6.30.2019

[log] June 2019

6月も終わりなので他に見たり行ったりしたあれこれを少しだけ書いておく。

Harald Sohlberg: Painting Norway

Dulwich Picture Galleryでの展示。Harald Sohlberg (1869 - 1935)はノルウェーの風景画家で、白く浮かびあがった雪山とか星空の下のお墓とか、あまり信仰に寄らないようなところで神々しく広がる風景をドライにぺったんこに切り取っている。特に空の色と壁の色がすばらし。

PBFA Book Fair → Firsts - London's Rare Book Fair

7日の金曜日にホテルの宴会場みたいなところでBook Fair - 古本市があって、Second Shelfも出店するというので行った。金曜の午後、会場内はものすごく穏やかで緩い空気で価格もそんなでもないのが多いのでだらだらしているとEvelynWaughのサイン本とかにぶつかったり(買わない)。

がんばってなんとか持ちこたえて外にでたら別のBook Fairの会場に向かうシャトルバスがあったので乗ってしまった(ふたつのFairの関係はわからず。なんで同じ日にやってるのかも不明)。こっちの会場のは昨年も来たことがある、ヨーロッパ中とかアメリカとかからも古書店がやってくる来るお金持ち収集家向けのFairで、みんな本を買うというより取引商談しているかんじなので、ここではほぼ鑑賞のみ。

こないだ4月にフランスの田舎のトマト箱からVirginia Woolfの最初の小説”The Voyage Out”のVanessa Bell所有本(たぶん)が発見された、ってSecond Shelf界隈でちょっとした騒ぎになったのだが、あれの値段(車買うより安いわよ)を遥かに超えて高額な本とかプリントとかごろごろしている。 Virginia Woolfの古本もやはり”Mrs Dalloway”とか”The Waves”とか”To the Lighthouse”とかの美本になると途端にすごく高額になることを知る。こないだSecond Shelfで”Flush: A Biography”を飛びおりるかんじで買ったのだがそんなのぜんぜん甘いのだった。(でもその後あの店ではFlushが立て続けに売れて在庫なくなる、という珍現象が)

日本では神田の古本祭りくらいしか行ったことなかったのになんでこっちで古本屋に通うようになってしまったのだか。今はレコード屋にいるより新刊本屋にいるより長くなってしまったかも。

Open Garden Squares Weekend

8-9日の週末。 ロンドンの町から名所旧跡と公園を除いたら何が残るかというとほぼお庭と建物で、でもどちらも近隣の住民にしか公開していないのも多くて、普段町を歩いてもいつも柵の外から眺めるしかないのだが、そういうお庭(ぜんぶではない)を2日間だけオープンにするよ、ていうイベントで、建物の方は9月に同様の”Open House”ていうイベントがある。お庭によって土曜日のみ公開、日曜日のみ公開、両日とも、とかあって、£20のチケットで両日の開いているところに入ることができる。

Tate Modernの近所のとかEnnismore Gardenとかほんとに素敵で。普段外から見えなくしているその裏でいろんなお花とかいっぱい育ていて水場とかもあるし、これだからキツネなんかもいるわけね、と。
Ennismore Gardenの正面にAva Gardnerがロンドンで住んでいた邸宅があって貸しに出ているみたいなのだがすごくて。

Writing: Making Your Mark

British Libraryの展示で、象形文字から入ってアルファベットの起源とか印刷の木版、活版とかカリグラフィに墨書きに、なん千年続いてきた人の「書く」という行為に纏わる道具とその進歩とかその結果とかいろいろ、その裾野の広さと広がりも含めて「アート」の営みなんだなあ、と。 James Joyceの” Ulysses”のノートとして記された紙の色付きぐしゃぐしゃがたまんなかった。

FOOD: Bigger than the Plate

V&Aで上の"Writing"と同じようなかんじで始まった「食」に関する展示。 Compostからはじまって蒔いて育てて刈って食べての食にまつわるプロセス全般をアートはどう扱ってきたか、というよりも、これまでいろんな会社や産業がやりたい放題やってきたそれぞれのプロセスをSustainabilityの観点からアートとしてとらえ直してみてはどうかしら? ていう試み。 なんかどっかのコンサル屋の仕事臭みたいのがぷんぷん、でもあるのだが、言ってることはわかる。 一皿の上に乗っかって出てきたものを単においしー、って食べて終わるだけでなく、その皿の外側と背後に広がる時間と空間を想像してみること。 お皿を絵画のフレームのように捉え直して考察してみること。 そういうことが求められているの、とっくに。

Mary Quant

V&Aの”Christian Dior: Designer of Dreams”はいまだに大人気みたいだが、いつものファッションコーナーでやっているこちらの展示もよいの。 自分の昔のMary Quantを着た年配のご婦人が娘とか孫と一緒に来て、展示物を指して、ほらこれでしょ? とかって写真撮っているの(数回みた)。

Canterbury Cathedral

22日の土曜日、東方の町、カンタベリーに行ってみた。電車で1時間強(通勤圏?)。ここを含めて世界遺産3つ。
映画 - ”A Canterbury Tale” (1944)のかんじを求めて行ったのだが、大聖堂は改修中だったし陽射しが強すぎてあんまかんじ出なかったかも。 でもSt Augustine's Abbeyの廃墟感とかSt Martin's Churchのお墓とか、たまんないねえ。
川とかきれいでカモがいっぱいいた。 カンタベリーのロックとの関連は、やっぱしないわよ。

Fred Frith + Steve Beresford + David Toop


29日、土曜日の晩、Cafe OTOで。 Fred Frith先生の生誕70周年お祝いで3日間連続ライブが行われていて、共演者は毎日違うのだが、この日のこれが一番年寄り向けぽかったので。
先生を最後に見たのは00年代のKnitting FactoryでのMassacreか、中野かどこかでのSoloだったか、どっちだったかしら。

真ん中に大学の先生みたいにFred Frith、左手に西洋の聖職者みたいなSteve Beresford、右手に東洋のお坊さんみたいなDavid Toop。 Frithさんはいつものようにギターを寝かせて立たせて上から金物圧したりじゃらじゃら鳴らしたり、Steve Beresfordさんはエレクトロニクスとプリペアドピアノ、David Toopさんは、小さいエレクトリックギターと管楽器と。 たまにふつうにギターを抱えていると変なかんじに見えたり。 休憩を挟んでたっぷり1時間半、年寄りの耳をやさしく包んでくれるがりがりノイズだった。


一年のはんぶんおわりかあー。

6.28.2019

[theatre] Les Damnés

24日、月曜日の晩、Barbican Theatreで見ました。 “The Damned”。

バンドのThe Damnedのライブではなくて、Luchino Viscontiの”The Damned” (1969) - 『地獄に堕ちた勇者ども』 - この邦題さあ…  の舞台化。 演出のIvo van HoveはこれまでViscontiの”Rocco and His Brothers” (1960), “Ludwig” (1973), “Obsession” (1943) -『郵便配達は二度ベルを鳴らす』– Jude Law主演のこれは2017年にBarbicanで見た – を舞台化してきていて、これが4つめとなる。

演じるのはComédie-Françaiseで、2016年のアヴィニョン演劇祭で初演されたもの。 ロンドンに彼らが来るのは20年ぶりだって。 Comédie-Françaiseは96年にBAMで見て以来の。

むきだしでがらんと殺風景なステージは後ろに大きなスクリーンがあって、全体にリハーサルスペースのよう(Ivo van Hoveのいつもの)で、少し高くなった左側には衣装コーナーとか化粧台とか長椅子があって、同様に少し高くなった右側には蓋の開いた棺桶が6つ、ステージ中央の一番前には骨壺と蒸気の笛(誰かが亡くなるたびに遺灰がここにくべられてピィーって鳴り響く)があり、最初に登場人物たち、彼らをライブカメラでシューティングする人たちも含めて軍隊のように勢揃いする。背後では耳奥を圧する重轟音が。

背後のスクリーンには時折30年代のドイツの世相や情景を映したフィルムが投影され、そこにステージ上で俳優たちが演技する姿をライブカメラで捕えた映像が被さり、さらにこれにAR的なエフェクトも加わり、時折カメラは俳優たちだけでなく客席にいる我々も映しだす。 上映言語はほぼフランス語なのでスクリーンの上には字幕スクリーンもあり、客席の我々は俳優の演技、スクリーン、字幕、少なくともこれらを追うし、ステージ上の俳優は客席に向かう演技とカメラに向かう演技のふたつを選り分けたり慌ただしい。他にも本来ナチス台頭期のドイツの一族のドラマをフランス人俳優たちがフランス語で演じるとか、半狂乱のSophieが客席の上の方から劇場の外(まだ明るい)にまで飛びだしていくところを延々追っかけるカメラとか、舞台のありようを異化して脱臼させるいつもの仕掛けは、こないだの”All About Eve”よりも”Obsession”よりも派手で大掛かりなかんじ。

ドラマはナチスドイツの勢いが増してきた頃、鉄鋼で財をなした富豪のEssenbeck家が家の存続と権益の確保のために(嫌々ながら or 企みをもって)親族の深いところまでナチスとの関わりを強めていって、結果としてひとりまたひとりと裏切りや密告や脅しなどなどにより圧殺、自壊、自滅していくどろどろをノンストップで描いていく。 特に女帝として一族を操るSophie (Elsa Lepoivre)の底なしの情念と堕ちるところまで堕ちていく息子のMartin (Christophe Montenez)の悶えっぷりあがきっぷりは凄まじく、最後にMartinは血まみれ素っ裸になって一族全員の遺灰を頭からかぶって仁王立ち、機関銃をこちらに向けてくる。

幕間はないのだがストーリー区切りの手前で処刑されたり自殺したりで棺桶に入る人々は、入るときはおとなしく死んでいるのだが、その蓋が閉じられて笛が鳴ったあと、しばらく棺桶のなかで苦悶し絶叫する(当然誰にも聞こえない)さまが棺桶内カメラで映しだされて恐ろしいったらない。それがライブであることも。

あとは長いナイフの夜事件での男たちの裸踊りとか、フィルム上の焚書のシーンで読みあげられる作家たちの名前 - ジィド、プルースト、ジョイス、ドストエフスキー、トルストイ、カフカ、ブレヒト、ベンヤミン、等々(他にもいっぱい、好きな作家ばかり)とか、全体として凄惨で情けも救いもどこにもなくて、身も凍るような場面の数々も、この舞台がまだリハーサル現場のような建てつけであることによって、かろうじて救われている。他方でこれを「リハーサル」であり、だから「救われている」とする根拠なんてじつはどこにもありゃしない、と。

独裁・寡頭化と密室政治が横行して気がつけば棺桶の傍とか自分が掘った穴の底にいて、手に取るようにわかるレミングの、破滅の構図、って歴史絵巻でもなんでもなく、いまのにっぽんそのものだわ、って。 われわれはEssenbeck家じゃないから、ってみんな言うかもだけど、その時点でもうしんでるんだから。

Comédie-Françaiseの役者さんたちは、ほんとにすごい。字幕を追わなくても声の出し方や抑揚でそれがどこに向かう誰の(虚偽の、真の)言葉なのかがすぐにわかるし、それに反射する動作の速くて滑らかなこと、そのエネルギーの総量ときたら。

音楽はシュトラウスとか当時のがかかったりする反対側で、Rammsteinがばりばりの大音量で、ここで鳴らなくてどうするの勢いでぶちまけられる。Comédie-FrançaiseでRammstein、なんてかっこよいことだろう。

また見たい、けどもう終わっちゃったのか。

6.27.2019

[film] Toy Story 4 (2019)

23日、日曜日の昼、CurzonのVictoriaで、元気いっぱいの多様なガキ共にまみれて見ました。

Toy Storyの1は未見、2は部分部分をTVで見ただけ、3は飛行機で見てぼろ泣かされて覚えてろよ、だった。子供たちの思い出そぼろにまみれて、彼らを喜ばせるために存在するおもちゃと愛されることに失敗したおもちゃの衝突を軸に、変わっていく愛と変わらずに残る愛や思い出、家族と巣立ちとかが壊れたり捨てられたりしたら終わりのおもちゃ目線の切なさやりきれなさたっぷりと共に描かれていた。あんなのずるい。

前作の最後に持ち主はAndyからBonnieに変わって、幼稚園に行くことになったBonnieなのだが、人見知りの激しい彼女をToyのみんなは心配していて、そしたら彼女はプラスティックのフォークスプーン(sporkっていう)で”Forky”ていう友だちを作ってきて、でもこいつは自分のことをゴミだと思っているのですぐに自分からゴミ箱に飛んでいく(他のゴミもみんな彼を見習えばいいのに)し、Bonnieに愛されるということがよくわからない、慣れていないらしい。

WoodyとかみんなはBonnieにとってなくてはならない存在のForky – でもこいつにとってBonnieはそうじゃない - のことが心配で、家族旅行の途中でForkyはどっかに飛んでいっちゃったので、Woodyは彼を探しに出て、そこで昔の仲間だったBoと三頭羊とか射的の屋台で吊るされていたDucky(黄色)とBunny(緑)とか、アンチーク屋で人形のGabby Gabbyとかと出会って..

ストーリーの展開とか決着のつけ方についてはあんなもんかなあ(3 ほどごりごり泣きながら絞めてくるかんじはない)なのだが、Toy – おもちゃの概念をこじ広げようとしているようなとこって、すごいな、と。 つまり、これまで出てきた”Toy”って基本はおもちゃ屋で売られていたある程度完成された商品だったわけだが、子供が自分で作ったようなやつ - 今回のForkyはわかりやすいけど、場合によっては石ころとか缶からとか、しょうもないのもいっぱいあるだろうし、Ducky & Bunnyみたいに遊園地にいるみんなのためのやつ - これ、かぶりモノとかは入るの? とか、決定的なのは持ち主からはぐれてノラになったようなToyって、それでもToyなのか? 答えはYesで、子供たちを癒したり喜ばせたりすることができて、そこに自分たちが自覚的になった以上、彼らは”Toy”で、”Toy Story”を語る資格があるのだ、と。

これ、こないだの”Pet 2”にも同様の傾向はあって、サーカスにいた奴とか農場にいる奴とか、人間 – 特に子供の周りにいて彼らと一緒に思い出作りに加担するようなあれこれは、なんでも取りこんで包囲網を作って拡大再生産して売るよ、みたいなDisney根性ときたらすごい。 あとついでに、そいつらを受けとめる子供の頭のなかはどうなってるの? っていうと ”Inside Out” (2015)が既にあったりする。

こういうのを見て育った子供たち、こういうのを見て感動してきちゃった親たちが育てる子供たちがどんな大人になっていくのか、ぜんぜんわからないし興味もないのだが、彼らが次の世界を担っていく(←こういうのすごくやだ)のであれば、世界はこういうのだけじゃないとっても悲惨で野蛮で残酷で無意味でしょうもないのもいっぱいある、ということをわかって貰えるとは思えないけどわからせるにはどうしたらよいのかなあ、って。 既にとっくに自分たちの見たいものしか見ない見たくない、それがなにか?  になっちゃっている子達に対して。 まあいいや、だけど。

で、Randy Newmanの音楽は今回もそういう地点で冷たく暖かく鳴っているの。

Ducky & Bunnyで、スピンオフやってくれないかなあー。

6.26.2019

[film] Thunder Road (2018)

20日木曜日の晩、Prince Charles Cinemaで見ました。 なぜか35mmでの上映なのだが、ものすごく陰影がきれいに撮られているのでよいかんじだった。

監督/主演はJim Cummings、この名前をふつうにサーチすると『くまのプーさん』の声優さんが出てくるのだが、この人とは別人で、2016年に撮った同名の短編映画がSXSWでShort Film Grand Jury Prizeに輝いて、この作品はそれをベースに長編として引き伸ばしたものだという。

冒頭、警官のJim (Jim Cummings)は、自分の母親の葬儀でめそめそ泣き虫まみれの弔辞をして、そのなかで母親が大好きだったBruce Springsteenの"Thunder Road"を彼女が自分にどんなふうに歌って踊ってみせたかを再現しようとするのだが、ラジカセが壊れて動かないので癇癪起こして大惨事になり、それを動画に撮られて娘のCrystalと別居している妻のRosalind (Jocelyn DeBoer)は困惑するしかない。(元の短編はこの部分を撮ったものらしい)

母親の死によって加速されたのか元々そうだったのか不明だが、子供みたいにあたまに血がのぼると自分でなにやっているのかわからなくなって自爆していくJimの勤務先での同僚とのやりとり、現場で思いっきり踏みこんだら犯人が自殺しちゃったり、離れて暮らしていて何されても痛くないCrystalとのやりとり、Crystalの教師とのどこまでも噛みあわない変な議論、これらの一見笑えそうで、でもほんとうに笑ってよいのかよくわからない微妙な温度感のあれこれが、勤務中の挙動が問題になって警察をクビになり、同僚の友達からは呆れられ、Rosalindからは離婚を切り出され、法廷ではJimを暴力的性向ありとする判事との間でへまして全てを失っていったり、Jimはどうなっちゃうのか。

予告も宣伝もどたばたコメディふう(ちょっとだけ涙)なかんじだったのだが、あんまし笑えなくて引き攣ってしまうようなのばかりで、単に「大人になりきれない大人子供」のギャグ集で済ませてしまってよいのか、ひょっとしたら”First Reformed” (2017) - 『魂のゆくえ』のような果てのない彷徨いを描いたもの、くらいの重さをもったものではないのか、とか。

終盤、Jimは葬儀には来れなかった姉に会いにいって、生前の母のエピソードを聞いたりして、それで放心して戻ってみたらRosalindがドラッグで突然死んでしまって… ていう激しいアップダウンが最後まで。

“Thunder Road”の歌詞の世界、なのかもしれないがこの曲をカバーしたBadly Drawn Boyがサントラをつけた”About a Boy” (2002)のことも思いだしたりして、歌詞でいうとこの辺あたりかしら?;

    - Show a little faith there's magic in the night
    - You ain't a beauty but hey you're alright
    - Oh and that's alright with me

最後まで“Thunder Road”の曲そのものが流れることはないのだが、アメリカ南部にいくらでも転がっていそうなあんまぱっとしない人たちの間に星空のように降り注ぐイメージがこのタイトルを置くだけで素敵にやってきて、笑ってじーんとして、みんながんばろ、になる、今どき珍しいかんじのドラマだった。

ところで、主演のJim Cummingsと妻を演じたJocelyn DeBoerさんは別のコメディドラマでも夫婦役をやっているのだが、そいつはまだ書くことができないの。

[film] Death Becomes Her (1992) : Drag Show Bitch-along

BFIで進行中の6月の企画”Playing the Bitch”、特集されている映画の方はぜんぜん見れていないのだがBitchってなんなのかしら? ていうのをぼーっと考えている。時間があったらちゃんとリサーチして纏めてみたいくらい。なんでか? - はあんま考えてないけど。
その関連でふたつ。

An Attempted History of the On-screen Bitch

15日の土曜日、BFIであった60分くらいのトークで、今回の企画のプログラマーのAnna Bogutskayaさん(ホラー映画を紹介するThe Final Girlsのメンバーで、この人のセレクションは信頼できるの)がいくつかの映画のシーンを上映しながらBitchが起動するtypicalな瞬間を紹介していく、というもの。

クリップとして紹介されたのは、“Baby Face” (1933) ~“The Women” (1939)  ~ “Dangerous Liaisons” (1988) ~ “The Last Seduction” (1994) ~ TVドラマの”Dynasty” (1981-)  ~ 同様にTVから”American Horror Story” (2011–)。 言及があったのは “Carmen Jones” (1954), “All About Eve”(1950)  “Body Heat” (1981),  “Cruel Intentions” (1999),  “Heathers” (1988) とか。

映画の中で適正にBitchを位置づけるのってなかなか単純じゃないかんじなのだが、いっこ印象に残ったのは、映画のなかで「正しい」ものとして描かれた「女性像」の反対側 - 男からすれば複雑でわかりにくいところ - にBitchはいる、っていうのと、例として出てきたクリップの中だと、”Baby Face”でBarbara Stanwyckが都会に出るときにニーチェを読み聞かせるおじさんから言われる “Exploit yourself! Go to some big city where you will find opportunities. Use men! Be Strong! Defiant! ..” ていうあたりが正にそれ、って。

Death Becomes Her (1992) : Drag Show Bitch-along

21日、金曜日の晩にBFIのBitch特集でみました。
“Bitch-along”とあって、”Sing-along”は「みんなで歌おう」上映会だから、これは「みんなでビッチしたれ」ていう主旨の普通ではない上映なのだが、映画も見たことなかったし、どんなのか知っておいてよいかも、とチケット取ってみた。他に同様のBitch-along”をやっている映画としては、Prince Charles Cinemaでやっている”Mean Girls” (2004)があったりする。

入口でMeryl Streepの顔がついてる厚紙のお面 – “Team Mad”とGoldie Hawnの顔がついてるお面 – “Team Hel”のどちらかを貰う。お面の裏側には映画の中でのそれぞれの立場での攻めどころとかつっこみどころが書いてある(でも結局誰もその通りには動かなかった)。客層は女性ばっかり、というほどではなくて男性も結構いて埋まっている。

最初にプログラマーのAnna Bogutskayaさんが映画の紹介をしようと檀上にあがっていつものように喋り始めると「ちょっとまておらあー」と割れ鐘のような怒号が響いてMCのドラァグクイーンのBaby Lameさんが現れ、なあに気取ってんのよあんたBFIがなんぼのもんよ、みたいにどつきまくってAnnaさんをステージから追いやり、自分のテーマ曲みたいのを歌いあげて、客席を少しいじって(この映画見たことない子〜?  あらあらほんと救いようないわねあんた、とか)、ルールの説明にはいる。ルールは3つ。 1. Make Noise! 2. Have Fun! 3. Don’t Be an Actual Bitch!! で、Team MadのよいこはGoldie Hawnが出てくるシーンで彼女をくそみそ言っていいし、Team HelのよいこはMeryl Streepを野次りまくっていいのよ、って。 こいつ、ドラァグクイーンていうよりナマハゲだよな、て思う。

あとは、今宵はMerylの70歳の誕生日だから彼女にお誕生日のプレゼントとしてメッセージ送りつけてやりましょ、ってみんなしてスマホでお祝いメッセージ撮って、みんな知らないと思うけどこの映画は93年のオスカー獲ってるのよ、でも主演女優賞はなんでか”Howards End”のEmma Thompsonに行っちゃったので視覚効果賞で。”Alien3”と”Batman Returns”を抑えて。でもやってることといったらMerylが若返るシーンで彼女の乳を後ろから付き人の子がUpするとかそんなもんなのよ。とか… (実際のシーン、たしかに..)

映画のほう、邦題は『永遠に美しく…』。上映が始まってからも、Baby Lameさんはずっとステージの隅でマイクを抱えてつっこみ入れまくってて、激しいシーンになるとばたばた走り回って煽って、客も負けずにすごいことを言いまくる。

78年に女優のMadeline (Meryl Streep)と作家のHelen (Goldie Hawn)の友達同士がいて、Helenの婚約者で美容外科医のDr. Ernest (Bruce Willis) をMadelineが落として横取りして、Helenは落ちこんでぶくぶくになって、92年、”Forever Young”ていう本を出したHelenはぴかぴかに蘇って復讐モードで、落ち目のMadelineはなんで? って追ってみるとLisle (Isabella Rossellini)の怪しいお屋敷にたどり着いて、そこで小切手を切って彼女のクスリを飲んでみるとHelenと同じように若返って、でもErnestに近づいたHelenはMadelineを殺すように仕向けて..

若さと美への執着が生き残りをかけたどろどろの争いにまで広がっていくのだが、永遠の、死なないボディに行きついてしまうと 今度はなんかすべてどうでもよくなって.. 
たしかに憎悪むきだしで殺し合おうとするふたりのサマはBitch全開なのだが、ふたりの間にいるBruce Willisが無傷で逃げ切るのは許せないし、ちがうんじゃないか、って。 今の世だったら案外アウトかも。

監督はRobert Zemeckisなのだが、彼の女性の体パーツ – バラバラ - に対する拘りって、最近の”Welcome to Marwen” (2018)にも出てきたような..

という、なかなかたのしい金曜の晩だった。

6.25.2019

[film] Men in Black: International (2019)

16日、日曜日の夕方にPicturehouse Centralで見ました。

Will Smithがランプの精になっちゃったので再起動されたやつ? 最初はエッフェル塔でHenry - H (Chris Hemsworth)とHigh T (Liam Neeson)がなにかに向かって突撃しようとしているその瞬間とBrooklynの自宅で小さい頃のMolly (Tessa Thompson)がエイリアンに遭遇するところが描かれて、そこから20年くらい経ってMollyはFBIに優秀な成績でパスしてMIBの部署に行かせろっていうのにシラを切られたのであたまきて本部の建物に潜りこんだら捕まって、HeadのEmma Thompsonに試用してやるからまずロンドンに行け、って言われて、電車に乗ったらもうロンドンでHenryとかに引きあわされる。

Henryにいろいろ手ほどきを受けつつエイリアン友達のいるクラブに行ったら怪しい双子にそいつを殺されてなんかを奪われちゃったのでそのブツを追ってマラケシュ行ったり海辺の武器商人のとこ行ったりインターナショナルに動きまわるの。そうやって掘っていくうちに明らかになってくるHとTの過去とか、やっぱし最後にやってくる地球の危機とか。

タイトルも宣伝もいかにも消化試合みたいにてきとーなかんじがしたらやっぱしそんなふうで、元のシリーズが持っていた宇宙から落ちてくるいろんな脅威を迎え撃つわくわく – どんな変なのやばいのがくるんだろ - はあんまなくて、インターナショナルていうくせに狭い身内組織のごたごた - 怪しいのはどこの誰? - みたいのに終始してて、これじゃ”Fantastic Beasts”シリーズとかこないだの”Pokémon Detective Pikachu”とか既存のご当地化け物シリーズとあんま変わらないかも。謎解きみたいなとこに関していうと、最初の方でなんとなく怪しいやつわかっちゃうし。

じゃあ少なくとも”Thor: Ragnarok” (2017)でなかなかのコンビネーションをみせてくれたChris HemsworthとTessa Thompsonのふたりはどうかというと、確かに悪くないけど、ふたりが揃ってかっこよくどんぱちやる絵があんまないのと、”Thor”のときは彼女が上に立って堂々と仕切っていた、あれがよかったのになー。なんかとっても惜しいの。せっかく素敵なふたりなのにさ。

黒のスーツと秘密兵器で星空の彼方からやってきた魑魅魍魎をクールに始末して後には何も残さない、っていう基本形が、人知れず懐に忍びこんでいた何かとの戦いってなった途端にクールじゃなくなっちゃう、だってそんなの普段の生活にだっていくらでもあるしいるし戦ってるんだもの。

しかし、こないだの”Late Night”でもEmma Thompson の部下の女子の名前は”Molly”だったねえ。偶然かしらねえ。

もうじきのSpider-Manといいこれといい、無理してロンドンに来なくていいよ。しかもBrooklynとかQueensとかの奥地からさー。

あと、決定的なところを言うと、パグが足らない。もっとパグ盛って。

6.24.2019

[film] You Can Count On Me (2000)

16日、日曜日の午後、BFIで見ました。日本ではビデオリリースのみ、だって。こんなにおもしろいのにさ。

上映前のイントロでMatthew Broderick本人が登場するというので、そりゃ行くわ、になった。なんで彼が突然現れたかというと、彼はいま(~8月迄)West Endで本作の監督Kenneth Lonergan原作の演劇 “The Starry Messenger”に主演しているから(演出はSam Yates、共演はElizabeth McGovern。そのうち行く)。  まあ日曜の午後にFerris Buellerがやってくるのであれば、会いに行くのは当然よね。

イントロというよりは座って少しお話ししてくれて、Kenneth Lonerganとは高校が一緒で15歳くらいのときから互いに知っていて、大学に進んだあともNYの演劇サークルで顔を合わすこともあって、だからこの、彼の長編監督デビュー作に出るのも二つ返事だったし、演技で彼が求めていることもだいたいわかるし、とか。 そうなんだー、しかない。

NY郊外の田舎 – Catskill – 昔一度だけ行ったことある – で冒頭、車に乗っている夫婦が交通事故にあうところと、自宅でふたりの帰りを待っている子供たち - 姉弟 - とそれに続く両親のお葬式があって、やがて子供たちは大きくなって姉のSammy (Laura Linney)はシングルマザーで、銀行に勤めながら一人息子のRudy (Rory Culkin – これがデビュー)を育てていて、ある日弟のTerry (Mark Ruffalo)が訪ねてくるのだが、彼はずっと不良でふらふらしていたのであまり歓迎されていなくて、近況を聞けば少し刑務所に入っていたとかいうので姉はあんたなにやってんのよ!てしばいて、でも女友達が自殺未遂したり悲惨で、他に行き場もないようなのでしばらく置いてあげることにする。

Sammyの勤める銀行には新しいマネージャーのBrian (Matthew Broderick)が来て、はじめ人あたりは良さそうだったのだが、Rudyの送り迎えでこれまで許されていた勤務時間の調整をぜったいダメ、って言ったりPC画面の色を勝手に変えるな、とかいちいちネチネチ絡んできてなんか面倒なかんじでやってられない。それとは別に昔から付きあっているBFのBob (Jon Tenney)と情事を重ねたりしているといきなりプロポーズされてびっくりしたり。

お話しはなかなかしっくりいかないSammyとTerryの姉弟仲と、ごろごろしつつ家の修繕したりプールバーに行ったりしているTerryとRudyのやりとりと、SammyとBobの関係に加えてなぜかいきなり関係が始まってしまった(ここ、おもしろ)SammyとBrianの間とを追いながら、悩んだSammyは教会に告解に行ったり(牧師役は監督本人)、ほぼみんないい大人なのになかなか互いに信頼されず・できずにずるずる悶々と同じサークルを回っている人々を描いてとってもおもしろい。

放蕩息子の帰還というテーマだと最近の”Manchester by the Sea” (2016)に近いかもだけど、あれよりはやや軽くて、笑えるところもいっぱいある。最後のほうでTerryはRudyに実の父親 - Rudy Sr. (Josh Lucas)を見せてやろう、って会いに行くのだが..

細かい会話を積み重ねていくなか、そこに突発的な事故や事件をねじ込んだりしたらその関係たちはどんなふうに影響を受けて、その前後でそれぞれの会話のありようはどう変わっていくのか、を少し離れて眺めているかんじのKenneth Lonerganタッチは既にあって、改めて”Margaret” (2011) – 3時間バージョンの方を改めてみたいよう。

俳優陣はこないだ見た”In the Cut” (2003)よりも更に若くて漲っていて、Rudyと一緒になって笑ったり泣いたりどっちが大人なんだか、のMark Ruffaloは既にじゅうぶん彼になっているし、Laura Linneyのひきつってとんちんかんでおろおろ勝手に転がっていってしまう挙動も素敵としか言いようがなし、Matthew BroderickのFerrisが180度暗転したかのような隙のない嫌な奴っぷりは彼ならでは、だと思った。

まったく同じキャストで20年後の彼ら、を撮ってくれないかしら?  “You Can Still Count On Me” って。

6.22.2019

[music] King Crimson

18日、火曜日の晩、Royal Albert Hallで見ました。生誕50周年記念ライブのロンドン公演3 days のDay1。

彼らを最後に見たのは95年のTHRAKのツアー(あああ、もういちいち言いたかないけど干支2回転だよ)、NYのTown Hallで、前座はCalifornia Guitar Trioだったのだが、彼らはいま、元気にしているのかしら?

ドラムスが3人フロントにいて、Mel Collinsがいて、初期の曲とかも割といっぱい演奏している、というと、これで最後かもしれないとか思うし、少しは見たくなるじゃん?とか。

ところで歌っているのは誰? と会場で買ったパンフを見るとJakko Jakszykとあって、このJakkoって昔Dave StewartとかとやっていたあのJakko?と思ったらそうで、少し親近感わいた。でも初期の曲では特に感じたけど、Vocalなあ、Greg LakeもJohn Wettonもみんな故人なんだねえ。

万事がこんなふうなので、THRAK以降の曲ってまったく知らずわからず、死んだように宙を見つめてて昔の曲だけに反応する年寄りでいいや、と(周りもそんなのばっか)。  なので第一部では”Epitaph”でおうおう、って目覚めて(墓石に躓いて目覚めて)、そういえば1stって洋楽を聴きだした頃、その最初期の一枚で一生懸命に辞書をひいて、”Epitaph”とか”Schizoid”とか調べてPete Sinfieldの世界を掘ってみようとした – あれも40年くらい前なのかー、と思い、えええーするってえと自分が聴き始めた頃って、まだ1stが出てたった10年しか経っていなかったの? … oh my … ていう雑念にどしゃどしゃばたばたしたドラムスが心地よい。もっともっとひっぱたいておくれ。

前に聴いたときはDouble Trio編成で既にじゅうぶんにやかましかったので、今回の3 drumsにはあんま驚かない。過去のすばらしい打楽器奏者たち - Michael Giles, Ian Wallace, Jamie Muir, Bill Bruford – を見てもわかるように、このバンドのひとつの功績として打楽器のリズムがもたらす規律と野生の交雑によるダイナミクスを最大限に引き出した、というのがあって、とにかくこれらは虫みたいに鳥みたいにやかましくてよくて、その藪のなかにMel Collinsがぶっとい筆致で横槍を刺してくる快感。

初期と最新の作品との間のギャップについては、シュールレアリスム風の幻想絵画から入って途中で表現主義絵画に転換し、しばしの沈黙の後に抽象画家として再起動して更にやけくそのように抽象度を高めていった、そんないそうでいなさそうな近代画家みたいなもんだと思っている。そういう人(たち)の回顧展としては割と俯瞰しやすい構成と流れだったのではないかしらん。

第二部では”Cat Food”(猫飯)が来たのが嬉しくてにゃーにゃー鳴いた。”Moonchild” ~ “The Court of the Crimson King”は1stのB面ぜんぶだねえ、って思うとじーんときたり、”Starless”のドラムスはやっぱりシンプルにひとつのがいいな、あれじゃStarlessじゃなくて流星群みたいじゃん、とか。

アンコールの”21st Century Schizoid Man”は、もちろん悪くないしGavin Harrisonのドラムソロもがんばっていたと思うけど、やっぱり自分にとっては”Earthbound”のがなあー。

Nick Caveのとぶつかって諦めたDay2のセットには、思っていたとおり”Larks' Tongues in Aspic”が第一部の始めと終わりをサンドしていてこっちの方が好みかも、だったのだが、いいの。 当日券で行こうかどうしようか直前まで悩んでいたDay3のセットはそんなでもなかったので少し安心した。

なんというか、(自分だけかも知れないけど)騒々しい太鼓囃子とは離れて、この40年とか亡くなっていった人々とかどこかに行ってしまった人々とかが通り過ぎていくのを眺めているようなライブで、(演奏されていないのに)”I Talk to the Wind”がどこかから聴こえてくるようだった。

でも、結局のところは、猫飯にありつけておいしかったにゃー、って。

6.21.2019

[music] Conversations with Nick Cave

19日、水曜日の晩、Barbicanで見ました。

この日のこれはRoyal Albert HallでのKing CrimsonのDay2とチケットが被っていて(ひとごとみたいに言うなどっちも自分で取ったんだろうがボケ)、祝50周年のKCの方をDay1 – Day2と連続で見た方がよいのではないか、Nick CaveがHenry Rollinsみたいにべらべら喋っているだけだったらつまんないしな、と思っていたら彼がピアノを弾いて歌っている画像があって、歌ってくれたりもするようなのでならこっちに行ってみようか、と。

客席ひとつひとつには彼が昨年始めたなんでも相談プロジェクト- The Red Hand Files(知らないやつはGoogleしな、だって)の絵葉書が置いてあって、彼のモノクロのポートレートの裏側には「なんでこんなイベントをやるの?」というQに対するAが書いてある。
ざっと訳すと;

『ここには私が今まさに発見しようとしている何かがある。私には聴衆とのオープンで率直な対話から価値あるものが産まれるという直観があって、すべてをナマ(raw)で裸(naked)で本質的ななにかに戻したくて – ここにはなんのセーフティーネットもない - どこかで自分のコントロールを超えたことだって起こりうる無謀な実験みたいなものだし、なにが起こっても許される親密さに支えられた自由奔放な冒険でもある。私はこれが聴衆とのつながりをさらに深めてくれることを願う。 とにかくworks in progressなのでよろしく!』

このライブはThe Red Hand Filesの延長として、ネット経由ではなく対面で会場の観客ひとりひとりからの質問を受ける。 互いにとってとてもおっかない (terrifying) 経験かもしれないけど、やってみたいんだ、と始めに説明がある。

会場は彼がBad Seedsとのライブをやるようなサイズのよりはだいぶ小さくて、客席を見渡して質問する人の顔が見える距離感の箱 – Barbicanは3階まであるけど – で、ステージ上にはグランドピアノが一台、それを囲むように特別席に招待された(?)ファンたちが座っている。こんなふうなのでチケットはあっという間になくなって、これから予定の会場も見ればほとんどSold Outしている。

開始の20:00きっかりに電気が落ちて、彼が詩”Steve McQueen”を朗読するテープが流れるなか、いつものようなスーツ姿でNick Caveが現れてピアノの前に座って”God Is in the House”を朗々と歌いだす。 マイクいらないんじゃないか、というくらいにでっかい声。

弾き終わると客席側の電気が点いてハンドマイクを手にしてThe Red Hand Filesについてとなんでこういうことをやることにしたのかの説明(上述)があり、簡単なルール - 質問したいひとは近くにいる蛍光棒をもったひとに合図して、マイクを貰ったら待ってて、こちらからランダムにあてていくから – を伝える。仕事関係のイベントみたいにあまりに颯爽と冗談みたいにさばさばてきぱきしている。べつにいいけど。

質問が向かう先は当然彼の創作を中心とした彼の頭のなかにあることあったことだし、質問する方は彼の熱狂的なファンばかりなので質問内容も固定されてきているように思えて、だからもう死ぬことが見えたときに聴きたい曲だという T. Rexの”Cosmic Dancer” – Marc Bolanはすばらしく稀有なソングライターだと思う – とか、その後の人生をまるごと変えてしまった曲 - Leonard Cohenの”Avalanche” には譜面が用意されてて他の会場でもやっているみたい。

進行は2-3の質問に答えてからマイクを置いてピアノに向かって1-2曲歌って、を繰り返していく。歌う曲は質問の内容とか答えに関係したものをその場で選んでいるもよう。

質問にも出てきたし何度か語られたgrief(悲しみ、悲嘆)について、数年前の彼の息子の死に触れながら、これはもうなにをどうしてもどこにも行ってくれない、ずっとそこにあるもので、いまだにどうしてよいかわからない。だからgriefを乗り越えることについて自分はアドバイスできないけど、あるものだよ、って。 同様に宗教についても、特定の宗教に依拠して崇めることも否定することもしないけど、神っていうのもそんなふうにいるよね、って。

普段の生活は起きて着替えてワイフにキスをすると自宅の部屋(オフィス)に籠って晩までずっとThe Red Hand Filesに返信したり創作したり、だから会社員とおなじようなものだと。映画 - ”20,000 Days on Earth” (2014)で描かれたのはフィクションだからね、って。

創作の快楽について、ふたつに隔たって存在しているセンテンスなりコンテキストなりの飛び地の中間になにかがぐつぐつ産まれてくるプロセス – “simmering”って言ってた –から数日かけて何かが繋がってでてきたときの快感がたまんない、これがあるから創作はやめられないんだ、と。

質問者から「こないだのライブであなたがすぐ近くに来た時に目があったんですけど..」と言われて、うん、憶えてる。君とは目があったはず。自分はfront row - 目の前にいる人の目を常に見るようにしている。そうするとそこに何かが生まれる気がしているから。 この辺、Bonoとかは逆で、彼はいっつも一番遠くにいる人を見ようってがんばるけど、自分は目の前の人に寄っていく、と。(勿論Bonoをけなすつもりはなくて、彼とはよい友達だよ、って)

masculinityとfemininity、misogynyについて、自分の歌のなかには言葉使いも含めてmasculinityとかmisogynyぽい要素とか暴力とかそういうシーンがたっぷり入っているのでそう言われることも多いのだが、自分のなかにどちらかに傾斜するようなところは全くないよ、と。

ドラッグについて聞かれ、自分はヘロインを20年近くやってきて、最初の10年はよかったけど、後の10年は(そこから抜けだすための)地獄があって、今のドラッグの問題の根幹はドラッグが違法とされていることにあると思う、って。(ここで合法化したポルトガルの例を)

既に死んじゃった人でもよいので、デュエットしたい人とその曲は? にはElvisと“Stagger Lee”かな、って。(そうして”Stagger Lee”を演奏)

何度も繰り返し見てしまう映画は”The Hunchback of Notre Dame” (1939)  -『ノートルダムのせむし男』だって。
あの映画のCharles Laughtonはすばらしいよ、と。

「Brexitについてどう思いますか?」と聞かれて、Brexitに対する自分の思いはたまに揺れたりすることがある - ある時はMost Worstだと思い、ある時にはNearly Worstだと思う、って。(拍手)

長くなったので切るけど、まだまだ一杯あって、とにかく観客の熱さもそれに対する彼の反応もいちいち面白くて、時間が経つにつれ、彼がこんなふうに聴衆と直接の対話を始めた、ということと、彼の音楽やライブのスタイルがきれいにひとつになっていくようだった。自分はミュージシャンなのだから自分のすべては音楽とライブのなかにある、とにかく聴いて、という人がいるのはわかるけど、Nick Caveはそれだけでは我慢できなかった。 それは自分の言葉をなんとしても届けたいと願う切実な(or 絶望した)詩人のそれなのかもしれないけど、とにかくとんでもなくエネルギーを使うことだろうし、こんなのこの人にしかできないことだねえ、と思った。

弾き語りはどの曲もとんでもなく力強く、”Avalanche”に続いての”The Mercy Seat”のすばらしさとか、ものすごくよくてびっくりしたのがGrindermanの”Palaces of Montezuma”だったり。”The Mercy Seat”についてはRick RubinからJohnny Cashがこの曲をカバーしたいって言ってると電話を貰ったときの反応(自演)とかおかしくて。

たぶん、あそこにいた殆どの人がNick Caveの誠実さに打たれて、彼をもっともっと好きになったのではないかしら。

2時間40分びっちり、あっという間だった。

6.20.2019

[film] Aladdin (2019)

14日金曜日の晩、Leicester Squareのシネコンで見ました。 なんか評判よさそうだし、程度で。

SOHOでもまだミュージカルやってて人気みたいだけど見たことなくて、92年のアニメーション版も見たことなくて、魔法のランプとか空飛ぶ絨毯のお話しでしょ、程度。あとディズニーだからいろんなクオリティは保証されているのよね – かったるいのであんま考えたくないしー ていう泣く子には菓子でも食わせとけ、程度の投げやりなあれで行く、ていうのはまさにディズニーのやり口にはまってしまった典型ではないのか、でも..    以下えんえん。

最初のシーンは隣を滑っていく豪華そうな大型帆船を見つめていいなー、ってやっている小舟に乗った子供たちにお父さん (Will Smith)がお話してやろう、って言うの。で、お話しはお猿と一緒に下町を闊歩しているスリのAladdin (Mena Massoud)はお城からこっそり抜けだしてきたおPrincess Jasmine (Naomi Scott)と出会ってぽーっとなるのだが、お前は違うだろってJafar (Marwan Kenzari)に捕まり、魔法のランプを探すのじゃ、って洞窟に連れてこられて空飛ぶ絨毯に会って、ランプも見つけて、擦ってみたら煙とともに青塗りの巨人Genie (Will Smith)が現れて3つ願いを叶えてやるよ、っていうのでまずはPrinceになってPrincessを、て言ったら"Prince Ali of Ababwa"に変態して行進しながら姫の元に現れることができて幸せが見えてくるのだが、Genieはそんなに好きならそんなウソつかないでちゃんと言えば、てアドバイスすると、うるせえよって微妙なかんじになって、そうしているとJafarがランプを手に入れちゃって..

冒頭からパパが子供に聞かせるファンタジーていうタグが付いているのでもっと好き勝手に暴れちゃっていいのに、と思うのだが、思っていたほどに世界は広がらなくて、JasmineがほしいAladdin、自由がほしいJasmine、権力がほしいJafar、願いを叶えるのが仕事ですのGenie、の四者&猿 vs 鸚鵡、が壮大な風景(祝祭空間、とかいうの?)なかで小突きあいをしながらいろいろ学んでいく、そんな程度で、曰く、ひとのなかみは職業や身分で決まるものではない、ウソついてもすぐばれるのよ、ランプの精はなんでもできるわけじゃないのよ、とか。 で最後には自分にとって、というよりも互いにとって大切ななにかを発見して、それは決して富とか権力ではないし、言うことなんでも聞いてくれる召使でもないし、わかってるよな、って。

女性に対する目線、アラビックなエスニックなヒトとかモノに対する配慮、貧しい人たちに対する配慮、モロッコのようなイスタンブールのような街の風景に対する配慮、などなどいろんな心遣いがてんこ盛りで、ああでもこれってディズニーのいつもの誰に向かっているのかはわからないけど結局は白人客層向けのあれなんだろうな、て思うと冒頭の小舟もディズニーランドのアトラクションにあるやつにしか見えなくて、あーあ。

なのだがそういうのをてきとーに蹴散らしておらおら、ってやってくれるのがWill SmithのGenieで、昔の – “Bad Boys”とか最初のMIBとか90’sの – 彼が持っていた無軌道なノリが復活していたのは嬉しかった。 彼の軽いステップやくねくねダンスは閉じ込められること、縛られることとそこから自由になることはどういうことなのか、を教えてくれる気がして、この映画に希望があるとしたらそこかも。 最後はあんなおっさんになっちゃうにしても。

Jasmineのトラ、いいなー。 もっと暴れてほしかったのになー。

6.19.2019

[music] Thurston Moore Ensemble

13日、木曜日の晩、Café OTOで見ました。

告知のあたまにはなにがそうなのか知らんが”Surprise Show”とあって、突然アナウンスされたやつなのかしら? お代は£18。

今はロンドンに住んでいるようで、Café OTOではいついってもなんかいたり演ったりしているふうのThurston Mooreさんだが、これは12弦エレクトリックギターを中心にしたアンサンブルのライブで、DrumsがSteve Shelleyさんだったので行くことにした。他のメンバーにはMy Bloody Valentine / Primal ScreamのDeb Googeさんとかがいて、だからかBobby Gillespieが客席にいたり(あれ彼よね? どうみても)。

前座なしの2部構成で、最初のセットはこのアンサンブルが秋にリリースしようとしている新作 – “ALICE MOKI JAYNE” - Alice Coltrane, Moki Cherry, Jayne Cortezの作品にインスパイアされたもの – である(とThurstonから説明があった)。

Deb Googeさんだけ6弦(ベースじゃなかった? たぶん)、Thurstonを含むあとの4人は全員12弦で、1時間10分くらい延々、緩急とか濃淡をつけながらノンストップで、12弦のクリアに広がっていくトーンとがじゃがじゃ目の細かいヤスリの音と削りカスが床を埋めていくので、ギターの音好きにはたまらない気持ちよさ。終わるかに見えて終わらない波が数回来て頭の奥がじんわりとマヒしていく快楽。

ゆるい休憩を挟んでふたつめのセットは、”8 SPRING STREET — an homage to Glenn Branca”ていう、これも一曲のみで、このアドレスはGlenn BrancaがNYで最初に住んだアパートがあったところで、Thurstonも彼のGlenn Branca Ensemble のリハでよく通った場所だという。Spring St.がBoweryに突き当たる手前のとこで、自分もBowery Ballroomのライブに行くときに何度も通ったなあ。 いまあの辺の家賃はどれくらいなんだろうねえ。

こちらのギターは全員6弦で、前のと比べるとシャープでメタリックなかんじではあるが、なんにしてもこの気持ちよさは異様だよね、だった。


Rolling Thunder Revue: A Bob Dylan Story by Martin Scorsese (2019)

音楽関係で、終わらない夢のようなやつ、ということでついでに書いておく。

15日土曜日の晩、Prince Charles Cinemaで見た。 前の週にBFIでpreviewがあったのだが売切れで無理で、他の映画館ではやってなくてここだけ。NetFlixで見れる、のだろうがこんなのでっかい画面のでっかい音のがいいに決まってるし。 142分だったけどぜんぜん足らない。もっと。

たんに当時の映像を繋いだだけではなくて、現在のBob Dylanが当時のことを振り返りつつ語るかたちを取っているのだが、75-76年のRolling Thunder Revue自体がでっかいサーカスのような、からから回っていくいんちき劇団のような体裁で動いていたものだからどっち側の言い分も極めて怪しいかんじで、あれの総体がなんだったのかはちっともわからない。だからといってつまんないかというとその逆で、バンドの音も彼の歌もちらっと出ては消えていくいろんな人たちも全て全員が強烈に印象に残ってリアルで、もっと見せて.. と思ったときには次の場面に移っている。夢みたい、というのはこういうときに。

初めのほうでPatti SmithがEric Andersenと一緒にどこかバーの隅っこで”Archers Song”を吠えるとか、Joni Mitchellが床に座ってつっかえたりしながらDylanとRoger McGuinnに”Coyote”を聴かせるとか、子供のような(子供だけど)Sharon Stoneとか、見つめ合うDylanとJoan Baezとか、ただの怪しいおじさんにしか見えないAllen Ginsbergとか、編集してないやつぜんぶ見せろ、になってくる。

タイトルに”by Martin Scorsese”てついているのは、この中にも出てくる自称”Film Maker”のMartin von Haselbergがいつまでもきちんとした形でリリースしないで俺がやった自慢ばかりしているものだから、Martyがお前もういいからちょっと貸せや、って自分の剪定バサミでざくざくじょきじょきやっちゃった、そういうことなのではないか。 ほんとうはほぼ同時にリリースされたBox set(CD14枚)と同じくらいの分量で出してくれたってよかった。 そういう、撮るほうも撮られるほうも音楽「ドキュメンタリー」としてあろうとした、稀有な音楽ドキュメンタリーなのだと思った。

それにしても今とはぜんぜん違う怪しい目つき(+白ぬり)、声のハリ、歌い方/喋り方、佇まいのBob Dylan、とにかく彼を見てほしい。

最後の方で当時のプロモーターが収支はめちゃくちゃだった、って腹立たし気に言うとこが痛快で。
ロジとか快適さとか思い出作りがぜんぶ計算されてパッケージされた温室みたいなフェスに出るのが夢になっちゃっている現代のミュージシャンたちがかわいそうになるくらい、彼らの野生のかっこよさが際立ってさー(嘆)。

エンドロールで、Dylanの現在までのライブ履歴がぜんぶ出るのだが、本当にライブのなかで生きている人なんだなあ、って。

日本では一番最初に、ぜったい爆音のお祭りでぶちかましてほしい。

[film] Anders als die Andern (1919)

少し前にBFIのワイマール映画特集で見たのを3つ。 検閲をくらったフィルムたち。

Kuhle Wampe, oder: Wem gehört die Welt? (1932)

1日、土曜日の夕方に見ました。 英語題は“Kuhle Wampe or To Whom Does the World Belong?”
監督はブルガリアのSlatan Dudowで、一部の脚本と監督をBertolt Brechtがやっていて、音楽はHanns Eisler。

冒頭、若者たちの集団が自転車に乗ったりして機械のように街を行ったり来たりして、そこに新聞の失業者5百万人、の記事が被さり、彼らはみんな職探しをしているのだがどこ行っても仕事はなくて、そのうちひとりの若者は自宅に戻って家族と食事をすると腕時計を置いて窓から飛び降り自殺してしまう。残された彼の妹と家族はアパートを追われてKuhle Wampeていう失業者キャンプみたいなところに身を寄せて、妹はそこでFritzていう男と知り合って子供ができるのだが、彼は結婚するのを嫌がって...

当時のドイツの最下層(かどうかは不明だけど)の人々の生活 –職探し~絶望~自殺~宿なし~恋愛(&妊娠)~相手逃げる~旅は続く~ の出口なしの日々をドキュメンタリーぽく描きつつ、でも、だから最後は連帯を! っていうの。

当時の政府からは当然のように公開禁止をくらい、修正版も同様になって、でもこうして見ることはできる。日本もそのうちこうなっちゃうのかもうなっているのか。 この映画みたいな若者ではなく老人たちみんなが。


Das Lied vom Leben (1931)

次の2本は7日金曜日の晩に見たやつ。”The Little Foxes”に続けて。
英語題は”The Song of Life”。サイレントではなく音楽も台詞も入っている。監督はロシアの演劇畑からAlexis Granowsky。

お金持ちの貴族のところにお嫁に行くことになった女性が豪勢にお祝いして貰っても相手が入れ歯であまりに気持ち悪いじじいだったので絶望して港に走っていって身投げしたところを若い船乗りに救われて介抱されて、ほらごらん世界はこんなにいろんな生き物がいて輝いているんだよ、って、そのうち赤ん坊ができて難産でもなんとか乗りきって、ぼくらはみんな生きている~ ♪ みたいになるの。冒頭の虚飾まみれの都会生活から後半の地球とか大自然の描写へのジャンプがすごくて、でもこんなのでも帝王切開の(を思わせる)シーンがあるからって上映禁止になったのだそう。

あと、台詞で息子よ、とか言ってるけどあれ女の子だし、カバって言ってるけどあれサイだし。

最近のTerrence Malick映画の源流はこの辺なのかも、って思った。

Anders als die Andern (1919)

英語題は“Different from the Others“。サイレントで、世界最初のゲイ - ホモセクシュアルを描いた映画とされていて、公開当時の検閲では当然ダメ、になりナチスによって焼却処分になって、それでも残された断片を繋いで - 静止画と文章で補足する箇所は多々あるものの – 見られる状態にはなっている。

名の知れたヴァイオリニストであるPaul Körner (Conrad Veidt)がいて、ヴァイオリニストとしての彼に憧れる若者Kurt (Fritz Schulz)が彼に個人レッスンを請うたら受けいれられて、レッスンをしていくうちにふたりは親密になっていって、Paulを紹介されたKurtの両親はふたりの仲のよさが心配になって医師に相談したりするのだが、医師(この人は後の方でも何度か出てきて観客に訴える役割)はこれは異常でもなんでもなく、自然にあることなのです、と説得したのでふたりは公園とかでも手を繋いで仲良くしたりしていると、それを陰からみていたごろつきのFranz(Reinhold Schünzel)が裏でPaulを脅迫するようになって、やがて。

Paulの幼少期の回想とか、そこでも医師が男子が同性を好きになるのは異常ではないことを説いたりするのだが、最後はやっぱり悲劇で、ドイツのParagraph 175 - 同性愛を禁止する刑法(1871-1994 - ついこないだまであった) - が示されて終わるの。

ドラマとしてきちんとしていて演技もすばらしくて、こういうのでも破棄されてしまうんだねえ、ていうのと、この頃から戦いは続いているのねえ(でも負けるわけにはいかない)、ていうのと。

6.17.2019

[film] Late Night (2019)

11日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
Mindy Kalingさんが脚本書いて出演もしている待望のコメディ・ドラマ。おもしろいよう。

Late Showって、米国独自の文化だと思うのだが、東海岸だと23時からNewsがあって、その後の23:30くらいからだいたい1時間、ホストを中心にゲストとのトークとか軽い余興とかがあって音楽ゲストが締める。一昔前だとCBSでDavid Lettermanが、NBCでJay Renoがやってて、最近だとCBSはStephen Colbertで、NBCはJimmy Fallonで、寝る前にへらへら笑ったり音楽聴いて痺れたり(ゲストすごいし)、これを月~金の晩に見て土曜日はSNL、ていうのが割とふつう(だと思う)の会社員の帰宅後の生活で、番組ごとに性格も違うので視聴者層も違っていて、わたしはずっとDavid Letterman見てて、今も出張で行くとJimmy Fallonは見る(だいたい途中で寝ちゃうけど)。 こいつらがたまにすごく恋しくなったりする。 (英国にもJames CordenとかGraham Nortonとかトークショウはあるけど、やっぱ米国のそれとはちょっと違ってエンタメショウの色が濃いかんじ)

Katherine Newbury (Emma Thompson)はそんな長年続いている深夜のトークショウのホストで、固定客はいるけど最近の視聴率の伸び悩みとかライタールームに男性しかいないこと(女の女嫌い)を言われたりしたので、やりゃいいんでしょ、みたいに投げやりに女性ライターを入れることにして、そうして面接に来たのがペンシルベニアの化学プラントで品質管理をやっていたMolly (Mindy Kaling)で、ライター経験なしだったのだが、とりあえず数入れておけばいいか、程度で採用されて、男性ばかりの部屋に放りこまれ、パワハラ炸裂(ライターを名前ではなく数字で呼ぶ)のKatherineとの間で孤軍奮闘していく話と、Katherine自身にも若手コメディアン(Ike Barinholtz)に交替する話が持ちあがったり、病に苦しむ夫(John Lithgow)のことがあったり。

Non-Whiteでその世界での経験もないMollyは、新鮮なネタが枯渇して下り坂で女嫌いのトークショウホストを蘇らせることができるのか、ていうのが中心で、これってノリとしては80-90年代に割とあったようなお仕事サクセスコメディのそれのようで、あんま新鮮味はないのだが、はじめに衝突があって、でもなんとか踏んばって、先が見えたと思ったらぜんぶ潰れて、でも...   みたいな王道の展開を小気味よいコメディに纏めあげてしまったMindyさんは改めてすごいと思った。

現役の女性トークショウホストとしては誰もが知っているEllen DeGeneresさんとかがいて、そういう最強の人たちがいることは承知の上で、彼女とは全く異なる深夜枠番組の司会者の像を作ってみせて、それをEmma Thompsonさんは、あたしよあたし、みたいに颯爽と細やかに演じてみせて、スキャンダルの危機を乗り切るところなんて息をのむしかないの。なんてかっこいいことかしら。Katherine NewburyもEmma Thompsonも。

ふだんいろんな人に囲まれて慌ただしくて強くて元気だけどちょっと緩むと裏ですぐめそめそして、という”Love Actually” (2003)の彼女みたいなKatherineの横にMollyがいる、その絵だけでとにかく最強なふたりのかんじ。

それにしても、ライタールームにいるライターの人たちって本当に大変そうだよね。ネタは新鮮じゃなきゃいけないしマンネリもだめだし、寝る前に不快にしたらだめだしPCはもちろんだし、録画とはいえ事故にも備えないとだし、それを毎日やっているなんてさー。

そして“I, Tonya” (2017)や“BlacKkKlansman” (2018)で最凶(高値安定レベル)のぼんくらを演じていたPaul Walter Hauserさんがライタールームにいるの。 それだけですごいチームだわ、って。

人事とかパブリシティとかであたま抱えている会社はMindyさんに相談したらきっとたちどころに解決してくれるのではないかっていう気がする。

6.16.2019

[film] Dark Phoenix (2019)

8日、土曜日の午後、”All My Sons”に行く前にPicturehouseで見ました。 これも家族の話か。

オフィシャルタイトルに”X-Men”が入っていないのはオリジナルのX-MenだったLogan/Wolverineが全く登場しないから? で、これはひとつ前の”X-Men: Apocalypse” (2016)で古代エジプトから現れた最強のミュータントをひねり潰してしまったJean Grey (Sophie Turner)のお話し。

幼い頃のJeanが両親と車に乗っていたとき、癇癪起こして車ごと両親を潰してしまい、その後Charles Xavier (James McAvoy)に拾われて彼の学校で育てられて、今やミュータントも社会的に認知されるようになった頃、スペースシャトルが宇宙で動けなくったのでX-Menみんなで救出に向かい、宇宙飛行士全員を救いだせたと思ったらまだ一人残っていて、それを救いにいったJeanは謎の太陽フレアみたいなのを全身に浴びて、みんながさらばJean..  て思ったのに生きて戻ってきて、でも前となんか違うかんじがして、自分のエモをうまくコントロールできないようで、自分の生家で死んだと思った父親と再会した彼女はあれこれ堪えきれなくなって..   で、どうしよう、ってみんなで悩んだり泣いたりしながらどかどか戦うの。

他方でJeanを襲ったフレアと関係ありそうなエイリアンが地球に降りてきて、Jessica Chastainさんの身体その他数名のを乗っ取って、こいつらはJeanに近づいていく。

あたしって何?/誰?に取りつかれてしまったJeanはミュータントのコミューンを作っているErik (Michael Fassbender) のところにもふらふらと向かい、そんなつもりなかったのにやはりひと暴れしてしまって、今や軍や警察もミュータントやっぱりダメ = 脅威、になって、Charlesのチームはみんな拘束されて、Jessica ChastainはJeanを自分達の側に引きいれようと近づいていって、Jeanは、ミュータントは、地球の運命やいかにー、になっていくの。

これまでは地球のミュータント同士の小競り合いとそこに絡んでくる国とか軍との軋轢が中心だったのに今回のは地球外からも来て、でも上からわらわら降りてきて空中戦になるのではなく、John Carpenterの人体乗っ取り横滑り方式で来るのでミュータントと見分けがつかなくてあれなのだが、いろんなのが水平方向にぶっ飛んで刺さったり散ったりしていく走行中の電車内外でのバトルはなかなかおもしろかった。

自分とは何者なのかを正しく認識できないものは自分のパワーもコントロールできないので危うい、ていうだけの話なのかもしれず、それって90年代初という今作の時代設定からするとまったく間違っていないのだが、その辺の気付きを恋人ぽいScott (Tye Sheridan)すら与えらえなくて、ひょっとしたらJessicaさまが.. ていうのもあったのだがそれすらもなくて、やはりこのシリーズの核であるWolverineと正面から対峙してほしかったかも、とは思った。 収拾つかなくなるからやめたのだろうけど。  あと、こういうのって、”Dark”とは違うかんじはするのだけど。

で、結局最後にはすごいパワーが大放出されて …  みたいのでいいの? 最近の女性のスーパーヒーローたちってみんな、Wonder WomanにしてもCaptain MarvelにしてもJean Grayにしても最後にはエモ炸裂で全てを解き放て! で、ごーって地球外のやつらも含めて焼け野原にしてしまうのだが、そういう描写のしかた・されかたって、そろそろ誰かなんか言ったほうがよいのでは、とは少し思う。

前のシリーズの締め - “The Last Stand” (2006)もJean Grayで(あ、”Days of Future Past” (2014)ていうのもあったか)、いちおう今回のメンバーでのX-Menは終わりだそうで(そうするとまた半端なDeadpool問題が.. )、次のはAvengersの方の世界と緩やかに繋がっていってほしいな。ディズニーだから考えてはいるんだろうけど。

どうでもいいけど、Tye Sheridanさんて、今回のでも“Ready Player One” (2018)でもほぼずっとゴーグルしているからなかなかわかんないねえ。

これもどうでもいいけど、Jessica Chastainさんのヒールも業務上の要請、ということでよいの?

6.14.2019

[music] Bikini Kill

10日、月曜日の晩、Academy Brixtonで見ました。
今週はずっと雨で寒くて、2階の無指定椅子席だったので早く行って暖かくなりたい、と思ったらみんな思いは同じなのか入口はものすごい混みっぷりだった。トラッドパンクもいればトラッド活動家もいれば母娘みたいのもいる(そうよねえ..)。前の週にBFIで”The Little Foxes”見た時も同じ列の女性が「来週はBikini Killだわ!」って言ってたし、要はそういう連中だって、ふつうに来る。

彼女たちのライブ、90年代には見ていないの。ライブは割と頻繁にやっていたのでいつでも見れるよね、と放っておいたら解散していた。だからライブって見れるときに行っておくことよ。 Le Tigreは大好きになって何度か通った。

再結成後のツアーでアメリカから出て最初のライブ。Brixton 2 Daysの初日でsold outしていた。
いちごのポスターがかわいくて、欲しくなったけど物販はイモ洗い状態だったので諦め。

前座の一番手はChild's Poseていう女性ヴォーカル入りの4ピースパンクで、とにかくヴォーカルの彼女のキノコ髪頭が色といいシェイプといいパーフェクトなキノコ(シイタケ系)ですばらしくて見惚れた。

二番手のBig Joanieは、黒人の女性4人が横一線に並んで、ドラムスも立ってフロアタムとスネアとシンバルだけ、音数は少ないし性急ではないし、淡々と歌うところにコーラスが被さるだけなのだが、絶妙に重くて暗いテンションが底のほうで渦を巻いてて、なにこれ? になった。注目したい。

Bikini Killが登場したのは21時20分くらい。元気に準備体操をして”New Radio”から。これまでの米国でのセットは”Carnival”か”This is Not a Test”始まりだったので、やや趣が違うものの、音としてはどこから入ったってシンプルにがんがんいくしかないやつなので、ふんふん、て。スタンディングの真ん中へんは(上から見ると)すごい状態で、年寄り中心の2階でも立って踊っているひとは結構いた。

たまにTobi Vailがヴォーカルを取るときに担当楽器が変わったりするものの、それでも大勢に影響なく、ちぎって投げるようにじゃかじゃか流していって、怒涛の”Rebel Girl”で全員が拳ふりあげて本編おわり。ステージの方にはブラジャーとかが飛んでいた。

アンコール2回いれて90分くらい、Kathleen Hannaさんのおしゃべりパートを除いたら正味は60分なかったかも。

フェミニズム流行ってるから今回の件でもいろいろ言われるけどちーっとも関係ないし、なんでもかんでもフェミニズムに落とすのっておかしいだろ、Anti-Abortion Lawの件なんてフェミニズムとなんの関係もねえわボケ! とかそんなかんじの。

2回目のアンコールの“For Tammy Rae”の前に、2017年11月、NYのKitchenでのThe Raincoatsのイベント – これが今回の再結成のきっかけになった – に触れて、あの時に3人で音を出してみて、これだ!って。パンク・リバイバルとかノスタルジーとかそういうのは一切ぬきで、自分たちがライブで出す音にやられて、またライブやりたいって心底思ったのだ、と。

ということなので、今回のライブはよいの。これ限りになったとしても構わない、そうであってもここまで音が生きているのであればー。

そして、Sleater-Kinneyは来年の2月かあー。

6.13.2019

[theatre] All My Sons

8日土曜日の晩、Old Vic Theatreで見ました。最終日の最後の回で、例によってチケット取るの忘れていたら全く取れない状態になってて、例によってそれが最後の日になぜか釣れてしまうというー。こんなふうに突然釣れると週末の予定が狂ってしまうのだが。

1947年のArthur Millerによる3幕からなるお芝居。邦題は『みんな我が子』。 Arthur MillerとTennessee WilliamsとEugene O'Neillの作品- 20世紀のアメリカを描いた作家たちの - は見れる限り現代の演出家による現代のキャストで見たいと思っていて、でもそんなこというならシェイクスピアだってチェーホフだってイプセンだってさ…(うんと時間があればな)

会場のOld Vicは、2010年の6月、仕事で来ていたときにSam Mendes演出の”The Tempest”を見て以来、9年ぶり..

演出はJeremy Herrin、ちなみに米国の初演時の演出はElia Kazan(彼に捧げられた戯曲でもある)。
いま丁度NYでも同じ演目を上演していて、こちらはKate役にAnnette Beningが。

セットはJoe Kellerの家の裏庭、ソファがあってベンチがあって近所のひとも気楽に立ち寄って無駄話ができるような居心地のよさがあって、右手に前夜の嵐で折れたリンゴの木(亡くなった息子のLarryが植えたもの)がある。 まず登場人物全員が客席に背中を向けて立っていて、前方のスクリーンには切れ切れのビデオ映像のなかにいろんなアメリカのイメージが流れ、それが消えるといつの間にか一軒家がそこに建っている。という冒頭。

町の名士であるJoe Keller (Bill Pullman)とKate Keller (Sally Field)の老夫婦がいて、息子のLarryは先の戦争で行方不明になっていて、弟のChris (Colin Morgan)はかつてLarryの恋人だったAnn Deever (Jenna Coleman)と結婚したいと思っている。
Joeは戦時中、戦闘機のシリンダーを作る工場で工場長をしていて、そこで製造された欠陥部品が原因で飛行機が落ちて21名の兵士が亡くなり、でも裁判では彼の部下に罪が行って、彼自身は罪を免れてひっそり暮らしている。そしてAnnはそこで彼の罪を被ったSteve Deeverの娘であることも明らかになる。

休憩を挟んだ2幕目以降は、隣人たちやふたりの結婚を阻止すべくやってきたAnnの兄George (Oliver Johnstone)も交えてJoeのやったこと、その責任の取り方を巡る井戸端裁判のような口論が延々なされていくのだが、勿論裁判のように明確な白黒が出るわけではなく、あの戦時下のあの晩、JoeとKateはどうしてあのような行動を取らざるを得なかったのか、それを許したのは誰で何で、今もそれを許せるのは誰で何で、今も許されないのだとしたらその理由は.. などなど容赦なく、複数の声のエモと論理と倫理がひとつ鍋に入れられて涙と苦悶と絶望が振りまかれて、やがて ...

これは『セールスマンの死』と同様の、ずっと一家の柱として家族を支えてがんばってきた昔気質の男が持ちこたえられなくなって崩れ落ちてしまう悲劇だと思うのだが、彼をそこまで追いこんでしまった力のありようって、デマやフェイクが当事者から離れたところで拡散されて炎上して、誰もがその責任や落としどころを無邪気に求めてくる今の世界 - “Social” のそれとどこかで繋がっている、というかあの時代からずっと流れてきているなにか、なのではないか。

そしてJoeがそのために亡くなり、後を託そうとしたその先が”All My Daughters”でも、”All My Fathers”でもなく、”All My Sons”である、ということ。

寝癖が跳ねあがった短髪で破れ鐘の大声で喋る(たまに何言ってるのかわからないくらい)Joe - Bill Pullmanと、ちいさくてカーディガンを羽織ってせかせか喋って今にも壊れそうなKate - Sally Fieldの組み合わせはふたりであれこれ背負い込んでいる感たっぷりでなんかたまらなかった。

あの後、AnnとChrisは結婚して、その子供が男の子だったらLarryと名付けられて、今はJoeよりももっともっとおじいさんになっているばずだねえ。

6.12.2019

[film] Gloria Bell (2018)

8日の昼、CurzonのBloomsburyで見ました。公開翌日、ほぼ初日。

“A Fantastic Woman” (2017)のSebastián Lelioがこれの一つ前に撮った”Gloria” (2013) - 『グロリアの青春』(未見)を自身で英語版にリメイクしたもの。

Gloria Bell (Julianne Moore)はLAにひとりで暮らしてて、とうに離婚していて、子供たちふたり - ヨガのインストラクターをしているAnne (Caren Pistorius) - スウェーデン人のサーファーの彼がいる – と妻に出ていかれてひとりで赤子の面倒をみているPeter (Michael Cera) -  はもう独立していて、そんなふうだけど心配するほどではないので、まずは自分よ、って70年代のヒットばかりがかかるダンスクラブでひとりで踊ったり歌ったりしていて、そこでArnold (John Turturro)ていう、彼自身も離婚している男と出会って仲良くなる。

Arnoldは絵の具玉でシューティング戦争ごっこをする用のパークを経営していて、離婚した妻やふたりの娘から頻繁に電話がかかってくるので少し距離を置いて注意深く付きあっていくのだが、Peterの誕生日のパーティに呼んであげたのに彼女のEx-夫がいるだけでむくれて勝手にいなくなるとか頭にくることもあったりして、連絡を取らないでいるとストーカーみたいに電話攻撃してきたり、なかなかうまくいかない。

他にも情緒不安定で叫んでばかりのGloriaの近隣の部屋の男とか、気付くと部屋に来ている猫(いいなー)とか、緑内障で死ぬまでずっと目薬ねとか( - なかまー)、子供ができたので彼のところに旅立っていくAnneとか、あーあーなことも結構あって、車のなかでひとり歌ったり、集団で大笑いするセッション(こっちでもたまに路上でやってるの見かける)とかいろいろがんばってみるのだが、きっと少し愛が足らないからだ、というのは自分でもわかっている。

こうして最後にいちかばちか、意を決してArnoldとLas Vegasに旅立つのだが..

これの予告 - フロアで掛かっているLaura Braniganの”Gloria”にあわせてGloriaが小声で歌っていると寄ってきた男性に「踊りませんか?」と誘われて「いえ、ありがとう」と返すとこ – ここだけでああこういうJulianne Mooreを見たかったのよ、と思い、実際その希望は結構かなえられたのだが、でもまじめに辛そうなところも結構あって、そんなのふつうに誰でもあるようなやつでは、と思うものの、でもなー、とかうじうじしていたら最後のとこでものすごくすっきりして、よかったー、になった。  “A Fantastic Woman”にも少しだけあった、あんなシーンが。

それなりにがんばって死なずにきて、社会的にもいろいろ言われなくてすむくらいの年齢とか位置とかまでなんとかきて、もう自分の好きなことやっていいんじゃないか、と思ってはみたものの… ていうよくあるやつで、かといってそれなりの体裁ってもんもあるし”Young Adult” (2011) のCharlize Theronほどに若くもないのでやさぐれるわけにもいかないし、ていう投げやりと倦怠と緊張の行ったり来たりでもううううんざりだわ!っていう張力がJulianne Mooreのあの柔らかい微笑みの裏側で充満したり萎んだりを繰り返していく、それだけでうっとりしてしまう。

これが日本にくるとまた(捏造された)女の幸せ強化強要キャンペーンになっちゃうんだろうな。「ほっとけ。もう構うな」っていう映画なのに。 想像しただけで吐きそう。

音楽はひとりで歌っても楽しい昔のこてこてヒット曲ばっか(それ以外のオリジナルはMatthew Herbert)で、楽しいのだが、もうちょっとだけ時代を手前に寄せて、でもあからさまに恥ずかしい80’sヒットみたいなの(をかけるところはいっぱいある)まで行かない曲とかかけるとことか、あったら喜んで行くのになー、とか。

この次は、これと同じ軽いかんじのをMarion Cotillardさんで見たい。

6.11.2019

[film] The Little Foxes (1941)

7日、金曜日の晩、BFI で見ました。 ここの6月の特集で”Playing the Bitch”ていうのが始まっていて、その中の一本。 特集のイントロにはBette Davisさんの言葉 - ”When a man gives his opinion, he’s a man. When a woman gives her opinion, she’s a bitch” があって、そうよね、としか言いようがなくて、他方で上映作品リストを見るとそうかなあ?みたいのもあるのだが、いろんなBitchがいるしあってよいのだということで。

元はLillian Hellmanによる戯曲で、Broadwayでも当たったお芝居をHellman自身が映画用にも脚色したもの。邦題は『偽りの花園』。監督はWilliam Wyler、撮影はGregg Toland。 痺れるくらいにすごいやつだった。

米国南部のお屋敷に暮らすRegina (Bette Davis)がいて、彼女のふたりの兄弟Benjamin (Charles Dingle)、Oscar (Carl Benton Reid)と共に金と財力に飢えていて、Oscarの妻Birdie (Patricia Collinge)の実家の資産とか、シカゴの資産家からの投資とか、Oscarの息子のLeo (Dan Duryea)とReginaの娘のAlexandra (Teresa Wright)との結婚とか、いろいろあてにしたり画策したりしてみてもうまくいかず、やはり心臓の病で離れて療養しているReginaの夫のHorace (Herbert Marshall)を狙え、ということでAlexandraを遠くまで迎えにやって、なんとか屋敷に連れ戻してくる。

連中の汚れた腹と企みをじゅうぶん知っているHoraceは首を縦にふらず、そんな病弱の夫に対してReginaは容赦なく責めたてる(あんたなんかどうせもう死んじゃうのよ)のだが、ラチがあかないので銀行に勤めるLeoがHoraceの貸金庫を..

外はざーざー雨がずっと降っている建物の内側、一族が集うお屋敷の暗がりで、善玉 – Horace, Alexandra, Birdie, 近所のDavid (Richard Carlson) と悪玉 – Regina, Benjamin, Oscar, Leoがくっきりきれいなコントラストを描き、互いにどこまでも妥協も諦めもしないバトルを繰り広げて、小ギツネ達はいちいち闇の向こうに散ってなんかやろうとする。

そんなことまでしてお金ほしいの? なんのため? て聞きたくなるくらいみんな貪欲で執拗で、でも、特にReginaに対してもその問いがいくと、あたしが女だからそういうんでしょ? そうよだからやってやるのよ、おらおら、ってものすごい剣幕になるので震えるしかない。 屋内の照明の奥で浮かびあがる彼女の表情の線(隈取り)と目つきとその背後から立ち昇るものすごい妖気、そこから逃れられない閉塞感ときたらそこらのホラーの比ではないかんじ。そこまでホラーしてしまうようなふたりがなんで結婚したのか、は最後の方で少しだけ語られるけど、それにしてもねえ。

最後にはこうなるしかないよね、というようなところ - でもHappy EndingでもBad Endingでもなく、Reginaがひとり屋敷に取り残されて、ふん、どうしろっていうのさ、というところにまで落ちて、するとここから新たな地獄の蓋が...

DavidがLeoをビンタして、Leoの吸っていた葉巻がひしゃげて、それでもおらおらって追って往復ビンタするところがなかなかたまらなかった。  これもそうだし、責めたての執拗さくどさって、南部のあれかもしれず、最近の映画のだと”The Beguiled” (2017) にあったああいうの、と同じやつかしら?

とにかく終わってからみんなたまらん、てかんじで大拍手したの。

6.10.2019

[film] Vendredi soir (2002)

3日、月曜日の晩、BFIで見ました。BFIでは6月の間、”The Original Sin of Claire Denis”と題したClaire Denisの小特集 – 10作品上映 - をやっている。そこに引用された彼女の言葉
- “Not to have love or pain in your heart means that you are not a very well finished human being”。

ただどの作品も1~2回くらいしか上映がないのと、上映回がだいたい20:30過ぎなのがなあー。

英語題もなくタイトルはこのまま、訳すと「金曜日の夜」。日本公開はされていない?。

Claire Denisの作品は、いつも見る度にこれが最高傑作だわ、になるのだがこれもそうだった。

原作はEmmanuèle Bernheimの同名小説で、彼女自身が脚本も書いている。

最初はLaure (Valérie Lemercier)が引越しをするのか夕暮れ時の部屋でひとり淡々と荷造り - 箱詰めをしていく様が描かれて(いろいろ思いだしてそれだけで泣きたくなる)、そこから着替えて自分で車を運転して友達の家に向かおうとするのだが、交通ストの影響で車は渋滞にはまってぜんぜん動けなくなる。金曜日の晩で通りはざわざわ賑わっていて、でも寒そうだし雨だし、翌日は引っ越しでそこから先は彼と一緒に住むことになるのだし、ラジオのいろんな音や喋りを聞きながら、いろんな思いが去来しては現実 - 車のなかで動けず – に戻されたり、うーってなっていると、見知らぬ男 - Jean (Vincent Lindon)が乗りこんできて、乗っていいか? どこでもいいから行けるところまで連れて行ってくれ、という。

なんでそんなことを許したのか、Laureにもあまりよくわからなくて、みんながイラついているこんな時こそ少しはよいことを、くらいだったのかも。始めは怖々会話を進めていく - 程の会話にもならないかんじでぎこちなく互いの顔を見たりしているばかり、車が全く動けなくなったところでJeanが運転を替わってものすごい勢いと技術でそこを抜けだしたのを見て少し怖くなって一旦はさよならするのだが、疲れてカフェに入ってみるとそこには彼がいて、もういいや、みたいに友達の方には謝って、一緒に近くの安宿に入って、食事して、そして。

引越しという、それ自体が金曜日の晩みたいな作業(行きたいところに行くための準備)でぐったり疲れて、渋滞(行きたいところに行けない、行きつけない)で更にうんざりして、あらゆる行き場を失ったときに妄想か、みたいにかっこいい男が現れて、自分のことをべらべら喋るわけでも、自分に対してあれこれ詮索してくるわけでもなく、頼もしい犬みたいに黙っていてくれるのが現れたらさー、みたいな話で、現実だろうが妄想だろうが金曜の夜なんだから許しておくれよ、みたいなトーンでよいの。

安宿に入ってからのふたりの抱擁も激しく何かを吐き出すようなものではなく、静かで暖かくて、彼女の疲れもほんのり甘い希望も底に流れる痛みも(そしてJeanのそれも)、そこに触れてくる乾いた肌のかんじもしんみりと伝わってくるようで、たまらなくよいの。 そして、これってここからなにかが始まるようななにかでもなくて、これは金曜日の晩で、週末の手前なんだ、って。 例えば、Edward Hopperの世界 - 絶望と希望の中間色 - は少しだけあるかも。

撮影はAgnès Godard。 上映は35mmプリントで、これは35mmじゃないと絶対だめ、みたいな色みと質感だった。カーラジオのパネルがちょっとだけ弾んだり、ピザの具がちょっとだけ微笑んだり、それだけで世界が変わってしまう、そういう魔法が。

音楽は、この頃はまだTindersticksにいたDickon Hinchliffe。

ここで流れる時間をうんと引き伸ばして空間を宇宙の彼方にすっ飛ばして、うんと野蛮で非情な方向に持っていくと”High Life”になるのかも。

[film] Pájaros de verano (2018)

5月30日、木曜日の晩、CurzonのBloomsburyでみました。英語題は”Birds of Passage”。

監督は”Embrace Of The Serpent” (2015) -『彷徨える河』のCiro Guerraと、”Embrace..”のプロデューサーだったCristina Gallegoとの共同になっている。

コロンビアの北部の砂漠地帯にスペイン語ではない独自の言葉を喋るWayúu族の集落があって、女家長のÚrsula (Carmiña Martínez)が仕切っていて、大人の行事に参加できる年齢になった若い娘のZaida (Natalia Reyes)が儀式で鳥の舞い(? とても素敵)を踊るのが冒頭で、それを見て彼女を見初めたRapayet (José Acosta)は、結婚したい、と申し出るのだが長老はおまえは部族の外の者だから、と羊何頭とか牛何頭とかの貢物の条件をうんと上げてきて、でもRapayetはなんとか調達してきちゃったので、ZaidaとRapayetは夫婦になって、子供もできる。

Rapayetがなんでそんなことをできたかというと、幼馴染と一緒にアメリカ人相手のドラッグ(マリファナ)の取引に手を染めていったからで、でもそうしてもっともっとの需要供給の原則で外貨を稼ぐようになってくると部族のしきたりや掟との間にいろんな軋轢がでてきて、でも始まってしまった交易を止めることはできなくて、それが内外に暴力と報復の連鎖 - ドラッグマフィアのそれと同じ - を生んでいく。 それでも部族や家族のなかはなんとか守られてきて、しかしやはり、それも傲慢に育ってしまった若者- Leonídas (Greider Meza)に穴を開けられると戦争が始まって…  というふうに60年代末から80年までの間に、ある部族が衰退して崩壊していくさまが章を切って描かれる。

“Embrace Of The Serpent”でも期せずして西洋文明を持ちこんでしまった白人の視点と視界が原住民の記憶のありようを揺らしていく様が描かれたが、今作はもっと直截に近代の金と暴力の論理が女性と風習が支配してきた部族をまるごと潰して砂と風のなかに散らしてしまう。 そのドラマが前作では密林と河のなかで起こり、今作では砂漠を通過していく風と鳥のイメージと共に生起するのだが、それによって決して全てが失われたわけではない(明確ではないけど)こともなんとなく示されてはいる。

実際に当時コロンビアの地方で起こっていたと思われることをドラマ化したようなのだが、ドラッグに係るギャングの抗争って、町や組織のないこんなところでも、コーヒーに変わってマリファナが栽培され、組織ではなく一族の商いとして始まっていった、というあたりが興味深い。コミュニケーションのマナーもあくまでも一族のしきたりや風習の中で閉じようとしていたのに、内部の若く無軌道な欲望がそれを中から壊して -  というのはアメリカの同ジャンル – それこそ”The Godfather”のシリーズなんかでもいくらでも語られてきたスタイルで、でもそれが砂漠のなか、女系の、占いやお告げが支配する世界でも起こる。ほんとはここで、ラテンアメリカ文学のマジックリアリズム的ななにかが起こることを期待したりもしたのだが、現れるのは真っ赤な鳥くらい。

家長のÚrsulaやZaidaを演じる女優さんたちの面構えがすばらしくかっこよくて、これに対する男優陣はみんなろくでもないチンピラみたいなのばかりで、ほんとしょうもなくて、こうして今の世の中は小汚いチンピラまみれに なっていったのだわ、って。

あと、”Embrace Of The Serpent”のモノクロの世界に対して女性の纏う衣装の赤とか砂漠の荒涼感、そのスケールが素敵なので、できればでっかい画面で見てほしい。

6.08.2019

[film] The Farewell (2019)

2日、日曜日の晩、Sundanceの最終日に見ました。
舞台はほぼ中国(長春市)で、中国語での会話も多いけど、A24配給による米国映画。

冒頭、”Based on actual life event”と出て、NYに暮らすBilli (Awkwafina)が中国にいるおばあちゃんのNai Nai (Zhao Shuzhen)といつものように元気? とか電話で話していて、でもおばあちゃんのいるところは病院でなにやら検査を受けているらしい。

その後の両親(在NY)との会話で、おばあちゃんが末期ガンにあって長くないようなので、Billiのいとこの結婚式にあわせて自分達は中国にしばらく行くから、というのでBilliはそれなら自分も連れていって、と請うのだが、ダメ、と言われる。理由を聞くと、中国ではガン患者に対して末期の告知をしないし、おばあちゃんにもしていない。おばあちゃんは自分の病気を知らないのにそういうのがすぐ顔に出るあんたが行くとばれちゃうでしょ、って。Billiは最期がわかっているのに本人に伝えないのって嘘をついているのと同じじゃないかおかしいよ、と反発するのだが、アメリカはそれがふつうだけど、中国ではそれをやることで気落ちして亡くなってしまうこともあるの、だからふつうは伝えない、と言われてううむ、って。(日本にもこの事情はあるしわかるし。最近は違うのかもだけど)

でもBilliは応募していたフェローシップの審査に落ちてしまったがっかりもあって、両親には告げずに後からひとり中国に飛んで、おばあちゃんを含む家族と再会する。 再会するとあーあー、っていうくらいありあり顔に出てしまい、それがえらくおかしいのだが、横のいとこを見ると彼の方がもっとひどく顔に出ていて..

そこから先は、結婚式の準備に追われて忙しい家族親族と、その先頭に立って楽しそうに孫の式に向けて指揮をとるおばあちゃんと、その様子を見れば見るほど複雑に落ちこんでいくBilli(まだ本人に告げるべきなんじゃないかと悶々している)とおばあちゃん、更にその周りの親族のやりとりやじたばたを追っていって、いよいよ笑いと涙まみれの結婚式の日がやってきて..

結末というかオチは書きませんけど、基本は家族のどたばたコメディで、おかしいところはいっぱい。 でも人によっては自分に起こったことと照らしていろいろ思いだして泣いてしまうのでは(←自分。ボロボロ)。

でも邦画だと山田洋次とかがやりそうな(← 見てません。偏見です)べたべたに泣ける/泣きたい人に向けて泣かせたい人が作るような、そういう湿度と粘度のタッチはなくて、どこまでも乾いていて、だからこそちょっとしたハグとか目が合うのを見ただけで決壊してしまう。 これはラブコメだったけど、“The Big Sick” (2017)のトーンにやや近いかも。

それにしてもさー、自分のときはNYと日本だったけど、距離が隔たっているのってほんとにつらかった。そういう、どうすることもできない距離感とかもどかしさがとても細やかに描かれていて、その隙間に挟まってくるスズメなんて絶妙すぎて。

Awkwafinaさんが女優としてもすばらしいことは昨年の”Ocean's Eight”でも”Crazy Rich Asians”でも十分わかっていたが、ほんとにいいの。こういう人いるし、喋りの間合いの見事なことときたら。

上映後は監督のLulu WangさんのQ&Aがあって、これは監督自身の家族に起こった実話なのだが、結末に絡む驚愕のオープン・イシューが明らかになって、ざわざわした。
あと、おばあちゃん役のZhao Shuzhenさんは本国では有名な昼メロドラマ女優さんで(どうりで..)他もみんなプロの役者たちなのだが、おばあちゃんの妹役だけは監督のおばあさんの妹さん(素人)がそのまま演じていて、最初は嫌がっていたけど、周りがみんな有名な人たちなので喜んでいた、って。

この日の昼間には恒例のサプライズ上映もあったのだが、なにを上映したのかをSNSとかで広めるのはもうちょっとだけ待って、とヒースローから直行した監督たちもお願いしていたので、まだ書かない。 タイトル言ってよくなったその時になってもまだ内容憶えていたらー。

6.06.2019

[film] Godzilla: King of the Monsters (2019)

1日土曜日の午後、BFI IMAXで見ました。これ見るならここしかないかんじ。

前作 - Gareth Edwardsによる”Godzilla” (2014) が結構好きだったので(「シン・ゴジラ」はやっぱり好きになれないけど)、あれのラストで示された怪獣たちがわらわら出てくるらしい今作は心配だった。元の東宝のだって怪獣がいっぱいになるとおちゃらけたりしょうもない結末に行ったりすることが多かったし。 ふつうに考えたって制御不能の怪獣たちが暴れて収拾不能の事態になったところに人間のドラマをはさみ込むのはバカよね、って思うし。 でも思ってたほど悪くなかったかも。

古生物学者のEmma (Vera Farmiga)と娘のMadison (Millie Bobby Brown)がいて、別れた夫のMark (Kyle Chandler)がいて、彼らは2014年のSan Franciscoのゴジラ襲来の際に息子を失っていて、そういうのもあって超音波を使って怪獣をコントロールできる機器”ORCA”の開発をしていて、そいつでモスラを目覚めさせたところで、元英国軍人のテロリストJonah(Charles Dance) が現れて機械とEmmaとMadisonも含めてかっぱらい、Markの方はDr. Serizawa (Ken Watanabe)とDr. Graham (Sally Hawkins)からコンタクトを受けてふたりの行方を追い、つまりは彼らが追っかけている怪獣のところ – 南極にいくと、氷のなかに眠っていたのは”Monster Zero” – ギドラ - で(南極から出てくるのはガメラじゃないのか)、そいつを目覚めさせたらゴジラもやってきて戦いはじめて、Emmaは山にいたラドンとか、他のやつらもみんな目覚めさせて大騒ぎになっていくの。

息子の死で縒れてしまったEmmaの主張は、2014年のゴジラの襲来で見えた人類淘汰に向かう道筋って地球を本来の姿に戻すために起こりうるべく起こった避けられないことなのだ、だからギドラもゴジラもこの際みんなどかどかやっちゃっていいのよ、って怪獣たちを叩き起こして、でもMadisonはママそんなのだめだよ、ってORCAを持ちだしてBostonのFenway Parkに駆けこんだらそこに怪獣みんなやってきて。 これをやったのが母と娘、っていうのはたぶん意味あることなの。

Oxygen Destroyerの利用(Aquamanが怒るよ)から、Dr.Serizawaの心中から、怪獣を超音波でコントロールするという発想から、傷ついたゴジラが冬眠状態から復活したり、モスラがQueenだったり、元の東宝シリーズへの言及が痒いくらいにいっぱいあって、そんな気を使わなくても、というかそんな気遣いなんて蹴散らす勢いでもっともっと連中には暴れてほしかった、ていうのはあるかも。

けっきょく、人類がこれまで絶滅させてきた動物たちや壊してきた環境に対してなーんも配慮しようとしてこなかったのと全く同様に、怪獣たちも人類の淘汰なんて知ったこっちゃないしどうでもいいし、なんかの守り神でも祟りであるわけもなく、ただそのスケールと自身の情動とか反射みたいの(のみ)で生きているだけで、だから人類の思いとか祈りとか怪獣にとってはどうでもいいんだって、どぉーん(潰)。 ていうのが破壊と殺戮と共に明らかになっていった最後のほうは悪くなかったかも。でもラスト、あんなお辞儀なんてする必要なかったのに。怪獣にKingもくそもあるかよ。

ほんとうは、ここのモスラをあのモスラだと言うのであれば、モスラに対する畏れとか信仰をORCAとは別の、人類の自然に対する最後の結節点として明確に出せたのではないかと思うのだが、なんか端折られてしまったようなのは残念。 モスラがあんなふうにやられた時点で人類はもうだめだってわかるようにしないとー。

次のにKongが出てくるのであれば、舞台はNY(エンパイア・ステート)になるに決まっているし、メカギドラが出てくるのかも知れないし、JonahはX星人だった ... に決まってる、のね?

Serj Tankianの”GODZILLA”はご愛嬌だったけど、伊福部昭の音楽がBFI IMAXでがんがん流れるのってなんか最高だったかも。

[music] Liz Phair

4日の晩、Islington Assembly Hallで見ました。 立ち見はしんどいので2階の椅子席で。

はじめに昔話をすこし。

もう紙では発行していないVillage Voice紙の音楽年間ベスト - Pazz & Jopの93年のポールでLiz Phairの"Exile in Guyville"がトップになったのは当時としてはなかなか衝撃的な事件で、それに押されるように、94年の4月8日、The Academyていう(NYの、今はもうない)ライブハウスに彼女のライブを見にいったの。前座はThe Raincoats – drumsはSteve Shelley – で、The Raincoats初めてだったしそちらの方が嬉しかったりもしたのだが、曲間でAnaが少し悲しそうに静かに「Kurtありがとう.. 」って言って客席がざわざわしたことを憶えている(当時はネットもそんなになかったし、その日の午後、Kurtの遺体が発見されたことを知らない人も多かったみたい)。

幕間にはAD/DCが流れて、真っ赤なタイトスカートで登場した彼女は、愛想ふりまくわけでも不機嫌になるでもなく、Kurtって誰? みたいなかんじで淡々と演奏して去っていった。
自分が”Alternative”をはっきりと意識しだしたのはこの辺りから。 これが25年前..

その次に見たのは彼女が”Liz Phair” (2003)を出した後のツアーで、Bowery Ballroomで、新曲の方はみんなほぼ、しーん、なのに"Exile in Guyville"からのセットになると大騒ぎしていたのが印象的だった。

そして昨年出た”Girly-Sound To Guyville: The 25th Anniversary Box Set”は決定盤、必携のすばらしさで、ようやく時代は彼女のものになったんだわ、って。  いじょう昔話おわり。

要するにあれから25年(あーあー)経っちまったことを記念したツアー”Girly Sound To Guyville”。
椅子席は無指定なので早めに行って前の方の席を取ったので前座から見ることができた。
Annabel Allumていう女性のギター中心のトリオで、メガネにおかっぱでつなぎ着てて、音はややブルージーなガレージで、どかどか、そんなに巧くはないけどとっても好きな音だった。

Liz Phairは20:30きっかりに始まる。ギター(ぜんぶ、ずっとエレクトリック)は彼女を入れて3人、あとはベースとドラムスだけで、”Supernova”からゆっくり昇っていく。そもそもぶちかましてがつん、みたいな楽曲ではないのでへらへら笑いながら進んでいくのだが、それでも“Never Said”とか“6' 1"”の盛りあがりはすごくて、みんな歌いまくり(鼻歌で歌いやすいしね)。

彼女の音って所謂Girl’s Rock/Punkの正史からはちょっと外れたもの – それは例えばThe Raincoatsがちょっと外れている、ていうのと同じような – だと思うのだが、その異物感が3台のエレクトリックギターの絡みでもって一回転してすばらしいギターロックに変貌していた。ぺったんこで軽くラジオみたいにかちゃかちゃ流れていくのが元の曲たちの魅力でもあったのだが、ギターのフックがところどころで効いて、”Soap Star Joe”のイントロなんてえらくかっこよくスリリングで、Liz Phairの音でこんなにびっくりしたのってこれまでなかったかも。

ステージから一度も引っ込むことはないままたっぷり約1時間半、本編を”Extraordinary” 〜 “Why Can’t I”で締めた後、もうひとりのギターとふたりだけで最初期の(デモに入っている)”Ant in Alaska”と”Explain it to Me”を静かに歌いかけてから、バンドを入れたアンコールは当然の”Fuck and Run” ~ “Divorce Song”。

「ファックして逃げろー ファックして逃げろー、17歳だってかまうもんか~」こんな歌を地声でさらさら歌ってへへん、てやった女の子がいたんだよ、25年前だけど。

そして90年代Girlyへの旅は来週にも。たまたまだけど。

6.05.2019

[film] Animals (2019)

今年も開催されたSundance Film Festival London (5/30 - 6/2) で、5月31日の晩に見ました。

ここで上映されたやつは後になって正式公開されることが多いことがわかったので今年はそんなに焦らずに取れるチケットだけ取ってみた、程度の。

どうでもいいけど、昨年ここでサプライズ上映された”American Animals”とか、これとか、今回の企画でかかった”Corporate Animals”とか、Animalsタイトルがはやりなのかしらん?

英国のEmma Jane Unsworthさんの同名小説(未読)を元に原作者が脚本も書いて、オーストラリア人の監督がアイルランドで製作した作品。どんなものかぜんぜん知らずに見たのだが、なかなかおもしろかったかも。

夜になるとキツネがうろついてて、ノラ猫がそれを睨む、そんなダブリンの街角でLaura (Holliday Grainger)とTyler (Alia Shawkat)はずっと友達で、バーでつるんで呑んだくれて遊んでて、ふたりでシェアしているアパートに戻ってくると同じベッドに寝て明るくなるとぼーっと目覚める、みたいなことをずっと繰り返していて、Lauraは作家になりたくてずっとノートに断片を書き留めているのだがPCに打ち込む段になると指が止まってしまう。結婚していたLauraの妹が妊娠したときいて、あー、になったあたりでピアニストのJim (Fra Fee)と出会って仲良くなって、少しづつTylerとは疎遠になっていくのだが、それでも酔い潰れたりドラッグでラリったりは続いていて、やがてJimにプロポーズされるともう乱痴気騒ぎはさすがに、になるのだが、それでも揺れるなにかはあって朗読の会で知り合ったMarty (Dermot Murphy)とちょっとだけ遊んで後悔したり。Lauraから少し離れてしまったTylerはつまんなそうだけど相変わらずひとりでぶっとばしていて、そんなふたりはどうなっていくのか。

呑んだくれパーティ女子の、そんなに弾けていかないバディもので、彼女たちの周りに結婚とか出産とかが見え始めたとき、ふたりの関係はどんな変化を見せるのか。ていう本当に昔からあるテーマで、こういうのを町に潜む夜の動物たち - キツネ、猫 – 飼い猫だけど、蜘蛛 – とかをちらちら見せつつ、彼らが朝の光に直面したときにどう動いたり隠れたり荒れたりするのか、などなど。

ありがちな落としどころ、みたいなところには向かわず求めず、ほっとけもう、ってノラに戻る、そんな荒っぽさふてぶてしさと、その表情を丁寧に追って掬いあげようとする繊細さが同居している。

そしてふたりの佇まいも、小さなタトゥーまで含めて、すべてあるべきところにはまっているかんじ。特定の場所でしか生きられない生き物のように見えてじつは。

ふたりのボロアパートが素敵で、書き物机のところにはVirginia Woolfの”A Room of One’s Own”の古本 - これと全く同じやつを買おうかどうかずっと悩んでいる - のカバーとか、Howard Springの(タイトル忘れた)とか、Mauritshiisにあった”The Goldfinch” (1654)の絵とか、いろいろ貼ってあったり。

あと、ふたりともずっと白ワインをぐびぐび、ほんとおいしそうに飲んでいるの。

上映後のQ&Aには、監督のSophie Hydeさんと主演の二人がでてきて、言葉のアクセントのとこも含めたいろんな苦労とか。

これまでの映画で描かれた女子ふたりの友情物語で印象に残っているのは? という質問にAlia Shawkatさんが”Girlfriends” (1978)を挙げていて、嬉しかった。 これも結婚したり子供ができたりいろいろあって腐れたりしながらもなんとなく続いていくふたりのお話だったねえ。(あとのふたりは”Frances Ha” (2012)と”Lady Bird” (2017)を)

劇中でふたりが始終舐めている粉はMDなんとかっていうドラッグなのだが、中身はキャンディをくだいたやつだそう。

6.04.2019

[film] Rocketman (2019)

5月29日、水曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

誰もが知っているElton Johnの評伝映画。そして誰もがこないだの”Bohemian Rhapsody” (2018)と比べてしまうであろう(主に70年代の英国)音楽映画、でもある。

こんなの比べてどうなるもんでもないし、音楽好きならどっちも楽しく見れるよ、でおわりなのだが、比べることでなんか見えてくるものがあったりするのだろうか。(ない)

どちらも曲を作って歌う英国人のお話しで、ヒットメーカーとしてアメリカも含めて制覇して、どちらもホモセクシュアルで、どちらも一旦乱れて壊れて復活してて、でも片方はバンドのはなしだし、片方は既に故人だし、ポップスとロックていう違いもあるし、などなど。

なんかただ、素敵な曲を改めてでっかい音でぱーっと聴いてみたい、それだけのかんじもして、それでいいじゃん。

山椒魚みたいに毒々しい悪魔の恰好 - ステージからそのまま来たらしい – でふうふう言いながらセラピー施設に現れたElton John (Taron Egerton)がぼそぼそと回想を始めるのが冒頭。幼いReginald 'Reggie' Dwight (Kit Connor)が母(Bryce Dallas Howard)と祖母と疎遠な父の間で音楽に目覚めRoyal Academy of Musicに学んで、バンド活動をするようになり、やがてElton Johnと名乗ってBernie Taupin (Jamie Bell)と出会い、曲を出していってアメリカで大当たりしてスターになって。 その反対側で恋人のJohn Reid (Richard Madden) のこととか冷たい父親のこととかいろいろあって、ドラッグに溺れて天国と地獄の間を往ったり来たりするの。

Elton本人もいろいろインタビューで喋っているし、Taron Egertonとデュエットしたりもしているし、積極的に制作に関わっているようなので内容の真偽については(濃い薄いはあるにせよ)間違いないのだろうし、こんなひどかったけどなんとかなっているよ、ていうのかこんなひどかったけど音楽は不滅だよ、っていうのか。タイトル曲の"Space Oddity"的な遠距離・位置の取り方も含めて「ここにいるよ」の映画なのだと思った。 "Space Oddity"ほどの切迫感、切なさはまったくないけど。

構成としてはセラピーセッションで独白・回想していく姿と、そこで回想された過去と、その過去のなかで暴発するドラッグによる記憶の混濁と妄想と、それを現時点から振り返った歪みとが団子になったところに彼の歌が被さってそこには常に音楽があった - 救いなのか賛美歌なのか演歌なのか、とにかく歌があったんだよ、って。 おめでたいかも知れないけどそういうことなのだ(バカボン)、って。

こういうところから”Bohemian Rhapsody”と比べてみると、こっちのが楽しかったかも。Queenの方はずっと聴いていたこともあってついきつくなってしまうのかもしれないね。

自分が洋楽を聴きはじめた70年代後半頃って、映画にあるようにEltonはほぼ死んでいた状態だったのか、ほぼまったく聴く機会も聴きたいとも思わなくて、Bernie Taupinとのコンビが復活した(湯川れい子さんがラジオで興奮していたことはよく憶えている)時でも”I’m Still Standing”は(個人的には)さっぱりこなかったし、おそらくそこからだいぶ経って、70年代のアメリカのSSWとかを掘っていった道行きのどこかでぐるりと回ってぶつかったのではなかったか。

そして、Elton Johnの曲ってこんなに歌って楽しいものなんだね、て思ったのは映画 “27 Dresses” (2008)で、Katherine HeiglとJames Marsdenのふたりがバーで"Bennie and the Jets"を熱唱するあたりだったかも。

日本でもQueenのみたいに当たって、みんなに聴いてもらえるといいな。

あと、日本で同様のサイケぽい音楽映画を作るとしたらまず遠藤賢司の『不滅の男』をやってほしい。

6.03.2019

[film] Madame DuBarry (1919)

5月28日の火曜日の晩、BFIのWeimar映画特集で見ました。サイレントでピアノ伴奏つき。

今回のWeimar映画の特集はちょこちょこ(ここまでで7本)見てはいる(見逃したのもいっぱいある)のだが、ちゃんと感想を書こうとするといろいろ調べないといけない(調べたい)こともあったりして、つい後ろ手になってしまうのはよくない。 これはErnst Lubitschのだから書こうかな、って。

この特集でLubitschはもういっこ(”The Oyster Princess” (1919) / “I Don't Want to Be a Man” (1918) の2本立て)がかかっていて、そっちは昔にMoMAで見たことあったのでこちらの方を。

本編の前におまけとして”Messter-Woche” (1920)ていう4分間のニュースフィルムが流れて、ドイツ初代大統領のエーベルトが”Anna Boleyn” (1920)の撮影所を訪問する、というやつで、動いているLubitschの姿がちょっとだけ映るので、わーってなる。

114分の革命絵巻もので、2000人のエキストラを使っていて、ドイツ~ヨーロッパでは大当たりしたものの、アメリカでの公開にあたっては当時の国内の反ドイツ勢力のことを心配して、”Passion”と名前を変え、Ernst Lubitsch の名もEmil Janningsの名もスクリーンには出さずに「ヨーロッパ映画」としてリリースしたら大当たりして、結果Lubitschの名を不動のものにした、という、あんまLubitschぽくない気もする一本。

町の帽子屋で働くJeanne (Pola Negri)にはArmand (Harry Liedtke)ていう恋人がいたのだが、お金持ちのスペイン特使に誘われるまま浮気したらArmandは怒り狂って特使を殺しちゃって牢獄送りになって、彼女もしょっぴかれる可能性があったところをDuBarry伯爵 (Eduard von Winterstein)が救ってくれて、こうして彼女はMadame DuBarryとなり、彼にくっついて宮殿に行ったら今度は王様Louis XV(Emil Jannings) に見初められて、とうとう彼の妾にまでなりあがるのだが、宮廷内では反発とか虐めがすごくて、最後には民衆の革命に巻きこまれて裁判に掛けられたところでArmandと運命の再会をするものの結局はギロチン台に... のああ無情。 (最後に切られた首は民衆のとこにぽいっ、って..)

寄ってくる男を次々と踏み台にして成りあがる魔性の女一代記、というよりはLubitsch得意の艶笑喜劇のノリで高笑いしながら階段を昇っていったら横からひょいって梯子を外されてきれいに転落してギロチン台にすっぽりはまった、そんなかんじ。ただエキストラがどわーっと湧いて襲ってきて視界が広がってしまう革命のところは、それまでにあった室内のやりとりの壁や敷居がいきなりとっぱらわれてスケールの異なる雑踏の原と化してしまうので、ぜんぜん別の映画に見える。 それはそれでおもしろいし、蟻みたいにヒトが群れてばたばたしているのを遠くから捕らえたところはすごいし。

主演のPola Negriさんのひらひらした蝶のように軽く舞っていく様はすばらしく、その向こう側で彼女にやられていく男共も同様に軽薄な愚か者のままで、そんななか、Louis XV役のEmil Janningsさんは元々Eduard von Wintersteinに決まっていたLouis XV役を横からぶんどった(この辺は名著『ルビッチ・タッチ』にも出てくる)だけあってさすがにすさまじい。天然痘でやられて死にそうなのにそれでも彼女を求めるその声が耳の奥に響いてくる – “The Last Laugh” (1924)でも聞こえてきた地を這うようなそれがとにかくおっかなくて、これが国王かよ、っていうのと、さすが国王だよね、ていうのと両方がこの絵巻物に重しをしている。


ところでこの映画の時代だったらとうに断頭台に送られてもおかしくないカツラ頭風船野郎がいま英国に来ているのだが、抗議デモが平日の11:00からってどういうことなのか。 会社休めってか。(おぉー!!)

[film] The Secret Life of Pets 2 (2019)

5月27日 - 祝日 - 月曜日の午後、Leicester Squareのシネコンで見ました。

もうTVで何度かやっている(見ている)前作 (2016) のエンディングに流れるBill Withersの”Lovely Day”のとこでいっつもじーんと泣きそうになって、ペットいいなー、でも今この部屋に猫が来たりしたらいろいろしぬな..  で止まってしまって実現できていなくて、ペットのいる生活とか、ペットの秘密の生活 - Secret Life of Pets – とかには常に憧れがあるので、当たり前のように見にいく。

ふつう犬のMax (Patton Oswalt - 前作から変わったのね)とでっかい犬のDuke (Eric Stonestreet)の飼い主のKatie (Ellie Kemper) が結婚してLiamていう赤子が産まれて、おっかなびっくりヒトの子供の相手をしていくのと、家族みんなで車に乗って農場に滞在する話と、ポメラニアンのGidget (Jenny Slate)がMaxの留守中に彼の大切にしているコロコロ玩具を猫屋敷に落っことしてそれを救出しなけれならなくなる話と、白うさぎのSnowball (Kevin Hart)が悪いサーカス団に囚われている白トラの子を救出する話と、この3つのエピソードが交錯していって、最後にだんごになる、そういうやつで、ひとつのアパートの縦階(+上空)に暮らすペットたちの間で閉じられた交流が、その外側 - 都会の宿無し地下世界の動物たちと怒涛のうねりをあげて激突してスクリューボール展開していく前作も素敵だったけど、今度のもまあ悪くはないの。

ひとつはMaxとDukeが出会う農場の動物 - 家畜たちとMaxがいろいろ教わるかっこいい牧羊犬のRooster (Harrison Ford)との出会いとか、もうひとつはSnowballが暴れて助けだすサーカスで虐待されているトラとの出会いとか、前作の建物や地理の閾を越えて、ヒトと動物の関わりはペットとのそれだけじゃなくてほんといろいろあって、でも義理人情みたいのはやっぱし大切だからね、って徒党を組んで立ち向かっていくの。あと、守らなければいけないものが出てきたMaxの成長物語、ていうのもあるか。

ここまでくると犬猫っていうよりふつーの人の世界の話と同じかんじだよね、とか、前作にあったペットは飼い主のいない間にこんなこともあんなことも! っていうツボに嵌るような驚きが薄れたかも、とかいろいろあるけど、でも、なんも考えなくて見ていられるからいいことにする。

Chloe (Lake Bell)がGidget - イヌ - にネコになる訓練をするところとか、猫屋敷の話とかはおもしろいし。 あーでも前作のようにGidgetのカンフー突撃とか、Snowballのごろごろとかいきなり爆発したように豹変するところがなかったのはちょっと惜しかったかも。

これってやっぱり都会のお話しで、実写よりはアニメーションの方がはまる気がして、田舎のお話しだと、例えば”Dave”みたいに実写の方がはまる気がする、のはなんでかしら? ていうのを考えている。”Pets”のほうは、やっぱし我々の妄想とかこうあってほしい、が(割と強めに)無意識に反映されてしまうからだろうか。”Paddington”は都会で実写だけど、あれペットの話じゃないし、こないだの”Winee-the-Pooh”はやや微妙だけど、あれもペットの話じゃないし...

そういえば、マンハッタンのどこかでトラが飼われていたっておかしくないよねえ。

[film] Tarde Para Morir Joven (2018)

5月23日の晩、BFIで見ました。英語題は”Too Late to Die Young”。
上映後に監督Dominga SotomayorさんとのQ&Aつき。
監督にとっては長編第二作で、2018年のロカルノ国際映画祭で監督賞を受賞している。

NYでもちょうど上映が始まっているのね。

1990年の年末のチリ - 夏が始まろうとしている頃(南米だからね)、学校が終わると16歳のSofía (Demian Hernández)とか、16歳のLucas (Antar Machado)とか、10歳のClara (Magdalena Tótoro)とか、子供たちはひとつの車に押し込まれて田舎のほうにお引越しをする。 ピノチェトの独裁政権が終わって自由を謳歌する空気のなか、大人たちが森に共同で暮らすコミューンのような村のようなのを作って、子供たちはそこに連れて行かれるらしい。

電気や水道のことで忙しい大人たちから放っておかれて、子供たちは楽しく遊んでいるかというとそうでもなくて、Sofiaにはなにもかも退屈でおもしろくなくてタバコばかり吸っているし、幼馴染のLucasはギターの練習をしながらそんなSofiaのことがいちいち気になっているし、Claraは引越しのときにはぐれていなくなってしまった犬のFriedaのことが心配で気分が晴れない。

両親が別れてしまって父親と暮らすSofiaは、少し歳の離れたIgnacio (Matías Oviedo)のバイクの後ろに乗せてもらって町の方に出て、年末のパーティには母親も来るから、そうしたら彼女についていって町で暮らすんだから、と彼に語り、周囲にもそれを言うことでなんとか正気を保っている、というか、そこ以外はやってらんねーや、だし、Friedaのことで辛そうなClaraに親たちが見つけたよ! って別の家に飼われていた犬を金を払って連れ戻してくれても、どうもこいつは別の犬ではないか疑惑があってなんかすっきりしない。

こんなふうに表面はばらけて、でもその張力はかろうじて穏やかに保たれつつ、なにやらおおごとらしい大晦日の年越しパーティに向かっていく子供たち(と大人の中間にあって宙ぶらりんな)ひとりひとりの表情や挙動を丁寧に追っていく。 そしてパーティでは山火事だなんだとほんとうにいろんなことが起こって、その翌朝の描写も素敵なのだが、それは見てみて。

いつも仏頂面でタバコを手放せなくなっているSofiaから(Lucasのように)目を離せなくて、彼女の眼差しも首すじもかつての自分たちが世界に晒していたそれ - 気軽に話しかけてくんじゃねえよ - だと思うし、”Too Late to Die Young” ていうのもその通りとしか言いようがなくて、それだけでもとにかく見たほうがいい。

監督自身の幼〜青年期のことを描いた、と聞くと昨年の“Summer 1993” (2017) - これはフランコ政権からの解放後のオープンな空気の中で、大人たちほど楽しめなかった女の子の姿を描いた映画だったが - でも子供たちは社会や親たちがどうあろうとこんなふうに揺れて危うくて、冗談じゃねえよ、の世界を彷徨っている。 監督たちにとってはフィクションとして作った部分も含めて自分の幼年期のことを映画化することがとても大切だったことはQ&Aでもインタビューでも語られている。

音楽はMazzy Starの”Fade into You”がすばらしい調和を見せて、エンドロールでもこの曲のスペイン語版 - そんなのあったんだ - が流れる。 “Too Late to Die Young” というタイトルに被せてみると、なんか。

この晩は、この後、監督のデビュー長編の上映もあったのだが、体力がもう.. だった。 またどこかの機会で見たい。