8.29.2015

[log] August 29 2015

ここんとこの出張がことごとく後味わるいかんじで潰されてきたのであああったまきて休暇を取って、これから逃避の旅にでるの。いまの泥みたいな陽気も逃げだすのにはちょうどよいふうに萎れてやがるぜ。

この時期だともう欧州は寂しそうなので米国かなー、でもNYにすると歯止めなしの休暇どころじゃなくなってしまうしー、ポートランドも魅力的だけど4日間は長いかなー、そんなふうに見ていくとやっぱし西海岸かあ、としたとき、SFより北だとちょっと仕事くさくなっちゃうかあ、と、結局去年とおなじLAにしてしまった。 適度に気楽で映画館と本屋とレコード屋があるけど離れているので走り回る必要がなく諦めもきいて、そこそこ未開と発見の地があって、食べものはどうにでもなりそうなかんじ、となるとな。

と、いうわけで気分だけでも盛りあげようと、行きのNEXでは、iPodでJoni Mitchellの"California"きいて、Lunaの"California (All the Way)"きいて、Mazzy Starの”California”きいて、Rufus Wainwrightの”California”きいて、The Wedding Presentの”California”きいて、Beach Boysの"California Girls"きいて、The Magnetic Fieldsの"California Girls"きいて、Katy Perryの"California Gurls”をきいた。 結構あるもんだねえ。 そう盛りあがるもんでもなかったが。

こんかいのは誰がなんと言おうと断固ぜったい休暇なので、あんまし計画は立ててなくて、ライブがひとつくらい、映画は、みっつ見れればじゅうぶん、そんなもん。そんなもんですませたい。

唯一、ほんとに心残りで残念でならないのは30日のデモに参加できないことだよ。
この、くそみたいなさいてーの夏をなんとか乗り切れたのは毎週金曜日の国会前があったからで、その最大かつ最後の(最後にしたいよねいいかげん)大突撃に加勢してあいつらの息の根を止めるのをこの目で見届けられないのはくやしいけど、魂はつねに、あの場所に飛んでいくから。 帰ったときにはうっとおしかった夏も政権も終っていますようにー、という夢想。そしてこの夢を夢のままで終らせてはいけないの。

ではまた。

8.28.2015

[art] Cy Twombly - Fifty Years of Works on Paper

やや順番は前後するが、こちらから。 22日の土曜日の昼、原美術館で見ました。
ここに来るのはなぜかいつも盛夏の頃で、これはむりだ、とタクシーに乗ってしまうので入場代とは別に1460円かかってしまうの。 だからどうした。

紙作品を中心に、ということなのだが、のぞむところだ、なの。
紙の肌理、でこぼこ、乾き、縁とか境目とか、紙の表面に亀裂や裂け目、白く平らな紙はこれらの痕跡や段差を必要とする、或いはこれら余白に向かう力のようなものが紙の表面を呼びこむ、というか。

そして例えば、こうしてどこかから呼びこまれた線の強弱や連なりのごにょごにょの果てに”Orpheus”とか”Adonais”とか”Pan”とか”Venus”とか”Apollo”といった固有名 - とくにギリシャの神とかの名が認められた瞬間、脳のはじっこに走る電気みたいなやつの不思議。 神って案外あんなふう?

或いは紙の上に現れて置かれたいろんなのが、「修道女の専門書のための研究」とか「理想的結婚の風景」といったタイトルに導かれて旅をする土地とか時間とか経験とか、それらはどんな線を描いてこの紙の上までやってきたのか、とか。

そして更に - 沢山の”Untitled”絵画が呼びこむ排気口のようなスプリンクラーのような渦と混沌の前に我々はなにをどうすることもできやしない。 猫が猫じゃらしに永遠に踊られてしまうように、我々の目はあの線や曲がりや滴りやくるくるの軌跡の虜となってまわり続けて、だれかとめて! なのだがなんか気持ちよいので止めることができない。なぜあんなものをずうっと凝視してしまうのだろう。

紙なのに、というか、紙であるからこそ、というかの異物感、存在の際立ちが圧倒的で、それははっきりと抽象表現主義の作家の流れ - 基本は線と色彩のせめぎ合い - から彼の作品を隔てているような気がした。 こないだのブリヂストン美術館でのWillem de Kooningとはまた異なる、印刷されたカタログでは見えない、なまものがそこにあるかんじ - グラフィティ / スクリブル。

帰ってからバルトの美術論集にあるCT論を読みなおした。 ゲームではなくプレイ、プレイではなくプレイイングである、と言い、これらは概念(トレース)ではなく活動(トレーシング)に属し、さらに活動が展開される限りでの場(紙面)に属するのだ、と。
なんかねえ、実物を見てから読むと腑におちまくりで、バルトの詐欺師っぷりを改めて強く認識したのだった。


このあと、怒濤の5週連続となってしまったアテネフランセに向かったの。

[film] Dressing Up (2012)

20日の木曜日の晩、渋谷で見ました。

中学生の育美(祷キララ)が、父親とふたりでニュータウン(たぶん)の新居に越してくるところから始まる。
母親は既に亡く、父親はシングルで苦労して育ててきた/いるらしい。 引越し荷物のなかに育美は母親の遺したノートを見つけて興味を持って、母親はどんなひとだったのか父親に聞いてみるが余り答えてくれない。 育美は無口でとっつきにくくて、でも人なつこく寄ってくる近所の女子とか虐められっ子の男子とかと知り合って、彼らと一緒に過ごしていくうちに、彼女の牙とか爪とか凶暴さがだんだん顕わになってくるの。 

やがて彼女は過去にも同様の問題を起こしていたこと、そういうことをするのに躊躇いがないこと、などがわかってきて、それは母親の遺したノートに書かれた言葉やイメージを素直になぞっているので、母がそこにいるような、母が自分のなかにいるような気がしてくる。  そういう状態のときに現れた怪しげな男はどうやら母のことを知っているようで、これって自分の祖父なのか、だとしたら自分は何故この男のことを知らないのだろう、とか。

それは母親が彼女に遺したものだったのか、そもそも母親はなんでそんなふうになってしまったのか、自分もそれと同じ道を辿ることになるのか、それにしてもそれはほんとうに、どれくらい悪いことなのか?  などなど。  迷って苦しんで、救いや答えはどこかにあるのかないのか、たぶんないのだろうな、とか。

ここには青春映画の一途さと刹那があり、青春映画だから答えは得られないし、なにかが停止することもないし、見晴らしのよい出口もない。
唯一あるとすれば、自分は母の娘なのだという確信、というよりは、自分は自分の親なんだ、という確信と決意で、映画はその一点に向かうトンネルを抜けていく旅だから、ホラーみたいな描写があっても、施設に送られたとしても、あまり凄惨さや悲惨さはない。 母親が怪物なのだとしたら、自分にもその血ははっきりと流れていて、自分の手にはナイフがあって、でもだからどうしろと言うのか、と。

これらの想念すべてが育美の表情と眼差しに収斂していくラスト、あそこですべての謎も不安も恐怖も悲しみもフラットになる。 解決はしないけど、頭のなかは風や嵐でぼうぼうかもしれないけど、少なくとも地面に立っていられることがわかる。
という低めに腰の据わったラストの描き方が本当にすばらしくて、ここを描きたかったのだろうなー、とか。

上映後には真魚八重子さんと監督のふたりのトークがあった。
男性の「映画関係者」が「女性監督」(日本ほど女性の映画監督が「女性監督」て言われる国はないよ)をいじる、みたいな場になりそうだったら帰ろうと思っていたのだが、全てが腑におちてすーっと入ってくる見事なまでに爽やかな内容で、映画の印象をちっとも壊さない - この映画の場合それがなにより - デザートでしたの。

8.27.2015

[film] Terminator Genisys (2015)

そういえば見るの忘れていた、と、18日の晩、日比谷でみました。 割とどうでもよかったのだけど。

おそらくパート1の冒頭にあったのと同じ未来から始まって、John Connor (Jason Clarke)が率いる戦いも終盤、Skynetは壊滅寸前で、あと一歩てとこで、Skynetは最終兵器としてのTerminator - パート1と同じくぴちぴちの - を送りこんだことがわかり、反乱軍もKyle Reeseを後から追っかけで派遣し、とにかくSarah Connor (Emilia Clarke)を守るように指令をだす。 ここまではパート1とおなじ。 でも、過去に送られる直前にKyleはJohn Connorの背後になんか悪い影を見かけて、更に80年代のLAにたどり着いてみると、Sarah Connorの横には既にぽんこつになりかけの旧型ターミネーター(T1: Arnold Schwarzenegger)が侍っていて、Sarahはとっくにいろんな事情を承知していた、と。

つまり物語は、一回目のタイムトラベルを経由したあとの、二巡目か三巡目かのサイクルにはいっていて、その流れで、あの金属飴みたいな新型の(T2)も早速現れて(おなじ顔にしとけや)、それに対する策も既にあって、どうせなら全部予定調和でいいじゃん、なのだが映画としては過去からの積み重ねを踏まえつつ、びっくりさせたりしないといけないから大変だなあ、とかおもった。
結局のところ、未来ていうのは、そういう延々続くループのなかにあって、それが終らない限りにおいては確かに予測できないし、閉じないし、ただそういうところも含めてお先まっくらであることは確かなのだった。

でもさあ、それやりだしたらなんだってありだよね、ていうのはT1の頃からみんなが言っていたことだと思うがそんなこと今更言ってもしょうがないので、T1のすっとぼけた劣化(あんな説明あるもんか)とか、気持ちわるい笑い顔とか、T1への教育と学習とか、わりとどうでもいいことに突っ込んでてきとーに納得するしかない。 世界が突然まっくらになったりしていない以上、まだ人類は負けていないらしいね、とか。

でもさあ、2017年に世界規模のシェアを持つOSだかなんかが現れてそこから一挙にあの状態になだれ込む、みたいな話はないよ("The Circle"とかも、みんなそういう枠組みがだいすきみたいだけど)。

考えるのがめんどくさいので、どうせだから、未来からやってきたフランケン執事 = ドラえもん、が未来から次々やってくる敵と戦う、みたいにしちゃえばよいし、実質そんなもんでしょ。
ほんとうは、フランケンが未来から落ちてきて、Sarahと出会って教えたり教わったり、のあたりから描くべきだったと思うし、そっちのほうが見たいかも。

Kyleは最初のときのMichael Biehnと比べるとずいぶん... 足が短くなったかも(フランケンもいるから彼とは恋には落ちないとおもう)。Sarah役のEmilia ClarkeはLinda Hamiltonよりはいいかも、とか。

T1のときの訳のわかんない奴に訳わからず延々追い回される悪夢と恐怖(ほんとpureな恐怖)からは随分遠いところに来たもんだねえ、て思った。 (自分が殺されるかも、ていう恐怖から逃げるところは同じかも知れないが、そこに人類とか未来とかが挟まることで変わってくる意味、とか)

8.25.2015

[film] '71 (2014)

16日のごご、幽霊にうっとりしたあとで、新宿に移動して見ました。
幽霊は怖くなかったけど、こっちはとっても怖かった。

『ベルファスト71』

英国軍で黙々と訓練をしていて、施設にいる弟の面倒も見ているGary (Jack O'Connell)が紛争地帯のベルファストに駐留する英国軍のひとりとして派遣される。

そこは普通の住宅街であるが、近隣住民の英国(軍であれなんであれ)に対する敵意や殺意はそこらのガキのも含めて半端じゃなくて、結構うんざりしょんぼりになる。
翌日、家宅捜索の後方警護に行くことになり、上官は戦闘にはならないはずだからヘルメットは不要、ていうのだが案の定一触即発になってふざけんじゃねえ、て住民達に囲まれて止むを得ず防戦しているとどこからか銃を持ってきたガキが目の前で発砲、一緒に訓練を受けていた相棒は即死してしまう。 動転しつつもなんとか逃げだして、追手を撒くのだが、右も左もわからない町で、誰が敵か味方かもわからない状態(敵対するカトリックとプロテスタントが通りを隔てて隣接している)で、逃げる、かくまわれる、爆破される、怪我をする、かくまわれる、逃げる、隠れる、がぐるぐる続いていく、そんな明けないひと晩のお話し。 90分台がちょうどよい。

同じ英国軍のなかでも軍と警察と工作部隊がいて、地元の支援組織のなかでもそれらのどこかに接点があったり、地元は地元としてまるっきり敵、まるっきり味方というわけではなく、当然顔を知ったりしているので、ソーシャルの線は単純ではない。 そういうなかで迷子になるなんて想像しただけで頭と胃がいっぺんに痛くなるのだが、とにかく逃げて、生き延びて自軍の、自分の顔を知っている人たちのところに行かないとやばい。 3m先は闇の状態。

"Die Hard"みたいな「ついてない」系のノリではなく、自分の周囲はとりあえずぜんぶ敵と思え、気を抜いたら殺される、殺さなければ殺される、の切迫感と、始終止まないとてつもない殺気の総量がすごくて、怖くて、ふるえるしかない。

最後にくるのは、すべてがなし崩しの、やはりそうなるしかなかったか、としか言いようのない凄絶な殺し合いで、これも誰しもが思うであろう「なんでここまで...」 の非情さと無力感がびっちり。

後始末の軍法会議みたいな場で、片方は「戦争だ」といい、片方は「治安活動だ」という (ほらな)。

最後の撃ち合いなんて敵の縄張りに迷い込んでしまったやくざ同士の抗争、のようにも見えるのだが、これはどんな国の紛争にも、戦争にも、治安活動にも、後方支援にも、71年とは言わずどの年号にも置換可能なそれで、それはつまり動いているののとどめを刺す、人が人を殺す、ということでしかないの。 わかってるよな。

というようなところで、「野火」と並んでいま見ておいたほうがいい映画だと思ったの。

音楽は、David Holmesさんで、ささくれに塩をすりこんで紙の端でつーってやるようなギターがしみて痛いよう。

8.24.2015

[film] The Ghost and Mrs. Muir (1947)

16日の日曜日の昼間、シネマヴェーラの特集『映画史上の名作13』で見ました。

『幽霊と未亡人』
Joseph L. Mankiewiczのやつだから当然みるの。 さめざめしんみりしたい夏、と。

夫を早くに亡くし、意地悪そうな義母と義姉と一緒に暮らしていたルーシー (Gene Tierney)が、一人娘 (Natalie Wood ..まだ8歳くらい)とメイドと3人で決然と家を出て自分たちの家を借りるところから始まる。 一軒、不動産屋がここはやめたほうがいいですよ、ていう海辺のコテージがあったのだが、見に行ってみると彼女は気に入ってそこを借りることにしたら、やっぱしそこに住んでいたという男の船乗り - グレッグ船長 (Rex Harrison)の幽霊がでてくる。 こいつは海の男だもんだからミソジニーぷんぷんで、でも気丈な彼女はぜんぜん負けないで、なにが幽霊よちっとも怖くないしこっちは生活かかってるのよ、とかやり返しているうちに、だんだん二人は仲良くなっていくの。

やがて亡夫の残した遺産が紙切れ同然になって生活できなくなった、と彼女は泣いて、そしたらグレッグ船長は、俺の船乗り生活を本にして出版しようぜったいにおもしろいから、と言って彼女は彼の語りをして原稿に纏めて、そうしてふたりの時間を過ごしているうちに更に仲良くなっていくの。

で、その原稿を持って行った出版社で知り合った人懐こい男 (George Sanders)と彼女は仲良くなって、船長はあいつはよくないぞやめとけ、て忠告するのだがルーシーは聞かなくて、そいつとの再婚まで考えるようになったあたりで船長は彼女の幸せのために消えることにするの。 もともと消えてるんだけどさ。

ここですんなり終わると思ったら更に長い長い時間をかけて物語は転がっていって、とっても素敵な終わりかたをするの。 幽霊にとって愛は永遠なんだわ(うっとり...)

あと、この幽霊はひとを怖がらせるだけで、決して呪ったりポルターガイストしたり邪悪なことをしたりしないの(ルーシーは最初に娘の前には姿を見せないでね、て彼に頼む)。 海の男として海の見える部屋にぽつん、ているだけなの。 Rex Harrisonのがっちりした佇まいがそこにはまって、よくてねえ。

Mrs. Muirの”Muir”って、ゲール語の「海」なんだって。

幽霊いてもいい、海辺であんな暮らしがしたいなあー。

[film] Jurassic World (2015)

15日の21時過ぎ、MI5のあとにそのままフロアをひとつ上って、見ました。
これ、昼間だとガキがうるさくて嫌かも、と思ったので夜中の回にした。

普通の3Dで、MX4Dとかいうのはどうかなあ、と、まだなんか試す気にはなれない。
映画をアトラクションとしてわーわー楽しむ、ていうのは別にやってれば、て思うけど、アトラクションの楽しみと映画の楽しみって別のものだよね。 自分が映画に求めるのって、同じものをモノクロのサイレントにしても迫ってくるなにか、なのだろうなー、とか。 

たしか”Jurassic Park III” (2001)のラストで、翼手竜が悠然と島の外に飛んでいったので、そのあたりから繋がるかと思ったのだが、どちらかというと93年の最初のからの地続きらしい。

両親の関係が微妙になっている兄弟がふたり、バケーションで恐竜の島に送られて、弟ははしゃいでいるものの兄はどうでもいいかんじで、島で彼らを受け入れる叔母 (Bryce Dallas Howard) はJurassic Worldの会社の重役で忙しくてそれどころじゃないので、VIPパス渡すからあとは好きにしといて、で済ませたい。

オリジナルのお話しが恐竜を現出させて彼らの生息圏 - Jurassic Park - を作る、というところで発生したいろんな問題を科学者と一緒に乗り越えよう、ていうのだったのに対し、こんどのは恐竜の世界 - Jurassic World - としてはビジネスも含めて出来上がっていて、恐竜のこわさとかリスクも十分わかった上で、その世界をどうやってまわして収益を出していくのか、というのがテーマのひとつになっている。対応しなければいけない問題も、科学者がなんとかする領域から軍人が統治する方向に質が変わってきている。

で、ビジネスの要請もあって遺伝子操作で「設計」されたすごく凶暴で知能も優れた恐竜を作りあげたらそいつが脱走して園内大パニック、ていう筋書きも、周囲から都合よく放置された子供たちがそこに取り残されて、それをなんとかするために、地道に小型恐竜の訓練を仕込んでいた元軍人 (Chris Pratt)が動き出す、ていう流れもすごくお馴染みでわかりやすくて、その流れのなかで腹黒い連中がガブガブやられていくところも、まるで意外なところはないの。

そういうなかで、どこまでおもしろくできるんじゃろ、て思わないでもないのだが、なんかおもしろいのよ。
80年代によくあった、初期インディ・ジョーンズとかもそうだけど、おおらかで無責任でご都合主義てんこもりの冒険 - 二社択一の過酷なサバイバルゲームではない、やったらできちゃったじゃん、みたいなてきとーなノリが、なに考えてるのかわからない恐竜相手にうまく機能している。

で、そういう予測不能な恐竜の動きがだんだんに加速して制御しきれなくなったところで一気にパニック映画から怪獣映画に変貌するあたりの、それどころじゃないジェットコースター感も見事だと思った。 あれじゃゴジラの「南海の大決闘」だし。 子供にとっては最高の夏休み映画だよね。

嫌な奴がやられてしかるべき、の掟から外れて唯一へんな動きをしたBryce Dallas Howardさんの位置もおもしろい。 見境なくなってでも懲りずにだんだんパワーを増していく謎の女。 あんなハイヒールで走り回るところも含めて。
でも続編あるとしたら、どうするんだろ。生き残りの責任とらされて当然クビだと思うけど。

監督は、"Safety Not Guaranteed" (2012)のひとで、あれ、変な映画だったけどおもしろかったもんね。

あと、子供のころ恐竜図鑑が友達だった子にとっては、すべてが驚異的で、夢みたいな映画だとおもった。アンキロサウルス(のしっぽ)とモササウルス(ばっしゃーん)が見れただけでいいの。

[film] Mission: Impossible - Rogue Nation (2015)

15日の夕方、茶碗のあとにそのまま六本木でみました。

おもしろかったー、くらいしか言うことないの。

冒頭の飛行機ぶらさがりから、オペラハウスの追っかけっこも、モロッコのハッキングも、ロンドンのベンジーあやうしも、ぜーんぶ無理なくつながっている。 その「無理なく」がEthan Hunt = Tom Cruiseの超人的ななにかによって支えられていることは十分わかった上で、結局なにひとつImpossibleじゃないのよね、ていうのも程度のひくい愚痴にしか聞こえない。

EthanのいるIMFは世界中でろくなことやってないよね、とCIAへの併合が求められるなか、消息不明だったり死んでいたりするはずの工作員を集めた謎のシンジケートの存在が浮かびあがって、今回の追っかけっこはそのシンジケートの闇と野望を巡って繰り広げられるのだが、結局のとこ、近代国家そのものがRogue Nationとしか言いようがないやくざとろくでなしの集合体じゃん、悪も正義も糞ミソじゃん、てみんなわかったとたんに、Ethan Huntとその一味、がものすごく活き活きと自在に動きだして止まらなくなる。

今後のはシンジケートとEthanの間で仲立ちをするIlsa Faust (Rebecca Ferguson)の謎の無敵ぶりも含めて、スパイもの、ていうのはこうでしょ、これが見たいんでしょ、ていうとこにうまく運んでくれる。 しかし”Faust”って ...

映像としていちばんぞくぞくおもしろいと思ったのがオペラハウスのステージ裏と客席の間で「トゥーランドット」をバックに繰り広げられる狙撃戦、どっかで見た気もする、というところも含めてとってもクラシックで、見るものと見られるもの、絶えずくるくる更新されていく視線とその先、その全体を指揮しているのはどこの誰か、とかいちいちスリリングなの。

あとラスト、悪の首領を追いつめたところで、最近のこういうのって敵を木っ端微塵にしてバイバイ、みたいのが多くてちょっと嫌だったのだが、そうじゃないようになるとこもよかった。

それにしても、Simon Pegg、改めてすごいねえ。これに出て、Star Treckに出て、Star Warsにまで出る。
『墓場から宇宙まで - Simon Peggと21世紀スペクタクル映画における正義のありよう』みたいなタイトルでそのうち誰かが論文を書くはず。

でも、Ethanたちがほんとに正義の善玉なのか、ってまだ安心ならないのよね。
レコード屋の女の子を殺したやつは絶対わるいけど。

で、MI6は”Spectre”で復讐してくるんだね。

8.23.2015

[art] 藤田美術館

15日の午後、髪きったついでに六本木でみました。なんとなく。

『藤田美術館の至宝 国宝 曜変天目茶碗と日本の美』

大阪の藤田美術館のことは知らなかった。 Frick CollectionとかGuggenheimとかと同じく、時代の変わりめに成りあがった実業家が収集した美術品を展示しているらしい。 で、ここのは明治維新後、廃仏毀釈によって仏教美術品が失われることを危惧した創業者の藤田傳三郎が始めたのだ、と。

「日本の美」、こんなにすごいんだぞ、とか言う前に、当時の政府はこんなのをぜんぶゴミ箱行きとか海外流ししようとしていた、ていうのをしっかり言おう。 政府の文化政策にろくなもんがないのは今に始まったことではないが(別に文化だけじゃないか ... )、とにかくあんたらが威張れば威張るほど、恥ずかしくて悪寒と発熱と嘔吐がいっぺんにやってきてしょうがない。 あんたらのいう「美しい」はいつだってゴミ以下だわ。

天王寺動物園でやっていた戦時下にやむをえず処分した(=国が殺した)動物たちの展示と同じように、国家が過去に潰そうとした/破棄した美術品の展示(実物なければ写真でも)をやってみればいいんだよ。

というのとは別に、見るものは見ていく。

入り口すぐに快慶による「地蔵菩薩立像」。ちっちゃいけど、驚異的なフォルムとバランス。そのバランスのありよう、というか感覚がいつ頃から我々にとってもそういうものとなったのかとか、これはそんなふうに「認識される」ものではないのだな、という凄みがありあり。 菩薩さまの一撃。

そしてこの展示のメイン、「曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)」のとてつもないこと。
茶道具関係はぜんぜんわからないのだが、お茶碗の上に浮かびあがった宇宙というか、呼び込まれた宇宙というか、そんなGalaxyの入り口がそこになぜか現れてしまった、ようなかんじ。星空や海原をいくら眺めていても飽きないのとおなじ感覚が襲ってくる。 闇に近い碧、藍、の奥というか向こうでなにかが瞬いているの。 おそらく、ちょうどAvengersのあの石ころとおなじ材質なんだとおもった。

(気をとりなおして)これの上に何を盛るべきか、をずっと考えていて、白飯じゃないよねえ、とか、イカスミのリゾットかなあ、とか。 茶碗蒸し … とか。 コンテストとかやってみればいいのよ。

あとは、藤田傳三郎の最後の収集物件だったという「交趾大亀香合」。
そうか、最期にそんなにこの亀がほしかったのか … て思った。

あとは、竹内栖鳳のでっかい「大獅子図」 (1902)にもうっとりした。
あのでっかいあんよの裏の肉球はどんなんだろうか、て。

[film] The Final Member (2012)

13日の木曜日の晩、セイウチだけで終るのは悲しかったので、同じとこで続けて見ました。
セイウチは縫って転がす映画だったが、こっちは切り取って立てる映画、だった。 だっきん。

『最後の1本 ~ ペニス博物館の珍コレクション~』

アイスランドで、世界に一軒だというペニス博物館を個人で設立して運営しているおじいさん - シッギがいて、博物館では顕微鏡で見るようなハムスターのから、でっかいセイウチとかクジラとか、そういうのまでいろんなのを収集展示しているのだが、ホモ・サピエンスのだけまだ空席になってて、その1本をだれからどうやって調達するのか、という話になったとき、2名が名乗りをあげてくる。

ひとりは地元アイスランドの名士、元冒険家で全盛期には300人(除.商売女)とやったもんじゃ、と自慢する95歳のおじいさんで、もうひとりは米国の牧場主(たぶん共和党支持)で、彼は自分のやつを「エルモ」と名付けてアメリカ合衆国とおなじようにぶんぶんプライドを持って振り回し、先っぽにStars and Stripesのタトゥーまで彫り込んで「自分が生きているうちに切り取っていい」とまで言う。... よくわかんない。

このふたりがリングで直接対決したり審査委員会が開かれたりするわけではなく、時間の経過と共にどうなっていっちゃうんだろ、ていうのがテーマで、例えばアイスランドには過去の判例によるとLegal Lengthていうのがあって、サイズとして12.6cmらしいのだが、アイスランドのおじいちゃんが、歳と共に縮んできたのでやばいかもしれない、ていうとことか、アメリカ人が俺のエルモを早くなんとかしてやってくれ、といちいち電話してきてうるさかったりとか、まあほんとにどうでもいいようなやりとりが続いていく。

長いの、太いの、固いの、形がどうの、強いの、そういうのに対する太古からの幼稚で奇怪なオブセッションと、ホモ・サピエンスの展示で一等賞を取ったる、ていうのはおそらく地続きで、オトコっていくつになっても、どこの国でもガキっぽくて愚かでしょうもないんだねえ、ていうのをシンプルに笑ってやればいいのだろうが、ひょっとしたらこういう所業を愛おしくおもったり感動したりする奴もいたりするのかしらん?

いたら気持ちわるいなあ、と思いつつ、これはこれで勉強にはなったのでよいか、とか。
どうせなら展示したいひとはみんな持ってきて並べてよし、にしちゃえばいいのに。

博物館ではあれのオブジェとかも収集しているのだが、日本なんて神社信仰と絡めてもっとすごいんだからね! ていうのを右翼のひとたちはアピールしてみては。

あと、星条旗のタトゥーを掘るとこ、ボカシ入れてどうすんだよ。エルモがかわいそうじゃないか。
あと、棒と玉と袋って、3つで1セットなんだね。

あと、一応ドキュメンタリーなの。

8.22.2015

[film] Tusk (2014)

13日の木曜日の晩、新宿で2本みました。にんげんて ... とじわじわ厭世観が襲ってくる2本。

Kevin Smithの新作なので、これは見ないわけにはいかない、というふうにされてしまった(いつからなのか、かわいそうに ...)ひとりなので、こればかりはしょうがないの。

邦題は「せいうちくん」でよかったのではないか。
“Red State” (2011) 以来(間にTVシリーズの”Jay and Silent Bob” サーガがある.. 見たい)の映画で、あれは相当におっかなくて救いようのないやつだったがこれもそんなふうな。

Podcastで相棒のTeddy (Haley Joel Osment) としょうもないバカトークをやっているWallace (Justin Long)は、Kill Billの真似して日本刀振り回して自分の脚を切り落としてしまった哀れなガキの取材でカナダに飛ぶのだが、着いてみるとそのガキは亡くなっていて、仕方なく酒場で飲んだくれているとトイレの貼りチラシに「おもしろい話聞かせます」みたいのがあったのでそこに電話して行ってみる。 車で2時間くらいの山奥にたどり着いてみると大きな家に車椅子の老人 - Howard Howe (Michael Parks) がひとりで暮らしていて、昔いろいろあったふうな貫禄の老人で、お話し楽しみだ、てうきうきしてたらお茶になんか盛られていたようで眠らされて、翌朝どんより気がついてみると片足がないの。 なんだよこれって怒って吠えると、老人は車椅子から立ちあがって凶悪な目で睨みつけ、若い頃のセイウチとの思い出をしみじみ語りだすのだった ...

こうして哀れWallaceはセイウチに改造されちゃって、生魚を与えられて飼育されちゃうの(ほんとよ)。
他方で全身セイウチになっちゃう直前、彼からの必死の電話を聞いたGFのAlly (Genesis Rodriguez)とTeddyは彼の足跡を辿ってカナダまで来て、そこで地元の連続猟奇殺人犯を追い続けている元刑事のGuy Lapointe(えーと演じてるのはあいつ、ね)と出会って、いろいろ話を聞いて追っかけていくと ...

Kevin Smithのお話しって、こないであそこであんなことがあってさー、おっかねえよなあー、みたいなどこかから流れてきた都市伝説みたいなやつを捏ねて丸めて映画に仕立てるのがうまくて、これもそんなやつ。英国版Craigslistに載っていた実際の依頼話から、こんなんなっちゃったりしてな、みたいに転がしていった彼の声が聞こえてくるようで、そんな彼の手癖みたいのが嫌なひとにはちょっときついかもしれない。

ラストはなかなか哀れで悲惨なのだが、でもWallaceのキャラクター設定がそもそもいけすかない奴なので因果はめぐるじゃのう、みたいな見方もできてしまう。

それにしても、“Red State”もそうだったけど、Michael Parks、おっかなすぎる。
でもセイウチくんの造型、もうちょっとなんとかしてもよかったかも。ショッカーの改造人間のがまだこわいかんじだし、あれじゃSNLの被り物だわ。

それと、コンビニの店員役でKevin Smithの娘とJohnny Deppの娘が揃って横に並んでて、なんかおかしかった。

8.21.2015

[lecture] Chris Marker et la Russie / URSS

7日金曜日の午後、赤レンガからへろへろになってアテネフランセにたどり着いた。
余りに遠すぎて陽射しでしにそうになって、会社休んでなにやってるんだろ、と。
そしてアテネ・フランセ、4週連続 ...  なんかぜったいおかしい。

クリス・マルケル監督特集の特別番外編として、ロシア映画2本の上映とトーク。

カメラを持った男 (1929)  - “IЧеловек с киноаппаратом”

英語題は”Man with a Movie Camera”。

サイレント。 映画館で客席が開閉してお客が入って上映が始まるところから始まって、タイトル通りにカメラを持った男がロシアのいろんなところに現れていろんな人とか群衆とか街の景色を映し出す。 カメラが切り取った風景とそれを切り取ったり編集したりする男の挙動とは不可分であることを示しつつ、カメラはどんなときにもどんなところにも現れる。85年前の映画とはとても思えない構図のかっこよさと、ところどころでなんともいえないエロ - ブラを外すとことか水着とか - が漂ったりして「男」なのねー、と思って、かと思うと突然出産でろでろー、があったり。
目の延長としての映画、武器としてのカメラ。

あのジガ・ヴェルトフの、映画の教科書とかには必ず載っているジガ・ヴェルトフの作品だけど、クラシックの重さを感じさせずにさらさらと俊敏で、でもやっぱしかっこよいのだった。

幸福 (1934)  - “Счастье”

これもサイレントで、でもこっちはフィクション・寓話。 英語題は、“Happiness”。
貧農で見るからに頼りない夫としっかりがっちりした妻のふたりがいて、夫は妻に「幸福を探してこい」って言われて旅に出て、お金を拾って持って帰って、水玉ブチ(カラーで見たい)の馬を買うのだがこいつは畑を耕すこともできない役立たずで、頭きた妻が自分でがしがし耕したらすごい豊作がきてばんざい、て思ったらぜんぶ絞り取られてすっからかんになって … こんなふうに幸福を求める旅は果てしない悪夢のようで、結局はコルホーズで働けばいいのよ、てなるのだが、同時にそういうののアホらしさ、みたいのもまたしっかりと描かれている。 実直に進めようとすればするほど中心からずれていってしまう両義性のおもしろさ、があるのだった。
 
映画2本のあとで、「クリス・マルケルとロシア・ソヴィエト」ていうお題で、パリ第三大学映画学科の映画社会学者だというKristian Feigelson准教授のトーク。 でっかい声で強く熱く語ってくれてトーク、というよりじゅうぶん大学の講義のようだった。

クリス・マルケルの最初のロシア映画「シベリアからの手紙」(1958) から「アレクサンドルの墓」(1993) によりソ連の歴史を再訪するまでの軌跡を追い、彼がなぜロシア・ソヴィエトに惹かれたのか、を掘っていく。

更にアレクサンドル・メドヴェトキンとジガ・ヴェルトフの対照的な違い - 共産主義や農民文化に対する素朴なノスタルジーと共にあったメドヴェトキンとラディカルな知識人としてユートピアのために映画を求めていったジガ・ヴェルトフ - を明らかにして、クリス・マルケルなぜこの二人に興味を持ったのか、を詰めていくと、やがてそこから以下のような問いに至るのではないか、と。

・映画のユートピアとはなんなのか?
・映画になにができるのか?
・ユートピアをどう撮るのか?
・映画は歴史を理解するために役立ってくれるのか?

ものすごく古典的なサヨクのようでもあるし、でもこんなに真面目で誠実なアプローチ、あるだろうか?
(いや/ない。よね)

最後は、そこから彼のロシア文化に対する愛と失望がなぜ日本への愛に?  という問い。

現代と過去に対する問題提起をロシアと同様に日本でおこなっていたのだ、と。
その問いが持ちこむ緊張関係(現代と過去のせめぎ合い)を通して映画の近代化とはなにか? を問うていたのではないか、と。

クリス・マルケルは画面のなかでこういったようなことを観客に問いかけつつ、自分自身にも問題提起をしていた。
そして時間に対する問いかけ、も常にある。「いったいどこに行けば時間を買えるお店があるのか」と。

時間をオーバーしても全然終りそうにないおもしろい講義で、クリス・マルケルという作家の映画社会学ていうフレームへのはまり具合にとっても感銘を受けたのだが、それよかもっともっと作品見たくなった。

彼がもしまだ元気に生きていたら、国会前にぜったい来て貰いたいんだけど。


8日9日の土日は、銚子に帰省してお墓参りと花火大会だった。
あんず飴は2本しか。 あんず飴の屋台が減ってきていて、とってもかなしかった。

8.19.2015

[art] 蔡國強 : 帰去来

7日の金曜日、あんまりにも暑いし前日に見た「野火」で、さあ殺せーいいから殺せーモードに入ってしまったので会社休んで、横浜に行った。 なんでこんな暑い最中にあんな遠いところに行ったのか、いまとなっては謎。よく憶えていない。

初めて行った横浜美術館で Cai Guo-Qiang : “There and Back Again”- 「帰去来」

Cai Guo-QiangはMetropolitan Museumのルーフでやった↓の串ワニが大好きで、

http://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2006/cai-guo-qiang

その後、2008年にGuggenheimでやった「壁撞き」 (2006) - “Head On” をようやく見れる、ということで喜んで出かける。 

最初の部屋にあった「春夏秋冬」(2014) は18禁で、入り口で入ろうかどうしようか悩んでいる親子連れがいて微笑ましかった。
この展示のために制作されたようで、でっかい4つの季節の絵、それぞれに花火で焼けて張り付いた草木の真んなかで一組の男女(たぶん)が同様に燃えているんだか燃え尽きているんだか、季節と共に燃え方も変わるのかとか、そういう見えそうで見えない系のエロさがあって、ここで肉とか手足がこんなふうにこうなってる、とか子供に説明するのはたいへんだから18禁にしたのかしら。

「壁撞き」- 99匹の狼が透明な壁(ベルリンの壁と同じ高さだという)に突進してぶつかって弾かれて、でも後から後から狼は突撃してくるので途切れないの。 でも99匹が撞き終わるときっと願いが叶うことになっているんだと思う。 狼の毛は羊のなんだねえ。 なんとか一匹ほしいなあ持ち帰れないかなあ、とか思いつつ群れの間で30分くらいうっとりしてた。 夜になったらぜったい動きだすんだろうなー。ちょっと吊られるの疲れたからおまえ替われや、とか。

あとはテラコッタの「朝顔」(2015) とか、入り口に焼きだされてびっくり顔のフクロウとか、きれいで端正で。


もっといっぱいあると思っていたのにあっという間に終わってしまったので、「赤レンガ倉庫」に行くことにする。 なんか遠そうだし、いったことないし、あっついし、実際にありえないくらい遠くて暑くて、しぬかと思ったわ。 そもそも「赤レンガ倉庫」ってなんなの? なんであんなあっついとこに暖炉みたいな赤レンガがいるの?

目的はもちろん、限定で復活しているらしいパイドパイパーハウスで、でもあのお店がまるごと複製されているわけではなくて、隣でやっている展示のミュージアムショップみたいなかんじでCDとアナログが少々。
青山のお店に通いだしたのは83年か84年くらいからで、そのころは主に米国盤とか60年代のを買うのはここで、英国のを買うのはCISCO、という使い分けが、なんとなくあった。
あと、ここに来るとなんでか必ずお金がなくなってしまうので、一緒に行った人にお金を借りてばかりで本当に申し訳ないくずのろくでなしだったと思う。 デートにはぜんぜん向かないお店だよ(店のせいにする)。

ここが突然なくなってしまったときはほんとに悲しくて、レコード屋でも本屋でも、お店が消滅する、というのはほんとうにつらいよねえ、と改めて思った。 だからこないだの池袋の(旧姓)西武ブックセンターも行かなかったし、もうじき嶋田洋書も…

おみあげになんか買おうかなー、と思ったがなかなか決まらないので、横でやっていた「70'sバイブレーション!YOKOHAMA」ていうちょっと恥ずかしめのやつにとりあえず入ってみる(有料でした)。 わたしは歳の区分けでいうとたぶん80'sなのだが、やたらこういう世代論文化論みたいなとこに持ち込みたがる70's野郎が昔からだいっきらいで、でも70’sの終わり頃はなんとなく憶えているなー、ということを思いだした、程度。 YMOの機材とか見て。

いまもあるのかしらんが、船橋西武の家電売場兼レコード売場で、当時成りあがりまくっていたこの時期のYMO(6人編成)のライブ映像をえんえん流していて、レコードぱたぱたしながらなんとなく横目で見ていた。当時がっこうのかっこつけ連中は大抵YMOを聴いていたが、わたしは誰が聴くかそんなもん、て断固拒否して、CabsとかTGとかNEU!とかを聴いていた。 主にレコードを買っていたのは西武ではなく線路を跨った反対側にある東武のほうで、五番街、ていう今にして思えばなんでデパートのフロアのはじっこにあんな変な輸入盤屋があったのか謎でしょうがないのだが、壁にはRIOもプログレもTGもSuicideもとにかく子供には見たことないようなのがいっぱい貼ってあって値段も高くて見あげるしかなかった。レジのとこにはハルメンズのライブのチラシとかが積んであったの。

タイムトラベルできたらあの頃のこのお店に行くんだ。 で、そこでうろうろ時間つぶしてるぼんくらに「やめなさい」って言ってからレコードいっぱい買う。

ていうようなのがわたしの70’s。 もろ現役だった人にはもっと楽しい展示だったことでせう。

ハイドパイパーハウスでは、結局みんなが買っているらしいHirth Martinezの7inchを買った。
貼ってあったVan Dyke Parksの来日コンサートのポスター。中野サンプラザ行ったねえ。

年代の話をもう少し。
こないだ「グランドショウ1946年」を見に神保町に行ったとき、古本屋で90年代雑誌”RAY GUN”を何冊か買ってぱらぱら見ていたら出てくるバンドも盤も胸が痛くなるくらい懐かしくて、自分は自分のことをずっと80’sのひとだと思ってきたのだが、音楽との関わりかたでいうと80’sてレコードとペーパー中心で、90’sの92年から98年のほうがライブに浸っていた数は断然多くて、そういう関わりのなかで回顧される場所と時間て、例えばこの70’s - YOKOHAMAとはなんか違う気がするのだが、それって単に展示だからってだけか?

とか考えながらアテネフランセに向かったの。

8.17.2015

[film] 野火 (2014)

6日の木曜日、広島に原爆が落ちた日の晩、渋谷で見ました。

肺病持ちを理由に隊から弾かれた歩兵がその後も玉突きをされるようにしてジャングルを彷徨い、島の西側のパロンポンまで行けばそこからセブ島に渡れると聞いてパロンポンを目指すのだが、そこまでで更にずたぼろにされるその行状を追う。

戦争の悲惨さを伝える、厭戦感を煽る、それ以前のところで戦場ていうのは例えばこういうところだからね、というのを色と光と音とで淡々と伝える。主人公は正確には戦争に参加していない、戦闘の現場から役立たずと追い払われて、いろんな味方の兵に小突かれどつかれ犬にも吠えられ、敵からの攻撃には逃げまどうばかりで、お国のために戦う誇りも威勢もゼロで、死ぬ覚悟と諦念だけはいくらでも持っていて、銃弾は等しくみんなに右から左から飛んできたり降ってきたり。 周りでは冗談のようにバタバタと人たちが赤い肉片とか肉塊に変わってしまったり黒い棒になったり狂ったり自爆したりして死んでいくのだが、自分だけはなぜか死なない/死ねないまま大量の生者が血と肉にバラされ泥のなかに消えて行くのを見ている。 泣き叫ぶことも発狂することもできない。 カメラがそれらを記録するのと同じように、それを見て、聞いていることしかできない。

生を生きることができず、死を死ぬこともできない罰ゲームのような状態のなか、生を見つめることも死を見つめることもできない。 戦争や戦闘に対する深掘りはなく、味方や敵の軍組織に対する洞察もなく - そんなものいったい何になるというのか? - だからここには厳密な意味で苦しみを苦しみとして、悲惨さを悲惨さとして定義認定して伝える言葉がない、とも言える。 そういう自身の頭のなかに幽閉された極限状態を他者に正しく伝える術がなくて、さらにこの状態には終わりがなくて(主人公は帰国して妻との生活に戻るがショック状態は止まず、妻にもどうすることもできない)、こういった状態を大括りにして例えば、無情、とか呼ぶことはできるのかもしれないが、どっちにしても救いはないよね、と。

で、許せないのは、死者もひっくるめたそういう声を出せない人たちの声や顔(この映画に出てくる連中の顔、どれもすごい)を想像しようともしないで、自分の都合いいように解釈してその解釈を元手に政治利用する連中、だよね。 「解釈」はしょうがないにしても「政治」のほう - この作品を経由して(いや、しなくても)まずすべき政治的努力ていったら人と人が殺しあうあんなふうな状態を作らないようにすること、しかないと思うんだけど。 それから「想像」の範囲には映画にも出てくる現地の人たち - 自分たちの土地を勝手に戦場にされた - もぜったいに含まれるんだからね。

この映画の圧倒的な力強さに昨今のくそみたいな政治事情を繋げるのはいやなのだが、でも、たぶん、映画のほうはびくともしないはず。

「戦争したくなくてふるえる。」は映画見たあとの正しい反応として、あるか。

映画的に近いところだとなんといっても「地獄の黙示録」ではないか。 ヴィビッドな緑と茶色と赤黄、そして圧倒的な音圧。 70mmカメラとVittorio StoraroとAtticus RossとTrent Reznorをセットで(あと予算もね)渡してあげるべきだったのではないか。

それか、ゲルマンの『神様はつらい』じゃないのかもう - 『神々のたそがれ』 - にも似てるかも。

塚本映画をあまり見ていないのだが、身体の変容と力の関係というテーマが彼にあるのだとしたら、この映画もまさにその流れにある、その一貫性もまたすばらしい、としか言いようがないの。

わたしの祖父は70年前の5月、セブ島で死んだ。 この映画のどこかに映りこんでいるかも、て思いながら見てた。

[film] グランドショウ1946年 (1946)

2日の日曜日のごご、ちひろ美術館のあとに神保町で見ました。
『戦後70年特別企画 1945-1946年の映画』ていう特集からの1本。

終戦直後にこんな特集ができるくらいの数の映画が作られていた、という事実にまず驚く。
お客になるはずの大多数のひとたちは混乱と困窮のなか映画鑑賞どころじゃなかったろうし、製作しているひとたちも、演じているひとたちも、それを興行するひとたちも、すべてそういうものだということをわかっていながら、でもなにか - 戦後の復興なのか映画への希望なのか人々の強さなのか或いは本来であればこれを見に来ていたにちがいない沢山の死者たち - を信じて暗闇でフィルムを回し続けていたのか、と思っただけでなんかくる。

そういう彼らのいろんな思いは、例えばこういう特集を通して我々が拾いあげて夜空に誓うのだし、拾いあげて継いでいくべきなのだし、とにかくなによりもこんなことを2度と起こしてはいけない。ふたたびこんなふうに回顧される時代があってはいけないのだ、と。  

終戦直後の正月映画として製作され、1945年12月31日に公開された映画。
繰り返しになるけど、戦争が終わって敗戦の後に、どんなふうにその年の瀬を迎えたのか、どんなふうに翌年のお正月を迎えたのか、ということをつい考えてしまうのだが、みんな洋装できらきらのステージの上で楽しく歌って踊る豪華で豪勢なグランドレビュー形式で、そのグランドな舞台を客席から見る我々も畳にちゃぶ台ではないよね、てかんじで、なんかとっても無理してがんばってるようで、そう思うと内気すぎて酒を飲まないとなにもできないコックの森川信と朗らかでみんなの人気者のウェイトレスの高峰三枝子の寸劇みたいなへなちょこ恋物語が間に挟まれて、けっか、明るく元気にがんばらなきゃね、ていうのと、そうはいってもむりなもんはむりよね(笑)、がだんだら模様をなしていて、なんかわるくないのだった。

あと終盤に「水ノ江瀧子」の字幕つきで登場する水ノ江瀧子のオーラがすごくてかっこよくて、おおぉー、てなるのだが、その横に立つ半裸の剃りこみ魔人(あんただれ?)がこちらを睨んでいるのでなかなか集中できなくてさ。 お正月にまったくお呼びじゃないあの淫靡で面妖なかんじがたまんなくて、マキノ正博やっぱしすげえ、だったの。

戦争の悲惨さをを伝える映画が夏になるといっぱい上映されるけど、どうやってその後を乗り切ったのか、ていうのもきちんと知っておきたくて、なぜって今は戦中というより明らかにそんな戦後の延長にあると思うから。 そして今戦争をやりたがっている連中は、「戦後」なんてもう乗り越えられた、なかったことにしたがっているようだから(それを言うなら「戦中」もか)。

8.13.2015

[art] 長新太の脳内地図

2日の日曜日、脳みそはとっくに溶けて流れ出しているような昼間、もう終っちゃうらしいと聞いて慌てて上井草、ていうとこまで行った。

ちひろ美術館での、没後10年「長新太の脳内地図」展

だいすき。 というか全体としてなんかたまんないかんじ。
具体的にどんなかんじかというと、展覧会のチラシにあった文言のような。

『片方の耳をネジのように巻くと、
脳ミソのゼンマイが回転を始め、
シュルレアリスムふうな発想が、
鼻の穴から出てくる。』

ピカソとかミロとかクレーとか、あのへんの抽象ぐあいとはちょっと違うの。
欧米だとエドワード・リアあたり、だねえ。
鼻の穴からにゅるにゅる出てきたのが瞼の裏側にひっついて、ひくひく動いてこそばゆくてたまんなくなる。

1階の展示室に「イマジネーション」、2階の展示室に「センスとナンセンス」。
1階が脳ミソのゼンマイが回転を始めたところで生まれた色とか形、変てこな生物とか動物とか。
2階が鼻の穴から出てきた線と言葉、それらが織りなす鼻歌とか詩とか。

1階は陽気で元気いっぱいに画面いっぱいに広がって、絵が生きているかんじ。

「ぼくのくれよん」「はるですよふくろうおばさん」「キャベツくん」「イカタコつるつる」「ブタとタコのダンス」「ゆうちゃんとへんてこライオン」「まねっこねこちゃん」「ゴムあたまポンたろう」「みみずのおっさん」「びっくり水族館」のびっくりな連中 - オジサンジュゴン、ダメタコ、ブタハナウオ、パンツイカ、などなど。

谷川俊太郎さんが言うように「言語の被膜を取り去った本当の現実の手触り」がそこにはあるの。

2階は、ではその現実の手触りにもういちど言語のヒモとか被膜を結んだり被せたりしてみる、そういう試みが拡げてみせる世界の切れ端。 ダリやキリコのそれとはやっぱりちがう。

「ちへいせんのみえるところ」「わたしのうみべ」「つきよのかいじゅう」「だっこだっこねえだっこ」「ぶうぶうぶうぶうねえだっこ」「ちらかしくん」「つみつみニャー」、などなど。

そこには意味を取り払われたただただシンプルで自由な線があって、そこに詩の言葉が絡んで、ふたりでダンスをするの。 

「プラテーロとわたし」の泣きたくなるかんじ。 ロバってなんであんな哀しくて泣きたくなるのか、わかんないよねえ、とか。

あーとにかくうつくしー、てふつうに素直に言える展覧会だった。 そういうのひさびさ。

8.10.2015

[film] Minions (2015)

1日の土曜日、暁斎の動物たち見て、笑い猫を見て、Brianを見て、ばなーな! を見る。動物たちいろいろ。 あんなにも慈愛に溢れた"Love & Mercy"から究極の悪を探求する邪悪なケダモノにジャンプする。 一応3Dで見たけど、バナナはバナナでしかなかった。

誰もが知りたかったMinionsの起源と生態。彼らはなんのためにどこから来て、どこに向かおうとしているのか。 ちゃんと知りたいひとは、ここから先は読まないほうがよいかも。

まず、この作品の舞台が我々の暮らしている地球であると仮定した場合の話であるが、あいつらは外の宇宙から落ちてきたような連中ではなくて、原始の海でぽわぽわ生まれて浮かんで独自の進化をとげてああなったのだ、ということと、よく話題にのぼる生殖と♀はおらんのか問題、については、別に殖えなくても減らなくてもいいんじゃね(死なないみたいだし)、ていうのと、あいつらのあの挙動を見ただけであれらぜんぶ♂のみと決めつけてしまうのは、そういうふうに見てしまう我々の側にもなにか問題があるのではないか、とか、そういったことはまあそういうもんかも、程度に思うことにして、でもうううむ、と思ったのは究極のワルに仕えることを至上の歓びとする、ていう行動原理があんな昔の最初からある - ということは善悪の判断ができる/をしている、ということで、それってどうなのかしら、例えば当時のでっかい恐竜とかってあの頃の生態系のなかで生きているだけで別にワルを志向しているわけではないよね、とかぶつぶつ考えて、でも漫画なんだし、と深く考えないことにした。

で、時はするすると60年代の後半まで飛んで、生きがいの素となる悪い奴があんまいなくなっちゃってしょんぼりと南極だか北極だかで塊になって籠っているMinionsを救うべくStuartとKevinとBobの3匹が手をあげて立ちあがり、都会に出ていって悪の祭典Villain-ConていうところでScarlet Overkill (Sandra Bullock)ていう超悪漢♀と出会って手下として使ってもらえるように追いかけまわして大奮闘する、ていうのが大筋なんだけどー。

Minion1匹1匹が(グレムリンみたいに)悪いことをするわけじゃなくて、悪い奴の悪巧みの端っこにくっついて、その裏で表でわーわー群れてはしゃいで大騒ぎして、本来達成すべきだった極悪の事態・惨事から逸脱したわけわかんないカオスを作りだす、ていうのが(そもそもの)サブキャラとしてのMinionsの役割であり最大の魅力だった、はずなのだが、「代表権をもった3匹が立ちあがり率先して動きだす」ていうあたりからなんか違う気がして、その違和感が最後まで残ってしまったところがちょっと残念だったかも。

見たかったのはMinionの大群がひたすら無責任にカオスをぶちかましてかき混ぜて収拾がつかなくなるところ - 丁度Gruの悪巧みが一回転して善悪を超えたわけわかんないところに落着してしまうように - だったのだが。

それかー、ひたすらナンセンスの極みをいく - だらだら意味のないことを延々繰り返す - のも期待したのに。 予告編はあんなにおもしろかったのになあ。

音楽は60年代のヒットパレードで、なかなか楽しかった。(音楽に関しては”Love & Mercy"から繋がっていたかも)
Villain-Conの悪の世界に突入するところで流れる"Break On Through (To The Other Side)"とか楽しいし、やっぱしThe Beatlesは最後に”Yellow Submarine"だろうな、と思っていたら(最後だったけど)そうじゃなくて、でも替わりに流れたのはDonovanの"Mellow Yellow”だったの…

つぎは、Minions vs. Adam's Family とか見たいんだけどなー。

[art] 河鍋暁斎

1日の土曜日の昼前、丸の内で見ました。
2日以降で展示替えがあるということで、念のため、くらいで。

『画鬼・暁斎—KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル』

日本画に詳しいわけでも暁斎が大好き、というわけでもないので偉そうなことを言いたくはないのだが、「画鬼」とか「KYOSAI」とか「スター絵師」とか、どピンクのポスターとか、そういう形容や装飾が仮に考証面でみて正しいのだとしても、品がなくてバカみたいだし、なんか恥ずかしい、と思った。

コンドルを前座に置いた暁斎の展示。建築家コンドルが120年前に設計した建物、未だに現役で立派に美術館として使われている建築遺産のなかで彼の絵画の師匠の展覧会をする。 最近のトレンドであるらしい日本/日本人えらい、日本に心酔する外国人だいすき、に全然ノレないものとしては、なんかなー、て思う。べつに「スター」も「弟子」もいらないじゃん。リスペクトしようよ。

暁斎の過去の展示を見たことないので今回のが彼の絵画世界のどの辺をどれくらい十分に/不十分にカバーしているのかわからないのだが、絵はうまいねえ。こういうのって、うまいねえしか言えないのだが。
あくまで印象でしかないが、人物 - 特に男子とか仏神様系のはなんかちゃいちゃい、って適当に描いているような(べつにちゃんと描いてるからいいだろ、な)気がして、逆に女性とか動物とか化け物とかの描き方や構図の集中度合いが違って見える。若冲も割とそういうかんじがして、自身とは異なる形象・色彩への執着だけはなんか異常で。

特にメトロポリタン美術館蔵の動物たち(あんなの展示されてたことあった?)のすばらしいこと。
「うずくまる猿図」「蛙を捕まえる猫図」「蜥蜴と兎図」「栗と栗鼠図」「ぶらさがる猿図」、などなど。
「絵」というよりは「図」。なにかがなにかの象徴や典型や転移として表される「絵」というより、なにかがなにかをしている、なにかとなにかが一緒にある「図」として示されるような世界のありよう - それはそのまま世界と対置可能な様態・形象として、図鑑や図録のようにしてそこにある。

あと、彼の春画のなんともいえないおかしさ - ああいうのを化け物とか妖怪のような変てこななにかとして、「画鬼」というより子供のように描いてみる。その愉しみと笑いと。
でも展示中一番長い列を作っているのが春画のコーナーであるって…

後期はいくかどうか、まだ悩んでる。 あの犬みたいにでっかい猫を見にいくかー。

8.07.2015

[film] Chats Perchés (2004)

みーんなそそのかされちまうつーいついながされちまうけっきょくあつさでまいっちまうだれのせいそれはあれだなつのせい♪

というわけで会社やすんだ。 ふん。

1日の土曜日の昼、アテネフランセで見ました。
これで3週連続、土曜の昼間にアテネに通うことになってしまった。どれだけ異常な夏なんだか。

この週に行われた特集 ”Hommage à Chris Marker”。どれも見たかったのに平日の夕方なんて無理で、せめて土曜日くらいは、と。 
『笑う猫事件』 - 英語題は “The Case of the Grinning Cat”。
日本語字幕付きは初公開だそうだが、ナレーションは英語だった。

2001年の11月、911があって、まだ世界がぐったりしょんぼりしていた時代、人々が下を向くか、それに疲れてつい空を見上げてしまうことが多かったときに、そいつは突然パリの街に現れたの。 にー、て歯をみせて笑うでっかい黄色猫 - 「ムッシュ・シャ」の落書き。 建物の壁とか公園とかいろんな隅っことか端っこ、樹の幹にまで、気づいたらいろんなところにいる。リアル猫が常にそうであるように、どうやったのかいつのまにかぐんにゃりと隙間に入りこんでいる。 誰が描いた? とか、なんのために? なにを訴える? そんな問いを嘲笑うかのように、とにかくそこに笑う猫がいる、それってどういうこと? そこにはとっても重要ななにかがあるのではないか、と。

カメラはそんな落書き猫や地下鉄猫のボレロ、更には古今のいろんな猫 - チェシャ猫からトトロの猫バスまで - を追って、猫的実存を問いかけつつ、フランス大統領選、イラク戦争、スカーフ論争、様々な権力に抵抗する人々、Marie Trintignantを殺してしまったBertrand Cantat、滞在許可証のない移民のために戦った医師 - Léon Schwartzenberg などなどをメディアから切り取っていく。

どんどんヤンキーに暴力的に、やっちまえの世界に変貌していく荒んだいまの世の中に、猫がいること/いないことの意味 - そんなのあるわけねえだろ、と言いつつ思いつつ、いやいやでもでも、いるじゃん猫ほらそこに、ここに、って。

ネット上に猫が溢れかえる現代を10年前に予見していた作品で、なにを言いたいのかというと。
「戦争ではなく猫を」
ということに尽きるのだ。  SEALDsのデモでも言ってやれ。


上映後、門間貴志さんのレクチャー「マルケルの北朝鮮写真集」。

Chris Markerの中国訪問 - その成果は映画 - ”Dimanche à Pékin” (1956) - 北京の日曜日に記録されているが、その後の58年 - 朝鮮戦争休戦の5年後 - に仏中友好会議団のメンバーとして初めて訪問した北朝鮮を撮った写真集の紹介。

第一章の「顔」、第二章の「ふたりの孤児」などなど、そこに我々が知っている今の北朝鮮の姿はぜんぜんなくて、素でのどかで、写真そのものよりもかつての彼らと今の僕らのあいだになにがあったんだろう、あるんだろうー、の方につい想いが飛んでしまうのだった。 日本の昔の写真を見てもそうなんだけどね。 それってよいことなのかしら? どういうことなのかしら?

さっきの猫事件の猫もそうだけど、間違いなく何かを語っているし言ってきているし。
それについてなにかを想起する - こないだの哀悼的想起、でもいいけど、そういうことを目を瞑ってご先祖さまと共におもう季節としての夏。 暑さはいらないけど。

これのあと、渋谷に行ってBrianの映画みた。

8.06.2015

[film] Love & Mercy (2014)

1日土曜日の夕方、渋谷で見ました。
この日公開された音楽映画は2本あって、でもやっぱしこっちからだよね(年寄りは)、と。

既にThe Beach Boysとしての成功を収めて、Pet Soundsの制作に専念するためツアーから離脱することを決めたBrian Wilson(by Paul Dano)と、Dr. Eugene Landy (Paul Giamatti)の管理統制下で「治療」を進めている最中、Melinda (Elizabeth Banks)と会った頃のBrian Wilson (by John Cusak)が交互に出てきて、一方はキャリアの頂点(商業的成功は別として)を極めた後に歯車が狂っていくさまを、もう一方は歯車が壊れて全てがばらけてしまった後、欠片のひとつひとつを拾い上げていくさまを描いている。

あたりまえだけど実話で、欧米のポピュラーミュージックをずっと聴いてきた我々にとって、これは自明の痛ましく辛い過去のお話しであり、他方でこの映画の時代のあと、創作やライブ活動をふつうにこなすことができるようになった現在の彼のことも知っている。 なので、ひどい事故にあったけど今は無事なのだからよかったよねえ、という視点で、ある程度は明るい気持ちで見ることができる。 ある程度は。

映画が描いている方角はふたつあって、病気になって(or ドラッグにやられて)ダークサイドに転がり落ちていく抑圧感たっぷりの暗いやつと、抜け殻の監禁/軟禁じごく状態から愛と光をつかんで這いだしてくるやや明るめのやつと、でも映画のタイトルは”Love & Mercy”なので、どちらかというと明るめ、最後はその光の下で、子供時代から現在までのBrianがひとつに、一人格に統合される。 その啓示をもたらしたものは、Melindaの愛と、音楽( - 明示されてはいないけど)だったと思いたい。- ”Good Vibrations”

なんとなく The Whoの"Quadrophenia" - 「四重人格」をおもいだした。あそこでの人格は「反抗」ていう振る舞いの反復を通して分裂していって、それが"Love, Reign O'er Me"ていう啓示と共に統合される。 こっちは「従順」ていう行動のなかで時系列的に分断・分裂していった自我が"Love & Mercy"のもとで統合される。 前者は海に浮かんで、後者はプールに浮かぶ。

自分がいちばん音楽を聴いていたころ、Brian WilsonていうのはSyd Barrettと同じ、取り返すことのできない音楽史上の悲劇とされていて、だから88年にソロが出たときもすぐにアナログ買って(もちろん、パイドパイパーハウスで。横浜行かなきゃ)、聴きこんだけどなんか矯正感が生々しくて痛ましくて、その後しばらくしてすごくびっくりしたのは、95年頃、夜中にLate Show With David Lettermanを見ていたら突然、彼(と娘のWendy)が出てきて"Do It Again"を演奏したことで、そのあたりからぐいぐいよくなっていって、結局日本でもNYでもLondonでもライブを見ることができた。 "Pet Sounds"も”Smile”も、箱を含めてどれだけ買わされたかわかんないけど、でもとにかく、今は元気だからいい。

で、元気だからいい、というわけではないけど、だからこそ映画では、2度に渡って彼の前に現れた圧倒的強権的な父性とか、レコード業界のどす黒さとか、そういう救いようのない闇に敢えて踏みこんでみる、というのもあってよかったのではないか、とか。
あれは間違いなく悲劇だったし失われたものは決して少なくなかったはず。 これこそが決定版!ていう"Smile"のブートレッグを何枚買わされたことか。 2004年に出ることがわかっていたら、ルイス・シャイナーの「グリンプス」だって、ねえ。

でも、一番たまんなかったのはPet Sounds Sessionのスタジオのとこで、それはそれは幸福をもたらす光景で、これがあるんだからもうぜんぶ許す。 "Jersey Boys"のスタジオシーンの比じゃない。 Hal Blaineがいて、Carol Kayeがいて ... 音楽が天井を突き抜けて降り注ぐんだよ。

もし。 もし"Wouldn't It Be Nice"や"God Only Knows"や"Don't Worry Baby"が作られなかったら、ラブコメのサウンドトラックの世界はどうなっていたか、そもそもラブコメていうジャンル自体が成立しえなかったのではないか、くらいのことは思うよ。

あと、圧巻としか言いようがないAtticus Rossの音楽 - Brianのあたまの中で鳴っている音の雲 - やっぱしさすがだよねえ。

あと、Paul Giamatti、おっかなすぎ。 こないだの”The Congress”ではあんなによい医者だったのに。

8.05.2015

[film] 毒婦夜嵐お絹と天人お玉 (1957)

30日の木曜日の夕方、時間が空いたときにやってたときに京橋でたまたまやってて、タイトルだけで見ることにする。 ジャケ買いみたいなもんよ。

NFCの『特集・逝ける映画人を偲んで 2013-2014』からのいっぽん。

お絹(若杉嘉津子)が女湯でさっぱりして出てきたとこを玄蕃(沢井三郎)がナンパして持ち帰って、兄の岡崎藩主のとこに送り込んで奴を骨抜きにするのじゃ、そうすれば藩はおれのもんじゃぐふふ、て企んで、実際に殿のところに行ってみるとほんとにこいつは只のバカっぽくて、側室集めて尻相撲とかどんちゃん遊んで楽しそうで、これなら無理に毒婦しなくても平気なふうなの。

そもそもお絹がこんなになったわけは歌舞伎役者の中村仙三郎が駆け落ちの途中で彼女を捨てちゃったからで、有名になった仙三郎を偉いひとの側室になった彼女は呼びつけて復讐しようとするのだが、会って見つめあっているうちに憎い憎い、けど…  になってむんむん夜嵐が吹き荒れるの。

で、お玉(筑紫あけみ)のほうは義賊団の頭で、道中で相馬小十郎ていうお侍に出会ってぽーっとなって、江戸に来てから再会して彼とは運命かも、とか思い、芸者に出た先での玄蕃のセクハラにあたまきて、小十郎の狙いも玄蕃を倒すことにあることがわかったので、みんなで力を合わせてこのクソ野郎をやっつけようえいえいおー!になって討ち入りして、殿、目をお覚ましください! このお絹は玄蕃の差し金です! しかも裏で歌舞伎役者と密通してます! とか告発するのだが、こいつらはふたりで互いにかばいあったりめんどくさいのでそのまま追放してやって、そしたら仲良くいいかんじで海辺を歩いていきやがる。

それを遠くから見ているお玉は、結局小十郎とは結ばれなくて、勝ち負けでいうとなんか微妙、恋愛に関しては明らかに負けで、義賊を続けるモチベーションも落ちゃって、でも天人だからがまんする。 それにしても結局バカ殿はそのままのさばるようだし、なんかいけてないオフィス恋愛ドラマみたいなかんじがした。  せめてお絹とお玉がとっくみあい殴りあいの喧嘩でもやってくれたらよかったのにー。

しかし「夜嵐 おきぬ」ってほんとに実在した毒殺犯だったのね。

[film] 怪談昇り竜 (1970)

あつすぎてなんもやるきにならん。

26日の日曜日、昼前に若尾文子の『青空娘』を見ようと新宿に行ったらとっくに売り切れていてあーあ、で、それならセイウチおやじかこっちか、と思って、渋谷に戻ってこっちを見た。どっちにしても青空は遠く、まともな道では生きられないんだわ。

特集『デビュー50周年記念 女優・梶芽衣子』からのいっぽん。

豪雨のなかの出入りで、関東立花一家二代目明美(梶芽衣子)が敵をばさばさ斬りまくっているうち、組長の妹・藍子(ホキ徳田)の目を斬っちゃって、その傷と血をぺろぺろする黒猫の悪夢を獄中で見て汗びっしょり、ていうのがオープニングで、出所して組を仕切るようになってからも、その呪いを裏付けるかのように敵対組とのごたごたのなかで子分達が変な死に方をしていって、だんだん陰謀策謀込みでじわじわ追い詰められていって、やがて敵対組の嫌がらせが叔父(加藤嘉)にまで及んだのにぶち切れて、いくぜ野郎共! おぉー!! になるのだが、敵方には相手組のどす黒い奴らだけじゃなくて、盲目の剣士となって蘇った藍子もいて命を取りにくるし、呪いとか化け猫とかワンピースを着たせむしの土方巽とかうじゃうじゃいっぱい出てくるので大変で、でも背中の竜の刺青にかけてがんばるの。

怪談で、任侠で、妄執・異形の人々たっぷりで、でもグロいだけのとっちらかったどたばたにならなかったのは真ん中に互いの敵としてある明美と藍子のつーんとしたクールさがあるからで、ていうかこのふたりのそういう落ち着いた、研ぎ澄まされた殺気があるが故に、周囲の異形・異物感 - お呼びじゃない感が際立ってすごいのだった。 でもさあ、ふたりともこんなに一途でまじめなのに、なんでやくざの世界で対決してるのかしら?  ていう因果とか。

それにしても、梶芽衣子 - ホキ徳田 - 加藤嘉 - 土方巽ていう、ちょっとアングラだけどインターナショナルな面子のすごいことかっこいいこと。 こういうのこそクールジャパンで売れるし売るべきなのよね。

獄中で契った立花一家の義姉妹さんたちが背中に竜の胴体の刺青して(頭のとこは明美姐さん)、並ぶと一匹の大蛇にみえて、慌ただしい出入りの最中にいちいち整列して隊列をキープするとこが素敵だった。 彼女たちは戦いながらチアして、しかもカメラに背中もみせなきゃいけないから偉いなあ、て。

というわけで、「怪談」なのになんか縁起と威勢がよいかんじがしたの。