3.28.2011

[film] Antichrist (2009)

土曜日のにほんめ。武蔵野館で。

311以前の週末だったら、こんなサイコ系の2本を同じ日に見るのは疲れそうだしちょっと、だったはずだ。 でもいまは、ぜんぜんへでもねえ。

これもデジタル上映だった。渋谷のもそうだったから、フィルムでは入ってきていないのだろう。
しかもぼかしアリ。「公的機関による適正な指導により」云々。 
く~だらない く~だらない。

一人息子の事故死をきっかけに悲しみと狂気の果てをさまよってしまう夫婦、て、いまNGじゃないのか? とか、それいうなら大切な家族を死の国に送る「ブンミおじさん」だってNGじゃないの? とか、それいうなら「王様のスピーチ」だって、焦点の定まらないへたくそなスピーチは国民を困惑させるだけだということをわからせてしまうからNGじゃないの? とか。

全部で4章、"Grief", "Pain (Chaos Reigns)", "Despair (Gynocide)", "The Three Beggars"、そしてプロローグにエピローグ。

登場するのは妻(Charlotte Gainsbourg)と夫(Willem Dafoe)、彼らの息子、鹿さん(Grief)、狐さん(Pain)、鴉さん(Despair)、これらレッツゴー三匹で"The Three Beggars"、あとは森とか木とかドングリとか。

息子を失った後、悲嘆に暮れてそのまま病んでしまった妻を治療するため、セラピストの夫は妻を"Eden"という森に連れ出す。 妻の悲嘆の根源にある恐怖はその場所にある、と妻が言ったから。 行かなきゃよかったのに。

妻と夫は名前を持たない。というかお互いを名前で呼ぶことはなく、治療以外の会話をすることも、食事を取ることもない。ふたりがお互いを男と女として認識するのは、セックス - 交尾のようなそれ - をするときだけのよう。

Edenの山小屋で、夫は妻の恐怖の根源を探り当てたかに見えたのだが、そのとき既に妻は ー

SMホラー、と言おうと思えば言えないこともないが、恐怖の正体は結局なんだったのか、あんましよくわからない。見えない、わからないからこそ怖い、ということもあるのだろうが、この映画の核心はそこにはない気がする。

受苦とはどういうものか、我々はなぜ苦しみを受け入れるのか、その果てに救いはありうるのか... というのを動物と人間、とか性差とか、そういうレイヤーで抉り、16世紀の昔から夫婦、森、宇宙まででっかい風呂敷を拡げてみせる。

のだが、映像が圧倒的なので、とんでも感はぜんぜんなく、むしろひとつの固化しながら闇に向かってゆっくりと閉じていく世界、を静かに描く。
その静けさ故に、どんぐりの音も狐のあのひとことも、シャルロットの「どこぉにおるんじゃわれー!」というドスのきいた絶叫も、やたらおっかなく響いて、どこまでも追いかけてくる。

タイトルの"Antichrist"については、その重さをストレートに受け止めてもよいが、もっと軽く、女は男ではない、キリストとはちがう、その程度でもよいのかも。

Lars von Trierって、これまで方法論とか作法とか、そういうところばかりが物語から浮きあがってみえた気がしたが、今回のこれについては、落ちついてて見事だとおもった。
でも、このひと、過去の作品からずっとそうだけど、よっぽど女性に屈折した何かを抱いているのか、こわくて聞けない、それくらい今回のは陰惨、でもある。

ブンミおじさんとFantastic Mr.Foxをあわせてダークに染めあげたかんじ、というか。 一人息子を事故で失って悲嘆に暮れる夫婦を描く、というところではニコールの"Rabbit Hole"にも似ている。あのなかで兎穴の本が妻にとって救いの光となったのに対して、ここでは16世紀のサタンの書が災厄を運んでくる。
それかー、『ダリアの帯』の暗黒反転版とかー。

ただ、こわいのいたいのがだめなひとにとって、Chapter3以降はとにかくきつかった。
あんなの、思いだしただけで気が遠くなる。画面上で泣いたり叫んだり、が無いと、その分かえって痛さが際立つのだなあ、とおもった。

あと、くそったれのぼかしね。あそこで彼女はいったいなにをちょんぎったのか、それがわからないなんて、ありえない。

あと、『なまいきシャルロット』 (1985)と『ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール』(2001)しか見てこなかったひとが、いきなりこれみたらけっこう衝撃だろうなー、とか。

でも作品はほんとにすごいですから、見ませう。

3.26.2011

[film] Mad Detective (2007)

なんかものすごく居心地がわるくて気持ちがわるい。

みんながみんながんばれにっぽんにっぽんつよいみんないっしょだとか言ってるいちばん苦手でいやなモードでとにかくはずかしいひこくみんでいいからふきんしんでいいから同調したくないにげたいかくれたい。

そんなぐあいにずうっと後ろ向きなので会社の帰りにタワレコとか行っても混乱して変なのばっかし買ってしまう。
Nick Heywardのソロとか。 それにしても"North of a Miracle" (1983)は改めてとんでもない名作だとおもった。 1/4世紀ぶりに聴いたけど、どれもまだぜんぶすらすら歌えた。

ライブがドミノ倒しにキャンセルと延期ばっかしになり、映画も"Battle: Los Angeles"とか"Sucker Punch"とかいま一番みたいのが次々延期になり、それだけで息たえだえになっている。
だってそれしかないんだもん。 仕事きらいだし。

いまの自分にできることと言ったらとにかく映画館に通ってこんな事態になってもお金払って映画を見にくるぼんくらはいるんだと思わせてやることくらいしかない。 
なにがあってもTSUTAYAなんか行くもんか。行ったことないけど。

でもねー、そういうときに限って見たいのってあんまないのよね。困ったねえ。

それにしても"True Grit"のチラシはなんであんなにださいのか、とか。
ぶつぶつ言いながらも土曜日、新宿で2本見ました。

Johnnie Toの『MAD探偵 7人の容疑者』(2007)。
シネマヴェーラのほうの特集ではやっていないが、どんなもんかしら、と。

デジタル上映のせいもあるのか、画像がなんかしょぼいかんじに暗くて、音楽は鉄琴がぴろぽろしてて、70年代新宿裏町B級刑事ものみたいな(具体的にどれというのはないが)かんじ。 バンさんのちょっと病的にずるずるした容貌も70年代、かも。 でもおもしろいことはたしか。

ひとの内面の感情を読んで事件を解決する元刑事・現探偵のバンさんが、かつて同じ職場にいた若手のホー刑事から難事件への協力依頼をうけるの。 山奥でインド人の窃盗犯を追っている途中に2人組の刑事のひとりが失踪し、彼の拳銃で強盗事件が多発しているらしいのだが、どんなもんか、と。

バンさんの眼にうつる容疑者はその内面に(うしろに)7人格を持っていて、だから容疑者が動くと7人ぞろぞろ動くので、なんだかややこしそうなかんじなのだが、なんで7人格なのか、どういう7人格なのか、はあまり説明されないまま、被害者とおなじように土に埋まったりしてみたらなんとなく先が見えたりして、ホー刑事もおなじように追い詰めていって、さて最後には。

バンさんの異能さ、それが事件の解決や謎解きに向けて周囲やなにかを動かす、という部分はあまり強調されておらず、むしろ、複雑で面倒くさそうな事件(捜査)をさらに複雑にかき回すいち要素として、ふつーに機能している。

事件のまんなかにあるのは奪われた拳銃で、刑事のアイデンティティの一部として肌身離さず持っていなければならないそれは、ゆらゆら分裂したり憑依したり落ち着かない感情だの人格だのの動静の反対側にあって、消しゴムみたいに矯正器みたいに強力に作用する。

事件を起こすのは不安定に揺れまくる人格、それを追うのは病的にそれらが見えてしまう人格。 起こしたほうはそんなすごい悪ではなく、追うほうはそんなすごい異能変態ではないのだが、これら複数の人格によるドラマをとりあえずリセットしてしまう「武器」としての拳銃。犯人を逮捕するためだけではなく、自己の保身、「統合」の装置として機能する拳銃。 最後のどんぱちで鏡の破壊が示されるのはそういうことなの。 

もちろん、それは拳銃の正しい使われ方ではない。想定外だ。
しかし、感情に想定の内外がないのと同じように、あるひとには見えるものが別のひとには見えないのと同じように、道具はたんなる道具だから状況によって暴走し、事故や事件を引き起こす。

ね。例えば「拳銃」を「原発」と置きかえてみればいい。どちらもなんだかんだゆって危険物なんだよ。あんなのあるからろくでもないことになるのよ。

Johnnie To作品の流れでいうと、この前年の『エグザイル/絆』(2006)の、ひとつのどんぱちをきっかけに組織を追われ、絆に殉じる男達のお話とこれとは対照的な関係にあるのかもしれない。組織内に身を置くために、絆を絶ってしまう冴えない男達。この作品のほうがかっこよくないし、後味もよくないのだが、いろいろ複雑で考えさせられるところはあるねえ。

上映後のおまけの特典映像で、バンさんの狂気はゴッホがモデルだと言ってた。
でもわたしはゴッホを狂気のひとだと思ったことなんかないのだが。

3.22.2011

[film] Fantastic Mr.Fox (2009)

日曜日の2本目、銀座で"Fantastic Mr. Fox" (2009)をみました。

ついに。ようやく。
Wes AndersonとNoah Baumbach の新作を本国公開から2年経ないと見れないなんて悲しすぎる。 でも見れないよかましなのか。 でもそれにしたって…(以下えんえん、いつもの)

5:10の回はぜんぜんがらがらでした。銀座の街もなんかさみしいかんじ。

こんな楽しい映画はないのに! 映画の楽しいところばっかしなのに!

元々盗みをやっていたキツネ父さんは、母さんの妊娠を機に足を洗って堅気になろうとしたのだが、いざ堅気になっておうち買ったり成長した息子がぐれてきたりで息苦しくなってきたもんだから人間(でぶ - ちび - のっぽ)の農場を襲いはじめて、そしたら楽しくてとまんなくなって、とうぜん人間共の怒りを買って獣 vs. 人間の大戦争にはってんして絶体絶命になるの。

人と獣は仲良くね、とか、獣はそうっとしておいてやろう、とか、そんなことはこれぽっちも言わない。 そもそもキツネ父さんがなんとなくうずうずして勝手に引き起こした騒ぎにまわりの動物ぜんぶ巻きこまれていい迷惑、ていうだけなのだが、なんとなく父さんえらいだろ、おまえたちみんな愛してるよ、みたいなとこにずうずうしく着地しようとしている。 子ギツネもだまされてるんじゃないよ。パパはキツネなんだよ。すてきな奴だけどさ。

Wes Anderson的には、これは"The Royal Tenenbaums" (2001)にも、"The Life Aquatic with Steve Zissou" (2004)にも、"The Darjeeling Limited" (2007)にもあった憎み合い騙し合い、でもお互い離れられない家族の、一族郎党の物語が四角四面のアニメーション画面(紙芝居とか絵本みたいな平面)の上に、お屋敷〜潜水艦〜インドを経てキツネ穴とその周辺にすっかり見事に移植されている、そういうものだということがわかる。

画面をまっすぐ横一線に走って行く電車、垂直に掘られていく穴、ジグザグぐるぐるに走り回って徘徊して大活躍する主人公達、この辺の縦横ぐるぐる回転移動方式は、過去3作で実現されてきたものがアニメーションのなかでより際立って表現されているし、色でいうと、"The Royal Tenenbaums"のピンク、"The Life Aquatic with Steve Zissou"の青緑、"The Darjeeling Limited"の黄色、ときて今回は橙色-茶色系で統一されててとってもすてきだ。

それにしても、アニメなのだし、もう少し自分の好きなように作為をもってあれこれ動かすのではと思ったのだが、実写作品以上に頑固に厳格に自分のマナーとかスタイルを貫こうとしているのには感動したわ。 ストップモーションで何万コマだかしらんが、そういう労力以上にあんたどこまで石頭なのよ、作家ぶるんじゃないわよ、って。 作家なんだよね。

あとはね、獣(Wild Animals)は人間じゃない。彼らはおしゃれな仕立て服着てるし、クレジットカードだって持ってるし、サイドカー付きのバイクに乗ったりするし、スーパーマーケット大好きだし、人間の食べ物食いまくるけど、人間じゃない。 と連中はずっと言ってるのだが、実はその主張にはなんの根拠もないの。キツネもオポッサムももぐらもリスもうさぎもアナグマもねずみもみんなみんな違う。だからなんなの?

そう、肝心なのは愛なんだよ。 ていうの。

映画のなかで流れるBeach Boysの"Heroes and Villains"。
この曲が入っていたアルバムは"Smile" ていうんだよ。
ね、今の日本に必要なのはこれなんだよう。みんなで見にいくべきなの。

声優さんはどれも見事。日本語吹き替えはありえないレベル。

全体にキツネ的、犬科の狂騒(ばうばう!)にあふれたどたばたで、そういえば声優陣もみんな犬っぽいよね。George Clooney, Jason Schwartzman, Owen Wilson, Willem Dafoe, Adrien Brody… みんな犬系。 監督だってそうだし。 
でも、Bill Murrayだけは...   Bill Murray科...   だとおもう。

なにが言いたいかというと、主人公が猫だったら、こんなんならんにゃ。

うさぎのシェフの吹き替えは、Mario Bataliなの。
映画のなかで焼かれてて、獣たちががうがうばりばり一瞬で食い散らかしてしまうクッキーのレシピ(by Mario)はこちら。 秋になったら誰か焼いてみてね。

http://rushmoreacademy.com/2009/11/27/mario-batalis-recipe-for-mrs-bean%E2%80%99s-famous-nutmeg-ginger-apple-snaps

春分の日は、低気圧頭痛と寝くじいてたのとで、穴にこもってねてた。

3.21.2011

[film] 天使の眼、野獣の街 (2007)

日曜日、シネマヴェーラでは1本だけみました。

『天使の眼、野獣の街』(2007)。 英題は"Eye in the Sky"。
本作でのJohnnie Toはプロデューサーで、監督は『PTU』や『エレクション』の脚本のひと。 
おもしろかったー。 

冒頭から暫くのあいだ、台詞は殆どない。カメラの位置と動き、目線だけで、その目線を追う目の動きを意識し、監視というのはそんなふうに視界を区切って、焦点を絞って、天と地の両方から対象を追っかけていくことだ、というのを、その導入から説明してくれる。 ひたすらかっこいい。

例えば近年のTony Scott作品のデジタルでばりばりこまこまに編集した追跡や監視のシークエンスに単純にかっこいい!てぞくぞく興奮して、いっそのことずっとこれが続けばいいのに、ていうあれがずうっと続いていく、というか。

もちろんトニスコの、金かけまくり128トラックマルチみたいなゴージャスなかんじはないけど、ひとがいっぱいわらわらいるところを、機械であるところのカメラが針の穴を目がけて泳ぎまわる、そのスリルはじゅうぶん楽しめる。

香港警察の監視班ていうとこに配属された新人の女の子 - かわいそうにいきなり「子豚」ってコードネームをつけられてしまう - が上司(サイモン・ヤム)に鍛えられて成長していくお話と、彼らが追っかける宝石店強奪犯との攻防が並行して描かれてて、まあこんなお話はTVの刑事ものでもいくらでもありそうなのだが、ありがちな各登場人物のキャラ説明は殆どなく、あくまで全編を通して貫かれる「監視」という行為と、監視から派生する一連のアクション(判断ミスや感情の爆発も含め)に全てを集中させていて、その試みはうまくいっているとおもった。

監視される側の親玉である「影の男」は、「エレクション」でもサイモン・ヤムと対決していたレオン・カーフェイで、いっつも数独しててもの静かで「影の男」としてあるのに、突然、一瞬で凶暴な、おっそろしいことをする。

おそろしいことは常に監視の外側で起こって、分析も予測もできなくて、だからこわくて、起こると取り乱すしかない。ということを新人である子豚の目と行動を通して我々は学ぶことになる。 
更に、監視の内側にあるのであれば、ターゲットは常に複数あらわれるのだ、ということを、肝心な場面でで並行して現れる誘拐犯を通して、我々は知る。

やばいことは監視カメラでは見通すことができない闇夜でおこる、しかし、だからこそ携帯での即時の連絡が重要な意味をもつ、というJohnnie To作品の原則を改めてふうむ、と思ったりしてみるのだが。

雨があがって傘がぱたぱたと閉じられ、「空からの眼」が全開となるあのシーンは、象徴的だけど、ちょっと御祝儀ぽかったかも。

ま、とにかく、子豚がんばれ、ということね。

後半、特に最後のほうはちょっとだけテンション緩んだかも。
だいたいあんなとこで小話せがんでどうするよ。 死んじゃうだろうがー。

で、このあとで銀座にいったの。

[film] 黒社会 (2005)

土曜日、ようやく、ほんとに久しぶりのシネマヴェーラ。 
これも大切なライフラインのひとつではあるの。 

今のモードとしては、とにかくバカでくだんないのがいっぱい見たい。
はたして、Johnnie Toの世界はそういうのにはまるのかどうか。個人的にはじゅうぶんはまるとおもうのだが、だめ?

最初にみたのが『エレクション』(2005)。原題は『黒社会』。
香港のやくざ組織の会長選びの話で、代々会長は偉い人たちの選挙(挙手だけど)で選ばれることになっていて、今回は候補が二人いて、穏健派で仲間を思いやるロクと武闘派でいけいけのディーがいて、買収工作とかいっぱいやりまくるのだが結局長老たちはロクを選ぶの。 その結果にあたまきたディーは会長の証の木彫りの「竜頭棍」の強奪を指示して追っかけっこがはじまるの。

拳銃による派手などんぱちは一切なくて、木箱に詰めて崖から落とし(Repeat)とか、木の棒とか、石の塊とか、足でぐしゃぐしゃふみつぶしとか、牛刀みたいなナイフでぐいぐいぐっさりとか、そんなのばっかしで、しかもそれらはどれもくどいくらい繰り返される。 
もうじゅうぶんしんでるってば、あんた。

つまり、銃の一撃でカタがつくようなしろもんではないのだ、じゅうぶん痛がって思い知ってもらうぜ、ていうのもあるが、要はこれ、猿の喧嘩、ボス猿えらびとおなじなのよ、ということなのね。 最後の決着が野猿に囲まれたとこでつくのは象徴的だし、それが唐突に起こるのは、動物の本能としてこいつは危険だと瞬間で察知したからだよね。

そして、これら「動物」を演じるサイモン・ヤムもレオン・カーフェイも、その配下連中も、全員なに考えてるのかあんまよくわからず、その不気味さが緊張感に拍車をかけて、闇夜の「竜頭棍」バトンリレーはなにが起こっているのかあんまわかんないのにただただおもしろい。とにかく全員必死で目をむいて、敵も味方もわからないまま、たんなる木の棒を抱えて守って全速力で走り回っている。

画面も、幹部が候補者の選びでぐじゃぐじゃの口論になったとこで、長老の「まあ、茶でものめ」の一言で静かになって茶を囲むとこは、Johnnie Toだと思った。ウーロン茶のCMみたいだったけど。

あと、留置場のとことか、ぶっ殺してやるってこん棒でぼかぼかやってたやつが味方であることがわかった瞬間の気まずい、けどしらじらとした空気のかんじとか、ほんとすてき。

あとね、どうでもいいけどこれ、携帯があってはじめて成立するお話だよね。昔はどうやっていたのだろうか。


次の「柔道龍虎房」(2004) は、すごかったねえ。 更にわけわかんねえ。

香港のビル街のはずれの、夜の草むらで柔道の練習をしているひとと、その横で日本語のへんな歌を思いっきりがなる長髪のわかものがいる。 これがオープニング。

誰でも相手を見つけると犬のような純な目で「勝負しないか」て誘う角刈りの若者が、バーで飲んだくれている男を訪ねる。その男はそこでカラオケの伴奏をやったりしてて目はうつろ、相当ダメっぽく堕ちているが元は柔道をやっていて、その昔は相当強かったらしいことがわかってくる。 

この男ふたりと、歌手として成りあがることを夢みるいけてない女の子の3人を軸に、物語はどっか一点に向かって転がっていくのかというと、あんましうまく転がっていかない。 ひとりは柔道がしたいし、ひとりは金儲けをしたいし、ひとりは歌手になりたいし。 この3人がなんとなく追っかけられて逃げまくって、で、どうしようもなくなるととりあえず柔道になって、とりあえずその場はちゃらになる。
それが延々続いていくばかりなの。 よくわからない。

つまり、なにがなんでも柔道がしたいのだ、ということと、柔道になればなんとかなるのだ、これでいいのだ、みたいな、天才バカボン的な断言が全編を覆っていてわかったよがんばってね、しか言いようがなくなる。 そんなの海の底から宇宙の果てから、つくづくどうでもいいことだし、やりたきゃやってろ、なのだが、こっちがそう思えば思うほど、みんな楽しそうに投げたり投げられたりしている。 なんなの?

どこでも柔道はおこる。流儀とかルールとか無視で、あんま正しい型とか組みかたにも見えないのだが、道ばたでもバーのフロアでも草むらでも、どこでもやっちまえ、で始まる。 抑えのきかない動物とおんなし。

このくどさ、やられたらやりかえしの執拗さ、ぜったい手を休めない容赦のなさ、しかもそれら全てが理不尽な文脈のなかいくらでも起こりうること、そう、これはJohnnie Toのヤクザ映画のどんぱちのそれとほとんど同じマナーに貫かれている。
(あと、食事のときだけはとにかく休戦して、みんなで食卓を囲むべし、というのも)

だからこれは柔道でなくてもよくて、ほんとはじゃんけんでも囲碁でもナンパでも性交でもなんでもよかったのかもしれない。 でもそれが柔道になったことで、なんともいいようのない隙というか、格闘と寝技と勝負とスポーツのぜんぶ半端で微妙なとこがでろでろに垂れ流されていてなんともたまんないかんじになった。
で、ひとはそれ故に組みあってしまうのです、とかきんきんの真顔で言われたら、勝手にやってろ、しか言いようがなくなる。

で、その勝手にやってろ、感は、間違いなくJohnnie Toの描く闇社会の濃度や純度の裏返しとしてあるのだなあ、と改めて思ったのだった。

黒澤の「姿三四郎」(見てない…)に捧げる、てあったが、ここでの三四郎て、どう見たって小林まことの『1・2の三四郎』のほうだよね。こっちのノリで徹底すればもっともっとおもしろくなったのに。

あーでも、すんばらしくすきな映画ですこれは。

3.20.2011

[film] 街燈 (1957)

以下は、先々週に書いて、なんとなく放置してあったやつです。

神保町シアターは25日迄お休みだそうな。 早くみんながいそいそ出掛けられるようになりますように。 ほんとうに楽しい映画ばかりなのだから。

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神保町シアターで先週からはじまった特集『女優とモード  美の競演』はぜんぶ見たいくらいなのだが、そういうわけにもいかず、火曜の晩に『街燈』(1957)、木曜の晩に『鑑賞用男性』(1960)を見ました。

最初の週のテーマは『ファッション女性上位時代』ということなので、出てくる男はどいつもこいつもとことん下位動物でございます。

『街燈』は、渋谷で洋装店を営む南田洋子のところに、弟の落とした定期券を拾ってくれたお礼にと葉山良二が来て、弟は定期券をわざと落として女の子とつきあうきっかけを作るとかしょうもないことをやっているんですごめんなさい、と謝ると、ああそれならうまくいったケースしってるわよ、と銀座で洋装店をやっている月丘夢路のことを話してくれて、それでうまくやってかこってもらっているのがまだ子鹿みたいにきょとんと若い岡田眞澄なの。

この二人の女性の恋バナが中心で、このひとたちは十分たくましくてかっこよくて、君ならひとりでも生きてるよね、と置いていかれるタイプで、その反対側にいる男共は、もうひたすらどうしようもない。

岡田眞澄は、月丘夢路の他にきんきんうるさい中原早苗とふたまたかけてて、更に不良友達にたかられてたりして、なにもかも優柔不断の甘ったれたくずだし、一見しっかりしているふうの葉山良二も変な意地はって上司の命に従うことができずに会社を辞めて、靴磨きの少女に「やめたいからってやめたりしちゃいけないんだぞぉ」と説教されたりしている(そうだよね…)。

この連中が最後結ばれなかったとしてもかわいそうでもなんでもないのだが、女性ふたりのお話はなかなかおしゃれでとっても勉強になる。
定期券と回数券のはなしとかいろいろ。

肝心のファッションは森英恵なのでごくふつうで、中原早苗が乗り回す変な車くらいしか印象に残るとこはなくて、カメラも妙にスタイリッシュなとことださいとこがでこぼこしているのだが、会話運びとかが、なんか憎めないかんじでいかった。
最後のほうで、一見再出発を誓うかにみえるこの二人はこの後もだめ系の男ばっかしひっかけていくことになるんだよね、きっと。


『鑑賞用男性』は、パリから帰国した直後のデザイナー(有馬稲子)が主人公で、彼女が世の中の男性も鑑賞用のおしゃれな装いをすべきだわ、って男性用の変な、嫌味としか思えないような服ばっかり作って着せていくの。 
逆セクハラで、パワハラで(もちろんわざとね)、いい迷惑な話で、それだけで、お騒がせしましたー、てかんじでちょん、ておわる。

監督は野村芳太郎で、だから、『モダン道中 その恋待ったなし』(1958)で岡田茉莉子がやっていたのと同質のしょうもない悪ふざけノリがいっぱい。 
でもこのノリはなんだかきらいじゃない。

今の世はまさに鑑賞用男性が、TVで雑誌でゲームで、いくらでも愛でられる時代になった、と言ってよいと思うのだが、でも、それでもいまだに大多数の男性がむさくてきもちわるくてきったねえのと同じように、この映画に出てくる男連中もどうしようもなくて、だからはなから有馬稲子の試みは失敗しているとしか思えないのだが、それがわかったからかわからなくなったのか、最後はほんと唐突に、無責任にすべてを投げて杉浦直樹と一緒になってしまう。

このてきとーで無責任なノリ、そしてそれもまたお茶目でいいか、って。
だからね、つまるところ恋をしなさい、するのよ! ていうこと?

ここにあるように、男も美しくなくては、とかいう話になると大抵はてめーの面みて言いやがれ、て喧嘩になるのが定石なのだが、この映画に関しては、女性はみんなきれいなので反論しようがない。 異議なし。

とにかく有馬稲子の女版植木等みたいな軽さといいかげんさが徹頭徹尾素敵で、特に彼女のダンスシーンね。 市川崑の『愛人』(1953)でも見られた背筋のピンとしたすんばらしいステップをいっぱい見ることができる。

あと、書家のマシュマロせんせい、あんたいったいなにもの?

3.19.2011

[log] Mar.19

もう一週間が過ぎてしまったのね。

先週のいまごろは、こんなふうにコトが暗闇方向に転がっていくとは、こんななんでもかんでも「不謹慎」になっていくとは思ってもみませんでした。

こりゃ黙ってお祈りするしかない、というのもあったが、それ以上に仕事が半端じゃなく慌ただしくなって書いている時間がなかった。

そういう職種ではないはず…たぶん…なのに、そういえば911のときも仕事がとんでもないことになって死ぬかと思ったのだった。 仕事で我を忘れられればよいではないか、という考えもあるのかもしれないが、こういうときは我を忘れたくないし、忘れてはいけないと思うの。 雑念も含めていろんな思いが頭のなかに溢れてうんざりしたりぐったりしたりするのかもしれないが、こういうときはいくらでも溢れさせておけ、あたまんなかまで節電するこたない、と。

今週はSt Patrick's Dayでもあったので、The Poguesの "If I Should Fall from Grace with God" をずっと聴いていた。

After 911のときもそうだった。これとWilco "Yankee Hotel Foxtrot"が、まず浮かんで、流れる。

Poguesのは、どんなに激しい荒波がやってきても、押し流されても、ぶちのめされて立ちあがれなくなっても、へらへら懲りずに起き上がって次の波にぶつかっていくろくでなし共の音楽である。 
応援歌、ではない。 復興とかも考えない。突撃あるのみ。もうすべてが前とは違ってしまったね。でも行けるんだよ。行くぜ、って。

こういうとき、癒し、というのとは違うが、自分がずっと聴いていられる音楽のリスト。

The Poguesの "If I Should Fall from Grace with God"

Wilco "Yankee Hotel Foxtrot"

Bruce Springsteen "Darkness on the Edge of Town"

Prefab Sprout "Protest Songs"

Pete Townshend "All the Best Cowboys Have Chinese Eyes"

Richard and Linda Thompson "I Want to See the Bright Lights Tonight"

The Kinks "Something Else" から "Lola Versus Powerman …" まで

Elvis Costello and The Attractions "Get Happy!!" から "Goodbye Cruel World" まで

The Smiths "Strangeways, Here We Come"

The Pretenders "Learning to Crawl"

Neil Young なんでも。
Robert Wyatt  なんでも。
Harry Nilsson  なんでも。
Randy Newman なんでも。

ああ、なんかふつーのロックファンみたいだ。

今日は、ようやくシネマヴェーラに行った。 なんか心底ほっとした。
Film Forumと、Walter Readeと、BAMのCinematekと、ここ、に自分の魂は偏在してあるのだとおもった。

映画の感想はまたそのうち。

3.12.2011

[log] Mar.12

たぶんそういうひとは少なくないと思うのだが、することがなくてWebみたりTVみたり、エレベータが止まっているので外にでていくのは面倒で、でもやっぱし落ち着かなくて動物園の熊みたいになっている。

とりあえずなんか書いてみよう。

まずは自分とこのお片づけしろよ、ていう話なのだが、沿岸の自動車とか家とか船とかがぐじゃーっとなってしまった映像とか見てしまうと、こんなお片付けなんてちいせえよな、いつでもやれるし(じゃあ、やれよ)、と変に納得してしまうので、よくない(自分が、ね)。

ほんとうは昨日と今日は、久々にちゃんとチケット買っていくライブ、があったのだった。 それは今年に入って日本での最初のライブになるはずだったのに。
それから土曜日からはシネマヴェーラ漬けになるはずだったのに。

もちろん、MelvinsとGaslight Anthem、そしてJohnnie To、ですね。

地震にぶつかって地下から閉めだされたときに最初に思ったのが、今晩のライブだいじょうぶかしら、歩いて帰れば開演には間にあうかしら、だったのだが、歩いているうちに、これはありえないな、に変わっていった。 
でもMelvinsなら、あの連中ならひょっとして、と少しだけ思ったのだが、やっぱしむりだったか。

みんなが大変な思いをしているときに不謹慎な、という声があるのはわかるが、でもこれ、自然災害だし。 節電とか、できることはやるけど、ひっかぶらなかった幸運な人たちは意地でも普段の生活態度を崩さず、慌てず、ごく普通に外にでる、ていうのも、そういう志を貫く魂もぜったい必要だとおもうし、それはそれで立派な心意気だとおもうの。

みんなで元気になろう、とかそういうメッセージは嫌いだが、普段が不元気で不健康で変態だったら、そういうのでいいから、それを維持しておけ、とりあえず。

というようなことを、わたしはNYで、911と大停電のときに学んだ。
ひとつはものすごく滅入ることだったし、ひとつは変に楽しかったのだが、そこにはみんな大変であっぷあっぷしているに決まっているのに、絶対まけるもんか、つん! みたいに普通に買い物してお食事して、意地っぱりだけど、クールな人たちがいっぱいいて、そういう人たちを見ているだけでなんか救われた気がしたの。

自分になにができるだろう、と考える。
自分がなにかをすることで、今の異常な事態の中のなにかが変わる、なにかを変えられる可能性がある、とおもう。
そのなにかのなかには、今と違うことも今と同じことも等しいなにかとしてあるのではないか、「正常」な状況下でそれらが等しくそうであるのと同じように。
どっちがどう、ということではない。どちらも尊重されるべきなのだ。
もちろん、犯罪とか、他者に迷惑をかける行為は論外として。

日本人て、ほんとに真面目でみんながみんなのことを思いやる民で、それは世界に誇ってよいことだと思う反面、このままだとみんながみんな喪章追悼ボランティアモードになってしまいそうなのがこわい。

あとね、海外にいる日本人の人たちのなかには(or 日本にいる海外のひとを家族としてもつ人のなかには)心配で胸が張り裂けそうなひとがいっぱいいるはずで、心配しないで、というのは無理だけど、でも、物理的な隔たりを苦にすることはないのよ。 それは日本にいたって同じよ、と。
阪神大震災のときにもNYにいて、あの頃はWebもTwitterもなくて、今はもうない旭屋書店の店頭に貼りだされる被災者名簿を毎日見てはらはらするしかなかった、かつてそういう境遇にいたものとして、あえてその土地の生活を送ってください、て。

それからねえ、正しい情報に基づいた正しい行動とか、ふつーの生活とか、ってなんなんだろうね? てしみじみ考えてしまうの。
それって歳と共に変わるし、季節とか日々の天気によっても変わるし、じゃあ変わらない部分がそうかというとそれは違うし。 それにいまは花粉だって。

そんなの余裕のあるぐうたらの言い草だ、て怒られることは十分わかっている。
でも、そもそもここはそういうのを書き散らす場所だから、ね。

3.11.2011

[log] Mar.11

日比谷から2時間半かけて歩いて帰りました。

帰ってみたら部屋がぁー。
だ~か~ら~ 日頃のお片づけがたいせつ、ってあれほど....

みなさんがご無事でありますように。 
大変な思いをされている方が一刻も早く落ち着かれますように。


3.09.2011

[art] J.J.Grandville

あぴちゃぽんの後で、練馬に行きました。
もちろん、練馬なんて見たことも行ったこともなかったので、たいへんに緊張して胃が痛くなる。
DとかFとかQとかで、奥のほうの未踏の地に分け入っていくかんじ。 
だいたいなんで副都心線が西武と東武の両方に繋がっているんだかわからない。 
どっちかにしてほしい。

このコレクションのベースとなった鹿島茂さんの古書探訪のはなしは、JALだかANAだかの機内誌かなんかに載っていて、これはとっても危険な読み物だった。 読んでいるとものすごくむらむらしていらいらして、機内で飛び降りるわけにはいかないからよかったものの、地上だったらすぐに飛びだして古書街に突撃して大惨事になるところだった。 

で、そんな中にたしかグランヴィルの話もあったような気がする。

いちおう、お上品(そう)なマフ猫がマスコットのように前に出ているが、そんなかわいらしいもんではないの。

ヒトの替わりに動物をまんなかに据えた風刺画とか滑稽画が殆どなのだが、その物量と描きっぷりがすごい。
動物は無表情で、言葉が通じなくて融通がきかなくて、本能と欲望のみで動いていて、自分のことばかり考えてて、いっつも群れたりしてて、臭くても汚くてもへいきで、要するに手に負えない。

そういう手に負えない奴らが、官僚だったり警察だったり裁判官だったり会計士だったり貴族だったり隣のおばさんだったりする。 うんうんそうだよね、あはは、て最初は笑ってみているのだが、そればっかりが延々続いていくと、自分もこんな世界の一部なんだな、こういうアニマル連中に使われたり、怒られたり、税金とられたりして生きているんだよね、いいことなんてちっともねえや、とだんだん自虐的な、なんともいえないかんじに滅入ってくる。  
大昔のガロとかにあった自虐系漫画を読んでいるようなかんじ、というか。

それを暗いからいけない、とか言うつもりはないし、最近の自治体とかがどういう目的で作っているんだか知らんが人畜無害の、なんでも「かわいー」で済ませようとするキャラ連中のタチの悪さ、気持ち悪さよか断然こっちのがましだとおもうものの、なんかこれらの動物たちは、妙にリアルに訴えかけてくる。 なんだろ。 ぞろぞろぞわぞわ。

日本にも昔はこういう、滑稽さを笑う、ような文化はいくらでもあったと思うのだが、いつ頃からなくなってきたのかしら。 その分、(マス)メディアはどんどん狡猾に、性悪になっているような気がしてならないの。
或いは、(ここにあるような人間の擬動物化ではなく)動物を擬人化して愛でる、という最近顕著な傾向は、ほんとに陰惨で気色わるい動物虐待の傾向と表裏の関係にあるよね、とか。

グランヴィル本人も晩年は精神を病んでいった、とか、最後のほうの植物の絵は明らかに精彩を欠いているのを見ると、そうだろうなー、とおもったりした。

とにかく、かわいーと思って寄っていくと、猫に引?かれたり豚に噛みつかれたりするのでご用心を。 一回くらい噛まれて痛い思いをすればいいか、とか。

それにしてもラ・フォンテーヌの『寓話集』ほしいなあ。 どっかに落ちていないかなあ。

とにかく、動物と古本好きなひとには必見の展示だとおもいましたの。
(て版画に登場するこましゃくれた猫とかが言いそうなー)


帰りに新宿によって、Disk Unionで何枚か買う。
Dum Dum Girlsの12inchと、PJ Harveryの7inchと、2000円安くなっていたJoy Divisionの7inch boxとOrange Juiceの太鼓猫トート付きboxとどっちにするか悩んで、結局前者にした。

さっき、WBSにMcNally Jacksonが出ていた。 店内に突然置かれたあの機械のなぞがわかった。

3.07.2011

[film] Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives (2010)

土曜日は髪を切ってからどっかに行こうと思ったら見たいやつはどれも時間が中途半端で、タワブク行って、タワレコ行ったら終わってしまった。

タワブクではMOJOの"Queen is Dead"25周年特集買って(おまけのCDえらい)、タワレコではThe Fallの"The Wonderful and Frightening World of The Fall"4枚組(はなんであんな安いの?)とか、Tim Buckleyの1stとか。

で、日曜日にみたのがこれ。 『ブンミおじさんの森』

海のむこうのFilm Forumでもほぼ同タイミングで上映がはじまった。よいこと。 

いろんな意味ですごい作品でまだごにょごにょ考えているのだが、カンヌのパルムドールは当然。
それくらい裾野のでっかい作品。

あぴちゃぽん。 (言ってみたかっただけ)

Apichatpongといえば、昨年BFIでリピート上映していた"Phantoms of Nabua"(2009)が本当にびっくりだったの。夜中に幽霊がでてきて火の玉(人魂?)でサッカーをする。それをごくふつうの自然現象みたいに淡々と撮っていた。

今回もその尋常とは思えない平熱感が全編を覆って、びくともしない。 

タイの山奥で農村をやっているブンミおじさんは腎臓の病気で透析とかを受けてて、先が長くないことがわかっていて、妹がその介護にやってくるところからはじまる。

みんなで食事していると19年前に亡くなった妻がでてきて、行方不明になっていた息子もでてくる。 そう簡単に出てくるはずではないものが、ふつうに家族の食卓にでてくる。
落語とか昔のダウンタウンのギャグみたいにして、でる。

霊は場所ではなくて人に憑くのよ、と死んだ妻はいう。じゃあ俺が死んだらどこで、どうやって君に会うことができるんだ? とか。 いちいちおかしいし。

なんか笑っては負けという気がするので、そのままにしておくとその幽霊だか亡霊だかしらんが、はごく普通にそこにいて、周囲になじんでいる。
そのなじみっぷりから、ブンミおじさんは死が近いのだな、ということがわかってくるのだが、その受けいれる態度と彼の死を通して、死そのもののありようを淡々と、しかしじっくりと追っていく。

そのじっくりが114分。途中、しゃべる魚と王女の話とかあったりするし、もっと時間をかけて語るネタが用意されていた気もするのだが、とりあえず ー。

それを、死や魂のありようを、東洋とかアジアとか、その農村とか森とか自然とか、ローカルなエキゾチックなネタとして局所化していくのではなく、現代の我々にもふつーに現れてくるそれとして、描いてしまうこと、それができてしまうことの驚異。

昨年のカンヌの審査委員長であったTim Burtonにこの作品を"Surprise"と言わしめたのはそこだったのだろうし、ここには例えば彼の"Big Fish"が西欧的な法螺話というかたちでしか実現できなかったなにかが(それでも十分だったし、大好きだけど)、軽々と乗り越えられていることがわかる。 大騒ぎも大泣きもなく、たんたんと。

我々の生は前世からぜんぶ繋がっているし、死の迎え方はカルマによって決められている、それをアジアの森の風景と、彼の加担したカンボジアの虐殺を並列に置いて語ること。
この作品の裾野の広さと凄まじさ、というのはそこにあって、確かに、我々はこれと同じような物語を、例えば水俣で綴ることができるのかもしれない。 
或いは、911で、アフガンで、イラクで --- (?)

そういうのもあるし、或いは単に、これは実写化不可能といわれた(笑)坂田靖子ワールド(最近のはしらないけど)がついに、まるごと映像化された、と言えるのかもしれない。 案外まじで。

おじさんの死後に展開される世界は、いきなり黒沢清になったりするし。ごくふつうに。
そこもまた。 ね。

というわけであぴちゃぽんすげー、と言って外にでて、そのままロゴスに下りて、丁度世界文学全集から出たばかりの石牟礼道子の『苦海浄土』を買おうかどうしようか迷ったのだが、重そうだったので今度にすることにして、文庫になった「ちびねこ絵本」だけ買って次に行きました。

3.05.2011

[film] Certified Copy (2010)

そろそろリハビリを始めねば、ということで金曜日の晩、ほんと久々にユーロースペースに行って見ました。 メンバーシップも切れていたので深く考えずに更新してしまう。

『トスカーナの贋作』。
原題は"Copie Conforme" - ほんもんの贋作、ていうことね。

たしかにトスカーナを舞台にした中年男女の出会いの物語ではある、が、「トスカーナ」から連想されるような美しい風景、おいしい食事、ロマンチックなあれこれ、はなにひとつとして出てこない。 ひとは絶えずごちゃごちゃ、どこに行っても結婚式でどんちゃん騒ぎだし、やっと入った食堂のワインはひどいし、給仕はつかまらない。 
そういうなかで描かれるとてつもなくしなびてひねくれたBoy Meets Girl、のおはなし。

中年の作家(James Miller - 実にどうでもいい名前)が自作のプロモーションをしている会場に子連れのJuliette Binocheが現れて、彼の話を聞いてちょっと興味をもって、コネを使って強引に会わせてもらうの。

この時点からBinocheのかんじ悪さがじゅうぶんに際立つ。
最前列に席を取っておいてもらったくせに遅刻して講演の途中から平気で入ってくるわ、子供の相手が忙しくて話ぜんぜん聞いてないわ、結局子供に負けて途中で出ていっちゃうわ、いるよね、こういうおばさん。

で、この傍若無人B型おばさん的振るまいはこの後も続いていって、作家を自分の営む骨董屋に呼びつけるわ、車で案内するから、と言って車に乗せた途端、本にサインして、と6冊分どさっと渡すわ、作家の話を適当に曲解してべらべら自分の見解ばっかし勝手に述べまくる。 
いるよね、こういうー。

でもふたり共おとなだから、時折気まずい沈黙を挟んだりするものの、むくれたり怒ったりはせずにとりあえず一緒にいる。どうせ午後9時には発つんだしね。
そうしているうちに、たまたま入った茶店のおかみに、夫婦に間違えられてしまい、Binocheはおばさん的ずうずうしさでもって、あらやだ間違えられちゃったわ、とかはしゃぎつつ、ねえちょっとそんなふりしてみない、と言ってみる。

彼のほうは戸惑いつつも拒絶することもないか、程度に合わせて行くことにする。おかみに言われるままに肩に手を置いてみたりして。

そしたらBinocheの暴走が止まらなくなって泣くは笑うは気がふれたんじゃないかとおもうくらいすごいことになって、最後は電動ノコを手に… (うそです)

作家が最初に語る自作の話、というのは永遠に輝く真作よりも美しい贋作を愛すべし、とか、その延長線で人生は楽しまなけりゃだめだ、とか、いかにも中年作家、五木寛之か渡辺 淳一か(どっちも読んだことないけど)、てかんじの含蓄に富んだ、それゆえにおばさんのてきとーな解釈の餌食にあいやすいようなそれで、二人のずるずるした会話はまさにその半端な世界観の狭間でどうでもよく勝手に揺れまくるの。
そいで、その揺れは「贋作」であるはずのふたりの偽りの関係をほんの一瞬はあるが輝かせてしまう。 そこに生まれる微妙な戸惑いと誘惑と目眩と。

とにかくおばさんBinocheがすごい。
真正面からの切り返しにびくともせずに、あらゆる感情のモードを全開にしてカメラのむこう側に迫ってくる。 しかも、あたしを見て、愛して、のごりごり猛進だけではなく、彼女自身の逡巡のなかで時折見せる脆さ - もちろんこれだって計算ずくなのかもしれないが - とのミックスのなか、その生々しさは半端じゃない。

それに応える作家役のWilliam Shimellも、なんかよい。
Jeremy IronsとGeorge Clooneyを足したかんじの渋いおじさんで、本業はオペラ歌手らしいが、ぎこちないかんじがよい方向に効いている。

このふたりが石段に座ってこれからどうしよ、てかんじでぐにゃーん、となるところがすごくよいの。 うそでもほんとでもなんでもいいや、って。

あと、Jean-Claude Carrièreさんがでてくる。
こういうテーマの作品にでてくるところがまたこのひとらしい…

えーとにかく、すんごく素敵なおとなのおはなしでしたわ。
ほんのちょっとロメール、もあったかも。 

[log] Tokyo - < Mar.3

日本におります。

帰国の日はどしゃぶりで、着いた翌日はかんぜんにしんでて、月曜日からは雨で、雨で、低気圧で、それが済んだら花粉で、べつなふうに、蠅みたいにしんでた。 もうなんもやるきにならず。

帰りの飛行機で見た映画は以下。

"RED"
漫画みたいでたのしい。漫画だったのか。
引退したスパイたち(ただしとっても危険)、がメインなので動きがあんましないのは残念だが、それはしょうがないのか。 盛りあがるとこって、Bruce WillisとKarl Urbanがエアロの"Back in the Saddle"でぶんなぐりあいをするとこくらい、なのよね。
こういう脇にはみでたスパイものって、なんかいいなあ。

青池保子のスパイものを誰か映画化しないかしら。 それかル・カレの「スマイリーと仲間たち」をちゃんとしたかたちで。

"Morning Glory" (恋とニュースのつくり方)
原題にはやらしい意味もあるので、もうちょっとすけべが入った映画かと思ったらぜんぜんちがった。
こんなおもしろいんだったらちゃんと見ておくんだった。
Rachel McAdamsさんとしては"The Notebook"とかでぴーぴー泣いてるよりは、だんぜんこっちのほうだよね。

恋に仕事にがんばるあたし、のお話しであるが、恋のほうはあんましない。
この娘、恋はどうでもいいんだろうな、としか思えない。それにRachel McAdamsてパンツいっちょうになってもぜんぜん色気ないのよ。
三角関係になってHarrison Fordがあの若造の胸ぐらひっつかんですごむ、くらいは見られるとおもったのに。

Diane Keatonがひとり変に空回りしていておかしい。これはいつものことだが。
Rachelが追っかけるHarrison Fordのいきつけの店、がなかなか。
Elaine’s行って、Algonquin行って、21 Club行って。 いかにも。

Rachelと彼が会うのはSchiller'sで、映画のなかではたしかMadisonて行ってたけどLESだよね。

それから、"Due Date"をもういっかい。
"The Hangover"もそうだったが、Todd Phillipsの映画は1回目と2回目で見たあとの印象がまったく変わってしまう。
1回目はあらあらあら、て笑って楽しくおわるだけなのだが、2回目はちがうの。
主人公たちに降りかかる災難が、単についてない、運が悪かった、というのではなく、全ては必然だったことがわかる、そういうふうに作られている。 
どちらの映画でも冒頭、主人公(達)が目覚めるところからはじまる(一旦リセットされた、かに見える...)、というのは象徴的だよね。

というわけで、ああこわい、なんでこうなっちゃうんだろ、とかそんなことばっかし、はらはらしながら見ていた。

だから、もう予告がでた"The Hangover2"はもちろん楽しみであるのだが、ちょっとこわいかんじもするの。

それから、半分寝ながら"Life as We Know It" (かぞくはじめました)を。
これ、映画よか、朝の連続テレビ小説とかにしたほうがおもしろいよね、とおもった。

あと、"The Kids Are All Right" (2010)とおなじように、ひととひとはどうやって家族になるのか、ていう話なんだろうな、とか。 結婚とか出産とか、そういうのから離れたところで家族は成立しうるのか、と。
成立したっていいじゃん、できるよ、て軽くいうの。

それから、もう何回目になるかしらんが、"The Social Network"をまた。 音を聴くの。
飛行機に乗っている時点ではオスカー発表前だったのだが、Original Scoreが音楽として見事、というよりも室内や喋りの音響と混然となったサウンドスケープがすごいのだ、としか言いようがない。

もちろん、こんなのは、80年代からGodard=François Musyが(どちらかというと映像経験の解体、のようなアプローチで)やっていたわけだが、Reznor=Ross組はそれを(軽々と、とは言わないが)正面突破してみせた。
それもGodard=Musyのような製作陣の中核にいたわけではなく、雇われ組のほうから入っていって、この映画のイメージをまるごと決定づけるようなサウンドスケープを組み上げてしまった。

というわけで、"The Social Network"がオスカーで惨敗(と言っていいよね)したのはこの連中のせいなんだよ。 たぶん。

帰ってきた翌々日の昼間にオスカーが発表になって、これもグラミーと同じで業界のお祭りだからあんま興味ないのであるが、グラミーとはっきり異なるのは、オスカーの結果(勝ったのも負けたのもどっちも)というのははっきりと映画の正史みたいのに編みこまれて、来るべき映画のどこかに、なにかしらのかたちで現れてくるものなのだ、というところなの。

で、だから、"The King's Speech"が勝った、というのはふんふんふん、だった。
嫌いな作品ではないし、こういう時代にああいう小さい作品、というのはわからないでもないからー。

着いた日の翌日にATPがあった。 けど気がついたときにはチケットないみたいだったし、体が動かなかった。
火曜日と水曜日にはコステロ先生があった。 けど頭痛がしどくてむりだった。

そろそろ動きはじめたいのだが、どんなもんか。 花粉、ひどそうだなー。