12.31.2016

[log] 年のおわりに

恥しらず! て思いっきり罵倒してやりたいくらいにしれっとふつーの顔した12月の31日が今年も来てしまって、例年だとまだ感想を書いていない映画がなん本くらいあって、とか呑気にやっていて、でも今年はー、この2016年はさー、こんなふうに年内の仕事終わったし映画みるくらいしかすることないし、なんてやってる場合ではなくて禅堂にでも篭って見つめ直したり反省したり立て直したりしないとほんっとうに来年なにが起こってもしんないんだから、ひどくなるに決まってるんだからね。だからせめてあの償いと弔いをたっぷりこめた、お片づけの一撃ってやつはーどうだ? どうなんじゃ? どうするつもりじゃ?  と、ここから先はいつもとおなじぐるぐるの虎バターになって焼きあがるのを待つのみ。 焼かれちまっていいのかおら。

でも今回の歳末お片づけはほんとにしゃれになんなくて、昨年末~年始にほとんどなんもしなかった結果、まじで床が抜けるか地震がきて埋もれるかで、下に落下するのと上から潰されて埋もれるのとどっちがよいか、の二択を悩むようになっている(落下のほうが新しいなにかが見える気がするのでそっちを希望)のと、読みたいときにどっかにあるはずの本とか雑誌とかぜーんぜん見つけられなくて自業自得でざまーみろ、じゃなくて、困ったりつまんなかったりするし、本もきっと同じ思いを抱えて身動きとれずに固まって泣いているのだろうし、あともういっこ、1ヶ月後(あと1ヶ月しかないんだ… )に起こりそうなことが動いていて、これらをなんとかしないと、なんとかしないと、いったいどうなるんじゃろう …

だからお休みにはいった29日の午後に少しがんばってみようと、ある山の一部を切り崩して床の表面が見えているところに持ってきて、いっこいっこ手にとって、右にやるのか左にやるのか悪いけどさようならか、おお君はこんなとこにいたのねとか、なんで君はふたりもいるの?とか、あんたどこのだれ? とか一通りやって、でもフレッシュな表面が見えている床がそもそも少ないものだから、既にある山の上にとりあえずで重ねてみるでしょ、そのとりあえずが重なっていくと最初のとりあえずから忘れていくので、ぜんぜん進んでいるようには見えなくて、これをやってると終わらないよ、終わらないものを終わらせるには手を止めることだよね、て約2時間で引きあげて、シネマヴェーラにいってホークスの「永遠の戦場」を見て、ついでに「はるねこ」も見て、壮大な戦争と命をめぐるドラマに打たれて、更に数十年ぶりにBo Gumbosの歌なんか聴いてあああもう、になって帰ってきたら、なんも変わっていなかったのでこれはこれで心うたれた。 やばいな。おわんないよ。昨年とおんなじだよ。

そういえばこないだのクリスマスは、英国からブツが届いた(追加で税金とられて納得いかない)”Metal Box”の40曲と、米国からリンクが届いたNINの”The Fragile: Deviations 1”の37曲の計77曲を落としたり変換したりしてて、いったい世界で何人のひとがクリスマスに(どうしようもねえ、と腐れつつ)こんなことをしているのだろう、て思ったりして、で、こいつらをお片づけのBGMに流してみたのだが、びっくりするくらい効かないので笑った。 火をつけて灰にするための音楽だったのよね。 道具はちゃんと選ばないとね。

あと、ぜんぜんどうでもいいけど、Metal Boxの缶カラ、ぺこぺこで贈答用のおかきの缶箱みたいで残念だった。
片付けの途中でまちがって蹴っとばしたらぺこん、てへっこんだ。

で、とにかくこういうことばかりやっていると2017年は2016年とおんなじくろくでもないことになって、つまりぜんぶ自分に跳ね返ってくるんだからね、しんないからね、て最初の虎バターに戻る。 やるきはこーんなにもいっぱいあるし(しかも3年くらい続けて同じことを.. )、手も動かしていないわけじゃないし(これも3年くらい続いているし..)、これって締め切りに間に合わない作家の言い訳とおんなじだよね、とか思ったがあんたのやってるのはお片づけで、お掃除で、創作活動とはちがうの、いまのあんたなんかレレレのおじさん以下だし、そんなこと言うことじたいまじめなレレレのおじさんに失礼だし、とかひと通りぶつぶつ言いながら、今年は行ってしまうのだわ。

さようなら2016。 2度と戻ってくんな。

Mac McCaughanさんの”Happy New Year (Prince Can't Die Again)”を聴きながら
https://macmccaughan.bandcamp.com/track/happy-new-year-prince-cant-die-again

みなさんもよいお年をお迎えください。

12.29.2016

[film] Don't Breathe (2016)

元のトラックに戻るのだが、この年の暮れ、書いてないやつのどこから始めたらいいのか悩ましいので、簡単に書けそうなやつから。 おもしろかったし。

24日、クリスマスイヴの昼間に日比谷でみました。
なんでクリスマスイヴかというと、これって”Home Alone” (の creepyじじい版)& “Die Hard”(の少しわるい女の子版)で、これらはどっちもクリスマスの映画だからさ。

Rocky (Jane Levy)とAlexとMoneyの3人組は警備会社にいるAlexのパパの道具を使って空き巣とかしていて、その次に狙うことにしたのは交通事故で娘を失って、その補償金を家のなかに貯めこんでいるらしい一人暮らしの盲目の老人で、うるさい犬がいる以外、家は過疎が進んだ町外れにあって警察も見回りに来ないし、少しだけ後ろめたいかんじはしたが、トラッシュな親から妹を連れて西の方に逃げたいRockyは決行することにする。

決行の晩、犬を眠らせて警報機と鍵をくぐって、まずは家のなかに入れたので楽勝と思われたのに、起きだしてきた退役軍人のじじいは目が見えないことを除けば常人離れした粘り腰の強さをもってて、3人は”Home Alone”のJoe PesciとDaniel Sternよか散々のひどい目にあって、逃げたいのに逃げられなくて許してください助けてください、になるのだが、やがてRocky vs. じじいのDie Hard対決になって、そのうちじじいの驚くべき正体も明らかになって、殺るか殺られるかの狭い家、暗闇の手探り窮屈な追っかけっこになっていく。

被害者になるはずだったじじいがRockyの目の前でおっそろしいモンスターに変貌していくプロセスと、最初のうちに抱いていた少しの後ろめたさがひっくり返って「くそじじいぶっ殺したる」に転がっていくプロセスの交錯がおもしろくて、どっちも悪いといえば悪いんだけど、でもやはりRockyがんばれ、になってしまう、よね。

ひとりにされてもよいこは神さまが守ってくださる、ていう“Home Alone”からも、どれだけ傷モノボロカスにされてもよいこは神さまが死なせてくれない、ていう”Die Hard”からも離れて、どす黒いじじいとやさぐれた女子のどっちを神さまはなでなでしてくれるのか、或いはどっちも地獄に堕ちるのか、息を詰めて見ているしかない。

土地とか家とか軒下は、”It Follows” (2014)とか”A Band Called Death” (2012)に出てきたデトロイトの宅地の赤茶けて寂れて崩れたかんじで、なかなかおっかなくて素敵で、続編作るとしたら蘇ったじじいが”It Follows”してくるのだろう。 ていうかじじい、”It Follows”に出ていなかったか? (あの、屋根の上とかにいたやつ)

いちばんついてなくて損したのはAlexだよね。 かわいそうにー。

12.28.2016

[log] NYそのた2 -- December 2016

ひとはもちろん勝手に生きて死んでいくわけだし、自分から死を選ぶこともあるけど死はそれぞれ個々の事情によるので、そういうのが重なったとしても、それはそれぞれの勝手の連なり、つまりは偶然 - たまたまそういうことが連続して起こったのだと、それだけのことなのだと言い聞かせるわけだが、それをずっと自分で自分に言い聞かせるようなことが続いていくと、偶然の向こう側にある死の世界を知らない我々はそこに識域を超えたありえないなんかが働いていると思い込みたくなってまったくしょうもない。
亡くなったひとに「ご冥福をお祈りします」とか「Rest In Peace」とか言うけど、本当に心の底からJohn Lennonの"Mother"みたいに絶叫したいのは、「置いていかないで」とか「好きなひとを連れていかないで」ていうことなの。 なんでかって今のここってほんとうにひどいありさまで、残された我々に見えているのは焼け野原の無間地獄みたいなやつで、みんながいなくなっていくので余計にそう見えてしまうのかもしれないけど、彼らの喪失がもたらした穴だか壁だかの向こう側にわらわら見えてくる連中ときたら、ゾンビよりひどいし臭いし、なにをだらだら言っているのかというと、そりゃいくらでも悼みますけど、まずは自分を立て直さないと、気がついたらレッドゾーンにいて、奴らの思うままになっちゃうから、そうなりませんように、って。 (わりと必死)


さて、NYの滞在中に食べたものたちあれこれを書いておく。 時間順で。
ふだん朝ごはんは食べないのだが、2.5日しかいないのでとっても切実が止まらない。

15日の夕方に着地してマンハッタンに入ったのが20時、”Rogue One”は22:15開始。
昨年はPorchettaのサンドイッチだったが、まさかのクローズをしてしまったし(涙)、外はマイナス7℃で、ほんとうであればあったかいラザニア(そう、PorchettaがなくなってもPorsenaがある!)て思ったのだが寒すぎるしぜったい映画館に遅れたくなかったので、映画館の近所のShake Shackにしてしまった。 ここは屋外まで列ができていることが多かったのだが、寒さのせいかそこまでではなくて、久々に戴いて、こんなに寒いのについシェイクまで頼んでしまった。 
そういえば日本のはまだ行っていないねえ。

16日の朝、お腹へって目覚めて、映画を見るまえになんか食べたい、になっていたので。

Lafayette Grand Café & Bakery

●Anton Mills Oatmeal, fruit stewed in cognac, toasted almonds と、デニッシュ。

ちりちりの寒さに朝の光がやや眩しすぎたが、オートミールはそれよりもっと沁みてたまんない。
あったかいお粥みたいのにお酒に浸かったフルーツが絡んであったまるよう。

で、ここを出て、どんな寒さでも来やがれ、になった状態で”Manchester by the Sea”をみた。
で、東海岸の海の映画だったので、Clam ChowderのNew Englandだよねえ、と歩いて西のほうに向かってランチを。

Pearl Oyster Bar

●New England Clam Chowder with Smoked Bacon
●Lobster Roll with Shoestring Fries

Grand CentralのOyster BarのN.E. Clam Chowderはいっぱい食べ過ぎて自分の体液の一部になっているのだが、ここのはダシがぜんぜん違うかんじがするの。 Lobster Rollは「時価」ていうのがどきどきで、でもバターがほんのりじんわりロールにでっかい塊(たぶん一匹ぶん?)がぱんぱんに挟まっているので文句いえない。 あと、その上にがさがさ盛られて靴紐みたいにこんがらがった極細のフレンチフライは油と紙一重のスリルがたまんなくてとまんなくなり、あとでじっとり後悔する。

晩は、”La La Land”のあと、22:30の予約が取れたここに。

Augustine

場所は昔は食の不毛地帯だった気がするCity Hallの近所にできたBeekman Hotel(Thompson系列)のダイニング。 フードライターでもなんでもないのでRestaurateurの動勢なんてどうでもいいのだが、Keith McNallyというひとがNYに作ってきたお店のいくつか(ぜんぶは行ってない)はとっても好きで、それはそこで供されるお料理が好き、というより(それもあるけどね)、彼のつくるお店の記憶にのこるかんじ - 壁とかタイルとかライティングとかのほのかな柔さ - がたまんないのだと。

で、デコールは彼の作ってきたお店の典型 - 来たことないのにいつかどこかで訪れたかんじのする、少しノスタルジックな調度が入ったとこからはまって、ああ、になる。 金曜の晩なのでとっても混んでいた。

●Salt-baked oysters
●Spaghetti with Sea Urchin
●Leg of Lamb "Aux Fines Herbes"

お料理もKeith McNallyで、少しフレンチブラッスリー少しイタリアンけっかたぶんアメリカン、みたいな。べつにおいしけりゃいいじゃん、とは言いたくないなにかも、確かにあるの。
ウニのパスタはなんでか今年のトレンドらしいが、あったりまえにおいしかった。麺はふつーの乾麺で、ちゃんとそこそこ硬くて、量もじゅうぶん。 次回はバーガーを狙いたい。

●Armagnac Mille-Feuilles with poached pear, and marinated prunes
彼のお店に行ってデザートいただかないのなんてありえなくて、とにかくハズレはなくて、そのまま酔っぱらってでろでろに崩れて帰れ、ていうことなの。


くどいようだが17日の朝は雪で雨で、でもごはんは食べたいのでUnion Squareのマーケットを見たあとでバスで西に流れてWest Villageのここで食べた。 予約とらないとこで10:00でもぱんぱんで、でも外だと雨に濡れるのでエントランスの隅でじーっと待つ。

Buvette

●Scrambled eggs with chorizo and grated parmesan
本日のスペシャルで、がりがりの堅パンの岩盤にふわとろタマゴの溶岩がかかって、塩辛みたいにチョリソが食いこんでて、そのうえにかつぶしみたいなパルメジャーノがはらはらと。
フレンチだけどね。 もうなんか絶句するよね。だってパンと卵とくず肉とチーズだけなのよ、なのになによこれ。
驚異の、驚愕のレイヤー責め。どのどことの組み合わせしたってぜんぶ溶けてきやがる。

●Tarte Tatin
で、雨でぐしゃぐしゃなんだからデザート食べずに出たくなんかない、と。
すりおろしたリンゴがなんか、胡麻豆腐みたいな特殊技術で固められたとしか思えないような、そういう密度と粒度のたると・たたん。フランスおそるべし。

レシピがあった。 レシピが。
https://houseandhome.com/recipe/buvettes-tarte-tatin-recipe/

パリのお店もぜったい行かねばなるまい。


地下鉄でMetrographに行って、”ParaNorman”みた後で2階のレストランカフェでフレンチトーストたべた。 こんなのが映画館の真上で、午前2時までやってるなんて、入り浸るよねえ。

The Metrograph Commissary

https://metrograph.com/eat-drink/

そして最後の、土曜日の晩はいつものここしかない。

Prune

いつものパイナップル頭のマダムがいらっしゃらなかったのが残念だったけど。

●Snack Tray
●Braised Tongue and Grilled Octopus with Salsa Verde and Mimosa'd Egg
●Braised Rabbit Legs in Vinegar Sauce

ぴょんぴょんうさぎの脚。いっつも思う、Pruneのバターソースの謎。あの絶妙にまろやかな酸味はどこのどういう化学変化によるもんなのかを知りたい。そのなかでほぐれて縒れて泳いでいくうさぎの繊維。

●Salt-Baked Whole Pear
お皿に突ったった洋梨いっこまるごと塩で固めて焼いただけであーら不思議、塩キャラメル風味のお菓子になるの。 日本の洋梨でできるかしら。無理だろうなー。

またきっと来るからね、Prune。

18日の、最後の朝ごはんは、ホテルから歩いていった。日曜の朝なので早い時間からやっているとこはあんまなくて、24時間のにならざるを得なくて、そうするとここくらいしか。

Veselka

Borscht(Christmas Borschtていうのがでてた)を食べたかったのだがまだ準備できてない、というのがショックで、泣きながらホットケーキにした。
おいしいからべつによかった。

こんなかんじ。 今年の食べもんはこれでおわり。 とうぶんなにを食べても反応しなくなるから。

まだなんかあった気が。

12.26.2016

[log] NYそのた1 -- December 2016

映画とアート、と食べ物以外のあれこれ。

行きの飛行機はへろへろに眠くて、新しい映画見る気力なくて、そんなに見たいのもなかったので、ご飯を食べながら”Silver Linings Playbook” (2012)とか見てた。まともな人がただのひとりも出てこない変な映画だけど、なんか好きなの。

帰りは、これ1本だけ見た。 できれば映画館で見たかったが日本の公開は3月だというし、3月なんて。

The Light Between Oceans (2016)

原作の小説『海を照らす光』 - はまだ読んでいない。見たらとっても読みたくなった。
第一次大戦から戻ってきた軍人のTom(Michael Fassbender)は空きがでた孤島ヤヌスの灯台守に自ら望んで赴任して、やがて対岸で見初めたIsabel(Alicia Vikander)と結婚して島で幸せに暮らし始めるのだが、幸せはそんなに続かなくて、子供ふたりを続けて死産して悲しみに暮れていたころ、島に流れ着いた船に父親と思われる男の亡骸と女の赤ん坊を見つける。 本土に連絡しないと、ていうTomに対しIsabelはこの娘は自分たちの子供として育てたい、と彼に懇願して、こうして娘Lucyはすくすく育っていくのだが、本土に行ったとき、夫と娘を海で失ったというHannah(Rachel Weisz)と出会って …

戦争に疲れて灯台守という孤独な仕事を選んだTomと、夫を愛しながらも更に愛する対象として子供を望むIsabelと、不慮の事故で夫と娘を一遍に失ってしまったHannahと、登場する誰もが自分の内側に疎通不能な地獄を抱えてて、それって相対的な不幸の話ではなくて誰も悪くはなくて、それぞれが海に浮かんだ孤島になってて、そういうとき、なにが人を導く灯台になるのか、なにが人にとって光に、救いになるのか、と。

監督は”Blue Valentine” (2010) 〜 “The Place Beyond the Pines” (2012) のDerek Cianfranceで、前2作の鉄条網のようにあがけばあがくほどぐさぐさ刺さってくる愛の地獄のかんじはあんまなくて、そこは原作にある倫理的なトーン、のせいかもしれないけど、まず原作読んでないし。

みんなそれぞれとっても可哀想なのだが、そんなに暗いかんじはしないの。それはたぶん。

(さっき邦題を知って絶句した。ねえねえ、ぜんぜん違うでしょ。なに見てるの? ばっかじゃないの?)


そうそう、LESの映画館、Metrographのはなし。

http://metrograph.com/

平屋の2階建(エレベーターがない、っていいよね)で、1階にシアターふたつ、2階に本屋(もちろん映画関係、古いのも新しいのも)とちゃんとしたカフェレストラン(フレンチトーストを食べたけど、あきれるくらいちゃんとしてた)があって、1階ロビーの大きめのソファも含めてゆったりしてて素敵で、売店にはポップコーンはもちろん手作りお菓子とかサンドイッチが並んで、ポッキーに日本のグミまである。
びっくりするのが受付でただで配っているスケジュールが記されたプログラムの冊子で、なんであんなに豪華でちゃんとしたやつがFreeでできるの? なのだった。

で、プログラムはいくつもの小特集を1日に並行して流していて、行ったときにはLAIKA特集の他にクリスマス映画特集(すごいよ、ばらばらで)に、Maggie Cheung特集に、30日には”PUNCH-DRUNK LOVE” (2002)やるのかー。いいなー。みたいな、いいなー。ばっかしなの。
椅子は沈みこんで寝ちゃうかんじのではなくて木製の背筋が伸びるかんじの。でもでっかくてとても心地よい。

歳とったらここでいちんちだらだら過ごしてあの暗闇のなかでしにたい。
難点があるとしたら、ポップコーンかなー。その場でマシンからハジけて吹き出してほしいなー。

レコ屋は、Brooklynを諦めざるを得なかったのでマンハッタン内の2軒で7inchを数枚、くらいだった。
かわいそうに。

本屋も、17日のごごにMcNally Jackson行って、さらにMast Booksに流れたくらい。
雪→雨の午後のMcNallyはものすごい人だかりでびっくりだった。 ああいう天気のときにいっぱいになってごった返す本屋さん、いいよねー。
雑誌以外では、Lillian RossがかつてNew Yorker誌に書いたTruffautの評論をまとめた小冊子$8。
そういえばこないだおなじシリーズのJohn Hustonのも買ったけど、あれはどこに消えてしまったのか。

Mast Booksでは古本ひとつと、あとこれ。 Susan Sontagの有名なポートレートが表紙の。

https://steidl.de/Books/Lost-Downtown-0708364251.html

Strand Bookstoreにも行った。 Johnny Marrのサイン本、Zadie Smithのサイン本をどうしようか悩んだが、とにかくもう積みすぎなんだから、読む時間ないんだから、と諦める。

あと、金曜の夕方、MoMAのあと、5th AveをのぼってクリスマスのBergdorfに行った。
途中、どんなに嫌いでもTrumpのあそこの前を通らざるを得ない。勝手に道塞いで占拠してんじゃねーよくそったれ、と中指を。

Bergdorfのクリスマスのウィンドウ、今年は例年よかちょっと地味だったかも。
7階でオーナメントを少しだけ買った。

ロックフェラーセンターのツリー、最後の晩のミッドナイトに行ったら、なんと消灯してやがった。
昔はもっと遅くまでやってたはずだ。 しかも向かいのSAKSのライティングも消えてるし。
Anthropologieのディスプレイもやるきねえのか、ていうくらい地味だし。

しょうがないので翌朝、旅立ちの前にもう一回行ってみた。
ツリーのシェイプは、ここ数年でいちばんよかったかも。

[art] Kai Althoff: and then leave me to the common swifts

16日のごご、"Manchester by the Sea"の後でランチしたその後、美術館まわりに向かうことにして、今回は上のほう - Upper Eastはやめて、WhitneyとMoMAにした。
(理由はあんまない。まだWhitneyの新しいのまだ一回しか行ってなかったし、寒かったし、くらい)

Whitneyでみた展示ふたつ。

Human Interest: Portraits from the Whitney’s Collection

一番上のフロアふたつ使って、収蔵品から「ポートレート」を中心に絵画も写真も彫刻もあらゆるメディウムの作品をテーマ別 - 顔、ボディ、路上生活、セレブ、New York、自画像、人のないポートレート - などなどで並べてあって、年代別、アーティスト別でもなくて、動物園とか水族館のように面白いったら。
20世紀初からの、肖像が従来の意味での「肖像」ではなくなっていく/崩れていく過程 - そこには現代史のいろーんな問題 - 多様性、差別に疎外、都市化、近代化、メディアの発達、肥大化するいろんな不安、セルフィ、などなどがあるものはストレートに、あるものは屈折したかたちで反映・表象されていて全然飽きないの。
こういう展示が収蔵品だけでできてしまうって、改めてすごいねえ、だった。

Dreamlands: Immersive Cinema and Art, 1905–2016

Whitneyに行こうと思ったのはこの展示のタイトルだけ見て、映画となんか関係のあるやつかも、と思ったからなのだが、ふだん映画館に見に行く映画との関係はほとんどぜんぜんなくて、タイトルの”Dreamlands”はラヴクラフトのクトゥルー神話からとったのだという。

フロアがいくつもの区画で区切られていて作品ごとにいろんな暗室(光も壁も床もぜんぶちがう)があって座ってみるもの立ってみるもの転がってみるものいろいろで、インスタレーションみたいのから3Dグラフィック動画まで、ものによっては見るのに時間が掛かるやつもあったので、さーっと流す程度で終わってしまった。 夢の国には時間がいっぱいあるときに行くべきってことよね。

あまり知っている人の作品はあまりなくて、Bruce ConnerとかJoseph Cornellくらい。 夢に没入するにはいろんな方法があるしその夢のありようにもそもそもの作り方にもものすごくいろんなヴァリエーションとか可能性とか、あるんだねえ、あたりまえだけど。

寒かったけど夕暮れ近くて光のかんじが素敵だったので外のテラスにも出てみた。
雲の切れ間から光が抜けてハドソン川の一部を照らしていてロマン派してて、こういうとこも素敵なの。

で、そこから地下鉄のEで53rdの5th Aveまで行ったのだが、ホームから地上までの昇りのエスカレーターが動いてなくてよじ登って死ぬかとおもった。自分よかもっと上のお年寄りの人たちも立ち止まってみんなぜえぜえしてた。 そうやって石段を登ってお参りする先はMoMA。

金曜の夕方から晩にかけて、MoMAはユニクロのおかげで入場料タダになる。ユニクロばーんざい。(ぼー読み)

Kai Althoff: and then leave me to the common swifts
(und dann überlasst mich den Mauerseglern)

Picabiaを見にいった同じフロアでやってて、入り口で入場制限をしていたので、なんだろと思って入ってみた。 ギャラリーいっぱいに使ったドイツの人Kai Althoffによるインスタレーションで、会場全体を彼 or 誰かの部屋とかアトリエのように仕上げてこまこまつくりこんであって、デリケートすぎるので一度に入れる人数を抑えてて、写真もだめで。

床とか壁とか至るところに200点以上の絵画とかオブジェ - 普通の絵画の他にドローイング、下書き、落書き、書き込み、チラシみたいの、等々が床に散らばったり立てかけられたり、その床やソファにも布 - 使用後、みたいに汚れてたり - だのなんだのが掛けられ散らばり玩具みたいなガラクタみたいなゴミみたいないろんなモノが散らばり、それらもぜんぶ彼のアートである、と。

近いところだとこないだの写真美術館であった「杉本博司 ロスト・ヒューマン」展に似たかんじなのだが、あれにあった、だれそれの部屋、というとこではなくて、あくまで作家であるKai Althoffの、いま生きている部屋というかんじはする。

絵画を彼のアートの中心に置くとすれば、ドイツ表現主義ふう - Egon SchieleからMax Beckmann - 或いは丸尾末広の漫画あたりまでを思わせるその作風から、こんなふうに脳みその裏側までべろんと立体的に見世物小屋ふうに見せてしまうのはありなんだろうな、て思ったし、実際にものすごくおもしろいのだった。 あそこまで、大小のゴミにホコリにチリまで含めて見せてしまうことができるなんて、相当の粘力がいったのではないか。 ドイツのひと。

こういうよくある「私の部屋」的なインスタレーションって、そいつの体臭まで寄ってきそうな露悪的ではいはいわかりましたよ、ふうになりがちなのだが彼のこれに関しては不思議と開かれているかんじがあって - 「そしてあとはわたしをそこらのアマツバメに乗っけといて」。

なんかおもしろかったのでカタログかった。

Francis Picabia: Our Heads Are Round so Our Thoughts Can Change Direction

今回MoMAに行ったのはこの展示を見たかったから。
入り口に、いい歳した彼が三輪車に乗ってはしゃいでいるでっかい写真が貼ってあって、それが全てを表しているかんじ。
彼のキャリア全体を見渡した今回のような展示は米国初だそうで少し驚いたが、そうなのかもしれない。 印象派でもキュビズムでもダダでも未来派でも、そういう特集展のはじっこには(よくわかんないけど)ほとんど彼の作品は置いてあったりする。 けど、彼の表現が追っていったものって全体で俯瞰してみるとどんなだったのよ? と。

というわけで、初期の印象派の時代に始まって、部屋ごとに笑っちゃうくらい意匠や仕様の異なる作品が並んでいて、しかもそのどれもがそれなりに巧くておもしろいので感心する。

流行り廃りや時々の共演者によって新しい技術取り入れて自身のスタイルをころころ変えて渡っていくミュージシャンみたいに、彼は自身のスタイルを直感的に変えていった、ていうかたぶん、かっこいい! て思ったらそっちに走っていっちゃう男の子の態度で時代やアートに接していった最初の世代のひとだったのではないか。 いまの時代、そういう人はいっぱいいるし、いてもけっ、て思うことが多いけど、この人はそういう形でアートへの関わり方そのものを変える、そういうふうにArtist's Artist、のようなかたちでモダンアートの外延を作っていった、かんじがした。

タダ、ということもあるのか混雑がなかなかすごくて、ほんとはNan Goldinももう一回見たかったし、コレクションに加わった絵文字も見たかったのだが、あきらめて外にでたの。

12.25.2016

[film] Office Christmas Party (2016)

17日の土曜日の晩、Union SquareのRegalで見ました。滞在最後の晩は悲しくて辛くなるばかりなのでバカでくだんない(褒め言葉よ)映画を見ることにしているのだが、これはそういうやつで、昨年も同じように"Sisters"でそれをやろうとしたらまさかのSold outでがっかりで、今度はおなじことを繰り返さないように前日に買っていった。

ZenotekていうIT会社のシカゴ支店でCTOをしているJosh(Jason Bateman)は離婚のごたごたを抜けたばかりで、でも支店は成績よくないので支店長(T.J. Miller)の姉のCEO(Jennifer Aniston)は人員削減とかボーナスなしとかお店取り潰しかもとかパーティもやっちゃだめとか言ってて、そこをなんとかすべく業界内セレブのWalter(Courtney B. Vance)を引っ張って建て直そうとしてて、そういういろんな思惑をすべてひっくるめて、いちかばちかとにかくぱーっとやっちまおうぜ、のオフィスあげてのクリスマスパーティが開かれて、仕切り魔の人事の頭のMary(Kate McKinnon)とか張り切り過ぎてとてつもない大騒ぎに転がっていくの。

DJが入って歌合戦とか恋愛合戦とか下半身コピー/スキャンくらいならわかるが、ドラッグの入った大袋を扇風機の前で弾けさせちゃったもんだからあーら大変、になるの。 こないだみた『ハイスクール マリファナ大作戦』のような全員らりらりのなんでもあり、になる。

で、こんなふうに社内の乱痴気騒ぎに留まらずになぜかロシアのギャングを巻き込んでシカゴの街にまで拡がっていくとこがすごい。割とどうでもよい、ざわざわやかましめの、義理でいるだけみたいなパーティで気がついてみればあんなこととかこんなことが、てなことが勃発しあとでわかってびっくりしたりすることがあるが、そんな無責任に放置された無法地帯の勝手にすっとんでいくノリがあってたまらない。どこかのお店やホテルのボールルームを借りてやるのとは違って自分たちのオフィスでやるパーティだと、このどうせ誰も見てないしやっちまえのどうでもいい感も増幅されて適当に抜けてしまったりするもんだが、その裏ではこれだけのことがこんなにもいっぱい起こっていた/起こりうるのだ、というのを見たいとこ見たくないとこ含めてなかなか丁寧に描写していて、それ故に後半オフィスをぶっちぎって夜の街に飛びだして大停電まで引き起こすそのスケールの拡がりが活きてくるのだった。失礼だけどこんなにきちんと作ってあるコメディだなんて想像もしていなかったわ。

学園モノだと「校長」にあたるCEOのennifer AnistonのとてつもないドSっぷりがたまんない方にはたまんなくて、”Ghostbusters”に続いて「普段はひとり勝手で空気読めない変なひとなのに土壇場でとてつもないかっこよさを発揮するキャラ」を確立してしまったKate McKinnonとか、Joshの部下のOlivia Munnとか、なんか女性ばかりが突出して前に出てくるやつだった。 そもそもは主演のはずのJason Batemanの薄いことときたら。

見終わってご飯食べて部屋に戻ったらSNLでKate McKinnonのヒラリーが"Love Actually"をやっててさー(あれをパロディとは言うまい)。今年はほんもんのヒラリーよりもあんたの1年だったよね、て改めておもった。 この人がいなかったらほんとうに真っ暗の1年だったよ。

エンドロールでNG集もちゃんと流れるの。これこれ。


今年のクリスマスソングは、Best Coast の "Christmas and Everyday”とMelvinsの“Carol of the Bells” くらいだった。
もう終わろうとしてるけど、みなさんよいクリスマスを。

12.24.2016

[film] ParaNorman (2012)

先に書いたように17日、土曜日の朝は目覚めたらびっくりの雪世界で、雪はまもなく雨に変わって夕方まで続く、とか言っているのでBrooklyn行きはとりあえず諦めて、ずっと行きたかった映画館に行ってみる。 丁度お昼にこんなのやっていたし。

朝ごはんを食べたWest Villageから地下鉄のF LineでEast Broadwayまで。 Lower Eastの最深部、近所にはMission Chineseがあって、Doughnut Plantの本店もある。

映画館で映画を見る/映画館に通うことが日常の大きな部分を占めていて、そこを通して世界のおおよそ半分を見たり学んだり呼吸したりしている者は「理想の映画館」ていうのを割とよく夢想したりするわけだが、このMetrograph、ていう映画館はそういうののものすごく近いところに寄ってくるやつだった。 この辺は長くなるのでもうまた後で。

上映前のくだんないCMなんてなくて、かかった予告はこれだけ。

http://www.imdb.com/videoplayer/vi751744537?ref_=tt_pv_vi_aiv_1

トルコの猫映画。 見たいなー。

さて、”ParaNorman”。 この館は35mmフィルム上映が基本なのだが、これはやっぱり3DのDCP。
この12月、ここでは”From Coraline to Kubo: The Magic of LAIKA”ていう小特集があって、イブとクリスマスのお昼にはいよいよトリで“Coraline” (2009)がかかるの。

Norman(Kodi Smit-McPhee)は自分の祖母(Elaine Stritch)を始めとして、いろんな死んだ人達が見えたり彼らと会話できたりしてしまうので少し困っていて、そんなある日、やはり同じように死者が見えてしまう叔父(John Goodman)がNormanのとこに来て、ある日の日没までにある本を読んで町を呪いから守るように言ってそのまま死んじゃって、Normanと仲間たちはなんとか本を手にしてがんばるのだが何故かそいつは効かなくて魔女に呪い殺された7人が墓石を倒してゾンビとして蘇り、町は大混乱に陥って、更に森の奥では伝説の魔女が蘇ってくる。 セイラムの魔女狩りを題材に、これはアニメのなかの話ではなくて、今の世でもごくふつうに起こりうること、のように描いている。

最後の、Normanと女の子の対話のところはほんとうに悲しくて、とても刺さって迫ってくるの。

虐げられていたちょっと変な子がたったひとりで邪悪な何かに立ち向かい、世界を背負って戦ってみると、その邪悪な何かっていうのは実は世界そのものだった … ていうのがちょっとダークなLAIKAの3Dアニメの基調にあるような気がするのだが、ここのも正にそうで、魔女を魔女にしてしまったのはなんだったのか、それはね。 こないだSeattleで見た”Kubo and the Two Strings”にしても、子供にとっては試練と冒険かもしれないけど、ほんとは子供 - Normanと女の子 - にこんな思いをさせちゃいけないのだし、世界をこんなふうにしちまったのは自分たち大人なんだから「彼ら」に謝って反省しなきゃいけないんだわ、て強く思う。

で、ゴミみたいなアニメに塗れた日本ではこういうのはやっぱり上映されない。どれだけ邪悪で腐っているんだ、って。
(ジブリのアニメにあんま乗れないのは彼らが当たり前のように描く大人衆や権力の醜さとか悪さとかって、主人公が戦う相手でしか、安全圏から高みの見物できる奴ら、でしかないからなんだ)

音楽はJon Brionで、ジャンクにゴスに神経線維のちりちりまで濃厚かつ繊細にかき鳴らしてくれる。
アナログのサントラ買う決心ついた。

この日、この映画館、21:00の上映は”Carol”で、結構早くから売り切れてた。 いいよねー。

12.23.2016

[film] La La Land (2016)

16日、金曜日の晩、Union SquareのRegalで見ました。
20分前に行ったら席は半分以上埋まってた。 ガキ共はぜんぜんいないかんじ。

オープニングから昔のテクニカラーのロゴとかのレトロ風味で、ああそういうかんじなのね、と。

車がぱんぱんに糞詰まって身動き取れないLAのハイウェイで、車からひとり降りてふたり降りて歌って踊りながら群舞のうねりに連なっていって、これがワンカットのしゃんしゃんで決まって、終わると客席はみんなわー、て拍手する。ほう、そうくるのね、と。

この渋滞のなか、車と車ですれ違ったのが売れない女優のMia(Emma Stone)と売れないJazzピアニストのSebastian(Ryan Gosling)で、このときはつーんやな奴て互いに無視して遠ざかり、その後、オーディションに行っては失敗しているMiaとレストランでピアノ弾いては追い出されたりしがないウェディングバンドで演奏したりしているSebastianは、出会うべくして出会って、そこから先は歌って踊って恋をして、それぞれの女優になる夢・ピアノ弾きになる夢に向かって突っ走るミュージカルで、なんも考えなくても楽しく見ていられる。 最後はめでたく幸せなハッピーエンド、ではなくてちょっと甘苦いツイストもあって、なるほどなー、ひととひとがくっつくっていうのはー、てきゅんとする。

歌もダンスもふたりの絡みもとっても洒落てて考えてあって、それはNYというよりはやはりLAの街とか建物とか道路の間(ま)とか昼間の/薄暮の/街灯の光とかの開けた空間のなかで見事な弧と輝きを描いて、カメラが切り取る枠のどこにもぴったりの色(Miaのドレスの色)と形にはまるようにデザインされている。(エンドロールでコレオグラフ - Mandy Mooreだって! とざわざわする人たち多数)

クリスマス前、たぶんみんな大好きになるに決まっているデート映画で、あんま異論はないのだけど、あえてなんか言うとしたらね、GAPとかの冬のCMのダンスを延々繋いだだけみたいなかんじもして、それのどこが悪いのさ? ていうのはまだ考えているのだが、物語の底流に流れる主人公たちの「自己実現」とか「ゴールイメージ」みたいな生真面目な根性道とアクロバティックで流麗で軽く弾けるダンスの間の溝が微妙なぎこちなさを生んでいる気がした。 これと同様のじたばたのぎこちなさは監督の前作”Whiplash” (2014)にもあって、(あとちょっと毛色は違うけど、”Silver Linings Playbook” (2012)のダンスとか)、そんなのがんばるのが嫌いなやつの気のせいじゃろ、かもしれないのだが、例えばね、渡米直前までFilm Forumで特集をやっていたBusby Berkeleyのあの怒涛の至福の波状攻撃と比べてみたとき、いったいどこのなにが違ってみえるのだろうね、とか。

おいらは自己実現とか聞くとシラけておちょくりたくなって我慢できなくなくなる80年代のひとなので、ついそんなふうに見てしまうのだったが、監督にとっては80年代のほうがそういう蔑視の対象なのかしら、と”Take On Me”とか”I Ran”の扱いを見てておもった。べつにいいけどさ。

ただやっぱり、歌って踊って恋をすることの掛け値無しの歓びとか、天に昇って突き抜けるような爽快さとか、そういうのにどこまでも、バカなんじゃないかっていうくらい溢れていてほしかったかも。 それだけでひとは何度でも恋をするのだし歌うのだし踊るのだって…  昔のミュージカルが教えてくれたのって例えばそういうことだったのだし。

でも、そういうのぜんぶぶっとばすくらいにEmma Stoneがすっばらしいので黙る。Ryan Goslingは時としてしょうもない薄らとんかちの腑抜けに見えることがあって、これはこの映画に限ったことではなくて - “Blade Runner 2049”が楽しみ - 本人も意識しているんだろうけど、この映画ではその辺がきちんと機能していた、ていうかEmmaのあの瞳に勝てる歌もダンスもあったもんじゃないねえ、て気がした。

あと、とてもLAに行きたくなる映画だった。 今はクローズしているAngels Flightとか、この映画用に動かしたんだって。
ら ら らん。

12.21.2016

[film] Manchester by the Sea (2016)

16日、金曜日の午前10:05の回、ダウンタウンのAngelikaで見ました。
壁の向こうの地下鉄の音がごとごと聞こえてくる(大好きな)シアター。 平日午前なので4人くらいしかいなかった。

なんで日本で公開されなかったのかまったく理解できない青春映画の傑作"Margaret" (2011)、演劇の"This is Our Youth”などを経てついに放たれたKenneth Lonerganの監督作。しかもなんかとっても評判がよいので戸惑うくらい。

このManchesterはみんなが知っている英国のあそこではなくて、アメリカ東海岸、マサチューセッツ州にあるManchester-by-the-Sea、ていう海辺の町の名前。

アパートのSuperintendent(修繕係)をしているLee (Casey Affleck)は住民のいろいろ我儘な修繕・修理のリクエスト(アパートってもともと配管系とかがしょぼい・弱いのよね)にも投げやりな対応しかできないので評判はあんまよくなくて、そんなある日、心臓を病んでいた兄Joe (Kyle Chandler)が亡くなったと連絡を受ける。 親しかった兄の死は彼にとってショックで、車でManchesterまで駆けつけて、その後しばらくすると兄は高校生の甥Patrick (Lucas Hedges)の後見人に自分を指名していたことがわかり(他に船の面倒もみろ、とか)、そんなの今の自分には絶対無理だからと狼狽して、さてどうするか。

父が亡くなり、昔に別れた母とも疎遠でたったひとり残されたPatrickは驚くほど冷静に死を受けとめていて、忌引も取らずに学校に行ってホッケーの練習しようとするし、Leeにも自分は大丈夫だしあと2年で後見人不要になるんだから放っておいて、といい、おろおろ狼狽えて途方に暮れるLeeの逡巡のほうがだいじょうぶかよ、なかんじで、そのぎこちない叔父と甥のやりとりの合間に、Patrickがまだ幼い頃にみんなで船で海に出ていた頃の思い出とか、なぜLeeはManchesterから離れた土地でひとりで暮らしているのか、といった事情とかがLeeの脳裏に次々と現れてパニックを引き起こしたり、ほんとに危なっかしい。

ぼろぼろでしょうもないLeeの後見人としてしっかり生きなきゃ、という日々と、Patrickのいろいろあるけどしっかり生きよう、てガールフレンドふたりとデートしたりバンドしたりホッケーしたりふつうに青春する日々を交互に追いつつ、大切なものを全て失って行き場のない荒んだ男と、始めから空っぽでどんなものでもまずは受けとめようとする若者の互いにぜんぜん望んでいない、まったく噛み合わない出会いとすれ違いとぶつかり合いと、しぶしぶへなへなのぎこちない抱擁を描く。
みんなが彼らの元を去っていく、でも傍にいてくれる人もいるよ、船もあるよ、寒くてきついけどね。

登場人物はそんなにいない、場面やストーリー展開にもあまり動きはなくて、最後にすごい落としどころやどんでんがあるわけでもなくて、これで137分。 なのにあっという間に過ぎてしまう不思議。("Margaret"は150分あって、これもあっというまよ)
なんとなく、小津の映画みたいなかんじもした。 釣りの場面とかあるし。

無頼の野良猫で得体の知れないCasey Affleckがほんとうに見事で、彼の元を去った妻Michelle Williamsもいうまでもなくて、Patrick役のLucas Hedgesのなんにもない軽さもよいの。 Casey Affleck、アメリカの俳優にはあまりないタイプ - Vincent Macaigne型の変態を演じることができそうなかんじの。

映画に出てくるわけではないのだがNew England Clam Chowderが無性に食べたくなって、このあとお昼に食べた。

12.20.2016

[film] Rogue One (2016)

19日のごごに成田に着地しました。
ぜんぜん寒くなくて、それだけでつまんなくてくるっと回れ右して引き返したくなる。

15日木曜日の晩、Times SquareのAMCでみました。
今年はいくつかのシアターで座席指定ができるようになったのでよかった(でも発売日には予約できなくて出遅れてなー)。 座席早いもんがち方式だと、この寒さのなか時間帯によっては外で並ぶことになってなかなかスリリングなの。それはそれでお祭りで楽しいけど。

上映前の予告は来年夏迄の大作の予告を延々、ほとんどIMDbとかで見ていたやつでもでっかい画面で見るとぜんぜん違うわ。
いちばん「あーあー」が出ていたのはもちろんMichael Bayのあれね。

さてRogue One。これ、ネタバレもくそもなくて、主人公達のミッションは完成間近のDeath Starの設計情報を盗んでくることと明示されていて(それが達成されたこともわかっていて)、時間的にはEP4の直前までの世界を描いていて、ここに出ている人たちはEP4の時にはどこにもいないわけだからつまり… というあらかじめ相当きっちりと仕切られた(限定された)設定のなかで登場人物たちはどこまでどう暴れてEP4への遷移も含めてすんなり納得して貰えるのか、これが正の「外伝」としてうるさいマニアの連中に認められるのか、が勝負で、ていうか、これはシリーズ化されないことが既に宣言されているから勝負もくそもないわけだが、出始めているレビューは当然のようにだんだら模様で、そんなのは最初からわかっているので、好き嫌いだけでいうと好きなほうなの。 監督がGareth Edwardsで脚本がChris Weitz - 冷酷非道の世界にも人間万歳の世界にもじゅうぶん浸りきれないちぐはぐでほんの少し崩れた世界を描いてきたふたり - なんだから支持しないわけにはいかない。

幼い頃、目の前で父親を連れ去られて、反乱軍過激派のSaw (Forest Whitaker)に育てられたJyn (Felicity Jones)がCassian (Diego Luna) にぶつかって、Death Starの設計情報を盗むべくRogue Oneを組織して帝国のセキュリティの前線基地につっこんでいく、これだけのお話。 Rogue Oneには元帝国軍のパイロット(Riz Ahmed)とか座頭市(Donnie Yen - かっこいい)とか鉄砲撃ち(Wen Jiang)とかロボット(K-2SO)とかその他ボランティア参加のならず者たちがいて、こういうのの見どころってこいつらがどれくらいしょうもない不良の腐れた愚連隊なのか、だと思うのだが、なんかみんな割といい人たちっぽくて、つまりそれだけ帝国が極悪非道、ていうことなのだろうけど、それでももう少しはダイバーシファイしてもよいのでは、とか。

基本はレジスタンスのゲリラ戦で、Forceもレーザーブレードもあんま関係ない。Star Warsサーガの世界観の中軸にあってあの世界を二分していたForceの要素がない(いちおう座頭市が念仏のように唱えている、くらい)ので、ドラマは正に兵力・軍事力による数や力の差が全てを決めるように動いていて、そこにおいて圧倒的に不利なRogue Oneがどこまで刺さって撹乱して戦えるのか、がポイントで、だからつまり、帝国のシールドをどうやったら破ることができるのか、データはどこに置かれていてどんなパスワードでガードされているのか、どうやってデータを自分達の側に伝送できるのか、とかが決め手になって、つまり、SFていうより今のふつーの戦争とあんま差はないかんじ。

帝国側に奪われてしまった父親を取り戻す/取り戻したいというJynの強いエモが底流にある、というところからEP5 - EP6に、特に全てが塞がれて潰されて敗走していく、という点では「帝国の逆襲」に割と近い、という指摘はたぶん当たっているのだが、個々のエモや想いがややばらけていて大きなうねりに撚りあっていかないところがなー。 あのラストに不満はないけど、もっともっとドラマチックにできたよね。 で、そういう悲愴感の反対側でならず者たちの軽妙で適当でユーモラスな、でも過激な破壊工作をいっぱい見たかったよなあ、とか。

ホークスやペキンパーだったらどんなふうに撮っただろうか、ていうのは無理な妄想かもしれない、でもそこまで行けたような。 Leigh Brackettさんの魂をここに ー。
でも全体としては、なんか悪くなくて、少しほっとした。あっちまで飛んでいった甲斐はあったというもの。

でもなー。 あんなふうにデータ保管するかよ、90年代の方式だよ、あれ。 データ伝送も線引っ張ってワイヤー結線しないとだめなの? とか。

EP4の画の世界に直結したかのようなノスタルジックなかんじはなんだろう、と思っていたら、EP4の頃の素材を加工して使っていたと(by HelloGiggles)。
でもそれならさー、反乱軍のパイロットにWedgeがいないよ。 EP7はしょうがないけど、ここにはいないといかんでしょ。

上映後の拍手はEP7の終わったときよか大きかった。 また見よっと。

12.18.2016

[log] December 18 2016

すべての、いつもの週末や夏休みや冬休みがそうであるようにとにかくあっという間に過ぎ去って飛んでいってしまい、すべての、いつものウィークデイのお仕事がそうであるようにとにかくあたふたじたばたするばかりでなにひとつ達成できない感たっぷりの不満たらたらで終わる、そんな(約)3日間だった。 ほんとに毎度のことながら。そしてこれもいつもと同じように、何ごとも起こらなかったかのように次の計画に着手し始めるしかないの。 カラカラを喜んで転がし続けるハムスターみたいに、これをもう10年くらいやってる。 きっとしぬまでこの状態でいくんだわ、かわいそうに。

とにかく土曜日の朝、起きたら8:30(いつもであればぜったい早く目覚めるはずだった)で、さらに外を見たら雪、の二重の致命傷が致命的だった。雪がやがてびじょびじょの雨に変わって、あれで地下鉄を中心とした機動力は剥奪されて、Brooklyn行き - つまりはレコ屋巡りの愉しみはなくなって諦めて、靴先びじゃびじゃになりながらマンハッタン歩き回るしかなくて、結局のとこ、映画はごほん、美術館ふたつ、本屋3、レコ屋2 - 7inch数枚だけ - そんなもんだった。 食べもの関係は不思議と当たり。 そういうもんよ。

木曜の晩、金曜の晩の氷点下の寒さはなかなか痺れてたまんなかったのだが、雪と雨のあとは適度に緩んでしまって、これもがっかりのひとつだった。雪と雨のあと、せめてがりがりつるつるの氷地獄がやってきてくれたら氷のうえで滑って転んで絶命、でも本とレコは決して手放しませんでした、みたいにうっとり素敵なことが。

土曜の晩、ロックフェラーセンターのツリーを見にいったら消灯していたのもショックだった。
むかしはもっと遅くまで点いていたよね。

日本帰っても周りはインフルエンザばかりみたいなので、無理して飛んでくれなくてもいいんですけどー、て一応言ってみる。 こないだみたいに滑走路上で4時間、みたいのだけはやめてね。

ではまた。

12.15.2016

[log] December 15 2016

しわす.. とか言われただけでううううるせえ穴にもぐってだまってろ!!  って怒鳴り返したくなるくらいにばったばたでなにもかも嫌になりすぎてバケツ被って途方に暮れたところで、そういえば去年は公開される週の木曜日の晩に飛びたったもんじゃのう、と思いだし、逃げたいなー行きたいなーとちらちら舞う雪のように海の向こうのことを考えはじめたところで、あらぬ方角からひとを簀巻きにするような猫をかん袋におしこむような話が現れて、今年はほんとうに沢山の大切なひとが亡くなってさんざんのさいてーの1年だったけど、そういうのをふっとばしてくれるのか丸めこんでくれるのか結局のところ棺桶行きなのかよくわかんないけどやっぱり行こう・行きたい - どうせSuicide missionのお話しなんだから、Suicide missionでいったれ! とクリックしてみたら意外と簡単にチケットとか取れてしまい、仕事場ではこわごわ2日と半日休みますけど、と言ってもだれも目をあわせてくれないもんだからもういいや、って成田まできました。

昨年とまったくおなじ、木曜の晩に飛びあがって木曜の晩に着地して、22:15の回の映画を見て(まったくの偶然で劇場はちがうけど、去年も22:15の回だった)、日曜のお昼の便で向こうをたって月曜の夕方に戻って、そのまま年内は会社は行くけど脳みそほぼしんだ状態でおわる、あるいは現地で白目むいてしんじゃうかもしれない、Rogue Oneだから、そんなんでいいの。 

寝る時間をのぞけば30時間もないくらいなので、いつもと同じように東西南北を走り回ることになって、見られるものを見て、食べられるものを食べて、買うものを -  になる - 映画は木曜の以外ではできれば3本、ライブは無理 - のだろうが、本とレコといったお荷物に関しては今回ある事情によりちょっと控えることにしたほうがよいのかもしれなくて - いややっぱしそんなの無理だね欲しいの見つけたら買うよね、とか、ひとりでずっと押し問答して止まらない。

忙しいとかへろへろとか、そういうのはしょうがないけど、誰もがぶつぶつ言っているようにこの2016年はほんとうにきつくて辛くて救われない、今だってシリアとか胸がつぶれそうだし、これからよくなるとも思えないし、このまま年を越して、ジャバ・ザ・ハットの数百倍醜悪なあのガマガエル野郎に自分のだいすきなアメリカとNYがやりたい放題やられてしまう前に(やられないけどな、そう簡単には)、その(自分にとってはしばし)最後の輝きをあたまに留めてあそこのクリスマスツリーにお祈りをしておきたい、ていうのはある。 どうせRogue Oneなんだし。

到着するあたりのタイミングですごい寒波がくるらしい。
きてほしい。 ぜんぶ凍らせちまっておくれ。

あと、このタイミングでこの円安はなに?

あ、行き先はNew Yorkだよ。

12.14.2016

[film] Niewinni czarodzieje (1960)

12月2日の金曜日の晩、新宿のポーランド映画祭で、一本くらい見なきゃ、ということで見ました。

今回はアンジェイ・ワイダ特集で、企画を進めていたら監督が亡くなってしまいそのまま追悼特集になってしまったのだと。
で、上映前に今回の特集に向けた監督のインタビュー映像が流れて、これが追悼として流れちまうとは、って監督は天国で憮然としていると思うわ。 背後でずっとばうばう吠え続けているわんわん達はきっとなんか警告していたんだよ。

『夜の終りに』 英語題は、”Innocent Sorcerers”。

イエジー・スコリモフスキとイエジー・アンジェウスキーが脚本に参加している、ということだがとてもそんなふうには見えないなかなかぼんくら系、ふぬけた青春映画。

散らかったアパートの一室でバスローブを着た若者バジリ(Tadeusz Lomnicki)が髭をそったり電話したりしてて、とっても自信家のかっこつけ野郎ふうで、これから身支度して出かけようとするところ。 彼はリングサイドドクターらしくて、仕事場に行ってもボクサーみたいな足さばき口さばきで適当に仕事をやっつけて、そのままクラブみたいなとこになだれこんでバンドでドラムを叩いて、ひとりかわいい娘をみつけるのだが、彼氏と一緒だったので、相棒に指令だして男のほうを車でどっかに連れ去ってもらい、彼女を自分のアパートに連れ込むのだが、女の子のほうもなかなか一筋縄ではいかなくて、部屋から突然消えちゃったりしてなんなのでしょう、どうしろってんでしょ、ていう夕方から朝までのおはなし。 
「罪のない魔法使い」 - 魔法にかけられたやつの負け惜しみよね。

なにかに追われているわけでも目的地に向かっているわけでもないのだが、ずっと主人公の後ろ頭を中心にえんえん追っかけ続けるカメラからは止まってしまうことへの、或は終わってしまうことへの問いとか焦燥とか、やっぱしこうあるべきなのではないか、みたいなのがじんわり滲んでくるかんじはして、つまりは、例えば、”Slacker" (1991)に始まるリンクレイターの時間と町と女の子をめぐる諸作の源流として、あそこまでの計算づくはなさそうだけど、なんかあるのかもしれない、とか。 スコリモフスキの果てなく終わりのないかんじとか。

当局の検閲で相当ひっかかった、と上映前のインタビューで監督は言っていて、でもそれらのシーンはあんまピンとこないのだが、そういうもんなのな。

マッチ箱を宙に投げて立った転んだで服を脱がせる/脱いでいくゲームをふたりがやるとこが出てきて、おもしろいねえ、と思ったけど、結局脱がせないのね、ありえないわよね。

夜明けの探索のシーンでバンドの連中がでてきて、そのなかに音楽担当のコメダもいる、あとどこにいたのかポランスキもいたらしい。 いろんな連中が混じっていた朝までの青春で、そういう青春はいつも朝までで白々しく終わって、終わらない。

12.13.2016

[film] Miss You Already (2015)

4日の日曜日の昼、日比谷でみました。

邦題は例によってあれだし(「マイ・ベスト・フレンド」?)、友情ものも難病ものもタスキ掛けで泣かそうとしてくるようだし、ふだんならぜええったい見ないようなやつなのだが、Drew Barrymoreさんが出ているので見る。 彼女のインスタとか見てると、もう女優やらなくなっちゃうんじゃないか、て思ったりして、そういうのを考えただけで、頭ぶんぶんして見ておかなきゃ、になってしまうのだった。
で、実際、Drewのとんでもなさを目の当りにする。リアルな不機嫌をまき散らすことができる女優さんはいっぱいいるさっこん、彼女みたいのはそういないんだから。

冒頭、お産のヤマがきてひとり絶叫してもがきまくるJess(Drew Barrymore)に助産婦さんが誰か会いたいひとはいる? て聞いてJessは、”Milly…”って言って、そこから回想にはいる。

JessとMilly(Toni Collette)はJessがアメリカから転校してきた子供の頃からずっと一緒の親友同士で、大きくなってMillyは頭かるそーなパンク寄りミュージシャンと子供ができて結婚して、Jessはガテン系の採掘熊男と結婚して、でも子供はできなくて、そんなある日、Millyが乳ガンの宣告を受けて、化学療法とかをはじめることになって、最初のうちは治ることだってあるし、と家族でがんばるのだが結果はよいほうには転ばず、他方で不妊治療をしていたJessには子供ができて、でもMillyのこともあるから言えないままで。

豪快でエモまるだしでなんでもすぐ顔と言葉に出してしまうビッチ系のMillyと、そんなに強いわけでもないのにMillyが攻めまくるもんだからなんでも図太く受けとめざるを得ない聖母系のJessとのそれぞれの一大事を巡るやりとり - このへんはコメディて言ってよいと思う - がスリリングでおもしろくて、でも終盤の絶対にくるとわかっている別れのところはきついけど黙って泣くしかないの。

しかしまあ、Drewの女優としての懐のでっかさ、というかとんでもなさときたら。こんなの、いくらでもべったべたの泣きまみれ坩堝に落とすことだって簡単だろうに、彼女は決してそうさせない。 親友の体をぼろぼろにしていくがん細胞を見つめつつ、自分の体内に現れた自分のとは異なる細胞の塊を見据え、そのどちらにも等しく暖かい眼差しを注いで、やってくるお別れにはなにもかも解った顔をして、でもなにもわかっちゃいないんだ、ていう不安で爆発しそうになって、でも最後の最後まで泣かない。

Jessの動じないかんじは、結果的にはああするしかない、というものであると同時に、その内側でものすごいこんがらかった葛藤の毛玉を抱え込んでいて、ふたりが抱擁するとそれがポケットからぽろぽろこぼれてくる。 彼女はMillyのために泣くんじゃないし自分のために泣くのでもなくて、取り返せない、戻ってこないなにかのために泣くんじゃなくて - “Miss You Already”だから -  ふたりが一緒にいるいまのここ、その瞬間のためだけに泣いてて、そんな紙一重の演技ができるのは彼女だけなんだよ。

酔っ払ってやけくそになったMillyがJessと一緒に「嵐が丘」のHaworthに行くぞぉ!って夜中にタクシー捕まえてぶっとばして、ラジオから流れてきたR.E.M.の”Losing My Religion"を運転手も入れて肩を組んで歌うとことか、たまんないの。 この歌がどんな状況のなかから出てきたどういう歌か、を思うと更になんか… (泣) 最初に聴いたときはあーあR.E.M.もつまんなくなっちゃったなーて散々ぶうぶう言ったものだが、いまはしみじみいい曲だなあっておもって、”Out of Time”の25th anniversary盤を買おうかどうしようかと。

あと、Toni Colletteさんもあたりまえのようにうまい。のだがとにかく、顔演技がすごすぎて。

物語としては、Jessのお産をSkype経由で見守った夫の乗る荒波のむこうの石油採掘船も悪天候でやられちゃって、Jessはひとりぼっちに … というのもありだったのではないか。 そしたらNicholas Sparksになっちゃうか。

12.12.2016

[music] Ryan Adams

12月9日の金曜日、いつものように新木場なんてかんべんして、と泣きながら7時ちょうどに小走りで滑りこんで、みました。

彼のライブを最後にみたのは”Rock n Roll”を出した直後(2003年...  13年前て… )くらいで、やたらきんきんぶっとんでいて面白かった記憶があるが、その後の彼の変遷を追っていってもとてもおもしろいし外れないにきまってるし、新譜リリース前の新バンド編成だというし。

バックはキーボードとドラムスとギター1、ベース1で、ものすごく普通の、よい音を聴かせるための編成で、それは彼の音楽がそもそもそうで、ここ数作の、奇をてらわずにソングライティングとアレンジに注力して、売れているんだかいないんだかわからないが、とにかくすばらしい音楽を作ってリリースして歌ってそれらを繰り返すことに関して、止まらないことに関してはNeil Youngくらいのレベルまで行っていると、強く思っている。

そういうわけで、ステージに派手な演出やライティングがあったりバックに変に目立つひとがいたりすることの一切ない、遠くからだと彼の表情すらはっきりうかがうことができない、彼から唯一注文がでたのは最後のほうで、お願いだからカメラのフラッシュ焚かないでほしい、という慎ましいのがあったくらいの地味な地味な流れがあるのみ、音もボトムはバスドラのゆったりとしたキックを中心に深く濃い青緑(色でいうとたぶんこう)の澱みの壁ができていて、そこに2台のギターがじゃりじゃりと切りこんで、その奥で時折力強く刃のように魚の背のようにギターが蠢き閃く、そんなふうで、いったんこの深みに耳をはめてしまうと、あとはひたすら気持ちよいばかりで抜けられず立ちあがれず涎をたらすしかないの。

一曲目からこないだ発表されたばかりの新曲 - ”Do You Still Love Me?”で、他にも新譜からの新曲は結構あって、"New York, New York"も"Come Pick Me Up"もやらず、あとはCardinalsとの曲も多くて、たぶん新バンドでの編成ていうのを意識したのだろうが、でもそもそも盛りあがって一緒に歌ったり踊ったりする系の音ではないし、突っ立ってぼーっと聴いているだけで滋味がしみて、あったかくなる、そういうやつでした。 
( でも”SYLVIA PLATH"は聴きたかったなー。 “1989”からも1曲くらいは聴きたかったなー )

とくにすばらしかったのは終盤の"I Love You But I Don't Know What To Say"〜 "Cold Roses" 〜 "When the Stars Go Blue" 〜 "Wonderwall" の流れだろうか。 このひとの"Wanderwall"は何度聴いてもOasisのよかだんぜんよいとおもう。

(お空にお願いしたとおり)ミラーボールの星がぐるぐる瞬いてまわる"When the Stars Go Blue"を聴けたのでそれだけで十分で、天井を見あげて今年の締めはこれでいいんだ、になった。

本編約90分、アンコール1回2曲。 理想的な映画の長さとおなじくらい - 見終わったあとでああ夢のような時間だったわ、てしみじみ思えるような、そういう経験がそこにはあったの。

今年のライブはこれでもう終わりだろうなー(嘆)。

[film] 俠女 - A Touch of Zen (1971)

11月27日の夕方、有楽町でみました。 
フィルメックスで1本くらいはみたいかも、て思っているうちに最終日になっていて、ほとんど最後のほうに滑り込んだ。
コンビニでチケット買わされて、幕前にたけしの説教臭いCMばかり見せられる、そんな映画祭な。

70年代の中国の格闘劇、昔リンカーンセンターでリストアされた同じようなのを見た記憶があって記憶を掘ってみたら、なんか違ってたもよう。  
これ、原作は「聊斎志異」なのね。 部屋の本棚の奥の奥の、中国の奥地みたいに届かないどこかにいるはず。

冒頭、白い蜘蛛の巣が闇夜に怪しく瞬き、中国の人里離れた山奥になんとか砦ていうのがあって、むかし何があったのか寂れて廃れてぼろぼろの一角に母親と独り身の息子が暮らしていて、息子は町に出てバラックの一角で肖像画を描いて生計を立てている。ある日少し身なりのよいお武家さんみたいな男が訪ねて絵を描いてくれと言って、はいはいと受けて、そのあたりから砦の周囲も含めてざわざわ騒がしくなっていく。 砦では突然よぼよぼの老婆とものすごくきりっとした若い娘が隣の廃屋に住み始めて、母親は嫁に貰えとせっつくのだがあっさり断られて、でもそんなことでくよくよしていられないくらい周囲は更にざわざわしてくる。

やがてその娘は国の偉いとこのお嬢さまで、官僚の間の覇権争いで父親は殺されて、追手から逃れてきたようなのだが、砦のまわりにも不穏な影が蠢きはじめて、娘のまわりにも味方がぽつぽつ現れ、肖像画描きからすればそんなの勝手にやってろ、なのだがなんとなくお嬢さまのほうについて、でも武力のほうは全くだめなので知恵(でもたいしたことないのがなんとも...)をだすことにして、砦を囲んだ敵方とぼろ屋の扉・壁の裏表、藪、獣道、などなどを潜ったり隠れたり襲ったりの攻防が繰り返されていく。

70年代の中国のこういう映画にある至近距離、血まみれの痛そうなぼこぼこの殴り合い肉弾戦にはならずに、カメラは相当な遠くでじたばたしている人影とランドスケープ - 蜘蛛の巣にひっかかる虫みたいなシルエットをとらえようとする。 闇夜の雨風、虫や鳥のざわめき、夕刻の光の層、その縞々と、そこに渦を巻く殺気に妖気に邪気に侠気 - いろんな気配と、それらのコントラストを切り裂いてカンガルーみたいにぴょんぴょんものすごいスピードで跳ねまわって敵を倒していく剣客たちのシルエット - 全体としてとっても美しい円舞になる。

終盤の引っぱりかたもすごくて、森の奥からジェダイのような僧侶たちが現れたあたりから敵味方も善悪も超えた彼岸での延々終わらない闘いになだれこんで最後には空(くう)が見えてしまうかんじ。- “A Touch of Zen”ていうのはそういうことね。
銃や矢ではなく、自身の体を飛び道具にして闘う反重力/無重力の世界、そこにおいて権力だの妄執だのなんて一体なんになるというのか、とか。

あのお嬢様の目、すごいねえ。
1月の終わりにユーロスペースで公開されるらしいが、”Dragon Inn”、見たくてもその頃はたぶん …

12.07.2016

[film] The Childhood of a Leader (2015)

27日、日曜日の昼間、日比谷でみました。 『シークレット・オブ・モンスター』

まずはなんといっても、冒頭から炸裂するScott Walkerのスコア - がじがじのゴスオケがとんでもなくすごいので、まずはそれだけでも。 日比谷のしょぼい設備でもあんなだったので、鳴りのいいとこで浴びたら鼻血に耳血に。

1919年、ヴェルサイユ条約締結のためパリ郊外の古屋敷に滞在しているアメリカ人官僚の一家がいて、不在がちで厳格な父(Liam Cunningham)と、数か国語を話せる少し謎めいた母(Bérénice Bejo)と、小学生低学年くらいの男の子Prescott(Tom Sweet)がいる。 最初のほう、教会の仮装劇のあとに何が気にくわなかったのか暗がりから関係者たちに石を投げて捕まって、こいつは問題児なんだな、ということがわかって、その後、Tantrum(癇癪) 1 〜 3までの各章で、主に彼の母、メイド(ばあや)、フランス語の家庭教師(若い娘)と彼との間の不機嫌や諍いを経て癇癪が弾けるさまが並べられていく。

基本は子供のおむずかりなので、なんか気に食わなかったんだろうな、くらいで、映画を見る限りでは明確な理由づけも説明もされるわけではなくて、それの後処理についてもこっぴどく叱って矯正した、みたいなところもないので、放置された癇癪玉が閉ざされた環境のなかで膨れあがっていったんだろうな、くらいのことはわかる。

Prescottの挙動、目つき、言葉遣い、などなどから彼の内面にある邪悪さ、不寛容、頑固さ、強靭さ、等々はうかがえるものの、周囲の大人たちもそれなりに腐れているので、それらがカルト・オカルトを孕む映画っぽい惨劇に転がっていくことはなくて、だからいっつも突っこんでわるいけど邦題の『シークレット・オブ・モンスター』の「シークレット」が明らかになるわけではないし「モンスター」なんて欠片も出てこない。 後に独裁者になってしまうかもしれない男の子供時代はこうでした、というだけで、でも、だからこそいろんな想像が広がっていく。 彼はあの後、父と母をどうしたのか、アメリカ人という箍をどうしたのか、とか。

いろいろ不安定な戦時下、不機嫌を増幅させていくガキ、というと「ブリキの太鼓」(1979) があったりしたが、あれは大人になることを拒否した子供の話で、こっちは子供であることを拒否した子供の話、という簡単な区分けは、例えばできるのかもしれない。 あるいは成長を歪めてしまう戦争という装置とか。 いや、でも、そんな単純なもんでもないでしょ、あのぐずぐずした天気と荒んだ土地とあの古屋敷があって、とぐろを巻いた親たちがいて、頭の奥であんな音が鳴っていたら、大人だって子供だって十分蒸されてできあがってしまうのではないか、のような描き方をしているところがよいの。

で、最後に出てきたあのハゲが”Leader”なの?  東條英機かとおもった。

とにかく音楽が。

あーあ。SWANS …

12.06.2016

[film] Louder Than Bombs (2015)

11月26日、土曜日の昼、渋谷でみました。 『母の残像』
“Louder Than Bombs”ていうとThe Smithsの87年のコンピレーションなんだけど。

冒頭、Jonah (Jesse Eisenberg)は子供が産まれる妻の病院にいて、外に食べ物を買いに出ようとしたところで昔の彼女に出会って、彼女は同じ病院にいる母を見舞ったところでめそめそしていて、あなたもなのね...  ってJonahのことを慰めてハグしてくれて、Jonahはとっても気まずくなる。
そういう小さくて微妙な気まずさが、ひとつの家族のなかでそこらじゅうに転がっていてなんだかとっても愛おしくなるの。

Jonahの母親Isabelle(Isabelle Huppert)は戦地に赴く報道写真家で3年前、地元に戻っていたときに自動車事故で亡くなってしまう。 彼女の回顧展の準備で、遺された作品の整理(+育児でやかましい妻からの逃避)のために実家に戻ってきたJonah - 大学で社会学の教授になることが決まっている - の彷徨いと、思春期なのか少しぼんやりして危なっかしくなっている次男のConrad (Devin Druid)と、そんな彼をどう扱ったらよいのかわからずおろおろ見守っている元役者の父(Gabriel Byrne)のすれ違って気まずさだらけの日々 - その中心にはまだきちんと受けいれることのできない母の死が ...  を描く。

そして母の死についても事故だったのか自殺だったのか、自殺を仄めかす視線で彼女の追悼記事を書こうとしている同業者 - あとで彼女と関係があったことがわかる - とのやりとりとか、そんなこと何も知らないConradに与える影響はどうなるんだとか、そもそもなんでいなくなっちゃったんだよう、とか、ぜーんぶ彼女のせいにする。 彼女が戦場の取材のとき至近距離で炸裂した爆弾のように暴力的に鳴り止まない耳鳴りのようにずっとわんわん襲ってきて止まない。

ただ全体としてはみんなどん底で苦しんで救いを求める家族も修羅場のぐさぐさ大喧嘩もなくて、地雷原をこわごわ避けながら互いにそうっと近寄ったり遠ざかったり、ちぐはぐで噛みあわない家族を遠くから透明な目線(幽霊?)で眺めているかんじ。 これをさらさら緊迫したドラマとして成立させている俳優さんの演技がすばらしい。 でも地雷は。

Conradがパーティで酔っ払った女の子を夜明けまで歩いて送っていくときのどうしようもない/どうすることもできない底抜け途方に暮れたかんじがたまらない。 ここの数分間だけでとてつもない青春ドラマになっている。
これと”Every Thing Will Be Fine”と”The Childhood of a Leader”で11月に見たお小便3連作(最後のはおねしょだけど)になるの。 どれも意味ある放尿。

そしてIsabelle Huppert。 口をひんまげてつんとした彼女の顔、好きだなあ、て改めて思った。

ノルウェイ映画なのね。 ロケ地はスタテンらしいけど。

12.04.2016

[film] Fantastic Beasts and Where to Find Them (2016)

11月23日の夕方、公開初日に新宿でみました。 どうせだからIMAXの3Dで。

うん、おもしろかったよ。
変な動物たちがうじゃうじゃ湧いてでて20年代のマンハッタン中が大騒ぎになるの。それだけなの。

いちおう大騒ぎの背景には、魔法動物学者のNewt Scamander (Eddie Redmayne) - ついScavengerって言ってしまう - の運ぶトランクケースから逃げた魔法動物たちとそれを追っかける地元の魔法使いたち + 人間1匹(人間は”No-Maj”ていうの )のお話と同時期に行方不明になった指名手配中のヨーロッパの魔法使いの話と、そのふたつの狭間で人間との間にこれ以上厄介ごとを持ち込みたくないNYの魔法使い連合 vs. 魔法使いまっぴらごめんの人間側の過激派組織の話が三つ巴でごちゃごちゃと。

いろんな人種の人たちがいろんなところからやってきて、いろんな歴史とか宗教とか念とか声とかが吹き溜まって唸りをあげるNY - マンハッタンという場所、しかもその狂い咲いた20年代に、魔法動物(Fantastic Beasts)の多様性とか、人種問題とはちょっと性質の異なるヒトと魔法使いの確執を絡めるのは、ホグワーツ魔法学校という人里離れたひとつの場所 - 閉ざされた学校組織での愛と憎しみと抗争の起源と歴史と子供の成長を掘って掘って掘り下げたハリポタ神話の後には丁度よいのかもしれない、とか。 こっちはゲゲゲの鬼太郎みたいに変な妖怪を探して捕まえて袋につっこむだけだから。

トランクの奥に魔法動物のサファリパークみたいなのがひろがっている、普通のビルの奥に魔法使いの要塞がひろがっている、ていうのはNYではいかにもありそうで、この魔法の箍が外れてこいつらみんなが幽霊に変態して暴れ始めたのが”Ghostbusters”に出てくる奴らね。これから残りの4部をかけて80年代まで転がっていってほしいところ。  あと、同じく80年代に現れて町を大混乱に陥れたGremlinもこいつらの仲間でしょ? (そういえば日本の80年代には「帝都物語」ていうのもあったねえ)

たぶんもう少し後の世になると、この作品が2016年の世界に放たれた「意味」はくっきり明らかになるのだと思うが、いまはあんましそういうのは考えたくなくて、あのカモノハシみたいなやつかわいー、とか、あのふんころがしでっかいー、とか、わーわー騒いで楽しんでいたいの。

とにかくどうせ最後には記憶を消して壊れたものもぜんぶ戻してなかったことにできちゃうんだから、こんな素敵なことってないわ。 ああ魔法使いさん、今年起こった嫌なことぜんぶなかったことにして …

人間代表として出ていたKowalski役のDan Foglerさんはとってもがんばっていてよかったが、たまにああこれがJohn Candyさんだったらどんなに … とか思ってしまうのだった。

あと、最後の魔法使いの人相が変わるとこはなんか芸がなさすぎるわ。 ただのおなじ犬顔じゃん。性別くらい変えてみろって。

12.03.2016

[film] Julieta (2016)

11月23日のごぜん、新宿でみました。

もうそんなに若くないけど美人のジュリエッタ(Emma Suárez)は住んでいるアパートで片付けをしていて、恋人のロレンソ(Darío Grandinetti)のいるリスボンに引っ越すらしい。 片付け荷物のなかに気になる封筒もあったりするのだが、再出発なんだから、ていうかんじに前を向いていたら町で娘の幼馴染だった女性とすれ違い、彼女から娘のアンティアを偶然スイスで見かけた、と言われて動揺してその晩、引越し片付けで処分しかけていたのを掘り起こしてしまう(そんなことしちゃぜったいだめよね)。

次に彼女がしたのはロレンソにはごめんあたしやっぱりリスボン行かない、て告げて、以前娘と暮していたアパートに同じ部屋は無理だったけど戻って、つまり娘探しを、娘となんとしても再会するんだと覚悟を固めて、でもそれって振り返らないことにしていた自分の過去を掘り返すこととおんなじで、ここから若い頃のジュリエッタ(Adriana Ugarte)のお話になる。

80年代、古典の代用教員だった彼女は旅先に向かう夜行電車で真向いに座った男がちょっと気味悪かったので食堂車のほうに行ったら漁師のショアン(Daniel Grao)と出会って、そしたら電車が急停車して、やな予感がしたら向かいの男が自殺してしまったことがわかって怖くなり混乱と衝動に任せてショアンと寝てしまう。
ショアンは結婚していたがジュリエッタが彼の海辺の家を訪ねてみると丁度亡くなっていて、入れ替わるように娘のアンティアができて家族3人で暮らすようになる。

で、娘がサマーキャンプでいない間にショアンとちょっとした諍いがあって、その直後にぷいっと漁にでた彼に被さるように嵐が襲って彼は亡くなり、衝撃を受けて動揺した彼女はアンティアに彼の死をきちんと告げることができず、けっか娘は母に不信感を抱いたまま親友と旅にでて、そのままどこかの教団での合宿生活に入り、母は娘を取り戻そうと手を尽くして手紙をいっぱい書いて、誕生日にはケーキを用意していつまでも待ったのだが会えなくて、そのまま12年が過ぎて、現在のジュリエッタに戻る。

誰にも必ず起こりうる死別や離別、他者からすればそれ自体はそんなに大したことでもなさそうなことを、でもそれでも痛みを伴って引き離され去勢されてしまうことの不可思議や驚異を皮膚のレベルからラテンのマチズモにエロに母性、へんてこリアリズムまで駆使して情念たっぷりにオーケストレートする、ていうのがアルモドバル映画の特性のひとつだと思っていて、それはたまに主人公の嗜好とか臭みでついていけなかったりもするのだが、この作品は原作がカナダのアリス・マンローというせいもあるのか、とてもさらさらするりと入ってくるものだった。

電車の男の自殺も、夫が海に出ていって帰らなくなったことも、娘がどこかに出ていって戻らないことも、自分の周りから人がいなくなってしまうのはぜんぶジュリエッタのせい、と言おうと思えば言える、けどそんなのは... ていうふつうの物言いはなんの慰めにもならなくて、じゃあなんかを信じて祈るか、てなことも言えない、そんなの正解とか落としどころなんてないのよ、ていう、これもまたアルモドバル映画を貫いているまともさ、といおう。

12.02.2016

[film] The Girl on the Train (2016)

11月20日、日曜日の夕方、日比谷でみました。

Rachel(Emily Blunt)はMetro-North(鉄道)のハドソンラインでマンハッタンに通勤していて電車の窓から見える幸せそうなカップルを見てその幸せっぷりを妄想したりするのが日課で、でもある日いつものように覗いてみたら彼女が別の男といちゃついていて、あら何かしら誰かしらのパニックになって、妄想は更にとんでもなく膨らんで、電車を降りて問い詰めにいったら途中で記憶をうしなって倒れていて、しばらくしたらその彼女の遺体が森の奥で見つかって警察も来るようになって、いったいどういうことなのか、になる。

単調な通勤の往ったり還ったり、そこの窓から見えるいつもと同じはずの光景の線上でいろんなことが起こってとにかく大変なんだったら。
レールの上を走る電車に幽閉されてもがくRachel、奔放で素敵にみえるMegan(Haley Bennett) - Rachelが見ていたのは彼女、そこから数軒先に住んで落ち着いているマダムのAnna(Rebecca Ferguson)、この3人の女性のオン・レール、オフ・レールの関係、電車のなかから見えるもの見えないもの、いろいろあって、それらの線の絡み具合が見えてきたと思ったらその中心部で記憶が白濁してしまってそれってだれかのせいなのかあたしが悪いのか、どれもありえそうだからどうしていいかわからない。

で、彼女たちの周りに現れる男たちも3人、どいつもこいつもそれなりに怪しいのだが、でも”Gone Girl” (2014)みたいなケースだってあるわけだしな。 ここにあるのは単なる謎解きの面白さ、というより謎が謎として固められていった過程も含めて見守って納得して、最後には戦慄する、ていう。 ものすごい怨念とか狂気とか恨み妬みが蠢いていたわけではなかった、穏やかなハドソン川の脇を走る通勤電車に乗っていただけで済んだかもしれなかったこと、じゃないの? って。

そういう動機とか闇のなかで転がっていく妄執は確かにおっかないのだが、でもあの決着のつけかたを見るとそんなのぜんぶふっとんでしまう。 あんな痛いことやっちゃいけないわ。

Emily Bluntさんて、いろんな情念が凝り固まりすぎて自分でわけわかんなくってこんがらがって放心、の表情がほんとにうまくてこわくて。この作品の彼女はそのモードが全開なの。

日本でおなじことやろうとしたらやっぱり団地妻系になっちゃうのかしら。ニュータウンかしら。

しかし今年のハドソン川、映画とは言え、まんなかには飛行機おちてくるし、川べりではこんな事件起こるし、いいかげんにしてほしい、って川は思っている。

12.01.2016

[film] Le cancre (2016)

もう12月かよ。 ありえないわよ。
11月19日の夕方、アンスティチュのディアゴナル特集でみました。 『劣等生』

ヴェッキアリのこともディアゴナルのこともよく知らなくて、お勉強として見る。
上映前に監督が出てきて「映画監督の仕事は夢を具体化することです」なんてさらりと言う。

筋はシンプルで、南仏の一軒家で老いてだらだらしている - でも十分なお金持ちらしい - ロドルフ(監督本人)がいて、その息子ロランも特に目的ももたずにてきとーに生きていて、父の健康がよくないようなので面倒を見たりしているもののふたりの間にはわだかまりのようなものがあって、距離を置いてて、どっちにしてもだらだら無為に、ろくでなしとして生きている。

過去にいろいろあったらしい父のところにはいろんな御婦人がたがひとりひとり訪ねてきて、過去にロドルフとの間にあったいろんなことや現在のことを一方的にまくしたてたり怒ったり泣いたり、いったいどうしてほしいのか、というかんじでやってくる。 インタラクティブな会話にはなっていなくて、だから、ひょっとしたらロドルフの妄想なのかもしれないし、死んでしまう前の走馬灯なのかもしれないが、とにかくいろんな女に手を出していったのねこのじじいは、ていうことはわかる。

ロドルフがいつもその消息を気にしているのは初恋のひと、すべての女達の出発点としてあったマルグリット(カトリーヌ・ドヌーヴ)のことで、彼女の甥であるロランに居場所を教えろ、て訴えていて、そんなに想っているのになんで一緒にならなかったのか、とか、それなのになんでいろんな女と付きあっては別れを繰り返したのか、とか聞きたいことはいろいろ出てきて、そういうのを男のロマンとか言うのはただのバカみたいで、そのへんを単に「劣等生」と呼びたかったのかもしれない、とか。 でも「劣等」って、なにとなにを比べているのかしら、とか。

そして終わりのほうでようやく登場するマルグリット = カトリーヌ・ドヌーヴは夢の人、としか言いようがない貫禄で薄青緑色のすてきな服でゆらーりとロランと話をして、果たしてロドルフと彼女は話をしたのかできたのか、これもまた夢のようでなにひとつ確かなかんじはしなくて、でもあの終わり方だとよかったねえ、でよかったのか、ひょっとしたらロランていうのはロドルフの頭のなかにいる仮想の分身みたいなもんで、だから「劣等生」なのかも、とか、ぜんぶまるごと死にかけた老人の白日夢なのかも、とかいくらでも広がっていって、その広がり具合がとても心地よくラストの海に溶けていく。
最後に遠くで鳴っている(ように感じられる)のは"Love, Reign o'er Me”(老人版)か。

監督はこれは自伝ではないと言い、でも会社のところとマルグリットが読む手紙は14歳のときにほんとに書いたものの抜粋だって。かっこいいよねえじいさん。
あと、ジャームッシュの”Broken Flowers” (2005)とはちょっと違う、と。

上映後のトークもおもしろかったが、とにかく彼とフランソワーズ・ルブランさんのふたりがあきれるくらいおしゃれでさー。 特にルブランさんの緑のスカーフ。