9.29.2022

[film] The Lost Patrol (1934)

9月25日、日曜日の昼、シネマヴェーラのジョン・フォード特集で見ました。(パート2はぜんぜん見れていないので泣きそう)

邦題は『肉弾鬼中隊』。 戦争アクションでこのタイトルなので、肉が弾け飛ぶなか鬼のようになった中隊の殺戮地獄絵巻が展開されるのかと思ったのだが、そういう泥臭いのではなかった。(砂漠なので泥ないし) 原作はPhilip MacDonaldの小説 – “Patrol” (1927) - 彼自身の従軍経験を元に書かれたもので、脚本はDudley Nichols。 女性がひとりも出てこない - まあそうか。

第一次大戦中のメソポタミアの砂漠を英国の騎馬小隊が行軍していて、兵を率いる馬上の中尉がひとり、砂漠の真ん中でどっちかなー、のように様子を伺っていると「ちゅん」て小さな音(音だけだと素敵な)がして馬から落ちてあっさり死んでしまう。

残された軍曹(Victor McLaglen)を含む11人は慌てて、なぜなら中尉だけがどこに行ってなにをするのか、地図と指令を頭のなかに握っていたからで、でもとにかくここにいては危険だから、と全員で砂漠を渡っていくと突然オアシスが現れて水とヤシの木と廃墟のように打ち棄てられた石の建物があり、馬も人も喜んで水を飲んであびて、裸になって寛いで少しだけ希望と安らぎが。

だったのだが、夜の間に見張りが殺されてて、ひとりが怪我を負ってて、馬をぜんぶ盗まれてしまう。馬なしで砂漠を行軍するのは自殺行為なので、ここで見えない相手をどうにかするしかない。そういう極限状況のなかで、悲観するもの楽観するもの諍いするものいろいろで、軍曹はくじで2名を選んで徒歩で町まで向かわせて救援を頼もうと、ついでに隊員たちの家族への手紙を託すのだが、晩に彼らの死体が馬に乗せられて静かに返されてきて、絶望が更に深まる。

敵らしき者たち(でも彼らが本当の敵なのか単に殺したいだけなのか、は不明)は最後の最後までわからないので、「戦争」でのやりとりや経過、酷さを描く、というよりは追い詰められた兵隊ひとりひとりが死の恐怖と向かい合って諦めたり慟哭したり熱中症になって幻覚を見たり狂ったりしていく様を描いていて、そういう点では災害やパニックで追い詰められて死ぬ/生きるドラマとそんなに変わらないのかもしれない。それか、西部劇で、見えない原住民の襲撃に曝されているしんどさ過酷さ、が砂漠のまんなかで、イギリス人の男たちのドラマ(でもそんなに男男して歯を食いしばったり拳を振りあげたり、みたいなうざいシーンはない)として展開される。

一度だけ、飛行機が飛んできておおーい、って手を振るとパイロットも気づいて降りてきて、着地してやあやあ、って笑顔で機から降りてきちゃって、だめーって全力で言ったのに3秒で撃たれて倒されてしまう。ここって笑っちゃいけないのだが余りにあっさり消えてしまうので漫画みたいだったり。(全体に、「ちゅん」て音がしたらころん、てその場で動かなくなってしまうケースが多くて、その動きのあっけなさがおもしろい。馬がいないとこうなってしまうのか)

元は敬虔なキリスト教信者で、亡くなった兵の埋葬やお祈りをしながら、狂気に落ちていくBoris Karloffが怖すぎて英国/ヨーロッパホラーとか表現主義系の香りが濃い気がして、でも背景は砂漠の陽射しかんかんなのでそのミスマッチなところも不思議、というか、どんなに明るくても人はおかしくなる、戦争をやっている只中に、どっちみちまともな人なんてそうはいないのだ、とか。

最後、軍曹以外はみんな砂の下にいなくなって、彼自身もほぼ狂ってしまったようなところでようやく味方の軍が現れる、という残酷さ(ホラー)。なんでこの状態になってから来るのか、この状態でひとりだけ帰還してどうしろというのか – もちろんその叫びもどこかに届くことはなくて、届かないので何度でも、いくらでも繰り返されていくに違いないの。

続編では、砂の中に埋められていたBoris Karloff(なぜか包帯つき)が月の晩に蘇ってひとりまたひとりと…

9.28.2022

[film] 私立探偵濱マイク 名前のない森 (2002)

9月23日、金曜日の昼、ぴあフィルムフェスティバルが開かれている国立映画アーカイブで見ました。昔からこのフェスティバルってぜんぜん興味が湧かなくて、前半のパゾリーニ特集は見たいけど夏休みで遠出してて無理だったし、後半の青山真治特集は気が付いたらチケットが取れたのはこれと、追加で出た『赤ずきん』『路地へ』だけだった..

TV放映されたシリーズの一篇らしいが、これはまずこのバージョン(71分)があって、TV放映版(43分)はこれを編集したものだそう。どっちにしても初見。

冒頭、主人公らしき男が車の中で鼻血を垂らしながら横に寝ている/いた女性の像を頭に浮かべている。
私立探偵の濱マイク(永瀬正敏)が富豪ぽい原田芳雄から結婚を控えた娘(菊池百合子)がよくわからない宗教だか自己啓発セミナーだかに行ってしまったので連れ戻してほしい、と依頼を受けて、山本政志に車を借りて現地に向かう。

その洋館のような施設で、「先生」と呼ばれている鈴木京香から、ここでは何をして過ごすのも自由です、やりたいことが見つかったら出て行ってくれて構わない、各生徒は名前ではなく番号で呼ばれる、新聞雑誌は固有名など現実との関わりが見えてしまうので禁止、携帯も預かる、などなどを言われる。自分のしたいことがはっきりとある濱マイクだったが依頼人の娘に近づくためにそれに従って、中の人となる。

水飲み鳥の置物が無限に首を上げ下げしているように、そこにいる人たち(ほぼ若者)はどんより同じような行動をとっていて、そんな中で、大塚寧々と知りあって、依頼人の娘も見つける。また、鈴木京香からは向こうの森にあなたそっくりの木があるから見にいきましょう、と誘われる。

「自分の本当にやりたい事」って、まず「自分」とは? という自分のありようを確認することから始める必要があって、その自分が他の誰かではないことが明らかにならない以上は、「自分」の本当にやりたいことなんてわかるわけがない、そして明らかにならないことが明らかになったとしたら、その先には自分を殺すか、自分以外の他人を殺すことしかできないのではないか、そんな仮説を置いてみると、この施設から出る、ということはこの二択を選ぶということに他ならなくなる、と。そうして、みんなに見送られて出ていった若者は路上で無差別殺人を起こしたり。

そして一日かけて自分にそっくりの木を名前のない森に見にいった濱マイクはなんも考えてないから(or 彼は探偵なものだから)カエルの面に.. のへっちゃらで、ある晩に彼の横にきて彼と寝てしまった大塚寧々は..

上映後のトークで青山監督は「戦争状態」を描こうとしていた、と聞いて、それがこの頃に起こった911の(後の)ことなのだとしたら、そうかもな、としか言いようがない(あの、のっぺらした空気)。そして、00年代や10年代の「戦後」を生きた人たちがミレニアム、と呼ばれて社会の中心にある今とは。

なんとなく今の「名前のない森」は「SNS」と呼ばれていて、そこ囲われた塀のなかでスマホを抱えて自分探しとかちっちゃい戦争とか局地戦みたいなことが果てなく繰り広げられていて、その限りにおいて日々の平穏は保たれている、のかもしれない。

勿論、これだけではなくて、「私立探偵」というのは何と渡りあって何を探しだす職業なのか、とか、名前のない森に探しものを探す経路はありうるのだろうか? とか。そして冒頭の映像にあるように、彼の活動は夢のなかを彷徨うかのようにぐるぐる循環したものとしてある、と。

あと、このテーマのなかで『ロビンソンの庭』(1987) - 最強の樹木映画 - の山本政志とか見えない猫とかが無軌道にやってきて暴れたりする。

あと、あの施設の描写のしらっちゃけた質感。もしこれがデジタルで撮られていたとしたらどんなふうになったのか、難しかったのではないか、とか。

上映後のトークは、制作の現場の音や音楽の考え方/作り方/重ね方の話がおもしろいのは勿論なのだが、青山組はバンドやっているようなものだった、というのがとてもしっくりきた。自信たっぷりの90年代のボーイズバンドのそれ。

9.27.2022

[film] L'Effrontée (1985)

9月23日、金曜日の夕方、シネマカリテで始まったクロード・ミレール特集(見なきゃ)で見ました。『なまいきシャルロット』。英語題は” An Impudent Girl” - 生意気娘。
上映後に山崎まどかさんと野村由芽さんのトークつき。映画は、上映当時に見て以来でまったく憶えていなかった..

Charlotte (Charlotte Gainsbourg)は13歳で、母はいなくて、フランスの田舎で町工場を営むぼうぼうした父と遊び盛りで楽しそうな兄と、メイドとしてやってくるLéone (Bernadette Lafont)と暮らしていて、友達というと近所の病弱なメガネっ子Lulu (Julie Glenn)くらいで、ヴァカンスに出かけるでもなく、近所のダンスホールに行くわけでもなく、なにからなにまでつまんなくて日々腐ってそこらに突っ立っている。

学校で流れていたTVプログラムでオーケストラとピアノを弾いていたClara Bauman (Clothilde Baudon)の姿にうっとりしたりしていたら、自分ちの工場に椅子の調整の注文に来た彼女と知り合うことができて、出来あがった椅子の配達で彼女の豪邸(Jean-Claude Brialyがプールで遊んでいる)に行ったら、なにもかも憧れとしか言いようのない彼女から好きなドレスを着せてもらったりツアーのマネージャーとして付いてこない? って誘われたりして舞いあがり、そんなふうにいけいけになった合間、一緒に椅子を運んだ工員/船乗りのJean (Jean-Philippe Écoffey) – ほんの少し気になってた - からはデートに誘われて、大人の雰囲気ぽかったのでおとなしく相手してたらやっぱり襲われて、こんなはずじゃなかったくそったれ、になったり。

なにをやりたいという夢があるわけではないのだが、とにかく今の退屈な毎日からは抜けだしたい – 抜けだすことさえできればなにかが変わってなんとかなったりなにかが見つかったりするはず - のになにひとつどうにも動いてくれない、頼りにしたい人はちっとも構ってくれないし、いろいろ – Luluとか足元に絡みついてくるものもあり、結果として苛立ちとか嫌悪とかなにやってるんだろ、等でがんじがらめになって身動きがとれなくてなんたることか、ちくしょうめ。

一番彼女のことをわかってくれていそうなのは母の代わりのようにいてくれるLéoneで、実際とってもやさしく厳しく見てくれているのだが、でもシャルロットを「なまいき」って枕にぎゅーっと押しつけてくるのはそんな大人たちでもあって、ほんとに始末に負えない - のは向こうだって同じで、つまり誰かが魔法を使って解決してくれるようなものではないのだ。という魂のせめぎ合いをどちら側の岸から眺めることになるのか、についてはトークでも言及があったが、やっぱりなんでかシャルロットの方になってしまう。苛立って、しゃくに触ってあたまきて、だいたい後になって落ち込んで、忘れてしまいそうなのに結構忘れずにいつまでも残っていたり。たぶん、自分が人の親にならなかった最大の理由ってこの辺にあるので、親目線は無意識に避けてしまうのだろうか。

でも、公開当時はというとそんなふうに見たりすることはなくて、“La boum” (1980) - Sophie Marceau - の次、くらいの位置づけで楽しい主題歌にふんふん首を振っていた気がする。

上映後のトーク、ああーそうかー、だったのがCarson McCullersが原作でFred Zinnemannが映画化した”The Member of the Wedding” (1952)である、というとこ。確かにそうだねえ。IMDBのクレジットには記載がなくて、Triviaのところに”a loose adaptation”で、権利交渉で時間がかかったのでとりあえず作っちゃた、みたいに書いてある。なんかすごい。

同系の「女性映画」として、”Seize printemps” (2020) - 『スザンヌ、16歳』もそうだなー、って。Eliza Hittmanのとか、Diane Kurysの”Diabolo menthe” (1977) - ”Peppermint Soda”とか、少し歳上だったら”Wanda” (1970)もそんなふうだし、Chantal AkermanやSusan Seidelmanの監督する作品ってどれもそうだと思うし、いっぱいある気がする。というか、こんなにも女性に居心地の悪い世界を作っているのはどこのどいつだよ、って。(わかってる)


日本史に残るShame on You! の一日だった。こんな日に『周遊する蒸気船』(1935)のようなバカ映画(誉めてる)とか見ることができてよかったわ。

9.26.2022

[film] Moonshot (2022)

9月15日、羽田からLAに向かう機内で見ました。

昔と比べると機内で見たい映画の数も意欲も減ってしまったねえ。1本目は”Everything Everywhere All at Once” (2022) を再見して、うーんぐじゃぐじゃだなあ.. って改めて(でもこれが当たったということは、などを)思って、少し寝てからこれを見た。HBOmaxのリリースのようなので、映画館では公開されなかったのか。

2049年、学生のWalt (Cole Sprouse)はキャンパスのカフェでロボットの上司の下でバリスタのバイトをしながら学生を火星に送る企業プログラムに自己紹介動画を作っては応募しているのだが、30回以上やっても落ち続けていて、バイトも学業も適当でだめでどうしようもないのだが火星行きの夢を捨てることができない。

そんなある日、Waltはカフェで不愛想で不機嫌なSophie Tsukino (Lana Condor) - 月のソフィー? と出会って、彼女は恋人のCalvin (Mason Gooding)が既に火星に行っていて来るように誘われていて、でも自分は飛行恐怖症なので悩んでいる(彼女は資格面でも金銭面でも余裕で旅立てる)。あともう一人、Ginny (Emily Rudd)という大人びた女性 – 明日に火星に旅立つその前の晩 - に出会って、話しているうちに恋に落ちて、彼女に会いに火星に行こう!って改めて燃えあがる。

そんな時に脱出用ポッドに忍びこんでいて火星まで行ってしまった猫の話をニュースで見て、これだ! って飛び立つ直前のロケットの内部に潜りこんで、そしたら旅立とうとしていたSophieとぶつかってなにやってんのあんた、って匿ってもらったりしているうちに – 見つかったら当然逮捕されて戻される - 密航の共犯にされたくないSophieはあれこれごまかしたり偽装させたり、ふたりはぶつかりあいながらだんだん互いのことがわかるようになって、でも火星に着いたら(着いちゃうの.. )Calvinの家族や友人たちが待ち構えていて、Sophieはそっちの方に行くし、あんたと一緒だったことがばれたらやばいのでもう会えない、ってなり、じゃあGinnyの方は? というと別の恋人ができたからごめん、て言われて、更にWaltは当然のように当局に見つかって拘束されて..  そしたらこのプロジェクトを推進する企業Kovi社の創設者のLeon Kovi (Zach Braff)に呼ばれて、君の行動は最初からすべて見ていた、めちゃくちゃだけど見こみあると思うのでこれから建設するどっかの衛星の宇宙ステーションとして雇いたい、って言われて…

だめな自分が憧れた相手は自分と身分や境遇のギャップがありすぎて、既に申し分のないパーフェクトな彼/彼女もいて、反対側の自分はぜんぶ真逆でなにもかも揺れまくってて不安定で、「運命の相手」だって思いこみに過ぎないようなのに、それでも健気にジャンプしてみたりあれこれやらかす → 失敗して相手も傷つけてぜんぶおじゃんになる → そして。 というrom-com展開の王道パターンを20数年後の学園生活とSci-Fi宇宙への旅を絡めて描いてみました。という内容なのだが、これなら別に植民地時代に、異国への冒険に旅立つために豪華客船に乗りこむ(Titanic?)、という設定とあまり変わらないような。

違いがあるとすれば自分のプロファイルとか挙動はぜんぶどこかでなにかしらモニターされててAIが都度アドバイスしたり指導したり、うるさく言ってくる – ここは昔のrom-comだったら親友とか親にあたるのかな – あたりで、要はあまり新しそうなところはないかも。

SNSやチャットにまみれていつでもどこでも繋がれてしまう時代のrom-comって、実はぜんぜんおもしろいものにならない – ありうるとしたらそれはもう昔のrom-comとは別のなにかなのではないか、という気がしているのだが、それのはっきりとした例が思い浮かんだわけでもなく、どこがうまくいかないのかもわからず、なんとなくいつもの”Pretty in Pink”で、なんでAndieはBlaneの方を選んだのか問題(30年以上)なんかが浮かんできてしまったりして、なかなかしょうもない。年寄りはひっこんでなー の領域になってきた、ということなのかしら。

LAからの戻りの便は、ほぼぐったり半死状態で、目が開いているときはスマホのメモ帳に夏の思い出を書きこみながらべそをかいていた。

9.25.2022

[film] The Shamrock Handicap (1926)

9月14日、水曜日の晩、夏休みの前日、シネマヴェーラのジョン・フォード特集で見ました。アメリカに向かう前だったのでひとり盛りあがる。『誉れの一番乗』。

ここに書いた2本は、どちらも2014年秋の京橋のフィルムセンター(当時)のMOMA特集で並んでなんとか見ることができて、大好きになったやつ。人も動物も大変な目にあいながら自分の誇りをかけて困難に真っ直ぐに立ち向かってなんとかしてしまう。今の時代、「誇り」って薄汚れたものに見えてしまいがちだが、それは畜獣にだって当然にあるもの。

そして、”7th Heaven” (1927)の、”Street Angel” (1928)の、”Lucky Star” (1929)のJanet Gaynorが出ているのであれば、見ないわけにはいかない。(最初に見たときはまだ知らなかった。”Lucky Star”なんて、この作品を煮詰めたバージョン違いのよう)

アイルランドで由緒ある家柄のSir Miles O'Hara (Louis Payne)はみんなに慕われて妻のMollyと娘のLady Sheila O'Hara (Janet Gaynor)と召使いのCon O'Shea (J. Farrell MacDonald)と沢山の家畜とか最強の障害競走馬Dark Rosaleenとか、Con O'Sheaの友達の鵞鳥のブライアンと一緒に幸せに暮らしているのだが、だんだん生活が苦しくなって馬を手放さざるを得なくなっていく。

そういうのを横で見ていたアメリカの大金持ちOrville Finch (Willard Louis)が馬丁で騎手のNeil (Leslie Fenton)を一流の騎手にしてやろう、ってアメリカに連れていくことにして、恋仲だったSheilaとNeilは離ればなれになって辛いところに向こうのレースでNeilは落馬して大怪我を負ってしまう。

あーあ、ってなったところでアイルランドから一家揃って - 馬も鵞鳥も - がおおーい、って海を渡ってきて、地元では名士だったSir Milesの登場に現地のアイリッシュは熱くなって、次は名馬Dark Rosaleenのお出ましだ! ってなったところで騎手が怪我して、じゃあ僕が乗る - 僕ならできるから、ってNeilが馬に自分を括り付けて。この先は燃えるアイリッシュに火がついて爆走機関車になる。

ほんとはここで、あたしが乗る! ってSheilaが飛びだしてきたら最高なのだがそこまではむりだったか。

ラストは再びアイルランドに戻ったSheilaとNeilが四つ葉のクローバーのもとで愛を誓うの。フォードのアイルランド愛が炸裂した最初の一本。どこの国であろうがお伽話のように美しく正しいので文句つけようがない。

Kentucky Pride (1925)

9月11日、日曜日の昼に見ました。 邦題は『香も高きケンタッキー』。 上映のたびに売り切れいるようだからしばらくの間、ずっと上映しておいてもよいのでは。それだけの価値ある映画だし。教育にもよいし。

馬映画なのでIMDBのTop Billed Castも馬が最初に並んでいる。

馬小屋で誕生した時から馬丁のDonovan (J. Farrell MacDonald)と馬主のMr. Beaumont (Henry B. Walthall)から、こいつは絶対すごい馬になるぞ! って期待されてたっぷりの愛を注がれて育った牝馬Virginia's Futureは、すくすく育つのだが、後妻に裏切られてだんだん財がすり減ってきたMr. Beaumontの今後がかかった最後の勝負レースで怪我をして、でもなんとか殺処分はまぬがれ、ひどいやくざ3人組の元に売られて酷使され、Mr. Beaumontも平民に落ちぶれて、でもVirginia's Futureの娘のConfederacy(.. 連合国)はすばらしい馬に育ってレースの時を待っていた…

楽しくて輝いてて怖いもの知らずだった幼年期からの挫折と苦難、因果を乗り越えてみんなの期待と未来を背負ってぶっ飛んでいくConfederacyの勇姿にじーんとなるのはもちろん、街角でぼろぼろのVirginia's FutureとよれよれのMr. Beaumontが一瞬すれちがう時の切なさとか、馬の声が頭のなかにわんわん響いてきてドリトル先生になったかと思うよ。

これはディズニーみたいに馬を擬人化したドラマ、ではなくて、”The Shamrock Handicap”もこれも、アイリッシュも馬も、ひと続き/連なりの共通の感情や情動をもったファミリーとして描いていて、そういうのをなんの説明もなく、ギャップも違和感もなく手に汗握れてしまうのがすごい。これを大上段に「メッセージ」のように振りかざすのではなくて、こう来たらこう来るだろ? なあ? って機械工のようにさくさく作って見せてしまう。これがあるから、ジョン・フォードは何見たっておもしろいのよね。


今日みたいな陽気が続いてくれたら、なにがあっても我慢するしがんばるし。 でも国葬だけはだめだ。

9.24.2022

[film] 3 Godfathers (1948)

9月13日、火曜日の夕方、シネマヴェーラのジョン・フォード特集で見ました。『三人の名付親』。

原作はPeter B. Kyneの小説 “The Three Godfathers” (1913)、これをFrank S. NugentとLaurence Stallingsが脚色したもの。新約聖書の東方の三博士(or 三賢人)のお話を西部劇に置き換えたもの。フォード自身も同じテーマでサイレント時代に”Marked Men” (1919)として映画にしていたものをテクニカラーでリメイクして、前作で主演していた偉大なるHarry Carey(前年の1947年に亡くなっている)に捧げて、息子のHarry Carey, Jr.を名付け親のひとりに据えている。

3人のお尋ね者 - Bob Hightower (John Wayne), Pete (Pedro Armendáriz), The Abilene Kid (Harry Carey Jr.) がアリゾナのWelcome(という地名の町)にやってきて、次の強盗の標的を探しているとき、そうとは知らずに声をかけた保安官のBuck Sweet (Ward Bond) と彼の妻 (Mae Marsh)からコーヒーをご馳走になって自己紹介までしちゃって、でも計画は変えないで銀行強盗をして、金は奪ったもののKidは撃たれて馬を失い、名前も顔もわれているので保安官御一行は三人を追い詰めるべく水場を中心に包囲網を敷く。

追われる三人は水場を求めつつ保安官の罠を避けて歩いていって、砂嵐だのなんだのでひどい目に遭って馬もいなくなり、ほぼ瀕死のような状態になったところでうち棄てられたようなワゴンを見つけたら、そこに生まれそうな状態で動けなくなっている妊婦を発見する。お産に立ち会ったことのあるPeteが面倒を見ることにして、お産に必要な水は残りのふたりがサボテンを絞って取って、なんとか生まれた男の子を前に、母親は三人にその子の名付け親になって - 3人の名前から"Robert William Pedro Hightower”と名付けられる - 面倒を見てほしい、と頼んで静かに息をひきとり、こんなほぼ死にかけの3人で、生まれたばかりの赤ん坊の面倒なんて見れるのか? って思うのだが、コンデンスミルクの缶詰とかでなんとかして(なんとかなるの?)、赤ん坊を生かして誰かに託するために歩き続けるのだが、Kidが倒れ、Peteも…

最後の方は西部劇の威勢よさなんてカケラもなくて、どちらかというと宗教ドラマのようなカラーや構図を帯びていって、それはそれでおもしろいのだが、更におもしろいのはJohn Wayneの表情とか挙動が宗教的な素振りやオーラを一切受け容れないというか、拒絶するくらいの気だるさ/面倒さで映しだされているようで、最後の片手をあげて去っていく姿には感傷もくそもない。二度と関わりたくねえあばよー(中指)、のように見える。(いやそんなことないよ、っていう人もいるのだろうが)


3 Bad Men (1926)

9月11日、日曜日の昼に見ました。『三悪人』 - サイレント。

↑のも3人のお尋ね者が赤ん坊を救う話で、これも同様に3人の極悪人が父親を殺された女性を守って面倒をみる話で、なんで3人の悪トリオなのだろう? しかも巻き込まれるようにして女性に出会ったら悪くなくなっちゃうのだろうか? しかもきちんと世話をしようとして命まで投げ出してしまうのだろうか、ていうのは少し気になる。

1877年のスー族の土地で金が見つかってゴールドラッシュが始まろうとしていて、土地を求めて人々がやってくる中、悪い連中もやってきて、Mr. Carltonのワゴンも襲われて娘のLee Carlton (Olive Borden)は三悪人 - 'Bull' Stanley (Tom Santschi), Mike (J. Farrell MacDonald), Spade (Frank Campeau) - に救われて、その縁で気のいいカウボーイDan O'Malley (George O'Brien)と彼女を一緒にしたり、悪徳保安官 Layne Hunter (Lou Tellegen)から彼らを守ったりすることになるの。

でもこれだけではなくて、自分の土地を得るためにある日ある時刻がきたら早い者勝ちで確保できるというので、横一線 - はんぱな一線じゃないの、どこまでも続いててあれ本物? - に並んで、よーいどんで一斉に荒野を走り出すとこ、実際の音が聞こえてきそうなくらいの迫力で、車輪が外れたり脱落する人たちもいて、あー自分はぜったいあれ無理だ/あんなふうになるー って。 そんなふうにいろんな人たちが入り乱れて走っていく中に、点のようにしてある善き人たち、悪い人たち、そして三悪人。

三悪人のそれぞれの最期/自己犠牲は、この後のこういう映画で度々描かれることになるであろう、かっこよすぎてずるい、みたいなのの典型、その始まりのようで、それにしたって十分すぎるくらいかっこよい - 小屋におびき寄せてあばよ、とか。 約100年前に、音なしで特殊効果もなしにこれだけのものが作られていたのだ、って。

でもやっぱし、あんたたちいったいどこが三悪人やねん? てなる。

9.22.2022

[film] See How They Run (2022)

9月16日、金曜日の昼 – Primaveraに行く手前 – Regal LA Liveというシネコンで見ました。客は5~6人くらい。 前回ここで見た映画は、”American Ultra” (2015)だった、たしか。

これもこの日の公開で、監督のTom GeorgeはBBC3で変てこコメディドラマ”This Country”を作っていた人で、これが長編デビュー作品となる。とっても英国ぽい犯罪・推理・バックステージ・コメディ。予告編を見た限りではとってもWes Andersonしている印象があったが、実際にはそんなでもなかった。1時間38分の小気味よい小品。

1953年、ロンドンのウェストエンドで、アガサ・クリスティー原作による舞台劇“The Mousetrap” – 『ねずみとり』の上演が100回を数えて世紀のロングランに向かってお祝いしようとしたところ(この後、連続上演の世界記録を作るのはみんな知っている)で、ハリウッドからこれの映画化のためにやってきた - 実は赤狩りのブラックリストに載って追い出された - 映画監督Leo Köpernick (Adrien Brody) - 最初のほうは彼が語り手 – がいろんなところに首を突っ込んで偉そうに意見したりして顰蹙をかっていると、いきなり衣裳部屋で何者かに惨殺されてしまう。

みんなに嫌われたり恨まれたりしているある人物がひどい殺されかたをして、つまり彼/彼女の周辺にいた全員が怪しい容疑者となり、最後に彼ら全員を一か所に集めて探偵が推理をして犯人を特定する – まさかあの人が(!)のどんでんになるお決まりの展開をバカにしているアメリカ人監督が映画化のために劇場関係者の間をうろつくのを誰もがうざったく思って、脚本家のMervyn (David Oyelowo)とも喧嘩ばかりしているし、劇場主(Ruth Wilson)らも追い払おうとしているしで、そういうところで本物の殺人が起こってしまう、という設定からしてメタな犯罪/推理もの、というか - あんまり書いてしまうとおもしろくなくなるので書けない。

こうして現場に現れたのがコートと脚を引き摺る警視のStoppard (Sam Rockwell) – Tom Stoppardから取られているそう - と部下で制服をかっちり着こなす生真面目な警官のStalker (Saoirse Ronan)で、まずはSavoy Hotelに滞在していたKöpernickの部屋を漁って、そこから後半はこのふたりがでこぼことんちんかんなやりとりを繰り返しながら現場や人々の間をうろうろ嗅ぎまわったり突撃したりしていくのが楽しい。

Stoppardはがさつでてきとーで歯医者に行くといってはパブで飲んでいたり、映画おたくのStalkerは言われたことをどこまでも生真面目にやり続ける – Wes Andersonのかんじがあるとしたらこの辺の執拗な漫画っぽさ – 犯行に至るまでの動機や恨みやノワールはとりあえず置いておいて – だろうか。そうやって醸し出されるどこから見ても英国としか言いようのない全体の雰囲気がたまんない。人によるのかもだけど。

登場する役名には実在した人物とかアガサ・クリスティーの元夫とかいろいろ出てくるし、警察は“10 Rillington Place”のあの連続殺人で忙しかったり、『ねずみとり』の劇構造や英国の犯罪史や犯罪小説やクリスティーのマニアの人が見たら更におもしろくくすぐられる発見があるに違いない – そういう人からすれば今作の設定やトリックはおもしろくもなんともないかもだけど。でも、そうでない自分にも十分におもしろいものだった – 少なくともKenneth Branaghの最近のあれよりは断然。 Daniel Craigのあれとは..  どうかしら?

タイトルは童謡の”Three Blind Mice” - 変な歌 - の一節から取られたそうだが、わたしはこのタイトルを聞くと、New Musik(バンド)の”They All Run After the Carving Knife"のリフレインが鳴りだして止まらなくなる。なった。

俳優陣は全員揃ってクセのある変なキャラクター - という設定なので、Adrien BrodyもSam Rockwellもその線でとっても怪しく臭すぎることを期待通りに楽しそうに演じてくれるのだが、動きとかいちいちおもしろくてたまんないのはSaoirse Ronanで、この人、もっとこういうのをやったらいいのに、って思った。このコンビ - Sam RockwellとSaoirse Ronan - で続編 – やはりメタ犯罪もの – TVシリーズでもいい - が見たいな。


R.I.P. Anton Fier..   
ある時期の東海岸を象徴するビートを刻んだドラマーでした。最後に見たのはThe Golden Palominos(の何度目かの再結成)だったか..  ありがとうございました。

9.21.2022

[film] Moonage Daydream (2022)

9月15日、木曜日の夕方、LAに着いてAmoeba Hollywoodのあたりをうろうろしている時、なんか映画やっていないかしら、と探してみたら丁度間もなくChinese Theatreでやると。正式公開は16日からのようだが、前日の晩だから。18:30の回が取れて、そこでIMAX上映であることを知る。

Brett Morgenによるドキュメンタリーで、2時間14分。

あのシアターのフロントにはでっかいBowieの垂れ幕がかかってて、ポスターも配っていて、シアターに入るとスクリーンのカーテンにはあの稲妻マークが堂々と。いいのか? 2022年にこんなことやってて。 シアターは7割くらいの入りで、木曜の夕方に来れそうな老人が多くて、音がでっかいのと前方なのでわかんなかったが、拍手も起こっていたみたい。

予告が何本かかかって、そのまま映画に入る。ガキ向けのマナーのCMも映画泥棒もなんもないのって、なんてすがすがしく気持ちのよいことだろう。

2002年、ニーチェについて語るBowieのインタビューの声が流れて、そこから“Hallo Spaceboy”がかかる。以降、ナレーションも字幕もなく他者のコメントや証言もなく、基本はBowieがいろんな時期に語った様々な言葉を散りばめて、彼の生みだしたSound and Visionがどんなものであったのか、それがどんなふうに作られたのか、を彼の言葉の他に、影響を受けた映画 - 『メトロポリス』、『ノスフェラトゥ』、ベルイマン、キューブリック、やTVやファッションやカルチャー等々の断片を混ぜこんでミックスして(でもぜんぜん限定的だよね、文学への言及はゼロだし)、David Bowie Experienceとしか言いようのない映像・音像体験をもたらそうとする。音源はライブ録音からのものが多く、映像はあまり見たことないのが結構あって、これらにIMAXのでっかい画面とやかましい音響が必須であることは言うまでもなく、彼の稲妻のマークをまさに稲妻のように体感できる。それはグラムとかハードロックとかジャンルがどう、という話ではなくてリアル稲妻の電撃でショック! びっくり!とかそんなようなかんじのー。

当然キャリアの初期とか家族のこと、子供時代から不幸な兄のことも多少は語られるのだが、やはり起点はSpace OddityからZiggyのあたりで、彼がアリゲーターで、スペースインベーダーで、”I’ll be a rock ’n’ rollin’ bitch for you” なんだ! って決意表明したその辺りから全てが始まっていく。三人称単数でのキャリア全体の総括は”David Bowie Is”の展覧会でやったからもういい、ということなのだろう。

こうして映像も音楽も時系列に並べられることはなく、そこでBowieが語る内容に応じて自在に前後して、後ろに倒れれば予言していたことになるし、前に戻れば既にこんなだった、になるし。これを繰り返しながら、緩やかに彼が亡くなるまでの航跡を追っていく。旅の目的は彼のSound and Visionを思い知ってびっくりしろ、ということのようなので、その観点からは申し分ない「体験」にはなっている気がした。

Bowieが時代の預言者であり革新的なイノベーターであったことについて、そうかも、と思う反面、それだけだったら今の時代の詐欺師まがいの「クリエーター」風情とそんなに変わらない。なんでBowieにあんなに惹かれたのかというと、どうしようもなく子供で不安定で誘われるままに右いったり左いったり危なっかしくへろへろになり、それでもずっと他者を、「あなた」を「あと5年しかない!」って泣きながら愚直に求め続けたことにあったのだと思っている。この点から、彼が一緒に音楽を作っていった共作者 – コンポーザー/プロデューサーとしてのTony Visconti - Mike Garson - Brian Eno、なぜか現れたり拾われたりするすばらしいギタリストたち - Mick Ronson - Earl Slick - Carlos Alomar - Robert Fripp - Adrian Belew - Nile Rodgers - Reeves Gabrelsなどなど、そして同時代の子供(兄弟)たち - Iggy Pop - Lou Reedについては、もう少しきちんと触れられてもよかったのではないか、とか。あと、時代的にはアメリカ人になろうとしていた”Young Americans” (1975) の頃、ソロを捨ててバンドとして出直そうとしていたTin Machineの頃のことは、音楽的にももう少し掘り下げるべきだったのではないか、とか。

などなどあっても、結局は”Moonage Daydream”なのだから、って言われたらそうだねえ、しかないのだが、これだとクリムトやゴッホの絵を屋内全面にプロジェクションしてすごいだろー、ってやるあれらと同じようなイリュージョンでしかない気もして、そうじゃないの、Bowieの詞と音がなかったら、あの時の彼を抱きしめなければ死んでしまうところだった子供たちが大勢いて、彼はそういう子たちのためのスターで、スターマンで、それは白日夢でも幻想でもなくて...  っていうあたりを今はぐるぐる回っている。この作品はそういう出会いをもたらしてくれるものになっているかしら? と。

[music] Primavera Sound LA - Day3 Sept.18

18日、日曜日、3日目の午前中、パサデナに行ってそこからそのまま1時半くらいに会場に入った。
なんでパサデナだったかというとLAのDowntownにはJ.Crewがなくて(J.Crewのはずっと買いだめしてきたのだがここのとこ機会がなかったので)、どこも場所も半端に遠くて、でもパサデナのならPrimaveraの最寄り駅が同じMetroの路線上にあったから。

この日は最後までいるつもりはなくて、午後の3バンドだけ見ようと。
そういえばフェスで3日通して通ったのって初めてだったかも。それくらい楽に通うことができた、と。 紫外線を除けば。

Squid

ロンドンでは日本への帰国前に結構話題になっていたバンド。 これの前に演っていたGustafを木陰で聴いていたのだが、女性の声が力強くて(後でSquidのメンバーから彼女声でっかいよね、って言われていた)よかった。 なんかESGっぽい - と思ったらBrooklynのバンドだったのね。

Squid。ヴォーカルをとるドラムスとキーボード/エレクトロ担当の2人以外の3人はベースとかギターとかパーカッションとかを取っ替え引っ換えで慌しく、でも全体のトーンはドラムスの彼のキックと声でpost rock的にまとまっている。

なんというか、LCD Soundsystemがそれまでのロックの歴史いろいろをジャンキーかつ網羅的にぶちこんで彼らなりに「総括」しようとしたところに、もういっかいPavement的にとっ散らかった揺さぶりをかけているかのよう。でもばらばらにしてしまうのではなく、軟体流体のイカのぐにゃぐにゃと吸盤であれこれをうまく結線している。帰ったらちゃんと聴いてみよう。

Faye Webster

メインのステージ。天気のよい日曜日の午後にこんなにふさわしいポップスがあるだろうか。 見事だった”I Know I'm Funny Haha”の一曲目から始まって、通していくとレコードで聞けたようなきらきらしたコマーシャルなかんじはあまりなくて、彼女自身もずっとギターを抱えて歌っていた - もっとがんがん弾かせてあげてもよいのに、と思いつつもシンガーとしての魅力の方が大きいかも。

若い女の子たちがずっときゃー(cute!)って叫んでいる後ろに腕組みした(おそらく)パパママたちが相当数いて、微笑ましかった。

Dry Cleaning

これの反対側の大きめのステージではAmyl and The Sniffersが演ってて、どちらに行くか悩んだのだがやっぱりこっちか、って。

シンプルでがっちり - ややねっとりした3ピース(Magazine.. かなあ?)の上にFlorence Shawさんのpoetry readingスタイルのヴォーカルが被さる。彼女の声のトーンの素っ気なさが不機嫌や怨のほうに籠っていかずに、知るかそんなの、みたいなところに留まっていたのはよいふうに曲を引っぱりあげている気がした。たまに楽しそうに笑ったりする場面もあって、よい人なのかも、とか。もうじきリリースされる新譜を待ちたい。

会場を出たのは午後5時半くらいだったのだが、エントランスには長い列ができていた。 これから見る人もいるんだねえ。

この日は女王様の国葬があったのだが西海岸時間だと深夜1時くらいからで、気がついたら落ちてて目覚めたら棺はウィンザー城に飛んでいたのでびっくりした。


その他のこと;

The Last Bookstoreでは、Annex(高めの古本コーナー)の方ではじめていくつか買った。ここってレジのところでいっつも、この本(or レコード)すごくいいよね! とか声を掛けられるのだが、今回のはうううこれ最高よねいいなあー、って散々言われた。がんばって浸りたい。

前回来たときから場所を移転していたAmoeba Hollywood、前の場所の壮観なごちゃごちゃ感は移転で失われてしまったのではないか、と危惧していたのだが、ぜんぜんそんなことはなく、更にぐじゃぐじゃが広がっていて、30分くらい上の壁を見たり下の箱を漁ったり、を繰り返していたら気持ち悪くなってきたので出た。(これでセーブした気分になったのが結局ぜんぶ古本の方に流れた。ばかばか)

レコ屋といえば、フェスの会場内にも出店があって – あと、いろんなヴィンテージのポスターを売っているとこも - 日本盤をいっぱい扱っていたりNew Wave系が充実していたり自分はそういうマニアみたいのは卒業したのだ、って無視していたのだが、なんかむず痒くて帰り際にお土産として1枚だけ買った。

美術館はThe Broadとそのお向かいのMOCA(Museum of Contemporary Art)の、どちらも常設展を見た。The Broadは前に来た時はなかったので今回が初めて。村上隆の有料の展示はパス。

ど真ん中の正統派教科書としてモダン・アートのいろはをでっかく散らしたThe Broadと、そこに少しだけアメリカ – 西海岸ローカルの視点が入ったMOCAと、これらがどちらも無料ってすばらしいよね。モダン・アートって、そもそもそうやって見られないと意味ないよね、って。

Grand Central Marketは朝早くとか午後遅めしか行けなかったせいかもしれないが以前ほどの活気はなかったかもだけど、eggslutはまだあって、お肉屋はなくなってて、ドーナツ屋はあって、などなど。

LAのDowntownは前回来た時よりコロナの影響もあるのだろう、寂れてちょっと怖いかんじにはなっていた。映画みたいに壁に並ばせて手錠かけているとことか見たし(真昼間、本屋の向かい)。

9.20.2022

[music] Primavera Sound LA - Day2 Sept.17

2日めのメモ。

Beak>

2日目も午後3時くらいに入って、まずはこのおじさんトリオから。大昔にNYで見て以来。ドイツのプログレとアヴァンがぐねぐね絡み合ってヒモのように伸びていって不気味なのに全体としては朗らかでスキップしたくなるような、なにをどう仕込んだらこんなふうになるのかちっともわかんないし、本人達に聞いてもすっとぼけてきそうなそんな音なのだが、好きだとしか言いようがない。

Kim Gordon

この日の4:30-5:15の枠は、大きい方のステージでKim Gordon、反対側の小さい方ではMayhem 、とKimとThurston - Mayhem本の後書きで讃えている - の代理戦争のようになっていた。まずKimさんの方は女性バンドをバックにマイクひとつでがんがん歌う。背後に流れていく乗り物とか森とかの映像がおもしろかったり。

Mayhem

Kimさんを途中で抜けて反対側のステージに向かう。暗い森と洞窟を抜けると.. だったらかっこよいのだがかんかん照りのなか、ヴォーカルの人はでっかいマントを羽織ってごぉーごぉー唸っていて暑苦しそうだった(途中でやっぱり脱いでた)。

前方で押しあうファンの人達と紫外線を避けて木陰やフェンスの陰に退避して恐々ながめている人達がきれいな対照をつくっていた。 最後の方で巻き起こった凄まじいモッシュが砂嵐を巻き上げ、その様を小綺麗なカッコの若者たちがみんな動画におさめていて、みんな、もっと音楽を聴いてあげなよ、って少し思った。

Fountains D.C.

また反対側のステージに移動する。期待のバンドなのか人がいっぱい。 英国でも話題になっていたし。

Primaveraの公式アプリの紹介文にはこんなふうに書かれている -
“sounds like Wire with the accent and poetry of The Pogues (their native Dublin oozing from every pore). Or like Mark E. Smith with Joy Division as a support band. Or like Magazine meets Stiff Little Fingers.” - なんでもありかよ。そして開演前の客入れの音もそんなのばっかりで和んだ。

始まるとバンドの音もヴォーカルも、勿論それらのどれにも似ていない彼らの音になっていたと思う。ヴォーカルはMark E. Smithのいらいら癇癪の果ての倦怠や徒労感をなんとか引き出そうとしているだけで、Mark E. Smithになりたいわけではなさそうで、リアムもちょっと入っているようなかんじ。

Warpaint

またステージ反対側に移動する。途中のメインのとこではKhruangbin - なんて読むのか何度聞いてもずっと憶えられず - がやってて、おもしろいのだが前方を固めているであろうNINファンのみんなにはどう聞こえたのだろうか。

本来ならここの枠はLowが演るはずだったのだが一週間くらい前にMimiさんの癌治療のためにキャンセルがアナウンスされてしょんぼりして、そしたらここに彼女たちが入った。Mimiさんの回復を祈りつつWarpaintが見れる喜びを噛みしめるとても複雑なー。

新譜もすばらしかったがこのバンドについては何を歌っても誰が歌っても(全員ヴォーカルとれる)、ダンスの方に行ってもやや複雑なアンサンブルに向かっても、なに聴いたってよいの。全体を支えるStellaさんのドラムスの力強さと、相当に無理をしているようででもしっかりとメロが残るコーラスと。これからもずっとついていきたい。

Nine Inch Nails

2日めのメインのトリ。この人達は、コロナで演奏できなかった時を除けば、実はずっとツアーを続けていて、ライブをしていなかった時にはAtticus Rossと映画音楽を作ったりしていたので生産性の高いことときたらものすごくて、00年代のライブのように危なっかしいところもなくなり、ステージは背後のビジュアルや装置による演出もやめてむき出しのシンプルなのになり、ライブの構成もオープニングとエンディングはだいたい決まっていて新しい何かが飛び出してくる可能性はそんなにない - 今回のようなフェスで時間が限られている場合は特にパッケージの固定されたかんじになるので、なにがおもしろくて見にいくのか? 自分もそうだが2日目に会場中に湧いてでた”NIN”シャツを着たでっかいお兄さん達に聞いてみたい気もするのだが、答えは簡単で、音の分厚さとやかましさがどんどん増してきているからなの。 この傾向は今のバンドメンバーに固定されてからは顕著で、ドラムスのIlan Rubinが恒久の発電所になって以降、2A (Atticus & Alessandro)が好き勝手に音の上塗り重ね塗りをやり放題やりだしてから止まらなくなっている気がする。

エンディングの”Hurt”なんて昔だったらライブのあとにこの人死んじゃうんじゃないか、って思ったりもしたのに、最近のはJohnny Cashのバージョン - 全身傷だらけすぎてどうするこれ? の爬虫類のかんじ - に近くなっているような。

では力の入れどころがどの辺に来ているのかというと、かつての自分を穴に落として陥れたシステムや社会の仕組みの陰湿さ陰険さそのどうしようもない腐れっぷり、などなどを暴きたてる、それを敵と同じくらい執拗に嫌らしく追い込むのを延々続けようとしているのではないか。被虐から加虐へ、というわかりやすい物語のなかに置くのではなく、「虐」- 暴力や傷の根源に横たわってそれらを行使するのは誰なのか、そこに(どこに)どういう力の作用が働いているのかを俯瞰する、そのための補助線としての音の重ね塗りであり、その実験場としてサウンドトラック制作があったりするのではないか。

自己 - 社会化されたのも内面も - とそれを取り巻く人々とか社会とか地球とかとの相互のぐさぐさをいろんな表象や仕様でポジとネガの両面から暴きたてようとした英国人 - David Bowieを再びカバーし始めたのもその辺があるような気がする。Bowieがえらいのはえらいから置いておくとして、Trent ReznorはかつてBowieが辿った経路を極めてアメリカンな粗暴さのなかで踏破しようとしているのではないか。そして、その先にあるLazarus。

あと、昔だったら演りそうになかった”Perfect Drug”を聴くことができた。2018年の欧州ツアー - ここでは未だ演ってなかった - の後の米国ツアーからのようで、中盤の神経を割いていくように繊細なドラムスが棍棒でぶっ叩く仕様に変わっていたがとってもよかった。

あと、髪のばし放題で髭ぼうぼうの外観となったAlessandro氏は、Pearl Jamのサポートキーボードの人のように見えてちょっといやかも。

終わったのはほぼスケジュール通りの10:18くらいで、短いしもっとやってよう! だったのだが客を追い払うかのようにCureの”A Forest”が流れてきたので諦めた(10:15 Saturday Night”かと思ったけど記憶が.. )。

会場近辺にいっぱい張り紙がしてあったunofficial after party、どんなだったのかしらー。

[music] Primavera Sound LA - Day1 Sept. 16

どこまで書けるかどこまで憶えているかわかんないけど書けるとこまでメモとして。

音楽フェスとしては2017年7月のNYのPanorama以来、LAに来たのは2015年8月にHollywood BowlにErykah BaduとSt. Vincentのライブで渡って以来となる。 英国滞在中はロンドンのHyde ParkやVictoria Parkでやるちっちゃい規模のフェスみたいのが割とあって、そういうのならいつでも行けるし、本丸はGlastonburyとバルセロナのPrimaveraだから、と思っているうちにどっちもミスしてコロナでそれどころではなくなって、計画性のない愚か者の典型で、それを打ち消すには次のライブをとか言っているうちにこれがでた。 フェスとNINだと2005年のCoachellaからのつきあいだし、まあこれかな、って深く考えずにチケットを取ったのが昨年の12月で、その頃にはコロナがこんなふうになるなんて知る由もなかったのだが、とにかくなんとかなった。よかった。

これの裏でものすごくうらやましいRiot Festをやっているように、フェスはどんどんコンパクトにアクセスしやすい色柄別のにシフトしていて、大規模な「夏の風物詩」みたいなのは大看板を除けば廃れていくんだろうな(日本のは例によってガラパゴス化..)。最後のアクトが終わって地下鉄かバス(座れる)で帰っても23時くらい、ってすごくない?

それまでずっとLAで泊まってきたホテルがなくなっていたが、泊まるのはLAのdowntownしかない。なんかあっても側にThe Last BookstoreとGrand Central Marketがあれば生き延びることはできる世界の果て。たぶん。

会場のLA State Historic Parkに着いたのは3時少し前で、Will Callの窓口がよくわかんなかったり(群れているところに並ぶ)、注意書き読んでなくて大きいトートで入れなかった(小さいポーチに無理やり詰め込んで会場に入ってから小さいトートを買って移した)りいろいろある。

ライブのステージは3つあって、タイムテーブルはメインのを挟む形の両端同士の以外は重ならないように組まれていて、移動はしやすい - 端のTecate Altaのステージからもういっこの端のBarcelonaのステージまでshort cutなしで普通に歩いて4分30秒だった - 昔行ったLollapaloozaよりは楽かも。陽射しの強いのを除けば。

会場ではほぼみんなマスクはしていないのだが、喘息ぎみなので煙がとにかくきつかった。マリファナ、やりたいのは別に止めないけどタバコじゃないからいいだろ、みたいな顔して得意げに吸うのはやめてほしい。人の吐いた煙を吸わされることの気持ち悪さ、わかる?

Jehnny Beth

最近は女優としての”Les Olympiades, Paris 13e” (2021) - 『パリ13区』が印象に残る、でもやっぱりシンガー、というよりパフォーマーなのだなあー、って。バックはパートナーのJohnny Hostileともう1人の一緒に歌ったりもする女性で、彼らが黒で彼女は白のシャツと黒のタイトなパンツ、ピンヒールで、ふつうに立っているだけでかっこよい。靴を脱いで、最前にいる大きめの男性の肩に乗って握手と笑顔を返しながら客のなかにぐいぐい押し入って歌う - これを3回も。彼女の歌に頻出する”We”と彼女がテーマにしているあれこれを思えば当然なのかも。

明日登場するバンドの曲をやるね、って”Closer”を始めて、でも途中でクラッシュしてアボート。客席から歌って〜 ってせがまれて少しアカペラで歌ってくれたが、炎天下の真昼間、アカペラで歌うのにこんなにふさわしくない曲もあるまい。

Shellac

↑のステージの反対側の小さめでスクリーンもないところで、久々にみたShellacのライブ。Albini氏を始め、全員がおじいさんに近い年頃になってきてそれなりのやばさも臭ってくるのだが、でっかい音の塊が鳴る端からどかすか投げつけられてくる様は爽快で、バスドラはバスドラの、スネアはスネアの、ベースはベースの、ギターはギターの音しかしない/させなくて、曲らしきものはその物理的な重なり連なりの結果になんとなく形をとる、ような。 音響派なんかとは反対側にいて、出音の一発にすべてを賭けている、というか。Albiniさんの質問コーナーもあって、でも質問されたら時間ないから後でな、とかあいかわらずだった。

Clairo

再び反対側の↓のステージに向かう途中にメインのでっかいステージ - “Primavera” -でやっているのを少し聴いた。かわいー、って。 フェスで自分の知らなかった新しいミュージシャンや音楽に出会う、というのは、今回のに関してはそんなになくて、よく知っている or ライブを見て確かめたい両端のステージに出る人達を追って往復を繰り返しているうちに終わってしまったような。メインのとこで気合い入れてみたのは3つだけ、他のはお食事待ちのときに聞いたていど。

Stereolab

18時半の日没の少し前のピンク色の夕空にとてもよく映える気持ちよい音で、Shellacの後に聴くと石ころと布切れくらいちがって、そんなひらひらした音の連なりのなかで歌を編んでいくことを改めて、楽観的に覚悟したかのような、そんな音であり、Lætitia Sadierさんの穏やかな笑みだったような。むかしはこんなにとっつき易い音だったかしら? とか。

Mitski

↑と同じステージで、ものすごい人 - 特に若い女性- でいっぱいだったのだが、事前に聴いておいた方が入り込めたのかも。ブルースに近い世界のようだが - いや、わかんないや。

Lorde

メインのステージの初日のトリ。ステージの真ん中には階段だか滑り台だかの三角とでっかい丸 - 幾何学模様。デビューの後に品川で見た頃とはスケールからなにからぜんぜんちがう。

最初にThe Beatlesの”Sun King”が夢のように遠くで鳴ってから、7人くらいのバンドと彼女が滑り台に並んだり滑り台も動いたりしながら配置や振付けも全てきれいに決まっている。その間を縫うように本当に自由に楽しそうに歌って動いて、歌って! なんて言わなくても客席がいくらでも歌ってくれる。 ファーストの密室感も最新作の開放感もうまくバランスとって散りばめられていて、歌いたいから歌う、ということに尽きるのだ、というあたりを地球温暖化問題についてなんで自分は問題だと思っているのか、なんで自分は歌うのか、なども包めて自分の言葉で伝えようとする。それがステージの端から端まで走り回り弾けまくる楽しさのなかで幸福に - あの笑顔を見よ - 実現されてしまう。なんか、Blond Ambition Tourの頃の、無敵だった頃(今もだけど)のMadonnaを思い出してしまったり。

大好きな1stの曲はバンド編成にアレンジされて、でもあの祈りのような硬い崇高さは保たれたまま、マスターピースになっていた。

あと、”Cruel Summer”をふつうにカバーしていてうれしかった。

9.14.2022

[film] Délicieux (2021)

9月11日、日曜日の夕方、日比谷のシャンテシネで見ました。食べ物好きだから。
邦題は『デリシュ!』、英語題は“Delicious”。作・監督はÉric Besnard。

冒頭、粉をこねて生地を作ってジャガイモとトリュフを交互に重ねて筒状のパイに包んで焼いた料理「デリシュ」(っていうのがあるの?)を作るところから。

1789年、革命前夜のフランスの田舎、公爵のChamfort (Benjamin Lavernhe)のお城の料理長をしているPierre Manceron (Grégory Gadebois)が公爵が主宰する午餐の準備に追われていて、おおむね料理の評判はよかったものの、ひとつリクエストのリストになかった一品 – デリシュをメニューに入れてて、貴族からこれはなんだ? って問われて、「ジャガイモ」って答えたらこんな地面に埋まっていたようなもの食えるか、って言われて蔑まれて、素直にお客に謝らなかったのでそのままお城を辞めて、一緒に働いていた息子を連れて実家に戻る。

もう料理はやらない、って決めて暮らしを続けていたのだが、ある日素性の不明な女性Louise (Isabelle Carré)が現れて料理を教えてほしい、という。もうやめたから、と言ってもきかない。そのうち後任の料理長が定まらないお城から馬車で移動中の公爵を招いて食事を出して、名誉挽回したらどうか、と言ってきたので、やってみよう、ってLouiseを助手にして準備を始めるのだが、彼女は料理の経験ゼロのようで大変で、一回めの機会はだめになってしまう。

パリでは革命の機運が高まって、腐った貴族階級に対する反感があちこちで火を噴き始めた頃に、近所の人たちとかいろんな人々がやってきてメニューを見てそれぞれが自分の食べたいお皿を食事できる場所を作ってはどうか、って始めたら場所がよかったのか、客がやってくるようになって、これが「レストラン」の始まりになったらしい、と。

ていうのと、途中からLouiseがやってきた理由が明らかになり、彼女の個人的な復讐とManceronの公爵に対するくそったれとレストラン開店と共に湧きあがってきた料理への思いが渦を巻いて最後はなかなか痛快でよかったかも。ていうか、お料理とか食材が昔の細密画の仕様で並べられていったりおいしそうなので、おいしそうに見えればいいじゃん、て。(それはだめではないか)

レストランの誕生については、去年レベッカ・L.スパング著『レストランの誕生 ―パリと現代グルメ文化』っていうのがちくま学芸文庫に入って、この時代あたりから始まって現代のフーディ文化にも連なるいろんな考察があっておもしろくて、この頃のレストランの当初の意味は「元気を回復させるブイヨン」だった、とか、私的な食欲が「万人に開かれている」のと「社会全体の利益になる」の二重の意味で満たされるはずだった、とか、はっきりと社会的な背景や要請と共に出てきたことがわかるのだが、映画はそこまでは掘っていかない。けど、こんなふうだった – ぽい、おおよそのかんじはわかる。

でも前にストックホルムで行った「世界最古のレストラン」は1722年だったし、ギネス認定されている最古のお店はマドリッドにあるようだし、諸説あるみたい、そりゃあるだろうな。

パブの成り立ちって、たぶんこれとは違うんだよね? とか、コロナを経て公共 - 社会の基盤の成り立ちみたいのも含めて - と外食(家族以外の人が作ったものを食べる)のありようってずいぶん変わってきたような気がして、テイクアウトとかお取り寄せとかデリバリーとか、あるいはこども食堂とか自助とか、これらの流れとサービスも含めておいしいものを極めていく道って、はっきりと乖離してきている気がして、そろそろ次の革命などがー。

画面に次々と出てくるおいしいものを見ながら、そういうことを考えてしまうのって映画としてはよいことなのかわるいことなのか。Manceron役のGrégory Gadeboisの暴発寸前の白目みたいのがなかなかおっかなくてよかった。ミンチにして料理してやるくらいの凄みがあって、別にやっちまってよかったのに。革命なんだから。


ゴダールのこととかいろいろ書いてみたいのだが、明日から夏休みをとって、西だか東だかの方に行きます。

9.13.2022

[film] Spider-Man: No Way Home – The More Fun Stuff Version (2022)

9月10日、土曜日の晩、池袋HUMAXシネマズで見ました。東京の上映はここ一館だけで、チケット予約システムがどうしようもないクズで泣きそうだった。

今年の1 月に公開された”Spider-Man: No Way Home”のバージョンに11分の追加映像を加えて全世界で9/9に同時公開された「もっとおもしろいバージョン」。 もっとおもしろいのなら正式公開バージョンに含めればよかったはずなので、見たい人が見ればおもしろくなるバージョン、が正しいかも。 12 inchシングルでExtended Versionが出ているとつい買ってしまっていた世代なので、こういうのには弱い。

もういっこは、最近のMCUとかCGを駆使したヒーローものとか、見た端から忘れていってしまう - こないだ見たThorのなんてもうほぼ思いだせない – それっておもしろいねえ/なんでだろうねえ(たぶん、たんに老いただけだよ)、っていうあたりを改めて確かめてみようか、って。前後関係だの背景だの伏線だの、そういうのの網目に巻かれて「ファン」に受けとめられることを前提として生成・消費されていく「ストーリー」に対する抵抗感もあるのではないか、とか。

あとふつうにSpider-Manのシリーズ、どの代のも割と好きだった。NYの911後を生きる若者たちがイキったりしょんぼりしたりするドラマとして、3人の蜘蛛男たちはどれも素敵だったし、悪役も含めて役者はみんなすばらしいと思うし、今回のだとMay役のMarisa Tomeiは大好きだし。

以下、追加された(と思った)あたりを中心にー。

冒頭、Tobey MaguireとAndrew GarfieldとTom Hollandが素でZoomで会話しているところから。TobeyとTomがAndrewに愛してるよ! とかいう。ひょっとしてこういう楽屋噺みたいのばっかりだったらどうしよ...  と思ったがそれはなかった。

前作からの流れで、パブリックに正体をばらされてしまったPeter Parker (Tom Holland)を見舞う学園内外での苦難とか、取り調べ – MayにもPeterにも – とか、学園内TVのアンカーBetty (Angourie Rice)がその後の学園の様子をレポートしたりとか、Mysterioのせいで大炎上してしまった後のしょっぱい顛末がよりくどく細かく描かれている。

あとは、Happy (Jon Favreau)のアパートに行って悪人たちとMayとPeterがみんな揃っておとなしくエレベーターに乗る – のが監視カメラごしに - ところとか。 Happyの仕事内容からすれば、ここでアラートが飛んで大騒ぎになるべきところなのにー。

でも一番のみどころ – というよりダイアログ - は、最後に自由の女神のとこで戦う前に、3人の蜘蛛男がそういえばさー、みたいに話すところで、前のバージョンよりももっといろんなことを話している(気がした)。AndrewとTomが蜘蛛の糸を出すのは外付けデバイスだと言うのに対してTobeyのは内蔵型だって。出すときには頭のなかで念じるとかいうので、どんなふうに?とか、穴を見せてほしい、とか。穴は確かに見たいな。

あと、これは”Second Chance”だ、って言うの。やり直せる – これは彼らだけじゃなくて悪人みんなだってそうで、だから今回の”Cure”だと思うのだが、大きな力に伴う責任 - "With great power comes great responsibility" - と、その責任についてくるものであろうがなかろうが、やり直せるのだ、だからありがとう愛してる! って。この文脈でAndrewはMJを救うことができたのだし、Tomは自分をみんなの記憶から消してしまっていい、ってDoctor Strangeにきっぱりと告げることができたのだな、というあたりがより鮮明に出たかも。

でも、それならばやっぱりGwen (Emma Stone)は出して救ってあげてほしかった(あのストーリーラインも)。やり直せるのは男ばっかりなのかよう、って。

最後の最後にBettyがふたたび登場して卒業アルバムを楽しく開いてくれて、そこにはー。
Doctorのあれは、呪文とか魔法みたいなもんなので、どこかで解かれるはずだから、と信じたい。

あと、Venom氏は相変わらずのようなので、どっちみちなんかあるはずで、なんかあるならなんだってある、そしてVenomは宇宙にも繋がっている、などなど。なんだってこい!(半ばやけくそ)

レコードでも売れたりすると半年後にボーナストラック追加でDeluxe 盤が出たりするけど、映画もそんなふうになっていくのかしら。DVDのおまけでやっていたものがやっぱりIMAXで見たいな、になって。


今日の夕方、シネマヴェーラで『三人の名付け親』(1948)の上映を待っている時にゴダールの死を知る。
先週エリザベス女王が亡くなり、昨日ウィリアム・クラインが亡くなり、今日はJLG。 20世紀が閉じていくかんじ。

9.12.2022

[film] Flesh (1932)

9月10日、土曜日の午後、シネマヴェーラの『蓮實重彦セレクション 二十一世紀のジョン・フォードPartⅡ』で見ました。 邦題は『肉体』。

監督John Fordの名前は”uncredited”になっていて(”A John Ford Production”の名前はある)、原作はこの同じ年に”Grand Hotel”を監督しているEdmund Gouldingで、もういっこ気になるのはWriting CreditsのところにはWilliam Faulknerの名前が”uncredited”で載っている。John FordとWilliam Faulknerの名前が”uncredited”で置かれている変な作品。

冒頭、修道院のような刑務所のようなところで、Laura Nash (Karen Morley)の釈放が告げられる(刑務所だった)。刑務所側は彼女にこの際もうアメリカに戻ったらどうか、と勧めるのだがLauraはおそらく相棒か恋人と思われるNickyの釈放を強くお願いして、結局そこまで。

酒場でビールを飲みながら同じホールで(賭け?)レスリングをやっているところ(ここはドイツだった)があって、従業員のPolakai (Wallace Beery)はそこの人気レスラーで肩に樽を担いでビールを注いでまわる、みんなに好かれる力持ちのよい人で、そこで無銭飲食をしようとして問い詰められたLauraがPolakaiに救ってもらって、更に宿もないので彼が住んでいるとこ(猫がいる)に泊めてもらって、Polakaiは明らかにLauraが好きになっちゃったようなのだが、LauraはNicky (Ricardo Cortez)を想って待っているので堅いままで、ある晩Polakaiのお金を盗もうとしたところを見つかり、「兄」のNickyを保釈させるためなの、って泣きながら嘘をついて、お人好しのPolakai(ほんとにバカやあんた)はお金を出してあげてLauraはNickyと再会する。

こうしてリリースされたNickyはLauraのところにやってくるのだが、自分が「兄」でLauraが妊娠している(早く釈放されたのはそのためだった)ことを知ると、Polakaiにお金を貰ってひとりアメリカに帰っていってしまう。

残されたLauraはがっくりしつつもPolakaiと結婚して、有頂天のPolakaiがドイツのレスリングのチャンピオンになった日に(NickyとLauraの)赤ん坊が生まれる。でもLauraは変わらず沈んだままなので、Polakaiはホームシックなのだと思って、ビアホールの経営者夫妻が支店を出すために向かっていたアメリカ(ホボーケンだって..)に家族3人で渡る。

アメリカ(ホボーケン)ではドイツからチャンピオンが来たって話題になって、Nickyがマネージャーをやるから、って悪徳プロモーターのWillard (John Miljan)のところに取り入って試合をしていくのだが、うさんくさい八百長みたいなのばかり求められるのでこんなのやだ、ってPolakaiは疲れて酒に溺れていって、LauraもあまりにやくざであくどいNickyが嫌になっていって..

ものすごく悪い男たちがいて、彼とか彼らにずっと利用されてきた女がいて、反対側に純朴でお人好しでやさしい、やさしすぎる力持ちの男がいて、悪い奴らに散々利用されてきた彼が最後にどうなっちゃうのか、同じWallace Beeryの”The Champ” (1931)みたいに悲しいことになっちゃったらやだな、って思っていたがそれはなかった。

おもしろいのは典型的な善玉がドイツのレスラーで、アメリカ側はみんな悪賢くて嫌なかんじで、その凝り固まった団子の嫌なところを海を渡ってきたドイツ人が粉砕する - 最後の試合もドイツが勝っちゃう、という点。まだ戦前とは言えドイツに対してものすごく好意的、というかこんなふうにドイツ人にやられないとわかんないくらいだめで汚れているのだ目をさませ、ってことなのかしら?

もうひとつはタイトルの「肉体」 - 裸のむき出しで戦い続けるレスラーのPolakaiの周囲にいるスーツを着込んだ奴らの見せる狡猾さと非情さ。これに対して最初の方で試合の後にお風呂に入ってぶくぶくしているPolakaiの幸せそうなことときたら。 (どうでもいいけど、Polakaiがレスリングで最後に戦う相手の名前はZbyszko - ズビズコ? っていうの)

そんなふうに最初からずっと朗らかで白い無垢な肉を晒してきたWallace Beeryが最後の方で見せるとてつもなく暗い表情はドイツ表現主義映画の怪奇ホラーのように底抜けに怖い。 すばらしい俳優だと思う。彼が出ている作品は、2020年、ロックダウン中にCriterion ChannelでのFrances Marion特集で結構見た - “Min and Bill” (1930)とかも大好き。

9.11.2022

[film] Wanda (1970)

9月8日、木曜日の晩、イメージフォーラムで見ました。 終わってしまうところだった。

これを見るのはたしか3回目、最初に見たのは2005年のBAM (Brooklyn Academy of Music) で、Isabelle Huppertさんによるイントロがついていた。この映画のフランスでの上映権を買ってしまうくらい好きだという彼女は、ものすごいスピードと勢いでWandaのすばらしさについて語り、両手を大きく広げて楽しんで! と言った。その時の像だけは鮮明に焼きついている。
けど、その時に見た”Wanda”ときたらイメージしていたのとは全くちがって、その落差に驚いて戸惑ったことを思い出す。

Barbara Lodenの監督・主演による”Wanda”。
ペンシルベニアの炭鉱の採掘場に近くて騒音が響きわたる身内の家に寝泊まりしているWandaが、そこを追い出されるように出てとぼとぼ向かった先は裁判所で、遅刻して出廷したのは自分の離婚の裁判で、はい子供も将来もなんもいりませんさようなら、ってそこを出たら財布をスラれて、家族も親戚も寝るとこもお金もぜーんぶ無くした彼女が、ちょっとabusive なMr. Dennis (Michael Higgins)に拾われて、彼の命じられるままに(他になにもできないし行くとこないし)ついていったら、彼の計画しているのは銀行強盗だったことがわかり、嫌だって言ったけど降りるわけにはいかず、でも決行の時がきたらドジして彼の傍にいられなくなってて、結果単独で犯行におよんだMr. Dennisはあっけなく射殺されて、またひとりぼっちになってしまったWandaはー。

とにかく、生きていくのってなにもかもめんどくさいのでぜんぶそちらで決めてください、というのと、ヒトの指示通りに動くのはいやだしうざいのでこちらですきに勝手にやります、というのと大雑把に分けてふた通りのいき方があるとすると、すっからかんのWandaは前者にならざるを得なくて、そうやって生きるというのは(これはやや極端な例だとしても)例えばこういうかんじなんだけど、ってきちんと並べて、これってどうなんだろうか? - というのをヒトは社会のなかで、とか、ヒトとヒトは支えあって、とか、昨今の生産性だのD&Iだの、纏わりついてくる説教みたいにうざいあれこれを(Wandaがそうしたように、あのプレーンな目と表情で)ぜんぶとっぱらって問おう(or トイレに流そう)としている。

というのと、そうやってすりぬけたその先、ぜんぶ他人のせいにしていった後の最後の最後に残った出涸らしのようにしょうもない、けど石のようにはっきりとそこにある/いる自身の生、その感触、冷たさ、生々しさ、爽快さ、のようなのも確かにある気がして、監督Barbara Lodenは女優Barbara Lodenの身体を使ってそういうのを表に出してみようとしたのではないか。これらの像がミソジニーやフェミニズムの格好の標的になるであろうことをちきんと計算した上で、Mr. Dennisみたいにがさつな男どもに小さく中指を突き立てつつ、彼女はそこにいる。

もっとしっかり生きなきゃ、とか、みんなだって大変なんだからがんばれ、とか、暖かいご声援に励ましにおせっかい、ほんと大きなお世話だ地球ごと消えちまえばーか。っていうのを16mmフィルムで撮られたのを35mmにブローアップした粗い目のすかすかの世界 〜 炭鉱 - 裁判所 - 映画館 - モーテル - 教会 - ショッピングモール - お金持ちの家 - 銀行 - 酒場 - 世の中のだいたいの場所を車の中と外から広げてみせる。ここにはWandaのほぼすべてとそれを取り囲む宇宙がまるごと入っていて、そのまるごと全部どうしようもない。 どうするのさこれ? って。 関係なくなんかないのよ。

Isabelle Huppertの演じる女性には必ず、役柄とそれを囲んでいる世界が粗くぜんぶ入っているように思うし、Kelly Reichardtの映画が描く女性 - 特に”River of Grass” (1994)と”Certain Women” (2016) はこの世界の端に立っているし、最近のだと、(相当がさつでてきとーではあるものの)”Everything Everywhere All at Once” (2022)はこの切れ端の先で何かを描こうとしていたのだと思う。


あの日から21年も経った911がきた。まだあの時の映像がかかると目をそらしてしまう。
あの時から、世界はどれくらいよくなっているのか、わるくなっているのか、この日は問いてみることにしているのだが、最近て、はっきりと悪くなっているよね..

9.10.2022

[film] Funny Pages (2022)

9月6日、火曜日の晩、米国のYouTubeで見ました。A24のcoming-of-age コメディ。
作・監督はこれがデビューとなる17歳のOwen Kline 、Noah Baumbachの”The Squid and the Whale” (2005)で子供時代のJesse Eisenbergを演じていたのが彼。

高校生のRobert (Daniel Zolghadri)が学校で美術教師のKatano (Stephen Adly Guirgis)とRobertの今後の進路とかアートについて議論している。 手元にあるKatanoやRobertの作品はRobert Crumb/根本敬ふうのエロ・グロみたいなあんま品のよろしくないでろでろのカトゥーンで、大学に行って勉強を続けるのか、そちらには行かずに自力で精進していくのか、やれる/やれないみたいな話から熱くなったKatanoがじゃあこの俺を描いてみろ! って裸になってパンツも脱いで台の上に立ったら、もういい! ってRobertは教室を飛びだして、車で追いかけてきたKatanoと口論していたらKatanoは車をぶつけてあっけなく事故死してしまう。

師匠の死で動転したRobertは彼のアトリエに忍びこんで彼の作品を盗みだそうとして捕まって裁判にかけられて、堅気の両親(Josh Pais & Maria Dizzia)は嘆いて、漫画を続けるのはいいけど、せめてカレッジだけは出ておくれ、と懇願するのだがRobertはきかずに家を飛びだして、実家のあった高級住宅地のプリンストンから危険地帯トレントンのみるからにやばそうなアパート? - 家主のBarry (Michael Townsend Wright)の家の地下で窓がなくて湿気もうもうで水槽の魚が茹だってて、家主も含めて部屋も分かれていなくて怪しい同居人もいる、そんなところで暮らし始める。

仕事は自分の裁判のときに弁護してくれたやさしいCheryl (Marcia DeBonis)のいる地方検事局で、やってくる依頼人の口述をタイプするバイト - そこに現れる連中の似顔絵を描くのも修行 - とおたくの巣窟のようなコミックストア(ああいうの、あった)でつきまとってくる友人のMiles (Miles Emanuel) - ぼさぼさ髪、すごいにきび - の相手をしたりしながらレジとか在庫を見たりうだうだ過ごしたり。

そんなある日、Cherylのところに地元のRite Aide(ドラッグストア)で暴力沙汰を起こして裁判になっているWallace (Matthew Maher)が現れて、言動も挙動もめちゃくちゃ不安定ですぐにキレるタイプで目を合わせるだけでやばそうなのだが、彼の経歴が有名なヒーローもののコミックを描くスタジオのcolor separatorであったことを聞いて、実際にコミック本に彼の名前があることのを発見すると、彼に教えを乞おう、って近寄っていくと…

冒頭からRobertは自分がずっとひとりで描いてきたものについて、好きで描いてきたのに周囲にきちんと(いいじゃん、くらいは言われるけど)認められていない/認められたい、って思っているようで、そこに現れたWallaceは商業的には成功したところにいた人なので、Robertからすればすごい人、なのだがWallaceからすれば自分のやっていたことはアートでもなんでもないんだ、って。このギャップが双方の溝をだんだん深めていって、あまりになにもかも異常すぎていられなくなった湿気ハウスから逃げるようにして戻った実家でのクリスマスにWallaceを招いたところ、いろんな惨事が巻き起こって連鎖していって止まらない。 Robertはどこまでも必死でがんばっているので笑ってはいけないと思いつつも、あまりに変な方に話が転がっていくので、笑うしかない。

アメリカン・コミックの世界を知っていれば更におもしろくなったのかもしれないけど、知らなくてもRobertの微熱でうなされたようにコミックにかける前のめりの思いと、それが誰にも受け容れられず空回りして気がつけば自分のまわりにいるのは変な人ばかり、という事態はなんとなく把握できて、そしてこの映画に登場するのはRobertの両親を除けば、外見も含めてものすごい変人ばっかり(よくキャスティングしたねえ)で、それ自体がコミックになってしまっている - そしてRobertはそういうのを実際に描いているので - これはこれで十分におもしろいものになった。コミックをベースにした、というよりも主人公の頭のなかのぐしゃぐしゃがコミックとして現実に流れだして、どうしたものか、になってしまうなんともいえない怖さ。

音楽はSean O'Haganで、明らかに彼だ! っていう音とかメロがちらし寿司のように散らされていてたまんない。

あのラストはやっぱり“Call Me by Your Name” (2017)を意識している?

9.09.2022

[theatre] National Theatre Live: Henry V (2022)

9月4日、日曜日の午後、Tohoシネマズの日本橋で見ました。NTLの新しいのがかかると必ず行くようになってしまった。

今年の3〜4月にロンドンのDonmar Warehouseで上演されたもの。原作はシェイクスピアの史劇 – “Henry V” (1599)、演出はMax Webster。 最近の映画だと”The King” (2019)でTimothée Chalametが演じていたヘンリー五世を、この舞台ではKit Haringtonが演じていて、設定は現代に置かれている。

冒頭にベンヤミンの『歴史の概念について』(たぶん)にある“There is no document of civilisation that is not also a document of barbarism”が引用されている。「文明化の産物で野蛮の産物でなかったものなんてない」って。

そして現代の若者としてミレニアム世代、非白人で多国語を操るジェンダーレス(に見える) - Millicent Wongが語り部として登場する。あとは舞台上の人物に紛れる形でコーラス隊が静か目に歌ってくれて、節目節目で厳かな聖性、のようなものを演出してくれる。 

最初はクラブで遊んで渡り歩いてゲロ吐いたりうだうだ騒いでやりたい放題やっているHenry V (Kit Harington)が紹介される。彼だけじゃなくて周りにいる仲間たちも酒場にいるやくざみたいのばっかし。

そんな中で困ったフランスの件で判断を求められて自分がリーダーとして正面に立たなければならない局面になったらHenryはがらりと変わって、周囲も驚いて戸惑うのだが、フランスに対して毅然とした対応と交渉をするようになり、遊び仲間とは縁を切り – というか周囲にいたごろつきがそのまま軍に入り - 内部の緩んだ連中も粛清して、全体としては目を見張るような統率力を発揮するようになる。

この辺は現代でも、というより現代に当てはめた方がよりわかりやすいのかも。若い頃はしょうもない遊び人で羽振りよく気前よくめちゃくちゃやっていた(仲間内では人気ある)あんな奴が、リーダーとか役職を与えられると人が変わったようにその役割をかっちりこなすようになって人望を得て、横から不祥事で刺されない限り一気に上まで昇っていってしまうような。(いろいろ見てきた)

後半の舞台はほぼ戦場に移って、全員ぱりっとした軍服で銃を持って行進して、英国軍は数からも劣勢が伝えられて疲弊したりする場面も出てくるものの、士気を落とさずに前に進んだり、前線の女性兵士と身分を隠して賭けをしたり、リーダーとしてフロントで見事な働きを見せて、フランスとの交渉も交渉術のようなとこも含めて鮮やかに捌いて、結果英国を逆転勝利に導く。戦術の勝利、というよりも(彼の)リーダーシップがもたらした勝利、のような描き方。部下を率いるHenry Vの立ち姿は現代のゼレンスキー大統領のそれに被る - 偶然だろうけど。

反対側のフランス側の様子も描かれるが、少なくとも王室内部についてはものすごくタカを括ってて行儀も悪くてガサツでレベルも低くて、これじゃやられるだろうな、という描き方にしかなっていない。で、負けたのでKatherine (Anoushka Lucas)は英国に貰われてしまう。

この辺は現代に置いてみると強引な企業買収とか横取りとかその辺だろうか。背後ではすごい労力とか血が流れたり注がれたり鬱になったり過労死したりの仁義なき戦いなのにどこまでもそうは見せないスマートさがあって、それもまた上塗られた野蛮だよなー、やれやれって。(いろいろ見てきた)

という、全体としてはシェイクスピアも英仏間の史実もあまり関係なさそうな、現代における戦いや諍いがどういう人物によってどんなふうに仕切られて決着してしまうのか、というところにヘンリー五世のお話をもってきたらはまってしまったかも、というかんじで、ここにウクライナの件も重ねてしまうと、歴史を貫いてきた暴力のありようなんて、ずっとこんなのだったのだなあ、って。

“House of the Dragon”も「指輪」の新しいのも見れていないのだが、いまだにこういうのが受けてしまう背景って、なんなのか、結局パワーの源泉みたいのを謎めいたカリスマとか魔物的ななにかに求めてしまうのだろうか、あんまよくない気がするけどなー、って。


エリザベス女王が亡くなった。わたしが英国周辺の文化に興味をもって(自国のそれよりも)掘ったり見たり聴いたりするようになったおおもとにこのおばあさんがいたことは確かで、今回のことをきっかけに良いこと悪いこといっぱい出てくるのだろうが、わたしはこのおばあさんのことがなんだかとても好きだった。
王様が替わるなんてこと、生きている間にそうあるものではないだろうから、見ておきたい。
(郵便ポストも新しくなっていくんだろうな。先代の王の時のポストを見つけるのが好きだった)
チャールズの方はちっとも好きではないので、彼の王国が今後どうなっていくのかは少し遠目で。
ご冥福をお祈りします。ばいばい。

[theatre] cocoon

9月3日、土曜日の昼間、彩の国さいたま芸術劇場というところで見ました。
初めて行くところでとっても遠くて、ブルックリンの奥地に向かうかんじ。

原作は今日マチ子 - 本は部屋のどこかに埋まっているはず、マームとジプシーの藤田貴大作・演出、音楽は原田郁子。

2013年に初演されて2015年に再演されているがどちらも未見、年と回を重ねるごとにupdateされているらしいが今回が3回めで、全国6都市をツアーしている(2020年に予定していたがコロナで止まり、今回も東京公演は途中でキャンセルとなった)。

チラシには『現在、そのあとの世界をどうして生きるか』- どうして生きられるのだろう、か?

ホールに入ると舞台の上は暗く、夏の夜のようで、虫がわーわー鳴いている。
冒頭、登場人物のひとり – 後で生き残ってそのあとの世界を生きたサン(蚕のサン)であることを知る – が客席に向かって静かに語りかける。この劇場で、見る席を確保されてそこにいるみなさん - と。凄惨な地獄を抜けてきた女性が現代日本の、「エンタメ」とか位置づけられてしまう演劇の、5000円くらいのチケットを買ってやってきて目の前に座っている「観客」に彼女の「そのあとの世界」のありよう - 我々には想像もつかない - がどう届くのか、どうしたら届けられるのかを十分に意識した舞台、これはそういう舞台である必要があったのだ、と。

プロローグで、学校の先生が養蚕について女生徒らに教えている。蚕は繭まで生きても絹糸のために煮られて殺されてしまうの? と。先生はぜんぶ殺したら蚕はいなくなってしまうので、一割は生かすのだ、とか。

最初の章の「学校」では女学生と先生の学校での授業も含めた普段のやりとりや会話が何度も何度も(同じものでも)繰り返される。他愛ない会話、パフェ/パルフェのこと、ここと似ている外国の空のこと、なわとび、騎馬戦、などなど。我々にも容易に理解できたり想像できたりする、昼の時間、夕暮れの時間も楽しくて、いつまでもずっと続いていくことを疑いもしなかった友達との、みんなの時間。

そこから突然動員がかかって、女学生たち - マユとかサンとか - は洞窟の病院に送られて傷を負った兵士たちの看病をしたり面倒を見ることになる。患者をベッドに横たえるときの「いっせーのせ!」の掛け声とそこに合いの手のように挟まる苦しんだり傲慢だったりする野太い(男性)患者の声が洞窟にわんわんこだまして止むことがない。そんな窒息しそうな轟音の中、マユは男なんかいなくて「みんな白い影ぼうしなんだ」と思うことにする。

そして、戦局が激しくなって、そこにもいられなくなって敗走する彼女たちの前に広がる地獄が、寄せては返す海辺で生と死のせめぎ合いのなか、息を潜めて隠れていても浸食してきて、ひとり、またひとりとその命を奪われていく(つらくて苦しい)。単に死ぬ、のではなく、自ら命を落としたとしても「奪われる」。

そうやって奪われてしまったものと、学校にいた彼女たちが巡っていく時間のなかで抱きしめたり踏みしめたりしていた - 繭の内側にいた - 時間と繭が摘み取られてしまう瞬間と。どちらも永遠のようであり、一瞬で消えてしまう残酷ななにかでもあった。

これは言うまでもなく先の沖縄戦やひめゆり学徒隊に起こったこと – 地名を除いて直接これらが言及されることはない – で、でも単にその悲劇や地獄を、彼女たちの声や姿を生々しく描いて酷いでしょかわいそうでしょ? というものではない。

その記憶を語ること、その記憶を維持していくことが(生き残りのサンにとって)そのあとの生や世界を生きるのにどれだけしんどい傷や重みとなったかについて、それをどうやって自分の手元に引き寄せて理解しうるのか、他者の痛みに寄り添うのかの押し引きがあって、ここは相当に難しい(という問いが絶えず原作者にも演出家にもあったことが彼らの対話を読むとわかる)。その軸を誤ると修正主義の罠とか穴にはまることにもなりかねない。

他方で、暴力によって人が死ぬ、殺されることの不条理、あってはならないことがありえてしまうそのありようとか風景について、その反対側にある平穏でどうでもよくててきとーで、でもいまここにしかありえない大切な日々のありようとか風景について、それらの危うい境界については今でも(いまだに)意識しないわけにはいかない。政治家もメディアもありえないような愚鈍さと卑怯さでズルや悪を容認してその範囲を自己都合で広げようとしている世界で、どうやって - 自分で自分を守るのすら大変なのに他者まで – 守って生き延びることができるのか。そこで被害者となってしまった場合とか..  そして加害者に対してはどうしてくれよう - 今回の舞台は加害する側の声や挙動も生々しすぎて辛かった。

今日マチ子さんの漫画や絵がとても好きで、最近の”Distance” も”Essential”もぱらぱら見ているだけでなんか泣きたくなる。なんでこんなところに来て、こんなふうになっているのだろう、とか、みんな無事で元気で、とか。

いまの世の中がちっともよい方に転んでいかず、過去の加害や被害に鈍感になっていくばかりなので、この舞台もここで紡いだ糸を巻きなおしたり張りなおしたりすることになるのだろう。「学校」のチャプターだけずっと見ていたいのにー。


※書いてポストしようとしたら女王さまの訃報が届いて..

9.07.2022

[film] Bullet Train (2022)

9月2日、土曜日の晩、109シネマズの二子玉川で見ました。IMAXで見たのだが、昔のシネパトスみたいなとこでだらしない格好で見るようなやつだった。

邦題は『ブレット・トレイン』 ブレット? へんなの。原作は伊坂幸太郎の『マリアビートル』(2010) - 未読。

監督はDavid Leitch、プロデューサーはAntoine Fuqua、主演はBrad Pittと、一見まともなふうに見えるけど、ものすごくJunkでぐじゃぐじゃのどうでもいいやつで、背後にジャパン・カルチャーへのエキゾチシズム(真偽どうでもいい)を匂わせつつ、要は殺し合いをかっこよく見せたい、その実験場でしかないようなかんじ。最近のだと、”Snake Eyes” (2021)とかの同系かも。

東京の病院でKimura (Andrew Koji)が何者かにビルの上から幼い息子を突き落とされたことを嘆いて怒っていて(放置していたあんたがわるいんや)そこにKimuraの父の真田広之もいて、彼のいたやくざ組織を壊滅させた悪の首領”White Death”の恐ろしさを語る。

同じ東京で、女性の声から指令を受けている元殺し屋のLadybug (Brad Pitt)が東京駅から京都行きのBullet Train – あれって新幹線とイコールにしてよいの? - に乗りこもうとしていて、金属のブリーフケースを盗んで京都まで運んでそこで待っている連中に渡せ、と。

ブリーフケースとWhite Deathの息子を土産として運ぼうとしていたのは二人組の殺し屋Tangerine (Aaron Taylor-Johnson)とLemon (Brian Tyree Henry)で、でもこの他に若い女の子のThe Prince (Joey King) - 彼女を狙ってKimuraが乗ってくるけど返り討ち - とか、各駅での一分間の停車時間の間に乗りこんでくるメキシコの殺し屋The Wolf (Benito A. Martínez Ocasio)とか、着ぐるみに身を包んだ毒の使い手The Hornet (Zazie Beetz)とか。

基本はLadybugと指令塔の女性の会話からいろんなことが明らかになっていくのだが、Ladybugはどこまでもまったくついていない奴 – このミッションもRyan Reynoldsの代役だし - という設定で、反対側にいるThe Princeはなにやってもラッキー – つまりぜったい殺されない – という設定になっていて、ものすごい速さ(のはず。感じられないけど)でぶっとんでいく超特急の車内でまずはWhite Deathの息子が何者かに殺され、ブリーフケースが簡単に盗まれ、そこに動物園から逃げ出した毒蛇やいろんな殺し屋がそれぞれの目的や恨みで刺しまくったりトイレに押しこんだり籠ったり車外にぶっとばしたりのやり放題で、でも超特急なので誰にも止めることはできないの。

“Die Hard”的に悪と正義がサバイバル合戦するというよりは、”John Wick”的にとにかく目の前にいて邪魔する奴は消す – 殺す/殺される理由はみんなそれぞれわかっている - 方式で動いていくので、全貌 – 結局White Deathが過去から張り巡らせて拗らせたいろんなの - が見えてくるまでは誰がどっちのどういう奴なのかがわかんなくて、でもとにかく目が合うなりこいつだ、って殺そうとする。いきなりやられる方はたまったもんじゃないねえ、とか。

主人公と思われたBrad Pittは実はあまり強そうではないしそんなすごい活躍もしなくて、どちらかというとなんとなく逃げてストーリーを浮かびあがらせる役回りで、最終的にはWhite Deathの命令を受けて動いている側とWhite Deathの命を狙っている側との二極に分かれていくのだが、そんなの電車のなかでやるな、って。 ”Speed” (1994)みたいに速度落したら爆発とか、”Unstoppable” (2010)みたいにやばいもの積んで止まれなくなった、とかそういうスリルや仕掛けがあるわけでもなく、ハイパーモダン?な「ブレット・トレイン」の上に古典的なにっぽんのやくざ/サムライ/忍者ものを展開してみるのもうまくいっているように見えず、これなら”Fast & Furious”みたいに車をぶっつけあいながら五十三次を進んでいってもよかったのではないか、とか。 あと悪党がみんな仮面をつけているのは忍者のイメージ? もうふつうすぎてつまんなくない? とかいくらでも。

最後に正体を現すWhite Deathは予想もしていなかったMichael Shannonで、彼と真田広之のバトルになるのはすごい!のにもっと二人でねちねちぐさぐさやりあってほしかった。こんなの、にっぽんの右翼が嬉しがるネタもあるし、昔のやくざ映画のフォーマットもろなんだから、どうだ! って(ださいのまるだしで)日本から世界に示してほしかったのになー。

あと、Sandra BullockとChanning Tatumが出てきたのは“The Lost City”のからみ?

ということは、あの時のHawkeyeはロシア側と組んでいたのかー、とか。

てんとう虫の背中の星ってそういう意味だったの?、とか。

9.06.2022

[film] Love Crazy (1941)

8月31日、火曜日の午後、Criterion Channelで見ました。

8月、Criterion ChannelではMyrna Loy (1905-1993)の特集 - “Starring Myrna Loy”をやっていて、いくつか見た。見たのはこれの他に、”The Thin Man” (1934) 『影なき男』、“After The Thin Man” (1936) 『夕陽特急』、“Libeled Lady” (1936)『結婚クーデター』-どれも彼女とWilliam Powellとのコンビのやりとりと突っこみあいが楽しくて、いくらでも見ていられる。

Love Crazy (1941)

4回目の結婚記念日を前にしたSteve (William Powell)とSusan (Myrna Loy)の夫婦だったが、いろいろ企画していたその晩にSusanの母のMrs. Cooper (Florence Bates) – Steveとは仲悪い - が現れたり、アパートの階下にSteveの元カノのIsobel (Gail Patrick)が越してきて、夫がいるのにSteveに未練があって近寄ってくるのでばたばたしているうちに浮気疑惑が立ち上がり、Susanは姿を消して階下にいたバカっぽいアーチェリーの世界王者Ward Willoughby (Jack Carson)と一緒になり、離婚の裁判を起こされて、でも誤解なのだから離婚したくないというSteveが弁護士と相談したら精神障害って認定されれば離婚を遅らせることができる、って。で、初めは30日の検査入院のはずだったのに厳格な療養所に送られて、冗談じゃないってそこから脱走したら警察が追っかけてきて..  

という身から出た錆型のスクリューボール・コメディで、互いに意地を張ってだんだんおかしくなっていくWilliam Powellと彼を好きすぎていじめないわけにはいかないMyrna Loyのやりとりがたまんない。

あと、精神病院の院長に『生きるべきか死ぬべきか』(1942)のSig Ruman - ”Schultz!” - が出ていてたまんなかった。


Libeled Lady (1936)

監督は↑と同じJack Conway。大金持ちの社交家のConnie (Myrna Loy)が新聞社に婚約を巡る虚偽の記事を出されたって名誉棄損で500万ドルの損害賠償訴訟を起こして、頭を抱えた編集長のWarren (Spencer Tracy)は元記者でプレイボーイのBill (William Powell)に助けを求める。Billの企てはConnieに近づいて二人きりになったところで彼の「妻」がそこに現れて気まずいふうにして、結果訴訟を取り下げさせる、というもので、でもBillはまだ結婚していなかったので昔から付きあっていたGladys (Jean Harlow)に声をかけて計画を打ち明けて、ぜんぶ終わってうまくいったら君と結婚するから、って「妻」に仕立てて…  よくそんなこと思いつくな/思いついても実行しないよな、っていうのが実行されてこんがらがって転がっていくスクリューボールで、最後は重婚疑惑で二転三転して、それでもよかった… のかな?うん.. いいのかも、になるのは真ん中の4人のそれぞれがすばらしいからー。


The Thin Man (1934)  +  After The Thin Man (1936) - 邦題の『夕陽特急』って、やるきゼロだろ。

原作はDashiell Hammettの同名小説 (1934)で彼のピンカートン探偵社時代の経験に基づいた内容で、これが彼の最後の小説で、30年以上恋人関係にあったLillian Hellmanに捧げられている。主人公のNickとNoraの会話はこのふたりのそれがベース、らしいが、映画の脚本はAlbert HackettとFrances Goodrichの夫婦が書いて、より親密でコミカルなものになっているそう。

引退した探偵のNick Charles (William Powell)とNora (Myrna Loy)の夫婦がNYのクリスマスを楽しみにサンフランシスコから来ていて、そこで娘の結婚式の前に消えてしまった父親 – これが”Thin Man” – と同時に消えてしまった債券の捜査を依頼されて、折角休暇で来たのに、ってぶつぶつ言いながら捜査を始めるの。

推理もの、というよりは夫婦と犬のAsta (Skippy)が騒がしく(執拗に、というよりはどたばた楽しめに)周囲を嗅ぎまわって、最後に関係者全員を一室に集めて、ひとりひとりを問い詰めたりしながら犯人が暴かれる - 犯人が自分でスリップする - のを待つ – この形式は“After The Thin Man”でも同様だった。

映画はふたりと一匹が列車でサンフランシスコに戻るところで終わって、次の“After The Thin Man”は戻る列車の車中から始まって、サンフランシスコの家に戻るとAstaの妻が浮気したりしていて(黒犬が逃げていく)、今度は大晦日の晩に…

Noraのお金持ちの実家で、彼女のいとこのSelma (Elissa Landi)の夫Robertが3日前から行方不明になっている、というのでNoraは相談を持ちかけられる。RobertはSelmaの前の婚約者David (James Stewart)から離婚の示談金を提示されていて – Robertを探してチャイナタウンのナイトクラブに潜入したふたりだったがそこで殺人がひとつふたつ起こって..

映画としては、前作よりもこっちの方がおもしろかったかも。

やはり見るべきはNickの推理の鋭さ、というより - 推理自体は、なんかずるしてないか?みたいに甘い気がする – ずっと仲良くいちゃいちゃ言い合ってキスしたりハグしたりしながらなんとなく事件を解決してしまうNickとNoraの楽しさ、だろうか。「結婚がセックス、ロマンス、冒険の終わりを意味しないハリウッドのスクリーン上の最初のカップル」ってWikiにはあったが、そうなのかも、という楽しさ。

この”The Thin Man”シリーズは当たって、シリーズで6作も作られたって。”Thin Man”が出てくるのは最初のだけなのに。

Myrna Loy、とても素敵で、Katharine HepburnとCarole Lombardのふたりの女王の間に埋もれてしまいがちだけど、まだまだ見るべき作品はいっぱいあるようで、見たいな。

あと、犬のAstaを演じたSkippyは、”The Awful Truth” (1937)と”Bringing Up Baby” (1938)というrom-comの超クラシックにも出ている神犬、だよ。

9.05.2022

[film] All My Friends Hate Me (2021)

8月30日、火曜日の晩、BFI Playerで見ました。友達いないので参考になるかと思って。
なかなかおかしく、怖い – 近寄れないとこも含めてとっても英国的な怖さ。監督のAndrew Gaynordはこれがデビュー作となる。

Pete (Tom Stourton)は難民キャンプのボランティア活動から戻ったばかりで、31歳の誕生日を大学の同窓生が祝ってくれるというので10年ぶりに彼らと再会すべく旧友のGeorge (Joshua McGuire)がデヴォンの方に持っているカントリーハウスに行く。そろそろプロポーズしたいと思っている恋人のSonia (Charly Clive)は後から来るというので、ひとり車で向かう - “What a Fool Believes”なんかを流しながら - のだが、途中犬を繋いで停まっている車から変な男が出てきたり、道を尋ねたら相手はすごく変わった老人だったり、来るまでに結構消耗するのだが、とりあえず館には辿り着く。

館に着いてもがらーんで誰も出てこなくて、居間で延々待たされて、ようやく現れたのはGeorge夫妻と昔からの友達とかつての恋人のClaire (Antonia Clarke)と、あと彼らが地元のパブで会っておもしろい奴だから連れてきた、というHarry (Dustin Demri-Burns) – ちょっと苦手っぽいのでやだなあ、ってかんじ。

道中で疲れた、というのもあったのかもしれないが、自分は嫌がらせされている? というくらいに苛立ったりうんざりしたり、えっ? となることが続いて、でも実際には「冗談~」だったり過度な思い過ごしだったり、昔から知っている仲なので、昔から延長の冗談なのかもしれないし、自分が少し鼻持ちならない大人になってそういうおふざけを許容できなくなっているのかもしれないし、でも酒を呑んでわいわいしている分には楽しいからいいか、になったり。その辺をぐるぐる回っていって、全体としてはやはりなんか疲れているのかもな、と。

でも一日経ったあたりで、「あんた、みんなからすごく嫌われているよ」とか裏で言われてがーんとなって、かといってどうすることもできず、でもそうしたら友人たちが言ってくることやってくることなにもかもが「嫌な自分」の嫌なところをめがけてやってくる気がして、疑念と不安のぐるぐるが止まらなくなっていく。

イギリス流の(階級)ジョークの泥沼、に嵌ったのかそのジョークを次々に仕掛けられている(なんのために?)のか、Peteのただの思い過ごしと言えるのか、Peteは10年前より本当に嫌な奴になってしまったのかもしれないし、Peteの頭のなかには”All My Friends Hate Me”という文言がずっとこだましている。

で、彼の矛先というか疑念はそもそも「友達」でもなんでもなかったHarryの方に向かい、Soniaもいる前で修羅場が展開されたりもするのだが、そこでさらにでんぐり返られたりいろいろあって大変。なんでこんな目に遭わなきゃならないのか。

同窓生とか昔馴染みの人との付き合いとか距離の取り方とか面倒だなあ、というあたりと、更には、10年会っていない間に自分はどれくらい老いて変わってしまったか、どれくらいかつてのままで変わっていないように見えるのかを答え合わせのように審判を受けたり確認させられたりせざるを得ない身悶え&ホラー - をうまく突いた脚本 - Pete役のTom StourtonとTom Palmer – “Totally Tom”っていうコメディデュオでEdinburgh Festivalに出たりしているふたりが脚本を書いている - で、舞台で上演してもおもしろいかも、という気はした。

全体として画面の暗さ、人物の顔の捉え方、シンセを中心としてJohn Carpenterみたいに鳴る音楽(Will Lowes & Joe Robbins)は明らかにホラーのそれで、いつ殺戮が始まってもおかしくないテンションにまみれていて、実際それに近い場面もあったりするのだが、最後まで油断ならないきりきりした状態とか瞬間をうまく捕まえている。これが閉鎖的な村の中で起こったりすると間違いなく血みどろのフォークホラーになるし、日本の場合だと「村八分」っていう専門用語がある。

でもこの作品はそこまで行かずに、鳥肌に近いところのあるねえ、みたいな日常の恐怖と乾いた笑いをうまく抽出していると思った。やっぱり友達とかいいや、ってなったりしない? … しないか。

9.04.2022

[film] César et Rosalie (1972)

8月29日、月曜日の晩、ル・シネマで見ました。
Romy Schneiderの特集上映は終わってしまったが、一日一本はまだやってくれているので、それで。(でも16:30開始はやめて)

英語題は“Cesar & Rosalie”、邦題は『夕なぎ』。「夕なぎ」ってなに?
監督はClaude Sautet、少し電子音が入った音楽はPhilippe Sarde。Romyの衣装はYves Saint Laurent。ナレーションはMichel Piccoli。

アメリカから帰ってきたらしいコミック作家のDavid (Sami Frey)が画家のMichel (Bernard Le Coq)を訪ねて彼女 - Michelの妻だった - の消息を聞いて、離婚して解体屋と一緒に暮らしているというので、そこに向かうことにする。Davidは彼女がMichelと結婚する前に彼女と付きあっていたらしい。

パリで解体屋をやっているCésar (Yves Montand)は儲かっているようで、威勢も羽振りもよいし強めの交渉もうまそうだし、Rosalie (Romy Schneider)と彼女の娘とも仲良しで生活の不安も不満もなさそうに見える。

でもRosalieの母の結婚式にふたりで参加して、大雨に降られたりアクシデントが続いた先にDavidが現れたところでRosalieの様子が少し変わったのを見るとCésarの落ち着きとか自信がなくなって、Rosalieに問い正したりしても疑念が晴れずに雪だるまで膨らんでいって、Davidのところにも押しかけて、この様子をしらっと見ていたRosalieはDavidの方にやってくるようになり、DavidはRosalieを救いだそうと思ったのかどうなのか、とにかくCésarは更に病的に狂っていってDavidのオフィスに押し入って作品とか家具とか荒らしまくったりDavidに怪我させたり(ここで警察呼べばいいのに呼ばない)。

CésarはそのうちDavidとRosalieがひっそり暮し始めた海辺の町にもやってきてRosalieを連れていっちゃって、でもしばらくすると、Rosalieの目がしんでて元気がないのでうちに来てくれないか、ってCésarがDavidのところに来たので(あんたが消えればぜんぶ解決、って突っ込む)、彼が買った海辺の別荘に向かって、一見家族みんなで楽しく過ごすのだが、Rosalieは突然出ていってしまい…

これ、メロドラマなのか大人の恋愛ものなのか知らんが、ぜんぜんわかんなくて、これがClaude Sautetの代表作らしいのだがなんで? しかなかった。(おなじ監督なら、”Max et les ferrailleurs” (1971) - 『マックスとリリー』の方がよくない?)

それぞれの登場人物、キャラクターとしてああいう人達がいることはわかる。特にYves Montandの嫉妬深く、独占欲まるだし束縛したがりのボスでも旦那でも - 普段は面倒見もよいしとってもいい人なのよ - の解体屋はそこらにとってもいそうで、でもあの人物がああいうストーカー一歩手前の振る舞いとか暴力に打ってでてきた時、あんなふうにてきとーに泳がせておくものだろうか? 恋愛が入ってこなければ金づるとしてよいとか?  Davidの方はコミックを描いていたりひとりでいる方で、一歩引いて相手が来るのを待って - まず自分がだいじ - それで来なければさよなら、のタイプで、要はCésarとはぜんぜんちがう。

ラストはRosalieに置いていかれた男ふたりがなんでかひとつのテーブルで仲良くエビなんかを食べていると突然向こうからRosalieが現れる、そのストップモーションで終わるのだが、もういっこよくわかんないのは、男ふたりをそんなふうにしてしまったRomy Schneiderの魔性なかんじがいまひとつ見えないのと、あのタイプがまったく異なるふたりの間で悩んだり揺れたりする..  かなあ?  犬と猫の違い、よりもギャップがある気がしないか?

そうか、このドラマは男だろうが女だろうがどれだけ理不尽だろうが自分を崇拝させないことには気がすまないボス猿Yves Montandのオトコくさい魅力をこれでもかと見せつけるヤツなのかも、タイトルも、”César et les ferrailleurs”でよかったのでは、とか。

なんというか、Rosalieがふたりの男の間で揺れるなにか、を描くことで結果としてCésar的な男の情熱だの強引さ(という名の暴力)を許容してしまっている、という点でなんか... だったのとあとやっぱり、これがなんで『夕なぎ』になるの? って。『夕なぎ』が来るとしたら彼が完全に消えてからではないか。

あと、Isabelle Huppertさんがちょこちょこ出てくる。彼女はこの頃からこういう情景を横で見てきたので…


Taylor HawkinsのTributeを見てて、知っている曲ばかりだしおもしろいのだが、なんだかいろいろ考えてしまった。ひとつだけ、Dave GrohlとOmar Hakimがドラムスに入ったRushは、やっぱしRushではなかったねえ、とか。

9.03.2022

[film] À l'abordage (2020)

8月28日、日曜日のごご、ユーロスペースで見ました。

『彼女のいない部屋』を見て一時間後くらいだったのだが、食べ合わせはあんまし。どちらもそれぞれよい作品だと思うののだが、続けて見るのはきつかったかも。カスレ食べてからポトフ、みたいな。
原題を翻訳にかけると “boarding”なので「しゅっぱーつ」とか? 英語題は”All Hands on Deck”、邦題は『みんなのヴァカンス』。

Guillaume Bracの2020年の作品。
パリのある夏の晩、公園の盆踊りでChérif (Salif Cissé)とAlma (Asma Messaoudene)が知り合って仲良くなってそのまま公園で一緒に野宿して、そこから慌てて職場に向かうAlmaを好きになってしまったChérifは、彼女の別荘がある避暑地に自分達のヴァカンスも兼ねていかないか、って友人のFelix (Eric Nantchouang)を誘って、Felixは自分はインドアだし別にヴァカンスなんて、だったのだが、サプライズで攻めて彼女をおとすぞ、ってChérifが燃えているので付き合うことにする。

ライドシェアアプリで呼んだドライバーのÉdouard (Édouard Sulpice)は女性ふたりって聞いていたのに現れた2人がぜんぜんちがうし、車内では行儀悪いし、母親との会話を聞かれて「子猫ちゃん」てからかわれたりの散々で、更にChérifがAlmaの家の近くを見たいからって無理に寄り道したら車がなにかを踏んで壊れて、車が直るまではその近所のキャンプ場でヴァカンスせざるを得なくなる。

予定もしていなかった場所での滞在に加えてChérifのサプライズは見事に失敗し - 家族と一緒なんだし、あたしサプライズとかだいっきらい - それでもなんとか持ち直したかに思えたがAlmaの脚の怪我をきっかけにうざいオランダ人組が横にきて、Felixは赤ん坊(かわいい)連れのHéléna (Ana Blagojevic) の子守りを手伝っているうちに彼女と仲良くなり、Édouardはやけくそで渓流くだりとかキャンプ場のアトラクションに参加していって…

これの前の週にユーロスペースで監督の旧作 - “Un monde sans femmes” (2011) 『女っ気なし』と”Le naufragé”(2009)『遭難者』 - どちらも再見だった- を見て、途中で事故に遭って本来やりたかったことができない/そこに到達できない、そこからの派生として、ヴァカンスに期待していたことが片っ端から横に逸れていく、そして運命の人なんてぜったい、逆立ちしても現れない、そんな出来事とか人々が入り乱れてぼーっとしていくコメディで、これって(やっぱり比べたくなる)Éric Rohmerのヴァカンスを舞台にしたrom-comとは異なるねえ、って。

Guillaume Bracの場合、どうしても事故とか障害前提で、寄ってくるのには碌な奴がいなくて、実際にいないだろ? っていう描き方、これに対してÉric Rohmerの場合、そこには絶対恋愛の神がいるしそれに近いなにかが起こる - なぜって人は皆そのためにヴァカンスを取って移動するのだから、と。 覚悟と確率のせめぎ合いなのか、今世紀に入って出てきたSNSとかソーシャルななにかが作用しているのか? ロメール映画の主人公が今の時代にいたら? ってたまに思うのだが、たぶんみんなマッチングアプリとかでさくさく探して絶対リスクを取らない方式で行く気がする(ので映画になるかならないかも)。

なので、ヴァカンスの終わりも、ちっとも終わりとか区切りの季節のかんじになっていないところがおもしろい。そんなのヴァカンスって呼んじゃいけないんじゃないの? これは良いことなのか悪いことなのか、その答えを握っているのは誰なのか? などなど。 なので、この映画の終わりもそんなふうなの。現実に戻る、というより変な夢がまだ続いてて切れてくれなくて、それでもいいか… みたいな。

あとこれ、わかっててわざとやっているのだろうけど、すごい男性の目線だよね。自分がうまくいくのであれば万事OKって無邪気に信じて周囲をそのノリで染めてかえりみないしぜったい反省もしない。盛りあがるのも落ちこむのも自分次第、って。 Rohmerだと、”La collectionneuse” (1967) - 『コレクションする女』あたりにあったノリ。

おもしろいし、笑ってみていられるのはここにあるようなヴァカンスとかどうせ無縁で関係ないから? 実際にこんな目にあった人にとってはやはり笑えないのかしら? でも笑っていいのよね?


9.02.2022

[film] Serre moi fort (2021)

8月28日、日曜日の昼、ル・シネマで見ました。
邦題は『彼女のいない部屋』、英語題は直訳の”Hold Me Tight”。

原作はClaudine Galeaの戯曲 - "Je reviens de loin" (2003) -「私は長い道のりを歩んできた」。
本国フランスでの公開もこれから、NYのLincoln CenterのFilm Societyでは来週Mathieu AmalricとVicky Kriepsのライブの対話があって、その後に上映が始まるって。いいなー。

監督自身が、彼女に実際に何が起きたのか、見る前の人には明らかにしないように、と言っているので、そうしたいと思うけど、これはミステリーでも謎解きでもなくて、『彼女のいない部屋』を成り立たせている諸要素 – これは部屋という場所の話なのか彼女がいない時間についてのことなのか? その部屋を見ているのは誰? など - を分解していって、そこに原題の”Hold Me Tight”を重ねてみると、最後に像が結ばれてああうってなる、それは映画を見る経験のなかでしか起こりないものなので映画を見よう、っていうことなのだと思った。映画のなかに灯る明かり、そしてものすごく配慮された音がすばらしくよいので映画館でぜひ。

ある明け方、机に並べられたポラロイド写真(?)の絵合わせをしているClarisse (Vicky Krieps)は決意したようにMarc (Arieh Worthalter)とふたりの子 - LucieとPaul - と暮らしていた家を出て車に乗って走り去る。 いきなりそんなふうに家出したって家族のことが気に掛かってばかりの上の空だし、ずっとそうしているわけにもいかないので仕事を見つけたほうがよいのかもだし、その反対側で残された家族は突然いなくなったママに戸惑ったりパパをわーわー責めたりしつつもなんとかやっていくしかない。

互いに互いのことがそんなに気に掛かるのなら、嫌っているわけでもない(どう見てもそんな様子はない)のであれば、ちょっとでも会えば、会おうとすればいいじゃん、て思っているうち、これは会わないのではなくて会えないのかも、って思うようになって(ここまで)。

映画ではやがて成長した子供たちの姿も描かれて、ピアニストを目指すLucie (Anne-Sophie Bowen-Chatet)がMartha Argerich - 彼女の娘が獲ったドキュメンタリー”Argerich” (2012)が挿入される - の髪の色に染めたり、音楽院を受験するエピソードも描かれたりするのだが…

彼女は家族から、愛する者たちから切り離されている。家族は彼女のいない部屋を、彼女のいない家をそのままにしている。なぜなら彼女はずっとそこにいるから(ここまで)。

画面はずっとやや暗めの、明度を落としたというよりなんというか緑内障で視野の隅が欠けているような印象の暗さを維持して、雪の残るハイウェイから雪山の方に旅を続けていく - 眩しいけど暗い雪の白。ロード・ムーヴィー的に開かれた出会いはほぼなく、誰と会ってもノイズのようにしか映らないかんじ。 聞こえてくる音もピアノのそれに顕著なように部屋のなかで聞こえる質感で、頭の裏側で鳴っている。彼女の旅は、Marcと出会った頃から大きくなった子供たちまで、時間の淵をランダムに彷徨っていく。

喪失を受けて(受けとめるために)車で辿っていく旅、というと『ドライブ・マイ・カー』(2021)が記憶に新しいが、自分が思い浮かべたのは『風の電話』(2020) の方だった。あと、Alanis Morissetteの”Ironic”のPVを思い出して見直したり(やっぱり好き)。あと、もうじき日本公開される”Petite Maman” - 『秘密の森の、その向こう』でも突然どこかに行ってしまった人への想いがなにかを引き起こす。(どうでもいいけど、これの宣伝でもこの作品のでも、「涙が溢れる」とか「涙が堰を切る」とか宣伝する側が言うのほんと大きなお世話だわ。泣きたいときに泣くんだからほっといてほしい)

とにかく、Vicky Kriepsの打ちひしがれた目とその姿が肖像画のようにずっと残って、その美しさときたら”Phantom Thread” (2017)の時と同じく - まさにPhantomの糸を紡いでいて - 異様といっていいくらいにすごい。目を逸らすことができない。

音楽は「エリーゼのために」に始まってドビュッシー、メシアンにシェーンベルクまで、いろんなピアノ曲が聞こえてきて、ダウナーなのだとJ.J. Caleの”Cherry”とか、The Brian Jonestown Massacreの”Open Heart Surgery”とか、これらはあまりにストレートすぎてしみる。

”Open Heart Surgery”の歌詞はこんなのー;

I thought I'd write you this song,
maybe I'd make you smile and take your sadness away
I want to show you I love,
love love, you a long time girl, I'm never going away

9.01.2022

[film] 春光乍洩 (1997)

8月27日、土曜日の午後、『WKW4K ウォン・カーウァイ4K 5作品』をやっているシネマート新宿で見ました。

この特集、ここまでで8/23に『重慶森林』 (1994)を、8/24に『花様年華』(2000)と見てきて、どの回もびっくりするくらいいっぱい入っているのに、あんなよい音で気持ちよいのに、なんでたったの5作品しかやらないの? 『阿飛正傳』(1990) も『東邪西毒』(1994)も『一代宗師』(2013)も見れないのってなんで?(見たいよ)

WKW4Kは2021年の2月頃にBFI Playerでひと揃え配信していて、その時にも少し感想を書いたので今回はこれだけ。(でも、これだけ人が入っているのを見ると、これっていったいなんなのか? って書きたくなるねえ)

原題を翻訳にかけると”Springtime”、英語題は”Happy Together”、邦題は『ブエノスアイレス』。欧米では”Happy Together”で通っていて、同タイトルの曲も主題歌のように流れているし、邦題に配給会社の大好きな用語「幸せ」を堂々と使えるのに、なんでここだけ「ブエノスアイレス」? マヌエル・プイグの『ブエノスアイレス事件』を意識したのかもしれないけど、なんで?(やーなかんじ)

冒頭は粗いカラーで、入管でのパスポートのやりとりがあって、モノクロでウィン(Leslie Cheung)とファイ(Tony Leung)のセックスシーンがあって、でもふたりの仲はうまくいかないようで、イグアスの滝 – ここもカラーで瀑布の圧巻の映像&背後にCaetano Velosoの“Cucurrucucu Paloma”が流れる - に車で行こうとして道まちがって仲たがいして(などがファイの語りで綴られる)。 帰国する金もなくなったのでファイはタンゴバーのドアマンの仕事をして、仕事をする彼の脇を明らかに男娼みたいななりのウィンが通り過ぎて、彼は思わせぶりぶりに何度も「やり直そう」ってファイに近づいてきて、ファイは餌だけあげたりタバコだけあげたり突っぱねていたのだが、ある日喧嘩したのかぼろぼろのウィンが転がりこんで、仕方なくアパートに寝場所を作り、料理を作ったり介抱して、でも念のための腹いせにウィンのパスポートを隠してしまう。

ファイはドアマンから中華料理店から屠殺場まで、帰国の資金を貯めるべくバイト先を転々と替えていき、中華料理店にいる時に若者チャン(Zhāng Zhèn)と知り合う。チャンはウィンと比べると雲泥のよいこなのだが、その時のファイは野良猫ウィンを傍に繋ぎとめておくことで精一杯なのだった。

ゲイの恋物語としてはものすごく粗く汚く乱暴に(わざと?)無造作に作ってあるようで、「やり直そう」も” Happy Together”も白々しくて「うそつき」しかなくて、うそが覆る可能性もありそうでないし、でもそうやって引っ掻いてどつきあうふたりを「しょーもねえなこいつら」って見ていくうち、恋がぽつんと浮かんだり – ふたりでタンゴを踊るとことか、最後にファイがひとりイグアスを訪れてほんとうに滝にぜんぶ流しておわる(ように見える)ところがあればよいのだと思った。 『恋する惑星』でフレームにふたりが入ってThe Cranberries(のFaye Wongカバー)ががーんて押し寄せる瞬間から始まるのが全てで、部屋掃除などはなんかどうでもよくなるのと同じように。

映画は終わりの始まりから始まって、終わりがほんとに終わって始まりが始まる(ファイが香港のチャンの実家を訪ねる)ところで終わる。こんなふうに地球は反対側に来ても丸く、回っているよ、って。

あとはWKWどれもだけど、まんなかのふたり - Tony LeungとLeslie Cheungの服とか布団の汚れとかカメラの揺れ具合 - Tony Leungの白ブリーフとLeslie Cheungの血で汚れた包帯と - をずっと見ていられるので、それだけでいいの。そこがよくない人には耐え難いのかもしれないけど。

個人的には、90年代のグランジで泥を被ったあと、オルタナの下痢(期限切れパイン缶を食べた金城武)を経由して、それでも残ったどうしても落ちることのない生の汚れ(どうしろっていうのか)、みたいのが現れている印象がある。

90年代の真ん中くらい、ブエノスアイレスには仕事で何度か行った。一度NYからの日帰り - 夜行で飛んで朝に着いて一日仕事して晩に戻る – をやろうとして失敗して、深夜で宿が取れなくて$20くらいの安宿に泊まったことがある。その時の夜の路地のかんじ、宿のぼろくていかがわしいかんじ、を思い出した。本当にあんなふうなのだが、素敵だったなー。また行きたいなー。

Caetanoの歌う“Cucurrucucu Paloma”って、”Moonlight” (2016)でも決定的なシーンで流れたけど、しみじみ必殺だねえ。なんであんなに滝みたいに - 滝の轟音を貫いて - 来るのか。


Numeroから出たBlondieの箱がきたので聴かねば。CD3枚組のには”Dreaming”が入っていなかったので、8枚組のにしたの。

[film] Nope (2022)

8月27日、土曜日の夕方、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。

Jordan Peeleの新作。ぜったい怖いに決まってるし、やな気分になるし、でもおまえは見ないわけにはいかないだろう、ってあの予告は言っていた。以下、ふつうにネタばれしています。

冒頭、旧約聖書のナホム書の「わたしはあなたに汚らわしいものを投げつけてあなたを辱しめ、見世物にしてやる(大意)」が引用される(なるほど)。
そこから1998年のTVシットコム”Gordy's Home”の撮影現場(事故)の様子が少しだけ出てくる。横たわって動かない子供の足と全身ほぼ血まみれのチンパンジーの姿と。

現代のハリウッドの近くの牧場で映画やTV撮影用の馬を提供している牧場主のOtis Sr (Keith David)とOtis “OJ” Haywood Jr (Daniel Kaluuya)が牧場の今後の経営について話していると空が曇って雲の向こうに何かが.. と思ったら空から何かがばらばらいっぱい落ちてきて、そうやって落ちてきた硬貨を頭に受けたSrは亡くなってしまう。

以下、5つのチャプターが展開していく。"Ghost", "Clover", "Gordy", "Lucky", "Jean Jacket" – なんの名前か?

残されたOJと妹のEmerald “Em” (Keke Palmer)はハリウッドのスタジオに行って、誰もが知る19世紀のEadweard Muybridgeの乗馬の(動いているように見える)写真の(ちっとも注目されてこなかった)騎手は自分たちの祖先なのだ!って宣伝するのだが芳しくなくて、近所で西部劇のテーマパークを経営するRicky “Jupe” Park (Steven Yeun)を訪ねて馬を買って貰おうとする。Jupeは冒頭の”Gordy's Home”に子役として出演していて、あの惨劇の生き残りだった..

というどんづまりの牧場経営をなんとかしなければと奮闘する兄妹と、牧場周辺で頻発する停電 – というよりあらゆる機械の動きが停止する現象 - とそれに応じた動物たちの挙動、それらを利用しようとするテーマパークと、空の上にいるらしい何か – あれはなんだ? ってその姿をとらえるべく近所の電気屋の電気技師Angel (Brandon Perea)とかハリウッドのスタジオにいた著名なドキュメンタリー作家Holst (Michael Wincott)の協力を得てあれこれ仕掛けていく。

いくつかの惨劇を通して空の上にいるやつの習性とか反応とか – 吸いあげて吐きだす - を掴んでいくのと、そこからそいつとどう対峙してやっつけようとするのか、っていう流れとしてはパニック ~ 西部劇、のかんじ。ホラーというよりこれがなぜホラーとして機能しうるかを考えさせる様式のような。 警察や軍隊を呼んで対応を頼むより、まずはそいつの姿を「撮ること」に重点が置かれる。なぜならそいつは目を向けて合わせた途端に問答無用で襲いかかってくるやつで撮らせてくれないもんだから。

あるものを見よう、撮ろうとしたときに、見られる側、撮られる側がこちらの想定通りに動いてくれない、それどころか… ていうのは動物からカマキリからそういうものだししょうがない、むしろ見る側、撮ろうとする側、それを仕掛ける側の意識や挙動 – Holstの「不可能を撮るのだ」- がそうさせている/それを強いているのではないか、っていう政治を巡る食い合いに撚られていくのはおもしろい。そうやってのこのこ寄ってきた顔のないバイカー/ジャーナリストはあっという間に。

前作の“Us” (2019)はこれまでずっと視野の外にあって見られてこなかった者たちがどこでどうやって生きてきたのか、を夜闇や地下の暗さの反射 - 地上と地下の投影関係 – のなかで描いていた。今度のは空の上、動いていると思ったら動いていなかった雲のなかにいた - そんな地上と空中の間で起こって、ふつう見あげたってあんなのがいるとは思わない – “Nope.”。(ピリオドがだいじ)

もちろんここにはヒトの人種だけではない動物まで含めた種の話まであり、それは単なる差異というよりも差別の問題として顕在化している。見る - 見られる(見られない)の欲望も含めたそのありようを操作してきたのはいったいどこの誰なのか。

そして、そんな「操作」云々を超えて、どうすることもできない、分かり得ないなにかもある。Jupeはそこの賭けにでて、やられる。(エイリアンものの定番) - “Nope.”。

「見上げたらやられる」のが今作だとすると、「見上げてはいけない」っていう角度からこの問題 - バカは死ななきゃ… - を最近取りあげたのがAdam McKayの”Don’t Look Up” (2021)だった。コメディーでもホラーでもどっちにしても死ぬのよ。

B級怪獣映画としてのスケール感、昼と夜の緻密な描写とそこに波のように被さってくる音楽(Michael Abels)もすばらしいと思った。撮影はIMAXと65mmカメラを駆使しているそうなので、できればIMAXの劇場でみてほしい。極上の、すばらしくシリアスな「ウルトラQ」の世界。

”Gordy's Home”のSNLのパロディーでChris Kattanの”Mr. Peepers”が話題になっているようだが、Chris Kattanはやっぱり”Mango”の方だとおもう。あと、Darrell HammondだってCheri Oteriだってすばらしかったんだから!

あと、Emは、まんなかくらいでThe Jesus LizardのTシャツを着ていたので、やられることはぜったいあるまい、と思った。