11.22.2015

[film] The Hunger Games: Mockingjay - Part 2 (2015)

20日の金曜日の晩、六本木でみました。 先に書いておこう。
米国と公開日を同じにしたことは誉めてあげてよいのかもしれないが、どちらかというと年末年始のリリースラッシュを避けるためにとりあえず出しとけ、みたいな投げやり感もある。

六本木でも小さいほうのシアターで、初日の18:30の回なのに空席いっぱいだし自分の周囲にいたのは英語喋ってる人たちばかりだったし。 邦題で『レボリューション』なんて言ってるけど、レボリューション的なわかりやすい威勢のよさからほど遠いテーマの映画であることは前作までを見ていれば簡単にわかるのにね。

日本ではこんなもん、ていうのはいつも思うことではあるが、なんでこれが本国では少年少女にあんなに受けているのか、自国の荒唐無稽なばかりでひたすら幼稚な「革命」映画を売ることとか、そのためのくだんないコラボとかを考えるまえに少しは立ち止まって周りを見てみれば? ← 業界のひとたち。

前作Part1の最後、政府によって洗脳されたPeeta (Josh Hutcherson)に絞め殺されかけたショックが消えないKatniss Everdeen (Jennifer Lawrence)は、自身のイメージが反乱軍のプロパガンダに利用されていることを知りつつも、President Snow (Donald Sutherland)へのたぎる憎悪のみで首相官邸のあるキャピタルに小隊と共に突っ込んでいく。 その行軍は政府の仕掛けた罠と、反乱軍の思惑との間でまるでHunger Gameとしか言いようのないサバイバル戦になっていくのだが、このGameに勝つのはどっちなのか誰なのか、そしてそこでの「勝利」とは誰の、なんのためのものなのか、と。

延々と止まない局地戦が続いて仲間はじりじり死んでいくばかり、最後にものすごいカタルシスやどんでんが来るわけでもないし、ハッピーエンドなんて望めるわけもなくひたすら苦くてきつい。 その苦さとしんどさを前線で最も体現しているのがKatnissで、前作に続いて彼女の表情はどんよりと暗く苦渋に満ちていて、とても勝利の女神、救世主のそれではない逡巡と彷徨いのなかにある。 なにを言いだしてなにをやりだすかわかったもんじゃなくて、彼女から目を離すことができない。

最初のほうの戦いを巡るKatnissとGale (Liam Hemsworth)の会話が興味深い。
この状況は戦争なんだから私情なんて挟みようがない(反乱軍側の犠牲だってやむを得ない)、というGaleに対し、Katnissは、わたしには私情しかない、わたしが殺したいのはSnowひとりだけなのだ、と。 この点で彼女は最後まで一貫していた。 進めば進むほど私情と私怨でぱんぱんに膨れあがっていくにせよ。

このシリーズを最初から見ているものとしては、この完結編は当然見てしまうわけだから冷静な目になっていないのかもしれないが、この137分のテンションは相当に異様で変で、その中心にエモ全開のKatnissとか半分壊れたPeetaとか半分狂ったSnowとかがいる。 もはやディストピアを生き抜くカリスマ少女のお話しなんかではなくて、後半の為す術もなしの展開はなんだかRW Fassbinderを思い起こさせた。 具体的にどこがどう、はもう少し考えてみたい。

最後の、猫との対決シーンがすごい。 やっぱりこいつは猫だったのね、と。

Philip Seymour Hoffmanの最後のフィルム。 彼の最後のフィルムでの最後の姿があんなふうだったことになんともいえない感銘を受ける。 Game Makerの笑い。

このシリーズを字幕で見たのは初めてだったのだが、Mockingjayの訳のなんとかカケス、気になってしょうがなかった。なんだよあれ。そのままでいいじゃんか。

イスラエルでこの映画のポスターからKatnissの姿が消されてしまったように、ファシストの国からは相当都合悪いものに見えてしまうらしい。 わたしにはPresident Snowの姿に今の総理大臣の姿が被って見えてしょうがない。あんな風格はないけどね。

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