6.30.2016

[film] A Royal Night Out (2015)

もう時系列なんてどうでもいいわ。好きに書いていくわ。
6月12日 - エリザベス90歳祝賀の日の午後、お祝いついでに新宿でみました。

『ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出』

長く続いた戦争の終わり、1945年5月8日、ヨーロッパの戦勝記念日の日、国をあげてのどんちゃん騒ぎに突入しようとしていたその晩、19歳のエリザベス(Sarah Gadon)と妹のマーガレット(Bel Powley)はひと晩だけ外出をパパ(キング)とママ(クイーン)に許してもらってロンドンの街に飛びだしていく。

ふたりにはもちろん護衛ががっちりついているのだが、みんなのお約束でこいつらはぼんくらにできているので、はっちゃけたマーガレットが見事にぶっちぎって街中にきゃーきゃー消えていってしまったのでエリザベスも彼女を追ってトラファルガー広場に行ったりSOHOに行ったりCurzon Clubに行ったり、不思議の国(自分が王女なんだけどな)のアリス状態になる。 その晩から朝帰りした翌日までのあれこれ。

ひとり放り出されたエリザベスが困って途方に暮れていると軍人のジャック(Jack Reynor)と出会って、彼は無骨で不愛想でぶつぶつ言うけどバス代払ってくれたり案内してくれたり守ってくれたりして、でも彼とは恋仲にならないことはみんなようくわかっている(ま、そういうかんじなのよ)のでなんか切なかったり。

「ローマの休日」(1953) ていうよりも"The Princess Diaries” (2001)(だいすき〜)のほうに近いかんじもした。
あとは一瞬だけ「水戸黄門」とか。

辛かった戦争が終わった歓び、戦場での苦しみ、戦後にやってくるであろう苦み、いろんな人たちの思いが渦を巻いて盛大にぶちまけられた乱痴気場をジャックとふたりでばたばた通って抜けていくエリザベスにも人々の歓喜だけじゃない思いはゆっくり浸透していって、王女さまもなにかを学んで成長したにちがいない、ていうのと、その反対側で薬まできめていかれてとことん能天気なマーガレットの姿もよくて、作り話なんだろうけど当時のエリザベスがあそこにいてもおかしくなかったかも、と思わせてしまうようなところがあって、英国のこういうのが好きなひとにはたまんないと思う。
うん、おもしろかったよ。

あと、かるーくビンタのショックを受けてしまうのが、Emily Watsonが女王でRupert Everettが王様、ていうことで、これはBrexitとおなじく、もうそういう時代なんだわ(こんなはずでは … 嘆)、としか言いようがないのだった。

そしてもう一年の半分が終ってしまうのね。

[film] Ma nuit chez Maud (1969)

5月28日、土曜日の昼、有楽町のロメール特集でみました。

『モード家の一夜』。 “My Night at Maud's”
なにが(だれにとっての)教訓やねん - なんで六つやねん、がいっつもついてまわる『六つの教訓話』のみっつめ。

教会のある山間のまちで、クリスマス前のミサが行われていて、そこに出ていたJean-Louis Trintignant(ぼく)は真面目で敬虔な技術者で独身で自分ではもてるほうと思っていて実際に過去に女性関係はいろいろあったらしく、南米とかカナダで仕事をした後でこの土地に落ち着いたところで、ある日街中で中学時代の同級生Vidalと久々に再会して、夜中、彼に誘われるままに彼の友達のMaud (Françoise Fabian) のアパートに行くことになる。 VidalとMaudは一回寝たことがあるらしいのだがJean-Louisとは合う気がするしとか言ってて、アパートについて暫くお話ししたらVidalはそそくさ帰っちゃってMaudとふたりだけになる。外は雪こんこんで今から車で帰るのは危険よ、と。

女医のMaudには一人娘がいて離婚したばかりで、無神論者で自由なかんじで、まじめなカトリックのJean-Louisにはあれこれ挑むように誘うように語りかけてきて、パスカルの確率論とかいろんなネタが繰りだされるのだが、基本はこのひと晩これから彼女とどうなっちゃうんだろうか、彼女と寝ることになるんだろうか、それってちょっと軽すぎやしないだろうか ...  などなどものすごくいっぱい彼の内なる声がわんわん鳴っていて、どんな会話もスリップしていく。 それでも彼女は堂々とそこにいて、こっちにこない? とか魅力的な身体と声で言ってる。

結局その晩はひとつ布団のなかでごろごろ悶々と過ごして気づいたら朝で、朝の彼女はなんかすてきだったので抱きしめようとしたら彼女はもう猫のようにつーんと拒否してきて、あーあ、て彼はそこを去り、やがて教会で見かけてずっと気になっていた自転車娘のFrançoise (Marie-Christine Barrault)を車でえんえん追っかけて告白して、やがてふたりは一緒になる。 よかったねえJean-Louis。

そこから(たしか)5年後、子供もできたJean-Louisは家族で浜辺にバカンスに来て、そこでMaudとすれ違って、そしたらFrançoiseはあらー、とか言って ... (暗転)
自分はとっても真面目に神様のお加護のもとよいこでやってきたんだから、だいじょうぶなんだから ...
なーむー。

モノクロの画面はNéstor Almendrosで雪の滲んだかんじがとってもすばらしい。
大昔に米国で見たきりだったが、画面がとっても綺麗になってて相変わらずスリル満点だった。

どのロメール映画でも言えることだが、なんかこの煮えきらない、到達できない、思い通りにいかない糞詰まり感、見た後で一緒にいた人たち同士の会話が険悪になっちゃうのが(この作品については特に)よおくわかる1本。

6.27.2016

[film] Ex Machina (2015)

25日、土曜日の夕方、新宿で見ました。 フランス映画祭もEU Film Daysも忘れてたわ。

会社の抽選かなんかで一等になったケイレブ(Domhnall Gleeson - Depeche Mode好きっていう設定だって。まだお若いのに)は会社のCEOの別荘地に一週間ご招待、ていうご褒美を貰う。
海を越え山を越えヘリで辿りついてみると、そこはモダンな要塞のような施設で、まずIDカードを作らされ、そこに1人で篭っているCEOのネイサン(Oscar Isaac)にNDAを結ばされて(ぜったい逃げたくなる)、なにをやらされるかと思ったらネイサンが開発中のAIのチューリングテストで、そこに現れた被験AIはエヴァていう外見は女の子 - ただしところどころスケルトン - で、映画はそこから約一週間のケイレブとエヴァのセッション(計7回)と、その進行につれて露わになっていくネイサンの企てとケイレブとの確執、などなどを追う。

あったりまえの話だが人工知能が人間のそれと同等であることを測る、証明するには人間の知能の限界・境界を、知能を知能たらしめる無限のコンテキストと判断軸と分岐 - そこには価値観の問題も入ってくる - まで含めて見極める必要があって、そういうことができるのは神さまくらいしかいない、てみんないうわけだが、この映画はいちおうそういうところも踏まえた上で、それなら例えば、恋愛なんかどうだろ、とプラクティカルなところに突然おっことしてみる(... うまい)。

その結果がどうなるのかはお楽しみなのだが、問題設定をそこに置いてみた(そこに意識を誘導してみた)途端に試験者と被験者(AI)の立場境界は曖昧になって、特に試験者である人間側はおろおろ混乱しはじめて、でもこれって相手がAIじゃなくてもふつーに起こることよね、あの結末も含めて、で、まあとにかく、試験者側にナイーブな童貞プログラマみたいのを単独でノミネートしちゃだめよ。 わざとだろうけど。

各セッションがボクシングのラウンドみたいに睨み合いも含めて続いていって、アセスする側とされる側の関係が危うくなって、そうするとなぜか人間は疑ったり焦ったりするようにできてて、「全体」を押さえているのは、わかっているのは誰なのか、みたいな話になりがちで、その帰結として悪いのはあいつだ、消しとけ、みたいなところに行く。 この作品はその流れのなかで、創造主のネイサンと構造物のエヴァと、やわい若造のケイレブの配置が見えるとこ見えないとこ含めてとてもよいバランスで。 破綻のシナリオはいくつも書けるだろうけど、やっぱりあそこなのだろうな、と。

AIだけじゃなくてロボティクスの技術も必要なんだしあそこまでネイサンひとりで工作するのは無理だろ(Tony Starkとどっちが上か?)とか、停電とか防御プログラムとか(停電起こせるならプログラムだって書き換えできるよね?)、つっこむところはいっぱいあるけど、検索エンジンの名前がBluebook - 青色本- だったり、全体のデザインとセンスはとってもきれいで、このへん、"Under the Skin" (2013)をすこしだけ思いだした。  実はどろどろ気持ち悪いところをスタイリッシュにかっこよく見せてしまうブリティッシュなんとか、というか。

Domhnall Gleesonさんはキャラ的には”About Time” (2013)のまま、父親の影と100%の女の子の間で一生揺れ続けるやつ。 あと、Oscar IsaacとDomhnall GleesonはEP7でも敵味方だったけど、これからもずっと犬猿をやり続けてほしい。

ふたりいる音楽担当のうち、ひとりはGeoff Barrowさんで、あの音圧がぶんぶんしていてたまんない。 エヴァが動くときの音も気持ちよいの。
エンドロールで、Savegesの”Husbands”がものすごくかっこよく、爽快に鳴るの。

[film] The Eichmann Show (2015)

また少し時間を遡る。 5月15日の日曜日の昼、恵比寿でみました。

『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』

15年による逃亡生活の末にアルゼンチンで身柄を拘束され、イスラエルに移送されたアドルフ・アイヒマンは1961年、イェルサレムで裁判にかけられることになって、その裁判の様子をTV放送すべく、アメリカからプロデューサーのMilton Fruchtman (Martin Freeman)と赤狩りで干されていたドキュメンタリー畑の監督のLeo Hurwitz (Anthony LaPaglia)がやってくる。 ふたりは司法当局側の注文 - カメラを見えないように - に応えたり、TV放映開始後の妨害とかプレッシャーとか、いろんな困難を乗り越えて世紀の裁判の模様を全世界に届けていくのだが、そういう苦労克服モノとして見ておわり、ではなくて、いろんなことを投げかけてくる。

55年前、ハンナ・アーレントが『イェルサレムのアイヒマン』 - ざっと見返してみたけどここにこのTV放映に関する言及はない - で考察し、世界37カ国で視聴された裁判がどんなふうに撮られて届けられたのか、尋問と112人の証人による証言、併せて証拠映像そのもの、戦時のもの、裁判の実物映像、加えて裏方の苦労や献身、などなどを現代の我々がもういっかい見る。 それが起こっていた時間、裁かれていた時間、そこから55年を経て現代、の三段跳びを、現代の我々が現代のスタッフ・キャストを使った映画として、見る。

アイヒマンは大多数の視聴者やイスラエルの人々が「期待」していたような冷酷非道なモンスターではなく、我々とおなじような上の命令に従っただけの単なるお役人でしかなかったことが映像によって露わとなり、復讐/憎悪に加え、それらに対する当惑、苛立ちなどが渦巻いたことは知っている。 政治権力・組織がその構成員をどんなふうにしてしまうのか、ある集団内で正当化された行為を実行した(だけの)個人を裁くということはどういうことなのか、ジェノサイドに対する「証言」とはいったい何でありうるのか、などなど。 そして何よりも我々が我々に問うべきことは、この裁判を経て、あの放送がなされたことで、世界は本当によくなったと言えるのか、同じようなことがどこかで起こらないような認識とか決意を生んだり促したりするきっかけとなったのだろうか?

映画の後半で監督のLeoが(中継番組の成功による)周囲の熱狂から離れて暗い顔でどんよりしてしまうのは、このあたりのことなのではないか。 彼が映画作家として追求し、糾弾すべき「悪」もそれと向き合うはずの正義もここに映っていないようにみえる。 映っているのは痩せてやつれて無表情なひとりの中年男で、肝心なのはこの男の奥 or 背後にあった何かなのだが、そこにTV映像は到達できていない...

それが"Eichmann Show"ていうもので、TVていうのはそういうののみを映しだすだけの単なる装置なのだと。

強制収容所解放70周年を記念して作られた作品ではあるのだが、そこから離れて流れて現代のテロやヘイト、その起源へとに頭は向かってしまうのだった(だって止んでいないしさ)。
とてもまじめな作品なのでそっちのほうにもう少し矢印を向けられたらなー。

6.26.2016

[music] RIP Other Music

25日にManhattanのOther Musicが閉店する(ついさっき、した。はず)。
アナウンスがあってから、BoweryでTributeライブ(すごいメンツに膨れている)があったり、MSNBCで特集が編まれたり、映画になるとかいう話もあるし、広がりかたがすごいのでびっくりしている。
みんなそんなに愛していたのか...

このお店ができたのは95年で、音楽史的にはオルタナが爛熟期にあったころで、つまりはみんなが割と世界中の変てこな音を求め始めた頃、こんなのもあんなのもあり状態がふつーになりつつあった頃、でもあった。
それ以前は、欧州とか南米のプログレとかアヴァンギャルドとか(あとヨーロッパのじみな映画 - ロッセリーニとか - のビデオ)を探そうと思ったらBleeckerにあった穴ぐらのようなKim’s Undergroundていうとこくらいしかなくて、あとで聞いたらここにいたスタッフが始めたのがOther Musicだったと聞いてなるほどー、だった。

つかのまの黄金時代には、West 4th Stをはさんで反対側に結構でっかいTower Recordsがあって、マイナーでよくわかんない系のアナログをOtherで買ってからメジャーなCDをTowerで買う(両者の品揃えは重なっていない)、それでも物足りなければ少し歩いてVirginも、というとっても贅沢で理想的な音楽調達環境が、あの界隈にはあった。 ネット配信なんて、まだなかった頃よ。

そこから2度の米国お別れ直前にはどさくさで相当バカみたいに買ったし、出張の都度立ち寄って時間のせいにしてあんま考えずにひっつかんで買う、みたいなことをしていたので、ここはたぶん、これまでの人生で一番お金を費やしたお店Top10には入っていると思う。 でも集中してどの辺のを殿程度買ったのか、はあんま憶えていない。新譜も中古もノイズも実験音楽もエレクトロもフレンチもラテンもジャズもサントラも"Other"なのは、ぜんぶここにあるかんじがして、いつもその海に乗り出していくようだった。 “Other Music” - 看板に偽りなしだったねえ。

Other Musicの白板に手書きされた21年間のTop Sellers、なかなか感慨深い。
ここは年末にスタッフ全員のベストを同じように白板に手書きして発表していたのだが、一位になったBelle and Sebastianの”If You're Feeling Sinister” (1996)は、その年末、スタッフ全員がみごとに一位にしていて、なんだこれ? と思って自分も買って、なんだこれ? (ふうむ)っておもったの。
NYのベルセバ受容をドライブしたのがこのお店であったことは間違いない。

どんなにすてきなレコード店も本屋もいつかはなくなる、消えていくものだ、ていうのはわかっている。
御茶ノ水にあったCISCOだってパイドパイパーハウス(もうじき復活するねえ)だってなくなった。 でも本屋よりもレコード屋のほうが悲しみが深いようにおもう。本屋は本棚の前に立って本の背表紙を眺めて、本と世界に対峙する、自分と本と世界、その間の隙間を共有するコミュニティ感があるので素敵に気分があがるのだが、レコ屋って、何が入っているか他人にはわからない謎のエサ箱を個々が押しあいへしあいかりかり掘ったりつまんだりばかりで、とっても後ろ向きなかんじで、じっさい、未だにエサ箱を掘っていると、こんなとこでなにしてんだろ、て思うもんね。
でもだからこそ、宝の山かもしれないエサ箱を並べてくれたお店とそこで過ごした時間には愛と感謝が溢れてくる。こんなろくでなしのノラにおいしいエサをありがとね、って。
(映画館もレコ屋のほうに近いかも。 暗闇のなかでじーっとひとり)

でもなあ、ここにきて、West VillageにあるRebel RebelもSFのAquarius Recordsも閉じる、ていわれるとさすがにへっこむ。
(Rebel Rebelは90年代初め、ちょっと割高だけど英国盤を調達できる貴重なお店だった)
アナログレコードの復興、とか言っても、ビジネスとか消費のありようを変えるわけではないのね。 売れないお店は結局消えてしまうってことなのね。

これからNYでのレコードの調達はBrooklynまで行かなければならなくなってしまうのだわ。

でも、またどこかで会えるよね。


そうそう、なくなるといえば渋谷のパルコブックセンターであるが、Joseph Beuysのサイン本が70% offで置いてあったよ。

6.24.2016

[film] クリーピー 偽りの隣人 (2016)

低気圧と湿気があまりにしんどくてねむいのでこっちから先に書く。

19日、日曜日の夕方に新宿でみました。なんとなくー。
黒沢清の映画は黒沢清のプロみたいな書くひとがいっぱい書くので、ここではどうでもいい感想とか書いてつっこんでみるだけにする。

きもちわるいものがとってもきもちわるく、おっかないものがどこまでもおっかなくて、おもしろかった。

冒頭、警察で犯罪心理系の刑事をしている西島くんは取り調べ中に致命的なヘマして自分も刺されちゃって、物語はその一年後、彼が警察を辞めて大学で教える職を得て、妻の竹内さんとふたりで郊外の一軒屋に引っ越してきて、というところから。
新たな隣人となった香川くんのところに挨拶に行っても見るからに変でやなかんじ、ていうのと、大学の同僚が未解決事件簿みたいのを作っているのを見て、暇だし「趣味で」未解決の一家失踪事件に首つっこんでみる、ていうのが、並行していって、とにかくとっても気持ちわるいかんじになるの。

なにが気持ちわるいのかというと、隣人があんな変だったら、ていうかどっから見ても笑っちゃうくらい変なんだから関わらなきゃいいのに、チョコあげたりシチュー持っていったりしてるし、事件で痛い目にあって警察辞めたってのに捜査ごっこみたいのを止められずに現場までのこのこ出かけいくし(暇かよ)、そこにかつての同僚(東出くん - 君も暇なの?)を巻き込んじゃうし、犯人ていうのは3分類されて、未解決のはたいてい混合型のやつで、つまりわかんないのだ、とか得意そうに言ってるし。要はあなたなにひとつきちんと対応したり解決したりできないでしょ、それじゃだめでしょ、みたいなことを端からぜんぶやり続けて、そうしたら案の定ふたつの気持ちわるい事象は鍵穴のでこぼこみたいに合わさってとってもひどいことが見えてくるので、自業自得でぜんぜんかわいそうじゃなくて、なんか違和感が残るのだが、これって犯人を捜す、あるいは恐怖の出処を探す、謎を解くサスペンス・ミステリーとして見ようとするからで、そっちいっちゃだめでしょ、の方に憑かれたようにふらふらと寄っていく主人公たちの挙動とか現れる仕掛け設定とかはホラーのそれなんだよね、と、そういうふうに見ておけばおもしろいのかも、ておもった。

郊外の変なかたちに入り組んだ家 - 家とか、失踪後に廃屋になった家とか、がらがら重い鉄の扉とか、半端にはみでたカーテンとか、リビング?のビニールの仕切りとか、上へ上へと上がっていくカメラとか、注射針とかホルマリンとか竹内さんのデス声絶叫とか、気持ちわるさがきりきり滲んでくるホラーだよね。 あとは斧とか鋸さえあれば文句なし。
あと、ここに出てくる人の輪には誰ひとりにも近寄りたくないかんじ。

背後に御用心、が続いたので、あそこではわんわんがぜったい襲いかかる、と思ったのになー。
あそこだけ残念だったなあ。

そのたなんとなくつっこみどころとか ;

・シチューが余ったので食べてください、じゃなくて多めに作ったから食べてください、ではないのか?
・東出くんも笹野くんもなんでひとりであそこに入っていくの? 一緒に行ってくれるひといないの?
・あの人、お父さんじゃありません、なんて言われたらそこでまず警察、じゃないのか?
・川口さんの記憶はなんでいきなり、だんだん戻ったの? なんで彼女が喋ると周囲が暗くなるの? しんでるの?

それでもおもしろいし、おっかないよ。

続編は『Too Creepy 正直の隣人』。こんどは正直すぎる隣人のせいで痛い目にあうの。
Seth Rogenの”Neighbors”と同様にシリーズ化してほしい。 ぜったいあたるとおもう。

6.20.2016

[film] Désiré (1937)

19日、日曜日のお昼、アンスティチュで見ました。 前日の雪辱とおもったひと、パイーニ先生の講義で目醒めてしまったひと、たぶんいろいろでありえない行列ができていた。 
なんで日曜の昼間から30年代のフランス映画なんて見たいの、みんな?

『デジレ』。

女優のオデット(ジャクリーン・ドリュバック)の邸宅で、オデットには結婚していない内縁のはげの大臣がくっついていて、あと召使がふたり、お料理担当のアデルと小間使いのマドレーヌ(アルレッティ)がいて、ふたりの会話から今度新しい召使が来ることがわかって、やってきたデジレ(ギトリ本人)はしっかりしていて仕事もできそうなのだが、前の職場では恋愛関係でなんかあったらしい、と。

デジレは確かに有能で仕事はばりばりできて頼もしくて問題ないのだが、やがてオデットは寝言でデジレの名前を言って悶えるようになって、それが大臣に知れて、デジレも同じことをするようになって、それがマドレーヌに知れて、本人達はあまり意識していないのだが、あまりにやかましいので突っついてみると夢は解放され言葉が溢れてきて、二人とも真っ赤になって、だんだんに意識するようになって、恋の嵐は身分の差を超えることができるのかどうか、と。

前日の『夢を見ましょう』で、乗り越えるべき壁は相手が人妻である、ということだったが、今度のはもっときつい。おそらく。 でも、であるがゆえに。
仕事に関しては有能だしばりばりやるので大抵のことはできるし、夢のなかならあんなことでもこんなことでもできる、そして言葉で自分の想いはいくらでもどこまでも吐き出すことはできる。 唯一破れそうにないのがここにある階級の壁とか、ユニフォームの違いとか。

おもしろいのは身分や階級の壁の不条理あれこれを嘆いたり訴えたりする方向には向かわずに、ぴっちりしたコスチュームの縛りとか言葉でやらしくあおりたてたり悶えさせたりしつつ(Désiré = 欲望される男)、恋の醍醐味ってここだし、絶望 - 到達できない絶望、終りのない絶望 - なんて、そんなのふつうに、あたりまえについてくるでしょ、ていうように描いているところ。 ガチのSMみたいなもんなのだ、と。 覚悟はできているのか、と。

溝口だったら『近松物語』になっちゃうようなシチュエーションをギトリは識閾下・可視・不可視のものを効果的に織り交ぜて、その言葉と声で相手を圧倒してなぎ倒すとっても濃厚な恋愛喜劇(喜劇よね、これ)に仕上げていて、それって凄腕の召使(マシーン)であり道化であるデジレ=ギトリの真骨頂なのかも、とかおもった。

デジレのあの鞄のなかにはなにが入っているのかしら?  なんかとんでもなくやらしいものが?

29日の『あなたの目になりたい』も見ることができますようにー。


ああ、Anton Yelchin ...

6.19.2016

[film] Faisons un rêve... (1936)

18日、土曜日の夕方、アンスティチュの特集『恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章』のサブ企画であるサッシャ・ギトリの4本。 用事があって13時過ぎに着いたら既に最初の2本は売切れ、残っていたのは17時からのこれだけだった。それでももちろん見たいし。

『夢を見ましょう』  見たいもんだよう

こーんなにおもしろいとは思わなかった。びっくり。
知らなかった自分をはじるわ。ばかばかばか。

最初に6人編成の楽隊が結構長めに巧いんだか外れているんだかよくわからないけどなんかうねりまくる音楽をじゃんじゃか奏でて盛りあげて、熱い恋のゲームの幕が切って落とされるの。

パーティの後、彼(ギトリ)のアパートに夫婦が呼ばれて、でも呼んだ本人である彼はなかなか姿を見せなくて、苛立った夫がそわそわ怪しげに中南米の誰かと会わなきゃいけないから、とそこを出ていった後で彼は姿を現して、残された妻 - 彼女(ジャクリーン・ドゥリュバック)に愛の告白をして、彼女もそれを受け入れて、その晩9時にアパートで会おう、て彼は誘う。

その晩9時の来るべき逢瀬に向けた彼の期待と不安と苛立ちと熱狂、熱狂というのか色狂いというのか、とにかく凄まじいエネルギーと情熱でひとりでべらべらべらべら、ラップのように落語のように喋りたおす。
彼女がこの場所に現れる、彼女を抱きしめるまさにその瞬間に人生ぜんぶ賭けて、彼女はいまどこにいてなにをしているはず、万一、もししていないのだとしたらこうなっているはず、ひょっとしたら・もしかしたら・場合によっては、などなどを延々、やがてカウントダウンまで始めて、でもやっぱり来ないので電話しようかどうしようか、電話したら繋がらないし繋がったと思ったらさくらんぼ酒の注文とか来るし、やっと繋がって話してもなんかつれないかんじだし、ああもうだめなのかもしんないけどでもたとえそうなったとしても ....  と思ったところで魔法と奇跡がいっぺんに起こって彼女が! そこに!!(... 素敵だよねえ、しみじみ)

で、ふたりは夜を過ごして気がついたら朝の8時で、どうしよう、てあたふたする彼女と彼女を助けてあげたいのとこれを機に別れさせてしまいたいの両方で頭がぱんぱんの彼がコーヒーにバタパンなんかを食べていたら突然ドアがノックされ、そこには彼女の夫が立っていて朝帰りしちゃった言い訳をどうしよう ... て言ってくる。

ラストはもちろん冒頭の楽隊の愛の調べ(たぶん)がうなりをあげて終る。


上映後のパイーニ先生の講義、木曜日のお題はまだすこしだけ予備知識があったけど、今度のはまっさらだったので砂場にしみる水のようで - それじゃなんも残んないか - とにかくおもしろかった。

有名な俳優だった父親のルシアン・ギトリの紹介から入って、ロシアで浮気性の父親に育てられたので女好きはこの頃からで、学校の成績はビリだったが父親のおかげで文学的教養はあって、16歳で最初の戯曲を書いてからはずっと演劇人としてやってきた。

なので映画はたんなるドキュメンタリー、程度に見ていたが「祖国の人々」- “Ceux de chez nous” (1915) で映画の重要な機能 - セルロイドフィルムに永遠を焼き付けることができる - に気がついて、記録としての缶詰めとしての映画にも注力するようになる。

この辺、リュミエール兄弟も同じで、幸福な瞬間に永遠を見る、そのダイナミズムを捕らえる装置としての映画を、と先生は言っていたが、ここは木曜日の講義を踏まえると少しだけ注意が必要かも。

ただ彼の映画への関わりはあくまでも演劇人としてのそれであり、スペクタクル、イリュージョンとしての演劇の特性や可能性を追求するためのもの、故に映画的技巧はバカにしていたようにも見える。 他方で映画でのみ可能となるショットの追求とか、作られている過程をそのまま見せてしまうようなモダンな映画技法を手袋を裏返すように示してしまう。

映画技法のほかに、役者としてはバーレスク的身体をもった映画作家(同系の作家にキートン、チャップリン、ジェリー・ルイス、タチ)として自身の身体や声をマシーンとして組織化し、署名し、刻印する(同様の声の作家としてのコクトー、デュラス)。そこには同時に、言葉でしか世界をコントロールできないことに対する絶望感、孤独、死に対する畏れがあって、その涯に必然的に現れる闇を象徴的に描いた作家としてのユスターシュ、ガレル、オノレ、そしてユスターシュとギトリの間にいるゴダールと。

講義のあとで少し思ったのがここんとこ自分のなかで話題のロメールで、ロメールの映画にも思い込みの激しい色狂いの変態野郎っていっぱい出てくるし、たぶん一緒になりたいキスしたい想いの熱総量はギトリ映画の主人公(のギトリ)と同じくらいだと思うのだが、ロメールは徹底してカメラ(マン)の背後に隠れて俳優を困惑させようとしてはいないだろうか。 それって演劇から来たのと文学から来たのの違いなのかしら、とか。

そういえば『パリのランデブー』(1994) では2人組の楽隊がいたけどなー。

まあとにかく、こんなおもしろい映画作家を(今頃)発見してしまったので、もっと見たいよう、てわあわあ言い続けるしかない。 2日間、チケットあっというまに売り切れ、とうぜんだわよ。

6.18.2016

[film] La Planette Lumière (1995)

6月16日の木曜日、アテネ・フランセの『「ポンピドゥー・センター傑作展」(東京都美術館)関連企画 フランス映画傑作展』 - ながいね - ていうののオープニングで見ました。

日本橋で仕事を抜けた(から逃げた)のが18:00で、そこから地下鉄潜って乗り換えて新御茶ノ水のくそ長いエスカレーターを駆け上って、小雨のなか走って、建物についたらそうだ4階だったとさらに階段のぼって、これぜったい死ぬかもと這うように18:30丁度に着いたら、まだ並んでチケット売ってた...
18:30はきつすぎる。 でもそこまでしても見たかったし、講演ききたかったし。

『リュミエールの惑星(リュミエール28作品による世界旅行)』

1895年、リュミエール兄弟は世界中にカメラマン/オペレーターを派遣して、各地のいろんな映像を撮った。それを1995年、映画生誕100周年記念で再構成したもの。短い映像が28パート、25分で世界一周する。
リヨン - パリ - パリ - そこからヨーロッパに出て、ロンドンとかベルリンとか、さらにアフリカに行ってアジアに行って、最後は日本までくる。 200年前のいろんな国のそれぞれの風景とか人とか。
どのパートも最初が静止画で、古い写真で、それが突然動きだす瞬間がたまらない。ドラムスが入って音楽が、世界がわんわん鳴りだす瞬間というか。
「地球」ではなくて「惑星」。 回転する傘の上でころころ転がっていく球体。

続いて19時過ぎから、ドミニク・パイーニ先生による講義:
『リュミエール兄弟とフランスの芸術:印象派と映画の発明』 あっというまの1.5時間。

リュミエール兄弟が撮った映像のクオリティの高さ - なんで彼らの作品、審美眼はあんなにちゃんとしているのか? を裕福だったリュミエール家の、画家だった兄弟の父がごく普通に範としていた古典的な作家 - ウィリアム・アドルフ・ブグロー(William-Adolphe Bouguereau 1825 - 1905)の紹介から入って、でも彼らが映画として切り取った日常/非日常のありようは、ブグローの世界のそれというよりは同時代の印象派のそれに近い。
だがそれは、印象派の画家たちと登場のタイミングが近いから、印象派と同じような題材を扱っているからというだけの話ではないのだと。

長くなりそうなのでうーんと要約してしまうと;
19世紀前半に出てきた写真と、産業化・工業化の進展と、それによって可能となった大量複製、再現可能なものに対する期待や要請、などなどがアートの対象や目線を神や神話的世界、自身の属していた(上流)社会といった普遍(&不変)の世界からの変容(グローバリゼーションの初っ端)を促した。
時間的には切り取られた時間、移ろいゆく時間へ - 更にはそれらが引き起こす儚さ・メランコリアへと、空間的には切り取られたフレームの中と外、運動の中断、などなどの緊張関係がもたらすサスペンスへと。 印象派の絵画が表象したものとリュミエール兄弟の映画が表象したものはこんなふうにその起源を同じくしているのである、と。

これらを説明するのに紹介・引用されたのは;
・ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme 1824 - 1904)
 “Painting Breathes Life into Sculpture” 1893
 - ブグローの絵画の系譜にありながらも題材が現代のそれになってきた例として。

1850年代、自然に惹かれていった画家たちの代表例として -
・カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot  1796-1875)
・テオドール・ルソー (Théodore Rousseau 1812-1867)

・ピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌ (Pierre-Henri de Valenciennes 1750-1819)
 上の風景画家の祖として、上下逆さにしてもたいして変わんないような抽象絵画の祖としても。

ここで取りあげたような印象派絵画の特徴がぱんぱんに詰まった2枚として:
・エドゥアール・マネ「鉄道」(1873)
・ギュスターヴ・カイユボット 「パリの通り、雨」 (1877)

更に都市風景や工場などをテーマにした黎明期の写真家として;
・シャルル・マルヴィル(Charles Marville  1813 - 1879)

あと、画像としては出なかったけど、リュミエールの映像との対比で紹介された
・鏑木清方「墨田河舟遊」(1914)
これ、金曜の晩に竹橋で見てきたのですが、ほんとうに素晴らしいよ。
隣に並んでいる土田麦僊の「湯女(ゆな)」(1918)とあわせると、涼しい風がさらさら来る。

最後に紹介された2本の動画、”Washerwomen on the River” (1897)と馬のながーい列が奥に連なって行くやつ(見つからないや)は、ふつうに見ればごくふつうにおもしろいのだが、先生が説明すると魔法のように戦慄の動画に豹変してしまうので、映画よりもそっちのほうにびっくらした。


ていうような流れとは別に、こないだようやく読み終わったトーマス・ベルンハルトの『消去』の怒濤のラストにあった『写真の映像が 〜 世界規模の白痴化を作動させたのだが、そのプロセスは写真映像が動きはじめた瞬間、人類にとって致命的な速度に達した』みたいなところ、堕落と転落が加速していったほうも見ていかなくては、て思うのだった。

6.15.2016

[film] Gold (2013)

14日の午後、アテネ・フランセのアルスラン特集、"In the Shadows"に続けて見ました。

犯罪もののあとは西部劇。 ふつうにイメージする西部劇とは結構違っていて、ロードがなかった時代のロードムービー、のように見ることもできる。

19世紀末の夏、カナダの田舎の駅にエミリー(Nina Hoss)が降りたって、出発しようとしていた金鉱掘りのグループに加わり、掘ればじゃんじゃか出ると噂の北部の金鉱に向けて出発する。 その隊を率いている案内役のおやじは、行けば絶対に当たるから儲かるから、て意気揚々で、でも全財産をはたいてここまで来たらしいエミリーにとっては最後の賭けで、意志は固いけど明るく盛りあがることなんてできない。
タイトルは『黄金』で、でも黄金に憑かれたり狂ったりした人たちのお話しではないし、黄金が運命を操ったり何かをもたらしたりするわけでもない。 黄金はなんというか、おてんとさまみたいなもん?

そうやって旅にでた移民を中心とした7人とお馬数頭だが、道行きはとっても過酷で、地図なんてないも同然で方角わかんないし、原住民に教わってもあまりあてにならないし、リーダーも嘘つきだった(ので追い払った)し、いろんなことが起こってひとりまたひとりと死んだり狂ったり脱落していって、最後はエミリーと寡黙な馬世話係のふたりだけになる。

馬世話係の男はNYで人を殺めて追われている、といい(実際に仇討ちで追ってくる)、エミリーもドイツのブレーメンからシカゴ経由でNYに渡って小間使いとかをしながらここまで来た、かつて結婚していたらしい、ようなことがわかるのだがその程度で、確かなのはあまり先が見えないことと、金鉱にたどり着けたとしてもその後がバラ色になるとはぜんぜん思えないの。 ある土地にいられない or いたくないから土地を移動する、渡る、という点で移民の動きそのもので、移民の生活というのは起点と終点ではなく、そのしんどい渡りのまんなかにあるのだ、というのがわかって、その中で彼女のなにがなんでも向こう岸に行くのだ、という意志ばかりがむき出しになっていく。

人物の撮り方とか置き方は"In the Shadows"と同じようにとても遠くて静かで、撮ろうと思えばいくらでも撮れたにちがいない雄大な景色との対比もそんなにはなくて、例えば"The Revenant"の主人公にびったり張りついて一緒に這ったりのたうち回ったりのようなカメラの動きは皆無で - 熊も襲ってこないし - 開拓時代の果てのない旅を描いたものとしてはぜんぜんちがう。
"The Revenant"をドライブしていたのがHugh Glassの「復讐」だったとすると、こっちはなんだったのだろう - 「諦念」?
的外れかもしれないが、かんじとしては"Wild" (2014)  - ひとりで1100マイル歩くやつ - を更に後ろ向きにした19世紀版、のようにも。

音楽はEarthのDylan Carlson。 砂を噛むようなギターの音色がなんとも言えなくよいの。

“In the Shadows”と”Gold”でアルスランという作家がわかったかというと、そんなわけあるかー、だったので、次の回顧上映まで待ちたい。 それまでにのたれ死にしないようにしなきゃ。

6.14.2016

[film] Im Schatten (2010)

5月14日の土曜日の昼、アテネ・フランセの『トーマス・アルスラン監督特集 - Thomas Arslan Retrospektive 2016 』で見ました。 久々のアテネだったが入場が整理番号順になってて感動した。

日本語題も英語題も”In the Shadows” 。

アルスランの映画は初めてだし、現代ドイツ映画もわかんないし、現代ドイツ映画におけるアルスランの位置、もわかんないし、じゃあなんで興味をもったのか、も実はあまりわかっていない。 いや、そもそもわかんないから見ようと思ったんですけど。

現代のベルリンの街なかで、刑務所から出てきたばかりのトロヤン(Misel Maticevic)は自分がぶちこまれた件の分け前報酬を貰いにかつての親分のところにいくのだが、すんなり渡してくれないので無理やり奪って、それを元手にひとりで現金輸送車襲撃を企んでかつての仲間に声を掛ける。 他方で旧組織のほうはトロヤンを追い始めて、更に地場の性悪な刑事もねちねち絡んできて。

85分と時間は短いのにヤマの襲撃を含めてものすごくいろんなことが起こるので息もつかせない。
トロヤンの過去になにがあって、なにを抱えているのかとかどんな性格なのかとか、そういう説明は一切ないのと、出てくるのは悪いひとばかり、しかもほぼ昔から知っている連中だったりするので、会話も含めて互いに説明する必要がなくて、つまりは阿吽の動きでさくさく進んでいって、更にカメラはだいたい思いっきり遠くから草原の動物を撮るように撮っているので全体を横線で俯瞰できて、あんま揺れないし走らないし、つまり、現れて - 奪って - 奪って - 殺して - 殺して - 消える、そんなもんで犯罪ていうのは描写できるものだし、実際そんなふうにあっという間に起こって、結果は ... 

なーんの特徴もないのっぺりしたベルリンの街のカフェとか、安ホテルとか、車と、最後に出てくる郊外の一軒屋とか、それくらいを背後に置いて、そのランドスケープの一部として描かれる犯罪と犯罪者と。 これらはかつてファスビンダーが印象的な貌と共に描いたぜんまい仕掛けみたいな小悪党たちと違うのかしら同じなのかしら、ていうのを少し思った。 どちらも現代のドイツ、ていうところ以上に、背景とか動機とかをすっとばして、ただただそこらに普通にたむろして動いている悪い奴らの顔とか挙動が、それのみがぼーっと浮かんでくるような。

彼らは外見に異常なところはなくて、ものすごく悪いひとにも見えず、割と普通のひとのようで、じゃあどれくらい普通て言えるのか?  ベルリンの天使とおなじくらい?
… “In the Shadows”  -  それはなんの影の ?

6.13.2016

[film] Citizenfour (2014)

11日の土曜日の夕方、渋谷で見ました。

貼ってある映画のポスターには『警鐘! これは今起きている現実です - うんたら』とか赤で仰々しく書いてあるけどこの映画の全米公開は2014年だからね、もう十分に遅いし恥ずかしいのよ。

この映画にも出てくるSnowdenの顔と名前が世界中に曝されてから丁度3年、サイバーセキュリティの世界のありようは劇的に、ばっかみたいに変わってしまった。 つまりは、彼の告発が発端となって攻める側も守る側も(さて、どっちがどっちでしょう?)こっそりやろうとしていたいろんなことのギアを踏みこんでしまったとしか思えなくて、ここから振り返ってみると、当時一部ではったりと思われていた彼の発言もウソではなかったのかも、と少しだけ思ったり。

結局、彼やGuardian紙の記者が暴いた「真実」については、否定する側から「やってません」の明確な根拠がなにひとつ提示されないまま(あんな口先のコメント、誰が信じるかしら?)、だーれもその「責任」を問われることがないまま、そのままにされているので、政府さまに情報は盗られ触られっぱなし監視されっぱなしの野放し状態は続いている。

他方でIoTだAIだイノベーションだクラウドだモバイルだ、のバブル(もどき)が産業界では巻きおこっているが、これらはみんな情報や環境の統制をめぐる国策のための巧妙な目眩しでしかない。
2013年の時点ではデータを抜きとる、盗み見する、ような言い方を(しているとは言わずに)していた政府側が次にやろうとしていたことはこれらの作業の自動化、即時化で、IoTもAIもそのためにぜったい必要なインフラなの。 それで産業だって潤うのであればこんなにおいしい話(Win-Winとかいうのよねくそったれ)はないの。

米国政府のサイバー戦略は、911以降、ブッシュからオバマに政権が変わっても「いいからやっちまえ」の精神と路線を基本変えていないし、技術の進化が絡むことだし、現実問題として他国からのアタックは続いているので、この流れが停まるようなことになっているとは思えない。 で、そうしたら米国にやられたくない英国だって他の国だって同じ道を行くに決まっている、ていううんざりの連鎖。

50年代の赤狩りみたいなことが誰にも知られない/記録にも残らない(含.改竄される)かたちですいすい行われて、ある日突然はいさようなら、みたいなことが簡単にできるようになる。 国がBlack Cloudになる。 どこかでもう始まっていてもおかしくない。
では、オーランドのようなテロ(悲しくてやりきれないわ)は、この路線を詰めていったら無くすことはできるのか? そうは思えないの。 技術も法もどんどん変わっていくし、人だって変わるし、そもそもこれって「憎悪」と「恐怖」が発端だから。 そいつらは底なしに根深くて取り憑かれたひとはどんなことだってやろうとするから。

映画のなかでも言われているように、もうインターネットの自由なんてどこにも、どこの世界にもない。それどころかもう盗られている見られている前提で最低限の自由くらいは守らにゃ、と昨年くらいから潮流としてでてきたのがEUを中心とした国による自国内へのデータの囲い込みで、これにしたって各国が勝手に言っているだけ。 法と技術のせめぎ合いでほんとうにいいのか?、のところはまだまだ流動するだろうから、自分のは自分で守る、とか、やっぱし紙か... みたいなところしかー。

べつに国がちゃんと守ってくれる/やってくれるんだからいいじゃん、とか思えるひとはほんとうにおめでたい、とか書くと頭の悪い右翼みたいで嫌なのだが、これは国に関することではないの。 個人の表現活動とか尊厳に関わることなのに、今はだーれもその角度から考えようとしていないみたいな。 法を含めて技術的にできるできないばかりが焦点になっていて、これの怖いのは、技術がReadyになったら即時Go、だから。 究極には人間対AIみたいなところまでいくから。10年後にどうなっていてもしんないからね。

日本は政府の対応も含めて10000歩くらい後ろを向いてて、国民をみんなスマホのゲームとかアニメ漬けの骨抜きにしておけばなんとかなる、程度に思っているのか、国際的に、決定的に、ずれまくっている。
いつものことだけど。これだけじゃないけど。
ま、米国からすれば日本なんてケーブルも含めてどうとでもできるし、そもそも盗る側にとって価値のある宝なんて、欠片もないの、ここの土地には。

この映画、こんなふうな過去からのいろんなのをあたまのなかで整理するにはちょうどよいネタだったかも。
あと、例えば、Snowdenがハゲででぶのさえない中年男だったら、こんなに盛りあがっただろうか? ていうのは失礼だけど少しだけおもった。

音楽はこれ以外には考えられない、というくらいノイズが画面と耳に馴染んで染みこんで心地よいNine Inch Nailsの"Ghosts” (2008) から。
今にして思えば、"Year Zero" (2007)というのは本当にYear Zeroだったのだねえ。

[film] 子供の四季 春夏の巻・秋冬の巻 (1939)

5月8日の午前、シネマヴェーラの清水宏特集でみました。
これが今回自分が見た清水宏特集のラスト。
春夏の巻が70分、秋冬の巻が72分、どちらの巻も最終リールがどこかにいってしまったので不完全版のまま。
原作は坪田譲治。

道、道路とならんでもうひとつ清水宏の映画で重要な役割を担っているのが子供たちで、どちらも迷える大人たちを(ちっとも臭いやりかたではなく)正しいほうにガイドしてくれるの。

山あいの田舎の村で子供たちがわーわーやりながら通学したりしていると、後から馬に乗った威厳たっぷりのおじいさんがゆっくりついて来たりしていて、やがてそれが子供たちのうち、二人の男の子兄弟の祖父で、自分ちの会社から逃げて牧童のところに駆け落ちした彼らの母を勘当していたことがわかって、そのうち子供たちを介して母と祖父は和解する。

それをおもしろくなく思っているのが婿養子でおじいさんの会社を乗っ取る野望を抱えてダークサイドに落ちてしまった老獪(そういう名前?)で、彼はかつて祖父から娘の牧場に貸された(?)お金を不正だと騒いで、いじわるして、そのあげく、元々病弱だった少年たちの父は亡くなってしまうの。 (亡くなるところはフィルムがないので見れなくて、ここまでが春夏篇のおわり)

後半の秋冬の巻は、ほんとうに秋冬の寒いかんじで、父を失った少年たちは母と一緒に祖父の家に同居していて、でも老獪は彼の妻と一緒に会社乗っ取りの野望を諦めずにいろんなことをねちねちやっていくので、放課後みんなで一緒に遊ぶ子供たちの仲もなんかぎくしゃくして、やがておうちのものは全部差し押さえられてしまって、みんなとってもかわいそうになる。 ああおじいさんの家の、子供たちの運命やいかにー、なの。

田舎の子供たちの夏休みをはさんだ瑞々しい世界に対置されて支配/成り上がり欲だの義理だのにまみれた大人たちの醜い世界、が描かれるのだが、映画のタイトルはあくまで「子供の四季」で、大人が子供の世界を浸食したり刷りこんだり教育したり、或いは子供が大人の世界を覗いてしまってどんよりしたり、といった過酷な状態にはならなくて、しょんぼりしたりべそかいたりするけど、子供は子供のまま、かといってその無邪気な光が大人たちをめでたく改心させるわけではなくて、ただただ両者は同じ家や土間や道の上に犬猫みたいに一緒にいる。
その距離のとりかたがとっても素敵なのだった。 毎度のことながら。

ここの最終リールも残されていないので、結末がどうなったのかわからないのだが、たぶんHappily Ever After になったとおもう。

6.12.2016

[film] The Huntsman: Winter's War (2016)

5月29日、日曜日の晩、六本木でみました。
これの前の"Snow White and the Huntsman” (2012) を見ていないのだが、ぜんぜん別のもんとして楽しめるよ。

かんじとしては、Charlize Theron、Emily Blunt、Jessica Chastainのきれいだけど戦闘もできるし怒らせたらすごくおっかなくて命がいくつあっても足らない系の女傑競演 - これの頂点にいるのがCate Blanchettさんなのだがさすがに出てこない - による幻妖戦国絵巻で、昔の東映だったらオールスターお正月映画でどーんと出すようなやつ。 白雪姫外伝とはとても思えない、Kristen Stewartさんが逃げだしたのも無理ない、アナ雪 × ホビットでよくリミックスしたもんだわ、と思うがこれはこれでおもしろい。

白雪姫との戦いの末に鏡の奥に封じ込められた魔女のCharlize Theronには妹のEmily Bluntがいて、ほんとはよいこだったのに姉の罠にかかってFrozenの技を引き出され、自分の国を築いてからはまずいろんなところから攫ってきた子供たちを鍛えて育てて最強の軍団に仕上げていく。
のちにThe HuntsmanとなるChris HemsworthもJessica Chastainも始めはそうやって攫われて武芸を仕込まれた子供たちで、子供らのなかでも最強だったふたりは恋におちたところでそれに嫉妬したEmily Bluntに引き裂かれて放擲されて、そこからChris HemsworthはThe Huntsmanになって白雪姫を助けて、他方でEmily Bluntの王国は勢力を拡大していって。

時は流れて、あの鏡のせいで白雪姫の具合がわるくなった - じゃあそんなの壊しちゃえばいいじゃん、と思うのだがそうはせず、どっかにそれを運び出そうとしたところで、その関係者が互いに殺しあう、ていう事件が起こり、鏡を安全な場所に隠すため(だから、なんでそこで壊さないのさ?)にChris Hemsworthとドワーフたちが登場し、それを狙うのにいろんな魑魅魍魎とEmily Blunt王国がやってきて、死んだと思っていたJessica Chastainも女忍者のように現れ、こんなふうに指輪を鏡に置き換えたスケールやや小さめの”The Hobbit”みたいになっていくの。 人々がぐるぐる追っかけまわして奪い合う鏡の奥にはCharlize Theronがいるものだから、最後にどうなっていくのかは容易に想像がつくというもの。

あとほんの少しだけ鏡、ていうテーマに着目して姉と妹とか善と悪とか掘り下げていったらもっと深くおもしろくなれたかもしれないのに、絵巻を広げすぎちゃったんだろうねー。

なんかEmily BluntとJessica Chastainの役は逆のほうがよかったのでは、とか、The Huntsman - Chris Hemsworthがぜんぜん強そうにみえない、とかいろいろあるけど、いいかー。

続編は、不機嫌が止まらなくなったKristen Stewartが戻ってきてChris HemsworthとJessica Chastainの仲を引き裂きにかかるのだとおもう。

6.11.2016

[film] 有りがたうさん (1936)

5月7日の午後、シネマヴェーラの清水宏特集でみました。 英語題は”Mr. Thank You”。

清水宏の映画に出てくる道って、こないだの『女醫の記録』でも『蜂の巣の子供たち』でも『按摩と女』でも、ほんとうに素敵で、その上をひとや乗り物がやってきたり向こうにいったりするだけで、それだけで映画になってしまう気がする。

有名な古典なので筋はみんな知っているかも知れないけど、上原謙が伊豆の路線パスの運転手さんで、彼はバスに乗ってくるひと、降りていくひと、すれ違うひととか生き物とか、みんなにいちいち「ありがたうー、ありがたうー」って機械みたいに延々いい続けているので「有りがたうさん」で、ひょっとしてどっか壊れちゃったひとなのかも、とかいう疑念もあるのだが、彼がどこから来て、どういう家族のもとに生まれ育って、なににそんなに感謝しているのか、したいのか、誰にもわからないし明かされないのだが、なにはともあれみんな幸せになるかんじがするのでよいの。

映画は車にいろんなひとをのっけて山道をえんえん超えて終点まで行って、またそこから戻ってくる - 構成としては"Mad Max: Fury Road"とおなじなのだが、あの映画に渦巻いていたやってくる奴はみんな敵と思え、みたいな悪意は、この映画では隅から隅までまるごと善意、としか言いようがなくて、映画を見ているこっちも、みんなでバスに揺られてたのしいな、になってくる。たぶん。

こういう映画なので、乗ってくる客のキャラもなかなか - 黒襟で謎めいてて車中で煙草やるわ酒やるわのやくざな桑野通子とか、都会にしょんぼり身売りされにいく母娘とか、髭の小やかましい親父とか、それぞれがいろんなのを抱えていそうで、彼ら同士の小競り合いとか庇いあいとか、運転席の奥でだるまさんが転んだ的に勃発するミクロな戦争がいちいちおもしろくて、でも運転手が客を呪い始めるとかぶちきれるとか、客が共謀して誰かを貶めるとか、そういうことにはならなくて、すれちがう程度の時間を過ごして、それぞれ道の奥とか向こうに消えていって、そのあとは誰もしらないの。

やたらかっこよい存在感を放ちつつ微妙に上原謙にアプローチをかけていく桑野通子はこのあとめでたく上原謙と一緒になり、『家庭日記』(1938)にも登場してなかなか素敵かつ危うい夫婦っぷりを。

ブニュエルの『昇天峠』(見直したいなー)みたいだったらもっとおもしろくなったかも、ていう気もしたけど、そんな飛び道具はぜんぜんいらないのだった。 でもメキシコ時代のブニュエルと清水宏ってテーマのとりかたとか似てないこともないかも。洋画と日本画くらいの違いは当然のようにあるとしても。

6.09.2016

[film] Deadpool (2016)

6月4日、土曜日の晩に六本木で見ました。
あまりにくだんなくて時間が経ったらすっかり忘れてしまいそう(ほめてる)なので、先に書いておく。

Deadpoolが路上で悪い奴ら(たぶん)と派手にドンパチしているところから始まって、さて、なんでこんなことになっちゃっているのでしょう?  ていうのをDeadpool自身の口からぺらぺらぺらぺら、ほんっとどうでもいいことから回想まで含めて追っていく。

Wade (Ryan Reynolds) は特殊工作隊あがりで、悪い奴らをやっつける悪い奴で、バーにたむろしながらちゃらちゃら好きなように生きてて、そこで出会った彼女とも幸せに日々を暮らしていたのにいきなりぶっ倒れて癌だよやばいよ、て告げられてがーん、てなって、そしたらどこからともなく怪しい男が現れて治してあげよう、ていうから行ってみたら縛りつけられてどんなことされても - 腕切られたって生えてくる - 死なない改造人間にされちゃうの。 

そこをなんとか抜けだした彼は、自分をこんなにしたFrancis (Ed Skrein) をやっつけるべくコスチュームをしこしこ作ってそれにDeadpoolて名前つけて敵を追い詰めて行って、それを遠くで見ていたX-Men軍団(銀メタルゴリラみたいの - あんま強くない - と小太りのSinéad O'Connor)も参加して、で冒頭のシーンに戻ったところでまんまと敵を逃して彼女を人質に取られ、いかにも決闘場みたいなとこで再戦、という絵に描いたような展開に。

基本はやや古め柔めのヒップホップにのって、ちゃらちゃらべらべら独り語りをしながら人を人とも思わないやり方(R指定)でばたばたぐさぐさやっつけていって、最後はぜったい死なない奴同士の殺し合いになるの。
それだけなの。

こういうスーパーヒーローものにつきものの善悪の境界とか責任とか使命とか、そういう議論ははなからあっさり捨てていて、基本は彼女のところに戻りたい、ていうのとぼろぼろにされた顔を元に戻したい、それだけで邪魔な連中をばっさばさ殺していく。 それについての説明や理由づけや言い訳は彼自身がぜんぶ適当にやってくれるので問題なくて、つまりは狂った世界の狂ったひとのモノローグでしかないのだが、主人公のそういう開き直り - 自分なんて便所の落書きみたいなもん - が止まらないおしゃべりとか音楽と重なって小気味よさ潔さを生んでいることも確かなのだった。

ほんとは"X-Men Origins: Wolverine" (2009) の最後のほうに出てきたWade の続きっぽく描かれるのかしら、ていう期待もあったのだが、欠片もなかった。 あれの続きも見たいのになー。
Ryan Reynoldsさんは万事快調、”Green Lantern”のヒトにならなくてよかったねえ。
これ、少し前だったらJim Carreyがやったのかも。

全体に90'sへの言及がいっぱいな気がして、そういうもんなのかしら。 Limp BizkitとかSpin Doctorsとか。 Spin Doctorsなんて今のみんなわかる? 

でも、いちばん強く頷いてしまったのはエンドロールのあとのおまけ映像だった。 あそこでぜんぶ氷解して納得した。 あの映画がおしゃべりでメタ学園青春ものをやったのと同じやり口で、この映画はメタスーパーヒーローものをやろうとしたんだね。

[film] 金色夜叉 (1937)

5月7日の昼間、渋谷の清水宏特集でみました。 

英語題は、“The Golden Demon”。
原作は尾崎紅葉の明治時代の大作で未完で、読んでない。
Wikiとか見るとものすごい数映画化されているのね。

冒頭、大人数が向かい合って百人一首をしていて、髪の毛ぺったんこ分けのむっちりしたメガネおやじがものすごくわざとらしく取り間違いしながら触ったりはしゃいだりしてて、横に並んでいる気になる女性を車で送ってあげて、それがお宮(川崎弘子)で、彼女にはずっとつきあっている大学生の貫一(夏川大二郎)がいるのだが、彼女は家のことを考えてさっきのむっちりでぶの富豪 - 富山(近衛敏明)と結婚するの、ってさらりと告げて、貫一はがーん、て衝撃を受けてあの有名な貫一がお宮を足蹴にするシーンになるのだが、ここはものすごくあっさり普通の道路上で遠くから。

で、ショックで大学をやめちゃった貫一は、血も涙もない高利貸しのとこに就職して、同級生 - 笠智衆とか佐分利信とか - に請われても殴られても、上役高利貸しの三宅邦子に言い寄られても微動だにしない取りたてマシーンになって、高利貸し業まっしぐらで、そうしているうちにお宮が嫁いだ富山の家の経営が悪化して、貫一のところからお金を借りることになるのだが。
でも間違っても奇跡の大逆転は起こらないから、貫一ったら ... なの。

経済格差とロマンスの間の壁、という極めて現代的なテーマに切り込みながらも一度壊れてしまった愛はやはり戻らないし、ついてないことばっかりだし、貫一の明日はどっちだ?  なのだがあんましかわいそうなかんじはしない。 やっぱし、別れを切り出されてついかっとしたからって女の子をぶったり蹴ったりしたらいけないのだし、あのまま友達でいれば彼女の家が危機になったときにうまくよりを戻せたかもしれないのにねー。 でも世の人の大多数は哀れ貫一 & ひどいぞお宮、になっちゃうのだろうか。

ていう、とっても教訓たっぷりのお話しだった。
結局いちばん得だったのはむっちりでぶ野郎だった、ていうとこも含めて。
百人一首ではぐいぐい攻めるべし、と。

でも、なにがGolden Demonなのかしらん。

6.07.2016

[film] The Revenant (2015)

5月5日の子供の日の晩、六本木でみました。
なんで子供の日かというと、熊がでてくるからだよ。

19世紀の米国に実在したHugh Glass (Leonardo DiCaprio) がインディアンの妻(回想のなかで白人に殺されている)との間にできた息子と共に毛皮商の隊列にはいって旅をするうち人とか熊とかに襲われたり、そのうち息子も殺されて、自分も死の淵を這いまわりながら息子を殺したJohn Fitzgerald (Tom Hardy)をえんえん地の果てまで追っかけていくの。 それだけなの。

カメラはずっと血まみれになって震えたり凍えたり吠えたり呻いたり瀕死の、でも死なない死ねないHugh Glassに密着して、雪山とか冷たそうな川とか原野とかに潜ったり這いまわったり、ぜんたいとしてはものすごくしんどい。 なんのためにそこまでやってるんだあんたら、とおこたにみかんの気分に、とってもなる。

そういう映像のスペクタクルとか、ついてない痛いしんどい災厄のオンパレードとか、そういうのを見る(愉しむ)というのもあるのだろうが、どちらかというと、そこまでやらなきゃ、いかなきゃいけなかったんだろうなー、ていうあたりにしみじみしてしまうのだった。 そこってとっても微妙な一線で、あと一歩でつきあってられんわ、になるところを半端なエモとか演技とかがどうでもよくなるくらいのところまで引きずり回して、まだ生きてるのかしら? てそうっと棒でつんつんしたくなるかんじ、というか。
(オスカー主演賞を彼にもたらしたのがあの熊であることは間違いない)

復讐の鬼と化して情念のみで生き残って、みたいなのが通用しないぱりぱりに凍てついた原野でどうやって生き抜いたかというと、殺した熊のお腹に入ったり、崖から落ちて死んじゃった馬のお腹に入ったり、つまりお腹にもぐって皮を纏って再生する - 戻ってくる - んだねえ、ていうあたりと、主人公の生業が毛皮商人、ていうのとか、人の違いなんて皮の厚い薄いとかだけなのかも、とかいろいろ考えさせられた。 

そういう皮を剥がしたりまとったり交換したり、のやり取りの中で作られていった新世界、というところで思い起こしたのがTerrence Malickの“The New World” (2005)で、カメラもEmmanuel Lubezki だし、プロダクションデザインもJack Fiskだし ("The New Woirld"のデザインは彼によるところが大きかったというのは公開当時に彼のトークで聞いた)  失われたなにかが取り憑いて主人公たちを突き動かす、ていうあたりも近いかも。

でもなんだかんだいっても、あの熊だよね。
森で熊さんに出会ったら、きっとあんなふうにされちゃうんだわ、て震えながら思ったし、あそこで熊があと少しだけ踏みこんでがぶがぶしておけばあんなことにはならなかったし、映画だって半分の時間で終わることができたのにさ。   あのぶっとい毛だらけの肩とか腕とか、いいなー。すごいなー。 (いったいなにをしたい?)

"The Revenant2"は、言うまでもなくあの子熊たちが復讐にくるの。 ダブルで。

6.06.2016

[film] 家庭日記 (1938)

また戻って、シネマヴェーラの清水宏特集。 5月5日の午前にみました。
なにを見たっておもしろくてしょうがない。

学生の頃の佐分利信が、学業を続けるために恋人の三宅邦子とさばさば別れて東京に渡って高杉早苗のとこに婿養子入りする。 他方、佐分利信の親友で医者のぼんぼんの上原謙は親の反対を押し切ってカフェの女給の桑野通子と駆け落ちして、やや勝ち組っぽい佐分利信の夫婦が東京にやってきた上原謙夫婦(+子供)の住居を近所に世話して、そこから始まる二組の夫婦の交流とか暮らしぶりあれこれを  -  そんな家庭日記。

佐分利信組のほうはお上品でハイソで、陽気で豪放な桑野通子がドライブする上原謙組はやや抑えめにしたいところなのだが、桑野通子がいいじゃないのー、ておとなしい高杉早苗を映画とかいろんなとこに引っ張りまわして(なぜかふたりは仲良しに)、そうしているうちに美容室をやっている独り身の三宅邦子にぶつかって、なんとしても自分の過去の恋愛は隠蔽(して妻にいい顔)したい佐分利信の気まずいうろたえぶりがなかなかざまあみろなのとか、佐分利信の友人のデブでビルのオーナーが三宅邦子に美容室のフロアを用意してあげるから結婚させろていう、とか、病気で夫の実家に拉致隔離されてしまった子供の奪還に向かった桑野通子がじじいと対峙するのがたまんないのとか。

38年に書かれた「家庭日記」がいまだにこんなにも生々しくスリル満点なのはなんでなのか?  たぶん、ここに出てくるオトコの目線や価値観がぜんんっぜん、変わっていないからかも。その価値観の根っこにあるのは「家庭」とか「家」というやつで、なんでみんなそこにしがみついたり、それを/それで、なんとかしたりしようとするのだろう、と。

子供を引き取りに来た桑野通子と高名な医師であるらしいくそじじいのいう「大事な孫をお前のやうなやくざな母親の元で育てさせてたまるか」ていうがちんこのにらみ合いと切り返しのすさまじさ - 字幕つけるんだったら極太で「ザ・家父長制」としかいいようのないクソ加減ときたらくやしくて腹立たしくてしょうがなくなる(べつにあんたが… )。

この辺の反省しない、ゾンビのようにそこらじゅうから湧いて出るくそじじい共のとにかくしぶとくてしょうもないことったら、なんなのかしら、てあたまきて、こんなふうにひとの普遍的な善い面(子供たちとか、有りがたうさん、とか)、悪い面を際立たせるのがうまくて、それを他の巨匠のように生の過酷さみたいなとこに収斂させず、日記とかスケッチみたいなスタイルのなかでさらさら流してきゅんとさせる。ていうのがえらいなー、て思った。

[film] Le rayon vert (1986)

6月3日の金曜日の晩、有楽町で見ました。
今やっているロメール特集のなかでは3本目、もう5本見ているのだが、ここから書いてしまおう。

『緑の光線』。上映前に金井美恵子さんのトーク付き。

会場になっている映画館は死ぬほど嫌いな家電量販店の上のほうにあって、エレベーターで上に昇るにしても、反吐がでそうな宣伝音楽の泥屑にまみれないといけない。そうしないとおしゃれなフレンチ・ヴァカンス映画には辿り着けなくて、そうやって映画でうっとり潮風を纏った気分になれたとしてもエレベーターで下に降りてしまえばそれは途端に腐った塩辛みたいな居酒屋臭に変わってしまう。 まあ今、シネコンも含めてふつうの洋画好きが置かれているのはだいたいがこんな状況なんですわ。

この「緑の光線」がリリースされて、ロメールの新作をふつうに見れていた頃はこんなひどくはなかったかも、いやたいして変わんなかったのかも、とか思って、上映前の金井さんのトークでロメールの映画を誰かと一緒に見にいくと、見終わった後で必ず言い争いとか諍いごとになって気まずい雰囲気になる、という話があったのを思い出し、それって映画のなかの世界と見終わった後に現れる世界との間のギャップというのか、なんでギャップが人を苛立たせるほどにそびえ立ってしまうのかというと、それだけ映画のなかの世界が肌に近いところまで近づいてきて五感を覆ってしまうからではないか、とかそういうことを考えた。

今回上映された作品たちは過去何回かの特集(含.米国の)で見ているのばかりだったのだが、思い起こしてみれば、誰かと一緒に見たやつなんて1本だってない(いばるな)。 だからなんの諍いもお咎めもなしに自分の思い込み通りにロメールを丸かぶりで咀嚼してしまったわけで、それって中長期的にみてじぶんの幸せに貢献したことになったのだろうか?  なんか決定的な過ちを犯してしまっての今、なのではないだろうか?

とか、楽しかったトークのあとに背中に変な汗をかきつつ再見した「緑の光線」。
友達と行く予定だったヴァカンスにふられ、焦りながら入れてもらった友人の家族旅行では周りにうまく馴染むことも自分を軟化させることもできず、すぐに泣いちゃってそれでも独りじゃいやなのだめなの、ってめそめそし続けるヴェジタリアンのデルフィーヌ。 シネヴィヴァンで公開当時(もうだいたい30年前よ..)に見たときは、そうだよねえわかるよ、がんばれデルフィーヌ! だったのだが、今回再見すると、さすがにやっぱし、デルフィーヌ、それじゃちょっとまずいかも、めんどうな女になっちゃうかも、だった。 でもそう思う反面で、この後の90年代以降にはなにがなんでもまみれて繋がれ、みたいな変な抑圧勢力が来ることになっちゃうので、これはこれでいいんだ、いいんだよデルフィーヌ、になった。

でもそういうところに落着して下界に降りると引っかき傷だらけで改めてうんざりすることになるんだねえ...  もうそういう歳でないことはわかってるけどさ。

最初に見たとき、実は緑の光線が見えたか見えなかったかがすごく微妙で心配で、ああ自分はこの先幸福になれないのかもしれない、だったのだが、今回の上映ではとってもよく見えた。 それだけでも行く価値あるよ。 人生でそう何回も見れるもんじゃないんだよ、緑の光線は。

金井さんのトークに戻ると、ロメールの映画はワイズマンのと同様、通い始めると止まらなくなって中毒になる、というのはとってもよくわかるのだった。 あと、「モード家の一夜」を見たあとでFrançoise Fabianを貶してしばらくしたら早死にしちゃった編集者のはなし(あのひとね)とか、そのまま小説になりそうだわ。

それにしても、これのま裏でジャック・ロジエの「オルエットの方へ」をやっていたなんて。
しかも、こっちのほうがおもしろいのよ... ってトークで言っちゃうなんて(まあ、そうだけど)。

どうでもよいけど、会場で某芥川賞作家を久々に見た、と思ったらトークが終ったら帰っちゃいやがるの。

6.05.2016

[film] Noma My Perfect Storm (2015)

5月4日の夕方、新宿で見ました。『ノーマ、世界を変える料理』。

Best Restaurant in the Worldに何度も選ばれているデンマークのレストラン - Nomaのシェフ - René Redzepi の4年間を追ったドキュメンタリー。 マケドニアからの移民としてデンマークに越してきて、地元の食材だけを使った料理でのしあがって栄光の座を掴んで、ノロウイルス問題とかにぶつかって、立ち直って、波瀾万丈でたいへんなの。

"El Bulli: Cooking in Progress" (2011)でも“Buscando a Gastón” (2014)でもこの映画でも、料理/料理人をネタにしたドキュメンタリーって、その料理人がどういう経緯や研鑽を経てその考え方とか思想に至り、そういう料理を、その一皿を、そのレストランを作った/作るようになったのか、を描くものだと思っている。 世界一とか予約が取れない(日本に来たとき? 行けるわけないじゃん)とかいうのはその結果なのでどうでもよい。

で、あともうひとつ重要なのは、そのお皿の何(素材、配置、色彩、焦げ目、フォーム、湯気.. )がそんなにおいしいと思わせるのか、ていうことなの。 食べてみなきゃわからん、はそりゃそうだろうけど、それじゃあまりに貧困だし、そこで想像力を駆使したいのだし、そこに映像はどこまで迫って頭のなかを泡立ててくれるのか、ていうことなの。 食のドキュメンタリーはその角度から食い込んでほしいんだけど。

例えば、黒アリさんが泡のなかでもそもそしているお皿(「野菜ブーケと黒アリのディップ」だって)があったけど、ああいうのをおいしいと思わせる、食べたいと思わせるなにかって、なんなのかと、そこに映像で答えてほしい。弟子たちが試作を作って延々NGを出し続けるシーンはどのシェフ映画にもあるけど、そういうプロセスがあるからおいしいのだ、ってそんなのあたりまえだよね。 作家やデザイナーの頭のなかをのぞくような話と同じで、すべての秘密はシェフの舌の上、なのだろうか? そうじゃないかたちで、加工や熱処理、それらに掛ける時間を追っていけばできると思うんだけど(そんなことしたら秘密が、なんて言うケツの穴の小さいやろうは世界一を名乗る資格なんてないね)
ワイズマン先生にやってみてほしいんだけど。

というわけなので、これを見てなにがなんでもNomaに行きたい食べたいよう、にはならなかったの。
恋愛と食べものに関しては映画を見て恋愛したくなったりお食事したくなったりはぜったい必要で、どちらもそういう世界への扉にならないといけないと思うの。
「世界を変える料理」ていうのがあるのだとしたら、まずはそこからでしょ。

まあ、“Best Restaurant in the World”なんて言ってもZagatとかオスカーとかキネ旬のランキングとかとおなじであんまし、だよね。あのリストに入っている日本のレストラン見ただけでも。

6.03.2016

[film] 蜂の巣の子供たち (1948)

5月4日、『女醫の記録』に続けて見ました。英語題は”Children of the Beehive”。

タイトルが出る前に「この映画の子供たちにお心辺りの方はありませんか」て出る。
この映画の子供たちは、ほんとうにそういう子供たちなの。子役とかじゃないの。

敗戦直後の下関駅に復員兵(ルースターズの花田くん - 若い頃の - に少し似てる)が降りたって途方に暮れていて、そのまわりに浮浪児が8人ばらばらといて、その子らを鵜飼いの鵜にしてピンハネしている片足のちんぴらがいて、家族を失って行き場のない女がいて、出てくるのはこれくらい、全員することも行くとこもなく佇んでいて、復員兵はとりあえずどっかに向かうことにする。 その途中でおなじようにどっかに行くことにした子供たちと合流したり離れたりしているうちに一緒に働くことの楽しさを知ったのか、なんだか家族のようになっていくの。
いろんなエピソードが描かれるのだが、基本は道の向こうとこっちで「おおーい」とか手を振ってくっついたり「じゃあなー」て別れたり、一緒にものを運んだり運ばれたり。

家族でもなんでもない居合わせたばらばらの人々が別の場所にひたすら移動していくだけの映画をロードムーヴィーと呼ぶのか、俳優でないただの素人に台詞を言わせて演技させるのをネオレアリズモと呼ぶのか、そんなのまったくどうでもよいくらい、この映画に出てくる人たち、子供たちはあの場所にいて生きて動いていて、それが記録されていて、それが記憶に刻まれて、それで十分なの。

病気になった子が山の上の景色を見たいよう、見たら治ると思うんだ、ていうので仲間がおんぶしてがんばっててっぺんまで運んだら死んじゃってた、て悲しすぎるけど、当時はそういうのいっぱいあったんだろうな。 彼が最後にみた景色がなんだったのか、もちろんわからない。

主題歌も耳に残ってすばらしい。
『蜂の巣蜂の子ぶんぶんぶん。 朝から晩まで花畑~ 花から花までお使ひだ~』 ていうの。
『とべない沈黙』 (1966)を少し思いだした。あれは蝶が旅をするお話しだったけど、これはぶんぶん固まって飛んでいく蜂の子たちのお話しで。
それにしても、冒頭の字幕をみて、子供たちのために作ったであろうこの歌をきくと、清水宏ってなんて偉いひとだったんだろう、て思う。


ああ、Dave Swarbrick先生が …  ご冥福をお祈りします。 ありがとうございました。