8.31.2013

[film] Austenland (2013)

見れる時間に見れるものは見ておかねば、ということで空き時間、29日の夕方、下におりてAngelikaに走っていって見ました。

Jane AustenもKeri Russellもだいすきなので、こいつはぜったいに見るつもりだった。
すんばらしくよかった。 もういっかい見たい。

30過ぎのJane(Keri Russell)さんは、10代の頃からのJane Austen狂いで、特に95年のTV版「高慢と偏見」でColin Firthの演じたMr.Darcyを心底愛していて、部屋に彼の等身大パネルを置いて、インテリア小物は全部ださめの英国調で、"I ♡ Mr.Darcy"のバッグを抱えて、パーフェクトな彼を求めて彷徨っている。 とうぜんの帰結として、男はあんまよってこない。

そんな彼女が休暇をとって、イギリスにあるJane Austenのテーマパーク"Austenland"に行く。 みんなで英国Regency Era(摂政時代)の衣装を纏い、刺繍したりダンスしたりいろんなアトラクションが毎日あって、そういうのをしながら理想の恋人を探してみよう! なの。
いちおうふたりくらい、それらしいのは引っかかってきて、小説のなかのようにどうしようかしら、になるのだが、やはり現実は。現実としては。

最初に小説にはまって、それからTVとか映画にはまって、自身のファンタジーの土台をばしばし固めていって、最後にフィクションの世界そのもののなかに自らが乗りこんでいく。 虚構のただなかでファンタジーが膨れあがればあがるほど、ぶちあたるリアル現実の壁はより堅く、より痛くなっていき、Jane Austenの小説の主人公たちが聡明な目と心で壊したり切り抜けたりしてきたそんな道をJaneは渡ることができるのか。 Jane Austenの世界に楽しく浸るつもりできたら、ほんとにJane Austen的な葛藤と逡巡の世界を生きることになってしまった、という大枠があって、それくらいJane Austenは深くおもしろくアクチュアルなのだ、という啓蒙路線をあえて取らず(どっちみちおもしろいんだしさ)、現代のJaneが自分で自分の道を切り開いていく、そんなお話しにしたところがえらいの。

Jane Austenの古から、男共は死ななきゃ治らないくらいに愚鈍で、女も半分くらいはしょうもないけどちゃんとした娘だっている、よい娘さんになりたかったらJane Austenを読みなさい、ていうのと、読まなくてもいいけどとにかく恋せよ乙女! ていうのと。

あえていうなら男優陣がちょっと弱かったかも。 Bridget JonesにおけるColin FirthとHugh Grant、とまでは言わないけど、あれくらいのタマがいてくれて取っ組み合いしてくれたらなー。

音楽はー  "Lady in Red"とか、"Bette Davis Eyes"とか、"Total Eclipse of the Heart"とかいった、80年代の王道がものすごくきれいにはまるのはなんでなのか。 なぜなら80年代の物語のコアは、Jane Austen的な身振りとはったりの舞いのなかで真実の愛をひたすら信じて追い求めることにあったからだ、と、これもまた80年代風の物言いで。

監督は"Napoleon Dynamite"や"Nacho Libre"の脚本を書いていたJerusha Hessさんで、こんどのもラストのほうのやりとりなんて、本当にすばらしいったらない。

あと、ProducerにはStephenie Meyerの名前があって、ああこのおばはんはやっぱし.. とも思ったのだった。

[log] Aug 29 2013 - NY

NYについて、もちろんお仕事をはじめています、とも。
で、着実にどつぼにはまりつつあり、週末の予定が総崩れになりつつあ ...

行きの飛行機でみたのは以下の3本。

"42" (2013)
4月のSeattleで体調不良のため、見るのを諦めたやつ。 キング牧師の演説から50周年の今だからこそ。
Brooklyn Dodgersの偉人、Jackie Robinsonの伝記・実録映画。
それまで黒人チーム同士でのみツアーしていたリーグからたったひとり、当時白人のみだったリーグの3Aに入り、更にメジャーに入ってのし上がっていくまでを、野球選手としての超人的な活躍、というよりは人種差別との戦いという観点から、それを彼個人ではなく、ドジャーズのオーナーだったBranch Rickey、チーム内での葛藤と超克、彼の妻、彼のそばにいたジャーナリスト、それぞれの戦いとして描く。 それを終戦から立ちあがっていく40年代のアメリカの清々しい景色のなかに置いたところがよいの。 その裏にはどれだけ暗い絶望的なお話しがあったにせよ、この映画はすこーんときれいに抜けていく白球のようにきもちよい。

「あんたは何を言われてもやり返すガッツのない選手がほしいのか?」 
「いや、ほしいのは何を言われてもやり返さないガッツをもった選手なんだ」 というRobinsonとRickyの会話にあるように、挑発にはぜったい乗らない、結果はプレーで示す、という掟を貫こうとするものの、それでもやっぱり、というのがいっぱいあって、でも歯をくいしばって耐えまくるの。

今ではあたりまえになっている光景でも、たった60年前にはこれだけのしんどい戦いがあって、それを彼らは乗り越えた。
そして今のにっぽん、新大久保あたりで起こっているのは、これと同じことなのだよ、わかっているのか?はずかしくないのか?
とっとと公開すべきだわ。 新大久保の路上で上映してやれ。

Hamish Linklaterがふつーにドジャーズの選手をやっていたのでちょっとびっくりした。
Harrison Fordがものすごいじじい演技だったので、これも少しびっくりした。(しかも、普段の演技よか良かったりする...)

40~50年代のBrooklyn、行ってみたいなあー。 (能天気)


Gambit (2012)    .. 邦題は「モネ・ゲーム」だっけ?
モネの伝説の名画(...ふうーん.)をめぐって、絵画鑑定士(Colin Firth)がテキサスの田舎娘(Cameron Diaz)と組んで、メディア王(Alan Rickman)からふんだくろうとする企みあれこれ。 他にStanley TucciとかTom Courtenayとか、これだけのキャストを揃えていながら、しかも脚本はCoen兄弟だというのに、このだらだら締まりのない半端なかんじはなんなのかしら、もったいない。 でした。

ネコライオンのとこだけ、少しきゅんとなった。


The Big Wedding (2013)
彫刻家のRobert De Niro(祝70歳)はSusan Sarandon(パグ2頭飼い)と同棲している。
彼らの養子Ben Barnes がAmanda Seyfriedと結婚するので、そのお祝いに先妻のDiane Keatonが訪ねてくる。
結婚式には長女のKatherine Heigl(弁護士、旦那とうまくいっていない)とTopher Grace(医師、30近くて童貞)もくる。
ついでにBen Barnesの実母とその娘Ana Ayora(エロい)がイタリアからやってくる。
厳格なカトリックである彼らに父母が離婚していたとは言えないので、彼らがいる3日間だけでも元の夫婦のフリをしてくれないか、と言われる。
まんざらでもないふたりの様子にSusan Sarandonはむくれて出て行ってしまう。
Topher GraceはAna Ayoraにやられて童貞を失って、異父母姉弟間で関係ができる
さらに、Diane KeatonとAmanda Seyfriedのパパがかつて浮気していたことが発覚する。
さらに、Amanda Seyfriedのママはレズで...

こんなぐあいに、一見きちんとした両家なのに老いたのも若いのも神さまの元、いろんな線が張られてておおらかでいいねえ、結婚てなんなのかしらねえ、になるのだった。


あと、映画見ていないときはオーディオでTLC20ていうのを流していた。
ミックスが少しちがうのね。 "Waterfall"はLeft Eyeのラップのとこがないし、"Creep"はでだしの「ふぅー」がないし。

New Yorkはちょっとだけ湿気があるけど、東京ほどではぜんぜんなくて、よいかんじ。 でも週末はやや雨っぽい。

8.29.2013

[log] August 29 2013

やっとすこし湿気がなくなってきたと思ったら仕事だのなんだのがどろどろになって、いまは成田で、チーズとクラッカーをもぐもぐはじめたところで、これからNYにいくの。 来週の木曜日に戻ってくる。 たぶん。

先週急にきまった(きめた)し、金曜日の晩から仕事にどぼんでLabor Dayの3連休もどうなるかわからないし、なんにも予定を立てられないので、あんまし楽しくはない。

けど、まあ、うん。そうね。

夏の野外とかお祭り系のがひと通り終わって、Fall Seasonが始まる少し手前なのでイベント関係はとってもさびしー。 3日の晩にHAIMがあるけど、ぱんぱんでチケットなんて取れやしない。

BAMでJem Cohenの音楽/映画イベント"We Have An Anchor"をやっている。見たい。
けど28日までかー。

DIY auteur and consummate independent filmmaker Jem Cohen (Museum Hours, Instrument, Benjamin Smoke) collaborates with a supergroup of acclaimed musicians― Guy Picciotto (Fugazi), Jim White (Dirty Three), T. Griffin (The Quavers), Efrim Manuel Menuck and Sophie Trudeau (Godspeed You! Black Emperor, Thee Silver Mt. Zion), and Jessica Moss (Thee Silver Mt. Zion), plus guest vocalist Mira Billotte (White Magic)―in this cinematic love letter to Nova Scotia’s Cape Breton.

http://www.bam.org/music/2013/we-have-an-anchor

美術館も、ないとはいわないけど、なにがなんでも、みたいのはあんまないかも。
映画も、なにがなんでも、みたいのはない、けど、見たいのでいうとこまこましたのが軽く10本以上あって、どれを取ってどれを捨てるのか、なかなかむずかしい。

本とか雑誌とかレコードは、いつもどおり買うけど、ここんとこ買い出しみたいになっているのはよくないかも。

Academy Records AnnexがWilliamsburgからGreenpointに移動、ていうのは最近のちいさな衝撃だったが、まだあそこにいるよね?

ではまたー。

8.27.2013

[film] Populaire (2012)

25日の日曜日、シネマヴェーラで鬼畜映画を見たあと、有楽町に移動してみました。「タイピスト!」

ここ一館でしかやっていないからかも知れないけど満員で、満員になってもぜんぜんおかしくない明るく楽しい内容だったかも。

秘書に応募した女の子が一本指タイプから才能を開花させ、上司の猛特訓に耐えてがんばって全仏を征してアメリカで世界一に挑む。
召使がスキルを磨いて雇主の期待にきっちり応え、スポ根があり一世一代の勝負があり、恋がありおしゃれがあり、歌も踊りもあって、田舎から上京した娘が世界に羽ばたく。
ストーリーはふんわりきれいな上昇曲線を描いて、だれひとり死なず、傷つかず、はらはらどきどきの末にみんなが朗らか幸せになる。 さっき見たやつとはえらいちがいだ。

50年代だったから、タイプだったからありえたのかも。
スポーツだと肉々しくなるし、料理や音楽だと曖昧になるし、殺し屋だと凡庸になるし、指10本の早打ち勝負、というのがなかなか新鮮でよいの。
PCのキー早打ちの世界も、今だってあるにはあるけど、タッチの質感とかぜんぜん違うし、紙を変える必要もないし、アクションとしておもしろいのはタイプのほうだよね。 なにより女の子がかっこよいし。

他にありうるとしたらミシンとか機織りとかだろうか。 日本だとそろばん?
でもミシン機織りだと女工さんになっちゃうし、やっぱし秘書と上司、という妄想展開を許容しつつ活きるのは、タイプ、なのかも。

あとは Déborah Françoisと Romain Durisのクラシックなラブコメ容姿。 "Down with Love" (2003) のあのふたりとおんなじ系の。
女の子は柔らかそうなのに目がきーっ、ふぅー、てなる猫で、男のほうは一見きりっとしているようで衝突の数に応じてだんだんに剥がれてくる。

彼女が自転車ですっころぶところは素敵でしたわ。

最後、幸せの頂点までいってしまったふたりがこの後どこにいくのか、少しだけ気になる。
もうフランスで保険屋に戻ることはできまい...

どうでもいいけど、タイプの練習で「赤と黒」とか「失われた時を求めて」とか使っていた。
そんなの打っても集中できないにきまってる。

[film] 大江戸性盗伝 女斬り (1973)

25日、日曜日の昼間、シネマヴェーラでみました。
ニュープリントで画面はきれいだった、けど変な映画、だった。

江戸で、般若のお面をかぶったやつが女性を強姦して殺すという事件が起こりはじめる。
浪人で枕絵とかを描いているしんじろうは博打の借金で30両をなんとかしなければならない。
旗本の若妻にぽーっとなったしんじろうは、お金目当てで旗本と若妻の両方に近づく。
若妻とできてしまったしんじろうは、旗本のお金を強奪すべく、般若のお面をつけて旗本を殺す。
そしたら般若の正体はじつは旗本だった。
般若にやられて生き延びた宮下順子が殺害の現場をみてて、般若にもう一回して、とやってくる。
うざいので宮下順子を殺したら、その死に際にあたしになんかあったら当局が踏みこんでくるからよろしく、ていう。
のこされたふたりはあんぐり ...  (終)

般若の動機はなんだったのか、なんで妻まで殺そうとしたのか、なんで宮下順子は殺さなかったのか、などなど、ものすごく大量のいろんな謎が渦を巻いていて、その状態のままぷつんと終わるので、見ているわれわれも「終」マークと共に唖然としてしまうのだが、金返せ!なかんじにならないのはなんでなのか、を考えている。

『ヤンヤン 夏の想い出』の、リーリーの元カレとティンティンがデートする場面で、人殺しの映画なんてよくない、というのに対して、人殺しはよくないけど、どういうふうにして人殺しは起こりうるのかを映画は教えてくれる、というような会話があって、このへんなのかもしれない。

映画によく出てくる金、権力、性、殺し、恐怖、といったテーマのうち、金、権力、殺し、恐怖あたりは、ふだん扉のむこう、裏の世界の、関わらなくてもなんとかなりそうな世界のおはなしなのだが、性のところは表でもあり裏でもありうる、そんなトンネルみたいな機能/機構でもあって、だからここではどんなに理不尽なこと、ありえないようなこと、理解不能なことが起こっても吸収できそうな想像力の風穴みたいのがあるのではないか。 というようなことを、7月にラピュタで見た「処女かまきり」(1973) のときにも思って、なんでポルノ映画の場合、そういう変なことが起こってもあんまし変には思わないのかしらん、とぼんやりと思って。 (← それはあんたが変態だからだ ... )

8.26.2013

[film] Yi Yi (2000)

24日、髪を切ってから日仏に行って、『ヤンヤン 夏の想い出』をみました。「映画批評=現在と並走すること」というイベントで。

結婚式で始まってお葬式で終わる映画。

結婚式をあげるのは、ヤンヤンのママの弟で、運勢とかお金のことばかり気にしてて、お父さんにも借金があって、既にお腹が膨らんでいる結婚相手もお金にうるさそうで、おばあちゃんはそんな結婚式が嫌で気分が悪くなったので、ヤンヤンのお姉さんのティンティンにアパートに連れて帰って貰って、おばあちゃんを残して式に戻ったあと、家に帰ってみたらおばあちゃんは脳卒中で倒れて昏睡状態になっていた。

式の日取り選びは完璧だったからこんなことが起こったのはなんかの間違いか、起こったのだとしてもすぐ回復するはず、と叔父さんはいう。ティンティンは、おばあちゃんが外で倒れていたのは自分がちゃんとゴミ出しをしなかったからだ、と自分を責め、ママは、毎日おばあちゃんに話しかけなきゃいけないのに、わたしの毎日は同じことの繰り返しでそんなネタがないのと泣き崩れ、家族を置いて宗教の山籠りに出ていってしまう。

IT企業の社員であるパパは日本人の天才エンジニア(イッセー尾形)と契約しようとするが会社の方針と噛み合ずじりじりする一方、式の日に偶然再会した高校のときの恋人とやり直しがきくかきかないか、みたいなところを彷徨っている。

真面目で勉強もできるティンティンは、隣に越してきたリーリーとその彼の間の手紙の橋渡しをやっているうちに自分が彼と会うようになってしまい、こんなことやっていていいのか、と自問している。

ヤンヤンはいつも自分にあたってくる教師とその取り巻きの女の子たちに迷惑してて、なんでなんだよ、と眉をひそめてむくれている。

こんなふうに家族みんなが揃いも揃って、こんなはずじゃなかったのになんでこんなことに、なんであたしばっかり? ていうのを声に出さずに、声に出せずにひとりひとり佇んだり、走りまわったりしていて、せいぜいみんなが語りかけることができるのは寝たきりで聞いているのかもわからないおばあちゃんくらいで、で、そんな彼らを捕えるカメラはガラス越しだったり監視カメラ越しだったり、つまりはみんなから離れたところで見ているおばあちゃんの目、だったりするの。

イッセー尾形のエンジニアは伏せたトランプの目や場所を当てる手品をやってみせて、ここにはタネもシカケもなんにもない、一枚一枚がどこにあるかを完全にわかっているからだ、といい、なんで我々は初めてのことをそんなにおそれるのか? その一方で、毎日は常に新しく、同じ日を生きることは二度とないのになぜ平気で毎朝目覚めることができるのか? と問う。 同じようにヤンヤンは、わかっていないことを、見えていないことを、なんでわかっているように言えるのか? と問いかけ、自分には見えていない半分を見せてあげるんだ、とひとの後ろ頭ばかりを写真におさめるようになる。

そこに悟りがある、そういうものだから、という超越的な目線ではなく、知らないことは知ればよいのだし、間違ったことは正せばよいのだし、それができないのならできるようにすればいい、それすらもできない、というのはまだじゅうぶんに知らないからだよ、というようなことをおばあちゃんは言っていた、と最後の最後にヤンヤンが教えてくれる。 それを言っていたおばあちゃんがいなくなった後になって、あるいは最期におばあちゃんがヤンヤンを通してみんなに語ろうとした、というか。

だから、このとき - お葬式のとき - ヤンヤンのいう「おばあちゃん、会いたいよ」はほんとうに胸に刺さる。
ほんとうに、いつも、どんなときも、会いたいのに、いてほしいのに。 ごめんね、と。

後の討論会で安井さんが言っていたように、確かにこれはのちのちデプレシャンが作ることになる家族ドラマに似ているかもしれない。 もう家族の中心から離れてしまった、離れようとしている老人が、それでもその力を、その強さを持ち続け、子供たちと一緒になって家族を家族たらしめるお話し。 その現れ方に西欧的なかたち、アジア的なかたちの差異がある、のは当然としても。 とにかくみんなしぶとい。

「牯嶺街少年殺人事件」(英語題: "A Brighter Summer Day")を改めて、もういっかい見たい。 2011年、World Cinema Foundationが2009年にリストアしたこの大作を見たときの痺れるような衝撃がいまだに残っていて、あの、水槽に世界のすべてをぶちこんだような圧迫感と濃度(称賛です)、がこの"Yi Yi"ではどうして、どんなふうにして軽やかになったのか、死者の目を獲得したのか、を確かめたい。

それにしても、この作品を追悼上映に選んでしまうというのは、なんというか。 
死者を送る、追悼する映画としては世界最強としか言いようがない。

上映後の討論会は、個人的にはとってもおもしろかったが、ぴんと来ない若いひともいたかもしれないなー、くらい。
結局、批評の向かう先は、なぜ批評に向かうのか、というひとりひとりへの問いとか決意に落ちてこないわけにはいかなくて、それを「共闘」のようなかたちで今の時代にどうやって顕現させることができるのか、そこもまた人(場とか対象、メディアというよりは)なんだろうなー、むずかしいよねー、くらい。
でも、まず見たい映画がない、日本に来ない、そういう状況だと、批評云々以前のとこで、もうこんなにもクソだしゴミだし、どうでもいいやそんなの、見たいのは自分で見に行ってやらあ、とか、ぶつぶつ思っている今日このごろー。

8.25.2013

[film] 3 Idiots (2009)

18日の日曜日、新宿で見ました。「きっと、うまくいく」。 170分もあるやつとは思わなかった…

なんかここんとこ見たい映画があんまなくて、こうもべたくそ暑いなか「妄執、異形…」はちがう気がするし、ロバート・クレイマーの2本は夏じゃない気がするし(殴)、佐藤允も暑苦しいし(ごめんなさい)、見るのないんだったら部屋のお片づけをすればいいのに、こうして悩んで悩んで、夏 → カレー → インド、とかいうことになったのかも。 だから、いいから片付けをしろ。

大学卒業から10年経ったある日、当時つるんでいた3人組に召集が掛かる。召集したのは3人をなにかと目の仇にしていたサイレンサー(すかし屁をするから)てやつで、彼は今のおれはこんなにすてきなセレブな暮らしをしているんだおまえらはどうだよ? ていうの。 それは10年前、学校の屋上でおまえらおぼえてろよ! て刻印した勝負の誓いで、でもそんなのもう誰も気にしていなかった…

屋上に来たのはファランとラジューのふたりだけで、ランチョーだけがいなくて、なら彼を探そう! て車は彼の実家のほうに向かって走り出す。 その過程で掘りおこされる大学時代のあんなことこんなこと。

大学はインドのエリート理系大学で、鬼学長がいて、そこに来る生徒は将来優秀なエンジニアになることを約束されていて、そこの入学当日に寮で同じ部屋になったのがファランとラジューとランチョーの3人で、ファランとラジューは勉強はだめで、ランチョーは天才肌でどんなことでも解決しちゃうの。そんなランチョーのおまじないが胸に手をあてて"All is Well" - きっと、うまくいく - なの。 

はじめのほうは鬼学長 vs 落第生群みたいな、ポリスアカデミーみたいなやつかと思っていたのだが、ラファンとラジューの家族問題、勉強のこと、将来のこと、試験、結婚、出産、涙も笑いもなんでもかんでも(恋愛だけあんまないかも)次から次へとぶっこんでくる。 それと並行して10年後、勝ち組負け組を判定するためにインドの奥地へと向かうゆるゆるした彼らの旅が描かれ、あれってなんだったんだろ、結局いまっておれらなにしてるんだろ、ランチョー、きみはいまどこでなにしているの? ていう問いがでっかい空にうかぶ。

たぶん見たひと誰もが、ここで描かれたエピソードのどこかなにかに思いあたるところはあって、じーんとしたりもするのだろうが、とにかくあまりにてんこ盛り、具も汁もたっぷりなんでもぶっこんであって、更に歌に踊りまであったりするので、そんなに盛りたいか? そんなに盛ってどうする? とか、そっちのほうが気になってくるの。

よくわかんない料理店で、よくわかんないからコース頼んだら次から次へとあれこれ出てくるので怖くなってくるあのかんじ。 もちろん、おいしければよくて、おいしいおいしくないでいうとおいしいほうだし、とにかくお腹はいっぱいになってその後胸焼けとか胃もたれもあんましない - 応援歌ふうにならなかった - のはよかったかも。 
しかしよくまとめたもんだよね。 昭和のTVのホームドラマみたいなかんじも少しあるけど、とにかく。

教育関係のひととか、ひとの親になるひとは見たほうがいいよ、とか適当なことを思ったり。
  
「ずび どぅび」の歌はすてきだった。

ところで、"All is Well"といえば、自分にとってそういうとき高らかに鳴り渡るのはEBTGの"When All's Well"で、それは四半世紀のあいだ、変わらない。

8.20.2013

[film] White House Down (2013)

17日の土曜日、Star Trekを見終わった20分後に見ました。 とってもつかれた。
Star Trek見て、これ見ると権力とは、とか権力を落っことすとは、とか、ふうんーて思うし、なんて国だろうねえアメリカ、とかも思うわ。

Channing Tatum(役名はJohn Cale... )はお仕事で下院議長(Richard Jenkins)の護衛をしてて、娘を連れてWhite Houseに面接に行く(大統領の警護官志望)のだが、面接は落ちちゃって、その帰りについでだから、とその場でやってたWhite Houseの見学ツアーに参加したら、途中でテロとその集団に遭って、娘とは館内で離れ離れになり、たまたまぶつかった大統領(Jamie Foxx)と一緒に逃げたり戦ったりしていく。 その過程で複数の動機、多様なたくらみが明らかになってみんな大変だねえ、になるの。 大統領守って、娘も守って、アメリカも救う。 どんなもんだい。

4月に見たこれと同様のWhite Houseぶっこわし映画 - "Olympus Has Fallen" - 『エンド・オブ・ホワイトハウス』 - との比較でついあれこれ見てしまうのだが、ちがうところもあるし、おなじようなところもある。

両者に共通しているのはこんなこと -。

- 最強、最前線の警護官ではなく、疲れていたり失敗してたり家庭が程よく壊れているような警護官ががんばる。(一番じゃなくてもよい、一番じゃないほうがいい)
- 大統領は、自分で喧嘩できるひとじゃないとだめだ。 (パンチとキックができること)
- 大統領の下のやつらは割とどうでもいい。
- 空からくるやつにはちゅうい。
- 屋上にいるやつにもちゅうい。
- あそこの地下にはなんかある。

基本にあるのは、あの城(白い家)と主(President)を落とせば、世界は自分のもんになる、という思いこみ。
これって911以降、リーマンショック以降もしぶとく持ちこたえている米国への、米国人による共通の認識なのかしら。
それとも、やれるもんならやってごらん、ていう世界に向けた挑発なのかしら。

で、城はとりあえず落としても、主と番犬がなかなかしぶとくて、難儀するから気をつけろ、ていう。

"Olympus Has Fallen"のGerard Butler & Aaron Eckhartのハードコアな(犬顔)コンビと比べると、こっちのChanning Tatum & Jamie Foxxのがやや柔らかめであんま強そうには見えない。
火器銃器の数、死人の数が多くてやかましいのが前者で、飛行機が落ちたり全体の仕掛けが派手で豪華で映画ぽい記号あれこれ(旗ふり、とか)に溢れているのが後者、かも。

なんかさー、Channing TatumとRichard JenkinsとMaggie Gyllenhaalが並んでいると、ふつうの家庭ドラマみたいに見えちゃうのよね。 Channing TatumとRichard Jenkinsは"Dear John" (2010)で父子だったし。 Richard Jenkinsの焼くラザニアがおいしそうでねえ。

娘のエミリーさんによるとブログなんてもう古いんだってさ。

8.19.2013

[film] Star Trek Into Darkness (2013)

17日の土曜日、六本木でみました。

3日間の特別先行上映、だそうだが、ふざけんじゃねえよ、地球規模で見たら後行の後行もいいとこなんだよ。
5月にアメリカのひととシンガポールのひとと話をしてたらこの映画の話になって、見た?え、見てないの?なんで?うそーありえないー、と散々あきれられた挙句ネタバレごめんねーとか言われつつ内容をべらべら喋られてしまった、そこから更に3ヶ月だよ。屈辱だわよ。
あんな馬男のイベントなんかでごまかしてないで、まずは肝心のブツをとっとと見せろってんだよ。 おかしいよ。
しかも幼稚園以下の、くそみたいにくだんねー邦画の予告ばっかしさんざん見せられて、洋画洋画いうつもりはないけど、そこまでして自国の産業守ってちやほやされてーのか中国かここは、とかおもったのだった。 
いじょう、いちおう"Into Darkness"モードで、ということで。

前段のエピソードで、リスクを冒して規則をやぶって仲間を救出したカークに対する審判があって、彼は副長に降格されてしまうのだが、その後に起こったテロで上の連中はほとんどみんな死んじゃって、その犯人(馬男カーン)追跡のためにエンタープライズが出動することになる。 犯人はわかりやすく捕まるのだが、彼は彼でカークと同じ行動原理で動いていることがわかってきて、さてどうする、カークはカーンを裁けるのか、なのだった。
自分の部下のために悪役として地球に対峙せざるを得なくなった悲劇の主人公よろしく、カーンはめっぽう強くて頭よくてかっこよくて、仲良くしちゃえばいいのに、悪いのは別のとこにいたんだし、なんでできないのかなにがいけなかったんだろうか、と、カークが悩んでいるにちがいないことで我々も同じように悩んで、そうこうしているうちに自分らみんな死にそうになっちまうじゃねーかどうすんだ、になる。

なので、大枠として「宇宙大作戦」とか大冒険とかからはちょっとだけ離れた、身内のこまこましたシェイクスピア劇ふう、が真ん中にあって、これは前作もそうだったけど、賛否があるとしたらそのへんだろうか。 前作でメンバーが揃って、今作で結束が固まったので、次からいよいよ暴れまくってほしいところ。
ただ、宇宙に今更もうフロンティアなんてねえだろ、とか、宇宙における絶対的な悪なんてねえだろ、みたいな共通認識がベースにあるのだとしたら、シェイクスピア劇に行ってしまうのもしょうがないのかも。 あと、相手をばりばりぶっこわすことよりも、エンタープライズ号がぼろぼろになってどこまで持ちこたえるのか、のほうが見せどころになるのもしょうがないのかも。

見せ場的なところでは、向こう側にあるでっかい船の通気孔にふたりでダイブしにいくところが面白かった。 
ぎゅーんて突っこんでいって間一髪でふたりともぐしゃ、って潰れちゃったら全宇宙がしーん、てなるよね。

今回はJohn ChoとAnton Yelchinの動きがあんまないのはつまんなかったけど、Simon Peggがばりばりじたばた活躍してくれるのがうれしい。
制服がとっても似合わないのはご愛嬌だが、バーで飲んだくれているとこまで見せてくれるのでよいの。

あと、相談役みたいに別(老)Spockを出してくるのはいかがなものかと。 昔のファンは喜ぶかもしれないけど、それって君の好きなロジカルな解決でもなんでもないよね、ただの打算だよね。

"Pacific Rim"をJ.J. Abramsが監督したらどうなっていただろう、とか少し思った。すこし見やすいものになったかもしれない。操縦席の撮り方とか、Guillermo del Toroも悪くはないんだけど鼻息が聞こえてくるくらいに生真面目で、ここでのCarolの着替えのとこみたいな、ああいうセンスがほしかったんだよねー。

[film] The Man with the Iron Fists (2012)

夏バテではないと思うのだがもうぜんぶいやでぐだぐだで死にそうで、そんな金曜日の晩、「処女の泉」とこっちと、どっちにするか少し考えて、より鬼畜なほうにした。 そういえば"Django Unchained"も見ていなかったなあ。

RZAが監督/原作/脚本(Eli Rothと共同)/出演/音楽で、こねこねつくったカンフー・ウェスタン、みたいなぎんぎん活劇。Tarantino一派が絡んでいそうなことはすぐわかるのだが、IMDB上に彼の名前はない。

いろんな武装集団が勢力争いしていた19世紀の中国の叢林村(Jungle Village)にRZA扮する鍛冶屋がいて、彼はせっせとお金を稼いでそこの娼館、粉花楼(Pink Blossom)にいる彼女 - Silkを身請けしようとしている。ある日、村を通過する総督の金塊の監視を依頼されたなんとか団のトップの金獅子が倒されて銀獅子と銅獅子が後を握って金塊を持っていこうとする。そこに仇討ちにきた金獅子の息子とか総督側の強いひとたちとか、謎のRussell Crowe(名前はJack Knife..)とか娼館のマダムのLucy Liuとか当然銀獅子銅獅子側の刺客とかわらわらいっぱい出てきて、最後は血みどろ。

70年代のカンフー映画がどんだけ残忍で残虐で情無用でありえなくて、他方でひとの、ひとと殺しの道具である武器の動き - 特に喧嘩の動きと殺し - のあらゆる可能性を追求してておもしろいか、びっくりさせられるか、教えてくれたのはLincoln CenterのFilm Societyだった。 倒されて死んだひとは生き返らない、それ以外はどんなことだってある。 ありうる。 やってよい。
この映画にもX-Menみたいなの(Brass Body)が出てくるが、まったく違和感はないの。

RZAは最初のうちは真面目で寡黙な鍛冶屋だったのだが、金獅子の息子を匿ったことから銀銅に難癖をつけられて両腕を切断されてしまい、そこを救ったRussell Croweの助けを借りて鋼鉄の拳を造って戦いに乗りこんでいく。 そこに至る過程で 彼の顔というか貌が劇的なまでに変わっていくことに気づかされる - アメリカの奴隷時代のアフロ(Pam Grierもいる!)から人を殺めて船に逃げ、その船が遭難して中国に流れ着き、僧院に拾われて髪を剃って修行に明け暮れ、しゃばに出て鍛冶屋になって、両腕と彼女を、全てを失って復讐の鬼と化す。

その上のレイヤーには、アメリカの奴隷制からの逃走があり、中国の植民地化の流れとその混乱があり、女性解放(Black Widows)があり、アヘンがあり、要するにものすごくでっかい世界の風呂敷があって、その上に戦いに向かわざるを得なかったひとりと、その周りの複数の男女の物語をぜんぶぶちまけようとした。
血が飛びちり肉が刻まれ骨が砕けて目玉が飛ぶたびに、これらの歴史とその交錯が絵巻物(フィルム)のなかにぐるぐる簀巻きになっていく。

デビュー作はこうじゃなくちゃ、だし、First cutが4時間分あったというのもわかるし、こっちのほうが見たいなあ。 それを95分に切ったらそりゃごちゃごちゃするよね。

Russell Croweは、エロ場のやらしいおやじも、毒矢吹きとの戦いのとこも、なかなかがんばって動いていたほうではなかったか。 "Les Misérables"よりはいかったかも。

Lucy Liuは貫禄のかっこよさと剃刀の鋭さ、そして気品。 そこらの半端なアマゾネスみたいなのとは格がちがうの。

音楽はウータンをはじめとしてぶいぶいのゴリゴリ。 ガレージでも艶歌でもなく、これしかないんだ、という鉄の拳の嵌り具合はさすが。

8.17.2013

[film] World War Z (2013)

日曜日、「熱波」のあとで六本木に行って見ました。

フィラデルフィアである朝突然、大量の人類が大量の人類(みたいなの)に襲われ始める。人が人を噛んで、12数えると噛まれたほうは人間ではないなんかに変わって、同じように他人を襲いはじめる。慌ててニューアークまで逃げたGerry(Brad Pitt)とその家族は、元の職場の合衆国に呼び戻され、家族の命を預かってもらうのと引き換えにこのパンデミックだかなんだかをわかんないのをなんとかしろ、とめろ、と言われて、韓国 → イスラエル → ウェールズと流れていく。

果たしてこれはゾンビものなのか、世界の危機モノなのか、どっちでもいいのだが、最初のほうはおっかなくてしょうがない。 こわがりなのでそんなにゾンビものは見ていないのだが、そんなに見ていない/見たくない故に、わたしは厳格なGeorge A. Romero原理主義者であろうとしてて、あんなに素早くしゃかしゃか走って飛びかかるのはゾンビじゃないんだ、とおもう。 ゾンビはあのゆったりとした動きで人を襲う、襲われるほうはそのゆったりとした間にあわあわパニックしてバカなことをしでかして災厄を拡げてしまう。 ゾンビを救いようがないのは確かだが、その上をいくバカで救いようがないのは人類のほうなのだ、というような定式がこの映画にあてはまるか、というとそんなでもなくて、だからなんか。  

ゾンビ撲滅、ゾンビとの戦いに勝つ、というよりパンデミックを食い止める・回避する方法を探る、というのがベースで、その線上なら家族を守る、というテーマもすんなりはまる。
そもそもGerryの雇い主である国は、それを「ゾンビ」とは呼ばないし認めない。実際に前線で相手をした兵士や医師だけが呆れたように、あれは「ゾンビ」としか言いようがないものだ、という。

その認識のギャップが感染の拡大に伴ってどうしようもなく拡がっていって、それと共に物語の運びもだんだんB級ぽく非現実的になっていくのがおもしろい。そして、実際おもしろくなる。 飛行機内で犬がばうばう始めたあたりからきたきた、になって、細菌サンプルがあるのはB棟だ!のあたりはもう好きにして、になってしまう。 だいたい飛行機がおっこちるところなんか怖くもなんともないもんね。

主人公としてブラピはどうなのか、についてはよかったのではないか。うざい長髪以外は。
トム・クルーズみたいにばりばり仕事されても困るし、デカプだったら間違いなくゾンビのほうを応援してしまうだろうし、ジョニデだとコメディになっちゃうし、"I Am Legend"のウィル・スミスだとやっぱし勘違いだし。
サンプル室のガラス越しにゾンビと対峙するときの、あの半端にラグジュアリーで優雅な物腰はこのひとにしか出せないもんではないか。

あれでとりあえずは回避できたのかもしれんが、一匹くらいは絶対間違って噛んじゃうやつがいて、そいつの耐性をもった新種ゾンビが出てきて、それの対抗で造ったワクチンで次の災禍がやってくる、ていうのが"World War Z+"、になるのね。
ゾンビ映画ならそれくらいの根性みせてほしいわ。

8.16.2013

[film] Something from Nothing: The Art of Rap (2012)

10日の土曜日、"2 Days in New York"のあと、坂をのぼってシネマライズで見ました。

米国でやってたときに見たかったけど、時間がなくて見れなかったやつ。

監督のIce-Tがインタビュアーも兼ねて伝説のから若手まで、一通りの人たちに聞いていくなかで、ヒップホップの起源とかラップとヒップホップのちがいとか、ラッパーとMCのちがいとか、どうやって始めたのかとか、どうやって歌詞をつくるのかとか、歌詞になにをこめるのかとか、どうやってスキルを磨くのかとか、そういういろんなのがわかる。 インタビュアーの聞きだしかたのうまさ、やりとりのイキの良さ、もあるのだが、とっても勉強になる。 のと、あとは即興、その場で自分のスタイルを実演してくれるので、なるほどこういうこと、て膝をうつ。

最初の場所はNew York(起源・発祥の地)で、そこから一瞬Detroitに飛んで(エミネム)、最後はLAに行く。
インタビュイーが変わるたびに空撮で都市がでっかく映しだされ、その上にぶっといビートがどかどか鳴りひびく。 その瞬間がえらく気持ちよく、かっこいい。

お話しの内容だと、やっぱし初期の開拓者の人たちの昔語りがおもしろい。
どうやってタイトルにもある、NothingからSomethingに行ったのか、それが寄り集まって流れをつくり、川ができて村ができて街になって、やがてはアートになってマーケットができあがる、と。

割と共通しててなるほどーと思ったのが、スキルを磨いて努力して戦ってトップに立つ、俺がぜったい一番世界いちだし、そこを目指す、ってみんなが言っていたところ。 最後のほうでSnoopが、アートかスポーツかっていったらスポーツかも、と言っていたように、他者に勝つ、仲間のなかでも一番になる、でもお互いレスペクト、みたいなところって、スポーツだよね。 それがどうした、ではあるのだが。

Rakimさんだったか、まず紙に16個の点を打ってその間に埋める言葉を探す、じっと見ていると詞が浮かんでくる、とか割と地味な制作系のはなしがおもしろかった。 みんなずーっと高いテンションで、四六時中ぎんぎんおらおらしているわけではないのね、とか。

土地別でいうと、NYは割と恐縮したかんじで静かめで、監督のホームのLAだと、ノリがちがう。 Ice CubeもDr.DreもSnoopもまだみんなきらきらしている。

あとは、自分にとってのヒップホップとは、みたいなのを遡って考えてしまったりした。
最初はラジオの全英Top20で流れた"White Lines (Don't Don't Do It)"だったなあー。あれはほんとにびっくりしたなあー、とか。
次は90年代初のNaughty By Nature、だねえ。 FDRの横をがたがた揺れまくりながら走っていたTaxiのラジオで"Hip Hop Hooray"が流れてきたとき、これかぁ! ってあたまに閃光が走ったのだった。

これは作り手、アートの担い手を描いた映画だったが、聴き手側の土壌・事情みたいなはなしも聞いてみたい。
わたしにはサウスブロンクスで生まれ育ったプエルトリカンの義兄弟(腐れ縁)がいるのだが、こいつの話とか聞いていると、ミルク飲むみたいにヒップホップを浴びてきているので、そもそもの素地がぜんぜんちがう。 我々がレコード屋通って入門したり勉強したりしたあれこれが、はじめっから耳のベースにあるの。
土地と音楽、とかそういうとこに落ちてしまうだけなのかもしれないけど、彼らが生きてきたなか、学校行ったりつるんだりしてきたなかで、ヒップホップってなんだったのか、とか。 それって異国を旅をするのにとても近い感覚でもあって、つまり土地とか土壌とか湿気とか。

あと、これと同じことを例えばパンクでやったらどうなるのか。 地域別にパンクの変遷を追っていったドキュメンタリーもないことはなかった - Don Lettsの"Punk: Attitude" (2005) とか - 気はするが、パンクてやはり土地への執着 - その土地から成りあがる - ってあんまないかんじがした。
No Skill - No Future で Nothing from Something、ていう逆ベクトルなんだよね。

8.14.2013

[film] 2 Days in New York (2012)

10日の土曜日の昼、2週間ぶりに映画館で映画みました。

3日の土日は花火大会だったのだが、あんず飴の屋台が激減していたのがとってもショックだった。 しかもすももが売り切れていたので泣きそうだった。

『ニューヨーク、恋人たちの2日間』。 でも恋人たちのお話ではないし、2日間どころかこれまでの全人生ばちかぶり、みたいなお話なの。

Julie Delpyの監督作品としては"Le Skylab" (2011)に続くもの、都市探訪ラブコメとしては"2 Days in Paris" (2007)に続くもの。
"Le Skylab"は田舎めがけて家族がばらばらと集まってくるおはなし、"2 Days in Paris"はJulieの実家に彼を連れていくおはなし、"2 Days in New York"は、実家ではないけど生活の根城にJulieの家族がやってくるおはなし。 どれも異文化衝突 vs LOVE、ということでよいのかしら。

アーティスト(Cindy ShermanとかNan Goldinとか参照されてた)のマリオン(Julie Delpy)は、ex彼の子供連れで、Village Voiceに記事書いたりコミュニティラジオのDJしたりしているミンガス(Chris Rock)と暮らしてて、そのアパートにマリオンのパパ(Julieの実のパパでもある。68年世代)と妹(エキセントリック)と妹の彼(ちんぴらでぽんくら)がくっついてやってくる。

英語をまったくしゃべらないパパをはじめ、異国のあれこれを/にアジャストするつもりなんか毛頭なく勝手に振る舞いまくる連中を束ねつつ、NY観光に連れていって食べものの面倒を見て、同時に自分のガキと彼のご機嫌も取らなければならない、その気苦労はリアルにしぬほどよくわかる。  それらをSATCのキャリー風のナレーションと下ネタだしまくりで、ぱきぱき捌いていくところはごくごくふつうのコメディとしておもしろい。

自身の個展のオープニングで、「作品」として売りにだした自分の魂、それを$5000で購入した「無名」の人物 - Vincent Gallo - との対話のところだけ、まったく異なるテンションで真剣で、やりたかったのはこれなのかも。

魂は不滅だというけど、そんなの信じられない。 それを不滅だというのなら、なんで時の経過と共に人はくっついたり別れたりを繰り返さなければならないのか、時間の経過と共に辛い思いをいっぱいしないといけないのか、父親は老いていく、自分も老いていく、子供は生まれてくる、魂は移ろい彷徨っていく、そんな不安定な魂なんかいらないから、売ってやる。 ていうマリオンにたいして、おれはあんたの魂を買ったんだからつべこべ言うんじゃねえ、というギャロ。 で、ふたりはとっくみあいの喧嘩になるの。

"Le Skylab"にも、年寄りと子供たち、そして大人たちの楽しいやりとりのなかに、なんでこれが続いていかないんだろう、みんな天気みたいに変わっていくんだろう、という寂しさと切なさがあったし、こないだの"Before Midnight"では、自分の監督作ではないのに、ストーリーを引っぱっていったのはそんな「魂」と「場所」に対する彼女の痛切な思いに他ならなかったような。

ラスト、くそったれ共に対する鳩の糞爆撃も含めてね。

この魂売りのエピソードだけ変に浮いているしぎこちないのだが、それゆえに、Julie Delpyってすてきだなー、とあらためておもった。
相手役としてChris Rockはどうなのか、と少し思ったけど、ミンガス役は彼を想定して書いたというし、彼とは誕生日がおなじだから憎めないの。

New York観光映画としてはあんなもんかしら。 ちゃんとしたクロワッサンが食べたい、というパパに持ってきたのはLe Pain Quotidien のやつだった。
いまだと、Maison Kayserなんかもあるんだねえ。

2003年8月14日、北アメリカ大停電から10年かあ …   ぅぅぅ。

[film] Tabu (2012)

11日、日曜日の昼間、熱波をごーごー浴びながら渋谷の坂をのぼって「熱波」をみました。

映画のプロのひとたちが言及するF.W.ムルナウを巡るあれこれは、ムルナウ見ていないので知らない。
(「群像」の蓮實重彦さんの評はおもしろく読んだ。 百年はえーわガキ、ていうことよね?)

「自分に見合った顔」と同じくこれも二部構成で、第一部はピラールていう寂しいおばさんが同じように寂しくて半ば狂ったような老女アウロラ(とその傍に使える不気味なサンタ)の面倒を見たりしてて、やがて危篤になったアウロラはヴェントゥーラという男に会いたい、といってそのまま亡くなってしまう。施設にいて、もう正気ではないかもしれないヴェントゥーラに会いに行ったピラールとサンタにヴェントゥーラが語り始めた50年前、まだポルトガル領だった頃のアフリカでのお話 - 

彼の語りに導かれ、夢のように立ち上がる第二部の入り口がすばらしいのだが、ここまでの第一部で登場したまともな人はピラールくらいで、そんな彼女もひとりぼっちで、要はみんなアウトサイダーなの。

で、第二部はヴェントゥーラの語りが全てで、劇中の会話の声はぜんぶ消されてて、でてくる音はヴェントゥーラの語る声、虫や鳥の声、手紙を読み上げる声、音楽、それくらいなの。
つまり、とっくに狂っているかもしれない、たんなる法螺かもしれないヴェントゥーラの記憶の声が第二部の骨格にあって、それが正しいのか正しくないのかとか、そんなに美しいわけあるもんかとか、いろいろあるのはわかるけど、とにかく流れてくる画面、吹いてくる画面はうっとりするくらい美しい。 ポルトガルの植民地だった頃のアフリカの土地、そこに暮らす裕福な白人階級の女とどこかから流れてきたバンドマンの男の、熱病のように浮かんで消えた恋のおはなし。

アウロラは紅茶農園を経営する男の妻で何一つ不自由ないのにヴェントゥーラと恋に落ちて、身重の状態で駆け落ちしようとして失敗して引き離される。それだけなのだが、なんでこんなに、夢のように美しいのか -  それは夢だったからだ、と。

『自分に見合った顔』もこれも、居心地のよくない現在を描く第一部から少しだけ離れた時空にある、くっついているんだかいないんだかの世界を映しだす第二部を通して、そう簡単には納まってくれない世の中の面倒くささというか、どっちみち大変なんだわこれ、という地点に還ってくる。

"Be My Baby"はThe Ronettesではなく、Les Surfsの“Tu Seras Mi Baby”だし、“Baby, I Love You”はRamonesのだし、要はオリジナルではないの。

ふたりの情事のシーンの美しいこと。 サイレント映画でああいうのを見たことがない(そりゃそうね)のだが、サイレントでポルノやったらあんなふうになるのね、きっと。

あとはワニ。 第一部の前に、頭からこびりついて離れない亡妻のイメージから逃れるために自身をワニに捧げものする男のはなしが出てくるが、この映画の中心にいるのはアフリカの奥に噴きだまる情念を食らうべく溜め池でじーっと待ち続けるワニなのかも。 

"Our Beloved Month of August" (2008)では鶏ときつねだったなー。

8.12.2013

[film] A Cara que Mereces (2004)

7/13の土曜日、ユーロスペースの特集「ポルトガル映画の巨匠たち」の初日、売り切れてたかも。
Miguel Gomesの長編デビュー作、「自分に見合った顔」。 英語題は"The Face You Deserve"。

30歳の誕生日の日、小学校の先生をしているフランシスコは学芸会のカウボーイのかっこで、「白雪姫」を発表するガキの面倒を見てじたばたして、同僚の女の子とは噛みあわなくてどうでもいい事故にあって病院に行って、要するにぜんぜんさえてなくてつまんなくて、こんなんで30なのかよありえねえよ、と泣きながら山小屋に行って鏡を見たらはしかで顔中ぶつぶつでとっても死にたくなる、と。

ここまでが第一部で、第二部は、病に倒れたフランシスコ(第二部では姿を見せない)の内側だか外側だかで彼にかしずく7人の小人(たぶん)達のじたばたを描く。ひとりひとりの名前とかキャラとか上下の紹介がちゃんとあって、彼らが森で暮らしてハイホー歌いながら共同生活をしていくなかで勃発するあれこれを通して、フランシスコひとりでも大変なのに小人達だってそれどころじゃないんだ、どうするんだ、って。

彼らとフランシスコがどういう経緯で主従の関係に至ったのか、彼ら同士がどういう事情や巡り合わせで一緒になっていったのか、それは自分たちの意思だったのか徴兵みたいなものだったのか単なるフランシスコの妄想が生んだ連中なのか、第二部でのいろんな出来事を通してあれこれ推測できるのだが、どうとでも取れるような怪しげなおっさんや若者達の集団なので、ま、楽しそうならいいか、って。 それにしても、「30歳までは神から授かった顔、その後は自分に見合った顔に」 なれるのかこんなで -  とはおもった。

途中から「掠奪された七人の花嫁」(1954) みたいになったら楽しいのに… とちょっとだけ思ったが、そこまでの冒険はしなかったのね。

デビュー作ていうのもあるのか変なところに変な力が入っているふうで(Miguel Gomesてどれもそんなかんじが…)おもしろかったけど、よくこんなどーでもよく変てこな話考えたもんだよね、だった。

映画のスチールで目隠しをされている彼は、"Tabu"で若き日のVenturaを演じたCarloto Cottaさんです。

8.11.2013

[film] Lawless (2012)

ロンドンに行く前の、書いていなかったやつも少しづつ、適当に、書けるやつから。
7/14の日曜日の夕方、新宿でみました。

この日は昼間に六本木で「貴婦人と一角獣」と「Andreas Gursky」を見たのだった。
どっちもでっかすぎてこまかすぎて。

邦題は「欲望のバージニア」。どこが欲望でなにがバージニアやねん。
"Loveless"はマイヴラ、"Lawless"はNick Cave。

映画のなかでShia LaBeoufが演じていた三男Jack Bondurantの孫 -  Matt Bondurantが書いた原作をNick Caveが脚本化して、音楽はもちろんNick Cave + Warren Ellisなのだから見ないわけにはいかないのだった。 (7/18 - ロンドンに向かう機中の夢のなかにNick CaveとWarren Ellisのふたりが出てきたのはこれのせいだったの。たぶん)

禁酒法時代、VirginiaのFranklynの山奥に実在した不死身の三兄弟のおはなし。
密造酒を造って売っているところに新しく当局からやらしい取締官(Guy Pearce)がやってきてお縄を強化して、同業者はみんなお手あげで廃業していくのだが、この三兄弟だけは気に食わねえ、と最後まで屈服しないまま踏んばって最後はどんぱちに。

長男(Jason Clarke)は強そうだけど芒洋としてて、三男は弱虫なセールス担当の軟派野郎で、これだけだとあんま不死身なかんじはしないのだが、次男のTom Hardyがすさまじいの。
敵の刺客に首かっ切られて一晩置かれても、銃弾ぼこぼこにくらっても、極端ななで肩のぶあつい紡錘形ボディで、とにかくぜったい死なない。 こないだのバットマンのBaneの数倍強いとおもう。
彼、やられたらやりかえせ、もすごくてこわくて、Jessica Chastainに悪いことした野郎へのお返しなんて、小屋の奥なので少ししか見えないのだが痛すぎる。耳切り取るよかだんぜん痛いあれ。

彼らの酒場に流れてきた街女(Jessica Chastain)とか、三男がぽーっとなる牧師の村娘(Mia Wasikowska)とか、脚がわるくて心やさしい三男の親友(Dane DeHaan)とか、シカゴの大親分(Gary Oldman)とか、脇役もそれぞれに素敵で、体裁はギャング映画、なのだが印象は荒縄でざっくり拵えた東映ヤクザ映画、でも最後のほのぼので、だって別に悪いことしてないもんおれら、だった。 というわけで「欲望の - 」はちょっとちがうの。

がりがり荒んで野蛮で腐れた世の中で、それでも最後までこびりついて残る、最後によれよれと立ちあがってくる愛みたいの、はあるんだろ? あるんだよなおまえ? ああ?(胸ぐら) 的なところは確かにNIck Caveなのだった。

Nick Caveさんが脚本を書くよりも前に仕上げたという音楽は、30年代ふうに枯れて粗んでいて、ぞくぞくするくらいによい。 The Bootleggers(密造業者)ていう、このサントラ用のバンドで、Mark LaneganやEmmylou Harrisがヴォーカルを取り、Link WrayやTownes Van ZandtやCaptain BeefheartやVelvet Undergroundといった自作曲以外のもこの世界に見事に引きずりこんでしまう。 特にVelvetsの"White Light/White Heat"が、あんなふうな激ブルーズになってしまうなんて。

いちばん最後に出てくる三兄弟のほんとの写真、確かに死にそうにないかんじ。

8.10.2013

[music] Mumford & Sons - July 30

7月30日の晩、新木場で見て聴いた。 たのしかった。

FRFの後の微熱でやっぱし音楽だよな、とかなってしまい、更にFRFから帰還した翌日、ついにレコードプレイヤーがやってきたので、何枚あるかはしらんが軽く7年分は溜めこんであるアナログを端から聴きまってやる!になったのだが、アップグレードしないと33回転のしか再生できないことを知って衝撃を受け(しっとけ、そんなの)、でもとにかく音楽いっぱい聴く!になったんだよ。

ほんとは、もちろん、月曜日のSavagesのほうに行きたかったのだが仕事からぜんぜん抜けられず、火曜日のこれは抜けられるかもしれないが遠いし、そもそもチケット売り切れなのではないか、と思っていたら当日券あり、とか聞こえてきたので行ってみた。
欧米だったらこのサイズの小屋ではぜったいありえないのだが、とりあえずしあわせな国にっぽん。

はじめはギター、バンジョー、キーボードにベース、これに弦3に管3で、この編成とは思えない音の拡がりがすばらしい。でっかい投網を投げられて一網打尽。
後ろの管弦がいなくなって4人だけになっても、でっかい声とじゃんじゃかじゃかでぐいぐい引っぱっていく。

Marcus Mumfordの声はほんとに素敵で、でもほかに、曲にすごい泣かせどころがあるとか、ハーモニーやアレンジが見事とか、お祭りのような揚げどころがあるようには見えない(いや、あるのかもしれないけど、ぱっと聴いたところではそんなに)のに、愚直なまでに声を張りあげじゃかじゃかどこどこやり続けてどこに行くのやら。 きっと地球に誰ひとりいなくなっても止めないのだとおもう。 

この音でこの音楽隊を汗臭く泥臭く髭まみれでべたべたやる、のではなく、少しださめの大学生みたいなセンスでもってやり抜こうとしているところが当たった理由なのかも。  それをセンスのよさ、と呼ぶのは癪なのだが、おぼっちゃんだからしょうがないか、みたいな隙間もたまんない方向に寄与してくれたのかも。こんな時代には。

http://www.vulture.com/2013/08/here-is-the-mumford-sons-music-video-in-5-gifs.html

アンコールではアンプラグドどころかケーブルレスでSpringsteenの"I'm on Fire"をやって、"Where are you now?" をやる。
当然音量はちいさくなるが固まって揺るがない。
おれの魂はこんなにぼうぼう燃えているんだけど、きみはいったいどこにいるの? てつぶやきながら森の入口にぽつんと立っている樵、みたいなかんじ。

これにきゅーんとなる女子がいるのはなんとなくわかる。

終りのほうでHaimが出てきて、FRFで見たかったベスト3だったので、ばんざいした。

http://www.vulture.com/2013/08/watch-haim-cover-sheryl-crow.html


8.08.2013

[log] Londonそのた - July 2013

ロンドンからの帰りの飛行機では、映画2本みました。 基本は、ほぼ寝てた。

Quartet (2012)

邦題は「カルテット!人生のオペラハウス」...

引退した音楽家のための老人ホームがあって、そこに伝説の歌手(Maggie Smith)が引っ越してきて、資金捻出 - ホームの維持のために、かつて伝説といわれたカルテットを再編して「リゴレット」をやろう、になるのだが、過去彼女といろいろあった元夫を含む3人はいろいろ複雑で、彼女はもっと難しくてごねて、どうなることやら、なの。
歌を歌う老人(達)の映画って、ここんとこいろいろ出ているけど、なんかせつない。 「うた」が老人と世界を繋ぎ留めるすべてで幸せになれてよかったね、のように描かれてしまうところが。 もちろんそこに人生がありドラマがあるのはわかるんだけど、やっぱし安易だし、音楽と老人の両方をバカにしている、とか思ってしまう。
カルテットの4人はみんな当然のようにうまい(演技はね、歌はうたわない..)ので、それなりに楽しく見れるのだが、どちらかというと冒頭、静かに映しだされる他の老音楽家の姿とか佇まい、エンドロールで出てくる彼らの若い頃の勇姿がよくて、しんみり。

Tous les soleils (2011)

「リンさんの小さな子」とかの作家だとおもっていたフィリップ・クローデルの監督作品。 "The Last Kiss"のStefano Accorsiが主演だったので見る。 邦題は「心の陽だまり」...

フランス映画のはずなのにイタリア語を喋ったりしているので最初混乱するのだが、イタリアからフランスに来てそこの大学でバロック音楽を教えたり、病院で朗読のボランティアをしているアレッサンドロとその家族のはなし。
彼は妻を事故で失って、年頃の一人娘と、ベルルスコーニが失脚するまでイタリアになんか帰らない!と引きこもりの主夫をしている極左の兄ルイジ(いいなー。理想だなあ)と暮らしている。 彼は亡妻への思いを断ちきれないのと娘が心配なのとでひとりで不器用に暮らしているのだが、家族のふたりはそんな彼を逆に心配してて、そんなある日、ずっと朗読をしてあげていた老婆(Anouk Aimée!)が亡くなって、その娘と出会う。 彼女は生前の母とずっと喧嘩していて、亡くなったあとでそのことを後悔しているの。 で、最後は恋愛、というよりもひっそり幽霊ものになったりして、その具合もよいかんじだった。  Anouk Aiméeだよねえ、あの去りっぷり。

ロンドンで買ったものとか。

本屋(Foyles)では、お料理本コーナーで、Cereal Magazineの3号(2号がないー)とか、英国料理の本 - 写真がきれいでおいしそうでレシピもちゃんとしたふうのやつ、とか、John le Carréの新刊のサイン本とか、こないだ急逝したGame TheoryのScott Millerによる音楽本 - "Music: What Happened?" - こういうのがStaff Picksにあるんだからさすがねー とか。

英国料理本のネタ元のレストランはここ。 おいしそうなんですけど。次回行ってみよう。

http://www.thegilbertscott.co.uk/restaurant/

あと、こういうのも買った。

http://www.amazon.co.jp/Diary-Edward-Hamster-Miriam-Elia/dp/075222803X

レコード屋(Rough Trade East)では、こないだのRecord Store Dayの残りカスあさりがほとんどで、"Dazed and Confused"の20周年記念サントラとか、The Deftonesの96年のライブとか、ISISのファーストのアナログ復刻(黄色盤)とか、The Dream Syndicateの7inch x 2とか。 新譜だとHaim(だいすき)の10inch 2枚とか、Third Man Recordsから出てたThe Shinsのライブとか。 本だとWilko Johnsonの自伝 - 泣いちゃうと思うので、まだ封切ってない。

Rough Tradeの近所のビルの地下で中古盤セールやってる、て看板が出ていたので足を踏みいれてみたが、ものすごい奥のほうでこわくなったのでやめた。 英国の中古盤マーケットって、そういうとこがこわい。

出発の朝、赤ん坊誕生お祝い一色の新聞をいくつか買った。
The Guardian誌だけ、誕生の記事は控えめでIan Duryの記事とかも載っけていたりして、かっこいかった。

http://www.theguardian.com/artanddesign/2013/jul/22/ian-dury-art-show

ぜんぜん関係ないけど、Vini Reillyも還暦なのか…  おじいちゃんだねえ。

ほかになんかなかったか。

8.07.2013

[art] Vermeer and Music: The Art of Love and Leisure - など

ロンドンで見たそのたの展覧会などなどを纏めて書いておく。

Vermeer and Music: The Art of Love and Leisure

National Galleryでの有料の展示。£7。 20日の午後に見ました。

Vermeerの音楽をテーマにした絵が5点、同時代の音楽絵画、描かれた当時の楽器の展示と、その楽器を使ったライブもやっている(見た日にライブ演奏はなし)。

展示されていたVermeerの5点は、
"A Young Woman Standing at a Virginal" (1670)、 "A Young Woman Seated at a Virginal" (1670)、このふたつは元々Galleryの収蔵品、"The Guitar Player" (1672)、これはKenwood Houseから、"The Music Lesson" (1662)、これは王室コレクションから、"Girl Interrupted at her Music" (1661)、これはNYのFrick Collectionから。

この展示のメインヴィジュアルでもある"The Guitar Player" : 当時としては新しい楽器だったGuitarをかっこよく弾く弾く娘さんの、Vermeerにしては動きのある絵なのだが、そのままGuitar Magazineの表紙になりそうな構図が17世紀に既にあったとか、構図と言えば"The Music Lesson"のそれが、端正なようでいて見れば見るほど奥に食いこんでいって、あのテーブルの裏には頭を割られたコントラバス奏者が倒れているにちがいないとか、でもなんといってもすごいのは"Girl Interrupted at her Music"のあの少しむっとした女の子の表情だよね。

http://www.nationalgallery.org.uk/whats-on/exhibitions/vermeer-and-music

Laura Knight Portraits

Vermeerに続けてNational Portrait Galleryで見ました。Laura Knight (1877 –1970) は英国の肖像画家で、バレエダンサーとかジプシーとか、幅広くいろんな肖像を描いた。
"War"と題された、戦時下の工場で働く女工さんとかを描いた作品群のコーナーで、身動きもせずに立ったままずーっと絵を見つめているおばあさんとか、ふたり向い合ってずっと楽しそうに話しこんでいるおばあさんとか、そちらのほうが印象に残りました。 英国の女性も強いよねえ。

http://www.npg.org.uk/whatson/laura-knight-portraits/exhibition.php

Sebastião Salgado: Genesis

21日、V&Aの"David Bowie Is"のあと、隣の自然史博物館でみました。
そんなに興味あるもんでもなかったが、みんな必見とかゆってるし。
世界各地のいろんな雄大な自然とか動物とか原住民とかの写真、「起源」とか「母なる」とか「悠久の」とかそういう形容でもって目前に迫ってきたり語りかけてきたりする地球上の自然ブツあれとかこれとか。 見たことがない風景がどっさり、でもそれがどうしたってんだよ。でしたわ。
TASCHENから写真集だすような写真家って、なんか信用してないのよね。

http://www.nhm.ac.uk//visit-us/whats-on/temporary-exhibitions/salgado-genesis/index.html

Extinction: Not the End of the World?

同じく自然史博物館での展示。 「起源」を見たあとには「消滅」もな。
すっとぼけた亀さんが「絶滅 … 世界の終りじゃないの?」て言うのにつられて入ってみました。 映画とかでは世界の終りブームだし。
乱獲、迫害、自然災害、自然淘汰、恐竜から最近の鳥動物まで、絶滅して地球から消えていった、ほっておいたら消えてしまいそうな、いろんな、変てこな動物たちの剥製とデータとその原因分けと。
決して明るいテーマではないが、ものすごく暗いわけでもない。 ドードーを絶滅させた人類のバカには、そりゃあたまにくるけど。 あと、Giant Clamのでっかさにびっくり。どんだけダシがでるのか。
おみあげ売り場で、マンモスのAnimatrixを売ってた。 £7000。動いてた。

http://www.nhm.ac.uk/visit-us/whats-on/temporary-exhibitions/extinction/index.html

Lowry and the Painting of Modern Life

自然史博物館のあと、Rough Tradeでアナログいっぱい買って、Fish & ChipsとJellied eels食べて(ほれ、土用の丑だったし)、Tate Britainに行って見ました。

英国の画家Laurence Stephen Lowry (1887-1976) の回顧。見るからに英国、な風景、色彩、人々、そしてModern Life。 それはやっぱり英国で、例えばほぼ同時代を生きた米国のEdward Hopper (1882-1967)の絵とは当然のようにいろんなところが随分ちがう。けどぽつんとそこに置かれたバランスのわるい閉塞感に同じような感触を抱くのは気のせいかしら。
工場に向かう人々と工場からおうちに帰る人々、それぞれの絵で人々はおなじように前のめりに俯いている。
晩年の、人々がいなくなった荒涼とした風景画がなんか迫ってくるのだった。

http://www.tate.org.uk/whats-on/tate-britain/exhibition/lowry-and-painting-modern-life

Patrick Caulfield / Gary Hume

どっちもTate Britainで有料の展示で、でも同じようなふうに隣あっていた。
Patrick Caulfield (1936-2005)は、抽象になる少し手前で止まった具象・形象画でシンプルなフォルムと鮮やかな色彩と、ところどころで突然リアルに緻密に変わる風景、これらのコラージュとダブと。

http://www.tate.org.uk/whats-on/tate-britain/exhibition/patrick-caulfield

Gary Hume (1962 - )はこれより少し若い世代のYBAで、こちらのほうがより抽象画ぽく、狙いすました色の重ね具合とその強さがくっきりと残る。

http://www.tate.org.uk/whats-on/tate-britain/exhibition/gary-hume

どちらの色も隅まで明るく暖かくぺったんこで、アメリカ西海岸のような明るさがあるようで、でもこの丸っこさはやっぱり英国の、ヨーロッパのそれなのだった。

Simon Starling Phantom Ride

Tateの2階のだだっ広いホールをほぼ真っ暗にして、幽霊映像と幽霊音響をごぉーっがんがん流しているインスタレーションで、なかなかかっこよいのだが何しろ暗いし急いでいたので横目で通り過ぎた程度。
もうちょっとちゃんと見ればよかった、と後でおもった。

http://www.tate.org.uk/whats-on/tate-britain/exhibition/simon-starling

Tate Britainの館内は工事中で、冷房が一部止まっているのかあっつくて外に出て、いつもだとここで船に乗って川を下ってTate Modernに向かうのだが、既にへろへろで、この状態で船なんかにのったら干物になってしまう気がしたのでTaxiでSomerset Houseに向かって3つ見た。

Somerset Houseは中庭で夏のライブやってて、この日の晩はBasement Jaxxで、夏だもんなーいいなー、だったがこんなのひとりで行ってもしょうがないので諦める。

Miles Aldridge: I Only Want You to Love Me

セレブ系ファッション・フォトグラファーの展示で、つんつんした原色の世界の女の子が"I Only Want You to Love Me"てこっちに向かって睨んでくる写真群。

http://www.somersethouse.org.uk/visual-arts/miles-aldridge-i-only-want-you-to-love-me

elBulli: Ferran Adrià and The Art of Food

Miles Aldridgeの隣でやってた展示。エル・ブリとフェラン・アドリアのお料理の世界。入り口にフレンチブルのキュートな置物があって、いろんな食材に調味料、調理パーツとかレシピとか器具とか年代順に、彼の料理観世界観の、その秘密ぜんぶ。風呂敷の拡げかたとしては料理職人の、というよりは化学者のそれで、タネもシカケもありませぬ、で、そんなふうな、どこにもない食感/触感を求める彼の探求が、結果的にArtとしか言いようがないカラフルで楽しいビジュアルとして迫ってくるおもしろさ。でもこれらを供するレストランはもうなくて、彼もこれらを再現するつもりはないだろう。

近い将来、彼のレシピを忠実に再現するカヴァーレストランがどこかにできるのかしら。
でもなんとなくあたんない気がした。

http://www.somersethouse.org.uk/visual-arts/elbulli-ferran-adria-and-the-art-of-food


Blumenfeld Studio: New York, 1941–1960

Somerset Houseの最初のふたつは有料だったがこの展示は無料、でもこれが一番すばらしかった。

ベルリン生まれのJewishで、1941年にアメリカに渡り、222 Central Park SouthにStudioを構えてHarper's BazaarやAmerican Vogueを中心に端正で切れ味あってかっこいい(かっこいいんだよねえ、しみじみ)写真を撮りまくり、69年に自殺に近いふうでローマで客死した。
会場では彼の撮影したフィルムとかも上映してて、それもかっこよいの。 溜息ばっかり。

http://www.somersethouse.org.uk/visual-arts/blumenfeld-studio


ふう。 書いている時間がぜんぜんないようー。

8.01.2013

[film] Despicable Me 2 (2013)

まだロンドンのおはなし。

22日の月曜日の晩、最後の晩なので時間がぜんぜんなくて、Harrodsの牡蠣カウンターで生牡蠣1ダースをずるずるかっこんだ後、Leicester Squareで見ました。
行ってみるとシアター周辺はレッドカーペットでブロックされてて、なにかとおもったら"Red2"のプレミアらしく、ということはあのハゲの後頭部はブルース・ウィルスだったのか。

レッドカーペットのせいで上映が10分くらい遅れていたが、とりあえず2Dでみる。
"1"のほうは飛行機で見て、大好きになって、"2"の最初の予告でMinionが「ばー ばー ばー ばーばーばばー ♪」てバーバラ・アンを合唱するのがたまんなくて何度も見て、日本でまた吹き替えのみでリリースされたらやだしな、ということで見にいった。

おもしろかったー。 いじょう。

今回はThe Anti-Villain Leagueのエージェント、Lucy(Kristen Wiig)が新キャラとして出てきてGruと対峙したりするものの、基本はほのぼのとした悪者退治、悪者なのに悪者退治、TVアニメなら30分で終わっちゃうようなお話し、4コマ漫画みたいなこまこましたオチがとことこ続いていくばかりなのだが、なんかおかしくて楽しくてたまんないの。 
特にGruと3人娘とのやりとりなんか、客は大人ばかりなのにみんな出てくるたびに「きゅーん」とかうなってばかりだった。

あとはMinionがほんとに好きになりつつあるかも。
あいつらって、躁状態のにょろにょろだよね。

Kristen WiigのLucyはKristen Wiigそのままだったのでおもしろかった。
映画のなかでLucyがGruに渡す電話番号をCallすると彼女の留守電メッセージを聞けるの。
かけてみた。 たのしー。

Pharrell Williamsの音楽も駄菓子ですてきでさあー。

で、映画がおわって外に出たら、Prince George of Cambridgeが世の中デビューしていた、と。