11.30.2020

[film] Born to Be (2019)

22日、日曜日の晩、Film ForumのVirtualで見ました。ドキュメンタリー。

NY、マンハッタンの北の方にある病院Mount Sinai Hospitalで2016年に設営されたMount Sinai Center for Transgender Medicine and Surgeryにやってくる患者たちと医師Dr. Jess Tingの奮闘を描く。

NYはトランスジェンダーの手術やケアに保険適用をできるようにした9番目の州で、それに伴いMount Sinaiは専用のセンターを立ちあげて、それまで形成外科の医師だったDr. Jess Tingは新たな領域に挑戦すべくここの最初の専任としてやってきた。

性同一性障害のことは、10月に見た仏のドキュメンタリー”Petite Fille” (2020) – 英語題”Little Girl” で7歳の少女(と家族)の生々しく痛ましい苦悶の記録を見たし、自身の生まれてきた性をもう一方のに替えるというのが本人はもちろん周囲の家族も含めてどれくらい大変なことか、それなりに理解しているつもりだった。でも、このドキュメンタリーで実際に5人のケースを見てみると、まだ自分はぜんぜんわかっていなかったかも、と改めて思った。

年齢も性別も境遇もそれぞれ異なる患者の人達に共通しているのは、とにかくこの手術をずっと切望していた、自分が生まれてからここに来るまでにどれだけ理不尽に悩み苦しめられ自殺を考え(実行し)、闇と絶望の生きていない状態の中にあったか、それをいよいよ終わらせることができる、どんなにこの日を待ったことか(ああ神さま)、と誰もが強く語り、施術前に家族やパートナーとお祈りの涙を流し、終わるとそれが歓喜の涙に変わる。その様子 – 人が医学の力で生き返る、再生する(Born to Be)その様を目の前で見るって - 難病とか重大事故のは別として – そんなにあることではないかも。

それを可能にするDr. Jess Tingがなんかよい人で、超絶技巧をもつカリスマ医師、みたいな雰囲気はぜんぜんない、朴訥なおじさんふうで、本当はジュリアード音楽院からコントラバス奏者になるつもりだったところから転向したというキャリアも含めて、患者や医療チームとのやりとりがとても素敵で。

でもそんな彼の治療と施術を求めて今は2年超えの待ち行列ができていて、スタッフの数も倍に増やしているのだが追いつかないって。ここだけの現象かも知れないけど、これだけの人々が待っている = 苦しんでいる、という事実は知っておいた方がよい。見た目の外見では決して判断されないが故の苦しみ、を想い測るのは難しい。本人や家族や社会の努力でどうにかできる部分もあるが、やはりそれだけではぜんぜん足らないのだと。

ここに登場する5人の患者は境遇もいろいろで、50歳を超えるアフリカン・アメリカンの男性→女性になるCashmereさんは街角に立つSex Workerだった過去を振り返りつつみんな死んでしまった.. と言うし、同様に男性のトップモデルだったMahoganyさんは女性になることを決意した途端にすべてのキャリアと収入を失ってしまった、と言うし、暖かい家族に支援されて転換後に白人女性のモデルとして活躍を始めたGarnetさんは、女性になった途端に思いもしなかった方角から覆い被さってきた社会のいろんな壁や圧に耐えられなくなって自殺未遂を図ってしまうし、トランスジェンダーに関しては過去の陰惨な歴史も含めて継続的な議論と確認と救済が必要で、それは彼らというより我々 – 健常者と呼ばれる – の側のことなのだ、って。少なくともトランスもゲイも見えないもの(or お笑い見世物)としてごまかして存在しないものにしてしまうような社会にするのは止めないと。(→J. K. Rowling、ほんとがっかりだわ)

あと、Dr. Jess Tingがずっと取り組んでいるvaginoplastiesやphalloplastiesについて(まずは辞書をひいてね)も紹介されて、言葉では説明されるのだがここの映像には出てこないので想像するしかない。でも患者みんながわーお! とか言ってびっくりして笑ったりしているのでどんななのかなあ、って。

で、そういうのも含めて勇敢に戦っている彼らを見るのって悪くないの。

あと、こんなふうに性別の属性を変える重さ大変さと比べたら結婚後の姓を変えずにそのままにしておくことなんて、屁でもないだろうに。ここに拘る連中の不気味さ(拠って立つところの不明瞭な気持ち悪さ)ってほんとなんなのかしら?


11月があー。 もうなにもかもどうしようもないけど、一応いっておく。

[film] 山中傳奇 (1979)

21日、土曜日の昼、米国のMUBIで見ました。192分。英語題は”Legend of the Mountain”。
“A Touch of Zen” (1971) - 『俠女』のKing Hu(胡金銓)が台湾で撮った作品。

11世紀、宋の時代。学僧のHo (Shih Chun)は科挙に落ちてお金もなくなったので、不思議な力を持つとされる経典の写経の依頼を受けることにして、それを仕上げる場所として山奥にある軍人のMr. Tsui (Tung Lam)のお城を訪ねる。着くなり宴席でもてなされてMr. Tsuiはお付きの家政婦としてMadam Chuang (Shu Tien)とその娘だというCloud (Sylvia Chang)を紹介されて、酔っ払って落ちて翌朝目が覚めるとCloudが側にいて、昨晩あなたはわたしにあんなことをした上に結婚すると誓ったではないか、とかいうのであんま覚えがないけど結婚することにする。

そのうちどこから怪しげなラマ僧 (Ming-Tsai Wu)が現れると突然Cloudとどんどこ太鼓合戦を仕掛けてきてラマ僧は退散して、なんだろうなと思っていると今度はMelody (Hsu Feng)という別の娘が現れてHoを守りますとか言って、Cloudと戦いを繰り広げて、そこに再びラマ僧も加わって天地が裂けんばかりのやかましいバトルが。彼らはHoが持ってきて写経をしているお経を巡って戦っているらしい。

かつての戦国時代の抗争で殺されて悪霊になった者たちが不思議の経典のパワーを求めて争奪戦をする、というお話で、進んでいくうちに善玉悪玉が変幻自在にころころひっくり返るのでおもしろいのだが、Hoが居眠りしたり酔っ払ったりしないで真面目にとっとと写経していればあそこまでの大騒ぎにはならなかったのに、って鈍い主人公にちょっといらいらした。彼を最初に殺しちゃえばそれで済んでしまったのではないか、とか。 その反対側で悪霊になってしまった人たちの因果というのは、ちょっとかわいそうで、彼らはあの後どこに行ったのだろうね。

派手なカンフーの組み手はあまりなくて、メインの戦いがどんどこ太鼓合戦なのは面白くて、その勝ち負けを決めるのはアタックなのかピッチなのか手数なのか音量なのか、風神雷神の対決みたいなやつなのかしら、とか。

なんだか『聊斎志異』に出てくる話のようだった。


空山靈雨 (1979)

22日、日曜日の昼、Film ForumのVirtualで見ました。英語題は”Raining in the Mountain”。120分。
これもKing Huの、↑と同様1979年に撮っているMountainもので、演じる俳優さんも結構重なっている。撮ったのはこちらの方が先みたい。タイトルに”Raining”ってあるけど、雨が降るシーンはないの。

明の時代の中国、お金持ちのWen (Sun Yueh)とその妻White Fox (Hsu Feng) とGold Lock (Ming-Tsai Wu) の変なトリオが山奥にあるでっかい僧院を訪ねて、院に着くなりWhite FoxとGold Lockのふたりは服を着替えて寺の宝物殿にあるお経を盗もうとしていて、寺の僧のなかにはそれを手引きする奴がいて、今度は別の男二人組が現れて、あれは盗賊として名高いWhite Foxだ、と騒ぐのだが、どうやら彼らも同じお経を盗もうとしているらしい。

それと並行して、高齢のため引退する僧院の大僧正の後継を誰にするのかを3人の候補の中から選んでいく話しに、盗人(でも無実の罪)としてそこに連れてこられた実直で誠実なChiu Ming (Lin Tung)の目覚めと成長の話しが進んでいく。 つまりは絶対権力の座とその鍵となる法典を狙うものたちの腹黒だったり高潔だったりする駆け引きと、継承後の僧院の運営みたいなところまで、それらを通して、人の、法の道とは、というのを仏教的に説いているみたいなかんじ。「雨」はこれらが等しく降り注ぐイメージかしら?

話しとしては人物がいろいろ絡み合って乱高下するし、説話ぽいところもあって↑の『山中傳奇』よりはおもしろいく現代に通じるところもあると思うのだが、アクションは最後の追っかけっこで少し出てくるくらい。 この世の者ではない連中がひたすら人の世に干渉してくる『山中傳奇』に対して、この『空山靈雨』はどこまでもリアルに下界の話しで、その対照を狙った、ということはあるのだろうか。

あと、ただのコピー(写経)を巡ってあれだけの人々が大騒ぎしたその中味についてはどちらもまったく触れられていない。どんなありがたいことが書かれていたのか誰かまとめサイトで公開(→ 大喜利 → 天罰)してほしい。

11.29.2020

[film] Le rayon vert (1986)

19日、木曜日の晩、MUBIで見ました。

インターナショナルの英語題は”The Green Ray”、USAのタイトルは”Summer” - 「四季の物語」のラインではない - 邦題は『緑の光線』。86年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子を受賞している。
なんとなく見始めて続いていたÉric Rohmerの喜劇と箴言シリーズの5つめで、ここに感想を書くのはこれがラスト。

日本の女性誌とかでは『海辺のポーリーヌ』とこれが対で紹介されることが多かった気がして、これって夏でヴァケーションの海辺で恋を探す - そうしながら自分はこれでいいのかとか自問する映画、という枠なのだろうか。でもそれなら男子にだって起こることだし、なんでいっつも女性の特性みたいに - 特に「OLの〜」 とか - 描かれてしまうのか、というのは割と思った。

今回の箴言はランボーの"Ah! que le temps vienne où les cœurs s'éprennent" - 「ああ心が恋に落ちるときがきた」。恋に落ちるのは身体ではなく心である、と。御意。

7月の終わりから8月の初めの数日間。夏休みに入る手前のパリで働くDelphine (Marie Rivière)は一緒に休暇を過ごす予定だったBFと別れたばかりで、ひとりでどこかに行くのもひとりでパリに残るのも嫌なのでどうしようって、友人のグループに入って会話してみたり、ひとりでアルプスに旅してはすぐ戻ったり、子連れの姉家族からは一緒にアイルランドに行こう、と誘われるのだがどれも違う気がする。行った先で調達すればいいじゃん、とも思うが自分はそういうタイプではないの、って街角で『ブヴァールとペキュシェ』を読んだりしながら泣いたり泣きそうになったり。

でも思い切って出かけた浜辺でスウェーデンから来たという女性と少し仲良くなり、カフェで奔放な彼女が声をかけた男ふたりと同席しても、ごく普通の会話についていけない - ついていきたくない - ついていけないのではなくついていきたくないのだ、とか思っていることが嫌になって、嫌になった自分を彼らの目前に晒しているのに我慢できなくなってそこを抜けだして道端に座り込んで泣いていると、そこにいた老人たちがジュール・ヴェルヌの小説『緑の光線』の話をしているのを聞いて、これだわ! って少しときめいたりする。Delphineって、道端に落ちているカードを見入ってしまったり、きっと雑誌の星占いにも一喜一憂するタイプなのではないか。

で、恋なんてぜんぶ諦めて帰りの駅の待合室で知り合った男とぽつぽつ話していると、こいつはあまり嫌なかんじがしないな、とか思い、もうじき日が沈むことに気づいたので、緑の光線だ! って海が見えるところにふたりで走っていくと..   

友人のアドバイスとかには一切耳を貸さず、自分ひとりで決めて実行して、人が触ってくる度に妄想を爆走させてその少し先で勝手に自爆して泣いて、人から聞いた言い伝えみたいなのを目撃したらご機嫌が治って..  見る人が見たらご苦労様の図かもしれないが、見る人が見たら他人事とは思えない。 こういう感覚を引き起こすのは他の喜劇と箴言シリーズの5つと比べるとこの作品だけで、複数の登場人物間の出来事を描くというよりも主人公Delphineの一人語りが前につんのめっていく、それによる彼女の状態の遷移を追う。 (他の5作の脚本はÉric Rohmer単独だが、この作品だけはMarie Rivièreとの共同で、即興が多いと)

この作品のDelphine - 沈む夕日を指差して隣の人の手を取って感激して泣いてる - を見て「恋をする勇気を貰えた」とか言っているひとは相当あれだと思うけど、こういう印象を与えてしまうのはそういう強い語りの構成になっているからで、16mmでの撮影も、素人っぽく被さる暗いJean-Louis Valéroの弦楽も、ひたすらプライベートな映画のように機能して、その機能の仕方が全体として喜劇っぽい、ということなのかしら。

最後に緑の光線が見えるところ、初めて劇場で見たときはあれ? いまのがそれ? くらいのかんじだったのだが、今回のはやたらくっきり「緑」していた気がする。これは自分が歳をとったことに関係あったりするのか? (しねーよ。ただのデジタル化だよ)


昨日からTVで”Last Christmas” (2019)のリピートが始まって、今回は結末がわかっているとは言え、会いたい人に会えなくなっている今の状態で見るとなかなかくるものがあった。

それから、クリスマスチャンネルを中心に”Love Actually” (2003)の垂れ流しは始まっていて、今シーズンすでに5回くらい見てて、画面を見て3秒でそれがどこの場面か言えるくらいになっている。 コロナ禍でもっとも推奨されるであろう愛の告白の仕方、もでてくるの。

11.28.2020

[film] Colectiv (2019)

21日、土曜日の晩、BFI Playerで見ました。

Dogwoofが配給するルーマニアを舞台にしたドキュメンタリー。欧米ほぼ同時公開のようで、そのままポリティカルスリラーになりそうな戦慄の事実がずらずら。いま必見のやつ。 英語題は”Collective”。

2015年10月、ブカレストのライブハウス”Collective”でメタルコアバンド - Goodbye to Gravity(洒落にならん)の演奏が終わったところで天井から火が出ていることが確認されて、バンドがこれは演出ではないぞ、と言った途端、あっという間に燃え広がって逃げまわる観客で大パニックに – このぐしゃぐしゃ地獄の映像も流れて、ものすごく怖いのだが、この後に続く恐怖に比べればー。

27名がその晩に亡くなり、37人が病院に運ばれた後の1ヶ月間で亡くなった。なぜ病院に入って1ヶ月後に? 病院側は受け入れ態勢も医療システムも万全で近隣のドイツ等に支援を求める必要はなし、と表明していたのになんで? ここに疑念をもったスポーツ紙の記者Catalin Tolontanとそのチームが探っていくと、製薬会社から病院に提供されている消毒薬が10%くらい希釈されていることがわかって、これが感染症を引き起こしたのではないか? と報道を連打するのだが、当然バックラッシュ - 病院を脅かして国民を不安に陥れたいのか – とか来るし、閣僚からはラボでの検査結果は問題なかったよ、とか言われてしまう。

ここまでで開始30分くらいなのでこの先どうするんだろ、と思っていると製薬会社から検査ラボや病院側にも金が流れていることが明らかにされて大騒ぎになって、保険庁のトップは辞任して暫定の人に変えられて、この暫定の若いトップが被害者側に立つ結構よい人で調査と改革に乗り出してくれるかな、という辺りで、焦点だった製薬会社のオーナーが突然自動車事故(自殺か他殺か)で亡くなり、取材陣にも脅迫が来たり、いろいろきな臭くなってくる。

この状況に追い打ちをかけるように病院側関係者の方から衝撃映像 - ベッドに横たわる患者の傷口に蛆虫 (?!) – が出てきて、これは相当深刻なのではないか、と更に大きな騒ぎになって..

ライブハウスの火災事故が政権を揺るがしつつ(そう簡単には揺るがないのだが)次々に燃え広がっていく様を生々しく描いて、そのどれも腐りきった事実(+どう見ても悪人顔の病院関係者)がすごいというかひどい。のだが、映画はこの事実そのものをわんわん暴きたてるのではなく、それを闇の向こうから引っ張りだしてくるために頭を抱えたりしながら地道に踏んばるジャーナリスト達、暫定で据えられた保険庁のトップの人、事故後の治療で指の殆どを失い肌を損傷した女性、などにフォーカスしてそれぞれの終わらない事後を追っていく。彼らが直接カメラに向かって語りかける場面はなく(F. Wiseman方式)、車の中や記者会見の場やPCの前で唸ったり沈黙したりする箇所がいっぱい出てくる。結果、あまり喋らない記者のCatalin Tolontanさんを中心とした刑事ドラマを見ているようなかんじになる。

恐らくチャウシェスク政権の頃から引き摺ってきた腐敗とか膿が芋づるで出てきた、というのは簡単だけど、そうやって長いこと固められてきた嘘の連鎖の中に食いこむのは容易ではないだろうな、っていうのと、そうやって暴いたとしても長年その仕組みの中でやってきた人々の意識も含めて変えていくのはもっと難しいよね、っていうのと。前者はジャーナリズムの、後者は政治(選挙)のやることとしてそれなりの普遍性と説得力をもって迫ってくる。というのと、最後に映し出される犠牲者たち - 遺族も含めた – の姿と、彼らを含めたCollectiveが必要なのだと。はっきりと言わないけどそういうことを言おうとしているのだと思った。

あと、その反対側に悪のCollectiveっていうのも当然あって、病院、製薬、保険界隈で絡みあうのが一番厄介で恐ろしい。 こんなふうに見えない病院の奥で人が殺されて消えてしまうから。にっぽんでよくある利権、てやつね。

ジャーナリズムにも政治家にも期待できないししないし、ていうのは簡単だしほぼそうなのかも知れないけど、犠牲者たちに寄り添うことはできるし、我々はもう既に十分犠牲者にされてしまっているのかもしれない、という地点からジャーナリズムはどうあるべきものなのか、って改めて考えてみるよい題材かも。

11.27.2020

[film] Wojnarowicz (2020)

16日、月曜日の晩、DOC NYCで見ました。

オリジナルタイトルは”Wojnarowicz: F--k You F-ggot F—ker” (2020)で、4月のTribeca Film Festivalで上映される予定だったが延期されて、ここでの上映がワールドプレミアとなった。

1992年に37歳で亡くなったアーティスト、アクティビスト、思索家 - David Wojnarowiczの評伝ドキュメンタリー。活動が多岐に渡って、同時代のKeith HaringやJean-Michel BasquiatやRobert Mapplethorpeのような解り易い軸がなかったせいか余り知られてこなかったが、この映画の最後にも出てくる2018年のWhitneyでの回顧展 – “David Wojnarowicz: History Keeps Me Awake at Night”で彼がやってきたことが現代とのリンクも含めて再発見された。彼が遺した絵画、日記、メモ、フィルム、オブジェ、留守電のメッセージまで収集できる限りの「作品」を彼の作品さながらにMixしてコラージュして、彼の痛みと怒り、彼はそれらを抱えてどう戦っていったのかを描く。

NJのDVまみれの壊れた家庭で育ち、母は子供達を連れてNYのヘルズキッチンに移って、でも家には寄り付かずにストリートで(おそらく)男娼のようなことをしながら落書きや絵を描き始めて、ストリートアートやアンダーグラウンドの盛りあがりと共に立ちあがりつつあったNYダウンタウンのギャラリー界隈で注目されるようになって、それをうまく使ったり使われたりしながら、注目されるようになっていく。

他方で当時の画壇の投機的な先物買いのやらしい動きも察知していて、打ち棄てられていた西の埠頭で大規模な展示を組織したり、ホモフォビアな落書き(この映画の副題)をそのまま作品にしたり、どこまでもマイナーでアングラで卑猥で猥雑であろうと – それを理知的かつ詩的に展開して周囲を驚かせたり、留まることを知らない変幻自在・神出鬼没のクィアであろうとした。

当時のアーティスト - Kiki SmithやNan GoldinやRichard Kernとの交流の他、特に写真家のPeter Hujarとの出会いは大きかった。 彼については2018年にThe Morgan Library & Museumで“Peter Hujar: Speed of Life“という回顧展があって、自分はその翌年、パリのJeu de Paumeに来た同展示を見た。Susan SontagやFran Lebowitzのポートレート写真は彼のがベストだと思う。 尚、Fran Lebowitzさんはこの映画でもコメンテイターとして出てきてPeterとDavidの関係について語っている。Morganのサイトには展示の際に行われたイベント“An Evening with Fran Lebowitz: On Peter Hujar“のトークの動画があるので見てほしい。Peterの運転手をしていたというFran Lebowitzさんが語る70年代のNY、Peterと一緒にTennessee WilliamsやDolly Partonと会った話、NYの名画座のこと、この映画にも出てくるPeterのお葬式のこと、等々おもしろいの。

やがて87年、父のように慕っていたPeterがAIDSで闘病の末亡くなると、彼は矛先を明確にAIDS治療や対策に乗りださなかった当時のレーガン政権やFDAの方に向け、自身のアートやメッセージ、行動をそちらの方に振り向けていく。のだが、そのうち彼自身がAIDSであることが判明して..

“History keeps me awake at night” – という夜の彷徨いが彼の活動の発火点であり、”Awake“という状態がもたらす災厄との戦いの記録だった気がするのと、彼が今ここで注目されているのはレーガンの直系であるトランプに対するLGBTQからの、マイノリティからの改めて(何百回でも続く)のカウンターでありナイフ投げなのだと思う。そうすると当時のAIDSに対する無策といまのCovid-19に対する無策が、(時代は少し後ろだけど)ロサンゼルス暴動とBLMが対照して見えてならない。
夜くらいは安心して眠りたい。でも”Silence = Death”なのだ、と。

ていうののB面としては、改めて当時 - 70年代末~80年代初のNYのダウンタウンシーンの層の厚さを。この映画の音楽は彼が初期にメンバーだった3 Teens Kill 4のが使われているのだが、つんのめって痙攣していんちきくさくて、「正統」ぽい何かからどこまでも遠ざかろうとする、遠ざかった果てに崖から落ちたってしるもんか、の無謀さと適当さで突っ走って飄々としている。そういうかっこよさ。

こないだ出たOlivia Laingさんの本 - ”Funny Weather - Art in an Emergency”の表紙には彼の”Untitled (Face in Dirt)” (1992-93)が使われていて、2016年に書かれたDavid Wojnarowicz論が収録されている。簡潔にまとめられた論考なので読んでみて。


政府から来週の、ロックダウン明け以降の計画が提示されて、地域別でやかましい校則みたいな匂いがして、あんま守られないかんじたっぷりなのだが、そこまでしてクリスマスをやりたいのか、ってその熱にちょっと感動した。でも自治体が出す計画ってふつうこういうもんよね。

わたしの半分くらいはアメリカの方を向いて考えたり動いたりしているので、サンクスギビングに入るとお休みモードになる。のでほぼ仕事しなかった。かまうもんか。

11.26.2020

[film] Swallow (2019)

20日、金曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。日本でももうじき公開される? 
エグゼクティブ・プロデューサーにJoe Wrightの名前がある。

監督/原作のCarlo Mirabella-Davisにとってはこれが最初の長編となる。ジャンルとしてはホラーになるのかも知れないが、ものすごく面白くて痛快で、ところどころ笑えたりもする。

どこかの都市の郊外の川に面した見晴らしのよいでっかいモダンな邸宅にHunter (Haley Bennett)とRichie (Austin Stowell)の新婚夫婦が暮らしていて、Richieは父から会社の経営を引き継いで、やがては財産も貰えるはずで、さらにHunterは妊娠していることもわかったところで、総合的に俯瞰的に見たところでは誰もが羨むとっても幸せな夫婦であり家庭であるはず。

はずなのだが、夫が会社に出かけてからのHunterはなんかもやもやと不満を抱えてつまんなそうで、自分でもどこがどうしてそうなっているのかを表に出すことはできなくて、携帯のゲームなんかを退屈そうにしていて、でもある日リビングに飾ってある置物をじーっと見つめると、そのうちのビー玉みたいのをえいって飲みこんでしまう。飲みこんで1日くらい経つとそれは体外に出てくるので、それを拾って洗って元のところに戻して落ち着く。そうすると今度は尖ったピンがついた画鋲のでっかいのを少し苦労して飲みこんでみようとして、吐きそうになりながらも飲み込むことができたので嬉しそうで、ただこれが出てきたときは当然流血して、でもやはり満たされる何かはあるらしい。

それと並行して申し分のないご家庭 – 少なくともRichieは幸せそう – に見えたふたりの間には、Hunterからすれば目に見えないいろんな圧や縛りにまみれているらしいことがわかってくる。この辺の描き方が絶妙で、DVがあるわけではないのだが、妻としてこれくらいはやっていて当然、こういうことは喜んで受けとめて当然、この状態で不満申すなんてもってのほか、って周囲から透明な壁を築かれて壊すことも越えることもできない。それらを全て集約した出来事としてやってきたのが妊娠で、自分の身体に起こっていることなのに自分ではどうすることもできない。自由がほしい、とまでは言わないが、自分の身体くらい自分でコントロールできるようになりたい。

自分の外にある何かとの間でそれを可能にするのがSwallow(のみこみ)という行為で、過食や拒食、自傷なんかは周囲に心配かけてしまうし他人になんか突っかかるのはやばいけど、これなら気付かれることもないし、消化されずに自分の体を通過してきたオブジェはちゃんと手元に戻ってきてくれる(愛おしい)。ここまでだったら、John Waters先生あたりが作りそうなホームコメディになりそうな。

だがそのうち妊婦の定期健診でスキャンをしたら赤ん坊の横になんかあるけど..  ってなって慌てて開腹したらとんでもないのがでるわでるわで、家族(除. Hunter)は驚愕して頭を抱えて、とにかく彼女には使用人(♂)をつけて飲みこめそうなものを全て片付けて24時間行動を監視させて、セラピストもつける。家族(除. Hunter)にとっては、生まれてくる赤子を人質に取られているようなものなのでとにかく必死で、そんななかHunterはセラピストに自分の出生について打ち明けて..

彼女の挙動は医学的にはPica – 異食症 – と呼ばれる症状なのだが、その角度からの言及はしない。閉塞された状況に置かれた主婦が徐々に飲みこみモンスターに変貌していく、というホラー、というよりは彼女をそこに追いこんでいったRichieとその父母、それを朗らかに取り囲むソサエティのありようの方がよっぽど怖いわ、っていうのを前面にもってきて、最後に描かれるエピソードでは更にその先に踏みこんで男性が支配する社会にダイレクトに切りこもうとする。

昨年のTribeca Film FestivalでBest Actressを受賞したHunter役Haley Bennettさんのつーんとしたつまんなそうな顔(日本だとモトーラ世理奈さんかしら)が素敵で、その顔が彼女の暮らす邸宅のインテリアのプラスティックなかんじによくはまる。 あんなところにいたら小物とか土とか飲み込みたくなるのもなんとなく。


少しづつ見ているSeason 4の”The Crown”はEpisode 8まできた。おもしろいので毎日Recapを書きたいくらいなのだが、EP8で、当時の自分がいかにサッチャーを嫌っていたのか、その理由も含めてありありと思い出した。 とにかく「国を強くする」っていう考え方が嫌だったんだわ。いまも。

11.25.2020

[film] In My Own Time: A Portrait of Karen Dalton (2020)

15日、土曜日の午後にDOC NYCで見ました。ここでワールドプレミアされたもの。
エクゼクティブ・プロデューサーはWim Wenders。

1993年に55歳で亡くなったアメリカのSSW, Karen Daltonの評伝ドキュメンタリー。Nick Cave氏がコメントで出てきて、彼女の歌詞やメモを朗読するのはAngel Olsenさん。

テキサスに生まれてオクラホマに育ち、15歳で最初の子供ができて離婚して17歳で次の子供ができて離婚して、21歳くらいでNYに出てきてGreenwich Villageのフォークシーンでミューズとなり、Bob DylanやTim Hardinと交流して、Dylanからは"My favorite singer...was Karen Dalton. Karen had a voice like Billie Holiday and played guitar like Jimmy Reed”と讃えられて、69年と71年にアルバムをリリースするが、大きくブレークするところまでは行かず、いろいろ抱えたまま田舎に引っ込んでしまう。

当時のいろんな問題 – 成功や家族や健康やドラッグのこと - があってなにをやってもうまく運ばなかったNYから去って以降は暗いことの連続なのだが、いろんなアーカイブに残された映像やライブも含めたレコーディング - 深くて強いその声、12弦のギターが音を散らせば散らすほど、石のように籠って古いラジオの奥から鳴っているような、痛みで固化した吐息の痼りとかカサブタが鳴っているようなその声。 最初の一声から囚われて抜けられない夢 – 抜けたくない夢のように残る、その歌声と歌う姿を確認できるだけでも十分見る価値はある。100年くらい前の人 - でもぜったいそこにいた人 - を見ているかんじ。

わたしが彼女を知ったのは2006年に再リリースされた2ndの”In My Own Time”から – 当時Other Musicが大プッシュしていた - で、おそらく当時の – 第二次ブッシュ政権の澱んだ出口なしの空気にうまくはまっていたのではないかと思うのだが、そんなことはどうでもいいくらいに彼女のフォークというよりブルーズのように地面を這いながら留まって強引に”My Own Time”を積みあげてしまうその声の肌理は、いまも、いつでも必要とされている。

映画では彼女の残した手書きのメモや歌詞もいっぱい出てくるのだが、2018年(?だったか)の火事でそれらの資料はほぼ焼失してしまったと.. 


Billie (2019)

これも15日、土曜日の晩、CurzonのHome Cinemaで見ました。
1959年に44歳で亡くなったBillie Holidayの評伝ドキュメンタリー。Karen Daltonのを見た後には丁度よいかも、と思って。

2005年に出た彼女の評伝本” With Billie” (by Julia Blackburn)でも参照されていたジャーナリスト - Linda Lipnack Kuehlが79年に亡くなる(自殺とされている)直前迄録りためていたBillieの周りにいた関係者 - Count BasieとかCharles Mingusとか - への膨大な量のインタビューの録音テープを元に彼女の人生を再構成していく。録音された音楽や映画以外だと、関係者の語りくらいしか彼女の生が現れる場所はないのだろうな、というくらいに虐待、搾取、嫌がらせ、ドラッグ、セックス、金、ギャング、などなどが入り乱れる暗黒の芸能界のオンパレードで、でもだからといって彼女の声や歌がああなっていったのはそのせい、とするのも彼女が聖人だったから、とするのも短絡で、映画もその辺は配慮している。いろんな人の声が聞こえてきても、彼女の歌が始まると全てが沈黙して静止してしまう不思議。

プロデューサーJohn Hammondとの出会いが彼女をスターにしたことは確かだが、”Strange Fruit”のあの特異な世界 – 歌声がひとつの恐ろしい世界を、そこに潜む痛みや哀しみをむき出しにしてしまう – なんであんなことが彼女にできてしまったのかは謎で、でもあの声が伝えようとした世界は今も残っていて、そこに謎はない(なんで止まないで続いているのか、というのはあるね)。どれだけの死者の声を彼女は抱きしめてかの地に運んだのだろうか。

映画では元となったインタビューを録ったKuehlの死にも不審なところがあるとして問題を投げかけている(インタビューで語られた内容に知られたらやばい何かがあったのか、とか)。けど、こちらは軽く触れる程度で、Billie Holidayの生涯と音楽を紹介することに徹していて、よいの。

Karen Daltonの声は彼岸で鳴っているように聞こえるのだが、Bille Holidayの声はいつも耳元で鳴っているように聞こえる。それって痛みを近くに感じるか遠くに感じるかの違いだけで、どこかを怪我したり流血したりしていることは確かで、とにかくそれで自分はまだ死んでいないことがわかる。


夕方ピカデリーの方に行ってみたら、裏道みたいなとこでみんなわいわい立って飲んで楽しんでた。そんなもんよね。

11.24.2020

[film] Coded Bias (2020)

17日、火曜日の晩、MetrographのVirtualで見たドキュメンタリー。

身も凍るような真実を明らかにしてどうだ! っていうより薄っすらわかっていたことを事実の積み上げと聞き取りから表に出して(政府まで行って)、この明らかにやばい事実がどんなふうに我々の生活に影響するのかをクリアに提示する。 AIやDXが暮らしや経済をより良くするって本当なのか、なにがやばくてどこに注意しなければいけないのか、等々。

MITにいて、後程Algorithmic Justice Leagueを立ち上げるJoy Buolamwiniさんが主人公で、アフリカン・アメリカンの彼女はPCの顔認証で自分の顔がたまに認識されないことがある一方、白いマスクを被るとすんなり認識されることに気付く。なんでだろ? と顔認識をやっている各社に人種(カラー)別男女別の顔認証の認識率のデータを請求してみたら、どの会社のも認識率にバラつきがあり、一番高いのが白人男性のそれで、一番低いのがカラードの女性のそれだった、と。どうしてかというと、顔認証のアルゴリズム(コード)が白人男性のそれを中心として組まれている – そういうバイアスが掛けられているからである、と。

映画はJoyさんだけでなく“Artificial Unintelligence: How Computers Misunderstand the World”を書いたMeredith Broussardさんや“Weapons of Math Destruction”を書いたCathy O'Neilさんの協力を得ながら- こうして次々に登場する女性たちの活躍がすばらしい – この事実を暴いて、これがどういう社会をもたらすのか、その危険性とここまでの経緯を示す。そもそもAIの父とか言われるダートマスの10人って全員男性だし、AIリサーチに従事する女性の割合は14%以下って、女性の目が全く入らない男性中心のやり方考え方で組みあげられてきた仕掛けである、ということは頭に入れておいた方がいい。(いや、今の社会の成り立ちからしてそうじゃん、ていうのはそうだけど、そんなこと言っても始まらない)

この仕組みがもたらす悪い例として突然顔認証のロックシステムが導入されて棟に入れなくなる住民が続出したブルックリンのアパートとか、これまで何度もいろんな賞を受賞してきたヒューストンの小学校の教師のレーティングのスコアが突然悪くなったりとか、ロンドンでは街角の監視カメラで全く身に覚えのない人がシステムに引っ掛かって職務質問されたりとか。

いまのAIにはいろんなタイプがあるし、機械学習のアルゴリズムにもいろんなのがあるのだが、ここでは各論に入らずにアルゴリズムを積み重ねられたデータをベースに予測したりスコアリングしたり判断したりするためのロジック、として紹介していて、重ねられたデータが偏っていると精度は落ちるしその結果もぶれる。問題は入り口の仕組みがブラックボックス化された状態でPCカメラの顔認証から検索エンジンからクレジット・スコアリングから既にいろんなところに組み込まれて社会で活用されて(使うことを強いられて)しまっていること。いきなり問題が出てなんだこれ? って掘っていくとすみませんそれは仕様です、とか言われてその仕様ってなに? と更に掘ると開示できないアルゴリズムです、になっていたり。

この特性を使って国民を統制しているのがアメリカと並ぶAI大国である中国で、この国はAIによるモニタリング・スコアリングをする/していることを国民に明確に宣言して、この国でちゃんとした社会生活を送りたければ規範に従順なよいこになることだ – AIはぜんぶ見ているぞ、ってやってる。

アメリカや他の国は、当然そちらには行かずに市場原理に任せて推し進めようとした訳だが、上に書いたような問題が確認されて、これはシステミック・レイシズムを助長する可能性もあることだから巻き戻さないと、とJoyさんたちのような人達が動き始めたり、英国ではBig Brother Watch – 勿論オーウェルから来た名前 – といった人達が活動をしている。

でも監視カメラはテロの防止や犯人の特定に役立っているし、AIは仕事の改善や効率化に役立っているんじゃないの? 必要なんじゃないの? という側面は当然ある。問題は、アルゴリズムがどういう仮説やシナリオに基づいてデザインされたのか、それがどんな結果をもたらすものなのか何の測定も検証もされないまま気が付いたら社会のインフラやプラットフォームに組み入れられて稼働している、ということなの。あと、これらの仕組みはデジタル上にぜんぶあるので、悪いことをしようと思ったらデータも含めてコピー悪用とか改竄ができて、しらっと人を殺す基盤にもなりかねない。そのガードはどこまでできているのか、とか。

AIにおける倫理の問題 – 特にAIがしてはいけないことは何なのか? って大昔からSFではテーマになってきたことが目の前に現れてきている。映画の話題から少し離れるけど、アメリカと中国の間に挟まれたEUがなんで個人情報保護にあんなに過敏なのかというと、この点 - 自分のデータがどこでどう使われるべきか - を初めからクリアにしておかないと、こういうシステムを起点とした差別や分断が起こりうることを予見していたから。自分のデータは自分のもので、他者やシステムに勝手に使われるべきものではない。これだけアメリカのプラットフォームが席巻している状態では結局やられてしまうのかも知れないが、言うべきことは言うし守れるものは社会として、社会が守るよ、と。

にっぽんは...  お上が施しを与えるみたいに振りまくこの手のサービスを有難く頂戴する民、っていう土壌があって、その隣に印鑑とか戸籍とか恐竜みたいなのもいて、そこでのAIはアメリカ市場型でぶちあげて勝手に好き放題されて、問題がでると中国型に開き直る – それは排外主義と連動して隣組に並ぶ新たな恐怖ムラを形成するに決まっているし、もうできているのだと思うし。だから見通しはすごく暗い。デジタルの上で人権はどうあるべきか、守られるべきはなんなのか、の議論なしで - リアル社会ですら有形無形の圧やらバイアスまみれなのに、マイナとかデジタル庁とか、ちゃんちゃらおかしいわ(←おかしくない。まさに地獄)。

こういったことを視点も含めてとてもわかりやすく整理してくれる女性による女性のための映画だと思った。  いや、女性でなくたって勿論必見だよ。


アメリカの大統領選は、ようやく笑ってよい段階まできたのかしら? まだ油断できないのかしら?
この4年間、あれの顔を見て声を聞くことすら耐えられなかったので、CNNから遠ざかっていた。ブッシュの8年間以上にしんどいものがあった。 それがようやく終わってくれるのかー。(まだ冷凍庫から出てきたばかりで心の底から笑えてない..)

11.23.2020

[film] Pauline à la plage (1983)

11日、水曜日の晩、MUBIで見ました。

Éric Rohmerの喜劇と箴言シリーズの3つめ。英語題は”Pauline at the Beach”、邦題は『海辺のポーリーヌ』。 ロメールの名前が日本に大々的に入って来た最初の作品で、当時おしゃれな男女はみんな行くべし、みたいに紹介されていたので、ひねくれて自分が見たのはもう少し後になった。ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞している。
今回の箴言はクレティアン・ド・トロワの"Qui trop parole, il se mesfait" - “A wagging tongue bites itself" - 「言葉多き者は災いの元」 - そりゃそうだな、しかない。

ノルマンディの方の海辺の別荘にティーンのPauline (Amanda Langlet)といとこで年長のMarion (Arielle Dombasle)が車でやってきて滞在する。ふたりでこれからのバカンスの恋の展望や見通し、野望などについて語り、海辺にいくとMarionはウィンドサーフィンの先生をしているEx.のPierre (Pascal Greggory - わかーい)と再会し、Pierreの近くにいた中年ハゲのHenri (Féodor Atkine)と出会って、そのまま4人でディナーをしてまた恋愛について語りあって、更にカジノに踊りにいって、PierreはMarionとよりを戻そうとするのだが、結婚も含めて過去の失敗に慎重になっているMarionにはそう簡単には巻かれない。

翌日以降も未練たらたらMarionを追っかけるPierreと、大人のHenriに興味があるっぽいMarionと、女ならなんでもいいらしいHenriに、浜辺でPaulineを見初めた青年Sylvain (Simon de la Brosse)が加わって、浜辺とHenriの家とMarionの別荘を中心にくっついたり離れたり逃げたり隠れたり追っかけたり嘘ついたり、バケーションで夏だし海にいるんだから恋するしかないだろ、っていうぎらぎらした連中が輪になってダンスしていく中、Paulineはなんか違うんじゃないか、って思い始めて…

Éric Rohmerの監督作でタイトルに女性の名前が入っているのはそんなに多くなくて、これと、“Four Adventures of Reinette and Mirabelle” (1987)と“Claire's Knee” (1970)くらいではないかしら。(“Chloe in the Afternoon” (1972) は原題がちがうから外す)
で、これらはみんな恋を知る前の女の子(たち)に訳知り顔のやらしい大人のおっさん(たち)が近寄っていくような、見る人が見たらはらはらどきどきのトーンのやつで、やーねー、って。

あと、喜劇と箴言シリーズの中では、この作品だけ唯一、仕事 vs. バカンス vs. 家庭 x 恋愛 というロメール四大元素のうち、仕事が一切入ってこない。生きるため、生活するために誰もが奴隷としてやらなければいけない仕事からフリーになったところで恋と、その可能性とか歓びなどが語られる。(『緑の光線』はこれに近いけど、仕事の影というか呪いは常につきまとう) そしてそこに - 夏の恋に登場人物全員がフォーカスしたときに起こる悲劇というか喜劇というか、だからと言ってどうにもならないんだわこれが、という…

登場人物が全員海辺のゆるい邸宅にいて、割とすることがなくて恋の手前でだらだら回したり回されたりする話し(そして最後に車で去る)というと、“La collectionneuse” (1967) - 『コレクションする女』が思い浮かんで、あそこにあったやーらしく高慢ちきな男性目線を女性(少女)の側に転回させるとこんなふうになるのかもしれない。どっちにしても極めていい加減で適当なこと言ってらあ、ってみんなが突っ込みたくなるかんじは満載なのだが。

突っ込みどころがいっぱいで、海にいって泳いでごろごろするか、テーブル囲んで食事したり飲んだりするか、ベッドでいちゃつくか、ひとりで本読んでぼーっとするか、全員この4地点をぐるぐる回ってくっついたり離れたり、という点ではホン・サンスのに近いところもあって、目的のためには手段を選ばず.. みたいなやらしい男共がいっぱい出てくるところなんて特にそう。

でも最後は店じまい〜 のようにすたこら逃げるかのようにして終わるのはよいの。 恋なんていらない。 彼女は来年も海辺にやってきた/くるだろうか、については関係者を召集して集中討議してほしい。


このまま何もなければ、BFI Southbankは3日から再オープンする予定。 12月はいろんなクラシックと、恒例のクリスマス映画特集とMarlene Dietrichだって。 楽しい映画が見たいな。

11.22.2020

[film] Make Way for Tomorrow (1937)

15日、日曜日の昼にCriterion Channelで見ました。邦題は『明日は来らず』。

監督は、同年に傑作コメディ - ”The Awful Truth”をリリースしているLeo McCarey。彼はこの作品でオスカーの監督賞を受賞しているのだが、彼自身が受賞すべきはこっちじゃなかった(got it for the wrong film)、と言っている。”The Awful Truth”も問答無用の傑作だとは思うけど、比べられるものではないけど、確かに”Make Way for Tomorrow”のがすごいと思う。

あまり映画を見ても泣かないほう(誰と比べて?)なのだが、どうしても何度見てもぼろぼろ泣いてしまうのが数本はあって、筆頭はNicholas Rayの”They Live by Night” (1948) -『夜の人々』で、そしてもこれもたぶん - まだ2回目だけど。初めて見たのは2010年に暮れにMoMAの映画部門で、絶対ハンカチ持参するように、って書いてあったのに無視していったらぼろかすにやられて、ううどうしようこれじゃ帰れない、って横とか後ろ向いたらアメリカ人もみんな同様にぼろぼろに泣いてた。

Bark (Victor Moore)とLucy (Beulah Bondi)の老夫婦が暮らしている家に既に独立してそれぞれ家庭を持っている5人の子供たちのうち4人 - ひとりはカリフォルニアで遠い - が集まって楽しく話し始めたところで、Barkがもう働いていないので、この家を手放さなければならなくなった、という。なんで突然そんなこと言うのよ、って子供たちは非難動揺するのだが、彼ら二人を一緒に引き取れる広さと余裕のある家のある子はいなくて、Barkは娘のCora (Elisabeth Risdon)のところに、Lucyは長男のGeorge (Thomas Mitchell)のところに別々に引き取られていく。

Lucyが滞在するGeorgeの家には17歳の娘がいて、Lucyが来てしまったので彼女はこれまでのように友達を家に呼べなくなったり、Georgeの妻が自宅の居間でやっているブリッジ教室の時間に現れて場をかき乱してしまったり、本人はまったくそんなつもりはないのだが、ゆっくりと息子の家族との間に溝が出来ていく。Barkも近所のユダヤ人の友人と楽しく過ごしたりしているものの、娘の家族からはやはり疎まれていて、風邪をひいて辛そうなBarkの様子を見たCoraは暖かい土地での療養が必要だからとカリフォルニアにいる娘の方に移ってもらう算段を進めて、Georgeの方も「Lucyのために」NYのアッパーステイトにあるケアホームを探し初めて、親は子供たちがどう思っているのかをそれぞれに察して、特に文句も言わずに出ていくことに同意する。 この辺は見ていてとっても辛くて奥のほうがひくひくしてくるのだが、泣くのはまだ早いの。

Barkがカリフォルニアに旅立つ日に子供たちは一同に会してお別れディナーをすることにして、でもその午後はふたりだけで過ごしたいから、と新婚の頃の思い出の場所を巡っていく。プロモーションをしていた車の後ろに乗せてもらって街中のドライブを楽しんで、思い出のホテルに着いてバーでホテルの人に当時のことを語ったら歓待してくれて、楽しくなったから子供たちの方はいいや(いいよ、って見ている方も頷く)、ってそのままホテルで食事をしてダンスをして…  ここで出会う人たちがみんな天使のように素敵な人たち - ダンスホールのバンドリーダーの人とか - でふたりの思い出を暖かく祝福してくれる。
この辺からじわじわくる - 見つめ合うふたりが本当に嬉しそうで楽しそうで、心の底からその時間を慈しんでいるのがわかるから。

で、ふたりは駅のホームに向かってBarkは列車に乗りこみ、Lucyはホームでお別れのキスを...   大決壊。
さらに、ふたりがさっきダンスで踊った”A Let Me Call You Sweetheart”がふわりと被さってくると、大津波が ...

ふたりはまた会えるって互いに信じて疑わないの、でもひょっとしたらこれが最後になるかもしれないこともわかっているの。そういうとき愛し合うふたりはどんなふうに見つめ合って微笑んで手を振り、その手を離すのか。(こういうのって書けば書くほど野暮になる)  いまコロナで、こんなふうに離れ離れになってしまった人たちもいっぱいいるんだろうな、って思ったら更に悲しくなって。

小津の『東京物語』(1953) にも影響を与えた作品と言われていて、あれも泣けるけど、泣けるからいいってもんじゃないし比較できるものではないのだけど、こっちのがなんかいっぱい溢れてくる。

泣いちゃうから見ろ、っていうのはいじめているみたいで嫌なのだが、この映画を見て泣くのは悪いことではないと思うの。

11.21.2020

[film] Smooth Talk (1985)

14日、土曜日の午後、BAMのVirtual Cinemaで見ました。今年のNYFFでリストア版がリバイバル公開されていた作品。
邦題はそのまま『スムース・トーク』で、日本ではビデオスルー?。

Laura Dernさんが強烈な印象を残した“Blue Velvet” (1986)のひとつ前に主演した作品で、86年のSundanceのドラマ部門ではGrand Jury Prizeを受賞している。

原作はアリゾナで実際に起こった連続殺人事件に想を得たJoyce Carol Oatesの1966年の短編 - "Where Are You Going, Where Have You Been?"で、アメリカではアンソロジーの常連で、翻訳も『あなたはどこへ行くの どこから来たの』、『どこへ行くの、どこ行ってたの?』といったタイトルでいくつかのアンソロジーに収録されている(どちらも未読)。この短編は、Bob Dylanの"It's All Over Now, Baby Blue"を聴いた後に書かれて、Dylanに捧げられている。

尚、この間のNYFFでのリバイバルの際に行われたLaura Dern(主演)、Joyce Chopra(監督)、Joyce Carol Oates(原作)という女性3名(+モデレーター)によるZoomのトークがYouTubeにはあって誰でも見れるから見てみて。

15歳のConnie (Laura Dern)は父母姉と原野の一軒家に暮らしていて、父(Levon Helm!)は寛容で、母(Mary Kay Place)はややうるさくて、姉(Elizabeth Berridge)は定番よいこで母のお気に入り。季節は夏で、Connieは友人2人とつるんで着飾ってビーチとかモールとかに出かけては男を値踏みして引っかけようとしたり引っかけられようとしたり、実際に声を掛けられると逃げたり隠れたり、夜に車でふたりきりになっても怖くなって逃げたり、そんなことばかり繰り返している。

家を出て遊びにいく際の言い訳は家族には嘘とバレてて、母からは姉と比べてこの娘は.. っていつも言われるのでたまにペンキ塗りを手伝って少し歩みよったかに見えてもその翌日には双方が同じことを繰り返して元の険悪な状態に戻る - 遊びに出たくてたまらない(けど自分内でぐるぐる回る)& ティーンの事情もわかってあげたいところだけどやっぱりムリ(これもぐるぐる)の親娘の緊張と攻防は誰にも思い当たるところがあるし、大人の世界の憧れ - 音楽がかかって男女で賑わう夜のバーガーショップとか – はとても生々しく蘇るものがある。

ここまででも十分なドラマになるところなのだが、後半、近くの親戚の家に家族みんながバーベキューに出かけてしまい、家にひとり残されたConnieのところに車に乗った男ふたりが訪ねてくる。ひとりは夜のバーガーショップで声を掛けてきた気がするArnold Friend (Treat Williams)で、もうひとりは助手席でラジオをずっと耳にあてて音楽を聴いててほぼ喋らない。

若いのか中年くらいなのか外見ではよくわからないArnold FriendはConnieのフルネームも今家族がどこにいて何をしているのかも全部知っているようで、なによりも怖いのは彼女の不安や動揺を見透かしているかのようにとにかく車に乗ってどこかに行こうぜ、と執拗に誘ってくること。なんで彼はそんなに自分のことを知っているのか、車でどこに向かって何をしようというのか、疑いがとぐろを巻いてそれらに巻かれて窒息しそうになって...  彼はそこを先回りして覆い被さってきて、いいから行こうよなんで行かないの? と。そのConnieの内の葛藤とArnoldとの息詰まる攻防ときたら閉じ込められた家での殺人鬼との闘いのようにも見える。

その舞台となるConnieの家のかさかさに白っぽく乾いた雰囲気もよくて、これってJoel Meyerowitzがケープコッドの家を撮った写真集 - “Cape Light” (1979) - 名作 - を参考にしているそうで、なるほどー。

あとは彼女のような思春期の危うい揺れが最悪の男によって連れていかれてしまったその先を描いたのがLaura Dern主演で”The Tale” (2018) - 『ジェニーの記憶』- として変奏されている、ということは強調されてよいことかも。

というわけでLaura Dernさんがすばらしいことは言うまでもなくて、もういっこ、Levon Helmの、自分内ではハッピーだしなんも干渉しないけど何が起こっているかはわかってるから、という父親役も素敵だった。

音楽はRuss Kunkel & Bill Payneの乾いたかんじがたまんないのと、Musical directorとして入っているJames Taylorの”Handy Man”が最後にこびりついてくる。


UKのトレンドにJimmy Somervilleの名前が出ていたので、え、死んじゃったの!?  って見に行ったらバスキングで歌っている人の傍に寄っていって一緒に歌った、というだけだった。  お元気そうでよかった..

 

11.20.2020

[film] Crock of Gold: A Few Rounds with Shane MacGowan (2020)

14日、土曜日の昼、DOC NYCで見ました。間もなく英国でも見れる(当然)のだがどうしても待ちきれずー。

The Poguesの創設メンバーでフロントマンだったShane MacGowanの評伝ドキュメンタリー。監督はJulien Templeで、彼は76年にSex Pistolsのドキュメンタリーを撮っている時にそこらにいたShaneと出会い、彼に最初にインタビューをしたのは自分なのでこのドキュメンタリーは自分のものなのだ、という。その他のShaneとの対話(にあまりなっていないけど)の相手としてJohnny Depp、  シン・フェイン党のGerry Adams、Bobby Gillespie(見るからにびびっている)、コメントを言うのがNick Cave、など。ひとめ見てとっても男臭そうで、実際相当くさい。

冒頭、88年のTown & Country ClubでのThe Pogues & Kirsty McCollの”Fairytale Of New York”のライブ映像がでて、もう何百回も見ているのにKirstyの横顔が大写しになっただけで泣きそうになって(スクリーンで見てたらぜったい大泣き)、Jem Finerの姿が見えてPhilip Chevronの姿が見えて、でもこの映画の主役はThe Poguesではなくて、Shane MacGowanなの。

57年のクリスマスの日に生まれ(生まれたのは英国)、アイルランドのTipperaryで親戚もいる大家族のなかで育って、3歳頃からパブのテーブルにあげられて酔っ払いと歌をうたって6歳から酒とタバコを覚えて、最初の方はそんな家族とアイルランドの風土や文化や人がShane少年をどう育てていったのか、アニメーション等を交えて追っていく。

そこから父母とロンドンに越して(バービカンに住んでいたんだって)、Tipperaryでは詩を書いて文学のスカラシップを貰っていたのでウェストミンスターの学校に入るのだが、アイリッシュだからといじめにあって行き場を失い、酒とドラッグに溺れて放校になり、どん底にあった彼を救ったのがパンクで、Clashのギグで後にMo-dettesのメンバーとなるJane Crockfordに耳を食いちぎられて血まみれになっている写真が彼を有名にして、そこから暫くして自分のバンドThe Nips - 正式名称はThe Nipple Erectors – を始めて、短命に終わったこのパンクバンドと並行して自身のアイリッシュルーツと向き合うようにSpyderとJemと一緒に"Pogue Mahone" – The Poguesを結成する。そこから先はいいよね。

上映後のトークでJulien Templeは、バンドのディスコグラフィやライブを時系列で追って、関係者が総出でコメントを述べていくような形式 - 最近多い”rockumentary”にはしたくなかった、と強く語っていて、確かにそういう構成にはなっていない。あくまでShaneの個人史を追いながら、あの時代の英国にアイリッシュとして生き、周囲から弾かれて壊れかけた青年がパンクと出会って、パンクはそんな彼をどんなふうに受け容れたのか、が(実際には地獄だったかんじもあるけど)軽妙に、でも十分な説得力をもって描かれている。いっこ印象的だったのは、学校で除け者にされていたShaneが聴いていたのが周囲で流れていた移民の音楽 - スカだったとか。あとは文学の話 - James Joyceは勿論、Flann O’Brien にW. B. Yeats(には割と批判的)に、ふらふらしていた頃に公園で出会った浮浪者たちの話とか。

The Poguesの初期のライブの様子を見るとやはり最初の2枚までがピークだったのかなあ、88年MZA有明で我々が見てびっくりしたときは既に終わりの始まり、だったのだろうなー、というのは改めて思った。こうしてこの辺りからバンドは転がり落ちていって、横浜のWOMADでShaneはバンドをクビになる – ここがJames Fearnleyによるバンドのメモワールの出だしなのね。

エピソードで面白かったのは彼らがブレークしたElvis Costelloとのツアーの話。Cait O'Riordanを巡る攻防とか。

初期の勇ましいジャンキーっぷりと比べると車椅子に乗って身を傾けたまま終始ふがふがしている今のShaneはおじいさんとしか言いようがないのだが、よく生きてここまで来てくれたありがとう、と思った。88年のライブでやられてから来日公演はずっと通って、NYではShane MacGowan and The Popes​のにも行って、どんどんだめな方に墜ちていく彼を見てきて、でもいいじゃんか、って。

映画でも触れられているけど、そして今日もまたあの箇所がBBC界隈で話題になっていたけど(どうでもいいわあんなの)、”Fairytale of New York”の歌詞ってほんとうにすばらしい。特に終盤の”I could have been someone.. “ 以降のところなんて、この映画を見てから聴くとじーん、って。 今年もこれからNYのことを想って何度も何度も聴くことになるんだわ。


11.19.2020

[film] Gunda (2020)

13日、金曜日の晩、DOC NYCフェスティバルで見ました。5回分の回数券を買って。

DOC NYCは2010年からNYのIFC Center(映画館)を中心に始まったドキュメンタリー映画のお祭りで、最初はNYの周辺を題材にした新旧のドキュメンタリーを集めて上映していて、2012年頃に現地で見ていたことがあってすごく面白かった。毎年案内だけは来るので見たいようーだったのが、今年はバーチャルでやってくれる。

いまのこのご時世、しょうもない陰謀論(陰謀じゃなくて陰謀論)ばっかりで、まとめサイトどころかメディアそのものも腐ってきていて、どうしてかというと誰もが手近のすぐに読めてわかりやすくて心地よい「現実」を求めているからだと思うのだが、そういうのの「理解」って人についても出来事についてもそれなりの時間をかけて向き合わないと無理なんだよ - ほら、ということを良質なドキュメンタリーは教えてくれる。最近自分がドキュメンタリーばかり見ているのはそういうことなのかも。

ノルウェー=アメリカ映画で、Joaquin Phoenixがエグゼクティブ・プロデューサーに入っていて、Paul Thomas Andersonが絶賛して、NYFFでも上映されていた。NYFFもバーチャルでやっていたのだが、VPNで繋ぎにいったら”Proxy経由はだめよ”って言われてしまったので諦めたの。

モノクロ(ややセピアがかっている?)の、でも解像度は高い映像で、小屋の入り口に頭だけ見せて転がっているでっかい豚さんがいる。しばらくするとその顔に被さるようにちっちゃい3匹の子豚がぴょこぴょこ現れて暴れだして、ブーフーウーかよ、とか思うのだが、この時点 - 開始約3分 - でやられる。

字幕もナレーションも音楽もなくて、彼らが”Babe” (1995) みたいに喋りだすこともなくて、小屋のなかにカメラとマイクを置いて映りこむもの聞こえてくる音を全開にして豚さんと同じように寝転がって、気分はほぼ豚か小屋に住む虫になるかんじ。寝転がっていた大豚は子豚たちのママで、暫くは授乳できーきーおしくらまんじゅうをする大小の肉の塊ばかりなのだが、いくらでも見ていられる。ママが子豚一匹を踏んづけて(早くどいてあげてよ)、その子豚は片脚を引き摺るようになるのだがそんな子豚の様子も追っていけるくらいの映像の近さと細かさ。

それから画面は木の繁みに捨てられた(?)籠から姿を現すニワトリたちの方に行って、うち一羽は片脚しかなくて、たぶんこの子たちは不要な奴として捨てられた鶏たちであることがわかるのだが、その一羽の表情とか動き – そのフィギュアの強さときたらすごい。絶対彼は自分がどういうことになっているかわかっていて、これからどうすべきかを考えて、次の一歩を(一本しかない脚で)踏みだそうとしている。まるで西部劇のオープニングみたいに。

続いては牛がいっぱいの牧場で、牛たちの顔や体にはハエがわんわんたかってすごいのだが、そのうち2頭が頭と尻尾を互い違いに縦に並んで、それぞれの尻尾でそれぞれの顔に寄ってくるハエを掃うようになって、それを他の牛たちも組をつくってなんとなく真似していくの。エコシステムの組成。 なんかすごい。

そこからまた元の豚親子に戻って、子豚たちは結構大きくなって母豚と外を歩き回るようになっているのだが、ある日車がやってきて..

すべて同じ牧場で撮られたものかと思ったら、ロケーションはノルウェー、スペイン、UKとぜんぶ分かれているのだった。 人間の姿は影もなく、声も言葉も一切聞こえてこない、字幕はエンドタイトルのみ、それでもドキュメンタリーと呼べるのか、監視カメラの映像と同じようなものではないか、と言うかもしれない。けど彼らのキュートさに粉々にされながら見ていると、「家畜」という人が作りだした「種」とは異なる生命のありようについて、食肉という古来から続いている食のありようについて、気がつけば振り返っていたりする。Joaquin Phoenixの狙いもその辺にあったのではないか。

我々はなにをやってきたのか、なんということをしてきたのだろうか、と。このシステムを変えようとかそういう話ではないし、簡単に変えられるとも思えないし、自分がヴィーガンになるとも思えないのだが、この後に彼らに起こるであろうこと(についてのドキュメンタリーは結構見ている)を想像したり、反省したり感謝することくらいはいくらでもしてよいはず。

あと、おいしい食事は本当に人を幸せにしてくれる、その横にここの豚さんたちの映像を重ねてみること、かな。

とにかく、豚マニア、鶏マニア、牛マニアの人、動物映画好きの人もそれぞれ必見。


UKやヨーロッパ諸国がこのタイミングでロックダウンに入っているのはこのクリスマスをみんなで迎えられるように/迎えたい – なんとしても。という思惑があるわけだが、仮にフルとは言わないまでもそこそこ楽しむことができるかも、となった時、食べ物をどこからどうするか、をそろそろみんな考え始めている。これまでパリに日帰りで買い出しに行っていたのだが、今年は無理そうだし(まだ希望は捨てていない)、そうなると春から夏にかけて発見した近所の八百屋や肉屋で賄うしかない。これらのお店の実力はまったく申し分ないのだが、来月のあの頃にどんなものが入ってきているか予測がつかない(基本旬のものしか置いていないから)..  

11.18.2020

[film] Les nuits de la pleine lune (1984)

7日、土曜日の晩、MUBIで見ました。英語題は“Full Moon in Paris”、邦題は『満月の夜』。

Éric Rohmerの喜劇と箴言シリーズの4つめ。冒頭に出てくる箴言は - “He one who has two wives loses his soul, he who has two houses loses his mind” – これ、ル・カレの『パーフェクト・スパイ』にも同じようなの出てこなかったっけ?(←確認したいのだが、本が..)

パリの郊外のアパートに恋人のRémi (Tchéky Karyo)と暮らすLouise (Pascale Ogier)がいて、パリのデザイン事務所でインターンをしているLouiseはそこにもアパートを借りていて、そこを起点にパーティに出かけたり友達を呼んだりしている。Rémiは筋トレ野郎でテニスとかもやっているので彼女が朝帰りする頃には寝ているし、互いに干渉しなくていいでしょ、と。

そうやって夜遊びするLouiseに近づいているのが作家のOctave (Fabrice Luchini)で、妻子持ちでずっとべらべら喋っていて高慢ちきで見るからにやなやつなのだが、パーティで彼が傍にいてくれることとか、彼の助言や(時としてうざい)おせっかいは、パリに遊んで生きる彼女のなにかを満たしてくれているらしい。

でもそのうち、パリと郊外の家を行ったり来たりが続いてRémiからもOctaveからもあれこれ言われて互いにぎすぎすしたり疲弊したりが嫌になったLouiseは、その辺にいたバンドのサックス奏者Bastien (Christian Vadim)を引っかけて夜の街に..

Louiseはパリにいるといろんな人が声をかけてくる、と言い、他方でわたしにはひとりになれる場所が必要、とも言い、ふたつの部屋についてもどっちも必要だ、と言いつつ、どちらにも長く居られないので往復を繰り返す。そんな居場所を失った亡命者のようにパリに滞在して満月に向かって走っていくの。

これはいろんな点で喜劇と箴言の他の5作品とは異なっている気がしてー。

まず84年という時代とパリという地域の特性が前面に出ている、ということ。Louiseの住んでいるところはパリとの対照でなにもない荒地のように描かれて、駅に近いのだけがよいところ、とか言われる。『飛行士の妻』(1981)もパリだけど、あれはパリじゃなくても成立しそうなお話しで、『満月の夜』の主役はLouiseとパリの街で、あの当時のあのファッションとチープな音楽(担当のふたりはStinky Toysの人達だったのね)と田舎モノには逆立ちしても真似できないデコールや小物のセンスがある。

そしてもちろん、主演のPascale Ogierの突出っぷり。他の作品でも女優さんはみなすばらしくて、それぞれ周りの人達とのやりとりの中で押したり押されたり泣いて泣かされ突っ走ってをしていくのだが、ここでのOgierは自分の、世界の女王としてすべてを決めて闇も光も堂々とひっかぶる、その舞台の上にいる強さ。Production DesignもCostume Designも彼女で、Renato Bertaのソリッドなカメラが捉えたパリの夜も含めてこの映画の主なところを決めてしまっている。

こうしてフロントに出てきたPascale Ogierに対する反動というか痛めつけというのか、この作品は6作のなかでもっとも暴力(SM?)的な要素と予感に満ちていると思う。後半に向かうにつれて執拗になっていくOctaveの言い寄り(ほぼハラスメント)とかLouiseとわかりあうことができないよう、って突然自分をぶん殴ってしまうRémiとか。

この辺で、ホン・サンスのことも少し思った。中心にいるPascale Ogierがこの映画のリリース直後に夭折しなければ、ホン・サンス映画のMin-hee Kimのようなミューズになっただろうか?(いや、それはまずない)

喜劇も箴言も場所や時代を超えた普遍性をもって伝えられて広がってきたもので、今回追ってみた6作(『緑の光線』だけこれから)のちっとも古びていないかんじは見事としか言いようがないのだが、この作品だけは別の意味でクラシックになっていると思った。 公園とか海辺にはない、それって満月の力なのかもしれない。

11.17.2020

[film] The Woman Who Ran (2020)

9日、月曜日の晩、London Korean Film Festival – ここのとこFestivalばっかだ - の上映作品のなかにホン・サンスの新作があったので見た。原題は”도망친 여자”、邦題は『逃げた女』。これ、『失われた時を求めて』の『逃げ去る女』を思い浮かべたのだがこれの英語題は”The Fugitive”だった。今年のベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞して、こないだのNYFFでも上映されていた。

ニワトリがいる郊外(?)に暮らすヨンスン(Young-hwa Seo)のアパートにカムヒ(Min-hee Kim)が肉などを持って訪ねてきて、料理担当のもうひとりも一緒に焼肉をしながらこういう暮らしもいいよねーとかいろんなことを話していく。カムヒは結婚して5年間夫とはずっと一緒で、彼は愛する人とはずっと一緒にいなければいけない、って強く言う人なので今回初めて別々に行動するのだとか、向かいの住人がそこにいるノラ猫に餌をやらないようにやんわり言いにきたり(話の噛み合わないことときたらすばらしい)、軒先の監視カメラに映る夜中に家の外に現れてタバコを吸う女性 - 粗暴な夫から逃げているらしい - のこととか。

続いてスヨン(Seon-mi Song)がひとりで暮らすアパートをカムヒが訪ねて、スヨンはこの辺にはアーティストが沢山いてバーに行くといろんな人と出会えておもしろいの、というのだが、そうやって出会ったらしい若い詩人男が突然玄関のところに現れて、スヨンはあんたストーカーかよ、って撃退して、一度あいつと酔っ払って寝ちゃったのねあーあ、とかいう。

それから映画館で映画を見ていたカムヒは、そこで働くウジン(Sae-Byuk Kim)と偶然会って、ウジンはカムヒに過去のことを謝罪して、その謝罪元と思われる男 - カムヒのexらしい – とも偶然会ってぎこちなく会話して、なんとなくもやもやを抱えたままカムヒは映画館の椅子に身を沈める。

これまでのホン・サンス映画は酒場とかで出会った男女がやあやあって近づいてくっついて離れて再会して、とか酒を飲んでいくうちに突然あららってぐんにゃりしたり、といった男女間のドラマが多かった気がするが、今度のは既に知り合いの女性同士の会話でほぼ成り立っていて、出てくる男子はカムヒの訪問先で背中を見せる2名と、最後にカムヒと会話する彼女のex くらいで男性の影は薄い(あと、あの猫は♂だと思う)。 薄いのだが、カムヒが3回言い訳のように使う「夫婦は離れていてはぜったいダメ」という夫の存在とこのタイトルが、カムヒのこの映画で描かれる行動の起点にはなっているようなので、やはり男の影は見え隠れして、その影たちの関係も見えたりして、でもそうやって会話や出来事の中に現れる男たちはなんかうざくて、女性たちはそんなのはもういい(いい家は見つかった - いい男はあんましいない)、と思っているような。

カムヒが訪れる先の女性たちの住居は何度も景色とか環境がとっても素敵、とカムヒから言われて住んでいる彼女たちはそうなのいいでしょー、と返すのだがカムヒの住居のことはどうも触れられない、カムヒが語るのは例の旦那のことだけで、つまりたぶん。

ここのとこ、MUBIでずっとやっているロメールの「喜劇と格言劇」シリーズを見ているので、よく言われるロメールとホン・サンスについても改めて考えてみたのだが、今作に関していうと、出てくる男が半端でろくでもないのばっかり、というとこは似ているが、女性たちが恋愛に向かってGo! になっていない – どちらかというと距離を置いて眺める態度にある、というとこは違うかも。でも、逃げても逃げても追ってくる過去(の自分)とか、通りを歩いて建物に入っていくシンプルな動作がストーリーのリズムを作っている、というあたりは似ているかも。

ねちっこい男たちがいなくなった分、全体はとても静かで削ぎ落されたかんじがある。窓から切り取られた風景を眺める、そんな彼女たちの視点で過去と現在、彼女たちが去ったり捨てたりしたもの、彼女たちが逃げようとしているものが整理されていて、その点でラストにカムヒが映画館に入ってスクリーンを見つめるのはなんかわかるの。

でもやっぱり、あの猫がぜんぶ持っていっちゃったかんじがー。


11.16.2020

[film] Recorder: The Marion Stokes Project (2019)

8日、日曜日の晩、BFI Playerで見ました。 ドキュメンタリー。
フィラデルフィアのアフリカン・アメリカンの女性Marion Stokesは70年代後半から2012年、83歳で亡くなるまで、複数のTV局のニュース番組を24時間 - 30年間ずっと録画し続けて、死後そのビデオテープが約30,00本残されている、と。彼女はどうして、なんのためにそんなことをしたのか?

まずは彼女が暮らしていたフィラデルフィアの裕福なエリアのアパートが紹介され、そこで彼女の世話をしていた運転手とか世話 - 日々のビデオの操作を含む - をしていた男女とか、彼の最初の夫との間の息子から彼女の人柄とか暮らしぶりが紹介される。

あの時代の公民権運動の只中を生きたアフリカン・アメリカンとして社会主義者になり、キューバを含めた世界情勢に敏感で、TVプロデューサーとして67年から69年まで、フィラデルフィアのローカル局で社会正義をテーマにしたトーク番組を作った。ここで二人目の夫となる白人でリベラルのJohn Stokesと出会って、彼との出会いが彼女の社会(変革)に対する理想を強めて後押ししていった、と。

ひとつのきっかけは1979年11月にイランで発生したアメリカ大使館への占拠/人質事件で、この事件の詳細をリアルタイムで報道するためにTV各局は東海岸の23時にニュース番組を組み(そうだったのかー)、更には24時間ニュースを流し続けるCNNが開局された(そうだったのかー)。それまでのニュース番組のありようを大きく変えたこの事件は、ニュースを通して人々の意識や関心を世界で起こっていることに振り向けることに貢献した。こうしたニュースメディアの動勢を記録しておくって、ひょっとしたら大きな可能性を秘めたなにかになるのではないか、と当時発売されたばかりのベータマックスのビデオデッキを複数台買いこんで、24時間エンドレスの録画を始めた、と。

そうやって記録された中で紹介されるのが例えば、2001年9月11日の、あの火曜日の朝8時40分くらいから、モーニングショーをやっている各局の画面が緊急ニュース映像に次々に切り替わっていくところ。あの朝、会社の窓から煙が出ているWTCを見て、なんだこれ? って思っていたんだなー。とにかく逃げるべし(次のアタックがくる可能性があったから)って自分のアパートに戻ってしばらくの間、ニュースしか見るものがなくて、これずっと録画しておこうかな、と少し思ったことも思い出した。(でも録画したとしても見れなかったかも。いまだに辛くて見れない。)

Marionが収集したのはビデオテープだけではなくて、アップルのPCも初期の世代から入れ込んでものすごい数を買いこんでいたとか。単なる新しもの好き説もあるようだが、70年代末から80年代初ってやはりいろんな可能性があった時期だったのではないか(パンクとかも)。90年代以降にこれをやってもただのサブカルとかオタクとしか呼ばれない。

残された30,000本のテープは大学のアーカイブに寄贈されデジタル化が進行しているそうで、今後の貴重な資料になることは間違いない。 けど、思ったのは、こないだの大統領選のもそうだけど、メディアの主軸 - 少なくとも半分くらい? - がインターネット上のソーシャルメディアに移ってきたことで、デジタルでスマートでインタラクティブになったことで、いくらでも起こりうるようになったフェイクに書き換え/差し替えに消失の問題をどうするか、ってことよね。あるいは、情報として「誤り」とまでは言えないけど言葉の使い方や発話者やそのトーンを恣意的に操作することでいくらでも「世論」を形成したり押したり推したり炎上させて「ネタ」にしうる今の「ニュース」のありようになどついて。

いまはもうフェイクや情報操作はいくらでも起こりうる - ソースが国だろうが新聞だろうがTV局だろうが個人だろうが - という前提を置いて注意深くニュースに接していくしかない。っていうのと、そうなったときに土台になるのは、社会正義とか平和とか人権とか国家とか、それってどういうものか/どうあるべきなのか(これって右左とか両論を置いて云々できる相対的なものではない)についての一人一人の認識とか知恵とかで、これって情報に接する機会とか規制とか頻度の話ではなくて教育というインフラがどうあるべきか、っていうことなんだよね。 にっぽんがもうだめだと思うのはここのベースが既に徹底的に破壊されているから(今のあの国の政治家を、メディアを見てみ)。

といったことを考えるのにとってもよいネタにもなるので、日本でも公開されてほしい。


今日から”The Crown”のシーズン4が始まって、評判もよさそうなので最初の2話くらいを見た。これまでのはだいたい3〜4話くらいで挫折していたので、今回はもうちょっとがんばりたい。
 

11.15.2020

[film] Love on the Run (1936)

1日、日曜日の昼、Criterion ChannelのJoan Crawford特集で見ました。この特集、どれ見ても楽しいので週1回は通っている。
監督 - W.S. Van Dyke、プロデュース- Joseph L. Mankiewiczによるスクリューボール・コメディ。 邦題は『空駆ける恋』。空はあんま駆けないのだけど。

ロンドンに駐在するアメリカの新聞記者ふたり(それぞれ別の新聞社) - Mike (Clark Gable)とBarney (Franchot Tone)がいて、退屈そうなその日のネタをふたりで分担している。Mikeがその日にロシアの王子と結婚するお金持ちSally (Joan Crawford)の取材に向かったら、彼女がウェディングドレスのまま逃げ出すところにぶつかって、なんだなんだってそのまま彼女についていく。記者であることを隠したまま事情を掘りたくなったMikeは彼女の逃避行を手伝うことにして、逃げる途中でBarneyの取材相手だった男爵夫妻の部屋にあった飛行服を拝借してそのまま飛行場に向かい、飛行機の運転なんてできないかも、と言いながらも飛行機は飛びたち(ありえない)、フランスの田舎になんとか降りたって、そしたら飛び立つときに渡された花束から書類みたいのがでてくる。

実はBarneyが取材していた男爵夫妻はスパイで、花束に隠してあったのは軍事機密だったものだからMikeとSallyを追って、男爵夫妻と突然様子がおかしくなった彼らをネタと思いこんだBarneyが三つ巴で追っかけっこを繰り広げていくの。その途中のフォンテーヌブローの宮殿で亡霊になりすましたりしながら、どたばた道中のなかMikeとSallyは恋に落ちていって、目くらましの取り違えがあったり、MikeとBarneyの特ダネ合戦があったり、詰め込み過ぎてはらはらどきどき、とまでは行かないけど、最後まで楽しく見ることができる。

Joan CrawfordとClark Gableの共演はこれが7回目で、Joan CrawfordとClark GableとFranchot Toneの三角関係は”Dancing Lady” (1933)にもあったけど、いっつもFranchot Toneの方が下げられちゃうのはしょうがないのか。

これ、Runaway brideとそれを追う新聞記者(実は諜報部員)ていう設定にすれば今リメイクしてもおもしろくなると思った。 あ、Tom Cruise & Cameron Diazの”Knight and Day” (2010) - だいすき - ってちょっと近いかな - そうでもないかな? とか。


The Last of Mrs. Cheyney (1937)

8日、日曜日の昼に、同じとこの同じ特集で見たもの。 邦題は『真珠と未亡人』(?)
1925年にロンドンで上演されたFrederick Lonsdaleの同名戯曲が原作。同じ原作で29年と51年にも映画化されている(未見)。

アメリカから英国に向かう客船の上で、英国の金持ち貴族 - Francis Kelton卿 (Frank Morgan)とArthur Dilling卿 (Robert Montgomery)のふたりが Fay Cheyney (Joan Crawford)とぶつかって、未亡人である彼女はロンドンに移住するところだと言うので、遊び人のふたりはそれはそれはぜひお近づきに、ってでれでれして、そういうコネもあったせいかFayは瞬く間にロンドン社交界の華となりArthurのおばのEbley公爵夫人 (Jessie Ralph)にも気に入られ、KeltonとArthurからはそれぞれに求愛されるのになぜかつれないの。

実はFayの家の使用人たちは執事のCharles (William Powell)を中心とした窃盗団で、Fayはそこの鉄砲玉として公爵夫人の家にある真珠のネックレスを狙っているのだった。公爵夫人宅でのディナーの後でいよいよ盗みに.. って取り掛かろうとしたらKeltonとArthurの両方からプロポーズされるわメイドは邪魔に入るは最悪のことばかり起こって..

豪華客船でやわな金持ち貴族を女詐欺師がひっかけてめろめろにして、それを通して貴族社会をおちょくって、でも結局大金じゃなくてハートを手に入れる .. というとBarbara Stanwyckさまの大傑作 - ”The Lady Eve” (1941)があって、この作品は設定をアメリカンの英国貴族社会への殴り込みにしていているせいか、ややテンポが鈍重で面倒なかんじになっているのだが、貴族のぼんが腰の据わった女子にやられちゃうとこは同じで、いい気味なの。 でもこのタイトルだけは一応男社会の機嫌をとってあげるという。


週末はずうーっと雨らしい。もううんざり。

11.14.2020

[film] City Hall (2020)

7日、土曜日の昼、Film ForumのVirtualで見ました。Frederick Wisemanの新作。4時間32分。

これを見始めた時点で米国の大統領選の勝者はまだ決まっていなくて(英国で決定の報道が出たのは これを見終わって暫くしたあと)、うううアメリカ..  っていう状態のなかで見た、と。

City Hallといったら市役所。前作の”Monrovia, Indiana” (2018)、その前の“Ex Libris – The New York Public Library” (2017)、更にその前の”In Jackson Heights” (2015)にはアメリカの具体的な地名が入っていたが、今回はそれがない。ボストン市の市長Marty Walshと市の職員やその周りの人達と市民との間の活動を追っているので、”Boston City Hall”としてよいのかもしれないが、そうしていない。そしていつものWisemanドキュメンタリーのように字幕もキャプションも一切ない。インタビューのように被撮影者が撮影者の方に向かって語りかける映像も一切ない。なので最初はここに映っているのがどこの街なのか、ここで喋っているおじさん(その他みんな)が誰なのか、これが何を目的とした集まりなのか、などなど全くわからなくて、それがだんだん、これはボストンなのか、このおじさんが市長なのね、とか見えてくる。Wisemanがそうしているのには全て理由があるのだが、そんなことよかおもしろいんだからまずは見てみ、になるのがいつもの。

市役所がやっていること、で誰もが想像できそうな仕事がほとんど網羅されているかんじなので、4時間を超えるのは当然かも。市のコールセンター (311)でのやりとり、市長と警察のミーティング、予算の説明、市庁舎での簡易結婚式(同性!)、Red Socksのパレード(優勝してたのか↓)の準備、いろんなタスクフォースでのいろんなやりとり、NPOのSenior Actionの活動、Housing Developerの法律家との会議(ボストンの災害の歴史が振り返られる)、建築現場、ホームレス対策、ゴミ収集(マットレスとか家具も食べちゃう清掃車がすごい)、ラティーノコミュニティとの対話、いろんな窓口での対応、ナースの集会、いろんな人々へのケア全般、戦争経験を語る会、大学のセミナー、Food Bankの開所式、考古学のArchival Centerのこと、植物プラント、幹線道路の監視、アニマルケアのシェルター、感謝祭、ホロコーストメモリアル、スーパーマーケットの誘致を巡るコミュニティミーティング、チャイニーズ新年にSt. Patrick Day などなど。2018年から2019年までに起こったことの一部。

例えば、自分がぜんぜん知らない会議やイベントをやっている会議室とか会場に入っていったら、ふつうになんだこれ?になるよね。この映画がやっているのはそういうことで、そういう場面がえんえん続いてもひとつとして「失礼しましたー」にならずに、すうっと議論に入れてテニスや卓球のゲームのようにそのラリーを食い入るように見てしまうのは、全体で数十時間分もそこで撮影したものの中から的確に選んで編集しているからで、個々の現場のおもしろさは勿論、それを切り取って繋ぐ不思議の魔法があるのだと思う。

こういう入り口の入りやすさはあるとして、もういっこはそこで議論されている中味ややりとりそのものが誰もがどこかで覚えのあることだから – どこかの土地(ただし民主主義)で市民とかやったことがあるのであれば – というのもある。これはWisemanのドキュメンタリーに共通していることでもあって、図書館とか美術館とかについてもそうだし、あるコミュニティのいろんなことについてもそうだし。これって我々ひとりひとりが社会とどう関わって暮らしているのか、っていうことの土台とか血管とか骨組みみたいなところ - 役所のパンフレットとかがイラスト図解で「わかりやすく」説明していることをこういうふうなんだよ、って生々しく – もちろん芝居じゃないし - 見せてくれる。これってドキュメンタリーに期待されがちな驚愕の真実!なんかとは全く異なる次元のものなのだが、気が付けばうんうんって1分に3回くらいは頷いている。

今回の映画を見ながら改めて思ったのは、市役所だと、市民に対するサービスを提供する機関です – それはそうなんだけど、ほんとに幅広くいろんなことをやっていて、それってサービスとかそういう枠を軽く超えていて、税金払っているかどうかとか受益者とか、そういうのに関係なくそこに暮らす人達ぜんぶの話を聞けるだけ聞いて彼らに向かってできることをぜんぶやろうとしているみたいで、えらいなー、って。でも社会ってそういうもの、そうあるべきものじゃないのか。

もちろんそういうことをやって予算超過したり赤字にならないかとか働きすぎにならないかとか裏ではあるのかもしれない。けど、やっぱりお役所ってそうやって社会を維持する – そこで生きるひとりひとりを守ったり救ったりするためにある組織であり機構なのだと、ふつうに思って納得して、こんなことでこんなにも腑に落ちて感動してしまうのはやっぱりあれよね… って。

例えばこないだの大阪の件について、自分は大阪に3回のべ10日くらいしか行ったことないのであんま言う資格ないかも、って黙っていたのだが、やっぱしあれってやり方そのものが異常で異様だよね。お役所の仕事って税金の対価としてのサービス提供、みたいな企業の営利追求の考え方でやっちゃいけないことだと思う。ごくふつうに人の道として。でもいまやあの国はそもそもの国がそこの(彼らがいらないと思っている)民を殺しにかかっているから。無知に偏見・無視・遺棄・隠蔽、などなどのオンパレードで。やだやだ。

そしておそらく、(彼はあの笑みを浮かべるだけだろうけど)Wiseman氏がこのタイミングでこういう作品をリリースした理由もこの辺にあったのではないかしら。彼には次にCovid-19対応に奔走する病院組織の奮闘か、今回の選挙の選管とか投票所の様子を撮ってほしい。やらないだろうけど。

自治体の長とか役職ある連中全員に見てほしいけど、たぶん連中はBoston市長の頭の中とかまったく理解できないだろうから、どちらかというと住民と上の板挟みでぐったり苦しんでいるお役所のスタッフの人たちに見てほしい。自分たちの仕事は本来こういうものだったはずだ、って思い出してもらえる気がする。(“Ex Libris”が図書館の人たちに希望を与えた - と信じている - のと同じように)
そして我々が見ると、ある地域に生きる、暮らすっていうのはこういうことか - 選挙でちゃんとした人を選ぶのはだいじなことね、って改めて。


ドキュメンタリー映画のお祭りDOC NYCがバーチャルで始まった。
ロンドンでやる予定だった音楽ドキュメンタリーのお祭り - Doc'n Roll Film Festivalはロックダウンで萎んでしまったので、この週末は(IFC Centerに思いを馳せつつ)DOC NYCをぼーっと見ていくことにした。
 

11.13.2020

[film] Om det oändliga (2019)

8日、日曜日の午後、Curzon Home Cinemaで見ました。
スウェーデンのRoy Anderssonの新作で、昨年のヴェネツィアでは銀獅子賞を受賞している78分の小品。

タイトルを翻訳にかけると”About the infinite”と出るのだが、英語題は”About Endlessness”で、なるほどこっちの方がしっくりくるかも。邦題は例によって訳がわからない。ついこないだもディケンズのでうんざりしたばかり。はいはい、フィルムを売る側はリスクを背負って買ってきたものに好き勝手なタイトルをつける権利があるのだろうし、マーケットのことを知らない外野が口を出すな、なのだろうが、やっぱり作品に失礼だと思う(何度でもいうよ)。若草物語やディケンズのように明確にクラシックをベースとしているものをぼかすのも、この作品のようにもともと抽象的なタイトルに別の抽象を被せるのもやめてほしい。これって小説や絵画だったらあまりしないよね?  なんで映画だと宣伝という名目で慣例みたいにこんなバカバカしいことが延々(誰が許しているんだか知らんが)許されてしまうの?

冒頭、男女のカップルが抱きあって空に浮かんでいる(彼らは終わりの方にも出てくる)。Manoel de Oliveiraの『アンジェリカの微笑み』 (2010)を思い浮かべて、でも彼らは死んでしまった人達なのか、夢の中にいるのか、飛びたったところなのか降りようとしているのか降りられなくなっているのか、ここからEndlessnessの両義性 - 終わらないことに対する絶望と終わらずに続いていることに対する希望 – とその普遍を巡る街角や人々のスケッチが始まる。

大半がセットで撮影されたそうだが、どのスケッチもどこの街なのか、どこの(国の)人々なのかはっきりとはわからないし、人の顔はうっすら白塗りされているように見える。ここで簡単に思い浮かぶのはこの(各エピソードの中心にいる)人達はみんな亡くなっていて – つまりEndlessnessの状態が保証されていて – その地点からEnd. が保証されている世界のことを恨めしや~ ってやっているのかしら? ということなのだが、そんな簡単に線を引いておもしろいものになるとも思えない。時代設定も十字架を担いで歩いていく人とか、どうみてもナチスの人々とか、ばらばらで、ひとつあるのはどの人達もぱっとしなくて疲れていて、歌をうたうようにひとりで何かをひたすら、繰り返し呟いている。

“Endlessness”のことを「地獄」、と言い換えることもできるのかもしれないが、地獄の凄惨なイメージもないの。その手前にいる人達が見ているのは果たして地獄なのか、その少し手前の緩衝地帯のようなところ - 『天国は待ってくれる』(1943) の受付とか – なのか。それを待ったり見たりしている時間もまたEndlessnesに近くて、あと少しでコメディスケッチの方に転びそうな。それはStephen Shoreの写真の世界に現れたEdward Hopperの絵画の世界にいる人々、のような。それかEdvard Munch のシンプルなドローイングがつかまえようとした貌、のような。

この状態が居心地よかろうが悪かろうが、ここで生きていかなければならないのが大部分のひとで、そうである時に、この自分がいる世界の、自分が立っているこの場所の確かさ揺るがなさってどんなものなのだろうか(夢であってくれたらどんなに..)、というのは – だいたいしんどい時に - よく思うことで、そうやって地面を見つめたりするときのかんじがうまく表現されていると思った。どのスケッチもワンカットで、どちらも動けない事態・状態でカメラの場所と撮られる人と見ている人が固まって、そのまま陽が沈んでいく。

動きも映っているものも地味なのでモノクロでもよいのかもしれないが、ここの世界には色がついている必要がある、と思った。

ずっと見ていたいしいくらでも見ていられるかんじなのだが、この状態に浸かってずっと世を眺めるのって、それはそれであんまよくない気がした。そういう気になってしまう、という点での中毒性は高いかんじで、やっぱしすごい映画なのかも。そういえばベルイマンの国の映画..

11.12.2020

[film] The Witches (2020)

6日、金曜日の晩、Skyのケーブルで見れるようになっていたので、見ました。
まだまだ選後の緊張を解くところまではいかないが、これの前の日に見た”Relic”ほど怖くないやつで、とハロウィンから一週間後に。

監督はRobert Zemeckis、原作はRoald Dahlの『魔女がいっぱい』(絵はSir Quentin Blake!)、脚本には監督本人に加えてGuillermo del Toro(元は彼がストップモーションアニメでやりたかった企画らしい)、Kenya Barrisが参加していて、プロデューサーにはGuillermo del ToroにAlfonso Cuarónの名前もある。

舞台は60年代末のアラバマで(もちろん原作とはちがう)、冒頭、Chris Rockがあの軽妙なナレーションで「魔女はいるんだよ!」とか得意そうにやってて、そこからお話しは彼の回想という形で親を失った少年Charlie (Jahzir Bruno)がおばあちゃんのAgatha (Octavia Spencer)の元に引き取られてくるところから。 塞ぎこんでいる彼を慰めるためにおばあちゃんは彼にネズミを与えて、彼は彼女をDaisyと名付けてずっと一緒にいるようになる。

そのうちCharlieがスーパーマーケットで魔女らしき女性を目撃して、それをAgathaに告げるとそれは魔女だ、やつらが来たのじゃ、って言われて、なにかを察知したのか咳が止まらなくなったAgathaはCharlieを連れて豪華なホテルに居を移して、そうすると魔女(と明確にわかるわけではないがどうみても)の集団がホテルに現れて集会の準備を始めて、その親玉がおっかないGrand High Witch (Anne Hathaway)で、子供が嫌で嫌でたまらない魔女はまずそこにいた食いしん坊のガキをネズミに変えて、やがてその手はCharlieにも伸びて、こうして魔女軍団とネズミ3匹 & Agathaの戦いが始まるの。

これ、最初の方のジュークボックスから当時のR&Bが流れてAgathaが踊るあたりは最高だし、女の子がニワトリに変えられてしまうあたりは、これヴードゥーだわ!(del Toroがやっていたらメキシコの呪術モノになったのかしら?)って楽しく盛りあがって、この流れでOctavia Spencer vs. Anne Hathawayなんてすごい! だったのだが、なんかネズミと魔女がやりあうあたりからなんとなく萎んでいった気がした、のはなぜかしら?

なんかAgathaから魔女の仕様や特徴が説明されてて、その通りにGrand High Witchの足先があんなだったり頭が剥げていたり腕があんなふうに伸びていったりすると、その通りすぎるからなんかつまんないのかも、とか。魔女があんなふう(説明の通り)であることがわかって子供たちがネズミになった時点から、互いにそんなに必死になって戦わなくてもいいんじゃないか、ってなってしまうのね。ホテルでみんな楽しく一緒に暮らせばいいのに… とか。 魔女のみんなが膨れてぶしゅーって飛んでいくところは楽しいんだけど。

子供向けのお話しなので怖がるところは諦めるとしても、それでも身体が変形したり壊れたりするところはもうちょっとわわわわ、とかびっくりしたかったかも。Zemeckisの”Death Becomes Her” (1992)での2大女優の「体を張った」陰惨な戦い、あるいは前作の”Welcome to Marwen” (2018) の人形にならなにやったって構うもんか、のふっきれた残忍さがあまり見られない。やはりOctavia Spencer vs. Anne Hathawayを正面に据えるべきだったのではないか。 ミソジニー野郎とか非難されたとしても(実際そうだったとしても)。

「子供嫌いのRoald Dahlと女嫌いのRobert Zemeckis、奇跡のコラボ!」 ←宣伝コピー。

Nicolas Roeg版の“The Witches” (1990)も最近TVでよくやっているので、改めて見て比べてみよう。


11.11.2020

[film] Relic (2020)

5日、木曜日の晩、CurzonのHome Cinemaで見ました。
あの国の選挙で緊張を緩めてはいけないと思って怖そうなのにしてみたら怖くて、更に少し悲しくなった。

オーストラリアのNatalie Erika Jamesの作・監督による彼女の長編デビュー作。プロデューサーにはJake Gyllenhaalの名前があり、エクゼクティブ・プロデューサーにはRusso兄弟の名前もある(なんで?)。
田舎の一軒家にひとりで暮らすEdna (Robyn Nevin)と連絡が取れなくなっている、ということで娘のKay (Emily Mortimer) と孫娘のSam (Bella Heathcote)が車で現地に向かう。家には内側から鍵が掛かっていて、なんとか中に入ると誰もいなくて、家のなかは暗くて、ポストイットのメモがあちこちに貼ってある。 - この時点で十分に怖くて、奥では壁の向こうから変な物音が聞こえたりクローゼットのクリーニングのビニール袋がみしって鳴ったり。

警察にも通報して様子を見ていると数日後、突然Ednaが現れて体に痣のようなものがある以外は自分の誕生日も娘の誕生日も言えるし、問題ないようで、でもやっぱり今後のことが不安なのでケアセンターへの入居の検討を始めて、KayとSamはしばらくEdnaの面倒を見ながらこの家に残されているいろんな写真とか蝋燭とか浴槽とか、隣に住むダウン症の青年の話を聞いたり、夢なのか現実なのか少し離れたところにある掘っ立て小屋とか不気味な仕掛けがいろいろ揃ってくる。

人がいなくてずっと放置されたままの家が怖いのはあたり前だけど、ひとりで住んでいる老人 - アルツハイマーで記憶を - 自分が自分であることを失いかけている人がずっといる家というのも怖い。その人が失いたくないと思っている何かが、或いはその家 - 長年かけてその住人が形作ってきたその家の何かが、自身を保って失われないようにするためにどんなことをしようとするのか? 自分の半分くらいを失いかけている人を動かしているのは一体なんなのか - それはその人といえるのか? そいつはその人を、家をどうしようとするものなのか?

べつになんの新味もない、古典的な人と家にまつわるホラーというよりE.A.ポーが書く怪談に近いようなお話しで、同じオーストラリアの”The Babadook” (2014)にも近いかんじなのだが、Babadookの天井の隅から湧いてきたような何かよりこっちのおばあさんの方が怖い。昭和の日本には「鬼婆」ていう伝統的な枠があったが、Ednaはそういうかんじではなくて、割とそこらにいそうなふつうの老人でSamにはよいおばあちゃんだったのに、でもそういう人が突然壊れてどこかに行って、というのもよくわかるから。

ここに本当に悪いのがいるとしたら、それは時間、かもしれない。時間の経過が果物を腐らせ、壁のシミをつくり、彼女(たち)に老いと不安をもたらす。でもそれはすべてに平等に働くなにかで抗いようがない。

はじめはボケた老人が自分が死んだこともわからずに歩き回っていた、という落語みたいなオチも考えたのだが、そういうのではなくて、終わりはとても切なくて哀しい。そういうことだったのか、って。彼女は探していたのだ - かさぶたのようにごわごわになっていく肌の内側で、その内側にあるものを。大島弓子の『8月に生まれる子供』とかを思いだしたり。

これ、主人公たちが男性だったら? 怖いものにはできたかもしれないけど、監督が描きたかったのはおそらくそれだけではなかったはず。

音楽はBrian ReitzellとサウンドデザインのRobert Mackenzieがものすごく怖くてよい音を出している。


ここ数日、TVが”Avengers: Endgame” (2019)をずっと流しているのだが、あの大統領選の動画の後であのシーンは前のようには見れなくなってしまった。 しかしこの作品、失われた5年間を取り戻す戦い、ってこの大統領選を狙って作られたものではないか、と思ったりする。 最後にでてくるSteve Rogersの姿なんてBidenにそっくりではないか。 あいつらもThanosみたいにぜんぶ粉になってどっかに散ってくれないだろうか。

11.10.2020

[film] The Falling (2014)

4日、水曜日の晩、MUBIで見ました。

Lock downの最中にとても楽しませてくれた#FridayFilmClubの主宰者 - Carol Morleyさんの作・監督によるもので、今をときめくMaisie WilliamsとFlorence Pughが競演している少女映画。
(さっきまで気がつかなかったのだが、1日の日曜日に#FridayFilmClubが復活していて(番外編?)、”Picnic at Hanging Rock” (1975)とこれの2本立てをやっていた..)

1969年の英国の田舎、水辺の近くにある女学校にLydia (Maisie Williams) とAbbie (Florence Pugh)の仲良しがいて、でも明るく楽しい関係というよりは不機嫌なほうのそれで、AbbieはLydiaの家に入り浸ってLydiaの弟とセックスしたりしているのだがそれがなんなのさふん、というかんじで、家で美容師をしているLydiaの母Eileen (Maxine Peake)も理由はわからないが固まって子供達とは目を合わせようとせず、見て見ぬふりをしている。

そんななか、Abbieは頻繁に失神するようになって、最初は癲癇の発作ではないかとか妊娠したのではないかとか言われていたのだが何度かの失神の後に突然亡くなってしまう。そこからしばらく経って、今度はLydiaも含めた教室の大勢が突然ばたばたと倒れるようになって、学校側は大慌てで全員を入院診察させるのだが、原因はどうもよくわからない。

これ、1965年に英国のBlackburnにあるHilda's Girls' Schoolで実際に起こった事件に想を得ているようなのだが、実際のそれは140人倒れて、翌日にまた98人倒れて、週明けに54人倒れた、とかすごいケースなので違うかもしれない。 この映画の場合、原因は(医者を入れても精神鑑定をしても)病気なのか貧血なのか大気中になにかあったのか祟りなのか雰囲気なのかその複合なのかわからなくて、その起点にAbbieの件があるのか、Lydiaの家庭事情まで関係しているのか、その関連や因果を含めてどこまでも不穏で暗くもやもやしていて、あーいろいろあって吐きそうかも、ってなったところでスイッチが切れてBlack outしてしまうかんじ。

もう少し家庭や学校を含めた周辺の諸事情や彼女たちひとりひとりの内面を照らしてくれれば見えてくるものもありそうなのに、そこには決して踏み込まず、踏み込もうとするその目線にすらNO! を突きつけてくるような強さがあって(わかるもんなら言ってみろ)、特にLydiaとAbbieとEileenの3者の、近くにいるのに(親友なのに、親子なのに)互いに相容れない語りあわないその様ときたら。 すでにX-Menのミュータントのようにそれぞれできあがっているような。

で、彼女たちのこういうありようが物語をより不透明に解り難くしているのかというと、実はその逆というか、そんなふうではなくて、むしろミステリーの暗さと怖ろしさが結晶化して輝いているかのよう。 集団失踪でも集団自殺でもない、集団失神という事象の不気味さ(どこかに消えていなくなりはしない、けどその理由はわからない、という) - 彼女たちが求めていたのは遮断なのか消滅なのか退避なのか浄化なのか。 そんなの知ってどうするの? なにができるの?

そして地面(教室の床)にばったり横に倒れるところからラストの樹(すばらしい樹)からの垂直な落下のイメージへの転換の鮮やかさ。

Florence Pughさんは、この後に(映画では)“Lady Macbeth” (2016)に出るのだから最強としか言いようがない。

 

11.08.2020

[film] Été 85 (2020)

2日、月曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。英語題は、”Summer of 85”。

François Ozonの新作で、夏前から話題になっていたのだが、こういう時代劇は時代が時代(例えばこのころ)だとあれこれ構えてしまったりするもので、劇場公開が始まっても足がなかなか足が向かなくて。
原作は1982年の英国のAidan ChambersによるYA小説-”Dance on My Grave”(未読)でFrançois Ozonは思春期にこれを読んで映画化の構想を練っていたのだという。(映画化にあたり英国のティーンはフランスのに、時代設定は85年に)

冒頭からthe Cureの”In Between Days”が威勢よくどんがら鳴りだすので、これって85年だったかしら?(もっと後じゃなかった?)と思ったのだが、これは85年7月のリリースなのだった。

フランスの海辺に暮らすティーンのAlex (Félix Lefebvre)がカウンセラーらしき女性からなにがあったか話してほしい、と言われていて、それに対してやなこった、って彼は閉じこもっている。

Alexはどこにでもいそうな内気な青年なのだが、エジプトのミイラとか死の世界に取り憑かれていて、学校の先生Mr Lefèvre (Melvil Poupaud)は彼の書いたものに文才を認めて、進学すべきだと強く勧めていて、映画はそんな彼にあの夏はなにをしたのか、なにが起こったのか、の事前と事後を行ったり来たりしながら追っていく。

ひとりぽっちのAlexがボートで海に出てぼーっとしていて気がついたら嵐が来そうになっていたので慌ててボートをひっくり返してしまったところを助けてくれたのがDavid (Benjamin Voisin)で、彼はびしょ濡れのAlexを自宅に連れ帰って、ママ(Valeria Bruni Tedeschi)に介抱させる。 Davidの家は最近パパを亡くしていて、以降ママは少し塞いでいて、自営の店を手伝うためにDavidは学校をやめていて、そんなふたりはAlexを気に入ってくれて、家に居場所のないAlexも入り浸るようになって、背が高くて面倒見がよくて快活で冒険好きで、そんなDavidがAlexには眩しくて、彼のバイクの後ろに乗せてもらったり、遊園地に行ったり、夜に彼の部屋で..  

そんなふうに夢のように過ぎていく夏の日々だったのだが、Alexが知り合った英国の女の子Kate (Philippine Velge)をDavidに紹介したあたりからおかしくなってきて、束縛やおせっかいを嫌うDavidとの間で諍いがひとつふたり湧いてでて。

なにがどうなったかは書きませんが、ひとつ、DavidとAlexがどっちかが先に死んだら、残されたほうは死んだ方の墓の上でダンスをすること、ってふたりは誓いを立てていて(→ 原作のタイトル)、それを巡ってのあれこれがあるの。ここのところは、François Ozonの人肉に対する拘り(→ “L’amant double” (2017)の辺)を見ることができるかも。

Super-16で撮られたというどことなくレトロな色味とかややださめなファッションが主人公ふたりの真面目さ(うん、真面目なのはいい)と絡まって見事にあの時代のドラマを作っているかんじなのはわかるし、わかるんだけど、それがどこに向かおうとしたなんなのか、がちょっとぼけてしまったかも。
(そういう意味で、同じ80年代の若者たちの恋愛を描いた”Call Me by Your Name” (2017)は、エンドロールのTimothée Chalametのぐしゃ泣き顔にすべてが集約されていてよかったのかも)

音楽は”In Between Days”の他に、Lloyd Cole And The Commotionsの“Forest Fire”が聞こえてきて、あとはBananaramaの”Cruel Summer”と、フランスのディスコみたいなの - ”La boum” (1980)への言及があるらしいのだが、もう40年前のことなので覚えていない。 あとは、Rod Stewart’の”Sailing”が重要な役割を果たしていて、それかよ(なんかださくねえか)、って。 



85年の音楽といったら、丁度いま裏(?)の#TimsTwitterListeningPartyでやっているScritti Polittiの”Cupid & Psyche 85”がまずあがって、あれは英国のインディペンデント(Rough Trade)とNYのパンクとNYの先端スタジオミュージシャンとArif Mardinがゴージャスな星雲を作ったやつで、ゴージャスすぎてRough Tradeの経営を傾かせたやつだった。 それにしても、リリースされていないNile Rodgersのミックスによる”Small Talk”があるとか、Andy Gillのギターソロを録ったけど使わなかったとか、なにやってんのあんたら?
ウィトゲンシュタイン曰く、とかホワイトヘッド曰く、とか言っているのは相変わらずだねえ。

もういっこ、2020 MTV EMAていうのも横目で追っているのだが、こっちはさっぱりわかんないわ。

[film] Coup de foudre (1983)

10月31日、土曜日の晩、Criterion Channelで見ました。
これも31日でいなくなってしまうリストからの1本。 原題をそのまま英訳すると”love at first sight”なのだが英語圏でのタイトルは、”Entre nous” = “Between us”となっている。

''Peppermint Soda'' (1977)のDiane Kurysの3作目で、''Peppermint Soda’’は彼女の姉に捧げられたドラマだったが、ここでは彼女たちの母の物語を。

第二次対戦当時の1942年、ベルギーのユダヤ人Lena (Isabelle Huppert)はフランス南部でドイツに送還される手前のキャンプに収容されていて、そこで働くフランス軍人でやはりユダヤ人のMichel (Guy Marchand)から配給食のパンに挟まったメッセージ - 結婚してここから出ないか? を受け取って、顔も知らないし言葉も交わしたこともなかったのに、いちかばちかでそれに乗っかる。

ふたりは難民で一杯の列車に乗って、そのあとに徒歩で山を越えてなんとかイタリアに逃れる。丁度その頃、画学生だったMadeleine (Miou Miou)は結婚直後に襲撃にあって同窓生だった夫を失って、そこから10年後の1952年。

リヨンでLenaとMichelはふたりの娘と一緒にそこそこ幸せに - 金勘定にはがみがみやかましくてうざいけど子煩悩のMichellと - 暮らしていて、Lenaはある日、役者志望でやや遊び人ふうのCosta (Jean- Pierre Bacri)と結婚して息子ひとりと暮らすMadeleineと出会って仲良くなって、映画はふたりの女性の交流を軸に、それぞれの家庭にやってくるそれぞれの危機とかうんざりに決断と乗り越え - 夫との関係、子供達との関係、理想と壁と現実 - を淡々と描きつつ、やがてLenaとMadeleineとの友情 - ふたりが一緒に描いていた夢か夫婦関係か、みたいなところに近づいていって、そしてふたりは…

それなりに長い時間軸で展開していくドラマなので、キャラクターの描き方、エピソードの取り上げ方、決断の転結の描き方によっては荒唐無稽でださいほうにブレて行ってしまう可能性もあったはずなのだが、とても落ち着いた無理のない流れができていて、その底にはLenaとMadeleineの揺るがなかった友情が - おそらく監督がなんとしても外したくなかったもの託したかったものがあって、だから安心してのめり込んで見てしまった。

それを可能にしたのはふたりの女優 - Isabelle HuppertとMiou Miouの演技のすばらしさで、夫に向けられる不信 - あんたに何がわかるってのよ - の眼差し、子供たちに注がれる愛の眼差し、お互いを見つめ語り合う姿の強さ確かさ - 愛か友情かどっちかなんて強調するまでもなく - ときたら見事としか言いようがない。撮影時、ふたりは30歳前後だったはずで、年齢なんてどうでもいいかもだけど、すごいねえ。

で、最後の字幕でこの後の顛末と、これが監督の家族の話だったことを知って改めて、ここからあの娘ふたりが”Peppermint Soda”に繋がっていくのかー、って。 いや、ここから”Peppermint Soda”を見直したくなったし。

まだぴちぴちのDenis Lavantが若い兵隊役でちらっと出てくる。


やっと決まったねえ。 今日は昼にずーっとFrederick Wisemanの”City Hall” - 4時間半 - を見ていて、見終わって放心状態だったところで決まったので、これからはこれ(ってなに?)だ! ってなった。 現地のお祭り騒ぎがうらやましいけど、失われた4年間を立て直す - リストアするのが相当に大変 - これは向こうの国の他人事ではなくて。本当にいろんなものが壊されて失われたし、人権や正義や悪について手元足元で考えさせられたし。 臭いものにフタ、じゃなくてああいうふうにならないためにどうすべきなのか、なにができるのかを考えていきたい。 にっぽんもいい加減に目をさましてね。


11.07.2020

[film] Astenicheskiy sindrom (1989)

1日、日曜日の夕方、BFI Southbank – 映画館で見ました。153分の。

”Women Make Film: A New Road Movie Through Cinema” (2018)で紹介された映画特集からの1本。この中では5回、結構多く参照されていたので見てみたかった。ウクライナのKira Muratovaの作品で、ソヴィエト映画として制作されて、90年のベルリン国際映画祭では銀熊 - 審査員特別賞を受賞している。英語題は”The Asthenic Syndrome”。日本では公開されていない?

ものすごく独特で変なテイストの映画なのだが、目が離すことができない。これはなんだろ?って。 

2部作からなる、と字幕で出て16mmのようなモノクロで、3人のおばさんが「みんなでトルストイを読めば幸せになれるー」って唱えていたり、男たちが猫の尻尾に缶からを付けようとして逃げられていたり、墓場のような場所で沢山の埋葬が行われようとしていて – たぶんどれも本当の葬儀の場なのでは - お棺から頭だけ出ていて、Natasha (Olga Antonova)も夫の葬儀をしようとしているのだが途中で耐えられなくなったのかそこを抜け出して、誰も乗っていない市電に乗って終点に来ると入れ違いで乗り込んでくる客達と大わらわになって、自分のアパートに戻ると亡夫の写真とか眺めてワイングラスを猫みたいにテーブルから落としたりクローゼットのものをぶちまけたり、病院(彼女は医者らしい)に行って医師や患者たちとごたごたして、そこらの酔っ払いを拾って部屋に呼びこんで寝て - 追いだして、そういう支離滅裂なNatashaを追って、でも最後にそれが上映されている映画の一部であることがわかる。

第二部は先の映画でNatashaを演じた女優さんと司会者がステージ上に立っていて、画面はカラーに変わっていて、壇上からこれから上映後のQ&Aをするので残っていってねー、と声をかけるのだがみんな目を合わせずにぞろぞろ出ていってしまう。そこで最後まで客席でぐうぐう寝ていたのが第二部の主人公のNikolai (Sergei Popov - 彼は脚本にも参加している)で、学校の教師をしているのだが The Asthenic Syndrome - 無気力症候群と診断されていて、人が行き来する地下鉄の通路だろうがなんだろうがどこでもすぐにぐうぐう寝てしまう性癖があって、そんな彼が日々を過ごしていくなかで遭遇したり通過したりする変な人達とかかわいそうな動物たちとか、彼の末路とか。

全体としてものすごく狂って腐った世界をドキュメンタリーのように描いている – この作品はペレストロイカ時代のソヴィエトで唯一公開禁止となったのだそう – のだが、主人公が現実にアタッチできない無気力症候群であることによって全てが悪夢とか白昼夢のなかに浮かんでいるようで、それがよくもわるくも絶妙な軽妙さをもたらしていて、でも夢は、どんな夢でも存在するものだからたちが悪いし、夢と呼ぶにはあまりにも微細に具体的に目のまえにあるので、きついかんじもするし。

第一部の方は約40分くらいで全体からすると第二部の方が圧倒的に長いのだが、描かれている世界 - 映画と現実 – にそんなにギャップはない。第一部は何があっても見ても出会っても嘆き悲しんで壁に頭ぶちつけて手をつけられなくて、第二部は同様に何があっても眠りに落ちて視界を閉じてしまう – 彼らはどこまでも圧倒的に無力で無害で隙があれば眠りにおちたり移動したり。Natashaは肉親の死を嘆き悲しむことで社会から切り離され、Nikolaiは熊に会ったときのようにどこでも眠りこけるのでやはり社会からみればいなくてよい存在 – なにしろ無気力症候群という病気なんだから – とされてしまう。

そういうかたちで投影される社会の病理、という言い方もまた、無気力の名の元に無効化されてしまうので、ここには無限ループのようなしょうもない状況があって、それこそが今の(当時の)我々の状況なんだよ、って。最近はやりのディストピア、とも違って、社会がどこかに向かって循環しているかんじが全くしない。ソヴィエト/ロシアという国への直接の言及もない。でもこういう場所があることは想像できる。 ブリューゲルの絵の実写版のような。

80年代初くらいには日本の若者にも無気力症候群とかしらけ世代と呼ばれた頃もあった。(あと、若者の右傾化はこの頃から言われていて、朝日ジャーナルとかで特集されたり) もちろん背景は全く異なるので簡単にそうそう、なんて言えないのだが、映画がこのタイトルの元に叩きつけようとした風景 - 風景のありようはなんとなくわかる - 例えば第一部の市電の描写のところとか、ものすごく。

これが約30年前って..  


アメリカの選挙報道(CNNとCNBC)がおもしろくてずーっと見ている。
基本は入ってくるデータと過去のデータを中心にずっと数字の話をしているだけなの。今こういう数字が入ってきたがこれをこれまでの数字統計に掛け合わせるとこうなるはず、って手元で計算して、その確度は、とか全体で見ると、とかを州や郡のレベルで掘って積んでを延々繰り返しやっているだけなのに、おもしろくてもう通算40時間くらい見ている。 くだんない学者や「識者」のコメントなんて本当にいらないんだよ。数字が全部語ってくれるし、そうすることで自分の一票はこういう形で活きて使われるんだ、っていうがよくわかるし(投票していなくてもね)。
そこいくと日本の選挙報道(っていうよりショー)は政治への興味を失わせるためにやっているとしか思えないわ。

それにしても、ずーっと「253」だな。

11.06.2020

[film] La Belle Noiseuse (1991)

10月31日、土曜日の昼、Criterion Channelで見ました。31日でいなくなるリストにあったので。
邦題は『美しき諍い女』。公開時にも見ているし、原作の『知られざる傑作』も読んでいるのだが、どちらも忘却の彼方にあったので、とっても新鮮に見ることができた。

監督Jacques Rivette、原作Honoré de Balzac、脚本Pascal Bonitzer、撮影William Lubtchansky、音楽Igor Stravinsky、主演にMichel Piccoli, Jane Birkin, Emmanuelle Béart って、夢のようにゴージャスなスタッフでキャストでオペラのように揺るがなくて、これならあと6時間でもそれ以上でも見ていられる。

南フランスのホテルに滞在している(David Bursztein)とMarianne (Emmanuelle Béart)の若いカップルがいて、画商のPorbus (Gilles Arbona)に連れられて近くの古城に暮らす画家のÉdouard Frenhofer (Michel Piccoli)とLiz (Jane Birkin)の夫婦を訪ねる。 Édouardは画家としての活動は休止しているようだったが、もう使われていないアトリエに足を踏み入れて、かつて描いていた – そして途中で止めてしまったらしい - 10年前の絵のことに触れられるとやや過剰に反応して、その様子を見たNicolasはÉdouardにMarianneをモデルにその絵 – “La Belle Noiseuse”と呼ばれた - を再び描いてみる気はないか、と持ち掛ける。

しばしの沈黙の後、Édouardはやってみよう、と言い、でもNicolasはそれをMarianneがいないところで彼女の合意なしに決めちゃったので彼女は当然ふざけんなって激怒して(当然)、でも当日になるとひとりで城に現れる。Édouardは淡々とアトリエの椅子や家具を動かし画材一式を用意して、初めはノートにペンと墨で、それから紙にチョークで、最後は絵具で、そのサイズは段々に大きくなって、Marianneに対しては立たせて座らせて、着衣で脱がせていろんな姿勢を取らせて、様々なバリエーションの絵を描いては捨てるように重ねていって、徐々に何かに近づいていっているようなのだが、それが何なのかどんなものなのかは、Marianneに短い指示とポーズを固定させるばかりで全く語らない。

当初激怒していたMarianneは一日モデルをした後に疲れたのでもう来ないかも、と言い残しながら翌朝には再び現れて、求められるままにいろんなポーズを取って彼の目や筆の動きと対峙していくうちにÉdouardに対してなのか、描かれつつある絵画(or 完成されてしまう絵画?)に対してなのか、挑みかかるような目と態度に変容していく。単なる画家とモデルの関係が画布を挟んでそうではない何かに変わろうとしているかのような。それはどこで何を起点に起こりなにを目指しているのか、当事者たちにもわからないかのような。それがもたらすのは恐怖なのか恍惚なのか絶望なのか。

彼らの周辺で別世界に行ってしまったふたりを恐々眺めているのが、Édouardが最後に手掛けていた作品のモデルだったLizと、Marianneを売ってしまったことを後悔しているNicolasで、でも気付いた時にはどうすることもできないのだった。

これ、建てつけとしては明らかにクラシックなホラー映画のそれで、カメラも割とそういう動きをする - 画家の手元と部屋の全体の往復とか城の構造とか。怖れを知らない若いカップルが古城を訪れて、そこに暮らす伝説の画家とその妻 – 過去の何かを引き摺っている不自然なカップルと出会って、隠蔽されていた彼と彼らの過去の秘密 – 秘教的な何かに触れて引き返すことができなくなる。そしてまさにその核心に届きそうになった時..   結局その何かは壁の奥に塗りこまれてその蓋を閉じてしまう、と。

絵を描くことを第三者には触れようがない特別な経験として描いて、そこに第三者としての映画はどこまで迫ることができるのか、それはいまの世界とどう繋がっているのか、というテーマの広がりがあって、同時に絵を描くということを画布と対象の間に起こるなにかとして捉えて - それってなんなのか、”OUT 1 : Noli Me Tangere” (1971)で繰り返されるリハーサル風景と同じなのか違うのか、などなど。

Michel Piccoli、すごいねえ。巨匠と変態の紙一重みたいな佇まいって、彼ならではの。


ロックダウンの初日、でも別にこれまでとそんなに変わらないような。お店は人数制限しているところもあればそうでないとこもあるし。とにかく夕方に買いものに行く時には日が沈んでいるのがなんか寂しいかも。暗いと遠くまで行く気にも新しいお店を探してみる気にもならないし。
 

ジョージア ... 行け(祈)。

11.05.2020

[film] Martin Eden (2019)

10月27日、火曜日の晩、BAMのVirtual Cinemaで見ました。

Jack Londonの1909年の同名小説(未読)の映画化。日本では公開済み、アメリカでは公開中、英国には未だ来ていない – そのうち来るだろうけど。

舞台は原作の米国オークランドからイタリアに変わっていて、労働階級や労働運動のことも含めて、20世紀初のイタリア – ナポリのお話しとして見て全く問題ないように思える。

Martin Eden (Luca Marinelli)は船乗りで港でちょっと荒っぽいやくざな生活をしているのだが、ある日絡まれている若い男の子を救ったらそのまま彼の家に招かれて彼の姉であるElena Orsini (Jessica Cressy)と出会う。ボードレールがすばらしいという彼女との会話に全然ついていけなくて、それなら彼女に好かれるようにおいらも作家になるんだ、って決意する。

本を買って読んで手に入れたタイプライターにタイプして(よい音)、小説でも詩でも手当たり次第に出版社に送っていくのだがどれも束になって送り返されてきて、なんでだ? って頭を抱えて、勉強しなさいあなたの学力は小学生並みなのだから、って言われてううって悶えて、それでもがむしゃらに書いていくと採用してくれるところが現れて、パトロンらしき老人も現れて、その書きっぷりから野卑で粗削りな視野にスポットが当たって社会運動にも巻き込まれるのだがあんま考えてないのでぼこぼこにされて、こんなふうに作家になろうとするMartinの精神面の格闘や葛藤が描かれる。

ふつうのお話しだったら、作家になる動機がElenaに惚れられたいからなんてそもそもそこから無理なんじゃないか、とか思うのだが、この映画のMartinのぎらぎらした目と挙動を見ているとそんなに違和感はなくて、労働者階級のMartinがブルジョワのElenaと一緒になるんだ、という荒唐無稽な御伽噺みたいなことがひょっとしたらありうるのかも… って思えてくる。

たぶんこの話 – 映画にのれるかどうかは、この点にかかっていて、のれるのであればクラシカルな70年代の映画みたいなトーンはたまんない背景になるし、そうでなければみんなかっこつけてるだけの絵巻物映画になってしまう気がする。 ただそれであったとしても、Martin - Luca Marinelliの暗く獰猛な目の磁場から目をそらすことができないのではないか。こいつがはったりのみの詐欺師野郎だったとしても、なんでこんなふうにこちらを見つめてくるのか、と。

ElenaとMartinの恋がうまくいっちゃったらそれはそれで.. なのだがそうでもないのもよいし、最後は海に向かって”Quadrophenia” (1979) みたいになるのだが、キャラクターの輪郭や臭気からすると成長物語、というよりは別れてからなし崩し的に闇社会に潜って狂犬になっていく”Taxi Driver” (1976)とかピカレスクロマンみたいな方が流れとしてはしっくりきたのではないか。Jack Londonのお話しではなくなってしまうけど。

それか、70年代のFelliniみたいにいろんな人がわらわら湧いてでていろんなこと好き勝手に言うだけでなにひとつ動いていかなくて、最後は遠くから手を振ってみんなばいばい、とか。

そういういろんな可能性とか豊かさを感じさせるとってもイタリアらしい様式の作品ではあったかも。やや前のめりで男(ガキ)臭い、のはしょうがないかー。


今朝は結局5時くらいに目があいて、スマホを見ながらずうっとうううー、ってひとりで唸っていて、お昼寝もできないし食欲もないしどうしようもないし(仕事はいつも集中してないから)。明日からロックダウンになるので夕方買い出しに出てもみんな賑やかすぎて違和感しかないし。

四年前の開票日のときはシアトルにいて、全身から力と血の気が抜けていく悪夢のような時間を味わったことを思い出した。

なんで他の国の大統領選がそんなに気になるのか心配なのか – あの国の大統領がどんな人なのか、その政策が世界の次の4年間を決めてしまう、っていうのがわかっているから。いまのあの豚野郎のせいで本当に多くの人が、動物も含めて亡くなって、環境とか規範とか破壊しつくされた。アメリカなんて、経済なんてどうでもいい、強さとかGreatとかほーんとにどうでもいい。憎しみや偏見や繁栄のために人を殺すな、って。

日本はもうだめかもしれない、もうほぼだめだと思う。でもアメリカ合衆国はまだ…  って思うところが少しだけあるから。

本当に本当の確定がでるまで信じない。


11.04.2020

[film] God's Own Country (2017)

10月26日、月曜日の晩、BFI Playerで見ました。

LFFで見た”Ammonite” (2020)のFrancis Leeの長編デビュー作。今でもたまに劇場でかかるし、ストリーミングではどこでも普通に見れる、英国ではそういう息の長い作品になっている。

ヨークシャーの田舎で羊や牛の牧畜をしている農家にJohnny (Josh O’Connor)がいて、父は倒れて半身が利かなくなり、祖母は生活全般があって動けないので、彼に一家(含.家畜)のこれからの全てがのしかかろうとしているのだが、どうしろってんだ、って半分やけになって絶望してて夜にパブで飲んだくれて目があった男子とトイレでやってゲロ吐いて気がつけば道端で.. みたいな荒んだ暮らしを繰り返していて、そうやって朝帰りしていると出産で子牛が死んじゃったり、はっきりとやる気もなければ未来もないかんじ。

ある日、農場支援プログラムみたいなところからルーマニア人のGheorghe (Alec Secareanu)が派遣されてきて軒先に部屋を借りて、同じ屋根の下で一緒に暮らし始める。Johnnyは初め彼のことをジプシーじゃないか英語は喋れるのか、とか冷たい目でからかうのだが、彼は瀕死だった子羊を蘇生させたり、死んでしまった子羊の足先を4本ちょんてハサミで切って毛皮をするする剥いで、それを瀕死の子羊の方に被せて着せると親羊が構ってあげるようになったり(ここ、実際にやっている作業なのだろうけどちょっと感動した)、羊飼いとしての手腕は確かなようで、ふたりは飲んだくれ野郎ちゃんと仕事しろ vs. ジプシー野郎国に帰りやがれ、とか小突いたり吠えたりしつつ仕方なく手を貸しあうようになって、やがて..

地の果ての 羊牛以外に誰も好んで寄ってこないような土地 – God’s Own Country - で心身共に羊牛並みに汚れて疲れて明日の見えない男たちが半泥のなかで取っ組み合って、そのままキスして抱擁に至って崩れ落ちる。(あんま読んだことないけど)世でBLと呼ばれているのかもしれない若く青くきらきら眩しいイメージは全くない。彼らの恋はそれによって浄化や救いがもたらされる類のものではなく、泥のなかで更に泥にまみれて地中に埋もれてひとつになる、或いは単なる暇つぶしなのか - そういう大地を耕す経験のように描かれていて、そのシンプルさ故に十分な説得力と力強さがあると思った。神話で描かれた剥き出しの、ただ起こってしまいました、それだけのような。

もちろんそれは親たち&世間に知られないわけがなくて、”Brokeback Mountain” (2005)のような悲劇になったらやだなー、とはらはらしながら見守るのだがそれはなくて、どこまでも一途でストレート – or 獣のそれのよう – な恋物語で、ぜんぜん悪くないの。人も獣も恋におちる、例えばこんなふうに。以上。

”Ammonite”での恋の描き方もこれと似ていて、農場の泥が海辺の潮とか石の味に変わりはするもののひとつの愛の誕生を描いて、その始まりにおいてはLGBTQもないの。ただ動物のように寡黙で荒々しい生々しい交わりがあるだけで、神の国とはそういうものなのか?(ふたつの映画のセックスシーンの猛々しさはこれまで映画で描かれてきたそれとは違うかんじでなんかよいの)

なんでヘテロじゃないの? って思う人がいるのかもしれない。そこのところ - なんでそう思ったのか - は各自考えてみよう。

Josh O'Connorの堕落っぷり乱れっぷりが見事で、そこだけでも。“Only You” (2018)も公開されてほしい。


開票が始まった。もう既に吐きそうになので、寝ます。

11.03.2020

[film] Le beau mariage (1982)

ああもう11月なんだわ。10月20日、火曜日の晩、MUBIで見ました。
英語題は “A Good Marriage” 、邦題は『美しき結婚』。Éric Rohmerの喜劇と箴言シリーズの2作目。

最初にラ・フォンテーヌの寓話『乳しぼりの女と牛乳壺』から“Quel esprit ne bat la campagne ? qui ne fait château en Espagne ?” – 「取り留めもない空想にふけったり、支離滅裂なことを言ったりしない人がいるだろうか? 空中楼閣を築くような実現不可能なことを計画しない人がいるだろうか?」 っていうのが出る。

ル・マンで美術史を勉強しながらアンチーク屋でバイトをしているSabine (Beatrice Romand)がいて、妻子ある画家と付きあっているのだが、もうこんなのはやめだ! あたしは結婚するんだ! って宣言して彼との関係を断って、友人のClarisse (Arielle Dombasle)のところに行ってそうします、ってのをぶちあげると彼女はふんふん、て聞いてあんたにひとりよさそうなのがいるかも、って披露宴パーティで従兄で弁護士のEdmond (Andre Dussollier – 若い.. )を紹介してくれる。

会った時点ではふーん、まあまあじゃん、くらいを装っているのだがSabineの内部ではしっかりスイッチが入ってしまったらしく妄想が暁に向かって爆走して結婚に向けたシナリオと理想の夫婦像みたいのが彼女とEdmondを中心に雲のように形成されて誰にも止めることができなくなってしまう。こんなの誰に止めることができようか。自由だし。

こうしてふたりでレストランで食事して、彼が探していると言ったアンチークを融通してあげて – バイト雇い主から勝手なことするなって怒られて喧嘩して捨て台詞残してバイトを辞めるはめに – Sabineの誕生日に彼を自宅に招いて母親と妹を紹介して、それぞれの局面で若干の失望や躓きや涙はあって当初描いていたシナリオとか作戦をちょっとずつ微調整しつつそれでもなんとしてもEdmondと結婚するんだ自分ならそれができるなぜならそれは自分だからだ、って。でもあまりにもEdmondの反応が緩いのでパリにある彼の事務所に突撃すると ..

前作の『飛行士の妻』 (1981)ではやはり冒頭に妻子ある男性との交際が壊れそうになり、そこを起点にその女性を見ていた主人公(♂)が推理妄想を利かせて走り回る話で、今作では主人公が女性になって彼女の(推理や希望というより)確信が空想上のゴール「美しき結婚」に向けて暴走していく様を描く。どちらの主人公も止まらないし止められない、どうぞ存分お好きに、というあたりは同じかも。

結婚て関係のいち形態にすぎないので、そもそも「よい」も「わるい」もなくて、それをそう呼びうるのは非当事者とか親戚のおじさんおばさんとかに他ならないのだが、だからこそそれはこんなにもおもしろい、おもしろいと言いうるなにかを呼びこむことができる。でもなんでそれがそうなっちゃうのかは彼女には説明できないの。結婚してないから。そして結婚してからも、それは大きなお世話じゃ、って言われてしまうの。

今の若者たちからすれば、なんで結婚にそんなに拘るのか、それがなんで「美しき」になりうるのかたぶんよくわからなくて、自分にもあまりよくわからないのだが、でも80年代初には結婚がそういうゴールとして設定しうる恥ずかしくないなにかであることを確信している人達がそこらにいたことは確かだった。だからそこに向かって一直線のSabineを嗤うのってあまり適切なこととは思えなくて - これってrom-comでは普通の基本の黄金の態度だし - むしろそれをどこまでどう見せるのか、この物語全体が「喜劇」として成立している意味とかおかしみとかについて考えてみること。冒頭とエンディングに出てくる列車のなかのあの男はこれからどう動くのか..  とか。いくらでも膨らんで広がっていく可能性とか豊かさとか。

Sabineの妹役で『友だちの恋人』 (1987)のSophie Renoirが出てくる。そうか姉を見ていたからか、とか。

ぴこぽこポータブル電子音楽は『レネットとミラベル 四つの冒険』(1987) のRonan Girre。


4年前のことを思い出して今からもうどんよりしている。あの日の全身から力が抜けていく虚脱感と恐怖感。あれ以来メディアも一切信用できなくなった。「あれ」がまたやってくる..

11.01.2020

[film] Wolfwalkers (2020)

10月28日、水曜日の晩、CurzonのBloomsbury – 映画館で見ました。

ロックダウンの最中に死ぬほどいっぱい見てやや辟易しているDisney-PixerによるAIが考えてCGが作ったようなプログラミングアニメも、夢を売るとかのしらじらしい名目のもと大量の労働者を酷使・搾取する手工業ジャパニーズアニメももういいや、になっているなか、これは大好きだった”Song of the Sea” (2014)のスタジオによる新作。 日本でも丁度公開が始まったのね。

1650年、クロムウェルによるアイルランド侵略が始まった頃の血塗られたキルケニーの地で、父 (Sean Bean)と一緒にイングランドからやってきた娘のRobyn (Honor Kneafsey)は地元で恐れられていた狼の群れの脅威を払う狼ハンターとして働いている – 正確にはハンターなのは父で、Robynは父の手助けをしたくて横にひっついて走り回るのだがじっとしてろ、っていつも怒られてばかり。

不思議な力をもっているとされる狼の群れは神出鬼没で賢くて手強くて、Robynは飼っている鷹のMerlinを連れてがんばるのだが近寄れなくて、ある日きた!と思ったら失敗して噛まれて気を失って、そこで狼たちを引き連れた不思議な森の少女 - Mebh (Eva Whittaker)と出会ってだんだん近づいていく。

征伐を強引に進めていくLord (Simon McBurney)とその下の軍から狼の群れをなんとかしろ、って命じられて苦闘する父とRobyn、Robynの友達になったMebhと狼たちの運命がどうなっていくのか、という流れがひとつと、狼に噛まれてから不思議な力 – 眠りにつくと幽体離脱して狼の嗅覚聴覚をもって素早く自在に動き回ることができるWolfwalkersのそれ - を持ってしまったRobynがこの力を使ってこの危機にどう立ちまわって乗り越えることができるのか、というのがもうひとつのテーマとしてある。 “Twilight”の中世アイルランド伝説版みたいな。

イングランドは自国のパワーを誇示するためにも我が軍が危険な狼族を退治してやったぞ(感謝しろ)、ってぶちあげて侵攻に拍車をかけたいので父にもプレッシャーをかけてきて、でもRobynにはMebhとの友情に加えて大狼の状態で捕らえられている彼女のママがいることがわかって苦しい。やがて軍が征伐のために大勢で森に入って火を放ち始めて、どうなっちゃうのか..

狐や狼のお話って、化身が絡む昔話とか言い伝えって悲しい終わり方をする - だいたい身代わりになって討たれちゃったり - のが多いからきゅぅぅってなりながら見ていたのだが、これは大丈夫だったかも。

ワイルドの怖いもの知らずで元気いっぱいの(ムーミン - 日本版の - ミイみたいな)Mebhがでっかい髪の毛をばさばさ言わせてぐいぐい引っ張って暴れまくるのと、あたり一帯の誰もが人質状態で格子に囚われて身動きとれない状態のなか、森を中心に自在に走り回る狼たちの奔放さが素敵で。すべてもう失われてしまったものだったとしても。

森の情景の水彩にペン画みたいに膨らみのある描き方と、町や屋内の木版画のようなごつごつしたタッチの組み合わせがよいのと、人 - 町民と兵士たち - と森の動物たちの描きわけも稚拙で漫画みたいだけど、漫画なのでよいと思うし。漫画というか、子供の頃に読んだ絵本て、こういう絵の状態でずっと残っているなあ、って。 子供が見たら夢中になる/なってほしい、と思うけど最近のアニメに勝てるかなあ。勝ち負けじゃない、って言いたいけど最近の大人は腐りきっててそういうふうにしか見ないから(そして負けるとすぐに視界から消しやがるし)。

Wolfwalker、なれたら素敵だろうなー。寝入ったら狼になって外を走り回るの。夜更かししなくなるし、寝ているんだからいくら遊んでも跳ねても寝不足にはならないんだよね?  夜中に出てくる近所のキツネたちも実はそういう連中だったりして。

そういえば、WolverineのHealingパワーってこのあたりが起源なのかしら?


ロックダウンは木曜日からなので、そこに向けて美術館とか映画館をもう一回チェックしている - いくつかないことはないけど、もう腹を括る。絵を見たり映画館に行けることがどんなに自分にとって大切なことか思い知ることになるので、そういう点では悪くないかも。少し前にドイツに行けたのはラッキーだったなあ、って。