9.29.2014

[log] September 29 2014

San Franciscoに着きました。 けどなんもすることがない。 San Franciscoなのに。 ちぇ。

ホテルの窓からは広がる浜辺と空港がようく見渡せる。
飛行機が行ったり来たりするのを見るのは飽きないけど、本屋とかレコ屋の棚のほうが飽きないの。

今日はNational Coffee Dayなのでホテルのロビーのスタバでコーヒー買った。
Tartine BakeryではHuckleberry祭りだというのにどうすることもできないこの悔しさ。
無理にでも朝早く起きて電車に乗るべきだったか。

昨晩、20:30くらいに夕食が終ったのでダウンタウンに行ってみることにした。
ホテルからの定期シャトルで空港に行って、そこからBARTで40分くらい。Powellの駅からタクシーで、と思ったけどつかまらないのでCity Lightsまでそのまま歩いた。
NY Timesの日曜版が置いてあったので嬉しかった(T Magazineの日だったの。あとSF/ARTSていう月刊の冊子が入っていた)。

約1時間だらだら過ごして、またBARTに乗ってシャトルに乗って、0:30くらいに戻ってきた。
戻ってこれるんだね、というのをとりあえず確認。 

そんな、NYの新聞の日曜版を買いに町に出たSFの日曜の晩。

では、そろそろ出るかー。

9.28.2014

[log] September 28 2014

あきれる、というよか何が起こっているのかまったくわからないまま9月がどこかに去っていこうとしていて、とりあえずテーブルをばん! とか叩いて抗議してみたい今日この頃なのだが、日曜の晩だというのにここは羽田で、これからSan Franciscoに飛ぼうとしている。
ますます9月がどこかに飛んでいってしまうよう。飛ばされているのはこっちなわけだが。

SFはだいすきな街なので行くのはよいのだが、今週はどっかのIT企業がでかいイベントをやるとかでホテルがどこもぱんぱん、ようやく取れたのは空港前のしょぼいとこでそれでも一泊軽く$400を超える。 ばからしいったらないの。

それなら無理してSFてやることないのに、東側のNYでやれば、NYFFだって、もう終っちゃったけどPS1でArt Book Fairだって、もう終わっちゃったけどBrooklyn FleaでRecord Fairだってあったのにさ。 て、だれに訴えてやるべきなのか。

だからあんま乗れなくて、ここんとこさえてない。 前の旅から戻った翌日の土曜日は"Model Shop"だけでもと日仏のジャック・ドゥミに突撃するもハエみたいにはたき落とされ、翌日曜日はずっとお仕事で夕方に一本(日仏じゃない)行けただけ、お彼岸の日は最終日のヴァロットン行っただけでなんか疲れてしまい、昨日の土曜日は今年になって最初のお片づけをやってみようと床の上のいろんなのに取り組んでみたものの二つの山をひとつの山とひとつのゴミ山に分けたあたり、約1時間で挫折、ご機嫌ななめになったところで「ソニはご機嫌ななめ」をみた。

今朝はiPhone6がきた、というので取りにいって、時間があいたのでアライグマ映画をもう一回みて元気を貰い、でも昼寝して支度のために起きたらうーどんよりめんどくさい、になったのだった。

ね、なんかさえてないよね。

今度のは前回以上のがちがち団体行動でしかもホテルがあんな場所なので、なにをどうすることもできやしない。 せいぜい夜遅くにBARTで町に出て、深夜0時までやってるCity Lightでうろうろして夜中に戻ってくる、そんなかんじかなあ。 ああかみさま。

では。 よい9月の終りとなりますようにー。

9.27.2014

[film] La Grande Bellezza (2013)

7日の日曜日、「暖春」のあとにそのまま横ずれしてみました。「グレート・ビューティー/追憶のローマ」

冒頭で日本人観光客のおじさんがローマ観光中にぽっくり死んじゃって、以降、いろんな死が。

主人公のジェップは65歳で、若い頃に書いた小説が評価されただけ、それ以降小説は書けなくなってジャーナリストをしながらセレブ相手にパーティ三昧の無為な日々を過ごしていて、死からもそんなに遠くなくなった彼に去来するいろんな想いがローマの町並み、昼と夜の光、自身の過去と現在のなか、だんだらに描かれる。 それだけなの。 冒頭にセリーヌの引用が出て、フローベールも出てくる。

そんなら書けよ、おっさん、とか。

Paolo Sorrentinoの前作 “This Must Be the Place” (2011)も、人生のピークを既に過ぎてアイルランドでぼんやり暮らしている男(Sean Penn)がアメリカに渡って父と「ホーム」を探しあてる、そんなようなお話だった。 こんどのは父も「ホーム」も既に手元・地元ローマにあって、そんな彼が見い出すなにかは、かつての恋人が遺した日記とか、親友の娘の踊り子との出会いとか、よぼよぼのシスターといった、既に亡くなったり朽ちかけているもの、そしてそれらを包みこむ巨大な廃墟であるローマを流れる時間のなかにあって、それをLa Grande Bellezza - The Great Beauty - とよぶ。

まあそうなんでしょうね、としか言いようがなくて、ローマはそういう場所なんだろうな、というのもわかるのだが、それがなんであのおやじなのか、というあたりがあんまよくわからない。あのシスターであってもよいのではないか、とか。 いや主人公はローマという都市そのもので彼らはそこに暮らす鳥なのです、というのならわかるし、エンドロールの河のショットは本当にすばらしくて、あれだけあればいい、というかんじにもなったので、よいか。

監督の若さもあるのか、なんか甘くて野暮なのよね。 ヴィスコンティやアントニオーニだったら”Great Beauty”なんてこと絶対言わなかったと思うし。

あとこれは映画とは関係ないけど、見にきた文化村おばさんの横でぐーぐー寝ているおっさん衆とか、HPの「著名人」編集者のクソみたいなコメントを見ていると、こういうのを宣伝に使えると思っている時点で、日本て腐敗を通り越して終ってるとおもう。

9.26.2014

[log] Londonそのた - Sept 2014

英国で買ったものとかー。

Rough Trade Eastで、"Soul Mining"の箱を買った以外だと、Robyn Hitchcock先生の新譜(プロデュースはJoe Boyd。 すごくよい)とか、Shirley Collinsの復刻された7inch2枚、とか、Arcade Fireとなんとかのコラボ12inchとか。 積んであったSchellacの新譜とKaren Oの新譜は日本で買えばいいや、と。

Foylesでは、(決戦前夜だった)スコットランドがんばれ、の願いをこめて、Postcard Recordsの歴史を関係者に聞き書きして纏めた"Simply Thrilled: The Preposterous Story of Postcard"とか。 まだぴちぴちのThe Go-Betweensとか高校生にしか見えないRoddy Frameの写真とかが載ってる。
あとは、料理本コーナーで、蜂蜜を使ったレシピを集めた本があって、涎が止まらなくなってしまったので買った。

http://hattieellis.com/books/spoonfuls-of-honey/

「涎が止まらなくなったので買う」はもうやめにしたい。 犬じゃないんだから。

英国の食べものはぜんぜん。 Fish & Chipsを2回。鱈と大鮃。 それだけだったわ。


13日の晩、MexicoからLondonへの機内でぼんやりと見た1本。

Belle (2013)

Fox Searchlightで宣伝していたのでアメリカ映画だと思っていたが、英国映画だったのね。

英国の主席裁判官であるTom WilkinsonとEmily Watsonの夫婦のとこに連れてこられた奴隷との混血の娘 - Dido Elizabeth Belle (Gugu Mbatha-Raw)が、彼らの間ですくすくと利発な娘に成長し、やがて当時の英国の奴隷制度を変えるようになる、ていう実話を元にした愛と革命の大河ドラマで、英国貴族絵巻みたいなのが好きなひとにはたまんないかも。  もう少しおもしろおかしく描けたかもしれないのに、そうならなかった理由のひとつには実話の持つ重さがあったのだとおもう、この場合は。

Tom WilkinsonとEmily Watsonのふたりって、とっても英国夫婦しているねえ。

飛行機の画面が、壊れていたのか変に暗くて、よくわかんないとこもあったのできれいな画面でできればもう一度みたい。

18日の晩、LondonからTokyoへの機内で見たやつ。

Grace of Monaco (2014)

邦題は「最終兵器グレース」でよいのに。
冒頭に”fictional account based on a true event" て出る。 完全再現てわけでもない、と。

Nicole KidmanがGrace Kellyで、結婚後、女優も引退して子供もふたりいて、夫(モナコ国王 - Tim Roth)との間は冷えてて、モナコに対する課税措置を敷いて従わない場合は派兵するから、てねじこんでくるフランスに虐められて、夫婦仲どころか国ごとぶっ壊されそうでやばい。
そんななか、がんばるのよグレースあなたは女優なのよ、て自らを奮い立たせたグレースはいちかばちかの大舞台を仕掛けるの。

わるくないけど、ゆいいつの問題は、ニコールはニコールで、グレースじゃない、ってことだな。
ニコールが本気だして鼻を鳴らせば鳴らすほど、ニコールとしてのオーラが噴きあがるばかりで、グレースはどっかに行ってしまう。ように見えてならなくて、それでも誰も困惑しないの。

ニコールはあのスピーチを持って国連行くべきだわ。今でも十分通用するメッセージだし。

これを見てしまうと、もう機内映画で見たいのはなくなってしまい、しょうがないので"X-Men: Days of Future Past”をもういっかい。  最後に戻ったあそこはいつ、なんで?

こんなもんかなあ。まだあったようなー。

NYFF始まっちゃったねえ...

[film] 暖春 (1965)

まだ9月のはじめのー。
7日日曜の午前、なんだかどうもはまってしまったらしい中村登特集で、みました。

原作は里見弴と小津安二郎、臭いたつようなにっぽんトラッドじじいHood、ということで。
どんな悪いことしても無邪気な顔していると「めっ」とかされるだけで許されてしまう幸せな人たち。

京都で小料理屋を営む母(森光子)ひとり、娘(岩下志麻)ひとりがふたり暮らしで、昔の母の友人だかなんだかのおやじ(山形勲)が訪ねてきて、まとわりついてくる近所の呉服屋のぼんぼん(長門裕之)がうざかった岩下志麻は、おじさん東京に連れてって、ておねだりして東京にやってくる。

で、東京に出た彼女のあれこれとかほんとの父親はだれなのか問題(また3人...)とか。
もうひとりの父の友人(有島一郎)の部下の川崎敬三とバーで酔っ払ってはしゃぎまくって、彼のことをちょっと好きになったので電話してみたら女性が出たのでがっかりしたり、同窓生(桑野みゆき)の住む団地に行ったら旦那が帰ってきて目のやり場に困って帰ることにしたり、別の同窓生(倍賞千恵子)はあぶない方に行っていたり、みんないろいろあるのにあたしだけ... になって、でも最後は結局京都に長門裕之と一緒になっちゃえば、てなかんじで丸めちゃうの。 (だれだこんなストーリーにしたの)

いろいろあったけど、父親が誰だかよくわかんなくても結婚して家庭はいりゃそれでいいのか?
みんなが幸せならそれでいいんだよ、ていうのと、とにかく岩下志麻がとーんでもなくキュートだから許す、ていうのと。 あんな娘に「しぇー」とかやられてもどう反応したらよいのやら。

お母さんがなあ、森光子は確かにお母さんなんだけど、男3人>を虜にした元舞妓には見えないんだよねえ。 そうか連中はこの母性にやられたのか、とか思ったところでしらけるだけだし。

でもみんな幸せならいいの、てことにするんだね。 あくまで。
 

9.23.2014

[film] 結婚式・結婚式 (1963)

6日、「救いの接吻」のあとの夕方、シネマヴェーラの中村登特集で見ました。
家族の歴史、みたいのばっかし続くのはなんで?

伊志井寛の喜寿のお祝いで子供たちが集まってきてお祝いをするのだが、いろいろ喧嘩したり泣いたり笑ったりしながら、お祝いついでに結婚式しちゃえ、てなるファミリードラマなの。

とにかく出てくる人達がやたら豪華でびっくら。

妻が田中絹代、その子供たちときたら長男が増田順司(その妻は丹阿弥谷津子)、次男が佐田啓二、長女が岡田茉莉子(その夫は田村高廣)、三男が川津祐介、次女が榊ひろみ、四男が山本圭。
で、三男の恋人が岩下志麻で、彼女を育てた叔父伯母が東野英治郎と沢村貞子で、遺影として出てくる彼女の父は笠智衆なんだよ。

こんな大家族なんだからお父さんがいちばんえらいんだし、みんなもそれはわかってるでしょ、なのだが、わかってくれるわけなくて、当然のように子供たちは反撥するし、父は癇癪おこすし、母は拗ねてむくれるし。 でもお父さんはいちばんえらいので「しょうがないか..」て最後は負けるの。 負けてばかりのかわいそうなお父さん。

ほんとは結婚式がみっつ、だから「結婚式・結婚式・結婚式」のはずで、三男が岩下志麻とくっついて、次女がアメリカ人とくっついて、親に認められないまま家をでた岡田茉莉子はちゃんと式あげてないんだからやっとけ、と。 そりゃおめでたいけど、そんなんでよいのか。

家族の姿も結婚のありようも今とは随分違って見える昭和の風景で、それはそれでよいのだが、今の与党がわーわー求めてくるのってこんな昭和のほうなんだろうねえ、とか。(ほんとうざいわ)

カメラは厚田雄春で、屋内での引き技の切れがすごくかっこいいのだが、いっこだけしんみり寄っていくところがあって、しびれた。

[film] Les baisers de secours (1988)

6日の昼間に見ました。 日仏で始まったPhilippe Garrel特集の最初の。「救いの接吻」。
モノクロ、英語字幕。 英語題は”Emergency Kisses”。

映画監督のマチュー(Philippe Garrel)が妻のジャンヌ(Brigitte Sy)との関係を題材に映画を撮ろうとしているのだが、彼は妻役に別の女優をキャスティングしていて、ここは自分が演じて当然と思っているジャンヌは、これを「裏切り」として騒いで出ていってしまう。

ジャンヌを演じるBrigitte SyはPhilippe Garrelの当時の妻で、当時の(あ、いまもか)息子 - まだ三輪車に乗るハナ垂れ - をLouis Garrel が、監督の父を実の父のMaurice Garrelが演じていて、要するにほんもんの家族が(ほんとうにあったかもしれない)家族の危機の物語を演じている。

“Stories We Tell”を見た後だと、ちょっと混乱したりもするが、こっちの家族が語る言葉は、ダイアローグ担当のMarc Cholodenkoの作った台詞なので、彼らの言葉も演技も現実を反映したものではないはずなのだが画面上に滲んでくる家族同士の緊張感と、その背後にあるに違いない(あってほしい)親密さにはどきどきはらはらする。 おそらくどちらも本当で、でもどうすることもできない。

それにしても、モノクロフィルムの黒、そこにちりちりと入ってくる傷の美しいこと。
このために、こういうのを映し出すためにフィルムはあって、これを見るために暗闇に潜るんだわ、と噛みしめた。

あとは、これが映画デビューになったというLouis Garrelと、もういなくなってしまったMaurice Garrelと。 そのLouis Garrelを真ん中に置いて、未だに愛の難しさ、愛のもたらす傷、時間が作りだす痕、についての映画を撮り続けているPhilippe Garrelと。

[film] Stories We Tell (2012)

31日の日曜日の午後、渋谷でみました。「物語る私たち」
一度メルボルンでほんの少しの差でミスして、ずっと見たかったやつ。

Sarah Polleyによるドキュメンタリー。
既に亡くなった自分のママについて、ママが生前どんなひとだったのかをパパとか兄姉、 父の異なる兄弟にも聞いて繋いでいって、やがて浮かびあがる自分のこと家族のこと。

ママはとっても陽気な楽しいお転婆さんで、誰とでも仲良くなれて、でも寂しがりでひとりではいられなくて、云々。

たぶん時系列としては逆で、自分の出生についてのある発見があって、そこから遡って全体の構成を作っていったのだと思う。 メインはパパの昔語りだが、その原稿は準備されているし、パパが読みあげるその語り口や語りの間について、監督である娘から注文が入ったりもする。 ひとつの事実を追跡・究明していく形のドキュメンタリーではなく、既に判明している事実から撚り合わされ、練りあげられたお話し(一部本人ではない俳優さんが演じたり)。 わたしのママ、の話ではなく、家族ひとりひとりにとっての、複数のママの物語 (Stories. We. Tell)。

だからといってドキュメンタリーで語られるべき「真実」が歪められるようなことは勿論なく、「ママったら... 」みたいにあきれかえる事態が露わになるわけでもなく、逆に物語は家族の沢山の笑顔と泣き顔と真顔に支えられてよりぶっとく、強く、感動的なものになった。  更にそれはどこの誰にとってもありそうな「ママ」の思い出としての強さと輝きを湛えている。

泣いていいのやら笑っていいのやら。 ママはずっと笑っていたから、笑っていいのよ、と言うだろうか。
話の筋だけ聞けばなんかひでえ話、とも思うのだが、ほのぼの笑えてしまう不思議。(特に2番目に疑われた彼とか... )

そしてそれが、アルツハイマーで向こう側へ行ってしまった老妻を描いた "Away from Her" (2006)、自分の意思と決意で仲良しSeth Rogenの向こう側へ行くことにする女性を描いた"Take This Waltz" (2011)、これらを監督したSarah Polleyの手によって作られた、というのはなんというか別の感動をもたらすの。 今後のはとっくに向こう側に行ってしまったママがいきなりなんか言ってくるはなし。  どこまで一貫しているのよ、ていうのと、それって血なのかしら、とか。

それにしても、素材は昔に撮られた8mmと周辺家族・関係者へのインタビューだけ、これだけでよくあんなにも面白く、さらっとしたもの作れたもんだわ。 結構笑えるし。 
デプレシャンとかの家族ドラマになってもおかしくないくらい(というのは誉めすぎだろうか)。

あと、これって男の監督だったらできないだろうなー、とかなんとなく。

9.21.2014

[film] Into the Storm (2014)

30日晩、京橋のあとに六本木でみました。 いちにち3本はしんどいのでやなのだが、これならなんも考えなくてよいかも、とか。

派手でばりばりいろんなのをぶっ壊す竜巻とか噴火とかは花火みたいにすげえー、で終っちゃうのだが、実際には災害で大変な思いをしたひとも大勢いるのだからちょっと控えめに、でもやっぱし映像として縦横ぶちぬく噴火とか津波とかすごいもんはすごいし、竜巻ときたらそれに加えて「巻き」が入るんだからとんでもねえよな、ておもうの。

いちおう、パパが高校の教頭しているとこの兄弟が竜巻から逃げる一般市民代表で、竜巻ハンター側には執念と信念で追っかける竜巻専門のおじさんとおうちに小さい娘がいる気象学者(予測担当)のおばさんがいて、教頭んちのお兄ちゃんが廃工場の穴に嵌って行方不明になって、そこに都合よく竜巻が向かっていくもんだからどうする、どうなる、なの。

ドラマとしてもそこそこちゃんとしててみんな最後まで死にものぐるいでがんばるとこがよい。このへん、こないだの”Sharknado”とかも見習ってほしかったかも。
でも竜巻映画としてはやっぱし”Twister” (1996) のほうが上かなあ。
この中で牛2頭が飛んできたときはびっくりしたねえ。 こんどのは巻き込まれた飛行機が飛ぶけど、あの牛と比べたら負けるかも。

(”Twister”て、Philip Seymour Hoffmanが出てるんだよ。- ”Boogie Nights”の前)

あと、竜巻の上空にふっとばされる車のシーンって、”The Blues Brothers”のあれとおなじよね。

[film] ぐれん隊純情派 (1963)

30日ごご、“How I Live Now”のあと、京橋まで歩いてNFCの増村保造特集で見ました。
なんとしても見たかった、というよりは時間潰しで、それにしてはおもしろすぎたのでびっくり。

金もない将来もないのチンピラ仲間がいて、そのうちのひとり銀之助の父親が亡くなり、彼は旅回りの役者一座の座長だった父の後を継ぎたい、て言い出して、他の仲間もおれらもやるぜ、て同調して、芝居演技は生前父と縁のあった元歌舞伎役者(中村鴈治郎)に特訓してもらって(なんて贅沢な)、とりあえず旅回りにでる。

でも興行先はかつての興行仲間のいじわるで入りこむことができなかったり、やっぱし金が無くなったり、でもみんなでがんばる。(後者はやくざの親分を殺したら金やるよ、と言われていたのを思いだした仲間のひとりが実行して解決、とか)

やがて銀之助は、芝居で滞在していた町の権力者の箱入り娘と恋に落ちてしまって結婚したい、てなるのだが、権力者側はそんなの絶対許さん、て卑劣な手を使ってふたりを引き離しにかかって、ちくしょうー、てあたまきた一座はその顛末を芝居にして公開して町のみんなの支持共感を得るの。(今ならWebで告発する)
そこの小屋を仕切るミヤコ蝶々もかっこよくて素敵でさあ。

ていうようなのが軽快な行進曲ぽいリズム - 音楽は今神保町シアターで特集している池野成 - にのってなーんも考えてません(純情派)風に前のめりに進んでいくので痛快ったらないの。

あんな旅回りだったらいいのになあ...

[film] How I Live Now (2013)

旅に出る前に見ていたやつを書けるところまでざーっと書いておく。 そろそろ忘れちゃうし。

8月30日の土曜日の昼間、有楽町で見ました。この日が初日だったらしい。
邦題は「わたしは生きていける」。 

オープニング、赤ペンキ字で殴り書きされたタイトルにAmanda Palmerさんの“Do It With A Rockstar”が被さるとこだけであがる。(その他の音楽はNick Drakeの “Which Will”とか。よいの

そのオープニングで、ティーンのDaisy (Saoirse Ronan)がNYからイギリスに降り立って、そのままガキ - 従兄弟のIssacの運転する車に乗って原野の一軒家に運ばれる。

Daisyは神経質で潔癖性で常に頭のなかにいろんな声が聞こえていらいらしていて、当然受け入れ先の従兄弟たち(Eddie, Isaac, Piper)ともおばさんとも簡単には打ち解けられない。ようやく仲良くなりかけたところでおばさんは国連かなにかの仕事で旅だってしまい、と思ったらものすごい轟音が響いて火の海になっているロンドンがニュース映像で見えて、更には軍隊が現れて男と女は強制的に隔離されてしまう。

別れ際にEddieは必ずここに戻ってこい! て叫んで、状況的にはどんどんやばくなる疎開先でDaisyとPiperは準備して決意固めて、ふたりでお家に - Eddieのところに戻ろうと歩きだす。

第三次大戦だか大規模テロだかで荒廃してしまった世界でどこに家を見いだし、どうやってそこにたどり着こうとするのか、ていうのは割と普通に描かれるテーマであるが、この映画はDaisyの頭の中の戦争と世の中の戦争 - ひとが死んでいく戦争 - を同一線上に対置させて、その線上 - 獣道を家に向かって突っ走る彼女の眼差し、ほとんどそれのみを描こうとする。 “How I Live Now”

で、それゆえに、そのDaisyがいるから、この映画は小さいけど固くて強くて、よいの。
ディストピア映画て、これだけあればいいんだよね。

Saoirse Ronanさんは、わたしのなかでは荒野をひとりで突っ走る女の子のイメージが完全に定着してしまった。

9.20.2014

[film] Pride (2014)

15日、月曜の晩22時、前日とおなじレスタースクエアのシネコンで見ました。
上映されたのは“Impact”て名のついたばかでかいシアターで爆音で、でも客は3組、うち1組は途中で帰ってた。

1984年夏、英国のゲイ・アクティビスト達が長期ストを実施していた英国炭坑夫組合(National Union of Mineworkers)を支援しようとLesbians and Gays Support the Miners (LGSM)を立ち上げるものの偏見とかいろいろあって大変で、でもがんばった、ていう実話。

ゲイでもなく単に写真家志望の若者Joe(George MacKay - “How I Live Now”のEddieね)は、なんとなくデモに参加したなりゆきでグループに加わることになる。 彼が連れていかれたゲイ・レズバーでがーんとなだれこんでくる”What Difference Does It Make?"でやられて、あーもうこの映画すきだ、になってしまう。 映画はその後LGSMにも加わるJoeの成長物語をひとつの軸に、少数の仲間でウェールズの炭坑に出かけてみても炭坑夫の人達は変態とか気味悪がって誰も相手にしてくれず、でも少しずつ理解者を見つけてだんだんと溶けこんで仲良くなって盛りあがっていくのだが結局。

英国得意のルーザー群衆人情劇で、美男も美女もヒーローもまったく出てこない、崩れた若者と腐れた中年に老人ばかり、Nick Waplingtonの写真みたいな光景、ファッションはもこもこ、色彩も微妙なだんだらで今からすると完全にアウトだろうが、当時は微妙に憧れていた、と白状しよう。

音楽もそうで、劇中わんわん鳴っているSoft CellもCulture ClubもYazooもBronski BeatもFrankie Goes to Hollywoodも決してかっこいいなんか、ではなかった。 なんでだかはわかんない、でもそんな英国にとっても恋い焦がれていた84年の、これがあの英国なんだわ、といろんな思ひ出と共に噛みしめたり。

群衆を描いた映画としては、実話だからしょうがない部分を差っ引いたとしてもばらけすぎててちょっと、かもしれない。 けどいいの。 俳優さんひとりひとりが素敵で愛おしくて、特にBill NighyとImelda Stauntonが無言で並んでサンドイッチ作るとこはとってもじーんとくる。

LGSMが支援のためにやったベネフィットギグ - “Pits and Perverts”の様子も少しでてくる。あのちらっと映る後頭部はたしかにJimmy Somervilleだねえ、とか。

ストは敗北に終って85年、80年代後半の英国音楽がなんで急速につまんなくなっていったのか、その辺の事情もなんとなくわかったりする。

で、最後にBilly Braggの歌う”There Is Power in a Union" (原曲は1913年作)が由緒正しく流れる。

今後、80年代英国音楽とゲイカルチャーのお勉強の必須資料となることでせう。
米国では26日から公開、日本でやってくれるのだとしたら、絶対爆音でおねがい。

ところで、先週末公開となったNick Caveせんせいの”20,000 Days on Earth”、英国では地下鉄とか街角にふつうにポスター貼ってあってなかなか盛りあがっていたが、これも日本ではむりか…


終ったら0時過ぎてて、地下鉄はなくなっていたから夜バスに乗ったらルート間違っていたのかすんごく変なところに行ってしまい、戻ったときには1:30過ぎてた。よくない。

[film] Sex Tape (2014)

戻ってきました。もう秋になっている。
羽田に着いてすぐにスコットランドをチェックしたが、ざんねんだったねえ。

ロンドンに着いた晩、8時くらいにレスタースクエアのシネコンで見ました。
こないだのLAで見たかったのに現地ではもう終っていたの。

これ、日本では公開されないことになってしまったし。
洋画を好きなひとにとって、いまや最大の関心事ときたら、それが日本で公開されるのかされないのか、でしかなくなってしまった。ほんとにつまんない、嫌な時代になったことよ。
もちろん、80年代にも90年代にも公開されない映画は山程あったに違いないけど、当時とはマーケティングの手法も規模もまるで違ってきているなか、映画だけが旧態依然の幼稚な宣伝のままでいて、そういう中で公開しません、とかしらっと言われるとなんかむかつく。
いつまでたってもセレブ呼んで試写だの芸人とのコラボだの景品つき鑑賞券だの、誰のために何のためにやっているんだか。

それはともかく。 これ、悪くなかった。

Annie (Cameron Diaz)とJay (Jason Segel)のふたりは若い頃からいつでもどこでもやりまくってそのまま子供ができて結婚して、でも結婚して育児と仕事が忙しくなってからは時間も機会もなく盛りあがらなくて、たまたま子供達を実家に預けて空いた晩ができたので久しぶりだしなんかやろうぜ、てことで、古典本”The Joy of Sex”に載っている体位ぜんぶをトライして、それをiPadの動画で撮る、というのをやることにする。 やったら満足したから消しといてね、とAnnieはJayに言うのだが、Jayはそれを忘れていて、そしたらそのうち、インスタントメッセージで「ビデオ、やるじゃん」とか入ってきたので蒼白になる。 誰がそれを送ってきたのか、他に誰がビデオを見れる状態にあるのか、ふたりは大慌ての大急ぎで知り合い周辺を探りはじめるの。

映画はSex Tapeでやっちゃった、ていうことよりもクラウドとか勝手に同期しちゃうアプリの得体の知れなさ(啓蒙ビデオとしても使える)、それが御近所に巻き起こす騒動のほうに焦点が置かれているホームコメディで、”Bad Teacher" (2011)でも素敵な相性を見せていたCameron DiazとJason Segelのじたばたぶりが楽しい。特に今回は血まみれになって走りまわるJason Segelがすばらしい。

あとはこういう場合には必ず怪しい隣人として登場するハゲ - Rob Corddryとか、豪邸に暮らしているくせにリビングでかける音楽は爆音Slayerだったりするこれも怪しいRob Loweとか。

公開しなくなった理由としては、タイトルから想像されるほどにエロくない、ていうのもあると思うが、それ以上にAnnieみたいな女性て、日本ではそんなに求められていない、というのもあるのかも。 ファンタジーとして成立しそうにない、かんじの。

Cameronはあんま見えないけど、Jasonのほうは尻毛も含めてなかなかすごい。
それにしても、Cameron Diazのキスってくにゃくにゃしてて、なんかおいしそうだねえ。

あと、あんなけん玉みたいな技があるの? 本に載っているの?

9.18.2014

[log] September 18 2014

ふう。

水曜日の朝4時にホテルを出て6:30の便でヒースローからアムステルダムに飛んで仕事して、夕方にアムステルダムの空港に戻ってデュッセルドルフに飛んで、もういっこ仕事して、木曜日の朝にエッセンてとこ行って仕事して、午後にデュッセルドルフからロンドン経由で帰国すべく、いまはようやくヒースローまで来て、BAのラウンジでチーズ食べてるところ。

ばたばたすぎて記憶がすぐ上書きされてしまうのでよくわかんないのだが、荷物をアンパックしてパックして、重すぎる荷物を担いでみぎひだりいったりきたり、そんなのばっかりのようだ。

自分の荷物をマネージできない人生 - 部屋の内でも外でも - とかふとおもふ。

終着駅? しるもんか。

ロンドンは結局映画2本だけ。 美術館はゼロ。 こういうこともある。
NYもロンドンもファッションウィーク開催中で、NYにはたまにすごい恰好、すごい腰高のおねえさんとかいたけど、ロンドンはそんな気配まったくなし。 エリアがぜんぜん違ったのかも。

Foylesは火曜日の晩に少しだけ。 Rought Tradeもついでにもう一回行った。 ほんとうにその程度。
つまんないねえ。

オランダは初めてなのになにひとつできなかった。 空港でミッフィーのウェハースの缶からを買っただけなの。 ニシンとかおいしそうだったのに。 かわいそうに。

デュッセルドルフはもっとなんにもできなかった。
90年代に一度来て以来だったが、随分変わっていたような。
エッセンで訪問した会社の横の森にウサギさんがいた。 それくらい。

帰りの空港の構内のビストロでソーセージがおいしそうだったので、それとザワークラウトとポテトを戴いた。すんごくおいしかった。  ザワークラウトって、誰が考えたんだろうねえ。

デュッセルドルフからロンドンのBAの機内食、メインがサンドイッチでサイドにスコーン、デザートがスポンジケーキみたいなの(食べなかった)だった。 そんなに小麦が好きか。

残りのは帰国してからまたー

9.16.2014

[log] Mexicoそのた Sept.13 2014

13日土曜日夕方まで、メキシコシティでのあれこれ。
ルイス・バラガン邸のキャンセル待ちがだめであることがわかったあとに行ったとこを。

もともと、12日の晩にロンドンに発つつもりだったので、なんの準備も下調べもしていなくて、それを12日の晩にざーっとやった。 スペイン語はわかんないのでタクシーは無理、となると移動は地下鉄しかない。

こうして行きたいとこをピックアップしてGoogle Mapで経路を検索しても、地下鉄での行き方とか出てこないし、行きたいとこは乗り換えがいるとこばっかしなのであれこれ書き出したりめんどくさかった。

地下鉄は紙の切符一枚5ペソで、窓口で買って改札の機械に入れて通る、んだけど英語の説明書きもなんもないし、どっち方面行きかも押さえてなかったから見よう見まねでうろうろして時間が掛かってしょうがない。 それはそれで楽しいんだけどね。

地下鉄の中はなかなかワイルドですごかったかも。 ロスの地下鉄の深夜のとか、午前3時くらいのNYのN, R線とかよりもやばいかんじ。 これまで乗ったことのあるサンパウロの地下鉄とかブエノスアイレスの地下鉄と比べてもいろんな意味で濃い。 でかい音で音楽かけてるし、演奏している人もいるし、ぶつぶつ歌っている人もいるし、物売りもいるし、連結部分でガキが座って遊んでいるし、激混みなのに箱入れしてくるし、激混みなのに音たててキスしてるし、誰も白線の内側なんかで待たないし降りる人優先なんてありえないし。
あと、後で気づいたけど車輪がゴムだった。 構内があまりやかましくなかったのはそのせいか。

そんなふうにして最初に行ったのがこれ。

Palacio de Bellas Artes - 国立芸術院美術館

建物として堂々としてて、ゴージャスでかっこいいねえ。

やっていた特集展示がこれ。

http://museopalaciodebellasartes.gob.mx/OP.php

"En Esto Ver Aquello Octavio Paz y el Arte" - オクタビオ・パスと芸術?
オクタビオ・パスの業績を文学館みたいなかたちで紹介する程度かと思ったらもっとでかい規模のだった。

彼の詩や文章がリンクしていた同時代の画家達とその作品をテーマ別に展示していた。
テーマとしては、キュビズムとかマルセルデュシャンとか抽象絵画とかシュールレアリスムとか、エロとか。

MOMAとかポンビドゥーから借り出していてなんかすごい。
いちばん力が入っている(気がした)のはエロのコーナーで、ベーコンが1点、バルテュスが2点、エドワード・ホッパーもあるし、日本の春画(あれだれ?)とかも出てる。

そのコーナー以外は、ディエゴ・リベラとかタマヨのばかでかい壁画がどーん、と。
でっかすぎてよくわかんない。


で、そこを出てよりごちゃごちゃしている(ように見える)方に行ってみる。

Palacio Postal  -  中央郵便局

http://www.palaciopostal.gob.mx/

郵便局跡、ではなくて今も現役の郵便局として使われていて、アールデコふうのゆるりとした階段がかっこよくて、1階はギャラリーとしても使われているらしく、むかしの戦争の写真展(たぶん)をやっていた。

Museo Nacional de Arte  -  国立美術館

郵便局の斜め反対側にあったのがこれで、こいつも同じように豪勢な外観・調度の建物で、19世紀初ってすんごいバブルだったことがわかる。 入場料、中で写真撮りたいひとは追加料金を払う。

メキシコの風景画家José María Velascoの特集展示をやっていて、なかなか力強くて見事だった。 でっかいサボテンとか岩とか。 ヨーロッパの風景画とはどこかしら違って、なんか端正だけど砂っぽくて、西部劇、というか。

他の展示もざーっと見たけど、要はメキシコの絵画国宝みたいのはいっぱいあるのだが、あんまよくわかんない。 近現代のディエゴ・リベラあたり(革命前の静謐な風景画とか)はなかなかよかった。


そこを出て、更にごちゃごちゃした雑踏の方へ歩いていった。 
レンガとか壁の薄ピンクとか、そこに被さるつんのめり音楽、警察や救急車のアラーム、どれも素敵。

で、各道端の蟻のごちゃごちゃが合流して広場のでっかいごちゃごちゃになって、そのつきあたりにあったのがこれ。

Catedral Metropolitana de la Ciudad de Mexico  -  メトロポリタン大聖堂

聖堂の中はひんやりしてて、でも黄金に輝いてて(いにしえの)カトリックすごし。 しばし休憩してすこしお祈りしてみる。 日本語だけど。


雑踏をまた元のほうに引き返して地下鉄に乗ってブエナヴィスタてとこまで来て、この建物。

Biblioteca Vasconcelos

http://www.bibliotecavasconcelos.gob.mx/

2006年にオープンした市立図書館。 市立図書館だよこれ。 市立図書館としてはたぶん世界いちかっこいい。

どういう構造になっているのかしらんが、ガラスのスタックが空まで延びていて、そこに58万冊の本が浮かんでいる。 一階フロアのまんなかにはクジラの骨格標本が浮いていて、でもそいつは本の海の底のほうを漂っているの。 本はオキアミみたいな餌なんだとおもう。

本は過度に神格化されるべきではないし、しょうもない本がたくさんあることもわかっているけど、それでも自分は紙の本が好きなので、こんなふうに津波のようにオキアミのように本があるのを見るとたまんなくなる。

近所にこんな図書館があったらなあー。 本をこそこそ破ったり傷めたりするみみっちい奴もいなくなるよ。

ソファとかがあちこちにあるのでぼーっと寛いでうとうとしたり、ガラスの床は曇りガラスなので下からは見えないんだねえ(あたりまえー)、とか。

床にぺたんと座ってちゃぶ台のようなテーブルで一緒に勉強している若者たちとか、うらやましいったらない。

せっかくなので上のほうの本棚まで行ってみる。 蔵書はふつうの市民図書館ふうだったが、高所がだめなひとにはきついかもしれない。  なにもかも嫌になったらここにきてクジラの背中にむかって飛び降りるんだわ...(うっとり)。

中庭もあるので外に出てみたかったが、すぐ出たところで高校生と思われるグループがガラスの扉に向かってずっとダンスの練習をしてて扉のところに行くと目があってしまう。 なんか恥ずかしいのでやめた。

気持ちよすぎて2時間くらいだらだらした後、地下鉄(3番線激混み)でホテルの方に戻り、公園のなかにある動物園に行こうかなあ、と少し思ったがもう4時で疲れてきたので諦めた。


今度、バラガン邸に行くときにまた。

[log] September 14 2014

日曜晩からロンドンなう。  時差もボケもなにがなんだか。

飛行機はメキシコを21:45に発つ、はずだった。 そうするとロンドンには14日の14:00に着く、はずだった。

そしたらDue to Technicalうんたら.. のアナウンスが入って、ああお願いだからもうやめて、とゲートに行ってみたら誰も、なんも動いている気配がなく、にこにこお水とか配っているのでこりゃだめだ、と天を仰いだ。

なんでもエスタマニアーナで済ませてしまう国と慇懃なだけでなんもしようとしない国の飛行機の組み合わせだもの、ぜったい無理だ最悪だ、と思って、こうして1時間があっという間に消えて、マレーヴィッチにさよならをして、後期ターナーにさよならをして、ホルストにさよならをした。
日曜の午後の30分が、1時間が、どれだけ貴重で大切なものか、その週の、その後の3ヶ月くらいのやるきとパワーをぜんぶ奪おうとしてるんだよわかってるの? て涙目で訴えてやろうとおもった。

飛行機に乗れたのは23時半くらいだったかもうやけくそだったので憶えていない、2階席だったのがちょっとだけ嬉しかったけど、身体の上のはじっこ(頭)と下のはじっこ(脚)がそれぞれに痛くて重くて、あたまのなかではいろんなのを罵倒しまくりてぐったりしていたので、座るなりそのまままっすぐ落ちて、次に気がついたら到着まであと3時間のところだった。 映画一本だけ見て、シリアルたべてお茶飲んで、ヒースローに降りたったのは15:30くらい。

着いたら着いたで入国のとこまで電車だし、UK Borderのとこは例によってぐじゃぐじゃで軽く1時間はかかるし、この時点でもうなにもかもぜんぶだめ、せめて19時までやっているRough Tradeだけでもー、といつものHeathrow Expressには乗らずに最初からTaxiでぶっとばすことにしたのだが、市内入った途端、これも例によってぱんぱんで11日にJFKに向かったときの悪夢再現で、聞けば自転車のレースで橋が閉鎖されているのだと。 知らねえよそんなのなんで4輪が2輪に負けてんだよ、てうんざりして、あまりにしょんぼりしていたせいか運転手のひとが慰めてくれた。

ホテルに入ったのがだいたい18:10くらい。荷物ぜんぶ部屋にぶっこんでから外に飛びだし、コメディ映画としか思えないエレベーターのだらだらを経由して、やはりぱんぱんに渋滞しているLondon Bridgeを小走りしながら、でも飛行機雲と夕焼け雲があまりにすばらしかったのでしばし立ち止まる(ああターナー..)。  橋の終りくらいで偶然横に入ってきたTaxiに乗りこんで、これでだめだったらもうしょうがないと腹を括ってBrick Laneに運んでもらう。 

Brick Laneの手前で降りてRough Tradeのお店まで走りこんだ時点で18:40。  あと20分、て思ってからは別人格が入ってきたのであまり憶えていない。

けっか、箱いっこ、12inchを4枚、10inchいっこ、7inchを2枚。
もちろん未練たらたらなのだが、The Theの"Soul Mining"の箱(最後のいっこだった)を入手できたのでよかった。(ほとんどこれを買いにいったようなもん)

19:45からLeicester Squiareで映画があったので、いつものPoppiesでゆっくりお食事はできなくて持ち帰りにタラのフライとチップスを包んでもらって映画見ながら食べてた。

9.14.2014

[log] NYそのた - Sep 2014

NYのそのたをまとめて。今回はあんましないねえ。

まず、行きの機内で見た映画。

Blended (2014)

公開当時はそんなにすごいとも思わなかったけど今となってはほぼ伝説みたいな扱いを受けている"The Wedding Singer" (1998), "50 First Dates" (2004)のAdam Sandler, Drew Barrymoreのふたりが再び組んだやつ。

ここんとこの(前からかしら?)Adam Sandler作品は評論家受けは悪くて、確かに昔ほど笑えなくなってきているのだが、それでも我々は、どんなに酷評されていたって、ひとつでもふたつでもそこに刻印されているAdam Sandler的モーメントを求めて見にいってしまうという。

Adam Sandlerが妻の死後娘3人を育てているパパで、Drew Barrymoreが離婚後息子2人を育てているママで、ふたりはブラインドデートで互いに最悪の印象をもった後で、それぞれの職場の上司と同僚が計画して破綻したアフリカ旅行にのっかってみたら、一緒に、ひとつ屋根の下でバケーションを過ごすことになってげーっとなって、でもだんだん仲良くなっていくの。

ふたりの過去の2作が、異なる立場立ち位置にいるふたりが接近していくお話しであるのに対し、今度のは互いにパートナーなしで子供たち(それぞれに問題あり)を抱えていて同じような状態にあるふたりが無理やり同じような状況(アフリカのバケーション)に巻きこまれたら(ブレンデッドしたら)なにが起こるのか、ていうお話しで、まあ結果はいつもとおなじようなあれなんですけど。 

年頃の娘のお話しとかDrewがきれいな恰好でディナーに現れるとことか、彼女が娘たちに"Over the Rainbow"を歌ってあげるとことか、ほんとに素敵だから許してあげよう、なの。

Chef (2014)

Jon Favreau(監督兼主演)がMiamiからLAに渡って高めのレストランで雇われシェフをやってて、オーナー(Dustin Hoffman)ともうまくいかずフードクリティック(Oliver Platt)とSNSで大喧嘩してお店をクビになって、別れた妻と息子とマイアミに戻ってフードトラックをやることにして、やってみたらこれが当たって、マイアミからニューオリーンズ → テキサス → ロスとトラックを転がしながら息子と弟子のJohn Leguizamo(よい)と旅をしていくの。

お料理成功物語+息子との絆取り戻しロードムービー、みたいなふうなのだが、そんなのは割とどうでもよくて、ちょこっと顔をだすScarlett JohanssonとかRobert Downey Jr.とかもどうでもよくて、とにかくチーズトーストとかキューバンサンドイッチがめちゃくちゃおいしそうでたまんない。 キューバンサイドイッチのおいしいの、ほんとにおいしいんだよねえ。 エンドクレジットのとこでチーズトーストの作り方を見せてくれるのだが、まず自分に必要なのはあんなふうな鉄板なのよね。

音楽もアメリカの田舎の飯場で流れていそうなねちっこいやつで、すてきだった。

ここまでで一旦寝て、起きたら残り3時間、どうしようか悩んで結局もういっかいこれを。

The Fault in Our Stars (2014)

どうせぴーぴー泣くにきまってて、やっぱしたくさん泣いたのだが、2回めなので割と冷静に、いちばん泣けるところはどこなのか、それはなんでなのか、とかをぼーっと考えながら見ていた。

ふたりの境遇がかわいそうだから泣くのではなくて、そんな涙はふたりがきっぱりと嫌がっているし、ちがう。
かわいそうなのはお互いをほんとうに好きになったふたりが別れなければならなくなるからで、でもそんな別れが来ることをふたりは最初からずっとわかっていて、だから思いきり強がってさばさばしている。 それって自分たちにだってふつうに起こることで、泣いてしまうのはこのへんの普遍的なところで、それをこんなふうに軽く、でも強く出せたのはすごい。 それは原作にもあった力なのだけど。

前は書かなかったが、音楽はBright EyesのMike MogisとNate Walcottで、Conor Oberstの「泣き」を真正面からさらりと支えてきたふたりならではの細やかな音作りになっているのだった。


レコード屋は、着いた直後にOther Musicしか行けなかった。
Spoonの新譜とか、そのときは見るつもりでいた”God Help the Girl”のサントラとか、そんなもん。 

Paper Magazineが30周年(はぁ..)で、記念号をタダで配ってた。

本屋も、McNally JacksonとGreenlightだけ。 Alice Watersせんせいのサイン本とか、そんな程度。

お食事は”Kelly and Cal”のあと、Del Postoに行った。Mario Batali帝国のうち、ここだけまだ行っていなかったので。 10th Aveのあんなとこにあったとは。

Babboの、これがイタリアンじゃまいったか、みたいな押しの強さはあまりなくて、ふつうに洗練されたおいしいお皿たちだった。
でもパスタは相変わらず冗談のようにすごい。とくに”Yesterday's 100 Layer LASAGNE”。
「昨日から寝かせておいた100層ラザニア」 - これ、冷凍かテイクアウトで売り出すべき。

もういっこ行ったのはEstela。 BAMのあと、クローズまぎわだったのでばたばただったけど。

チェリートマトにイチジクを和えて、その上に大量の干しエビを振りかけたやつとか、鶉とか、悪くはないのだが、まだ十分にこなれていないかんじもした。 基本はバー飯のようなのでこんなもんなのかしら。
でも、リコッタ餃子はとろとろも含めてすばらしかった。 ニョッキの一歩手前で餃子側にころんだかんじ。

あと、ランチにLuke’s Lobsterに行った。おいしいけどさー、量少なくない?

57thの2ndと3rdの間にWhole Foodsができてた。やや軽めのショック。

まだほかにあったはずだが、ねむくてもうだめ。

[log] September 12 2014

帰り、じゃない、ロンドン行きのためにメキシコの空港にきました。
飛行機はBAだけどラウンジはイベリアのを間借り、ここに来るときはAeroMexicoでラウンジはアリタリアのを間借り。

おみあげ、空港の売店にあったCholulaのホットソース(すきなの)のでっかい瓶を買うべきかどうか、まだ悩んでいる。

11日、JFKで無為の6時間を過ごした - 唯一よかったのは空に刺さったTwin Towersのライトが少しだけ見れたこと - 後、Mexico Cityに着いたのは朝の4:30、雨ざあざあ。
低気圧+高地のおかげでみるみるあっというまに頭痛がきて、部屋に入ってからシャワー浴びて6:30に開いたホテルのレストランでなにか食べてから薬のんで40分だけ寝て、仕事に入ってごご4時少し前に解放される。

一緒に来た人々はその晩に帰ってしまう(なんでだよ)ので完全にひとり。
90年代に数回来たときは現地のひとがずっと横にいてくれたのだが、今回ははじめてひとり。
スペイン語でいえるのは、お水ください、と、お手洗いはどこ? だけ。

自分にとっての最近のメキシコといったらボラーニョの「2666」とラウリーの「火山の下」以外にはなくて、そこでのメキシコときたら ①なんか起こるときにはとにかく最悪のとこまでいく  ②しかもそれは防ぎようもない逃げようもない、というものだからへたしたらたいへんなことに。
(とにかく黒のセダンが停まっていたり寄ってきたりしたら走って逃げること)

とりあえず通りのつきあたりにあった森みたいな公園みたいなとこに歩いていく。
リスがいて、Union Squareのよか尻尾がでかくてよりアグレッシブに寄ってくる。リスとは違うのも寄ってくるねえ、と思ったらネズミ(ちっちゃくない)だったので、ややびっくりした。 きみたち、昼間の公園の原っぱにいるのは違うんじゃないか、て言ってあげたけどきかない。
そのうちに猫も出てきたので、生態系なのか… ととりあえず思っといた。

で、近代美術館 - Museo de Arte Moderno - があったので入ってみる。
一部改築中らしく、あんま展示していなかったが企画展がふたつあった。

“La Danza de los Espectros''

翻訳にかけてみると”The Ghost Dance”。

Remedios Varo, Leonora Carrington, Alice Rahon, Wolfgang Paalenの4名の女性画家の特集で、Remedios Varoはほんとうに好きなのでうれしい。Leonora Carringtonも好きだけどVaroほどじゃないの。

Varo、40〜50年代の作品のクールでかっこよいこと。 塔、仮面、浮遊、宙づり、猫などなど。
猫だらけの1枚があって、これだけでも来た甲斐があった、かも。

''¡Vámonos! Bernard Plossu en México''

フランスの写真家Bernard Plossuが60年代からメキシコを撮ったのを集めたやつ。
これがびっくりするくらいよくて、いかにもフランス人が撮ったメキシコ、が全開なんだけど雰囲気がよくてー。 80年代のカラーのも素敵。
カタログ、買おうと思ったけど重かったのであきらめる。 Apatureから同名のが出ているようなので取り寄せられるかしら。

イメージのいくつかはここで↓。

http://www.slate.com/blogs/behold/2014/06/15/bernard_plossu_v_monos_bernard_plossu_in_m_xico_is_a_collection_of_images.html

しかし、美術館の展示、英訳したキャプションくらい付けてくれたって。

そのあと、公園の更に奥にある古城みたいなとこめがけて登っていったのだが、たどり着いたときには窓口閉まっていたので諦めて戻って、今度はレフォルマ通りを反対側に独立記念塔(羽根の生えた女の子が立ってる)まで歩いていったら雨が降ってきたのでホテルに戻って、そのままばたん、で気がついたら23時だった..

問題は翌日土曜日の午後6時までにどこでなにをするか、で。
そういえばあれ、あれがあった、ルイス・バラガン邸!とおもって部屋に戻る前にコンシェルジュのおじさんに聞いてみたらあそこは予約しないとだめなのじゃ、と言われ、でも既に予約はいっぱいで、でもねんのため、土曜日の朝のキャンセル待ちを狙ってもらうことにした。

で、ルイスんちに行ける可能性はほぼないので、自分で計画を立て始めたら、WiFiも遅いしとまんなくなって気付いたら午前3時だった。

あわてて寝て、でもチェックアウトしないといけないので8時に起きてご飯食べて身支度して、ルイスんちはやっぱし入れてくれないことが確認できた10:30、外にとびだした。

長くなるのでここで一旦切ります。
結論だけいうと、メキシコで過ごす時間ができてよかったー。

9.13.2014

[film] Kelly & Cal (2014)

NYに着いた日の晩、IFCで見ました。
2階の休憩スペースに”Boyhood”のかっこで写真を撮ろうのパネル(青芝生だけ)があった。
そんなの撮ってどうする…

Kelly (Juliette Lewis)は赤ん坊が生まれたばかりの主婦で、夫はなんもしてくれないし子供は泣いてばっかりだしRolling Stone誌のGeorge Clooneyの表紙で自慰しようとしても邪魔が入るしママ会で公園デビューしようとしてもオンラインで登録してね、とか言われるしで産後鬱みたいのになりかけてて、そんなとき、近所の車椅子の若者、Cal (Jonny Weston)と出会う。

高校最後の年(Kellyの半分の歳)のCalも自宅のガレージでうだうだしてばかりの日々で、互いに友達のいないふたりは世間話とかするのが楽しくなっていってだんだん近づいていく。

Calがドラムをどかどかやったりやかましい音を聴いているのを見て、Kellyは自分の昔の箱をひっぱりだしてCalのとこに持っていく。 自分も昔はWetnapていうバンドでベース弾いてて、Sleater-Kinneyみたいな音で、これが自主制作したカセット、むかしはネットなんてなかったらこういうので発信してたんだよ、とか言ってriot grrrlのzineを..

で、なんかうれしくなったKellyは突然髪を水色に染めちゃって、そしたら義母(Cybill Shepherd)と義姉が慌てて監視に通うようになってセラピスト紹介するから、とかいう。

でも二人が仲良くなればなるほど、若者Calが真剣になればなるほど、Kellyには子供とか夫(突然やさしくなったり)とかが気になりだして首をぶんぶん振る。

郊外で鬱屈した歳の離れたふたり、家庭に縛られた主婦と車椅子に縛られた若者のロマコメ、ていうよかふっきれそうでふっきれない二人の心理の揺れと彷徨いがきちんと描かれていて素敵だった。

深夜の学校に忍びこんでキャンドル焚いて、Bryan Adamsの"(Everything I Do) I Do For You”とかCyndi Lauperの"All Through The Night”とかでダンスするとこはあまりに定番すぎてあれだけど、嫌いになれるもんか。

あと、久々にJuliette Lewis全開(でも殺傷なし)。 彼女の困り顔、しかめっつら、怒り顔、そして笑顔が好きなひとには必見。 彼女の曲もいくつか入っています。

これの他に、”God Help the Girl” (by Stuart Murdoch)も見たかったのだが一館でしかやってなくて、時間も合わなかったので諦めた。

9.12.2014

[log] September 11 2014

今日は9/11で、あの日から13年目で、あのときのあの朝と同じビルのなかで仕事をしていた。 ので、なんか感慨深かった。 しんみり。

でも世界はぜんぜん変わっていないんだよ。 追悼もだいじだけどさ。

いまはJFKで、これからメキシコのMexico Cityに飛ぶ。 予定だったのだが、いろいろあって予定していた夕方の便に乗れなかった。 理由については書いてもしょうがないので書かないけど、他人にスケジュールを任せないで自分の勘で動け、ていうことね。 何百回JFKの間を往復してるんだ自分、と。
 
次のフライトは0:45am発で、翌日の会議には間にあうのだが、乗り遅れたやつとの時間差は6時間強。NYで6時間、なんもできないままぼーっとしてこんなことしているのがとっても腹立たしいったら。映画なら2本見れるし、BAMにだって行けるし、あんなこともこんなこともできたのにくそったれー。 と頭のなかが渦をまいてしょうがない。

Mexicoで仕事して、金曜の晩にロンドンに飛びたかったのだが、これも便がぱんぱんで取れなくて、離陸は土曜日の晩になった。 ロンドンに着くのは日曜の午後なので、またしても…
こうして書いてみると、すでにとっても呪われててこうなるのも無理なかったのかも。

昨日はMissouri州のSt Louisに飛んで仕事して、晩に帰ってきた。
“The Missouri Breaks” (1976) のMissouri、FergusonのあるMissouri。
もちろん行ったことなかった。

夕方の便が空港周辺の雷雨で遅れて、こないだのマイアミの悪夢が蘇りそうだったけど、とりあえずその日のうちにニューアーク(しかも、ニューアークふたたび)に戻ることはできた。

でも万事こんなのばっかしだったのでNYに3日間(も)いたのに、なーんもできなかった。
映画1本、ライブ1本、あとは立てていた予定をぜんぶ端からぷちぷち潰されていく音が聞こえるくらい、動きが取れなくてうんざり。 やっぱし他人にスケジュール作らせてはいけないねえ。

ホテルは国連だのファッションウィークだのでどこも高騰、いつものとこが取れず、とってもしょぼくて、思わず飛びおりたくなるようなとこで (“Man on a Ledge” (2012) でSam Worthingtonが飛びおりたとこなの)。

映画はそのうち書きますが、そのほかで唯一、すばらしくて鳥肌だったのが9/9のJimmy FallonでのThe Replacementsだった。 仕事でよそ見していたのだがびっくりして立ちあがってしまった。 前にソロのライブで見たときのPaul Westerbergの枯れっぷり縒れっぷりはなんだったのか、てあきれた。 こうなるとライブみたいねえ。

次はメキシコの土曜日(夕方まで)とロンドンの日曜日(夕方から)をどうするか、だ。
メキシコはだいたい20年ぶりだねえ。

9.11.2014

[music] The Philip Glass Ensemble & Steve Reich and Musicians - Sep.9

9日の晩、BAMのNext Wave Festivalの初日、ようやく、まちがいなく、見れた。
仕事から解放されたのが6時過ぎ、地下鉄でBAMに着いたのがだいたい7時、チケットをピックアップして、7:30の開演までまだ少し時間があったのでGreenlight Bookstoreに走って何冊か。 ほんとに時間なさすぎ。

いっこだけ空いてて3日前に突然取れてしまった席はオーケストラのG列のまんなかで、かみさまほんとにありがとう、だった。 自分にとってBAM(Brooklyn Academy of Music)ていうのはほんとうに特別な場所 - アカデミー - なの。

アメリカの現代ミニマルを代表するふたりの作家が約40年ぶりに同じステージに立つ、ということでメディアのほうも浮かれまくりのお祭りだったが、音楽とおなじようにふたりは醒めてて(握手もハグも笑顔もなし)、歯車としてふつうに作動しているだけ、みたいな。

3日間のうち、演目は毎日違っていて(9/11はライヒの"WTC 9/11"をやる)、休憩挟んでこの日は5ピース。 ふたりが同じステージに立ったのは1曲だけ。

Four Organs (1970)

ライヒとグラス、このふたりを含む奏者5名(オルガンのひとりはNico Muhlyさん - Rufusとかbjörkとかに関わっていた - )が現れただけで、ロックのライブのようなすさまじい歓声と喝采。
ステージ向かって右側にライヒ、ふたり置いてグラス、のオルガン(デジタルだった)4名が中央のパーカッション(マラカス)奏者をぐるりと囲んですわり、ぶおーっ、ぶぁーっ、と単調なオルガンのノートを鳴らしていく。オルガンの出だしは同じようなトーンなのだが音の終わりめが各自少しづつずれたり異なったりしていって、その重なったり重ならなかったりが微妙な亀裂を呼んでその亀裂がリズムに交わって別のなにかを生む。その間、マラカスはなにが起こってもどんな変な音が鳴ったり縒れたりしてもえんえん同じリズムを刻んでいなければならなくて、その虐められっぷりを見て思うだけでたのしい。 あと、演奏しながら各奏者はなんかひとりごとのようにぶつぶつ言っていて、なに喋っていたのかしら。 でエンディングのぴしっとした切れのかっこよいこと申し分なし。 全体を仕切っていたのはNico Muhlyさんでした。

- the CIVIL warS: “Cologne” excerpt  (1983)
- Music in Twelve Parts: Parts 1 & 2  (1971-74)
- Akhnaten: Act 1, Scene 1, “Funeral of Amenhotep III”  (1982-83)

そこから次の3つはPhilip Glass Ansembleによるグラス作品で、1名の女性コーラスを含むオルガン4と管が3の7名編成、”Akhnaten”ではこの編成にパーカッション2名が加わった9名編成になる。

グラスの曲の根っこで渦をまき嵐を呼ぶぶっとさ、どす黒さ、強さを改めて思い知らされる演奏だった。
ほとんどがオルガン中心のアンサンブルなのにその裏でバスドラがどこどこ唸りをあげているかのように聴こえてしまう。

Music for 18 Musicians (1974-76)

休憩を挟んで後半はライヒの"Musics for 18 musicians"、これ一曲のみ。
今回の演奏はライヒ作品の演奏を中心を支えたパーカッション奏者James Preissさんに捧げられていて、彼の担当していたパートはその弟子のDavid Cossin(Four Organsで囲まれていた彼)が引き継ぎます、と最初にライヒ自身によるアナウンスがあった。

ステージ前方に女性コーラスが2名づつ、中心に向かいあうかたちで座り、その内側に弦2名と管2名がやはり向かいあって座り、後方にはマリンバが3台だか4台だか、鍵盤が2台だか3台だか(遠くてよく見えない)。
前方の8名は固定で動かず、後方に座るライヒを含む11名の奏者は他のライヒ作品と同じように演奏パートによってポジションを変えていく。

グラスの音が渦を生成するうねり、うねりの中心へに向かう(或いは中心から逃れる)ダイナミズムとか力・圧力を感じさせるのに対し、ライヒのそれは音の重なりと連なり、そもそもなんの意味も必然もないかのように聴こえてくるその重なりや連なりが時間と共に異相を変えて「音楽」に変容していくさまと、そこで露わになってくる音楽と非音楽の境目を執拗にこちらに示してくる。 一聴すると軽いようでいて、実はものすごくねちっこく収斂と拡散の間を行ったり来たり。

両者の違いを改めて思い知ることができて、それはよかったのだが、いま「共演」する意味はどこにあるの? ていうのはたしかにあったかも。 お祭り、てことでよいの。

NY timesのレビュー;

http://www.nytimes.com/2014/09/11/arts/music/philip-glass-and-steve-reich-reunite-at-bam.html?ref=arts&_r=0

9.08.2014

[log] September 08 2014

2週間前はLAにいて、先週は半分以上どっかに幽閉されていて、今朝はNEXでSteve Reichの"Music for 18 Musicians"を聴きながら成田にきました。

とりあえず、NYに飛んで、大陸をぐるぐるして、週末にロンドンに飛んで、欧州をぐるぐるして(まだきちんと把握できていない)、来週の金曜に戻る。 たぶん。
7月のどさまわりよかしんどくてかんじわるいかも。

かみさまへのこの夏のお願いということでいうと、こないだのNINとBAMのNext Wave FestivalのSteve Reich + Philip Glass、ていうのがあって、後者は諦めていたのだが時期的にはぶつかってしまった。のよ。あらあら。

ぶつかったけど、それがわかったときにはチケットなんてとっくに売切れてて、でも未練たらたら毎日深夜にBAM窓口に電話して(そういうことをしているとなんとかなることがある)ない?ない?ない? て聞いてたら土曜日の朝とつぜんオンラインの扉が開かれて1枚買うことができた。ほらね。 かみさまばんざい。

日程の件で、なんかはかったでしょ? とみんなは思うのかもしれないが、そんなことができるんだったらこんなとこでじたばたしていませんよ、とか。 こんなことにばかり腐心しているからいつまでたってもこんななんですよ、とか。 いろいろ見解はあるの。 かわいそうに。

でも、チケットはとったものの抜けられるかどうかまだわかんないし、9日以外の晩は集団移動してばかりの漬物石(のしたの漬物)なので、ほんとに悲惨なの。  この時期のNYなら一ヶ月フルで動きまわれるのになあ。

“This is Our Youth”はぜったい必見のはずだし、リンカーンセンターで先生のレトロスペクティヴ - “Fifty Years of John Waters: How Much Can You Take?” やってるし、Town Hallの”3 ACTS 2 DANCERS 1 RADIO HOST:  Ira Glass, Monica Bill Barnes, Anna Bass”もおもしろそうだし、このフェス(http://basilicasoundscape.com/)ぜったいやばそうだし、Nick Caveの“20,000 DAYS ON EARTH”もあと少しで公開なのにー。 なのにー。

日本のほうだってさ、新宿のスコリモフスキ、結局行けなかったし、ジャック・ドゥミも最初のほうはミスしてしまうし、さんざんなのよね。

ではまたー。

9.07.2014

[film] 夜の片鱗 (1964)

17日の日曜日、シネマヴェーラの中村登特集で見ました。
前日に見た「土砂降り」の揺るぎなく冷たいかんじがなかなか衝撃だったので、きちんと見ねば、と。
英語題は”The Shape of Night”。

芳江(桑野みゆき)は町工場で働く明るい娘で、手伝いのかんじで夜のバーでバイトを始めたらそこの馴染みの英次(平幹二朗)に誘われるままに仲良くなって同棲を始めて、でも彼は実はやくざで
金がなくなったらヒモとして彼女に売春を強要するようになって絵に描いたように堕ちていき、逃げようとしても組織が手をまわしてひどいことするのでどうにもならない。

という状態で街角で冷たい顔で客を取っている芳江が、真面目そうな建築技師の藤井(園井啓介)と会って、あなたはこんなことをしているひとじゃない、一緒に逃げよう、て言われて最初は相手にしないのだが、次第に揺れはじめて。

がんじがらめで救いようがなくて、でもそこには英次との楽しかった頃の思ひでとか、玉抜きにされて以来なんか優しくなった英次とか、そんな半端な雑念が浮かんできて、それが彼女の表情をますます頑なにして夜のなかに浮かぶ彼女の輪郭を際立たせて、そんな(複数の)彼女が反転して現れるのが「夜の片鱗」ということらしい。 どこまでもきつくて非情で容赦ない。

世界的に評価されたらしいカメラと色彩は確かにすばらしいのだが、それ以上に桑野みゆきの存在の強さがすごい。 いつどこで爆発してもおかしくない何かを抱えて、その緊張感を最後まで緩めずにうずくまる野良猫の凄みがあるの。

でもきつかった。 画面が桑野みゆきの表情を生々しく追えば追うほど、こんなのあってはいけないよね、て。


この後、新宿に移動して「ソニはご機嫌ななめ」を見ようとしたら売切れで、とってもご機嫌ななめになったの。

[film] English Vinglish (2012)

LA行く前に見たのがまだ残っているのでかんたんに。

16日土曜日の午後、「土砂降り」のあとに銀座でみました。
「マダム・イン・ニューヨーク」。 ニューヨーク映画ぽいので、いちおう見た。

インドで主婦をしているシャシがNYに住む姉から姪の結婚式の手伝いを頼まれて先行して渡米するのだが、彼女は英語ができなくて、着いた途端にこりゃあかんと思ったので「4週間で英語が喋れるようになる!」の広告を見て学校に通いはじめて、その学校でのいろんな人達との交流と式に向けた準備のばたばたと。

夫にも娘にもママは英語ができない、てバカにされてて、その悔しさを時間も機会も限られてて大変な異国の地でなんとかして、どんなもんだい! やればできるじゃん!  ていうホームコメディなの。

これもインドだった「きっと、うまくいく」と同じような困難があって、意地悪もあって、はらはらして、でもみんな最後はすっきり幸せになれて、どこがいけないのよ。

HobokenからPath trainで23th(22ndの駅はないよ)まで行って、その近所の学校まで、て英語わかんないひとには難しいのによく通ったもんだよねえ、とか。

学校のみんなで映画を見にいくとこがあって、シアターはそこらのシネコンではなくて、なぜかHoustonのSunshineで「雨の朝巴里に死す」(1954) なんか見てる。 だれのどういう趣味なの?
映っている看板みると、”Margaret”(2011) とかかかってる - もういっかい見たいなあ。

別バージョンを作るとしたら、後からくる夫と子供たちを乗せた飛行機が墜落して、その直後に発覚した夫の不正でインドの資産は全て差し押さえられて、彼女はNYでひとりきりになってしまうのだが、学校で出会ったフランス人シェフとかと一緒にラドゥのトラックを出してみたらこれがあたって、飛行機で会ったおじさんの援助とかも受けつつフレンチ・インディアンのレストランを開いて別の幸せをつかむ、とか。 (朝の連ドラ向き)

もうちょっとラブコメ入れてもよかったかも。
あの旦那、ぜんぜん魅力なさそうだし。

9.06.2014

[log] LAそのた2 - August 2014

時間がないー、のですんごく雑な文章になっていていやだ。 湿気がひどくて眠すぎて、と言い訳。

LAの食べものとかそのたの。

今回の旅は、なんといってもEggslutだった。 びっくりしたので2回行ってしまった。

昨年の出張でGrand Central Marketを見つけて、中に入ったときは、がらーんとした工場みたいなとこにひなびた八百屋魚屋肉屋が並んでいるだけで、それでもなんか惹かれる場所だったのだが、今回再訪したらすんごいことになっていた。 Bon Appétit誌のThe Best New Restaurants 2014にも入っているし。

http://www.bonappetit.com/restaurants-travel/best-new-restaurants/slideshow/grand-central-market/?slide=1

で、なまけもの(偏見です)のLAぴーぽーをあそこまで並ばせてしまうやつはなんなのか、と。
Eggslutていうのは店の名前で、メニューにあるのはSlut、ていうやつで、サンドイッチとかバーガーもあるので、そういうのの一種かと思ったら思いっきりハシゴを外される。

かりかりの薄切りのバゲット数枚と、蓋されたジャムの瓶がごろん。
Webとかを見るとマッシュポテト+温泉卵、という説が多いようだが、マッシュポテトよりはやや粗めの、えぐみのまったくないポテトピューレと超半熟卵をどこかのタイミングで一緒にして湯煎して10分くらい、瓶に蓋をするまえにチャイヴを散らしてできあがり。

これをスプーンで混ぜて、パンにつけたりしていただく。パンつけなくてもぜんぜんへいき。
例えば滑らか、という食感、やさしい、という形容はこのためにある、チーズともミルクともクリームともとろとろオムレツのどれとも違う中心のないふわふわの雲のなかで舌が行き場を失って絶句。

これがさあ、基本芋と卵だけっていうのがありえなくて、くやしいのよね。
卵入りバーガーもすんごくおいしいし。

そのうち日本にも入ってくることでしょうけど、日本のジャガイモだと難しい気がする。
ニッポンジンがお芋に求めるもの(ほくほく)ってなんか特殊だし。

あとはWexler's Deli、ていうとこのパストラミがすごいと聞いてて、でも午後3時には売り切れてて、悔しかったので翌朝に行ってみたらまだ早すぎてベーグルサンドしかなかった。ベーグルが入るとまた別モノになってしまうのだが、まあおいしいったら。

カウンターのコーヒー屋、G&Bの絶妙なふうに冷えたアーモンドミルクのラテも。

ほかにもいっぱいあるの、怪しげなのが。
Grand Central Stationの地下食堂も、負けずにこれくらいのレベルまで行ってほしいもんだわ。

あと、Arts DistrictにあるThe Pie Holeて、パイ屋さん。

http://www.thepieholela.com/

パンケーキやポップコーン程度で嬉々として行列してしまうみんなにはわかんないかもしれないが、アメリカンスイーツ関係で本当に戦慄し震撼すべきなのはパイなのではないか、とFour & Twenty Blackbirds (在Brooklyn)のをいただいたときに思って、ここでも同じことを反芻する。

おかず系のとスイーツ系のがあって、Mac and CheeseのとMaple CustardとAppleと。
ここも後でもういっかい来て、ChickenとBlueberryと。

アメリカのリンゴもプラムもピーチもブルーベリーも、パイ皮に包まれて焼かれる素材、というよりそもそもはこんなパイになる、パイに生まれ変わるためにあるのね、ということがふつうに信じられる、そういう魔法がいるよね、パイって。


あと、Bestia。 イタリアン。

http://bestiala.com/

3週間前に予約しても取れたのは22:45で、しかもダウンタウンからタクシーでぐいぐい遠いし、なんでこんななにもないとこにこんなのあるの? が不思議でならなかった(隣にStumptown Coffeeなんかもある、謎)のだが、とにかくおいしいんだからあきれかえる。
Chicken LeverもSpaghetti RustichellaもPork ChopもChocolate Tartも、これはおそらく、どいつもこいつも。

NYのMario Batali系のイタリアンともちがう、Torrisiグループのとは割と近いかんじがするが、それがなんなのかはもうちょっと食べてみないとなー。 
日本のイタリアンはぜーんぜん弱いよね。 ポーションからしてもう。

食べ終わったら午前1時で車とかぜんぜん来てくれないので気をつけませう。

あと、Bäco Mercat ていうダウンタウンのサンドイッチとか出しているバー。
“slow roasted pork shoulder”ていうのとか食べて、今回豚ばっかし食べていたのだが、どこのも痺れるくらいおいしかったねえ。 ぶひぶひ。

Pie HoleもBestiaもBäcoも、なんかBrooklynのお店にいるみたいだった。
あと流れている音楽がどいつもこいつも笑っちゃうくらい最高すぎた。


日曜の昼間はHollywood Farmers' Marketに行った。 規模はUnion Squareのよかぜんぜんでっかくて、あんなに種類があると思わなかった桃とかネクタリンとか試食し放題で、いいなあ、だった。 しかもテントを抜けたその先にあったのはAmoeba Musicで、その横にはシネコンまであって、駅の近くにはTrader Joe’sまである、つまり日曜日の用事はここでぜんぶすむわけね。

まだほかにぜったいなんか。


あ、写真とかはInstagramにTalking_Unsoundていうのを作って、そこに昔のも含めて入れているので見たいひとは。 ぜんぶiPhone写真。

[log] LAそのた1 - August 2014

ありえないくらいに時間がなさすぎ。
代々木公園のあたりをお散歩したら会社休めるようになるかしら。

行き帰りの機内で見た映画とか。

Draft Day (2014)
Kevin CostnerがNFLのクリーブランドのチームのGMで、ドラフトの日の朝から運命の瞬間 - 選手指名 - までのばたばたを追う。 ドラフトは新人選手を順番に拾っていくだけではなく、指名権そのものも取引可能で、その取引材料には今後数年間の指名権とか既存選手とかも入れることができて、要はこの日の決定がチームのその後数年間とか、当面のNFLの勢力地図とかをがらりと変えてしまう可能性もあって、そこにオーナーの思惑とか現場の選手やコーチの士気とか、地元ファンの期待とか、全部がとぐろを巻いて圧し掛かってくるから大変で、だからドラマとしてはおもしろいったら。

で、Kevin Costnerは先代GMで伝説だった父の跡を継いだ後、あまりぱっとしていなくて、でも元々シアトルが取ろうとしていた期待の新人を獲得できるかもしれないチャンスがきて、オーナーとか一部の周辺は盛りあがるものの本当にこいつを獲得してよいものかどうか考え始めて、決断の時は迫って、で最後のおおばくちが。

全米各チームのGM同士のやりとりは当然電話(画面分割)で、さくさく動いていくのだが、その駆け引きのおもしろいことスリリングなこと。特に土壇場の最後の10分くらいの展開なんて手に汗握るの。 扉の裏でこそこそねちねち行われる日本のと比べるとこっちのがやっぱしすごいよね、と。

NFLもドラフト制度もぜんぜんわかんなくてものめり込めるの。 監督はIvan Reitmanさんでした。


Fading Gigolo (2013)

邦題は「ジゴロ・イン・ニューヨーク」だったか。

監督はJohn Turturroさんで以前BAMで行われた"Romance & Cigarettes" (2005) - おもしろかった- 上映のときのトーク(Susan Sarandonと一緒だった)で話を聞いたときはほんとうにべらべら映画のことばっかし話しているおっさんで、"Transformer"みたいなバカ映画に出てギャラ稼ぎつつ、Brooklynベースの自分の映画を作る、みたいなことを言っていたの。

食い扶持を失ったWoody Allenが知り合いの金持ち夫人(Sharon Stone)から3Pの相手を探しているって言われて、近所の花屋で働いていたJohn Turturroをジゴロに仕立ててお試しで送り出してみたら評判がよくて金も入ってくるのだが、彼はやがて厳しいユダヤの戒律のなかで生きている寡婦(Vanessa Paradis)と知り合って。

寡黙で、でもエロはすごそうな偽ジゴロを演じるJohn Turturroがよくて、しんみりした終わりかたも素敵で、女衒(男衒?)役のWoody Allenは、あんなことがあった後だとその頑迷ぶりがあんたねえ... なのだが、全体としてはブルックリンの地味な生活がしみてくるよい映画だった。


Transcendence (2014)

これは帰りの便でみたやつ。

Will Caster(Johnny Depp)はAIの世界でトップを行く科学者で、反電脳過激派に狙撃されて余命一ヶ月になって、その間に作りかけだったAIに自分の脳みそをアップロードして死んじゃって、そしたらディスプレイの向こうが「ぼくはWillだよ」とか言い出して、悲しみに暮れていた妻は「あああなた…」とか言って喜んで、そのプログラムは勝手に株だか為替だかで稼いできてそのお金で沙漠の真ん中にでっかいデータセンター作って、次から次へとブレイクスルーして万能人間とかクローンまで作りだすようになって超越(Transcendence)した神になって、誰にも止められなくて、そうだ電気止めてやればいいんだ、とか言って電気止めてやったら原始時代になっちゃうの。

AIでもどらえもんでもいいけど、みんななんかITの未来に過剰な期待しすぎでつっこみどこ満載で、それだけでなんかしらけちゃうのだった。まあねえ、昔からあるようなB級SFとして見ればよいのだろうけど。
極端に暴走したエモとテクが善と悪の境界を… ていうのはChristopher Nolanのお好きなテーマのようだが、なんかつまんないの。 こんな程度で「暴走」して壊れる世界なら始めからいらねえ、壊しちまえ、とか。

あと、あんなデータセンターじゃさあー…(ひとりごと)

残りの時間は”The Other Woman”とか見てた。
Cameron DiazとLeslie Mannの絡みがとにかくすんばらしくてー。


滞在中、ホテルのTVはデジタルのほうがちょくちょく死んでしまうのでがっくし(ま、そんなもん)だったのだが、26の晩のJimmy Fallonには“Dumb and Dumber To”のふたりが出てきて、その間のTVは落ちなくてとっても幸せだったの。


本とかレコードとか。

本屋は、近所のThe Last Bookstoreに入り浸ってて、とにかくとっても居心地いいったらないのだが、どちらかというと中古レコードのコーナーのほうばかりにいた。

なぜかドイツ関係のがいっぱいあって、ノイバウバウとか、クラフトワークの独語版12 inchとか買ったり。

レコード屋はついに、HollywoodのAmoeba Music に行った。 (こないだのSFでは通り過ぎただけ)

あまりにもすごすぎて多すぎて、とても手に負えない。
再発されたThe Posiesの1stとか、REMの”Right On Target: 1984 Live Broadcast”とか、Alex Northの”Death of a Salesman”とか、掘ろうと思えばあと2時間でもやっていられたが、今回そういうのはしないから身を引き剥がしたの。

あと、買わなかったけどArts Districtに床屋とレコード屋がくっついたのがあった。
床屋らしいかんじ(てきとー)のR&BとかJazzとかFunkの中古がいっぱいで、これならLPのジャケット拾ってこの髪型にして、とかやりやすいよね。

http://theartformstudio.com/

そういえばLA、至るところで床屋にぶつかった。 あれってなに?