7.30.2016

[film] Maggie's Plan (2015)

24日、日曜日のま昼にSunshine Landmarkで見ました。

上映は一日一回で、これもまだやっててよかったー、な一本。

Maggie (Greta Gerwig)は、大学でアートビジネスを教えているシングルで自分の子供がほしくて知り合いのピクルス屋のお兄さんに種を貰おうとしていて、でも煩わしい人間関係はごめんなので、ほんとに種だけでいいのごめん、て言ってる。 そんなある日、おなじ学校で変てこ人類学を教えているJohn (Ethan Hawke)と知り合って仲良くなるのだが、彼にはColumbiaのばりばりの教授のGeorgette (Julianne Moore)と子供ふたりがいて、Georgetteはものすごく冷血でおっかなくて、Johnはいっつも怒られて泣いてて、Maggieがひとり種を仕込もうとしていたある晩、ドアがノックされて、そこにはもうやだようって泣き崩れるJohnがいて、そこで二人は結ばれちゃって、丁度そういう晩だったのでふたりにはあっという間に子供ができて、一緒に暮らすようになる。

育児しながら仕事して、小説家になろうとしているJohnを助けて、慌ただしい日々のMaggieだったがなんか疲れはじめて、これ、なんかちがう、あたしは子供がほしいだけだったのに - やはりJohnにはGeorgetteがふさわしいのではないか、と思うようになって、思いきってGeorgetteに会ってみたりもする(けちょんけちょん)のだが、そんなある日、ケベックで開かれる学会がJohn専攻の特殊なフィールドだということで、Georgetteが手配してあげたこともあって、ふたりはカナダの雪山の奥で再会することになって。

結婚における自由、とか育児における自由、それらと関係ない自分の自由、などなどを扱っているようでこれははっきりとロマコメでもあって、なんでかというとGreta Gerwigさんが、いつもの、どっちつかずで挙動不審でうわの空でとっちらかってて破壊的で、でも堂々と輝けるGreta Gerwigさんだから、としか言いようがない。  "Frances Ha" (2012)のFrancesが少し落ち着いて賢くなって還ってきた、といってもおかしくなくて、でもそれがあの彼女だと思うと余計におかしくなって、なんでこんなにおかしくて、でも魅力的なんだろうこのひと、と考えてしまう。

誰にも依存しない、構わないから構わないで、て彼女が言えば言うほど、氷が割れたり鍋がひっくり返ったりなにかが飛んで行ったり、スラップスティックというかスクリューボールになって、でも"Maggie's Plan" - 「計画」、計画はだいじよね、とかあの目とあの顔でいうんだから何かがおかしい。 ねえ、おかしいよ、ていうのだが、それを言ったときに彼女は既に500mくらい先を走っているという。

“A Message to You, Rudy”に合わせてひょこひょこ踊るMaggieがたまんない。

音楽はBruce Springsteenの”Dancing in the Dark”が2回、象徴的に使われていて、2回目のはケベック山奥のバーでJohnとGeorgetteがじりじり寄っていく場面。 背後でアコースティックのライブをやっているのだが、そこで歌っているのはKathleen Hannaさんだったりする。

恐妻Julianne Mooreの冷血インテリっぷりはほんとにおっかない。このままいくと、そのままきっと”Still Alice”になっちゃうんだわ。

Maggieが相談する友人夫婦役にBill Hader & Maya Rudolphが。ものすごく絶妙。

ただのいい人扱いされてかわいそうなピクルス屋の彼のとこのピクルスがとっても食べたくなって、映画館を出てから近くのUnion Marketに買いにいった。(帰りの荷物預け入れ決定)

ここの↓ あのバケツサイズのやつ、売ってるのかしら。
http://www.brooklynbrine.com/

凍える冬のNY映画としても、とっても素敵でしたわ。

[film] Love & Friendship (2016)

今回の旅、映画にはあまり重きを置いていなかったので見たのは3本だけだった。
Film ForumでRobert Frankのドキュメンタリー”Don’t Blink - Robert Frank”をやってて、それの関連で彼の”Cocksucker Blues” (1972)が2回だけ上映されたりしたのだが、チケットは取れるわけもなかった。

“Love & Friendship” - 23日、土曜日の午前にParis Theatreでみました。
公開開始が5月くらいだったのでまだやっているとは思わなかったが、ここでだけやっていた。
この映画館は、スクリーンいっこだけで随分昔からある(1948年からだって)のだが、バーグドルフとプラザホテルの間という超絶の立地なのに、なんでずっと維持できているのか、なぞすぎる。

原作はJane Austenの死後、1871年(書かれたのは1794年)に刊行された書簡体の短編”Lady Susan”で、ちょっとややこしいのだが、彼女が14歳のときに書いた”Love and Freindship”ていうタイトルの - これも書簡体小説  - もあったりする。
(Whit Stillman自身によるノベライズ本の巻末にはAustenの”Lady Susan”もおまけでついてた)

最初のほうは人物と土地の紹介が字幕で階級とかも含めてずらずら出てきて、懸命に追っかけるのだがもちろん頭に入るわけなく(後で本買ったら家系図があってようやく)、ああこの調子でごりごりの英国英語でやられたらどうしよう、て背筋が寒くなったが、なんとかがんばれた。たぶん。

夫に先立たれたLady Susan Vernon (Kate Beckinsale)は亡夫の親族とかいろんなツテを頼って田舎の邸から邸を転々としつつ、娘のFrederica (Morfydd Clark)の嫁ぎ先と、まだまだ若い自分のを探していく。 果たしてSusanとFredericaの幸せの行方は? で、そこで描かれるいろんな畸人変人、高慢ちきとかバカとかのおしゃべりと偏見をめぐるバトルのありさまはJane Austenの世界としかいいようがないのだが、それは同様に横並びのおしゃべりがきらきらとドミノ倒しで転がっていくWhit Stillmanの世界でもあって、人と人が向かいあっておしゃべりしているだけなのになんでこんなにおもしろいのか、と改めてびっくりしてしまう。

対面のおしゃべりべらべらべらによる局所戦、というのの他に隔たった土地と土地の間を頻繁に行き交う手紙、というのも立派な武器や砲弾として機能していて、着弾被弾した人たちが慌てふためいてやってきたり飛んでいったり、基本は現代と変わらないのかもだけど、なんだか趣深いことだねえ、て思った。

Lady Susanのおしゃべり相手のアメリカ人のお友達、という設定でAlicia Johnson (Chloë Sevigny)がいて、このふたり - Kate & Chloë が並んだ絵はこれの約200年後、”The Last Days of Disco” (1998)でも再生されることになる。

ここの次の上映は”Howard’s End” (1992) の25周年記念の4K Restoration、だそうで…
やれやれ、だわ。
こういう英国のって、時間感覚くるってねえか?
これにしても、パンク40周年にしても、Austenの200年だかにしてもさあー。

7.28.2016

[music] Panorama - July 24

PanoramaのDay3、最終日。
前日よりはやや、ほんの少しだけ涼しくなった気がした。 風も少しあったし、とんぼが飛んでいた。

16:45のKurt Vile and the Violatorsに間にあうように行ったはずだったのだが、船の上にいるときに始まってしまったので、少し泣いた。
だらだらした夏の午後にぴったりくるギターの鳴りがたまんなくよくて、J.Mascisがライブに参加していたのもわかるなー、と。 来日公演も行ったほうがいいねえ、ておもった。

おなじくメインのステージで、Run the Jewels。
オープニング、明らかにあの野郎へのあてつけで"We are the Champions”が朗々と流れて、そこから先はもんのすごい、冗談みたいなスピードと勢いで突っ走る。 この領域って疎いので、すごいねえ... しか言葉がでてこないかんじ。
で、ラップそのものは凶暴で手がつけられないかんじなのに、曲間のお喋りはやたら親しげで、家族友達みんなをステージ上に呼んだり、前方に詰めている客をいじったり、楽しいあんちゃん達なのだった。
どこかでMeow the Jewelsに変貌するかと思ったけどしなかった。 そこだけ残念だった。

別のステージに行って、Grace Potterていうのを少しだけ。
今どき、珍しいようなスペーシーなブルースロックみたいのをがんがんやってた。

それからメインのほうで、Sia、っていうひと(?)。
縦割りパンダみたいな白黒おかっぱのひとがステージの奥で(たぶん)歌っていてステージ前方では全身肌色タイツのひとがダンスパフォーマンスみたいなのをやってて、スクリーン上ではいろんなひと(Paul Danoとか)が同様になんか演じたりする。たぶん、なんかの危機とかがあって苦しんでる。
こういうのって、小さい小屋とかで見ないとわかんないよね。 あれじゃほんとに歌ってるかわかんないし。

LCD Soundsystem

今回は、これのためにきたのだった。
あれだけみんなを泣かして、仰々しく解散しといて、よくもしゃあしゃあと戻ってきやがって、というひとは言うのだろうが、別に何がわるいんだよ、好きにやらせろガキが、みたいなふてぶてしさがたまんない。
Liquid Liquidだって、ESGだって、ずううっとやってるんだから別にいいじゃないか。

オープニングは"Us v Them”。ちゃかぽこリズムでお経のように「そのときがやってきた そのときがやってきた」 - ほんとにこれっぽっちの感傷も盛りあげ感もない。 スクリーンのフレームにメンバー全員と膨大な量の機材とケーブルがぎっちり映りこんでしまう、その数百本のケーブルを伝う信号がすべて聴こえてくるような緻密な再現力と圧倒的な密室感 - "Panorama"の語感がもたらす広がりとは180度くらい違う -  肌に貼りついてくる親密な音。 2003年に、Bowery BallroomでRaptureの前座で彼らを見たときから、この「ぺし」「どぅ」みたいな柔らかくて硬いドラムスの音は変わらない。 そしてこの音が鳴りだすと体がぴょこぴょこ動きだしてしまう。

前のほうはイモ洗い状態だが後ろで少し隙間ができてくると、みんな本当に好き勝手にてきとーに踊っていて、それを見ているだけで楽しくなるの。 明らかにDirty Dancingやっているふたりもいた。 

「できるだけ多くの曲を詰めむから喋らないでがんがんいくよ」とJamesは述べて、さくさく流していく。

"Losing My Edge" ~ "New York, I Love You But You're Bringing Me Down" ~ "Dance Yrself Clean"の流れはなんも言うことなくて、"Losing My Edge"で名前が挙がるSuicideは、Alan Vegaの"Bye Bye Bayou"をやって、80年の彼の雄姿がでっかいスクリーンに映ったのでみんなでバイバイして、それに続くラストは"All My Friends"  だった。 
友だちみんな。 たこ踊りの夏。

音楽はこれで終りで、この後ほんとは飛行機がトラブルとかで飛べなくなって、MSGでRadioheadを見たり、BeaconでBryan Ferryを見たりして帰ることになればなー、と思っていたのだがやっぱし叶わなかった。

この日の食べものは;

・Bareburger のクラシックとフライ  (銀座にもあるのね)
・Renegade Lemonade(前日に続き)のクラシックレモネード。
・Roberta'sのマルゲリータ。
・アイスクリーム食べたくて並んでいたらLCDが始まってしまってあきらめた。

食べもの屋さんはぜんぶカードで、iPadに指でサインするだけ。 なのでキャッシュはまったく使わなかった。
水は、補給スタンドに空のボトルを持っていくとおにいさんおねえさんがじゃぶじゃぶ注いでくれるのでタダだった。

来年も来たいなー。 やってくれるのであれば。

[music] Panorama - July 23

Panorama。 土曜日の午後、PanoramaのDay2から。

会場はRandall's Islandていう限りなく地続きに近い島にある公園で、2004年にCuriosaていうThe Cure主催のフェス - あれはいかった - に行って以来。
数年前、なんかのフェスでドラッグやり過ぎで死人がでたのは記憶に新しいところ。

フェリーで行く、シャトルでいく、地下鉄とバスで行く、行き方はいろいろで、フェリーにしても船着場までは地下鉄とバスだったりして、でもマンハッタンの真ん中から1時間みておけばいいくらい。アクセスでいうとシカゴのLollapaloozaがだんぜん偉大かも。
フェリーは往復で$25。 でも帰りのチケット、2日間誰ひとりチェックしてなくて素通りできたはず。

ステージは結構離れた距離(グリーンとホワイトほどじゃないけど)でふたつ、クラブミュージック系をやっているテントがひとつ - だけどこのテントはいつも行列で並ぶ気になれなかった。 同様にHP(ITの会社ね)がやっているThe Labていうのがあって、Googleがやっている小屋があって、そういうのはなにやってるかわかんねえし面倒くさいのでいちいち並ぶ気にもなれず。

唯一、James MurphyとSoulwaxのDJがサウンドデザインをしたDespacioていうディスコ小屋があって、ここは涼みに入ったりしてた。音はとんでもなくシャープでファットでおみごと(50000ワット、カスタマイズしたMcIntoshアンプ7台だって)なのだが、中が真っ暗すぎて手探りしながらいかがわしいことをやるくらいしかないのでは。 そうか踊るのか。

で、23日は4時半くらいに会場に着いたのだが、その時点で暑さで相当ふらふら干上がっていた。
目当てはThe Nationalからだったのだが、彼らの開始は7:25で、時間の見当を間違っていたことがわかって更にがっくし。

なので暑さにうなされて、食べ散らかしたり水分とったり、てきとーな日陰(割とあるの)をさがしながら場内を徘徊するしかない。

途中で、ちっちゃい方のステージでやっていたAnderson .Paak & The Free Nationalsていうのがなかなか盛りあがってて、みんななんかすげえぞこいつら、てかんじでステージに走っていく。 R&BとJazzとFunkと、そういうののごった煮で、はちきれんばかりの勢いで走りまわってて、確かによかった。 ラストにBowieの"Let's Dance"のカバーをのけぞるかっこよさでまき散らして、すごーい!! てなったところ - イントロのみで終わった。 なんかもったいなかった。

The National

メインのでっかいステージのほう。バンドの登場のところで流れていたのが、The Smithsの"Please, Plaase, Please..”で、この炎天下にこの曲でどうしろというのか、と思ったが、全体のトーンも披露された新曲も、Matt Berninger自身 - 髪も髭もまだらでぼうぼうの仙人状態 - が語っていたように「メランコリックなかんじ」、なのだった。
中盤にやった”I Need My Girl"とか、こないだ見た"Man Up"でかかったなあ、とか。
アンサンブルは相変わらずタイトでよいかんじで、ずっと聴いていたかったのだが、途中でSufjanのほうに向かうために去った。
2008年のロラパのときもNINに向かうためにこのバンドに背を向けてしまったことがあったねえ、て思いだしてごめんね、て謝る。

Sufjan Stevens

事前に見ていた写真が結構はではでだったので、また躁状態になっているのか、くらいに思っていたが、それを遥かに超えるカーニバルとしか言いようがない狂騒状態が待っていた。
このひとを始めて見たのは"Illinois"のリリース後のライブで、そのときは全員がチアの恰好をして相当に変なかんじだったのだが、本人達ははっきりと照れながらやってて、たまに平熱平服のモードで淡々としたライブもやったりしていたので、変な恰好でやるライブは変なとき、というイメージができていて、最後にそれを見たのは”Age of Adz”のツアーで、あの相当に弾けたステージを経て、昨年リリースされた”Carrie & Lowell”はとっても地味で、でもすてきだったので、もうああいう壊れた系のはないのかも、と思っていた。 のだが。

もう出てきたときから明らかに恰好も挙動も怪しくて不審で、ケバいメイクにキャバい衣装の大勢のメンバーもやけくそで笑っているかあたしなんでこんなことしてんのかしら、ていう憮然とした表情で、でもいつものようにバンジョーを手に始めた”Seven Swan”は、途中からぎんぎんのライティングが炸裂して、燃え尽きた白鳥がバンジョーを粉々にしてしまう。
そこから先もホーンが入ったりの分厚くマッシブな音なのだが、他方で振付けと衣装替えは学芸会並みのどたばたで、そんな錯乱した動きに向かわざるを得ないなにか、ばかりがこちらに飛んでくる。

真ん中くらいで、まさかやるとは思わなかった”Impossible Soul”が始まる。フェスの55分の枠で25分の大曲をやる。ものすごい量の衣装替えも楽器替えもセット替えもばったばたのあきれた勢いと速度で、リリース直後のツアーの数倍雑な仕様だけど、途中で小林幸子並み(見たことないけど)に巨大化したり風船まみれになったり、あまりに生き急いでいるかんじがしてなんか切なくなった。 でもそれこそがこの曲の持つ不思議な力で、”Impossible Soul”の置き場なのだ、とおもう。

で、全力疾走と共にこの曲が終ったー、と思ったところでホーン隊がぱおーって上を向いて”Chicago”が、ぐるぐる回る電車のイメージと共に鳴りだしてぴーぴー泣いてしまうひとも多数。
繰り返すけど、ステージ上はお祭りであれだけわーわー騒いでいるのに、騒げば騒ぐほど壊れた寂寥感が浮かびあがってくるのが不思議でしょうがないのだった。 あんま無理しないでね。

Kendrick Lamar

Day2のメインステージの大トリ。
この世界はよくわからないのだが、昨年の”To Pimp a Butterfly”はおもしろいなー、て思ってて。
Sufjanの直後に向かった。 川の向こうに見えるマンハッタンがきれい。

ステージ上にバンドやDJはいなくて(少なくとも遠くからは見えない)、その背面にはでっかいスクリーンが3面、そこに楽曲に関係していると思われる時代とか人物のモノクロの映像(ほとんど固定をスライド形式)で映しだす。 映像はレーガン、ブッシュ、オバマ、プリンス、パム・グリア、時々のいろんな事件、などなど。 曲間には真ん中のスクリーンにLammer自身の鼻から上 - 目をきょろきょろ瞬き - のアップが映しだされて、要するにわたしは見た/わたしは見る、というメッセージで、そこから彼のたったひとりの怒涛のライムが繰り出される。 彼の歌の世界にどっぷり没入させる、ものすごくそぎ落とされたストイックな構成なのだが、”…Butterfly"の適度にとっちらかった玩具箱の音を期待していたのと、Sufjanの極彩色の世界との食べ合わせがあんまよくなくて - ただ、どっちも世界観まるごと投げ出していた -  昼の暑さでへろへろだったこともあって、10時過ぎに抜けてしまった。

帰りのフェリーは夜風が気持ちよかったのだが、周りはべったべたにキスをしまくるカップルだらけでなかなかすごい光景が展開されていたの。

食べもの関係は ー

・Renegade LemonadeのPassion Hibiscus
・Two Guys Friesのフライとスイカ4切れ。
・Macha BarのMacha Popsicle  ... イメージとぜんぜんちがってた。

7.27.2016

[film] Ghostbusters (2016)

夏休みのおもいで。
21日の夕方18:30にJFKに着いて、道路が結構混んでいて20:00少し前にホテルに入って、20:30の上映には間にあうと思ったら地下鉄が一部しんでたので乗り換えたりで(でもそのおかけで地下鉄まるごとNeil Youngの新譜広告、ていうのをみた)、ぎりぎり駆けこんだ。

やっぱしこれはTimes Squareで見なきゃ、と強く思っていて、AMCていうシネコンのDolby Cinema at AMC Primeていう座席指定のにしたのだが、これまでのシネコン個別の爆音仕様カスタマイズ(TCXとかもそう)と比べてDolbyががちで設計しているらしいこいつはレベルがぜんぜん違った。 竜巻のように音が襲ってくる(襲われたことないけど)。

最初にマンハッタンのAldridge Mansionていうお屋敷で幽霊が出て、そこからしばらくして大学で数学を教えているErin (Kristen Wiig)のところにあなたの書いた心霊現象についての本を読んだんだが、ていう人が訪ねてきて、それは若い頃に書いたとっても恥ずかしいやつだったので誰がこんな? ていうと共著者だったAbby (Melissa McCarthy)がAmazonにupしていて、あたしのキャリア台無しにする気か? て文句言いにいったら彼女の学校の研究室にいたのがTech担当のJillian (Kate McKinnon)で、そこに丁度Aldridge Mansionから通報が入ったので3人で行ってみたらやっぱりあれが現れ、その映像が騒ぎになって、けっかみんなは学校をクビになってしまったので、退治屋を始めるしかなくなって、そこにMTAでやっぱり幽霊をみていたPatty (Leslie Jones)と頭からっぽの受付係の男 (Chris Hemsworth)が加わって、そこから先は全員粘液まみれになって転がっていくだけ。

"Bridesmaids" (2011)の監督と女性中心のキャストがいて、同様にバカな男(Jon Hamm → Chris Hemsworth)がでてきて、おかしなバディ同士が手を取りあって困難に立ち向かうお話しをそのまま幽霊退治モノに移植したのだからつまんないわけがないし、なんの無理も違和もない。 実家が葬儀屋でMTAのブースにいるPattyなんて、いかにもだし。 女性だからってわーわー文句いう連中 - まあいるんだろうねそういうバカ...  - のことなんて考えなくていい。
だんこPaul Feigさんを支持したい。

CGとか、花火みたいにどかどか威勢よくて見ごたえはたっぷりなのだが、決着のつけ方だけちょっと、あまりに最近のヒーローものにありがちな、いいかげんな自己犠牲と、でもなんとかなるからOK - みたいになっちゃっているのが少しだけ。 どうせ実体ない幽霊が相手なのだし、コメディなんだから思いっきりバカなほうに踏みこんでくれてもよかったかも。
あと、もっとえげつなく体をはったどたばた("Bridesmaids”には確かに)があってもよかったかも。
せっかくMelissa McCarthyとLeslie Jonesがいるんだし。 Kate McKinnonひとりがなんかかっこよくてずるい。

オリジナルとの対比でいうと、オリジナルの何人かはちゃんと出てくるし特撮はゴージャスになっててすごいし、でも、オリジナルのマシュマロマンがビルの間から登場したときの鳥肌、あれを超えるものはそうないはずで、あればっかりはしょうがない。

でも夏の打ち上げ花火としては爽快で気持ちよいの。なんも考えずにへらへら笑ってみていられる。
それがいま、どれだけ貴重なことかー。

ラストのあれ、Tomになろうっていうのか?
あと、Sigourney Weaverの神が頻繁に降臨する夏、が指し示すのはなにか? (ref. “Finding Dory”)

Pat Kiernanさんは、もちろん出ていますとも。ええ。

7.25.2016

[log] July 25 2016

戻りのJFKまできました。
これでもう2016年のわたしの夏はおわりで、さようならで、いっちゃって、明日からはまた苦虫を潰して煎って炒めて擂って煎じて目を瞑って飲むみたいな、延々つづく罰ゲームの合間に息継ぎするみたいな日々が始まっちゃうんだわ。

咳が止まらなくなったり鼻血が止まらなくなったりいろいろあったが、iPhoneの万歩計をみると、3日間それぞれで2万歩以上歩いている、というかほぼ小走りしていたのでとても、とてもだるい。
飛行機に乗りこんだらすぐに白目むいておちる。

映画3本、美術館5つ、レコ屋ふたつ(たったの)、本屋みっつ(たったの)、そしてメインのライブが2日間。 Panoramaでは見たいの見れたし、どれもすてきだったし、レストランも行こうと思っていたところに行けたし、夏休みとしてはとても充実していたとおもう。 

だがひとつだけ、とにかくとんでもなく暑くてまいった。 おなかへった、とか、喉かわいた、とかそういうところにまで考えがいかない。 身体がパニックを起こしていてぐるぐるしているのがわかって、ああ熱中症ってこうして起こるのね、と少しおもった。

また来たいなー、ていつものように。 次の計画に向けた野望ばかりが。

それにしても地下鉄のLを2019年から18ヶ月止めるって。 どうするんだBrooklynは。

ではまた。 あれこれは向こうについてから。

7.21.2016

[log] July 21 2016

さいてーの天候を乗り越えていまはなんとか成田まできて、まったくそんなかんじはしていないのだが、これから夏休みをとって、NYであそんでくる。

木曜の夕方にあっちに着いて、はしゃいではしりまわって、月曜に離陸して、火曜日にもどる。
現地で4泊。実質3.5日間。 たったの。

最初はLAもSFも考えたし、もちろん行きたかったのだが、今年はぜんぜんNYに滞在できていなくて恋しくなりすぎたので、こっちにした。

Panoramaにいくんだよ。

最初は日曜晩のLCDだけでいいや、と思っていたのだが、他の場所ではあまりよい演しものがなかったので、結局土曜日のチケットも取ってしまった。

同時期にやっている日本のフェスのほうは、音楽に政治を持ち込むなとかいう連中の間にいたら、政治抜きで音楽を楽しみたいなどとぬかす腑抜け連中の間にいたら、不快すぎて胸くそ悪くなってしまうにちがいないので、やめた。 うるせえんだよあほんだら。

実質3.5日の滞在で、でもずっとフェスに浸かるわけにもいかないので、土日はどちらも夕方から参加する。

フェスご飯を除くと、お食事の機会はだいたい5回、たったの5回、いったいなにをどうしろというのか。
映画はほぼあきらめかー。 Robert Frankのドキュメンタリーやってるなー。

美術館はなかなか大変で、ICPもMETのBreuerも行かなきゃだし、Queens MuseumではRamonesやってるし、New Museumだって…
本屋さんは、こないだのロゴスのセールでほんとうにバカみたいに買ってしまったので、少し立ち止まる。

だれか1ヶ月でいいから、野放しにしてくれないかしら。 NYガイド本とか、書くよ。

向こうはとっても暑いらしく、熱波がくるのだそうな。 土曜日は華氏97度だって。
むかえうって、正面から受けて、からからに干からびてやろうじゃねえかー。

ではまた。
途中のいろんなのはInstagram(talking_unsound)のほうにあげます。

7.20.2016

[film] All Things Must Pass: The Rise and Fall of Tower Records (2015)

ううう、ばたばたすぎる。

カリコレ2016のサブ企画(?)で”SXSW Tokyo Screening”ていうのがあって、最初の30分はSXSWのFilmディレクターのJanet Piersonさんが映画部門てなに? 参加するには? とかそういう話をしてた。

映画のほうは、タワレコ創業者のラス・ソロモンさんへのインタビューを中心としたドキュメンタリー。
親がやっていたドラッグストアの片隅で売り始めたジュークボックス用のシングルが売れるので、店舗を横に増築して、やがてTower Recordsとして、あのロゴ、あの黄色のお店ができて、それが西海岸に、全米に、日本を含めて世界に広がっていく様子と、それが00年代以降の音楽配信の波に乗り切れずに沈んでいくさまを、店子さんとかいろんなミュージシャン(D.C.店の店員だったDave Grohlさん - どこにでも出てくるねえ - とか)の証言と共に。

まずは売り子から入って、マネージャーになって、お店を任されて、という店員/社員を育てるプロセスとものすごくフレンドリーかついいかげんな、西海岸的な経営が60~70年代のミュージックビジネスの興隆と共に化学変化の大当たりしてでっかくなって、でっかくなりすぎたそれは時流の変化に対応しきれなくなって恐竜のように滅びる。 

“The Rise and Fall of Tower Records" - ストーリーとしては子供でもわかる、わかり易すぎて、それがどうした? てなもんで、でも映画の主眼はそこにはなく、ソロモンさんの音楽とか従業員に対する純朴な愛とかが最後まで切々と語られる。 彼はレコードやお店を「商品」とか「流通」の観点から見ていなかったみたいだ。 ちゃんと見て、見れていたらあんな簡単に潰れなかったのではないかしら。

日本のタワレコが世界で唯一生き残っているのも、おおもとの彼の哲学が偉大だったから、というよりも、ああいう個々の商品(ミュージシャンやレコード)をカスタマイズして大切に売っていく、というやり方が日本の商文化にうまく合っていたから、だけなのではないか、とか。

わたしがこの世界で息を継げる場所は映画館と美術館と本屋とレコード屋しかない(... かわいそうに)ので、レコード屋はとてもとても大切な場所なのだが、タワレコに関してはあまりたいした思い出はなくて、なんというか、スーパーとかコンビニ、ていうポジションにある。わるいけど。

最初のタワレコが渋谷にできた頃、音楽というのは(今となってはちょっと信じられないけど)英国音楽のことで、レコードというのは英国盤のことで、だから渋谷のタワレコに寄るのは渋谷のCISCOに行ったついで、程度で、あそこで売っている米国盤なんて、ジャケットのボール紙みたいな紙質からぴっちりはりついたラップビニールからたまに入っている切り込みみたいのから、大量生産された粗悪品 - コカ・コーラやマクドナルドと同じでいっぱい摂取すると体にわるい - てかんじだったし、やたらにこにこ愛想のよい店員も不気味としか思えなかった。 

失礼なもんだねえ、て思うが、このへんは今もほぼ変わらなくて、要するに単なる店に対する好み、でしかない。 量販店でもHMVとTowerだったらHMVのほうだったし。

で、この映画を見たからといってその辺の好みが覆るかというと、そんなことはないのだった、
けど、West 4thのお店の中二階とか、懐かしかった。 Patti Smithとか、よく見かけたなー。

でも、音楽を、レコードを売ることへの愛とか情熱、ていうのは例えばこんなふうに形になるんだなー、ていうのがようくわかってしみじみした。 嫌いな音楽とかぜったい売りたいと思わないけど、この人そういうのないのかなー、えらいなー。

あと、最後の恐竜、としか言いようがない西海岸のAmoebaは、あいつはいったいなんなのか。
あっちのほうが気になる。

7.19.2016

[film] Man Up (2015)

18日、海の日の午前にカリコレでみました。

向こうで公開されたとき、なんとしても見たくて出張まで画策したのだがだめだったやつを漸く見ることができた。
すばらしかった。 なんでこんなにおもしろい映画をこんな形で - 全部でたった8回 - しか見ることができないのか。毎度のことながら(嘆)。

久々に現れたロマコメの秀作。この映画をけなす人とは一生友達にはなれない。友達いらねえ。

ジャーナリストのナンシー(Lake Bell) - 34 -は5年前に彼と別れてからはさっぱり、誰かの婚約パーティーで誰かに紹介されてもしおしおで、恋愛に関してはシニカルにふるまうことしかできない。両親の結婚40thアニバーサリーのためにロンドンに向かう電車で向かいに座った若い娘(Ophelia Lovibond)がそんなナンシーの腐れた態度をみて、あなたこの本読むと前向きになれるわ、あたしなんかこの本目印にこれからデートするの、て出会い啓発のベストセラー本を勧めてくるのだが興味なんかあるわけなくそのまま居眠りしてたらロンドンに着いてて、あの娘は本を「読め」(←付箋)って押しつけたまま電車を降りている。こんなのいらねえ、と本を片手に彼女を追いかけて時計台の下まで行くと同じ本を手にした男がやあやあ、て話しかけてくる。

あの娘(彼女はもう一冊駅の売店で買おうとしている)と間違えて自分をデートの相手だと思ってしまったわけだが、口を挟む暇を与えずに彼ジャック(Simon Pegg) - 40 - は一方的にべらべら喋り続けて遮りようがないので少しだけつきあってみることにする。

ジャックにとって彼女はジェシカ - 24 - でシティーに勤めるばりばりの金融系で、トライアスロンが趣味で、そんな基本情報を聞いたナンシーはそんなのになりきるのは到底無理、と思うのだが、酒の力と映画のはなし(「羊たちの沈黙」(1991) と「ウォール・ストリート」(1987)ね)でなんとかへらへらやりすごし、ボーリングとかやったら更に盛りあがったのでどうでもよくなる。 でもボーリング場で彼女のことを高校の頃からずっと思い続けている奴と再会したり、ジャックの離婚調停中の妻とその連れと会ったり、いろいろ厄介なことが次々襲ってきて、結局ナンシーは最初の予定通り家族の待つパーティに戻り、ジャックはそもそも会う予定だったジェシカと会って、でもふたりはなんかもやもやが残ってどうするんだよ、になる。 

とりちがえられたブラインドデートで、互いの一番見せたくないところを見せ合ってしまったふたり、そして互いに後がないふたりに明日はあるのか、あるんだとしたらそれはどこにどんなふうにあるのか? をものすごい勢いとスピードの一晩のドラマとして一気に見せてしまう。 
これはLake BellとSimon Peggのふたりだからできた芸当で、とにかくすごーいとしか言いようがない魔法(30代後半以降にとっての… )に溢れている。

ふたりがDuran Duranの"The Reflex" (1984) で舞うシーンは感動的である。 どうして感動的なのか、説明するのはとっても難しいけど。 (あれのミックス違いがフロアにどれだけの血と涙と災厄をもたらしたことか)

同様に「ウォール・ストリート」の話になったときに、あーディカプリオの? とか言われてしまったときのどう返したらよいのかわからない気まずさ、とかはとってもよくわかる。

ただここまで書いてきて、実はものすごく狭いレンジの人たちにしか受けない仕様のやつかもしれない、とふと思った。  べつにいいんだけど、なんかえらくもったいない気がしたの。 ほんとおもしろいし、勉強になるんだもの。 "Porno land Theory"とか”Blow job Paradox”とか、なるほどなー。

とにかくLake Bellさんが最高。 世の中には彼女とGreta GerwigさんとKristen Wiigさんがいればいいの。 あと破壊系でMelissa McCarthyさんとAmy SchumerさんとRebel Wilsonさんがいれば。

見てね。

[film] Madame Bovary (2014)

17日、日曜日の午前に新宿でみました。 カリテの「カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2016」、リンクレイターの新作はすっかり忘れていて(おおばか)、これもチケット取るの忘れて当日朝に窓口に並んだ。あぶなかった。

いうまでもなく原作は『ボヴァリー夫人』で、がんばったとは思うけど、原作とは別モノとしたほうがよいかも。 シャルルはチャールズだし、みんな英語しゃべってるし、ラストも含めていろいろ違う。文学と映画の違い、というくらいふつうに違う。

エンマがMia Wasikowskaで、チャールズがHenry Lloyd-Hughes、レオンがEzra Miller、オメーがPaul Giamatti、マルキがLogan Marshall-Green。

エンマが修道院を出てチャールズのとこに嫁入りして、ヨンヴィルで新婚生活を始めるところから。
医師の夫は内気で籠りがちで村の往診する程度でじゅうぶん満足していて、エンマはなんかつまんなくて、書記官のレオンと会ってときめいたりするのだが彼はパリに発ってしまい、レオンがいなくなると自由でワイルドな資産家のマルキと逢瀬を重ねるようになり、商人のルウルウから調度品とか洋服とかいろんなものをツケで買うようになり、やがて男関係とお金で頭も首も回らなくなって、男たちは愛想をつかし、お家は差し押さえられて。

修道院の頃から快活でおてんばだったエンマの結婚(生活)に対する期待がひとつひとつだんだんに潰されて萎んでいって、孤独のなかで寄ってきた男たちにいいようにされ、やはりひとりで自棄自壊していく彼女の心象にポイントは置かれていて、他方で田舎の男共の凡庸さ俗物さも含めたしょうもなさとか腐れたかんじはあまりない。 エンマは森の奥で、たったひとりで息絶える。 女性監督らしい描き方、といってしまってよいのか。

寒色の世界、窓辺に向かって少し首を傾げてひとり佇むヴィルヘルム・ハンマースホイの絵画にそっくりの構図が沢山重なって、要するにそういう静けさ、その反復がエンマを苦しめ、孤立させていった、というのは十分伝わってくる。 彼女にとって世界はどんなふうに見えたのか、そこだけ。

かわいそうなエンマ、て思ってしまう自分はなんで、なにをもってそう思えるのか、ていうことを考えさせる、それだけでよいのかも。 自分はとっても頭がよくて趣味もよい、て確信している世のフローベール愛好家はふん、て冷笑するだけだろうが。

Mia Wasikowskaさんはすばらしい。 しかし、Jane Eyreやって、Aliceやって、Emmaやって、文芸モノで攻めるねえ。 あとはシェイクスピアだろうか。と、今作でところどころClaire Danesさんそっくりに見える彼女をみて思った。 ジュリエットは無理かもだけど。

日本でも漫画原作モノばかりやってないでもっと近代文学原作モノやればいいのに。

7.18.2016

[film] Alice Through the Looking Glass (2016)

7月1日の金曜日の晩、六本木でみました。そんなに混んでなかった。

前作の終わりに世界の海に向けて旅立ったアリス(Mia Wasikowska)が戻ってみるとかつて支援してくれた老人はもう亡くなっていて跡取りのバカ息子が船を売るか俺と一緒になるかどっちか選べとか言ってて(まるで清水港のヤクザ映画よね)、こぉんのやろーとか思っていると、芋虫から蝶に変態しているAbsolem(ああ、Alan Rickman.. )が現れて鏡の向こうに誘ってくれて、みんなと楽しく再会するのだが、気違い帽子屋(マッドハッターなんていうもんか)がなんかやばいことになってる、というので行ってみると、自分の亡くなった家族はまだどこかで生きているのかも、と過去に囚われてぶつぶつ遠くを見ている。

なんとかするには「時間」ていうやつ(Sacha Baron Cohen)に会って過去を遡ってほんとうのところを確かめないと、ていうので会いにいって、ちょっとズルしてやってみると帽子屋の過去は当然のことながらみんなの過去、特に赤白の姫姉妹 - 特に赤いデカ頭(Helena Bonham Carter)のほう - にも繋がっているので、そんなのを掘り始めたら大変なことになるし、時間は壊れてしんじゃうんだよ、そしたら世界もなくなっちゃうんだよ、どうするのよ!  っていうお話し。

みんながそれに従って生きているところの時間の論理(或いはアリスが直面したような資本の論理)があるんだからひとりでおとーちゃん、とか泣いて騒いで周りに迷惑かけるんじゃねえよ、ていうのが今の世の大勢、というものなのだろうが、うるせえよばーか、だてに気違い帽子屋を名乗ってるわけじゃねえんだ、気違いがこれをやらねえで誰がやるんでえ! て啖呵を切るの。(そんな場面はないけどそういうふうに読む)(だからね、「気違い帽子屋」を「マッドハッター」、なんて変換して自制してしまうこの国はほんとにほんとにだめなのよね)

この物語をTim Burtonがやったら(今回はプロデュースのみ)、過去に幽閉されてしまうことのグロテスクさ奇怪さ、その後ろめたい哀しみをこれでもかとえぐり出した気がする(でも今の彼はそういうモードではないのかも)が、これの監督は"The Muppets"”(2011) のひとなので、最後はみんなでなんとかするし、必ずなんとかなるし、安心して見ていられた。 よくもわるくも。
Muppetsの連中も出しちゃえばよかったのに。

でもあとちょっとだけ、鏡のこちら側とむこう側とか、時間が不可逆であることの条理不条理を踏まえたナンセンスどたばたをもっとやってほしかったかも。あまりにストレートなただのアドベンチャーものになってしまっていた気がする。

あと、今日(18日)みてきた”Finding Dory”に繋がるテーマがあって、少し考えているとこ。

チェシャ猫、あんま出てこないけどかわいい。謎かけばかりで姿がなかなか見えない実験映画みたいなスピンオフ作品を作ってほしい。

終って、Culture Clubの”Time (Clock of the Heart)”をしぬほど聴きたくなったがiPodに入っていなかったので、かわりにPeter Hammillを聴いて帰った。

7.17.2016

[film] Sing Street (2016)

12日、火曜日の晩、有楽町でみました。 ほぼいっぱいだったのでびっくりした。

85年のダブリン、14歳のコナー(Ferdia Walsh-Peelo)は、失業した父親 & 不仲でかつ不寛容な両親のおかげで格下の(でも規律はうるさい)カトリック系男子校に転校させられて、ふんだりけったりのつまんないことだらけで、そんなある日、道端で見かけたすてきな女の子ラフィーナ(Lucy Boynton)の気を惹きたくて俺バンドやっているんだけどビデオに出てみない、て誘って、そこからマネージャーやったるていう変なガキを拾って、そいつのつてで楽器一式持ってて演奏できて作曲もできる奴とかそのたメンバーを都合よく見つけて、練習を始める。

曲やバンドのイメージは家でだらだらぷうをしているコナーの兄(Jack Reynor - “A Royal Night Out”でエリザベスの相手してた彼ね)が折々の人生相談ふうにレコ棚から投げてくれるやつからそれふうに - 「未来派」とか”Happy Sad”とか - 持ってきてマネしてみれば一丁あがりで、この辺も極めていいかげんでてきとーで、でもこんなもんだったのよね。

こうしてバンドのレパートリーは増えて、PV作りに彼女も参加してくれたり曲に涙してくれたり、だんだん仲がよくなっていくのだが彼女にはつきあっているちゃらい男 - カーステでGenesisなんか流してる - がいて、そいつとモデルになるためにロンドンに行こうとしているので絶対絶命で、他にも両親の離婚とかいろいろ降りかかってきて、明日はどっちだ? ていうきりきり青春映画なの。

John Carneyの”Once" (2007) も”Begin Again" (2013)も音楽がまんなかにあるドラマとして決して嫌いではないのだが、彼の作風のもつアイルランドっぽい熱やバタ臭さていうのは、この映画が描こうとしている80年代の青春とうまく整合しないのではないか、という懸念があった。 けど、そんな悪くなかったかも。(もちろん、やろうと思えば一晩中ぶつぶつ言っていられるよ)

曲作りにDanny WilsonのGary Clarkが参加しているから、というのもあるのかも知れないが、でも彼以上に80'sふうへっぽこソングを作れるひとはいっぱいいっぱいいたはずだ。みんなどこに行っちゃったんだ?

ラストは『小さな恋のメロディ』の中高生版、と最初は思ったのだが、どちらかというと『さらば青春の光 』 - “Quadrophenia”のほうかもしれない。80年代の青春を描くのであればこっちかも。

赤いほっぺのコナーもちょっとぎすぎすしたラフィーナも、メインのふたりの容貌がなんだかとてもいいの。 ああいう子たちいたいた、ってかんじ。

欲をいうと、始めてバンドで音を出したとき、合わせたときのどきどきするかんじが少しだけあって欲しかったかも。 バンドものとしてはあまりにあっさり出来すぎている。

Motörheadの“Stay Clean”から快調に走っていって、わざと、微妙にメインストリームから逸れようとしているかに見える音楽は語りだしたらとってもきりがないのだが ー。

"Rio"を出した時点でDuran Duranはスーパーグループになっていたし、あれは82年だし。 あの周辺でいちばんかっこよかったベースはJohn TaylorではなくてKajagoogooのNick Beggsだったとおもう。

あと、U2の名前はなんででてこないのか、なぜNew OrderではなくてJoy Divisionなのか、Cureを入れるなら”Inbetween Days”ではないのではないか、とかいくらでもあるよ。

またみたいなー。

7.16.2016

[film] Money Monster (2016)

7月3日の日曜日の晩、六本木で見ました。 結構混んでいた。お金ネタはみんな好きなのね。

Lee (George Clooney)は人気お茶の間財テク(なんてもう言わないか..)番組のホストで、Patty (Julia Roberts)はその番組のプロデューサーで、その番組内で買いだよ買い! て推奨していたIBISていう投資会社が自社のアルゴリズムのバグで$800億の損をだした、ていうニュースがあって、それでも番組はこれは一時的なものだからまだIBISは買い、で推そうとしていて。

番組が始まってからしばらくしてピザのデリバリーを装った若者Kyle (Jack O'Connell) が押し入って銃を乱射しLeeに爆弾チョッキを着せて、IBISの件で大損こいて文無しになったのはてめーらのせいだどういうことだか説明しろ変なことしたらふっとばす、て番組をのっとる。

一番いいのはIBISのCEOを番組に繋いで彼の口からきちんと説明させることだ、とすぐに捜しにかかるのだが、彼は出張かなんかで機上のひとで、でも調べていくと機上どころか世界のどこにいるのかわからない、なんかおかしいぞ、とIBISの広報担当ですら疑い始めるようになる。

Kyleの言うこと - こういうのが自己責任だっていうのはわかっている、でも散々TVで煽ったりする連中に本当に責任はないのか? それにアルゴリズムのバグってなんだよ? てめーらにとっちゃ、ごめん、で終りかもしれないが、こっちは家族も含めた人生ぜんぶ背負って賭けてんだわかってんのか? - とTVに向かって訴えることはなんかもっともで正しくて、こういう事件が起こってしまったという事実も含めて、仕組みの異様さ - まさにMoney Monster - が見えてくる。

韓国のプログラマー、北欧のハッカー、アフリカの労働争議の現場、などなど世界をぐるりと繋いで追っかけられていくコトの真相と、Kyleを捕らえてLeeを救出する - でもふたりの間には連帯感のようなものが芽生えている、ていうドラマがウォールストリートの真ん中に物理的に、野次馬群衆も含めて寄っていって、そして。
ていうのがTVでぜーんぶ中継されて世の中に曝される、という。

経緯も動機も、その背後の怒りも哀しみも、すべてが曝されて可視化されたその先 - このネットの、このレールの上に幸せはやってくるのか?  ていうテーマ - 今のこんな時代にいかに正義は可能となるのか - はかつて例えばTony Scottさんが追っていたものだったが、今はJodie Fosterさんがやっている。 Jodie Fosterさんは正義のひとなのだった。

そして俳優さんたちは - George ClooneyもJulia RobertsもJack O'Connellもみんな絶妙に巧い。
あのままTV放映したって誰も驚かなかったのではないか。 (いや、驚くだろ)

そしてNY1のPat Kiernanさんは今回もふつうにキャスターをやっていた。 あなた本業はどっちなの?

[film] Les rendez-vous de Paris (1995)

6月11日の土曜日、こんどはアンスティチュの方でロメールを見ました。 これは見たことなかった。
デジタルじゃなくて、こっちは35mmフィルムのロメール。 これはこれでいいのなー。

『パリのランデブー』。  英語題は、“Rendezvous in Paris”

3話構成のオムニバスで、各話の始めと終わりに街角で変なかっこした男女のふたり組の歌が入る。 各話の登場人物からすると、おちょくってんのかてめえ、て思うはず。

Le rendez-vous de 7 heures : 7時の約束
試験前勉強で忙しいエステルは恋人のオラスとべたべたなのだが、彼が自分と会っていないとき - 7時に別の女とカフェで会っているという噂を聞いて動揺して上の空になって、マーケットで買い物中にナンパされた男に7時にそのカフェで会いましょ、と言ってみる。
その後で財布がなくなっていることに気づいてあのやろー、と思うのだが、その晩に別の女の子が財布を届けてくれる。
その子が彼とカフェ(あのカフェ)で7時に待ち合わせてるの、て言ったのでぴんときたエステルは、彼女について行ってみるとやっぱしオラスが現れたので、このくそやろうー て中指を。 
そこにナンパした野郎も現れるのだが、なすすべもなし。

Les bancs de Paris :  パリのベンチ
彼は郊外に住む教師で、彼女は同棲中の恋人がいて、ふたりでパリのいろんな公園で逢瀬を重ねていくのだが、彼が自宅に連れこもうとしてもなかなか来てくれなくて、屋根のないとこでしか会えないのでなかなか親密になれない。
彼女の同棲相手が親類の結婚式で留守にするというので、じゃあぼくらもどこかへ行こう、と彼は誘って、彼女は観光客気分でパリのホテルに泊まりたい、前から気になっているとこがある、と。
当日スーツケースをもってわくわくして行ってみると、同じホテルに 彼女の恋人が別の女と入っていくのが見えて彼女はがっくし。 彼はいいじゃんあんな奴、てこっちに寄せようとするのだが、彼女は恋人がいないんだったら、あなたなんて、という。(暗)

Mère et Enfant, 1907 :  母と子 1907年
画家のアトリエ兼住居に知り合いの知り合いくらいの紹介でスウェーデン娘が訪れて、この娘は絵にはぜんぜん興味ないらしいのだがそれでも近所にあるピカソ美術館に案内して、じゃあ8時に会おう、て告げて家に戻ろうとしたところで別の娘とすれ違って、彼女に導かれるように再びピカソ美術館に戻り、怪訝な顔のスウェーデン娘に向かって気になる彼女が立ち止まって食い入るように見ている『母と子1907年』の絵のところで彼女に聞こえるように絵の説明をして、その後美術館の外まで彼女を追いかけて、問い詰めてみれば彼女は新婚さんで、それでもめげずにがんばると彼女はアトリエまで来てくれるのだがなんも起こらなくて彼女は帰っちゃって、彼は未練たらたら絵筆を - 。

えーつまり、どのお話しもあと一歩のところで躓いたり滑ったり空振りしたり、天を仰いでがっくりするのは男のほうでとってもいい気味で、で、これらの男たちはぜんぜん懲りずに同じことを繰り返していくにちがいない。 パリのランデブー、ていうのはそういうもんなんだって。

これがニューヨークのランデブーになると、1話目のオラスの前カノと今カノは親密になって、2話目のホテルに入って行った女と先に入られた彼女は鉢合わせして仲良くなって、3話目のスウェーデン娘と新婚の彼女も仲良くなって、結局オトコ共はみんな打ち棄てられて、そうなった者達はみんな親密になるのだが、でもみんな永遠に幸せにはなれないの。 たぶん。

7.13.2016

[film] Independence Day: Resurgence (2016)

9日の晩、低気圧でぼろぼろになりつつ蓮實重彦 + 工藤庸子のトークに浸かって、頭はぱんぱんで、少しガス抜かないといかん、て思って六本木でみました。  ... さらにぐうったりした。

更に前日からのシャルロット繋がりでもあって、それにしてもシャルロット、もうちょっと選んだら?  とか。

予告で、Jeff Goldblumが「こりゃ前のよりでっかいぞ」とか言っているのを見た時点でこりゃろくなもんにはならんぞ、と予感して、向こうのレビューもぼろかすだったので、ある程度覚悟していたが、だいたいその通りなかんじ。たしかに前よりはでっかい。 けどそれで?

前作の襲撃から20年たって、地球人は月に基地作ったり、エイリアンをこまこま捕えたりやっつけたり次に備えはしていて、Will Smithは死んでて、Bill Pullmanはがたがたよぼよぼで、新しい女性の合衆国大統領が立ってて、寝たきりの老人とかいろいろ、元気で動けるのはJeff Goldblumくらいで、変な動きのあったアフリカに行ってシャルロットと出会って、エイリアンが残した謎の記号の解読みたいのにかかって、他方で月の前線基地にいるLiam Hemsworthとか若者チームがリニューアルして現れた敵を迎えうつ方で。

エイリアンの謎とか弱点を探る学術チームと、そうはいっても実際にでっかいのが来てしまったので食いとめるためにがんばるチーム(かっこいい系とバカとか野獣とかいろいろ)と、それにかつての戦いを知る老人たちとか偉そうな政府連中が絡んで、ぐちゃぐちゃになったところにこまこました出会い(ありえないような偶然ばっか)と別れ(おまえにはまだ先がある、だの)がまぶされてくるので、まあせわしない。 ふつーに考えたらあの4800km(だっけ?)だかのでっかいのが降りてきて地球にがりがり穴掘り始めた時点でぜったい全面降伏ださようなら、だと思うのだがとにかく諦めがわるい。

よくあるバカ映画のひとつ、て見て笑って済ませればよいのだろうが、相手が折角でっかくなって帰ってきたのだから、バカのスケールもでっかくなってほしかったなあー。 前作のRandy Quaidみたいな威勢のいい特攻野郎がいなくなったのがきつい。

あと、リアルできつい方でいくのだったら、この20年の間に"District 9” (2009) みたいのも出てきてしまったので、それもバカにとってはかわいそうだったかも。

覚悟を決めたBill Pullmanがヒゲを剃ってきたとこはおかしかった。 そんな暇と元気あるのか、と。 "10 Cloverfield Lane"でJohn Goodmanがヒゲ剃って出てくるとこがあるのだが、やっぱしヒゲ剃るのってオトコにはだいじなことなのね。

シャルロットの相手は、このJeff Goldblumにしても前日のBenoît Poelvoordeにしても、"Nymphomaniac"のStellan Skarsgårdにしてもだいたい同じ臭気もった顔だよね。 あんな奴らでいいの? て思ったけど、そういえばパパも...

あの海賊みたいな連中はなんだったんだ。 あんなおいしい仕事はないぞ。

次の20年後のやつが更に巨大なバカになって帰ってくることを祈るばかり。 
それまでにこっちは死んでるだろうが。

[film] 3 cœurs (2014)

8日の金曜日の晩、アンスティチュの『恋愛のディスクール』特集でみました。
この特集、ほんとうにすばらしかったのだが、これが最後の1本。

そしてこれも、掛け値なしにみごとな1本でした。 『3つのこころ』

フランス郊外の街でパリ行きの最終電車に乗り遅れたマルク(Benoît Poelvoorde)はじだんだふんで悪態ついて、しょうがないので駅前のバーに入って、そこで煙草を買いにきたシルヴィ― (Charlotte Gainsbourg)を見かけて、そこを出てふたりで並んで歩きはじめる。 始めは駅前のホテル見つけてチェックインしてお別れ、のはずだったのだが、何かが彼を引き留めて、ふたりで夜の街をふらふら彷徨って高台から朝日を眺めたりして(「砂漠で日の出を見てみたいな」)、マルクが電車に乗って帰るところで別れるのだが、互いの電話番号は教えずに、金曜日の7時に、公園で会おう、ていうの。わかるはずよね、と。

金曜日の晩、シルヴィ―は待ち合せの場所に来るのだが、マルクの仕事 - 監査とかやっている会計事務所みたいなとこ - が伸びて、あと少しのとこですれ違って、それきりになる。

シルヴィ―は夫との間がぎすぎすしてて、彼の仕事について米国に行くことになっていたのだが踏みきれず、でもマルクのことも無くなってしまったので諦めて、実家 - ママ(Catherine Deneuve)と妹のソフィー(Chiara Mastroianni)がいる - から旅だっていく。
シルヴィ―が発ったあとで、彼女とふたりでやっていたアンティーク店の帳簿が極めててきとーに放置されていたことが発覚し、どうしようって泣いていたソフィーを助けてあげたのがマルクで、ふたりは急速に仲良くなって、ソフィーの家でマルクは暮らしはじめる。 

ある日、ソフィーのPCのSkype越しに互いの姿を確認したふたりは愕然として、やがてマルクとソフィーの結婚式で里帰りしたシルヴィ―は、マルクを見てもまだ信じられない思いで、でも同時になにかに火がついて燃え広がっていく。

シルヴィ―とソフィーの間には姉妹の固い絆があって、やがて子供が生まれたソフィーとマルクの間の絆もあって、でももうひとつ、シルヴィ―とマルクの関係もまた、ふたりにとっては狂おしくて抗うことができなくて、断つことのできないものだったの。

マルクとシルヴィ―の出会いのシークエンスの繊細さ、再会したあとに暗がりで確かめあうふたりの猛々しさ、小さな風が起こって、それが時間と共に嵐のようになっていって、でもソフィーのこともあるから秘密はなんとしても守られなければならず、そんな様をサスペンスフルな音楽がそのまま突風として盛りたてる。

ひとはなんでそれでも、そんなふうになっても、ひとを求めてしまうのか、その予兆、予感、期待、などなど説明できないかんじ - かといって狂気にも向かわない囚われない - も含めて、これって恋愛そのものよね、と思うのだった。

そしてこれはものすごい俳優同士の殺し合いみたいなトライアングルの映画でもあって、その上階 - 大家にCatherine Deneuveがでーん、ているという — 。

ラストも泣けるんだようー。 こういうのを恋愛ドラマっていうんだよう。(誰に…?)

7.12.2016

[film] The Heiress (1949)

5日の火曜日の晩、シネマヴェーラのキューカー特集でみました。

『女相続人』

Olivia de Havillandさんの100歳お誕生日お祝いと、原作はヘンリー・ジェイムズの「ワシントン・スクエア」だというから。

優秀でブリリアントな医師である父(Ralph Richardson)とワシントン・スクエアの邸宅に住むキャサリン(Olivia de Havilland)は、刺繍が好きでおうちに籠りがちで、尊敬する父からは何事につけ亡くなった母と比べられるのであーあ、なのだが、おば(Miriam Hopkins)に連れていってもらったパーティでモリス(Montgomery Clift)と出会ってぐいぐい押してくる彼にぽーっとなって、父にも会わせてみるのだが、父にはこいつは遺産相続金狙いのろくでもないやろうだ、と断定されてあったまくるのだが、間髪入れずにそのまま頭を冷やせと父とふたりで半年間のヨーロッパ旅行に連れ出されて、戻ってきたらやっぱし忘れられないし彼も待っていてくれたので、ほうらやっぱし彼しかいない! て強く思うのだが、父は断固NO! なのでもういいわ縁きるわ、てモリスに駆け落ちしてちょうだい、ていうのだが、縁切りのことに触れたとたんモリスはぴく、ってなって、キャサリンはそこから夜通しずっと駆け落ちスタンバイして待っていたのにモリスは現れなかったの。

そこから時が過ぎて、ヨーロッパ旅行で体を壊したらしい父は亡くなって、憑りつかれたように脇目もふらずに刺繍漬けの日々を送るキャサリンのところに髭をはやしたモリスが現れて。

悪意とかいじわるとかキャサリンをみんなひどくいうけど、自分の亡妻の素晴らしさ(=そんな素晴らしい女性と結婚した自分えらい)を基準にしてしか他の女性を見ることができない父親も、美貌や相性以前にやっぱベースは金よね、て裏で思う二枚舌モリスも、そんなモリスを(そんなモリスだから)玩具にして遊んでしまうおばも、どいつもこいつも一見普通のようでいて性根は腐っているのでキャサリンはその毒にやられちゃったんだよね、てふつうに思う。 ほんとかわいそうなキャサリン、としか言いようがない。

だからほんとは最後、モリスを家に入れてあげて、その後でホラー映画か"Home Alone"かみたいにぼこぼこの串刺しにしてやればよかったのに。 ここまででじゅうぶん怨の字ホラーの要素たっぷりなんだから。

Olivia de Havillandさんの演技のすごさ。 わたしはあなたに全てを捧げています、ていうのと、あなたが言っていることは全てわかっていますわ、ていうのを並列処理して見せる表情の微妙さ、複雑さ、それらの統制  - そのベクトルが愛の歓びから憎悪に変わったところでどんなふうになっちゃうのか。
それはそれはなんというか、すさまじいのよねえ。

リメイクするとしたらモリス役はJames Francoさんしかいない、ておもった。
キャサリンはいっぱいいてむずかしいねえ。

[film] The Women (1939)

6月21日火曜日の晩、シネマヴェーラの特集『ジョージ・キューカーとハリウッド女性映画の時代』でみました。

『女たち』

なんでいま、キューカーなのか、は単に評伝本が出ただけかもしれないが、見れるのであればこんなにめでたいことはないわ。

けどなー。83年修復版のデジタルリストアされた『スター誕生』 - 2010年にTCMで公開されたやつ - を入れてほしかったなあ。あれ、大画面でみると怪物のようにすごいのよ。

この映画は2011年の暮れ、当時長期滞在していたロンドンのICA (Institute of Contemporary Arts)でその月の定期上映みたいな枠でやっているので見て、大好きになった。 あのときは紙芝居みたいに小さい画面(でもフィルム)で、大学生くらいの女の子たちがきゃーきゃー言いながら見ていたなあ。

冒頭、登場人物ひとりひとり - もう知っているとはおもうけど、画面に出てくるのはぜんぶ女性、女性しか出てこない - のキャラクターが、動物の顔と一緒に紹介されてておもしろくて、失礼しちゃうわ、なのだが、ポイントはここで行われた抽象化、というかシンボル化が - それが高度なものかどうかは別として - ストーリー展開も含めて全体を貫いている。

高級エステサロンにやってくる人々のシュールな描写からはじまって、ぺちゃくちゃきんきんした噂話、ゴシップライターがいて伝言ゲームで、その噂がまさか自分のものとは、と思っていたら見事にひっかぶって、更に最悪なことにそこで言われていた夫の浮気はほんもんらしく、しかもその相手ときたら自分と比べたらどう見たって... で、新婚のときにはあんなに幸せだったのにこんなにかわいい娘もいるのに、母に相談しても仲間に相談してもぱっとせず、結局元に戻らないまま夫とは離婚してRenoで同じような仲間と暮らして、他方で浮気相手と一緒になった夫と娘のほうは案の定散々らしいのだが、もう関係ないし知らないわよ、でもやがて、やっぱし、きたきたきた、みたいな。

男が出てこない、のとおなじように、ひとりにならない(複数形の「女性」)、というのも基本ルールにはあって、誰もひとりで悩んだり泣いたりしなくて、絶えずだれかと(電話を通してでも)なにかおしゃべりをしている。そのおしゃべりが出来事や人をからからと転がしたり回したり。その過程で誰が敵で誰が味方なのか、が明確になって、どちらに行くのか留まるのかがはっきりして、 ピタゴラスイッチみたいに上へ下へ、自在でとりとめないようでいて、実は決まりようがないところにしか、決まらない。落ちない。

話の内容だけ聞くと、どこかで聞いたようなどろどろ系の、困ったもんだね、みたいなご近所話なのだが、この映画にはそういう感覚の底にどかどかあがりこんできたり感情の襞にねじこんでくるようなところがない。 集団のダンスやマイムを見ているような、工場(けっこうやかましい)の自動工程を見ているような、そういう戯画化されたハイパーなおもしろさがあるの(唯一画面がカラーになるファッションショーのプラスティックなかんじとか)。 ロマコメとしての展開は十分におもしろいから、倍おいしい。 しかも時代とかに制約されない。スタイリッシュていうのはこういうこと。

※こないだ出た評伝の著者Gavin Lambertは、『女性たちは一人として自分のあさましさを気にかけていない、妥協していない。だからこの映画のコメディの部分は色褪せないのだ」て書いている。

SATC(映画じゃなくてTVシリーズのほう)は、明らかにこの線を狙ったものだと思うのだが、きちんと評価できるようになるにはもう少し時間がかかるのではないか。(← なんでだろうね?)

とてつもなく醜悪で残酷で体にわるくて、でもスイートで、悪魔のように巨大なパフェみたいなかんじ。
でもひとはそんなジャンクな張りぼてについふらふらと寄っていってしまうの。

で、それを”The Women”、と ...

[theatre] Man and Superman

3日、日曜日の午前、六本木でみました。
National Theatre Liveの『人と超人』。230分あっというま。

おねがい:特別料金の3000円を3500円にしても構わないから、ゴミ以下としか言いようがない宣伝と予告をOFFにしてもらえないだろうか。頭痛と吐き気と悪寒がいっぺんにきて最悪で惨めすぎる。

バーナード・ショーの1903年の戯曲。
ホワイトフィールド卿が亡くなって、残された娘アンの後見人となった金持ち頑固じじいのラムズデン(Nicholas le Prevost)とジョン・タナー(Ralph Fiennes) - 「ドン・ファン」の現代版で進歩主義者で独身快楽主義者で - がいて、アン(Indira Varma)は情熱的でパワフルでしたたかで、彼女を崇拝する詩人のオクテイヴィアスがいて、彼の妹のヴァイオレットはアメリカ人の金持ちバカと結婚しようとしていて、その他にきらきらよくできた運転手のストレイカとか。

セットはモダンな現代ので、主人公は携帯もスポーツカーも持ってて変革に向けた啓発本「革命家必携」も書いてるセレブである、と。
お話しはアンの後見人に指名されてやなこった、とわーわー騒ぐタナーが地の果ての砂漠地帯まで逃げまくるのだが、結局アンの蜘蛛に捕まって、万事休す、みたいなお話し。 その間に社会主義山賊とか悪魔との対話とか、アナーキズムとは進歩とは超人とは、とか結婚と自由と、などなどを巡る会話が転がされたりして、字面だけ追うと確かに難しくて高尚そうでなんだけど、実はどこにも落着せずに各自言いたいことを好き放題言っているだけの下世話でじたばたしたファミリーコメディにしかならない、ていう。

そのギャップのおもしろさにはふたつの側面があって、いくら小難しい理想掲げても結局そういうところにしか落ちないのよね、ていうのと、いやむしろだからこそ革命を、みたいな話と。 で、その回転扉を徹底して会話劇のなかに浮かびあがらせることで英国的な揺さぶり、というかおちょくりをかけようとする。

スウィフトとかオースティンの英国気質にニーチェとかドン・ファンに代表される欧州観念論をぶつけてみて、どんなもんや? とかいうの。

ていうような理屈ぬきでも、単純にアメリカのTVでやってるコメディドラマみたいにへらへら見ていられて、とにかく楽しいったら。 おいらが村でいちばんいけてる、かっこいい、て思いこんでるあんちゃんが、都会の姐さんに散々いたぶられてぼろぼろになっていく様を悪魔と一緒に眺めていくの。 趣味のわるいアメリカ人の富豪と一緒になっちゃえば十分幸せかもしれないのにー。

Ralph Fiennesさんはほんとにチャーミングで楽しそうで、デス声でがーがー呻いていたヴォルデモート卿の頃とはぜんぜん違ってて、”The Grand Budapest Hotel” (2014) での彼のノリを数倍高速にしたかんじ。

演出のSimon Godwinさんはこの秋にBroadwayでチェーホフの『桜の園』をやる、と。
キャストにDiane Lane、Celia Keenan-Bolger、そしてTavi Gevinson!
(また行こうかなあ、むりかなあ)

7.09.2016

[film] Le genou de Claire (1970)

6月4日の土曜日のごご、『満月の夜』に続けてみました。『六つの教訓話』のいつつめ。
ここまでくるともう離れられない。 あたまのなかはロメールのゆるゆるお花畑が満開に。

『クレールの膝』。 英語題は“Claire's Knee”。

もうじき結婚する中年外交官のジェローム(Jean-Claude Brialy)が湖畔の別荘を売るために滞在しようとモーターボートで颯爽とやってきて、旧友で小説家のオーロラ(Aurora Cornu)と偶然に再会する。 彼女が借りている別荘の持ち主にも紹介されて、そこの娘のローラ(Béatrice Romand)と会うようになって、この器量はいまいちだけど生意気な小娘との恋愛おしゃべり、というか、絶対に発展するわけがない関係をどうやってやり過ごしたり転がしたりするのか(or 我慢するのか)、ていうのが前半のラウンド。 

で、その次にようやく現れるのがローラの義姉のクレール(Laurence de Monaghan)で、彼女はローラと比べると一般的にはより美人さんですらっとしてて、でも行きも帰りも車でぴったりくっついている彼がいるので攻略の難易度は相当なもんなのだが、さくらんぼを摘み取る彼女の滑らな膝のラインと肌理にやられてしまったのと、どうせ暇だしいけるところまでいってみるか、みたいになる。

その合間にオーロラとジェロームという「大人」たちがその恋愛ゲームの成り行きや倫理みたいなことについておしゃべりするところがまたやーらしくて、なんだこの有閑階級は、になるのだがそれはこの映画を見ている我々の視線の反映、としてもあるの。

『モード家の一夜』や『コレクションする女』といった前の教訓話と比べると主人公の男が結婚しているぶん、さほど焦らずにふんふん優雅に獲物に近づいていくし、その視野も「結婚相手」とか「ビキニ女」といったところから「膝」みたいなよりマニアックな特定部位に寄っているので、やらしい。 しかも手ぶらで終っても平気だもん、みたいにしているところも更になんかやらしい。大人って…

クレールにべったりだったようにみえたカレが街で別の女と逢い引きしているとこを目撃したジェロームはその隙にしめしめと彼女を誘いだしてボートに乗っけてあげると、にわかに天空かき曇り雷鳴轟いてふたりは避難してふたりだけになって、ジェロームはクレールに、というよりクレールの膝に。 触れる。

この教訓話のなかで女性は海や山とおなじような「自然」で、制御できないなにかだと思うのだが、その自然と女、のテーマが最もスリリングに象徴的に描かれているのがこの場面で、天候がすごいんだかロメールがすごいんだかわからんが、それでも男はモーターボートでしょんぼり戻るしかない。 少し昔だったら乗り物はお馬で、もう少しはかっこよかったかもしれないのに。

有楽町でのロメール特集はここまで。

7.06.2016

[film] Les nuits de la pleine lune (1984)

6月4日の土曜日の午後、有楽町のロメール特集でみました。

『満月の夜』。 “Full Moon in Paris”

シネ・ヴィヴァンで見て以来。 懐かしすぎて手足をばたばたさせたところで30年は…
『六つの教訓話』シリーズはへらへら見て「ばかじゃのう」で済んでしまうけど、この作品に関しては俯いて溜息をつくしかない。
満月の夜に満月を見ると、「満月の夜」だあ、て思ってつい東京タワーを探してしまい、岡崎京子の漫画を思い浮かべる、という連鎖から一生逃れることはできないのか。それはそれでじゅうぶんばっかじゃねえの、とか思うが。

パリ郊外のアパートに恋人と同棲しているルイーズ(Pascale Ogier)の、主に夜にぐるぐる回りながら人間くっついたり離れたりあれこれのー。  決定的な出会いも別れも、誰かが死んだり殺されたり自殺したり発狂したり、もなく、ただ背景に流れていく人々と時間と。

孤独であることと誰かと一緒につるんでいること、あるいは、完全に孤独でありたいと思うことと誰かと一緒にいたいと強く思うこととは、相反するものではなくて、するする服を着替えるようなもので、誰も完全にひとりにはなれないし、完全にわかりあえるひととは出会えないし、でもひとりでありたいし、出会いたいと強くおもう。 
だからひとはひとところには留まらずに夜のあいだもずっと人魂のように彷徨っていて、それが常態化してみんな暗くなると誘蛾灯のまわりをふらふらしていた、ていうのがあの時代のパリだろうが東京だろうがのありようで、その空気感がきれいに捕まえられていることに改めてびっくりした。

インテリアデザイナーをやっているルイーズ、恋人と同棲しているのに別の部屋を借りようとするルイーズ、恋人と同棲しているのに他の男を探してしまうルイーズ、朝の白々した郊外のアパートにひとりですたすた帰るルイーズ、彼女のあんな服こんな服、しかめっ面、むくれ顔、いきがり顔、焦燥、目の強さ。  彼女とはどこかですれ違っている。 彼女はわたしだ、と思うひとが1000人くらいはいる/いたはずだ。

ほんとうに不思議なのはそこで、なにをもって自分はこれを自分の時代であり時間だと、自分の領土だと断言することができるのか、ていうこと。 遠くに行ってしまった犬が自分ちに帰っていけるような何か(犬のほうに? 家のほうに?)があるのかもしれない。

ロメール + Néstor Almendrosが印象派的なアバウトさで風景(連作)のなかに切り取った男女の心象はここにはなくて、あるのはRenato Bertaが写真のような緻密さで切り取った夜の風景 - 灯りの周りに群がる蛾の粒粒とその周囲に広がる闇とそのコントラスト - で、夢を再現したみたいだ、と思った。 夢の世界では自分が絶対の王なのね。

ロメールの作品、というよりこれはPascale OgierをRenato Bertaが撮った作品、としてしまってよいのかも。
上に書いたようにここでのPascale Ogierは女優だなんだ以前に、圧倒的にそこにいる。彼女自身が満月のようにひとり輝いてある。

ただ、音楽だけがー。 ディスコでかかっているやつ、あんまりにも、いじわるか、ていうくらいださすぎる。  でもひょっとしたら、あんなもんだったのかも、と思ってしぼんだり、とにかくいろいろ心乱されること半端なかった。

7.05.2016

[film] Vingt et une nuits avec Pattie (2015)

『パティーとの二十一夜』。  英語題は“21 Nights with Pattie”

ラリユー兄弟特集、『描くべきか愛を交わすべきか』に続けてみました。
ものすごくおもしろくてびっくりした。 これがなんでふつうに公開されないのか、ちっとも理解できない。

夏の真っ盛り、フランスの山奥の村にキャロリーヌ(Isabelle Carré)がやってくる。 疎遠だった母が急死したので葬儀のために母の住んでいたお屋敷「秘泉荘」に滞在して、母と親しかった村人とも会うのだが、母の友人だったパティ―(Karin Viard)は会うなりべらべら猥談(自分がやったりやられたりしたすごいはなし)を始めて、夫も子供もいる、でも最近不感症になっているキャロリーヌには目が点で、へんな村、へんな人たち、と思って宿に戻るとあったはずの母の遺体が消えている。

警察はあてにならないというので憲兵隊に連絡して、ネクロフィリアかもしれない、とか言われてぞっとして、しかたなく滞在予定を延ばすことにしたら母と親しかったという老人ジャン(André Dussollier)が現れて、母の遺体はどこかに消えてしまいました、ていうと激昂したりして謎で、でも後で母の書斎の本を調べてみたら、ひょっとしてこのひとは作家のクレジオかもしれなくて、更に母と知り合った年からすると自分の父親なのかもしれない、とか思ってうっとりしたり、パティ―の息子の青年は自分に気があるに違いない、と思ったり、気がありそうなのは、変な木こりのドゥニ・ラヴァンとか、憲兵隊のおやじもそうだし、なんか急にモテるようになったのかも、とか、パティーのいっていた狂おしいスッポンタケの林とか、そもそもママはどこに行っちゃったのよ! とか、なんだかとっても気忙しく、落ち着かない。

いなくなった母も含めて、あんたらみんななんなのよ! で妄想も含めてあたまのなかがぱんぱんに膨れて、半ばやけくそで村祭りの盆踊り(あのバンドすてき)に出かけ、暗闇のなかの雷雨・豪雨もきて、彼女は。そして母は。

突然向こう側に行ってしまい、更には遺体ごと消えてしまった母を経由したのか彼女が仕組んだのか、キャロリーヌのなかの何かが開かれ、吊るされた鹿の皮がばりばりめくられてしまうように、何かが見えるようになって、やっぱし愛は交わすべきか、みたいになる。

おとなの国のアリス、おっかなくない幽霊話、怪奇譚、あんまやらしくない猥談、などなど、すべてがあけっぴろげで大らかで、みんなずっと酔っぱらってばかりで、いいなあー、だった。 
しかもあの村はほんとうにあって、パティ―もドゥニも実在のモデルがいるんだって。

ブニュエルみたいな、ラテン系の大らかさ(ほとんど「ばんばん!」しか言わないドゥニ ... )がたまんない、なにがたまんないのかというと、真夏の夜の眠れない狂おしさが伝染してきそうな、むずむずしたかんじがやってくるから。

もうひとつ、夏の夜のどんちゃん騒ぎに対比される主人を失った「秘泉荘」の暗さと静けさ、揺らぐカーテンとか。 そこにゆらーりと浮かんで舞う ...

監督ふたりのトークもおもしろかった。 なんともいえないうさん臭さとやらしさ(ほめてます)を湛えていて、Blonde Redheadのあの兄弟みたいな。
兄弟監督でいうとタヴィアーニ兄弟の「カオス・シチリア」を思いだした。たんにいま見たいだけかも知れないけど。

あと、2本通してSabine AzémaとAndré Dussollierを久々に見てやっぱしうまいよねえ、て思った。
(アラン・レネも見たくなった)


ああそれにしても。 朝目覚めて大切なひとがいなくなってしまったことを知って寝床から起きあがれなくなるという日々をなんとかしてほしい。 今年はあまりにきつすぎる。
お願いだからいかないで。

7.04.2016

[film] Peindre ou faire l'amour (2005)

2日の土曜日の午後、アンスティチュの特集のなかのラリユー兄弟の3本、のうちの1本。
『運命のつくりかた』は2012年の特集 -「映画とシャンソン」で見ていて、大好きやなつだった。
そして今度のもすてきすぎ。

『描くべきか愛を交わすべきか』。 英語題は“To Paint or Make Love”。

長年連れ添ったウィリアム (Daniel Auteuil)とマドレーヌ (Sabine Azéma)の夫婦は終の住処、というほどではないが引退後に定住する場所を探していて、山のなかの原っぱに囲まれた大きな山荘/農家を見つけてよいかも、て思う。 画家のマドレーヌがそこで風景画を描いていると原っぱの向こうからアダム (Sergi López)がやってくる。盲目の彼は、この村の村長で若く美しいエヴァ (Amira Casar)とふたりで近所に住んでいて、こんど一緒に食事でも、となって4人で仲良くなっていくのだが、ある晩、火事でアダムの家が全焼して焼け出され、ウィリアムの家に身を寄せて一緒に暮らすことになって、更にいろんな親密さが湧いて、少しの軋轢もでてきたので、ふたりは南太平洋のフツナ(だっけ?)に行ってしまう。

太平洋から一瞬戻ってきたアダムとエヴァと話した彼らも、その島に惹かれるようになって、うちも移住しようか、と今の家を売る決意を固めるのだが、売りに出した家を見にきた若いカップルとまた親密なことになって、なんかやっぱり売るのやめようかな、と。

文章で書くと変なかんじだけど、映像はフランスの山間の美しい風景、そのゆったりとした夕暮れ時から夕闇、闇夜の濃さと、老いと死(による別離)が見えてきた初老の夫婦の手探りの不安、それがアダムのガイドによって和らいで、闇夜の野道を歩く感覚を身につけて、だんだんに増していく親密さ/酩酊/エロスへの希求を大らかに、絵を描くように(→ゴーギャンとか)浮かびあがらせていて、すばらしいとおもった。

常に闇の世界にいるアダム、新たな家で闇の暗さ/黒さを意識するようになった夫婦、無垢で豊潤なエヴァ、光がゆっくりと消えていこうとするとき、ひとはどこに向かってなにをしようと思うのか? 食べる、飲む、踊る、歌う、絵を描く、愛を交わす、などなど。

戸惑い、失望、ためらい、どきどき、やっちゃった、あーあ、などを互いに解りあった夫婦間の呼吸みたいなところに落とさずに、別のカップルとの出会いとか森の闇の深さから逆照射して浮かびあがらせて彼ら自身に再発見させるような描きかたをしようとしていて、それが少しもわざとらしくなくうまくいっている。 そういう演技ができる俳優さんたち(Daniel AuteuilとSabine Azémaの繊細さときたら)であるが故、なのだが。

あの森の夜闇とアペリティフと柔らかな灯が、老夫婦を錯乱させて狂い咲きさせてしまった、それだけの映画なのかもしれないが、それにしてもすばらしく豊かで官能的な表現があって、”Nature Boy"の切なさもあって。 「描く」- 自分でなにか表現する - か「愛を交わす」 - 野性に身を委ねる - か、どっちもやってしまえばいいのよ、って。

[film] Torneranno i prati (2014)

5月29日(まだ5月)の日曜日の昼、神保町でみました。

「緑はよみがえる」英語題は”Greenery Will Bloom Again”。
でも緑色なんて出てこない。 カラーのはずだがモノクロの墨絵のように暗い光景がずうっと続く。

1917年の冬、第一次大戦中、北イタリアの雪山のなかでイタリアとオーストリアが塹壕を組んで対峙して睨みあっていて、互いにまったく動けない。でもこの膠着状態が続く限りにおいてこの一帯の安泰は保たれていて、イタリア軍兵士が歌いあげる民謡が月夜に響いて両サイドから喝采が起こったり、家族に手紙を書いたり読んだり、ベッドの端にやってくるねずみくんにご飯をあげたりしている。

ある日雪山を越えてイタリアの本部からの使いが二人現れて、ここの無線は傍受されているようだから新たな無線局をこの辺に作るように、と言う。この辺て言われた辺りは地図上はまっさらで正気か? 暇つぶしか? としか思えないのだが、命令だし、命令ということはここから外に出ろということですよね?  と軽く一歩踏みだしてみた兵士はあっというまに一発で…(この間合いときたら冗談みたいにすごい)。

で、その辺から突然爆撃が始まって、戻ることも進むことも留まることもできない地獄絵が広がっていく。戦争の悲惨とか狂気とか不条理、というよりも描き方としてはとてつもない雪崩が起きて半分以上の兵士が為す術もなく巻きこまれて亡くなり、半分が雪原に放り出された、という状態に近い。一方的にやられるしかない、とてつもない無力感だけがやってくる。 雪崩と違うのは、これをやっているのがついこの間、きれいな月夜の晩、同じ唄に聞き惚れて喝采してくれた反対側の兵士だった、ということだけだ。 それだけなんだ。

もうじき85歳になるオルミ監督が自身の父に捧げた76分。
『木靴の樹』で撮られた19世紀末の貧しい農村の風景と、この映画で撮られた20世紀初の戦場の風景と。
どちらも同じ国の、みな同じような家族がいる情景になるはず。 だった。

兵士が手紙に綴る「人が人を赦せないのなら人間とは何なのか」という言葉、更には、この凍てついた救われない雪山になんで「緑はよみがえる」というタイトルを付けることができるのか。

そして、同様の問いを示し続けたエリ・ヴィーゼルが亡くなった。
まだいろんなことを教えてほしかった。ご冥福をお祈りします。

7.03.2016

[film] La collectionneuse (1967)

5月28日の土曜日、有楽町で「モード家の一夜」に続けてみました。

『コレクションする女』。  “The Collector”

ロメールの最初のカラー映画(こんどはカラーのNéstor Almendros)で、『六つの教訓話』のよっつめ。

冒頭、ビーチでビキニ姿のHaydéeの肌をカメラがべったり追うのだが、身体のでっぱり窪みや皮膚の毛穴までものすごく鮮やかで鮮明で、これがコレクションする女。 食虫植物もの。

続いて缶カラに剃刀の刃をつけたりしてる三文アーティストのDanielがいて、更には野外のテーブルを囲んで恋人は顔か頭か性格かみたいな議論をしている男女のグループがあって、そこにいたのがAdrienとその彼女で、彼女のほうは彼の誘いをふってロンドンに発ってしまい、画商との商談のためAdrienがDanielの海辺の別荘にいくと、そこにいたのがHaydéeで、なにが本業なんだかわからない彼女はしじゅういろんな男を連れこんでだらだらごろごろしている(いいなー)。

最初はあんな女(蔑)、だったのだが自分にはなんだかつれないし、他方でDanielとも寝たりしているのでだんだん苛々気になってきて彼女を追いかけ始めて、でも結局は。

ファム・ファタールものではなくて、自分はそこそこいけているいけるはずと思いこんで育った鼻もちならない系の男が「は? なんであんたが/あんたに?」みたいにごく自然に振り回されてかき乱されてしょんぼり消えるようなやつ。 やっぱし女にはかなわないや、と男はいうのだがあんたそもそも圏外だから。
かんちがいすんなよ、ていうあたりが教訓?

すばらしい浜辺の陽光があって、神々しい女の子の肢体と微笑みがあって、それだけのものが充満している -  カメラはそれらを絵画のように再現する -  のに満たされないのは、なかなかいけない到達できないのは、男共の性欲ばかりでかわいそうにー、なのだがそれを見る我々はちーっともかわいそうだとは思わない、というやり口。 そういうのこそが美に対する、愛にたいする慎ましい態度を育ててくれるのだから黙ってろぼけ、とかいうの。
(反対に緑の光線とか青の時間にはしみじみよかったねえ、と思うのはなぜか?)

「モード家の一夜」を見てこれを見ると、夏も近いしロメールのレッスン(ほら、教訓いっぱいだし)に通っておかないとね、ていう感じになって、それもまたなんか懐かしいのだった。

7.02.2016

[film] 10 Cloverfield Lane (2016)

6月26日の日曜日の晩、新宿でみました。

たぶんネタバレすると思うのだが、でも「ネタ」ってなんだよ? といっつも思う。

おそらく、結末とか決着とかそういうことだと思うのだが、そんなの知ったところでどうなるのかしら? 食材を並べたところでおいしいかどうかなんて、誰にわかるっていうのかしら? (おれにはわかるんだよ、ていうひとが沢山いるのね)

JJAの映画はそういう意味では「ネタ」オンリーでできていて、ネタとして出てこないものは一切視界の外にあってわからないし、関知しないし、映画の画面に出てきたこと、そこで起こったことが全て、という作りになっている気がする。

“Cloverfield” (2008)ていうのがまさにそれで、なんでもビデオに録っておきたがるバカが経験したこと、あのビデオに映ったものがほぼ全てで、そこから先の、「あれ」がなんだったのか、どっから来たのか、名前はなんなのか、なんでいろいろ壊したり襲ってきたりするのか、なにひとつ明らかにされないまま、でもそんなの知ったこっちゃない状態であれらはわらわらやってきて、追ってくるからとにかく逃げるしかない、そういう世界のお話し、という点では繋がっているのかしら。 ← なんかばらしてる?

とっても人生が嫌になったらしいミシェル(Mary Elizabeth Winstead)が家を飛びだして車で道をえんえん走っていたら夫(Bradley Cooper - 声だけ)が電話をしてきて、ちょっと気を取られたその瞬間、車がひっくり返って暗転して、気がついたらどこかわからない部屋に鎖で繋がれていて、現れたのはハワード(John Goodman)ていうむさいでぶの巨人で、ここは自分ちのシェルターで外界は汚染されているから外に出たら死ぬぞ、て言われる。

とうぜん怪しいし信じられないので散々逃げるべく暴れるのだが、どうもハワードの言っていることは間違っていないようだし、食べ物はくれるし怪我も直してくれるし、大抵のものは揃っているし。 同じようにそこに逃げてきたエメット(John Gallagher Jr.)と3人で暮らそうとするのだが、やっぱり疑念が湧いてきてしまい、そしたらぼろぼろいろいろやばいのが出てくるのでやっぱし逃げるべし、になって、出てみたらなにこれ? な世界が待っていた。

巻き込まれ型サスペンスから監禁ホラーになって脱出モノになってからエイリアンだか宇宙戦争みたいになる。 ミシェルさんはとってもついてなくてかわいそうとしか言いようがないのだが、なんでこんなことになったのか理由は一切明らかにされない。そこには謎みたいなのがまったく、殆どないの。

何かが起こって外界と大気が汚染されて、それを予見していたハワードはシェルターを準備していてそこにミシェルとかエメットを匿われて、以前そこにいた女の子になにかあったらしいが一緒の暮らしに耐えられなくなっただけかもしれないし、ハワードがパラノイアみたいになっているのは、まあそういうひとはそこらにいるもんだし、それが嫌になったミシェルが外に出るのは自然だし勝手だし、そこで変なのが襲ってくるのも、地球外のなら、そういうもんでしょ。

だから、おっかないようー、にはあんまならなくて、ご愁傷様ねえ、なの。

あとは、”Super 8” (2011)にもあった(失われた or 失われてはならない)家族のおはなし。
ハワードが”Pretty in Pink”を見ているシーンがあるのだが、そのへん。