4.30.2017

[art] Queer British Art 1861–1967

美術関係で書いていなかったのをふたつ(とりあえず)。

Queer British Art 1861–1967
4月9日の日曜日の午前、Tate Britainで見ました。

イングランドおよびウェールズでの所謂ソドミー法 - 特定の性行為を犯罪とする法律 - が1967年に部分的に合法化されてから50年を記念して、1861–1967までのLGBTQ関連の(非合法)アートを集めた企画展。 3月頭に参加したNational Trustによるツアー”Queer city: London club culture 1918 - 1967”も同様の主旨によるもの。 そこでも言われていたが、ほんの50年前までホモセクシュアルは犯罪だったんですよ(信じられないよね)、って。

全体としてセンセーショナルだったりショッキングだったり、なにかを煽ったり暴いたりするような内容ではなくて、LBGTQが御法度だった100年の間に、それでも描いたり書き留めたり仲間に伝えたりせざるを得なかった静かな熱や揺れ、愛の在処は確かに感じられる。これら(を描くこと)が法に触れてしょっぴかれてしまうような何かだったなんてとても信じられない。今となっては。「今となっては」というのは今だから言えることなんだよ。

絵画以外には彫刻とか写真とかアクセサリーとか、Oscar Wildeが収監されていた監獄の扉とか、Noël Cowardのピンクのシルクのガウンとか、Joe Ortonによるブックカバー(Christieの「チムニーズ館の秘密」の猫表紙)とか。
ブルームズベリー・グループで部屋がひとつぶんあって、こないだのVanessa Bellの展示にもあったDuncan Grantの見事な男性たちの絵画、この企画展のメインビジュアルであるGluck (Hannah Gluckstein) の”Self-Portrait” (1942)もここに置いてある。 これ、大きい絵ではないけど、畏れ、不安、怒り、誇り、このポートレイトが浮かべる表情と眼差しはものすごくいろんなことを語っていて目を離すことができない。
他には、Laura Knight, Dora Carrington, Dorothy Johnstoneといった女性画家の素晴らしさも。
ずっと見ていって、そういえばあの人たちがいないよね、と思ったらDavid HockneyとFrancis Baconのふたりは別格でとってあった。 (Hockneyはすぐ上の階で回顧展をやっているので少しだけだったけど)

最後にキャプションをつけてみよう、のコーナーがあって、白紙のメモとペンが置いてある。いくつかの作品(のコピー)に自分の感想とか、自由にキャプションを書いて貼っておけるの。 じーんとする内容だったわ。

10月1日までやっています。この夏、英国に来ることがあったらぜひ。


Howard Hodgkin: Absent Friends
4月2日の日曜日の昼、National Portrait Galleryで見ました。
この展示が始まる直前の3月9日、突然亡くなって世界をびっくりさせたHoward Hodgkinのポートレートを中心とした展示(ポートレートのみの展示は初めてだって)。

展示のタイトルにもなっている“Absent Friends” (2000-2001)という作品があって、これがこの企画全体のトーンを決めている。窓を思わせる四角い枠のなかに滲んだ横の縞縞、だけなのだけど。

不在の友だち。 友だちは常に、いっつもそこにいるわけではない、という時間のことを言っているのか、友だちがいるべき場所(世界のいろんな場所)はいつも空いている、という空間のことを言っているのか、自分の頭のなかで友だちはそうなっている、と意識や記憶の状態のことを言っているのか、おそらくそのぜんぶ。「不在」という言葉や顔・貌のありようが頭のなかで反芻されて反復されて「友だち」への想いに反響していくさまや経過が画布の表面を埋めていくようで、しかしそこには寂しさも哀しみもひとりであることの決意のようなものもなく、淡々とその状態を日常の定点からスケッチしている。 そこに抽象画の不可解さや重ねられた意味の重さからくるとっつきにくさはなくて、とても親密な - そこに友だちが座っているかのような - 暖かさとエモーションがあって、不思議だった。 抽象画に相対しているかんじがなくて、まるで彼のリビングを訪れている「不在の友だち」を紹介されているかのような。それはまぎれもないひとりひとりのポートレートとして記憶を彩って後になって揺り動かしてくるのだろうな、って。

記憶のなかの友だちはいつもやさしくて、なんかかわいい - それが彼の絵の。

そして遺作となった”Portrait of the Artist Listening to Music” (2011-16)。
この作品のArtist(彼)が最後まで繰り返し聴いていた音楽はJerome Kernの”The Last Time I Saw Paris”とAnton Karasによる”The Third Man” (1949)のサントラなんだって。

この遺作の説明を含むこの展示内容全体を簡潔に説明している解説映像。
http://www.npg.org.uk/whatson/howard-hodgkin-absent-friends/explore/film


あああ4月がいってしまうよう。

[film] The Fate of the Furious (2017)

17日、連休の最終日の月曜日の夕方、BFIのIMAXで見ました。
タイトル、みんな”Fast & Furious 8”って言ってるんだからそれでいいじゃんなー。

冒頭、Dom (Vin Diesel)とLetty (Michelle Rodriguez) はハバナでハネムーンをしてて(今頃かよ、ってみんなつっこむ)、そこで地元の親分とチキチキマシン猛レースみたいないつものめちゃくちゃをやって楽しんでいると、物陰からCipher (Charlize Theron) が現れて、あなた一緒に来て仕事をするのよ、とある映像を見せて誘うとDomは素直に従って、やがて伝説のハッカーである彼女が世界中で爆弾を盗んでテロを計画していることがわかって、Kurt Russell - Hobbs (Dwayne Johnson)以下いつものチームが招集されるのだが、そこにDomはいなくて、追っかけっこを始めてみれば彼は敵のほうの突撃部隊のまんなかにいることがわかって、かつての仲間がいくら呼びかけたり説得したりしても聞きやしないの。

Chipherの一派は追尾できない飛行機で移動していて、Domはどこにいるかもわからないし、彼がなにかを握られて監視されてどうすることもできない状態であることはわかって、そういうなかでDomとどうやってコンタクトをとるのか、どうやって彼がそうなっちゃったのかを探るのか、とか。

このシリーズに関しては派手などんぱちがあって車とか街が派手にぶっとんだりぶっこわれたりするのを見れればそれでよくて、それらがいかに普段なんも考えていそうにない車バカ & 筋肉バカ & ハゲ共のパワーとかブラザーフッド、みたいのの間でぶちかまされるのか、が肝心で、その点ではNYの街中での車シャワーとかはいかにもバカだし、クライマックスの氷上の原潜との対決はスケール的にじゅうぶんなのだけど、頭脳だけでなんでも冷酷にやってのし上がってきた白人Cipherみたいのが敵になっちゃうと、これってどちらかというと007向けのネタだよね、とか思ってしまう。そういうネタ的な段差をあえて楽しむ、ていうのもありだとは思うし、Cipherは過去にはFuriosaという名で肉の修羅場を生き延びてきたツワモノだったのだ、とか想像することもできるかもしれないのだが、最後はやっぱり敵のでっかくて強いのとガチの殴り合いとか肉弾をしてほしいじゃん、て思うのはこっちの勝手だろうか。

それでも最後の最後には「ファミリー」の絆、がいろんなかたちで試されたり現れることになって、とにかくHelen Mirrenはやはり頂点のてっぺんにいたのだ、と。 それだけでよかったっんじゃねえの。
Jason Stathamの赤ん坊担いで殺しまくり拳、はおもしろかったし、Michelle Rodriguezさんの暗いこんちくしょうな眼差しをたっぷり見れたので、よいか。(でもやっぱり最後、Domを思いっきりぶんなぐってほしかったなー)

あと、“Mr. Nobody”がKurt Russellで、その部下のLittle NobodyがClintの息子、ってなんか。

すでにどっかの雑誌で言われていたけど、自動運転カーをリモートでハッキングしてあんなふうにしちゃうのは、まだぜんぜん夢のはなしなので、そこだけなー。 あれがあんなふうにできちゃったらラジコンカー対決とおなじになっていっちゃうし。

4.29.2017

[log] Parisそのた - April 2017

パリのお食事なんかのことを少しだけ。

今回の旅は絵とダンスを見るのが目的だったので、お食事は昼 - 晩 - 昼 - の3回だけ。迷ったり悩んだりする時間なんてないし、カフェでゆったり、なんてありえないのだった。 だからお店も3つだけ。

Buvette

NYのWest Villageのすばらしー朝ごはんスポットで、パリのも行かなきゃな、だったので問答無用で決めていた。15日のお昼、ルーブルとポンピドの間に。 でもアプリの指し示すままに向かってみたらリュクサンブール公園の真ん中に出てしまったので結構あたまにきた(お腹ぺこぺこだったの)。 お店のなかは、生野菜が無造作に転がっているとことか、椅子テーブルがきちきちのとことか、NYの雰囲気と笑っちゃうくらいそっくりだった(NYのが真似てるのか)。クロックマダムもクロワッサンも、あたりまえのようにおいしい。そりゃそうでしょうとも。

Ellsworth

オペラ座のあとに晩御飯を食べた。 バレエが終わるのは21:30くらいで、そんな時間に東洋人がひとりでお店の扉叩いても入れてくれないに決まっているので、遅くまでやっててレビューも悪くなくてオンラインで予約できるとこを事前に絞っていって、いくつかはもう予約いっぱいだったけど、ここは予約することができた。
アスパラガスとフライドチキンとパンナコッタと、ああやっぱりおいしいねえ、しかなかった。
特に野菜は明らかにおいしい。英国よか。 色まで味わうことができるような、そんなおいしさ。

食べおわったあと、真夜中はちょっと怖いかんじがしたので地下鉄ではなくてバスで帰った。

Clamato

日曜の昼、美術館をぜんぶ見終わったあとのランチ。 予約はとらないお店で、12時オープンなのでだいじょうぶではないか、と。 シーフード屋さんで、生牡蠣1ダース食べてイワシ食べてフィッシュバーガー(Clamato-O-Fishだって)食べて、デザートにメープルシロップタルト食べた。生牡蠣(ああ、憧れだったフランスの生牡蠣)、あれなら30個いけるかも。朝から。 いかん。こんなところに暮らしたら秒速でデブになってカエルみたいに破裂してしんじゃうわ。

泊まったところがサン=ジェルマン=デ=プレだったので、帰る間際にうろうろして、ドゥマゴのほんものだー、とか無邪気にチョコ買ったりジャム買ったりした。

あと、本屋は一軒だけ、土曜日の美術館ぜんぶ終わったあと、オペラ座に行く前、Shakespeare and Companyにだけ行った。聖地だし。 入り口の前に列ができてて、またかよ… て絶望的になったがとにかく並んで入った。 中に置いてある本は英米のインディペンデント系の書店にあるのとあまり変わらなかったので2階とかに昇って雰囲気だけ。 いいなー毎日きたいなー、だった。
一冊くらいお土産に、とここの歴史本 - ”A History of the Rag & Bone Shop of the Heart”をレジに持っていって、「ハンコ押す?」といわれたので「ういうい!」て押してもらった。子供か..

こんなもんかなー。 また行かなきゃなー。

TVで”Carol”やってる。胸がいたくなるけど素敵だよねえ。

[art] Vermeer and the Masters of Genre Painting

15〜16日にパリに行ったときの美術館とかを。

15日、電車でパリに着いてホテルには10時くらいにチェックインすることができて、これのチケットは11:30の枠を取っていたので余裕と思って行ったら広場ぜんぶに延々のびたすごい行列があって、並ぶしかないのか… と思って並んでみたのだがぜんぜん列は進まずに1時間が過ぎてしまい、これは見れないかもねえ、とゲートが見えてきたあたりでため息ついたら、チケットを持っているひとは別の入り口からすいすい入っていることがわかって、ばかばかばかのおーばか、って自分を罵りつつ中に入って見ることができた。

Vermeer and the Masters of Genre Painting  - 「Vermeerとジャンル絵画の巨匠たち」

Vermeerは気が狂うくらいに好き、というわけでもないのだが、どこかでやっているのでれば見る(日本ではもう見たくないけど)。90年代にあったWashingtonのNational Galleryでの大回顧展を現地まで行きながら見逃した恨みもあるけど、単にきれいだから。 絵画というのは350年くらい過ぎても、こんなにもきれいに輝いているのだなあ、って。 そしてその美しさは画集とかでは無理で生の目玉でみて始めてわかるものなのだ、と。

舞踏会とか楽器とか読書とか手紙とか学問とか、そういう四角の枠で切り取られたテーマ、シチュエーションで、それぞれの役割に応じて(やや過剰な)振り・動きや表情を浮かべる人々がうじゃうじゃ出てくる。 Vermeerを含むオランダの同時代の画家達の作品が沢山並んでいて、こういう中に置いてみるとVermeerは案外ふつう… なんかではやはりないの。どう見ても他の「巨匠たち」とはぜんぜん違うのよね。

「天文学者」と「地理学者」が並んでいるところとか、たまんなかった。

カタログ、どうしようか悩んで結局買わなかった。Vermeerは直接みるのに限るし。また旅をすればいいし。

Valentin de Boulogne: Beyond Caravaggio

Vermeerの隣でやっていた企画展。こちらも17世紀の、でもフランスの画家。Caravaggioの様式やテーマを継ぐ作家、ということで明暗のくっきりしたすごい顔した人たちが蠢く大判絵画がどかどかと並んでいるのだが、ちょっと前、ほんの50m向こうのほうでジャンル絵画のややちんまい、でも居心地よい世界に浸かってしまったあとで神話に地獄に天罰におお神よ、みたいなやたらドラマチックな世界に来てみると、なんか同じ世界で起こったことを描いているものとはとても思えなくて。
でも贔屓したいのはわかるけど”Beyond”はきついかも。Caravaggioの屹立する偉大さが際立ってみえるばかりなのだった。

で、美術館の外に出てから常設のほうを見るのわすれたことに気づいた…

Cy Twombly

The Centre Pompidouに行ったのは始めてて、チケット買っていなかったのでこれも中に入るまでに1時間くらい並んだ。

没後の大回顧で、色のついた絵、線のぐるぐるぐしゃぐしゃ、写真から彫刻までなんでも。
どれも乾いてすりきれていて、かさぶたか、かさぶたが剥がれてきれいな肌がのぞく直前か、かさぶたが剥がれそうだったので引っ掻いたらぐだぐだになってしまった、みたいな絵たちだと思った。
でもそのかさぶたの裏側にあるのはとても静かな石膏の肌のように滑らかな肌理の表面で、原美術館のときにも思ったが、彼の作品を連続して見ていくと絵の向こうからそういう静謐さとか落ち着きがやってくる。 モランディの世界に近いような。
あと、彼の写真も素敵だよね。 ああいうふうに世界を切り取るひとが、ああいう絵画に向かう。

英語版のカタログかった。

Josef Koudelka: La fabrique d'Exils

Pompidouの地下の写真のところでやってた。 昨年、Koudelkaはここに"Exils"の75枚を寄贈したそうなのだが、そのうちの35枚と、あとは同時期に撮られたアウトテイクスとか、旅日記のように纏められたスナップとか、こないだ彼のドキュメンタリー映画を見ていたので、そうなんだろうなー、と。

常設展示は走り抜けた程度。 デュシャンの便器アーカイブのコーナーにはデュシャン関連の世界中の本を纏めたライブラリがあって持ってるのが4冊くらいあった。

Rodin : The Centennial Exhibition

Pompidouのなかにいるときに、通り雨の土砂降りがあって、やめてー、だったのだが外に出たらきれいにあがっていて、そのままGrand Palaisに行った。 並び始めた時点で5時少し前、これも中に入るまでに1時間くらいかかった。

ロダン(1840-1917)の没後100年を記念してロダン美術館と共同開催している展示。
200以上のロダン作品、彫刻にドローイングに、彫刻でもでっかいやつから拳よりちっちゃい生首(ほしい..)とか、いっぱいと、彼以外のアーティスト - Brancusi, Picasso, Matisse, Giacometti, Willem de Kooning, Beuysあたりまでの作品を並べて置いたりしている。

ロダンを見るといつも「かっこいい身体」とか「原型」みたいな言葉が浮かんで、とにかくかっこいいなあ、しかない。 あんなふうにポーズをとって考えたいし空を仰ぎたいし突っ立っていたいし、あんなふうに抱擁したいしキスしたいし、みたいなことを切望して、でもできないので石膏固めにされるか石膏ぶつけられるかしちまえ、みたいになる。 ロダンを見ているとそういうため息の連続のなかで酸欠になることが多いのだが、今回は他のアーティストのがうまく隣や横で適当に(無言で)つっこんでくれたりしているので、なかなか素敵だった。

カタログは買わない。立体の展示だし。


Camille Pissarro : le premier des impressionnistes
日曜日の朝最初に行ったのがMusée Marmottan Monetでのこれ。パリでPissarroの回顧展が開かれるのは40年ぶりだそうで、展示されている絵を見ていくとヨーロッパだけではなくてアメリカのピッツバーグとかミネアポリスとかデンバーとか、よくこんなとこから運んで纏めたよね、な60点がびっちり並んでいて、それらを眺めていくだけで日曜の朝の散歩としてこんなに気持ちよいもんはなかった。

前日のロダンではないけど、Pissarroが描いた田園風景とか小道とか、その光や奥へと誘う広がりとかって、その後のいろんな写真とか映画とかに緩やかに反映されて(好きな言葉ではないけど)「原風景」みたいになっているんだろうな、とか思った。

Marmottanに来たのは初めてで、Pissarro展以外で訪れた理由としては有名なMonetの常設展示のほかにBerthe Morisotのコレクションがあるからで、それもすごくよかったの。小さな落書きみたいなデッサンもいっぱいあるし、Manetの描いた有名な彼女の肖像画も。

Pissarroのカタログは買わなかった、けどMorisotのほうを買っちゃった。

Baroque during the Enlightenment: 18th Century Masterpieces in Paris Churches

Marmottanの後、地下鉄の広告で見ていたやつを見たくなってPetit Palaisに行った。
混んでいたらやめよ、だったのだがぜんぜん列もなくてがらがらだった。

18世紀のバロックの光に溢れた絵画とか彫刻とかを広々したスペースにいっぱいに並べてある。
有名な、特別な逸品みたいのはないかんじ(たぶん)なのだが、展示してある場所がとっても気持ちよく荘厳で神々しいのでありがたやありがたや、って半部懺悔しつつ参拝するかんじで通り過ぎる。 Pissarroとは別の意味で日曜日の朝向けだったかも。

From Watteau to David: The Horvitz Collection

アメリカ人コレクターJeffrey Horvitzが集めたコレクションから、フランスのデッサン画を中心にあれこれいっぱい展示していて、どれもめちゃくちゃ巧くて構図も決まっててかっこいい。BouchardonにしてもHubert RobertにしてもGreuzeもFragonard(こいつ、変だけど)も。

ここの常設展示も、てんでばらばらで油断ならなくて、おもしろかった。


パリから戻った翌日の17日にはBrightonに海を見にいって、Brighton Museum & Art Galleryていうのを見かけて、”Constable and Brighton”ていう企画展をやっていたので入ってみた。 Constableは数年前にLondonのRoyal Academy of Artで規模大きめの企画展があって、このひとの海はすごいなー、て思ったのだった。 展示点数は少なかったけど、こじんまり纏まっていてよかった。この美術館、そんなに大きくないのに絵画だけじゃなくてファッションも映画も家具も陶器も、地元の収集品を中心にほんとうにがんばっていて感動した。
次の企画展のタイトルは”Jane Austen by the Sea” だって。 がんばれ!!

学芸員のこと悪く言った日本のクソ政治家、ぜったい許さねえからな。

4.26.2017

[film] The Handmaiden (2016) - Director's cut

イースターの4連休初日の金曜日の午後、SOHOのCurzonでみました。 『お嬢さん』。
(主役はどうみても下女の珠子のほうなので、英語タイトルのほうが正しいと思うのだが、日本だと... まあいいや)
こっちでは通常の144分のと、それより20分長いDirector's Cutの2種類を上映していて、どうせなら、と長いほうにした。

英国では公開前のプロモーションは相当やっていて、こちらのポスターは日本髪・着物の秀子がまんなかにでーんといるGeisha ! なやつで、あーあ、なのだが、レビューはSarah Watersの"Fingersmith"がどう料理されたか、などを中心に割と好意的なかんじ。

日本統治下の韓国で、山奥のお屋敷にメイドとして送られてお嬢さん秀子さまのお付きになったスッキ = 珠子は、秀子と結婚して莫大な財産をぶんどろうとするエセ伯爵と詐欺師仲間で仕込みを進めていくのだが、秀子さまのお世話をしていくうちに互いに惹かれていくものがあって、でも陰謀のほうも着々と進行していって、どっちにどう転ぶのか。

人里離れた閉鎖的な場所で、何人もの下女を抱えてやりたい放題豪勢に暮らす占領する側の貴族 - その内部でもいろんなオイエのダークな事情や駆け引きがあり、占領され、奴隷として働くことを余儀なくされる側にもそれなりの事情や駆け引きがあり、その両者間の水面下のねちねちやらしい攻防を描きつつ、水槽のタコ(あれ本物?)のようにそこからばしゃばしゃ溢れて止まらなくなる欲とか業とかを掬いあげて、愛の名のもとに水槽をばしゃーんてひっくり返してみよう、とか。

迫害・騙しあいを中心にした権力抗争のドラマと見るか、その関係が集約されてくる主人(複数)と下女との愛と憎しみの相克ドラマとして見るか、それらぜんぶを過去のいろんな記憶とか仕掛け - 建築物 - とかも含めて重層的に構築しようとすると全3部、2時間半はかかってしまうのだろうし、これだけの時間をかけていろいろ散りばめたが故にラストのカタルシスも効いてくるのだとは思うのだが、やっぱり、ちょっと冗長・重厚すぎたのではないかしらん。 あと、ほんとうに重厚なドラマにするのだったら男側の叔父さんとか、ちょっと役不足だよね。 TVドラマならありかもだけど。

でも主役の女の子ふたり(あと自殺してしまう叔母)だけはとても生々しくそこにあるかんじがしたので、それで十分だとも思った。

田中登とか神代辰巳だったらもっと古い屋敷のゴスでねっとり隠微なかんじを出せたと思うし、鈴木則文だったらもっと痛快でパンクなかんじにできたと思うし、でもそういうのはないものねだりで、今の邦画にこれだけのパワーをもった怪作を作れるかんじはしない。それがどうした、ではあるのだが、ね。

あと、本をあんなふうにしちゃうのはいけないわ。 ツタヤ並みにひどいわ。


Jonathan Demmeがあまりに突然逝ってしまい、彼の新作を見れなくなるというのがどういう事態なのか、とっても悲しい、と口でいうことはいくらでもできるのだが、まだきちんと飲みこめていない。 Neil Youngの新しい映像はもう見れなくなってしまうのか。
みんなそれぞれ思い出のライブフィルムやシーンがいっぱい出てくると思うけど、最近のドラマだと”Ricki and the Flash” (2015) から”My Love Will Not Let You Down”を。
ありがとうございました。 R.I.P.

[music] Caetano Veloso & Teresa Cristina

21日、金曜日の晩、ふたたびBarbicanに行ってライブ。チケットを取ったとき、引越し前日であることはわかっていた気がする。 でも引越し当日だったとしてもたぶん行ったのだとおもう。

もういっこ、同じ日でぶつかっていた少し悩んだライブがあって、Southbankでの"An Ambient Evening with The Orb & Friends Electrical"ていうアンビエントの人たちがいっぱい出るやつで、アンビエントってライブでちゃんと聴いたことがないしな、だったのだがこれ4時間やる、って書いてあったので諦めた。 引越し前夜に4時間もライブで遊んでいるわけにはいかない  - でも結局どっちみちなーんもやらなかったよね、きみ。

これ、昨年10月の恵比寿のモントルーのに行けなかった復讐でもあって、Caetanoのライブってどれくらいぶりなのか、を掘ってみると、最後に見たのは2004年、Carnegie HallのDavid Byrneと一緒にやったやつだった。13年ぶり … やーねー。
もう四半世紀以上前(1990?)、考えたくもないくらいおお昔の日本青年館での初来日のライブで - 英国音楽の衰退とグランジの台頭で路頭に迷いかけていた自分の - 音楽観をひっくり返してくれたのが彼のライブで、以降NYでは結構通ったりしたのだが、ここんところはぜんぜんで、でも行きたいなー行かなきゃなー、だったの。

最初にCaetanoがひとりで出てきて、丁寧に会場に少しだけいる(笑)English Speakerのために英語でお話します、と(ぱちぱち)。
このコンサートでは、ギターとシンガー、3人くらいの最小構成でサンバのエッセンスを表現する、というのをやってみたかったのです、と。 うんうん。

最初にTeresa Cristinaさんとギター(7弦?)のCarlinhos Sete Cordasさんによるデュオ。
ギターとは思えない音域を自在に上下する分厚い伴奏にTeresaさんのゆったりどっしりとした歌唱が絡んで、びくともしない重心の低さと強さで吹きあげてくる。
一緒に歌えるような技術レベルではないので鼻歌でふんふんするひと多数。 MCでおもしろかったのはEscola de SambaのMangueiraの歌を歌うとき、あたしはずっとPortela(別の名門Escolaね)の歌い手だったんだ、これってどういうことかというと、マンチェスターのサポーターがチェルシーの応援歌を歌うようなもんなんだ、わかるか? って。 (場内爆笑)

40分弱のTeresaさんの歌のあと、間をおかずにCaetanoがギターいっぽん抱えて登場してさくさく歌いだす。
ああこれ、この声だわ。で、それだけでぜんぶ満たされて、音で満たされる、音が満ちてくるというのはこういうことなのだ、ということを思い出してうっとり。

6曲目くらいに"O Leãozinho”(小ライオンさん)を、それに続けて"Menino do Rio"を歌ってくれて、もうこれでいつしんでもいい引越しなんてどうなったっていい、になって、それからだれも「あの"Moonlight"の」なんて言わなくたってよい絶対の名曲"Cucurrucucú Paloma"をやって、英語のアカペラでCole Porterの”Love for Sale"をやって、最後は3人で"Desde que o Samba é Samba"をやって"Odara"をやって、2時間びっちり。 サンバがどう、ボッサがどう、という以前になんでこんなに不思議に響いてくるのか、なんでこんなに揺さぶられてしまうのだろう、てそればかり思っていた。思ったところでどうなるもんでもない、かきむしられてぼうっとして、それで終わりなんだ。
恋とはそういうもの。たとえばね。

それにしてもロンドンの人たちは、一緒に歌う歌う。 NYのライブではここまでみんなが歌うってなかったよねえ。ロンドンは60年代末、CaetanoとGilが亡命していた先でもあって、Caetanoのほうにも思い入れいっぱいあるようだった。

Caetanoはもう74歳で、それにしてはありえない声で、ずうっと、何度でも聴いていたい。

そして翌日の引越しのあいだは、小ライオンさんが足元にえんえんまとわりついてくるのだった。

4.25.2017

[theater] Obsession

からだじゅうがいたいよう。

18日の火曜日から20日の木曜日までのドイツ〜オランダ出張は、団体行動で言われるままに右に左に動いていたのでぜーんぜんおもしろいことないままに終わってしまった。
ひとつだけ、Essenで泊まったホテルの隣にMuseum Folkwangていうのがあって、そこでGerhard Richterの展覧会 - “Die Editionen.” - をやっていたことか。 あんなのやっているのを見てしまった以上、しれっと突入しないわけにはいかなくなって、次の会議までの合間の15分くらいで中に入ってざーっと見て、小さなカタログも買った。 “Die Editionen.”ていうのは「エディション」、つまりは「版」ということで、彼のプリントワークを中心に彼にとってのバージョンとか複製、といった考え方を提示している - メインのイメージはSonic Youthの”Daydream Nation” (1988)にも使われた”Kerze” -  ようだったが、そういう主旨のものであるから数だけはいっぱい並んでいて、きちんと見きれなかったのが残念だったよう。

あとは、帰りにロッテルダムからアムステルダムの空港に向かう電車 - ひとりで乗った - 早とちりして直行ではなく遠回りの各駅に乗ってしまい少しびっくりしたが、デルフトとかハーグを通ったので、ああこれがデルフトかあー、と思ったこととか。 アムステルダムの空港内のチューリップ屋さんとかチーズが… とか。(チーズ、買っちゃうよねあんなの)

ふだんチケットを買っておいてもこういう出張が入って諦めざるを得なくなるのはこれまで何十回もあって、これもあーあしょうがないかー、だったのだが、チケットをようく見てみると開始は19:45とあって、空港に着く予定は18:25で、こういう短距離の飛行機は遅れたりするので期待はしないけどひょっとしたら.. とかじわじわ思うようになって、そうしたらほんとに時間通りに着いちゃったので、待っていた運転手のひとに自宅ではなくbarbicanのほうに行ってください、とお願いして、とりあえず直行して、クロークに荷物預けて、見ました。

“Obsession” - ヴィスコンティによる1942年の映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(原作:ジェームズ・M・ケイン)をIvo van Hoveが舞台化したもの。休憩なしの一幕、1時間50分。

舞台の真ん中には上から自動車と思われるエンジンのついた機械(ボタンを押すと轟音でエンジンがかかって煙があがる)が吊り下がっていて、開演前からGiuseppe (Gijs Scholten van Aschat)はその下に横たわってなんか作業をしている。
この自動車は最後までそこに垂れていて、不機嫌かつ冷徹な機械として命令されるままに「機能」したり「作動」したりする。

そこにハーモニカを吹きながら野卑で自由なGino (Jude Law)が流れてきて、つまんなそうに座っていたGiuseppeの若い妻Giovanna (Halina Reijn) と一瞬で、衝動的に恋におちて、やがてGiuseppeに雇われたGinoと3人で暮らし始めるのだが、なんか違うとGinoは再び旅にでて、偶然再会したらやっぱり燃えあがってしまったふたりはうざいGiuseppeを殺してしまって…
(映画とは結末が少しちがうかも)

常になにかに飢えてて満たされないまま日々を過ごしているGino、年の離れた夫に同じく満たされず、といって他に行きようのないまま囚われの日々を過ごしているGiovanna、Giuseppeだけがほぼすべてを握って満たされていて、そのように振る舞って許されるエゴとパワーを持っている。

欲望や衝動のダイナミックな動きとそれが必然的にぶつかってしまう障壁と、同じくそこに必然的に現れる亀裂と訪れる悲劇と、それらのもどかしさはこれまでNTLなどで見てきたIvo van Hoveの舞台とおなじかんじなのだが、今回のはとっても官能的で生生しいかんじがした。 NTLでみた"A View from the Bridge"のMark Strong、NYで舞台をみた"The Crucible"のBen Whishawと同じようにJude Lawもするするあっというまに上半身裸になってしまうのだが、前のふたりの裸には立ちはだかる制度や偏見に衝突した果てに現れる生身の身体の切迫感があったのに対し、Jude Lawのは欲望の赴くままの剥き出しに自由を求めていて、それをきっかけにいろんな困難や問題がなだれ込んでくる、そんなふう。 それに正面から応えて飛沫をあげるGiovanna役のHalina Reijnも堂々と力強くてエロい。

Jude Law自身がそもそも持っているワイルドな力強さを改めてすごーいと再認識した。ヴィスコンティの映画にいかにも登場しそうな、端正だけどぎらぎらした野生を抱えこんだ貌をじゅうぶん堪能できる。

シンプルな舞台にプロジェクションしたりとてつもない音を被せたり、は今回も同様で、ラブシーンの際はふたりの重なり合う顔面がでっかく映し出されたり、えんえん走り続ける(しかない)Jude Lawの顔とか。音だとエンジンの爆音と野良猫撃ちの鉄砲の音がものすごかった。

終わって、ガラガラを転がしながら地下鉄で帰るのがしんどかったが、こんなの、その二日後に控えた引っ越しに比べたら屁でもないのだった。

4.24.2017

[log] April 22 2017 - お引越し

22日の土曜日に、3ヶ月間ということで借りていた仮の居場所を、もうちょっと長く - できれば2年くらいは - 居る(居たい)用の場所に移動 - お引越しして、いちおう今日の日曜日に元の場所に置いてあった荷物はぜんぶ新しいほうに移すことができた。
とってもしんどかった。 いか、記録・備忘として書いておく。

22日はご存知のようにRecord Store Day (RSD) 2017があって、引越しがあろうが戦争が起ころうが英国に来てこれをやり過ごすことなんてできないので、朝6時過ぎに起きてRough TradeのEastのほうに行った。いま住んでいる場所からいうとWestのほうが近いのだが、Westってちっちゃいし。 この日の開店は8:00で、お店についたのは7:20くらいだったが既に前方に100mくらいの列があって、あーあ、だったけど並ぶしかないので並んで、お店に入れたのは9:20くらいだった。

今回、なんとしてもほしいなー、だったのはThe Theの7inchとThe Durutti ColumnとSuperchunkくらいで、それらはぎりぎりで確保して、でもみんなすごい勢いでがしがし買っているものだからなんかつい(殴)。結局7inchを8つ、12inchを9つ、買った。 The Smithsの7inch、ほんとに”Trump will kill America”って刻んであるわ。 次はこれらを再生する機械一式を揃えないと。

レコードを抱えた状態で不動産屋に新しいところの鍵を貰いにいったのが10:50くらい、そのまま新しいとこにレコードを置いて、不在通知が来ていたケーブル・Wifi用のルーターを受け取りに20分くらい遠くにある郵便局まで歩いていって(これは計算してなかったわ)、出ていくほうの部屋に戻って荷物をざざーっと寄せ集めて蓋をして、13:30に予約してあった車(引越し用でもなんでもないただのワゴン車)が来て、そこから新しいところに大きめの荷物 - ダンボールふたつ、スーツケースひとつ、ガラガラふたつ、ずた袋ひとつ - を運んだ。

ここからが問題で、NYみたいにドアマンがいるようなところであればカートを借りたり、チップを渡して手伝って貰ってなんとするのだが、今回のはそうはいかない。どういかないのか。

車道から階段を4段あがって建物の鍵を開ける、そこから階段を11段あがるとその踊り場にエレベーターがある。エレベーターは自動ではなくて手動で、ボタンを押して(音がしなかったら来ている)、木の扉を手前に開けて、金網の扉を2枚分横にスライドして開けて、荷物と自分を入れたら手で閉めて行き先のボタンを押す。エレベータは3階までしかボタンがなくて、自分の部屋は5階にあって、3階で木の扉を開けて降りると階段を11段昇って右に4段昇り、さらに左に11段昇って、さらにぐるっと回って4段、そこから更に狭くて急な16段を昇るとようやく自分ちの扉までたどり着くの。 要するに忍者屋敷みたいに狭く曲がりくねった階段が2階分ついているので、暴漢とかゾンビとかに襲われたときは下に蹴り落としたり簡単にできるので便利だとか、The Blues Brothersがシスターに叩き落とされたのはこんな階段だったよねとか思ったりするわけだが、少なくとも今回のような引越しとかそれ以外の用途にはとっても向かないことがわかった。 なーんでこんな構造になっているのか。 なーんできみは今頃そんなこと言いだしてるのか。

ここと契約するまでに3回くらいここに来て、見て、考えて決めたはずなのだが、その時なにを見ていたのか、なんかおもしろいかも、程度だったのではないか。ほんとにくそ愚かものすぎる。

とにかく、でっかくて異様に重いのを6つ、ひとりでひとつひとつ持ち上げて運びあげるのは普段いっさいスポーツしない、筋肉とか汗かきがだいっきらいなキリギリスにとってはバチ当たりとしか言いようのない苦行難行で、更に早朝に約2時間立って並んでた疲れとか集中力の途絶とかいろいろあって、自分のなかの24人格のうち20人格くらいが、ふだん友達とか作っておかないからこういうことになる、とかいろんな表情で責めたててきたのだが、途中で放り出すわけにもいかないし、へろへろになりながらなしとげましたよ。

で、それで終わってしまったわけでは当然なくて、まだ運びきれなかった大量の紙とか本とか盤とかゴミとかが前の部屋には残っているので、それらはガラガラとずた袋を転がして担いで歩いて往復して運ぶ。 新と旧の間の距離は(たまたま)歩いて10分くらいだったのでそういうことができたが、遠くのとこを借りたらどうするつもりだったのか。 とにかく、土曜日はもうひと往復したところでもお無理だしぬ、になって、あとは布団一式(ベッドはもともと置いてある)を買いにハロッズに行って売り場のおばさんの言われるままに揃えて、布団一式ってこんなに重かったのね、と再びひーひー死にそうになりながら地下鉄で戻ってきて、でもそれらをセットしないと寝れないので最後の力をふりしぼって広げたり包んだり被せたりして、夜はこれとは関係ないお食事の用事があったのでそちらに行って、食べて椅子に座っているだけで両方の足がそれぞれ5回くらい激しくつって、このまま帰れなくなったりアキレス腱きったりしたらあまりに恥ずかしいどうしよう、になるのだった。

日曜日はがらがらとずた袋の往復2回で荷物の運びこみはほぼ終えて、あとはドライヤーとか電話機とかちっちゃいのをあれこれ買いにいって、こういうのはほんとうは楽しいはずなのだが、体じゅう痛いし花粉(突然いろんなのが大量に咲きだしてる)だか埃だかで目鼻がずるずるしだしたし、なんかどうでもいいかも、になってきて、気分かえよう、とフィンランドの映画を見たりしてた。

明日もいろんなセットアップはつづく。 じんせいは日々セットアップなのよ。

4.21.2017

[film] Mad to be Normal (2017)

9日の日曜日の夕方、AldgateのCurzonで見ました。
新作映画なのだがなぜかふつうに公開されないようで、この映画館のみ、この日の午後の2回、監督と主演のDavid TennantさんのQ&A付きのと挨拶のみのだけで、でもどっちもSold Outしていて、見たのは挨拶のみのほう。

精神科医R.D.レインが60年代にロンドンの東につくった患者たちと医者(レイン)が共同生活しながら治療をしていくコミュニティ施設 - Kingsley Hallでの日々を綴ったドラマで、R.D.レインのお話だったら見なきゃ、ということで行った。座席にはMental Health Foundationていうとこが発行している”Good mental health for all” ていう小冊子が置いてあったけど、いや、こういうの見にくるような人たちはぜんぜん平気なのでは(← ていうやつがいちばん)。

お話はKingsley Hallでの臨床ケースがいろんなとこで評判になりつつあったR.D.レイン(David Tennant)と彼の周りに集まってきたいろんな協力者とか敵とか患者とかとのいろんなエピソードなどを追っていく。 彼のところに押しかけてくるElizabeth Moss、患者のMichael Gambonとか, Gabriel Byrneとか、うまい人たちで固めているのであーあ、みたいなふうにはなっていない。

監督・原作のRobert MullanさんはTV用のドキュメンタリーのほかに、同名の本"Mad to be Normal: Conversations with R.D. Laing" (1995) を始めとしてレイン関連の本を書いているひとなので中味に関しては何の問題もない、ていうかむしろ、あえて学問寄りの内容にならないようにがんばりすぎてレインの目指したところが見えにくくなってしまったのではないか、とか。レインをよく知らないひとがこれ見たらタバコ吸うしドラッグやってるしすぐ子供つくるし喧嘩っぱやいし、ただ規格外なだけのやばい医者にしか見えないかも。

今の学校や若い人たちの間でどれくらいレインが読まれているのかいないのか、ぜーんぜんわからないのだが、SNSとかで強制的に繋がることを強いられている - 結果としてその輪から排除されてしまうことへの病的な畏れがある、のを見たり聞いたりすると(いや、わかんないけどね、これもまた目くらましかもしれない)、あんま読まれていないのかなあ、と思ったりする。

レインやベイトソンを10代の頃に読んでいなかったらしんでいた、ていう人は多い(自分もそう)と思うが、彼らは心の病を内面の疾患ではなくコミュニケーションの病と置いた。コミュニケーションていうのは親子のそれだったり教育のそれだったり、或は言語(構造)そのものだったり、要はぜんぶ自分ではないそいつらのせいにすることができた。 そういう考えのパスがどれだけ自分を楽にしてくれたか、「ふつう」とか「あたりまえ」といった線引きの思想がどれだけ他者を傷つけ自身をも抑圧してしまうものなのか、あるいは、ひとを好きになればなるほど「自分」は壊れていくものなんだとか、知っておくだけでも違うと思うんだけどなー。

「ダイバーシティ」とやらがこれだけ叫ばれなきゃいけないのも、「ふつう」とか「標準」といった思想、それをベースとしたコミュニケーションへの過信・盲信がしょうもなく浸透して壁を作ってしまっているからだと思うの。「コミュニケーション」だの「繋がる」だの、詐欺とかウィルスとかみたいなもんだからね。 それらを当然のように強いてくる連中のほうが狂ってるんだからね。
(ダイバーシティそのものを否定するもんじゃない - ていうかそれが常態なのだ、ということはねんのため)

Kingsley Hallは結局閉鎖されて患者たちは出ていかなければなりませんでした、というキャプションと共に映画はぷつりと終わってしまうのだが、いやいやそうじゃなくて、レインの思想は明らかに(万能ではなかったにせよ)多くの人を救ったのだし、いまもその可能性に溢れているんだし、ていうことはちゃんと伝えてほしかったんだけどなー。

Elizabeth Mossさんは貫禄としか言いようがないすばらしさで、あとGabriel Byrneのオカルトっぽい狂いようはそれ既にどこかでやってるでしょあなた、みたいなやつだった。


これのあと、晩の8時からPrince Charles Cinemaで”Interstellar” (2014) の70mm版ていうのを見た。
日本で公開されたときも有楽町で35mmのを見てあーら素敵、と思ったのだが、70mmはさらに素敵になる。 これって宇宙は塵と埃と本棚のなかから生まれる、みたいなやつなのだが、70mmだと塵の塵感が更にものすごくてマスクしたくなるくらい。
ブラックホールとか理屈のところはぜんぜんうさんくさくてわかんないのになんでか感動してしまうのも不思議で。終わってロビーにでると黒縁メガネの女の子たちが、なんかわかんないのにいつも泣いちゃうのよー、あーあたしもー、とか抱きあっているので微笑ましかった。


BBC2のJools Hollandの番組にChristine McVieさんが出てるよう。

4.20.2017

[film] Dance Craze (1981)

夕方にオランダから戻ってきました。 空港からbarbicanに直行して、Ivo van Hove + Jude Lawによる”Obsession” - Viscontiの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 - の舞台翻案を見て、さっき帰ってきた。
へろへろ。あさってひっこしなのに。

イースター四連休の前日、13日の木曜日の夜、Prince Charles Cinemaで見ました。
撮影のJoe Dunton氏が私有している70mmフィルムでの上映。これまでDVD化とか一切されてこなかったブリティッシュ・スカ全盛期のライブドキュメンタリー(上映前のトークで同氏はこういうのは”Spoof documentary”、て呼ばれたのだと)。
で、とにかく35mmを70mmに焼き直してサウンドはアビイロードスタジオでリマスターしている、世界にいっぽんしかないフィルムでの上映だからね、と。
サントラは日本でも発売されてジャケットも憶えているのだが日本での上映ってあったんだっけ? (上映後のトークで日本でも上映されて盛況だったって...)

日付(79年の11月、Tottenham Court Roadのクラブだって)や曲名、バンド名のキャプションは一切なくてMCも入らず、The Specials, Madness, The Selecter, The Beat, The Bodysnachers, Bad Manners、この6バンドが1〜2曲演奏しては次のバンドの映像、を3周くらい。知ってる曲もあれば知らないのもある、けどどのバンドのどの音もおっそろしくしなやかで固くてかっこよくて、勢いがとてつもない。みんな笑っちゃうくらい若いけど。 客側はスタンディングでずっと元気に跳ね回っているけど、バンドの方はどれもこれも緊張しているのか真剣そのものでにこりともしない(除. Bad Mannersのハゲ)。Terry HallもSuggsもPauline Blackも歌に向かうテンションはパンクのそれと変わらない。最後の”Nite Klub”なんて客をぜんぶステージにあげてお祭りになってるのに、Terryだけぽつんと暗いまま。

いまなにを言っても言い訳にしかならんことは承知の上でいうが、このフィルムをリアルタイムで見ていたらなー、だった。当時この辺の音はまずファッション = 2トーンで決めて、みたいな伝来のしかたをしてて、それ聞いただけでじゅうぶん関係ないわ、だったの(そんなもんにお金かけられるかボケ)。でもこのフィルム見ると誰も2トーン服なんて着てない、ただのTシャツでやってるし、ほーんとにさあ、日本の音楽-ファッション業界のプロモーションってこの頃からクソだったのよね、と改めて。 でも、じゃあこれを見ていたらどうだったかというと、わかんないや。79年から83年くらいまでって、聴きたいのがほんとに山積みでレコードに針を落とすたびにいちいちぶっとんでいたからこの人たちのところまでたどり着けたかどうか。

でも、こんなふうに35年くらいたって出会ってびっくりすることもまだまだあるのだからよかったことにしよう。

客席は年寄りばかり、曲ごとにわーわー盛りあがってて、終わるとありがとうJoeおじさん!!  てみんな心の底から言ってた。
これまで音が劣化するのが嫌だったのでデジタルを含めたソフト化は拒んできたがIMAXのフォーマットならよいかも、と思いはじめたそう。広く上映されてほしいなー。


これの前にRough TradeのEastでH.Grimaceていうバンドのインストアライブやってて見にいってた。 少し前にデビュー盤が店頭でかかってて - 店頭でかかっているやつはなんでよく聴こえるのかしらん? - その場で買ったのだがダウンロードコードがなかったのできちんと聴けてなくて、ライブはレコードよか柔いかんじだったけど、でもいいの。

4.19.2017

[film] The Author of Beltraffio (1974)

オランダのロッテルダムにいます。ニシン食べたいよう。

書けていないのがいっぱいあるので少し遡って駆け足で。
4月の7〜9日までBFI & Radio Times Television FestivalていうのがBFI Southbankぜんぶを使って開かれていた。 英国のTV番組とかドラマを中心にしたお祭りでいろんなゲストが来て楽しそうなのだがTV事情はぜんぜんわからなくて、それでもふたつだけ参加した。

The Author of Beltraffio (1974)

8日の午前、BFIのアーカイブから発掘されたというTony ScottがフランスのTVシリーズの一部として監督し放映されたHenry James原作の短編。このHenry James作品ばかりをドラマ化したシリーズ、全7エピソードあって、他の監督はClaude Chabrol - 2篇撮ってる - とかVolker Schlöndorffとか、1エピソードの脚本にはMarguerite Durasの名前もある。ぜんぶみたい。
上映前に兄Ridley Scottさんのビデオメッセージが流れて、Webで流れていたのよか少し長いバージョンで、弟にとってこの作品を作ったことは大きな一歩になって、この後暫くしてScott Freeの前身となるプロダクションをふたりで立ち上げて… 云々、とても愛の篭った言葉だった。

映画は、というかドラマは、TV用なので50分強しかないのだが、原作(未読)は1884年の短編”The Author of Beltraffio”で、英国のサレーの田舎の尊敬する作家 Mark Ambient (Tom Baker)の邸宅を訪ねたアメリカ人の若い作家が、憧れでぼうっとしつつも異様に夫のことを毛嫌いしている妻 Beatrice(Georgina Hale)と美しく病弱な息子を見て複雑な思いに捕らわれるのだが息子はやがて死んでしまって... というやつで、英国の古いおうちの佇まいの光と影とか、とても丁寧に撮られて作られていることはわかるのだが、これを作ったひとが後のTony Scottになるとは思えなくて(よい意味でね)、あえていうと息子の一瞬のこちらに訴えかけるような視線をサスペンスフルに、しかししっかり受けとめるところが少しだけ"Man on Fire" (2004) を思わせたりした。かも。

上映後に妻を演じたGeorgina Haleさんのトークがあって、彼女も放映されたのを見て以来の再見だと言って、客席からマニアックな質問もあれこれ飛んだのだが昔のこと過ぎて余り憶えていなくてごめんなさい、ていうのと、Ken Russell関連の、これもマニアックな質問ばかりが飛んでいてなんかかわいそうだった。

どうでもいいトリビアをいうと、ドラマのなかで死んでしまう美しい子供を演じた男の子ってLed Zeppelinの"Houses of the Holy"のジャケットに写っている子供(兄妹ででてる)なんだって。 そのへんも英国どまんなかだねえ。

Dame Maggie Smith in Conversation

同じ8日の午後、同じBFIのイベントでチケット取ったもうひとつがこれ。 チケットは発売直後に売切れてしまったのだがその後にじっくり粘って執念でとった。このおばあさんを嫌いになれるひとなんているだろうか? (いないよね)

司会の人との一対一のトークで、彼女がTVでシェイクスピア作品(「空騒ぎ」のベアトリーチェとか)のドラマ化に出ていた頃(もっとも古いやつで50年代頃)からのクリップを流しながら当時のこととか演技にかける思いとか、いろんなことを聞いて話していく。
昔のクリップを見る本人の反応は、あーやだやだやあねえ、というチャーミングな返しばっかりなのだが、きれいだよねえ。(いえ、今も)

他に言ってたのは、「ダウントン・アビー」はあんなに続くとは思ってなくてぜんぶちゃんと見てない、もう長過ぎて見れなくなっちゃった、とか。 自分が出た作品の中でベストは? という質問では"The Lonely Passion of Judith Hearne" (1987)と即座に答えて、ここでのJack Claytonの演出は冴えまくっていたわ、と。見たいなあ。
あと、『ミス・ブロディの青春』はもちろん大好きな本だって。

Maggie Smithさんのなにがすばらしいかというと、どんなにひどい状況にあっても常に毅然とした態度を断固とり続けることで周囲の風景を喜劇的なそれに転換してしまう魔法を持っている、ということで、それこそが極めて英国的な俳優(われわれが英国の俳優に期待するなにか)なんだなあ、て改めておもったのだった。

[dance] Merce Cunningham / William Forsythe

ドイツにいます。ホテルのTVでやっている”The Simpsons”がドイツ語吹き替えでへんなかんじ。

15日の晩、パリ・オペラ座バレエ団をPalais Garnierで見ました。
最初は売切れがついていたので無理かなーだめだったらパリ行くのやめよ、くらいでだらだらやっていたらそのうち案外簡単に取れてしまった。(入ってみたらまんなかのボックス席だった..)

この季節なのでクラシックの演目はやってなくてモダンなのはわかるが、それにしてもMerceとWilliamを組み合わせるもんかね、とか思って、でもやはり見てみたいよね。

最初がMerce Cunninghamのでその後で休憩が入る。
WilliamとカップリングするのであればMerce後期のやたら複雑に錯綜した(でも全体はミニマルで穏やかな)群舞あたりかしらと思っていて、でも開演前に貰ったリーフレットを見たら"Walkaround Time"とあるのでちょっと待てこれってあれか、と白目むいて慌てたところで幕が開いてしまう。(演目くらい事前にチェックしておきましょう)

ステージ上にはMarcel Duchampの”The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even” - 「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(1915-23) の9つのオブジェ(Duchamp - Jasper Johns)が置かれていて、その周りで薄い色の異なる全身タイツ(これもJasper Johns)に身を包んだ9人の「独身者」たちが一見ランダムに見える、でもなにかに統御されているかのような動作を重ねていく。

Jasper Johnsがこのセットを作ったときの経緯とかはここに。
http://www.nytimes.com/2013/01/08/arts/design/jasper-johns-speaks-of-merce-cunningham.html

68年にNYで初演されたMerce Cunninghamの、というよりモダン・ダンスの、というよりモダン・アートの、記念碑的な作品。これの4時間くらい前、Centre Pompidouで100周年となる便器アーカイブの小展示を見て、これであとはMOMAを制覇すれば100年便器の旅は完結するわ、とか思ったのだが、Duchampが打ちこんだ小さなヒビは100年を過ぎて再び広がりつつあったりするのだろうか。

音楽はオーケストラピットにエンジニアぽい人がふたり(一人はおそらく作曲のDavid Behrman?)、最初は砂利の上を歩く音が、それから自動車のエンジン音が楕円の弧を描く客席のまわりをぐるぐる回っていくのがやたら面白く、更にオリジナルの舞台にもあった「幕間」 - ダンサーたちはステージ上で適当にだらだらする - のレディメイド(再演)もレコードプレーヤーで7inchを廻して(ほんとに音を出していたのかは不明)ノスタルジックな音楽と共に再現していた。

しかしこんなのよく再現しちゃうよなさすがだなー、ととっても興奮して見ていたのだが隣りに座っていた小さなお嬢さんにはありえないくらい退屈だったようで頬杖ついてママのほうを何度も何度も振り返り、ママもとっても困ったふうで休憩が明けたらいなくなってた。

やっぱし「独身者」の機能役割とか「機械」とか「さえも」とか、Duchampがあの退屈な大作に仕込んだいろんな「意味」とかその透過とか反射とかがわかんないときついかも - いやでも虫みたいな動きとか、緩慢さ退屈さも含めて新鮮でおもしろいとこいっぱいあるじゃん、とか思って見ていた。 偶然だったけど、見れて幸せだった。

後半はWilliam Forsytheの小品ふたつ。

最初の”Trio” (1996) は、ヴェルサーチのぎんぎんちんぴらドレスを纏った3人のガラ悪そうな男ふたり女ひとりが、衣装をめくって体の傷跡自慢みたいのをやりながらベートーヴェンの流麗な弦にのって小競り合いみたいな威張り合い威嚇みたいなどんなもんだい!ダンスを重ねていく。コミカルでおもしろいし、動きの難易度もすごいと思うものの、衣装のせいか畳み掛けるような突っこみ合いのせいかレッツゴー三匹、のような名詞が浮かんでしまったりもするのだが、それでもぜんぜんよいの。

つぎの”Herman Schmerman” (1992) は、最初に男女5人(男2、女3)がこれぞForsytheとしか言いようのないクラシックの流麗さとモダンのシャープネスをタンゴかカンフーか、の勢いでミックスしたような、息を詰めて見てわー、となるしかないやつで、その後に短い男女のDuoで終わるのだが、人数構成が変わっても絡み合いのテンションは持続して全く落ちなくて、それはいったい何処からくるのかしら、なのだった。

会場のPalais Garnierはなんかすごかった。 Metropolitan Opera HouseともCovent Gardenとも格がちがうかんじだった。アイスクリームも売ってないようだったし。

4.18.2017

[log] April 18 2017

よん連休が終わってしまったよう。
パリからは日曜日の夕方に「戻って」きて、ああ少しは「戻ってくる」かんじになったねえ、と思っていろいろ書きたいなー、と思ったあたりでばたんきゅーで意識うしなって起きたら月曜の朝になっていた。

パリでは美術館の間を行ったりきたりして、入場するまでのじっと並んで待つ時間がほとんどだった。あんなに並ぶもんなのだねえ、と。X線でチェックとかしているせいもあるのだろうが、そういう時代なんだなあ、自分たちがそういうふうにしてしまったんだなあ、とか思った。中で作品をみる時間のほうが短かったかも。 着いてすぐにルーヴル行って、ポンピドゥー・センター行って、グラン・パレ行って、晩にオペラ座行って、翌日はマルモッタン・モネ美術館に行って、プティ・パレに行った。 こんなかんじ。

行こうと思っていたのはだいたい行けたのでよかったのだが、先にも書いたように街中で迷ったり間違えたり並んだり、の時間がほとんど、そうとう無駄な時間の使い方をしている気がして、でも最初はそういうものだからしょうがないのよね。凱旋門すら見なかったかも、エッフェル塔は遠くに見えた、ノートルダム寺院とリュクサンブール公園はおろおろ彷徨って焦っているときに偶然出くわした、し、次はもっと楽に自在に動けるようになりたい。 そうそう自由の女神のおおもとのやつも偶然ぶつかった。 NYのは遠くでしか見たことないのだが、パリのは間近でみれたので嬉しかった。 
そういう状態だったので食べ物屋は、昼 - 夜 - 昼の3軒だけ。 カフェ? ぜんぜんよ。

月曜日はまだ連休の遠足気分が抜けなくて、天気がかんかん照りだったら考えたのだがどんより曇りだったので、海を見にブライトンに行って”Quadrophenia”ごっこ(海にぷかー)でもやろうかと思ったのだがぜんぜんそんなかんじではなかったので”I am the Sea”とだけ呟いてみて、美術館でコンスタブルみて食事して、夕方に戻ってきて IMAXで”Fast & Furious 8”みた。

いまはヒースローのゲートのとこで、これからドイツに行ってオランダに行って、20日の晩に戻ってくる。
すべてうまくいけば。 そしてうまくいけば、なんか更新できるかも。 わかんないけど。

ではまた。

4.15.2017

[log] April 15 2017

なんだか慌ただしくて、それなら毎日のように映画館で映画を見たりしなければよいのに、なのだが映画なんてたかだか2時間、ぼーっとTVみたりするかわりに暗闇にこもる程度なので、たいしたことなくて、たんにやることがいっぱいあるだけ、そういう時期なだけ、なのかもしれない、けど本当のところはわかんないわ。脳が忙しいかんじになっているだけなのではないか。

金曜日からイースターの連休に入って、金・土・日・月の4連休で、周囲に聞くとこの時期はみんなどっかに旅行するのだという、根がまじめなのでそうかどっかに行かなくちゃ、になったので土日と電車でパリに行ってみることにした。

パリは前世紀の終わりに出張で行ったときに半日くらいルヴルとオルセとロダンとピカソをざーっと走り回ったことがある程度なのでほとんど知らない。 最初は日帰りでもいいか、だったのだが、どうせならオペラ座でバレエでも見ようかしらと思って、それのチケットが取れたので一泊になった。 でもどっちにしても美術館とか本屋くらいしか行くところはないのだった。

いちおう、念のためがらがらは持って行くのだが、なんか買って運んで帰ってきても来週の土曜日は次の住居に引っ越すんだからね。荷物増えて首絞めてくたばるだけなんだからね、ていうのと、でもそんなこと言ったって、来週土曜日なんてRecord Store Dayじゃないか、どうすんだ? そっちのほうが致命的でやばいんじゃねえか、おらおら。
連休あけの火曜から木曜までは出張だし、どうしようもないじゃん。

ていうあたりが、冒頭のなんか慌ただしい、に繋がっていて、だってまだ”Beauty and The Beast”だって見れてないし。

地下鉄に向かいます。
ではまた。

4.14.2017

[film] Neruda (2016)

7日の金曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。 35mm上映。これももういなくなった詩人のおはなし。
"Jackie"を撮ったPablo Larrainが2016年に、"Jackie"より少し前にリリースしたのがこれ。

『チリの闘い  武器なき民衆の闘争』の頃のNerudaの話かと思っていたらちがった。

40年代、詩人としてはもちろん、チリ共産党の上院議員として十分な人気と名声があったPablo Neruda (Luis Gnecco)を当時の政権は脅威と認識し、公の場で恥をかかせてやれ、と弾圧・捕獲に乗り出して彼の周囲でも逮捕されて収容所に送られる人々が増えていく - 収容所の看守としてピノチェトが一瞬 - もののぜんぜん引っかからないので、大統領直下で秘密警察のÓscar Peluchonneau (Gael García Bernal)を指名して、彼とNerudaの追っかけっこが始まる。

Nerudaはいろんなアングラ酒場や盛り場、隠れ家を悠然と飄々と飛び回っていてまったく尻尾をつかませなくて、それでもだんだん追いつめられていって、やがてアンデスを超えてアルゼンチンの方に向かわざるを得なくなる。それに伴って組織が個人を追いつめる、というより個と個の対決に近づいていく。

追われる側のNerudaはしょうがねえなあ、という感じでいろいろ変装したりしつつすたこら逃げて、追う側のPeluchonneauは尊敬される警察官僚だったパパ - 銅像がある - の名にかけても俺がやる、と静かながらも息が荒くて、どちらかというとPeluchonneauのモノローグの音量のが大きかったりするのだが、その声が終盤に向かってNerudaの声に被っていくように思える。 Nerudaは明確には言わないのだが、詩人の好奇心探究心で明らかに追われていることを楽しんで、そこまで情熱的にに追っかけてくるPeluchonneauに会いたいと - 出会ったときにはどちらかが亡くなってしまうであろうことを承知のうえで - 思っているのではないか、と。 会うことが叶わないひとに向けた一方的な思いがわんわんこだまして画面を埋めていく、というのは"Jackie"がそうだったが、こっちのは双方向で、足跡や雪原に響き渡る雄叫びとか届きようがなくて、そうやってすれ違えばすれ違うほど、ふたつの声は山間谷間に反響してどっちがどっちだかわからなくなっていくような。

そこに何度も繰り返される彼の詩"Tonight I can write the saddest lines…”が重ねられる。

全体としては少しとぼけた追跡ロードムービーなのだが、その後のチリ全土を襲うクーデター以降の悲劇を思うと、まだよい時代だったのかも、とか、なんであそこまで行っちゃったのだろうか、と、そちらのほうが際立ってくる。 俺らなんでこんなことやってるんだろうか ? という誰に聞いたらいいのかわからん宙ぶらりんの問いが。 これも”Jackie”と同様に。

後半の雪山の雪がちらちら舞う景色が素敵で35mmのほうがよいかも。

あと、Gael García Bernalさんの静かに狂っているさま - そこにだれも突っこんであげないさま - がすばらしい。

4.12.2017

[film] A Quiet Passion (2016)

映画でいっこ書き忘れていたのがあったので少しだけ書いておく。
3月19日の日曜日の午後、MayfairのCurzonで見て、上映後に監督のTerence DaviesのQ&Aがあった。

詩人Emily Dickinson (1830-1886) の評伝。
冒頭、女学校で信仰心が足りないと先生に説教されて反発する威勢のいいEmily(Emma Bell)がいて、やがて実家に戻ったEmily(Cynthia Nixon)は、父母、妹のVinnie(Jennifer Ehle)、兄のAustin(Duncan Duff)らと暮らし始めて、詩作もはじめて、母が亡くなり、父(Keith Carradine)も亡くなり、自身も病に侵されて...  という波乱万丈とはほど遠い、引きこもりがちでそれゆえに謎の多かった彼女の生涯、家族との関係などを丁寧かつ無難に纏めている、と思う。 わたしはEmily Dickinson自身のことをそんなに深く掘ったわけではないので、事(史)実関係の正確さなどについては言いようがないのだが、文芸評伝映画としてよくできていると思うし、レビューの点の高さを見てもそうなんだろうな、くらい。

脚本も自分で書いている監督のTerence DaviesはQ&AでEmily Dickinsonがむかしから本当に大好きで絶対やりたかった企画、と熱く語って、その熱のこもり方は画面の揺るがない強さにも表れているのだが、でも、Q&Aで質問が出たようにEmilyが病気になってからの描写は頻繁に出てくる棺桶とか、ほとんどホラー映画みたいになってしまうので、そこがなんかなー。

「なんで世界はこんなにもUglyなのか」と病に苦しみつつ彼女が吐き出すように言うシーンがあって、その辺を彼女の表現の起点におくこともできるのだろう。 けど、そういった苦しみや苦悶ばかりがべったり彼女の視界を覆っていたわけではないよね、と彼女の詩を読んで受ける印象からは思ってしまう。 もっとしれっとした呟きとかユーモアとかこまこました誠実さとかカラフルだったり散漫だったり、詩作から彼女のキャラクターや生涯を想像したり思い描いたりするのはよくないことかもしれないけど、詩を読む/浸るってそういうことでもあるよね、特に彼女の書いたいろんな断片が導く世界の広がりとか、今も若いひとたちに読まれ続けていることとかを考えると、あんなにかっちりした文芸映画にするのとは別のアプローチがあったのではないか、と。

要するになんでもわかっているふうの大学教授みたいなおっさんが作ったやつではなくて、もっと若い女性監督とかが自由に作ったEmilyの像が見たい、ということなんだけど。Emilyが世界に向けて書き散らした手紙に応えるようなやつ、それを見たEmilyがくすっと笑ってしまうようなやつを。

(Emilyがこの映画を見たらどう思ったかしら? って)

でもCynthia Nixonの熱演についてはまったく異議なし。 さすがMiranda。

[film] Donna Haraway: Story Telling for Earthly Survival (2016)

5日の水曜日の夕方、Tate Modernで見ました。ここには映画を上映できるシアターがいっこあって、そこに行くのは初めて。

Tateでの上映は5日と6日の2回のみ、5日にはDonna Haraway本人が登場してQ&Aをするということで、どうせなら5日に見たい、のだったがずっとSold Out印がついてて、しかもこいつは相当しぶとそうだぜ、だったのだが、とりあえず行って、キャンセル待ちに並んで、だめだったら帰ろ、くらいで出かけてみた。

キャンセル待ちの列は割と前のほうだったが難しそうで、開始時間ずれこんでようやく入ることができた。よかった。
会場は圧倒的に女性が多くて、みなさんすごくかっこよくて、五分刈り頭の闘士(サイボーグ!)みたいなひととかいっぱい。

Donna Harawayさんは、『猿と女とサイボーグ』(1991)を書いたひとで、「サイボーグ・フェミニズム」のひとで、いまの自分の4倍くらいは頭がきれたと推察される(...かわいそうに)20年くらい前の自分に決定的な影響を与えた本であり思想であり、自分のフェミニズムやジェンダーに関する理解はほぼここで固定されていて、それはそれでしょうもないのかもしれないし(...かわいそうに)、具体的にだからどうなった、ということを説明できるほど内容をきちんと憶えているわけでもないのだが(...かわいそうに)、この人がどんななのかを見ておきたい、というのは昔から強く思っていた。

映画はベルギーのFabrizio Terranovaさんが撮ったドキュメンタリーで、Donna Harawayさんが自宅とかモントレーベイ水族館とかグリーンバックでいろいろ合成した背景を背に、生い立ちを含めてとりとめなくいろんなことを話していく、それだけ。
メインはタイトルにあるようにストーリーテリングという行為の重要性・可能性を彼女自身の豊かな語り(ほんとにわかりやすく、人を惹きこむような話し方をするの)とか、オーストラリアン・シェパードのCayenne Pepper(かわいー)との主従を超えた関係とか、軟体多触手のたこくらげとか、変な歌(突然Gipsy Kingsが聞こえたり、童歌みたいのとか)とのコラージュで、それ自体が生物界をめぐるグランドストーリーとして機能するように、おもしろおかしくわかりやすく伝えようとする(たぶん一回見ただけじゃわからないのでもう一回みたい)。 かんじとしては Isabella Rosselliniの”Green Porno" (2008)を思い起こさせたりもした。

これこそがポストジェンダー社会の生きものとして自身をサイボーグに再組織化した彼女たちが次にやるべきことなのだと。 もちろん、そこで語られるべき「ストーリー」とはどんなものなのか、それは誰に対して、どんなふうに語られるべきなのか、などいろいろ出てくるけど、それはそこに至るまでの彼女の思索の道を追え、ということなのだろう。 従来の科学観、科学史観を批判的包括的に組み直そうとしたあの試みを。

アイルランド系のカトリックの家庭に生まれ、スポーツ・ライターを父に持ち(ストーリーテリングの名手だったと)、リベラル系の学校に通ってしまうとこんなふうになる、とQ&Aでも自身を説明していたが、であるにしても、われわれのサイボーグへの道は遠い。

誰もが嬉々としてウソのニュースや物語を語って散らして認知して貰いたがる時代、それらに飽食している時代に彼女のストーリーがどういうふうに機能して効くのか、あるいはRoxane Gay("Bad Feminist"読んでないや) は知っているけどDonna Harawayなんて知らないという世代にどんなふうに効くのかわかんないし、先はぜんぜん見えないのかもしれないけど、でもこの映画のようなかたちで積みあがったり継がれたりしていくものはある、ていうのはよいことだと思った。
もう大学では教えていないと言っていたが、もったいないくらいにぱきぱきおもしろく話をするアメリカのひとだった。

『猿と女とサイボーグ』の復刊(絶版にしないでよこんなの)にあわせて日本でも上映してほしいな。

4.11.2017

[music] Mica Levi: Under the Skin

4日の火曜日の晩、SouthbankのRoyal Festival Hallで見て聴いた。
"Under the Skin" (2013)の上映に併せてLondon Sinfoniettaがライブの演奏を被せる。
これのなにがおもしろいかというと、Mica Leviの音楽が単なる映画の伴奏に留まらない固有の幅とうねりを持っているように思えたから。 映画なしでもおもしろく聴けるし、実際聴いてきたし。

上映前に監督のJonathan GlazerとMica Leviが出てきて挨拶をする。
Jonathan Glazerはよれよれのコートでぼーっと突っ立ってて、隣に並んだMica Leviは小さくて少し猫背で、男の子みたいな低めの声で喋る。どちらも学生にしか見えない。

Mica Leviさんが言っていたので印象的だったのは、マイクで拾ったのはビオラの音くらい、あとはほぼコンピュータの上で重ねて焼いていって、ある程度纏まると監督のところに送って、監督はそれで映像を編集した作り直したりして、また送り返して、というやりとりを約10ヶ月間続けてああなったのだという。 初めてでやり方もよくわからなかったし、と。

演奏するLondon SinfoniettaはRoyal Festival Hall常駐(?)の現代音楽楽団で、結構な人数がいて(サントラで使われたトラック数よりは多いって)、これに電気パーカッションとかエレクトロを担当する二人組 - Sound Intermedia が加わる。

映画+ライブ演奏、すごくおもしろい。 弦楽とノイズのせめぎ合いのような混沌とした音の海と何が始まるのか見当もつかない奇妙な映像が入り混じる導入部は、スクリーンの真下でせわしなく動き、体を震わせながらその音を製造する人たちがいることで(その様子を見ることで)全く別のなにかがスクリーン上に現れてくるのではないか、と思わせて予断を許さない。

サイレント映画のライブ伴奏は画面上で展開する物語の起伏や登場人物たちのエゴやエモを代弁したり強調してくれたりするものだが、この映画の場合、出てくる人たち全員なにものなのか、なに考えているのか皆目わからず、結果なにが起こるのかもわからないので、音楽はその予測不能な海だとか森だとか夜だとかの、ガイド不能な飛び道具として機能することになって、とにかくおっかないの。

例えば、最初の皮べろべろのところで唐突に鋭いパーカッションが鳴る箇所があるのだが、前のほうの席でびっくりしてまじで飛びあがっている人が数人いた(含. 自分)。 映画館でもたまにそういうひと見るけど、数として相当いて、そういうリアクションを引き出したりもする。

映画のほうはべつにいいか。いっこ残念だったのは楽団の譜面を照らすライトが映画の濃い闇を少し明るくしてしまっていたところくらい。 主人公はほとんどしゃべらないし台詞の多くはスコットランド訛りがきつくて(周囲でも苦笑してるくらい)よくわかんなくて、けっか音楽に集中できたのはよかったのかわるかったのか。
あと、ここでのScarlett Johanssonさんは自前の皮いちまいであんなにがんばっているのに、なんで最近のだとわざわざ"Over the Skin"みたいな二枚重ね仕様になっているのか。 設計ミスみたいなもんなのか。 寒かったのか。

"Jackie" (2016) のほうも見て聴きたいなー、と思ったがそれはLAのほうでやるのね。
あのぐんにゃりしたストリングスはライブで聴くとほんと立体的でおもしろいのでぜひ。

[film] The Salesman (2016)

3日の月曜日の晩、BloomsburyのCurzonで見ました。 そろそろ終わっちゃいそうだったし。

劇団をやっているRana (Taraneh Alidoosti)とEmad (Shahab Hosseini) の夫婦のアパートが隣の土地の工事のせいでヒビが入ってがたがたになってしまったので急遽テンポラリのアパートを同じ劇団のひとに紹介して貰って慌しく引っ越してみると、前の住人(女性)が一部屋ぶんに自分の荷物を残したまま去っていて、その量もいっぱいあるし、ちょっと気持ちわるいのだがそのままにして暮らしはじめる。

そうしたらEmadの出かけた隙に少しだけ開いていた扉から誰かが侵入してシャワーを浴びていたRanaを暴行する。Ranaは頭に怪我をして、その傷がいろんなところ - ふたりの関係、劇団での仕事、Emadがやっている教師の仕事、などなど - に亀裂を生んで広げていく。 この状態をなんとかすべくEmadは残されていた車のキーとかを手掛かりに犯人を捜し始めて。

ドラマの中心は犯人捜しでも犯人に対する復讐でも或はこういうことが起こってしまうことに対する考察でもなく、事件によってぱっくり開いてしまった夫婦間の溝とその目線(互いの顔に対する、そして溝に対する)の交錯をじりじり追っかけるところにあって、更にその舞台はアパート - 階段、階段の踊り場、いろんな扉、窓、クローゼット、屋上 - 事件が起こったアパートとその後で引っ越そうとしているアパートの両方 - どちらも仮住まい - で起こる。 もうひとつの仮想の、バックグラウンドの舞台としてあるのが、彼らの劇団が上演しているアーサー・ミラーの「セールスマンの死」の劇世界で、これも演劇の完成とか演出がどう、という話ではなく、戯曲のテーマであるがんばって働きながらも砂に埋もれていく、幽霊のように生きざるを得ない生の話があって、それが終盤での犯人との過酷なやりとりに繋がっていく。 アパートの空間も演劇セットの空間も、彼らが本当に落ち着いて安心して住んで生きることができる場所ではない、ということが露わになって両者は重なっていって、そのうえで、じゃあどうするのか、になって、とにかくきつい。

そんなの見たくないわ、というきつさではなくて、それらが具体的なアパートの扉とか階段とかお茶の間とか、毎日目にする/しているところで、風で扉が開いてしまうように、いとも簡単に起こってしまう、その恐ろしさなの。 犯人を追って路地裏とかやばい建物の奥に押し入っていって見えてくるのではなく、それはふつうに、日々を過ごすアパートの中で、その横で隣で、いとも簡単に起こる・起こっている - そのおっかないこと、はらはらすること。 それだけじゃなくて、そこから更にそういう世界に生きる・生きざるを得ないことの意味や関係の重み、のようなところにまで踏みこんで、問いを投げてくるの。 これはイランのお話なんかではなくて間違いなく我々の話でもあって、ずっと緊張の嵐のなか椅子に縛りつけられているしかなかった。 

(これと同じようなことを「愛」の名のもと、すっとぼけたトーンでやっているのがホン・サンスだとおもう)

それにしてもこれを、トランプ政権(&アカデミー)への抗議として野外で無料上映(しかも一般公開前に)してしまうロンドン市長、えらいと思う。

いまの日本だとこういうのはきちんと鍵をかけなかったのが悪い、越してくる前に過去の住人を確認しなかったのが悪い、みたいにされてしまうのだろう。これはこれで絶望的にひどい。(どれくらいひどいか説明しないとわからない人が多い、というのがじゅうぶん絶望的)

アパートがほぼ決まった後で見てよかった。 また決められなくなるところだった。

4.10.2017

[music] The CAN Project

8日の土曜日は、なんか変なかんじで、午前にBFIでTony Scottのキャリア最初期のHenry JamesのTV化作品を見て、午後にはMaggie Smithおばあさま❤️のトークを聞いて、晩がこれだった。 もう少し落ち着いた週末を過ごすべきではないか、って自分でもおもうようになってきた。

昨年の12月頭くらい、渡英が見えてきたときに真っ先にチェックしたのがこのチケットで、でもそのときから既に売り切れてて、それはそうだよねと思ったものの、こっちに来てからbarbicanのチケットのステータスをチェックするのが日課になって、そうやって地味に追っていたら3月の初めの昼間にいきなり空きが出てて - 2階の上のほうだったけどとにかく押さえた。

1月にJaki Liebezeitが突然亡くなってしまったときはそれでもやるのか? と当然のように思った。
バンドのまんなか、結成メンバーのドラムスとベースとギターがいない状態の再演にどんな意味があるのだろうか? Robert FrippとJamie MuirだけでKing Crimsonのカバーバンドをやるようなもんではないのか?  いやCrimsonは関係ないじゃろ、これはCANなんだよ、Jakiの太鼓がなくて成立するものとは思えないし。
いやいやでもこれは50周年の記念”Project”なのだから見守って、見届けるべきではないか、と思って、そのうちドラムスにSteve Shelleyの名前が入って、ううう… (ああそう…) だったのだが、とにかくこの日がきた。

会場は年寄りだらけ、かその年寄りに連れてこられてきょとんとしている若い娘さんとか、物販はアナログのBOX、IrminやMalcolmのソロまで含めて結構どっさり出ていて、みんな並んでいて、メンバー全員のサイン入りポスター£120ていうのもあったが、ふみとどまった。

会場のドアにはストロボを使うのでご注意、の張り紙があって、でも中に入ったらフルオーケストラのセッティングがあって音のチェックをしているので会場を間違ったのかと思ったが、これが前座のLondon Symphony Orchestra & Irmin Schmidtなのだった。 ロックバンドの前座でフルオーケストラというのはあんましない気がしたのだがIrmin自身が指揮をするようなので、黙るしかない。 演目はふたつで、Irmin Schmidt & Gregor Schwellenbach作曲の”Can Dialog”とIrminが2008年に作曲したバレエ音楽”La Fermosa”のオーケストラによる初演。

"Father Cannot Yell”のイントロの細かいパルス、あれをストリングスに展開して刻んでやがてそれが爆発してカオスになりその雲のなかから"Halleluhwah”とか "Sing Swan Song”とかいろんなCANの旋律の断片が聴こえてきて、それはつまり、Jazzやロックやタンゴやいろんな民族音楽を縦断して交配させようとしたCANのエッセンスとしか言いようがなくて、たぶんクラシックや現代音楽の側からはもっといろんなことが言えるのだろうが、とにかく音が右左に飛びまくってスリリングて大喝采だった。 “dialog” - とあるようにIrminのなかでCANはまだ終わっていないのだろうな、と強く思わせる開かれかた。
2曲めはバレエ用なのでもっとフィジカルで力強く、でも自由で、ああこの人にもうちょっと色気があったらHans Zimmerくらいのところには行けるのに、とか余計なことをおもった。 どちらの曲も終盤のパーカッションの暴れ具合がすさまじい。、
London Symphony Orchestraは、弦はよいのだがバスが弱っちくてねえ、もっと強く重く揺れないでくれればなあ、とか。

この後、セット替えの休憩が45分、ロビーではCANの72年のパフォーマンス at Cologne Sporthalle のフィルムが流れていて、アイスクリームを舐めながら見た。 メンバーはFassbinderの映画に出てくるちんぴらみたいに誰もがぎらぎらしていて怪しくて殺気たっぷりだった。

そしてメインのバンドセット。 ステージ上はドラムス2、キーボード/エレクトロ2、ギター2、ベース1、Malcolm1、Irminは演奏しない(あの曲たちを指揮したら疲れちゃうよね)。
客席ぜんぶまるごと固唾をのんで見守るなか、がたがた電車のようなノイズがサラウンドでまわりだしてMalcolmがなんかぶつぶつ唱えはじめるのだが、あれって、NYのHudson Lineの駅名を順番に言ってただけじゃないの?
とにかく、それがそのまま"Outside My Door”のギターに繋がってわー、だった。 単純なカバーをやってもしょうがないこと、そんなの誰も聴きたがっていないことは誰もがわかっているので難しかっただろうな、でも、でもこれって、Sonic Youthのスケールがでっかくなっただけバンドみたいに聴こえないか?

Steve Shelleyは大好きなドラマーなのだが、あのばしゃばしゃ布団叩きのドラムスがでっかすぎて、もうひとりのValentina Magalettiさんの手数の多さを完全に上書きしてしまうのだった。
そのあとで"Father Cannot Yell”に行ってわーわー、でアンサンブルのクオリティは音数も密集度も完成度、みたいなところを言うとまったく申し分ないのだが、なんだろどこだろ。

バンドが4人でやっていたアンサンブルを7人でやっている、人数は倍なので音はわんわんいっぱい鳴っててライティングもばりばりで、でもCANの凄さは音数や手数の多さ、演奏技術のクオリティみたいなところにはなくて、自ら酔っぱらいながら客を酩酊状態に追いこむ酔拳の鮮やかさ、その理性と野生のせめぎ合いにあったのではなかったか。 CANの曲をやる、そのライブに接するというのはそういうことだったはずではないか、と休憩時間にみたフィルムを思い出しつつおもった。

This Heatが"This is Not This Heat"と名乗らざるを得なかったように、CANは"The CAN Project"とならざるを得なくて、でもそのプロジェクトの目指すところって缶をつくることではなくて、缶を開けて、その中身をむしゃむしゃ食べることにある、はずだった。はず..

“She Brings the Rain” 〜 ”Mother Sky"をやったところ - 50分くらいか - で一回ひっこんで、もう一回出てきて"Yoo Doo Right"と"Mary, Mary So Contrary"でおわり。 ぜんたいとしては"Monster Movie" - Malcolm Mooneyの晩であったが、おじさん、ああいうでっかいステージに慣れていないのか、ちょっと落ち着きなさすぎたかも。 いいひとなのはわかるが。

映像スタッフがいたのでそのうちどこかで公開されることでしょう。

[film] Der amerikanische Soldat (1970)

2日の日曜日の夕方からBFIで3本続けて見ました。ぜんぶ白黒、2本が35mm。
週末のSouth Bankはフードマーケットをやっていて、上映の合間にそっちに行ってバーガー食べたりエッグタルト食べたりレモネード飲んだりしていたので、ぜんぜんだるくはならなかった。

Der amerikanische Soldat (1970)   ..35mm

Rainer Werner Fassbinder映画祭からの1本。2014年にオーディトリウム渋谷でやったファスビンダー映画祭で見逃していたやつなのでうれしい。 『アメリカの兵隊』
冒頭、3人のぶ男(警察)がカードやっているところにフィルムのちりちりした音が絡んでくる、それだけでなんかたまらないかんじ。 アメリカ軍にいた殺し屋Ricky (Karl Scheydt)が仕事の依頼を受けてはさくさく実行していくさま、Rickyと女たちと母親との抱擁、彼の反対側にいるやくざ警官トリオとの諍い、いろんなのが臭気たっぷり、でもあっさりめで描かれる。

ファスビンダーの劇団 - Antiteaterのメンバー総出なので、演技は全体にスローで芝居っけたっぷりで胡散くさくて、そこにPeer Rabenの音楽が水飴のようにバターのように塗りたくられていて、なんというかっこいい、のではないし気持ちいい、のでもないし、ただあの世界に酔っ払ってしまうかんじになるの。 酔って吐き気のほうに転ぶ一歩手前のスリルとか。
ラストの決まったんだかずっこけたんだかよくわからないコントラスト(とその垂れ流し)も素敵。

Pickup on South Street (1953)
   .. Digital

Samuel Fuller作品で、なんで? とおもったらFassbinderに影響を与えたかもしれないやつ、みたいなカテゴリーでの上映。 邦題は『拾った女』..だけど、これ違うよね。
始まってしばらくして、あ、これ見たことある、て思ったのだがいいの。(2004年に見てた)

NYの地下鉄でSkip (Richard Widmark)がCandy (Jean Peters)のバッグから財布をスったらそこに共産スパイが他国に売ろうとしていた機密が隠してあったものだからさあ大変、地下鉄とかビルの中外とかチャイナタウンとかNYじゅうでSkipとCandyと警察とスパイの四つ巴の追っかけっこが始まるの。
ひとつ前の「アメリカの兵隊」と比べるとおなじ都市の地下世界を描いたノワールなのにこうも違うもんかのう、てしみじみする。特にスピードが。33回転と45回転くらい。 でもどちらもめちゃくちゃおもしろい。警察がぼんくらなのも共通している。
あと、Boweryに住むネクタイ売りのおばあちゃんのMoe (Thelma Ritter)がかっこいいの。

I Walked with a Zombie (1943)  .. 35mm

これはFassbinderとは関係ない世界の古典、みたいな枠での上映。
前の年に“Cat People” (1942)を当てたRKOがホラー第二弾としてリリースしたJacques Tourneur 作品。

雪がこんこん降るカナダで看護婦になったBetsy (Frances Dee)はカリブ海の島に行ってみないか、と請われたので使命感たっぷりで行ってみると、派遣先の家族はなんか変で彼女の使命はそこで寝たきりになっている奥さまの介護をすることだったの。 奥さまの病状が現地のヴードゥーに関係がありそうだと思ったBetsyは周囲をいろいろ探りはじめて。

ここでのZombieていうのはLiving Deadのことで、人を襲ったり噛んだりそれで感染して増えたりしない。
ただ立って歩くし、引っ張られればそっちの方とか、されるがままに寡黙についてくるの。
貰った解説文によると”West Indian version of Jane Eyre”を狙ったそうで、おおなるほどー、と。

同じ解説文で、Tourneurはキャリアを振り返ってこれがいちばんよくできた(Best)作品と言っていたって。
えー、とか思うのだが、夜風のなかをZombieとふたりでゆっくり歩いていくシーンの美しさは後のほうのTourneurの映画にもあった夜のシーン(... なんの作品だっけ?)にも近い気がして、なんかとってもよいじゃん、とか思ってしまったの。

4.07.2017

[film] Bird on a Wire (1974)

1日の土曜日の夕方、barbicanで見ました。なんでかこの一回きりの上映。
Leonard Cohenの72年のヨーロッパツアーを記録(ライブは20箇所をまわって、うち4〜5箇所で16mm撮影)したドキュメンタリー。 長いこと失われたものとされ、海賊版が出回っているのみだったが2009年、西海岸の倉庫で296個の缶からが発見されて、時間をかけてリストアされたもの。

上映前に監督のTony Palmerさんのお話があって、なかなかおもしろかった。
71年にこの映画の企画をLeonard Cohenのところに持っていったとき、彼はまだアルバム3枚を出したばかりで、しかもレコード会社とは契約更改の時期、つまりは契約が存在しない状態でこういうフィルム撮りをすることのリスクとか、そもそも彼自身が自分のライブにぜんぜん自信を持っていなくて自分の声も嫌っていたりとかいろいろあって、許可が貰えるとは思えなかったのだが、監督が60年代初からずっとLeonardの詩集を読んでいるとか粘り強く交渉して、しばらくしたら許可がでて、4名のカメラスタッフがツアーに同行することとなる。

フィルムが完成したあと、Leonardが自宅で見たいというのでフィルムを送ったらそれを最後にフィルムは行方不明になった。 それが2009年、Frank Zappaの”200 Motels” (1971) - これも監督の作品 - のフィルムをストーカーのように延々探し続けていたZappaのマネージャー(「すごく嫌なやつでいまだにだいっきらいだ」)から突然電話があって、ついに"200 Motels"を見つけたと、さらにZappaの缶の隣になんかいっぱい積んであるんだけど、と言われて行ってみたら、それがこれだった。
ZappaとLeonard Cohenのフィルム缶が並んで放置されている倉庫… どんな臭いがしたのかしら。

あと、DVDのジャケットは、鳩サブレ… ではなくてピカソの鳩の絵が使われているのだが、ピカソの絵がそういうのに使われることをピカソ財団は一切許していないのに、この作品に関してはなんで許可がおりちゃったのか、とか。

生前のLeonardもこの修復版を見て、一応認めてくれたのでこれが晴れて決定版になりました、と。

で、フィルムなのだが、まあすごい。
ライブシーンをずっと撮っているわけではなくて、オフステージとライブで半々くらい。髭剃ったりシャワー浴びたりプールで泳いだりインタビュー受けたりツアーメンバーとくつろいだり、夜を一緒に過ごしたいと誘ってきて頑と動かないファン(見るからに)の女性との会話とか、PAの調子が悪くてよく聞こえなかったから金を返せとバックステージにやってきた陰険な客への大人な対応とか、ツアーの最後、テルアビブの楽屋で涙ぐむところとか、当時のLeonard Cohen完全密着レポ、と言ってよい特濃の内容。

ライブのほうは、女性コーラス2名(うちひとりはJennifer Warnes)、アコギ2、ベース、ピアノオルガン、6名のバックによるアコースティックで、なんというか、完全にやられてうちのめされてしまう。
このひとはこんなふうに歌うのか、こんな目つきで、こんな鼻の線をして、こんなふうに息をしてこんなふうに語りかけるのか、と。
“Suzanne”も”Sisters of Mercy”も”The Partisan”も”Chelsea Hotel”も”So Long Marianne”も”Bird on a Wire” (これがラスト)も、既にリリースされていたこれらの曲を丁寧に歌って流していくのだが、初めてこれらを聴いたような気が、何度もキスしているのに初めてキスされたようなかんじがした。 45年前の彼が湛えている真摯さ、親密さ、弱さを隠そうとしない強さ、これらの熱がダイレクトに伝わってくる。 同時期に撮られた有名なライブフィルムとして"Ziggy Stardust and the Spiders from Mars" (1973)   - Bowieの凄さがあまり伝わってこないのであんま好きじゃないけど - があるが、あそこで放射されている熱と比べても全く遜色ないかんじ。 あるいは例えば、雰囲気が似ているだけでぜんぜん違うのかもしれないけどLou Reedの"Transformer" (1972) とか。

例えば、人生を変えてしまうライブがあるとしたらこういうのだと思うし、こういうのがあるからライブに行かねば、と思うの。
フェスに行くのは楽しいし、別にいいけど、こういう出会いってあんまないかんじがする。

終わってロビーに出ると監督ひとりで立ったままDVDを売っていたので、買ってサイン貰った。
ボーナスディスク付で、表紙がピカソの絵で、£15なんて安すぎる。(プレイヤーないけど)

でもこれは映画館の大きな音で、みんなで寄り添うようにして見たほうがよい映画。

4.04.2017

[film] Free Fire (2016)

31日の金曜日の晩、眠くてだるくてしょうもないのでしゃっきりさせるべく(だから早く帰ってねろって)、SOHOのCurzonでみました。

ついこないだ"High-Rise"(2015)を見たばかりの気もするBen Wheatleyの新作。
製作にMartin Scorseseが入っている。いかにもなかんじ。

筋はシンプル - いやほんとうはシンプルじゃないのかもしれないけど、最初のほうのやりとりって何喋ってるのか半分くらいしかわかんねーの - で、鉄砲(マシンガン)の闇取引に倉庫にやってきたふたつ(or more)の勢力があって、頼んでいたのと違うじゃねーか / これしかねえんだ嫌ならかえれ、の小競り合いがあって、更に前の晩に諍い起こしたふたりがばったりして、さらに摩擦がひろがり火花が起こり、単細胞なやつが思わず発砲しちゃったことから撃ちあいになって、更にどこの誰が頼んだのか外から狙撃屋まであらわれて撃ちはじめたもんだから収拾不能になっていくの。

全員が(なに言ってるかわからんが)口だけは達者で、相手が死ぬまでやらないと我慢できないような単細胞連中で、しかもものすごい強者、悪者、銃の達人みたいのがいない、でどうなるかというと、撃ち合いはしても弾が命中しないで壁とか杭とかに跳ね返って腕とか足とか中途半端な部位に掠ったり当たったりで、半端に痛かったり血まみれになったり、そうなると余計にぎゃーぎゃーわめきちらしてあいつぜったい許さねえ殺す、みたいに、バカボンのおまわりさんみたいに興奮して撃ちまくるのだが、やればやるほど弾は逸れて痛いところにばかり着弾して全員芋虫みたいになっていくの。 幸いなことに事前準備も含めて銃器はたんまり持っているし隠れる場所もいっぱいある。 よくないのはやたらと外れ弾流れ弾が跳ね返ってくるのでどこからなにが飛んでくるかわからないことよ。

"High-Rise"でも最初は小奇麗にかましてた連中がだんだんSM的な加虐・被虐の攻防のなかで血にまみれて本性を剥いて剥かれていく、原作のテーマ本筋よりもそのプロセスとか痛みを露わにするほうにこの監督の興味嗜好はあったのではと思ったのだが、であるとしたら正に本領発揮なのではないか、と思われるくらいに勢い(だけ)があっておもしろい。 "Low-Rise"というか、このシチュエーションだといくらでもアイデアが湧いてでたのではないかしら。

たとえばタランティーノだったら、もうちょっとキャラクターをしっかり彫りこんで仁義とか復讐とか怒りとか痛みや血量に見合う同等のなんかを真ん中にぶっとく据えてくると思うのだが、こっちのはとっても軽くて、全員がヒラのちんぴらみたいのでべらべら適当な言葉を散らしつつ致命傷にはならない刺し傷切り傷の山を築いていく。 これもじゅうぶんありなんだよね。 やくざがみんなSamuel L. JacksonとかTim Rothであるわけないし。

まんなかくらいまではばかじゃのーとかけらけら笑いながら見ていられるのだが、だんだんこれ、どうやって決着つけるつもりなんだろ、になってきて、でももちろん決着、というか終わりはくるの。 だいたい思っていたとおりになっちゃうのだが。
全員が小物(でもキャラクターの描きわけはしっかりしてておもしろい)で、そんななか俳優として唯一突出している(かつ紅一点の)Brie Larsonさんはがんばっているけど、ものすごく活躍するわけでもなくて、そういう置きかたもこの映画に関してはよかったかも。

音楽はなんといってもJohn Denverの「緑の風のアニー」ですよ。
ぐるぐるまわるんだよこいつ。

[art] Emma Hamilton: Seduction and Celebrity, 他

そういえば3月に見ていたアート関係のそのた。 書いていなかったので纏めておく。 たぶん時系列で。

March11

Sir John Soane's Museum  + Robert Adam's London

ジョン・ゾーンではなくてジョン・ソーンズ博物館。 サー・ジョン・ソーンが自身のコレクションの容れ物とすべく設計して構築した自宅がそのまま博物館になっている。
むかしの言葉でいうともろビョーキだと思うし、タモリ倶楽部ですら収まりきれないスケールで、地下の真ん中に鎮座するでっかいエジプトの石棺に至っては墓どろぼー、バチあたり!としか言いようがないのだが、なんか悪趣味ではないかんじになっていてこれなら住めるかも住んでみたいかも、とか思ってしまった。(← つい住める住めないに話がいきがち)
このときは、建築家Robert Adamsの展示をやっていたが、今は"Marc Quinn: Drawn from Life"をやっている。 再訪必須。

あと、月初めの火曜日だけやっているキャンドルライトツアーも行きたい。(4月はだめだった)

Portrait of the Artist @ The Queen's Gallery, Buckingham Palace
宮殿のでっかいギャラリーでやっているやつで、思っていたよかぜんぜんおもしろかった。
画家たちの画家たちによる肖像画 - つまりはセルフィーが中心で、最近のだとLucian FreudとかDavid HockneyのiPad絵画まで、ものすごく幅広く節操なく集めているのだが、画家が自分を描くって、自分の力量がいっぱつで知れてしまうせいか、当然力が入ってフォトショップ修正の数百倍の粘着力でぐいぐい迫ってくる。 実物とは比べられないのでなんとも言いようがないのだが、みんながあたしはすごいんだから~ どうだ! ていう目力でこっちを見つめてきて、それがずっと並んでいるので少し疲れたかも。

March12: 
Tate Modernでまだ十分に見ていなかったやつとかを。

Artist and Society
Joseph Beuysの結構おおきいスペースがあって、問答無用のオブジェが垂れたり散ったりしてたのと、Lorna Simpsonの一連の作品のとか、これだよこれやっぱり、みたいなのがいっぱいあった。
日本のそれなりの規模の美術館で、このテーマでどこまで展示できる? とか。

Wolfgang Tillmans: 2017

前回来た時はさーっと流した程度だったので、今回はもうすこしじっくりと。
オーディオの入ったプレイルームで音楽を流していて、そこでColourboxの曲が流れていて、Tillmansがずっと好きなんだって。 彼らがライブであまりやらなかった曲を選んでいます、だって。
なんかいいやつじゃん(殴)。

March 18

Emma Hamilton: Seduction and Celebrity
地下鉄広告で見かけたやつで、グリニッジのNational Maritime Museum (国立海洋博物館)でやっていた。
ネルソン提督の愛人として知られるEmma Hamiltonさんの波乱万丈の生涯を家政婦として働いていた時代から貴族の間で評判になって愛人玉突きをされてナポリに流れて、ハミルトン卿と結婚したけどネルソンと知り合って変てこな三角関係になって(スーザン・ソンタグの『火山に恋して』で描かれるのがこれ)、ネルソンが亡くなるとすっからかんになって寂しく消えてしまった。
絵画の展示となるとGeorge Romneyが描いた彼女のコスプレ肖像画集みたいのがほとんどで、あとはいろんな手紙とか彼女のパフォーマンス"Attitude"のデジタル再演程度なのだが、ここまでくっつきました - 離れましたのでんぐり返しが繰り返されていくのを見るとなんてタフな人生だったのでしょう、と感動する。 SNSがあったら炎上爆発と凍結とリボーンの離れ業を延々繰り返しているかのような。
でも全体としてはなぜ彼女があそこまで貴族を含めて多くのひとを惹きつけ魅了したのかがわかるような構成になっていてよかったかも。
日本だったら大河ドラマですでに10回くらいやられている、というか。
ネルソン提督って、イギリス人にとってはやっぱり特別なんだねえ。

Tunnel: The Archaeology of Corral

Maritime Museumから電車で少し行ったところにあるロンドン博物館の別館でやっていたこれも、見たいと思っていたのでついでに寄ってみる。
Crossrailていうロンドンを横断する地下鉄の新しい線が来年くらいに開通するそうで、これってすごい画期的事業らしい(2nd Ave Subwayみたいなもん?)のだが、それの工事現場を掘っていくなかで出てきた発掘品を並べているのと、実際のトンネル掘削の早送り動画(見てて飽きない)とか。
土器食器どころか8000年くらい昔の人骨とかざくざくいっぱい出てきたので見てみましょう。 ばちあたりとか言ってはいけません、って。(魔除けとかしたのかしら)
いまの地下鉄の路線図との対比で、この駅周辺からこれが出た、みたいのもいっぱいあるのだが、その土地のかんじをまだ十分に掴めていないところが歯痒い。
タモリがほしい、て少しだけおもった。

The Wallace Collection

見ておかなくちゃ、程度で行った。 Frick Collectionみたいなもんでしょ、とか。(殴)
行く前はフラゴナールの「ぶらんこ」くらいのイメージしかなくて、それ見ておけばいいか程度で(殴)、これ、よくよく見ると奇怪な絵であることがわかったのだが、それ以外にもこれはなに?みたいのがいっぱいあったので改めてきちんと追ってみたい。 ロココったらおそるべし。

March 19

Revolution: Russian Art 1917-1932

Royal Academy of Artsでの展示ふたつ。 1917年のロシア革命によって花開いた革命アートの全容とスターリンの圧制によりこれらが32年に潰されてしまうまで、絵画・彫刻・オブジェ・いろんなデザイン、広告、ポスター、映画(エイゼンシュテイン)などなどから全方位、革命並みの物量(でもないか)と破壊力で網羅している。

誰もがふつうに知っているKandinskyにChagall、MalevichにRodchenkoといったあたりはもちろん、Kuzma Petrov-Vodkinなんか、とってもよくてびっくりして彼のコーナーに浸っていた。
こういう展示でいっつも思うのは革命ていう国家の動きとアートていう(どちらかというと)個人の活動の相関で、今回のは割と個々のアートにスポットが当たっていた分、その総崩れぶりに謎がいっぱい溢れる。 最後のコーナーで、スターリンさんはスポーツをいっぱい振興しました、って。 正にいまの日本だよね。 ああきもちわる。

America after the Fall: Painting in the 1930s

同じくRAAでのもういっこ。 大恐慌時代のアメリカ絵画 - だれもが知っているシカゴ美術館の名物 - Grant Woodの"American Gothic" (1930) を中心にJackson Pollock, Georgia O’Keeffe, Edward Hopper, Thomas Hart Bentonなどなど。 展示は3部屋くらい、点数もあまりなくて、どの作家も1~2点、一番多いのがGrant Wood、くらいなので、ぼんやりしょんぼり暗いのばっかしなのだが、そうやって切り取られたこれらの断面が戦後にどう変わっていったのか、興味が向かうのはそっちで、それは大英博物館でいま開催中のもういっこのアメリカもの展示 - "The American Dream: pop to the present"に行けば見えてきたりするものがあるのかどうか。

まだあるけどいったん切っておく。

4.03.2017

[film] Die Ehe der Maria Braun (1978)

29日、水曜日の晩にBFIのSouthbankでみました。「マリア・ブラウンの結婚」

ここで5月まで続くFassbinder祭りのオープニング、冒頭のスピーチでBFIの女性が高らかに、みなさーん! Fassbinderの季節が始まりましたよ! て嬉しくてたまらないふうに挨拶したのだが、いやいや季節のことを言うならFassbinderって、秋から冬のほうでしょ、てみんな思ったとおもう。

映画の上映に続いてHanna Schygullaさんと多くのFassbinder作品の編集を手がけ、現在はFassbinder Foundationの長を務めるJuliane Lorenzさんによるトークがある。

映画のほうはいいよね。 空爆と共に始まったMaria Braun (Hanna Schygulla) の結婚生活 - 夫はふっとばされて行方不明で、生きていくためにいろんな男と一緒になって、折角夫が戻ってきたと思ったら再び自身がガス爆発でふっとんでしまう。 これもすばらしくかっこよい戦時下女性映画のクラシックなので、みんな見てほしい。

上映後のトーク、まずはHanna Schygullaさんの美しさと柔らかい雰囲気(「オーラ」って書くとなんか変なふうに受け取られてしまう気がする)に圧倒される。 直接その姿を見てこんなにもわぁー、ってなったのはGena Rowlandsさん以来かも。

撮影中のことも含めていろんなことを話してくれたのだが、印象に残ったのは以下 -

■ (Q) Fassbinder監督作品でいうと、”Effi Briest”(1974)から”Maria Brown”まで結構間が空いているがなにかあったのか?
   (A) よく聞かれることだけど別になにも。 あたしたち68年世代なのであまり気にせず適当にやっていたかんじ
■ Maria Brownを最初に見て思ったのはきれいに撮りすぎていないかと。 あとなんであの最後なのか、というのは思った。 
■あの終わり方、映画そのものも含めて、Fassbinderが"Jules et Jim" (1962)を意識していた、というのはあったと思う。
■Fassbinderの場合、リハーサルや準備は結構するけど撮影はだいたい1テイクで終わることが多かった。
■女性のなかには常に相反するふたつの面が共存しているもので、この映画のMaria Braunはその点 - 最初の夫を思い続ける反面、次から次への奔放さも併せもつ - がよく出ていてそこははっきりと意識して演じた、と。 
  * これと同じことを最近聞いた気がして、そうだ、"Elle"のあとのIsabelle Huppertさんのトークだった、と。

なお、彼女への最近のインタビューだとここのが。同じことを言っているところもあるけど。
https://www.theguardian.com/film/2017/mar/27/rainer-werner-fassbinder-bfi-season-hanna-schygulla-interview

Juliane Lorenzさんはこの映画の編集について、アシスタントもサポートも誰もいなくてたったひとりで、監督はプロデューサーの上のほうとの喧嘩でいつも忙しかったのでスクリプトに従って自分で考えながらやるしかなくて、すんごく大変だった(この時、21だったって...)と。 でも、そうやった結果が報われてNYでのプレミアのあとで、Martin ScorseseとかSusan Sontagが寄ってきて誉めてくれたときはほんとうに嬉しかった。(... そりゃそうでしょう)

あとFassbinderの仕事ぶり、みたいなところでいうと、とにかくずうーっと忙しなく動き続けている人だったと。 これは二人とも言っていたし、彼の映画をある程度見ればなんとなくわかるよね。 愛を含めたあらゆる感情と直結しているひとの動き、そのアンサンブル、それが個々の人生の土台を揺るがす、そのダイナミズムぜんぶを画面上にダンスシアター(Tanztheater)のように全展開して俯瞰できるようにした、それって見るほうも結構体力いるのだから作って撮るほうはどれだけ大変だったのだろうか、と。

とにかくHanna Schygullaさんを見れただけでものすごい幸福感に襲われて(こんなにもとは予想していなかった)、この勢いでFassbinder作品にも突入したいところなのだが、見始めるとずぶずぶ染まっていってしまうところがちょっとこわい。 これから明るい春がやってくるのに、引っ越しだってしなきゃいけない(希望)のに。

[film] Aquarius (2016)

28日の火曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。終わっちゃいそうだったし、と言ってみてもどういう筋なのかよくわかっていなくて、水瓶座だし、くらいで…

ほんとうに、ミスしないでよかったと神に感謝したくなる素晴らしい映画だった。

物語は1980年から始まる。 Clara (Sonia Braga)の家族と友人たちはおばさんのLuciaの誕生日にアパートに集まっていて、白髪のLuciaおばさんはかつてのSex Revolutionの闘士でありアクティヴィストとして激しい人生を送ってきたこと、そういう過去を、彼女の愛の物語をこのアパートの家具たちは知っていることが綴られる。そこでのClaraの髪は「Elis Reginaのような」ショートで、病との闘いから生還したばかりであることがわかる。

そこから現代になって、レシフェの浜辺沿いに建つ”Aquarius” - ClaraはLuciaの誕生日をしたのと同じアパート - に家政婦のLadjaneとふたりで暮らしていて、ある日人も育ちも良さそうでさわやかな笑顔の若者が訪ねてきて、遠回しにこのアパートは古いし他の住人はいなくなっているし女性だけだと心配なのでここに”New Aquarius”を作りたいのだがもちろんお金は出すし、とか言われてClaraは穏やかにありがとうでもここを離れるつもりはないから、とあっさり返す。

そこからしばらくすると、建物になにかを運び込む業者が現れたり空き家で夜通し乱行パーティをする連中が出て来たり階段に糞が撒かれたり、明らかに嫌がらせと思われることが続いていくのだが、Claraは極めて平静にひとつひとつ毅然と立ち向かっていく。

映画はよくある地上げ屋 vs. 負けない住人、の戦い - どうなるのかしらはらはら - という方には行かず、そういうことが日常のノイズとしてやってくることを横に置きながら、いろんな面で老いを感じ始めた65歳のClaraの焦燥や諦念やいろんな決意、そして恋を含めたいろんなことを淡々と追っていく。結果としてClaraのとてつもない強さ、Claraを中心とした見事な女性映画 - Claraだけじゃなくて周りの女性ぜんぶすごい - になっている。 そして女性というとき、これもありがちの母性や家族愛やそれらに纏わる責任、みたいなところには回帰させない。 彼女ははっぱも吸うし夜中に友達に教えてもらった男のサービスを呼ぶし、要は好き勝手に生きている。

その力強さをしっかり彩って支えるのが、アパートのリビング(このリビングを含めてここのうちのインテリアはとても素敵)の棚にいっぱい詰まったアナログレコードで、彼女自身がたまにそれをターンテーブルにのっけて再生する。80年にはカーステのテープがあり、レコードがあり、現代なのでMP3の話も出てくるが、彼女は擦りきれたジャケットのアナログ盤を、そこに挟まった紙きれも含めて瓶のなかのメッセージのようなものなのよ、と若者に説明する。(うんうん)

とにかくその選曲がよくてねえ、乱行パーティの騒音に対抗するときにQueenを使ったりもするけど、Gilberto GilからRoberto CarlosからVilla-Lobosまで、珠玉のブラジル音楽が次から次へと水瓶の底から湧きでてくるのでたまんない。甥に彼女ができたと聞くと、彼女にはMaria Bethâniaを聴かせるのよ、と言ったり、Paulinho da Violaの言葉がさらりと引用されたり、そういう音楽のまんなかで彼女の魂は育まれてきたんだから、だから。そしてブラジル音楽というのはブラジルの歴史を貫いてそういうふうに水のように風のようにそこにあるものだったのだから、と。

全体は3部構成 - “Clara’s Hair” - “Clara’s Love” - “Clara’s Cancer” - で、3部だからというわけでもないが、少年の成長と覚醒をダイナミックに描いた”Moonlight”との対比でこちらは老年期の女性の緩やかな足取りと悟りを描いていて、でも主人公の思いにどこまでも寄り添おうとする親密さと揺るがない強さは共通しているねえ、と思った。

それにしてもSonia Bragaのすばらしいこと。 2016年の主演女優は”Elle”のIsabelle Huppertの圧勝かと思っていたが、”Clara”も相当にすごいよ。 あのラストの痛快なことときたら。
Sonia Bragaさんて、Tom Jobimの追悼コンサートのときに生で見ていたことを思い出した。あのときも素晴らしい髪だねえ、と思ったことを思い出した。

これ、昨年のTIFFで上映されているようだが、ちゃんとしたかたちで公開してほしい、と日本のブラジル音楽好きは騒ぐべき。

あとさー、最近の霞ヶ関とかみてもわかるように、いま世の中で一番やくざでしょうもないのは学があって愛想もよくてしれっと「社会貢献」とか言ってる奴らだよね。 くそったれ。

4.02.2017

[film] Behind the Door (1919)

27日の月曜日の晩、BFIで見ました。 修復されたサイレントで、UK Premiereとなる35mmでの上映。

最初に今回の発見と修復をしたSan Francisco Silent Film FestivalのRobert Byrne氏の挨拶。
そもそもこれはどういう映画かというと第一次大戦時の雑誌に載った数ページの短編をベースにプロパガンダふうに撮ったもので、当時はそこそこヒットして評価もよくて、柳の下の第二弾も作られた(”Below the Surface”だって..)。

完全なバージョンがどこにも存在しなかったので修復は困難を極めて、主演のHobart Bosworthが保有していた版とかいろんな国のアーカイブにあった断片を繋いでいって、最終的な像が見えたのはロシアのGosfilmofondで発掘されたバージョンだったと。 いろいろ彩色がされているしフラッシュバックが多用されて現在過去を行ったり来たりする物語だったので繋いでいくのは大変だったが、ちゃんとしたContinuity Scriptがあったのでなんとかなった、と。

物語は、寂れた村の廃屋によれよれの老人が戻ってきたところから物語は過去に飛んで、村で剥製屋をやっているOscar Krug (Hobart Bosworth)は力持ちのよい人なのだがドイツ系ということで村人から偏見をもって虐められてて、それを跳ね返すべく海軍に入って艦長になるのだが、軍に入る前に結婚した妻(Jane Novak)は実家から勘当されて行き場がなくなってこっそり船に乗ってて、ドイツの潜水艦にやられて船は沈没、妻は潜水艦のほうに捕らわれてしまう。 その後、今度はOscarが潜水艦に逆襲してそこの艦長(Wallace Beery)を情けで助けてやるのだが、彼から半ば得意げに妻のその後を聞いてしまったOscarは… 
(Oscarは剥製屋さんだったの..)

サイレントのホラー、という紹介だったが本当におっかないし、殴り合いとか互いに血だらけぼろぼろになるくらいのものすごい迫力で  - ライブでピアノを伴奏するNeil Brandさんが丸太のような腕で思いっきりピアノをひっぱたく -  なかでも最後のクライマックスの光と影の使い方とかはわー、って口を開けて、それを手で抑えて(ホラーのリアクションね)。 ただ、Robert Byrne氏もイントロで言っていたように、ここでのホラー、その悲惨さの根源には当時のドイツ人・ドイツ系に対する偏見やヘイトがあったのだと、それは現在とまったく無縁のものではないと。 本当にそうだわ。

戦争、潜水艦、剥製、ヘイト、ぜんぶおっかないけど、いちばんよくないのはヘイトだよね、ていうのと、当時ヒットした映画でもこんなふうに散逸して修復に軽く数年かかってしまう、だれを責めてもしょうがないのだろうけど、他にどれだけこんなふうに埋もれてしまった映画があるのかしら .. てこれはいつも思うことだった。


たぶん再放送だろうが、いまBBC4のドキュメンタリーでGuitar Riffの特集してて、Johnny Marrさんが”This Charming Man”の説明をしてる。 その後にKevin Shieldsさんが。
そうしているうちにKinksの特集になってしまった。 はやくねなきゃ。

4.01.2017

[film] The Inferno Unseen (1964)

26日、日曜日にHeathrowについたのが朝8時過ぎで、部屋に戻ったのが9時過ぎで、お洗濯してお洗濯だして買いだしして、終わってもまだ11時前で、お昼を食べてもまだ12時で、飛行機で寝てしまったせいかあまり眠くならなくて、さてどうしましょうと探してたら出てきたのがこれで、チケットは売り切れてはいるもののキャンセル待ちで取れそうな予感がしたのでこれに決めて、すこしお昼寝して3時過ぎに向かった。

Cassavetesの"Opening Night" (1977) がオープニングだったFashion in Film Festival 2017のエンディングの作品がこれで、World Premiereとある。

どういうのかというと、Henri-Georges Clouzotの未完の作品”L'enfer" - “Inferno” (1964) 。これの撮影で残された185のフィルム缶がアーカイブから発見されたのが2007年、これを元にSerge Brombergが再構成したのが"L'enfer d'Henri-Georges Clouzot" (2009) - 未見- で、これは当時のヌーヴェルヴァーグとの関わりとかClouzot像に新たな光を当てることになったらしいのだが、今回上映されるのは再構成ので使ったのとは別の素材(Unseen)を65分に再構成して電子音楽のライブ(by Rollo Smallcombe)を被せたもの。 未完の未見フィルムの再構成バージョンの余り、なんてどう接してよいかわかるもんかなのだが、Jarvis Cockerさんも今回のFestivalの必見の5本に挙げていたし、おもしろそうかも、と思って。

少し早めに行ってbarbicanの近辺をうろうろした。ぽかぽかの陽気で気持ちよくて、公園ではみんなごろごろしてて、池(Lakeていう)には鴨とかカモメがいて、それを取り囲む高層住宅群は重厚でかっこよくて、ああこれがゴーメンガーストやハイ・ライズの物語に繋がっていくんだわ、とか思った。 あとでわかったのだが、ここ、賃貸物件としても結構でてるのね。でもここに借りたら会社にも歩いて通えるしまったく外に出なくなっちゃうよね。

ここの映画館は既に何度か行った音楽のホールの隣の棟の地下、火事とか惨事があったらぜったい逃げられなくなってそのまま地下生活者かモグラになっちゃうような、そういうとこで、チケットは割とあっさり買えた。

映画に戻る。 元のフィルムについて解説に書いてあったのを引くと、撮影は6ヶ月間、スタジオとロケとで、3人のカメラマン(うち一人はClaude Renoir)がカラーとモノクロで別個に撮って当時の撮影・現像技術を駆使して作りあげられた、と。 全体にものすごくお金がかかっているであろうことが見ただけでわかるかんじ。

映画は、もとの"Inferno”が妻の浮気に対する夫のオブセッションを中心に描いているそうなので、その線でいくらでも素材 - 加工を前提としたお試し用の素材があったのだろう、彩色したのからモノクロ、ストロボ、いろんなエフェクトを施しまくりのRomy SchneiderやCatherine AllégretやDany Carrelのクローズアップやかっこいいカットがてんこ盛りで、たしかにFashion in Filmぽいかも、ていうのと、どんながんがんのエフェクトかけてもすっぴんでもヌードでもまったく動じないで頑としてそこに居座ってしまうRomy Schneiderが、というより彼女の表象イメージがなんかすごい。
(これと同じ印象を最近抱いたのはやはりKristen Stewartだろうか)
(上映前のトークでこの撮影のことをRomy Schneiderは思い出したくもない、と言っていたって)

音楽はデスクトップのぴろぴろでも別によいのだが、64年に撮られたものであることを考えると当時の実験音楽とかを使ったほうが雰囲気は出たかも。 

LobsterとMUBIが協賛なので、MUBIとかではもう見れているのかもしれない。← 確認しろ。

BBCのニュースにEnoせんせいが出ているのだが、もうねなきゃ。