3.30.2014

[art] ハイレッド・センター:『直接行動』の軌跡

22日、パラダイスの希望を見たあと、松濤美術館まで歩いていって、見ました。 よい天気だった。

わたしの美術史観の主要成分は、ジョゼフ・ラブ師の西洋美術史講義と、83年のアールヴィヴァン誌のフルクサス特集、84年のPARCO出版局の「東京ミキサー計画」とStudio200での荒川修作の講演と、60年代の美術手帖と、こんなもんなので、だから最近のアートなんてどこがおもしろいんだかちっともわからない。 というくらい「東京ミキサー計画」はおもしろい本だったの。

だから展示されていた「作品」のほとんどは懐かしいやつらばっかしだし、これらのことを書いたって赤瀬川原平の文章以上に核心もおもしろさも伝わるとも思えないし、であんま書くことない。
ハイレッドセンターはハイレッドセンターで、ミキサー計画を扇動した怪しく不遜な人たちで「作品」ときたら紐とかクリップとかレントゲンとかお掃除とか梱包とかお札とかよくわかんないビラとか、ほれ、なにしろ「直接行動」だから。 作品(メディウム)を介した間接じゃないから。パンクだから。すごいんだから。

いろんな数値化とか可視化とかカプセル化されたオブジェとかリンク(紐)とかパッケージング(梱包)とかいろんなコピーとか贋とか増殖とかテロとかハッキングとか、当時から50年後のネットとクラウドとビッグデータの時代を、ITが生活をとっても便利に豊かに繋いでくれる腐れた世界を予見していた、というか東京ミキサー計画は達成されたのだとしか言いようがない。 いまや世界ミキサー計画の時代なのだと。 そしてそいつは誰が?

フルクサスもそうだが、当時のパフォーマンスを記録したモノクロの写真とかグラフィックスのありえない面白さときたら。 してはいけないことあってはならないことを大真面目に実行するその姿、その瞬間が刻まれる、世界が歪んだり撓んだりするその瞬間、その軌跡の生々しさ。
これって日々刻々デジタルの「コンテンツ」で溢れかえる今の時代にはありえるのかどうか、とか。

あと、なんといっても、壊れたAIのようにぼけとつっこみを繰り返す赤瀬川原平のテキストが進行中のドキュメントとして内部から発信されていたことも大きかったんだねえ。

で、今日見てきた工藤哲巳回顧展と併せて60年代初てすごかったのね、と今更ながら。

3.29.2014

[film] Paradies: Hoffnung (2013)

22日、土曜日の昼に渋谷で見ました。
受付で、「パラダイスの希望をください」ていう。

「愛」でケニアに行ってしまった母テレサの娘のメラニーが、預けられていた「神」の伯母アンナ・マリアの家からダイエットキャンプに出かけるところから始まる。

メラニーは13歳、じゅうぶんぶくぶくで、ソファに転がって携帯ばっかり見ている、そんな娘で、そういう子供たちがキャンプにはいっぱいやってきて、相部屋寮生活、食餌と運動と規則正しい禁欲生活を強いられる。 でもそんなの耐えないふうに生きてきたガキばっかしだからゆるゆる締まらなくて、だから厳しいおじさん教師がついて監視してて、破る→お仕置き、が繰り返される日々。ときめきゼロの学園ドラマ、なかんじ。

で、健康診断でやってきた常駐の医師ジョゼフにメラニーはぽーっとなって、初老のジョゼフは娘に接するように遊んであげたりしていたら、メラニーは本気になって保健室の入り口とか彼の車のとこで待ち伏せしたりするようになる。 けどやっぱりジョゼフからはやめるように言われるし、ケニアにいるママに電話してもぜんぜん電話に出てくれないし。

母テレサの「愛」に向けた、伯母アンナ・マリアの「神」に向けた過剰な愛と傾倒 - 叶えられないが故に燃えあがるばかりで止まらない - はメラニーにおいても同様に反復されるのだが、母と伯母のケースが、まあ自分にはないよね、なのに対してメラニーの空振りっぷりはわかんないこともなくて、彼女のやっちまった ... にも次がきっとあるよ、てやさしく見てあげることができるの。 そういうとこも含めての「希望」なのだろう。 がんばれメラニー。

しかし子供たちがお仕置き受けて床にうつぶせで転がされているとことか、トドみたいでかわいい。
メラニーのつんけんした無愛想な態度ぜんぱんは「17歳」のイザベルを思い起こさせたりもするのだが、メラニーが17歳になったら果たしてイザベルみたいになるのかどうか、暖かく見守ってあげたい。

こうしてパラダイス3部作を全部見たわけだが、当然のようにパラダイスぽいヴィジョンを見せてくれるわけではなくて、どれも社会のはじっこでじたばたする人々の生の臭いが強烈に漂ってくるようなやつで、パラダイスていうのはそういう場所にあるんだからほっとけ、みたいな温かいような冷たいようなかんじが気持ちよいのだった。 ファスビンダーの数倍倫理たっぷり。

[film] Frozen (2013) - 3D

21日の金曜日の晩、一本フォーク、じゃない(あーくだらねえ)、日本橋で見ました。

TCXていうのとDolby ATMOSがどんなもんかを見ておきたかった、程度で映画はどうでもよかったの。

まず3Dの予告になってもぜんぜん3Dにならなくて(ついに眼が壊れたかとおもった)、前座のMickyの短編がはじまったところで突然上映中断、人がわらわら出てきて謝って、復旧に10分以上かかったの。
シネコンで上映中とつぜんフリーズ、はこないだのサンフランシスコの"Winter's Tale"のときにもあって、このときは終わってから同じシネコンのタダ券くれた。
日本のお客さんはやさしいよね、復旧・再開のときに拍手してあげるんだから。

音はどう聴いても細くて弱くて小さくて、ほんとは"Let It Go"で脚をどんって踏みこんだとき氷がばきべきばきべきってすさまじい唸りをあげて天まで伸びていくはずなのに、こんなのがDolby ATMOSだとしたらDolby教授が墓場の陰で泣くぞ、ておもってぶうぶう言いながら帰ったら25日になって実はATMOSではありませんでしたごめんなさい、てメールで連絡がきた。 理由がサーバ側のライセンスが切れてた ... って。 2300円も払ってこれだよ。

メールによると、お詫びに「映画ご招待券」をあげるから劇場で従業員に声をかけてください、と。 でもきっと担当のひとにあたるまでたらいまわしでいろんな条件制約たっぷりで結局使えないんだよ。 くだんないCM(ほんとに苦痛だ、なんだあれ)ばっかり流してないで、ごくふつうに音と画質をモニターするひと置いとけ、だわ。

というわけで前回2Dで見た"Frozen"は3Dでも不完全なまま、完璧な"Frozen"を見ることは凍結されてしまったのだが、それでもべつにいいや(映画は)、なのだった。

あのトナカイの挙動って、ほとんど犬のそれだよね、とか、"Let It Go"って歌詞はほとんどロックなんだからボン・ジョビとかにがーん、てやらせればよかったのに、とか、真実の愛が氷を溶かすのだったら、地球温暖化は真実の愛のせいだから、もう真実の愛禁止、とか、せっかく解き放ったパワーを妹が去勢しちゃうお話(しかも王子様なし)だねえ、とかどうでもいいことばかり思っていた。

コレド室町、ってのもなんかださいよね。 30年後にまたおなじような再開発やるのが見え見えみたいな。 で、「それが伝統というもの」とかいうんだよ。

ああ、春なのに花粉と文句しかでてこない。

3.25.2014

[film] 河口 (1961)

21日の昼間、シネマヴェーラの特集 - 「日本のオジサマ 山村聰の世界」で2本見ました。

日本のオジサマなんてそもそもだいっきらいだが、山村聰の顔かたちを取って現れた昭和のあれこれは、なんかおもしろいなあと思って。
最近の日本のおじさん役者達は、みんな三谷幸喜的な馴れ合いじゃれあいのなか、ぬくぬくそこにいるだけで、これはこれで気持ちわるいし。

闇を横切れ (1959)

九州のどこか、漁師とやくざの町で市長選挙の候補者(革新側)が連れ込み宿でストリッパーの絞殺死体の横に倒れているのが見つかり、選挙直前だったので大騒ぎ、当然市長候補は逮捕されるのだが、西部新聞の熱血若手記者(川口浩)だけはなんか怪しいと思って、編集局長(山村聰)の支持も取りつけて調査を始めたら、証人は次々と消されていくし、いろんな嫌がらせを受けるし、掘れば掘るほど怪しいところがいっぱい出てくるの。 警察、メディア、現職市長をはじめ町の有力者ぜんぶを巻き込んだでっかい闇が追っかけてくるかっこいいフィルム・ノワールだった。 

ホテル、新聞社、警察、バー、飲み屋、温泉宿、病院、遺体安置所、運送屋、ストリップ小屋、ぼろアパート、ゴルフ場、などなど、犯罪が起こりそうな現場、犯罪を起こしそうなひと、犯罪でやられそうなひと、などが一覧でぜーんぶ出てくる。 音楽は一切なくて、口笛の「ラ・マルセイエーズ」が聞こえてくるだけ。

熱血若手と叩きあげ敏腕編集局長のやりとりは「おまえはおれの若いころそっくりだ」をはじめ臭いとこだらけで鼻つまみなのだが、それらを表に出してもおつりがくるくらいに展開が力強くて、悪いやつらはどす黒くて、ラストのああやっぱり、な余韻もしびれるの。 もうちょっと救いがなくてもよかったかも、だけど。


河口 (1961)

財界人のお金持ちの妾が李枝(岡田茉莉子)で、お前はもう俺に魅力を感じていないだろう、て冒頭で別れを言い渡されて、そのすぐ後でそのじじいは死んじゃって、彼の美術顧問をやっていた館林(山村聰)の勧めで銀座に画廊を持つことにする。 美術もビジネスも素人だし、資金調達のために関西の会社社長(東野英治郎、さいこう)と寝たり、貿易商の杉浦直樹と恋をしたりいろいろあって大変なのだが、それを横で眺めつつ小姑のように口だししてくる山村聰とのやりとりがめちゃくちゃおかしい。 ふつうこういう依存関係て気づいてみたら恋、みたいになるパターンが多いと思うのだが、このふたりはぜんぜんそうなる気配がなくて、妙にすがすがしい。 そんな美術界ロマコメ、なの。

どちらかというと、山村聰がパトロンのお金持ち役だと思うのだが、そうではなくて、フェロモンゼロの冴えない中年男で、しかも中味はおばさんで、基本は美術のことしかあたまにない。

館林の紹介で知り合った建築家(田村高廣)との恋が最後の切り札になるか、だったのだがそれも叶わず、電話口でぴーぴー泣き崩れる李枝に対し、美術品のセリ落としでいまそれどころじゃない - 「佐伯があとちょっとで落ちる!」とか - 館林との間に横たわる河口のようにでっかい溝がやたらおかしい。

館林は外見構わず口わるいしただ美術を見る眼だけはあるオタクで、李枝は苦労してきた分、世渡りとかはうまくてちゃんとしてて、ロマコメの定式だとそういうふたりはくっついたっておかしくないのにそうならないのは、ほんとの現実はそんなうまくいくもんか、ていうのとか、岡田茉莉子は幸せでうっとりしているよりも、困惑しつつきーきーぴーぴー騒ぐ姿のほうがだんぜんチャーミングだから、とか、いろいろあるのだろうが、なにを言われてもあの終り方は不思議と忘れ難い情感を残すのだった。 決して交わることのない流れがそれぞれに海に流れこんでいって、それでいいじゃろ、なにがわるい? みたいな。

3.24.2014

[film] Jeune & jolie (2013)

20日の木曜日の晩にみました。 
たぶんの風邪で会社休んだあとだったので微熱状態で。

「17歳」。英語題は"Young & Beautiful"。 そのとおり。いぎなし。

家族と一緒のバカンス中に17歳になったイザベルは、そこで知りあったドイツ人男との間で処女をポイ捨てて、帰りぎわにそいつも捨ててしまう。 そんな夏。

秋になって学校が始まると携帯を使って知りあった男とホテルでおちあい、要するに売春をはじめて、いろんな男共と会っていろんなことをする。
そのなかのひとり - 少し仲良くなった初老のジョルジュとやっている最中に彼は発作をおこして彼女の下で死んでしまい、びっくりした彼女はそのまま逃げてしまうのだが、当然警察がやってきてみんなにばれて、さんざん怒られる。

冬はもうこりごり、というかんじでおとなしく過ごす。 やがて学校でBFもできるのだが、ガキっぽいので適当につきあってやる、程度の日々。

春、携帯のSIMをかつてのそれに戻した途端、「顧客」からの着信で溢れかえる。 そのなかの誰かとジョルジュと会っていたホテルで落ち合うことにすると、そこにひとりの婦人が現れて。

17歳ていうのはさー  とみんなが語りたがるものの、とにかくうるせえんだよすっこんでろ、と思ってハリネズミで不機嫌なのは17歳の当人で、であるが故に17歳というのは永遠の聖域でアンタッチャブルで、という孤高感、孤絶感をしらじらと描きだしていて気持ちよい。 カメラすら寄っていくのをためらう、さらにイザベルを演じたMarine Vacthのクールな美しさも手伝って、きんきんに冷えた爽快さ、みたいのがある。

誰もわるくない、ジョルジュは死んじゃったけどあれは事故だし、自分の身体も精神も自分で守るしなんとかする、お金だって自分で稼ぐ、学校にも行くし家族行事だって参加する、だからほっといて横でわあわあ言わないで文句いわれるすじあいないし。

こういうお話しの主人公はたいてい、ちょっかいを出してくる他者(男とか大人とか)によって痛いめにあってどん底とか地獄を見て、少しだけ成長(陳腐化、堕落)するものだが、イザベルにはそういうのは来ない。 それくらい彼女は超然とできあがっている。 でも最後に現れた婦人(Charlotte Rampling)とのひと時が彼女の17歳に別のかたちを与える。 それは緩く長く引き伸ばされたどんづまりで結局救いはないようにも見えるし、17歳の自分が別の身体(死んでいるひとも生きているひとも)を介して別の時間(猶予?)を与えられた、ようにも見えるし。 婦人は幽霊だったのかもしれないし、あれは50年後の自分だったのかもしれないし、彼女は夢を見たのかもしれないし。

四季がぐるりとまわって、なにかが戻ってきたように思えるラストがすばらしい。  映画はなにもしていない。 彼女が若くて、美しい、だけ。

[film] Rush (2013)

16日の日曜日の夕方、有楽町でみました。
前日に「パラダイス」を2本続けてみて、なんかぐったりしてなんも考えなくてもいいようなやつ、とかおもって。 これなら飛行機で一回みているし、車も友情もプライドもよくわかんないから頭つかわなくてよいかも、とか。

1970年の最初から始まった実在のレース屋、James HuntとNiki Laudaのえんえん続いた抜いたり抜かれたりの追いかけっこの歴史。 どっちも自分が世界でいちばん速い、と固く強く思いこんでいるので和解も仲直りもない。
ザイドルだったらこいつらでもう一本"Paradies: Auto" とか作ってしまったかもしれない。

車がなんで動くのか、馬力とかギアとかそういうのすらわからない(NY州の免許はもってた。2度ほどひとを殺しかけて以来運転してない)、ライバルも友情もうざいからいらない、事故死するリスク年間20%のスポーツにじゃぶじゃぶお金使って悪いことだらけなのに誰もやめようとか言わない、この映画が描きだそうとした車スポーツの世界はほんとにわけわかんないわかりたくもないことばかりで、そういう世界を、そういう世界であってもRon Howardは丁寧に切りとってくれる。

雨の飛沫で視界が半分もないヘルメットのガラス越しであっても、数学者の世界や宇宙飛行士の世界を見せてくれたのと同じように、彼らの世界がこんな視界と聴界のなかに没入してあることを我々の前に示す。スポーツや車への愛がそうさせた、というよりも映画への愛が、とかいうのは野暮よね。

Niki Laudaが後の妻となる彼女を車に乗っけて公道をぶっとばすところとかNikiの火傷についてひどい質問をした記者をJames Huntが裏でぼこぼこにするところとか、同じことやってても楽しくないから、とさっさとレーサーをやめてしまうJames Huntとか、軽めのエピソードの置き方もうまいの。

あとはエンドロールでばきばきに流れるHans Zimmerの音がやかましくてすごい。

Niki Lauda役のDaniel Brühlて、WilcoのJeff Tweedyに似てるよね。

3.22.2014

[film] Paradies: Glaube (2012)

パラダイスの「神」篇。 愛をみたあとに神をみる。

妹テレサをヴァカンスに、姪もダイエットキャンプに送り出したあと、レントゲン技師をしているアンナ・マリアの夏休みはイエスさまに100%捧げられている。
寝る前に自身の背中を鞭打つことで人々の罪や穢れの赦しを請い、賛美歌を歌い、聖書の読書会に参加し、昼間はマリア様を担いで電車に乗って移民のおうちを個別訪問して布教活動を続ける。なにを言われてもイエスさまがついているのだからへこたれない。 むしろひどい仕打ちを受ければ受けるほど、イエスさまへの愛は燃えあがるのだった。

そんなある日、エジプトから2年ぶりにイスラム教徒の夫ナビルが家に戻ってきて生活が狂いはじめる。
彼は車椅子生活(結婚当初はそうでなかったことが写真でわかる)でアンナ・マリアの助けがないとなにもできないし、イスラム教徒だから妻は当然献身的に夫に奉仕すべしだし、でも彼女がイエスさまべったりなのが気にくわない。 こうして家庭内宗教戦争が勃発して、互い(の宗教)への嫌がらせが激化して、それはそれはおもしろい。 夫婦喧嘩で宗教喧嘩だから犬も猫もくうわきゃないの。

そもそもなんでそんな犬猿のふたりが夫婦してるわけ ? ておもうのだが、過去にいろいろあったみたいで、そこはわかんないの。 アンナ・マリアはカトリックだから離婚できないし、でもお互いに互いが異教徒だから自分の神のためには命を賭けてだって戦うし相手の神を呪う、って。 どっちかがしぬまで出口はない。

これが和を尊ぶ(けど加虐被虐だいすき)ニッポンの夫婦のお話であれば憔悴しきった妻がひと思いに夫を(だっきん)... になるに違いないのだが、そんな簡単なとこには転がらない。次になにが起こるかわからない緊張感はホラー映画並みであるが。

ここにあるのは夫婦間の決定的な溝、であり人種間のそれであり宗教間のそれでもあって、でも「神」ていうのはそういうのを超越的に解消してくれるはずのもんなんだから... だよね? ね? ていう強い強いコミットをしているのに、それでも神は、ていうのと、それだから神は、ていうのと...   おもしろいねえ。
こうして神は、ヒトは、それぞれを縛りあって、そこに「パラダイス」のようなもの、を顕現させて和解に持ちこもうとする。

「愛」もそうだったけど、テレサとは置かれた場所が違うから、「神」のアンナ・マリアとは宗教がちがうから、わかんないねえ、としてよいものなのか。 いや、もちろんわかんなくてよいのだが、彼らが見据える、追っかけ続ける神 = パラダイスはすぐそこにあるの。 見たくなくたってある。 ナダルがベランダからじっとみつめる家の前の森みたいに遍在している、ていう点では神は愛よか遥かに面倒で厄介で。 それってどうする? なんだよねえ。

とりあえず愛しとけ、でいいの? (... にほんじん)

[film] Paradies: Liebe (2012)

15日の土曜日渋谷、昼間から2本続けてみました。
受付で、「パラダイスの「愛」と「神」をください」ていう。

ウルリヒ・ザイドルの作品は見たことがなかったがヘルツォークやジョン・ウォーターズ先生が絶賛し、ファスビンダーぽいとか言われているのであれば見ないわけにはいかないの。

50過ぎのテレサはでっぷり体型で障害者施設で働きながら思春期の娘(やはりでぶ)を育ててきて、娘と猫を姉の家に預けてひとりケニアにバカンスに向かう。そこは裕福な白人のための典型的な滞在型リゾート施設で、そこで現地の若者に貢いで(彼の体を買って)楽しんでいる親友の話を聞いて自分もやってみることにする。最初は嫌嫌であたしが求めているのは体じゃなくて愛なんだからみたいなことを言ってみるものの、何人かの若者と出会ってデートしたり夜を過ごしたりした後、あいつらの目当ては結局お金なんだわ(そりゃそうだ)てわかるとなんでもいいからやらせろみたいになってきて、でもそんなのだめだし、でもさみしいしバケーションなんだし、とか自己嫌悪に陥りつつ前屈みになって浜辺をすたすた歩いていくの。

かわいそうなテレサ、なかんじも、へんてこグロテスクな西欧人、なかんじもあまりない。
こんなの腐ったニッポンのすけべおやじ達が何十年も昔からアジアでやっているようなことでもある。 テレサが自己の内面を吐きだすようなシーンはなくて、カメラは彼女の背中を少し離れたところから追い続けるだけ。 その黙って歩いていく背中に「パラダイス:愛」というタイトルを被せたときに見えてくるなにかが。

社会の隅っこにいる若くない女と外国人(この場合だと外国人はテレサの方だが)の男の恋というとファスビンダーの「不安と魂」 - "Angst essen Seele auf" あたりを思い起こしたりもするのだが、このドラマには社会的偏見もなければそれを乗り越える意志のようなものも、そもそものベースとしてない/そんなのいらない。 それでも、観光客と現地人という決定的な溝を乗り越えたところに果たして愛は現れるのか、現れてくれるのか、とか。

なにがなんでも、なにかと誰かと関係とか絆とかつながりとかを持たないとやっていられない、やばいとおもう、のってここ20〜30年の症例(ファスビンダーの時代にはそんなのなかった)だとおもうのだが、そのびょうき(達)の向かおうとするところを「パラダイス」と呼んでみたのかしら、とか。

音楽はホテルのバーで5人組によって演奏される軽快愉快なアコースティック・アフリカンで、妙にすっとぼけたかんじが、テレサの空回りを続ける愛の行方と合ってて素敵だったの。

3.21.2014

[film] The Hobbit: The Desolation of Smaug (2013) - 3D

14日の金曜日の晩、六本木でみました。
パート1見てない、原作も読んでない。("The Lord of the Rings"の映画はぜんぶみた)
「すまうぐ」がなにものなのかも知らない。そんなのでどこまでおもしろく見ることができるのか? 
あれだろ、指輪の取りっこ追っかけっこするやつだろ、とか。

ホビットの一行と魔法使いだか校長先生(これはちがう)だかが旅をしていて、半獣みたいなひとに会ったり大蜘蛛族に襲われたり弓矢のひとたちに囚われたり、毛のない凶暴な裸族とかに追われて、人間(善いのも悪いのもいる)にも囲われて、山奥の竜の棲む祠みたいとこで不思議の石ころを探してたら竜が目覚めて大騒ぎになるの。 こんなかんじ? の161分。

善いやつと悪いやつの見分けはすぐにつくし、探しているものは見つからないからみんなでわーわー探すのだし、よいこの知恵と力を合わせれば大抵のことはなんとかなる。 だからパート1見逃しててもだいじょうぶだよ。 おもしろかったです。

逃げるために樽の中に入って川を流されながら二方向から襲われぐるぐるの流れに呑まれての立ち回りのところは楽しかった。 10個くらいの樽と二方向からの追っ手と激流とびゅんびゅん飛び交う弓矢がぐじゃぐじゃに入り乱れて、でも当たるやつには当たるし当たらないやつには当たらない。 あれで死者行方不明者ゼロなのもすごい。

あとは財宝のなかで寝ていた竜の動きとか。 柱がいっぱいの穴のなかで長い首の動きがだんだん速くなっていって、首が喋りながら動くのでこんがらがりそうなのにそうはならず、最後はキングギドラに変態して飛んでいく。 このへんはコンサルタントで入ったGuillermo del Toroさんかしら。

いろんな動物がいっぱい出てくるのがうれしい。 熊ん蜂のまんまる3Dにはきゅんとなった。

そして、毒矢にやられて瀕死のKili (Aidan Turner)が彼を介抱するTauriel (Evangeline Lilly)と恋におちる瞬間に笑っちゃうくらい溢れかえる光と直球の少女漫画描写。 恋も神話も普遍のイメージにぐいぐい回帰していく、そのぶれのなさが頼もしいったら。

弓矢のれごらすは、前よかつんけん性格悪くなっているような気がした。ミランダのせい?

パート3、もちろん行きますとも。

3.20.2014

[film] Lovelace (2013)

9日日曜日の夕方、有楽町で見ました。

"Deep Throat" (1972)の主演女優Linda Lovelaceの生涯をドラマ化したもの。

主演がAmanda Seyfried、彼女を突き落としたDV夫ChuckがPeter Sarsgaard( "An Education" (2009)に続いて若い娘を陥れる)、Harry ReemsがAdam Brody、Hugh HefnerがJames Franco、などなど。他にもSharon StoneとかChris NothとかChloë Sevignyとか、なかなか豪華。 監督のふたりは"Howl"とか"The Times of Harvey Milk"とかを作ったひとたちで、とってもまじめなかんじ。

"Deep Throat"は2005年のドキュメンタリー映画 - "Inside Deep Throat" のときに米国ではちっちゃいけどブームが起こって、そのときに本体も公開されたので、みた。
ドキュメンタリーを先に見て煽られまくっていたせいか、本体はとっても地味なふつーの(いや、ふつうではないけど)映画、ていう気がした。

夜遊びしていたLindaをChuckが引っかけて、仲良くなって結婚して、生活苦からオーディション経由であの映画の主演をやらせたら大ヒットして彼女もセレブになってしまった、というオモテの成功話が前半、後半はその6年後、書きあげた自伝のなかで露わにされた事実の内容確認のため嘘発見器経由で掘り下げられるウラのお話しあれこれ。 後半はひどい話が続くのできつい。

不幸や困難を乗り越えてたくましく生きた女性の映画、といえばその通りだし実際Amanda Seyfriedはものすごくがんばっていて本当にすばらしいのだが、女性をネタにして搾り取ろうとする男達とその産業、こんなのなんで必要なのか、みたいなのがまず来てしまうので、ううむ、だった。
日本だってそうだし世界中どこでもそうなんだろうし、そうでないケースだっていっぱいあるのだろうしそもそもそんなの大きなお世話、なのかもしれないけどさー、とか。

撮影シーンは"Boogie Nights" (1997)そっくりなかんじがしたが、主役が男か女かでもやっぱしトーンは変わってくるんだねえ。

Linda役がOlivia Wildeさんだったらどんなだっただろうか、もうちょっとぎらぎらしたかしら。

3.17.2014

[film] 不気味なものの肌に触れる (2013)

8日の土曜日の昼間、渋谷で見ました。
「不気味なものの肌に触れる」に行ったら二本立てだったの。

5windows (2012)

瀬田なつきの新作は(井口奈己のとおなじく)ぜったいに見る、と決めているのだが、この作品は上映形態とかバージョンとかいろいろあるようで、途中からついていけなくなったのでなんとなく見ないままになっていたのだった。 やっぱし当初の上映形態にしがみついてもよかったかも。
これなら。

横浜の、緑に濁った川と橋、その上でサンダル履きでゆらゆらしている少女(中村ゆりか)、カメラを持った別の少女(長尾寧音)、自転車に乗った染谷奨太、ビルの屋上で下を見下ろしたりふらふらしている斉藤陽一郎、この4人の、周辺200mくらい、2011年8月27日(土)14時50分の前後30分くらい。

14時50分前後の時空をカメラは行ったり来たり返したりしつつ、それが誰の、誰に向けられた14時50分なのか、それが記憶なのか「いまここ」なのかわからないまま、でも間違いなくそこにあった8月27日14時50分の目線や想いの交錯を、スライスを、windowを、こちらに提示してみせる。
それだけで、少年は少女に出会うわけでもないし、恋が巻きおこるわけでもないし、せいぜい屋上から水しぶきが飛んでいったりする程度、真夏の暑さのなか、夏休みの最後のほうで、ひょっとしたら... とか、たしかこのへん...  とか、前もどこかで... 程度の半端でぼうっとした思い(とか期待とか)が自転車を走らせたり、橋の上に立ち止まらせたり、シャッターを切らせたり、花火に火をつけさせたり、そういうことをさせる。

それぞれの挙動にほとんど意味はないのだし、サンダルを履いた少女は幽霊なのかもしれないし、電車のなかにいるのはドッペルゲンガーなのかもしれない、そうであったとしても、14時50分の世界は揺るがない。 少なくとも彼らひとりひとりの頭のなかにある14時50分は永遠の14時50分なのだと。
そこに川と橋を置いて、自転車とカメラと花火と紙飛行機と。

その手口がほんとうに素敵で鮮やかで爽やかで、青春映画なのだとしか言いようがない。
こないだついに公開された"The Myth of the American Sleepover"とおなじくらいの --


不気味なものの肌に触れる (2013)

これも川のある町のおはなし。

河川の清掃をやっている兄夫婦のところのに同居している染谷奨太とデュオでモダンダンスのレッスンをしている彼の友人(石田法嗣)と、その彼女がいる。 兄の同僚が川でポリプテルスていう古代魚を引っかけたのでそれを飼っている。 モダンダンスは上半身裸で互いの肌が触れるか触れないかくらいのところを探る/そういうふうに互いの身体を誘導する、そんなダンスに熱中しているふたりの空気が不気味に曇っていって(ダンスは研ぎ澄まされていって)、やがて事件がおこる。

なんで肌に触れないのか、不気味だから、なんで不気味なのか、肌に触れないから、というループを抜けて「肌に触れる」ということをやってしまったときに事態はどこに向かうのか。 そこに突然あらわれた古代魚の「肌」はどう絡んでくるのか。 そこに順番は、物語はあるのか。

などなどの謎謎が水面まで満ち満ちて水の肌が決壊したところで、続編というか本編 - "FLOODS"はやってくるのだ、と。

黒沢清の"Cure"にあった、気体として漂う災禍を可視化する、ような怖さ、とは別の、濁った液体のなかでうごめく恐怖、肌の向こう側にあるなまぬるい液体の恐怖、みたいのがあるの。
"Friend of the Night" (2005) にもあった、よくわからない暗く禍々しいやつが充満しているかんじ。
登場人物の誰がとつぜん人殺しをはじめてもぜんぜんおどろかないような。

こわいこわいー

[film] Machete Kills (2013)

7日の金曜日会社の帰り、KillKillKillな気分たっぷりで渋谷で見ました。
ここんとこ割とまじめなのしか見てなかったし。

前作を見たのは2010年の9月だった。こういうのの続編にしては時間掛かりすぎよね。
(Sin Cityの続編の方が忙しかったのか、Spy Kidsのようにライフワークにするつもりか)

でも本編が始まる前に続編がどんなのかわかっちゃうの。 ああそっちか、と。

基本は前のとおなじかんじ。 前作の冒頭で妻を殺されてなんかの組織に取っ捕まったのと同じく、これも冒頭で愛するJessica Albaを殺されて自分も捕まって吊るし首になる寸前に大統領から電話が掛かってきてよくわかんない抗争のただなかに送りこまれる。

今回のメイン敵は農民を扇動するやさしい革命家と麻薬組織を率いる狂犬の多重人格者であるMendez (Demian Bichir)で、こいつをやっつけるために送り込んだ大統領(Carlos Estevesを名乗るCharlie Sheen)側でマチェーテ(Danny Trejo)をサポートするのはAmber Heard、その間にいる富豪の武器ディーラーがMel Gibsonで、横で追っかけてきて顔姿をころころ変える謎の殺し屋カメレオン(Walton Goggins → Cuba Gooding Jr. → Lady Gaga → Antonio Banderasていう変態っぷりがひどすぎる)とか、複製がいくらでもいるMendezの手下とか、要するに裏の顔とか複数の顔をいっぱい持った敵がうじゃうじゃやってくるなか、マチェーテだけが頑なに愚直なまでに一枚岩で、でも強くて、なにされても死なない。

今回はマチェーテという存在の唐突感というか異物感飛び道具感が前作よりは薄まっていて、敵のみんなは既にマチェーテの強さ恐ろしさを知っていて徹底的にマークしてくるところが、前作と比べるとちょっとつまんなくなったかも。 あとエロもあんましないし。 腕や首もそんなに飛ばない。

さいご、Mel Gibson組との死闘のあと、とりあえず、というかんじで座頭市になったMichelle Rodriguezさんと共に宇宙に飛ばされてしまうのだが、次作では更に暴れてほしいものだ。
"Gravity"ネタで宇宙に放り出されても死なない、というあたりは確実にやってくれるはず。

あと、Justin Timberlakeは出てくれるかもしれないが、デカプはどうか、とか。
Mark Hamillくらいは出てくれるのではないか。


いろんな粉が飛びはじめて咳が止まらなくて死にそうなので、小さい空気清浄機を買ってみたのだが、床は本と雑誌で埋まっていて置く場所がぜんぜんないのだった。 こまった…


3.13.2014

[film] Nebraska (2013)

3/2の日曜日、新宿で見ました。 年寄りだらけ。

あなたにミリオンのくじが当たりました!ていうマーケティングのDM(自分も最初受け取ったときはどきどきしたものじゃ)を信じこみ、賞金を受け取りにネブラスカに行くんだ、と言い張る父(Bruce Dern)と、もうなに言ってもどう説き伏せても聞かないから連れていけば納得するだろう、と車で連れていくことにした息子(Will Forte)、そのふたりの道行きとその途中、転んで額縫ったり入れ歯なくしたり、かつて住んでいた町 - Hawthorne - に立ち寄って、後から追ってきた息子の母と兄も合流したり。

父はあんまりしゃべらないので、呆けちゃっているのか、まだだいじょうぶなのか、呆けちゃっていることを認識できる程度にはだいじょうぶなのか、そこは明らかにならないまま、よたよた歩く、ビールを飲む、おろおろする、どなる、行方不明になる、それくらいのことはできて、息子がそれをそれなりに受けとめて、その場をなんとかする。

そういうわけで、それは邦題にあるような「ふたつの心をつなぐ旅」とか家族の絆を再確認するようななにか、というよりも、前作"The Descendants"で、 George Clooneyの妻の死が父娘の絆を確かなものにしたわけではなかったのと同じ、むしろ彼らはハワイとかネブラスカとかそのだだっぴろく冷たい土地に刺さっている、刺さらざるを得なくなってあがいている、ように思えて、絆みたいのがやってくるのはそのあと、そう思いたいひとは思えば、程度の。

モノクロのざらりとした画面とその上を右往左往する老人、という絵がはまるのは当然で、更に中年小太り、彼女に捨てられたばかりの冴えない息子も、やけに詳細な昔話と共に悪態をついてばかりの母も、かつて住んでいた寂れた町の親戚知りあい達も、すべてが灰色銀色で朽ちかけているようで、でもだからといって「ニーチェの馬」のような世界の終りがやってくるわけではない。  もちろん、ほんとうは大当たりだった、なんてバラ色の結末が来るわけでもない。

ぜんぶがだめだめで、だめになることがわかっていて、でもなんか動かざるを得ない、それは父が老齢でこんなんなってしまったから、というのではなく、実は若いころからずっとそんなふうだったのだ、というのが地元での昔話からわかってきて("The Descendants"で、妻が浮気していたのを知ってうろたえるのとおなじような)、そしてそれは今の自分の境遇とあんまり違わないのではないか、とか。
で、でも、だからといってそれが同情や共感をよんで「ふたりの心をつなぐ」かというとそうではなくて、それはおんぼろ車の後ろを押すようなかたちのゆったりとした歩みとしてふたりを道端に置き去りにする。 お墓は留まるけれど車は少し動いている、その程度の違いの、どっちにしても置き去り。

それのなにが楽しいのかおかしいのか悲しいのか、だれにもわからないし、わからなくてもいい、そういう場所にふたりはいる。頑なで心を開いたことがなかったふたりが道行きを通して互いを認めあう、そういう日本人が好きそうなドラマではなく、自分(たち)はここで置き去りになったっていいんだ、ということをしんみり決意するお話で、そういう強くもなく弱くもないかんじがとってもよいと思った。

[film] ニシノユキヒコの恋と冒険 (2014)

SFから帰った翌日、3/1の土曜日に渋谷でみました。

普段はあまり見ないタイプの映画なのだが、井口奈己監督のは「犬猫」からずっと好きだし、川上 弘美の原作も文庫で出てすぐ読んだし(もう忘れてしまったが)。

はじめにニシノユキヒコと麻生久美子と小さいみなみがカフェでお茶してお別れしようとしていて、その次のシーンでニシノユキヒコは車に轢かれてしんじゃって、その幽霊(たぶん)が大きくなったみなみ(中村ゆりか)の家に現れて、その幽霊とみなみは一緒にニシノユキヒコのお葬式に向かい、黒服の女性達とか調子のはずれた楽隊の音楽とかで気分が悪くなったところで 阿川佐和子に助けられ、そこから彼女の語るニシノユキヒコの「恋と冒険」が展開される。

おしゃべりおばさん阿川佐和子の語るニシノユキヒコの恋愛遍歴はえらく華々しく生々しくて、それがおばさんの語りであるにせよ、おばさんの声を借りて幽霊が語るにせよ、それだけでなんかこわい。 真夏の昼間からそんなこと。

おばさん曰く、ニシノユキヒコは女性の考えていること求めているものがすべてわかって、それをすぐに実現してくれてうっとりさせてくれて、別れたいときも後腐れなくすっと身を引いてくれて、夢のようにすばらしいオトコだったのだ、と。 そういうふうに、尾野真千子とか本田翼とか成海璃子とか阿川佐和子とかとのあれこれが描かれて、それがどれもすごくすてきだ。 会社の上司である尾野真千子との道端とかオフィスでのいちゃいちゃとか、本田翼との温泉旅行とか、ニシノの住むアパートの隣人である成海璃子と木村文乃と猫(なう)とか 阿川佐和子と料理教室と映画館で、とか。 仕事でも放課後でも週末でもおうちでも、どの時間割、どの時間帯でもそれぞれにきれいな女性達がやってきたりくっついてきたり。 ダブルブックにトリプルブック、二股だろうが三股だろうが。 
ほんと夢のようだわ、次郎長三国志でデートできるなんて。 とか、オフィスであんなことしたいなー、とか。

いいなー、と見るか、大変そうだなー、と見るか、人それぞれいろいろだと思うが少なくとも映画は、それぞれの場面場面、特に出会って火がつく瞬間とか間の空気がざわっと変わる瞬間、なにかがこぼれて溢れだす瞬間、などを見事に確実に押さえていて、それだけでじゅうぶんなの。 恋愛映画って、これだけあればいいの。 これだけを見ていたいの。 運命とか別れとか修羅場とか、友情か恋愛かとか、いらないんだってば。

そんなのファンタジーでしかない、とか言われれば、それはまさしくど真んなかで最初っからそうなのだ、ニシノユキヒコはとっくに死んでいるのだし、それを語るのは喪服を着たおばさんなのだから、という残酷な事実を突きつけられて、でもその残酷さって、つまんない日々の過酷さ残酷さとどれほどのちがいがあるのかどうせ死ぬときはひとりだ、とか開き直る。
我々はそんなふうなことを思って、映画のなかの(たぶん)まだ恋愛を知らないみなみはふうんーと聞いて、我々は彼女に最後の希望を託す。 よくわかんないけど。

ラスト、みなみの家を駆けぬける突風がすべてを浚ってきれいにして、「そして僕は恋をする」モードになるの。 よくわかんないけど。

男優はよくわからんが、女優さん達は、どれもすばらしい。 演技が、というよりもカメラがそのいちばんきれいな瞬間をつかまえる、その瞬間にちゃんとそこにいる、という。

海外版を作るとしたら、ニシノユキヒコはやっぱしJames Francoだろうか。 男友も含めていっぱい出てくるの。 Seth Rogenとか。


ところでこの気圧はなに?

3.10.2014

[film] Dallas Buyers Club (2013)

SFに飛ぶ前の土曜日、2/22に新宿で見ました。 窓口に行って初日だということを知った。
RedBull貰ったけどいったいなにをしろと?

85年のダラスで、電気修理工でロデオ賭博なんかをやっている自堕落なRon (Matthew McConaughey)が怪我して病院に運ばれてみたらHIVウィルス陽性、余命30日おだいじにー、と言われる。 ふざけんじゃねえよ、と、最初は自棄になるもののやっぱり命は惜しいので独自にいろいろ調査して、FDA未認可のも含め薬を調達して自分の身体で試すようになり、その探求はメキシコとか日本とか国境を超えるようになり、やがて同じように苦しんでいるHIV患者のためにDallas Buyers Clubていう薬の調達サークルを立ちあげて奔走する、という実話ベースの。

難病克服(治りはしないのだが)、薬の認可や調達の壁の乗り越え、同じような患者への救済、といった表層の美談から遠く離れたところで、セックスドラッグアンドロックンロール、を生の真ん中に据えた南部ロデオ男の意地とか負け惜しみとか悪態とかが全編に炸裂する。 死に至る難病のやっかいさを描くのではなく、振り回され振り落とされる寸前でぼろ雑巾になっても踏み留まろうとする生を描く。
で、Matthew McConaugheyは、例によって、そんなの当然じゃん、こんなの俺しかできないじゃん、というあきれるくらい軽いノリで痛快にぶちかましてくれる。
(俳優魂、というよりはなんかこいつおかしい...  的な危なさが全開)

80年代のHIV(の一部)が愛を発端として感染していった病であることを考えると、なかなか切ないものもあったりするのだが、そういうウェットなトーンはゼロ、彼を見守る女医(Jennifer Garner)にしても、彼の傍にいるおかまのRayon (Jared Leto)にしても、いたけりゃいれば、程度のものでしかない(ふうに見せている)、それくらい彼の生、生きたい、という貪欲さが突出してある。いる。

でも、それゆえに蜻蛉のようなおかまのRayonが輝いていて、ぎすぎすと蜘蛛女のキスのかっこ(William Hurt)して、マーク・ボランを抱きしめるように聴いているとこなんて泣きたくなるくらい美しい。Ronのはったりに満ちた生は、たぶんあったのかもしれないし、なかったのかもしれない(割とどうでもいい。がんばってくれ)けど、Rayonは間違いなくあの恰好でそこにいた、というのが刺さってくる、そういう描き方をしている。

カウボーイにロデオにピエロ、アメリカ西部のシンボルを嘲笑うかのように襲いかかる病の渦、それを非合法の薬の山で迎え撃とうとするはみ出し者達の群れ - そいつらの名はDallas Buyers Club。 そんな具合に(あえて)薄め軽めに描いているのはよかったかも。

しかしこれがオスカーの主演と助演の男優賞の両方獲るとは思わなかったねえ。
アカデミー会員、どれだけこういうドラマ好きなんだ、て。

メキシコの闇医者役でGriffin Dunneが出ていた。ひさびさー。


関係ないけど、Merge 25thの1月分2月分のシングルが届いた。うれしい。
でも45回転にする機械がまだ届いていないのだった...

3.09.2014

[log] San Franciscoそのた2 - February 2014

San Franciscoのその他あれこれ。

今回は時間がなかったのでバスも電車も、ケーブルカーも乗らなかった。 ぜんぶタクシー。 土地勘薄れているし道が入り組んでいるし坂は多いし、しょうがない。

24日の夕方に着いて荷物置いて、Valencia stにあるAquarius Recordsに行った。水瓶座としてはおさえておきたいところ。 

ここ、「死ぬまでに行っとくべき27のレコード屋」にも入っている (...けど渋谷のタワレコは違うよね)

http://www.buzzfeed.com/mariasherm/best-record-stores-around-the-world

数はあんまりなくて、"Local"とか"Vintage"とかいうセクションと普通のロックと、あとは現代音楽とメタルとアバンギャルドと、あっぱれな偏りっぷり。あとは昔のアーケードゲームが2台、Zineがあり、Melvins周辺のすばらしい手刷りのポスターがいっぱいあった。ポスター、ほしいのあったなあ。

Lambchopの再発"Nixon"とか、よくしらない現代音楽のとか、Altamontの7inchとか買った。

夕闇に包まれる手前のふんわりした暗さが居心地よくて離れ難いお店だったのだが、時間ないので再びタクシー捕まえて、North BeachのCity Lights Booksに行く。

本棚のレイアウトとか幅広さとかならMcNally Jacksonとかのが上かもしれないが、ここの地下に降りて行くといつもなんだかほっとする。 いろんな人のいろんな本が沢山沢山あって、それらがそうっと木の床とかに守られているかんじがして、本のシェルターなんだとおもう。

(関係ないけど、最近の東京の街の本屋、なんであんなにうるさいの? がちゃがちゃした宣伝音とかうざいポップとか。とっとと出てもらって客の回転を上げようとしているの?)

Edmund Whiteのサイン本とか、映画"Black Power Mixtape"の資料本とか買った。
雑誌だとbitchのfood issue、BustのLove & Sex issueとか。
これも雑誌で、Radio Silenceていうのがあって。"Literature and Rock & Roll"だって。

http://www.maintainradiosilence.com/

あと、仕事の会場の近所にChronicle Booksのブティック(本屋ていうよりはブティックだな)があって、きれいな本ばかり並んでいていっぱい欲しくなるのだが、Lesley M. M. Blumeさんの"Let's Bring Back"のシリーズとか買った。


食べ物かんけい;

普段は朝食食べないのだが、こっちにいると日本の深夜時間に起きることになるのでお腹減っていて朝食屋を探すことになる。 ホテルで食べればいいのだろうが、西海岸はパンとかおいしいし(東海岸よかおいしい気がする)、いろんなベーカリーを回るのもよいかも、と。

火曜日の朝は、Tartine Bakery。 普通の通り沿いにあって、朝7:30からやってる。
棚から欲しいもの頼んで食べたいひとはテーブルに持っていって食べる。でっかいバットに具がてんこもりのブレッドプディングにも惹かれたが、ふつうのハムチーズのキッシュとクロワッサンにして、それだけでなんかものすごかった。 東海岸であのレベルのキッシュって、あんまないし、クロワッサンもばりばりもよくて。
あと、ガラスケースのなかにあった、団扇みたいにでっかいクッキー。 この次きっと。
こんなお店が近所にあったらなー。毎朝くるのになー。

ここの分厚いレシピ本、Chronicle Booksから出ているのね。

水曜日の朝は、雨だったがビストロのThe Butler and the Chief というど正統ぽいフレンチビストロでそばクレープいただいた。 クレープおいしい。 クロワッサンはちょっとだけぶかぶかだったかも。

木曜日の朝は、Craftsman and Wolvesでグラノーラたべた。

http://www.craftsman-wolves.com/

粒が粗くてでっかくてがりがりのグラノーラにヨーグルト、その上に赤ぶどう、洋梨(たぶんバートレット)、クレメンタイン(みかん)が乗っていて、すんばらしいコンビネーション、こんなパーフェクトなグラノーラ椀はじめてかも、ておもった。 クロワッサンはTartine Bakeryのよりやや小ぶりで、でもぱりぱり感は申し分なく、こっちのバターのがやや高級かも、という気がした。

店の壁に写真と言葉(チャーチルとか)の引用のカードがタイルみたいに貼ってあって、そこにアーティストとアルバム名だけのカードがランダムに並んでいる。
それがねえー、Buzzcocks "Singles Going Steady", Joy Division "Closer", PJ Harvey "Rid of Me", Metalica "Master of Puppets", Deftones "Adrenaline", Spoon "Girls Can Tell" などなどなど。

(そういえばお店のシンボルとか、バンドのそれだよね)
  
こういう人たちのお店でありグラノーラなんだからね、悪いわけがないよね。
グラノーラの袋とクッキー2種類かった。もったいなくて袋開けられない。

この隣にはかのDandelion Chocolateがあり、同じValencia沿いにAquarius Recordsもある。
SFに住むならこの通り沿いだな。


月曜の晩、ちょっと高級なとこにも、ということでQuince(マルメロ、だよ)っていうAmerican - Italianのお店にいった。 デザートまで入れて5皿のWinter Menuていうプリフィクス。
3皿めのパスタ - Cappelletti スモークしたリコッタとビーツが絡まったやつがとんでもないのと、全体にシトラス系の使い方がすばらしかった。 シェフはChez Panisseにもいたひとで、つまり、Chez Panisseに行くまではしねないということだ。

他にもなんかあった気がするが、ないか。

3.07.2014

[log] San Franciscoそのた1 - February 2014

SFからの帰りの飛行機では、映画3本みました。
行きの便では見れなかったし、荷物がどうのでなかなか飛ばなかったのと、あばらが痛くてあんま寝れなかったのと。

About Time (2013)

”Love Actually” (2003) とか"The Boat That Rocked" (2009)(今思えば、PSHのいる数少ないコメディとなってしまったね)のRichard Curtisによる英国産ロマコメ、かと思ったらファミリードラマだった。
Tim (Domhnall Gleeson)は21歳になったとき、パパ(Bill Nighy)にうちの家系の男子には過去(過去だけ、未来不可)にタイムトラベルする能力がある、と言われる。 クローゼットとかの暗いとこで両手を握りしめて戻りたい場所と時間をイメージすればよい、と。 ただし大きな歴史は変えられないし、バタフライエフェクトもない。 そんな都合のいい話あるかよ! なのだが、やってみたらほんとうにできてしまい、彼女(Rachel McAdams)との出会いとか初体験とか仕事のミスとか、うまくいかなかったところをぜんぶ微調整してまんまとやって、やがて彼女を妻にして、子供も生まれて、でもやがて明らかになる悲しい事実も。 

今回のはBill Nighyのパパの、パパと息子のおはなしで、切なすぎてそんなのずるいよ、なかんじ。
あと、結局のとこ、日々を噛みしめつつ大切に生きよう、みたいなくさいださいテーマにおちてしまうのだが、英国でこれをやってもそんなにださくならない気がするのはなんでなのか、いつも謎だねえ。

Rachel McAdamsさんはいつものぶりぶり、であるが、これが当初予定されていたZooeyだったらどうかなあ、とちょっと思った。

Tim役のDomhnall Gleesonくんは、映画版の"Brooklyn"でJimをやるのね。 わるくないかも。

お葬式にNick Caveを流すというのはよいアイデアだねえ。- "Into My Arms"
他にはThe Waterboysの"How Long Will I Love You"のカバーとか、The Cureの"Friday I'm in Love"とか、きゅんきゅんくるやつばっか流れる。


The Counselor (2013)

見るのを忘れていたので。
原作がCormac McCarthy なので、もうぜんぜん、すっからかんに救われない誰も助けてくれない。正義の味方なんてない。(マチェーテもデンゼルも現れない)
なので当たらなかったのもわかるのだが、画面と音はすんごくゴージャスで痺れるくらいにかっこよく、どこを切ってもなんかのコマーシャルフィルムみたいのにしか見えないところがきついかも。 そのフィルムの登場人物としてのMichael Fassbender もBrad Pitt もぴかぴかすぎてぜんぜんかわいそうに見えないし(それはそれでよいところがまた..)。
でっかい画面で見るべきじゃった。

どつぼにはまった法廷弁護士の地獄行き。 もっとごじゃごじゃこてこてRobert Rodriguezみたいに行く手もあったのかも、だけどそれじゃあたりまえすぎるしー。

ヨーロッパの宝石商(Bruno Ganz)の語るダイヤの話とメキシコの砂漠における倫理の決定的な断層、とかね。 その間に跨がって脚をひろげるペネロピとキャメロン、とか。
首きり、だと「2666」とか。


Last Vegas (2013)

Robert De NiroとMichael DouglasとMorgan FreemanとKevin Klineが下町ブルックリンで育った(かつては)無敵の4人組で、いまは全米各地に離れて暮らしているのだが、西でお金持ちになっているMichael Douglasが30代のギャルと結婚することになったので全員揃ってヴェガスでバチェラーパーティをやろう、ということになる。
過去になにかあったのかDe NiroとDouglasは犬猿の仲で、Morgan Freemanは薬漬けで禁外出、Kevin Klineは奥さんにバイアグラを渡されて舞いあがっていて、そういうのが博打場、パーティだらけのヴェガスに出かけて、でも全員老人なので、女とか喧嘩とか面倒なことがあれこれ起こって大変なの。

老人コメディで、見てていくらなんでもそれは、みたいにきついところも相当あるのだが、みんなそれなりにうまいし、それぞれの俳優のそれぞれのリアル老後みたいなかんじもして、そう思っておけば見れないこともない。

Michael Douglasは、これからもLiberaceみたいに金持ちだけどひとりぼっちの老人、みたいな役ばかりになるのか、とか、Kevin Klineの役はSteve Martinがやるべきだったよね、とか。

ここで一旦きります。 ちょきん。

3.06.2014

[film] In Secret (2013)

あばらいたい。 しゃっくりしたら気を失いそうになった。

26日の晩、フィッシャーマンズワーフで懇親ディナーがあって、でも外は雨でまっくらであざらしなんて見えないからつまんなくて、だらだらぜんぜん終わらなくて死にそうになって、ホテルに戻ったのが22時。ひょっとしたら、と裏のシネコンに駆けこんだのが22:15で、ぎりぎりで見ることができた。

原作はゾラの"Thérèse Raquin" -「テレーズ・ラカン」と更にそれを元にしたNeal Bellの舞台用脚本と。
あばらのおかげで本棚の奥まで体をのばすことができないので原作対比はできないや。
過去に何度も映画化、TV化もされているが、それも見ていない。

孤児となりおば(Jessica Lange)の元に預けられたテレーズ(Elizabeth Olsen)、おばは病弱な息子のカミーユ(Tom Felton)を溺愛してて、テレーズは彼と一緒にひとつのベッドで育てられ、やがて当然のように夫婦にさせられる。 恋愛を知らずうんざりげんなりのテレーズの元に無頼肉食系のローラン(Oscar Isaac)が現れ、ふたりの恋は部屋の隅っこで燃えあがる他方で、カミーユが邪魔になってきたので川下りのボートに乗っけて、川に落として殺してしまう。 母は憔悴、テレーズも泣いてばかりでかわいそうだからローランと再婚させてあげよう、と晴れてふたりは夫婦になる。 のだがカミーユの幻影、母の泥のような怨念が纏わりついてどこまでも追ってきて、むかしのような至福の愛はもうやってこないの。

画面はずっと薄暗くもやもやで閉塞感たっぷり、水面を滑るゆるやかな流れの反対側でどろどろ燃え上がる情念とエロと、やがてぶちあたる路地のどんづまりと。

これはなんといっても俳優の映画で、テレーズ、カミーユ、ローランの三角関係とそのてっぺんに君臨する母の4人がどれもよい。猫までよい。
Tom Felton - ハリポタのドラコね - のねちっこい気持ちわるさ、Oscar Isaac - "Inside Llewyn Davis" をはやく! - の猛々しさもよいが、あらゆる局面でさまざまな光彩を見せる - Elizabeth "Martha Marcy May Marlene" Olsenの表情 - 仏頂面 ~ 恍惚 ~ 怖れ ~ 悲愴 〜 震えと慄き - などなど、がすごいったらない。本当にすばらしい女優さんだと思う。
そしてJessica Langeの鬼婆っぷり - 特に身体と言葉の自由が効かなくなってからのあがきときたらおそろしや。

クラシックを映画化しました、のもっさりしたかんじが全体に漂うものの、ラストの白々とした冷たさと救いようのなさは、なんかよかった。

3.04.2014

[film] The Lego Movie (2014) - 2D

26日水曜日のごご、前日とおなじシアターで見ました。
お仕事でイベントの会場を行ったり来たりしていたのだが、おもしろいのはおもしろいけどつまんないのはつまんなくて、そんななか、現地で再会したかつての仕事同僚(from NY)とかったるいからこんなのさぼっちまおうぜ、ということになり、じゃあ映画でも見るか、と適度に誘導した。

こいつと一緒のとき最後に見た映画は、Times Squareでの"Lara Croft: Tomb Raider" (2001) だったのを思いだす。 くされえんばんざい。

時間割みて、3Dは間にあわなかったので2Dで。 どうせもう一回3Dで見るじゃろ。

Legoの世界で、平凡な工事現場作業員として暮らしているEmmetが突然おまえは世界を救うことになるMasterbuilderじゃ、とMorgan Freemanから(あの声で)指名宣告されて、LucyとかBatmanとかの仲間と一緒に世界をグルーで固めようとする悪の大統領と戦うことになるの。

Lego人形劇場 - Legoの粒粒がマニアックかつ驚愕のスケールで構築する「世界」と昔の肌理の粗いビットゲームが形作る「世界」、その縛りのなかでしか生きることのできない「キャラクター」たちが自分たちの役割とか運命に気付き、それに抗いつつ「世界」をなんとかしていこうとする  - そんなようなもんだと思っていた。- "Wreck-It Ralph" (2012)みたいなやつ。  「世界」には、それが「世界」である以上それを支配しようとする奴がいて、悪があって善があって、愛と自由はなにがなんでも勝ち取られなければならない、とかなんとか。

確かに最初はそんなふうで、よくこんなネタ考えるよねえとかよく作ったよねえとか、げらげら笑っているばかりなのだが、革命に向けた全ての企ても戦いも失敗し、「世界」が絶望と崩壊の淵に立たされたとき、予想もしなかったような方向から別の「世界」が現れてそこに立っているのが例えばWill Ferrellだったりしたらいったいどうしたら ー

これは、"Everything Is Awesome~" とかちゃらちゃら歌いながらもまちがいなく来るべき革命に向けた、革命への蜂起を促すなんか、なのだと信じたいところだが日が経つにつれてわからなくなってきた。 なにしろ相手はLegoだし、"Toy Story"シリーズみたいに思い出だのなんだのでエモにウェットになることもない、じゃあLego達から見た「世界」と、我々がLegoを組みあげて作る「世界」て、どんな関係にあるのかないのか。

こちゃこちゃかわいく作りこんだ箱庭世界なので、日本では当たるだろうけど、なんかあんましすっきりこない。
自分の足元みろよ、グル―で固められてそれどころじゃねえだろ、しゃれになんないだろ、な気分なの。

音楽はMark Mothersbaughさん。 どうせならDevoでやればよかったのにー。

3.03.2014

[music] Quasi - Mar 02

まだSFのが残っているがこっちから先に。

27日の夕方、SFを離陸するときに、シートベルトをした状態で、前の座席の背のポケットに入った携帯の電源を切ろうとおもって、えい!と思いきり前に踏みこんだらあばらがぽき、とかいったような気がして、ずっと痛くて寝返りうてないし、咳がくるといちいち死にそうになる。
つまりシートベルトに負けた、ということで、これと同じあばらのやろうは数年前、どこかの小学校の校庭の鉄棒ともぶつかって、このときも負けていて、負けっぱなしなのでとてもくやしい。 カルシウムとか摂ればよいの?  
で、日曜日の晩、低気圧頭痛とあばら痛の二重苦でよろよろしつつも、o-nestに行きました。

Gellersの最後のとこだった。  いつも思うのだが開演時間通り来ればよいのに  →自分。

そしてtoddle。 昨年のWedding Presentのサポートで見て以来。
自分がどれほどこのバンドを愛しているかを改めて思い知らされる。 両翼にギター・ヴォーカルを置いた女の子バンドとしては世界屈指のレベルにあるのではないか。
いや、べつに「女の子」なんて付けなくてもいい、あの小気味よく気もちよくがちゃがちゃとしなるギター2台さえあれば、日本のほかのロックバンドなんてぜんぶいらねえ。
とまで言いたくなるの。 一度ライブで聴いてみ。

そしてQuasi。 今回はJanetとSamの二人編成セット。  二人でも不安感ゼロなの。
前半は鍵盤中心、ミドルテンポでものすごいアタックの衝撃波が襲ってくる。 エレクトロ系の音の厚さ重さとは全く異なる、泥のように深く粘っこく粗野で、成分がよくわからないものの密度が濃く煮えたった音の塊がびりびり飛んできて、Janetさんの地鳴りのようなフロアタムが全身で受けとめて迎撃するかんじ。 中~低域のブギウギがどかどか揺らしていって、ものすごくきもちよいったらない。

後半、鍵盤からギターに変わり、音域がやや高めにシフトして自在にうねるようになるも、音の強さとけたたましさは変わらず。
比べちゃわるいけど、同じ赤(ドラムスの服の色)でもWhite Stripesなんかよか、数段凶暴に吹きまくるすばらしいアンサンブルなの。

新譜からだと"See You on Mars"と"Double Deuce"がしみじみかっこよし。

これまで何度も書いているけど、Janet Weissさんのドラムスは、本当にすさまじいよねえ。真横で見ていて改めてぶっとばされた。

本編ラストは再び鍵盤でQueenの"Don't Stop Me Now"。 一週間前、Jimmy Fallonで見たPaul Ruddによる同曲のLip syncの衝撃と興奮が冷めてなくて、曲が脳内でぐるぐる回り続けている最中だったので思わず呻いてしまったが、いろんな意味で狂おしい曲だねえ、と。
そして、アンコールのラストは定番の"War Pig"。 この絨毯爆撃がたったふたりだけで演奏されているなんて誰が想像できよう。

というわけで、これでもまだ初日なんだから、他の都市のみなさんはぜったい行ったほうがよいよ。

終わって、"The Sword of God" (2001)のアナログ買って、20周年記念zineにふたりのサインもらった。
嬉しすぎてあばらなんてどうでもよくなった。

どうでもいいけどPortland行きたい。 いま世界でいちばん行きたい場所かも。 珍獣Quasiがいて、おいしい食べものとおいしいPino Noirと本屋があるとこ。

3.01.2014

[film] Winter's Tale (2014)

25日火曜日の晩、San Franciscoのまんなか、Bloomingdale'sとかが入っているショッピングモールの5階にあるシネコンで見ました。 今回の渡米で、これだけはなんとしても見たかったの。たとえどんなできであろうとも。

こないだの「エンダーのゲーム」にしてもこれにしても、80年代SFがここにきて続々映画化されて、当時の読者から非難ごーごーぼろくそ言われる、ていうのはなんだろ、はやりなの?

「ウインターズ・テイル」の文庫が出たのは87年、当時なんでか文芸誌としか言いようがなかったマリ・クレール日本版で海外文学特集なんかがあると(そんなのばっかしだった)、必ずリストにあって、要は婦女子の必読書でもあったの。

そういうわけでもちろん読んでいたのだが、内容なんか忘れてしまったので当時の文庫をひっぱり出してみると、解説を高橋源一郎が書いていて、アーヴィング、ティム・オブライエン、ディケンズ、トールキン、ガルシア・マルケス、などなどが引き合いに出されていて、要はあらすじなんて説明不能で、主人公はNYという街としか言いようがなくて、「百年の孤独」や「指輪物語」の都会版で、"Gorky Park" (1983)のGene Kirkwoodが映画化権を買って、"E.T."のMelissa Mathisonが脚本を執筆中、とかいろいろ書いてある。 ここにある映画化の件は一旦ぽしゃった、ということなのね。

2014年のグランドセントラル駅の天井裏に出入りする主人公Peter Lake (Colin Farrell)とその宿敵Pearly Soames (Russell Crowe)の18世紀からえんえん続く戦いを軸に、彼が愛したBeverly (Jessica Brown Findlay)との悲恋などなどを通してすべては白馬が見ている星も見ている星でつながっている、みたいなお話、に映画はなっている。 原作には恋愛小説の欠片もないのだけど。

原作では変貌を止めない大都市NYのなか、悪漢好漢いろんな人物が縦横に動き回り絡みあうことで多少の理不尽にも余裕十分な場所が与えられていた(マジックリアリズム)ような気がしたが、映画は登場人物とエピソードをものすごく絞ってしまった結果、中途半端によくわかんなくて - なんで馬が空を飛ぶのか、なんで彼らは不死なのか、なんで彼らは戦い続けるのか、などなど - ほんとにこういうのに感動してよいのかどうかすら戸惑ってしまうようなものになってしまった。 公開日のValentine's Dayにデートでこれを見たカップルはいったいどこに行き着いたのだろうか、星空に消えてしまったのか、とか。

例えばどのへんがおかしいのか、は以下のリンク参照。

http://www.vulture.com/2014/02/winters-tale-movie-6-ridiculous-things-that-happen.html

でも、Peterと赤毛のBeverly(Jessica Brown Findlay - よい。)が出会って、運命の愛に導かれていくところは素敵できゅんとくるし、他にもWilliam HurtとかJennifer Connellyとか俳優陣はすばらしく不安も懸念もない。唯一、Russell Croweの上役として出てくるWill Smithがなんだかわかんなかった、くらい。(あれ、悪魔?)

せめて、Martin ScorseseとかRon Howardあたりが監督していたらなあー。
あと、Peter Lake役もTom Hiddlestonとかだったらなあー。

あーそれにしても、真冬のNYで震えながら見たかったよう。