流して、そのままJeffのソロになって、それはそれはものすごいお得なやつだった。
Jeffのソロは"Via Chicago”〜”I Am Trying to Break Your Heart”から始まるWilcoの黄金スタンダードで、ああこれだけでも来てよかった、てずーっとおもっていた。
前にも書いた気がするが、911の少し後、Town HallであったWilcoのライブで"Jesus, Etc."を聴いて、客席のみんなでわんわん泣いたことを思いだした。 (ついでだけど、こないだNHKでやってた『新・映像の世紀』を見てまだぜんぜん癒えていないことがわかった - 911の映像)
これであと"Sunken Treasure”でもやってくれていたらなー。

そのあとで、1大陸につき1回しかステージに上がらない、まだこれが2ステージ目だという次男坊も出てきて、歌いだして、えーこれなんだっけ、あ、Big Starの"Thirteen”だあ!!  なのだった。彼もなかなかすてきでしたね。

アンコールはまずJeffひとりで”The Losing End”やって、最後はもちろん、来日メンバーが発表されたところで、彼がこなかったらそうとうな人でなしとしか言いようがない、て思って、メンバー紹介のとこであーやっぱりでるんだわ(!)て思ったJim O'Rourkeがよれよれと登場する。 シャッポ被ってHoboみたいな恰好で、まあまあ、てかんじでJeffにまずチップを渡す。
まんなかに全員帽子かぶったやばそうな3名のおっさんがノイズも含めてぐりぐりわんわん鳴らしてて、そのまわりを3名のひょろひょろつるつるした若者が囲む、というなかなか愉快な光景だったのだが、これで2曲。 最後はLoose Furの”Laminated Cat”。

Jim O'RourkeがWilcoと一緒に演奏しているのは2回みてて、Loose Furのライブもみているのだが、このふたりのライブって、ほんとに絵になって、よいの。どっちも凄腕のシェフみたいなかんじだよね。

WilcoはFUJIに来るそうだが、Wilcoのためだけに行くのはどうだろうか、て悩みはじめたとこ。

ちぇ.  大阪ではあの曲を..

3.29.2016

[film] A Song Is Born (1948)

12日の土曜日の午後、シネマヴェーラの特集『ミュージカル映画特集 - ジャズで踊って』で見ました。
『ヒットパレード』 (がちょーん)。 満員御礼でしたわ。

まず『踊るニューヨーク』(1940) - “Broadway Melody of 1940”の途中から入って、とっても有名なFred Astaire & Eleanor Powellの“Begin the Beguine” (1935)を見る。なんどだって見る。
見ればとにかく踊りだしたくなって幸せになれる不思議。

“Ball of Fire” (1941) -「教授と美女」は80年代末にVHSが出たときに買って(¥13800もしたんだよ、とっても悩んで泣きそうだったんだよ)何度も見て、アメリカに行ってからもフィルムで見て感激して、これを含むルビッチの何本かとホークスの何本かは無人島に持っていく奴らなのだが、この、「教授と美女」のホークス自身によるリメイクは見る機会がなかったので今回おおよろこびで見にいった。  白黒じゃなくてテクニカラーだった。

一軒屋敷で集団生活をしながら世界の音楽の研究(「教授と美女」では百科事典を編纂してた)に没頭している学者集団8人がいて、ひとり以外はみんな結婚したことなくて、でも楽しくやっていて、そんなある日、館にふらりと迷いこんできたアフリカ系二人組がてきとーに鳴らした音楽に衝撃を受けたリーダー教授のHobart Frisbee (Danny Kaye)はやはりフィールドに出ないとあかん、て夜のマンハッタンに出ていってクラブ巡りをして(いいなあー)、君の音楽をもっと知りたいから是非うちに来てくれたまえ、て名刺を配りまくって、そうやって引っかかったのが、やばいことになっているギャングの情婦Honey Swanson (Virginia Mayo)で、丁度いいからとりあえず匿ってもらえ、ってそれまで女っ気ゼロだった館に異文化圏からやって来てあれこれひっかきまわし始める。

ていうのと、あとは教授の招きに応じて現れた当時のジャズとかダンス系の先端のミュージシャン達(名前しか知らないけど - 名前だけは知っているものすごい人たち)が延々繰り広げるジャムセッションとか(いいなあ、研究目的でそんなの)。 Benny Goodmanさんが教授側にいて、学者先生には無理だろ、とか冷やかされながら見事なソロでセッション全体を丸めこんでしまったり。

で、そうやって楽しく過ごしているうちにHobartはHoneyの裏の顔も知らぬまま恋におちて、うぶ野郎の勢いで一直線に突っ走って指輪まで買っちゃって、ギャングの親分とも団とも当然のようにぶつかって、でも教授たちも力を合わせてがんばって戦うの。 Dawn of Justiceなの。

“Ball of Fire”、そして”A Song Is Born”。どちらもいきなり突然現れ出てすべてを焼き尽くして覆いつくして、ひとの目を塞いで耳を塞いで、それが恋というものなんだって。 おてあげ。

Danny KayeとVirginia Mayoのコンビも悪くはないけど、「教授と美女」のGary Cooper & Barbara Stanwyckと比べちゃったらやっぱし、ねえ。 「教授と美女」でまっ暗な部屋の奥でBarbara Stanwyckの目が怪しく光るとこがあって、それと同じ場面もあるんだけど、うううむ… なの。

でもとってもおもしろいことはたしかだから、見たほうがいいよ。
結局この特集で『教授と美女』見れなかったのはざんねんだった。

3.28.2016

[film] 5 Flights Up (2014)

2月28日のごご、「なみだ川」のあとに銀座でみました。
「ニューヨーク  眺めのいい部屋売ります」

ふだんあんま見ないような映画なのだがNYの不動産事情が云々、というのであれば見ないわけにはいかない。 部屋をすこし貸りてた程度のものであるが。

結婚した頃からずっと、約40年間ブルックリンのアパートの5階で暮らしてきたRuth (Diane Keaton)とAlex (Morgan Freeman)の夫婦は、歳と共にエレベーターなしで5階まで上るのがいい加減しんどくなってきて、愛犬もヘルニアで病院送りになってしまったのでもうここを売ってエレベーター付きのところを買って越そう、ていう決断をしてRuthの姪の不動産屋のCynthia Nixon - つい「ミランダ」って呼んでしまう - に連絡すると彼女は鼻息あらく現れて、まずは売ることよ、それも高く売ること、ってそのためのノウハウを伝授してくれて、とにかく即決せずに粘れ、ていうの。 たまたまそのとき、橋のまんなかで立ち往生した車が爆発物を積んでいる疑惑とそこで逃走した運転手はテロリスト疑惑が持ちあがり(でこのあと延々逃げて捕まらない)、発生したのが割と近所だったものだから不動産価格への影響は避けられなくて、どうするどうなる、なの。

こうして自宅をオープンハウスで公開したときの地味なざわざわ騒動とか、マンハッタンで物件を見てまわるときのため息とか諦めとかが延々描かれて、さて彼らはいったいどこに ?  なのだが最後はなんとなくわかっていたようなところにいくの。

今のアパートの眺めのよいところは別として、現状の問題点をいっぱい挙げて、それらが新しいところでは値段も含めてどれくらい良くなるのか、それはそう簡単に○Xで決められるものではないことは誰にとっても同じこと、誰もが経験したことあることなのでそこはうんうん、て頷いたりそうだよねえ、だったりしてわかるのだが、いっこだけね。

どういうアパートのどんな仕様の部屋に住むのかは勿論大事なのだが、NYの場合(NYだけじゃないけど)どの辺に住むのか、が結構重要で、その辺の議論があんまされていない気がした。エレベーターさえあればいい、というのであれば確かに最後まで残ったアッパーイースト近辺が妥当なのかもしれないけど、画家のAlexにとってはとっても退屈なエリアだとおもうし。
(IMDbでも指摘されていたが、夫婦が選んだのは1st Aveの70thだけど、そこで映画が映しているのはAmsterdam Aveの110thくらいなの。両者の雰囲気はぜんぜんちがうし…)

いやいや一番大事なのはどこにどう住むかじゃなくて、誰と住むかなんだよ、ていうあたりが結論のようだから別にいいんだけどね。

あとね、エレベーターがあったって、停電になったら動かないんだよ。 大停電のとき、高層階でひーひー泣いている人たちいっぱいいたんだよ。

オープンハウスになるとどこからか現れる冷やかし親子の娘の方が最後になんかやってくれるかも、と思ったけど、なんもなくて、なんかもったいなかったかも。おもしろそうな娘だったのに。

出張前に見ていたのはここまで。

3.27.2016

[film] D'Est (1993)

少し戻って2月27日の夕方、飯田橋のアンスティチュでのアケルマン特集の最後、として見ました。
(4月の馬車道のは行けるかしら)

「東から」。 “From The East”。 110分のドキュメンタリー。
ソ連崩壊後の東欧の都市を描いた、という情報はあるものの、具体的に地名、群衆の、人の名が表示されることはないし、ナレーションもないし、人の声は入ってくるけど撮影のために録られたような会話もインタビューも一切ない。

カメラは(おそらく車のなかで)たいへんゆっくりと横移動していくのが殆どで、道を歩いている人たち、仕事に向かう(?)人たち、仕事を終えた(?)人たち、道端でなにかを待っている人たち、同じくなにかを売っている人たち、駅のベンチでなにかを待っている人たち、自宅の室内にいる人たち(たまに歌っていたり)、などなどがそれぞれたっぷりの長回しでランダムに並べられている。 これだけで110分。なのにまったく、ぜんぜん目を逸らすことができない。

外はとにかくとっても寒そうで、道も道端は雪が積もったり氷でかちかちで、みんないっぱい着こんでペンギンのように互いに寄り添って震えているかんじ、駅の構内も人が流れているかんじがしなくて滞留している。人は沢山溢れているのに景気がよくて賑わっているかんじはしない。 屋内でも屋外でも。でも屋内のほうがまだ親密な空気があるような。

というようなことが粒子が粗くて暗い画面 - それは粉雪なのか小雨なのかノイズなのかわからない - から窺うことのできるすべてで、カメラは一定の距離を保って人々に近寄ることなく、まるでサファリで動物たちを撮っているかのように息をひそめて移動している。 ニュース映像であれば景気や先行きに対する人々の不安の声やコメントを当然のように入れるのかもしれないが、ここではそれをしない。 そうすることが「正しい」と思ったからではなくて、それがこの人々とこの事態に接する/それを撮影する態度としてできる精一杯である、と語っているかのように。

彼女の作品でいうと、例えば『8 月15日』(1973)、そして『家からの手紙』(1976) あたり。
前者の女の子の独白の声、後者の母からの手紙を読む声、この『東から』にこれらの声はない。
それはなぜか、を考えてみること。

そしてこれに連なるドキュメンタリー『向こう側から』(2002)では登場するいろいろな立場の人々にあれこれ喋らせている、ということ。

今、彼女がシリアからの難民やフランスやベルギーの状況を撮ったとしたらどんなふうになっただろうか? カメラは4Kのデジタルになるので画面はとてもクリアで精密で、そこにはどんな言葉が? ノスタルジックな意味ではなく、これを真剣に想像し、考えてみることがいまの自分たちひとりひとりに求められているのだと思う。 彼女の映画を見るということはそういうことなのだから。

3.25.2016

[film] なみだ川 (1967)

2月28日の日曜日、京橋の三隅研二特集で見ました。原作:山本周五郎、脚本:依田義賢のこてこて。 
『古都憂愁 姉いもうと』を見ちゃったらこれも見ないわけにはいかなかった。

江戸時代のお江戸のお話しで、お仕事根性モノではなくて、姉妹の結婚をめぐるロマコメなの。

長唄の師匠をやっているおしず(藤村志保)、仕立屋をやっているおたか(若柳菊)の姉妹がいて、姉はとんちんかんな諺(どんなのがあったか思いだせないくらいひどい)を連発する世話焼きおばさんふう、妹はちゃきちゃきした江戸っ子ふうで、ふたりぜんぜん性格は違うのだが、病弱で働けなくなった彫金師の父に代わって家計を仲良く支えていて、妹は着物を納めている金持ちのとこのぼんぼんが気になっているのだが、極左のちんぴらやくざの兄(戸浦六宏)がいるので結婚は無理だわって諦めている。

おしずは妹のために唄の生徒の安部徹に頼んでお金を工面して貰い、そのかわりにおれの妾になれ、ていう安部徹をとりあえずてきとーに無視して、兄にもう二度と会いにきませんていう誓約書を書かせて、ぼんぼんの家に出向いてもうあれとは縁は切りましたからどうか結婚を、てお願いして、更に妹にはあたしは貞二郎(細川俊之)さん - たまに家にやってくる遊び人の彫金師 - と結婚するんだからあんたは心配しないで行って、ていう。

おたかは姉の結婚ネタは即座にウソだ、て見抜いて、ねんのため貞二郎に会いにいって姉がこんなこと言ってるんですけどー、ていうと貞二郎は姉さん、いいやつじゃねえか、って少し惹かれて、後で直接おしずとも会って、でもおれは遊び人なんだぜ、とか言いながらも姉の一途さ純粋さにやられて寝ちゃったりする。

なかなか悪くない展開かも、と思ったら、安部徹が貞二郎を呼びだして、あれはおれの女だから手ぇ出すんじゃねえ、て激怒していうの。 で、貞二郎はべつにあんなの俺の女じゃねえし、て引いちゃうの。

こんなふうにそれぞれのいろんな先走った想いが運命の糸車をからからまわしていくとこなんてもろロマコメなのだが、これが江戸時代なのがなかなか趣深いかも。

で、なんとか結納までこぎつけそうになったところで再び兄が現れて金貸さねえと縁談ぶち壊すぜ、とか言うので姉はまっすぐ刃物屋に行って刃物屋の番頭(玉川良一、すてき)に人を斬るときの短刀とそのときの構えまで教わって、当日、おめでたい席にやっぱり兄は現れるので一転して修羅場に。 

刃物、とうぜん出るべくして出るわけだが、その瞬間の殺気と勢いが画面のトーンを一瞬で変えて、その打突が身を引いてしまうくらい凄くて強くて、ああそうだよねえ、座頭市とか桜の代紋とかのひとだもんねえ、と改めておもった。 でもその殺気って、想いとか純粋さが爆発した先にあるものなんだよ。 

まあ、終ってみればみんな幸せになって悪いやつはいないことになっている(きょとん)、このへんもいいの。

あ、唯一、ブチ切れた安倍徹がなぶり殺しに来るかな。

ところで「なみだ川」ってなに?

3.24.2016

[film] 古都憂愁 姉いもうと (1967)

2月27日の土曜日、京橋の三隅研二特集で見ました。原作:川口松太郎、脚本:依田義賢のこてこて。 
プリントもきれいで、にっぽんてよい国、とかおもうよ。 たぶん。

訳あって都落ちしたらしい小説家(センセーて言われるようなタイプ)の信吉 (船越英二)がいて、同じように京都の奥で女将の志麻(八千草薫)ひとりでやっている訳ありぽい旅館に泊まりにきて、あら久しぶりお料理でも取りましょうか、といって取ったところのがかつて小説家が贔屓にしていた小料理屋「とと喜」で、主人が亡くなったあとは出戻りの姉ともうじき結婚しようとしている妹が継いでいるのだという。

で、話はこの姉妹のほうに移って、柔らかいところも硬いところも長女、ていうかんじの姉きよ子 (藤村志保) と、気が強くて間違ったことが許せないかんじの妹ひさ子 (若柳菊) のふたりがいて、妹はこれから結婚するんだし、お姉ちゃんみたいに失敗しないんだから、と鼻息荒く結婚生活に臨もうとしていて、婚約者の陶芸野郎がなよなよ抱きついてきても頑なに結婚するまではだめよ、て拒んでいる。 で、つまんなくなった陶芸野郎は姉の方を向いて、前から好きだったんです、とか言って、動揺した姉は信吉のところに夜這いして当然のように拒絶されてなにやってんだろあたし、になって、でも結局、おいしいスコッチにつられて(...つられんなよ)、陶芸野郎と寝ちゃうの。

それがばれて妹は当然激怒で婚約破棄であんたなんか絶縁よ、の大喧嘩になって、そしたら姉はそいつと一緒に東京に駆け落ちしちゃうの。 料理屋とかぜんぶほったらかしで。 あまりのB型行動に一同あぜん。

年月が経って、文学賞を受賞した作家センセーが志麻を連れて東京のバーに行ったらそこでホステスしていた姉に再会してびっくりで、姉はとっくに離婚してて、でも妹にはあわせる顔がないから、って音信不通になっているというので、じゃあ、と彼女を京都に連れて帰って、自分の文学賞受賞の祝宴の料理を任せてみることにする。 

のだが、地味におでん屋とかをやっていた妹はまだぷんぷんだし、「とと喜」の暖簾を預かっていた親方(藤岡琢也)だって許すわけないし、じゃあその宴できよ子の腕をみた上で決めてやるか、ていうことになって、一世一代の庖丁人テイスティング勝負が始まるの。

過去が一切明かされず、とてつもない闇を抱えていそうなのにぴょんぴょん無邪気な志麻とか、妾の意味を理解していないお手伝いのお梅 (伊藤栄子)とか、十年のブランクをすっとばして料理人として復活してしまうきよ子とか、人生台無しだけど別にいいもん、のひさ子とか、出てくる女性はみんなそれなりに一途で、強いし負けないし、料理の腕はすごいし。 男はみんなつまんないねえ。

白みそ料理をとっても食べたくなる。

それと、スピンオフで女将・志麻のおはなし作るべきじゃった。

3.22.2016

[music] Joan of Arc -- March 21 2016

3月21日、連休最終日の晩に渋谷で見ました。 花粉でじゅうぶんぼろかすで、風邪もじゅうぶん治っていなくて、連休なんてぜんぜん連休じゃないじゃん(会社いきたくない)、て文句を言いながらも、この人たちならしょうがないか、しかも20周年だっていうしな、になった。

2014年の2月、雪の日のライブ以来の再会。
今回のメンバーは5人で、前回よりひとり多くて、このひとり - 初期メンバーだったというJeremy Boyleさんの電子音がなかなか、堅パンのように歯ごたえがあって見事だった。 あと、Melinaさんは前回よりだんぜんご機嫌だったようにおもう。

結成20年の集大成とか二日間で日によってセットリストが違うとか言われていたが、そもそもこのバンドに関して「集大成」なんてものがありうるのか、毎日同じセットでの演奏を期待するようなやつなんているのか、と胡散臭さ法螺吹き感たっぷりで、そういうところも含めて行ってみました。

こんな目で見てしまっている我々もよくないのかも知れないが、初めからものすごい立ち上がりで突風のように五感すべてをもっていく、みたいのをぜんぜん、いっさい期待していないので、オープニングの音出しでも、えーとこれはもう始まっているのよね、マイクチェックじゃないよね、とか自分で自分に確かめて、Tim Kinsellaを見て、あー、あの顔はもう入ってる、ONになってるよ、とか確認して、あちこちに散らばってぐつぐつ不穏に鳴りだしている音を自分の耳下にかき集めてくるの。

最初はあまりに自由奔放に散っていてどうすんだろこれ、みたいだった音の束がTimのうたを中心にJoan of Arc的な音の雲・外郭がゆるゆると立ちのぼってきて、その像がくっきり形を取りだしたのが中盤くらいから、そこから先はもうひたすらがちゃがちゃどかどか気持ちよくて、たまに伸びてくる電気クラゲの触手に触れてびりびりしたり。

ばらけてとっ散らかって収拾のつかない - と誰もが形容するであろう音の粒や束なのだが、それでも、というか、であるがゆえにというか、まんなかにあるのはTim Kinsellaの鼻歌のような声と歌で、どれだけ音の飛び道具や爆竹が辺りを殺伐とした風景に変えようとも、最後に残るのは彼の歌で、ていうか彼の歌をサルベージするために、これら散漫で凶暴で非協力的な、とっちらかった音の暗幕は用意されたのでは、と思えてくるのだった。 こうして彼の頼りないよれよれの声と歌は瓦礫のなかから立ち上がってやたら親しげに誇らしげにこっちに歩いてくるの。

(豪快にダイブとかしないで、これらの音にまみれつつ、ひとりひとりにうりうりぐりぐり触っていくのもTimらしかった)

こんなふうに見てみたときに、このバンドがエモ、ハードコア、ポストパンク、アヴァンギャルド、ジャズ、ノイズ、ドローン、などなどを「経由」とか「通過」とかせず食い散らかし状態のままずっと来ていること、それらの濃度ぱんぱんの詰め込み具合から、今回のライブを「総括」と呼ぶのはあまり間違っていないのかもしれない、て思った。

アンコール終盤のノイズの濃厚さ、じゃらじゃらした質感ときたら、ちょっとありえないかんじ。

このとりとめのなさ、納まりの、踏ん切りの悪さってどっかにあったかも、と思って、それってRed Krayolaあたりかした、とか。 でもあれがテキサスの音だとすると、こっちはイリノイの音なんだよね、おもしろいことに。

2年おきだから、次は2018年てことね。 次は6人でね!

[film] The Martian (2015)

2月21日、日曜日の午後、二子玉川のIMAXで見ました。

まいどのバカみたいな邦題。原作本の「火星の人」でいいじゃん。しつこく文句いう理由をいっこいうとな、外国の人とお話ししてて映画の話題になったりするでしょ、そういう時に邦題だけしか知らなくて話が通じなくなっている場面をいっぱい見てるわけですよ。 映画(洋画)はスポーツと並んで海外の人と共通の話題にしやすい領域なのに、その幅や機会をタイトル程度で狭めてどうするんだよ。

火星探査を終えて帰る直前だった探索隊を突然の嵐が襲ってMark (Matt Damon)を砂の彼方に吹き飛ばして、他の隊員は彼はもう死んじゃったんだわ、って思ってすたこら帰路につくのだが、どっこいMarkはお腹に金属片が刺さった状態で生きてて、自分で自分に麻酔してそいつを引っこ抜いて、水とか食料の残りを計算して、ぼくは科学者なんだからなんとかしなきゃね、てDIYで自給の仕組みを組みあげて、更には通信方面もがんばって、地球に自分が生きていること(だから早く助けにこいや)を伝えてやる。

すっかりよい感じでMark追悼を終えていた地球側(Kristen Wiig、すてき)はびっくりして、同様に置いてけぼりにした後ろめたさで目が泳ぎまくりのMelissa (Jessica Chastain)をリーダーとする帰還チームと力を合わせてMarkをなんとか一本釣りしようと試みる。 火星の一匹オオカミとしてあと数年がんばってみる、ていうのは嫌なんだってさ。

火星とか宇宙での理科教室みたいないろんな大変なことについては大変だねえーとしか言いようがないのだが、この映画に関してはMatt Damonが「ファァーック!」て怒鳴りまくるのを聞いているだけでじゅうぶん楽しくて、それでよいのよね、て思った。

(ちなみにトムクルーズの「ファァー○△」は「なんでオレの言うとおりにならないんだ!」であるのに対し、Matt Damonのは「なんでオレばっかりがこんな目にあわなきゃならんのだ!」で、ついでにデカプのは自分のせいだから熊にくわれろ、なの)

であるからして、結果はMatt Damonが"Gravity"のGeorge Clooneyみたいに宇宙の果てに飛んでいっちゃっても(もちろん、あらゆる悪態悪口呪詛罵詈雑言吐きまくりつつ、であれば)ぜんぜんよかったんだけど。

なんかぜんたいにRidley Scottの性格の悪さ(偏見よ偏見。)からくるであろう厳しさ過酷さが割と希薄で、軽くて、Ridley Scottの映画じゃないみたいで、結果的にはそれでよかったのかしらん。 ”Prometheus” (2012)とどっかで繋がってなんかがなんかに寄生でもするのかと思ったのに。(いやでもじつは、とか)

音楽は"Space Oddity"も"Life on Mars"も使わず"Starman"でいったのはなんかよかったし、Jessica Chastainが残していった70's discoの曲群もいかにもありそうで笑えた。(ああいうとき、残っていたのが嫌いな曲ばかりだったら死にたくなるよね)

これ、理科学習シリーズみたいにして、次は水星とか、木星とか、順番にやっていくとか。

3.21.2016

[film] The Wrecking Crew (2008)

2月21日、日曜日の午前に新宿で見ました。 前日のリベンジ。

昔のアメリカンポップス/ロックが好きなひと、なかでも、例えば、80年代の山下達郎のサウンドストリートを聴いていたり、最近だと”Love & Mercy” (2014)のレコーディング風景の場面でそわそわきょろきょろしてしまったような人には必見のドキュメンタリー。
もう絶滅してしまった動物のリアル映像を見るような思いで、頭のなかで雷鳴のように”!”とか”☆”がばりばり鳴りまくり鳥肌たちまくりで、あと30分この状態が続いたら鶏になるところだった。

特定の正式メンバーがいるバンドというわけでもなく、その名がジャケットやライナーにクレジットされるわけでもない、西海岸のいくつかのスタジオを根城にしたり渡ったり個別に離合集散を繰り返していたプロ音楽集団。 どこからともなく自然発生的にその名が与えられ、だから発生も消滅もよくわからない、けど彼らが参加したレコーディングでは革新的なことが何度も起こるべくして起こって、そのドラムスのキックやベースのうねり、ギターのカッティングは、その化学反応は、例えばBrian Wilsonのソングライティングと並んで永遠であることを誰もが知っている。

監督はギタリストTommy Tedescoの息子さんで、父親が癌になったことを知り、彼の業績や証言をきちんと遺しておこうとカメラを回しはじめて、父親の紹介で他のメンバーやミュージシャン達もカメラの前にやってくる。 こうして「壊し組」と呼ばれたレコードの溝(史)のはじっこに埋もれていた連中の活動の片鱗(亡くなったひとも多いので全貌はわからないよね)が構成員の証言と共に明らかにされた、と。

個人的にはCarol Kaye, Hal Blaine, Tommy Tedesco この3人の語る言葉を聞けて、実際にカメラの前で演奏してくれるところも見れたので、それだけで十分だった。 みんな魔法使いのようで、実際に彼らのプレイはレコード越しに魔法(呪い、かな?)をかけて、それを解く術は世紀を超えても明らかにされていない。 “Pet Sounds”のベースラインがなんであんなに変てこで、でもなんであんなにきゅんと胸にくるのか、ちっともわからないし、彼女自身に聞いてもわからないに違いない。 ただ、みんなで延々スタジオでいろんなことを試していたのだと。 あの”Good Vibrations”の狂ったように膨大なテイクの数々もBrianひとりの所業とも言えなかったのではないか、と思ったり。 

曲ができたらそれを演奏家に渡してレコーディングして貰う、あたりまえの工程のようだが、ここで彼らはそのプロセスを省力化したり効率化したりしないで、なんか聴いたことのないおもしろいものを練りあげることに注力して、結果ミュージシャンからも信頼を得るようになって、やがて次々にいろんな依頼が舞いこむようになって、ていうビジネスとしては理想的なことを成し遂げて、しかもその成果はいまだにじゅうぶんクラシックとして誰からも愛されている。

やがて世間でバンドによるレコーディングがふつうになり、みんな自分たちでアレンジしたり演奏したりするようになって彼らの仕事も減っていくのだが、それもまたありよね、ていう距離の取りかたもまたプロ、なのよね。 Hal Blaineさんが無一文になっていたとは思わなかったが。

エンドタイトルのとこで、いつも表示されるメッセージ “No Animals were harmed in the making of this movie”のところが”No Musicians were …”になっていたのがおもしろかった。 いじめもやらせもないんだって。

3.20.2016

[film] Steve Jobs (2015)

20日の土曜日のごご、”Son of Saul”の後に雨に打たれながら歌舞伎町に行って、見ました。

同じ人物を主人公に置いていながら、Ashton Kutcherの”Jobs” (2013)とは、やはりぜんぜんちがう。

これはもう圧倒的に脚本のAaron Sorkin仕事であって、”The Social Network” (2010)と同じように、ひとりの狂った(なにかに取り憑かれた)男の独白のような語りや呟きが周囲を熱狂させ、がんじがらめにし、敵まみれにしたりしながらも、でっかいITのマーケットを動かし、やがてコミュニケーションや仕事のありようを一変させてしまう。 誰もが簡単に口にする「ITが世界を変える」とかいうおめでたい光景、その狂騒の異様さを、その渦中にいた変人の語りを通して解剖してみせる。

例えば世界的なベストセラーとなった本とか音楽とかアートとか映画とか、そういうのを作った本人が変人だったり変態だったりていうのはまだなんかわかるのだが、このケースは消費財で産業プロダクトで従来からある経済・消費・伝達活動に大きく影響する「道具」の開発で、しかもJobsの場合、自分でコード書いているわけでもデザインや設計をしているわけでもない。 いったいなにをやったのこいつは? ていうのは誰もが思うところではないか。

映画は1984年、1988年、1998年、それぞれアップル社にとって大きな転機となった製品の発表会の直前、その舞台裏でのJobs (Michael Fassbender)とその側近とか周辺の人たちとの会話劇が中心になる。 基本はJobsがまさに発表しようとしているその内容 - これからの方向性に対して、過去に仕事でいろいろあったSteve Wozniak (Seth Rogen)とかJohn Sculley (Jeff Daniels)があれこれ言ってくる、ていうのと、認知するしないも含めてどうしてくれんのよ、の妻と娘Lisaとのやりとりと、それらの間で振り回されてぶち切れそうになっている側近のKate Winsletと。基本のパターンは製品が変わっても年を経てもおなじようで、これがSteve JobsがSteve Jobsである所以なのだ、と。

あんたが偉いし昇り竜なのはわかるけど、誰のおかげでここまでこれたのか忘れて調子こいてんじゃねえぞおら、ていう彼らに対して、Jobsがぶつぶつ言い訳みたいなのも含めてやり返す(決着はもちろん、つかない)。 それだけといえばそれだけ、なのだが。
つまり、ビジネスにおける協業やコラボとは全然ちがうところでこの人はひとりやり抜いてきたのだ、と。

モノトーンでサイボーグのように見えないこともないMichael Fassbenderとぐにゃぐにゃふにゃふにゃ系のSeth RogenとJeff Danielsの対峙 - でも噛み合っているとは思えないやりとり - も絵にしてみるとなんとも言えずおもしろい。

たぶん、アップルウォッチャーの人たちからすれば既知の史実ばかりでつまらん、みたいになるのかも知れないが、この映画はそういうところを狙ったもんではないの。 アップルの知識いらない、そしてJobsの偉人伝とも違う。 いちばん威張ってすごいだろ、て言っているのはAaron Sorkin自身のような気もした。

3.19.2016

[film] Saul fia (2015)

出張する前のトラックに戻る。どこまで書けるかしら。
2月20日、土曜日の昼に新宿でみました。ほんとはこの日が初日の"The Wrecking Crew"を見たかったのだが、売り切れでぜんぜんだめで、でもこっちも見るつもりだったからよいの。

「サウルの息子」。 英語題は”Son of Saul”

1944年のアウシュビッツの強制収容所、ゾンダーコマンド - ナチスの下請けで同胞をガス室に誘導したりその後の死体処理をするのですぐには「処理」されないけど、やがては殺される運命にある - として働くサウル (Géza Röhrig) は、処理後の死体のなかに自分の息子を見つけて - 正確にはガス室を通した後でも息がある、ということで医者が呼ばれて殺処理されて念のため解剖しよう、と言っている様子を目撃して - そんなかたちで亡くなってしまった彼のためにユダヤ教のラビによってきちんと祈祷をした上で埋葬したい、とおもう。

息子の遺体を見つけて焼かれてしまう前に確保すること、どこかでラビを見つけて(殺されないように)確保して息子のところに連れてくること、これらをゾンダーコマンドの日々の仕事をこなしつつ、かつ彼らの間で極秘裏に進行していた集団蜂起作戦に備えつつ、もちろん誰にも気づかれないように実行しなければならない。

映画は、絶望と諦念を乗り越えてこれらの困難に立ち向かうサウルの情念のドラマ、はらはらのサスペンスになるかというとそうでもなくて、カメラは感情を露わにぜず、むっつり淡々と、しかし慌ただしく動き回るサウルの後ろ頭にぴったりと密着して、サウルだけでなく彼の肩越しに見ることのできる収容所の地獄と惨状を記録しようとしている。 

まわっているカメラも動き続けるサウルも「いま」「ここ」にはなんの神も救いもないことを、なにをどうすることもできないことを、自分たちは既に死んでいて亡霊のようなものでしかないことを知っている。 では、でも、なぜ、サウルは息子の遺体を探して(まわりは遺体だらけなのに)ラビを探して(見つけてもすぐ殺されたりするのに)、カメラは記録することを止めなかったのか。 - ここにこそこの映画のテーマはあって、それをイメージ人類学の側から掘っていったのがパンフでも言及されているジョルジュ・ディディ=ユベルマンの『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』で、「それでもなお」「すべてに抗して」想像しろ! と言う。
強く強く言う。

サウルを演じたGéza Röhrigの何かを諦めているようで、でも最後まで硬く解けない表情がすばらしく、彼の表情はおそらく未だに解けてはいなくて、彼はまだ憑かれたように息子の遺体とラビを探し続けているのだとおもう。

歴史をある立場から「検証」すればそれで何かが済んでしまう、なかったことにできると思っている幼稚な歴史修正主義のバカ共にも見てほしい。

[music] Origin Of The Dreams

風邪なのか花粉なのか不明なまま微熱の虚脱の、魂を抜かれたような状態が続いていて、こんな状態で例えばアピチャッポンでも見ようもんなら冥界に連れていかれてしまうこと確実で、こんなときは音楽しかない、と思って、たまたまやっていたこれに潜りました。 17日の木曜日、渋谷で。

'Origin Of The Dreams' 渡邊琢磨 × 牧野貴 Live Concert

牧野貴の映像と音の世界は吉祥寺の爆音で2回くらい経験していて、気持ちいいとか悪いとかアガルとかオチルとかそういう「効果」とは別に、なんだろうこれはとじっと凝視したまま固まってしまう状態が何度も続いていて、この、表現世界とそれを受容するわれわれも含めたまるごとのアトモスフィアの謎、みたいのを解析したい、ていうのはあった。
渡邊琢磨さんの音でいうと、たしか、COMBOPIANOは昔どっかで見て聴いた、記憶が。

で、これまで見た映像に付いていた音は、割と牧野さん自身とかバンドでの電気・電子系の演奏もしくは音付けによるものが多くて、今回は渡邊琢磨さんの曲による弦楽のライブ - 13台の弦楽器 - 52本の弦の束束束が絡み合う - 付き、しかもPAはzAk、ていう、見なくたって背筋が凍る世界が展開されるに決まっていたの。

最初のパートは、渡邊さんのソロピアノで2曲、チェロとピアノのデュオで1曲、弦が4名になって、この構成(映像なし)で約1時間。 曲順はその場で指示していたようだったが、これだけでじゅうぶん、卒倒しそうになるくらい気持ちよくて、皮膜を剥がしながら眠りの奥底に潜っていく「夢の起源」の序章として圧倒的で、線の連なり、線の絡まり、パラフィン紙のようなわら半紙のような面の重なりに擦れあいに、音楽ってこういうのよね、て、ここんとこ変なノイズばかり鳴っていたので余計にそうおもった。
むかしむかし、Soft VerdictとかWim Mertensとか、聴いていたなあ。

休憩を挟んでパート2で、ここから弦13台による"Origin of the Dreams"。
この作品は、昨年10月に同志社大学で、世界初上映/上演されたらしいのだが、このときの構成は6名で、それと今回のが音楽として映像としてどれくらい違うのかはわからないのだが、人数倍だしね、たぶんすさまじいに違いないと。

チケット切りのところで、プルフリッヒ・エフェクト用のフィルム切れと使用説明を貰ったのだが、あんま使わなかった。 そんなのいらないくらいすごかった。

映像は、まず水が下から上にさらさら流れていく(ような)イメージが淡く浮かびあがって、それがやがて大火事になりパセリの大群に変貌して大爆発して海に潜って、ていうような具合なのだが、もんだいはそれらがどんなふうに見えるのか、ということよりも、いま自分が見ているのはスクリーンの表面で点滅磨滅している光や黒点のだんだらなのか、或はそれらのごにょごにょを裏側で組成して動かしている(かに見える)力(のようなもの)なのか、とか。あるいはあるいは、これらが起こっているのは網膜なのか脳なのか、とか(いつもの)。 こういった視点というか聴点というかの移動や思考に火をつけて深みに誘導するところに牧野作品のおもしろさと豊かさがあって、何度でも見たくなる。

比べちゃいけないけど、プロジェクションマッピングなんてほんとガキの遊びだとおもうわ。

これの後で、ソロピアノのみで”KONTRAST”という15分の小品。こっちは深みに降りるというより表面での攻防がおもしろくて、そこにピアノの白鍵黒鍵がダブされる。昔の実験サイレントに音を付けているようでもあった。

こういう上映/上演てもっとあればいいのに。ライブハウスになっちゃうのかねえ。

3.18.2016

[film] Trumbo (2015)

NYからの帰りの機内で見ました。 夕方発の便だったのでぜったい寝ちゃうわ、と思ったが日本でも公開するみたいだから寝ちゃってもいいや、って。 ポスターだけ見たらあんま見たいとは思わなかった(”Breaking Bad”のひとだし)が、Jay Roachなので、なかなかおもしろかった。

実録もので、40年代後半、ハリウッドでばりばりの脚本家だったDalton Trumbo(Bryan Cranston)が吹き荒れた赤狩りの嵐のなかで仕事を奪われ、隅っこに追いやられ、それでもヤミで影でゴーストで書き続けてがんばって、結果ざまーみろ、みたいなお話し。

赤狩りの時代を描く、というとき、たぶんいろんなレイヤーのいろんなお話しがあるに違いなくて、有名なとこだと映画監督たちの - Cecil B. DeMilleとJoseph L. Mankiewicz との確執とか、そこにJohn Fordがかっこよく登場、とか伝説は聞いているのだが、ここで描かれるのはTrumboの仕事仲間とか家族とかその周辺のみんなで、いろいろ苦労してがんばって大変だった、みたいなことなの。 全体としてはえらい土砂降りがきたけど筋を曲げないでがんばってよかったねえ、みたいなええ話系のホームドラマになっている。

出てくるゆーめー人としては;

Edward G. Robinson (あんま似てない)、John Wayne (あんま似てない)、極右のHedda Hopper (Helen Mirren、とっても楽しそう)、Kirk Douglas (この時期はまだいいやつ)、Otto Preminger (ううむ)、Frank King (John Goodman!!)といったかんじ。

書くのが好きで、自分の書くものに自信があって、自分の信じることも間違っているとは思えなくて、だから干されたってへっちゃらで偽名で仮名でどんな仕事でも受けて、Frank Kingのとこにやってくる低予算C級ジャンクのお直し仕事みたいのだってこなして、そんななかから「ローマの休日」も「黒い牡牛」も生まれてきたって、なんかすごいなー。

そんな苦しい時代に耐えていっしょにがんばる家族は妻がDiane Laneで娘がElle Fanningで、これならがんばれるかもって思うし、でも彼女たちはいっぱい泣かされて引き摺られて、仕事のたびに風呂場を長時間占拠されて、そうとうアクの強いめんどくさいおやじだったんだろうなー。
こういうのって、朝の連ドラだなー、て見てた。

とにかくJohn Goodmanがさいこーにかっこよくて、あそこだけでも見るじゅうぶん価値あるとおもう。

でもさー、なんで公開が7月なの? ばっかじゃないの? て思った。 ひょっとして選挙前だから? 言論統制のこわさが拡がっちゃったらやばいから?  

この他には、またEP7とか見たり(結局いっぱい見てるじゃん)。 あとはずっとうとうと寝てた。

3.16.2016

[log] NYそのた -- March 2016

NYの美術館以外のあれこれ。たべものとか本とかレコとか。あんまないけど。

4日の夕方、Neue Galarieで行列であたま真っ暗になって、Metroporitan見終わって階段から落ちて、このふたつでこの先まっ暗だわって泣きながら地下鉄に乗って、Union Squareのほうにでる。 今回、Brooklynは無理だから近場の接近戦できちきちいくしかない。

まずはAcademyの12thで、数日前にここのインスタにThem(バンドね)のDecca盤、MONOていうのが載って、ほしいかも、て思って行ったのだが、高いところに飾ってあったそれはやはりとってもそれなりの値段だったのであきらめる。

12inchいちまいと7inchにまい、かった。 そこからMAST Booksまで下りて、うんうん悩んで、古本一冊(Melville on Melville )だけかって、そのまま横に流れて、Other Music - お嬢さんの手作りのBowie追悼お飾りがすてき - で、12inchをなん枚か。 “La Jetée” (1962)のサントラとか、なにを血迷ったかPrima Materiaの箱とか。

そこから下におりて、McNally Jacksonで - いっぱい買いそうになったけど雑誌だけ - Chantal Akerman表紙のcinema scope誌とか、Lena Dunham vs Jane Fonda対談が載っているPaper Magazineとか。店内では例のBowieの100冊をものすごくきちんと並べてフェアをやっていた。
あと、買っておいてもらったJonas Mekas先生の”Scrapbook of the Sixties: Writings 1954 - 2010”のサイン本(ありがとうー)。

で、仕上げにUnion Market行っておやつ系の食べものとか買いこんで、9:30に奇跡的に予約がとれたPruneに。
最近のレストランはOpen Tableの予約がほとんどで、人気のところは金曜日なんてぜんぜん取れないのだが、ここはいまだに電話予約のみで、もちろん金曜の晩なんてぱんぱんに混んでいるのだが。

(いつもいっつも書いているけど)相変わらずばかみたいにおいしい。
どうせなに食べたっておいしいんだから、と、まわりのテーブルでみんなが食べてるのを見渡して食べたいのを決めるのもよくて、今回、テーブルが空くまで待っているあいだ、Branzino(スズキね。Peter ParkerがGwenの家デートで食べてたやつ)の一匹皿がいっぱい出ているのが見えた(2時間くらいの間で7~8匹飛ぶように)のでこれは頼むよね、てなって、でもお肉だってほしいし、とGrilled Ribeye も取って、野菜もないといけないし、などなどで結局お腹ぱんぱんになる。
それにしてもBranzinoの塩焼き(ほんとは塩蒸しなんだろうが)のあの甘さはなんなのだろう。お醤油もご飯もいらない、塩とオリーブオイルだけでじゅうぶん完成されてて、狂った猫になるかんじ。

デザートもすごくてねえ。”Cold Candied Orange with Salted Butter Shortbread”ていうのだが、金柑のシロップ煮の金柑のかわりをオレンジにして、皮ごとくたくたになったのをひんやり。そのみっちりした汁の横に粉固形感が絶妙のShortbreadが。

翌朝、食欲が回復することなんてありえないと思ったのだが、どうせ食べるんだし走り回るんだし時間ないんだし、ということで朝ご飯を食べにでる。

チェルシーのMaritime HotelにはLa Bottegaていう深夜までやってて使い勝手のよいだらだらがらんとしたイタリアンがあって悪くなかったのだが、ここがなくなって、かわりにMario BataliとJoe Bastianich ていうイタリアン濃獣組が La Sirenaていうのをオープンしたの。
インテリアはLa Bottegaと比べたらとってもモダンになって漂白されてしまったかんじ。

朝から生ハムサラミ盛りプレートとかも頼めるのだが、Amaretti Mascarpone Pancakesにする。
たぶん、”How to Be Single”が影響したのだとおもう。
最近の日本のふわふわ系パンケーキはぜんぜん違うと思っていて、これを食べてそうだよねこっちだよね、て確信した。 イタリアンだろうがアメリカンだろうがどうでもいい、これをパンケーキの基準軸にしたい、ていうくらいきめ細かな豊かさが層になって襲ってきて、パンケーキが重なりあってあることの意味もきちんと教えてくれる。 基本よ基本。

またぜったいくる。

こんなもんかしら。 あとは帰りの機内映画くらい。

3.15.2016

[art] Coney Island: Visions of an American Dreamland, 1861–2008

5日の土曜日、Neue Galerieのあとで地下鉄の86thの駅まで走って④でBrooklyn Museumにむかった。
12月に遊びにきたとき、地下鉄の広告で見かけて、これは見たいわ、と思ったやつ。
この美術館に最後に来たのは2011年くらい、そのとき、エントランスはまだ改装工事中だったねえ。

コニーアイランドは、砂浜があってボードウオークがあって遊園地があって、タイトルにある通り "American Dreamland"として150年くらいあの場所にあって、マンハッタンからも地下鉄で1時間かからないくらいなので夏になるとよく行った。 なんであんなに惹かれるのかよくわからないのだが、ひとによってはディズニーランドだったり浅草だったりするかもしれない場所が自分にとってはコニーアイランドなの。

で、昔からいろんな画家、写真家、映画作家、興行主、大道芸人、などなどを呼び寄せてきたこの場所をアート観点でまるごと地引き網してみるとどんなものが引っ掛かってくるのか、ていう展示。  なにもなかった浜辺の時代から遊園地ができて都市の近場の観光/デートスポットとしてひとが集まりだして、そこ目がけていろんな「パラダイス」がわらわら現出した。 なんでだろ? ていうその不思議さ以上に、展示を見ていくと古今のアートとしてぐしゃぐしゃにミックスされた「コニーアイランド」と呼ばれるランドスケープのでっかさ不可思議さに圧倒されてしまう。

例えば、同じような”Dreamland”としてのLas Vegasと比べてみたらどうだろう。
ぜんぜん違うなにかが出てくるかんじがする。

遊園地とか見世物小屋とかの看板とか垂れ幕(タコ男!)とか回転木馬とかひとつ目鬼とか、絵葉書とか、剣を呑みこむ芸人のX線写真とか、ふつーのアートっぽい絵 - George Bellows, Joseph Stella, Frank Stella, 国吉康雄, Red Groomsとか、写真 - Walker Evans, Diane Arbus, Weegee, Bruce Davidson, Robert Frankとか、断片がリピート上映されている映画とかスチールとかもいっぱい。こないだシネマヴェーラで見た”Speedy” (1928), “Freaks” (1932), “Little Fugitive” (1953), “Imitation of Life” (1959), “The Warriors” (1979),  “Requiem For a Dream” (2000), あたりまで。(最近のだと”Brooklyn”はぜったい入る)

館内ツアーをしているおばさんがある写真の前で「ここに写っているのはわたしのおじいさんなのよ!」とか言っていたり、ご当地感もたっぷりでおもしろいの。

遊園地もスリル満点なんだよ。木製ジェットコースターのCycloneなんてガタガタほんとやばくて何年かに一度は死人だしてるのに今だにばりばりだし、あんな唐突に恐怖にさらされる観覧車はないし、ぐるぐる回るやつは終ったあとにみんなげーげー吐いたりしてるし、また行きたいなー。

関係ないけど、”Speedy”(1928)の大乱闘シーンにHip Hopを乗っけてとっても楽しいやつ。
https://tribecafilm.com/stories/z-trip-speedy-live-performance-interview


This Place

コニーアイランドの展示の後、フロアをふたつ降りてみました。

2009年から2012年にかけて、12人の写真家 - Frederic Brenner, Wendy Ewald, Martin Kollar, Josef Koudelka, Jungjin Lee, Gilles Peress, Fazal Sheikh, Stephen Shore, Rosalind Fox Solomon, Thomas Struth, Jeff Wall, Nick Waplington - がイスラエル - ヨルダン川西岸地区に滞在してそれぞれの視点/視線で撮影するというアートプロジェクト - そこから約600枚の写真を展示している。

12名の写真家による写真が明らかにする"This Place" - "That Place"ではなく、「この場所」/「ここ」。
メディア報道やニュース映像でしか伝えられてこなかったあの場所のありよう - より鮮明な、陽の光だったり土の色だったり壁の色だったり地形だったり、どんな人が、彼や彼女が、子供たちが、家族がそこにいて、どんな表情を浮かべているのか、どんな暮らしをしているのか、などなど。

世界のどこにでも、誰にとっても"This Place"はあるのだし、それはあそこではなくてここにある、ていうのは当たり前の認識で結論で、そうだとすると、では、でも、だからなぜ、ここだけこんなふうに”This Place”にされてしまったのだろう? ていう問いはどの写真からも強く響いてくる。 例えばStephen Shoreのカラカラの光景を渡って吹いてきそうな風、とか、いつもの楽しくぶっこわれた家族写真のNick Waplingtonのコーナーにごろんと置かれた浄水用の缶とか。
こないだのアケルマン特集で見た『東から』や『向こう側から』と同じ眼差しを感じる。

世界中がInstagramやSNSのいろんな写真や画像で溢れかえり、どいつもこいつも偉そうに可視化可視化いう世の中になって、こういう異境辺境の事情や状況がきちんと見えるようになっているか、というと実は逆で、情報量が増えれば増えるほど、メディアも含めてひとは自分が見たいもの、自分に都合のよいものしか見ようとしなくなるのではないかと(自戒をこめて)思っていて - この点で日本の政治家やメディアは最低最悪だとおもう - そういうなか、やっぱりこういう展示は貴重だし、もっと見ないとねえ、とおもった。

同じ「場所」がテーマであるのに、コニーアイランドからの落差もすこし考える。

3.14.2016

[art] Munch and Expressionism 

時系列で書いていくと、4日の金曜日の夕方に地下鉄に飛び乗って86thのNeue Galerieに行ったら金曜晩のFree Viewingのとてつもない行列に驚愕し、Freeじゃなくていい、お金払うから中にいれて、て懇願したけど冷たくされて、しょうがないので泣きながらMetropolitanに走っていって、まずはこれ見ました。

Vigée Le Brun: Woman Artist in Revolutionary France

肖像画家 - Elisabeth Louise Vigée Le Brun (1755-1842)の展示で、ルイ王朝の人々とかマリーの家族とか王室お抱えでいっぱい描いていて、ふつうこういう肖像画って美術館を流しているときはあまり立ち止まることもないのだが、立ち止まって纏めて見てみるとなかなか興味深い。

似たような角度で同じように照明が当たっている同じようなつるつる貴族顔の人たち(女性が圧倒的に多い。 男性は1/6だって)なのだが、髪型もドレスの色味や意匠もこまこまぜんぶ違うし、ヌードの背中の肉の造型も男性画家が描くそれとはどことなく違って、その辺は言ったら怒られてしまうかもしれないけど、女性画家、てことなのだろうか。

全体にプレーンでキッチュで、ポップで、香ばしいお花畑を歩いているかんじ満載で、でもそんな絵のなかの人々はこのあとみんなギロチンに行っちゃったんだなあ、って。 (でも描いたひとは革命直前に国外に出ていて無事で、86まで長生きした)

MET、ご存知のようにロゴが新しくなって、みんな言っているけどやっぱしなんかバランス悪いよね。
て、外壁に下がっている幟を見ながら歩いていたら階段から落ちて足を思いっきり挫いてとっても泣きたくなった。


Munch and Expressionism 
で、翌5日の土曜日の午前中、リベンジで改めてNeue Galerieに行った。
ここの開始は11:00で、でも前日の長蛇列の恐怖が頭をよぎったので朝のパンケーキ食べてからやや前のめりで10:30に行ってみたら、2~3人がいる程度だった。

前回の展示、”Berlin Metropolis: 1918-1933”もすばらしくよくて、ここんとこ絶好調のNeue Galerie、なにがえらいって、これだけの特集展示をそんなに広いと思えない3階のワンフロアだけできっちり完結させてしまうことだ。(2階にはあの映画で世界的に有名になってしまったAdele Bloch-Bauerさんが神々しく輝いていらっしゃる)

ムンクは、2006年の2月~3月にMOMAでなかなか重厚な展示 - ”The Modern Life of the Soul”があって、それから「装飾性」に着目した2007年~8年の国立西洋美術館のもあった(これはあんまし)。

今回のは「ムンクと表現主義」  ← そのまんまじゃん、とか言わないこと。
より正確にはドイツ表現主義のDie Brücke - ドレスデンのグループとの関わりにフォーカスしている(主に)。 (Neue Galerie,「青騎士」の方は既に特集しているし)

一緒に並べられているのはErnst Ludwig Kirchner、Max Beckmann、Emil Noldeとか、オーストリアだけどEgon Schiele、Oskar Kokoschkaとか。 あくまで参照、のようなかたちで並べられている程度なのだが、同時代性のようなものを感じないわけにはいかない - 前回の”Berlin Metropolis”の展示と同様の切り口でその時代の空気感を重層的に伝えている、ここがまず素敵。

では、これら表現主義の絵画で言われがちな存在の不安とか恐怖とか彷徨いとか孤絶とかの嵐とか闇とかでどんよりしてしまうかというと、そんなでもないの。ムンクについては乗り越えるとか力強いとかそういうのとは別に、常になにかが流れたり動いているかんじがあって、「絶望」といってもそこに向かって堕ちていく、というよりはその周辺での動きとか兆し、のようなゆるやかなものが描かれていて、なんとかなるかも感があるの。 Edward Hopperにもあるなにか、のような。
“The Kiss”とか”Vampire”とかのふたつの塊がひとつになった絵とか、”Morning”を見るといっつも思う。

今回の展示のなかでは”Model by the Wicker Chair” (1919-1921) がやっぱりすごい。
色彩がばらけて構図としても散らかっているのにこのまんなか辺りでゆるりと渦を巻いている力(のようなもの)はなんなのか、なんでそこに籐椅子があるんだ? とか。
あとはKirchnerの、あそこにあんな色を置いてしまうか - ていう凄みを再確認した。

小さな室内に展示されていた「叫び」は個人蔵のパステル画で、これは確か前のMOMA展にも出ていたやつで、ここでは狭い部屋のなかにEgon Schieleの「叫び」とかいろんな画家の「叫び」がみっしり、呻きみたいのも含めて充満していて素敵だった。

カタログは当然買う。例によって展示規模とぜんぜん見合わない厚さ(ハードカバーのみ)なのだが、黒の装丁で、本としてもかっこよいし見ごたえ読みごたえたっぷりなの。

3.11.2016

[log] SFそのた - March 2016

風邪の顕現モードがとつぜん変わって鼻水が大洪水のように。

とりあえず、SFでいったん区切っておく。 3.1から3.3までの食べ物とかあれこれ。

既に書いているところはあるが、1日の午前にホテルに入って、寝過ごして2時過ぎにBARTで町にでる。
もんだいはどこに行くのか、ではなくてなにを食べるか、だったので、降りる駅は16th St. Missionで、向かう先はTartine Bakeryしかありえなかった。

昼過ぎだったのでそんなに混んではいなくて、Brioche Bread PuddingとHot Pressed SandwichのThree Cheese Tasting、ていうのをいただく。 みっつのチーズていうのは、Bellwether Carmody, Straus Cheddar, Idiazabal  -  うし-うし-ひつじ?

Bread Puddingは前もここで食べたのだが、驚異的なバランスで、元々はしっかりしていたはずのパンと果物がどっちもくたくたになってカップのなかで丸まっているのがたまらなくいじらしいの。

みっつのチーズは、どれがどれやら、おいしいのでどうでもよくなる。 おかきみたいにばりばりに固くこんがりしたパンがまず口腔内をぐさぐさ傷だらけにしそうになったところにふんわり香ばしいチーズが覆いかぶさって、でもそいつは溶けててやたらあっついのでどっちみち火事場の戦争状態で、そこにコーヒーがとってもやさしく素敵だったのと、あと、お皿に生の人参がごろんて置いてあって、救いを求めて齧りついたら辛みのきいたピクルスで口のなか大火事、想像していたのとのあまりの違いに泣きそうになったのだが、結果としてこの組合せはすばらしいのだった。
(ここの日本進出が失敗してよかった .. おなじクオリティのものができるとは思えないもん)

そこを出ていつものように近所のBi-Rite Marketとか見たのだが、今回の問題は(ほんと問題だらけだったわ)、NYへの移動が入るので、瓶ものとかでっかい袋ものとかは買えないのだった。 なのでしぶしぶ我慢して、そのままValencia stに行って、これもいつものDandelion Chocolate ~ Craftsman and Wolvesとかを見た。 いちおう、板チョコくらいは隙間に入るしだいじょうぶよね、と何枚かとヌガーをいくつかと。 
板チョコの “Ambanja, Madagascar 2015 Harvest” - きょういてき。

さらにそのままValenciaを上るんだか下るんだかして、久々にAquarius Recordsに行った。
12inchはむりだけど、7inchなら隙間にはいるよね、と2枚だけ買う - Brutal TruthとConvergeのSplit (1997) とか。

1970年から潰れてないので商売になっているとは思うものの、ここのセレクションはほんとに変わってて、水瓶 ..としか言いようがないわ。
そこから通りの反対側のレコード屋も見て、そこを上るんだか下るんだかして通り沿いの本屋も見て - 1軒はインディーものもいっぱいの新古書店 - Dog Eared Books、もう一軒は、ミステリー・ファンタジー・ホラーに特化した本屋 - Borderlands Books - 隣のカフェと繋がっている - で、たぶん、この通りで自分の生活の90%はなんとかできてしまうのではないか、と強くおもった。おもうのはかってだ。

そこからダウンタウンまではUberのPoolで行った。(Uberを試してみようプロジェクト)
Poolていうのは相乗りで、相乗りだから料金は安くなるのだが、どんなもんかしら、と。
たしかに安いの。タクシーと比べると半分くらいになっているかも。ただ相乗りなので、一緒に乗るひとが面倒だと、面倒かも - やたら人なつこく話しかけてくるひととかいて、別にいいんだけどね、なんかあれよね。

その日の晩は立食のパーティーみたいので、翌日2日の昼も座食のパーティーみたいので、実にどうでもよい。

2日の午後に少し時間が空いて、その晩が電話会議とかでどうなるかわからなかったので、とりあえずCity Lights Booksにお参りにいくことにした。 移動の事情で買えないけど、買わないけど、でもね。

入ったとたん店頭に、今晩7時からJoyce Carol Oatesさんのサイン会がありますよ、ていうチラシがあるのを見てがっくし(また来なきゃいけないじゃん…)。
なので、そのときは適当に流して、晩に - なんだかんだで8時くらいになってしまったが、もう一回行って、サインしてもらって握手してもらう。
すごく細くていまにも壊れそうな、でも笑顔の素敵なおばあさん(もう77歳なのね)で、ふんわり柔らかい掌でした。

結局City Lightsで入手したのは彼女のサイン本(短編集にした)だけで、晩御飯どうしよう、て思って、Uberでもう一回Valencia stに行ってみる。(このとき、Uberで相乗りになった女性が途中で降りて入っていったレストランがすごくおいしそうに見えたのでメモしとけばよかった、と今となっては)

行ったのはValenciaのMission Cheeseていうとこ。 http://missioncheese.net/

ここはCraftsman and WolvesとDandelionの間に挟まっていて、つまり、順番に、パンとコーヒー、チーズ、チョコ、をそれぞれものすごく独特でとんがったやつらをいっぺんに堪能できてしまう、もちろんお腹はぱんぱんになるはずで、この通りに住んでいればあとはなんに(以下略)

チーズの店頭売りはしていないようで、カウンターとテーブル席があるだけで、本来であればカウンターでプレートのチーズでもつまみながら、なのだろうがチーズもサンドイッチもいいかげんにしとけ、ていう声がしたのでMac & Cheeseにした。

ものすごくシンプルで、ものすごくおいしいお皿については、いいから食べてみ、以外に適切に表現する言葉を持っていないと思うのだが、こいつもそれで、なにをどういったらよいのかわからない。マックとチーズの境界が限りなくぐだぐだになっているのがよいのか、いけないことなのか、そもそもおいしさのツボはそこにあるのかないのか、くちゃくちゃしているうちに頭の奥がマヒしてきて、こういうのは他でいうとボロネーゼのすごいの、とかラザーニャのすごいの、とかでも起こることがあるのだが、とにかく早く食べ終えないとマックの大群が夢に出てきそうで怖くなる。 すんごーくおいしい、ことだけはたしかなの。

食べ終わったら9時近かったのでValencia - Missionを抜けてBARTの駅まで歩いたのだが、灯りがついているどのお店もとってもおいしそうで、特にメキシカンとか、わいわい賑わっていて、暮らすとしたらやっぱりこの(以下略)

SFからNYへの飛行機については既に書いたが、食べ物にかんしていうと、(なんか食べないわけにはいかないから)$8.99のSnack Boxていうのにしたら、箱のなかにクラッカーとか木の実とかスプレッドとかの小袋がこちゃこちゃいっぱい入ってて、齧歯類じゃねえんだよう、てキレそうになっていたら、隣のラビのおじさんが、くしゃくしゃの袋からサンドイッチみたいのを出してきて、それがものすごくおいしそうで、それひと口くださいませんか、て喉まで出かかってこまった。

あと、機内TVのちっちゃくてしょぼい画面で少しだけ”Carol”を見た。あんなちっちゃくても、絵のような美しさは損なわれていないのだった。

つぎはNYへ。

3.10.2016

[film] How to Be Single (2016)

1日、到着した晩の8時過ぎに、SFのショッピングモールの上にあるシネコンで見ました。
なんとなくー、”Deadpool” でも ”Zoolander 2”でもないかなー、って。
時間割の事情ででっかい画面+高音質シアターでの上映に当たってしまい(でも高い。$16)、割とふつうのラブコメを爆音で浴びることになってしまったが、ぜんぜんよいの。

まず、こないだ発表になったRazzie賞を"Fifty Shades of Grey"がほぼ独占した、ていうのがあんま気にくわない。 あれ、ちょっといびつなラブコメとして、ぜんぜん問題なかったと思うのだが。 まあRazzie賞ってそういうもんだよね …

Alice (Dakota Johnson)は大学の頃から付き合って同棲していた彼- Joshがいて、就職してNYに出るのを機にいったん離れて互いを見つめ直してみましょうよ、て都に出てくる。 就職した法律事務所みたいな(要はお堅い)とこで隣にいたのがばりばりぶんぶんのRobin (Rebel Wilson)で、彼女からNYのシングル女子はかくあるべし、ていうのを体の芯から叩きこまれる。

これの他にAliceの姉でNYで女医として成功しているMeg (Leslie Mann)がいて、彼女も断然シングル、なのだが、精子バンクを介してシングルマザーになろうとしている。

他にもバーで地味にノートブック開いてかたかたやっている(割とどこにでもいそうな)Lucy (Alison Brie) とそんな彼女がなんか気になるやりまくりバーテンのTomとか、いろんなシングルの恋模様が描かれて、そうしているうちに一緒になれると思っていたJoshは別の女と結婚しちゃって、あらら、て自棄になったりする。

Robinが「あんたはSATCやブリジット・ジョーンズを見てこなかったのかボケ!」とAliceを一喝するシーンがあるように、ひと昔前の(まじであれ冗談であれ)結婚を究極のゴールと考える旧来型のラブコメとはやや違っていて(ま、違うよね当然)、そういう割と平熱の主人公たちと、なにやら幼稚で暴走気味で局所でやたら熱くなりたがる男子勢と、そんな文脈とは無関係に爆発しまくるRebel Wilsonのコントラストが、なんかよいの。

従来のラブコメにありがちなある一点、一線を見据えた小競り合い、みたいのから少し引いて、その分自分のなかの葛藤をぐちゃぐちゃする手前できれいに出している。夢(映画のなかの恋)ではなく、かといって現実を、でもなくて、これはこれでちゃんとしたコメディとして成立していると思った。

Dakota Johnsonさんのぼんやり・つーんとした存在感 - Fifty Shades.. にもあった - が割と効いているような。

けどまあ、Aliceが結局向かうところはあれかよ(ちっ)、ていうのはあるのだが。
(ふつーすぎないか)

妊婦になってだんだんに箍が外れて狂っていくLeslie Mannを始め、アンサンブルドラマとしてもなかなか楽しいのだが、あとちょっとだけ、Rebel Wilsonさんには大暴れしてほしかったかも。
彼女がタクシーを止めるとこはすばらしかったけど。

続編とか、ないかなあ。

あと、こんどPnacake Paradiseに行ってみる。

3.09.2016

[film] Freeheld (2015)

3月1日の晩、SF行きの機内で見ました。 実話で、2007年には同名のドキュメンタリー(短編)も作成されていて、オスカーも受賞している(未見)。

NJの郡警察でばりばりの女性刑事Laurel (Julianne Moore)は田舎のバレーボール試合(Julianne Mooreがバレーボールをする ..)でStacie (Ellen Page)と出会って恋におちて、家を買って一緒に暮らし始めて幸せだったのだが、Laurelが癌でもう先が長くないことがわかって、Laurelは自分たちの家をStacieに遺したいと思うのだが、当時のパートナーシップ法では、(夫婦と違って)パートナーに資産を譲渡できない仕組みになっていて、それはおかしい、って郡の評議会に申し立てをするのだが却下されて、評議会を相手に抗議活動が巻きあがるのだが、当然のように慣例だの偏見だのいっぱいあって難しくて、でも彼女の病状はどんどん悪化して。

ふたりが出会って仲良くなって、でも死による別れが見えてきて、のあたりがとてもきちんと作ってあって、でっかいの(白髪)とちっちゃいの(黒髪)と、どことなく”Carol”のふたりのようでもあって(もちろんぜんぜん違うんだけど)、こういうふうだから政治だのが絡んできてキナ臭くなる後半もよいの。

Laurelの職場でずっと連れ添っている相棒刑事がMichael Shannonで、このひとの刑事なんて、ぜったい嫌味な奴で悪い役に変貌したり寝返ったり、と思っていたらあらびっくり、ものすごくいい奴なのだった。
もうひとり、ゲイのJewishのアクティヴィストでこの機に乗じて抗議デモを組織するべらべらやかましいSteve Carell(さいこー)がいて、彼とMichael Shannonの絡みが見られるだけでもなんか幸せになる。

Julianne Mooreさんは“Still Alice” (2014)に続いて老けてぼろぼろになっていく役なのだが、あまりにうまく自然にぼろぼろになっていくのであんましこないかも。 Ellen Pageさんもこれまで同様に純情まっしぐらなかんじで、ひたすら真剣に演じているのでまったく文句ない。

事実では、もちろんこの裁定に彼女たちは勝利して、更にそこから同性婚の合法化に向かうのである。
日本でもぜったい公開されるべき。 「嗜好の問題」とか愚かなこと言ってる痴呆議員とかに見せてやれ。

Manglehorn (2014)
同じく行きの機内で、上のに続けて見ました。
“The Humbling” (2014)に続いて、またAl Pacinoの偏屈老人モノかあ、て思ったのだが、監督は David Gordon Greenだし、と。

A.J. Manglehorn (Al Pacino)は錠前屋で、郵便ポストに蜂がわんわん湧いているようなぼろい一軒家でアンゴラ猫のファニー(かわいい)とふたりで暮らしてて、仕事はふつうにやってて、人間で喋る相手は銀行の窓口にいるHolly Hunterくらい。

過去になにがあったのか知らない(最後まで語られない)が、Manglehornはクララっていうかつて愛していて今も愛していて彼の元から消えてしまった女性に手紙を書き続けていて、でも手紙は差出人のとこに戻ってくるばかりで、その手紙を読み上げる彼の声が延々被さって映像詩みたいに見えないこともない。

他には投資家として成功しているらしい息子(Chris Messina) - クララとの間の子ではない - とのやりとりとか、かつての教え子で、今は怪しいマッサージパーラーを経営しているやくざのHarmony Korine - Manglehornにぼこぼこにされてしまうとこがなんとも哀れ - とのあれこれとか。

でもびっくりすることにほぼそれだけなの。 マングルホルンがクララを吹っ切って諦めて、それで終っちゃうの ...

あ、音楽はExplosions In The Skyで、なかなかよかったかも。


RIP Naná Vasconcelos..
今年って、まったくなんなの ...

3.08.2016

[music] Bon Iver

戻ってきて、風邪ひいて寝ている。

出国前日の29日の晩、新木場で見ました。 当然のようにSold Outしいてた - よいこと。

1曲目から"Perth"で、左と右にドラムス、その間に女性コーラス3名、ギターにベース(どちらも鍵盤とか管を兼務)、やや右にヘッドホン固定のJustin Vernon、この8名のアンサンブルというよりオーケストラが、はじめ緩やかに、そこからぐいぐい上空に昇っていってそのまま天上界で大砲ぶちかまして、その地点からダイナミックな、でもバンジョーからエレクトロまでを下味に加えて緻密に構成された音の束をじゃらじゃら豪勢に撒き散らしていく、最初の印象としてはそんなふうでこの状態で最後まで一気に流したかんじ。

もう少しJustin Vernon個人の素(す)とか脆さ危うさみたいのが窺われるかもとか思っていたが、ぜんぜんそんなとこはなくて、ヘッドホンが根性の鉢巻きに見えないこともないこのひとは、終盤の”Woods”でのヴォコーダー曲芸から”Calgary”でもう一回上空を舞って、最後の"Skinny Love"でアコギいっぽんをへし折るんではないかというくらいの握力で引っ掻いて、そんな緩急もぜんぜんへっちゃらそうにこなしていた。 アンコールは1回、3曲だったけど、こいつならあと1時間はやれたはず。

アンサンブルへの志向というとこで、Sufjan StevensやIron & Wine (Sam Beam)に近いのかしらと少し思っていたがそうでもなくて、繊細さとか私小説ぽさというとこでSaddle Creek一派とも違ってて、年代的なところだとGrizzly Bear辺り - 00年代後半くらいから出てきたBrooklynの木樵とか大工みたいな職人の無骨さ - が割と近いとこなのかも知れない。
だからどう、じゃなくて、それでぜんぜんよいし、そんなのどうでもよいのだけど。
いやでもなんか - まあいいや。

これもどうでもよいけど、“Michicant”で、チャイムがもうちょっときれいに響いたらなあー、とか。

冬のはじめに、野外で震えながら聴きたいかも。

3.05.2016

[log] March 5 2016

とにかくなんとか帰りのJFKまできました。 くたくた。
今回いつものJ便ではなく夕方発のA便にしたわけは少しでもNY滞在を延ばして見るもの買うもののために時間を、ということだったのだが、そこまでがんばっても40時間くらいしかなくてそこから仕事とか眠りとか差っぴいたらほとんどなんも残らない。ほんとにかわいそうだわ。

だから映画は諦めて(結局SFで見た1本だけ)、美術館3つだけだった。
なにかを思いだして泣きそうになったのはTVのJimmy Fallon でThe Whoが出てきたとき。
ほんと、たったこれくらいだったねえ。

仕事が終ってからの昨晩の動きをざっと書いてみると;
Neue Galerie(金曜の晩のFree Viewingでとんでもない行列だったので断念)→ Metropolitan Museum → 12th stのAcademy Records → MAST books → Other Music → Dean & Deluca →  McNally Jackson → Union Market → 食事。

この流れはここんとこほぼ定型化されつつあるの。
これにBrooklynに行く矢印線と、合間合間に映画館、を加えればほぼ文句なし。
たんじゅんなもんよね。

今朝は、Chelseaで朝ごはん食べてから;
Neue Galerie(こんどはだいじょうぶ。有料だったけど) → Brooklyn Museum に行った。
この距離を3時間くらいでつぶすのってなかなか大変なのよ。
(でも無理してよかった。すばらしくよかった)

ゆいいつの誤算(ていうのかこれ)だったのは昨晩、Metropolitanの階段を降りようとして思いっきり足を挫いた(でもかろうじて転ばなかった)ことで、「べき」とかすごい音が聞こえたのでもうこれはだめかも、って思ったのだが早歩きしていたらなんともなくなっていた。 けど朝起きたらじんわり痛くて歩きの速度もやや落ちている。 もう帰るからいいんだけど、なんか。

見てきたあれこれはまた帰ってからー。

ではまた。 ねむいったら。

3.04.2016

[log] March 4 2016

これを書き始めたのはSFからニューアーク(ニュー・アーク。NJ)へ向かう機中で、することがないのですることがないのでノートブックを広げてみたものの、座席が狭すぎて肘をぎゅううっとして背中を突っ張りながらの不自由な姿勢でこの状態のままどこまでタイプできるのかわからない。

今回の出張はなんとなくどんよりついていなくて、もちろんこういう出張ではとっても幸せになることも墓穴掘って大事故になることもあまりないのだが、その中間地帯で「あーあ」みたいなのが連続するとああこれはあれだ、ついてない系のやつだ、ということになる。 SFのホテルはダウンタウン近辺のが軒並み$1000くらいになっているので空港のそばのにしたのだが、90年代に何度か泊まったことのあるそこはリノベーション中で、えーこれで$500なの? で、午前中にチェックインはできたのはよかったのだが午後まで少しだけ横になろうと、思ってそうしたら工事の音ががんがんどどかどかすごくて、でもがんばって横になって気付いたらほぼ1時に近くて愕然、午後はダウンタウンに出て映画をいっぽん、と思っていたのにー、てアラームをじっとみたらAMとPMが逆になっていた。

ダウンタウンの行き帰り、空港まではホテルの無料シャトルで、空港からBART、ていうのを繰り返していたのだが、乗り換えのタイミングによってはものすごい待ちになるので、あーあ(この時間があれば)、だったの。

天候はコートがいらないくらいだったものの、湿気を含んだ風がつねに結構ぼうぼう吹いてて、これのなかにいると髪がどうしようもない鳥の巣になって、たまにガラスに映った自分をみてたいへんびっくりしたり。

このフライトも、空港までは順調に来たものの、座席がアサインできないのでなんでよ? て文句いったらオーバーブッキングされてて、みんなの犠牲になってエコノミーにしてくれないでしょうか、とか言われて、横で同様のオファーをされた女性はあたしはエコノミーには座れないし明日は朝7:30から会議があるのよって泣きだしてしまうし、お詫びに$1000のギフト券あげます、と言われたのだが、その発券のために別のひとを呼んでこなければならず、飛行機にのっかることができたのは出発の直前、最後のひとりになって、満席の乗客の冷たい目線と遅刻したんじゃないもんわるいのはUAだもん、てばちばち応えながらいちばーん後ろのほうにいっても当然荷物棚はぱんぱん、席は窓側と通路側のあいだでまわりはでっぷりしたJewishのラビのおじさんたちで(でも機を降りるときに同じイベントに行っていたことがわかって驚愕。難しい暗号化のはなししてた)、おおアダムサンドラ―! (ごめんね、失礼よね)とか思ってしまったのだが、とにかくニューアークに向かう飛行機ではこういうことが割とひんぱんに起こるのだった。

で、深夜0:00頃に機を降りてからは荷物が表示されたところからぜんぜん出てこなくて、そしたら全く別のぐるぐるのとこで回っていてうんざりして、ようやく引っ掴んで外にでると、雪が降っていた、と。 さすがニューアーク。

こうして1:30くらいにホテルにチェックインして、ばたんきゅー、とはいかずに仕事でじたばたしてしんで、空腹で目がさめてさっきJoeのコーヒーのとこでドーナツを買ってきたのだが、ジャムの入ったやつがなくなっていたのが悲しかった。

NY滞在はあと30時間。 気温は氷点下。 頭痛がんがん。 がんばる。

3.01.2016

[log] March 1 2016

もうとっくに2月は過ぎて3月になっているらしいのだが、そんなことより花粉とだらだら締まりのわるい気圧をなんとかしてほしくて、で、これらから一時的にそれらから逃れて後で自分のクビ締めて泣くのと身体中の体液不快なままずるずるほうっておいてどブルーのまま春を迎えるのとどっちか、と問われて前者のほうにして、とりあえず成田まできたの。

これからサンフランシスコに飛んで、最後にすこしだけNYに寄って日曜の晩に戻ってくる。
まいど文句は言いたかないけど...   まあいいや。

ほんとうであれば今晩は、昨晩の桃源郷のやうだったBon Iverに続いて焼野原のやうなJesu / Sun Kill Moonに向かうはずだったのだがやはり無理だったのね。(関係ないけど、Sun Kill Moon、ほんとによくこういうのにぶつかっていつも逃す)

結局サミュエル・フラーも行けなかったし、ここんとこ行けないのばっかしだわ。
向こうでは、おおぅ、みたいのはやってないもよう。NYで美術館いくつか、くらいはあるけど、それも行けるかどうか、運しだいだし。 Film Forumでやってるのは「晩春」だし。
サンフランシスコは4日まで粘れば生Sean Pennが見れるばずだったのだが、それもいいかー、になってしまった。ベーカリーと本屋をうろうろできればそれでいい、にしてしまった。

もうぜーんぶ「…してしまった」で行こう。 どうせおこられるんだし。 ぷん。

ではまた。 いってきま。