7.30.2021

[film] 明治一代女 (1955)

7月25日、日曜日の昼、シネマヴェーラの成澤昌茂特集で見ました。
原作は川口松太郎(こてこて)、脚本は成澤昌茂と伊藤大輔、監督は伊藤大輔、音楽は伊福部昭(すばらし)。
明治という時代のエートスなんてよくわからないし、そこで「一代女」などと言われてもどうしたものか、なのだがとりあえず見てみよう。

柳橋芸者のお梅(木暮実千代)は若手歌舞伎役者の沢村仙枝(北上弥太朗)とずっと恋仲で、もうじきの彼の三代自仙之助襲名披露公演を前に自分の力でなんとかしてやりたいと思っているのだがお金がなくて、女将お秀(杉村春子)は娘の小吉(藤木の実)の婚姻込みで襲名披露のスポンサーになろうとしているのでとっても歯がゆい。

そんなお梅の様子を横で見ていた箱丁 - 芸者さんの荷物持ち - の巳之吉(田崎潤)は、故郷にある先祖伝来の塩田を売ったりしてお金を工面するのでこの世界から抜けて一緒に堅気になりましょう – 実はずっとお慕いしておりました、って。その申し出をお梅は受けて、純な巳之吉は張り切ってお金を作って戻ってくるのだが、他方でお秀や仙枝らに対する意地もあるし、仙枝からはこの程度の金額ではねえ.. って言われてがーん、てなる。

こうしていつまでもはっきりした態度を示さないお梅に巳之吉はうその呼び出しをかけて、嵐のなかふたりで向かい合うのだが、お梅はお願いだからもう少しだけ、とかいうので「なんでだよう?」って揉み合いになって、巳之吉が懐に持っていた出刃包丁が..

誰がどうして巳之吉をやったのかは明白だった(出刃はお梅のうちにあったやつだし)のでかわら版まで出てしまうのだが、お梅は姿をくらまして、やがて襲名披露の日がやってくる。

叶わぬ恋に引き摺られてかわいそうなお梅(と巳之吉)- せめてずっと愛してきた男の襲名披露を見届けるまでは.. というあたりが「一代女」の矜持なのだろうが、襲名イベントではしゃぎまくって頭からっぽになってお梅のことなんてどうでもよくなっている仙枝とか、同様に彼に夢中ではしゃぎまくるお秀と小吉を見ているとばからしくなったりしないのお梅? って少し思った。 そんな男に惚れちまったバカなあたし(もまた悪くないだろ)、っていうのは昔からのよくあるテーマだとしても、お縄直前までの弟の動きとかお縄の後のお梅の姿があったとしても、なんか弱い気が。 この弱さはお梅と巳之吉の関係についても言えて、あのままだと巳之吉がたんにうまく使われたストーカーのように見えてしまったりしないか(そうかもだけど)。それがこの時代のこの世界の悲しい脆さなのだ、と言われたらそれまでだけど。

でも、そこをそんなに掘らなければ嵐のなかのお梅と巳之吉のもつれ合い - 殺してやるー、というよりもういつ死んだっていいんだ、ってぐだぐだになる - 取っ組みあいの凄惨さ – そこに被ってくる伊福部昭の音楽 – はすごいし、お梅の家の母(浦辺粂子)と弟(井上大助)のやりとりや彼らの家の造りとか、一瞬の嵐が吹き荒れたあの時代の断面は生々しく切り取られていると思った。

こういうドラマでの木暮実千代の悲劇のヒロインとしての輪郭の強さ、杉村春子の棘、浦辺粂子の柔、そしてがちがちに堅く切ない田崎潤とか、それぞれの俳優も映画のなかにたまらなく生きている。



アストラゼネカが認可されて、早くもあんなのやだ、が巻きおこっているようだが、だーかーらー自治体が決めて接種日時込みで市民ひとりひとりに割り振っていっちゃえばよかったのに。もう悠長にワクチン選んでいられるような状況ではないのに。

しかし日本の頭痛薬はなんでちっとも効かないのか。
 

7.29.2021

[film] 花札渡世 (1967)

7月22日、木曜日の昼、シネマヴェーラの成澤昌茂特集で見ました。
花札のことなんてこれぽっちもわからないのだが、なんとなくどこかに渡って行きたいかんじがずっとあり。いまはどこにでも行けそうでちっとも行けやしないし。

監督・脚本は成澤昌茂。最初のタイトルは『花札賭博』だったらしい。ものすごくよかった。
昭和の初め頃、花札の賭博をやっているところで、北川(梅宮辰夫)が向かいに座る素めくらの石(伴淳三郎)とすぐ横にきた石の相方の梅子(鰐淵晴子)のいかさまを見抜いて警察を入れた捕り物になる。

北川は四谷のあたりの親分 - 春日井(遠藤辰雄)のところに仕えていて、春日井の養女の久江(小林千登勢)も彼に気があるのだが、実際には春日井 – 鬼畜野郎 - にべたべたされていたり子分の木村(安部徹)に一緒になろうって言い寄られていたりいろいろ悪賢く立ち回ろうとしている。

やがて組の業績をあげるため & その他の思惑で素めくらの石を客分に迎えいれることになり、それを機に北川と梅子はなんとなく一緒にいるようになっていく – はじめ石と梅子は夫婦だと思っていたのがそうでなかった - のだがそれがおもしろくない春日井は梅子の体を賭けて北川と石を勝負させて、ここはなんとか石が勝つのだがわりいな、ってそのまま石を殺してしまう。ここまででいい加減あたまきた北川は、春日井をぶった斬ったあと梅子とホテルで一晩を過ごして出所した5年後に会おう、って約束をして別れて刑務所に。

で、出所した北川を待っていたのは…
憲兵がのしてきて世の中が息苦しくなってくる少し前の頃のおはなし。1967年。

タイトルが「花札渡世」なので、花札でこの世を渡っていく、というのはわかるのだが、ふだんこの人たちはみんな何をしているのかしら? 花札だけで食べていけるのであればいいけど.. 食べていけてるんだろうな、それで殺されちゃったりするわけだし、トランプでギャングは殺し合いをしたりするわけだから、そういう世界なのだろうけど、なんか骰子とかと比べると花札の「ぺしっ」、みたいな質感ってなんか軽いかんじがして、それらに翻弄される、ほどではないけど、巻き込まれてしまってややしんどい青春もの、のような。

そのちっちゃな札とその絵柄の出た張ったで命とか運命がころころ変わっていく、その儚くてやってらんねーの空虚さが北川と梅子の仏頂面にはよく現れていて、これら抗いようのない非情さと理不尽さ(ついてねえや.. )ってノワールとしか言いようがない。特にラストの梅子の態度なんて北川から見れば惨いかもだけどあんなもんよね。やはりああこなくちゃ。

血しぶきが飛んできそうなぎんぎんした東映のやくざもの - 高倉健とか鶴田浩二とかの – って苦手で見てこなかったのだが、ここでの梅宮辰夫の無力で透明でどっちに行くのかあまり見渡せない無表情ってすばらしいと思うし、どこまでも寄り添うことを拒否して目を合わせようとしない鰐淵晴子の意固地なふうとか。それらが淡いモノクロのコントラストに溶けていくようでたまんなかった。



たまにニュースをつけてみれば絶望しかない。
オリンピックと感染状況の関連なんてあるに決まっているけど、ぜったいに連中は認めないだろう。
それよりもロックダウンしてお金を配ること、接種を各自の予約じゃなくて強制日時指定にすること、どうしてそっちの方に議論が向かないのか、まったく理解できない。 「お願い」が効かないのに「共感」なんて方に向かうわけねーだろ、生活かかってるんだから。小学生でもわかるわボケ。

7.28.2021

[film] 噂の女(1954)

7月18日、日曜日の昼、シネマヴェーラの成澤昌茂特集で見ました。
監督は溝口健二、脚本は依田義賢と成澤昌茂の共同、撮影は宮川一夫。54年の溝口作品のなかでは『山椒大夫』と『近松物語』の間にあって、地味だけどなんか好きで何度も見ている。 これが『噂の娘』だと成瀬で、金井美恵子になるの。

京都のお茶屋兼置屋の井筒屋をひとりで背負ってきた初子(田中絹代)がいて、そこに東京でピアノの勉強をしていた一人娘の雪子(久我美子)が戻ってくる。彼女は恋人から婚約直前に縁談を破棄されて自殺をはかって、破棄の理由は家の商売が置屋だから、というものだったので彼女は自分ちの商売を汚らわしい、って母に対しても周囲の芸者たちにも心を閉ざしている。

そこにいつもやってくる若い医師の的場(大谷友右衛門)が現れる。初子は彼にずっとべったり貢いで彼を繋ぎとめるために医院を開くための資金提供までちらつかせるのだが、彼は彼でそこを駆け引きの材料にしたりずる賢くて、雪子の様子を見たりしながら話し合っていくうちにふたりは意気投合するようになる。

そのうち井筒屋の太夫の一人薄雲(橘公子)が病で倒れて、はじめはよくある胃痙攣だと思っていたら実はずっと悪くてあっという間に亡くなってしまい、雪子は彼女の看病をしているうちに他の太夫たちのケアもするようになり、更に的場とも親しくなっていくので母は見境がなく取り乱して、彼女にべったり言い寄ってくるお金持ちの原田(進藤英太郎)に頼んで病院開設の資金を用立てしてもらって…

みんなで能の舞台を見にきた時、雪子と的場がふたりだけいなくなり、ロビーに探しにいった初子がふたりの会話を聞いて衝撃を受けるシーンの構図とか表情がおもしろいのと、初子がいて太夫や娼妓たちがいて、酒や料理を用意する人たちもいて、お客が得意先を連れてきたり、酔っ払いが這うようにやってきたり、それらに絡んだ諍いがあったり、そういういろんな人々が往来のように絶えず行き来する井筒屋のセットがすばらしいの。西部劇に出てくるサルーンとかパリのムーラン・ルージュとか、人生のあらゆる吉凶ごとが行き来する場のような。

おそらく江戸の時代からずっとそんなふうにやってきたそんな場所 - 置屋(英語だとどう訳すの? - brothel?)にショートカットのシンプルな洋装で現れた雪子はひとりだけ異質な噂の女としか言いようがないのだが、置屋はそんな彼女も取り込んで、薄雲の妹も受け容れてまったく揺るがない。そして、田中絹代演じる初子は、自分の仕事に揺るぎない誇りと自信をもって、日々戦い続けているという..

おもては的場を追い払って母娘安泰円満のコメディのように見えるけど、実はものすごく残酷で過酷な溝口得意の逃れようのない格子模様を描いているのではないか。『赤線地帯』(1956) にもそういうかんじはあるけど。男子には見えにくいかもだけど。ラストで俯瞰される井筒屋なんて、まるで牢獄のようではないか。

今年のカンヌで田中絹代の監督作品が上映されたそうで、これってMark Cousinsの14時間のドキュメンタリー作品”Women Make Film” (2018)で紹介された成果だったのではないか、と思っている。この作品のなかで彼女の監督作品は全編通して10回も参照・紹介されていて、すごく見たくなった。どこかでやってくれないかしらー。


お片付けはだいたいつまんないのだが、たまにおもしろいこともあって、奥の方から巻いたままのポスターが発掘された。 1995年にセントラルパークでPatti Smithがポエトリーリーディングした時の(サイン入り)とか、agnès b. がJLGを取りあげたとき(『右側に気をつけろ』の頃?)のとか、Lunaが2005年にFarewellしたときのとか、Mission of Burmaとか、Neutral Milk Hotelが復活したときのとか、リトのきれいなのも多いのでちゃんと額装したいな、と思ったのだが、それやっても飾る壁がないのなー。


それにしても都知事とか首相とか、ひどいねえ。 もちろんわかっていたけど。

7.26.2021

[music] 叛五輪音楽祭・東京五輪獣

コロナ禍で亡くなっている人も苦しんでる人も絶望している人も大勢いるのに、いることがわかっているのに、ニュース速報で日本人がメダルを獲っためでたい! って浮かれて騒いで番組表の8割を五輪の日本人がんばれで埋めてしまう異常と狂気 - これもわかっていたこと、だけどだからこそ開催すべきではなかったし今からでも中断して人命救助を優先すべき。イチオクソウハクチカ。くそったれ。

7月23日金曜日の夕方、何年ぶりだかの下北沢に行ってシャングリラで見て聴いた。いまは映画の感想ばかり書いているしクラシックやジャズも聴くようになったけど、自分のエピタフはずっとすれっからしのパンクだと思っているので、こういうライブには行く。ほんとはデモにだって行きたいのだがずっと体調がよくないのでこういう形にのに行くしかない。ライブハウスでのライブは久しぶりで、昨年3月にKentish Townで見たMarika Hackman以来のー。

太陽肛門スパパーンのことは知らなかった。バンド名から原爆オナニーズとかほぶらきんとかと同系のかと思っていたらずいぶん違っていたかも..

開場17:00、開始は17:30で、入ったらOMDの”If You Leave”とか流れていて、まず花咲さんがライブの主旨 - いちおう、太陽肛門スパパーン二枚組LPレコード「円谷幸吉と人間」発売記念ライブ第一弾 - と、宣言のようなものを読みあげて、PANTA + 澤竜次のデュオ。PANTAさんを見るのは軽く30年ぶりくらいだと思うが、クリスタルナハトからの3曲も「7月のムスターファ」も「さようなら世界夫人よ」も変わらずすばらしいねえ。

続いて自分にとってはデリダの人である鵜飼哲さんとRIO周辺の人である竹田賢一さんのトーク。今回のがいろいろどうしようもないのは、そりゃ今回の発案が筋金入りレイシストの石原慎太郎だったから、というのと、そもそものクーベルタンからしてどうしようもない輩だし、というのと。ほんとにいったい「アスリート」ってなんなんだ? という疑念は日増しに高まっていく。いいかっこしい/いったもんがちの無能な政治家とたいして変わらない挙動に待遇に。それに群がるスポーツ・ジャーナリズムの愚鈍ぶりも込みで。人がばたばた死んでいるその傍でよくお祭り騒ぎして「感動」とかやってられるよな、ていうほんとうにシンプルな疑念。恥知らず。

続いての灰野敬二さんは若者の3ピースをバックにして彼がヴォーカルをとる - ギターを抱えていない彼を見るのは初めてで、でもハードコアであることは変わらない。”My Generation”や"(I Can't Get No) Satisfaction"といったスタンダードが抱えていたであろう熱や葛藤をがきがきの硬度と強度で再構築した耳にくるブルーズ。一曲がもう少し短くても、と少しだけ思ったけどこれはハードコアだからいいのか。ラストは”I Shot the Sheriff”で、”I Shot Mee..” という叫びで終わる。

トリの太陽肛門スパパーンは、まずステージびっちりの人数規模に圧倒される。弦を持った人は盛装してるし、白割烹着の女性たちもいるし、でもフロントに立つホーンの男性たちはだいたい白ブリーフいっちょうで目のやり場をどうするか。あとで調べるとずっとそういうスタイルでやっているらしいのですごいな、って。

ビッグバンドゆえの座布団の膨らみと広がりはすばらしく、飛び道具の鋭利さはないぶん、ばすんて叩かれれば後からじんわり来るやつで、フォークでも歌謡でもヒップホップでも気持ちよすぎでこれなら3時間でも聴いていられたかも。 でも具合がよくなくなったので21時くらいに抜けて家に戻り、床にのびた状態でなんだこれ?の開会式を眺めていたら寝てしまい、気がついたら終わっていた。

今回の辞任・解任騒動について90年代の自虐、露悪、(サブ)カルチャーと結びつけて云々、を見かけたけどそれはあまりに雑な括りだし文化の特定の領域(だけ)を貶めて終わり - に繋がりかねないので、時間をかけてきちんとやるべき、と思って、いまここのポイントはこれら彼らを(今に生きる)誰がどんな事情と経緯で表に出そうとしたのか、その背後にある責任と金と権力のありようだと思う。これも歴史があって根の深い日本のやっちまえ文化の流れにある、誰もがよく知るあれら、なのかもしれないけど、ここで誰がどうしてをきちんと総括しておかないと、ずっとアンクールジャパンのままになるよ。もう十分なっているしどうでもよいけど。

ということ以上に、まず、目の前のめちゃくちゃな茶番とか混乱をどうすべきなのか、どうしたら目の前の人の命の危機を救えるのか、という方が。いまの状態って、ほんとにこれでよいと思っている? そう思わないとしたら誰が何をすべきで、その優先順位は? などを、始まっちゃったから(←ほんとひどい言い草よね)とか利害関係とか(とにかく金に落としたがりすぎ)一切抜きにして、正義とか善とか「悪」とか、そういう観点から真剣に議論してほしいし間に合わないのであれば総括してほしい。いまの組織委員会とか今のと前の総理とか自治体の政治家とか、はっきりと然るべき場で裁かれるべき連中ではないのか。なんの実効性も伴わない「宣言」のみでなんもしない無策無能のまま基準やルールをころころ変えて市民の安全を危険に晒している、という点で。

オリンピックの意義とか意味は言うまでもない。あんなの今後一切やめてしまえばよい。ただのいろんな広告塔(候補)でしかない「アスリート」とか、それを仕切る「代理店」の再定義とかあんた誰? を含めて。なにもかも空っぽで有害でしかないことがよくわかったし。日本がメダルをいくつ取ろうがごまかされてはいけない。夢も感動も関係なし。失敗は失敗だって。
(連中は別のお花畑しか見ていないからなー、ほんとしょうもない)


というのとは別に、とにかくあなたはお片付けをしろ。紙に埋もれてしぬぞ。

7.24.2021

[film] Deux (2019)

7月17日、土曜日の晩、BFI Playerで見ました。邦画のクラシックもよいけど、たまに英語の映画を見て英語に触れていないとなまってしまうしな。と思ったらフランス映画だったり。
英語題は”Two of Us”、監督、共同脚本はこれが長編デビューとなるFilippo Meneghetti、今年のGolden Globeの外国語映画賞にフランスからエントリーされた作品。

フランスで同じアパートの同じ階の向いの部屋に暮らすNina (Barbara Sukowa) とMadeleine (Martine Chevallier)は、若い頃からずっと恋人同士で、でも結婚して子供もできたMadeleineは、ふたりのことを家族にはずっと内緒にしてきた。

でもMadeleineの夫が亡くなってもうだいぶ経ったし、彼女の子供達も大きくなったし、このアパートを売ってふたりが出会ったローマに揃って移住してそこで一緒に暮らそうよ、という計画を立てている。しかしNinaに背中を押されて自分で子供達に(アパートを売ることを)言う、と言ったのに子供たち - Anne (Léa Drucker) and Frédéric (Jérôme Varanfrain)と孫と会っても、未だに自分たちの(過去の)扱いや父親への態度に対する不満を口にされて言う機会を逃してしまう。そしてそのことをNinaにもきちんと言い出せなくて固まってしまったMadeleineは、ある晩に台所で倒れて病院に運ばれ、脳卒中だったので半身を動かすことができず、言葉も喋れない状態になってしまう。

こんなことになってしまったのは自分のせいだ、と思ったのはNinaも子供達も同じで、子供達は住み込みのケアラーMuriel (Muriel Bénazéraf)を雇って自分たちも面倒をみなければ、になる。でもNinaは自分の責任もあるし、そこに自分も含まれるふたりの将来の夢のこともある。このままMadeleineを家族のところにやってはいけない、彼女を家族から奪還せねば、と強く思う。

のだが、家族にとってNinaは向いの部屋に住むおばさんに過ぎないので、事あるごとに何かを察知して向いのドアを開けて現れる彼女に不審感を抱くし、Murielの仕事にもちょっかいを出してくるのであなた誰? になっていく。そしてMadeleineは、喋ることができないながらも誰が何を言っているかはわかるし、Ninaの思いはずっと通じているしわかっている - ことがわかる目の演技! 

やがてNinaの策謀(彼女はMadeleineの部屋の合鍵も持っている)によりMurielがクビになって、でもMadeleineはどこかの介護施設に連れていかれて、もうだめか、ってNinaは落ちこむのだが、まだ諦めていなくて… でもその先に更にもうひと波あったり…

生涯の愛を誓ったふたりの愛の物語かと思ったら、Madeleineが倒れて以降はアパートのドアの覗き穴やその開閉を使ったサスペンス風のはらはらが出てきて、上がったり下がったりが激しくて、でもふたりの純愛は間違いなさそうだから変なふうにはなるまい、と思っていたらその通りになってしまうので、そこがつまんないといえばつまんないのかも。ふたりの愛を本当に試したいのだったら、NinaがMadeleineを横に座らせて子供達にふたりの過去からの経緯をすべてぶちまけて、あたしが彼女の面倒を見るから心配しないで、と宣言すればいいだけなのではないか、とか。それによってAnneとFrédéricが母への不信をより募らせてしまうのかも知れないけど、母のことをお荷物のようにしか見ていないのは明らかなので、寧ろよい方向に転ぶのでは。

というのよりは、R. W. Fassbinderの”Lola” (1981)のLoraを、”Rosa Luxemburg” (1986)のRosaを、“Hannah Arendt” (2012)のHannahを演じてきたBarbara Sukowa - 本作ではドイツからフランスに逃れてきたドイツ人、という設定 - と、The Comédie-FrançaiseのMartine Chevallierの剛と柔の演技がぶつかりあう見事な俳優の映画で、ふたりが向かい合って頬をすり合わせているシーンを見ているだけでよいの。


もちろんオリンピックなんて見るもんか、なのだがなんであんなバカみたいな数中継しているの? わかっちゃいたけど、みんなほんとにただのバカなの?  とかぼやいている暇はなくて、今日(24日)、英国からの船便が届いた。Brexitとかコンテナ不足とかで3ヶ月かかるかも、と言われていたのより早くなったのはよかったのだが、あんまよくない。 ぜんぶで105箱、うち、本とかレコードが40数箱.. 自分の部屋は既に積まれてびっちり横たわる彼らで奥にすらいけないありさまなので、とりあえずリビングに積んで貰って、これによって床に寝っ転がることができなくなり、たいへんによくない。でもいくつか傷んだ箱を開けて彼らの無事を確認したりするのはうれしいし楽しいし。 しかしほんとにどうするのか。なんも考えてないし暑くて考える気にもならんし。

7.22.2021

[film] 浅草紅団 (1952)

7月17日、土曜日の昼、シネマヴェーラの成澤昌茂特集で見ました。

監督は久松静児、脚本が成澤昌茂、原作は川端康成 - でも講談社文芸文庫から出ている同名のルポルタージュ(ふう)小説とは別で(浅草紅団が出てくるわけではないし)、原作にしているのは1950年に出版された単行本『浅草物語』(1950) 所収のどれからしい(大映からは同じ成澤昌茂脚本 - 島耕二監督 - 山本富士子主演で『浅草物語』(1953)というのも制作されているし、いろいろあるみたい)。

浅草の女剣劇団のスタア - 紅龍子(京マチ子)がいて、浅草一帯を仕切っているやくざの中根(岡譲司)に囲われているのだが、ある日島吉(根上淳)が戻ってきたらしいぞ、と聞いて全員がざわざわする。中根が一家総出で後を追っているらしい島吉は、浅草のカジノ・フォーリーのスタア踊り子マキ(乙羽信子)の恋人で、マキが中根から借りたお金を巡るごたごたで中根の子分を刺してからそのまま行方をくらましていたらしい。 はじめは中根の使いっ走りとして都会に出てきた田舎娘のナリで島吉に接近する龍子だったが、再会したマキと島吉の姿を見てふたりのために一肌脱ぐことにして、一座の仲間や警察の須山(河村黎吉)も巻き込んで奔走するの。

その過程でマキと龍子は同じお守りを持つ義姉妹であることがわかったり、ストーリー全体が舞台でかかる任侠劇そのもののような艶をおびて光ってきて、(クラシックとモダン、それぞれの)バックステージものがそのまま犯罪活劇へと繋がっていく、それをドライブするのが遠い昔に見えない糸で結ばれた義理の姉妹、っていうのがよいの。 島吉ははじめはカッコつけているふうなのだがそんなに強いわけではなくて、一番強いのは龍子とマキだし。

冒頭とエンディングに映し出される浅草の大通りにはゲイリー・クーパーの『真昼の決闘』の幟が立ってて、チャンバラ剣劇の一座もあれば、フォーリーズの踊り子一座もあって、地下鉄が通って都会から来たひとも田舎から来たひともいっぱいでざわざわしていて、池は埋め立てられたり大きく変わろうとしている。そういう街のなかをやくざに囲われている女、囲われようとしている女、その構図に抵抗しようとする若やくざ、最後までほぼなにもしないでそこにいるだけの警察、等が入り乱れて明日に向かって突っ走ろうとするの。 お芝居を見るように手に汗握ってしまったわ。

最後、龍子の舞台の本番手前のところの捕り物で、舞台の表と裏と客席を上手く使ってどんでんとかやったらもっとおもしろくなっただろうなー、とか、ふたりのシスターフッド(紅団)にもう少し寄っていっても、とか思ったけど、そこまでの冒険はしなかったか。でも彼らが逃走を続ける浅草の路地や家屋の暗がりに劇場の入り口出口、どれも素敵だった。セット、そんなに使っていない気がした。天然色だったらなあー。

そして京マチ子は紅のお龍としか言いようのない不動のかっこよさで、その反対側で別のかたちでひとり立ちあがろうとする乙羽信子もすばらしい。そして出てくる男はどいつも「おぼえていやがれ」しか言わないろくでなしばかり。 川端康成の『浅草紅団』を読むと、実際にはもっと暗く猥雑で過酷なかんじ(語り手の暗さか)なのだが、映画はこれでよいのではないかとおもった。


TVをつけると既ににっぽんのTVお得意の感動の押し売り大会が始まっているので、すぐ切る。一連の辞任/解任劇を引き起こした主因がこの線上にあるって、それがどれだけ外の人たちから見て滑稽で異様に見えるか(今回の騒動の後には尚のこと)、ちゃんと振り返ってみた方がいいよ。

7.21.2021

[film] 今年の恋 (1962)

7月15日、木曜日の晩、神保町シアターの木下恵介特集で見ました。
これは何度も見たことがあるやつなのだが、単になんとなく好きだからー。

高校生の山田光(田村正和)と相川一郎(石川竜二)は親友で不良に絡まれていつも一緒に殴られてばかりで、やり返してやるんだ、って揃ってボクシング習ったりうだうだしてばかりで、光は家に帰ると婆や(東山千栄子)とやりあっているし、一郎も姉の美加子(岡田茉莉子)と言いあったりしていて、当事者以外は、互いの家庭環境についてしょうもねえな、という印象しかなくて、たまたま美加子の両親がやっている小料理屋の客としてやってきた光の兄 - 正(吉田輝雄)- 女性を連れている - を見ても、別のときに現れた山田家の父(野々村潔)も恋人の清子(高森和子)を連れているのを見ても、やっぱりこの家は... になってしょうもない。

周囲の雑音をよそに仲良くなっていく高校生男子ふたりと、育った環境がよくないとろくでもない子に育ちますのね、とつんけんする美加子と、そんなことばかり言っているからあなた結婚できないんですよ、とかぶつかりあいながら近づいていく正と美加子だったが、山田の父と清子がランデブーする京都に光と一郎が消えて、まったくもう、って正と美加子が車で彼らを探しに向かうの。季節は年の瀬で除夜の鐘も出てきて、こんな今年の恋は来年もね、って続くの。

親たちに替わって弟を大切に育ててきたつもりの姉と兄が、成長した弟たちの挙動を掴めなくなった途端に相手の家庭について文句を言い始めて、でもそうしながらその鏡で自分の家や自分自身の今やこれからも見ることになって、それを通して仲良くなっていく、そんなものすごく真っ当で他に転びようのないrom-comで、そういうのが弟たちの電車や部屋でのやりとりとか、それぞれの家の間取りとか、テーブルやお茶の間での親やばあややお手伝いさんとのやりとりとか、まだオリンピックでぶち壊れていく前のにっぽんの家庭で丁寧に展開されて、その腑におちるかんじときたら半端ないの。

弟たちが揃って不良にいじめられるような親友同士じゃなかったら、そういう弟を思いやる姉や兄じゃなかったら出会うことがなかったかもしれないふたりが、針の穴を抜けていくように互いのことを見て出会って、でもこれ弟のためなんかじゃないから、と言ったら最後、あとは恋におちるしかないって。

とにかく、岡田茉莉子がとてつもない。やかんをぴしゃりとひっぱたいたり、廊下で軽くステップを踏んだり、父(三遊亭圓遊)の「暮れの京都はいいぞぉ」に「アホ!」って秒速で返したり、その動きの反射の的確さと正確さときたら世界最強、唯一無二のコメディエンヌだと思う。『秋日和』(1960)と並んで敵にしたらぜったいやばいかんじの。

あとは、三遊亭圓遊と浪花千栄子の夫婦もよいし、東山千栄子も揺るぎないし、でもこの時代の若者たちって、ふつうに彼らに向かって「バカ」とか「アホ」とか言っていたのかしら? そんなこと言ってはいけません、って言われてきたけど。

今リメイクするとしたら、男子ふたりを恋仲にして、いろんな偏見や嫌がらせを背にふたりが逃避行する - それを姉と兄が追っていく切ないロードムービーになるのかもしれない。そうしたらコメディじゃなくなっちゃうか…


なんだか具合がよくなくて、横になると落ちて2〜3時間経っていたりする。冬眠の逆のやつだと思うー。

7.20.2021

[film] Mortal Kombat (2021)

7月11日、日曜日の晩、新宿ピカデリーで見ました。

こういう格闘ゲームの映画化みたいのについては格闘もゲームもまったく興味ないので見てこなかったし、見てもおそらく理解できないのだが、この映画についてはキャストを見るといろんな国籍のひとがばらけて入っているし、撮影風景みたいのも楽しそうだし、なによりもいま映画館で見たい映画がちっともないので、見てみようと思った。その程度で、過去にもいっぱい映画化されてきたことは知っていたけど予習とかは一切しないで。

17世紀の日本で、侍のHanzo Hasashi (真田広之)の妻と子供がどこからか現れたBi-Han (Joe Taslim)によって氷漬けにされて殺されて、Hanzo自身も激闘の末殺されちゃって、妻子が床下に隠しておいた赤子だけ、天から降りてきたLord Raiden (浅野忠信)によって助けだされてどこかに連れ去られる。

時は現代のシカゴに移り、ストリートファイトをやったりして妻子を養うCole Young (Lewis Tan)はそんなに強くなくて、そこにBi-Han/Sub-Zeroが氷を散らしながら突然襲ってきたところを米軍関係者のJax (Mehcad Brooks)が現れて両腕をやられながらも助けてくれて、彼がやられる前に言っていたSonya Blade (Jessica McNamee)を訪ねていったら、彼らがずっと追っていたMortal Kombatのことを教えてくれて、要は魔界と人間界はえんえん喧嘩している仲で、Coleは人間界を代表して戦うひとりなのだそのドラゴンの痣が証拠だ、とか言われて、でも自分はそんなに強くないのになんで? ってなる。

でもとにかく人間側のメンバーとしてColeのほかにJaxとかKano (Josh Lawson)とかLiu Kang (Ludi Lin)とかKung Lao (Max Huang)とかが出てきて、でも人間界元締めのLord Raidenに言わせるとこれでは弱すぎて勝てん、ってみんなで特訓とかやっていると、Shang Tsung (Chin Han)とかBi-Han/Sub-Zeroとか魔界のモンスターたちが容赦なく襲いかかってきて大変なことになるの。

太古から続く伝奇ロマンに現代の発展途上の若者を絡ませて、その成長と覚醒 - 眠っていたHanzo Hasashi/Scorpionの血が - を促して、これからも戦いは続くのじゃがんばれ、とかいわれる。スクリューボールもいいとこ。

ゲームだったら魔界と人間界それぞれのキャラクターを自分で選んで対戦したりするのか、とか思うのだが、映画なので、弱かった主人公が成長するお話と仲間を集めていく話と、化け物たちと人間たちがどう戦うか、という話が中心で、ゲームに親しんだひとも初めてのひともそれなりに楽しめる内容にはなっている - 昔からのファンの人たちも楽しんでいるみたいだし - 気がした。とにかく戦えばいい、戦うしかないんだ、って開き直るところまで行ったので、あとはやっちまえ。って巻き込まれに向かう説得力と主人公たちの真剣さはとてもよいと思った。

伝説に導かれて痣をもった者たちが集い戦う、というと八犬伝からアストロ球団までなじみ深いし、にっぽん代表として真田くんや浅野くんが飛び道具なんかじゃなく出ていて安定感たっぷりだし、血や肉が飛び散りまくるところ以外はスムーズにさくさく運んでよいと思ったしおもしろかったかも。 モンスター側も人間側もある種の類型化 - 軍関係、荒くれやくざ、熱血功夫など - を免れていないところもあるが、それらは徒らに戯画化される一歩手前で、現代の物語のなかでじゅうぶん機能している気がした。ただ、映画だったら”Big Trouble in Little China” (1986) - 『ゴースト・ハンターズ』みたいに具体的な土地を舞台にしたほうがおもしろくなったのではないか。(その辺はハリウッドに向かう続編で?)

なにより、真田広之がきちんとしたアクションを見せてくれるのがよかった。”Endgame”でのあれなんて屈辱的だったし。浅野くんはアスガルドからの応援バイトみたいだったけど。魔界と人間界だけじゃなくて神界でも中つ国でもウィンターフェルでも、思いっきり豪勢に広げまくった大戦争絵巻物に持っていってほしい。  んでも今の東京で繰り広げられている善悪のバトル(うんざり)には到底及ばないかも。


強すぎる日射しのなかにいると簡単に頭痛がやってくることがわかった。ここの気候はほんとに向いてない。

7.19.2021

[film] 馬喰一代 (1951)

7月11日、日曜日の昼、シネマヴェーラの成澤昌茂特集で見ました。監督と共同脚本は木村恵吾。
英語題は”The Life of a Horsetrader”なので、馬喰というのは馬を喰う人でも馬のように喰う人でもないことがわかる。

昭和初期の北海道の北見に馬喰の米太郎(三船敏郎)がいて、馬喰としての腕は確からしく仲間にも一目置かれているのだが、大酒飲み、博打好き、喧嘩好きの三拍子で、稼いだお金を博打でスッたり、おだてられて全部下駄に変えてしまったり、家に帰ると病弱で寝たきりの妻はるの(市川春代)と一人息子の大平(伊庭輝夫)がいて、いつもすってんてんなので自分の家族にだけは頭があがらない。

こうして高利貸の六太郎(志村喬)にはやられてばかりで、そのやられっぷりを見ながら彼のことを想う酌婦ゆき(京マチ子)もいたりして、家族だけが心の支えだったのに、ずっと伏せっていたはるのがあっさり亡くなって、これを機に酒も博打もやめて太平を育てるのだ、って、三輪車を欲しがる太平のために村祭りの相撲大会に出て得意の右腕を痛めながらも三人抜きをして賞品貰ったり。 そのうち、成績優秀な太平をよい学校にやるにはお金が必要問題がでてきて、そのためにははるのが遺した貯金で買って育てたお馬ミノルを競馬に出して勝たせるしかないってがんばって、直前まで病で出られるか微妙だったミノルはなんとか出走することができて、感動的な逆転優勝をするのだが、ゴール直後に死んでしまうの…

このあとに米太郎も体を壊して寝てばかりの日々になり、太平は札幌の方に進学するのを諦めようとするのだが、ゆきも傍にいるからだいじょうぶだから、と旅立ちの日がやってきて..

感動的な父子もの & 動物もので、まず三船敏郎がとてつもなく安定したダメ親父をやって、そこに絡む志村喬も京マチ子も年を経るごとによい関係になっていくし、近所の馬喰衆との人間模様も素敵だし、お馬のミノルも目でちゃんとなにかを語ろうとするし、馬を走らせるシーンはダイナミックで迫力満点だし、見どころたっぷりの素敵な映画だとは思うのだが、やはり父親の米太郎のひとりどうしようもないバカさとガサツさが突出していて、すべての混乱と困窮を引き起こしたのはてめー(ひとり)だろいい加減にしろや、とは思った。 いやおれは馬のことしか頭にない馬鹿野郎なんで…  なんて言い訳も許したらあかんやろ、とか思ったらいけないのかしら。

ゆきも米太郎父子を助けるために六太郎のところに身を売ったり、そこまでする? - あんなバカ野郎に惚れちまったあたしだからさ - もいい加減にすれば、とか。 なのだが、京マチ子ってそういう無理をそんなのぜんぶ身に染みてわかってんだよどうしろってんだ、って全身で返してくる。 すごいよねえ。

ラスト、機関車で旅立った太平にどうしてもひと言言っておかねばならぬ、ってよれよれの米太郎は馬を走らせて、全力疾走した彼の馬は機関車にとうとう追いつくのだが、なにを叫ぶのかと思ったら「しっかりやるんだぞー」って。自分が太平だったらぜったい知らんぷりしたくなると思った。

終映後、「あのまま後続の列車に轢かれちゃえばいいのに」という声が聞こえてきて、それそれ、って。

画面が斜めになっているシーンが数回出てきたのだが、あれって馬目線なのか?

ほんとうはシリーズ化されて『帰ってきた馬喰』~『馬喰最後の勝負』~『さらば馬喰』とかえんえん続いてほしかったかも。


馬喰の気持ちいいくらいの豪快さに比べれば、大会関係者のとてつもないせこさが本当に恥ずかしいし情けないったら。

7.18.2021

[film] 裸体 (1962)

7月10日、土曜日の晩、シネマヴェーラの『追悼特集 成澤昌茂 映画渡世』で見ました。
原作は永井荷風(未読)、脚本・監督は成澤昌茂、撮影は川又昂、音楽は武満徹と湯浅譲二(なにこれ)。

冒頭、銀座で働く事務員の左喜子(瑳峨三智子)が所長(千秋実)に放課後ひとり残されて、最近事務所でお金がなくなったりしているんだけど心当たりないか、と疑いをかけられて、あたしはそんなの知るもんかなんなら調べてみろやって服を脱ぎはじめる。これをきっかけに左喜子は所長に囲われていくらでも好きなものを買って貰える関係になる。

彼女が船橋の実家に帰ると、船橋ボーリングセンター(映画のなかでは「船橋ヘルスセンター」と言っている)が近くに見える海辺の村で、父(菅井一郎)と母(浦辺粂子)と祖母(飯田蝶子)は銭湯を経営しているのだが生活は貧しく苦しく、銭湯をのぞいてばかり近所の男とか佃煮屋の次男(川津祐介)とか、寄ってくる村男たちはいるものの彼女は相手にするつもりもなくて、所長におねだりして高円寺のあたりにアパートを借りてもらう。

でも所長が脱税の容疑でしょっぴかれたので、今度は不動産屋のあんちゃん(長門裕之)経由で金物屋の浪花千栄子の家に住まわせて貰って、仕事の方はバレエ教室の先生(田中春男)経由で紹介してもらった怪しげなクラブで大物政治家(進藤英太郎)と一晩寝て - そのときの料亭の女将が山田五十鈴 - 大金貰って、やっぱりあたしの体は芸術品だすごいんだ、って得意になって、ストリップ小屋でマリー・エンジェル(宝みつ子)の力強いダンスを見て感銘うけて確信して - あたしの方が胸大きいし - 勢いつけて夜の街に出ていくのだが…

こういうことになってしまった左喜子の境遇とか振る舞いについて、当時はこういう話はそこらにいくらでもあったんだろうな、という点も含めてその描写のリアリズムや彼女の強がりみたいなところの説得力は十分で無理ないかんじで力強いのだが、その向こう側に出てくる男たちが見事にろくでもないのばっかしで、そういう男たちも含めてあの時代をまるごと肯定しているように見えてしまうところはしょうがないのか。これは永井荷風だけじゃなくて、あの時代の昭和戦前戦後のおやじ作家みんなそうなのかもだけど、あの時代の女性のありようとか風俗とか、愛と郷愁をこめて語る、その独りよがりの(よっぱらいの)語り口がなんか昔から嫌でー。彼らって、女性には優しかったのだろうし暴力的なこともやらなかったのだろうけど、結局異性をあんなふうに書いて散らして、それが積まれて積もってのいま、について考えてしまう。彼らみたいな男共(の残党)が緊急避妊薬の認可を先延ばししてバイアグラを大急ぎで認可させたのだと思う。

もちろんそんなの海外でも同様なので、だーかーらー女性作家を! となるのだが、日本では未だに本屋にいくと「女性作家」という棚別(!)の括られ方をしてしまうくらいなので、ほんとどうしようもねえわ、っていつも思うことがいちいちいっぱい出てくる。オールスター総進撃ですごい人たちがぞろぞろ出てきて、浦辺粂子も浪花千栄子も山田五十鈴も宝みつ子も、みんな印象に残るのにどれもあの時代のスチールでしかない、というー。

62年の船橋の風景がカラーで見れる。船橋ヘルスセンターではドリフが全員集合したりしてて、あのあとららぽーとなんかになったのだが、この頃はほんとただの漁村だったのねえ。


いよいよTVが気持ち悪くて見ていられない段階に入ってきた。もうそんなのとっくに見ていない人たちばかりなのかも知れないけど、日本のスポーツ番組(ジャーナリズム?)って昔からほんとに異様な気持ち悪さだらけで - 週末の深夜とかなんであんなスポーツニュースだらけになるの? - それがそのまままるごと五輪の方にシフトして、その横並びで、平気な顔してコロナの惨状を伝えている。災害が起こっているその横で、惨状を広げる可能性がある要因を焚き付けてがんばれー、とか旗を振っている。 正気じゃない。正気だったらこんなことにはなっていないわけだが。

7.15.2021

[theatre] Medea (2014) - National Theatre Live

7月10日、土曜日の午後、NationalTheatreLiveを上映したTOHOシネマズ日本橋で見ました。3000円払うならしょうもないCM freeにしてほしいわ。

うまく言えないのだが、洋画を見に行ってもしょうもない広告や予告ばかり見せられてうんざりだし名画座で邦画のクラシックを見るのはお茶の間の当たり前すぎるし、NationalTheatreLive的なやつに飢えている。演劇なのか? そうかもしれない。上演前のシアターのざわざわした雰囲気とか照明が消えた瞬間に押し寄せてくる緊張感とか。

エウリピデスのギリシャ悲劇をBen Powerが翻案し、Carrie Cracknellが演出して、ついこの間の4月、Medeaを演じたHelen McCroryさんが亡くなった際も、この作品のことはHarry Potterと並んで多く参照されていた。

コスチュームは男性がスーツを着ていたり現代のそれだが、丸ごと何がなんでも現代、というかんじでもない。舞台の奥の上方はベールをかけられた宮殿になっていて、下の手前が彼女たちが暮らす家、その奥の方には森が広がっている。音楽はGoldfrappのふたり - Alison GoldfrappとWill Gregory – がクラシカルとモダンの間を絶妙に渡っていく。

Jason (Danny Sapani)と恋におちたMedea (Helen McCrory)は彼のために家族を捨て、弟を殺してコリントに渡って彼との間に二人の息子を生んで育てているのだが、Jasonが彼女たちを捨ててコリントの王の娘と結婚するという、その婚礼の晩、子供たちが寝静まった後にひとり残されたMedeaの悲嘆から始まる。

全てを失った絶望の底で復讐に燃えるMedeaがJasonの妻と王をドレスに仕込んだ毒で殺し、更に息子ふたりもナイフで殺してしまう、ストーリーはそれだけのシンプルなものなのだが、Medeaの内面に入り込んでその謎とか闇を掘る、というより、こういう悲惨な母親の子殺しがどうして現代になっても繰り返されているのか、この悲惨が我々にもわかってしまうのか、そちらの方にフォーカスしているような。

Jasonは恰幅のよい、明らかにビジネスの成功者 or 政治家 and よき父として描かれるし、彼女と子供たちに救いの手を差しだすAegeus (Dominic Rowan)も人当たりのよいビジネスマン - 外交官の物腰のよさがあって、でも彼らはその物腰でもって、優しく肩を抱いたりしながらMedeaを地獄の底に叩き落すし、自分のスーツが血で汚されてはじめておろおろ騒ぎだす – こういう絵は誰もがどこかで見たことがあるはず。

冒頭、Medeaのこれまでの事情を語るのはナース (Michaela Coel)だし、宮廷の場面や終盤にはコーラスの女性たちが彼女の近くに現れて近くに立つ。Medeaはひとりではない、泣いているのはあなたはひとりではない、というメッセージは何度も語られてきたし、実際に周りには多くの女性たちがいた – けれどもそれは起こった、台所の壁の向こう側で起こってきたのだ、わかるか? という。 Medeaが最後、子供たちの死体の入った袋ふたつを抱えてひとりでよろよろ去っていくところの救いようのなさ凄まじさ、恐ろしさ。

慟哭にまみれたMedea - Helen McCroryのとてつもない声と嘆き。彼女は正気を失っている、狂っていると言わせるぎりぎりその手前まで、彼女の言葉に嘘はなく、明晰ですらある。だからこそ彼女の突然の、一瞬で起こってしまう殺しは衝撃で、でもその時にはもう手遅れで、この手垢にまみれた手遅れ感、正気と狂気の間の引き裂かれる感覚のなかで何千年も引き摺られてきた「悲劇」とは。 彼女は決して狂女ではないし被害者でもない – 矯正も謝罪も必要ないのだ、なぜなら – という描きかた。


それにしても、”United by Emotion”ときたもんだよ。いちばんだいっ嫌いで気持ち悪いところを突いてくるねえ。これって、海外のひとに理解できるとおもう? “Moving Forward”はプロジェクトがうまくいかないときに、プロマネ側が呪文のように繰りだす - 周りはしらける - だれも聞かない動かない言葉だし。 音楽はどうでもいいけど、渋谷系の中心だった場所が激安スーパーになっているのに正しく呼応しているんだね。

7.14.2021

[film] Black Widow (2021)

7月9日(金)の夕方、二子玉川の109シネマズで見ました。この気圧だと3Dは目をまわしてしんでしまうので、2Dにする。

とってもずっと待っていたMCUの最新作 - Disney+ でのTVミニシリーズはこれの前座でしかないくらい、というか、”Avengers: Endgame” (2019)で、なぜ(Iron Manは別として)彼女だけが死ななければならなかったのか、その答えが明らかになるのではないかと思っていて、でも同時にいろいろ暗くなることもわかっていた。だって彼女は既に亡くなっていることを知っているのと、予告では白を着ているのがその後に黒になっているというのはつまりー、とか。

1995年の夏、オハイオで、髪の一部を青く染めた女の子とその妹と思われる女の子が遊んでいて、母親がいて、どこかから帰ってきた父親が慌しく母親に合図をすると一家で車で家を出て、追手が来て銃撃が始まり、小型飛行機に乗り換えても銃撃は続いて、父親は飛行機の羽根にしがみついて振り切って、彼らはキューバにたどり着く。 キューバで父親は旧知らしき男と肩を抱き合うものの、その反対側で娘たちは別々に連れ去られてしまう。

そこから時は流れて”Captain America: Civil War” (2016)の後、US国務長官のRoss (William Hurt)に追われる身となっているNatasha Romanoff (Scarlett Johansson)は潜伏先のノルウェーでオハイオの頃に妹だったはずのYelena Belova (Florence Pugh)からの荷物 - 彼女が組織から逃げる際に受けった赤い液体 - を受け取り、そこからブダペストに渡ってYelenaと挨拶がわりのバトル(いつも思うけどあれで相手を殺しちゃったらどうするんだろ?)を交わして再会し、追手から逃れてサンクトペテルブルクにいるらしい母親Melina (Rachel Weisz)に会いに行く。

タブレットでコントロールできる豚さん(ほしい)と暮らしているMelinaは、彼女たちの計画 - 洗脳されている少女たちの戦闘組織 - Black Widowを解放して(赤い液体が洗脳を解く)、自分たちをこんなにした悪の首謀者Dreykov (Ray Winstone)の在り処 - Red Room を突きとめてぶっころしたい - について相談されて、それを実行するにはもうひとり - 父親 Alexei (David Harbour)がいたほうがよい、とロシアの刑務所に飛んで、ぶくぶくになっている彼を拾いあげる。 ここまでで、彼ら4人は当時の作戦実行のために編成された疑似家族であったことが明らかになる。

最後は、空の上の要塞 - Red Roomでの悪の首領との対決と少女たちの救出劇のどんぱちが「一家」総出で派手に行われるの。おもしろかったのは「フェロモン・ロック」で、特定のフェロモンを持っている相手には攻撃できない、ってやつ。Natashaがそれをアンロックするやり方もすごい - でも鼻の穴にティッシュ詰めればいいだけなんじゃないか、とか。また、それをやるなら特定のフェロモンで相手をマタタビの猫にしてしまう方が楽(だし下衆)ではないのか、とか。

MCUのスピンオフのような形にしなくても、引き離されたり幼年期を壊された家族がそれを引き起こした組織に復讐するドラマとしての普遍性はあるかも。でもタランティーノ映画のような恨み辛みのねちっこさは無くて、女性が自分の力で立ち上がる(ユニフォームを捨てて自分のベストを選ぶ)物語として爽快に描いている。それを散漫とかうざいっていう男はいるのかも。

“Civil War”で中心のテーマのようにあった家族を殺された者たちの復讐の連鎖と、それを横で見ていて最後にSteve Rogersを逃す方に加担したNatashaにもかつてあった家族の記憶。しかしそれに触れた途端に、やんちゃな暴れん坊Yelenaや豪放な父Alexeiとの終わらない闘いに巻き込まれて、ちっとも心休まるものにはならないし、今回の闘いでもかつてのS.H.I.E.L.D. のオペレーションで傷を負わせてしまった少女Antonia (Olga Kurylenko) のことがずっと引っかかっていたり。でも、たとえそんなでこぼこであっても、彼女にとっては家族だったのかも、って。

で、あるとしたらやはり、”Endgame”のあれはなんだったのだ? が残る。 ひどすぎないかRusso兄弟。Tony Starkの葬儀はあんなに荘厳にやったくせに、Natashaのお墓はなんであんな粗末にひっそりと…

というのは置いといて、ここでの最大の魅力は期待通りに全力で飛んで走って暴れまくってくれるFlorence Pughにあると言わねばなるまい。ほんとうはDreykovは彼女にぼこぼこにしてほしかったのに、とか。
彼女がNatashaの着地のポーズをおちょくるところ(しかも何度も)もよくて、次はWandaの魔女仕草をおちょくってほしい。  彼女、”Fighting with My Family” (2019)もすばらしいけど、”Lady Macbeth” (2016)の頃からできあがっているから。

父Alexeiは元ソ連のsuper-soldier “Red Guardian”だったことが明らかになって、これで”The Falcon and the Winter Soldier”に出てきた連中(& ブローカーみたいなJulia Louis-Dreyfus)とか、Hydraがやっていたのも含めると戦前から相当な数のsuper-soldierが善悪双方の側に存在していたことになる。組織”Black Widow”やAntoniaもその流れだし、Wakandaの女性たちだってそうなのかもだし、これからはsuper-soldierと人間の相克というテーマが、X-MENのシリーズにおけるミュータントと人間のそれと同じような形で反復されるのだろうか? そして、その流れのなかで悪の類型のように描かれる「ロシア」とか特定の国や民族のイメージも少し気になる。

あとはRachel Weiszの佇まいの変な、まったく別の空気感を作り出してしまう不思議なかんじ、あれってなんなのだろう。「女優」とか、あまり言いたくないところだけど。 あと、彼女の農場に残された豚さんたちはあのあとどうなったのか。

監督のCate Shortlandさんの作品だと、デビュー作の”Somersault” (2004)はとってもよいの。娘が家族を捨ててひとり旅にでる話で、ここの最初の方で姉妹が蛍を見たりするシーンあたりと少し繋がっている気がして。


Cafe OTOから、昨年チケットをとって延期になっていたSwell Maps Sessions の日程が決まったよ、ってメールが(泣)。

7.12.2021

[film] 春の夢 (1960)

7月4日、土曜日の午後、ひっさびさの神保町シアターに行って、木下恵介特集で見ました。

製薬会社の社長(小沢栄太郎)の邸宅を舞台に祖母(東山千栄子)を頂点とした女性やや強めの家族、社長秘書、メイドたちと御用聞きたち、ストを起こそうとしている会社の社員たち、等々がいろいろ渦巻くところに足を踏みいれた石焼き芋屋(笠智衆)のおじさんが突然昏倒して、動かしてはいけないと医師がいうので、そのまま応接間で数日間療養生活を送ることになる。

仕事でいらいらへとへとの社長はとっとと追い出せ!っていうのだが、父を脳溢血で失い、社会正義に目覚めてしまった秘書(久我美子)は医師(佐野周二)にぽーっとなりつつ、動かしてはなりません絶対安静、と言い、そこに芋屋のおじさんの財布(ぜったい貯めこんでる)を狙ってアパートの住民たちが押しかけ、隣に暮らす青年だけ献身的に看病するが信じてもらえず、次女(岡田茉莉子)は貧乏画家(森美樹)とパリに駆け落ちするのだとがんばるものの相手からも家族からも推してもらえず、長女(丹阿弥谷津子)は博愛主義だから、と若い学生をとっかえひっかえ連れ込み、世間知らずの大学生の長男(川津祐介)は煩悩を抱えて半ズボンで家のなかを歩き回り、その家にはデモ対応でヤクザが張り込み、メイドたち(中村メイコ、十朱幸代)は出入りの男たちと押したり引いたり、やがてデモ隊は家の外にも押しかけてくる。

愛に恋、奉仕に労働、貧乏人と金持ち、支配層と被支配層、善人に悪人、男たちと女たち、いろんな社会の縮図、というかあらゆる階層の雑多な種類の人たちが次々と家のなかに現れては出ていって - というか家の周囲をぐるぐる回り続けてばかりいて - 決着しそうなことはなにひとつなくて、あんたたちいい加減にしなさい! とケツを引っ叩き続けていた祖母まで、あの芋屋は初恋の人かも、と思い始めた途端にくたくたと崩れていく。

善いことをした人は救われる、でも、一途な思いは報われる、でも、下手な鉄砲数撃ちゃ、でも、労働者階級ばんざい、でもなく、すべては花吹雪が舞う喧しさと視界不良のなかで家の外からほぼ出ないまま、各自が言いたいことを言ったりやったりしたのち、結果的には自分の妄想みたいなところの半径数メートルで半落着して終わる。奇跡は起こらないし糸や絆があるとも思えない。これがまだ光化学スモッグも花粉症もない、高度成長期突入手前のにっぽんのブルジョアの姿。あるいは、全ては祖母の夢のなかの出来事なのか…

ブニュエルほど毒々しくなく、アルトマンほど図々しくもてきとーでもなく、書割の邸宅での悪夢でもなくきらきらでもない集団の欲と夢のありようを「春の夢」としてふんわか包んでみせる。夢のどこかで時間を遡って笠智衆と結ばれた東山千栄子はやがて『東京物語』を世界に向けて語ることになるの。

わたしは東山千栄子のおばちゃん/おばあちゃんがなにかぶつぶつ言っているのを見るだけで幸せなので、そこに岡田茉莉子さまが絡んでくるだけでたまんなかった。ここに登場する女性たちはみんな正しいことしか言っていないよね。

帰りに近江屋洋菓子店に行った。何度も夢見たにっぽんの洋菓子、だった。


とにかく湿気が、ほんとにだめで …

7.10.2021

[film] Supernova (2020)

 7月4日、日曜日の午前、日比谷シャンテ(ではないのかもう?)で見ました。
東京ではもうここともう一箇所くらいでしかやっていないの。地味だけど、とってもよい映画なのに。

関係ないけど、日比谷の地下から地上に出たらBuvetteがあったのでびっくりした。外観だけはNYのともパリのともぜんぜんちがう。日本に来るとそうなっちゃうのは諦めているけど、行きたいよう戻りたいよう、の最中だったのであーあ、って。

昨年のLFFで見逃していたやつはこれが最後かも。 冒頭にBBC FilmsとBFIのロゴが出てくるだけで泣きそうになる。 いっぱいの星空が広がって、真ん中あたりに強く瞬くひとつの星があって、すぐ後に消えるのが見える - これがSupernova。

英国の湖水地方の方で、ぼろいキャンピングカーで旅に出ようと車を走らせ始めるSam (Colin Firth)とTusker (Stanley Tucci)のふたりと犬のRubyがいて、Samが運転してTuskerが横でボヤいたり文句を言ったりしている。 SamはTuskerのやや棘のある言葉にイラついて返したりもするが、黙々と運転を続けて、ふたりのやりとりからこの旅はSamが無理やりTuskerを連れ出しているようなのだが、大喧嘩するような元気はどちらにもなさそうな。

途中でデリの脇に車を止めてSamが買い物をして戻ると、Tuskerがいなくなっていて、慌てて車で探しにいくと彼は道の真ん中で途方に暮れて突っ立っていて、そこでのやりとりからTuskerは早期の痴呆症を患っていることがわかる。更に、今回の旅に医師から処方された薬を持ってきていないこと、Samはピアノの演奏家で、Tuskerは作家で、ふたりはずっと恋人であることも。そして、これがふたりにとっての最後の旅になりそうな予感も。

やがて車はSamの姉の家に着いて、姉夫婦とその子供たち、地元の友人たちはふたりを暖かく迎えて、ふたりもSamの子供の頃のベッドに横になったり星をみたり寛いだ時間を過ごすのだが、SamはTuskerのノートと手紙を読んでしまい、その内容についてふたりは話し合う。

Tuskerは、自分で自分のコントロールができなくなる前 - 自分が自分でなくなる前に、どうしても自分であることを止めたいのだ、と言い(Samが読んでしまったノートには文章を書こうとして書けずに線のぐじゃぐじゃになってしまうその痕が痛々しく)、Samは君がなんと言おうとどうあろうと僕にとっての君は君だ、そんなこと言わないでくれ、って泣く。この静かな衝突の、でも互いにぜったい譲れないそれぞれにとってのあなたの像。

こないだ見た“The Father” (2020)の、どんなに症状が進んで自分がどこかに行ってしまおうが、自分が見る自分も他人が見る自分も”The Father”として圧倒的にそこにあるのだ、と言い切ったあの強さと比べると、このふたりが互いに曝け出して覆い被さろうとする弱さは、それぞれにどこまでも弱く、というかやさしくて、でもそれ故に揺るがないものとして迫ってくる。 “Still Alice” (2014)が最後に見せようとしたそれに近い、というか。いや、でもそんなのわかんないか - これはやっぱり彼らの、彼らだけのSupernovaのお話で、でもその光と闇は周囲の我々のところにも届くの。

Colin Firthのきりっと真一文字に結ばれた口元が少し歪んでから一挙に崩壊する瞬間が昔から好きで、Stanley Tucciの穏やかな笑顔がそのまま夢を見るそれに溶けていく瞬間が昔から好きで、そんなふたりの極上の演技を思いっきり浴びることができる至福。 最初はSamの役をTucciが、Tusker役をFirthがやる予定だった、というのはちょっと信じ難いけど。

音楽は最初にDonovanの“Catch The Wind”が軽快に流れ、Karen Daitonの“Little Bit of Rain”もよいかんじで、でも最後にColin Firthが(最初のほうは本当に)演奏するElgarの“Salut d'Amour”が沁みる。 昔から“Supernova”といったらLiz Phairさまの同名曲なのだが、やっぱり流れなかったわ..    


久々に陽の光を浴びたせいか、すごく眠い。ので寝る。

7.09.2021

[film] 結婚のすべて (1958)

7月3日、土曜日の午後、シネマヴェーラの新珠三千代特集で見ました。
誰もが知っている岡本喜八の監督デビュー作で、評判がよいのは知っていたけど見たことはなかった。

学生の康子(雪村いづみ)が主人公で劇団をやったりモデルをしたり活動的なのだが、冒頭でものすごく平凡普通のお見合い結婚をする兄(堺左千夫)の式を見て、帰るときに姉の啓子(新珠三千代)と大学で哲学を教えている堅物の三郎(上原謙)のかちかちに地味な夫婦生活を横から見て、もっと結婚は自由な恋愛に基づくものであるべきだわ、って、まずは三郎の教え子でバーテンダーをやっている浩(山田真二)に近寄っていく。

一人娘もいて家事と家計のやりくりに追われている啓子は、康子に連れていってもらった先端の喫茶店で知り合った雑誌編集者の俊二(三橋達也)と会ったり、三郎のところに結婚の立会人の依頼をしにきたカップルが玄関先でキスしているのを見てあたしのとこは… になって、啓子を「ホームボディ」 - あんなのほんとにあったの? - として記事にしたいという俊二に誘われるままに結婚相談所に行ったり、ダンスホールに行ったり、塩沢ときと契約結婚をしているという俊二の話を聞いたり、現代の結婚と恋愛のあれこれを知ってくらくら揺れる。

結局、俊二と会っていたことを隠す啓子の嘘が簡単にバレているのに怒らない三郎を啓子は惚れ直して、真面目に見えた浩の下宿に行ったら世話をする女性がいたのであんな奴やめだになった康子はそんなふたりを見直していいなー、ってなって、父の会社の仲代達矢とお見合いしましょ、と町に出ていくの。そりゃ仲代達矢だったらな。

世間がどれだけエロにまみれて扇情的になっていっても愛と結婚のありようは愛し合うふたりのために、ていうのがメッセージといえばメッセージぽいところで、その反対側に「結婚のすべて」ってでっかいタイトルを掲げて、世界はあなたのものお好きなようにどうぞ、って構えて揺るがない(結婚「が」すべて、ではない、とまでは言い切れないところはまだしょうがないのか)。 それを支えるのか裏切るのか、2分台のキャッチーで威勢のいい楽曲をちゃきちゃきテンポよく切り替えながら突っ走る84分。新人バンドのデビュー盤だったらいきなり★五つ貰えそう。(冒頭の「ウェディングロック」を歌っている女性はだれ?)

まだジェンダーの議論もフェミニズムもなかった時代、いろんなオトコの姿が描かれてどいつを選ぶかはあなた次第、になっているようで各オトコのありように対する批判的な目線は見事にない。女性側に選ぶ自由がでてきた(!)だけマシじゃないですか皆さん(?) 程度。 それにしても上原謙に三橋達也に仲代達矢に三船敏郎に小林桂樹(声)に、オールスターだねえ。

この辺から結婚相談所にマッチングサイトに花嫁エステに、幸福の押し売り洗脳ブライダル産業ができあがっていったのかー、というのもわかる。

そして、しょうもない夫に猿ぐつわされた哀れな新珠三千代に痺れて言い寄ってくる自由な(これはこれでやばそうな)男 - 三橋達也という構図はそのまま『愛のうず潮』(1962)でもきれいに変奏される。ラストにふりだしに戻っていくところも含めて。

コメディじゃなくなっちゃうかもだけど、上原謙は『めし』(1951)の上原謙のやなかんじの方が違和感ない気がする。どうせ同じような形でよりを戻すのでしょうし。


ついにカンヌで”The Souvenir Part II”が公開された。 どうせ死ぬならこれを見てから、の1本がようやく。

7.08.2021

[film] 丼池 (1963)

7月2日、金曜日の昼、シネマヴェーラの新珠三千代特集で見ました。平日だがこの日のこの回がこの特集での最後なのでしょうがなくて(なにが?)。 すごくおもしろかった。

「どんぶりいけ」だと思っていたら「どぶいけ」だった。中央区の船場地区に位置し、戦後繊維の問屋街として発展した一帯、ということだが大阪をほぼ知らないので、なんとなくニューオーリンズあたりを思い浮かべたり、"The Ladykillers"のイギリスを思い浮かべたり。

冒頭、繊維問屋の安本商店が差し押さえられて店主が頭を抱えるなか債権者が商品に群がって奪いあう地獄が展開されて、その背後にいるのが新手の高利貸室井商事の女社長カツミ(司葉子)で、彼女に運営資金を貸しているボスっぽい平松子(三益愛子)がいて、自分のお店を出したいのでお金貸して、って彼女たちの周りをうろうろするマサ(森光子)がいて、地道に行商をしているタダエ(浪花千栄子)がいる。

問屋の老舗「園忠」の園田忠兵衛(中村鴈治郎)は昔気質の大旦那で「俺の目の黒いうちはぁ」とか偉そうなくせに裏では番頭の定彦(佐田啓二)経由でカツミを紹介して貰ったり、実はその前に松子が大金を貸していたり、更には昔からの馴染みで料亭「たこ梅」を経営するウメ子(新珠三千代)に泣きついていたり、大阪の金貸しがどんなふうに旧来型の商人に集って食い荒らしてぼろぼろにしていくのか、というああ無情の話に、大学出の冷酷ばりばりだけど、元婚約者の定彦とか自身の過去の間で思いきることができずに悩むカツミとか、ブルドーザーのような松子とか、じつはいちばん冷酷非道な女狐のウメ子とか、金のあるほうに節操なくなびくマサとか、本筋の横で騙しあいどつきあう女性たちのドラマが十分な迫力説得力で描かれていて目を離すことができない。最後まで朗らかで一番強そうなのは浪花千栄子だったり。

ここに出てくる5人の女性の設定はそのままに、"Ocean’s Five”みたいなのを作ってくれたらぜったい見たい。

なんとか「園忠」を救うべく新たな集金モデル(宝投資)を編みだしたカツミを松子が横で揺さぶり、その斜め上からウメ子がごっそり持っていく情け容赦ないパワーゲーム(金利とか空売りとか、そういう仕組みはさっぱりわからなくても勝ち負けはなんとなくわかる)はなんか痛快だねえ、って思うし、でもいったいなにがそこまで彼女たちを、とも思うし、借金はしたらいけないねえ、と思うし、こういう描き方をするからいつまでたっても弱者は救われないんだわ、とかも。

これって戦争・抗争映画に近いやつかも、って思うと同時に、彼女たちは間違いなくあそこに生きている、という生々しさもある。 そして彼女たちはなぜ丼池という土地に集まってきたのか。

中村鴈治郎と新珠三千代が出ているので『小早川家の秋』(1961)を、高利貸しの女ということでは『晩菊』 (1954)のことを思ったりもする。みんなそれなりにしぶとく、強い。なんでこんなに強いんだろう、こんなに強くないと生きていけなかったのだろうか。 あと、中村鴈治郎て、乗り越えられるべき遺物、みたいな描かれ方だよね。いいなー。

あの後、カツミと定彦は幸せになれたのだろうか? なんか、あのラストだけ、幸せになったらつまんないな、ってなるくらい清々しく浮いている。あんたさえいなければあたしは天辺に行けたんじゃぼけー、ってぐさーっ、ってやっちゃうとか。



あたまに来ていることは何度でも書く。初めはオリンピックだろうが茨城のフェスだろうが、蓮實先生のいうように、そんなのやりたい奴がやってれば、と思っていた。でも近づくにつれてこちらに「協力を要請」したり「感動を届け」たりちっとも欲しくないものを求めてきて更には緊急事態宣言まで加わって自助だ自粛だとかいうので、それは明らかに違う、いらない、と言う。ものすごくシンプルで、でも切実なことだ。 だって明らかに巻き込まれるリスクがあるし、そのリスクは目に見えて増大しているのだし、巻き込まれたら最悪人が亡くなる。それは自分かもしれないし家族かもしれないし大切な人かもしれない。感染だけじゃない。医療や介護の過負荷やケアレスも起こる。だから嫌だ、巻き込まないで、と言う。 決まったことだから準備進んでいるから、じゃない。 自分らの生死がかかっているのだから最後まで、始まってからでも抵抗する。 安全だ安心だとお題目のように繰り返すのならその根拠を示してほしい。あんなスパコンのカスデータじゃないやつを。 もうメディアにも「ロックミュージシャン」にも呆れ果てた。ひとりでえんえん文句言い続けるから。


7.07.2021

[film] The Ladykillers (1955)

いろいろあってしんでた。

6月30日、水曜日の晩、Criterion Channelで見ました。
2020年の10月に4Kでリストアされた際、英国での劇場公開は見ることができず、こないだまでNYのFilm Forumでシアターリリースされて、でもバーチャルではやってくれないので泣いていたら、Criterionの6月末でいなくなるリストに入っていた、ので。

Alexander Mackendrick監督、Michael Balcon制作による英国Ealing Studioの最後の作品。
邦題は『マダムと泥棒』。Coen兄弟による2004年の同名リメイク版は見ていない。

Mrs Wilberforce (Katie Johnson)はKings Crossの駅の近くのトンネルの上にオウムと一緒に慎ましく暮らしていて、よくいる世話好き世間好きでお節介で警察に入り浸ったりしつつ半過去の世界に生きるマダムなのだが、そこに下宿を求めてProfessor Marcus (Alec Guinness)がやってくる。見るからに怪しげなのだが、教授はさらに弦楽五重奏を練習する楽団として怪しげな4人を招き入れて、ひとりひとりが強面でやばいかんじで、練習しているふりをしながら連中は現金強奪を計画して実行して、なんとかうまくいった。

と思ったら、強奪した現金のところになにも考えていないMrs Wilberforceがにこにこ絡んできて紙幣が散らばってしまう面倒なぐだぐだが立ちあがり、これはもう悪いけどマダムを殺すしかないな、っていうところまで行くのだが、気がつけば強盗団のなかでそれぞれが勝手に暴走して殺し合いを始めてしまい、そして...

Kings Crossの時計台が見える通りの突き当り、機関車のトンネルの真上に建つMrs Wilberforceの家、という設定からして何が起こってもおかしくない時間が止まった隠れ里ふうで、終盤は実際に惨劇が繰り広げられるものの、誰かが突然発狂したとか、そういう話ではなくて、ただ誰がみても原因よくわからず - 全員自分の役割期待通りの動きをしているのに - の異様さ不気味さがつきまとう。結果としては実に何も変わらずに冒頭の風景に戻ってしまい、あれって何だったのか、になる。このありようってイギリスそのものではないか、と。世間的にはブラックコメディと言われているが、Ari Asterあたりが映画化したっておかしくないホラーにもなりうるやつかも。

監督のAlexander Mackendrickも脚本のWilliam Roseもアメリカ生まれ(Mackendrickはグラスゴーからの移民の子)で、イギリスに渡って、イギリスの映画を作った彼らのイギリス的なものに対する畏れ(&. ミソジニー少々)とか、Mackendrick自身が本作を沈滞したイギリスのパロディ、と語っているように、イギリスに対する「なんなのこれ?」が驚きや諦めとともに並べられているようで、あれこれ考えさせられる。同様の畏怖は"The Man in the White Suit" (1951)でも感じられて、Alec Guinnessやっぱりすごいわ、というのもある。 

BrexitもCovid19対応における英国政府の対応と国民の反応とかを見ていても、なんか決まってしまったことに対する無垢で一徹な動かしようのなさ、っていう点では似たものを感じて、あんたたちなんでそんなに変わろうとしないの - なんでそれを許して置いておくの、とか。 少なくともあんなふうに死にたくないなー、とか。

でもやっぱりおもしろい。現在進行形のなにかを感じさせて、でもクラシックな絵画みたいな落ち着きもあって、ずっと見ていられる。


緊急事態宣言下で、なんでオリンピックを開催できるのか、これっぽっちもわからない、というのもわかるけど、そもそもあんなゆるゆる効果ゼロの緊急事態宣言でなにをどうしたいのか不明。ほんとに沢山の人たちが亡くなったり苦しんだりしているんだよ? もう軽く一年以上。 この状態で「感動を」とか言っているのは真性のバカか詐欺師だと思う。

7.04.2021

[film] 愛のうず潮 (1962)

6月27日、日曜日の午後、シネマヴェーラの新珠三千代特集で見ました。 

ル・シネマのロメール特集で、50-60年代初の嫌な男連作(としかいいようがない)短編を3つ見たあとで、にっぽんのものすごく嫌な男が立ちあがる。 フィルムは退色してほぼまっかっかだったが、おもしろかった。

百合ヶ丘団地(おそらく当時の先端住宅)に暮らす主婦 - 綾子(新珠三千代)は結婚して5年、生活は安定しているし大きな不満があるわけではないものの、近所の友人からがんばって妊娠して落ち着いた安心したとかいう話を聞くと、仕事が忙しくて夜も遅いのであまり相手をしてもらえない夫武彦(平田昭彦)のことを思って、でもやはり子供が欲しいので医師の指導を受けることにした、と夫に告げて協力してもらうことにする。けど、夫は仕事から帰っても疲れたってすぐに布団に入って寝てしまう。

丸の内の商社 - 日の丸物産に勤める武彦は専務(中村伸郎)ににぎにぎ取り入って、さらにNY支店長の座を狙って専務の秘書で社長の姪である浅見夏江(草笛光子)と関係を持っていた。夜に家に帰ってこないのはそのせいで、夏江は武彦と昼間からべったりしているので、社内でも噂になったりしている。

近所でろうけつ染めを習う主婦サークルに入っている綾子は、講師(上原謙)の紹介でアトリエに撮影にきた写真家の香川(三橋達也)に声を掛けられて、戸惑いながらも夫への当てつけもあって、誘われるままに会うようになる。それは武彦と夏江が会う裏側の時間で、そのうち武彦のNY行きが決まるのだが、その結果社内での噂は否定できないものになって綾子の耳にも届いて、でも開き直った武彦に逆ギレされて、もうやってらんない、って京都の兄のところに行くのだが兄からは夫のところに戻れ、って追い払われ、やっぱり帰りたくないので旅館をやっている友人(園佳也子)のところに身を寄せると、そこに香川が現れる。

もう夫のところには戻りたくない、という綾子に香川は一緒になろう、って返すのだが、その反対側の東京では妻と別れようとしない武彦にブチ切れた夏江の車が暴走事故を起こし、同乗していた武彦が足を切断するしないの大怪我になっていて、その報を聞いた綾子は…

仕事はいかにもできそうだが冷酷無比な商社マンの平田昭彦によるハラスメントの畳み掛けがすごくて、ネグレクト連打はもちろん、突然部下3人 - 児玉清がいる - を自宅に連れてきて延々飲み会(居座っていつまでも帰らない)をしたり、でもそんなの当然でしょどこが悪いの、のザマにあきれて、その鞭でどこまでも打たれ続ける新珠三千代ときたらサークのメロドラマの主人公のよう - 泣き崩れてもどこか冷静 - なのだが、でもあの結末はさあー。結局日本の歌謡曲演歌の世界 - 松尾和子が主題歌を歌ってくれる - になっちゃうのね。

武彦のあの末路は当然じゃん、だったとしても、綾子があの人にはやはりあたしが必要なんです、になっちゃうのがわかんない。うず潮は起こっても結局渦の中心に回収されちゃうのか、って。あの事故が起こらなかったらみんなそれぞれ幸せだったかもなのに、とか、東京に戻って武彦の介護をすることになった綾子の静かな復讐が始まる、とか、そっちの方を夢想しておこう。

ロメールの63年の2本の女性ふたり - パン屋の娘とシュザンヌはすたすた向こうに歩いて行ってしまうのだが、62年の綾子ははっきりと嫌な男の元に戻っていくの。 それはなぜ? をきちんと(エモではなく)言語化してこなかったツケが、女性活躍って口先だけで男性中心のいまにぜったい繋がっているのだと思った。


ずっと伝説だった名画座かんぺを手に入れることができた。うれしい。

過半数以下はよかったけど、やはり投票率に絶望する。ここが動かない限り将来はないわ。

7.02.2021

[film] La Boulangère de Monceau (1963) + 2

6月27日、日曜日の午前、ル・シネマで見ました。
Éric Rohmerの「六つの教訓話」デジタル・リマスター版上映は、ほぼ見たことあるやつばかりだったし別にいいかな、だったのだが、昨年からのおこもりの期間中、ストリーミングであれこれ散々再見も含めて見ることができて、彼の映画が見せてくれる「教訓」や「格言」や「四季」にはいろんなことを考えさえられたしお世話になったのでスクリーンで振り返って見ておいてもよいかな、って。

Bérénice (1954)

原作はEdgar Allan Poeの1835年に発表された短編。撮影はJacques Rivette、撮影場所はAndré Bazinの家、主演はÉric Rohmerの15分の作品。原作は創元推理文庫のポオ小説全集にも入っていて、この作品の翻訳は大岡昇平、仏訳はCharles Baudelaireで、Baudelaireはポオが初出後に削除した箇所も訳出していると文庫の解説にはあるのだが、RohmerがベースにしたのはBaudelaireの訳本なのかしら?

ずっと病弱のままお屋敷に暮らすAegeus (Éric Rohmer)と同じ屋敷で育ってきた従妹のBérénice (Teresa Gratia)がいて、Aegeusは神経質で憂鬱で屋内に籠ってばかりで、Aegeusはいつも屋外で快活で笑顔が素敵なのだが癲癇の発作に襲われて倒れて、彼は彼女の歯に魅せられて求婚してふたりは結婚して、そうしたらBéréniceは突然亡くなってしまう。彼女の歯に取り憑かれた彼は..

すでにRohmerの女性の身体のパーツに対する妄執と「幸せ」についてのひねくれて歪んだ感覚が見てとれるのだが、冒頭のカツカツカツカツ ギャー、っていう叫び声と、ラストの血まみれのRohmerの長く細い指(その曲がり具合とか)と、もちろん、なんといっても机に散らばるBéréniceの歯! が怖くてたまらない。
あんなふうに散らばった歯が紙束の間に挟まっていたり… (だから片付けをしよう)


La Boulangère de Monceau (1963)

『モンソーのパン屋の女の子』 - 「六つの教訓話」シリーズの第一作。23分。
主人公の男(Barbet Schroeder - 声はBertrand Tavernier)が友人と歩いているときに道端でいつもすれ違う女性Sylvie (Michèle Girardon)が気になって、ようやく声をかけることができたのだが、「また今度ね」になり、彼女との出会いを待つ間に立ち寄るパン屋 - いつもサブレとかタルトとかを買う - の女の子Jacqueline (Claudine Soubrier)と仲良くなって、でもSylvieが戻ってくると(捻挫で動けなかったって)、またそっちの方に行って、気がついたらJacquelineは跡形もなくどこかに消えてしまっていた、と。

これのどこが、なんでモラル(これの訳は「教訓」でいいの?)なのかについて「すべては語り手の頭の中で起こっているから」というようなことを言っているのだが、確かにここでのSchroederもTavernierも鼻持ちならねえくそ野郎、としか言いようがないくらい無神経に超然としてて、こりゃたまんねーな、なの。


La Carrière de Suzanne (1963)

『シュザンヌの生き方』- 英語題は”Suzanne's Career”。

『モンソーのパン屋.. 』と同じようにガールフレンドを求めてやまない大学生のGuillaume (Christian Charrière)とBertrand (Philippe Beuzen)の男子ふたり組がいて、カフェでSuzanne (Catherine Sée)をナンパする。Suzanneは働きながら勉強していて、そのお金目当てでGuillaumeは彼女と付きあってから飽きてポイして、Bertrandはそのあとを受けて彼女と付きあったり都合よく利用したり、でもそのうちどこまでもついてくる彼女がだんだんいやになってパーティで出会ったSophie (Diane Wilkinson)の方に寄っていく。

基本はBertrandの目線と語りなので、『モンソー.. 』と同様に鼻持ちならない – 特にGuillaumeの野郎はひどい – 男たちの「モラル」に付きあわされてうんざりなのだが、それでもタイトルだけはSuzanneの方に(前作ではJacquelineの方に)あって、勝手にどこまでも悶々してろバカ男どもさよなら、っていうの。


週末の選挙は、帰国後転入して日が浅くて投票させてもらえないことがわかって、憮然としている。海外行く前からずっとここに住んでて、同じところに戻ってきたのに投票できない。海外の在外選挙のもそうだけど、こんな手続きばかり大変で面倒で、どこまでも選挙に行かせないようにする仕組みを作っているとしか思えない。そもそも、あんなわーわー騒がないと(騒いだって)投票行かないのって相当だよね。あーあ。

しかも梅雨だし。関係ないけど。

[dance] Israel Galván

6月18日、金曜日の晩に神奈川芸術劇場で、『春の祭典』- “Le Sacre du Printem”を、6月29日、火曜日の晩に横浜市役所アトリウムで、『SOLO』を見ました。

リモートで仕事をしているときに、こういうの(ライブとか夕方早めので、かつ会場が遠いやつ)があるとなかなか便利だということに気づいた。(もちろん本来あるべきはー)

ダンスのライブ公演。ロックダウンが始まって以来、音楽のライブストリーミングも演劇のそれも見てきたけど、ダンスのだけは見なかった。Royal BalletもABTもボリショイも、よいプログラムのストリーミングをいっぱいリリースしてくれて、ぼけてて見逃してしまったのも沢山あるのだが、見ることでサポートしなきゃと思いつつも積極的に見にいく気にならなかったのは、この床板ぶちならしを生耳で感じたかったからなんだわ。 最後に見たライブ公演は、2020年2月、Tanztheater Wuppertal Pina Bauschの『青髭』だった。

Israel Galvánその人については、あまり知らなかった。ロンドンのSadler's Wells(ダンス専門のシアター)で公演があったのは知っていたもののそこまでのその程度で、でもチラシとかを見ると巨匠だというし、それにしてもこんな時期にわざわざこの国にやってくるなんてよほど変な人なんだろうな、と興味がわいた。 過去の動画とかは一切見ないで、床の打突音にかける。

『春の祭典』はこれまでMartha Graham (Dance Company)のとPina Bauscheのは生の舞台で見た。ベジャールのはビデオでみた。おおもとのバレエ・リュス = ニジンスキーのは見ていない(みとけ)。
今回の『春の祭典』はオーケストラではなく2台のピアノバージョンで、そもそものピアノバージョンでの実現を企画検討した音楽家とピアノ奏者 - Sylvie CourvoisierとCory Smythe - がコロナ禍で来日が不可となり、新たに日本側で2人のピアノ奏者が起用された、という。

トリオ編成のバンドでフロント以外のふたりが変更されて、全体のアンサンブルはどうなるのか。

冒頭、真っ暗な舞台の奥にむき出しになったピアノの弦板みたいのが床から直立で立ててあって、それを仰向けに寝転んだ状態で足(右足が赤い)でぴらぴらつま弾いたり叩いたり。地面から生えてきた何かが上でも横でも、なにか引っ掛かる先を探しているような。

そのあとで2人のピアニスト - 片山柊と増田達斗 - が入ってきて、あの有名な旋律を奏ではじめる。オーケストラ版の小刻みに揺れて震える空間の膨らみ厚みはなくて、4本の腕と脚による鍵盤と弦とペダルが互いの音の軌跡痕跡を消しあうような、強く猛々しい打弦の音を奏でると、その隣でGalvinが床(いろんな床とか桶とか)と脚 & 全身で打ち鳴らすけたたましい音はそれらを不敵に蹴散らすばかり。

春の祭典。照明はどこまでもダークで、衣装は後半のスカートまで覆い隠すようなのが多くで、春の何かが生まれだす明るさ華々しさ - 花吹雪とか - あるいは群舞によるマスの大波の勢いなどは微塵もなく、地の底からなにかが不穏に湧きあがるじゃりじゃりどかすかした生のノイズをGalvánの身体がアンプリファイしてこちらに投げ込んでくる。それを追ってピアノが更に混ぜ散らすカオス。

彼のベースであるフラメンコについては多くを知らないのだが、パンフレットにある彼のインタビューを読むと、フランケンシュタインとかウィルスとか散々言っていて、要は人為的に起動されて他を蝕んでいく強い生とか個体とか?  あるいは、同じパンフレットで彼が影響を受けて研究したというマジンガーZと敵のロボット(機械獣?)たちのことを考える。 普通にイメージしそうな強く躍動する生、とは異なる特異かつ邪悪な何かに繋がることで自身を保とうとする、その怖さと切なさと。

『春の祭典』に続けてふたりの日本人作曲家の作品 - 武満徹の“Piano Distance“と(今回の奏者でもある)増田達斗のBallade”に合わせて踊る。『春の祭典』の「石」のイメージに対してこちらは「水」だという。石とか砂がぶつかり合うようだった前者に対して、でも水の流れに乗ったり打たれたり - ではなく、ここでも強く自分の音を鳴らして正面からぶつけようとする。ジャズのセッションのような感があった。

彼のダンスのやかましさは十分素敵なのだが、2台のピアノ演奏がすばらしくよくて、これだけでも別の機会に聴いてみたくなった。

ここから約10日後、市役所のパブリックスペースで演じられた”SOLO”は、そういう場所での演舞を想定して作られた、伴奏音楽もない、たったひとりの大道芸 or ドラムソロ のような作品。 マイムやタップの要素も入り、客席のひとりひとりを見ながらなにかを呟いたり置いてあるマイクに向かって喋ったり(けど届かない)とか、その中心にあるのは、絶えずフロアをキックしてやかましい音をたてて止まらない打楽器としての彼の身体の不可思議さむず痒さのようなやつで、そう、これはコメディなの。 途中で魚屋(or 肉屋)のエプロンに着替えてポケットからなにかを散らしたり猫耳みたいのを一瞬つけてみたり - とっても変なヒトのかんじが素敵。 ひとりで踊っているときのFred Astaireのイメージもあった。強引に場所を作ってとにかく見せてしまうようなところとか。

もちろんテーマありきなのだろうが、どんな音楽で踊ってほしいだろう? とかつい考えてしまう。
バイーアのバテリアとか(めちゃくちゃやかましいの)。こないだ亡くなられたFrederic Rzewskiとか。

もう7月だってさ。