12.31.2014

[log] 年のおわりに

まだ書いていない映画とかいくつか(あと8くらい..)あるのだが、一年の最後の日になってしまったので、なんか年の瀬ぽいことでも書いてみよう。

30日は、2013年の暮れにやらなきゃと思って2014年の初めに実行する予定のまま1ヶ月が過ぎ2ヶ月が過ぎとうとうここまで来てしまったやつについに着手した。着手することをこの1年ずっと夢みていたんだからね、と、これだけは言っておく。 俗にいうところの大掃除、ていうやつね。

どうやって攻めるのか、とか、なにから始めるのか、の計画から入るとぜったい頭がしろくなったり眠くなったりして頓挫するので、まずは手を動かすこと目標で。 あと、中身を確認するのはよいが読みはじめたらぜったいだめよルール、もつくった。 
ごご12時半くらいから、Wilcoの”Alpha Mike Foxtrot” - CD4枚分をiPodに落としたやつをBGMに、やろうどもやっちまえー(... 反応なし)、てはじめた。

結果: CD4枚ぜんぶ終っても終んなかったので、4時くらいにいったん撤収。
(31日も夕方2時間くらいやった。焼け石で部屋があったまったくらいよ)

約3時間半の工程はだいたい以下のようなかんじだった;

①捨てるものを一箇所に固める → ②まとめるものを一箇所に固める → ③一箇所に固めたやつの山が増えていく → ④置き場所(作業のためのバッファ空間)がなくなる → ⑤置き場所をつくるために既存の山を崩す → ⑥更に場所がなくなる → ⑦しょうがないのでいくつかの山をマージする → ⑧山が不安定になって崩れる → ④に戻る → しばらくすると、④から⑧が散発的にループするようになって、片付けっていうのはええとあれか場所をつくることなのか山をつくることなのか、そもそもこれ、ぜんぜんお掃除になっていないんじゃないか、とかいろんな意見が噴出して収拾つかなくなったの。

あと、山が崩れてマージして積み直して、を繰り返しているとだんだんに同じサイズの雑誌とか同じ種類の本とかが寄って集まってくることがわかって、この現象になにか名前を付けてみたいのだが、どうか。

"Before"の写真はInstagramに載っけました - ただし、いちばんクリーンな界隈のみ。

ここまでで全体の半分くらいか。山の奥のほうとか深いところは来年かなあ。たぶん。

そもそもこれらの山の起源は諸説いろいろで、いちばん古くてわけわかんないのが、92年に渡米したときに運ばれた荷物が開封されないまま98年に日本に戻ってきて、その箱がなぜか再び2001年の渡米荷物に紛れこんで、同様に未開封のまま2006年に日本に戻ってきて、2011年のお引っ越しで遂に正式に箱から出された、そして積まれた、てやつ。
自分が箱のなかの本の精(or 虫か)だったらこんな持ち主ぜったい許せねえ呪ってやろうとおもう、はず。

こういうわけで、89年12月のStudio200のスケジュールとかスパイラルでのdumb typeの公演チラシみたいな、どこから湧いてでたのかわかんないのとか、入手経路はぜんぜん謎だけど、78年のMelody Maker誌とか、New York Magazineは93年頃のが出てきたりとか。
メカスの映画日記はなんで2冊もあるの? とか。

でもお片づけ、ていうのはそういう(再)発見をする機会とかイベントではないのよ。たぶん。

そもそも床に積まれてしまうやつ、ていうのは本来あるべき棚に収まりきれずに溢れたもので、そんなに沢山の本を生きている間に全て読むことができるのでせうか? (読みきれない本は処分しましょう)とか保健所の役人みたいなことをいう奴がいるけど、中指10本立ててけつまくってやれ。  死んだら読めなくなるなんて、誰が決めたんだよ? ぼくは読むもん。 (←びょうにん)

あと、でも、こんなつまんないこと書くヒマがあるのなら、塵のひとつでも拾って、埃の欠片でもぬぐうべき、ていうのは正論だとおもう。


ところで、こないだの10月で、このサイトも5年目に入り、更新の数も1000を超えたようです。
当初、顔と名前を知っている10人くらいの方々に向けたメモ、程度で始めたやつも、カウンターの数をみると、ものすごい数(自分にとっては)のいろんな方々にも見ていただいているようで、ありがたいというかごめんなさいもうしわけないというか (なぜひらがなになるのか)。

このテンプレートにも飽きてきたのでそろそろ変えたいかも、なのだが時間ないしIT疎いし。

今年は年初から仕事がすこし変わってばっかみたいに慌ただしくなってしまったので、書くペースを落とさないと、と抑えめにしていたのだが、そうしているとどんどん鬱憤が溜まってますますやってらんなくなるばかりだったので少し戻した。 どこかなんかまちがっている気がするが、他の解消策がみつからないのでしょうがない。 いやだなあこういうの、てずっと思いながら書いている1年でした。


ここまで読んでいただいた/いただいているみなさま、ありがとうございました。
よいお年をお迎えください。
来る年に少しでもよいことが起こりますようにー

12.30.2014

[film] Przypadek (1981)

20日の夕方、「現代娼婦考 制服の下のうずき」のあと、ポーランド映画祭に移動して見ました。
クシシュトフ・キェシロフスキによる「偶然」。英語題は“Blind Chance”。
やっぱり立ち見になってた。 ニッポンのひと、キェシロフスキ好きね。

81年に製作されたものの、当局の検閲にあって正式公開されたのは87年で、上映された版の途中にも「この箇所は検閲にやられて永遠に失われてしまいました」とかいう注記が出てきたりする。

主人公のヴィテク(Boguslaw Linda)が、ワルシャワに向かう列車に走って飛び乗ろうとして、①乗りこむことができた ②無理するなと駅員に制止されてつかまった ③諦めた の結果によって分岐する3通りの運命とか人間関係とか。
①では共産党員となって前途洋洋だったが、密告者として利用されて恋人を失ってあーあ、になって、②では地下出版の道に入ってキリスト教に入信するも手入れにあって周囲に疑われて居場所を失い、③では政治とは無縁の医学の道に進んで、これはうまくいきそうなかんじで飛行機で国外に飛び立つのだが、まさかこんなことになっちゃったりしてな… と思った通りのことが起こっちゃうのでびっくらして気まずい沈黙が。

3つの分岐の前、父の希望に沿って医者になることを目指してきたヴィテクは死期が近づいた父から好きにしていい、と言われて方向を見失っていて、分岐後、父のような存在による指導方向付けがなされて、後ろ盾となる組織ができて、親密で素敵な彼女もできて、でもそれらは彼の最初の選択、さらに遡ると出生みたいな地点から左右されていて、その後の行動も個人と組織/政治の間の相互干渉のなかで形作られていて、そういうのの総体として語られる「運命」のありよう、その不可思議さ微妙さが示される。

でもさー、あのときああしていればああなったかも、ていうのは後からいくらでも言うことができるし、その角度から眺めたその時の決断や選択が特殊な光を放つのはわかるけど、個人と状況が相互に影響しあうのはあたりまえのことだし、自分で決めて進む、ていうのも、運命に翻弄される、ていうのも、同じようなことの「言いよう」でしかないのだから、「運命」とか「ドラマ」における因果をそこまで強調するのってどうなのかしら、ておもった。 そういうことを思うのはポーランドの当時の「状況」の過酷さや圧力を知らないからだ、と言われればごめんなさい、なのだが。

そういうところもあってか、この作品でもっとも輝いてみえるのは、③に出てきた世界最強のお手玉使いのふたりなの。 彼らの生はいまここでどう動くべきか、のなかにしか、その瞬間にしかない。占いも総括も必要ない速度で生きること。 でもあれ、ほんとにびっくりした。すごい。

キェシロフスキ作品としては後の「トリコロール」のドライブの強さも「ふたりのベロニカ」- これがいちばんすき - の魔法もない、のだけど、彼の映画のもつ心地よい冷たさみたいのがストレートに伝わってきて、よかった。

とにかく駆け込み乗車には注意しないといけないの。

12.29.2014

[film] 現代娼婦考 制服の下のうずき (1974)

もう終ってしまったシネマヴェーラの曽根中生追悼特集より、日にちは別で見た2本を。

現代娼婦考 制服の下のうずき (1974)
21日の日曜日の昼間に見ました。

田端のほうのアパートで一緒に暮らすいとこのふたり - 真理(潤ますみ)と洋子(安田のぞみ) - 共に大学生 - がいて、真理のほうは「複雑」な育ちの娘で、母親は娼婦で孤児院から祖父のところに引き取られて、小さい頃に人を殺したこともあるという。  実家での序列 - 主従関係でいうと洋子のほうが上で、婚約者はいるわ車は持っているわ取り巻きもいるわで、反対に真理は常に蔑まれて疎まれて束縛されて、そういうなかで娼婦みたいなことをしたりされたり、真理の居場所はどこに? ていうのと、洋子のいる「場所」とはなにがどう違うんだ? ていうのと。 んで、洋子が真理を明日から自由に暮らしていいよ、て伝えた途端、真理は洋子を殺してしまうの。

こういうのを、ニッポンの血族における縛り抑圧、地方と都会、これらの境目で荒れ狂う魂や情念のドラマ(原作は荒木一郎、挿入歌は寺山修司作詞の『裏町巡礼歌』)としてべったり重厚に描くのではなく、ぽつんと建っているアパート、工場跡の廃墟、壊れたマネキン、クスリ、行きがかり手当たり次第のセックス、等々を散りばめた、二人の女子の対照図としてドライにデザインしてみせる。

ほぼ無表情 - 怒りの噴出も修羅場も居直りもない、なんの声も出せない(喘ぎ声に快楽や歓喜はない)、聞こえない状態 - 聞こえてくるのは廃墟に響くヘリの音、マネキンを引っ叩く音、飛び出しナイフの音 - ラストの殺しの音ですら洗車場の音にかき消されてしまう。
(俳優の演技力に期待できなかったのでそうせざるを得なかった、と監督の自伝本にはあったが)

で、そうして静かに進行してなにかを侵していく青春期の危うさと、性そのものが孕む主従や自由/束縛の不可視なバランスを見事にクロスさせた傑作だと思いましたわ。


性盗ねずみ小僧 (1972)
23日の昼間にシネマヴェーラで見ました。 併映の「性談 牡丹燈籠」は前に見たことがあったのでパス。

ポルノ時代劇で、脚本は長谷川和彦、セットは他作品のを転用しているので時代劇としてもちゃんとしているし、サイレントや臨時ニュースの挿入とかおもしろいところもある。「性盗」は「怪盗」にも「正統」にもひっかけてあるの。

次郎吉がおみつとやっていると御用御用の提灯が入ってきて、彼はしょっぴかれて牢獄に入れられて、そこからの回想になるの。 呉服屋の丁稚の次郎吉はからかわれて嘲笑われてばかりで、頭きておかみと娘を犯してそこを飛びだし刺青を彫って、そこからはお金持ちのおうちに押し入って寝ている女(達)を犯して黙っていてほしければ金よこせ、て脅してその金を弱者に与えるので義賊て言われる。

刺青屋で知り合ったのが金四郎で、彼は後の遠山の金さんになるのだが、こいつが実は権力の犬で、凋落していた幕府の評判を上げるために次郎吉をしょっぴいてやろう、とおみつを彼に近づけるのだが、おみつは実は次郎吉の生き別れになった妹だった、と。

虐待にレイプに強盗、肩書詐称などなど、悪行まみれなのにストーリーに暗さはなくて軽いかんじ、その展開よりもいろんなカットや仕掛けのほうがおもしろくて、自伝本のインタビューのこの映画を語る箇所で、カンディンスキー著作集の西田秀穂教授に学んだ、とあるのを読んでふうん、だった。 

もういっこ、同じく自伝本でパロディについて、安倍晋三のそっくりさんでポルノを作ればいい、て語っているところがあって、そうだよねえ、と思った。 「この道しかない!」とか「とりもろす!」とか「女性活用!」とか言って女性議員とやりまくるのに嫉妬したNHK会長が盗撮したビデオを国営放送で流しちゃうようなやつ。 ネタの宝庫なのにな。 “The Interview”は無理にしてもこれくらいのも作れないくらいみんな萎えちゃっているのかしら。

12.27.2014

[film] 女に強くなる工夫の数々 (1963)

年末休みなのに風邪ひいた。

20日土曜日の昼間、京橋の千葉泰樹特集で2本続けて見ました。
ネオ・フェミニズム勃発の2014年、改めて胸に刻んでおくべき昭和ニッポンのサブリミナル男根映画。 いや、映画としてはとってもおもしろいんだけど、ね。

女給 (1955)

真面目な会社員の順子(杉葉子)は恋人との結婚を控えてお金を貯めなきゃいけないのだが、なかなか貯まんないし、一緒に暮らしている母(旧華族の栄華に埋もれてなんもしない)の面倒もみなきゃいけないので、銀座のバー「クエール」(... うずら?)で夜のバイトを始める。 始めはただのバイトだから、て割り切れると思っていたし、割り切ろうとするのだが、根がまじめでがんばりやさんなのでついはまりこんで抜けられなくなっていくわかりやすい転落の件と、同じバーで、夫に先立たれ、ぼろアパートで一人息子を育てながら美容学校に通ってがんばっている先輩ホステス(越路吹雪)の淡い恋のおはなしと。

順子はまじめな役人を落とすために上から枕営業(溝口の「祇園囃子」とおなじような)を強要され処女を失って人工妊娠中絶、婚約は破棄となって全てがおじゃん、そこまでしたのに相手が逮捕されて稼いだお金も没収、結局なんだったのよ!!(怒)、になり、越路吹雪は亡夫の戦友だった上原謙(妻子あり)と再会してよいかんじに盛りあがるのだが、こちらもお金絡みですべて立ち消えて、最後はみんなで大喧嘩してこんな店しね! て飛びだすのだが、結局別のお店で働いていくことになるラスト。

「女給なのに」涙を拭ってたくましく生きる女性たち、を描きたかったのかもしれないし、ドラマとしてよくできているとは思うものの、やっぱしこんなのを基層に置いて「できあがっている」世界 - 21世紀になってもぜんぜん変わっていないよね - には中指を突き立ててやるべきなんだ。 

女に強くなる工夫の数々 (1963)

七光電器の宣伝部に勤める宝田明とそこの専属モデルの司葉子は恋人同士で、そこの部長が加東大介で、彼らがスポンサーになったTV番組「男性飼育コンテスト」ていうのの一回目。 エントリーした夫婦のうち夫の方が料理、洗濯、アイロンがけを時間内で並行してどこまでできるか、の出来映えを競うゲームで、結果だめだめだった男性陣 - 高島忠夫(こいつが優勝)、フランキー堺、有島一郎、加東大介(欠員が出て強制参加) - が慰労会をやっているとどこからか突然植木等が現れて、各自の夫としての、男性としての問題点を神のようにてきぱき叱って指導して、ついでに置いてあったお酒もぜんぶ戴いてすーだらすちゃらか消えて一同唖然、だったのだが、そこで指導されたことを家庭で実践してみるとあーら不思議、いろんなことが当たっていたり改善されたりびっくりで、そういうのを横で見ていた宝田くんは今後のことを考えてしまうのだった。

んでも結局、無責任やろう植木等の提言は有効だったように見えて、そんなでもなかった - つまりは妻のがいちまい上手だったり、愛っていうのはどっちかの上に立つことで成り立つようなもんではないことに気づいたり(そこに巧みに誘導したのは女性のほう)、だったりするの。

ほのぼの平穏に終っているように見えるけど、これにしたって、男は女より強くなければならないのにそうなれないのは何故じゃ? ていうオトコの鬱憤憤懣から始まっているのは問題で、やっぱしこんなのを基層に置いてできあがっている世界には(... 以下同)。

それにしても植木等が圧倒的にすごい。 ここだけでもじゅうぶん見る価値あるわ。

12.26.2014

[film] 自由が丘で (2014)

19日の金曜日、新宿で見ました。 あそこの、いつもホン・サンスをやる小さいスクリーンではなくて、公開直後だったからかでっかいスクリーンだったの。

スクリーンがでっかいと、なにかしらとんでもないものが現れるかと思いきや、まっ黄色のバックに水色のハングルがすいすい踊って、気がつくといつものホン・サンスの荒野が広がっているばかりだった。

英語題は“Hill of Freedom” ...
「三軒茶屋で」だと “Three Tea houses”、「二子玉川で」だと”Twin Ball River”になる、はずね?
前作あたりの邦題に倣って「モリーは待ちぼうけ」とかでもよかったのに。

タイトルがこれで、主演が加瀬亮だというので、てっきり自由が丘の餃子屋とかで酔っ払った加瀬亮が、そこらのむっちりしたマダムを落としまくるようなやつだと思っていた。… ちがった。

舞台は韓国で、そこのゲストハウスに日本人のモリ(加瀬亮)が滞在していて、彼は年上の韓国人の恋人に再会しにきて、でも会えないので「会いたいよう」とか「今日はこんなことをしたよ」みたいな手紙を書いては彼女に送りつけていて、「自由が丘」ていうのはモリが通う日本人が経営するカフェの名前で、へちゃむくれた犬がいて、犬は無愛想だけど女主人はひとなつこいの。

手紙を受け取ったexだか現だかわからないその彼女は無言で無表情で手紙を読んでいくのだが、途中で便箋をばらばら落としてしまって手紙の順番がわからなくなって、それに呼応するように映画のなかの話の展開も時間の順番がランダムに前後していって、それでも困惑することがないのは主人公がやけくそでだらだら無為に酔っ払ってばかりの日々を過ごしているからで、しかもその副読本が吉田健一の「時間」だったりするので、ロジックとしては鉄壁なの。 手紙のなかの時間、主人公それぞれが過ごしてきた積み重ねの時間、いま、あの界隈に流れている時間とそれに弄ばれるように抗うように酒に溺れる主人公たち、それらをすべて包括するかたちで語られる必ずしも不可逆とは限らない「時間」 - 傍らに置かれた文庫本。 67分という長さも丁度よい。

そんな待ちぼうけのモリの周辺に現れては消えるどうでもいい酒飲みの皆さん、時間の行き来に見え隠れするように酒宴のまわりを回ってだべってうだうだするばかりでものすごく非生産的で、すてきなの。 そうこなくちゃ、みたいに現れて消えて、なんの後腐れもない。 いいなあ。

ホン・サンスが吉田健一をどの程度まで読んでいるのかどうかは知らないが、なんかとっても親和性が高い両者であることはわかる。散歩、食べもの、お酒に読書、酩酊のサイクルぐるぐる。
それにしても、持っていた文庫の「時間」を「それなんの本?」て聞かれて英語ですらすら説明できてしまうモリ、なかなかのやらしい奴だわとおもった。

あとは、これはいつもだけど恋愛の予感とかざわざわ、みたいのを描くのはうまいねえ。モリがカフェの女主人と寝てしまうくだりなんか、時系列が分断されているなかで割と唐突に起こるくせに、こうなることは始めからわかっていた、みたいな感覚がぞわぞわやってくるのでしょうもない。 酒が出てきたならどうせ酔っぱらうでしょ、ていうのに近いかも。

そして、これもいつもだけど、キスシーンがエロい。 


今年のクリスマスソングは、あんましなかったかも。 これくらい。

http://video.vulture.com/video/Bob-s-Burgers-and-The-National

積ん聴き7inchの箱のなかから開封していないJohn Zornさんの2011年のクリスマスシングルが出てきた。ステッカーには”ADVISORY:  This music may cause extreme happiness, big smiles and feelings of euphoria for extended periods” てある。
A面の”The Christmas Song”、しっとりしたピアノに、それ以上に湿ったMike Pattonさんのヴォーカルが貼りついてきてたまんないやつでしたわ。

12.25.2014

[film] The Hobbit: The Battle of the Five Armies (2014)

14日の日曜日、チューリヒ美術館展のあと、六本木でみました。『ホビット 決戦のゆくえ』
3DのHFR(ハイ・フレーム・レート)ていうデジタルの仕様で、通常のが毎秒24フレームであるのに対してこれは毎秒48フレームであるという。 料金は100円高くなるの。

その効果は、あんましよくわかんなかったかも。やたら鮮明でスムーズで少しだけ疲れなかった気がした程度で、デジタル3Dで、ああいうバトル中心のものになると、どうしてもゲームみたいな仮想現実(既視)感がついてまわってしまうのは(こちらの頭んなかが原因かもだけど)しょうがないことなのか。

3部作の完結編で、1作目は見てなくて(こないだの出張のときTVでやっていたのを少しだけ見た)、2作目は見て、でも内容はもうほぼ忘れちゃったし。 復習のためにやってくれたってよいのに、前夜祭のようなオールナイトで1回やってくれた程度だったみたい。

前作のラストで目覚めちゃった極悪竜のSmaugがヒト族の町を襲ってそれをヒト族のバルドが最後の黒い矢を放って射止める、ここまでが導入で、竜の抑止力がなくなっちゃったものだから、その財宝めがけてそれは俺らのだからとりもろせ、っていろんな軍勢力が押し寄せてくるの。

それが原題の”The Battle of the Five Armies”で、5つの軍ていうのは、ドワーフと人間とエルフとどざえもんみたいな風体の邪悪なのがふたつ、の5つ、でよいのか。
その前に閉じ込められていたガンダルフが救出されたり、竜宮に残る邪念にやられて財宝に眩んじゃったドワーフの王子トーリンが面倒なことになっているうち、悪玉たちが闇の穴から大量に湧いてでて善玉軍は絶対絶命になるのだが、王子が漫画みたいに劇的に復活してじゃーん、てなるの。

戦闘シーンは地表をどかどか走って正面衝突が基本で、そのぶっとい迫力はなかなかで、それにちょっと飽きてくると空軍が加わってわーわー、てなって、クライマックスは岩山のてっぺんの氷の表と裏で、そんな動から静への移行もコントラストも悪くなくて、いろいろ考えたんだろうなあ。

でもそれぞれの軍のキャラクターとか戦いっぷりとかよりたまんなかったのは、ものすごくでっかい角のヘラジカとか鎧つけた巨豚とか兎の6羽だて兎車とか、そういう連中だったの。ぜんぶくすぐったいところを正面から突いてきて、あれにはやられた。 大ミミズも見たかったのに。

ダイバーシティ方面でいうとキーリとタウリエルの恋はかなえてあげたかったねえ。

しかしなんといっても、ヒトでいちばんすごかったのは怒りで顔面蒼白になったケイト・ブランシェットだった。 彼女と比べたらどさえもんなんて、“Blue Jasmine”なんて、数光年彼方にふっとばすようなおっかなさだった。

12.23.2014

[art] Masterpieces from the Kunsthaus Zürich

国立新美術館の「チューリヒ美術館展」、曽根中生のあとに乃木坂に移動して見ました。
東京の最終日のいちにち前、16:30くらいに入って約30分間。

見たいのはだいたい決まっていたから早いの。

セガンティーニ(Giovanni Segantini)にホドラー(Ferdinand Hodler)、といったスイス系と、
ムンク(Edvard Munch)の「エレン・ヴァーブルクの肖像」- “Ellen Warburg” (1905)にクレー(Paul Klee)に、なんといってもココシュカ(Oskar Kokoschka)の大きめの絵がいっぱいあったのでうれしかった。

「プットーとウサギのいる静物画」 - “Still Life with Putto and Rabbit” (1914) に
「恋人と猫」 - ”Amorous Couple with a Cat” (1917) に
「モンタナの風景」 - “Montana-Landscape” (1947) ... 「モンタナ...」はよかったねえ。

他にはイッテン(Johannes Itten)の「出会い」- ”The Meeting” (1916)とか、
アウグスト・ジャコメッティ(Augusto Giacometti)- がりがり君ジャコのいとこね - の「色彩のファンタジー」 - ”Chromatic Fantasy” (1914) - サイケ! とかも。

モネのでっかいのはべつにあんましー。
「ナビ派」がヴァロットンとボナールだけっておかしくないか、とか、”Post-Impressionism”が「ポスト印象派」なのはわかるけど、むかしは「後期印象派」って言ってなかったか?(←自分が古いだけでした)、とかブツブツはふつうにあったけど、全体にクールなかんじで悪くなかったかも。

それにしても、東京都美術館の「ウフィツィ美術館展」を逃したのは痛かったねえ。
年内に見ておかないといけないのは、あとどれだけ?

[film] 昭和おんなみち 裸性門 (1973)

見にいかねば、となんだか焦りつつようやく行けたシネマヴェーラの「追悼特集 曽根中生伝説」。
日曜日の昼になんとか2本を。

わたしはそんなにポルノ映画を見てきたわけではないので、その角度から曽根中生を語ることはできないのだが、時代とか境遇とか土地とか家族関係とかによって醸成された人の情念 - 暗かったり荒んでいたり強かったりやけっぱちだったり - とそのほとばしりとして現れるセックスという行為、その反復横跳びとかでんぐり返りとかを描く、ということ、それを60 - 70分のプログラムピクチャーの枠のなかで量産していった、というところに関してほとんどシェイクスピアくらいにすごい、とおもうの。

で、彼の死後に出た自伝のおもしろさときたら、冗談みたいでさ。帯にある「映画=発明」としか言いようがない、映像の、エロの論理を考えながら作っていく痛快さみたいなのがある。

わたしのSEX白書 絶頂度 (1976)


羽田の近くの線路脇のアパートに弟と暮らすあけみは、病院の採血係をしていて、ちゃんとしたいいなづけもいるのに売春のアルバイトをしたり、弟を誘惑したり、いろんなことがある、お話しとしてはそんな程度のものなのだが、一日中ひとの腕に針を刺して血を抜いて、を延々繰り返している彼女は殆どなんも語らず、友人が腹痛で死にかけている弟も含めて画面に現れるあれこれがゆっくりと瓦解しかけていることはわかる。 工事現場の破壊音、突然現れるヘリ(カーテンに影が映る)の轟音、ナース服が透けて見える看護婦、しんみりしたきんたまの歌(なにあれ?)、決して斬新とは思えないのにあんぐりのショットとか変てこな間とかがてんこもりなの。

脚本を書いているのはスクリプターというお仕事を世界に広めた白鳥あかねさんで、監督は先の自伝のなかで「女の書いた映画だからわからん」とか言っているのだが、そのわからなさの炸裂が映画のテーマと見事に合致してエロを巡るひとつの像を作ってしまっている驚異ときたら。


昭和おんなみち 裸性門 (1973)

大正時代、お屋敷で島村抱月の芝居なんかやってて、そこに差しだされた娼婦が侯爵に囲われるのだが、彼女の恋人は剣豪でそのうち侯爵の護衛として出世して、やがて娼婦と侯爵の間には双子が生まれて、娼婦と娘は引き離されて地方を流浪して、娘もおなじように娼婦となって蔑まれ、学生の客として現れた兄と再会したり、剣豪は侯爵に立ち向かって、とにかく大正から昭和にまたがる血と愛欲と権力の超克と弁証法がテーマのびっくり大河ドラマなの。

脚本は大和屋竺で、狙いすぎみたいなとこもあるけど、これがちゃんとした形で(自伝のなかで監督はプロダクションに結構不満たらたら)作られていたらなあ、とも思うし、いや逆にこの雑多に散らばった断片とエロのありようこそが「歴史」として地の涯に蹴っとばしてやるべきもんなのかも。

そういえば一瞬、“Gone Girl”しているところがあったね。

とにかく、なに見たっておもしろいんだから。

12.21.2014

[film] Rok spokojnego slonca (1984)

13日の午後、ポーランド映画祭の二本目で見ました。
『太陽の年』。 英語題は“A Year of the Quiet Sun”。

二次大戦後、廃墟と化したポーランドの町、そこのぼろアパートに戻ってきた中年の女性エミリア(Maja Komorowska)と脚を病んだその母のふたり。 エミリアの夫は戦死しているらしい。

同じ頃、戦犯調査団の一員としてその地に入った米軍の兵士ノーマン(Scott Wilson)がいて、彼は誰も自分を待っていない故郷には帰りたくない、という。

原っぱでひとり絵を描いていたエミリアとそこに小便をしようとてくてく歩いてきたノーマン、そんなふうに偶然出会った二人、でも言葉は全く通じない。 なのにノーマンはまめに彼女と母の暮らすぼろいアパートに立ち寄るようになって、クッキーを売りに出る彼女についていったり、通訳を連れていって仲介してもらおうとしたりするのだが、どれも半端に気まずく終わってばかりのようで、でも互いに吸い寄せられるように惹かれていく。

言葉が通じない状態で恋愛は成立するのか? 成立する(らしい)。 生活に疲れて絶望していたから、愛に飢えていたから、理由はいろいろあるのかもしれないが、そんな理由では片付けられない変な地点にそれが現れることを映画は示す。 地中から発掘される黒こげの遺体の理不尽さと同じふうにそれは降りて浮かんできて、とりあえず、のようにその流れに身を置いてみる。
こうしてとにかくふたりは出会って、恋に落ちた。 激しく、燃えるようにではなく、静かに朽ちるように。

どちらも若くなく、疲弊してて、恋の主人公にはなれそうにないふたりなのに、その渦に巻きこまれてなすすべもなくなっていくふたりの戸惑いも含めた彷徨いと歓びがしんみり伝わってきてとってももよいの。 どこかしら成瀬巳喜男の映画みたいな。

暴漢に押し入られて荒らされたり、隣部屋の娼婦は騙されたり、もうこの土地にはいられないとエミリアは出国を決意するのだが、出て行くにはブローカーにお金を払わないといけなくて、でもお金はなくて、自分を犠牲とするかたちで最愛の母は亡くなってしまい、最後の最後に彼女は諦める。 向こう側で彼が待っていることを知っているのにその地に留まることにしてしまうの。

どこかで聞いた戦争が絡んだ悲恋モノ、のようでありながら、時代や状況がそれを許さなかったごめんなさい、ふうには描いていない。 出会ったところから既にふたりの恋は失われていて、成り立ちようのない危ういものであることを知っていて、その脆弱な状態のままそこに留まって潮の干満に身を置いたかのような。 ふたりが出会った年、それは月というより静かな太陽の年だったのだ、と。

... Love will Tear Us Apart (again)

そしてラスト、あんな場所に飛んでいったのにはびっくりした。 恋の立ち現れや消滅はどうすることもできないのかもしれないが、その情の強さは例えばこんなことをやってのけたりするんだねえ。

12.20.2014

[film] Pora umierać (2007)

ポーランド映画祭2014からの一本。 13日の14:00からの。
上映前、受付の方に大声で文句を言っている男性客がいたけど、なんでこの映画祭って毎年そういういきりたったひとが現れるのかしら?

『木洩れ日の家で』。英語題は”Time to Die” - 原題のニュアンスもそっちのほう - 「死んだほうがまし」だという。 ぜんぶモノクロの映画。

ワルシャワ郊外、森の奥の古くてでっかい一軒家に暮らす老婆アニェラ(Danuta Szaflarska)と犬のフィラデルフィアの日々。 それは木漏れ日のなかでの長閑でほんわかした毎日を描く、というよりはいろんな隣人とか自分と同じように壊れかけた大きな家のなかでどんづまりを実感して悪態ついてばかり、みたいな。 「木洩れ日の家で」のタイトルでこれがジブリのアニメだったりすると、気難しい老人のそばに寄り添ってくる子供とかなんかの精とかが現れて毎日をありがたやにしてくれたり奇跡を起こしてくれたりするのだろうが、そんなことはちっとも起こらなくて、つまりは”Time to Die” じゃろ、ていう呟きとかボヤキががらんとした家のなかに響く。

老年に差し掛かった息子は早く母に施設に入ってもらって家を売り払うことしか考えていないし、孫は祖母の指輪くらいにしか興味がない、他にも怪しげな連中とかガキ(ドストエフスキーていう名前)とかが来て、フィラデルフィアが追い払ってくれるのだが気が抜けない。

時折、恋人と出会った頃とかバレエの衣装を纏った少女の頃の自分が映し出されて、その美しさときたら息を息を呑むくらいなのだが、それは彼女が見ている白日夢なのか、家の隅々にある過去の遺物の投影の連鎖なのか、ただそれらの記憶が輝ける光となって暖かく彼女を包んでくれるかというとそんなことはなくて、古くなった家具みたいにそこに置いてあるだけのようなの。

でもそれでも古くでっかく建っているお家、その大きな窓ガラスから射してくる光はそれだけで圧倒的で、その光が多少歪んでいようが狂っていようがアニェラの生そのものであるかのようにそこにある。 そこにあった時間も含めてだれにも渡せるもんではないし、渡すもんか。

さいご、彼女は隣で子供のための音楽教室をやっていたカップルにこの家を譲ってしまってざまあみろなのだが、それを言っているのはアニェラのようでもあるしお家のようでもある。

やかましいくらいの鳥の声、樹や調度のきしみ、雨に雷、庭先のブランコ、等々がとても丁寧に撮られていて、それだけで十分だったくらい。 あの家、ほしいかも。

あとはわんわんのフィラデルフィア。 あんた文句なしの名犬よ。

12.19.2014

[film] Alive Inside (2014)

13日の土曜日、イメージフォーラムで見ました。ポーランド映画祭のチケット買って、14:00の上映まで時間が空いたのでなんとなくー。

邦題は「パーソナル・ソング」。でも映画のなかでは「パーソナル・ミュージック」て言われていたような。 2014年のサンダンスで観客賞を受賞したドキュメンタリー、だそう。

認知症で塞ぎこんでいる老人にiPodで音楽を聴かせたら突然記憶が蘇ったり元気になったりしたのを見たソーシャルワーカーのおじさんが、そういうケースを紹介しながら音楽と記憶、老いの不思議な関係を追っかけつつアルツハイマーの治療に音楽を、ていう運動を始める。

Oliver SacksとかBobby McFerrinといった有名人の解説に、じいちゃんばあちゃんたちの愛する懐メロがいっぱい。 そんなにおもしろくなくはないけど。 ふうん、程度だけど。

音楽が、ふと耳にした音楽の欠片が頭の底の記憶を呼び覚ます、或いはいつか、どこかの記憶に到達しそうなもどかしい何かを喚起する、それってボケていなくても割と普通に起こる - 歳とるとそんなのばっかしになる(はぁ…)、のは十分にわかっている。 
あるいは数年前、寝たきりになった祖母の耳元で、娘(自分の母)が昔一緒に歌ったうたを歌ってあげると自分も楽しそうにずっと歌って元気になるとか、そういう話もふつうに聞いていたので、今更そんなこと言わなくても、とか。

なんかね、映画のなかでも少し触れられているけど、音楽の力はすごい、認知症の治療に役立つ、とかいうことよりも、問題とすべきは老いやボケ問題を介護施設の向こうに追いやって介護ワーカーとか薬物療法とかの方に投げしてしまおうとする - 臭いものにはフタばっかし - の構造(社会の、コミュニティの、我々の頭の - )のほう、じゃないのか。 なんて言っているうちに介護予算を更に削減とか、ふざけんじゃねえよ!のこの国の —

音楽とヒトの変な関係、みたいなところだったらこないだ文庫で出たOliver Sacksの「音楽嗜好症」とかのがおもしろいと思うし。

あと、ここで使われるのはBeatlesとかBeach BoysとかLouis Armstrongとか誰もが知ってる筋金入りの名曲ばっかしだけど、そうじゃない微妙な曲だったらどんな反応になるのか、或いは曲の喚起する記憶がその人にとっておぞましいものだったらどうなるのか、とか。 それと、じゃあ音楽ずっと聴いているひとはボケないか、ていうとそんなことないと思うし。

音楽って、聴くひとを幸せにしたり元気にしたりする、そんな単純な美しさのなかに鎮座しているだけのやさしいやつなんかでは決してない、と思うわけです。 だからこそずっと囚われて、でも抜けられなくて、が続いている。

自分が認知症になったら。 高校の頃、周囲に鉄壁をつくってくれたTGとかCabsとかSPKとかを大音量で聴かせてやってほしい(誰に言っているの?)、そのとき自分はどんな反応をするのか、見てみたい。
メタル聴いてきてボケちゃったひとに聴かせたら突然ヘッドバンギングはじめて失神して昇天、とか。
そんなくだんないことばっかし浮かんでしまうのだった。

音楽以外だと、食べものとか香り、もきっとあるよね。
なんにせよ、“Alive Inside”である、と。

12.18.2014

[film] Fargo (1996)

いっことばしてた。 8日、月曜日の晩、日本橋で見ました。
昔、米国でTVで見たきりだったので。 BD上映だけど、冬の映画だしいいかも、て。

凍てつくアメリカの田舎で、お金に困ったWilliam H. Macyが妻の誘拐をやくざに依頼して身代金の半分を分け前として貰うのを企んで、おしゃべりでやかましくて女好きのSteve Buscemiと無口で煙草ばかりふかしていて不気味なPeter Stormareの2人組に車ごと託して、連中はやかましい妻をなんとか誘拐するのだが、妻を運ぶ途中の雪道で警察に止められて面倒になったのでそいつを殺して、更にそこを目撃されたもんだからそいつらを追っかけて殺しちゃうの。 その捜査にあたったのが身重のFrances McDormandで、だんだんに追いつめていって、誘拐を企画したWilliam H. Macyは身代金の受け渡しをどうするかで金を出すのは俺なんだから俺がいく、ていう義父ともめてぐだぐだして、結局義父が引き替えに行くことになるのだが、Steve Buscemiと撃ち合いになって義父はしんじゃって、血まみれになったSteve Buscemiが隠れ家に戻ると人質は殺されてて、なにやってんだバカって喧嘩したらうるせえこのタコ、ってPeter StormareはSteve Buscemiをミンチにしちゃうの。 こんなおはなし。

真っ白でみんな凍えて荒んでいる田舎で間抜け共が起こした滑稽で陰惨な事件と、寒すぎるので丸くなってぬくぬく朗らかな大食いの警察のおねえさんがやんわりとぶつかって、とりあえず事件は解決するのだが、解決ってなんなんだ寒くてしゃあねえやい、ていう。

しかもこの、冗談みたいになし崩しで転がっていく(見られたら殺しちゃう、やかましかったら殺しちゃう)おはなしが実話(登場人物の名前は変えてある)だっていうんだからなんというか。
何人もの人が殺された事件で正常異常言ってもしょうがないのはわかっているけど、誰になに言ってよいのかわからない全身が雪で埋まっていくようなかんじときたらなんだろ。

この前の日に見た”Devil’s Knot”とおなじような「現実」世界の救いようのなさ、がちがちに寒いんだからどっちにしたって救いようなんてないのよ、って。

がちがちの冷たい世界をフレームにおさめたのはRoger Deakinsさん。ぜったいあの土地の上に立って風に吹かれたくなんかない。

今年からFX TVで始まったTVシリーズの”Fargo”も見たいなあ。(Joel & Ethan Coenはexecutive producer)

12.15.2014

[film] Gone Girl (2014)

あーつまんねえ国。ぜんぶなくなっちゃえ。

12日の金曜日の晩、六本木で見ました。 初日にしては割とがらがらだったかも。
前日の「スガラムルディの魔女」に続いて、女性恐怖症モノ。 「スガラムルディ...」がおっかないようー、て逃げまくるのに対して、こっちはおっかないようー、て半泣きしながら追っかけるの。

以下はたぶんネタばれみたいなところもある。けど、別にネタばれたからどう、ていうもんでもないもんなのこの映画は。  ちょっと引きつったラブコメみたいに見ることだって。

ある朝、Nick (Ben Affleck)が家に戻ると居間のテーブルが壊され、血痕みたいのがある状態で妻のAmy (Rosamund Pike)がいなくなっていた。警察を呼んで双子の妹のところに身を寄せて、記者会見して公開捜査に踏みきり、遺された手掛かりを手繰りつつAmyの足跡を辿っていくのだが、いろんなことが明らかになればなるほど、Nickにとって不利な - 実は夫が妻を殺して隠したんじゃないか - 証拠とか証言とか事実(彼女は妊娠していた)ばかりがぞろぞろ出てくるの。

二人の出会いから年ごとの関係の変化を追いながら、彼女の過去と現在、彼女にはなにがあって、今はどうなっているのか、どうなっているはずなのか、を想像してみろ(→ 男共)、ていう。

幼い頃から”Amazing Amy”として育てられてきたAmyにとって自分よりバカで愚鈍な男ていうのはありえない、常に機転のきいた会話とかイベントを提供してくれるもの、結婚生活もその延長でなくてはならなくて、相手がその集中力を保てなくなり鈍化の兆候を示しはじめたところで、じゃあ消えてみるか、になる。ほんもんのバカだったらどうせついてこれないし、それで終るんだったらそれだけのもんにすぎなかったってことよねさようなら。
他方、Nickにとって女は自分が楽しませてあげなきゃいけない対象で、相手が求めてくるんだったらそりゃがんばるけど、でもなにやってもついてきてくれなくて的が外れるのだったら、もうそんなのいらんわやめるわ、になる。

Amyていう”Girl”が求めてやまなかった「大事にしてね」、が履行不能になったときに例えばこんなことが起こる、こんなことを起こすことができる、その極端な一例がここにあって、でもAmazing Amyだったらやりかねない。 でもさあ、このふたりみたいな二人って、わりとどこにでもいるよね? 時間が経てばだれでもそうなるんじゃないの?  ちがうの、そうじゃないの、Girlっていうのは。 だからこその”Girl”なの。なめんなよ。

Nickがきちんと理解できなかったのはこのあたりのところで、そもそもの愛が醒めてるんだから理解なんて無理だろ、て言いたいのかもしれないが、理解できなかった/しようとしなかったばかりにこんなひどい目にあった。 残念ながら、裁判して勝てるようなお話しでもないし。

こうして最初から最後まで「なに考えているんだかわからない」Amyの頭蓋の奥にあるものの不気味さと恐ろしさ(ママはそんなこと教えてくれなかったよう)を涙目で訴える男映画になった。
でも、そんなに性差の線引きを強いるようなもんでもなくて、Nickの双子の妹Margo(Carrie Coon)は彼と彼女の中間にいるし、高校の頃からAmyを慕っているNeil Patrick Harrisは、これもまた別の生態系にいる特異な生き物としていたりする。

そして、そんなふうに世界は頭蓋の中と外とできれいに閉じて分かれていなくて、もっともっと猥雑で雑多なもんだったことがじわじわと曝されてくる後半のドライブはなかなかすごくて、しかしAmyはそれを超えてPowerfulでAmazingだったという。
では果たして、”Gone Boy”のお話は成立するのか? たぶんしない気がする。

Rosamund Pikeさんはすばらしい。 めちゃくちゃ堅い頭蓋と顔の皮と、そのひんやりと。
Ben Affleckさんは、我々のイメージのなかにあるBen Affleckさんで、それはつまり"Chasing Amy" (1997)とか"Jersey Girl" (2004) とかに出てくる、Jersey Boyとしての彼どまんなかで、だからこの物語をKevin Smith氏が撮っていたらどうなっていたか、とかちょっと夢想する。

あるいは、Richard Linklaterが”Before... ”ではなく”After... ”の物語として撮るとか。

音楽に関していうと、"The Social Network" (2010) -> "The Girl with the Dragon Tattoo" (2011) -> “Gone Girl” (2014) ときたDavid Fincher & Trent Reznorの連携を仮に「想いを遂げられない」3部作とすると、今作においてその可聴帯域の境界を彷徨うノイズの圧迫感、幻聴感、は最高のレベルにあって、もはや誰にも真似できるものではない。 この二人に撮影のJeff Cronenweth(62年生まれ、DFも62年生まれ、TRは65年)も加えると、彼らの構築した世界がいかに独特で、隔絶された変なやつかが、見えてくるのではないか。
フィクションとして遥か彼方にあるようで、実はまぶたの裏側のひたひたのなかにあって、すぐそこに潜んでいるような(どの作品でも水中のイメージが象徴的に使われていたり)。

ああ、消えちまいたい。

12.14.2014

[film] Las brujas de Zugarramurdi (2013)

10日木曜日の晩、どうしようもなくジャンクでバカみたいやつ(でも流血とか気持ち悪いのはいや)が見たくなって、たまたま渋谷でやっていたので見ました。 
「スガラムルディの魔女」。 英語題だと “Witching & Bitching”  <- これすてき。

冒頭、どうみても魔女、みたいな3世代の女たちが山奥で鍋をつついて救世主がやってくるわ、とか言ってて、それに続き、賑わっている街中で、着ぐるみをつけた偽キャラとか全身金塗り(キリスト)緑塗り(ソルジャー)の連中がなんか目配せして金モノ買いますの店に押し入って、金メッキされた指輪とかをいっぱい強奪して警察との銃撃戦のあげく(哀れスポンジボブ…)、これも強引にジャックしたタクシーでなんとか吹っきることに成功する。

車に居合わせたのは運転手の他に、でぶはげの親父と金塗りキリストと彼の息子、緑塗り男の5人で、みんなそれぞれ訳ありで女を恐れていて、特に金塗り野郎は、Ex-妻を病的に恐れていて、実際にニュースで息子を奪われたと思った彼女は怒りまくって彼らを追っかけてくる。 ついでに参考人の彼女に逃げられた警察2人も後から追っかけ始める。

で、車は途中、怪しげな居酒屋の検問をパスしたあと、スガラムルディの森の奥に入っていくとそこはお待ちかね魔女の巣窟で、全員総出でヒヒヒ、って宴の準備してて宴には生贄が必要だから、ごきぶりホイホイなの。追っかけてきたExも警察も同様。 で、ここからは定番の血まみれサバイバルか、とか思ったらそんなでもないの。
最初は警察と妻から逃れて、次は魔女たちから逃れる、とにかくひーひー逃げまくってばかりで、でも絶対死ななくて、生きて帰るぞ、て言ってて、その振り返らない潔さとやけくそのスピード感がなかなか心地よい。

スペインのマッチョな男達が終始べらべら喋ったり泣いたり叫んだりせわしなくて、でも要は、そーんなに女が怖いか、おっかないか? ていうことなの。 最後に奥からでーんと登場する「母」なんて、まあ予測はできたけど、あれじゃフランシス・ベーコンの絵だか、ユビュ王だよね。 

そしてまさかの、冗談みたいなハッピーエンディング…  そういうのも含めての悪趣味。だけどあんま嫌いじゃないかも。エンドロールで流れるスカパンクみたいのもはまっている。

特殊効果とか雑でいまいちだったからハリウッドでちゃんとリメイクしたの見たいかも。
魔女人材はいくらでもいるしー。 監督はやっぱしJohn Watersさんあたりで。

12.13.2014

[film] Devil's Knot (2013)

7日、日曜日の夕方、新宿で見ました。

93年、アーカンソー州で起こった"West Memphis Three"と呼ばれる3人の男児惨殺事件の実話を元にしたドラマ。
この事件については既にいろんなドキュメンタリーとか証言録とかが出ていて、この映画の原作もそういう実録本のうちのひとつで、今更これが真相だ、とか、見えなかった闇をえぐりだす、みたいな「濃い」ものにはなっていない。 事件の発生から20年経って、あれはなんだったんだろう、と全容の不可思議さを振り返ってみるかんじが強い。

93年、5月の午後から夕方にかけて、自転車に乗った3人の男の子が森の奥に行って、夜になっても帰ってこなくて、やがて両手両足を縛られた全裸の状態で沼の底から見つかる。 やがて黒ずくめのメタル聴きを筆頭とする10代の青年3人が捕まって、陪審員裁判が始まるのだが、検察 - 警察側の証言や証拠には怪しいところが沢山でてきて、でも3人は有罪(死刑1, 終身刑2)となる。 このへんは"West Memphis Three"で検索するといくらでも出てくる。

映画は、事件が起こってから突然現れた証人とか証言の唐突感、その感覚を引きずりつつやはり突然容疑者として特定されてしょっぴかれた3人の青年の困惑した姿を捉えつつ、やがてこれは現代の魔女狩りではないか、と感じ始めた弁護士側の調査員(Colin Firth)、事件で息子を失って悲嘆に暮れる母親(Reese Witherspoon)のふたりの目を通して決して一筋縄ではいかない事件の、審議の様相を表にだす。

なんであんな陰惨な事件が起こったのか、でも、なにが犯人をそうさせたのか、でも、これら不可解な事件の謎謎あれこれを無責任にばらまく、のでもなく、なんで警察は軽々と犯人を特定できたのか? - 特定するためにはなにが必要だったのか? みたいなところを、なぜ? なぜ? なぜ? と掘っていく。

平気な顔でその証拠は失くした、残っていない、とかいう警察、思考停止して連中は悪魔だ、しか言わない被害者の親たち、事件が発生した時間帯にレストランに現れてどこかに消えた血まみれの男、などなど、こんなふうで容疑者をあげられたことのほうが不思議だし、捜査の過程で恣意的な誘導が行われたとしか思えなくて、もちろん、この映画も逆向きの誘導である可能性もないとは言えないものの、未だにこれだけの疑義や検証モノが立ち上がってくるところを見ると、やっぱし変だよね、と誰もが思う。
映画は、そういうどん詰まり感と不寛容、無念さ、全体としてそれらを許容してしまう生ぬるく気持ちわるい湿気をこちらに吹かせてくる。

んでね、言うまでもなくこれは今の、アメリカだけではなく日本のお話でもあるの。Another Knot of Devils.
あんな法案が施行されてしまった以上、対岸の火事でもなんでもなくなるし、もうなくなっている。
そんな暴挙を、腐れたじじばばの傲慢を許してしまったのは、間違いなく自分たちのせいでもあるのだから、投票には行け。  この先は絶望か亡命かしかないのかもしれなくて、最後っ屁かも知れないけど、それでも。

93年というと、丁度NYで暮らし始めたばかりの頃で、この騒動があったことはよく憶えている。既に何度も繰り返された、なんでいっつもメタル聴きとかSlayerとかばかりが悪者にされてしまうのか? 論争のリプレイで、またかよ、と思いつつも文化ってなんなの? を考えるよい機会にはなる。 どうやってあの連中と戦うべきなのか、とかね。

12.10.2014

[film] The Double (2013)

7日の日曜日の昼間、渋谷で見ました。「嗤う分身」

これも終わっちゃいそうだったし、だが、なにがなんでも見たい、というのでもなく、Richard Ayoadeで、Jesse Eisenbergで、Mia Wasikowskaだから、程度の。

原作はドストエフスキーの「二重人格」もしくは「分身」。  邦題についている「嗤う- 」がどこのなにを示そうとしているのかは不明。
分身が現れるはずのないようなところに現れる、という不条理劇として描くか、そいつが現れるべくして現れるその背景心境も含めて丁寧に描くかで結構変わってくると思って、ドストエフスキーの原作はどちらかというと後者で、でもこの映画はあれこれ端折って前者みたいなかんじになってしまっているような。 安易にカフカ、と言うべきではないのだろうが。

「大佐」がすべてを支配している官僚機構のなかで、通勤も仕事もなにもかも縛られて囲われてぜんぜんぱっとしない主人公の脇をすり抜けるように突然現れたそいつは、みんなの人気もさらうし、女の子も持っていっちゃうし、自分のやるはずだった仕事の手柄も持っていっちゃうし、とにかく自分と同じように見えるそいつはいつもへらへら笑っていて楽しそうで気にくわないったら。

という物語がドイツ表現主義ふう、「メトロポリス」ふう、「オーウェル」ふう、の陰影の濃い、どんづまった空気感、BGMで流れてくる音楽(なぜか昭和歌謡)は「上を向いて歩こう」とかいうけど日本語だから意味わからず - などなどと共に描かれていてわかりやすい。 「これはあなたのお話し、かもしれない」的な教育的誘導もたっぷり。

こんなふうに破綻して壊れていく若者のお話が破綻なくきっちり描かれていて、うまいねえ、と思う一方で、絶望とか恐怖とか、そういうのの底の底までを掬いきれていないかも、というあたりがなんか。 最後に主人公が「これで本当の自分に戻れる」みたいにつぶやくとことか、原作は置いておくにしても、基本はやさしいんだねえ。

ただ、Jesse Eisenbergの演技のすばらしさは誰もが認めなければなるまい。 "The Social Network"で業界のてっぺんに立つことになるITやくざの顔と、その裏でRooney Maraに未練たらたらの萎れ顔と、その切り返しの鮮やかさと変わり身(とは違うけどね)の速さはこのひとならでは、だと思った。

Mia Wasikowskaさんの使い方は、ちょっともったいなかったかも。 "Stoker"にあった、ばっさり殺っちゃう刃物の凄味が見られると思ったのに。

でも分身事件よか、いちばん謎で気になったのは、あんなところでJ. Mascisさんはなにをしていたのか、ということだ。 (しかも、2回くらい出てくる)

12.08.2014

[film] Interstellar (2014)

6日、京橋のあと、有楽町で見ました。
なんで有楽町かというと、ここでは35mmプリントで上映してて、監督本人もデジタルよりはこっち、と言っていた気がしたので、そうした。 (NYでも、BAMとか、ちゃんとした上映館は35mmです! って上映していたの)

冒頭でやわらかく舞う塵とか、ディスプレイのくすんで滲んだ青とか、これはどうでもよいけど字幕の浮いたかんじとか、デジタルよかこっちの方がよいの。すきなの。

Christopher Nolanの"The Dark Knight"にしても"Inception"にしても、個人的にはあんまし感心していなくて、"Inception"で夢がどれだけ入れ子になっていようが、"The Dark Knight"でどれだけ悪と倫理がせめぎあおうが、まじめだねえあんた、とは思うものの、結局どうでもええ、勝手に眉間に皺して悩んでろ問題、ということにつきたの。  今度のはそういう袋小路がなくて、風通しのよいかんじがした。 それはどっかの学者のなんとかいう理論のおかげ、というよりは、Matthew McConaugheyのせい、というのは誰もが思い当たるところではないか。 こいつがどれだけべらべら喋りつつ泣こうが叫ぼうがなにかを変えることはない、けどこいつは、確実になにかを地点Aから地点Bに向かって動かしてしまうのである。

近い将来、地球は飢えるか窒息するかで、サステイナブルではなくなることがわかっていて、農家をやっているCooper (Matthew McConaughey) もそんな気はしているものの、どうすることもできなくて、娘のMurphの部屋のポルターガイストだか幽霊だかのメッセージみたいのを手繰っていったら、とうに潰されたはずのNASAに行きついて、Michael Caineから人類の将来に関わるある計画を告げられる。 人類をまるごと別の星に移住させるか(Plan A)、人類の種をどっかの星に移植するか(Plan B)。 下調べのための先行隊はすでに飛んでいって、土星の近くのワームホールの先に3つの候補星があることはわかっていて、Plan A実現のためにはある方程式を解かなきゃいけないんだけど、たぶんあとちょっとで解けそうな気がする。 で、元飛行士だったCooperくん、飛んでくれたまえ、とか言ってくる。

まともな神経の持ち主ならこんな依頼受けるわけないのだが、Matthew McConaugheyは受けてたって、人類のためというよりは娘のために宇宙にとんでいって、さて。

ここから先の冒険は見たほうがおもしろいと思うのであんま書かないけど、ワームホールの先にはブラックホール(ガルガンチュア、だって)があるし、重力のきつい星で波乗りしたら地球では23年過ぎちゃってなんてこった、て悲しんだり、人類じゃなくて結局は身内が大事なんじゃねえか問題とかいろいろ噴出して大変なの。

そんなの最初の想定にいれとけ、とかそんなの事前にディスカッションとか洗脳とかやっとけ、みたいなのがてんこもりなんだが、みんな大変だったんだろうな、と許す。 結局はCooperが捨て身、ていうか馬に乗るみたいにひょい、てひとり(+ロボ一体)で突っこんでいってなんかをなんとかしちゃうの。 (本人にも事情がわかっているようには見えないけど)

未知のなんかに遭遇したり体験したりした人類が次のレベルに進化する/もしくは破滅する、ていうのがこういうSFに求められるドラマのありようだと思うのだが、Matthew McConaugheyの場合、そういうのはあんまし関係なさそうなの。興味もなさそうなの。

「2001年宇宙の旅」との比較で語るひともいるようだが、どっちかっていうと「銀河ヒッチハイクガイド」のほうだとおもう。 ぜんぜんコメディではないのだが、スラップスティックでスクリューボールで。 恒星間で自分が投げたスクリューボールに自分で巻きこまれて死にそうになって、でも死なない。

最後の最後、あそこで待っていたAnne Hathawayが特大のビンタをくらわせたはずで、その音だけでも聞きたかったなあ。

あと、Matt Damonあの顔で「人類はもうだめなんだ」、とかいうのは笑えたけど、あそこに登場するのがGeorge Clooneyでもおもしろかったのに。

そしてHans Zimmerの音楽、すばらしいねえ。宇宙に響き渡る鍵盤のおと。
Dylan Thomasの詩はどうなのかしら。 繰り返されればされるほどちがうかんじが。


時折、部屋に積んである本がなんもしていないのに崩れることがあるのだが、これはなんかの信号かもしれないので、お片づけしないほうがよいのだね、と改めておもった。

[film] 空想部落 (1939)

6日の土曜日、京橋の千葉泰樹特集で見ました。 ひとつくらいは見ておきたくて。

Webの解説文によると「1939年、映画国策を提唱した代議士・岩瀬亮により南旺映画が設立され、その第1回作品として本作が製作された」ということで、国策、とかいわれると引いてしまうのだが、その「国策」の「第1回作品」という割にはなんかほんわか気の抜けたやつだった。

原作は新聞の夕刊に連載された尾崎士郎の同名小説。
馬込文士村と呼ばれた村に暮らしていた作家たち - 尾崎士郎本人の他に、宇野千代、川端康成、萩原朔太郎をモデルにした人物も出てくるらしい。 読んでみたいかも。

きれいな月夜の晩に5人くらいのべろんべろんの酔っ払いが与太話をしながら歩いて自分たちの村に帰ろうとしているようで、村長を呼び出せとか、誰それを呼べとか言って、みんなでわあわあ集まっておまえの文学はなってない、とか取っ組み合いしたりして、そこで名指しされた横川太助(千田是也)のところに怪しげな女が訪ねてきて、しばらく姿を消したと思って再会したら立派な格好してアジアのどっかにある安南国の独立運動に関わっていたとか言って、べらべら顛末をしゃべるのだが怪しくて、またどっか消えて、こんどは豪邸にみんなを招待して御馳走くれて、でも結局ぜーんぶ法螺なのよねー、ていう。

そういうのが起こってしまうのが馬込文士村で、時の経過と共に村は町へと大きくなって、各自もそれぞれ一見立派な人物になっているように見えて、でも肝心なところになると、法螺を言うほうも聞くほうもふらふら浮ついているので、すげえなあ、とか、あいつらしいよなあ、とかで終わってしまう。  誰も傷ついていないみたいだし、妄想のなかで遊んで幸せそうだからいいんじゃないの? くらいの。

でもさあ、なんのためにそこまでやるの?  が最後まで引っかかってきて、結局「空想部落」なんだからいいのだ、とか断言されてしまいそうで、ぐだぐだになってしまうのだった。
やっぱし酔っぱらいにはかなわん、とか。

12.06.2014

[film] Tom à la Ferme (2013)

3日水曜日の晩、新宿で見ました。 終っちゃいそうだったし。

冒頭、ちり紙に青色のペンで「ぼくの半分は死んだ」とかなぐり書きする手があって、車でどこかに向かう途中、嗚咽している男の子がいて、彼は携帯も繋がらないようなとこにある一軒家に着いて、でも誰もいないのでその家のテーブルで寝てしまう。
目覚めると少し窶れた老女が立っていて、彼女と彼の会話から彼は彼女の息子の葬儀のために来たらしいことがわかる。 寝ていると亡くなった彼の兄(老女の息子)と思われる男に叩き起こされ、きちんと弔辞読めよ、とか脅されて、なんか歓待されていない不穏なかんじが伝わってくる。

亡くなったのはトム(Xavier Dolan)の恋人だったギョームで、ギョームの母親のアガット(Lise Roy)と兄フランシス(Pierre-Yves Cardinal)はトムとギョームの深い仲なんて知らず、つまりトムがどれだけの喪失感と絶望のなかにいるかなんて知らず構わず、フランシスはトムに、母親を悲しませたらただじゃおかねえからな、てトイレの個室でぐいぐい脅しつけてくる。

そのあまりに粗野で乱暴な扱いにあたまきたトムは車でおさらばしようとするのだが、なんでか戻ることにして、フランシスの農場で牛の世話とかしながら一緒に暮らすことになる。 フランシスはママのいないところではどこまでも野蛮なくそ野郎で、トムはぼこぼこの傷だらけになったり自分の車を潰されて逃亡できなくなったりするのだが、ギョームとの過去にけりをつけるためか、ギョームの育った環境に浸りたいためか、フランシスの暴力になにかを感じてしまったのか、或いはフランシスにやり返してやるためか、なんともいえない無表情とか薄ら笑いとかを浮かべてフランシス、アガットとの変な3人暮らしにはまっていって、さて。

トムとギョームとの関係はどんなだったのか、ギョームはなんで、どんなふうにして死んだのかは明らかにされないのだが、果たしてそれを愛と呼んでよいのか他人にはわからない、がんじがらめになってずるずる抜けられなくなってしまう関係の典型がそこにもここにもあって、その不可視で不気味なかんじがサスペンスとしてもたまんなくて、それは虐めっ子フランシスひとりが悪いともいいきれない、トム、あんたもさあ、それを言うならギョームだってさあ、とか。

なんだみんな性悪なのか。 でも愛は。あのキスは。

前作『わたしはロランス』でもオトコとオンナの身体と精神のモンダイに仮託しつつ当事者同士にしかわかりえないような強くしぶとい愛の絆をねっちり描いていたが、これも人里離れた農場で互いが互いを探りあい罪の意識に苛まれつつも三つ巴の団子になって転がり落ちていく、その底なし感が、なんだろ、気持ちよいんだかわるいんだか。

エンディングでRufus Wainwrightの”Going to a Town”が流れだしたので驚いて、それが実にはまってしまうことに更にびっくりした。
“Making my own way home, ain't gonna be alone” と言いながら既にそれにうんざりしてしまっている自分、とか。

これ、シリーズ化すればよいのに。 酒場のトム、墓場のトム、学校のトム、海辺のトム … あれ? トムのファミリーネームって、リプリー?

はやく次の”Mommy”、みたいねえ。

12.05.2014

[film] Boyhood (2014)

今宵(12/5)はとってもすてきなお月さまがいらした。

30日の日曜日の午後、日比谷で見ました。

邦題はまじで最低である。冒瀆、と言っていいくらいよ。
「6才のボク」は語り手でもなければ、自分を「ボク」呼ばわりするわけでもなければ、周囲の大人がこいつのことを「ボク」と呼んでいるわけでもない。そして彼の「大人になるまで」が描かれているわけでもない。「ボク」とか「大人」といった幼稚な呼び名や区分から遠く離れたところで彼と家族の傍を流れる時間、そのありようを示している。 だからこその「12年間」(当初のタイトル)であり"Boyhood"であるのにさ。 

6歳のMason (Ellar Coltrane)はママ(Patricia Arquette)と姉 (Lorelei Linklater)と暮らしていて、バイオロジカル・パパ(Ethan Hawke)とは別居してて、大学で心理学の勉強を続けながら2人を育てるママは、パートナーを割ところころと変えて、そのたびに住む場所も家も変えて、そういう環境でMasonは利発で快活な少年としてすくすく… なわけはなくて、どちらかというと内向的でなに考えているかわからないような子供になる。 彼の内面の声が外に出ることはなく、それを代弁したり理解してくれたりする「かけがえのない」誰かが現れるわけでもない。 こういう少年~青年映画に求められがちな誰かとの死別とか離別とか暴力とか虐待とか辛酸とか性体験とかが、劇的な転換点として描写されることは一切なくて、家族が変わったり土地が変わったり、みんな(家族、友人たち)で集まったり、のような場面ばかりが淡々と続いていく。 語りも字幕(x年後...とか)も一切なくて、たまに登場するおしゃべりパパ - Ethan Hawke がいろんなことを勝手にべらべらと総括してくれる、程度。 そんなふうにして6歳から18歳までの12年間が、165分で描かれる。 

同じ登場人物たち - 特に主演の少年は変化が激しい - を12年間に渡って追った、しかもフィクションの世界で - ということばかりが話題として強調されがちだが、Richard Linklater &  Ethan Hawke組の場合、そんなに驚く必要はないの。 こいつらは、"Before Sunrise" (1995) ~ "Before Sunset" (2004) ~ "Before Midnight" (2013) の三部作で一組の男女の出会いから瓦解までの18年間を294分でしゃべり倒している前科があるので、今度のはその変奏、と見てよいのかもしれない。 もちろん、"Before"3部作はJulie DelpyとEthan Hawkeという卓越した二人の俳優がいたから、というのがあったにせよ、"Before Sunset"のときのトークで、「ぼくらは文芸おたくだから、こういうのを練り上げるのは大好きだしぜんぜん苦にならない」と威張っていたRichard LinklaterとEthan Hawke組からすると、今度のはとても楽しいネタだったに違いない。 とくに頭のなかにいろんな言葉がとぐろを巻いている思春期のガキのあれこれを眼差しや挙動も含めて表に引っ張りだそうとするのって。

そういう彼らの「手口」みたいなのが表に出るところが最後の方の、パパとMasonの会話にあって。
べらべらいろんなことをしゃべりまくるEthan Hawkeに向かってMasonは「その話のポイントってなんなの?」- パパ「ポイント、ってなんだ?」 - Mason「なんでも。ぜんぶ(Everything)とか」 - パパ「ぜんぶ、なんてないんだ。いいか、こんなの勢いでしゃべってるだけだ .. 」 とかいうの。 このへんにRichard Linklaterの映画のコアと拡がりがあるのね、てみんな膝をうつの。

そしてラストの、女の子とMasonのふたりのカット。 まさにここから次の”Before”サーガが始まる(The Force Awakens… )、恋が呼吸を始めようとする、光を放とうそするその瞬間の、ぞくぞくくる生々しさと共におわるの。 

MasonのBoyhood、それは同時にある時代/アメリカの中西部に暮らす家族のありようも映しだしていて、911からブッシュ政権のイラク派遣のうんざりした混乱と疲弊を抜けてオバマ政権誕生のあたりまでの割とどんよりした季節からすこしだけ光が見えたあたり、もバックグランドには確かにある。 ブッシュ憎し、でがんがんオバマを支援していたパパが、再婚したら相手の父は猟銃ラブのごりごりじじいだった、とかいかにもありそうで笑える。

音楽も同様でねえ。 ものすごいメジャーでどまんなかの曲は避けて、あの頃の苦笑するしかないような微妙なやつを流しまくるから、ところどころたまんなくなるの。

というわけで、ついこないだ発表されたNew York Film Critics Circle Awardsの作品賞も監督賞も、当然だとおもった。 まだまだいっぱい貰っても不思議じゃない。


それにしても、American Football来日はとってもうれしいけど、日にちが2015年6/29て。
(そのころまで生きていられるか... )

12.02.2014

[film] Crimes of the Future (1970)

29日の土曜日、フィルメックスのDavid Cronenbergの初期作品集の2本目。

『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』 63分。制作費は$20,000だって。

“The House of Skin”ていう皮膚科医院をやっているTripod (Ronald Mlodzik)が語り手となって彼らが崇拝していたAntoine Rougeていう皮膚科医と、彼の施術がもたらしたあれこれ(耳とかからなんかでろでろ垂らしてしんじゃう)とその周辺で蠢く変な人たちを追ったり説明したりする。

“Stereo”と比べるとこっちはカラーだし、ナレーション以外に効果音(グースの鳴き声みたいのとかノイズとか)も入るのだが基本的なとこは同じような感触。 感触の映画で、ちりちり神経に触ってくる。

前者はコミュニケーション(テレパシー)、後者はスキンケアで、どっちも気持ちよくて夢中になって中毒になりがちなやつで、でもテーマになるのは中毒になることそれ自体にあるのではなく、中毒の快楽をその裏側に入りこんで統御・コントロールしようとする機構とかメカニズムとかのほうで、ナレーションはねちねちこまこま、うさんくさくその由来だの正当性だのを云々するのだが、でもその声もまた、なんかべったりと張りついてきて気持ちよいんだかわるいんだか。

割と遠くから被験者達の挙動を追った“Stereo”のモノクロのもこもこした感じ(がもたらす不可視感と不達感)と比べると、こっちはクリアなカラーで割と近くから語り手のTripodの馬づら、なかなか気持ちわるい表情や動きを追っかける。メガネのグラスをぺろりと舐めるとことか、たまんないひとにはきっと。

そして最後に現れる世界の破綻と終端と。 とつぜん馬男の前に立ちはだかる5歳のガキ娘。
転移なのかリインカーネーションなのか、この異様さもなんかすごいったら。

12.01.2014

[film] Stereo (1969)

29日、土曜日の昼間、フィルメックスでDavid Cronenbergの初期の2本。
前売りを買っていなかったので、10時過ぎにまず当日券買いにきて、そこから新宿のDisk Unionに走ってRSDに並んでレコード買って、上映前にふたたび有楽町に戻る、とかバカなことをやっていた。

「ステレオ/均衡の遺失」 63分。制作費は$3500だって。

近未来の大学だか研究所だかのような建物に若者が降りたって、彼がこれから参加するらしい実験の目的とか能書きとかがナレーションで被さる。 音はこのナレーションの声(単数ではなく複数の声)だけで、画面に登場する被験者と思われる人たちの会話や物音は一切聞こえてこない。 音楽もなし。

実験ていうのは7人の若い男女の被験者を同じ実験棟に軟禁してテレパシー能力の強化が個体間のコミュニケーションとか恋愛行動とか集団生活に何をもたらすかを観察する、ていうやつで、テレパシー能力強化のために喋れないようにされた被験者たちの行動(あんまし変なことはしない)を監視カメラみたいなカメラ(撮影はCronenberg自身)が追っていく。

この研究の理論と仮説はLuther Stringfellow博士によって立てられて、筋立て=ナレーションは研究報告ふうに仮説と被験者に行われたこと観察されたこと、などを機械的に叙述していく。 ところどころえらくうさんくさいのだが、これ、映画だし。そういうもんだし。

理路整然とかっこよく統御され展開されてきたかに見えた世界が予期せぬ暴力とか陰険さとか想定外のなんかによって突然に攪乱されたり分断されたりしておじゃんになって(あーあ)(ざまみろ)ていうのがCronenberg的世界の基調にあるのだとしたら、その要素はすでにこのデビュー作のなか、あの迷宮のような建物のなかで既に現れていた、ということになる。

テレパシーっていうのは言語とかメディウムを介さずにダイレクトに、しかも共時かつ即時に情報や指令が行きわたるからすごい、とか、でもそこには相互の愛と信頼がないといかん、とか、つまりは、つまりは、とかいろんな前提とか論理の積みあげからなる仮説とその実験は、ホモヘテロ関係なしの乱交状態とか、二名の自殺者をだして、暴動とか革命とかに至ることもなく、結果はうーんまだわかんないかも、ていう失敗とも成功とも言い切れない微妙なところにおちて、つまりだれも断罪されないままこの世界は続いていく(らしい)(あーあ)。

最近の若者のLINEで繋がっている、しかも四六時中繋がっている(繋がっていないとしんじゃう)世界とかグループとかのありようって、この世界に近いよねえ、とかおもって見てた。
コミュニケーションて、そんなにしたいか?  だいじか? とか。 

でもおもしろかったねえ。 これで69年かー。