4.30.2021

[film] Conte d'été (1996)

4月19日、月曜日の晩、Film ForumのVirtualで見ました。
ロメールの四季の物語をリリース順に見ていくシリーズ。英語題は ”A Summer's Tale”、邦題は『夏物語』。

ロメール作品の中では最も個人的な内容で、若い頃にロメール本人に起こったことを題材にしている、のだそう。なので、ロメールの夏だというのに、主人公は若い男性なの。

物語の展開が日にちと曜日の日めくりで表示されていく。最初は7月17日の月曜日で、そこから8月の6日頃まで(どうでもよいけど、曜日と日付の前後が違ったりしていることがある - そんな時空のおはなし?)

若く物憂げなGaspard (Melvil Poupaud)がギターを抱えてブルターニュの海辺の町に降りたって、自分のではないらしいアパート - 壁にはピカソとOASISの” Definitely Maybe”のポスター - に入ってギターをつま弾いたり、カセットレコーダーに録音したり、そのまま退屈そうに町にでて、パンケーキ屋に入るとそこでウェイトレスをしているMargot (Amanda Langlet)が声をかけてくる。最初は適当に応じているのだが、浜辺でも一緒になって、互いにヒマだし会って一緒に散歩をしたりするようになる。

Gaspardは数学の修士を取ってこの休暇明けにはナントの方に仕事の研修に出る予定で、Margotはおばさんの店でバイトをしながら人類学の博士課程にいる学生で、遠くに想っている考古学者の彼がいて、Gaspardもここで落ち合うはずなのに連絡が行き違ったりでなかなか会えない(たぶん)恋人のLéna (Aurelia Nolin)がいるので、よいかんじになっても日々のお喋り相手から先に進むかんじはない。

やがてふたりで踊りにいった先ですれ違ったMargotの友人Solène (Gwenaëlle Simon) – Margotは彼女いいわよ、って勧める – と道端で会って仲良くなって、そのまま彼女の叔父さんの家に行って、でもはじめからセックスはしないと言われ、こんなふうに情熱的に振り回してくるSolèneからLénaかあたしかどっちか選べ、と強く言われた彼はSolèneを選んで、ふたりで遠出する約束をする。

そしたら突然Léna が現れて、彼女は彼女でGaspardはとっくに自分のものと思っているので、自信たっぷりに彼を誘ってきて、やっぱりSolèneのほうは諦めるか、になって..  こういうのが男女4人の間で高速回転するシーソーみたいにぎったんばったんと展開していく最後の数十分はなんかすごい。

こんなふうにそれぞれにタイプの違う女性たちの間で揺れ動く軟いGaspardの姿を描いて、男と女は友達になれるのか? とか、なんでその人じゃなきゃだめになるのか? とか、理想の恋人とはどういうの? とか、約束っていったいなに? とか、誰が誰にそれを問うているのか、その答えを出すのは誰なのか、とかいろんなのが夏場の潮風とか夕立のように適当に移ろったりこちらに降りかかってきたりする。

それにしても、いくらかつての自分の身に起こったこととはいえ、70代後半のじいさまが作る映画かよこれ、とは思う。よい意味で生々しくて瑞々しすぎるというか、50数年前にしでかしてしまった決断について未だにぐじぐじ引き摺っていたりするものなのか、とか。

「春」が哲学で、「冬」は演劇で、「夏」は音楽、だろうか。Gaspardがカセットに重ねていく自作の歌の他に、Margotと“Valparaiso”を歌うシーンが印象に残る。一緒に歌って歌声を重ねるみたいに恋が叶うのならこんな楽しく簡単なことはない〜、とか。

ぜんぜん思い切れずにうだうだで、人によっては引っ叩きたくなるであろう迷い犬のような主人公をMelvil Poupaudは極めて的確に演じていてすばらしいし、Margotを演じたAmanda Langletさんは『海辺のポーリーヌ』(1983) の海辺に戻ってきて全くブレていないかんじが素敵ったらない。

Gaspardって「夜のガスパール」から来ているのかと思ったら、セギュール伯爵夫人の小説 - “La Fortune de Gaspard” (1866) から来ているのだと。翻訳は出ていないみたいだけど読んでみたい。19世紀の女性が書いた若者のお話なのだとしたら、いろんな観点からおもしろいかも。

いつものロメールのように女性がまんなかにいる設定だったら、Gaspardはうじうじしているだけの情けない端役、として物語の初めの方で彼方にふっとんでしまっていたのではないかしら。


久々にオフィスに行って机の周辺を片付けて箱詰めしたりしていた。書類の積みあがりっぷりときたら壮観で、仕事のやつは目をあわせないように端からシュレッダー行きの大袋にばっさばさぶっこんでさよなら。 美術館とかBFIとかの送付先も会社の方にしていたのでそっちの積みあがりの方もすごくて、BFIからはなぜかDVDが3枚も届いていた(プレイヤーないのに)。ロックダウン直前のTime Out誌のその年(2020年)の夏のお楽しみ特集とか涙なしには目を通せないので、持ち帰ることにした。まったくねえ。

もう4月が終わってしまうって、いいかげんにしてほしい。もう時間が...

4.29.2021

[film] Sisters with Transistors (2020)

4月21日、水曜日の晩にCurzon Home Cinemaで見ました。
英国映画だが、制作にMetrographも噛んでいるようなのであっちで見てもよかったのかも。

まずはタイトルがものすごくかっこいい。そのままバンド名になってもおかしくないかも(もうあるのかも)。
監督はこれが長編デビューとなる女性のLisa Rovner。この人、”Babyteeth”のクレジットでSpecial Thanksされているのだが、なにか関わったのかしら? 

電子音楽というジャンルがなかった第二次世界大戦の頃から独りで電子や電気のあれこれに魅せられて、それぞれのやり方で音楽や電子音響への道を開いていった女性たち10人 - Clara Rockmore, Delia Derbyshire, Daphne Oram, Eliane Radigue, Bebe Barron, Pauline Oliveros, Maryanne Amacher, Wendy Carlos, Suzanne Ciani, Laurie Spiegelのストーリー。

こうして女性がそれなりに活躍してきたのに「歴史」はそれを、というか「歴史」=「男性」が明確に見て見ぬふりをしてきたあれこれを暴くやつ。ドキュメンタリー映画としてはこれまで  “Bombshell: The Hedy Lamarr Story” (2017) のHedy Lamarrとか、”Be Natural: The Untold Story of Alice Guy-Blaché” (2018) のAlice Guy-Blachéとかがあって、電子音楽のジャンルでは、本作品でも登場するDelia Derbyshireさんを取りあげた”Delia Derbyshire: The Myths and Legendary Tapes” (2020) もあった(この作品と一緒に上映してもよいのでは)。この辺のことは予告編のなかでもかっこよく簡潔に語られている。

“Somehow women get forgotten from the history – the history of women has been a history of silence of breaking through the silence – with Beautiful Noise”

というわけで、それぞれの業績や音や音楽について、Laurie Andersonさんをガイド(ナレーション)に、当時の記録映像を繋ぎながら紹介していく。Jean-Michel JarreやKim Gordonのコメントも入るが彼らの登場は声だけ。エンドロールでは既に6名が亡くなられていることがわかるのだが、存命されている場合は彼女たちの現在の姿も少しだけ。

なんでここにきて突出した個人、というよりもトランジスタで音楽を奏でる10人が? というのは、別にいただけできちんと紹介されて来なかった、というのもあるけど、注目すべきのはその同時性の方なの。 誰が一番最初にそれをやったのか、誰が一番革命的だったのか - そういうことではなくて、それぞれが互いのことを全く知らなかったのに、同じ時期に当時出てきた電子技術にそれぞれのやり方で向き合ってDIYで試行錯誤しながら音楽を作っていく、そういうひとりひとりの女性たちが大陸を跨いでこんなにもいた、ということを、その見えないシスターフッドの糸を紹介することには大きな意味があるのではないか。

紹介されたひとり、Pauline Oliverosさんの追求したテーマ“deep listening”や“sonic awareness”が興味深い。“It will effect a great change. Listening is the basis of creativity of culture.”。 聴くこと、「沈黙」も含めて耳を傾けて、そこにあるもの、あったものを、誰も聞いたことがなかった音を拾いあげること、物理的に見えない音や波を増幅してその居場所を与えること、それらのノイズでその場を支配してしまうこと。 このドキュメンタリーのやっているのもそういう活動の続きなのだと。

彼女が50年以上前に書いた文章 - “And Don’t Call Them Lady Composers” (1970) – ぜんぜん古くない。
https://www.nytimes.com/1970/09/13/archives/and-dont-call-them-lady-composers-and-dont-call-them-lady-composers.html

音楽は誰かの耳に入って彼の/彼女の鼓膜を震わせてはじめて音楽になる。歴史もそれに近いところがあって、ここで発掘されて紹介された半世紀以上前の音たちが、シスターたちの活動が、世界中の女性たちのなにかに火をつけて広がっていったらすばらしい。その点でも公開されてほしい。 こういう発掘作業、映画の世界だと”Women Make Film” (2018)があったし、抽象絵画だと一本には纏まっていないけど50年代後半のNYの女性画家のショートとかいろいろあるし。

Delia Derbyshireさんのドキュメンタリーにもあったが、子供の頃の戦争体験 – コベントリーで聞いた空襲警報の音とその後の静寂とか、Eliane Radigueの場合は近所の飛行場の爆音とか、男たちが戦争でいなくなったところで手にすることができたなにか、というのはあったのだろうか。あと彼女たちにほぼ全員にクラシックの素養があって、それなりに裕福な家の出であったり、というあたりも興味深い。

男女の向き不向き、みたいな話をするつもりは全くないのだが、例えばお料理に近いようなところもあったりするのかしら? いちからレシピを作っていくような、つまみを加減して調節して時間を計っていろんな素を放り込んで、生きていくために必要ななにかを作って盛って、それをみんなにサーブして、みたいな。

アーカイブ映像のなかでは、Maryanne Amacherさんの家でわざとらしく耳を塞ぐとっても若いThurston Mooreとか、同様にすごく若いPhilip Glassとか、映像が楽しいところも。

でっかい音をだしてみたくなる。随分鳴らしてないし。

4.28.2021

[film] Clockwatchers (1997)

4月18日、日曜日の晩、MetrographのVirtualで見ました。

コメディアンのJohn Earlyさんの熱狂的なイントロ - 11歳のときにこの映画をレンタルビデオ屋で借りて以来、この映画は自分にとっての”Star Wars”になった云々 – から入る。JillとKarenのSprecher姉妹が脚本を書いて、Jillが監督をしている。日本ではビデオスルーにすらなっていない模様。おもしろいのに。

Iris (Toni Collette)がGlobal Creditうんたらという格付会社(?)に派遣されてきた初日から、受付のところで2時間以上待たされて、聞かれたので事情を告げるとなんで言ってくれなかったの、って軽く怒られて誰か - 産休かなにかで不在 - の机をあてがわれて、タイプするようにって書類の束をどん、て置かれて、このフォームは高いから無駄にしないでね、と言われる。

会社に入った時点からすでにいない人として扱われ、自分ではない人の机に連れてこられ、仕事の指示以前に書類のことを心配される、これが血も涙もない派遣社員(Temp)の世界で、Muzakがオフィスを優雅に流れていくなか、Clockwatchersっていうのは早く終業時間が来ないか、ってトイレに籠って時間を潰したり、時計をじーっと見つめ続ける彼女たちのことをいう。Irisは同じセクションの派遣の同僚であるMargaret (Parker Posey)、Paula (Lisa Kudrow)、Jane (Alanna Ubach)にいろいろ教わったり一緒にランチしたり、文具供給係のおっさんとか郵便係のあんちゃんとか名前を覚えてくれそうにない元締めのおばちゃんとかと日々のどうでもいい – けど彼女たちにとっては決死の攻防を繰り広げていくの。

職場の女性を描いた映画でいうと、セクハラ上司に立ち向かった”9 to 5” (1980)あたりの威勢のよさは微塵もなくて、搾取とかハラスメントとか、そういう用語が入りこむ余地のない契約で職場カーストにおける派遣の位置は厳格に定められていて、それは誰にでも取り替え可能な仕事を取り替え可能な人がただ機械のように事務処理を実行するだけのポジション、としてある。 それは首のない人体がそこにいるようなもん、でしかない。

Irisの少し後に職場に正社員として入ってきたCleo (Helen FitzGerald)との待遇差を見ても明らかで嫌になっちゃうくらいなのだが、雇う側は嫌だったら辞めてくれてぜんぜん構わないから、で来ているのでびくともしないの。地獄じゃないよ、抜けられるでしょ、って軽くいうの。くそったれ。

そのうち職場でいろんなモノがなくなる事件が起こって、まずは派遣の彼女たちが疑われて、監視カメラを付けられたり抜き打ち検査をされたり、ちょっともういいかげんにしろよ、になってきて…

時代的なところは正確にはわかんないけど、80年代の好景気を背景に働き方のひとつのスタイルとして隆盛を極めた「派遣」が当たり前になってきた頃のオフィスの話なので、今とはやや事情が異なるのかもしれないが、この時点でもこういう雇用のあり方はどこをどう見てもおかしいのではないか、というかんじはとってもするしあるし。 特に、不況の皺寄せが一気に襲ってきている(よね?)日本の派遣のケースを見ているとこんなのほんとにただの奴隷じゃないか、って。でも雇用する側にとっては痛くも痒くもないので奴隷制よりも悪質だし。

でもこの映画に登場する4人は(当たり前だけど)キャラクターも適度にばらけて、ひと固まりになっていなくてよいの。絶妙な不機嫌のToni Colletteも、豪快なParker Poseyも、適当なLisa Kudrowも、シリアスになるのでもおちゃらけるのでもなく戯画化される一歩手前で、なめんなよ、って見事なアンサンブルを見せてくれる。

でも1997年て、撮影したのが1996年だったとしても、オフィスには既にメールもネットもあった時代なので、そういう道具がほぼ出てこない - 旧型のデータ入力専用みたいなPCは置いてある - のってどうなのかしら、は少し思った。メールやチャットがあればもっといろんなことができたはず。

派遣とはちょっと違うけど、小さめの会社でいいように酷使されるアシスタントの女性を描いた”The Assistant” (2019)も日本で公開されてほしい。 疲弊しててそんなの見たくないかもしれないけど、そういう世界はあるんだからな、って男どもに。 お仕事ばんざい恋愛ばんざい映画はもういいの。

自分は派遣ではないけど、ずっとClockwatcherだったねえ(今も)、とは思った。仕事は続ければおもしろくなる、って言われたけど、会社も変わったけど、結局仕事きらいなままでずっと来てしまった。職業を選ぶのって大事よね、って今更思ってももうおそい。


お昼に、最後のあがきシリーズで、The Fallの総括本 - “Excavate!: The Wonderful and Frightening World of The Fall”などを買いに久々にRough Trade Eastに行った。店内のレイアウトが変わってて、中古盤が増えてて、帯のついた日本盤がいっぱい壁に貼ってある。中学生でレコード買い始めた頃から帯ってばっかじゃねーの、ってばりばり破って捨ててきたので、帯がついてる中古を見るとふうん、て思う。

Tha Fall本はまだぱらぱら眺めているだけだが、すばらしい。序文でウィリアム・ブレイクとアーサー・マッケンが。

4.27.2021

[film] Druk (2020)

4月20日、火曜日の晩、MetrographのVirtualで見ました。

昨晩の(だけど英国は深夜過ぎて起きていられないので翌朝になる)オスカーで、Best International Feature Filmを受賞したので先に書いておく。今年の同賞候補は”Collective”も”Quo Vadis, Aida?”も悪くないと思うのだが、Mads Mikkelsenひとりが持っていった、としか言いようがない。デンマーク映画で、原題を翻訳にかけると”Binge drinking” - 酒浸り。英語題は”Another Round” - こっちの方がいいかも。

冒頭に黒に白抜きの字幕で、キルケゴールの”What is Youth?”と”What is Love?”が表示される。

それからなにかのお祭りだか大会だかで、ビールを浴びるように飲みながらぐるぐる狂喜して走って競争している若者たちの姿が描かれる。下戸の人から見たらホラー映画ではないかと思う。

そうやって青春の飲酒を謳歌していたであろうMartin (Mads Mikkelsen)は高校の歴史の教師で、いまは明らかに仕事への情熱を失って目は虚ろで挙動も不気味で、生徒はだいじょうぶかこいつ、という目で彼を見ている。同僚の教師 - Tommy (Thomas Bo Larsen)、Peter (Lars Ranthe)、Nikolaj (Magnus Millang)も同様で、音楽や哲学やスポーツの担当教科それぞれでどんより目的を見失った状態になっていて、家族との間もうまくいっていないので、みんなで集まって対策を協議する。Martin以外の3人は酒を飲みながら。

その会で、ノルウェーの精神科医Finn Skårderudの学説 - この人は実在する人だが本当にそれを言ったかどうかは不明 - 人間の血中アルコール濃度(BAC)は常に低すぎるのでこれを0.05%に保つように努力している – とか、ヘミングウェイは日中浴びるように酒を飲んでいたが午後8時以降は一切口にしなかった(それでも名作をいっぱい書いた)、とか、要するにちょっとくらい飲んだって構わないのだ、ということをみんなで確認(正当化)して、測定器で各自モニターしつつBACを0.05%に保っていったらどうなるか - 常時0.05%で満足できるかどうか、を試してみる。つまり普段のお水の瓶に透明なお酒を混ぜて飲みながら仕事をしたらどんなことになるだろうか、と。

こうして0.05%のガイドラインに合意して足を踏みこむのがPart1で、Individual BAC(アルコール濃度は人それぞれでいい)を追求してみるのがPart2で、Maximum BAC(行けるとこまで行ってみろ)がPart3。アルコール依存症の恐怖を訴える啓発ビデオのような章立てで、でもなによりもすごいのは、しばらくなんらかの事情で飲酒をやめていたと思われるMartinが酒を一口流し込んだ途端に顔色が変わり目になにかが蘇るその瞬間の変容ぶりで、これを特殊効果とか無し(カメラの動きはちょっと絶妙)の演技のみでやっているのだとしたらMads Mikkelsenおそるべし、しかない。

こうして生徒に評判の悪かった彼の歴史の授業は生徒も教師もノリノリのそれに変わって、他の仲間たちも同様で教育の方での効果は現れるのだが、それぞれの家庭ではおねしょしてしまったりあなた何やってんのよ、になっていって、やがてやっぱり事故が。

お酒を飲むのが好きな人にとってお酒を飲むことがどんなふうに彼らの日々の活動や行動を活性化して明るく楽しくしてくれるのか、お酒を断つことがどれだけ彼らの活動を萎ませてくれるのか(+少しだけ家族とか周囲への影響云々)を主に酒飲みの目線で綴っていくのだが、酒飲みでない人にとってはドラッグ依存症の人々の映画を見るのと同じで、飲まなきゃ/関わらなきゃいいのに…  しかないのはいつものこと。手を出さざるを得ない閉塞感とアルコールと再会したときの歓びとか(”I miss you too.”)は、あのラストシーンで十分に表現されている、と思うものの、だからわかるだろ、わかってよ、にそう簡単にはならない。酔っ払いに嫌なことをされた記憶はそう簡単に消えるもんではないからー。

あとは冒頭に出てきた一気飲み競争みたいなのとか、教職の人がそうなっちゃうかーとか、この辺はその土地の文化みたいなもの – だとしたらやっぱしきついかも。酒は人をつなぐから、とかわけわかんない題目で強要されるのってまだ会社社会ではあるのだろうけど、これも酒を飲んで楽しい人の言い分でしかないのでいい加減やめてほしい。

そういうのを除けば、こないだの”Days of Wine and Roses” (1962)などと並べて、酔っ払いの奇妙な挙動とか生態を横で眺める(だけの)映画としてはわるくないの。こういうのって中年男性が演じるからおもしろい、っていうのはそれなりの理由があるからよね、とか。上に書いたお酒に向かう文化とか態度みたいなのの強さ弱さって国や地域によってたぶんいろいろ違いがあるよね、とか。

映画としては、真ん中にMads Mikkelsenがいたことが全ての成功の要因だとしか思えない。ほんとそれだけで、それくらい彼の存在がでっかい。

オスカーの他のは - “The Father”だけまだ公開されていないので未見だったが、あんなもんかしら程度(あんま興味ない)。 Best Documentary Featureだけなー。”My Octopus Teacher”、別に悪いとは思わなかったけど、仕事に疲れて虚無に囚われた白人男性がタコに教わる、ってその目線がなんかやなの。タコでもクラゲでも虫でも教わるのはいっぱい、いくらでもあるよ、謙虚になればいいだけなのに。 今はみんなああいうのを求めているんだろうな、って。


St. Ivesから戻った土曜日は、少し寝てからグリニッジ天文台とかを見にいった(外から見ただけ)。日曜日は、Stratford-upon-Avonにシェイクスピア先生の生家とかRSCとかを見にいった(どこも外から見ただけ)。その場所に行って外から見てここかーってイメージするだけでもいいの、になってきた。

4.25.2021

[log] St. Ives

もう自分に残された時間はあまりないので行きたいところに行っておかなきゃシリーズで、西の外れのSt. Ivesに行く。 ヴァージニア・ウルフの父親の別荘があって、夏の間、彼女はここで幸せな時間を過ごして『灯台へ』のモチーフも - Godrevy Lighthouseをはじめ、この土地のあれこれから作られているという。

ずっと行きたいな、とは思っていたのだが問題はやや遠いことで、ロンドンから電車で片道約5時間かかる。日帰りは無理かな、だったのだが帰りを夜行列車 - 夜22時に出ると朝5時にパディントン着 (行き帰りの時間差はわかんない考えない)にすれば行けそうであることがわかった。週末ぜんぶ使ってしまうのはあれなので金曜日に休んでしまえばいいや。

例によってお天気は気になったのだが、iPhoneの天気予報はこの一日ずっとイカの足みたいな模様がでていてよくわからなくて、でも天気図をみると変な前線もなさそうなので決行した。今回は海だし先週の丘みたいなこと- 体中ぼろぼろ-にはなるまい、と。

家をだいたい6時に出てパディントン発6:37の電車に乗る。この季節の車窓から、は本当に素敵で緑がぱりぱりしてきれいだし、羊羊羊 - いろんな羊 - 馬馬牛、のパレードなのだが原っぱを見ているとうさぎがぴょこぴょこしていたりキジみたいな変な鳥がいたり鹿が走っていったり、今回はロバもいたし。途中で干潟のようなのが現れてあらすてき、と思ったら海がどーん、てきたし、まったく飽きない。

この電車の終点は英国のいちばん西端の岬に近いところなのだが、St. Ivesはそこのひとつ手前で降りて2両編成のローカル線に乗り換えるの。ここでも海がでっかく見えてしかも遠くにいるやつはGodrevy Lighthouse ではないか。

降りて最初にいったのはヴァージニア・ウルフ(の父親の別荘)のTalland Houseで、もうとっくに人手に渡っていて改築中だったのだが高台に建っていて、彼女はあの窓からSt. Ives Bayを、Godrevy Lighthouse を眺めていたんだわ、って。

そこから町の方に降りて、その向こう - 北の反対側の海まで行ってみる。こちら側にはTateの分館のTate St. Ivesがあって開いていたら入って当然なのだが、いまはまだ。すごくかっこよい建物だった。

天気予報のイカの足マークはやはり風が強いという印だったかと気づく程度に風も陽射しも強くて、でも3年くらい前にGreenwichのNational Maritime Museumでみた英国のビーチ写真展に沢山あったいたように、ついたてをしてその中で読書をしている人たちがいっぱいいて微笑ましい。彼らはこんなふうに毎週通ってついたて立てて本を読んでいるんだろうな。

高台にあるSt Nicholas Chapelまで登ってしばらく大西洋も見納めかな、って海の向こうのアメリカのほうに手を振って、町の商店街を歩いてみる。建物も含めて小綺麗なお店が多くて住みやすそうで、ヨットハーバーはないけどサウサリートみたいなかんじかも。お店では当然にコーンウィールのスコーンとか粉ものお菓子がいっぱい並んでいてお昼につい買ってしまう - つい、って言わずにはいられない粉ものの魔力重力。

対岸の遠くに見えるGodrevyの方にも行きたくて、でも検索するとバスでは2時間とか出てしまうしUberもないのでタクシーを見つけて行ってもらうことにした。湾をぐるうっと回るので結構な距離だったが公園(National Trustのだった)の手前で降りてGodrevy Lighthouseの方を目指す。 風はこっちの方が強力で砂がばりばりなのと足元の岩場の岩も丸いのから尖ったのまでいろいろで、風で飛ばされないようにする - 何度か飛ばされたことあり - のと躓いて転ばないようにする - 極めて頻繁にすっ転ぶ - の両方に注意しながらそろそろ進む。でもさいあく、なんのガードもない崖から落っこちるかすっ転んで流血しながら海に落ちるか、その程度だろうし、それでもいいや、って。

フード越しのぼうぼうの風の音(吹きあげられた砂の音)と満ちてきているのか引いているのか波と岩場の間にたつ音が素敵ったらなくてぜんぜん飽きることがなくて、岩場で座ったまま1時間くらいぼーっとして崖の上の草のなかで1時間くらい寝ていた(よく寝る)。 少し離れた岩の向こうの海の間に岩のように見えたのが動いてきょろきょろして消えて、あとでこの辺にはGrey Seal - ハイイロアザラシが生息していることを知る。言ってくれたら1日粘ったのに。

本当は日没(20:30くらい)まで - 灯台が動き出すところを間近に見たかったのだが夕方に向かって寒さと風がきつくなってきたのと、灯台の灯りを見るのであれば、ヴァージニアが見たであろう距離から見るのが適切ではなかろうか、と思ったのでSt. Ivesの方に戻ることにして、砂浜を経由してバス停まで40分くらい歩いた。Sunset Surfingに向かう沢山の車とすれ違って、やっぱりサーフィンするのか、って。

St. Ivesの町に戻ったのは20時くらいで、寒くてへとへとで、でも食べ物屋はとうに閉まっていてハーバーで開いていたカウンターでFish & Chips(Halibutの)を買って、風が吹く店外で震えながら食べた(店内で食事はしてはいけないの)。揚げたてはとにかく、なんだっておいしい。

電車は21時半だったので、駅前のGodrevy Lighthouseが見えるところに座って灯台に灯りが点くのを待つ。日没を過ぎて相当暗くなっても光は来なくて、『緑の光線』(1986) のDelphineの気分で待って、光が見えたときには泣きそうだった。あんなに小さく光って、でも小さいから/小さくてもはっきりとわかる。それは360度回り続けていて、その様子はこちらにはわからない - こちらにずっと光が来ているわけではない。こちらから見るとゆっくりと同じリズムで明滅を繰り返している。でも間違いなくこちらに届いているなにかがいかに大切なものか、ということ。 波の押して引いての干満と同じように。

(よい灯りだったな、ってしみじみして、帰りの電車でTLみたら東京は消灯8時とかいうニュースでもちきりで、ばっかじゃねーの、って思った)

夜行列車は21:55発で05:07にパディントンに着くやつ。 寝台車もあるのだがそれは満員で取れなくて、あるのはふつうのリクライニングもしない椅子席で、西海岸から出張でNYに戻る時の飛行機便を思い出した(あれも夜22時発で朝の6時くらいに着いた。時差があったけど)。西海岸からの便の場合、エコノミー3席分を独占できるとそこに横になれて楽だったのだが、電車のは2席で、その幅は中途半端で不自然な格好で横になったり窓にずるっとなるしかなくて、でも疲れていたのか寝る → 体が痛くなって起きる → 姿勢を変えて寝る、を繰り返し、3回くらいへんな夢を見た。そうやって落ちて、最後に目が覚めたら周りに誰もいないので、え? って時計を見たら6:40だった。どっかの車庫に入っていたらどうしよう、って慌てて外にでたらいつものパディントン駅だった。 外の世界はみんな死滅していた.. でもよかったのにな。 それにしても到着して1時間半、寝ているやつは放っておくのね… 

iPhoneによると12.5マイル歩いて、131階分登り降りしたって。先週のがきつかったんだけどな.. ていうかもう懲りてあと3年は運動しないとか言ってたくせに。

4.23.2021

[film] Promising Young Woman (2020)

4月16日、金曜日の晩、Sky TVで見ました。なんかTVではふつうにがんがんリピート放映している。

昨年、英国の一回目のロックダウン終了後の映画館で予告がかかっていたので、もっと早く見れると思っていたのに結構時間が掛かって、気が付けばオスカーにノミネートされていたりBAFTAでもオリジナル脚本賞とかOutstanding British Film of the Yearとか獲っちゃったりすごいことになっている。チープなB級の佳作 – ざっけんじゃねえよくそったれー  以上。でいいのに、とか。

作、監督はこれが長編作デビューとなるEmerald Fennellで、Margot Robbieがプロデューサーとして入っている。Variety誌の批評家が主人公の役はCarey MulliganよりもMargot Robbieの方が相応しいのではないか、と女優の外見にまで言及したことで謝罪騒ぎにまで発展したの(ちゃんと読んでいないのでどっちがどう、については保留)は記憶に新しい。こういうところも含めて各方面にいろんな議論を呼んでもおかしくなさそうな作品。

Cassandra - Cassie (Carey Mulligan)はバーで酔っ払ってぐでんぐでんで制御不能になっているところに声を掛けてきた男を引っかけて(男性からすると彼らが引っかけて)、部屋に招かれてコトに及ぼうとしたところで素面になり「なにやってんだおら」って恫喝して脅迫して、というのを繰り返してノートに記録している。

彼女は有望かつ優秀な医学生だったが、在学中のパーティで同級生のAl Monroe(Chris Lowell)にずっと一緒にいた幼馴染の親友Ninaをレイプされ、それに続く自殺で失って - 映画のなかではNinaとの具体的な思い出もレイプという言葉もそれらの映像も一切出てこなくて、Cassieの口から語られるのみ -  彼女はその後に大学を辞めて、カフェのカウンターでバイトをしながら、事件に関わった連中 - 加害者の男子だけでなく、現場で様子を傍観していた同窓生の女子も、Ninaの訴えを証拠不十分として却下した医学部の学部長(女性)も、Ninaに嫌がらせをして告訴を取り下げさせたアルの弁護士 (Alfred Molina)も、それぞれのやり方で – なかなかひどい – 痛めつけて踏んづけていく。

他方で同居している両親はずっと独りでいるCassieを心配しているし、Ninaのママ (Molly Shannon)ももう忘れてあなたの道を行って、というし、偶然再会した同級生で小児科医のRyan (Bo Burnham)とはよい関係になりそうだし、もういいか.. になった辺りで、会って過去を掘り返して酷い目に遭わせてやった同窓の女性が暴行の現場を撮影した携帯の映像を持ってきて、そこにRyanの姿を見つけた彼女は..

みんな揃って加害者をくそ擁護して「正論」を振りかざしてCassieだってひどいじゃないか、とかぴーぴーわめく卑怯者が群れをなすのが容易に想像できる(いまのにっぽんだ)が、なにが正しいのかとか正義なのかとか、そういう問題提起をしたい映画ではない気がして(もちろんしたい人はどうぞ)、幼馴染を殺されてブチ切れたPromising Young Womanがいかにひとりひとりを血祭りにあげていくのか。 Quentin Tarantinoがオトコのねちっこさで嬉々として練りあげる(みんなかっこいい! って喝采したりする)復讐のドラマとは別の角度で、絶望の底に叩き落されたひとりの女性が(そこから這い上がるのではなく)がむしゃらに走り抜けようとするその突端を淡々と追っかけている気がした。見たけりゃ傍聴券でも貰ってその辺で見てな、って。

おそらく両親が用意した高校生時代の状態のままで時間が止まっているCassieの部屋のインテリアも、「復讐」に向かう時の彼女の装いもメイクも、もうすでに(Ninaとともに)彼女も既に死んでいることを示している気がした。Ryanとの出会いはほんの少し彼女を生の方に向かわせてくれるかに見えて、それが実は…  地獄っていうのはこういうどこまでも抜けられないどん詰まりの事態をいう。 だからせめて、みたいなラスト。

あと、こういう話は今も過去もいくらでもあったんだろうな、とふつうに思わせてくれる感があるって、なにがどうなってきたからなのか。果たして10年前、20年前にリリースすることが可能だっただろうか? これまでもレイプに対する復讐劇はあったけど、これは痛手を負って”Promising”も”Young”も剥奪された白人女性が白人社会でどうやって生きていこうとするのか、そういうドラマ。

Harley Quinnよか数段苛酷できつくて、ここのCarey Mulliganはすばらしいと思った。


夕方のBBCでLes McKeownの訃報を伝えている。スコットランドっていうところにはイギリスとは違う文化があるらしい、って知ったのはこのバンドあたりからだったかも。

4.22.2021

[film] Starlet (2012)

4月14日、水曜日の晩、アメリカのMUBIで見ました。
“The Florida Project” (2017)の、”Tangerine” (2015) – 未見 - のSean Baker監督作。日本はビデオスルーらしく、邦題は腹が立ったので書かない。酷すぎる。恥を知れ、だわ。

冒頭、ぼんやりしたベージュの壁紙のようなのと黄金の藁みたいのがちらちら映っていて、それが主人公Jane (Dree Hemingway)の部屋と寝起きでぼさぼさの彼女の髪の一部であることがわかる。彼女はカリフォルニアのサンフェルナンド・バレーで友人のMelissa (Stella Maeve)と彼女のBFのMikey (James Ransone) – ふたり共終日ビデオゲームばかりやっている - の家の一部屋にチワワのStarletと一緒に間借りしていて、なんも気にせずにぼさぼさの状態で起きあがるとそのまま外に出てヤードセールで買い物したりしている。

ある日、Janeが入口がぼうぼうの木で覆われた一軒家のヤードセールでおばあさんから魔法瓶を「返品不可だからね」って念を押されて買って、家で使おうとしたら瓶のなかから輪ゴムで丸く束ねられた$100札の塊がゴロゴロ出てきて、なにこれ? になる。 棚ぼたで使っちゃえ、って少し使ってみてからやはり気になったのかおばあさんのところに戻ると彼女はめちゃくちゃ不機嫌で返品できないって言っただろ、って扉をびしゃんて閉めて追っ払おうとする。その言い方やり方がなんか気になったので、スーパーの出口で彼女を待ち伏せして一緒に帰ったり、彼女が週末に通っている町のビンゴ場に出かけていったりする。

おばあさんの名前はSadie (Besedka Johnson)と言って、今は身寄りもなくギャンブラーだった夫に先立たれてからずっと一人で、というようなことを不機嫌の合間に目を合わせないでぽつぽつ喋ってくれるようになるのだが、魔法瓶のお金のことはどうやら全く記憶にないらしい。でもその件とは別にJaneとSadieはだんだん距離を縮めていって、Sadieが夫と行ったという廃墟になっている動物園に行ったり(このシーンすてき)、一緒にSadieがずっと憧れていたパリに行く計画を立てたり、互いに互いのことをどう、って言うわけではない/言うほどのものではない、茶飲み友達のような仲になっていく。

そんなことをやっているJaneはなにをしている人かというとポルノ女優で、撮影する場面も描かれたりするのだが、極めてクールにただのお仕事として淡々とやっていてスタッフからの評判もよくて、同居しているMelissaも同じプロダクションにいてこちらは態度が悪いってクビにされたりする。でもJaneがその仕事をしていることがSadieとの関係に絡んでくることはない。 せいぜいどちらも自由時間が沢山あって、その時間とそこでできることを楽しもうとしている、とかその程度。

そのうちにMelissaがJaneの(Sadieの)お金をたまたま見つけてしまったり、Starletと留守番をしていたSadieがStarletを見失って強い陽射しのなか泣きながら探しまわったり、いろんなことがあって、ふたりはそれぞれお互いに言えないことを抱えた離れられないふたりになっていくの。

“The Florida Project”でも描かれた、どうしようもないけどこれしかないのだ/これでいいのだ、っていう腐れ縁のツヤをもった輝きとその渦に見ている我々も巻きこまれていくのだが、あの映画がFlorida郊外の煤けた陽光に満ちていたのと同じように、この映画もカリフォルニアのからからした白い光に溢れていて、陰鬱な老後や先の見えない人生の暗さからは程遠い。その光と共にあれこれ忘れて真っ白になって構わないや、になりそうで、だからこのふたりはこんな仲になれたのかもしれない、とか。

でも、“The Florida Project”もそうだったけど、お願いだから犯罪とか事故に巻きこまれたりしないで(強い太陽が呼び込む邪悪ななにか、という妄想)、っていうところではらはら怖くてしてしょうがない。今回は特におばあさんと犬で、SadieだけじゃなくてチワワのStarletもおそらくしおしおの老犬みたいなので(かわいいけど)、突然倒れちゃったりしたら、という恐怖が隣り合わせで。

最後、ふたりはパリに向かうために空港に車を走らせる。この時点のふたりの想いはそれぞれに微妙で複雑で、でもなんかうまく言い出せなくて言葉少なくて、Sadieは彼女の亡夫の墓に寄ってほしい、って頼むの。ここでどんなことがあったか。このあとに二人はどうしたのか、とか。とてもよいエンディングだと思った。

Jane役のDree HemingwayさんはMariel Hemingwayの娘さんなのね。で、Sadie役のBesedka Johnsonさんはこれが映画初出演で、これ一本だけ撮って、2013年に亡くなっている…

音楽はぜんぜん知らない静かめのエレクトロみたいのが多くて悪くないのだが、今ならLana Del Reyあたりがとても合う気がする。


箱詰めの手前の、本棚の上とか手前に積みあがっている山を取り崩す作業に取り掛かって、こんなところにこんなものが、とか、これはどこで手に入れたのかしら、大会を始めている。このへんがまだ余裕で一番楽しくて、これが当日になると適当につっこみ始めてごめんもう二度と引っ越しなんてしないから、になるの。この二度としない、を何回やっていることか。
 

4.21.2021

[film] The Frightened City (1961)

4月13日、火曜日の晩、Amazon Primeで見ました。

60年代初のロンドン – SOHOからWest Endの界隈でギャングが跋扈する地下世界を描いたBrit Noirの古典で、ジェームズ・ボンドになる前のSean Conneryが出ていることでも有名な作品。邦題は『殴り込み愚連隊』 - あんま殴り込まないし愚連隊でもないけど。

いろんなお店から用心棒代を定期的に頂戴して、これに従わないお店は嫌がらせでぐしゃぐしゃにする、っていうのを裏の生業にしているクラブオーナーのHarry (Alfred Marks)が、お金持の会計士Waldo Zhernikov (Herbert Lom)と組んで、更にきっちり儲けられるようにギャングのボス5人を集めてシンジケートを作ってそうやって得られた収入を均等分けにするビジネスを考えて、ギャングのボスたちは合意する。

もちろん警察もこの動きを感知して警部のSayers (John Gregson)を取り締まりにあたらせて、ギャング側でもムダなく動けるようにイキのいい若者Paddy Damion (Sean Connery)を雇って周辺の見回り立ち回りにあたらせる。PaddyはWaldoのオフィスにいた移民の女性Anya (Yvonne Romain)に惚れて..

ストーリーにうねりがあったり、でっかい激突の山場や凄惨な殺し合いがあったりするわけではなくて、オーソドックスなアンダーグラウンドのギャング vs. 警察の押して引いて群れて散ってを、スウィンギン・ロンドンの盛期へと向かうロンドンの盛り場の瞬きとそこに見え隠れするあれこれを、バーからクラブから路地裏からいろんな明るさと闇の間に浮かびあがらせる。ひとりひとりの俳優の顔つきも含めてとても後に残る。実際にこんな人達がうろうろしていたんだろうな、って既に知っている気がする顔たち。

Sean Conneryは表情の作り方とか余裕たっぷりのぴっかぴかに(もうヘアピースを付けているらしいが)出来あがっていて、女性に対する立ち回りも含めて既にじゅうぶん007ぽい。つまり007というのはこういうアンダーグラウンドから湧いてきたあんちゃんに先端のスーツと銃器類を持たせただけなのではないか、って。

ロンドンの繁華街のSOHOとかWest Endって映画ではいろんな描き方をされてきて、このエリアに根付くのはギャングとかやばいのばかりではなく、アートとかファッションとかゲイカルチャーとかカフェカルチャーとか、路地裏の、穴倉の奥の方から表通りのカジノとかクラブまで、その成り立ちと集まってくる人々に応じたいろんな表情があって(ということを見たり聞いたり読んだりして知った。これらを総合して解説した本ってあるのかしら?)、これらは当然他の都市や地域とは異なる独特の発展(と言ってよいのかどうか)をしてきている。それがその都市をそういうものとして形づくる。

以前、Michael Caineが彼のドキュメンタリー上映後のトークで、60年代初めのロンドンには本当になんでもあってやろうと思えばどんなことでもできたけど、それらをすべて潰してしまったのがドラッグの登場だった、と語っていたのを思いだしたり。

ノワール系の映画だと“The Naked City” (1948)のJules Dassinがあの映画の手口をロンドンに持ち込んでRichard Widmark主演で撮った“Night and the City” (1950) とその原作のGerald Kershによる小説(1938)を見たくて読みたい。“The Naked City”のNYがまだ微かに残っている(Criterion Channelに短編ドキュメンタリーがある)ように、“Night and the City”のロンドンもまだ辛うじて残っているらしい。スポーツ用品店とかスニーカー屋ばかりがなんであんなにいっぱいあるのか、とか少し疑問だけど。

でも最近の - Guy Ritchie以降というべきか - ロンドン(& 英国)を舞台にしたやくざ、ギャングものはなんかあまりに野卑で男臭くて、クラブでは必ずストロボがびかびかで音楽がどうどうやかましく鳴ってて、暴力描写も痛そうなのばかりだし、とても苦手なのだが、あれらってなんでみんな見たいの? とか。でもこれらも40-50年経てば、この時代の都市の記憶として語られることになったりするのだろうか。

昭和の時代のやくざ映画とかに記録されていた東京や大阪のネオン街や路地裏がいまどんなふうになっているのか、考えたくないくらい全てどこかに消えてしまって、そんな惨状なので後の時代の映画にはろくなのがない - 画面にばーんと出た瞬間にそれがどこの都市なのかわかんないのって、それだけでテンションが半減する気がする。

こんなふうに映画を見たり絵画や写真を見たりして、ロンドンを去りたくないようばっかりやり始めるの。NYから戻るときもそうで、これを続けていると何を見てもここやあそこを思い出してしょうもない、になる。

4.20.2021

[film] Conte d'hiver (1992)

4月11日、日曜日の昼、Film ForumのVirtualで見ました。
ロメールの「四季の物語」を順番に見ていくシリーズのふたつめ。英語題は”A Tale of Winter”、邦題は『冬物語』。

冒頭、盛夏のブルターニュの海岸でFélicie (Charlotte Véry)とCharles (Frédéric van den Driessche)がとても楽しそうにキスして抱きあって写真を撮って、などをしてて、別れ際に帰ったら手紙書くから会おう、ってFélicieに住所を貰ったりしている。

そこから5年後、12月14日 金曜日から新年にかけて、ベルヴィルで母 (Christiane Desbois)と、あの夏にCharlesの間にできた娘のElise (Ava Loraschi)と一緒に暮らすFélicieの日々を追っていく。Charlesからの手紙は結局届かないまま彼女はひとりでいるらしい。

彼女が勤務しているMaxence (Michel Voletti)の美容室に行くと、彼はここを畳んで彼の地元のヌヴェールに帰って店を開く予定だという。離婚協議していた妻とは話がついたので一緒に来ないか、というのでその週末にヌヴェールに行って準備中の店の場所をみて彼と過ごして行くことに決めて、並行して付き合っていた図書館司書のLoïc (Hervé Furic)にはさよなら、って告げて(”I like strong men, not bookworm”だって.. )、Eliseを連れてMaxenceのところに向かう。

のだが、行ってみると彼女たちの住むところは店の上階で落ち着かないし、開店直後のせいかMaxenceは慌しくてあまり相手をしてくれないし、そのくせ「マダム」って呼ばれてしまうし、Eliseはつまんなそうにしょんぼりしているので、結局3日くらいでパリに戻ってきてしまって、じゃあLoïcのところに戻るかというとそうでもなくて、(Loïcによれば)パスカルとかプラトンを経由して(そんな議論は知ったこっちゃないけど)わたしはやっぱりCharlesを待つのだ、現実的でないかもしれないけどそれしかできないのだ、と。

この後、Félicie はLoïcに誘われて町のシアターにシェイクスピアの『冬物語』を(やや渋々)見に行って、そこで5幕のハーマイオニーの彫像がかの「信じる力」によって動き出すところを目に涙を浮かべて見つめて、ああこれなんだわって感動していたら、やがてバスの向かいの席にCharlesを見つけてしまうという - しかも彼の隣には『緑の光線』(1986) のMarie RivièreがDora という名前でいたりする。(彼女はわかっているわよ、っていう顔をする - 気がした)

CharlesはDoraは恋人でもなんでもなくて、結婚もせずにずっとFélicieのことを思っていたというので結果はよかったよかったになるのだが、でもよかったねえ、のハッピーエンディングで締まる信じるものは救われるという諺とか格言のお話しではなくて、『美しき結婚』 (1982)のようにどこまでも理想の結婚相手を追い求めるのだ、という話でもなくて、彼女がCharlesとLoïcとMaxenceと付きあいつつもなぜCharlesのことをずっと、だったのかその理由がどう、ということでもなくて、彼女がそれを自分で決めて貫いたクリスマスと年の瀬、そこだけなのではないか、という気がした。

夏や春のイメージが多いロメールの映画のなかで、冬のというとやはり『モード家の一夜』(1968)が浮かんで、あれも運命的ななにかを強く信じる主人公のJean-Louis TrintignantがMaud (Françoise Fabian)とFrançoise (Marie-Christine Barrault)のふたりの女性の間で悩み、そこにキリスト教だのパスカルだのが絡んでくる話だった(気がする)。 こっちでは性別が変わって、子供のできる順番が違っていたり。

もういっこ、シェイクスピアの『冬物語』にあったメタシアター的な構造は、ここではFélicieと3人の男性とのそれぞれの関係のなかで、例えばクリスマスや新年を共に過ごす「家」とか「一家」のありようを対象化しているところに出てきているように思えた。それはやはり冬に起こること - ほんの暮れの2〜3週間の間に - で、そういうのの積み上げで世界は出来あがってきているのだ、って。

個人的にはFélicieに都合よく使われていた(ように見える)Loïcは幸せになれたのだろうか、っていうあたりが気になる。


18日の日曜日は、かつてない規模と重度の筋肉痛 - まだこんなに筋肉だの筋だのに覆われていたのか恥知らず! - で30分くらいかけて起きあがり、でも予約してあったので、館内ツアーを再開したShakespeare's Globeに行った。ここはオープンエアだからツアーができるのね。昨年こそは行って演劇見よう、って思っていたのに結局間に合わなかった… って泣いてもしょうがない。 まだ舞台には最後の公演「真夏の夜の夢」の飾りが残された状態で、ツアーそのものは約50分くらいにオリジナルのグローブ座の話から当時の観客のことからシェイクスピア演劇そのものにも触れ、舞台の上から上の方の椅子席まで連れていってくれて、すばらしくコンパクトにまとめられていたのでおすすめ。

4.17.2021

[log] Top Withens

もう自分に残された時間はあまりなくて、でも国を跨いでどこかに行ったり飛行機に乗ったりすることは未だ許されていないのでどうするかというと英国内でいつかは行こうと思っていて行けていなかった場所を地道に潰していくしかない作戦をはじめる。もちろん普段の日は仕事もあるし引越しの箱詰めもあるのでなにが地道だ、とかどこまで足を伸ばせるのかとか、なんとも言えないのだが、やってみよう。

こうして先週の土曜日はNorwichに行って大聖堂を見て、行きたかった本屋(The Book Hive)は開いていなかったので外から眺めただけで、更に電車に乗って昔の観光地 - Cromerのビーチに行って北の暗い海を見つめた。

今週 - 今日は、長年のなんとしても案件だった嵐が丘のHowarth と小説で描かれた原野ひと揃えを見て歩いてきた。最大の懸念はお天気で、崩れて寒いと頭いたくなるし、でも暑いのは苦手で嫌だし、でもそれを言っていると延々行けなくなるのでこの日だって決めたら快晴で天気よすぎて雰囲気が..  でも贅沢いわない。

電車を乗り継いで更にバスに乗ってHowarthの町に行って、ブロンテ姉妹の生家だった博物館はまだクローズしていたけどショップは開いていたので地図 - ちっとも役に立たなかった - を買って、ここから歩いてTop Withensを目指す。はじめは原野の端っこだけみて触ってこれがそうかー、ってわかればいい程度のつもりでいたのだが、結局どうせ行くなら… になってしまう弱さ。

天気の次の懸念は自分の体力で、とにかくここ1年、運動みたいなことは一切やってこなかったし、その前からだってずーっとなんもやってこなかったし、運動に必要となりそうな持久力と耐久力は本屋・レコ屋巡りと美術館廻りとスタンディングのライブとたまに食物を求めて並ぶ、これらのため「だけ」に最適化されてきたので、この状態で吹きっさらしの原野を歩いたらどうなるのか、わかんなかった。まあ広義の本漁りとアート探訪ということにすればがんばれるかもな、ってヒトゴトで。

博物館を出たらもう横の敷地で羊がわあわあ鳴いてて、ああ羊の国だったのだわと思いつつ、延々続く畑路をどうするこれ、とか思いながらまずはBronte Waterfallに向かって歩きはじめたのだが、そこまでの微妙な畝りになだらかだったり急だったりの高低、岩と砂利と泥のミックスからなる獣道のような足回りに脚がぐだぐたになり、ほうら言わんこっちゃ、になったのだがここから引き返すのはそれはそれで面倒な気がしたので(←墓穴)2分くらい休んで、次のTop Withensに向かうべく滝の上の方に登ってみたら、案内板には1 mileとかあるのにTop Withensがうーんと遠くに虫みたいにちらちらしていて、あーしぬかも、って思いつつもそこに向かうしか道はない。

天気がよいので人が出ているかと思ったがそんなでもなくて、彼方にぽつぽつ、程度。前を行くひとが消えたり現れたりするのは高低差があるからよね、とか考える余裕があった頃はまだよくて、なんでただのばーんと広がる原野にしか見えないのにこんなに登ったり降ったりするんだ、とか、なんでこんなありえない平原の奥に農家(の跡)みたいのが建ってるんだ、とか、こんなんじゃ一家そろって荒むわけだわ、とか呪いの言葉を吐く余力もなく、登りきる前に倒れて運ばれたりしたらみっともないな、と思ったことだけは憶えている。

とにかく時間をかけてぼろぼろの状態でTop Withensにはたどり着いて、寝転がって2年くらい前に賞味期限の切れてるカロリーメイトを水で流しこんで、草の間で少し落ちて(気持ちよかったー)少し回復した気になったので帰ることにした - 帰るしかないだろ。

歩きだしてから帰りの経路をよく考えていなかったことに気づいたがみんなが歩いていく方にいけばよいのでは - あと同じルートで戻ってもつまんないし往きは相当きつかったし - ってヒースやいろんな草の茂みの中を歩いたり羊と睨みあいをしたり - 角があるやつであの目で睨んでくる - していたらあーらふしぎバスが通っている通りに出たのでバスがくるのを待ってそれに乗ってHowarthに戻った。

景色はとにかくでっかく横斜め方向に広がってくれるので気持ちよいのだが目先足先は草ぼうぼうだったり泥ぐしゃだったり岩だらけだったり酷くて意地悪で、ここに小説や映画で描かれたような風ぼうぼう雨ざあざあの横殴りがやってくると、間違いなく誰かのせいにしてみたり葬ってやりたくなったりするだろうな、って。例えばこういうどうすることもできない理不尽な力に振り回されるようなところで文学の想像力が育まれる、ていうのはとてもよくわかる。というかこの場所であんな物語を創造したのってやっぱりすごい。この驚異の前にはどんな映画化の、映像の力もかなわないのではないか。

iPhoneの計測によると11マイル歩いて、88階分登ったって。 もうあと3年くらいは運動しないことに決めた。

 

[film] Palm Springs (2020)

4月11日、日曜日の晩、Amazon Primeで見ました。こちらでもようやく公開された。

タイムループもの+Rom-com、と聞いていて、でもRom-comっていうのはそもそも荒唐無稽なものだから、それもまたありよね、くらいで見て、これってRom-comっていうよりはスクリューボール・コメディの方かも、とか。 以下、ネタバレとは言えないと思うけど、自分で考えて楽しみたいひとは読まないほうがよいかも。

11月のPalm Springsのホテルのベッドで目覚めたNyles (Andy Samberg)は、傍にいた恋人のMisty (Meredith Hagner)と気のぬけたセックスをして、このためにやってきた友人のTalaとAbeの結婚式に参加して、突然スピーチを振られてどうしようってなったTalaの妹Sarah (Cristin Milioti)を救ってあげて、そこからふたりは仲良くなって、砂漠の外れのようなところでセックスしようとしたら突然Nylesの背中に矢が刺さって、あうう.. ってよろよろ洞窟の方に向かうNylesを追っていったSarahは..

Nylesはその日にどんな酷い目にあっても死んだり殺されたりしても必ず結婚式の朝に同じホテルの部屋で目覚めるというタイムループに嵌っていて、それをもう嫌になるくらい繰り返して、抜け出すためにあらゆることを試みて自殺しようがなにしようが結局元に戻ってしまうので、ぜんぶ諦めててきとーに過ごしている(だから結婚式にもアロハシャツ姿で出る)。洞窟までついてきたSarahもその状態になった - Nylesを殺そうとした男 - Mike (JK Simmons)もそれに嵌っている同類だ、って説明されたSarahはそんなの冗談じゃない、って抜け出すためにいろんなことを試そうとして、Nylesもそれに付きあっていくのだが、彼はなにをやっても無駄であることを知っている。

過去のタイムループものというと"Groundhog Day" (1993)とか"Edge of Tomorrow" (2014)とかが浮かんで、これらの原因は自分の心にあったりなんかの装置だったりいろいろで、今回のは(たぶん)ループする世界とループしない我々がいる世界は別の次元にあって、一方は死に向かって流れていく世界で、もう一方は一日単位のループを延々繰り返していく世界である、と。

この日のお昼にNetflixの短編”Two Distant Strangers” (2020)- これもタイムループもの – を見てて思ったのは、タイムループものの主人公ってなんでみんな揃って絶望しているんだろう、って。毎日同じようなことを繰り返して同じような結果と後味と共に目覚めるのってそんなにきついのか? 今のコロナのロックダウンのどこにも行けないのなんて、ほぼ同じじゃないか? って。線で流れていく時間の最後にある死と、円になって廻って終わりのない時間のどっちの絶望のが深いのか、とか。

ループする世界では痛みはリアルに来るけど記憶はリセットされない。つまり記憶や知識はずっと生きて残っていくのであれば、いっぱい勉強できるし、いくらでも映画みたり本読んだりできるし、いっぱい本買ったって積みあがらなくて翌日には片付いている(.. さみしいか)し、悪くないのではないか。実際にSarahはそういう繰り返しを使って突破口を見つけたのだし。

だからNylesがプールでぷかぷか毎日やってるのも別にいいじゃん、しかない。地球が終わったらさすがにこれも終わるんじゃないか、とか。 Mikeとか式場にいたおばちゃんみたいにこの状態のなかに幸せを見いだしてゆったりと生息している人も割といそうだし、それでいいと思うし。(だめ?)

この状態から抜け出すのに愚直に努力を続けて諦めない、っていうのも大事な要素としてあって、それって愛のテーマに繋がりやすいなにか、なのかもしれない。タイムループものではなくて、記憶のリセットものだけど“50 First Dates” (2004)はだからこそ感動的なのだし、でもここはなにかをかけ間違えたらとっても臭くなりがち。というあたりを押さえたNylesの振る舞いと、反対側でひとりで猛然と量子科学の勉強をはじめたSarahの対比がよくて、でもここからふたりのラブストーリーにジャンプするのってループを抜けるのと同じくらい難しくはないだろうか。

でもそんなのだって可能だと思わせてしてしまう程度にてきとーでいい加減なあんちゃんを演じたAndy Sambergの勝ちでよいのかも。 彼だから - 昔だったらAdam SandlerとかPaul Ruddあたりなら - できた曲芸だったのかも。Cristin Miliotiさんもがんばって彼を引っ張りまわしてよいのだが、理想をいうと”His Girl Friday” (1940)のRosalind Russellみたいに機関銃みたいに喋りまくるひとだったらもっと。

続編はふたつの世界の間に穴を開けて悪いことを企む悪の組織が現れて、そことの抗争にふたりが巻き込まれて大変なことになるの。JK Simmonsがレジスタンスのリーダーとなって戦うの。もうコメディじゃないの。

4.16.2021

[film] Gli intoccabili (1969)

4月6日、火曜日の晩、Criterion Channelで見ました。

『死刑台のメロディ』のGiuliano Montaldo監督によるアメリカを舞台にしたイタリア映画。音楽はEnnio Morricone、タイトルをそのまま英語に訳すと”The Untouchables”だが、英語題は”Machine Gun McCain”で、邦題は『明日よさらば』。

昔の日活とか東映みたいな(←適当)B級ギャングドラマなのだが、主演がJohn Cassavetesで、彼のキャリアのなかでいうと”Faces” (1968)と”Husbands” (1970)の間にある主演作品で、裏の細かい時系列はわからないが、この作品でPeter Falkが登場し、やがてBen GazzaraやSeymour Casselがここに加わって艶にまみれた伝説のCassavetes一家が形成されていく、その過程にあるすれっからしちんぴら映画として見るとなかなか捨てがたい。

西海岸をほぼ掌中に収めたギャングのボスAdamo (Peter Falk)が勢いにのってラスベガスのカジノに手を伸ばそうと三下のJack (Pierluigi Aprà)を動かしていたら東海岸の大ボスDon Francesco (Gabriele Ferzetti)がおまえなに調子に乗ってんねん、て釘を差してきて、でもすでに遅しで、AdamoはJackのパパで襲撃のプロ - 12年間服役しているHank “Machine Gun” McCain (John Cassavetes)を刑務所からリリースしてしまったのだった。

出所してきた無口で無表情のHankはバーにいた女性Irene (Britt Ekland)を引っかけて、彼女とふたりで黙々と(なんの相談も指示もない、その黙々っぷりがすごい)爆弾をこさえて、カジノの外のガソリンスタンドとかカジノの中の植え込みとかいろんな場所に淡々と仕掛けていって、時間が来てどかんどかん打ち上げが始まって大騒ぎになると、消防隊員の格好で中に入っていってごっそり戴いてしまう。(”Ocean’s 11”よか豪快でシンプルで好き)

東方のボスはまじか?やんのか? って怒り狂ってAdamo一家の皆殺し作戦を開始してAdamoを含めてばっさばさ殺していって、もうちょっと拷問するとか急襲するとか嫌がらせとか馬の首とか工夫したいろんな見せ方もあるだろうに、あっさり草を刈るみたいにAdamoもJackもやっちゃって、次はHankだ、ってなるのだが、“Machine Gun” McCainだから手強くてそう簡単にはやられない。でも包囲網が狭まっていくと、彼はかつての相棒で一緒に刑務所に入って先に出所していたRosemary (Gena Rowlands)のところを訪ねるの。

このふたりが再会するシーン、べつにごく普通に向かい合って見つめ合ってぼそぼそいうだけなのにほとばしる侠気と色気の重力がとてつもない。ここを見れたのでよいわ、になる/がある映画。そのための台詞も動作もいらない、このふたりがどれだけ特別なふたりだったのかを示す - 他にもいっぱいあるけど、この映画もそこに含まれる一本。 で、ここから”Bonnie and Clyde”でもやるのかしら、と思ったらそっちには行かなくて、次に目を合わせたらもうお別れ、ってはじめからわかっているふたり。

こういう映画でよく使われる「非情」っていうのをドライであっさり、とするとこんなに非情でさばさばしたやつもない、ってくらい、アクションは撃つ - 撃たれる - 倒れるだけ。現場の実情もこんななんだろうな、っていう殺伐感がたっぷり。Machine Gunもそんなにばりばり撃ちまくるわけでもないし、むしろ爆弾しかけるところの所作の方が印象に残るくらい。強いも弱いも、頭いいもわるいもない、やるかやられるかだけで、やられたら終わる、それだけのー。

でもなんであのカジノはやっちゃだめだったのか、そこだけあんまよくわかんなかったかも。


ぜんぜん関係ないけど、深夜の映画チャンネルで”Creation Stories” (2021)ってやってて、Alan McGeeとCreationレーベルのサクセスストーリー(not ドキュメンタリー)で、流れてくる曲とかベタで恥ずかしいし、どうせOASISの自慢話とかだろうし、ってちゃんと見ていなかったのだが、Television Personalitiesの”Part Time Punks”とか(本人たちの演奏ではないけど)が流れてきたのでおおー、ってなった。リピートしているので今度ちゃんと見よう。Richard Jobsonが俳優として出たりしているのね。

4.15.2021

[film] Conte de printemps (1990)

4月5日、月曜日の晩、イースターの連休はなんだったのだろう… ってしょんぼりしつつFilm ForumのVirtualで見ました。ここでÉric Rohmerの「四季の物語」が順番に(リリース順みたい)かかる。これがリリースされた90年代の前半はNYにいて、映画にそんな興味もなかったので見ていなかった。ちょっと楽しみ。英語題は”A Tale of Springtime”。  邦題は『春のソナタ』。もう春だし。

リセの哲学教師のJeanne (Anne Teyssèdre)が誰もいない部屋に入って乱雑に脱ぎ捨ててある服とかを片付けようとして少し考えてやめて、本棚からカントとかを拾って(そこに並んでいるのはヘーゲル、フッサール、プラトン、ゲーテの「ファウスト」、ウィトゲンシュタイン、など)、今度は別のフラットの部屋に入ってそこに現れた女性との会話を聞くと、前にいた方がつきあっている男の部屋で、新しい方が彼女の部屋 – 壁にはウィトゲンシュタインの写真、ホックニーにマティス – であることがわかり、そこに泊まりに来ているいとこがごめんもうちょっとだけここにいてもいい? と頼むので、いいわよ、とか返している。

Jeanneはそのままどこかのパーティに出かけて18歳のNatacha (Florence Darel)と出会い、Natachaはうちいま誰もいないから泊まりにおいでよ、と誘い、Jeanneは実は行くところないんだ、ってそれに乗る。彼女の父親のIgor (Hugues Quester)は文化庁のようなところで仕事をしていて女友達と一緒にいるので家にはほぼ寄りつかないのだという。そうしてNatachaは壁に掛かっている彼女の祖父や祖母の肖像のこととか、音楽院でやっているシューマンの「暁の歌」を弾いてくれたり、どこかに消えた家宝のネックレスのことで父を恨んでいることなどを語る。 でも翌朝になるとめったに現れないはずのIgorが現れて、なんとなくその流れで彼がつきあっているÈve (Eloïse Bennett)も加えて4人で食事をすることになる。

どうもNatachaはネックレスの件絡みでÈveのことが気に食わないようで、週末に彼女の田舎の別荘に行ったらIgorとÈveが既にいたのでなんか嫌だな、ってJeanneとÈveの間の哲学の話(カントの分析とか総合とかを食卓で言いあうの)は置いて嫌味たらしくÈveを追い払って、そのあとでNatachaは自分の彼と仲良く出かけてしまい、JeanneとIgorをふたりきりにしてしまう… これもまたNatachaの思惑なのか。

哲学がどうであれ(たぶん関係ないこともない)、登場人物たちの相性だの直感だのがどうであれ、風に吹かれたり水に流されたりするように人は寄っていくところに寄るし、離れるときには離れて、その決断の行方も、それが恋になるかどうかなんてのも知らんわ - 神のみぞ知る、でいいの。

これまでの「六つの教訓的物語」や「喜劇と格言劇」のシリーズは、主人公たちの決断や思いがいろいろあってそれらはこういう結果になりました、っていう因果を本を読むようにすとん、て腑に落としてくれる瞬間があって、このシリーズでも主人公たちは決断したり思惑があったり、でもその行く末は四季が移ろうように、音楽が流れて遠ざかるように揺れて集まったりくっついたり別れたり、誰も結果責任(やな言葉)みたいのを負おうとしていないように見える(し、彼らは前シリーズの登場人物たちほど、自分達のことを語ろうとしていないような)。登場人物たちは不安定なサークルの渦のようなものに身を任せていて、演じている彼ら自身も自分がどこに向かっているのかわかっていないような顔をしている。 ドラマのありようとしてはぜんぜん違うかんじで、これはこれで面白い。世を渡っていくためのお勉強になるならないでいうと、ちっともならないけど、そういうもんだし。まだ一つ目なのでなんとも言えないけど。

こういう人々のありようにもう少し意地悪なSMぽい目線を持ち込むと成瀬みたいになるのではないかしら。善人も悪人もいない、ただ乱れたり流れたり動いていく(だけの)世界。


今日の夕方、Rough Tradeのストリーミングで、Richard Thompson氏の自伝本 - ”Beeswing: Fairport, Folk Rock and Finding My Voice, 1967–75”の出版を記念して、彼とJoe Boyd氏の対談があった。時間は50分くらいだったので、そーんなに深い話にはならず、Joeがすばらしいと思う曲は”Sloth”と”The Angels Took My Racehorse Away”だとか、共演したミュージシャンのなかで印象に残っているのはDavid Thomasだったとか。

4.14.2021

[film] Days of Wine and Roses (1962)

4月5日、月曜日(イースターの休み)の昼、Criterion Channelで見ました。

邦題は『酒とバラの日々』。タイトルと冒頭に流れるHenry Manciniの主題歌からロマンチック(やや曇り)程度のを想像していたら後半に情け容赦ないどん底に突き落とされてしまう。 原作はJP Millerがテレビ用に書いた58年の脚本を書き直したもの。

サンフランシスコのPR会社の営業マンJoe (Jack Lemmon)はクライアントの秘書のKirsten (Lee Remick)と船上のパーティで出会って、営業の一環で彼女にも声を掛けてデートするようになる。初めのうちは硬くてつんけんしたかんじだった彼女もJoeがBrandy Alexanderとかを教えて楽しく話しかけていくうちにお酒の楽しさを知ったのかJoeが好きになったのか結婚することにして、造園業をしているKirsenの父Ellis (Brandy Alexander)のところに伝えにいくと、あまりよい顔をしないけどわかった、って。その後に娘のDebbieも生まれて、ここまでのふたりも家族もとても幸せそうに見える。

ふたりの飲酒はどんどん泥沼にはまっていって、Joeは業績不振で大手クライアントの担当を外されてそのまま会社を辞め職を転々としてガラスに映った浮浪者みたいな自分の姿に震え、ひとり家飲みをするようになったKristenはアパートで火事を起こしそうになり、やはりこれはいかん、とふたりはDebbieを連れてEllisのところに行って、彼の造園業を手伝うことにする。はじめのうちは力仕事は楽しいな、だったのが、ちょっとだけ息抜きしようか、って力仕事の後のお酒はおいしいな、になった途端、もっとよこせって我慢できなくなり自分が温室に隠しておいた酒瓶を探して売り物の植木をぐしゃぐしゃにして病院送りになる。

Joeはアルコール依存症のサナトリウムで拘束衣を着せられて担当のひとと沢山セッションをした結果、なんとか抜けることができたのだが、EllisによるとKirstenが家に帰ってこない、という。最後に2日間断酒してきたというKirstenがJoeと対面するのだが、自分は依存症ではない = 意思の力で止めようと思えば止められるのだ、というKristenと、いやそうなっていないではないか、というJoeは最後まで折り合わなくて …   最後に浮かんでいるバーのネオン(LIQUORS)がなかなか恐ろしい。JoeはKristenを追ってまた溺れていくのではないか、とか。

アルコール依存症の恐怖をふたつの側面から描いていて、ひとつは意識していないのに(自分では大丈夫だと思っていたのに)気がついたらそうなっていた、というのと、もうひとつはいつでも抜けられるはずだったのに抜けることができない、っていうのと、そんなのそこらの教科書にも書いてあることだけど、ここの場合、Joeは仕事を円滑に進めるために入った、っていうのと、その仕事の場でKristenに誘いをかけた、っていうのと、Kristenにとってのお酒はJoeが教えてくれて、Joeと一緒に家庭をつくる - そういう中ではまっていった、っていうのと、ふたりは愛しあっていてその関係をよくするためにもお酒は効いたよね、っていうふたりの内側にあるいろんな認識とか縛りが、互いに抜けられない穴を掘って互いを嵌めようとしている。

これだからこんなに怖いんですよ、っていうのは簡単でわかりやすいのだが、この作品ではそういう描き方をしていない。夫婦関係を維持していくというのは酒とバラの日々を生きることなのだ、それはドラッグと違って犯罪ではないし、時と場合によってすばらしい夢や歌をもたらしてくれるじゃないか、とか。 Joeは更生できそうだしさ、とか。 だからこそ怖いし、映画は道徳的なガイドにはなっていない。べつにそんなの求めていないのでいいけど。

お酒は少し舐めたら死んでしまうので、ふたりの境地とか、こないだのドキュメンタリー ”Bloody Nose, Empty Pockets” (2020)のような世界はたぶん永遠にわからないし到達できないのだが、やっぱり損しているのだろうか? 「損」とか言っちゃいけないのかな。

お酒が絡むやつで最近みたのは、”The Flight Attendant” (2020)っていうHBOの連続ドラマで、アル中のFlight Attendant (Kaley Cuoco)が、フライト先のバンコクで、ファーストに乗っていた客の男とデートして酔っ払ってホテルで朝に起きたらベッドで彼が首を切られて死んでいて、自分はなにも覚えていないから容疑者にされる可能性があって(というか、ファースト容疑者になって)、いろんな人や組織が絡んでくるのだが、やばくなったらウォッカをがぶ飲みすると頭が冴えて、死んだ彼の亡霊が現れてアドバイスをくれたりするの。例えばこんな使い方もある。  

4.13.2021

[film] Moonrise (1948)

4月4日、日曜日の昼、Criterion Channelで見ました。 監督がFrank Borzageの最後の作品とあったから、くらい。原作はCosmopolitan誌に掲載されたTheodore Straussの同名小説。日本での公開情報は不明。

冒頭、シルエットのみで、絞首刑が実行される暗いシーンが描かれる。そのシーンに続くかたちでバージニア州の小さな町に暮らす少年Danny は、首吊り男の〜、犯罪者の子供~、って周囲の子供たちから散々に虐められている。

大きくなったDanny (Dane Clark)は、あまり変わらず虐められ蔑みの対象になっていて、あまり明るいふうではなくて、ダンスパーティーの晩にも同級生だったJerry Sykes (Lloyd Bridges) が昔のようにねちねち因縁つけてくるのでいいかげんにしてくれ、って森で殴り合いになって、そのつもりはなかったのに正当防衛に近いかたちで彼を殺してしまい、動転しつつも自分は悪くないし、って死体を薮の奥の方に隠す。

Dannyは、自分が犯してしまった罪がばれて捕まることに怯えつつもSykesと婚約しようとしていたGilly (Gail Russell)に近づいて仲良くなって、でも明るく真面目な彼女と親密になればなるほど、結婚とか意識しようとすればするほど、Sykesのことが重くのしかかってきて、村の外れの小屋で犬と暮らす黒人のMose (Rex Ingram)と血とか神様をめぐって会話したり、Dannyが現場に落としてしまった彼のナイフを拾った唖の少年Billy (Harry Morgan)に辛くあたってしまったり、祖母(Ethel Barrymore)に父のことを聞いたりしていって、反対側で行方不明になったSykesを探して彼の父親 - 裕福な銀行家 - やシェリフを中心に捜査網が敷かれて聞きこみが始まり、精神的にも追い込まれて身動きが取れなくなっていって…

故意ではなく犯してしまった犯罪を隠しきれるのか、っていう過酷で辛い因果や運命を晒していくノワールの体裁を取りながらも、人はなぜ罪を犯してしまうのか、その血は遺伝したりするものなのか、それは避けられない、救われない社会の因襲のようなものなのか、といったテーマの周りで恋人、隠者、障害者、シェリフ、アライグマ、などがDannyにいろんなことを語りかけてくる。特に猟犬に追い詰められた木の上のアライグマへの仕打ちはDannyにとってはきついし、まっすぐにDannyを信じてくれるGillyにはどんな顔をして会ったりすればいいのか、とか。 正答はないけど、理由はどうあれ、人を殺してしまった事実を消すことはできない。

ただなんでDannyがGillyに近寄っていったのか、GillyはなんでSykesからDannyにあっさり切り替えてしまったのか、その辺が少し腑に落ちなかったかも。最初はDannyによる復讐の連鎖とか口封じとかダークでネガティブな道行きになるのかと思ったら、その逆の方でそのままだと落ちて底に沈んでしまうところをなんとか、少しでも明るい方に引っぱりあげようとするドラマになっていた。だから”Sunrise”ではなくて”Moonrise”(見あげてごらん)なのか。

お先まっ暗の悲劇に終わらなくて、少しだけ希望が見えたりするのはFrank Borzageだとは思ったものの、興行的にはまったく当たらなかった、というのはなんかわかって、戦後のテーマとしては暗すぎたか、まだあまり目を向けたくないやつだったのかも、って。

あと、ここで展開されているアメリカの小さな町での被害 - 加害(虐め)の構図 - そこに据えられた弱者が弱者のまま抜け出せなくなる沼 - って今に至るまでずっと変わっていないよね。いま見てもわかるし、辛くなるし。 直接の繋がりはないけど間もなく現れる公民権運動もこういう土壌からのー。


今日から屋外での会食とか、生活必需品以外のお店とかヘアサロンとかが再オープンした。 とりあえず夕方、Hatchards(本屋)に行って、チケットを買ったのに行けずに終わったベルギーのJan van Eyckの展覧会のカタログとかでっかいやつをどかすか買った。ここの3階の床をぎしぎしさせながら棚を渡っていく気持ちよさときたら。 今朝は雪が降って寒かったのだが、外で飲みたい人たちはほんとに幸せそうにやっていた。 4回目が来ても構うもんかっていう笑顔。

今日Hatchardsで買ったガイド本。知っているところもあるけどまだまだ。がんばる。
https://www.accartbooks.com/uk/book/writers-london/

4.10.2021

[theatre] Romeo and Juliet - National Theatre

4月4日、日曜日の夜21:00にSky Artsチャンネルで放映されたのを見ました。そりゃ見るわ。

今から約1年前、演出のSimon GodwinがNational Theatre向けに、このキャストで上演の準備を進めていた舞台がCovid-19で実現できなくなった。でも折角準備を進めていたNational Theatreは、これまでのNational Theatre Live - 観客に向かった舞台で上演されたものを映像に収めたものではなく、この劇をNational TheatreのLyttelton stageを使って17日間に渡って上演(とは言わないか..)して撮影して、それを”An original film for TV”として放映することにする。スクリーンやTV画面で見られることを前提に作られた演劇。 長さは90分。

関係者のインタビューを読んだりすると、演劇関係者が映画の撮りかたや編集を学んだりしながら試行錯誤して作っていったのがわかる。いろいろ苦労したのだろうけど、イメージしたのはリハーサルとかワークショップとか朗読劇とかをちょっと綺麗に整えただけ - 舞台での一定期間の興行で得られたであろう収入との収支計算もあったのだろう - のようにも見える。フラッシュバックもフラッシュフォワードもあるし、クローズアップもいっぱいなのだが、技巧としてはとっても稚拙でストレートすぎる気がしたり – 例えば誰もがよく知っているBaz Luhrmannのぎんぎらに凝りまくった“Romeo + Juliet” (1996)と比べてしまうと - 編集も衣装も音楽も(たぶん予算規模も)大人と子供ではないか、と思ってしまう。

でもたぶんそれがこの90分の「フィルム」ではうまく機能している気がした。

最初のシーンはいろんな仕掛けや機材がむき出しの稽古場のようなところに登場人物全員が集まってリハーサルでも始めようか、というシーン(少しだけIvo van Hoveふう)。全員が互いの顔を見ながらこいつはどんなものかな、みたいに値踏みをしているような場面で、Juliet (Jessie Buckley)は挑発的な微笑みでRomeo (Josh O’Connor)を見つめて、Romeoがその一撃で持っていかれる瞬間を見ることができる。ここから先の90分間は、その衝突の流れ弾がCapuletとMontagueの両家に飛んでって、ダンスフロアとか月夜の晩に跳ね返って正面から衝突したふたりはその勢いと思い込みを抱えて前のめりにつんのめったままぼぅん、て自滅する。それだけの、2分で終わってなんも残らないパンクみたいなやつ。儚さもくそもないような。

舞台は1ステージ上に組まれたセットのみなのでカメラが屋外に出ることはなくて、その中心に寄った四角四面の行き場のない世界で、”The Crown”のPrince Charlesで、“Only You” (2018)で、“God's Own Country” (2017)でたっぷりみることのできる自嘲と嘲笑の渦にまみれ自身のエモに溺れてわけわかんなくなって自壊するあのJosh O’Connorの演技と、始まる前から”I'm Thinking of Ending Things”になっているJessie Buckleyが正面からぶつかって、どんな色の火花を散らして月夜の晩の歓喜から絶望まで一直線に転がりおちて台の上に横たわるのか、それを囲む家族や友人たちがどんな顔をしてそれを眺めるのか、見てほしい。

彼らの他に、氷のように冷たいLady Capulet (Tamsin Greig)とかその反対で温かいNurse (Deborah Findlay)とか、ゲイのMercutio (Fisayo Akinade)とか、Friar Laurence (Lucian Msamati)とか、印象に残る演者もいっぱいなのだが、やはり真ん中のふたりが良すぎてどうでもよくなるような。

ここでのJessie Buckleyさんは“Romeo + Juliet”のClaire Danesに少し似ている。でも“Romeo + Juliet”でどうしてもぎりぎり好きになれないのはLeonardo DiCaprioのRomeoなので、こっちのふたりの方がー、とかいろいろ悩んだり。

舞台の上でこのふたりがのたうちまわって重なって動かなくなるまでを3時間くらいかけてライブでじっくり眺めたい、と思ってしまった、ということはこの作品は失敗なのだろうか? でもこれはこれでよくて、集中力で疾走したデモテープの勢いがあるので、この放映が当たって、ちゃんとした舞台版か、映画でもよい(監督は誰がよいだろう? 女性に撮ってもらいたいな)から、再演してほしい。


お昼少し前にエディンバラ公爵フィリップ王配の訃報が入ってきて、あらゆるTVプログラムはフィリップ追悼で埋められてしまった。いろんな過去のニュース映像 - ウェディングだけで何種類あるんだ? - が次々に流れてきて、どれもおもしろいのでずっと見ている。彼、The Durrellsのコルフ島で生まれたのね。 わたしにとって彼とJohn le Carréが英国のかっこいい老人(男)の代表格だったので、もう英国のかっこいい老人類(男)は全滅してしまった、ということになる。
どの記録映像を見ても、ほんとうに女王は彼のことを好きだったんだなー、ふたりは愛し合っていたんだなー、ってしみじみする。そんなふたりを70年以上に渡って見ることができた英国民は幸せだったと思うよ。
いまは女王様のことがとても心配。

4.09.2021

[film] Cast a Dark Shadow (1955)

4月3日、土曜日の昼、Criterion Channelで見ました。
ここの特集で”Starring Dirk Bogarde”という特集が始まっていて、12本紹介されている。見たことあるのもあるけど、まずはこの作品あたりからー。

“Alfie” (1966)や”Educating Rita” (1983)のLewis Gilbertが監督して、Dirk Bogardeが主演したとっても英国っぽい白黒ノワールなのだが、日本公開はされていないのね。原作はJanet Greenによる舞台劇”Murder Mistaken”。

冒頭、遊園地のカートに乗ってお化け屋敷を抜けていくアトラクションにEdward (Dirk Bogarde)とMonica (Mona Washbourne)のふたりが乗っていて、暗闇のなかMonicaは怖がってはしゃいで大騒ぎなのだがEdwardはその横でやや苦い顔をしたりしている。見た目だとふたりの年齢は結構離れているようなので、親子かしら? と思うのだが、実は妻と夫のふたりで、EdwardはMonicaのことをとても大事そうにケアして家に帰ってからもお酒飲む?とかお茶は?タバコは? とかこまこま気遣って、やがて彼女が椅子でうとうとして動かなくなると、ガス暖炉の栓を開いて彼女をその脇に引き摺っていって横に寝かせると自分は外にでる - 家政婦には外出すると伝えてあった。

Monicaの死は事故(部屋を暖めようと暖炉に寄って栓を開いたところで寝こんでしまった)として片づけられるのだが、彼女のお抱え弁護士だったMortimer (Robert Flemyng)はEdwardのことをずっと怪しいと思ってMonicaに指導していて、彼女の死後、全ての遺産がEdwardの懐に行かない - 家以外の殆どの財産は彼女のたったひとりの親族である妹のDoraのところにいくのだ – その彼女はジャマイカにいるから残念でした、とEdwardに伝える。

しらばっくれつつもちぇ、ってなったEdwardが次に見つけてきた獲物はMonicaよりは少し若い裕福な未亡人(でもまだEdwardよりたっぷり年上)のFreda (Margaret Lockwood)で、バーでの出会いからなんとか結婚するところまでいくのだが、よいとこのお嬢さんではない彼女はお財布周りについてはなかなか難物で脇が硬くてちっとも言うことを聞いてくれない。初めからあんたのことは信用していないからね、ってつんけんしている。(それでも結婚するところはやや不思議)

そうしているうちに今度は馬術学校に通うために近辺の不動産を探しているCharlotte (Kay Walsh)と知り合って、昔不動産屋をやっていたEdwardは彼女に近づいてFredaの嫉妬心を煽って撹乱してやれ作戦に出てみるのだが、実はそれが誰かのめぐらせた別の罠で、このCharlotteこそMonicaの妹のDoraであることがわかって…  なんだかんだついてなくてかわいそう、って言いたくなる程度に割と間抜けなEdward..

例えば、Hitchcockの”Suspicion” (1941) - 疑念に取り憑かれた男女の視点と立場を逆転させてターゲットをシニアにしたらこんなふうになる(っていうのはやや褒めすぎか)。 Edwardは徹底して冷酷で知的な悪漢というよりは、やや考慮が足らなくて隙もたっぷりで特定の女性層には強くて(そう思いこんでいて)Monicaには悪いけど、FredaとCharlotteに出会ったのが運の尽きだった、なのだがそういう時の弱さ小狡さも包めてDirk Bogardeが投げてくる影の微妙さがよいの。悪に染まったり取り憑かれたりした男の闇の強さというよりは、そこで顕になってしまう弱さの方が際立ってしまう - そこに飛びこんでやられてしまう女のドラマもある。 映画はそこまで描ききれていないかんじはあるのだがー。

イギリスのこういうノワールって、気候とかお屋敷の構造とか使用人との関係とか階級とか、そういうのがぜんぶ絡まって互いのことをどこまでも信じることができない/信じようとしないどろどろ関係の下地がベースになっているのと、そういうのがあるが故に反射的に燃えあがって止まらない永遠の愛、みたいのもたまにある気がする。さっきからなにかを思い出そうとしているのだが出てこないのでもう寝る。

4.08.2021

[film] Les sorcières de l'Orient (2021)

4月2日、金曜日の晩、MoMAのVirtualで見ました。
ここでやっていたDoc Fortnight 2021というドキュメンタリー映画祭の中で上映された1本。

テニス選手ジョン・マッケンローのドキュメンタリー - ”L'empire de la perfection” (2018) – “John McEnroe: In the Realm of Perfection”を撮ったフラン人映画監督Julien Farautの最新作。
英語題は”The Witches of the Orient”、邦題は『東洋の魔女』(しかないよね)。

ジョン・マッケンローのドキュメンタリーはすごく面白くて、アーカイブに遺されていた彼の試合の映像のみを使い、本人へのインタビュー映像も関係者コメントもなしに、なんでマッケンローはあんなに強かったのか、彼のテニスは他とどう違うのかを分析する - これを通してスポーツを見ることの愉しみにまで到達していたような。

この作品も国立スポーツ体育研究所(INSEP)に遺されていた映像を監督が見つけたところから掘り下げていったのだという。ただ今回のは日本にまで飛んで、存命している彼女たちと会って、その日常を撮ったり当時を振り返ってコメントを貰ったりもしているので、前作とはややアプローチが異なる。

1962年のワールドカップと1964年の東京オリンピックを制覇して、「東洋の魔女」と呼ばれた日紡貝塚のバレーボールチームがなんであんなに強かったのか? を当時の記録フィルムと現在の彼女たちからのコメンタリーと共に振り返る。

冒頭、古いアニメーション - 『塙團右衛門化け物退治の巻』 (1935) by 片岡芳太郎 (←たぶんこれだと思う)が流れて、東洋のエキゾチックななにかと、なんで「東洋の魔女」になったのか。最初はソ連に行くまでに消えてしまうだろうから「東洋の台風」って呼ばれていたのが、ソ連を破ったので「魔女」になってしまった、とか。

そこから当時の日紡貝塚の選手の一日、のような記録フィルムから選手たちの一日が夕方から深夜まで延々続く練習漬けと大松監督の指導ぶりと、1962年のワールドカップでの誰も予想していなかった勝利とそれに続く1964年のオリンピック、そこには敗戦の底から立ちあがって高度成長に向かう日本国民の期待と希望がたっぷり込められていて負けるなんて許されるものではなかった。

当時の記録フィルムと並行して使われるのが『アタックNo.1』のアニメーションの抜粋で、試合の場面では実況席の解説はこのアニメになっていたり、試合の実写場面でもピカピカ光る効果が加えられたり。回転レシーブも当然あるし、監督の厳しいしごきの場面ではアニメの中で選手同士がかばいあうシーンがそのまま使われていたり。初めのうちは冗談でしょ、って見ているのだが、そのうち両者がなんの違和感もなく繋がっていくので これはなんだろう? になっていく。 東洋の魔女たちの動きがアニメーションのそれと同期していくかのような…  

映画.comにあった監督のインタビューを読むと、当時のチームのありえない練習量や選手の監督に対する信頼の置きかたに素朴に感銘を受けているようなのだが、そういう傾向や風景を散々見てきて日本の教育風土を覆ってきた体育会的なあれこれから全力で遠ざかろうとしてきた者からすると、ああやっぱりな、しかない。

並の努力ではだめ、人一倍練習して全員が一丸になってがんばれば必ず努力は報われる - だから歯を食いしばってやるのだーやればできるのだーイズムがもたらしたかつての繁栄と栄光と、当時の成功体験ゆえの脳内の縛りから一歩も抜け出せない硬直した老人たちがもたらした現代の歪みと没落。 そこを直視したくない人たちはまだ努力が足らないこの国はまだやれるしか思っていない - その辺のことを改めてようくわからせてくれる映画だった。本来のテーマとはぜんぜん違うところでー。

当時の選手たちはそんなこと思っていなかったのだろうし彼女たちには賞賛しかないのだが、特訓とか呼ばれたあれらの指導はやっぱりハラスメントだとしか言いようがないし、ああいう結果になったのだからよかった、でもぜんぜんない。むしろこれと同じことを求められて潰されたり報われなかった大勢の人たちや、ここに乗っかって子供たちをコントロール下に置こうとするしょうもない大人のことを思うし、これって戦前からなんも変わっていない懲りない風土病のようななにかだよね。

前作の“John McEnroe: In the Realm of Perfection”ではSerge Daneyの言葉を引用して語られたパーフェクトなショットへの希求が、ここでは60年代アニメーションの単純化された動きや線に重ねされていく。おもしろいけど、あんまし笑えないのも確かだった。 テニスの後はバレーボールって、コートのなかで延々続く切り返し、っていうシンプリシティにこそスポーツの醍醐味はある、と見ているのかしら。 次は卓球かなあ、とか。

前作ではSonic Youthの”The Sprawl”が効果的に使われていたが、今回はPortisheadの”Machine Gun”が炸裂する。 そしてエンドロールでは、みんなが知っている『アタックNo.1』の主題歌がフルでがんがん流れるの。

64年の東京オリンピックは敗戦からの復興を象徴する輝かしいものになったが、いまだに本当にやるつもりらしい今度のオリンピックは、すでにこの国の劣化と没落を象徴するじゅうぶん腐れたものに仕上がってきている。伝説を作りたくてしょうがない勢力の稚拙な手口の裏には代理店しかいない。やめちゃえ。

『アタックNo.1』のほかにより生々しい『サインはV』というのもあった、って監督に教えてあげて。

4.07.2021

[film] The Fountain (2006)

3月30日、火曜日の晩、MUBIで見ました。なんとなく。

当初Brad PittとCate Blanchettを主演に据えて$70 mil.で開始されたプロジェクトが頓挫して予算が半分になって主演ふたりも入れ替えて制作されたDarren Aronofsky監督作品。公開後の評価も賛否ばらばらで、歴史的な失敗作と位置付けられていることは知っている。(でもMUBIの”Perfect Failure”フラグは付いていなかった)

わたしは彼のその前の“Pi” (1998)も”Requiem for a Dream” (2000)も見ていなくて(なんか90年代ふうの怖さだったし)、この後の”The Wrestler” (2008) – “Black Swan” (2010) – “Noah” (2014) – “Mother!” (2017) は見てて、やっぱりどこかしら怖いと思っているのだが、とにかく見てみる。 邦題は『ファウンテン 永遠につづく愛』。(ファウンテンなら永遠に溢れる愛、だよね..)

コンキスタドールのTomás Verde (Hugh Jackman)が国を失ったQueen Isabella (Rachel Weisz)からの命を受けて「生命の樹」を探すべくマヤのピラミッドに突撃していく話と、現代の外科医のTom Creo (Hugh Jackman)が脳腫瘍で失いつつある妻のIzzi (Rachel Weisz)のためにグアテマラで見つけてきた木の抽出物を使って猿の実験をしていく話と、宇宙船に乗ってバイオドームで樹を育てているTommy (Hugh Jackman)が超新星に突っこんでいく話と、3つの全然違う時間軸空間軸のお話し(であることがわかるのはHugh Jackmanの髪が長髪~ふつう~つるはげとそれぞれ違うから)が無造作に(←そう見える)切り替わっていくのではじめのうちはなんだかわけがわからない。

やがて最初のコンキスタドールの話は、Izziが亡くなる直前まで書いていた本 – “The Fountain”のストーリーだということがわかって、現代のTomとIzziの話は現代のそれとしか言いようがなくて、でもIzziはTomに最後の章はあなたが書いてほしい、と言い遺して亡くなってしまって、それを受けたTomが書き継いだのが宇宙船のはげTomのお話しなのではないか、と(がんばって宇宙飛行士になった説もあるけど)。

つまりTomはIzziの書いたお話をわたしに永遠の命を授けてほしい/それを見つけてきて、というメッセージとして受けとめて、現代の科学の前線でそれに応えられなかったTomは、宇宙船に乗ってIzziと一緒に見あげた星空の超新星にそれを求めてたったひとり旅立つ、そういう物語で返したのだ、というファンタスティックなお話で、でも最後にはまだひょっとしたら.. というのも残されているような。

愛する人の死を受けいれることの難しさ、それを受けいれられないのは生と死の世界が隔たって行き来できないからで、それがひとつになっていれば、とか、そもそも死ななきゃいいんだからって不死の薬の研究をしたりとか、宗教にしても医学にしてもすべての知恵の泉は太古からそこに根差しているのだし宇宙の果てにはその解がきっとあるのだ文句あるか? って言われたら勿論もんくない。がんばってね、しかない。

「生命の樹」を求めて、っていうのもあるけど、宇宙人におねがい、っていう”Cocoon” (1985)みたいのもある。わたしはこっちの方がすき。すききらいだから気にしないで。

雪が降ったよ!一緒に見ようよ! って無邪気に誘いにきたIzziを忙しいって断ってしまったことを延々後悔していたり、研究室で指輪を無くしてパニックしたり、TomがどんなにかIzziを愛していたのか彼女の死を世界の終わりのように嘆き悲しんでいるのかはようくわかるのだが、あそこまでいくとラブストーリーというよりは妄執の域にあるマッドサイエンティストの挙動で、そうやって3層重ねてそのチャネルを切り替え操作しているのは一体だれ? とか、そこに$70 mil.つかうか? とかは少しだけ思った。97分だからまだよいのかも。

Darren Aronofskyの場合、そういう思いの強さが自身の肉体を傷つけたり変容させてしまう、というのもある気がして、ここだとペンで指に指輪の跡を刻んだりする。痛みの強さや傷の深さ=思いの強さ=しっぺ返しもあるよ、みたいなのって体育会みたいでなんかいやだ。苦しむのは好きにすれば、だけど傷をびろびろ見せによってこないで。

あとは、こういうのを強く思ってそこに一生を捧げるようなのって、最近のTerrence Malickにもそういうとこあるけど、男性のが得意だよね。女性の方は逆光でこちらを振り返ったり物憂げに見つめてきたりするの。男性はそれでなんか燃えてしまうらしい。一生捧げられていいよね、とか、勝手に燃えて灰になってろ、とか。


あまりにつまんないのでM1のMacBookを買って、でも届いてしまうと面倒になって箱のまま置いておいたのをようやく開けてインストールした。移行に1週間くらいかけるつもりでいたのにあっという間に終わってしまって(ほんと便利になったのね)、これはこれでつまんないったらー。

4.06.2021

[film] Un dimanche à la campagne (1984)

3月28日、日曜日の午後、Criterion Channelで見ました。

この3日前に亡くなったBertrand Tavernierの追悼特集が組まれていたので見よう、ていうのと、ちょうど日曜日だったのと。 英語題は”A Sunday in the Country”、邦題は『田舎の日曜日』。 同年のカンヌで最優秀監督賞を受賞(この年のPalme d'Orは”Paris, Texas”だった)していて、セザール賞も3つ受賞している。これまで見たことなかった。

原作はPierre Bost - トリュフォーがカイエの批評『フランス映画のある種の傾向』で攻撃した「伝統的な」作家 - の没後に発表された小説 - “Monsieur Ladmiral va bientôt mourir” 「ラドミラル氏はもうすぐ死ぬ」。

1912年の秋、パリ近郊の田舎の一軒家でLadmiral氏 (Louis Ducreux) が家政婦Mercédès (Monique Chaumette)と話したりしながら出かける支度をしている。毎週やってくる息子一家を駅まで迎えにいくようで、歩いて10分とか言っていたのだがこちらに向かって歩いてくる息子Gonzague (Michel Aumont)の一家とぶつかったのでおかしいな - 歩くのが遅くなったのかな - とか。 息子一家は他にGonzagueの妻のMarie-Therese (Genevieve Mnich)と、元気一杯の男児ふたりと少し体の弱い女の子がひとりの5人。

彼らが家のなかや庭を走り回ったり、みんなでMercédèsの用意する昼食(おいしそう)やお茶を囲んだりしているうちにLadmiral氏が画家で、それなりに成功していてまだ静物を描いたりしていること、長男が画家を継がずに結果的にこの家も継がないことになってしまった過去のあれこれがほんのり見えてきたりするのだが、それらはもう昔のことで、いまは孫たちの日曜日の遊び場になっていて、それでもいいか、って。

やがて長女のIrene (Sabine Azema)が犬のキャビアと一緒に(当時はまだ珍しかった)自動車に乗って現れるといきなりばたばた慌ただしくやかましくなって、パリでブティックを経営していて羽振りのよい彼女は屋根裏の化粧箱の古いレースを漁ったり、Ladmiral氏が描いていた静物画のセットを片付けちゃったり、長男とは別の騒がしさをもたらして日曜の午後を揺らすのだが、何度かパリの方に電話をかけて、相手が出ないことに苛立ったりしている。彼女が村のビストロに父とふたりで出かけて、修行時代の父の話を聞いたりしてふたりでダンスをするシーンはしんみりしてよいの。

基本はLadmiral氏の目線で、傍にMercédèsがいるとはいえ、このままひとりで亡くなってこの家も人手に渡って朽ちてなくなり、自分の絵画もそこそこの評価のままで終わってしまうであろう遠くない将来のことを静かに見つめる - その諦めと少しの後悔 - 若い頃、意地を張らずに印象派の波に乗っていれば.. とか、長男には車はないけどよい家族がいるし長女には家族はないけど車があるのだからいいじゃないかもう - などがさざなみのように寄せては返すある日曜日の終わり。 こんなのが毎週繰り返されたらちょっと嫌かも、とか。

もうひとつ、庭で遊んでいる白い服を着たふたりの少女の姿とか、Ladmiral氏の亡妻と思われる女性がソファにいる姿も映しだされる。これは彼にしか見えない遠い日の幽霊なのかも知れないが、彼らの存在が特に強調されることはなくて普段の日曜日に決まって現れるなにかなのかも、程度で、あとひとつ、嫌味のように繰り返されるもろ印象派だねえ、みたいな情景も引っかかる何かとして残ったりする。

あたりが暗くなる頃には彼はひとりに戻って、独り言を呟くわけでもなく、描きかけの静物画をどけて新しいカンバスを置いて、そこに彼はなにを、どんなふうに描くのだろうか、って。

ネットでは小津との比較とかを目にするのだが、ぜんぜん違うよねえ。小津の過酷さ残酷さなんてちっともない、これはこれでじゅうぶんに幸せでゆるゆるで素敵な老後ではないのか。 だれも死なないし。

それにしても、これが1984年。Jean-Luc Godardが”Passion” (1982)とか”Prénom Carmen” (1983)を出していた頃の1984年にこういうのを出してしまう、ってなんかすごいかも。
 

4.05.2021

[film] Golden Gate Girls (2013)

3月28日、日曜日の晩、Queer Visions Virtualからの配信で見ました。
中国系アメリカ女性として初の女性監督 - Esther Eng (1914-1970)の足跡を追ったドキュメンタリー。

女性監督の作品と彼女たちの作品が映画史のなかでどう扱われてきたのか、については00年代にAlice Guy-Blachéの作品を知ってからなんとなく追っかけてきていて、Alice Guy-Blachéのドキュメンタリーについては”Be Natural: The Untold Story of Alice Guy-Blaché” (2018)ができて、女性監督映画史については大作 - ”Women Make Film: A New Road Movie Through Cinema" (2018)ができて、これらを見ると女性監督による映画ってまだまだ知られていないので知られないと、と思っている(理由を述べていると長くなるけど、これくらいわかってほしい。わかんないかな?)。

で、Esther Engの名前は”Women Make Film”のなかにもその名前は出てきていなくて、そうするともっと知りたくなる。

Esther Engの名前が書いてある沢山の写真の入った箱が(おそらく近辺の倉庫から)SF空港近くのゴミ箱に捨てられていて、それを小道具商が見つけて、それを香港のフィルムアーカイブに持って行って取引をしようとした。アーカイブ側は取引を持ちかけられてもお金ないので困っていたあたりで、この作品の監督のLouisa Weiさんが手にすることができた、と。

映画は主にアメリカで中国語の映画を作っていったEster Engの軌跡を追いつつ、同時代のアメリカの映画人であるAnna May WongやDorothy Arznerとの対比と、戦前〜戦後のSFのチャイナタウンの歴史や、アメリカの中国系移民の歴史も押さえられている。

1897年に中国から渡ってきた移民の10人兄弟の4番目として生まれて、広東オペラをやっていたマンダリンシアターで1000本の映画を見てアートの世界に浸かり、パール・バックの「大地」の評価やアメリカの中国人コミュニティの興隆にも後押しされて最初の映画 - “Heartaches” (1935) - をプロデュースして、その後香港に渡って戦争で戻ってきて、ハリウッドで映画を作っていくようになる。ドキュメンタリーのタイトルになっている”Golden Gate Girl” (1941) - ブルースリーの映画デビュー作でもある、とか、36人のキャスト全てが女性だという”It’s a Women’s World” (1939) - これの7ヶ月後に、George Cukorの”The Women”がリリースされる - とか、かの”Back Street”のリメイクである1948年の作品とか、いろいろ見てみたくなるのがいっぱい。

50年代にNYに渡って、チャイナタウンにレストラン(最初に一軒、続いてもう一軒)を開いて映画界からは距離を置いてしまうようなのだが、中国からのオペラ座の人たちとの交流とかコミュニティの社交家としての活動はあれこれやっていたとか。(彼女がやっていたお店がチャイナタウンのどの辺にあったのかを調べてみたり、彼女がミッドタウンに開いていたお店が自分が昔住んでいたとこの向かいだったことがわかったり)

1930年代のアメリカの映画界で、チャイナタウンのコミュニティで、明らかにレズビアンとわかるショートカットとパンツ姿(Dorothy Arznerも同様だったという)で生きて、そうやって映画を作っていくことがどれくらい大変だったのか知る由もないのだが、ドキュメンタリーからうかがうことができるのは、なにがあってもどこに渡っても人の面倒をみたりみられたりしながら自由に飄々と生きていく、そういう姿で、それは歴史の表から突然姿を消してしまったかに見えるAnna May Wongとは対照的なように思えた。もちろん、本当のところどうだったのかは彼女の名前が広がって更に深く研究が進んでいくことを祈るしかない。

ただ、こういうのって彼女の作った映画を見てみないことには、なのでなんとか探して見てみよう。坂根田鶴子のもいつかできれば。 あと、こないだ見た”Center Stage” (1991)で描かれた阮玲玉 - Ruan Lingyuとの接点とかなかったのかしら? とか。

SFのチャイナタウンの入り組んで底のないかんじは本当に好きで、NYのとも違っていて、そこいくとロンドンのはなんかつまんないのよね。また行きたいなー、あのぐちゃぐちゃごった返した日曜朝の飲茶とか、なんでもありそうな魚屋とか。

あと、直接の関係はないけど、アメリカのアジア系の人たちに対するヘイトクライムのことはずっと頭にあって、やりきれない。

史上最低さいあくにつまんないイースター四連休もあと1日。あーあー。

4.04.2021

[film] Godzilla vs. Kong (2021)

4月1日、木曜日の晩、SkyのPremium (TV)で見ました。
本来であれば劇場で大音量に震えて浴びるように見たい作品なのだが、ロンドンでは映画館はまだオープンしていない。だからと言ってそれまで待つかというと、そんなの我慢できるわけもない。

ロックダウンでいちばんつまんなくて腐りきっていた時期に登場したこれの予告編はそれだけで万歳〜のやつで、何度も何度も見た。 彼らのバトルはパンデミックを彼方に吹っ飛ばしてくれるように思えた。もちろん吹っ飛んでくれないので、マスクはしよう。

以下、いろいろてきとーに書いていきますが、知りたくない人は読まないほうがよいと思います。

映画としてはGareth Edwardsの”Godzilla” (2014)とその続き - Michael Doughertyの”Godzilla: King of the Monsters” (2018)と、Jordan Vogt-Robertsの”Kong: Skull Island” (2017)から繋がるもので、”Godzilla: King of the Monsters”が1965年の東宝作品とはまったく関係なかったように、今度のも1962年の東宝作品とは関係ない。

Skull IslandでDr. Ilene Andrews (Rebecca Hall)や耳の聞こえない少女Jia (Kaylee Hottle)と静かに平和に暮らしているかに見えるコングだったが、彼のいるところは人工のドームで覆われたジュラシックパークのようなところで、なぜそうしているのかというとゴジラが寄ってきて喧嘩を売りにくるからだという。

アメリカにあるApex Cybernetics社がゴジラの襲撃を受けて、それってゴジラの行動としてはおかしいし、とその会社の謎を追っていた陰謀論にはまっているえせジャーナリストのBernie (Brian Tyree Henry)と前作からのMadison (Millie Bobby Brown)と彼女の友人ナードのJosh (Julian Dennison)がなにかあるぞ、って破壊された同社の跡地に潜入して調べ始める。

Apex社から依頼を受けた地質学者のNathan (Alexander Skarsgård)は、一度諦めていた計画 - 南極の地下にあるHollow Earthに眠る巨大なエネルギーを探るべく、コングを船に縛りつけて南極に向かう(IleneとJiaも一緒)のだが、それを嗅ぎつけたゴジラが現れて最初のバトルがあって、でもその後の地底探検でHollow Earthとエネルギーは見つけることができる。

破壊されたApex社の地下からは怪しげな荷物がいっぱい運び出されていて、それはどこに行くのかしら?ってBernieとMadisonとJoshが出発寸前の乗り物に飛び乗ると、トロンみたいなトンネルをびゅんびゅん抜けて香港のApex社にダイレクトで行ってしまい、そこでテスト中のメガゴジラ(メカゴジラじゃないの。ロボゴジラ? いや.. これは「メガ」ゴジラだ! ってださい)を見てびっくりするのだが、こいつはパワーが切れてすぐ止まってしまうので、膨大なエネルギーが必要だ、って足の下の南極をみると、なんとかエネルギーの採取に成功したNathanたちがHollow Earthの穴経由で送ってくれて、更にはApexを追って香港に現れたゴジラがその穴に向かって放射能を噴いてコングを煽るので、コングとNathanとIleneとJiaは穴を抜けて香港にやってくる。

こうして香港に来ても懲りない戦いを繰り広げるゴジラとコングなのだが、その脇でApex社はメガゴジラを本格的に起動させて、それはPacific Rimみたいなロボットではなくて、”Godzilla: King of the Monsters”の最後にサルベージされたキングギドラの首とも繋がっていて…    

というわけで、コングの住処はJurassic Parkだし、メガゴジラはTransformersのようだし、青く光る杖はMCUのTesseractだし、Madisonのチームはまるで”Stranger Things”だし、手話でコングと会話をするJiaはディズニーのキャラクターのようだし、ぜんたいとしては地底探検なども含めて、これまでのB級SF映画のいろんなのを寄せ集めて、そのなかで怪獣たちをどかすか戦わせている(だけの)ような。 子供は喜ぶ.. かも。

2014年のGareth Edwards版がそのダークな雰囲気も含めてとっても大好きで、前作の”Godzilla: King of the Monsters”は人間が怪獣をコントロールするというテーマをそれなりに掘り下げていたのは悪くなかったと思うのだが、今度のは思いっきり噛みつき引っ掻き殴り合うバトルの方に振り切っていて、香港の街のセットとか、メガゴジラの登場シーンとか、子供の頃にいっぱい見てきた怪獣特撮もののあの感覚にとても近い(意識的に寄せてる?)。それでおお!ってなる大人も多いかもしれないが、いいのだろうか…  この辺は日本公開後にその筋の方々にうかがいたいところ。

あと、Apex社が、その名が思い起こさせるあの会社のことも含めてあまりにバカっぽくてださくて。いまの時代ならメガじゃなくてせめてギガとかテラだろ、とか、そこのCTOだという小栗旬は”Big Trouble in Little China” (1986)の電撃の人みたいになっちゃうし、他にはパスワードロックされて絶体絶命になったら水をかける、とか… 小栗旬の役名が芹沢なので、前作の彼となにか関係あるかと思ったけどなんの言及もないし。

人間にとって怪獣とはなんであるのか、というのを考えさせるのがよい怪獣映画だと思うのだが、怪獣を複数登場させること(だってひとりじゃないだろ)で、どうしても動物としての種の間の闘争 - バトルみたいなところに向かってしまうのがきつい。このコースはもう見てきているので、間に合っているんだけどー。そのエコシステムを破壊しているのは人間である、って何千回言えば気が済むのか。

あと、香港の街があれだけ破壊されて数千数万の規模で死傷者が出ていると思われるのに中国国軍は一切登場しない。ここはわざとそうしているのだとしても、やはりあんまし笑えない。

あと、”Godzilla: King of the Monsters”の悪漢Charles Dance はどこにいった? とか、香港なのになんで、Dr. Ling (Zhang Ziyi)は出てこないんだよう、とかも。

4.03.2021

[film] Donnie Darko (2001)

3月28日、土曜日の昼、MatrographのVirtualでやっていたので、なんとなく久々に見たくなった。
(そういえばMetrographの映画館のフロアには等身大のウサギのFrankが置いてあったなあ)
2001年の公開時のNYは911でそれどころではなくて、見たのは2004年に公開されたDirector’s Cutの方だった。その後もTV等で放映された時に見たりしていたのだが、たぶん10年ぶりくらい。

そういえば今日からイースターの4連休に入ったが昨年の今頃には丁度”Southland Tales” (2006)を見ている。

1988年10月2日、バージニアのミドルセックスの高校生Donnie Darko (Jake Gyllenhaal)がどこかの山道で自転車の横で目覚めて、そこで世界の終わりが近い -  今から28日6時間42分12秒後に世界が終わるってお告げを受けて、そこから10/6, 10/10, 10/18, 10/24, 10/26, 10/29, 10/30と刻々と終わりに向かっていく時間のなかで、Donnieが見た世界、経験した世界あれこれ。 あらすじなんて追ってもしょうもない。

Donnieは世界はいつか(もうじき)終わる、っていうのと人はひとりで死ぬ、とかいろんな考えにとりつかれたり幻影を見たりしていて、そのおおもとには教師のKaren (Drew Barrymore)が授業で使ったグレアム・グリーンの『破壊者』とか、タイムトラベルのこととか、体育教師やいんちき自己啓発野郎のJim Cunningham (Patrick Swayze)とか近所の謎めいた老婆 - Grandma Death (Patience Cleveland)とか転校してきたGretchen Ross (Jena Malone)とか、気がつけば横にいるでっかいウサギのFrankとか、いろんなのがいて、でも両親がDonnieにつけた精神科医 Dr. Thurman (Katharine Ross)によると彼の幻影は妄想性統合失調症によるものらしいので、なにがどこでどう繋がっているのやら。

同様に飛行機のエンジン(エンジンだけ)が自宅に落ちてきたり、学校が洪水になったり、銅像の頭に斧が刺さっていたり、壁の落書きには”They made me do it”ってあったりするので、総合すると、やがては終わる運命にある世界が、そこにおいてひとりで死んでしまう自分や周囲の人に対していろんなことを強いていて、その行方や軌跡は定められたものとしてポータルを通して幻視することができるのだ、って。 で?

こうして「世界の終わり」があることを「自分はいつか必ず死ぬ」ことを知ってしまうと、しかもそれを強烈に知って意識してしまうと、世界に溢れる知とか悪とか政治とか愛とかそれらを統御している時間とかがはっきりとある力を伴って自分を縛りにくることが見えてくる。それってストーリーにしようとするとなんでもありの荒唐無稽なSFになってしまうのかもしれないし、ただのひとりよがりな思春期ウィルスを散らしただけのものになってしまうのかもしれない。

のだが、ここでのDonnie Darkoの思い込みはとてつもなく強固でそれ故に切実なので(その理由は最後に)、そのストーリーとイメージの絡みかたも含めて自分がかつて見た夢のように、彼の軌跡を - 生への執着を追ってしまう - そういう強さで迫ってくるという点で、これはとてもピュアな青春映画、と言ってよいのだと思う。
世界が終わってしまうもんなら、こんなてきとーに生きさせるじゃねえよくそったれ、って。(& Drew Barrymoreの絶叫)

そして、”Southland Tales”ではこのなんでもありのストーリーテリングをできあがった(腐れた)大人の、政治の世界に敷衍し、より具体的にどうしようもなく迫ってきた世界の終わりと、死ぬだけではない、「生き残ること」についても真剣に語ろうとしているような。 でもこちらはやはり”Tales”であって、ここの、”Donnie Darko”その人の生の物語とは違うなにかではないか。

ひとついつも気になってて余り掘ったことがないのは、これってとっても男子の世界の側で起こりそうなお話だよな、って。それが滅びる話なので別にいいんだけど、このお話の熱狂的なファン層 - 世界中にいろんなフォーラムとかある - の男女比とか、どうなっているのか少しだけ知りたい。

あとは狙ったとしか思えないサウンドトラック。"The Killing Moon”も"Head over Heels”も"Under the Milky Way”も、当時あれらの曲を真剣に聴いていたひとなら、ああいう場面で鳴るはず、というのをイメージした、ほぼその通りにイントロが鳴り響いたりする。 これだけでこの映画のDonnieのように運命的ななにかを感じてしまうに違いない。 エンディングは"Mad World”だしね。 そしてこれらの楽曲が英国のだったのはたぶん偶然ではないの。

4.02.2021

[film] Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre (2020)

3月27日、土曜日の昼にCurzon Home Cinemaで見ました。

ハンガリーのLili Horvátが作/監督したハンガリー映画で、本選のノミネーションからは外れてしまったがハンガリーから今年のオスカーにエントリーされた作品。  英語題は“Preparations to Be Together for an Unknown Period of Time”。

冒頭にSylvia Plathの”Mad Girl's Love Song”の最後の一節がまるごと引用されている。

わたしはかわりに雷鳥を愛するべきだった。
少なくとも春になれば彼らは轟音とともに戻ってきてくれる。
わたしが目を閉じれば世界はみんな死んでしまう。
(わたしは頭のなかできみを作ったのだとおもう)

優秀な神経外科医のMárta (Natasa Stork)が20年ぶりにアメリカからブダペストに戻ってくる。 理由はニュージャージーの医学のコンベンションで出会った同じハンガリー人のJános (Viktor Bodó)と恋におちて、彼と1ヶ月後の夕刻にブダペストのリバティ橋で再会する約束をしたから/したはず、なのに、彼は現れてくれなくて、大学にいる彼を捕まえると、あなたとはお会いしたことはないけど..  と言われる – ので彼女は卒倒する。

カメラはMártaに密着し、彼女の目線でふたりのニュージャージーでの出会いを何度も再生していくのだが、それは会って食事したり話し込んだりキスしたりした、という像ではなく、彼女が彼の姿をずっと見つめていた(彼とは目があったかも)、というくらいのそれなので、これは彼女の思い込みがドライブしているなにかなのではないかと思い、彼女自身も思い違いだったのかも、ってアメリカに帰国しようとするのだが、空港まで行って荷物チェックをくぐった直後に彼女に何かが走って、そのまま街に戻り、アパートを借りて、Jánosの勤務する大学病院に職を得て(彼女ほどのキャリアの人がなんでうちに?と言われる)、彼のことを追っかけ始める。(コメディになってもおかしくないのだが、そっちには向かわない)

大学病院側では突然アメリカから現れた女医によい顔をしないのだが、彼女は淡々とクールでそんなことに構っている場合ではなくて、むしろ職場のあちこちに現れるJánosにどきどきしたり、手術をした患者の息子で医学生のAlex (Benett Vilmányi)に求愛されたりいろいろ大変で、とにかく彼女はJánosに近づくこと、彼と親密になることしか考えていなくて、自分が正気ではなくなっていることも十分認識している。

途中から彼女が精神分析を受けているシーンも入ってくるので、彼女はなにかをやらかしてしまったのか、と思うのだが、簡単にその地点には飛ばずに、彼女の強い思いがそう見せているのか、Jánosの何かが彼女にそう見せているのかを明確に示さず、恋と呼んでいいものかもわからない錯乱した状態にある彼女にとって、このめくるめく世界がどんなふうに見えて推移していくのかを丁寧に追っていく – それはまさに”Preparations to Be Together for an Unknown Period of Time” – まだ見えていない時間に向かって一緒になるための準備 - としかいいようのない思考、というか挙動の総体で、それは神経外科医の彼女であっても解きほぐすことができないようなものらしい。

やがてMártaの手術しているところに突然助手としてJánosが現れたり、同僚としてMártaに話しかけてきたり、作家でもある彼の本の出版記念パーティに行って話したり、彼を追って家まで行ったら娘が出てきたり、そうなってもそれが本当に起こっていることなのか疑わしい、カメラはどこまでもそういう夢のなかの出来事を追っているような動きを見せるし、彼女の表情はどこまでいっても硬いままだし。

これが延々続いた果てに、ああそこにいくのかー、ってなるラストがすごくいいので見てほしい。
恋ってこういうもんだし、っていうのと、映画っていうのはやっぱりこういう恋を描くものだったんだな、って。

昨年の1月に少しだけ滞在したブダペストの街がとても懐かしかった。アパートメントホテルもあんなかんじだったし、街灯の少し暗いかんじとかも。ロックダウンの前の旅の思い出はぜんぶ甘くてすてきだ。


月が替わったので書きますけど、5月に帰国することになりました。
ここ数ヶ月間、なにもかも嫌になっておちこんで、会社をやめる家をでる崖にむかう、そんなことばかり考えていたのだが(そういう時間だけはいっぱいある)、もういいや、って引っ越しの準備 - つまり持って帰るものをやけくそで買い漁るモードに切り替えた。 英国からだとスーツとか靴とか食器とかが多いらしいのだが、そんなの一切無視で、古い本とか新しい本とかでっかい本とか、そういうのばかり。オンラインは便利だなーちくしょうめ。 というわけなのでしばらく更新はちょこちょこ滞ることでしょう。