1.30.2022

[film] 私、違っているかしら (1966)

1月21日、金曜日の夕方、神保町シアターの淡島千景特集で見ました。
この特集も見たいのがいっぱいで『夫婦善哉』(1955)と『黄色いからす』(1957)は見て、所謂大女優とは別の存在感というか透明さを湛えた人だなあと思って。
監督は松尾昭典、 原作は森村桂のデビュー作『違っているかしら』(1965) - 未読、脚色には倉本聰とか。

原作は森村桂自身の経験を元にしたエッセイなので、ほぼ実話のようで、まだ就職にも職場にも男女差別なんてあってあったりまえ、ダイバーシティもプライバシーもカケラもなく「みんな違ってみんないい」なんて誰も言ってくれなかった時代のー。

白石桂(吉永小百合)は学習院に通う大学生で、冒頭でずっと務めていた親のない子供たちの施設のヘルパーをやめて自分の就職に専念しようとしていて、でも大学の相談窓口に行っても片親(父がいない)だと難しいとか言われ、父の親友で業界に強力なコネを持つ(自称)という田村(三島雅夫)に頼んだのにダメになって踏んだり蹴ったりで、でも母親(淡島千景)はそんなのちっとも構わずに趣味の登山に出かけちゃって、そんな彼女の膨れっ面の修行時代を描く。

母親からは放置されていても、大学の同期で学生運動のリーダーだったのでやはり就職に難儀している川瀬(浜田光夫)とか、施設にいた子で屈託なく日々の金儲けに勤しむゴロ(市川好朗)とかを支えにしながらようやくゴシップ女性週刊誌(でもゴダール座談会とかも載せる)に入って、いきなり冬山遭難現場の取材に行かされて、その後ばりばりの編集長小池(高橋悦史) - こういうのいそう - に遭難した遺族への直撃取材を強制されて嫌になってやめて、当時先端を走っていた明らかに「暮しの手帖社」に見習いのような形で入って、どう見ても花森安治の花井(宇野重吉)や大橋鎭子の河西(細川ちか子)と出会って、彼らに認めてもらったもののやっぱり自分は違うかも、ってどこに向かうかわかんない道をすたすた歩み始めるまで。

表向きは大人社会と向き合った大学生が直面する困難と超克と自己実現、のようなテーマだと思うのだが、当時の就職事情の酷さにあーあ、になって彼女の悔しさがあんまストレートに入ってこない。高度成長で上向いていたとかいっても裏の実情はこんなもんで、実はぜんぜんすごくなかったにっぽんとか、後半は”The Devil Wears Prada” (2006)みたいになるのだが、あれも主人公がそれでよいのならよいけど.. って見るたびに思ってしまうやつだし。

で、こういう物語の常としてわたしはわたしの道を見つけたから、のように終わって、そうですか、なのだがこの映画の桂 - 吉永小百合の膨れっ面からのさらっとした吹っ切れ方が素敵で、これまで吉永小百合の映画なんて見たことがなかった - 男どものもちあげ方がきもちわるくて - のだが、すばらしいと思った。くどくど語らず、激情に走ることもなく、立ち去って振り返らないとこ。それを誰の助けも借りないし、母親も貸さないし、男性なんて関係ないし、でやっていくとこ。ふつうにかっこいいったら。

当時のバラ色のサラリーマン万歳、みたいな職場コメディ - これもあんま笑えないので元気がないと見ない - もよいけど、こういうのも見ておいた方がよいねえ、って。これと同じように80年代や90年代の就職や職場の実情をちゃんと描いた映画ってあるのだろうか?  あと、関係ないけど「就活」とか「婚活」とかなでも「活」をつけるリクルートだかなんかのラベル貼りがものすごく嫌で、だってそんな「活動」するために動くなんて、ただの手段を目的にするのって家畜化の常套じゃん、ていつも思う。 だまされるな、って思うし、そもそもだますな、だわ。

1月があー。

1.28.2022

[film] Stillwater (2021)

1月22日、土曜日の午前、シネクイントで見ました。

“Spotlight” (2015)のTom McCarthyの新作で、主演はMatt Damonで、彼が乱闘したりしながら娘を救出しようとしているらしい予告を見たとき、またかー、みたいに思ってしまったことは確か。彼のJason Bourneてなんか違う - ”Interstellar” (2014)とか”The Martian” (2015)とか、遠くにひとり取り残されて途方に暮れている滋味のない性格もそんなよくないTom Hanksのようなところが魅力だと思っていて、でもそういう点から見ても結構違ったやつだったかも。

2007年にイタリアで起こった無実のアメリカ人女性Amanda Knoxが現地で勾留された事件にインスパイアされたものだという。

オクラホマのスティルウォーターで石油の採掘をやっているブルーカラーのBill Baker (Matt Damon)がいて、妻はいなくて(自殺したと)、地元の身寄りは義母くらい、娘のAllison (Abigail Breslin)はマルセイユで同居していた女性を殺害したとして逮捕され現地の刑務所に入っているが、彼女はずっと無実を訴えている。彼は娘との面会のために定期的にマルセイユを訪れていて、今回Allisonに会ってみると事件の容疑者に繋がりそうな情報(口コミ)を得たという手紙を担当判事に渡してほしい、と頼まれて、でも判事に会うとこの程度の情報では再捜査はできない、と断られる。現地の元警察官で探偵をやっている男からはその男のDNAさえ手に入れられたら警察にある現場のそれと照合できないこともない – でもすごく高いぞ、って言われて、その先、Allisonには(希望を持たせるために)判事は調べてみようって言っている、と告げ、Billはやってはいけないとわかっていながら自分ひとりで手がかりを探り始めるの。

その時滞在していたホテルで隣の部屋にいた母娘 - Virginie(Camille Cottin)とMaya (Lilou Siauvaud)と仲良くなって、彼女たちのアパートに間借りさせてもらい、日雇いの仕事とかをしながらAllisonの同居人を殺した可能性のある男(名前はわかっている)を探して治安の悪い高層団地群(フランスの映画によく出てくる)のあたりを嗅ぎまわり始めて、因縁つけられてぼこぼこにされたり、そのうちAllisonにも判事ではなくBillひとりでなんかやっていることがばれてふざけんな、って元々父とは蟠りがあった彼女は絶望して自殺をはかり、Virginieたちからも出ていってと言われて。

やがてVirginieたちとも和解して容疑の男の顔がわかって、サッカー場でそいつを見かけたBillは.. (これくらいまで)

実際に起こった事件が元なのでこんなこと起こるわけがないと言いきれないわけだが、でも、うーん。(Amanda Knox本人はこの映画について失望して怒っている、と)   フランス語もほぼできないBillがVirginie(彼女は英語ができる)のお世話になって、ビザもないのに日雇いで働きながらたった一人で容疑者を追っかけるとか、フランスってあんなに異国人に(特にアメリカ人に)甘くてやさしい国かしら、って思うし、いろいろ無理ありすぎな気がした。初めのほうでAllisonの態度に含みがあったりするのとか、終盤のBillのあの行いはいくらなんでもだめでしょ、とか。

脚本上の性格設定はたぶんきちんとできているのかもしれないけど、物語を構成する糸に真犯人探しと、うまくいっていない父娘の絆の話と、孤独で武骨な男とシングルマザーの恋と、スティルウォーターという田舎 vs. マルセイユという田舎の話と、父親の執念と自己回復と、女性同士の恋と嫉妬と、あれこれてんこ盛りしすぎて明らかにじゅうぶん回収できていない。もしAllisonの言ったことが本当だったとしたらそれはそれで簡単に収束できるとは思えないし、そういう状態のままスティルウォーターであんなふうに落着できるものなのか、って。 そんな土地のお話なんです、って言われたら … となるしかないけど。

結果として、Matt Damonだったかも。よくもわるくも。

1.27.2022

[film] 忠烈圖 (1975)

1月16日、日曜日の夕方、国立映画アーカイブの特集『香港映画発展史探究』で見ました。
日曜日のせいか客席ぱんぱんで、あーこの空気はきっとオミクロンたっぷり含有しているねえ、と思いつつも身動きとれない。

この特集は未見だった『男たちの挽歌』(1986)をはじめ、地味に何本か見ていて、『董夫人』とか、すばらしい女性映画なども多いのだが、とにかく書いている時間がー。  英語題は“The Valiant Ones”。

胡金銓(キン・フー)の代表作と知られて、たぶんNYにいた頃(90年代)に見たことがあった気がして、でも確証は持てずにううむーって見ていって、最後の岩石ごん、のところではっきりと思いだした。上映された4Kのレストア版作成にもアメリカが関わっていたようだが、アメリカのキン・フー周辺の研究ってなんか裾野が広そうで、Lincoln Centerで小特集が組まれた時も上映前にトークする予定だった研究者の方が来れなくなって、替わりに論文みたいな長文原稿が送られてきたことがあったり、とにかく恒常的に熱くて深そう。なんでだかは不明。

明の時代、日本の海賊「倭冦」が中国南部の沿岸を荒らしまわってみんな苦しんでいて、皇帝の命を受けた将軍は腕利きの7人を選んで、圧倒的多数の倭寇に闘いを挑む。とにかく、カンフー&ちゃんばら活劇として見ていてこんなに楽しくかっこよく美しい(あの衣装のカラーとか)ものはないの。見事に緩急のきいたダンス映画のようでもある。

とにかくかっこいい白鷹と徐楓の夫婦もそれぞれの強者たちも一見そんなに凄そうには見えなくて飄々としていて、でもすれ違ったり振り返ったりした瞬間に気が付けば向こうは死んでいて、それで相手はあたふたして。敵の方に乗り込んでいっても向こうが奥から順番に強いのを出してきても全然へっちゃらで払い除けて、いちいち、おー、とか、わー、とか唸るしかないのと、それら敵方の出方出し方がいちいちくどくてしつこくて、それで連中がうんざりするくらいいっぱいいることがわかって、林を抜けて海岸線を走って最後に白塗りの倭冦の首領 - 博多津(朱元龍)が現れて、でも白塗りなのでなんか微妙におかしくて、どかどかどすどす何度も宙を舞ったり蹴ったりして、最後はごん、って。

NFAJの本特集のページにこの作品をレストアした時の話と撮影当時を振り返るキャストの皆さんの動画があって興味深いのだが、あれらの動きはやはり厳密にコレオグラフされたものだったのだなあ、というのとテーマは“loyalty and sacrifice”ということに尽きるのかー、とか。


怒火 (2021)

1月16日、日曜日の午前、『忠烈圖』の前座で、Tohoシネマズの日比谷で見ました。
英語題は”Raging Fire”、邦題も『レイジング・ファイア』。
Donnie Yenの主演だから、というより、陳木勝(Benny Chan)の遺作であるならば、と。

ベトナムマフィアと香港マフィアの麻薬取引の現場に張っていた香港警察のチームが、横から現れた5人組によって壊滅させられブツも奪われて、その現場に直前に行くことを禁じられたボン(Donnie Yen)は、かつての部下で、4年前の事件捜査の際に有罪となり収監されたンゴウ(Nicholas Tse)たちの関与を疑って追っていく。その過程で明らかになる当時の警察上層部の非道と、ンゴウたちに刻まれた復讐の念の深さ、そしてそれでも衝突せざるを得ないふたりの業と宿命と。 これも“loyalty and sacrifice”を巡る終わりのないドラマだとは思うものの、明の時代からなんて入り組んだ面倒なところまで来てしまったことだろう、って。なにが被さって乗っかってここまで…?  “power and order” ?

車も含めたアクションはやたら派手で、最後の市街戦は”Heat” (1995)みたい(いやあそこまではぜんぜん)だったりもするのだが、度肝を抜かれるようなところまではいかなかったかも。どこまでも終わらないくどい殴りあいでも、なんかどこか安心して見ていられたような(←それじゃだめなのよね)。

なんか、真似できなさすぎ、っていうのもあるのかも。『忠烈圖』とか素敵なカンフー活劇って(ダンス映画も)見終わったら体動かして誰かに絡みたくなったりしない?(絡んではいけませんが)。 高度すぎて痛そうすぎてそれができないのってむず痒いかも。

そういえばJohnnie Toを随分見ていないことに気づく。見たい。

普段、音はでっかい分には文句ない派なのだが、なんか耳障りなくらいに(よくない意味で)やかましく感じたのは気のせいだろうか? 全部の音が中域にだんごになっているような。


1.26.2022

[film] The Souvenir: Part II (2021)

1月19日、水曜日の午後、A24のScreening Roomで見ました。

19日(米国時間では18日)の晩、Part IとPart IIを一挙上映(配信)する、という案内が来て、あんま考えずにチケットを取ってからさてどうしよう、と。開始は日本時間の朝8時、閲覧ウィンドウはそこから9時間、上映時間は2本合わせて4時間弱、午後に会社休んで自宅に戻り、窓が閉じてしまう17時少し前に見終えた。よかった。

前作の“The Souvenir” (2019)はすばらしいと思って好きになったものの、どこがどう、とは言い切れない不思議な感触の作品だった。終わって、もっと見たい - 主人公がどうなっていくのか知りたい、と思ったところでエンディングに”Part II is coming!”と出たときには映画館内でどよめきが起こったことを憶えている。うれしい早く見たいとなって、昨年のカンヌでの公開でも評判で、Sight & Sound誌の年間ベスト1に選ばれて、でも見れないのでずっと死んでた。

前章の“The Souvenir”をおさらいしておくと、映画学校の学生で卒業制作でSunderlandのドキュメンタリーを作ろうとしているJulie (Honor Swinton Byrne)には外務省に勤めているという(確証はない)Anthony (Tom Burke)とナイツブリッジのフラットで同棲していて、瀟洒なレストランで食事したりヴェネツィアに旅行したり大人な日々を送る反対側でドラッグに溺れて危うく毒々しくなっていくAnthonyとの関係とか、映画制作その他で度々お金を借りに行くJulieの母Rosalind (Tilda Swinton)とのこととか。大きな事件やときめきの瞬間が描かれることはあまりなくて、でも終わりにAnthonyが突然死んでしまって終わる。

背後の人間関係もざっと書いておくと、主演のHonor Swinton ByrneとTilda Swintonは実の母娘で、監督のJoanna HoggはTilda Swintonの学生時代からの盟友で、Honor Swinton Byrneの名付け親で、この作品は監督自身の卒業制作の頃を自伝的に描いてもいて、その卒業制作の短編 - ”Caprice” (1986)の主演はTilda Swintonで、2020年のBFIでのTildaさん特集での”Caprice”上映の際には、”The Souvenir Part II”に深く関係があるので本来であれば(Tildaの特集でなければ)上映を許可しないのだ、と語っていた。 あと、”Souvenir”主演のJulie役はプロの俳優をオーディションしていったのによい人がいなくて最後に監督がほぼ素人だった - 女優になるつもりもなかった - Honor Swinton Byrneを引っ張った、など。人生の大きな節目となった作品の制作当時のことを振り返る半自伝的作品の中心に、その作品に主演した女性とその娘を連れてきて演じさせるってなんだかすごい。

ちなみにHonor Swinton ByrneはTildaさんの初監督短編 - “Will We Wake”(1998)で赤ん坊当時の寝顔を披露していて、同様にTildaさんが一部監督として参加したJohn Bergerのドキュメンタリー”The Seasons in Quincy: Four Portraits of John Berger” (2016)にも出てくる。実は画面上のキャリアは長いの。

物語は”Part I”のすぐ後から始まる。Anthonyがいなくなった後、引き続きナイツブリッジのフラットで暮らしながら卒業制作の準備を進めているJulieはなにをやっても上の空で、親と話していても突然吐いてしまったりのぼろぼろで、作る予定の作品も当初のドキュメンタリーから身近なエッセイ風の題材に変えて、教授たちからはこれだと製作費は出せないと言われ、スタッフからはどこに向かおうとしているのかわからないと言われ、でも彼女の頭のなかではAnthonyとの過去や現在の自分の像が作って立ち向かわなければいけないと思っているイメージたちが強迫観念のように被さって見えている。

この辺の、映画製作に関する映画の形式を取りながら、結局あんたなにをしたいのよ、を問いながら彷徨う、力強い青春ドラマになっていると思った。どこに向かっているのかわからない人の彷徨い(の果てのなさと孤独 - 誰にも救えない)、というのはJoanna Hoggがずっと追い続けているテーマだと思うのだが、そこに反射するいろんな光と影、画面の肌理を細かに使い分けていく語り口の揺るがないことときたら前作を遥かに上回っているし、Julieは岐路に立つ不安定な女性を見事な落ち着きと存在感で、輪郭のはっきりした女性として(矛盾しているようだけどそれらすべてを堂々と)演じきっていてすばらしい。毒男がいなくなったらよりすっきりした、というだけなのかもだけど。

そして前作よりもよりきめ細かに描かれる母Rosalindとの関係。田舎で夫(James Spencer Ashworth)と犬たちと悠々暮らしつつ娘のことになるとおろおろしまくるおばあさん、をWes Andersonの映画を遥かに凌ぐたまんなく妙なリズムと衣装で(しかし見事に様になっている)演じていて、リラックスしているのだろうけど、すごい人。

画面に登場する3匹のわんわん達はTildaさんが飼っているEnglish Springer Spanielで、彼女は”Romeo I lack from Flavio” (2018) ていう短編で、オペラにのって踊りまくる彼らの姿を短編として撮ったりしている。今回のわんわん達は、カンヌの外側で行われているお祭り(?)でPalme Dogというのを受賞している、らしい。

音楽も前作以上にすばらしくて、”Part I”のエンディングで流れたAnna Calviの”Julie”から始まって、Nicoの”Sixty/Forty”とか、Mick Ronsonの”Slaughter on Tenth Avenue”とか、JAMCの”April Skies”とか、Wireの”Pink Flag”とか、Small Facesの”Tin Soldier”とか、もうたまんないの。

もうあと10回くらい見たい。あの映画の世界で暮らしたい。

1.25.2022

[film] Escape from New York (1981)

4Kレストア版によるJohn Carpenterの『ジョン・カーペンター レトロスペクティブ2022』- 3本の上映でもレトロスペクティブ。邦題は『ニューヨーク1997』。

4Kでどんなに綺麗にレストアしたって、その画面の一寸先は闇の、奥の方を凝視するのを躊躇わせるやばい胡散臭さは変わらない。その状態に置かれた時に先に進むのをやめて見なかったことにするかどうするのかを問うてくる3本で、もう行くしかないのか、って決意したときに、あの不穏なシンセの音が背後で鳴りだすの。つまり、映画館に向かう我々は自身がSnakeであり、Nadaになっているの。

Escape from New York (1981)

1月12日、水曜日の晩、ヒューマントラストシネマの有楽町で見ました。

1988年、犯罪発生率が400%を超えてしまったので、政府はマンハッタン島を厳重装備を敷いた監獄島にして、終身刑を告げられた罪人をここに送って、送られた囚人は高い壁と地雷と監視カメラで逃げられなくて、逃げようとしてもすぐに殺されることになっている。

1997年、ハートフォードのサミットに向かう途中だった合衆国大統領The President (Donald Pleasance)の乗ったエアフォース・ワンがハイジャックされてマンハッタンに不時着して大統領は拉致されて、警視総監(Lee Van Cleef)は銀行を襲ってマンハッタンに輸送されるところだった元兵士のSnake Plissken (Kurt Russell)に取引を持ちかける。 大統領を生きて救出できたら恩赦で自由にしてあげる、首に小型爆弾を仕込んだのでリミットは22時間、変なことをしようとしてもリモートで爆発させることができる、やる?やらない? 

やるしかないのでやるけどぜんぜんやる気なし - 救う価値ゼロの野郎 - 大統領を救う - の仕事を受けてグライダーでワールドトレードセンターの屋上になんとか降り立つ。マンハッタンは極悪のボス- the Duke (Issac Hayes)と“crazies”と呼ばれる狂ったチンピラが牛耳っていて、タクシー運転手(Ernest Borgnine)とか技術者(Harry Dean Stanton)とか一緒にDukeのところに囚われていると思われる大統領を探し始めて..

80年代のこんな設定のドラマなのでSnakeが最後になんとかしてくれるであろうことは当時でもすぐわかったのだが、とにかくこんなに後ろ向きでクソみたいな仕事はないしさいてー、なので、例えばMad Max的な痛快さのようなのを期待していくとちっとも、で、ドラマのほとんどは夜の闇のなかの終わらない悪夢のようで、奥のほうも背後ももやもやしてよくわかんないし、出てくるのは変態とか狂人とかそんなのばかり、救出するのもハゲのデブだし、とにかくぜんぶひどいのに、それでもどうしてSnakeは? というのを自分にずっと聞いていくことになる。毎朝の通勤電車に乗るときとおなじように。

で、ラストの、遠くの闇の奥からどこまでも追っかけてくるDukeの悪夢としか言いようのない底なしのおっかなさ。この狂った冷たさに浸る(なぜそれを求めるのか)ためにJohn Carpenterを見るんだわ、って改めて思ったり。


They Live (1988)

見たのは1月20日の晩、おなじくヒューマントラストシネマの有楽町で。こんな作品を「ヒューマントラスト」なんて名前のついた映画館で見るって、なかなかよくできた冗談だわ。

マンハッタンが監獄島になった年に西海岸で確認された異常事態を描いたカルトSF。原作はRay Nelsonの短編 - “Eight O'Clock in the Morning" (1963)。

2019年に映画のリリース30周年を記念してRough Trade Booksから出た冊子 - “They Live: A Cultural & Visual Awakening”を見返したいのだがどこにいったのか出てきてくれなくてー。

日雇い人夫としてLAに流れてきたNada (Roddy Piper)は建設現場での仕事を見つけて、そこで知り合ったFrank (Keith David)の紹介で炊き出しをしている施設に入れてもらうのだが、街では宣教師が「彼ら」のことを言っていたり乗っ取っているらしい海賊TVでも「気をつけろ」とか言っていて、そんななかで手に入れたサングラスをかけてみたら人じゃない何かとか見えない看板メッセージとかが見えて…

普段ふつうに見ている/見えていると思っていたものが、別の人相とか標識として見えてしまったとき/見えなかったものが見えてしまった時、ひとはどう行動するのか。サングラスの方を疑ってもおかしくないのだが、普段見ている現実の方がおかしいと思った - その原因は心理学の方で掘ったほうがよいのかもしれないのだが、でもここでは、やっぱりそういうことだったのかー、ってなって、そのやばいぞ、っていう直感がNadaたちを動かしていく、その明快さはとってもB級ぽいのだが、そんなことよりも、ここで説明された現実の、支配や権力のありようがとっても納得できてしまう - そしてちっとも古くなっていないことの方が - 誰もが言っているように「衝撃」なんだわ。 They Live.  They Are Still Living..

もちろんこんなのは、ノストラダムスの頃から(それよりずっと前から)あるいろんな陰謀論のひとつで、最近だとSNSを仕込んだのも、ダイバーシティもSDGsもBLMもコロナもワクチンも、2021年1月6日のもぜーんぶ連中 - “They”の仕業に違いないに決まっている、のかもしれない。 が、陰謀論がどうして陰謀論として人々を捕えて虜にして社会を蝕むのか、そこまで踏み込んだまるごとの病理として全体の腐っていくさまを示しているところがすごい。 それを熟慮の果ての終末の絵姿として描くのではなく、ラストにNadaが中指を突っ立てるばーかくそったれ、のB級の勢いで殴り書きしたところがかっこよいったら。

音楽はいつものシンセがアラームのように響くのではなく、地味めのアメリカンふうなところがまた。
 
いまのにっぽんなんて、どこを切っても、サングラス不要で、”They Live”の姿しか見えなくて、ほんとうに恐ろしい。

1.23.2022

[film] をぢさん (1943)

1月15日の午前、新文芸坐の飯田蝶子特集 - 『没後50年 飯田蝶子 “婆優”一代』で見ました。
のむみちさんの今回の企画は本当にすばらしいと思った。例えば自分で2週間、好きにプログラムをキュレーションできるとしたら.. とか割と夢想したりするのだが、端から追っていくとものすごく大変な仕事だと思うわ。

飯田蝶子さまに関しては、こんなの世のすべてのおばあちゃん子にとって全部は無理としてもお参りして拝んでおかないとバチがあたるぞ、なやつだと思って。見れたのはこの2本だけだったけど。

をぢさん (1943)

監督は澁谷実と原研吉の共同。60分。
鉛筆工場で若者の工員たちを指導する立場のをぢさん - 近藤徳二郎 (河村黎吉) - でも誰も名前では呼ばないしおそらく誰も本名知らない - がいて、お節介やきの度が過ぎてなんでも首突っ込んでなんか言ったりやったりしないと/してあげないと/相手してもらえないと気がすまない世話好きと首つっこみに日々燃えるをぢさんが、おかみの飯田蝶子とか、近所のお気に入りの坊やとか、をぢさん踊ってよ、って寄ってくる若衆とか、町内のいろんなのをひとりで相手していくさま(2人3人もいたらうざいだろうなあ)を落語家の淀みない語りとしぐさで一筆書きのようにさらさらと引っ張っていく魔法の界隈のお話。

一瞬、饅頭を食べさせた坊やの具合が悪くなった時だけしゅん、となって、桑野通子の母親とみんなで蒼くなり、坊やを元気づけるためにをぢさんが顔をひきつらせて踊るところとかこれはやばいぞ、になるのだが、蝶子おばさんの全能の輸血 - すごく効きそう - で回復して、をぢさんの徘徊は頭の後ろを掻きながら再び始まってまったく懲りることを知らない。

これ、相手が坊やじゃなくてお嬢ちゃんだったらどうなったかしら? とか。

あとこれって『朧夜の女』(1936)で坂本武が演じた甥のために一肌脱ぐおじさんとほとんど同じようなことをやっていて、こっちのでは割とよいおじさん役なのだが、実際にこういう人が今の会社とかにいたら(少し前までいたよね)なかなかやばい気もする。

戦時下だったから、と言えば言い過ぎかもだけど、今のなんとか会議が狙っている家族とか社会の像って案外こんな、万能&全能のおばさんたちの献身的なバックアップ(隷属ともいう)で成り立つ身勝手で無反省なをぢさんらがでかい顔をしたやつなんだろうな、とか。 これはそのダークじゃないほのぼのバージョン。

客席はみごとにおじさん/おじいさんばっかしだったねえ。つまりさー。


むすめ (1943)

監督は大庭秀雄で、これも飯田蝶子というよりは河村黎吉もの、というよりはロマコメ。でも問題ない。

自宅で洋裁屋をしている文子(高峰三枝子)と日々ぷらぷら過ごしている新六(河村黎吉)の父娘がいて、新六は近所のお面屋の飯田蝶子と坂本武の家にしょっちゅう遊びに行っては煙たがられていて、そんなある日、文子にメリヤス工場の御曹司からの縁談が舞いこむのだが、文子は電車のなかでの足の踏みあい(おもしろい)で知り合った歯医者の向井(上原謙)のことが気になってて、でも向井のことは幼馴染でお面屋の娘の富江(三浦光子)が入れ込んでいて..

新六は縁談を呑気に喜んで、遊んでばかりはいられんし、って自分の仕事の口を見つけてきたり、仲人を頼まれた飯田蝶子と坂本武も意気込んで、でも文子の様子に気づいた富江があんたらなにやってんのよ! って親たちを叱って、蝶子おばさんが切腹覚悟で縁談をぶち壊しにメリヤス工場に向かうところが痛快なの。

ここでの三浦光子はちょっとかわいそうなのだが、この少し後の『伊豆の娘たち』(1945)で桑野通子を味方につけて鈍い中高年連中に逆襲を果たすのでだいじょうぶだから。

「をぢさん」も大変だけど「むすめ」も楽じゃなくて、でもそもそもはさあ..(以下略)。 で、飯田蝶子的な「をゔぁさん」のありようは彼らを縛るしょうもない価値規範を貫いて叩きつぶす可能性に満ち満ちたものであったことが窺えてあー見てよかった、って思ったのだった。

この界隈の人々、MCUみたいなユニバースにできるよね。 “Eternals”でもよいし。

1.21.2022

[film] House of Gucci (2021)

1月14日、金曜日の晩、二子玉川の109シネマズで見ました。邦題は『グッチ家』でよかったのに。

Sara Gay Fordenのノンフィクション本 - “The House of Gucci: A Sensational Story of Murder, Madness, Glamour, and Greed” (2001) - をBecky Johnston - “Under the Cherry Moon”とかの - が脚色した実話ベースのドラマ。Ridley Scottが同時期に監督した”The Last Duel” - 『最後の決闘裁判』と同じように女性にちょっかいを出したり出されたりしたモテ男のAdam Driverが女性によって(でも手を下すのは男性)破滅させられるシリーズで、どちらも最後は裁判で終わるの。

70年代末、家族経営の運送会社で事務をやっていたPatrizia Reggiani (Lady Gaga)が弁護士を志していた真面目なMaurizio Gucci (Adam Driver)とパーティで出会って恋におちて、Maurizioの父のRodolfo (Jeremy Irons)のところに行ったらRodolfoはあんなやくざな娘はだめだ、って言うのでMaurizioは家を出てふたりで式をあげて地味に暮らしていたところにAldoおじさん (Al Pacino)と息子のPaolo (Jared Leto)が現れてGucciのレガシーとかについて滾々と説いて誘ってきて、やがてRodolfoが亡くなると、Aldoと組んだPatriziaが鼻息荒くMaurizioを押しまくってGucciの名は少しづつ前に出てくるのだが、他方でPatriziaのやり方に辟易し始めたMaurizioはスキー場で再会した幼馴染のPaola (Camille Cottin)と仲良くなっていって…  

自分はこんなにがんばって家族もブランドも愛して尽くしているのにMaurizioはこっちを見てくれなくなった(クリスマスの贈り物がBloomingdale'sのギフトカードってなめてんのか?)し、Gucciの負債も減っていかないで気がつけば外の連中に乗っ取られようとしているし、って不満と不安と妄想を暴走させたPatriziaはTV占い師Pina (Salma Hayek)の言われるままに殺し屋を雇って…

ちょっと古い、どころか中世のオペラにあってもおかしくなさそうなこてこてにドラマチックな家族醜聞ドラマ - 情熱的なファムファタールがいて、やや弱い御曹司がいて、愛がスパークして、家族の絆と表裏の掟が降りてきて、道化がいて、上がって下がって、どん底に落ちかけたところで悲劇が..  でイタリア人俳優たちがイタリア語のパッションで喉を震わせてがんがんやった方がサマになった気もするのだが、ここは欧米の俳優たちによるアンサンブルのわかりやすさおもしろさを取ったのだろうか。でももっともっとグラマラスでぐしゃぐしゃに狂ってホラーのように転げ落ちていく様が見たかったかも。なんか薄い。Ridley Scottだと、イタリアのアメリカ人家族に起こった実話ドラマ - ”All the Money in the World” (2017)もあったが、あれに近いのかも。

確かに既にしんで亡霊のようなJeremy Ironsも、”The Godfather”のなれの果ての萎れた狂気をみせるAl Pacinoも、ペンギンみたいなJared Letoも楽しくて、でもやはり”A Star Is Born” (2018)とは別次元のなりふり構わぬ熱情をふりまいて暴走していくLady Gagaがすばらしいったらない。でも彼女ならもっとやれた。Joan Crawfordみたいになれるかも。Adam Driverはここんとこいろいろ出過ぎていて、でも最後はたいてい殺されちゃうか狂っちゃうかみたいな役ばかりなので、ここまで束になって彼を愛した後に殺したがる今の世の中ってどういうの? などと思ったり。それか、”Marriage Story” (2019)のオルタナティブ - 一見スマートで子供にもやさしくて、でもその無垢な素振りが相手の女性をじわじわ殺していくAdam - として見るか。

全体としては80年代から90年代のGianni Versace暗殺で(自分のなかでは)萎んでしまったあの時代のファッションへの熱あれこれをいろいろ思い出せて楽しかった。パンクだったのでああいうハイブランドを着たり買ったりは一切なかったけど、「ファッション通信」を毎週みて「マリ・クレール」と「Hi Fashion」を購読していたあの頃に憧れていたのってなんだったのか、思い起こしてみたり。

流れてくる音楽と時代のズレはあれこれ指摘されているし - ずっとBlondieだけ流しておけばよかったのに - クリムトの”Adele Bloch-Bauer”があんなとこにあるわけもないし、そこらへん、もうちょっとまじめに考証とかすればよかったのにー。

あと、なんといってもGucciの牧場にいたあのでっかい牛。見て触りたいよう。

1.20.2022

[film] 春原さんのうた (2021)

1月9日、日曜日の夕方、ポレポレ東中野(とっても久しぶり)で見ました。満席だった。

英語題は“Haruhara San's Recorder”で、これは映画の元になった東直子による歌集『春原さんのリコーダー』からのもの。これが『春原さんのうた』になった経緯はパンフに書いてあったりもするのだが、「リコーダー」と「うた」の微妙な違いはある。 杉田監督の前作『ひかりの歌』(2017)も短歌がモチーフになっていたが、「うた」の置かれ方は随分異なっている気がする。

冒頭、桜の花の下でふたりの女性が微笑みながら向かい合って座っていて、とても穏やかに幸せそうに微笑んでいる。そのうちのひとりが新しいアパートに越してきて、宮崎に行くという元の住人と話をして、そのアパートで暮らし始める。彼女の他にもう一人の女性のショットも何度か挿入されたりするので、ふたりで暮らしているのかしら? とも思うのだが、どうもひとりらしい。

それが主人公の沙知(荒木知佳)で、カメラは仕事場であるらしいカフェとアパートの間を行き来しながら、彼女の少し昔のことを知っているらしい男女が来て、「よかったねえ」って涙ぐんだり、彼女が食べているところを写真に撮ったり、バイクで遠出して水辺に佇んだり、どら焼きを食べたり、撮った映像を夜の建物の壁面に映したり。

沙知はもの静かで彼女自身のことを語らなくて、ほぼ語らない状態のままに季節は夏になって蝉が鳴いて、その蝉もツクツクボウシとか秋の方のに変わっていって、季節と時間が移ろって。時間が経っても彼女の生活に変化は見られなくて、その時間(2時間)の経過の仕方は映画館の暗闇で過ぎるあっという間のそれ、とは違って、窓から入ってくる気持ちよさそうな風を受ける、それを受けてソファで居眠りしてしまう(その様がよくてねえ)、それら逐次の時間感覚でもって過ぎていく。それは彼女にとって早いのかゆっくりなのか、どんなもんなのかしら? というのを考えさせるような作りになっている。どうやってそんなことを可能としているのかわからないのだが、そんなかんじで画面に現れる沙知と、何度か挿入される喋らないで横を向いている女性の像 – それが春原さん(新部聖子)なのだ、と最後の方の転居先不明の葉書のところでようやくわかって、そこから人は愛するひとがそこにいることをどう認識して、もういなくなってしまったことをどう受けとめるのか、などが背後から幽霊のように(まったく怖くないやりかたで)迫ってくる。そこに鳴り響くぴょろ~、みたいなちょっと間の抜けた(春原さんの)リコーダーの音。はぁー、っていうため息ではない、息がリコーダーを抜けてなにかが濾過されるようなー。 コロナ禍で撮られたのでみんな割とマスクをしている/しなければならなかった - こともどこかで関係している。はず。

「会いたい、恋しい」という台詞はいくらでも言えるけど、それがどれだけ虚しい穴を掘る、終わらない動作であるかがわかっているので、「いないんだよね」-「いないんだよ」ということを繰り返し、精一杯語ろうとしていて、その状態 - 半固形のゼリーのようになって保たれている生の、やってらんないかんじとか。 でも「みんながそうだから」なんて決して言わないで、同じ風にあたっていたりどら焼きを食べたりするだけの。

すごく風通しのよい映像なので、人によっていろんなことを受けたり感じたりすると思うのだが、窓から吹いてくる風にずっとあたっている、そのありようをいくらでも眺めていられたり、回っている洗濯機をぼーっと眺めていられるひとにはたまんないやつだと思う。

上映後の挨拶とトークで、演技は即興ではなくちゃんと脚本があったのです、と言われていたのでパンフを買って読んで、ああほんとだ、って。

パンフの写真で濱口監督が楽しそうに食べているハンバーガーはどこのかしら? Lincoln SquareのPJ Clarke'sのかなあ? だったらいいなー。食べたいなー。

1.19.2022

[film] The Member of the Wedding (1952)

シネマヴェーラの特集 -『Strangers in Hollywood1』で見た何本かの感想つづき - これが最後。

A Scandal in Paris (1946) -『パリのスキャンダル』

1月4日の火曜日、お正月終わんないで、って思いつつ見ました。
フランスのEugène-François Vidocq (1775 –1857) - 犯罪者からパリ警察の密偵となって国家警察のトップにまで昇りつめて元祖「探偵」と言われる – の『ヴィドック回想録』が原作。

Vidocq(George Sanders)は牢屋で生まれて、冒頭で仲間のEmile Vernet (Akim Tamiroff)と脱獄してからも変わらず泥棒したり軍に入ったりの流れ者で、歌手のLoretta (Carole Landis)とか警察大臣の娘Therese (Signe Hasso)と出会って片っ端から恋におちて、企て、というほどすごくはないいろんなズルをてきとーに働きつつ闇の奥からのしあがっていく様が紙芝居の活劇ふうに描かれていく。

原作がそういうものなのだろうが、なめてんのか、っていうくらいいい加減に世間を渡っていくVidocqを演じるGeorge Sandersのつるっとした厚顔の胡散臭さがたまんなくて、こんなのが元祖なのだとしたら警察も探偵もやっぱしなー.. とか。


The Member of the Wedding (1952) -『結婚式のメンバー』

1月8日の土曜日に見ました。
監督はFred Zinnemannで、原作はCarson McCullersの同名小説 (1946)。制作はStanley Kramer、音楽はAlex North。
南部ジョージアの狂ったようにうだる夏、12歳のFrankie (Julie Harris - この役を演じていた時は27歳だって) に母はいなくて父は店をやっていて忙しそうで、相手をしてくれるのは隣に住む従兄弟のJohn Henry (Brandon De Wilde)と家政婦のBerenice (Ethel Waters)くらいなのだが、John HenryはただのガキだしBereniceは自分の家族の心配事があるようだし、ネグレクトされているわけではないけど、どこにも居場所がない。 “C’mon C'mon” (2021)のJoaquin、Frankieにインタビューしてあげて。

最近の話題といったら彼女の兄のJarvis (Arthur Franz)がJanice (Nancy Gates)と結婚することくらい。幸せそうなふたりの恋に恋して妄想を爆走させたFrankieは彼らの結婚式であたしも一緒に連れていって、って車に乗り込んで大騒ぎをして引き離されて、やがてJohn Henryを病が襲ってBereniceにも不幸が訪れて、すべてがしょんぼりと、少女の夏が終わる。 輝いてなんかいない、残酷とも言いきれない距離感で決して消えないあの夏の古傷を眺めているような感覚はどこから来るのだろうか、って。


Shockproof (1949) -『ショックプルーフ』

監督はダグラス・サーク、脚本はサミュエル・フラーとヘレン・ドイチュ。

Jenny (Patricia Knight)は恋人のギャンブラーのHarry (John Baragrey) のために殺人を犯して、仮釈放中に保護観察官のGriff (Cornel Wilde)と落ちてはいけない恋に落ちて、JennyはHarryに未練があるみたいだったのに、Griffは政治家になりたいとか言ってたのに一緒になっちゃうのかー しかも逃げるのかー やばいぞー、って少しびっくりして、後半はぜんぶ捨てて吹っ切ってどうなっちゃうのかどこに行くのか逃亡劇のはらはらになるの。ガソリンスタンドとかメキシコに行くとか、これはぜったい地獄にまっしぐらだ、と思ったらそうはならなかった。

結末のところ、スタジオがフラーのオリジナル脚本 - 銃撃戦で終わる - をドイチュのに書き直させたと、当然サークはがっかりした.. ということだが、刃の上を歩いていくような冷たい感覚 - いけないことばかりをやり続ける - はずっと残るのでまあよいか、って。


Slightly French (1949) - 『ちょっとフランス風』

1月15日の土曜日に見ました。これもダグラス・サーク、この特集で見た最後の1本になった。

冒頭の歌とダンスの撮影シーンがなかなかびっくりで、サーク器用すぎないか? って。
で、なんでも完璧主義の映画監督John Gayle (Don Ameche)がいて、冒頭で踊っていた主演のフランス人女優が厳しすぎる現場から逃げちゃって、プロデューサーのDouglas (Willard Parker)は激怒して彼を下ろして、Johnはカーニバルで拾ったアイリッシュのMary O'Leary (Dorothy Lamour)をフランス人Rochelle Oliviaに仕立てて主演女優にすべく、まずはDouglasに気に入らせよう作戦を展開するのだが、MaryはJohnのことが好きになってて、DouglasはMaryが好きになって、Johnは.. ?  っていう映画制作を巡る『ピグマリオン』風味のラブコメなの。 こんなのでも81分。

Don Amecheって、どんなクラシックに出ていても自分にとっては”Cocoon” (1985)のおじいちゃんなので、おじいちゃん、って思いながら見た。 

サークにとっての「異国」ってどこだったのかしら? って思ったり。


今日、ようやく”The Souvenir Part II” (2021)を見ることができた。会社半休した。今年見なきゃいけない映画の半分くらいを見てしまったような達成感。しみじみよかった。

1.18.2022

[film] Zu neuen Ufern (1937)

シネマヴェーラの特集 -『Strangers in Hollywood1』で見た何本かの感想つづき。

Summer Storm (1944) -『夏の嵐』

12月30日、木曜日の午後に見ました。監督はダグラス・サーク。
原作はチェーホフの長編小説”The Shooting Party” (1884) -『猟場の悲劇』(未読)。

ロシア革命直後、ぼろい風体で落ちぶれた貴族のVolsky (Edward Everett Horton)が出版社で旧知らしいNadena Kalenin(Anna Lee)のところに現れて、Fedor Petroff (George Sanders)の原稿だ、と紙の束を渡すとNadenaはぴくっとなって、そこから回想が始まる。

帝政ロシア末期。判事のFedorはNadenaと婚約していながら奔放な木こりの娘Olga (Linda Darnell)に惹かれて、生活のために父親のアレンジでださい男と結婚したOlgaはいろいろ我慢できずにFedorやVolskyを誘惑しては彼らを踏み台にのしあがろうとして、それでFedorは婚約を解消しちゃったり、暴走するOlgaと堕落した貴族の男たちは革命と一緒に破滅に向かってまっしぐらで、やがてすべては夢の趾、みたいな。Linda Darnellの猛々しい魅力が貴族をなぎ倒して焼野原にしていくところが痛快で誰ひとり可哀想に見えなくて、夏の嵐だなあ、って。


Week-End with Father (1951) -『ステキなパパの作り方』

これもダグラス・サークで、こんな軽いどたばたファミリーコメディ – National Lampoonみたいなの - まで撮っていたの? ってびっくり。

NYで男の子2人と犬を飼うシングルマザーJean (Patricia Neal)と、女の子2人と犬を飼うシングルファーザーのBrad (Van Heflin)が、サマーキャンプに出掛ける子ども達を見送る雑踏のなかで出会って、育児から解放された状態でするする恋におちて結婚しよう、となり、週末に互いの子供たちに会ってちゃんと言おうか、ってキャンプに赴いたところであちこち火を噴いて巻き起こる騒動 – 子供同士の抗争から追ってきたパパの恋人まで - 誰がどうしたってそんなの巻き起こるに決まってるやつを描いて、最後は山中の大捜索までいって、こんなのもたった83分で収めてしまう。どれくらいの期間で作っちゃったのか知らんが、驚異的。

でもなんで”Week-End with Father”で、”Week-End with Mother”じゃないのか?  
パパの方がしょうもなくてだらしないから、たぶん。


La Habanera (1937) - 『南の誘惑』

1月2日の年明けのダグラス・サーク2本。 これは彼のドイツ時代最後の作品で、監督名はDetlef Sierck。

スウェーデンからプエルトリコに観光でやってきた貴族階級の伯母と姪のAstrée (Zarah Leander)がいて、伯母は南国はもういいや、って帰ることにするのだが、帰国直前に流れていた”La Habanera”の歌に幻惑されたAstréeは出帆直前の船からとび降りて地元の名士Don Pedro (Ferdinand Marian)と結婚して、でもこいつは嫉妬深いDV野郎ですぐに愛も冷めて、Don Pedroは子供を人質にしてAstréeを縛っている。

10年後のストックホルムでプエルトリコの熱病を調査すべくAstréeのかつての恋人Dr. Sven Nagel (Karl Martell)ともうひとりが現地に赴くことになって、伯母さんはAstréeを連れ戻すように依頼するのだが、島に赴いた彼らが見たものは..   パンデミックとそれを隠蔽し続けてきた地主たちの策謀の渦、そしてAstréeの恋の運命やいかに!  北国と南国を結んでものすごい寒暖差で吹きまくるメロドラマ。 


Zu neuen Ufern (1937)  - 『世界の涯に』  


英語題は”To New Shores”。

1846年、ロンドンのAdelphi TheatreでGloria Vane (Zarah Leander)は歌手として大成功していたのに、恋人のAlbert Finsbury卿 (Willy Birgel)がオーストラリアの将校として赴く前日、友人の小切手にずるをして着服した罪を - 彼をとにかく愛して信じていたし彼の将来のことを思って - ひっ被って捕まってオーストラリアに流刑になる。

オーストラリアでAlbertは順調に昇進して将軍の娘と婚約して医師の妻とも不倫して順風満帆、Gloriaは服役しながらAlbertに手紙を書き続けて、でも無視され続けて、現地男性と結婚すれば釈放されるというので、彼女を見初めた農家のHenry (Viktor Staal)と結婚することにして、Henryもとってもよい人なので悩ましくて裏切ることができなくて、そんなGloriaとAlbertとHenryの運命が世界の涯で交錯するー。

どちらの作品でも歌で世界を痺れさせるZarah Leanderが”La Habanera”では異国に留まる選択をして、”Zu neuen Ufern”では異国 - 流刑地に向かう選択をして、でもその相手ときたらどちらも邪悪なろくでなしで、でも彼女はひたすら恋を、恋がどこかにあることを信じていた..  って。こんなに歌が切なく響いてくるメロドラマがあろうか、っていうやつ、というかこういうのをメロドラマっていうんだわ、ってじんわり。

(あと1回つづく)

1.17.2022

[film] All I Desire (1953)

シネマヴェーラで年末から始まっている(今週でもう終わっちゃう..)特集 - 『Strangers in Hollywood1』はどれもとってもおもしろくて全部見たいのばっかしだったのだが、年末はあちこちでいろんな特集ばかりやっててムリで、以下、見た順でざーっと備忘の感想を書いておく。

ぜんぶ見ている時間はなさそうだったのでダグラス・サークのを中心に見て行ったのだが、まあとにかくサークの底なしでおもしろいこととんでもないこと。サークは見られるやつぜんぶ見なきゃ、になった(けどやっぱし見れないの多数だった)。

Phantom Lady (1944) - 『幻の女』

12月18日の土曜日に3本みた、その最初の1本。
監督はロバート・シオドマク、原作はウィリアム・アイリッシュの有名なやつ(あらすじはすっかり記憶からおちてる)だが、映画はノワール&サスペンスとしておもしろい。

エンジニアのScott (Alan Curtis)が結婚記念日に妻と喧嘩して家を出て、バーに行って、カウンターの横に座った女性を誘って妻と一緒に見る予定だったショーの余ったチケットで観劇して家に戻ると警察がいて(誰が通報したんだろ?)妻は殺されていて、Scottは容疑者として捕まっちゃって、彼を密かに想っていて無実を信じる秘書のCarol (Ella Raines)がひとりで捜査をはじめるのだが、カウンターにいた女性はカギとなる変な帽子と共に行方不明、バーのバーテンをはじめ証人になってくれそうな人たちはぜんぶ知らないと言い張るのでなんか変だぞ…  になっていって。 途中でわかってくる犯人の手口の巧妙さと証拠を追って夜の街に分け入っていくCarol気をつけて、って後半に盛りあがっていくサスペンスがたまんない。


The File on Thelma Jordon (1949) - 『血塗られた情事』

これもロバート・シオドマク監督作で、Barbara Stanwyckさまが出てくるので見ないわけにはいかない。

Thelma Jordon (Barbara Stanwyck)が地方検事局に現れて地方検事補のCleve (Wendell Corey)に金持ちの叔母の家で起こっている強盗未遂のことを話す。うざい義父にうんざりして妻とも疎遠になっているCleveはThelmaに惹かれていって、やがて起こった彼女の伯母の殺人事件でもThelmaに助言して自分が入った法廷で無実を勝ち取るのだが、そこからゆっくり明らかになっていくThelmaのおそろしさときたら..  もちろん、これぞBarbara Stanwyck、なのでとっても盛りあがる。

“Phantom Lady”と”…Thelma Jordon”の2本は合わせ鏡のようになっている気がして、前者では男性が裁かれて後者では女性が裁かれて、事件の白黒というよりなぜそういうことになってしまったのか、をめくるめくテンションと共に追っていって、どちらも落下して終わる。ここでの「ノワール」って男性から見えない女性の闇、のような扱いにされている気が。


All I Desire (1953) - 『わが望みのすべて』

これもBarbara Stanwyckさま主演で、監督はダグラス・サーク。
ウィスコンシンで暮らしていたNaomi (Barbara Stanwyck)は女優になる! って主婦と子供たちを捨てて家を飛びだして10年くらいで、威勢よく出ていったものの実際にはボードヴィルショーのどさまわりで腐っているのだが、次女のLily (Lori Nelson)が高校の卒業式で女優デビューするので戻ってきて、という手紙を貰って、少し悩んでから帰ることにする。

帰ったら次女は大喜びで、でも彼女の不在のつけをひっかぶった長女Joyce (Marcia Henderson)の目は冷たいし彼女のことを知らずに大きくなった長男もいるし、夫Henry (Richard Carlson)は当然複雑だし、家を飛び出すきっかけのひとつだった地元のアウトドア男 (Lyle Bettger) - 近所もみんな知ってる - は長男と仲良くなっているし、Naomiはパリで成功した女優ということになっているし、Lilyはママについていって女優になりたい、なんて言い出すし..

Barbaraの2本立て、として見ると家の外に出ていく彼女と家の中に戻ろうとする彼女と、どっちもものすごく大変そうで、でもこの大変さを男性の役割期待云々から大きく逸脱したところで女性のドラマとして堂々と演じることができるところが彼女なのよね、とか。

Barbara Stanwyckの母娘モノというと、“Stella Dallas” (1937)があるし家族のメロドラマだと“There's Always Tomorrow” (1956) – これもサークの - があるけど、これもエモが溢れかえってすばらしくよくて、とにかくこんなのが80分きっかりでまとまってしまうのがしんじられないったら。

(まだ続く)

1.14.2022

[film] 乳房よ永遠なれ (1955)

1月3日、月曜日(まだ休み)、早稲田松竹で田中絹代を3本見ました。

昨年の11月に鎌倉で『恋文』(1953)と『月は上りぬ』(1955)は見たのだがあの時の上映素材は4Kデジタル復元版ではなかったので改めて見直すし、何度でも見たいし。

デジタル復元版はあったりまえによいの。50年代の音源がデジタル化で洗浄されて綺麗に聞こえる、というだけでなくて、『恋文』だと主人公たちが走り抜ける渋谷の雑踏や室内の様子が細部まで再現されることで彼らの焦燥が際立って迫ってくるし、『月は上りぬ』だと月の光が何を照らしだしてそこから何が隠れようとしたのか、そこまで明らかにしてくれるの。それにしても、こんなにすばらしい作品たち - 今回は5本 – がお正月の7日間しかリバイバルされないなんて、あーあ、しかないわ。

田中絹代の3作目の監督作品。一作目の木下&成瀬、二作目の小津の「監修」から離れ、歌人中城ふみ子の歌集『乳房喪失』、『花の原型』と若月彰による彼女の評伝『乳房よ永遠なれ』を田中澄江が脚色したもの。すばらしい女性映画で、Tilda Swintonさん達がガイドする14時間のドキュメンタリー “Women Make Film: A New Road Movie Through Cinema” (2018)でも3回紹介されていて(ちなみに田中絹代作品で一番紹介されていたのは『恋文』の5回)海外での認知度も高い。

子供ふたりを抱えたふみ子(月丘夢路)は仕事で失敗してからやばいクスリを飲んで愛人を家に連れこんだりしている夫(織本順吉)が嫌になって実家に戻る。地元の幼馴染きぬ子(杉葉子)の夫 – 森卓(森雅之)が参加している短歌の会に参加して歌を詠んだら褒められてよい気分になるのだが離婚して長男と別れなければならなかったり卓が突然亡くなってしまったり、更に子供を連れ戻そうと戻ったところで自分が乳癌であることがわかってお先真っ暗の状態で転げ落ちていく。

他方で生前の森が短歌雑誌に勝手に送っていたふみ子の短歌は都会で話題になっていて、そこの若い編集者大月(葉山良二)が彼女のところにやってきたりするものの既に彼女は病床にあって…

今だと実話ベースの難病もの、ということになるのだろうが、どれだけ踏みつけられても落っことされても生きることへの未練? まだ生きてるんだし知らんし、って森の家に行ってお風呂につかったり大月と寝ようとしたりへっちゃらで傲岸不遜に生きようとして、亡くなった時だって廊下を向こうに運ばれていくシーンの方が残ったり、悲壮感はそんなにないの。そうして彼女の歌だけが残った、と。

おそらく男性が監督したら彼女は一生懸命生きたとか輝いていたとか勝手に自分とか家族にそうあってほしい(ほしかった)自分らの像と妄想をたっぷり振りかけてめそめそべたべたしてくるに違いないけど、こっちでは、永遠なのは切り離された乳房くらいだ讃えてろクソやろう(とまでは言わないか)、って石を投げてくるの。

『月は上りぬ』にもあった道の向こう、廊下の向こうに行ってしまうなにかを見つめる距離の感覚がより明確に出ていて場面によってはホラーとか冥界を思わせる空間描写がすごい。そこに怖ろしいなにかを見て感じてしまうなにかがあるのであれば、自分のなかにあるその感覚を見つめてみることだ、と言っていないか。

ここで描かれた月丘夢路のソリッドな顔立ちと容姿 - かっこよさってパンクのそれだし、エピソードも含めて70年代末のロンドンやNYを舞台にそのままリメイクできてしまうのではないか。ラストの支笏湖がテムズ川とかイーストリバーになったりすれば。

それなりの机に向かえる時間があったら『ケアの倫理とエンパワメント』で展開された論点を通してこの作品を掘りさげてみたい。もうとうに誰かがやっているのかもしれないが。

もういっこ、短歌といなくなってしまう人、という観点では先週見た『春原さんの歌』のことも考えてしまった。オルゴールの音とリコーダーの音とか、短歌って生と死の間を繋いだりもするものなのか。

田中絹代監督作品だと、残る1本は『流転の王妃』(1960)のみとなった。どこかでやってほしいよう。

1.13.2022

[film] The Tragedy of Macbeth (2021)

12月31日、おーみそかの昼、新宿ピカデリーで見ました。

A24配給で、昨年のNYFFでプレミアされて、LFFのクロージングで上映されたエッジが強めのモノクロ(撮影はBruno Delbonnel)の105分、ほぼ正方形の画面。

原作はシェイクスピア。Joel CoenがEthanとの共同制作/監督から離れてソロ監督デビューした作品。
Joel & Ethan Coenの映画の持ち味というと、ほんのり素朴でほんのり野蛮でその結果なんかおっそろしいことが淡々と起こったりして、そのありようがうっすらおかしいのがまた不気味、というホットでもクールでもない田舎の道端の草とか泥のようなアメリカ、だと思うのだが、その片割れの人が英国ど真ん中の、よりによってシェイクスピアをやるのだと。

冒頭、3人の魔女をひとりで演じているKathryn Hunterが不吉な鳥となって子供だったら絶対泣きだす形相でおどろおどろの予言を告げたあと、画面はキリコの絵の幾何学模様がモノクロになってドイツ表現主義に転移した光と影のなか、スコットランドのお城と道端で(実際の撮影はバーバンクのスタジオのすべて屋内だったそう)展開していく、とてもかつてのCoen印とは思えない、一見してアメリカ映画とは思えない光景 – あーでもそんなでもないかも - が現れて、それだけで十分おもしろい。

もちろん、敵はシェイクスピアなので、シェイクスピア演劇でも映画(Macbethの映画化作品だけでも相当ある)でもそれなりに積みあげられてきた世界(観)とドラマトゥルギーの話があり、それに基づく俳優や演技の論があり、それらはながーい歴史の中で議論されたり培われたり更新されたりしてきたものだし、見る側もあんまよくわかっていなくてもそいつに触れると(なにかが)きたきたきた、とか思って楽しむことができてしまう。

Duncan王 (Brendan Gleeson)の治世下、のしあがってきたMacbeth (Denzel Washington)とLady Macbeth (Frances McDormand)が、更にのしあがるのよ、ってMacbeth夫人の取り憑かれた念と思いで殺しを重ねていって、Macbethは明らかにコントロールを失っていって.. (もっといろいろあるけど略)

Macduff (Corey Hawkins)やLady Macduff (Moses Ingram)をはじめ俳優たちの切り返しとすれ違いの距離(の取り方)を中心に構成された演技はどこを切り取っても悪くないのだが、全編を通してあんまし悲劇 – The Tragedy – ぽいかんじはしない。さくさくと連続していく「殺し」のなかで権力に囚われて孤立していく夫婦のありようを「悲劇」と呼ぶのはなんか違う気もするしー。

LA Timesのインタビュー記事-“Joel Coen wouldn’t have made ‘Macbeth’ with his brother Ethan. Here’s why”にはJoel Coenがこの作品をどう構想して作っていったのかが書かれていて、元は2016年のBerkeley Repertory Theaterでの演劇でFrances McDormandがLady Macbethを演じることになった際に舞台演出をしてみないかとJoelに相談が来て、あれこれ考えるようになって、シェイクスピアの専門家の話も聞きつつ、“as clear as possible” で “accessible even for people who are like this”にしたかったのだと。そういう点では確かにわかりやすいのだが、別にシェイクスピアでなくてもよかった気がしないでもない。

おもしろいんだけど、でもどこまでも悪夢の泥沼のようなところには踏みこんでいかなくて、いちばん怖かったのは結局冒頭の魔女のところだったような。Denzel Washingtonはいつものようにものすごい磁場を作るし、Frances McDormandはその反対側でいつものように浮揚した闇を抱えて彷徨っているのだが、言葉を介してのぐさぐさどろどろに絡まっていかないのがなんかもどかしくて、クラシックな前衛劇を見ているようで、シェイクスピアのかんじがあんまりこない。シェイクスピアの匂いがしないシェイクスピア映画ってやっぱり失敗なのではないかしら? とか。

JoelとEthanのふたりが作る映画とはぜんぜん違うかんじだし、確かにふたりではできないようなやつだったのかも知れないけど、あのふたりのテイストでシェイクスピアやってほしいのだけど。ふたりがやるとベケットのようになっちゃうのかしら。

あと、音楽のCarter Burwellが彼にしてはやかましく吹き荒れていてすばらしかった。


RIP Ronnie Spector。 90年代にアメリカに行ったときの野望のひとつが彼女とDarlene Loveのライブを見ることだった。どちらもクリスマスのライブで実現した。ありがとうございました。

1.11.2022

[film] The King's Man (2021)

12月25日、土曜日のごご、日比谷のTohoシネマズで見ました。

Matthew Vaughnがこれまで作ってきた”Kingsman: The Secret Service” (2014) -  “Kingsman: The Golden Circle” (2017)の前日譚として書いて監督したもの。これも007と同様に2019年末のリリース予定だったのがパンデミックでだらだらと延びていった(のはなぜ?)。

1902年、Orlando, Duke of Oxford (Ralph Fiennes)が妻のEmily(Alexandra Maria Lara)と息子のConrad (Alexander Shaw)と南アフリカの駐屯地を訪れたところで襲撃にあって、Emilyを失って、そこから12年後、成長したConrad (Harris Dickinson)は第一次大戦に向かってきな臭くなっていくヨーロッパ – 特にドイツ、ロシアの動きを見ながら自国の王室や軍とは別の諜報ネットワーク – Shola (Djimon Hounsou)やPolly (Gemma Arterton)による使用人のそれとか、騎士団 – アーサー王のあれ - を組織する必要性を強く認識していく。

実在した歴史上の人物とか史実が - 大戦も絡めて描かれていくので、彼のこれまでのガジェットを駆使した荒唐無稽なバイオレンスアクションとはやや異なるかんじもあるが、史実を絡めたprequel、というとキューバ危機を絡めた”X-Men: First Class” (2011)がやや近いやつかもしれない。国家間の危機を前に特殊能力を持った人々による秘密結社のような組織が立ちあがる、というところとか。

ただそれをやるにしても背後で動いていく物語がやや伸縮しすぎる、というか、冒頭で妻を殺されて戦うことの虚しさを悟って平和主義者となり、戦争直前の国家間では陰謀論あれこれと奇人怪人が跋扈し、断固平和主義を貫こうとしても息子は軍に入ることを強く望み、戦場では戦争映画の恐怖と無情さが支配し、ここでスパイの嫌疑をかけられたConradが殺されてようやくOrlandoは立ちあがり - ここまではConradの成長物語になるのだと思っていた - これらの背後にいた真の悪に立ち向かうことになるのだが、ここまでが長すぎるし複雑すぎるし。 いやこんなにも複雑で混みいった世界だからこそ - というのを説明する必要があった - 真の敵を知るべし - のだとしても。

あとは諜報戦のイメージとやっていることの乖離も。なかなか動かないアメリカを説得して大戦に参戦させるためにドイツの暗号を解読するのは使用人のPollyたちなのだが、これとOrlandoがフィジカルに戦う相手とか戦いのありようはまったく別のストーリーラインにあるかんじで、これらが現代のKingsmanに繋がっていくかんじがしない。Gentlemanたれ、っていくら言ったってやっていることはただのえげつない殺し合いである、という点での一貫性はあるけど。でもこれって徒にガキを興奮させるだけでしかないと思うし、ヒーローとして見るのはちがう気がするし。X-Menの場合は彼らがフリークスとして迫害されてきた背景があったのでまだわからないでもないけど。この映画で描かれるKing’s Manの拠り所としての… 大英帝国? 冗談としてならまだわかる。アメリカが”Statesman”として描かれるのと同様のー。まあ、漫画なんだろうけど。

こんなふうに大河ドラマとしての建て付けは結構ぼろいし弱いのだが、それでも見れてしまうのはRalph Fiennesをはじめ、俳優陣がちゃんと動いているからかも。怪僧Rasputin (Rhys Ifans)とか、King GeorgeとKaiser WilhelmとTsar Nicholasを演じるTom Hollanderとか存在感のある悪役たち(とものすごく薄くてきとーなレーニン)。大活躍をする使用人のふたり - Gemma Artertonすてき! - がマイノリティであるところとかも。 あと、忘れてはいけないヤギ。

この騎士団の物語がこの後も続くのだとしたら、この後の第二次大戦で彼らはどんなふうに動いたのか、007とぶつかったに違いない冷戦下はどんなだったのか、Ralph FiennesのArthurはどこでMichael Caineにバトンを渡したのか、少しだけ見てみたい。

あと特に、彼らをもってしてもナチスドイツの悲劇やロンドンの空爆を防ぐことはできなかった - EternalsでもWonder Womanでも - というところはきちんと描いてほしいところ。

でも、Matthew Vaughnの描くバイオレンスってやっぱり苦手でこわい。血の飛ばないバージョンも作って貰えないかしら。



1.10.2022

[film] Spider-Man: No Way Home (2021)

1月7日、金曜日の晩、二子玉川の109シネマズで見ました。IMAXのレーザーで。

またネタバレのよいわるい議論が巻き起こっているのを目にしたが、正式公開後のそんなのは”Spoiler Alert”って頭に掲げておけばよいだけのこと。そんなことよりこんな素敵なクリスマス映画を直前になんの邦画に配慮したのかしらんがリリース時期を延ばして、しれっとした顔で超くだんない応援キャンペーンだのでへらへらお祭りしている配給会社の殿様体質の方がよっぽど問題だと思う。 ネタバレに異様に過敏で神経質になってしまうマインドと業界側のなんでもありがたいと思え体質と政治家だのお偉いさんに平伏して文句を言えない中間メディアのありようって、ぜんぶ地続きの病気ではないか。いけてない学園のとてつもなください風紀委員。あーくだらないー。

前作”Spider-Man: Far from Home” (2019)の最後でMysterio (Jake Gyllenhaal)に正体を明かされ、それを極右ゴシップメディアのJameson (J.K. Simmons)によって大々的に拡散されてしまったPeter Parker (Tom Holland)はどこに行っても散々で、証言してほしいNick Fury (Samuel L. Jackson)は出てきてくれないしMayおばさん (Marisa Tomei)はHappy (Jon Favreau)と別れる別れないでそれどころではないし、MJ (Zendaya)やNed (Jacob Batalon)とはよい関係だけど大学は本命のMITを含めてみんな落ちちゃうし、最後の頼みの綱でDoctor Strange (Benedict Cumberbatch)のところに行って、魔法の力で人々の記憶からPeter Parkerの名前を消して貰えないか、と頼む。でもやるとなったら、やっぱりあの人とあの人は対象から外してとか駆け込みで例外処理を詰めこんだらバグって別次元からPeter Parkerを知っている怪人たち - Doc Ock (Alfred Molina)とか、Electro (Jamie Foxx)とか、Sandman (Thomas Haden Church)とか、The Lizard (Rhys Ifans)とか、Green Goblin (Willem Dafoe)とか - がわらわら現れてパニックになる。

どうするんだようドラえもん! てなったので、一応連中を檻に入れて元に戻す手筈を整えたところで、彼らは戻ったらどうなるの? - まあ運命として死ぬよね、と言われたPeterは、その前に彼らをcureしたい、って言いだして..

この辺まで、映画のつかみはさいてーだし、その後の展開はなし崩しでおもしろくなくて、そもそもの事件を追っていた統括責任者のNick Furyが出てこないのがひどいし、のび太の願いをそのまま受けてしまうDoctorもいいかげんすぎるし、Peterもあれこれひっかぶって混乱しているのはわかるけど少し落ち着けだし、どうするのよ、になったところで - この先からバラすよ。

最初の予告でDoc Ockが出てきたところでそうなるだろうな、と誰もが思っていたとおり、同じPeter Parkerとして、Andrew GarfieldとTobey MaguireのSpider-Manがポータル越しに入ってきて、やっぱり「治療」なんてされてたまるかって暴れだしたElectroやGreen Goblinを相手に一緒になって戦うの。 そのなかで、大切な人を失うことの辛さとそれでもぼろぼろになって戦う - 殺し合うことの虚しさなんかが大波となって押し寄せてきて、そこでPeter Parkerたちはあの有名なライン - "With great power comes great responsibility”を改めて噛みしめることになるの。これがTobey Maguireの”Spider-Man” (2002)の最後に語られた時、NYはまだ911の傷とブッシュ政権が煽るイスラム圏への報復措置への恐怖で揺れている最中だった。そしてこれがSNSでフェイクの砂嵐が吹き荒れる20年後の今にリプライズされる意味 - 狙っているところはまちがいなくあるの。

Peter Parkerたちは次元を超えた邂逅を経て改めて自分がPeter Parkerであることの意味を再確認して、それはなによりもこのシリーズを通してPeter Parkerと共に学んだりはらはらしたり成長してきた我々に、そういうことだったんだよね、って改めて強く訴えかけてくる。ずるいとしか言いようがないけど、3人が揃うことの意味ってそれ以外に考えられない。 “Endgame”でAvengersが戻ってくるあの瞬間以上のエモが吹きこんでくる。あれは5年だったけどこっちは20年。

ねえ、Andrew Garfield PeterがMJを抱きとめた瞬間のなんともいえない表情、みた? あれだけでもうぜんぶ許しちゃった。”The Amazing Spider-Man”の3を作ってあげてもいいんじゃないか。Paul Giamattiがあの後どうなったのか、見たいし。

もういっこ、”responsibility”に込められた正義と悪のありようについても。映画に出てくる悪人たちはそれぞれの止むに止まれぬ事情の中でああなってしまったのだからそこに向き合う- cureする必要がある、というTom Holland Peterは、自分が炎上して悪役にされたことで初めて気づく。Andrew GarfieldがElectroにごめん、て言うところとかも。

“Peter Parker”の名前を追って向こうからやってきたのが野郎ばかりだった、という件はもう少し根が深そうなので、考えてみる。なんでまだ子供のPeterにばかりあんな重い試練を与え続けるのかについても。

そして今のPeter Parkerにとって辛く切ないのはここで終わらなくて、最後の危機を食いとめるためには改めて人々からPeterの記憶を全て消すしかないのだと言われて、彼はそれを受けるの。MJやNedと一緒に過ごした時間も記憶もどこかに消えてしまう。”Yesterday” (2019)みたいなことになってしまうけど、”About Time” (2013)みたいにやり直せばよいのだ、って - どちらも英国映画だけど。

Tom Holland Peterの3部作のタイトルに付けられた”Home” - “Family”ではなく - の意味、そして最後にやってくるクリスマス..    あのシーンにHawkeyeやKingpinが映りこんでいなかったか、もう一回見て確認しておきたい。

エンディングに流れるのはRamones → The Go-Go's ときて、今回はDe La Soulの”The Magic Number” ! まったく異議なし。



RIP Bob Saget..  90年代の初め頃、日曜の晩の”America's Funniest Home Videos”のホストだった彼にどれだけ救われたことか。ありがとうございました。

1.08.2022

[theatre] Skylight (2014) - National Theatre Live

12月29日、水曜日の午後、池袋シネ・リーブルで見ました。

1995年にロンドンで初演(演出はRichard Eyre)されたDavid Hareの戯曲 - 1996年のLaurence Olivier Awardを受賞している - の2014年のリバイバル版でStephen Daldryが演出したもの。アンサンブルはBill Nighy, Carey Mulligan(ウェストエンドデビュー), Matthew Beard -  ちなみにオリジナル・キャストはMichael Gambon, Lia Williams, Christian Camargo。

David Hareの演劇作品だと、Rupert Everett がOscar Wildeを演じた“The Judas Kiss” (1998)のリバイバル版をロンドンで見ている - 確か2013年頃。これを見た理由はBill NighyとCarey Mulliganだからー。すばらしくよかった。

ロンドンのKensal RiseにあるKyra (Carey Mulligan)の寒々しいフラット、夜に彼女がひとり帰宅して荷物をひろげてふうっとしたところで若いEdward (Matthew Beard)が突然訪ねてきて近況をあれこれ話しだす。最初はふたりの関係がよくわからず、恋人でもExでもなさそうだし、姉と弟のようにも見えるけどそこまで親しげでもないし、そのうちEdwardの父 - Tom (Bill Nighy) がふたりの会話の中心にいることが見えてくる。1年前に妻(Edwardの母)を亡くしたこと、ウィンブルドンに越したこと、最近どうも挙動がおかしくなっていること、等々。Kyraは戸惑いつつもだからといってわたしにどうしろっていうの? という態度を崩さず、そのまま別れる。

Edwardが帰ってしばらくすると、再びドアのブザーが鳴り(嫌味なように何度も)、わかったから! って仕方なく応じるとドアのところにぱりっとしたスーツ姿のTomが現れる。久々の再会のようでぎこちなくハグして、でもEdwardの訪問からある程度予感して近況も把握していたKyraにはやや余裕がある。 これといった用があるわけでもないんだけど、最近どうかね? 生活は大変なようだが - と彼女の部屋を見回すTom。

彼は成功したレストラン事業者で - モデルはTerence Conranらしい - 最近は若いのに経営の指揮は任せるようになったのでやや余裕ができて、でも妻は亡くなってしまって、よく君のことを思い出すのだ、と。KyraはTomの質問に答えるかたちで、イーストロンドンのあまり治安がよくない地域のいろんな困難を抱えた子供たちに教えていて、大変だけどやりがいはあるしなんとかやっている、ということを自分の夕食 - トマトソースのパスタ? を作りながら(本当に作っているように見える)返して、そういうやりとりの中でかつてはバイトとしてTomの店に採用されて、やがてTomの家にメイドのようなかたちで暮らすようになったがTomと関係をもってしまったのでKyraが家を出た過去の経緯と、所謂富裕層で経済的にはなんの苦労もしていないTomと毎日の仕事で社会の貧困に直面しているKyraの現在のギャップが明らかになる。

もう夜も遅いし宿題の添削もしなきゃいけないKyraはだからあなたはなにをしに来たの? 説教? 自慢? 運転手だって外に待たせているんでしょ? ずっとここにいるつもりだったら可哀想だから帰してあげなさいよ、って。でもTomそのものを追い出してシャットダウンするところまでは行かないらしく、そうやってキリキリとせめぎ合う会話の果てに浮かびあがってくるふたりの愛 - と表裏一体になった嫌悪と。それは否応なく見せつけられる階級格差へのそれも含んだぐしゃぐしゃした奴で、認めることなんかできない、けど、目の前にいる/ある(少なくともかつてはあった)のでどうしようもない、けど、後戻りもできないし..  というぐるぐるの中にふたりが投げこまれて、しーんとした冬の夜が過ぎていく。

で、この息詰まるドラマを演じているのが、どっから見てもBill Nighy - 登場しただけで客席から笑いが起こってしまうBill Nighyと、どこまでも優しく柔らかで、でも瞬間湯沸かし器のテンションを抱えたCarey Mulliganなのだからたまんないの。果てなくすれ違ってどこまでも噛み合わないダイアローグを転がしながら、このふたりはゆっくりと朝に向かっていくフラットの一室で、ほんとうにそこに不器用にハグした状態のままで、生きているの。

Tomが帰った後、凍える雪の朝に再び現れる - リッツの朝食セットをもって - Edwardもよくてねえ。あんたみたいなよいこがなんで… とか思ったりもする。 こんなふうにまた新しい一日が始まって、こんなの甘々でだめじゃん、ということは簡単だけど、でもこんな夜から抜けていく朝も確かにあるのだ、って。


こないだのクリスマスのなにがだめだったのかというと、”Love Actually”を十分に見なかったせいではないか、と思った。もちろん、Netflixで見ることはできるのだが、ちがうの、チャンネルを変えたらそこでやっていて、そこからずるずる見てしまうことが重要なの。そうやって年10回くらいは見るようにしないとだめなの。

1.07.2022

[film] Bergman Island (2021)

12月28日、火曜日の昼、Apple TVで見ました。もうじゅうぶん冬休みモードで夏の映画を。

Mia Hansen-Løveの新作で、フランスの外で撮られて、英米の俳優を使った英語ベースのドラマ、って彼女にとって初めてではないか。

舞台はIngmar Bergmanが暮らし、何本もの映画を撮り、亡くなった家があるファロ(Fårö)島で、ここって2018年のBFIのBergman生誕100周年特集で彼の撮った島のドキュメンタリーを数本見て、いつだったかのThe New Yorker FestivalでGreta GerwigとNoah Baumbachのふたりがファロを訪れてものすごくインスパイアされて楽しかった!と語っていたのでいつかは行かねば、のリストに入っている場所で、でもそれを映画に仕あげたのはもうひとつの映画作家カップルの方 - Mia Hansen-Løve (& Olivier Assayas) - だった、と。

いまや観光名所になっている夏のファロにアメリカの映画作家のTony (Tim Roth) とChris (Vicky Krieps)の夫婦がレジデンシープログラムで訪れて滞在して、Bergmanの暮らした家とか「ある結婚の風景」が構想された寝室 – この映画によりものすごい数の離婚が成立しましたって – とか、6人の女性との間に9人の子供をもうけた男の「創作」の秘密なんぞを覗いたり聞いたり想像したり、Bergmanサファリとか夜には35mmプリントによる上映会 – ここを訪れるくらいのファンが改めて『叫びとささやき』なんて見たいかしら? - とか、観光を楽しみつつ、TonyもChrisも自分の映画の脚本を書くのに追われていて、行動も一般ツーリストのツアーに参加するTonyに対してひとりでふらふらするChris、とばらばらでそのうちTonyは用事ができて帰っちゃったり。

そのうち物語にはここでChrisが書きだした脚本 – なかなか書けないことをTonyに向かって言ったりしていた - の話が絡まってくる。この島を友人の結婚式で訪れたAmy (Mia Wasikowska)と彼女のかつての初恋の彼 - Joseph (Anders Danielsen Lie)のことで、再会の喜びとか結婚式の開放的な雰囲気とかもあってふたりは再び関係をもったりして、そこにChrisがファロの観光で出会った地元の青年も絡めたり、そんなにどうってことないお話なの。ChrisとAmyの間に例えば”Persona” (1962)のBibi AnderssonとLiv Ullmannの関係に近いものを見ようと思えば... でもやっぱり関係ないか。

Bergmanの島に来た(おそらくBergmanのファンの)映画作家であるなら、孤絶した島で人と人、人と悪魔、人と獣の情念と妄執が織りなすどろどろドラマを創ってきたBergmanへのオマージュに満ち満ちたやつを書いたっておかしくないのに、ぜんぜんそっちの方には向かわず、(意地悪く言えば緩く甘く)しれっと軽いラブコメみたいのを書いてしまうChrisが素敵で – たぶんこんな島に来て暮らしたって自分の創作を理由に(ひとりじゃなにもできないくせに)家事も育児にも一切関わろうとせずに泰然としていた「大作家」へのばっかじゃねーの、をやっている、と見てよいのかも。

このへん、デビュー作の”All Is Forgiven” (2007)から”Eden” (2014)から”Things to Come” (2016)まで連なるMia Hansen-Løveのストーリーテリングだなあ、って。どこかでパーソナルなことが曝されてしまうような、彼女からの手紙のように読めてしまうような、そんな語りの柔らかさがあるの。そしてこのスタイルこそがBergman的な闇(って言っていいよね)が覆いつくす世界のありよう(イメージ)を突き崩すなにかになりうるのではないか。 というふうに見ることもできれば、これは『夏の夜は三たび微笑む』(1955)系のやつを狙ってみた、と言えないことないような。

Bergmanへの参照はあちこちに出てくるのだが、『ファニーとアレクサンデル』(1982)のあれが出てきたのはちょっと嬉しかったり。それにしても、BFIでの特集のときに感じたのだが、Bergmanの映画って暗い怖い言われながらもほんとにすごい人気があって、これってどういうことなのか、みんなほんとうに暗いのか、彼の映画ってそもそもそんなやつなのかも。

Chris役のVicky Kriepsさん、こないだの”Old”は見逃して、”Phantom Thread”(2017)以来だったけど、よいなー。Tim Rothに島の毒キノコを食べさせてやってもよかったのに。

音楽はコンポーザーはいなくて、挿入歌でABBA(スウェーデンだから)の“The Winner Takes It All”とかThe Go-Betweensの“You Won't Find It Again”とか。The Go-Betweensが流れる映画にわるいのはないの。



“Spider-Man: No Way Home”を見てきてじーんとしている。2002年の”Spider-Man”から20年、ずっと見続けてきてほんとうによかった。


1.05.2022

[film] 偶然と想像 (2021)

12月25日、土曜日の昼、ル・シネマで見ました。
英語題は“Wheels of Fortune and Fantasy” – この英語題、素敵よね。

濱口竜介の監督・脚本による「短編集」。「長編」である『ドライブ・マイ・カー』(2021)については、時間をたっぷり使って俳優の言葉や動作がクライマックスのドライブに向けて縒り合されていく、その強引な凝集力のようなのがすごくて、世界の誰もが認める傑作だとは思うものの、こちら短編集のどっちに転ぶか見えないばらけた危うさとか不確かさがとても好きで、なので昨年のベストにはこちらを入れた。

全3話で、どれもそれぞれにおもしろい。

『魔法(よりもっと不確か)』
モデルの芽衣子(古川琴音)が昔からずっと友達のメイクのつぐみ(玄理)と撮影後のタクシーで、つぐみが最近出会った男性(中島歩)の話 – 初めて会って話し始めたら互いに止まらなくなって夜中まで話しこんでしまったこれって恋かしら、というのを聞いて、その話に出てきた「彼」について確信してつぐみと別れてから夜中に会いに行ったらやっぱりそうで、もう彼と芽衣子は終わっているし彼女の方からよりを戻したいわけでもないのだが、言いたいこと聞きたいことがあるらしい。 で、こんどは昼間に3人が鉢合わせして.. つぐみと芽衣子、それぞれにかけられた魔法、と思ったけど実はそんなでもなかったやつ。

『扉は開けたままで』
作家で教授の瀬川(渋川清彦)は、出席日数の足りない学生 - 佐々木(甲斐翔真)が土下座して頼んでも単位取得を認めなくて卒業させず。それで逆恨みをした佐々木は、自分のセフレで瀬川の小説のファンだという奈緒(森郁月)-既婚で子供がいるけど勉強したくて大学に入った - に色仕掛けで瀬川を陥れるように頼んで、佐々木は渋々瀬川の教官室に行って著書にサインとかして貰って、彼の小説の一番淫らなパートを音読したりするのだが、そのパフォーマンスに感動した瀬川はそれを録音した音源をくれないか、って彼女に頼んで.. セクハラ、アカハラ防止用に扉を開けたままにしておいたら思わぬ扉からー。

『もう一度』
高校の同窓会に参加するため仙台にやってきた夏子(占部房子)があんまぱっとしなかった会の翌日、帰ろうとした仙台駅のエスカレーターであや(河井青葉)とすれ違う。互いにあっ、となって戻って駆け寄り20年ぶりの再会ね、ってあやの家に行っていろいろ話をしていくと、だんだんあれ? ってなるところが出てきて、確認していくと互いに思っていたのとは別の人で学校も違っていた、と。残念―、て夏子は戻ろうとするのだが。 でも、違っていたからさようなら、にする必要なんて実はまったくないのだった。

偶然がファンタジーを呼び寄せたり(気のせい)、ファンタジーが偶然に火を点けたり(これも気のせい)、それらが輪舞をしながらがっかりしたりきりきりしたり落っことされたり、一寸先は闇よねーこわいー、って頭を抱えたり、これらはどんなふうにドラマとして我々の日々の生に痕をつけたり傷を残したりしていくのか。また、偶然も想像もない世界では、ひとはなんてぼーっとしてつまんなく生きていることになるのか、とか。

『ドライブ・マイ・カー』における偶然とファンタジーの歯車はここにあったような小さいのが組み合わさってより大きな歯車 → 車となって終盤に走りだしていく。その車を動かしたのは人の死だったのではないか。この短編集では人は死ななくてドライブするところまでは行かない。でもそれぞれの登場人物たちが小走りで追ったり逃げたりする手前で終わる。

ロメールに似ている、かんじは確かにある。のだが、ロメールって果たして「偶然」を扱ったのかしら? って思ってまだ考えている。彼の映画の出会いって、偶然を装った(見せかけた)必然というかファンタジーと決断の織物で、だからおもしろいのではないか、とか。


今年はあと360日。

1.04.2022

[film] The French Dispatch (2021)

12月24日の晩、Apple TVで見ました。装飾がクリスマスイブっぽいかと思って。どうせもう一回みるし(こればっかり)。

Wes Andersonの新作、ストーリーはWesに加えてRoman Coppola、Jason Schwartzmanなどが。
タイトルは雑誌の名前で、フルネームだと”The French Dispatch of the Liberty, Kansas Evening Sun”といって、フランスの架空の小さな町 - Ennui-sur-Blaséで出版されていて、でもそもそもは編集長Arthur Howitzer, Jr. (Bill Murray)の父親が発行していたカンサスの地方新聞の日曜版のおまけ冊子 - ”Picnic”として出ていたもので - この辺の設定はいつものようにそういうもんなのだ、と受けとめるしかない。

更にこれも設定としてどうでもよいことかもだけど、雑誌New Yorkerの創刊当時 - Harold RossのもとでJames ThurberやE. B. WhiteやDorothy ParkerやJames BaldwinやA.J. Lieblingといった個性的なライターが好き勝手に書いていた当時のスタイルをモデルにしていて、更に映画では、編集長Arthur Howitzer, Jr. (Bill Murray)が亡くなって廃刊となるその最後の号の記事3本を元に - 記事そのものというよりライターが題材をFrench Dispatchの記事にするまでの格闘とかどたばたも込みで - 描いている。

最初のパートはNew Yorkerの記事でいうとアタマの"The Talk of the Town”よろしく自転車に乗ったHerbsaint Sazerac (Owen Wilson)がEnnui-sur-Blaséの町を案内してくれる。あの調子で快調にすっとばして、お決まりの大事故つきで。

以降の3つの記事 - “The Concrete Masterpiece” - “Revisions to a Manifesto” - “The Private Dining Room of the Police Commissioner” - は、それぞれジャーナリストのTilda Swinton、Frances McDormand、Jeffrey Wright が担当した時事題材をどんなふうに書いて料理して見せて(読ませて)くれるか、オールスターキャストでお楽しみください、としか言えない。いつものようにめちゃくちゃ楽しいから。エピローグとしてちょこんと掲載されるHowitzer, Jr.のObituaryまで、とてつもないスピードと軽妙さで一気に読める、じゃない見れる。

雑誌の編集 - ジャーナリズムという題材の取り方がこれまでの、例えば"The Royal Tenenbaums" (2001)とか”The Life Aquatic with Steve Zissou” (2004)とか”The Darjeeling Limited" (2007)とか"Moonrise Kingdom" (2012)といった(まあ全部の)作品の変てこ一族や一集団の冒険譚 - 一巻の書物のようなありよう - 趣きとはやや違っていて、編集者がいて、ライターが取材したものを練ってライターと編集者の目で編集してレイアウトして出版して、読者に届くとそれは町の片隅で何度も何度も繰り返しめくられて、反芻されて「世論」のようなものを形作ったりそこに影響を与えたりしていく。

そこにはWes Andersonが彼の映画の餌 - 構成要素としてきたものを数倍の濃さと強さでアンプリファイする仕立てと要素が満ちていて、牢獄に入れられた異端アーティストとか、五月革命の若者活動家とか、誘拐事件を担当する警察官兼シェフといった事件や素材をどう料理して我々の元に届けるのか、話しの転がりようとか、キャラクターの位置関係とか正義と悪と変態のコントラストとか、景色や色彩の配置とか、ノスタルジーのふりかけとか、要はぜんぶ乗っかっている。 彼があの時代のNew Yorkerの編集長になったら(なりたかったのではないか)例えばこんなふうにー、が彼のやり口で映像として徹底的に料理されてテーブルに並べられていて、こんなのおもしろくないわけがないの。

ここにはいつものように彼の組織 - この場合は雑誌編集部 - に対する、あるいはジャーナリズムに対する夢や理想、過去への追慕ももちろんあるのだが、その組み合わせ - 架空の町とか組織のありよう - アメリカ資本の編集部がフランスの小さな町をベースに雑誌を編む - その終わりまで含めてとにかく痛快で素敵ったらない。

New Yorker誌は表紙が好きなのでいまだに表紙だけで買ってしまったりする。エンドロールではそれっぽい架空の表紙を並べてくれたり、いまだに唯一無二の雑誌だなあってしみじみ思う。日本に帰ってきて、日本の雑誌ってなんであんなにつまんなくなっちゃったのかしら、って改めて。売れなくなったから、の悪循環なんだろうけど、だからといって酷いSNSとか、あんなのばかり眺めていたらあたま腐ると思うし。

あと、音楽はいつものAlexandre Desplat。タイプライターの音とか、どこまでもとっ散らかってかき回してくれて、すばらしい。

雑誌の編集部ネタが来たのであれば、そろそろ映画制作の現場、も出てきたりするのかしら。


お正月休みはおわり。詐欺みたいに短い。会社いやだ。

1.03.2022

[film] Azor (2021)

12月19日、日曜日の晩にMUBIで見ました。
アルゼンチン=フランス=スイス合作映画で、監督はこれが長編デビュー作となるスイスのAndreas Fontana、脚本はFontanaと”La Flor” (2018)のMariano Llinásの共同。

タイトルは、スイスの銀行家の符牒で、「黙れ」- 何も見なかったことにする - という意味とのこと。

1980年のアルゼンチン、軍事政権下での行方不明や失踪が起こり始めていた頃、スイスからプライベートバンカーのYvan (Fabrizio Rongione)と妻のInés (Stéphanie Cléau)が出張でやってくる。表の名目は重要顧客訪問らしいが、裏では突然姿を消してしまった同僚のRéné - 冒頭にジャングルを背にやや疲れた笑みを浮かべている彼がそう - を捜す、というのもあるらしい。

空港から街中に入っていく時も警察の検問で連れていかれた若者がすーっと消えてしまったり不穏なかんじなのだが、スーツとドレスできちんとしたナリのふたりへの対応はどこに行っても社交の儀礼の範囲内にあって、富裕層の人々の間を和やかに渡っていく。

招かれたお屋敷やプールやパーティでのビジネス・トークを通して、顧客たちは儀礼のようにこれまでとなんの変わりもない、ということを強調するものの、運転手が別の用件で捕まらなかったり、どこかの娘と連絡が取れなくなっていたり、軍事政権の見えざる手が絶対に不可侵だった彼らの資産を脅やかし始めていること、それがいつどんなふうにやってくるのか誰にもわからないこと、故に新たな融資や投資に慎重になっていることをYvanは感じて、だからといってここで関係を絶って引き揚げるわけにもいかない。

失踪して片付けられたRénéのフラットの片隅からは暗号のようなクライアントのリストと”Lazaro”と書かれたメモが見つかり、彼の失踪の手がかりとなりそうなこれらに当たっていくこともYvanの使命となるのだが、こういう時勢なので口を開いてくれる顧客なんてそうもおらず、寧ろ門戸を閉ざす方に行ってしまっているかのよう。

アルゼンチンで、ヨーロッパから渡ってきて数代かけて現在の富と地位を築きあげた彼ら富裕層からすればこの程度の強奪、恫喝、排斥、横取り横流し、などなどは自分達が過去ずっとやってきたことだったはず、なのだが今回の場合は追われたり脅されたりする側になり、なにをどうしても事態を掌握してコントロールできない、絶対安全なんてありえない、そんなお国の事情が彼らを少しだけ苛立たせている。

そして、プライベートバンキング、という職名でぱりっとしたスーツを着こなし、数カ国語を話し、スムーズに会話や取引の話しを進めていくYvanにしても、裏ではなにをやっているのか、やっていないことなんてあるのかわかったもんじゃない、彼が取引しているのは単なる「顧客」なのかその背後に蠢くなにか/だれかなのか。ドラマの進行と共にそういう怪しさを醸すようになっていって、最後には小舟でジャングルを遡るようなところにまで導かれていく。 ここはシンセの音も含めて『地獄の黙示録』(1979)のパロディーのように見えないこともないのだが、1980年という設定も含めて結構まじでやっているかんじ。

この小綺麗で、何重もの不穏さ不自然さで塗り固められたドラマがなぜいま撮られたのか。フェイクな陰謀論の乱立とその裏で実質的な闇の支配が明らかにあることを知りながら日々の仕事だのなんだので消耗しきって(突然現れなくなったり)なにも言えなくなっている - Azor - 今の我々のありようをとっても巧く表している気がした。”La Flor”で「終わりも始まりも持たないやつ」として綴られたエピソードのようにどこまでも連なりつつ描かれていく寓話、というか。どこまで続いていくのこれ? って少し離れて眺めているような。 こういうのがアルゼンチン辺りから出てきているのっておもしろいー。


3日は、早稲田松竹で田中絹代を3本見た。 やっぱりとっても素敵だった。『流転の王妃』(1960)も見たいよう。

 

1.02.2022

[film] C'mon C'mon (2021)

12月22日、水曜日の昼、A24のScreening Room(配信)で見ました。
チケットを取ったら配信は米国東海岸の8:00pmから4時間の間だけ、だったので会社に自分のMac持っていってその時間だけ抜けて近場のスタバに篭って見た。年末だから許して。すごくよくて泣きそうになって職場に戻りたくなかった。

Mike Millsの”20th Century Women” (2016) 以来となる長編作/監督作品。全編モノクロだがエンドロールで一瞬だけカラーになるところがある。フィルムが始まる前に、Jesse役のWoody Normanくんが愛嬌たっぷりに挨拶してくる。だまされるもんか、って思うが勝てるわけがない。

Johnny (Joaquin Phoenix)はラジオジャーナリストで、スタッフと一緒に全米各地をまわって子供たちにいろんなことをインタビューする仕事をしていて、冒頭ではデトロイトの子供たちに自分のコミュニティや生活のこと、将来のことなどについて話を訊いている。

JohnnyはLAに住む妹のViv (Gaby Hoffmann)と電話で話して、1年前に認知症で亡くなった母のこと - 母の介護はほとんどVivがやっていたらしい - を振り返り、今度は精神を病んで別居して治療に専念する夫Paul (Scoot McNairy)のケアでオークランドに行かなければという Vic の求めと挑発(若干)に応じる形で彼女のひとり息子Jesse (Woody Norman)の面倒をみるべくLAに向かう。これまでも仕事で子供の相手はしてきたのだし、なんといっても身内の甥なのだし。しかしこいつがVivも言っていた通りなかなかやってくれる、のガキなのだった。

目に見えて過激で危険なことをして困らせにくる、言うことを聞かない危ない子、でもなくて、話は聞いてくれるし自分の思っていることもやりたいことやりたくないことも言葉で伝えてくれる。でもなんというか、それに対して具体的にどう応対したらよいのかが互いによくわからずにちゃぶ台が - その絶妙にやばくて途方に暮れるかんじは是非見て味わってほしい。

子を育てる、という局面ではごく当たり前に出てくるようなあれこれなのかも知れないけど、とにかくJohnnyの身ぐるみを剥いで全身を小さな棘で刺すように、それらを時間をかけて日干し生殺しにする様に子供のあどけなさと残酷さ込みで襲いかかってくるJesseのキラーっぷりがすごい。手に負えないかんじになったところで、Johnnyの仕事道具であるテープレコーダーとマイクとヘッドホンをJesseに渡して、それ経由で世界に流れている音を聞かせてみると少しだけ落ち着いてくれたり。

Johnnyは大人の、叔父としてのプライドもあるし棄てて逃げるわけにもいかないのでJesseを自分の次の仕事場であるNYやニューオリンズにも連れていくのだが、どこに行ってもJesseはJesseで… でも少しだけ、その街の建物とか人の群れようとか、いろんな世界の奥行きのようなものを知ってふたりの仲も馴染んでいく。 そんなロードムービーの王道のようなところもあれば、“Kramer vs. Kramer” (1979)のあのふたりのような果てしなさを映すところもある。でもふたりは親子ではないので、最終的におちるところは…

なんで世界はこんななのさ? なんで? どうすんだよ? どうしてくれるんだよ? Jesseが投げてくる何百もの問いはこのあたりに集約されていくようで、これについては哲学者が何千年もかけて考えてきたことでもあるし、おじさんにだってわかんないのだよ、ってJohnnyは返してしまえばいいのにこの人はこの人でまじめに考えこんで対話しようとするので余計にこんがらがって絡みとられていくその様が絶妙におもしろい。

一見、ちっともよいこに見えない子供の問いや振る舞いにきちんと応えようとする大人の姿は前作の”20th Century Women”にもあったし、Mike Millsが常に立ち返ろうとしている地点のようで、それを周囲の大人たち(前作では70年代末の南カリフォルニアの)がどんなふうに抱えて考えて抱きしめていくのか、今作はJoaquin Phoenixがひとりでこれを丸かぶりして引き摺られて弄ばれて。でもその真剣さと表裏の切なさがたまんなくよくて、なんだか泣きそうになる。ひとが育つ、ってこういうことなのか、とか。

こないだのVUのドキュメンタリーでもクローズアップされていたThe Primitives - Lou Reedの“The Ostrich” (1964) がNYに着いたところで流れてきて、映画のタイトルもおそらくこの曲から? いくぜいくぜいこうぜおらおらー、みたいなことしか歌っていない変な曲なのだが、見事にはまっている。あとWireの”Strange”とかも。

ほんとに世の中がよくなりますようにみんなにサンタさんが来ますように、ってクリスマスを前に膝をついて祈りたくなる、そういうやつでした。もういっかい見たい。


2日は、シネマヴェーラ初めでサークを2本みる。どっちもとんでもなかった。
 

1.01.2022

[log] Best before 2021

新年あけましておめでとうございます。

2021年最後に見た映画は昨日書いた。2022年最初に聴いた音は、これまでとやや趣向を変えて、まだ封を切ってなかった Bruce Springsteen and the E Street Bandの”The Legendary 1979 No Nukes Concerts”だった。 自分が初めてSpringsteenを聴いた頃のライブで、”Hammersmith Odeon London '75”もすばらしいと思うのだが、これもすごい。

2022年最初に見た映画は、イメージフォーラムで”Gertrud”(1964)だった。しびれた。すごいわ。

[Film]

今年前半(5月中旬まで)のロンドン時代はきれいにロックダウンされていたのでぜんぶストリーミングで、それも含めると460本、うち、日本に帰国して映画館で見たのは129本。Guardian紙のUK Best50のうち33本、Sight and Sound誌のBest50のうち29本を見ていた。 でもまだ”The Souvenir Part II”も”Petite maman”も”Licorice Pizza”も”Red Rocket”も”The Worst Person in the World”も見れていない。くやしいったらないわ。

[新作20 - になっていないけどそれくらい] - 見た順

■ Dorogie tovarishchi! (2020) - Dear Comrades!
■ Le sel des larmes (2020) - The Salt of Tears
■ Vif-argent (2019) - Burning Ghost
■ Normal People (2020)  - TV
■ Judas and the Black Messiah (2021)
■ The Pursuit of Love (2021) - TV
■ Shiva Baby (2020)
■ Pig (2021)
■ Free Guy (2021)
■ After Love (2020)
■ The Green Knight (2021)
■ Limbo (2020)
■ Memoria (2021)
■ Ras vkhedavt, rodesac cas vukurebt? (2021) - What Do We See When We Look at the Sky?
■ Passing (2021)
■ tick, tick... Boom! (2021)
■ The Power of the Dog (2021)
■ Annette (2021)
■ C'mon C'mon (2021)
■ The French Dispatch (2021)
■ 偶然と想像 (2021)
■ Bergman Island (2021)

[ドキュメンタリー 12 ] - 見た順

今年は良質な音楽ドキュメンタリーが多かった。あと、帰ってきてから見るドキュメンタリーの本数が減った。見たいと思うドキュメンタリーがあまりない。これって..

■ Pretend It's a City (2021)
■ Poly Styrene: I Am A Cliché (2021)
■ Truman & Tennessee: An Intimate Conversation (2021)
■ Amber and Me (2020)
■ Stray (2020)
■ Sisters with Transistors (2020)
■ The Sparks Brothers (2021)
■ Summer of Soul (…Or, When the Revolution Could Not Be Televised) (2021)
■ The Storms of Jeremy Thomas (2021)
■ 理大囲城 (2020)
■ The Velvet Underground (2021)
■ The Beatles: Get Back (2021)

[旧作いっぱい] - 削るの面倒なので盛っておく。

■ I basilischi (1963) - ”The Basilisks”
■ Ratcatcher (1999)
■ Not Wanted (1949)
■ King of the Hill (1993)
■ Risate di gioia (1960) - “The Passionate Thief”
■ Yentl (1983)
■ What Happened Was… (1994)
■ Malina (1991)
■ Mildred Pierce (2011) - TV
■ The Bad and the Beautiful (1952)
■ Goodbye Charlie (1964)
■ Les rendez-vous d'Anna (1978)
■ 阮玲玉 (1991) - Center Stage
■ Golden Gate Girls (2013)
■ Starlet (2012)
■ Clockwatchers (1997)
■ Effie Gray (2014)
■ Angels in America (2003) - TV
■ Smiley's People (1982) - TV
■ La permission (1968) - The Story of a Three-Day Pass
■ Archipelago (2010)
■ Old Enough (1984)
■ 丼池 (1963)
■ Joy Division (2007)
■ Lucky Star (1929)
■ Pilgrimage (1933)
■ Barbara Rubin and the Exploding NY Underground (2018)
■ La Flor (part 1) (2016)
■ 朧夜の女 (1936)
■ 月は上りぬ (1955)

[Art] - 見た順

オンラインでは見ていないので、ここにあるのは帰国してから行ったもののみ;

■ 没後80年 竹内栖鳳 -躍動する生命    @MOA美術館
■ 宇佐美圭司 - よみがえる画家    @駒場博物館
■ 木彫り熊の申し子 藤戸竹喜 アイヌであればこそ    @東京ステーションギャラリー
■ Walls and Bridges    @東京都立美術館
■ Pipilotti Rist "Your Eye is My Island"    @水戸芸術館
■ 動物の絵 日本とヨーロッパ    @府中市美術館
■ Punk! The Revolution of Everyday Life    @BUoY
■ 白井晟一入門    @渋谷区立松濤美術館
■ 田中絹代 - 女優として、監督として    @鎌倉市川喜多映画記念館
■ 小早川秋聲    @東京ステーションギャラリー
■ 鈴木其一・夏秋渓流図屏風    @根津美術館
■ 生誕160年記念  グランマ・モーゼス展  素敵な100年人生    @世田谷美術館
■ イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜     @三菱一号館美術館
■ 名画の殿堂 藤田美術館展 ―傳三郎のまなざし―    @奈良国立博物館
■ 二条城障壁画 〈遠侍〉虎の間の障壁画 ~御殿を護る竹林の王者~  @二条城 展示収蔵館

西洋美術展にぜんぜんよいのがないのでふてくされて日本美術ばかり見ている。

[Theatre]

以下、ライブの舞台はなし。いまはなにを見てもおもしろい状態。
ライブで見たのは Israel Galvánの『春の祭典』くらい。

■ Roman Tragedies (2007) - The International Theater Amsterdam
■ Romeo and Juliet - National Theatre
■ Medea (2014) - National Theatre Live
■ Twelfth Night (2017) - National Theatre Live
■ La Ménagerie de verre - The International Theater Amsterdam
■ Life is a Dream  - Royal Lyceum Theatre
■ Jane Eyre (2015) - National Theatre Live
■ Skylight (2014) -  National Theatre Live

[Music]

ライブで見たのは太陽肛門スパパーン 7/23団とKing Crimsonのみ。うー。
なのでAlbumのみ。なのだが、まだ英国から届いていない(輸入盤で買うのは癪なのでまだRough Tradeから直接買ったりしている)のが結構あって、Snail MailもBilly BraggもThe Theもまだ聴けていないの。

■ Black Country, New Road – “For the First Time”
■ Lana Del Rey – “Chemtrails Over the Country Club”
■ Low – “Hey What”
■ Deafheaven – “Infinite Granite”
■ Faye Webster - “I Know I’m Funny haha”
■ Courtney Barnett - “Things Take Time, Take Time”
■ Taylor Swift - “Red (Taylor's Version)”

アナログは置き場所がやばい状態なので、枚数が多いのとか箱ものはCDに戻りつつある。

本も書きたいのだが、まだ箱から出てきてくれないのがあったりするのでそのうちに。
最近のだと『つわものども』とか、『波』とか、『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』とか、『批評の教室』とか。
レコードと同様、こっちも変わらず向こうの古本屋から取り寄せたりしているので、ちっとも減っていかない。

今年、書くベースは少し落ちていくかも。 映画館もCMとか予告がしんどいので足が遠のく気がする。
でもよいものに出会うことができますようにー。