7.30.2019

[log] July 2019

7月にあったあれこれをまとめて。

Wimbledon

スポーツに関しては、しない見ない買わないの3原則を貫いて生きてきたので、ロンドンに来て誰もが喜んでいくサッカーも全英オープンゴルフもクリケットも全然、だし、夏の風物になっているらしいWimbledonのために朝5時に起きて走ってチケットの列に並ぶ、ていうのも一切無縁で来たのだが、ここにきて仕事の関係でお誘いがきて、断るのも面倒だしパスしようと思ったのだが女子シングルの準々決勝とかいうし、文系観点から見ておいても面白いかも、っていくことにした。

ただ集合は11:00とかでまずランチ食べてから、とかタイムテーブルにはアフタヌーンティー、とかも入っているのでげげ、ってなって、仕事との辻褄みたいなとこでいうとあれこれ面倒ぽいので、会社休んでいった。 テニス観戦としては90年代の全米オープン以来。(←今回のと同じ動機)

最寄りの駅まで地下鉄で、そこから沿道を20分くらいみんなぞろぞろ歩いて、どっか田舎のライブハウスに向かうかんじ。 センターコートはスタジアムふうではなくてランチもコースでちゃんと出てきて、時間過ぎたらクラシックのコンサートみたいにゲームが終わるまで入れてくれないし、入ったらマナーはうるさくてお喋りしていると怒られるし。

最初のゲームはSerena Williamsが登場、だったので、わーかっこいい!しかない。彼女が勝って、アフタヌーンティー(+名物らしいイチゴのクリームかけ。飲み物のPimm’s ← 危険)して、次のは英国の選手(Konta)が出ているので盛りあがって、でも彼女は惜しくも負けちゃって、更にこれで終わりではなくて、夕方から混合ダブルスもあって、Serenaがまた出てきたのでびっくりした(Andy Murrayとの夢の組合せ - だって)。

相手方の男性の138mphのサーブをぱしーんて一瞬で跳ね返したつーんとしていたSerene、MCUのヒーローみたいにとんでもなくてあれを見れただけでも。

全体のノリはクラシックの音楽会みたいで、みんなテニス愛に溢れていて、なんかよかったかも。

Royal Ascot(馬)も行っておいたほうがよいかんじがしてきた。

Manga

大英博物館の展示。13日の土曜日にようやく見た。周りが割とすげーすげー言ってるのでなんかあんま乗らなくて。こういうのって、自分の好きな漫画家や漫画がどれくらい展示されているかによって評価分かれたりするのかもだし。 わたしが最後に漫画誌を定期的に買っていたのは80年代初のLaLa(それはそれはすごかったんだから)までで、それ以降は特定作家の単行本を除けば完全に止まっているので、あれこれ言う資格なんてないのだろうけど、そんなんでもひととおりは楽しめたかも。

最近思うのは高度成長期の「あしたのジョー」とか「巨人の星」とかのスポ根モノとか後の少年ジャンプ的なあれこれが量産してまき散らした価値観とか精神風土ってぜったいに今のブラックでヤンキーで女性蔑視まるだしのにっぽん企業文化の根っこにあるよね(そして批判されないよね)、ってことと、さらにこれが最近の日本すげーの(日本だけの)空気に乗って拡がっていくこと(キュレーションした人にそんな意図がないことは十分にわかるものの)を想像するときついなー、って。

でも「ねじ式」のあの原画とか、国芳の鯨退治から「さよならにっぽん」の表紙とか、「!」、のところもいっぱいあった。

でも大島弓子がないのはさー、とか。 やはりウナギイヌじゃなくてニャロメではないか、とか。

でもみんな親子でわいわい楽しそうに見たり読んだりしているのはよいなー、って。

ほんとはこういうの、常設で展示閲覧できる施設が日本にあるべきなのよね。

大英博物館のこれまでの日本関連企画展、春画→北斎→漫画 って別にいいけど、もっとよいの絵だっていっぱいあるのになー、とか。

あと、大英博物館でいまやっている展示だと”Edvard Munch: love and angst” もすばらしいので、こちらもぜひ(ぜったい)。

Félix Vallotton: Painter of Disquiet

Royal Academy of Artsで、14日に見ました。2014年に三菱一号館でも特集があったVallotton。

キャリア初期のパリ時代の技術はすごいのだが、やはり室内のドラマを描いたひとなんだなあ。10枚組みの木版画 - “Les Intimités” (1897-98) で描かれた愛憎がこの展示のメインヴィジュアル - ”La Visite”(1899)に繋がっていって、家具や人物の配置と色彩がもたらす緊張、ひとりの顔はいつも半分しか見えないこと、など、それらを/それでも「親密さ」で括ってしまう強さ。 
あとはGertrude Steinの堂々とした肖像画とかRed Pepperとか。

関係ないけど、Second Shelf(古本屋)でGertrude Steinの古本を買ったりしているのだが、こないだ、ほれこんなのあるよと見せられたのがあって、頭を抱えている。

Summer Exhibition

Royal Academy Artsの夏の風物詩 - Summer Exhibition、今回はじめて行ってみた。

よく並べたよね、ていうくらいのすごい物量で、家具屋とかその倉庫みたいにどっさり並べられていて、渡された冊子で値段をみて、欲しければ後でオンラインで購入することもできる。写真・絵画系だと£1000~£5000くらいのが多いけど小さいのだと£200くらいのもあるし、見ていると笑っちゃうのもあったりして楽しい。 アートってなに? っていう子供にはここに連れてくればよいのかも。過去にはすごい人たちもいっぱい参加しているの。

https://www.royalacademy.org.uk/summer-exhibition
 
Van Gogh and Britain

21日にTate Britainで。 ゴッホが若い頃(1880年代)に訪れた英国で、彼がいかに英国の風景画や下層階級の生活を描いた作品から影響を受け、自身の視野とかスタイルを確立していったのか、を英国いいでしょ?の観点を交えつつ掘り下げている。2017年にここであった展示 - ”Impressionists in London” とおなじようなかんじ。

もちろん彼から影響を受けたという英国作家の絵もいっぱいあって、Vanessa Bellが描いたRoger Fryの肖像とか、そうなの? もあったけど。Francis Baconのゴッホ3部作については、Vincente Minnelliの”Lust for Life” (1956)からの影響あるよね、とその動画も並べてあるのだが再生機械が壊れていたり。

あと、Dulwich Picture Galleryの記帳にゴッホのサインが!とか。

BBC Proms

今年もやってきたBBC Proms(低価格でいっぱいクラシックを聴こう)の季節。
最初のは28日、日曜日の晩、Royal Albert HallでBBC Symphony Orchestra (conducted by Sakari Oramo)の演奏で、Olivier Messiaenの”Des Canyons aux Étoiles …”   『峡谷から星たちへ…』。1曲約100分休憩なし。

当日チケットを取ってなんとなく行ったのだがなかなかものすごかった。
70年代初にAlice Tullyが委託してAlice Tully Hallで初演されたアメリカの大自然をテーマにした作品、とのことだが、ピアノとホルンと鉄琴と木琴のソロ、さらに奥にパーカッション5人で、あんなにきーきーさーさーひゅーひゅーかんかんぽこぽこ高音域(鳥とか風とか)のやかましい、現代音楽した現代音楽って久しぶりで爽快だった。

今シーズンのPromsは他に、Jonny Greenwood氏特集、とかYuja WangによるRachmaninov(は今のとこ絶賛売り切れ中)。行けるときに行ってみよう、くらいで。


英国の首相が新たに白ブタ野郎(白ブタごめんね)になって、米国の膨満レイシスト屑大統領もそうだけど、あの喋り方がほんとうに嫌で嫌いで、家のTVであの声が聞こえてくると消す、をやっていると殆どTVつけていられなくなってしまった。 これでは日本にいるときとおなじではないか。別にいいけど。

誰も騒いでないし騒がれないだろうけど、Sacred Pawsの新譜はよいわ。大好き。

7.29.2019

[film] Apollo 11 (2019)

21日、日曜日の午後にBFIで見ました。 ほんとうは50周年その日の20日に見たかったのだが、みな同じことを考えるようで、この日のはあっという間に売り切れていた。

20日近辺は英国でも結構月面お祭りモードで、The Times誌(新聞)は紙面いっぱいに発射 〜 月面着陸 〜 帰還からまでの工程図解を昔の子供図鑑とか小学n年生風にこまこま解説していて、楽しいのでずっと眺めている。

当時70mm、35mm、16mm等で撮影されて公開されないままになっていたフィルム、いろんな写真、ニュース映像、等の素材を洗って縫い目なく繋いで紡いで(今年のサンダンスではSpecial Jury Award for Editingを受賞)発射前のヒューストン界隈の様子から海に落下してしばらく隔離されて家族と抱きあうまで、ナレーションは一切いれず、旅と時間の流れに沿って当時の交信記録やニュースの音声をそのまま流しているだけ。93分あっという間の3人とみんなの旅。

苦難大規模プロジェクト大好き日本だと「プロジェクトX」みたいな後付けみえみえのナレーション(あれきらい)を入れまくりそうなところでも静かに放っておいているのがすごくクールで、他方で当時の音声を(例えば30トラックテープから)選り分けてきれいにシンクロさせるのは相当大変だったみたいだけど。

こんなの、ぜんぶ安全無事に遂行されて(だから)歴史に刻まれたわけでしょ、というのがわかっていてもどうしてもどきどきわくわくしてしまうのはやっぱり編集がうまいからだろうか。気がつくと時間が少し経過していてあらもうこんなところまで来ちゃった・やって来た.. その感覚への導き方が絶妙というか。これ、ドキュメンタリー、って断り入れずに見たらそのままSF映画として見てしまえそうな気がする。それくらい遠近(月、地球、地上、センター、ディスプレイ)や人物(宇宙飛行士たち、管制チームとそのリーダー、見守る人々)の像が巧みに構成されていて、爆発的な発射のシーン(ここほんとすごい)と月面着陸を転回点に物語全体がきれいな軌道を描いているような。

個人的なことだが、着陸した後、月から戻ってくるところって、小さい頃に月着陸の話を読むだか聞くだかした際、理解するの大変そうだし面倒くさそうだから後でいいや、ってそのまま放って謎のままになっていた(← 性格がよくでている)ことを思いだし、今回きちんと学べてよかった。あんな混みいったでんぐり返りみたいなことをやっていたのかー。

記録としてもだし、教育の観点からもすごくよい映像だと思う。ロケットのでっかさ、発射時のやかましさ、宇宙の、無重力の静けさ、月面の異世界感、関わった人の多さ = 複雑さ、見に集まった人の多さ = お祭り感、いろんな規格外が一目瞭然で広がっていて、世紀の一大イベントだったことがわかる。これに比べたらオリンピックもワールドカップもちいせえし、もう二度とできない - どっかのちんけな成金がくだんない自己満で月に行ったとしてもこれとはぜんぜん別のだし。  20世紀の思ひで。

それらをいっぺんに(追)体験することができるのがこの映画だ、って宣伝コピーみたいだけど、それにしても、こういうのが出ても、月面着陸はフェイクだって言うひとは未だにいるのね - Rolling Stone誌の記事にあったけど。

あと、サマームーヴィーでもあるねえ。なんかちょっとだけ涼しいかんじも。

7.28.2019

[art] Lee Krasner: Living Colour

18日の夕方にBarbicanのGalleryで見ました。 もう少し早く来るはずだったのに。

米国の抽象表現主義(Abstract Expressionism - この訳、これでいいのかしらっていっつも)の画家 - Lee Krasner (1908–1984)の、ヨーロッパでは50年以上ぶりとなる大規模展だそう。
この人を語る時にいつも言われる -  Jackson Pollockの妻として語られがちだがじつは絵画「も」すばらしく - という言い方がとんでもなく失礼であることがすぐにわかる。

展示は、年代順に追う構成ではないものの、1920年代の自画像から30年代にHans Hoffmannに教えを受けつつ(すごくよい写真あり)空間の捉え方を模索した頃から、戦中のプロパガンダアートの時代を経て、51年に最初の個展を開き、それ以降はー。

ある時期までパートナーとして横にいたPollockのそれとはどこまでも異なる色や空間、動きに対する目線、感応、手法、メディウムなどなど、それはあえてPollockと違うことをやろうとした、のではなく彼女が初めから自身の目と意思をもったひとりの画家であったことがわかる。  別にPollockをけなすつもりはないけど、彼を持ちあげて彼女を相手にしなかった当時の画壇のしょうもなさ、というのも見えてくるわ、というくらいにどの作品も、テーマ毎の変遷もすばらしく、個々に書いていくと長くなるのでしないけど、描かれた絵画って、それがどんなに抽象的なものであっても我々が見て生きている時間や空間と地続きであって、それ自体で切り離されたなにかとしてあるわけではない - Living Colour -  ということの切り返しで抽象について、アートについて思索すること、その大切さ、必要性は何度も繰り返し説かれているような。

このへん、こないだ遺作を見て、関連作品を見て、いろいろ思っているAgnès Vardaのこともあるのだが、それはまた後で。 あと同時代でいうと、こないだまでTate Modernで回顧展をやっていたAnni Albersのことを思い出したり。

 この展覧会の関連企画としてBarbican Cinemaの方では”Bebop New York - Birth of American Indie Cinema”ていう、50年代後半以降のアートの試みを映画方面からも探ってみよう、ていう週一回くらいの特集上映会があって、6回あったうち2回だけ行けた。
 
行けなかったのは、Cassavetesの”Shadows” (1959)、Stan Brakhage: An Adventure in Perception - 短編3つ、Peter Emmanuel Goldmanの”Echoes of Silence” (1964) + “Pestilent City” (1965)、Shirley Clarkeの”The Cool World” (1963)、とか。 行ったやつは↓

Women Independents  

6月12日に見た。彼女がNYで個展を始めた頃、同様に映像 - 映画に取り組み始めた女性作家3名の短編 - 殆どが16mm - を集めて、これだけでも全部で52分。 

Dwightiana (1959)  Marie Menken
Eye Music in Red Major (1961)  Marie Menken
Notebook (1962)  Marie Menken
Bridges-Go-Round (1958) Shirley Clarke
Divinations (1964) Storm de Hirsch
Peyote Queen (1965)  Storm de Hirsch
Third Eye Butterfly (1968)  Storm de Hirsch

イントロをしたHelen de Witt氏によると彼女たち - Lee Krasnerも含めておそらくどこかで会って話したりしていたのではないか、とそれくらいカメラを手にした彼女たちの対象や光やフレームに向かう実験のありようは似ているようで、当時、この分野の女性の先駆としてはMaya Derenがいたわけだが、だからなにさ、て好き勝手にやっているのが頼もしい。 そういえばひとつの短編では伊藤貞司が音をつけていた。

In the Street 

6月25日に見た。割と有名どころの都市風景を中心とした短編集。 MekasのもKleinのも見たことあるやつだったが、Helen Levittって映画もやっていたのかー、とか。 山や森や海や川とはちがう、都市の不思議なありように、撮る側が驚きつつ楽しそうにカメラを構えているような。

In the Street (1948/52)  Helen Levitt, James Agee, Janice Loeb
Daybreak Express (1953) DA Pennebaker
Williamsburg, Brooklyn (2003) Jonas Mekas  
Under the Brooklyn Bridge (1953)  Rudy Burckhardt
East Side Summer (1959)  Rudy Burckhardt
Broadway by Light (1958)  William Klein 

7.26.2019

[film] Gwen (2018)

20日土曜日の昼、CurzonのBloomsburyで見ました。

監督William McGregorのデビュー作で、昨年のトロント国際映画祭でお披露目されて、Gwenを演じたEleanor Worthington CoxさんはRising Star awardを受賞しているのだが、ものすごく地味で希望なんてかけらもない底辺系の英国映画なので日本公開はされないと思う、けどとてもよい映画だからー。

19世紀、産業革命の頃のウェールズの田舎(というあたりはどこにも出てこないので後から知った)にGwen (Eleanor Worthington Cox)と小さな妹と母のEllen (Maxine Peake)の3人が暮らしていて、かつて父がいて親子4人だった頃は楽しかった(この思い出が数回フラッシュバックされる)のに、出て行ってから母は子供たちにきつくあたったりするので、Gwenと妹はいつも固まって一緒にいる。

生活はずっと苦しくて畑で採れるお芋はあんまよくないし、野菜の行商に町にでてもさっぱり売れないし馬は事故で失ってしまうし、教会から戻ると羊の心臓がドアに打ちつけてあったり、夜中に羊たちがみんな殺されていたり、嫌がらせのようなことが続いて、どうも町の男たちが彼らの農地を狙っているらしいことがわかって、そんなときに母が痙攣の発作を起こして倒れて医者に来て貰うのだが薬を買うお金もないから.. 

といったこの先どうなっちゃうのさ、が主にGwenの目線で綴られて、よく扉の向こうにいる母は時々なにかに憑りつかれた魔物のように見えて(変貌して)しまうこともあって、こわいよう。

当時の貧困や困窮は子供たちの目から見るとこんなふうで、それはどこまでももやもやと暗く恐ろしく行き場がなくてどうすることもできない、というのが極めて具体的に描かれていて、でも医者はひょっとしたら善いひとかもしれないし、教会でたまに目があう男の子も助けてくれるかもしれないし、ひょっとしたら父親が帰ってきてくれるかもしれない、けどやはりぜんぶだめで。 母を頼ることもできずにそれらにまっすぐに立ち向かうGwenはそうするしかないから、という必死さを込めた静かな演技でこちらに迫ってくる。

ただ、結末までどこまでも暗く黒く塞がっているし、当時はこういうことってふつうにあったのだろうなー、て思うし、さらには現代の貧困だってこんなもんなのかも、とかいろいろ。 Gwenを演じたEleanor Worthington Coxのすべてを透過して見ているようないないような目の置き処がすべてで、そこに希望なんてないのだが、でも.. 

屋外は昼間ずっとどんより曇っていて夜は当然真っ暗で、屋内も蝋燭の光しかなくて、本当にとっても光量の少ない映画で、様式からするとゴス・ホラーのそれくらいと思うのだが、あれらよかよっぽど怖いかも。 
終わって外に出たら眩しかった。冬に見たらきついかも。

7.25.2019

[film] The Lion King (2019)

19日の金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。初日だったのは偶然だよ。

94年のアニメーションもブロードウェイミュージカルも見ていない。
Jon Favreauのひとつ前の”The Jungle Book” (2016)は見ていて、あれ人間いなければいいのにな、と思っていたら人間でてこないやつがでてきたので、動物を見に行った、と。

筋だけだと王国・王室、というよりやくざの跡目争いみたいな(だけの)お話しで、ボスライオンの男子が成長していく途上で、パパのやくざな兄弟がパパを殺して、その死を息子のせいにしてもう近寄るな、って脅して追い払って自分のシマを作り、追いだされた方は新しい土地で仲間に出会ってまっすぐよいこに育って、やがて助けを求めてきた幼馴染と再会して、悩んだ末に荒れ果てた生地に戻って戦いの末に取り戻すの。

でもこれらをぜんぶナマの動物たちが喋ったり歌ったりしながら演じているの、演じてはいないのか、アニメーションに近いのか。小さい頃「ジャングル大帝レオ」で動物たちが行列つくって行進していくのとか、動物図鑑のアフリカの草原の絵とか、あれは絵空事だよ、って言われてがっかりしたあれこれが本物ぽいリアリティとスケールで実現されていてすげー、なのだが、そうするとやっぱしこれって、「ジャングル大帝レオ」じゃないの? (白ライオンにすれば)とか思って、改めてSNSとかで盛りあがらないかしら?

だんだん見ているとよくわかんなくなってきて、だってこの大地にいる動物達は自然の状態だと普通に殺しあって騙しあって飢えて戦って交尾して産んでみたいなことを自身や同族が生き延びるために日々ずっと反射的に(動物的に)繰り広げていて、うまくいけば生きられるしだめだったら死んじゃうし、それだけだと思うのだが、この映画の動物達ときたら司祭的な長老猿からなにからある種の秩序とかバランスとか行動原理とか原則を保って生きていて、それを維持するのが強い側の使命でそれに従うのがその下の弱い側の掟で、その定められたありようを壊すのは悪いやつで許されない、という構図が初めに明確にあって、昔はそういうの「大自然の掟」とか言っていたのかも知れないけど、それって今やアニメーションとかおとぎ話の設定としてはわかるし、人間の俳優を使ったドラマとしてもわからなくはないのだが、それが本物(に見える)動物達が血の一滴も肉の裂け目も見せずにわいわい歌ったり踊ったりしながらアンサンブルで演じているのってどういうことなのかなあ、って。 なんかものすごくリアルな人型ロボットが演じるポルノ(ファンタジー)を見ているような。 あるいはたんに、いやそれがディズニーというものだから、で終わり?

あと動物の♀がみんな女優さんの声で動物の♂がみんな男優さんの声っていうのはいいの?  動物の生態や性役割によってはヒトのベースで簡単に括っちゃいけないんじゃないの?  (日本語字幕がどうなるかは見ものかも)(動物界にもPCを)

でもたぶん作った側からするとこんなことまでできるんならおもしろいからやっちゃえ、くらいではなかったか。 監督はJon Favreauだし。 Netflix の”The Chef Show”とか見てるとぜんぜんきらいになれないのよねこのただのお料理食いしんぼうやろう。

あとやっぱりイボイノシシのSeth Rogen 、いいよねえ。イボイノシシのところだけ、彼がそのまま演じたり突進したりするのが目に浮かんでくるのだった。

ところで、Merge Records30周年ライブでSpinanesが再結成だって!!!

[film] Enamorada (1946)

仕事でモスクワに行ってて、さっき戻ってきた。
今日のごご、2003年夏に記録された英国の最高気温が更新されて、その近辺に4日間放置されていた部屋(冷房なし- 窓は少し開けておいた)はぼうぼうに燃えあがっていて、窓辺で蜂とか亡くなられていて、こういうところで、暑さでひとは死ぬのか、と思った。

BFIのメキシコ映画の黄金時代特集で見たやつを3本まとめて。

Enamorada (1946)


14日、日曜日の午後に見ました。日本公開はされていない?

監督はこないだ見た”Víctimas del pecado” (1951)  - “Victims of Sin”を監督したEmilio Fernández。この人は、”The Wild Bunch” (1969)とかの俳優としての方が有名かもしれないが、初期は監督として映画をいっぱい作っていて、彼の父はメキシコ革命時の将軍で、彼自身も十代の頃、革命に参加していたという、この作品にはその辺の事情や経歴が反映されているみたい。あと、シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』とか。 すごくおもしろかった。

革命軍が勇ましく突撃していくところが冒頭で、町に侵攻した革命軍の将軍のJosé Juan Reyes (Pedro Armendáriz)はそこの金持ちを全員ひったてい!って命じて連れて来られた中にはBeatriz Peñafiel (María Félix)のパパもいた。そういうのが腹立たしくてしょうがないBeatrizは気安く声を掛けてきたJoséを強烈ビンタで馬から叩き落として、それでJoséはBeatrizにひとめぼれして追ってくるのだが(よくわかんないけど)、Beatritzは彼を花火屋で返り討ちひだるまにして、これでJoséの恋の炎が燃えあがって(よくわかんないけど)、でもどうしてよいかわからないし彼には革命もあるし幼馴染でBeatritzの家に出入りしている神父(Fernando Fernández)とかに相談してみるのだが、恋の病と革命の使命の間で揺れてぐらぐらで、Beatrizには既に婚約者がいるし、革命軍への包囲網ができはじめているし、男の十字路に立たされてどうするJosé? なの。

Martin Scorseseのお気に入りの1本で、2018年のカンヌでこれのリストア版がお披露目された際には彼がスピーチをしたのだそう。なんかわかるかも。

Dos monjes (1934) 

10日、水曜日の晩に見ました。 英語題は“Two Monks”。これも日本公開はないの?..

30年代のメキシコのゴス・ホラーフィルムと聞いて絶対おもしろそうだ、って。

男子ばかりの修道院で悪魔祓いの儀式が行われていて、祓われているのはJavier(Carlos Villatoro)だったのだが、ある僧が聴聞に現れるとおまえJuanだな! って彼は逆上して取り乱して、落ち着くとなんでそういうことをしたのかについて過去を語り始める。 

Javierは母と暮らす才能溢れる作曲家で、通りの向かいに暮らすAna (Magda Heller)を見初めて、やがて一緒に暮らすようになるのだが、Javierの旧友のJuan (Victor Urruchúa)が現れると少し事情が変わってきて、JuanとAnaは過去になにかあったらしく、JavierとAnaの結婚式の直前にAnaは殺されてしまう。

これがJavierが修道院に流れてきて悪魔祓いされる原因だったのだが、そこに現れたJuanが語った過去とは…
修道院の陰影たっぷりの描写とか老修道僧の顔立ちとかは宗教画ゴスしててかっこいいのだが、ストーリー展開も結末も特にゴスみもホラーみもなくて、そこがなー。

La mujer del puerto (1934)

16日、火曜日の晩に見ました。 英語題は“The Woman of the Port”。

Rosario (Andrea Palma)が原っぱで恋人といちゃついているのが冒頭で、彼女は彼に父親に会いにきてほしい、というのだが彼は適当にお茶を濁して、彼女が家に帰ると父親は病弱で死にそうで、薬を買いに娘が留守にしたところで彼に発作が起こって、助けを求めて階上の家に行くとさっき彼女と会っていた男が別の女と寝ていて、彼は父親を階段から蹴落して殺してしまう。

戻ってきた彼女は泣き崩れて、身寄りも家も失ってしまったので、港の酒場に身を寄せて。
で、ある日ギターを抱えた陽気な船乗りが酒場に現れて仲良くなっていろいろ話していくと、そいつは幼い頃に生き別れた弟で、それを知った彼女は翌朝…

最初のシーン以外はどこまでも救いようなく落ちていくお話しで冗長なシーンもいっぱいあるし、うぅー、なのだがRosarioを演じたAndrea Palmaさんの佇まいはMarlene Dietrichとしか言いようがないかっこよさで、映画はヒットして彼女はメキシコの大女優になったんだって。

7.21.2019

[film] Werk ohne Autor (2018)

15日、月曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。 英語題は”Never Look Away”。188分。

一応フィクションなのだが、画家Gerhard Richterの生い立ちと人生にインスパイアされた、と言っていて、でも出てくる絵画はもろ初期のRichterのそれだし、Düsseldorf Art Academyでアートの先生として出てくるのはどう見たってJoseph Beuysなのに違う名前で、なんかへんなの。(Reichter自身はこの映画を認めていない模様)

ナチスが台頭してきた頃のDresdenで、幼いKurt BarnertがおばのElisabeth (Saskia Rosendahl)に連れられて巡回のEntartete Kunst - 頽廃芸術展 - Neue Galerieのコレクションそのものだわ - を見て、アートに目覚めるところが冒頭で、ラディカルでかっこいいElisabethはKurtにそういうアートも含めて”Never Look Away” - 目をそらしてはいけない - というあたりを教えるのだが、彼女はその無防備な挙動から分裂症と診断されてナチスの施設に強制的に連れ去られて、婦人科の教授Carl Seeband (Sebastian Koch)は彼女を収容所に送って、やがて彼女はガス室で..

第二次対戦が終わり、ロシアによって戦犯として捕らえられ牢獄に入れられたSeebandは、ロシアの高官の妻の難産を救ったことから釈放され、Dresdenのアートスクールで絵を学ぶKurt (Tom Schilling)はおばにそっくりで同じ名前のElisabeth - Ellie (Paula Beer)と出会って付きあい始めるのだが、Ellieはおばを収容所送りにしたSeebandのひとり娘であった、と。

絵画の技術は申し分なかったのに当時の社会主義アートのありようには馴染めず、自分のスタイルを模索して壁にぶつかっていたKurtは、Seebandが(彼を釈放したロシア高官が国に帰ってしまい逮捕される可能性が出てきたから)西側に渡ったその後を追うように、Ellieとふたりで壁で分断される直前のDüsseldorfに渡り、当時もっともぶっとんでいたDüsseldorf Art Academyで(誰がどう見たって)Joseph Beuysに接して影響を受けるのだが、Beuysの社会、戦争とアートを巡る言葉などがもっともであればあるほど、自分の絵を描けなくなっていく。

人間関係のドラマとしては最愛のおばを殺した(奴であることをKurtは知らない)元ナチスの戦犯を義父 - とてもやな奴 - として持ちつつもEllieとの愛を貫いた、くらいで、あとは激動の戦後ドイツを生きながら、アートは社会にとってどうあるべきで、自分の絵画(voice)はそこにどう関わることができるのか、で苦しむKurtの姿と、Seebandのナチス時代の上官が逮捕されたという新聞写真から写真絵画を描きはじめて何かを掴むまで、がほとんどで、でも、だからといってそこから彼のアートに関する視野視点が示されることもないので、そこがなー。

ジャーナリストが2002年にGerhard Richterのおばがナチスの収容所で殺されていること、更に彼の義父がナチスの高官で医師であったことを明らかにした、そこから転がして作ってみたお話のようなのだが、そういう事実があったからRichterのアートがああなった、なんて軽く結べるほど彼のアートは狭くちっぽけなものではないので、最初から企画として無理だったのではないか。 はったりでもよいのでKurtに自分の言葉でなにか語らせればよかったのに。 アートに関して一番残るのはJoseph BeuysがKurtに向かって語る言葉で、それは圧倒的に正しいのだが、それでよいの?

BeuysからRichterへの線について考えるよい機会にはなったことは確か、だけどさ。

ただ、ナチスと戦争によって壊された市民の生活とそこを通過してアートはどうあろうとしたのか、を戦後のアバンギャルドのような「ムーブメント」とは別の角度からねっちり描いてみようとした、というところはわかるし、ひとつの家族、ひとつのカップルにフォーカスしたことでとてもドイツっぽい緊張感溢れるドラマにはなっていた、と思う。
でも、この設定だとどうしても浮かんでしまうのは『ブリキの太鼓』とかなのよね。

音楽はMax Richter節が全開で、ずーっときりきりくるくるしていて、たまんなかった。

日本ではこないだのBeuysのドキュメンタリーと一緒に上映してほしい。

あー許されるものなら亡命したい ...

7.18.2019

[film] The Dead Don't Die (2019)

14日、日曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。邦題は『死なない死人』しかないと思う。
以下、たぶんネタバレしている。こないだのカンヌでお披露目されたJim Jarmuschのオールスターゾンビ映画。

アメリカの田舎のCentervilleていう小さな町で、農民のMiller (Steve Buscemi)から通報 - チキンを世捨て人のHermit Bob (Tom Waits)に盗られた -  を受けた警察のCliff (Bill Murray)とRonnie (Adam Driver)が森のなかを歩いてBobを見つけるのだが、いつものように適当にごまかされるので、もうやるなよ、くらい。

帰りの車とみんながいるダイナーで、夜なのに陽が落ちないこととか時計や携帯が止まったとか北極の異常事態(polar fracking)のことが話されて、月が怪しく光っていて、Hermit Bobは怪しいキノコを見つけて.. これは出るぞ出るぞと見ていると最初にIggy PopとSara Driverの二匹が現れてダイナーにいた女性を食べてしまう。そこから先は地中からわらわら湧いてくるゾンビたちに向かいあうことになったCliffとRonnieとMindy (Chloë Sevigny)の地元警察(メガネトリオ)、Scotlandから来たらしい妙な葬儀屋の主人Zelda (Tilda Swinton)とか、雑貨屋とハードウェア屋のHank (Danny Glover)とBobby (Caleb Landry Jones)のふたり、少年拘置所の3人の子供たち、Clevelandから車でやってきたヒップな若者たち3人(Selena Gomez他)のそれぞれに戦ったり逃げたり喰われたりしてしまう様子、なんとなく喰われないままそれを遠くから見ているHermit Bob、などが果てのない夜に向かって交錯していく。

特定の誰かが悪いとか前世からの因果か、とかいう話でも、特定・特殊地域でのなんかが、というよりもそもそも地球とか地軸がぶっ壊れているらしく、原因がどうの、をどうにかしてみたところで収束するような話ではないみたい。どうしようもない。あーめん。

音楽は、Sturgill Simpson(彼、Guitar Zombieとしても出てくる)の”The Dead Don't Die”が何度も、頻繁に流れてくる。”Stranger Than Paradise” (1984)で Screamin' Jay Hawkinsの"I Put a Spell on You"が呪いのように響いていたのと同じように。Cliffが「なんでこの曲ばかりが?」と聞くとRonnieは「だってこれ、テーマ曲だもん」と。同様に後の方でのふたりの会話から、この話がメタ・フィクションであり、今の我々の世界にそのまま繋がっていることがわかってくる。だから(会話には”Zombie”とか”Ghouls”とか出てくるけど)湧いてくるのは”The Dead”であり、これらが死なないで外をずるずる歩いていること、その数の多いことやばいことときたら。

なので、ex-Ghost BustersだったはずのBill Murrayも不敵なKylo RenであるはずのAdam Driverもぜんぜん頼りないし、Chloë Sevignyはめそめそ泣いてばかりだし、唯一浮世離れした存在感を見せるTilda Swintonさんときたら..

頭を吹っ飛ばさない限りこちらに向かってきてひたすらヒト肉を食べようとする死者たち、それがどうして嫌かと言うと死んでいるから話しなんて通じないのに、機能しないから食べてもしょうがないのに、愛がないから殖えてもしょうがないのに、自分たちの仲間に引き入れようとするから。頭の中には砂しかないのになんでそんなやなことするの? できるの?  死者を冒涜するその挙動が生者を脅かして貶めて仲間にひきいれて無間のループとその渦面積を爆発的に広げていく、その救いのなさときたら。
はて、この光景、どっかで見た気が…

後にしみじみ残るのはJim Jarmuschの今の世に対する怒りと絶望の深さで、同じ化け物を扱った”Only Lovers Left Alive” (2013) なんてとってもロマンチックだったのになあ、って(タイトルも対照しているかも)。George A. RomeroのZombi映画 – そういえば彼も”Dead”呼ばわりしていた – の底の抜けたのと同質の暗さを感じた。いまのアメリカの、赤い帽子被ったバカ共、みんな喰われちまえ、とか。

しかし、Tom Waitsだけはどこに行っても不死身だねえ。”The Ballad of Buster Scruggs” (2018)もそうだったけど。

それにしてもIggy Popは、あれだけ? あれじゃふだんと変わらなさすぎない?

7.17.2019

[film] The Watermelon Woman (1996)

8日月曜日の晩、BFIの特集 - ”Nineties: Young Cinema Rebels”で見ました。 この特集でみる最初の1本。 ぜんぜん追えていないのだが、この特集、”Tetsuo: The Iron Man” (1989)とか「ソナチネ」 (1993) なんかも上映しているのね。

1993年のフィラデルフィアで、レンタルビデオ屋の店員をしているCheryl (Cheryl Dunye) - 監督本人 - がいて、レスビアンの彼女は一緒に働いているTamara (Valarie Walker)と一緒にフィルム製作をするのが夢で、ネタを探しているうち、30-40年代の映画に出てくる黒人女優の多くがクレジットされていないこと、更にお気に入りの”Plantation Memories”に”mammy"として登場する女性が"The Watermelon Woman"としてクレジットされていることに興味を持って、彼女のことを探って、それをドキュメンタリーにしてみよう – で、この映画はそのドキュメンタリー制作の過程を追ったフィクション – モキュメンタリー、なの。

やがてCherylは店にきていたDiana (Guinevere Turner)ていう白人女性の協力を得ながら(Tamaraからは嫌味を言われながら)、自分の母に聞いたりTamaraの母に聞いたり、Watermelon Womanが地元のクラブで歌っていたこと、更にフィラデルフィアのBlack Cultureの研究家のとこにいき、更に更にアーカイブや団体を渡り歩いて、Watermelon WomanはFae Richardsという名前であること、彼女もまたレスビアンでいつも同じ監督の作品に出ていたこと、などなどを突きとめていく。

この辺の追っかけていく手口は、最近のドキュメンタリーのそれに近いのだが、93年頃なんて、インターネットはまだただの原っぱでGoogleなんか存在してないし、検索窓はあるけどエンジンはなくて、探し物ができるようなしろもんではなかったので、探すとなるとこんなふうに人づてで、そのおもしろさと、彼女自身が辺境のマイナーなレスビアンで、奥になにが潜んでいるか得体のしれないレンタルビデオ屋の入り口にいた、ていうあたりが更に楽しくて、更にその上に、彼女たちが作りあげてしまう(捏造、ともいう)歴史、に込められたものとかいろいろ層になっている。

もちろん、そんなことしてなんになるのさ? は今も昔も同じような問いとしてあるわけだが(こういう議論が起こり始めたのってこの頃?)、”The Watermelon Woman”という変てこな名前のまま歴史の隅に置かれてそのまま消えようとしていた何かをこんなふうに掬いあげることは、Blackのレスビアンとして表現に関わって生きようとしている自分の生をひっぱりあげることにも繋がるのかもしれない。資料や文献をひっかきまわしてひも解いて人やその歴史を追う、っていうのはこんなふうに自分のいま立っている地点を見つめて踏みしめる作業でもあって、それは時として本当に人や家族、場合によっては民族をも救うんだよ。

あと、手法、というほどのものではないかもだけど、ヒップホップ的なフットワーク - サンプルしてスキャンしてスクラッチして次へ – みたいな軽快さがよくて、だめでも次いこ次、ってサンダル突っかけてステップを踏むかんじが素敵で、この辺、こんなふうにやってみるといいよ、ていうガイドにもなっていると思った。

主人公たちがレンタルビデオ屋の入り口にいるっていうのも象徴的かも。日本のって行ったことないのだが昔のアメリカのって、パッケージの紙箱(だいたいぼろぼろ)もっていくと奥でごそごそ探してきて中味をくれるの。店の奥に積まれた裸のVHSにどれだけいろんな世界が詰まっているんだろ、って。 マンハッタンだとKim’s Videoっていうのがあって、VideoだけじゃなくてCDも売っていたのだが、あそこにはほんとに新旧いろんなジャンルのが置いてあって、ここの店のスタッフがやがてOther Musicていうレコ屋をね...  昔話えんえん。

本もそうだけど、なんでもオンラインのオンデマンドになることで損なわれたなにか、ってコンテンツ云々(けっ)以前のところでぜったいいろいろあると思う。答えなんかないし戻れるわけでもないけど、言い続けていきたいところ。

ところで、このNineties特集に”Clerks” (1994)が入っていないのは重大なミスではないのか。
Kevin Smithぬきで90’s 映画を語れるわけがなかろうに。

7.16.2019

[film] Nuestro tiempo (2018)

13日、土曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。174分の。

英語題は”Our Time”、昨年の東京国際映画祭で上映された時の邦題は『われらの時代』。
Carlos Reygadasの映画は見たことがなくて、見てみたかったの。

冒頭は浅い池だか沼があるだだっぴろい平原で子供たちのグループとそれより少し大きい青年たちのグループが泥まみれになったり泳いだりだべったり楽しそうに遊んでいるシーンで、でも彼らが中心に来るわけではなくて、彼らが遊んでいる土地の持主であるJuan (Carlos Reygadas)とその妻Ester (Natalia López - 実際に監督の妻) のおはなし。

Juanは闘牛用の牛を育てる牧場を持っていて(実際に監督の所有している牧場だそう)、そこでは牛も含めて沢山の人たちが働いていて、Juanはそれだけではなくて詩人として有名な名士で、3人の子供たち(これも彼らのほんとの子供たち)も元気で、Esterとの関係は互いになんでも言いあうオープンな仲だと公言しているのだが、Esterが仕事に出かけた先でアメリカ人の馬の調教師Phil (Phil Burgers)と関係を持った、というとJuanの様子がだんだん変になってくる。

映画の軸になるエピソードはそれくらいで、あとは牧場の元気な牛たちとか、EsterがMexico Cityのホールに聴きにいくティンパニの協奏曲とか、車に乗っていてすごい土砂降りとか、飛行機上から下界に下降していくところとか、いろんなパーティでのぐさぐさとか。Esterの告白を聞いて最初は平静を装っておいおいとか言っていたJuanもEsterがもうしない会わないと言ったのに裏で会っていたことを知ると猜疑心の塊りになって彼女のスマホをチェックするようになり、EsterのほうはそんなJuanを見てどんどんうんざりして離れていくようになる。

で、もうこれじゃあかん、と自分でも思ったJuanはしばらく旅にでることにして、病で終末治療をしている友人のところに行ってぼうぼう泣いて戻ってきて、でもやはり一緒にいるEsterとPhilを見ると…

『われらの時代』というと1924年に出たヘミングウェイの短編集 – あれは"In Our Time"だったけど – が思いだされて、闘牛のことも出てくるし、自分がいちばん強くてかっこよくて偉いと思っている男のイキリと実はその裏側で傷ついていじいじしたりナイーブなところだってあるのさ、というの(愚直でいいじゃん、とかいう「男」のバカさ)を割と正直にストレートに描いたやつだったと記憶しているのだが、その辺のかんじはあるかも。若いころにはあれこれさあー、とか。 でもまあ、関係ないか。

それにしてもJuanのしょうもない嫌なやつっぷりときたら、ラスト近くにEsterとPhilの前でねちねち独白していく修羅場シーンなんて、Juanの喋る口内(?)の音処理の異様さもあってとても静かでこわい。あの後暴発して全員殺しちゃうんじゃないか、ってくらい。

こんな具合に音処理とか車内のカメラの動きとかところどころでなにこれ?のような遠近が消滅して眩暈を呼ぶ瞬間があって、それが他人にはどうでもいい夫婦の痴話喧嘩と、それを演じているのが実際の夫婦で、しかも片方は全体を監督までしているという、別の種類の眩暈と重なって、その外では闘牛を控えた雄牛たち(でもどうせそのうち殺されてしまう)が唸りをあげている、そんな世界 – "Our Time"。

音楽は車で運転中にカーステレオから流れてくるGenesisの”The Carpet Crawlers” (1974) がえらく唐突で、でも大好きな曲だしすばらしくて、更にラスト、牛たちがもうもう走ったり歩いたりしている朝靄が輝く牧場のシーンで流れてくるKing Crimsonの”Islands” (1971) がこれまたありえない美しさで、ここだけあと10分くらい続けてくれてよかったのに。
(牛が高いところから突然落っこちてしまうところだけびっくり)

7.15.2019

[film] The Cure: Anniversary 1978-2018 Live at Hyde Park (2019)

11日、木曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。

昨年のHyde Parkでの40周年記念ライブ、見逃して悔しかったことについてはあと1000回くらい書けそうだけど、当日の公演を収録したライブフィルムが、この日の夜20:30とか21:00とかにLondonじゅう(or英国全土?)の映画館で一度だけ上映された。そのうちソフトでもリリースされるかされたかなのだろうが、大きな画面と音で見るに越したことはないので、行く。

だるかったら寝ちゃえばいいさ、くらいのノリで、シアターは近所の学生とか夫婦とかが大半で半分埋まっていなかったかも。 そんなもんでいいのさ。

監督は彼らの沢山のPVとかライブフィルム”The Cure in Orange” (1988)を撮っているTim Pope。
”Orange”は好きで、LDで持っていたな。

まだ明るくてとても過ごしやすい夏の夕暮れなのに「暗くて冷たくて世界が終わっちゃうみたいだよ」と静かに告げる”Plainsong”から始まって、定番のヒットソングをがんがん流していく。40周年を記念して全活動を網羅的に並べるのであれば、これの少し前の6月24日、Royal Festival HallのMeltdown Festivalで2部構成の“From There to Here” ~“From Here to There”として旧→新、新→旧の順でなめていったやり方の方がよかったのかもしれない、けど、こちらの方がノリはぜんぜん違うのだろうし。

歌詞も世界観も暗いのばっかしで、でも沈んでいかないどころかどんどんポジティブになっていくような気がするのは曲のトーンもあるしぜんぜん萎れていかないRobert Smithのドラえもんシルエットもあるし、基本は”Boys Don't Cry”ていうガキの歌で、個々の内面を曝したりその中身をぶちこんだりすることを始めから放棄している – or – そういうのとは別の実存、のようなところにフォーカスしているから("Killing an Arab"におけるカミュの『異邦人』への目線)。 だから世界の終わりも恋の始まりも同じ(ひとり浜辺に立って海をみている)線上でぴょんぴょこ歌えるのだし、本編が”Why Can't I Be You?”で閉じて、立ちあがりつつある夜の闇に向かって”Boys Don't Cry”が始まり、最初期の曲たちで締まるのは象徴的かも、って。こ れでバンド名はThe Cure - 最初期はEasy Cure、なのだし。

彼らを一番聴いていたのは”Faith” (1981)が出た頃で、当時はこれとThe Durutti Columnの“LC” (1981)をウォークマンに入れてえんえん聴いて外の世界は一切遮断していた(当時はそういう言葉なかったけど引き籠り、よえ。聴いていないときはずっと図書館にいた)。 なんだけど、結局”Faith”からの曲はやらなかったのね。こういうライブであの曲をやったやらなかったを言っていくときりないけど、そういえば"Charlotte Sometimes"もやらなかったねえ。

バンドの音は申し分ないのだが、ボトムがSimon Gallup - Boris Williamsだった頃の音が大好きなので、ううう、って。横にいるギターのおじさんは誰? と思ったらReeves Gabrels  (..Tin Machine)だったのね。

2週間後のFujiもきっとすさまじいライブにしてくれることでしょう。 楽しんでね。

[film] Only You (2018)

12日、金曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。
この日が初日で、上映後に監督Harry WootliffさんとのQ&Aつき。彼女にとって最初の脚本&監督作品なのだそう。

グラスゴーで、大晦日の晩、友人宅のパーティを早めに抜けたElena (Laia Costa)は、帰りのタクシーを捕まえようとして、でもなかなか捕まらなくて、ようやく捕まえたら先に乗りこもうとする男がいるので、それあたしが先に捕まえたんだけど、て言い合いになって、もういいよ、って諦めたら相手の男も悪いと思ったのか、結果的にふたりで相乗りすることになり、気疲れもあってかElenaは途中で車酔いして降りて… こうしてJake (Josh O'Connor)はElenaを彼女の部屋まで送ることになって。

互いの気まずさを解消するためにふたりでいろんな話をして、彼は26で彼女は29と言い、Jakeはレコード箱にElvis Costello and the Attractionsの”Blood & Chocolate” (1986)を見つけて、これよいレコードだよね、というとElenaはそれ、父が遺したものなのといい(ひー)、彼はそれをターンテーブルに乗せて、”I Want You”が部屋に流れる。(とてもストレートで大好きな曲なのだけどA面最後の曲からかけるかな?)

で、その曲に乗ってそのままふたりはキスして親密になって、朝になってごろごろしている時にElenaは自分の年齢を真実のとこまでだんだんにつりあげていって(ここ、すごくおもしろ)、でも彼はべつに怒ることもなくて、こうしてふたりで一緒に過ごす時間が長くなって、彼はElenaのところに越してくる。

やがてElenaの女友達との集まりに一緒にいくと赤ん坊連れの比率が多くなったりしていて、そのときの彼女の目つきとか様子から何かを察したJakeは僕らの子供をつくりたい? と聞いて、Elenaはいいの? ていうと彼はいいよ、と返したので、ふたりで意識してがんばってみるのだが、いろいろ計算とかしてやってもだめで、本格的な不妊治療を受けることにして、注射とかストレスたっぷりなのにそれでも子供はできなくて、Elenaはまず自分のせいだとかJakeが十分協力してくれないからだとか不安定になって、Jakeはそんなにシリアスにならなくても、というと火に油になり、こうしてふたりの距離がゆっくり離れていって、喧嘩の果てにJakeは家を飛びだしてしまい、彼らはどうなっちゃうのか。

互いにとっても好きだから子供を作ろうと思ったカップルが真面目で真剣であればあるほど嵌って抜けられなくなってしまうであろう地獄をものすごく緻密に生々しく描いていて、この辺は監督が女性であることも大きいのかもしれないが、上映後のQ&Aで同じ経験をして数年間苦しんだという観客からとても嫌だったことをたっぷり思いださせてくれてありがとう、と言われていたくらい。

でもこれはやはり真剣に恋をして離れられなくなったふたりのラブストーリーで、修復不能かも、と思われた彼らの関係も決して悲劇には終わらないので見てみてほしい。

とにかくこのふたり - リスとウサギみたいなふたり - をキャスティングした時点で当たりで、このふたりの間にだんだんと生まれてくる化学変化のすばらしさったらないの。 現場で撮影が始まるまでふたりは電話で軽くリハーサルした程度で会ったことがなかった、ていうのが信じられないくらい素敵に輝いていくふたりで、”Only You”ていう直球のタイトルが最後にずーんとくる。
とにかくLaia CostaさんもJosh O'Connorさんもほんとにとってもよいから。近頃珍しいくらいに純で真摯なラブストーリーだから。

地味すぎて日本では公開されないだろうなー。 それに「がんばりが足りない」とかクソみたいなことを言う奴とかいそうだしなー。 こんな素敵なふたりにも生産性が、とか言うのかなー。

7.14.2019

[film] L’ Homme du large (1920)

7日、日曜日の午後、BFIがいつもやっている月始め日曜日昼間のサイレント上映会、で見ました。

日本でも公開されているようで、邦題は『海の人』。リストアされたデジタル版だった。
バルザックの短編 – “Un drame au bord de la mer” (1834) - 未読 - をMarcel L'Herbierが緩く脚色して監督したもの。製作はGaumont(日本でやっている特集、いいな)。

ブルターニュの海の傍でひとり隠者のように暮らすNolff(Roger Karl)がいて、彼のところには尼さんが食事を運んでくるだけで、なんでこんなことになってしまったのでしょう? と話は1年前に遡る。

Nolffは海の仕事にすべてを捧げているような真面目な漁師で、妻とかわいい娘のDjenna (Marcelle Pradot)がいて幸せなのだが、願いは彼の仕事を継いでくれるような息子を授かることで、それが叶って男の子のMichel (Jaque Catelain)が生まれて、盲目的に可愛がって手厚く育てていくのだが、大きくなるとMichelは海嫌いで身勝手な遊び人の若者になって、バーに入り浸って町のごろつきや娘たち(映画史上最初期のレズビアンキスが見られる)とつるんでばかりで、家族みんな一緒のイースターのお祭りにも参加しないで、やがて母は病に伏してしまうのだが、Michelはお構いなしで。

そうして妻/母が悲しみのなかで亡くなってしまうと、苦悩するNoliffは海と神に相談してMichelを小舟に突っこんで海に流してしまう。 - というのが冒頭、彼がひとり寂しく海に向かっていた事情なの。

海に向かって立つ石像のような彫り深のNolff、美男だけど線が細くて狡猾さばかりが見えてしまうMichel、忍の字が刻まれてしまっている母とDjennaの真っ直ぐな顔、どの顔もその引き受ける運命そのもののような顔をして並んで海に向かっている。

筋はこんなふうにシンプルなのだが、主人公や家族の苦悩に重なるように彩色や字幕の意匠などに(当時としては)いろんな技術や工夫を凝らしていて見ていて飽きなくて、この辺、フランスのアバンギャルドフィルムの最初の世代に属する人なのだそう。

これに伴奏していくStephen Horneさんはピアノに向かいながらアコーディオンを抱え(ぱふぱふの音)、たまに汽笛のようなフルートも加えて、こちらのひとり楽隊も相当アバンギャルドで飽きないものであった。

で、この潮の味を噛みしめつつ、Hyde ParkのBarbra Streisandに向かったの。

マンハッタンの停電、いいなー、とは言わないけどいろいろ思い出した。
信号のところに出てみんな勝手に交通整理しちゃうところは変わらないねえ。

7.12.2019

[film] Support the Girls (2018)

3日、水曜日の晩、BFIで見ました。

“Computer Chess” (2013)とか、それがどうしたマンブルコア、の作家と言われてきたAndrew Bujalskiの新作。

Lisa (Regina Hall)はテキサスのハイウェイ沿いにあるDouble Whammiesていう女性が身体の線がぴっちりでて布面積の小さいユニフォームを着て明るく楽しくサーブしてくれるスポーツバー/レストランのマネージャーで、新しく応募してきた女の子たちにあれこれ指導したり、天井の通気菅に挟まって抜けなくなっているバカがいるから通報とか、ケーブルTVが映らない(致命傷)とか、BFに車でぶつけられて怪我した従業員のカンパで洗車営業しているところを見られてクビにする、って脅されたり、従業員にちょっかい出してくる困った客とか酔っ払いは山ほどいるし、人がよいからすけべじじいの相手をしてしまう従業員もいるし、彼女の味方をしてくれる従業員で子連れのDanyelle (Shayna McHayle) とかMaci (Haley Lu Richardson)とか、贔屓で来てくれる常連客もいるし、そういうのをいちいちぜんぶ相手にしているので忙しい。とにかくうちは家族で来て楽しめる明るいレストランでみんなに喜んで帰ってもらわないといけないんだから、っててきぱき働いて、更にちゃんと下の子たちには慕われてるし、まじで尊敬する。

その外側周辺には二言目にはクビをちらつかせるうざいボスがいて、別れを切り出してるのにうじうじ別れてくれない夫はめんどくさいし、ほぼたった一日の出来事を追っているだけなのに、Lisaは溜息ついて空を仰いでうんざりしながら大変そうで、”Support the Girls”ていうのは従業員やLisaだけでなく、同様に同様の問題を抱えて日々目をまわしているGirlsみんなのことなんだろうな、って。

で、あまりにいろんなことが勃発するのでLisaはもうやってられねえ、ってそこをあっさり辞めることにして、その後にライバル店の面接を受けにいくと、そこにはMaciとDanyelleもちゃっかり来ていて..  で3人で屋上にあがって … ここの流れは泣きたくなるくらいすばらしくて、マンブルコアでこれはないんじゃないか、ていうくらい素敵で感動的で、ここだけで大好きになる映画。”Skate Kitchen”のあの娘たちがテキサスで大きくなったらこんなふうになっていたのではないか、とか。

マンブルコアとか別にどうでもよいのだけど、確かになにも起こらないといえば起こらなくて、ただ「なにも起こらない」ということは例えばこんなにも些細で雑多に絡みあったいろんなことに支えられているのだだから黙っとけって、くだを巻く酔っ払いみたいに言ってみたくはなる。 同じようにここにはアメリカの地方のワーキングクラスのいろんな問題がそれこそFrederick Wiseman のドキュメンタリー並みにてんこ盛りにあると思うのだが、そういう「問題」たちもスルーして、ここまでミクロで細々としたいろんなコトやヒトをあらよって毛球にまとめあげて、最後にしんみりさせるのってすごいと思った。

Regina Hallさんを中心としたアンサンブルはすばらしく、よくあそこまでスポーツバー&その周辺に転がっていそうな連中集めたねえ、あれみんな役者? ていうくらい。

音楽はいろんなのがかかるのだが、どの曲もカーラジオで鳴っているようなしょぼい質感で、その現場のかんじもまたたまらない。

でも日本でこれやったらほんとにブラックでくすりとも笑えないやつになっちゃう気が..

7.11.2019

[film] Midsommar (2019)

“Hereditary” (2018)のAri AsterとA24による新作ホラー。 いろいろへんで、でもすごくおもしろいサマームーヴィー。Instagram Horrorって、うまい形容。 以下、ネタバレあるかもだけど。

アメリカに暮らすDani (Florence Pugh)はいろいろ不安定で、特に躁鬱を患っていた妹が変なメールを送ってきた後に連絡が取れなくなったのでパニックを起こして恋人のChristian (Jack Reynor)に相談したりしていると、妹は両親を道連れに心中していたことがわかって.. というのが導入。

人類学の博士課程にいるChristianは3人の仲間 - Josh (William Jackson Harper), Pelle (Vilhelm Blomgren), Mark (Will Poulter)とSwedenのHårgaという人里離れた土地で90年に一度行われるという真夏(Midsommar)の祭りの学術調査(兼バケーション)に向かおうとしていたのだが、家族を失ってぼろぼろになっているDaniを放っておけず、彼女に来るかと聞いたらうん、て頷いたので連れていくことにする。(メンズの集いにしたかった仲間たちはげんなり)

現地に着くと、土地のみなさんは暖かく迎えてくれて、キノコのヤクをくれたりもするのだが、みんな衣装同じで変な踊り舞ってるし、これってどう見てもやばいカルトのコミューンじゃん、なのだがとてもフレンドリーなのでなかなかやだって言えない。 けど翌朝、厳かな儀式のあとに高齢の男女ふたりが崖から飛び降りるの – 更に飛び降りて死ねなかった老人の頭を..   を見て、こーんなのぜったい無理帰る、になるのだが、ここが地元のPelleからはこういうのを言ってなかったのは謝るけど、これは昔から行われている風習なのでお年寄りは納得しているし(楢山節考...)、自分も両親を失っていて君の気持ちはわかるし云々となだめられて、都度発作を起こしたりしながら夜は睡眠薬を飲んだりしながら、なんとなく留まってしまう。

と、ロンドンから来ていたカップルのうち激しく動転していた男の方がいなくなっていて、聖なる枯れ木に小水をかけて怒られていたMarkは女の子に誘われてどこかに消えて、人類学の調査のためにこっそり写真を撮ったりしたJoshも..  彼らはみな白昼にDaniが気がつくとそういえばいない.. になっていてなんか変で、他方でお祭りはぐいぐい佳境に向かっていって、Christianは村娘から求愛されて(陰毛を飲み物に)ひとり倉庫に呼び出され、DaniはMay Queenを選ぶ生き残りダンスバトルに参加させられて..

最後の30分くらいはものすごくいろんなことが起こりすぎてぜったいに超恐ろしいはずのあれこれを超高速でぶっとばしていくので、客席はみんなどう受けたらよいのかわからずに爆笑していた。笑ってよい映画なのかどうかは微妙な気もするが(いや、やっぱりおかしいよあれ。書かないけど)、主人公のすばらしい笑顔もでてくるし、そういうことでもよいのではないか。

“Hereditary”も縁者がどこかで関わっていた怪しげな団体からなにかが飛んでくる映画だったが、これはぜんぜん違う、よくわからない向こう側の世界にいきなりアリスよろしく入りこんでしまうやつで、お化け屋敷みたいなもんかも、とも思うのだが、ほぼすべての神隠しみたいな惨劇は明るい日中に起こるし、呪いとか祟りは一切ない(ように見える)し、建物の色彩とかそこに描かれた絵とかは可愛いし、クマさんだっているし、やっている人たち(たぶん)はみんなきれいな白系の衣装で基本朗らかそうだし、しょっちゅうパニックを起こしているDaniの方が抱えている闇は重くて厄介そうなかんじ。

異文化体験もの、という角度でみれば、訪問先の設定をアフリカやアジアの奥地に置かなかったのはいろんな配慮や判断があったのかもしれないが、結果として、この歪み(フェイク)を通してこの映画が見せてくれるものは小さくなくて、つまりここで描かれたようなお花畑で殺戮が繰り返されていく世界って、いまの我々の世界とそんなに違わないか、ひょっとしたら向こうの方が少し先を行っているくらいなのかも、って。この辺、Jordan Peeleの”Us” (2019)と比べてみてもおもしろいかも(海の国ホラー vs. 森の国ホラー)。

音楽はThe Haxan Cloak - Bobby Krlicの音響が終盤は特にとんでもなくて、終わってなんだったのこれ、と呆然としているところに Frankie Valliの”The Sun Ain't Gonna Shine (Anymore)”が(なんか得意げに)降り注いでくるの。

この設定を借りて、ぜんぜん楽しくない夏フェスに連れて行かれて地獄の体験をするホラーが作れるかも。生々しすぎてだめかな..

7.10.2019

[music] Barbra Streisand

7日の夕方から夜にかけて、Hyde Parkで見ました。 前の晩から朝までずっと雨だったのだが昼過ぎから晴れた。

昨年のHyde Parkのライブは、The Cureのチケットが気づいたら売り切れていて泣いて、ライブの晩に風に乗って聞こえてくる音 - 曲目がわかるくらい - にいちいち泣いてた。 ので今年はちゃんと取らねば、と思っていたのに、早くもあさってのBob Dylan & Neil Youngでやってしまい(まあ取れないよね)せめてこれくらいは、と取ったのがこれ。

一昨年前にここで見たのはTom Petty and the Heartbreakers とその前のStevie Nicksで、すごくよかったのに、まさかTom Pettyが…  だったねえ。

ステージは3つくらいあるのだが、メインのステージしか行かない(他のステージのトリはRichard Marxとか)ので、16:45はじまりの Kris Kristoffersonめがけて行った。入り口は階級(チケットの値段)によって厳格に分けられていて、一番安いチケットのわれわれ平民は駅からぐるううううっと回されてステージから一番遠いエントランスからはるか彼方のステージにめがけて旅をするかんじ。

なのでステージ近くまで来たときにはへとへとで - ふつうは途中でビールとか買うのだろう - 一昨年にも転がっていた木陰でごろごろしているとKris Kristoffersonが始まり、映像は少ししか見えないけど音はじゅうぶんに聴こえるからここでいいや、とそのまま寝っ転がって聴く。

83歳なのかー、Joãoとは5つしか違わないのかー、とか。ふわふわしたとても柔らかい声で夏の午後にはたまんない。いろんなタガが外れて後頭部の向こうに放り投げられていくのが見えるような。

続いてはBryan Ferryで、これはさすがに立ちあがって映像が見えるところに行く。
たぶん88年(?)の武道館公演以来..  書き忘れたけど、とにかく客の年齢層はとっても高くて、飲み物買ってくるといって群れから抜けるとビールではなくてワインの瓶を下げて戻ってきて、若者みたいに暴れたり荒れたりしない分、みなそれぞれに歌ったりスイングしたり楽しそうで、たまにぎゅぅーって足を踏まれる(でもにっこり微笑んでくるから、言えない)。

というわけなのでみんなカラオケ大会みたいに得意になってわーわー歌う。特に“More Than This” – “Avalon” の、Avalonの高音のところはみんな鳥みたいになってきーきーやかましいこと。
“Can’t Let Go”はいつまでもかっこいいねえ。 今の歌だなあ。

Ferry氏は、歌もバックも当たり前に申し分ないクオリティで、こないだのKing CrimsonのRoyal Albert Hall 3daysの前日にあそこでライブしていたのだが、あのセットリストの方がよかったかなあ。 (”Avalon”より”Flesh and Blood”の方がすき)

そしてBarbra Streisand。個人的にはAretha亡き後に見たかった最後の最強の(でもないけど)。
観客の話にばかりなってしまう(だっておもしろいんだもの)のだが、一昨年のStevie Nicksのときのアナーキーなおばさんたち以上に、みんながBarbaraのような女王さまになってしまうというー

Barbaraは、眩しいのでサングラスをして、サングラスをするとスクリプターが読めなくなって言い間違ったりばたばたしていて、曲の間はぎこちなくお茶を飲んでおしゃべりしているのだが、歌に入ると冗談みたいに世界が切り替わって王宮とかビロードみたいななにかとかが広がってしまうのでまあすごい。

野外でやるライブは67年のCentral Park – “A Happening in Central Park” - 以来だそうで、だからもう震えちゃうのよねー、といいつつ、過去のクリップとか写真とか - 特にロンドンであったことなど - を大画面に次々に映しだしながら思い出を語って、その思い出とか人に纏わる歌をうたう。

そういうわけで、”Alfie”とか”Lost Inside of You”とか”Guilty”とか”Stoney End” (Laura Nyro!!)とか、” Second Hand Rose” - 昔はシンガロングできる曲はこれくらいだったのよ – とか、同様に夏の野外でみんなで一緒に歌う”Silent Night”もなかなか素敵だねえ、とか、衣装替えで引っ込む際は、”The Phantom of the Opera”のミュージカルの歌い手のRamin Karimlooに歌わせといたり(ミュージカルの世界はぜんぜんわからないのだが、うそあれほんとに彼? えええーの悲鳴多数)豪勢で、デュエットのところではLionel Richieが出てきて”The Way We Were”を歌ったのだが、この曲はソロで歌ってほしかったなー、とか。

もういっこのヤマは誰もが予想した”A Star Is Born” (1976)のKris Kristoffersonとのデュエットで、映画のクリップの後に演奏が始めって、ふたりで見つめあいながら歌ったのだが、やはりもう火は消えてしまったのね、感が強くて、曲が終わるとKrisは彼女の手を振りほどいて引っ込んでしまった。
いまから40年後、Lady GagaのライブにBradley Cooperが出てきて同じことが起こるかしら?

本人がちゃんとリハーサルできていなくて、と何度も言っていたように、きちんと聴けば音程とかがたがたなのかもしれないが、歌がはじまると背後に雲のように立ちあがって見えるなにか、がなんかのイリュージョンであってもちっとも構わない、そういうばかでかい何かがあそこにはいるようだった。

ゲストで会場に来ていたらしい(見たわけじゃない、彼女に呼ばれてた)のはRalph Fiennes、Antonio Banderas、InstagramによるとTildaさまなどなど。 最後のほうでは彼女のバイオわんわん3匹が登場してやんやだった。

おしゃべりでおもしろかったのは、最前列の人達に「あなたたちすごいねえー、どうやってここまできたの? やっぱ早いもの勝ち?」という発言に、「そんなの金だよ金〜」 ってみんな返したところ。

映画のスチールもいっぱい流れたが、”Yentl” (1983) - 『愛のイエントル』で、ああ.. ってため息ついてる人たちが大勢いた。 自分だったら”The Owl and the Pussycat” (1970)か "What's Up, Doc?" (1972) かなあー。

アンコールの最後はJudy Garlandに捧げます、って”The Man That Got Away” - “A Star is Born” (1954) からでした。 じーん。

7.08.2019

[film] Spider-Man: Far from Home (2019)

5日の金曜日の晩、Picturehouse Centralでみました。なんとなく2Dでよいかも、って。

前の”Homecoming”よりも国を跨いでスケールでかくなっているようでいて、実はまったく逆のぺらぺらした(← 褒めてる)学園もの、バカンスものみたいになっていてとにかく楽しめる。

“Endgame”の後をそのまま引き摺っている世界で、校内放送では、5年間消えていた人たちが突然戻ってきた – Blipていう - ので、人によって5年間のギャップが生じている事象を説明している。Peter Parker (Tom Holland)はまだTony Starkがいなくなったことにめそめそ泣いていて、でも学校の集団海外旅行が待っているし、この機会にMJ (Zendaya)となんとか、と熱く燃えている。

メキシコではサイクロンみたいので村が壊されて、そこにQuentin Beck (Jake Gyllenhaal) ていう鎧を着たヒーローみたいのが登場し、最初の訪問地Veniceでも水の中から同様の怪物みたいのとBeckが現れ、Peterは彼を追っかけてきたNick Fury (Samuel L. Jackson)とも対面して、Beck -Mysterioとも会って、こいつをなんとかしないとな、と強く言われるのだが、いまのPeterにはMJとのことの方が大切なので泣きそうになっている。なんでよりによって。

こうして、Tony Starkの不在と彼が遺してくれたAIつきのサングラスをめぐってぐしゃぐしゃしていく想いと、そうはいっても独りで彼がやっていたようなことを継ぎたくないし継げるとも思えないし、ていうのと、どんどん先延ばしになって手元に来てくれないMJとのこと、がダンゴで回っていて、これって家業と進学と恋愛で悩むそこらの高校生の絵そのものだと思うのだが、そこらの高校生と違うのは雲とか竜巻みたいに突然現れる怪物をどうするのか、が目の前のたんこぶ問題としてあること。

親にあたるMayおばさん(Marisa Tomei)は、"Happy" Hogan (Jon Favreau)となんか楽しそうで相手にしてくれないし、部活の先生みたいなNick Furyはわかってんのかおまえは、とか厳しいし、Beck – Mysterioだけが親身になって話を聞いてくれてアドバイスをくれる先輩みたいで、この辺も高校生してるのよね。 でもぐれて家出するところまでは行かない。

旅行先は怪物の登場予測地点であるBerlin – Londonに勝手に変えられて、Peterは態度や動きを決めきれないまま(だってMJが..)ずるずるしていくとそんなことを言っていられない事態になってー、 ここから先はいいか。  本当のところみんなで旅行していくとこが楽しすぎるので、ずーっとあの状態で旅を続けてくれてもよかったのに。

とにかく不安定でアップダウンが激しい子供のPeterに向かいあうMJがほんとうにすばらしいの、最後の方、彼女の瞳と笑顔の輝きがあるだけでこの映画はよかった、でよいのではないか、って。それくらいの。

悪や怪物によって引き起こされる災難を高校生の日常に落としてきて大変だー、っていうのではなく、高校生の日常の先っぽにこれらが纏わりついてきてあーうざいやめてよ、っていう悶々ぐしゃぐしゃで、今回の悪者というか邪悪さの特性がそういう自分が本来いるべき/あるべきところから離れたところに顕現するなにかになっている、というあたり、とてもよくできているのではないかしら。 CG的にはとってもめんどくさそうでよく作るねえ(撮るねえ)、のかんじはあるけど。

で、この後には”Leaving Home”とかがくるのかな?

“Iron Man 2” (2010)は、Howard Starkへの怨み起因で、”Iron Man 3” (2013)はTony Starkへの怨み起因で、今回のもそんなようなやつで、結局Stark一族が興した軍需産業 - 大文字のアメリカが生んだモンスターを相手にし続ける、っていうのはスケールも含めてとっても現実的ですごいわ、と。テクノロジーを握ったものが手にできる、そういう悪なら今すでにうようよしているわけでー。

他方で、Iron ManのテーマだったAC/DCをこれLed Zeppelinでしょ、って受け流してへっちゃらなPeterの世代の新しさ、というのは あるよね。

J. K. Simmonsが登場したところで場内では(ここだけ)拍手が起こっていたが、つまりここには”Into the Spider-Verse”の実写版の可能性が.

ラスト - “I Wanna Be Your Boyfriend”から”Vacation”に行くところ、さいこう。

どうでもいいけど、帰り、UnitedだからNewarkに行くのか。Queensなのにかわいそう。

で、とにかくこんなふうに、うん、おもしろかったー! でさらっと終われるのがよいの。”Endgame”の後には特に。

[film] Víctimas del Pecado (1951)

2日、火曜日の晩、BFIの7月の特集 - “Salon Mexico: The Golden Age of Mexican Cinema”で見ました。英語題は”Victims of Sin”。

昔のメキシコ映画というと、おおむかしに「メキシコ時代のルイス・ブニュエル」ていう特集があって、どれ見ても驚異的にハズレがなくて、だからこの特集のも外れるわけなかろう、と。

監督はEmilio Fernándezで、この作品はフランスでは興行的に成功したのだそう。日本では公開されていない?

娼婦がたむろしている赤線地帯にキャバレーChangóがあって、オーナーはやくざのRodolfo (Rodolfo Acosta)で、Violeta (Ninón Sevilla)はキューバから来た踊り子で、歌って踊ってみんなを盛りあげるのが得意で、冒頭に床屋でぴかぴかに磨いてもらったRodolfoが粋がってかっこつけて店に入ると、店の娘Rosaがお腹にあなたの子が.. てやってきて、でも相手にしないでいると子供が産まれて店の女性たちはかわいがるのだが、Rodolfoはふざけんな、って仕事をとるか赤ん坊を取るかだ、って迫るとRosaは泣きながら赤ん坊をゴミ缶に捨てちゃって、それを聞いたVioletaはRosaにビンタしてあんたなんてことすんのよ、ってゴミ缶のとこまで走っていって赤ん坊を抱きしめて自分の子として育てることにする。

けどそういうことしたのでChangóを追われたVioletaは、子供を育てる必要から街角に出てひとり営業せざるを得なくて、そうして知り合ったSantiago (Tito Junco)から彼の店に来るように言われて、線路際のその店はうらぶれたかんじだったのだがVioletaの踊りでぱーっと盛りあがって繁盛し、SantiagoとVioletaは赤ん坊も含めて一緒になって幸せに暮らしていったのだが、それが気に食わないRodolfoが決闘の末にSantiagoを殺してしまい、そしたらVioletaも負けずにRodolfoに復讐する。もちろんVioletaは刑務所行きになるのだが、街角にひとり取り残された坊やの運命は… 

メキシコの裏街道モノかと思って、筋運びはそんなふうなのだが、実際には歌や踊りでどんちゃか楽しく盛りあげたりしながら苛酷な運命を引き受けてたくましく生きていく女たちの姿が一番印象に残って、なので上映前の配布資料には溝口の映画への言及(『赤線地帯』よね?)もあったりするのだが、いやそう簡単に比べられるもんでもないのでは、とも思ったり。

最後のほうはひとりストリートのホームレスになった坊やがママとの面会に向けて自分を励ましながら新聞売りや靴磨きをしてお金を貯めて母の日に靴を買ってあげようとするのだが... ていう泣かせる展開になり、つまり”Victims”の層が社会の隅々にまで広がっていく、その悲惨さも含めてなんとか大風呂敷のメロドラマにまとめあげようとしていて、そこにVioletaの情熱的なルンバとか立ちあがる女性たちの像とかが被さるとなんかじーんときてしまうの。よいドラマだねえ、って。

ブニュエルの作品の時にも思ったのだが、当時のメキシコ社会のありようを悪や倫理もひっくるめて俯瞰できるような描き方をしていて、そこってすごい、というか映画ってそもそもそういうもんであるべきなのよね、って改めて。

この特集、他の作品も見たいけど他の用事とかいろいろ入っていてなー。

7.07.2019

[music] RIP João Gilberto

もうお歳であることはわかっていたし、ライブの話も聞こえなくなっていたので覚悟はしていたもののやはり残念だし悲しいし。

彼はあのギター - 爪弾くでも引っ掻くでもなく、とてもよく鳴ってしなって波打つパーカッションとしてのギター - とその波に寄せては返しあの声で延々と呟き続けるあの歌い方、話法を小さなバスルームの中で開発して発明した。 外にはリオの青空と浜辺が広がっているのに、それらとは一切関係のない閉ざされたバスルームの中でずうっと鳴って揺らされていた音、そこを起点とした静かな波動はいまや世界中に- 空港のラウンジからスーパーマーケットからエレベーターの中でだって聴くことができて、その音のありようときたら、その出処を考えると異常なかんじすらする。 豆電球とか蝶番とか蛇口とか、そんなように偏在してある、動物の鳴き声にも似たなにか。

彼の発明をきっかけに広がっていった音の世界はジャンルを越えた果てのないものだったが、彼自身のレコーディングの音もライブの音も、最後の最後までギターと声、スーツ着て座って動かないそれらの組み合わせだけのシンプルなもので、でも2時間でも3時間でも、何百回でも繰り返し聴いていられた。
飽きない、というよか、飽きるとかそういう性質のものではないの、と言うのが精一杯で、お経のような、鳥の囀りのようなものだから、という言い方はどちらの方にも失礼にあたるかも知れない、けど他にどう言えばと?

彼のライブを最初に見たのは95年の4月、その前年に亡くなったAntonio Carlos Jobimの追悼の時で、当時のブラジル大統領も客席に現れたAvery Fisher Hallで代わりばんこに演奏したのは、Lee Ritenour(音楽監督), João Gilberto, Astrud Gilberto, Milton Nascimento, Gal Costa, Caetano Veloso, Nana and Danilo Caymmi.  Michael Franks, Sting, Herbie Hancock, Dave Grusin, Michael Brecker, などなどで、あまりに気持ちよすぎてこのまま棺桶に入れてほしいと思ったのは後にも先にもこれしかなくて、そんななか、Joãoはやはり特別枠でソロで4曲歌って弾いて、アンコールは「イパネマの娘」しかないに決まってるでしょ、とばたばたとAstrudが呼ばれて、ふたりのデュエットを見たのもバンド編成で彼のライブを見たのもこれが最初で最後だったが、Stan Getz役のMichael Breckerがとちったり、周囲のスゴ腕たちがみな緊張してガタガタになっていたのが微笑ましかった。

これの後は2年か3年に渡ってCarnegie Hallで2回か3回見た。00年代には見ていない。(来日公演のときは米国にいたし)

今後はアーカイブ音源と映像を可能な限り掘りだしてあの音の謎と驚異に迫っていってほしい。
映像と言えば、2011年のNYFFで見たドキュメンタリー”Music According to Tom Jobim”(2011)の上映後のQ&Aで、なぜJoãoの映像が入っていないのか? と問われた監督のNelson Pereira Dos Santos氏は、Joãoは自分でドキュメンタリーを作ろうとしているようで貸して貰えなかった、と言っていたのだが、そういうのも含めていっぱいあるはず。

もちろん、そういうのを見て聴いたからといって、彼のような人が出てくるとはおもえないのだけど。

本当にありがとうございました。 ご冥福をお祈りします。

7.06.2019

[film] Dangerous Liaisons (1988)

6月26日水曜日の晩、BFIの”Playing the Bitch”の特集で見ました。

Laclosの古典をChristopher Hamptonが劇作化して、それをStephen Frearsが監督したもの。『危険な関係』、ね。
見たことないと思っていたのだがはじめの寝起き ~ お化粧のシーンで、あ、これ見たやつだわ、って。

18世紀、革命前のフランス。 とにかく冒頭が最高で - Marquise de Merteuil (Glenn Close)とVicomte de Valmont (John Malkovich)それぞれが侍従たちに衣装着せてもらってお化粧して粉と霧ふりかけて、戦闘モードいっちょう、のようなフル装備に変態していって、そこにMerteuilの、わたしは15歳でこのソサエティに入って苦労していろいろ学んできて、この世界を動かしている原理は勝つか死ぬかしかないことを知るに至った、みたいな台詞が被ると、ああこれはもう戦争大河ドラマなんだわ、って身震いするの。

で、この仮面と皮を被ったふたりがやらしくねっちり会話して企んで、まずは最近社交界デビューしたばかりのCécile (Uma Thurman)を落としてみたら、とValmontに持ちかけるのだがValmontは信心深い人妻のMadame de Tourvel (Michelle Pfeiffer)の方を誘惑してみたくて、まあとにかくやってごらんなさいな、になる。

そこからのValmontはCécileの部屋の鍵盗んで忍び込んでくだまいてレイプ、とかTourvelの手紙を抜いて盗み見、とか散々やって(これって通常の誘惑とか駆け引きというよか明らかに犯罪だと思うけど)、だんだんTourvelが崩れて彼の方に寄りかかってくるとまずいことに彼は彼女を愛し始めてしまっていることに気付き、それを察したMerteuilは笛鳴らして彼女から離れるように言うのだが彼は言うことを聞かずに戦争(Merteuilが宣言するとこすごく怖い)になり、Valmont はTourvel に"It is beyond my control"をロボットのように繰り返して縁を切ると彼女は心痛でぼろぼろに、やけになってCécileにあたれば彼女は(Valmontの子を)流産して、Merteuilがそれを音楽家のDanceny (Keanu Reeves)に告げてしまうと、DancenyはValmontに決闘を申し込んで。

こんなふうに貴族がヒマに任せて始めたゲームが止められなくなって、死んだりぼろぼろになったり「危険な関係」というより(恋愛)関係て危険よね、というお話しなのだが、Bitchということに関していえば、Merteuilの、どこまでもValmontを使ってやりたい放題やって一切容赦しない後悔しないその姿が素敵すぎる。「危険な関係」なんてわかりきったことをくどくど説明せず、地位や身分とは関係なく生態系の頂点にあろうとするBitchの生き様をぎんぎんに描いた、という点でまずかっこよくて、特に最後、Valmont - Danceny経由で所業を全て暴露され、周囲からの圧倒的なぶーを受けて化粧室に引きさがり、ひとりメイクを落とす場面の凄まじいこと。 それでもぜったいすっぴんにはならないの。それが戦争というもの。

そしてこの豪放な「戦争」もやがて来る「革命」によってぜんぶなぎ倒されて焼け野原になってしまうの。

こないだの”The Favourite” (2018)も、これくらい筋の通ったBitchものにしちゃってよかったのになー、とか。

なかなか豪華な主演、助演陣はいまはみんな適度に枯れてきちゃっているけど、みんな若くてすてきで、Keanuなんて、このへっぴり腰の坊やがやがてJohn Wickに..  とか、UmaだってBillを殺しに.. とか思うとしみじみする。そしてGlenn Closeはこの頃からずっと揺るがずに強い。

いまリメイクするとしたら誰が? を考えるのも楽しいよね。

7.03.2019

[film] Vita & Virginia (2018)

1日、月曜日の晩、BFIで見ました。

一般公開前のPreviewだったのだが、これがお披露目ではなく、3月のBFI Flare – 毎年行われているLGBTQ+ の映画祭- のオープニングを飾った作品で、この時、チケットの前売りに出遅れたら3回くらいあった上映枠はすでにぱんぱんに売り切れていた。
Virginia Woolfおそるべし。

20年代のロンドンで、自身も作家で社交界の華だったVita Sackville-West (Gemma Arterton)が当時もっともぶっとんでいたと言われるVirginia Woolf (Elizabeth Debicki) のサークル – Bloomsbury Groupだよ – のことを聞いて興味を持って近づいていって、Virginiaは最初はそっけないのだが、そのうちVitaが外交官である夫Harold (Rupert Penry-Jones)のテヘラン駐在についていって離れてしまうと手紙のやりとりが頻繁になって、やがて。

冒頭がVirginiaが夫のLeonard (Peter Ferdinando)とやっているHogarth Pressで(邸内に手刷りのような印刷機があって、その奥に彼女の部屋がある)刷りあがったばかりの”Jacob's Room” (1922)に赤を入れているところで、そこからBloomsburyのディナーパーティに行くとVanessa Bell(Emerald Fennell)がいて夫のClive Bell (Gethin Anthony)がいて、Duncan Grant (Adam Gillen)がいる、それだけでわあー、なのだが、そういうドラマではないの。 けど、あのサークルの自由な空気がふたりの関係を柔らかく暖かく見守っていった、ということは言えるのだからしてー。

Virginiaは”To the Lighthouse” (1927)を書き終えたあたりで精神的に不安定になり、彼女の危機を聞いたVitaはテヘランから急いで戻ってきて、こうしてふたりは性的な関係を持ってとても親密になるのだが、ずっとここにこうしていたい、という強い想いと、ここから抜けださないとやばいかも、という危機感の間で引き裂かれつつVirginiaは”Orlando: A Biography” (1928)を書いて、そこにVitaへの想いのすべてをぶちこみ、自分にとってのVitaの像を掘りこみ、この本を彼女に捧げて、元の仲のよい友達同士に戻るの。

史実や経緯としてどこまで正しいのかはわからないのだが、ふたりの女性 – どちらも作家 - が出会って恋に落ちて関係を深めて燃えあがり、自分たちの手で結び目を解いて終わらせる、その過程がとても丁寧に、美しく - 美しいっていうのはこういう関係のありようなんだわ、っていうくらいに美しく描かれていて、そのまったくべたべたしない、さらりとすれ違って去っていく感覚はVirginiaの小説に浸ったときに受けるそれのようで、これかも、って思ったし、Virginiaの頭のなかで何が起こったのかは、”Orlando”に書いてある(映画だってある)し。

少し冒険かも知れないが、劇中にOrlandoを登場させたりしてもよかったかも。そもそもそういう存在なんだし。どうせならTildaさまで。

でもやっぱしつい、あそこでVanessaが描いている絵は、とか、Hogarth Press の場所は52 Tavistock Square ?Richmondの方じゃないよね? とかそんなことばかり気になってだめ(自分が)だった。 米国ではVoD公開みたいだけど日本では劇場で公開されてほしいなあ。

Eva Green → Andrea Riseboroughを経てVirginia Woolf役に決まったElizabeth Debickiさんは目元とか本人とちょっと似ていて、ひょろっと鶴のように冷たそうなかんじとかとてもよかったし、情熱的に押しまくるGemma Artertonさんとの相性もとても素敵でねえ。

早くCharlestonとMonk's Houseには行かねば。できたらSt Ivesも。

7.02.2019

[film] Die freudlose Gasse (1925)

6月23日、日曜日の夕方、”Toy Story 4”のあと、BFIのワイマール特集で見ました。

英語題は”The Joyless Street”、邦題は『喜びなき街』。サイレントでライブピアノ伴奏つき。
G.W.PabstとGreta Garboが最初に注目された作品として有名、とのこと。

1921年、第一次戦後のハイパーインフレで荒廃しきったウィーンの貧民街に暮らすふたりの女性 – Maria (Asta Nielsen)とGreta (Greta Garbo)の運命を追っていって、ああJoyless Street、としか言いようがないの。151分、重たいけどすばらしかった。

冒頭の通りの描写が絵画のようにすごくて、薄暗いなかを人々が幽霊のようにゆらゆら動いていって、入口に吸いこまれていく。扉の向こうには貧しい家庭もあれば悪徳肉屋もいて、いろんなのが蠢いている。 Mariaは脚の悪い父と母と暮らしていていつも働け食べ物持ってこいって叱られていて、Gretaは病弱の父と妹と暮らしていてやはり食べ物がなくて困窮していて、朝早くから列を作る悪徳肉屋のとこに行ってずっと待っていても偉そうに今日の分はなし、しっしっ、て追い払われる。

Mariaは若い銀行員と付きあって彼と結婚することだけが救いで希望なのだが、こいつは遊び人で – やがて女性を殺した容疑でしょっぴかれる - なかなかうまくいかず、Gretaは生活費の足しに空き部屋を赤十字軍の若者に貸して缶詰を貰ったり少しよい仲になったりするのだが、父親が退職金ぜんぶ株につぎ込んでぜんぶ失ったりして、途方に暮れて身動きが取れないまま長屋の裏のファッションブティックで女衒をやっているおばさんの横流しで娼婦をやるしかなくなって..

とにかくJoyless Streetなのでずーっと暗く陰鬱なトーンの可哀想なエピソードばかり続いていくのだが、MariaとGretaのクローズアップとその強さはとても正しく、正義としか言いようがなくて、彼女たち(他にもいる)の顔の無念さ、諦念、怒りの交錯がだんごになって最後の肉屋襲撃になだれこんでいくところは拳を握ってしまう。 そしてここでも閉ざされた扉の向こうでものすごいことが行われているのがわかり、でも通りに向かってその何かが解き放たれたりすることは最後までなく、なので依然としてJoyless Streetはそのままなの。 そしてこの後には更に(それ故に)次の戦争まで行ってしまうという出口なしの悲惨。 貧困や格差がなにをもたらすのか、それはどうしていけないことなのか、既にここまでまっすぐに描かれているのにねえ ..

Greta Garboは既になんの揺るぎもなくつーんとGarboで、既にドイツではスターだったというAsta Nielsenの目の強さと互角にぶつかりあってかっこいいー、しか出てこない。いつも思うことだが、この時代、銀幕の外側でこの人たちはふだんどんな顔で寝て起きて生活していたのかしら、って。それくらい別世界の生き物のかんじがすごい。他方で、ワイマール映画で描かれたあれこれってまさに今の世界のそれ、としか言いようがないのばかりで。

BFIのワイマール特集は6月で終わりで、これが最後の1本になってしまった。あーあ。

7月からは”Salon Mexico: The Golden Age of Mexican Cinema”ていう30年代~50年代のメキシコ映画特集 – さっき1本見てきたらすごくおもしろかった ~  と ”Nineties: Young Cinema Rebels” - 問答無用の90年代映画特集がはじまる(↓予告がなかなか)。

https://whatson.bfi.org.uk/Online/nineties

で、8月になるとCary Grantの特集があー。

7.01.2019

[film] Yesterday (2019)

6月29日、土曜日の昼間、Picturehouse Centralで見ました。
客は10人くらい。公開直後でも昼間だとこんなもんよね。

英国では公開前からとっても話題になっていた監督Danny Boyle - 脚本Richard CurtisによるThe Beatlesが存在しなかったことになってしまった世界をめぐる音楽映画。

Jack Malik (Himesh Patel)はギター1本抱えたソロでマネージャーのEllie (Lily James)とふたりでどさ回りしてがんばっているのだがどうしようもなく売れなくて、ある晩自転車に乗って帰る途中、世界中の電気が忽然と消えた12秒間にバスと衝突して飛ばされて前歯2本折って入院して、回復祝いに新品のギター(前のは壊れちゃったので)を貰って、お礼に軽く”Yesterday”を弾いて歌うと、みんなが「なにそのいい曲?」て聞いてきて、なにってBeatlesだよ決まってんじゃん、と返しても「はぁ?」みたいな反応なのでおうち帰ってバンド名をGoogleしてみると昆虫しかでてこないし、John Paul Georgeで引いても法王しか出てこないし、どうもThe Beatlesというバンドも彼らの曲も今のこの世界には存在しないことになっているらしい。

いやいやいやとレコード棚を探しても彼らのレコードだけなくなっていて、Rolling StonesもBowieもいるのにBeatlesはいない、ちなみにOasisをGoogleしてみると彼らも出てこない(これはいいね)、さらにPepsiはあってもCokeはない、Cigaretteもない、Harry Potterも存在しないらしいことが後になってわかってくる。

それならば、とBeatlesの曲を片っ端からカバーして(コードとか歌詞とかぜんぶ頭の中にあったのか)録ったものを売り込んでみるとめちゃくちゃいい曲じゃん、て地元のTV局がかけてくれて、そしたらある晩、自宅にTVを見たというEd Sheeran (Ed Sheeran)が現れて、自分のツアーのサポートで一緒に来てくれないか、と言われ、ツアー先のモスクワでは異様に盛りあがり、そこからはLAのレコード会社のえらい人(Kate McKinnon)が現れて西海岸に来い、になって成功への階段を昇り始めるのだが、Ellieとの間は離れていっちゃうし、もともと自分の作った曲じゃないから後ろめたさもあるし、更にはJackの他にもThe Beatlesがいたことを知っている人たちがいるらしいことも見えてきて。

こういうお話しで誰もが思い浮かべそうなありがちな展開(夢オチとか)にはならなくて、まさしく”Love Actually” (2003)や”About Time” (2013)のRichard Curtisだなあ、と思って。 彼のお話しの決着のつけかたを御都合主義とか悪人いなさすぎとか言うひとには相変わらず、に映るのかもしれないが、いかにも英国的なずるずるしたやさしさと取ってもいいじゃん、って。”About Time”は、特定の登場人物が時間を自在に遡ってなにかできてしまう映画だったが、これは特定の集団記憶がごっそり抜け落ちたときにどんなことが起こるのか、についての映画で、”About Time”が主人公の行動を通して彼のことよりも父親や彼女(Rachel McAdams)のことをしんみり考えさせたように、これは自分にとってのThe Beatlesとかそれを一緒に聴いていた人たちのことを改めて考えさせる – だからとっても切なく悲しいお話しにすることもできたはずだ - そういう点ではよい映画だなー、って。

これはJackとEllieのラブストーリーが軸なのだが、同じ設定でバンド結成のストーリーを作ることもできるよね、とか、Harry Potterの設定貰って物語作る奴の話もできるよね、とか、こないだの”Avengers: Endgame”にもあった過去を多少いじったって今現在には影響を及ぼさない都合のよいストーリーテリングって、無責任にいろいろできておもしろいかも。

Jackがところどころやけくそになってギターいっちょうでパンクに繰り出すBeatlesナンバーが素敵だし、エンドロールでは本家のあの曲が堂々と鳴るのででっかい音のシアターで是非。あとこれ、Beatles的にはぜったいGeorge Harrisonのテーマだと思うのだが、もうちょっと彼のこととかさー。

田舎の教員で空き時間にバンドのマネージャーやっているそこらにとってもいそうなLily Jamesさんは文句なしに素敵。

Ed Sheeranはゲスト程度かと思ったら結構ストーリーに入りこんでいて、なかなかよいかんじだった。今後もコメディ出てほしい。(音楽あんま聴いたことないけど...  ケチャップ買ってみようか)

どうでもいいけど、The Beatlesがいない、Cokeもない、Cigaretteもない世界の経済のありようってこれまでにこれらに費やされてきた規模総額から想像するとものすごいので、いまとぜんぜん違った風景になってしまう気がするんだけど。まあいいや、と。

週末はフランス程ではなかったけど気温があがって暑かったのであんま外に行かずにBBCでGlastonburyの中継をだらだら見ていた。やっぱしKylieが素敵すぎて、Nick Caveが出てきたときは、あーこないだのConversationsで「もうKylieとはやらないんですか?」の質問にごにょごにょ言っていたのはこれがあったからかー、って。 あと、Billie Eilish、とんでもなくすばらしかったねえ。

来年は行くぞ。(まだいたらな)

... そんなことよかJanet Weissさんの件が衝撃で、しばらくなんもしたくないかも。

[film] Stonewall (1995)

6月28日、金曜日の晩、Stonewallの暴動から50年目のこの日にあまり上映される機会がないらしいBBC製作のドラマを。 同じテーマとタイトルではRoland Emmerichによる”Stonewall” (2015)があって、これは日本でも公開されたがこっちのは未公開みたい。

上映前に脚本のRikki Beadle-BlairさんとプロデューサーのAnthony Wallさんのイントロがあり、監督のNigel FinchさんはAIDSで亡くなる直前までこの映画の編集をしていたこととか、当時は今のようなLGBTQの人権の話なんて(LGBTQの概念そのものすら)ないし、なんでBBCがアメリカのことを、という声もあったり大変だったらしいのだが、アメリカ側のプロデューサーChristine Vachon - Todd Haynesの諸作を手掛けている – の強力なドライブもあって作りあげることができた、と。

Roland Emmerich版を見たことあるひと? の声にぽつぽつ手があがり、他方で”sorry..”の声もかかって、あれはカナダで撮っているけど、こっちのはちゃんとNYで撮っているしさ! とか。確かに見てみると、こっちの方が数段すばらしいものだった。

ポップコーンMovieでもあるので楽しんでいってね!! と。

本編の前に”Happy Birthday, Marsha!” (2018) ていう、これはStonewallの生き証人と言われるMarsha P. JohnsonさんとSylvia Riveraさん(この人は暴動には参加していなかったらしいが)の生前の姿と現在のLGBTQのありようをコラージュした短編が上映された。

本編の方は、一応Martin Dubermanによる同名のメモワール本を元にしていて、若者Matty (Frederick Weller)が田舎からバスでGreenwich Villageにやってきて、路上でLa Miranda(Guillermo Díaz)と出会い、彼/彼女の部屋に間借りしてStonewall(ここの門番がLuis Guzmán)にたむろしていろんな人と出会って学んで成長していくのと、Gay rights獲得のために活動する市民グループに加わってそこで彼氏ができたりとか、Stonewallを経営しているマフィアのVinnieと情婦のクイーンBostoniaとの切れたりくっついたりの縁とか、いくつかの人間関係を並行して描きつつも最後には砂時計が落ちていくように暴動になだれこむ。

エピソードの区切りにはお姐さんのグループがジュークボックスでかかるThe Shangri-LasとかThe Shirellesに併せて楽しく口パクで歌ってくれたり、Judy Garlandの死が象徴的に描かれていたり、いろいろカラフルにぶち込んであって、ポップコーンなのね、と。

Roland Emmerich版が田舎から出てきた若者の事情(家族とのあれこれも含め)とか暴動に至るまでの経緯やり取りをきちきちと積み上げて整合するドラマとして盛りあげていったのに対し、こっちのは散文的に雑多なエピソードとひとりひとりの不敵で素敵な面構えを蒔いて散らしていって、暴動のところはねずみ花火が弾けるように突然に暴発し、「おれはこのために戦うんだ!」って力強い啖呵と共に終わって、最後はおおおーって全員が拍手した。

映画的にはものすごく粗くて雑で素人みたいなとこもいっぱいあるのだが、たぶん、Stonewallで起こったことを、その歴史を継ぐっていうのはあの瞬間に立ちのぼった火花とか怒りとか、その背後にあった歓びも含めて(決してヒロイックになることなく)、こんなふうにぶちまけるのが正解なのだろうと思った。ここがこんなふうに終わったからこそPrideはあんなに雑多に猥雑に輝いているのだし、延々終わらないお祭りになるのだし、そうなってよいのだ、ということがよくわかった。

とにかく真剣で切実で、彼らの生きた顔がくっきり残るので、それだけでよくて。