2.25.2013

[log] February 25 2013

帰りのヒースローまでようやくたどり着いて、スティルトンをもぐもぐはじめたところ。
おいしいねえ。

今回のは、ほんとに、ほんとうにしんどかった。久々に骨の髄までじわじわと叩きのめされて底なしに落ちていく気分を、後戻りできないスリルと恐怖の醍醐味を存分に味わって、もうこんなのやりたくねえんだようるせえよ、になった。

金曜の夕方から穴に籠って作業をはじめて、当初の予定であれば翌午前3時くらいにはなんとかなるはずだったのだが、結局眠らないまま土曜日の昼まで走ってしまい、更に翌日曜日も朝から午後3時まで再戦したりしていたので、土日の予定はぜんぶがらがらがらと崩れおち、でも、行かないとしんじゃう系のやつもあったので、そういうのだけはへろへろになりつつなんとか。 でもそれが精一杯で、これ以上やったら。 

ライブ1、演劇1、映画5(旧いの3、新しいの2)、展覧会3、その他1。

ライブはさっき書いたので、あとはだらだら載せていきます。

着いた日曜日はあったかかったのだが、木曜あたりから雪がちらちら舞うばりばり凍える寒さになって、ぜんぜん外を出歩くかんじではなくて、更に仕事のダメージがはんぱなくて、日曜の午後、お買い物スポットがクローズに向かう最後の3時間くらいは天を仰いで絶叫したくなった。 なんか恨みでもあんのか、と。

でももう帰るからいいや。 でもあと一週間いられたらなあ。
あれもあれもあれもあれも…

それにしても、空港に向かう電車のなかで見たNINのニュースは衝撃以外のなにものでもなかった。
なんで、どうしてまた、Adrian Belewなのか?? 81年、半ば呆然としつつ繰り返したのと全く同じ問いをその32年後、NINに投げることになろうとは… 
これで日本語の曲とかやられたらどうしてくれよう。

では、飛行機のほうへ。 今度のは新しいやつだといいなー。

[music] Houndmouth

ここから、18日以降の英国でのおはなしに。

到着した日曜の晩はお食事して寝て終わってしまい、18日の月曜日も仕事で(初日だし当然)ぜんぜん動けないかんじだったのだが、その昼間に、Geoff Travis先生が今晩これのライブがロンドンであるからみんな来てね! 絶対楽しいよ!みたいなTweetしてて、先生とJohn Peel師の言うことは正しいと思いこんでいるのでうずうずしていてもたってもいられなくなり、9時過ぎにホテルに戻ってランドセルを放り投げ、小屋のアドレスをメモして外に飛びだし、taxiのひとにここに行ってくらさい、とお願いしたらものすごい勢いで走り出してよくわからない小路の奥で降ろされる。

Sebright Arms ていうその小屋(バスで30分くらいかければ行けそうだったが、どの辺にあるのかは今でもわからず)は、パブの横とか地下におまけでライブスペースがくっついている系のやつで、雰囲気はとってもよくて、思い浮かべたのはMercury Loungeあたりの。

チケット(なんてもちろんない、木戸銭)は£6。 着いたのは9時半くらいで、前座なしに9:40くらいから始まる。
メンバーはB,D,G,Kの4ピースで、2曲くらいでフィドルが入って、メインのボーカルはGのひとだが全員がそれぞれ見事に歌えて、うまくて、特にG & Voの彼は、ひょろひょろしている割りにギターのにぎりこぶしが自在で、足に地のついたカントリー寄りのロック、コーラスが段々で入って、ドラムスと共にせーのでブレークするところとか、見事だった。

英国のバンドってこういうのやると端正でうまいし、さすがだなーとほれぼれみていたのだが、あとで調べたらケンタッキー、ルイヴィルのバンドで、この晩のライブがUKのデビューライブだったのだと。 失礼しましたー

途中の"I shall be released"のカバーでは、全員が楽器をスイッチして(GがD、DがG、KがB、BがK)、ヴァースをひとりひとりがかわりばんこに歌って、ぜんぜんびくともしない。 あんなみごとなカバーを聴いたのはTom Robinson Band以来だと思いました。

アンコール1回、1時間きっかりくらいでしたが、すばらしかった。 こういうバンドの先を読むのはぜんぜんだめなのだが、Rough Tradeが推しているし(でもRough Trade Eastに行ってもレコードなかった...)、行くところまで行ってほしいものだわ。

でっかい音でがんがん聴きたい、そう思わせてくれるバンド。 くせがなさすぎるので日本ではあたんないかもだけど。


 

2.24.2013

[film] Jack Reacher (2012)

16日の土曜日、『手討』のあとに六本木で見ました。『アウトロー』。これも戻ってきたときには終わっていそうだったし。
それにしても、"Ted"が興行収入ずっと1位、ていうのはへんだ。 嫌いな映画ではぜんぜんないのだが、病んでるわ。

朝のオフィス街で遠距離から5人が連続で狙撃される事件が起こり、容疑者は割と簡単に捕まるものの、彼は「Jack Reacherを呼んでくれ」と言って刑務所に搬送される途中でリンチを受けて重体になり、もの言わぬひとになってしまう。

んで、「呼んだか?」みたいなかんじでどこからか風のように現れたJack Reacherは、弁護士のおねえさんにあれこれ指示を出し、彼女の車や携帯も借りて(あんただれ?)、勝手にぐいぐい捜査を進めて敵の癇に触るようなことばかりやるのでとうとう向こうはぶちきれて噛みついてくるの。

誰の指図も受けない俺は俺の法で敵を裁く、ていうのが「アウトロー」の所以なのだろうが、自分の法だってLawはLawだし、それがあまりに強くぶっとく容赦なく相手をなぎ倒していくので、あんまし「アウトロー」なかんじはしない。 じゃあなんのかというと、それこそ"Jack Reacher"なのだ、と。 もんくあるか。

ではそれがそこらの問答無用系のExpendablesな人々とどこが違うのかというと、千里眼的な冷静沈着お見通しの技と、じじい共ときちんと渡りあって、ふむこいつなら娘の婿にしてやってもよいな、くらいのことを思わせてしまう雰囲気、であろうか。

この映画は、Richard Jenkins (弁護士のパパで凄腕検事)、Robert Duvall(射撃場の主、過去になんかあったらしい)、Werner Herzog(指なし)となかなか手ごわい老人たちが沢山でてくるのだが、彼らとのやりとりがなかなかすばらしいの。

それにしてもWerner Herzog、あんた何者? なかんじを漂わせるだけ漂わせておいて結局なんもしない ...
そして、Robert Duvallがすばらしい。 彼はむかしベトナムにいて、そのときの名前はキルゴアだったのではないかとおもう、そんな無軌道なじいさんなの。

という石頭で変なじじいばっかりでてくる男くさい映画で、見てて弁護士のおねえさんがかわいそうになった。
あたしは優秀なんだ、って思ってがんばってここまできたのに、誰も彼女の言うことなんか聞いてくれないし。

いちばん気になったのがIDも携帯もカードも着替えも持たずに股旅で暮らすJack Reacherのふだんの生活がどんななのか、ということだ。 近くによったらすごい臭いがするのかもしれない。 実はそのあたりで「アウトロー」なのかも。 


ここまでで渡英前の東京の分はおわり。

2.23.2013

[film] 手討 (1963)

これの読みは「てうち」だよね? 手討パスタ..  とか、だれもいわない?

渡英の前日16日、神保町シアターで見ました。戻ってきたらもうやっていないだろうし、『疵千両』がおもしろかったから。

退屈な、でも偉いひとがいっぱいいる真面目なお能の席で、あくびをした旗本(若山富三郎)が、怒らせたらやばい相手の前でやっちゃったからけじめを... とかいう理由で切腹させられて(能の100倍かっこいい切腹シーン)、仲間の旗本衆はみんなあたまきて、以来徒党を組んで街中をぶいぶいうろつくようになる。

その傍ら、旗本の青山播磨(市川雷蔵)は自分の屋敷で働いている豆腐屋の娘、お菊(藤由紀子)とべったり恋仲になってて、お家柄とか身分とか関係ないめおとになるのじゃ、ていうのだが、先の顛末を恨んで野蛮な旗本衆が起こした騒動のカタをつけるために、加賀家のお嬢さんとお見合いをさせられるの。  (ふざけんな、と播磨は見合いを途中放棄)

お見合いを知ったお菊は、わなわな取り乱して家宝のお皿をわざと割ってしまって、最初は過失で片付けようとしたのだが、いえ、お見合いの話を聞いて目の前が真っ暗になり、どうでもよくなり死にたくなってやってしまいました、て正直に言ったら、播磨は、お前にそんな思いをさせてしまってすまん許せ、て返して、ああそのお気持ちを聞けただけで十分でございますわたしを殺してくださいまし、って言って播磨はそうかわかったどうせこんなくそったれた世の中未練ないから一緒に天国に行こう、っていうの。

こんなにパーフェクトな心中ロジック&シチュエーションそうはないよね、って感動して、播磨がお菊に刀を振り下ろした瞬間、桜の花が地から天へと逆流して、生と死の世界が鮮やかに反転する、そこを抜けて死の世界に向かう播磨の透明な身体の美しいこと。 面目だの対面だの格式だの見栄だので固められたゴミのような現世、そんなのを遙かに飛びこえた永遠がそこにはあるの。

皿屋敷って、こんなお話しだったっけ? と思ったのだが、結構いろんなバリエーションがあるのね。
でもこのふたりだったら絶対化けてでるようなことはない。 割ったお皿のほうを家宝にするんだ。

[film] Cockfighter (1974)

13日水曜日の晩、そろそろ終わっちゃうから、ということで見ました。
数年前に出たDVDは買っていたものの、そういえば見ていなかったことに気づいたし。

闘鶏の映画で、闘鶏ていうのは、鶏の足に刃物を括りつけて1対1でどっちかが死ぬまで闘わせてそれを賭けのネタにする。鶏を抱えて土地を渡ってそれを生活の糧、人生の糧にしているのが主人公で、鶏も必死だが主人公も必死で、でも世の中の大多数の人にとっては所詮賭け事でしかなくて、その(鶏に対する)残酷描写ゆえに、英国とかでは未だに上映が禁止されている。 病床のモリシーにこれ見せたらまちがいなく再起不能になる。

残酷いうならキツネ狩りはどうだ、とか狩り全般だめだろ、とか、屠殺は、クジラは、銃規制は、とかわけのわかんない方向に行ってしまいがちで、この映画jはそういう倫理だのなんだのから離れたところで、闘鶏に溺れて、それを生活のベースにしているおじさん(ウォーレン・オーツ)の日々とその周りのやはりちょっと変な人たちを淡々と追っている。

Two-Lane Blacktop - 『断絶』の主人公達がまったく相容れることのないまま別々のレーンをびゅーんて走っていったのと同じようにこのおじさんの人生や世界観と我々のそれが交錯することはたぶん、ない、けど、ポイントはそこにはなくて、関わることはないけど、まちがいなくおじさんはそこにいて笑っている - あのなんとも言えない笑顔で、ということなの。  コミュニケーションとかダイバーシティとか、そういう難しい話を持ちだす必要はなくて、世界の繋がりとか接点とか中心とか周辺とか、そういうことを考えようとした時に、ここに描かれたような鶏を闘わせてお金を稼ぐような人たちは間違いなくそこにいるの。 どんなふうに? こんなふうに、さ。

音楽を聴くとき、映画を見るとき、その向こう側に拡がっている世界を呼吸しようとする、そのときに頭にいれておかねばならない何やら大切なこと、がウォーレン・オーツの、なにを考えているのかわからないにやにや笑いの中にはあるのだと思う。
あるいは、"The Shooting "のジャック・ニコルソンの気味悪い笑顔、あるいは『断絶』のジェームズ・テイラーの不機嫌な顔、あるいは"Road to Nowhere"のヴェルマの眠っている死顔、あれらの顔、彼らの顔、その貌は、コミュニケーションの記号として読み解かれることよりも、映画の世界のトーンを、その世界の底知れなさをまずなによりも示してはいないか。

底が知れない、知る必要がない、知りようがない、という状態でそれでも映画館の暗闇のなかで彼らの顔に向かい合わされるときに湧きあがってくるお手あげのやばいかんじと、それゆえの気持ちよさ/わるさ。
道路を歩いていて、向こうから鶏を抱えたウォーレン・オーツが笑いながら(しかも無言で)こっちに寄ってきたら、どうするか?
世界は、道路は、そういうことがふつーに起こりうる場所で、われわれはそういう人たちと同じ地面の上にいて、見ているものは別かもしれないが、共に生きていかなければいけないのだ、ということをこの映画は示す。 たとえば。

そして、そういうことを教えてくれる、頭に風穴を開けてくれる映画がいまどれだけ貴重なことか。  闘鶏のプロも、『断絶』のようなことをやっている連中も、まだきっとそのへんにはいるはずなのに。

あとはネストール・アルメンドロスのカメラとマイケル・フランクスの音楽。 70年代の淡い色調(服のぽわんとした赤と青)と砂のように流れていく音の粒と。 闘鶏の野蛮さ、羽音、鳴き声にこれらが重なり合うことで生まれてくるイメージの強さ、新しさ。
それに、例えば「異端」のラベルを貼って横に置いて見ないことにしてしまうのはほんとにもったいないよ。

2.20.2013

[film] 疵千両 (1960)

連休最後の11日、神保町シアターで見ました。
このタイトル、「きずせんりょう」でいいんだよね? 
「あざ」だか「きず」だかどっちだかわからなくなって、窓口で「これください」て指をさしたの(恥)。

今やっている特集の『時代劇の粋と美学~大映京都の二枚看板・田中徳三と三隅研次』は、どれもかっこよさそうなので1本でも多くみたいところ。

お家断絶が決まった会津藩で、「悪いのはぼんくらな家臣共だ」ていう東郷茂兵衛(河津清三郎)と「いや、我々もわるいのじゃ」ていう高倉長右衛門(長谷川一夫)が大口論になって、元々幼馴染の親友のふたりなのに、日本人なんだから飲みにいってまあまあ、とかやればいいのに、決闘だ決闘! てなって大雨のなか決闘して(すごく痛そうな刺しあい)、お互い傷だらけになりつつも高倉が勝つの。 で、高倉のとこで下女をしていたすが(香川京子)と東郷の弟の又八郎(小林勝彦)はずっと恋仲で、お家断絶と決闘を機に江戸に渡って子供も生れるのだが、又八郎は兄の仇である高倉のことを忘れず、じーっと恨んで狙っている。

ある日高倉を見かけた又八郎は、彼めがけて白昼切りつけ、その場(街中、おお迷惑)で決闘になって、ここでもぐさぐさの斬りあいになるのだが、又八郎のほうがダメージが大きく、でもトドメはささずに高倉は立ち去る。
又八郎はおうちに担ぎこまれるが、やがて医者もさじを投げ、ごめんようーて妻に向かってびーびー泣き続けるもんだから、すがは刃物をもって夜中の高倉邸に忍びこみ、それで...

どの構図もぴしーっとかっこよくて、更に伊福部昭の音楽がきりきり絡んで(特に2回目の決闘シーン)ものすごい緊張感を生み、最後まで痺れて興奮しっぱなしなのであるが、他方、とにかく又八郎が救いようのないバカで、こいつの独りよがりのわがままのせいでみんなが不幸になる、いいかげんにしろよ、てずっと思っていた。

高倉も散々だよね。 親友の愚痴を聞き流せばいいのに口を挟んだばっかりにそいつを殺すことになって、その弟に延々恨まれて、決闘で体中疵物にされて、更には昔ほんのり片想いしていたすがも失い、ぜんぜん関係ないその子供を押しつけられてしまう。
ついてない...   

お家断絶とか仇討ちとか切腹とか、かつて美しいとされていた慣行とそれに伴う悲劇を美しく描く、それはそれとして、というかそれゆえにこそ愚行はより一層際立つのね。 ちゃんとした映画はこういうことまできちんと教えてくれるの。 

[film] 奪命金 (2011)

10日の日曜日、『密書』の後で新宿に行って、シネマカリテ(はじめて)で見ました。 ジョニー・トーの新しいやつ。

テーマはお金、金融、ということで、そういう方面のことがまったくわからない(無理してリスクの高い商品を買っちゃうおばさんと同じレベル)のでどきどきして行ってみたら、いつものジョニー・トーだったので少し安心した。

ジョニー・トーの映画では、主人公たちがいつも何かを求めたり奪ったり抱えたりしてじたばた走りまわってぼろぼろの傷だらけになって、結局おじゃん、なんにもならなかった、みたいなパターンが多い。

抱えて走るのは例えば、『エレクション』だと竜頭棍だったり、『放・逐』だと仲間の身体だったり、"Vengence"だと復讐の念だったり、『強奪のトライアングル』だと古代の秘宝だったりしたわけだが、それが今回はお金で、しかもそれは物理的な札束としてもあれば、マーケット上で予測できないまま膨らんだり萎んだりする厄介なやつでもあって、こいつがギリシャ通貨危機という世界的な大騒ぎを通して、水面上に拡がっていった波風を時間軸を前後させつつ追っていく。

登場人物のアンサンブルも緩めで、中心にいるのは3人、ちんぴら、警官、金融商品の窓口担当で、ちんぴらは兄貴分の保釈金がほしい、警官はマイホームの購入資金がほしい(妻にせっつかれている)、窓口担当は営業成績が上がらないので金づるがほしい、とそれぞれ、お金はほしいけど、積極的に、なにがなんでも、ないとしんじゃう、というかんじではなく、彼らは互いに関わりそうでいて関わることなく、おなじ電光板上の数字を眺めるしかない、そんな関係。

こういう具合なので、お金をめぐって殺傷沙汰が起こっても、これはやばいなんとかせねば、みたいな空気にはならず、そのトーンは最後まで変わらない。 冒頭のアパートの刃物沙汰も最後の落着も、だいたいおなじテンションで描かれている。 つまり、現代のお金を巡るやりとり、争奪はそういう、ぼやんとしたところ、責任者でてこい!(しーん ...)  な場所に落ちざるを得ないのではないか、と。

これはこれまでのジョニー・トーの、黒をバックに一切を顧みないプロの男達が命懸けで何かを奪い取る/守り通す物語とは一線を画するやつで、でも、こんなような世界を描くとしたらこんなふうになるはず、というのを一度やってみたかったのではないか。

あとは、俳優さんが、いつものジョニートー映画とおなじく、すばらしい。  あのおでぶさんが出てこないのと、お食事シーンがあまりないとこだけ、ちょっとざんねん。

それと思ったのは、例えばブレッソンの『ラルジャン』 - これも「奪命金」ではある -  の、あのきりきりした刹那の真逆に物語を立てるとしたら、こんなふうになるのかも、とか。

[film] Det hemmelighedsfulde X (1914)

渡英前に見ていたやつを少しづつあげていきます。

これも恵比寿映像祭と同様、熱狂的に通うというよりは1本くらい見ておこ、程度のノリで毎年見にいくノーザンライツ・フェスティバル。 10日の日曜日に見ました。 
昨年の『魔女』もそうだったけど、このフェスに期待しているのは新作よりは圧倒的に昔のやつで(ほんとに面白い新作だったらそのうち見れる.. はず)、なのに今回、バーグマンの2本が平日昼間しかやらないのはとっても残念だった。

『密書』(英題: Sealed Orders)は、デンマークのサイレントで、柳下美恵さんの伴奏つきで、Benjamin Christensenが製作・監督・脚本・編集・主演をやっているのだが、後半、あれよあれよと冗談みたいにおもしろくなるのでびっくりした。

子供ふたりと妻と幸せな家庭にある海軍将校がいて、敵方のスパイ、スピネッリ伯爵が将校の奥さんにねちねち言い寄って食いこんで、その流れで戦争開始直後の軍の密書の中身を伯爵に見られてしまう。
伝書鳩経由でその中身が敵方に知られたことがわかってしまった将校は軍法会議にかけられて、彼は情報が妻経由で渡ったことはわかっているものの、断じて言うことなんかできなくて、死刑を宣告されるの。

長男の子はパパの無実を信じて刑務所に潜入していくわ、にっくき伯爵の居所に気づいた妻は戦闘まっただ中の原っぱに部屋着のまま突撃していくわ、怒濤の展開で、ああようやく、というとこで電信柱がぶっ倒れて電線がぷっつんしたときにゃこっちの血管も切れるかと思うくらいのけぞってしまった(ほんと、久々にのけぞったわ)のだが、まあよかった。 いろんな意味で。

針の穴があと3mmずれていたら、お家取り潰し、ぜんぶがおじゃんの焼野原になってしまうところだったねえ。

平和で幸せな家庭の背後にひたひたと忍び寄ってきて突然すべてをなぎ倒し押し潰そうとする戦争のおそろしさを、赤ん坊から将軍まで、伝書鳩から軍艦まで、激しいジェットコースターの高低差で描いておきながら、全体としてはほんわかしているところがすごい。 屋内の照明を含めた陰影の美しさ儚さが、戦闘の前線のごちゃごちゃに直線で結ばれてしまうところも。

ピアノの伴奏はいつも通りすばらしかったが、音のレベルがちょっとでっかすぎたかも。

-------------------------
RIP  Kevin Ayers...

九段会館での初来日ライブは生涯ベストライブの一本であり続けている。(ギターはOllie Halsall)
彼の歌とギターを聴くといつも、風のように自由であること、束縛されないこと、そうあることの美しさと正しさ、を思う。

ご冥福をお祈りします。

2.19.2013

[log] February 17 2013 - London

ロンドンには17日の夕方着きました。 ぜんぜんあったかいのでつまんない。油断ならないけど。

ロンドン行きはCMでやってる新しい機材かと思って楽しみにしていたらそうではない古いやつだったので、思いっきりがっかりした。
これだけでももう乗るのやめて帰ろうかとか思って、でもそこは我慢して、ふて寝しながら映画でも見るか、だったのだが2月に入ってから3回目の飛行機だったのでもう見るやつは殆ど残っていなかったりする。

それでもごろごろしながら3本見ました。

Der ganz große Traum (2011)   
直訳すると 「とっても大きな夢」。
英語題だと "Lessons of a Dream" 。
邦題だと、『コッホ先生と僕らの革命』(... なんでこうなっちゃうの?...ばっかみたい)

19世紀の終わり頃、ドイツの小学校に初めて赴任した英語教師がサッカーを紹介しようとしたら、いろんなとこで衝突とか軋轢とかがあって大変だった、という実話ベースのお話。  サッカーが全世界に広がっていった背景にはこんなこともあった、というのは教育、というテーマと併せて感動したいひとには感動的なことなのかもしれないが、興味ないひとにはべつに、ふーん、て。

それよりも、いろんな子供がいていろんな親がいて、支配者層の強権的な父親とその息子、貧しい労働者層の母子、などそれぞれの葛藤と和解を"Breakfast Club"ぽく描いたとこ(ほんのちょっとだけどね)のほうに惹かれた。

サッカーって結局のところ、ガキの球蹴りだったんだよね、それがあそこまで... というだけのお話しなのかも。  「革命」の要素は微塵もないです。

The Silent War 「聴風者」 (2012)
監督はアラン・マックとフェリックス・チョンという「インファナル・アフェア」(見てないや...)組の人達で、トニー・レオンとジョウ・シュンが主演。  中国共産党と国民党が熾烈な争いをしていた時代、共産党の諜報機関701の女スパイ - ジョウ・シュンは任務の遂行中にピアノ調律師の元で働く盲目の男(トニー・レオン)の驚異的な聴力にびっくりして雇いいれ、敵方の電信傍受をやらせるの。  彼は長波無線のノイズの海のなかからモールス信号を選り分けて、その音のタッチから、どんな奴がどんな場所でそれを叩いているのかまで特定することができて、その情報を元に相手方のスパイ「重慶」を追い詰めていくのだが... というお話し。

派手な仕掛けはあまりなくて、過酷で非情な諜報活動(スパイというよりこっちのかんじ)の世界に生きる男と女をしっとりと描いていてなかなか。 こんな世界が一時期あった、ということが微細な音の雲のなかから立ち上がる。

トニー・レオンは、殆ど目の演技のない(できない)状態であるのに、おそるべし、であった。
あとは脇役の人達もそれぞれに素敵で、みんな無表情で寡黙で、特に運転手のおじいちゃんとかよかった。

Hotel Transylvania (2012)
モンスターがいっぱいでてくるアニメかと思って見たら、ただの、いつもの、アダム・サンドラー映画だった。
ドラキュラさんがモンスター用のホテルを経営してて、そこは「危険な」人間が入ってこれないとこにあるのでモンスター達には人気スポットで、そこで愛娘のメイヴィスの118歳のお誕生会をやるのでゲストのモンスターがいっぱい来ているとこにジョナサンていう人間の若者(ぼんくら)が紛れこんでしまう。 で、なんとか追い出そうとするのだがメイヴィスとジョナサンが互いに一目惚れしてしまったのでさあ大変、になるの。

ドラキュラはアダム・サンドラーの昔からあるネタそのままだし、パラダイス = ハワイ志向もそうだし、機内アナウンスのとこはもろ"The Wedding Singer"だったりするので、あんなごちゃごちゃやかましいアニメにする必要なかった気もするが、やりたかったのでしょう。
ゴスのメイヴィスと西海岸のジョナサンの組合せがちょっとすてきなのと、いくつかのモンスターとかキャラは楽しいの。 ネズミのエスメラルダとか。

あと、スリップノットはデスメタルじゃないからね >字幕

それからまだ少し時間があったので"Trouble with the Curve"の後半部分だけ。
この映画の主役って、Amy Adamsで、彼女の今後の人生が、キャリアも含めてぎゅーんてカーブを描く、そのさまを描いているのだなあ、とおもった。


2月の機内映画のメニューのトップである"Argo"についても書いておく。
日本では1月の渡米の前日、1/26に渋谷で見ていて、どうしたもんかなー、と。
おもしろいし、はらはらどきどきのちゃんとしたエンターテイメント映画だなあ、Ben Affleckはもう立派な映画監督だなあ、と思いました。
バカみたいなハリウッド、そこで企画されたしょうもない嘘の、でっちあげ産業としての映画、が結果的に人質の命をぎりぎりで救った、という冗談みたいな話。 うまくやったもんだねえ、よかったねえ、でよいのか?よかったのか?

今回の人質事件を引き起こした中東のひとたちの尋常でなく強い怒り、それは途切れることなく今までもずーっと続いて治まることは決してなくて、その矛先が「アメリカ」であること、ぜんぜん基本姿勢と態度を変えようとしない「アメリカ」にあることは小学生でも知っている。  そういう中で、こういう映画を、史実であるとはいえ(史実なんだからいいだろ、みたいなかたちで)、リリースしてしまうことにものすごい違和感を覚えた。 "The Town"で、故郷ボストンのすれっからしの連中を描いたときの、あの暖かい眼差しはどこに行っちゃったのか、ということなの。 いつまでこんなことを厚顔無恥に続けていくのか(→ アメリカ)、と。


空港について、Timesの日曜版買ったら、Cultureの冊子の表紙がJudd Apatowさんだった。
その冊子に載っていた演劇の告知(↓)。 みたいー。 M & Q。
http://www.michaelgrandagecompany.com/whats-on/#peter-and-alice_page0

ついでに、Record of the Weekは、Nick Cave & The Bad Seedsの新譜、他にはMark Kozelekの"Like Rats"のレビューもある。 これ、メジャー新聞の日曜版なんだよ。

2.17.2013

[log] February 17 2013

たしか2週間ぶりくらいの成田の出発のとこで、これからたしか7ヶ月ぶりくらいのロンドンに向かいます。 正味8日くらい?

もちろん仕事でございまして、いちおう週末は跨ぐもののそこには仕事が詰まっているし、いろいろ引率したりしているので、今回はしょうもない。 仕事しろ。

一応、ひと通り探してみたものの、あんまおもしろそうなのはやっていないかんじ。
なにがなんでも、みたいというのはない。 どうせ現地着いたらかわるだろうが。

日本のほうは、抽選までしてチケット取っておいたSwansがぱあになったのでとっても悲しい。

しょうがないので、まだ書いてない映画の感想とかたらたらあげていくことにしますわ。

ではまた。

2.16.2013

[film] Two Years at Sea (2011)

9日の土曜日の夕方、誰のためのどういう趣旨の祭りなのかいまだによくわかんない「恵比寿映像祭」から1本だけ見ました。 『湖畔の2年間』。
Mike Kelleyも、そりゃ見たかったけどあの時間割ではどうしようもない。

監督のBen Riversがひとりで、湖畔の廃屋みたいなとこで暮らしている男の日々を追ったもの。
おじさんがどういう経緯でそこで暮らしているのか、なんでひとりなのか(家族らしき写真があるので昔はいたのかもしれない)、ドキュメンタリーなのかフィクションなのか、2年間暮らしてきた現在地点を撮ったものなのか、2年間カメラで撮り続けたものをまとめたものなのか、今もそこにいるのか、なにもわからないまま、モノクロの荒れた映像でおじさんのすることをじっと見つめるカメラとそこから出てくるおじさんの姿を見るしかない。

世界から切り離された場所でひとりで暮らすおじさんを撮ったドキュメンタリー、というと王兵の『名前のない男』を思い浮かべるが、生活のレベル(あれらを「生活」と呼んでいいのか、はあるにせよ)は、中国のおじさんよりこっちのほうが上みたいで、向こうの穴蔵に比べてこっちはちゃんと屋根があるし、こっちはレコードかけたり、洗濯したり、池にボートをふくらませて釣りしたりしている。 だからどうした、でしかないのだが、人並みの暮らし、ってなんなんだろう、とか。

社会、社交のようなところから離れて、ひとの暮らしの営みはどこまでぼうぼうした白黒の動きとして、みしみしぎゅーっと圧縮された音のうねりとして表しうるのか、ということ。
それが普遍的であるとかそんなことはどうでもよくて、そこには何の過去もドラマも、独り語り(たまになんかもごもご言うけど)も必要なくて、ただ見て、聞いているだけでひとつの像が浮かびあがってくる。 最後のほう、淡い光に照らされたおじさんの頭を見ていてセザンヌやマネの肖像画を見ているかんじになったが、そういうところもある。 ただ、それを美しいと思うかどうかは難しいかも。 そして、そんな判断もまたこの映画の前ではどうでもいいんだ。 たぶん。

あー映像になんかならなくてもぜんぜんよいから、湖畔で2年間、あんなふうにボートの上でぷかぷかしていたいようー。 

[film] Une Aventure de Billy le Kid (1971)

ここから戻ってきてからのお話。 8日、金曜日の晩に見ました。
けどこの週、香港から戻った後の週はほんとにぼろかすで、どうやってアテネまでたどり着いたのかも憶えていないくらいだるかった。 『ビリー・ザ・キッドの冒険』

リュック・ムレ特集上映の1本で、ぜんぜん知らない人だし、こういうのは本数見て、ちゃんと講演を聞いたほうがよいのだろうが、この1本が精一杯。 またどこかでぜったい。

グリフィスの金言 "all one needs to make a movie is a girl and a gun"の最後のパーツを切り取って、"and"を"is"に変えて、"A Girl is a Gun" - これが英語題で、これは西部劇なの。

ジャン=ピエール・レオーが(たぶん)ビリー・ザ・キッドでお尋ね者で、お金の取りっこと追いかけっこがあって、女がでてきて、ロバがいて、インディアンがでてきて、山とか丘とかがあって、これらが「ビリー・ザ・キッド」の「冒険」譚という流れのなかに配置されてそれなりに機能していく、というわけではなくて、なんとなくこんなかんじ、なかんじ、なかんじ(エコー)。

ジャン=ピエール・レオーは目つきも挙動もぜんぶ変に落ち着きなくとっちらかっていて、しかも台詞は安っぽい英語吹き替えなので、映画というよかTVみたいで、でもそう思ってみたところで、それがどうした、なの。 後年、ジョニー・デップはこの動きを真似たのだな、とか。

こんなふうに全てが適当ではんぱな折衷で、でもこれを西部劇ではない、とか、映画ではない、とか言うことはできなくて、では、なぜそう言えないのか? をじんわりと考えさせてしまうところにこの映画の力があるのだろうなー、と思った。 

それはつまるところ、映画はなんで「女」と「銃」なのか? を考えてみることに他ならなくて、どっちも男をいちころで仕留めるもんだから(でも他方で次から次へとゴキブリのように湧いてでる男共が)、ということでよいのかしら。

あとは他の作品も見てみないことには。

2.14.2013

[log] New York そのた - Jan.2013

2/2(土)の帰り便では、3本見ました。

Seven Psychopaths (2012)
Colin Farrellが売れない書けない映画の脚本家で、友達のSam Rockwellにサイコパスの映画を書いてみたらどうか、て言われてて、それとSam Rockwellの仕事仲間がChristopher Walkenでペットの犬泥棒をやってて、ギャングのボス(Woody Harrelson)の愛犬のシーズーを盗んじゃったもんだから騒動に巻き込まれて、フィクションと現実がだんだらになっていくの。

いかにも英国の、映画秘宝(買ったことない)好きっぽい小汚い男子が得意満面で書きあげたような血なまぐさいやくざ活劇で、キャスティングはよいのだからもうちょっと丁寧に作ればよいのに、とか思った。

白うさぎを抱いたサイコパスのTom Waitsはすてきだけど、ちょっと狙いすぎだし。

Here Comes the Boom (2012)
気分はいいかげん寝れば、だったのだが、Happy Madison Proのやつだったのでしょうがないか、と見る。

Kevin Jamesが中学のダメ教師で、学校の財政難で切り捨てられそうなオーケストラ部のために金稼ぎをしよう、と素人格闘技大会みたいのに出始めて、ひょんなことからばりばりのトレーナーもついて、やがてMGM Grandでのなんとかっていう格闘技団体の試合に出るとこまでいくの。 元々レスリングの選手だった、という設定ではあるものの、ちょっと荒唐無稽すぎるかも。
かんじとしては、"Dodgeball: A True Underdog Story" (2004)に近いのだが、あれよかめちゃくちゃ。
ただ、ぶよぶよ撥ねまくりどんなに打たれてもまったくへこまない萎まないKevin Jamesの身体は、なかなかすごいかも、とおもった。
これと香港行きの便で見た"Hitch"のダンスシーンをあわせてみると。

Taken2
1のほうは見ていないのだが、目が覚めてしまったのでつい。
1で、娘がさらわれて、その奪還の際にやっつけてしまった悪党共の親が復讐に燃えて襲いかかってきて、今度は(元)妻を誘拐するけど、 Liam Neesonが強すぎてするするとやられてしまう。 
イスタンブールの街中で、自分と娘の居場所を確認するためだけに手榴弾を投げまくるのはいかがなものかと。

Taken3は、たぶん、娘のボーイフレンドのジェイミーが誘拐されて、でも放置しておくの。 "Not Taken"

本関係は:

New York Film Festivalの50周年を記念した大型本、今回、これだけは入手したくてあちこち探したのだがなかなかなくて、St.Marksでやっと手にいれた。 まだ包装もやぶっていない。 たのしみ。

http://www.filmlinc.com/nyff2012/pages/new-york-film-festival-gold

Elliot Bay Book Companyが泣ける、て紹介していたきつねさんの絵本;
http://www.elliottbaybook.com/book/9781592701247

これ、ふつうに楽しい、大型本と小型本があって、小型のほうを。
http://parisvsnyc.blogspot.jp/

あとはいろんな雑誌。これとか。
http://dinerjournal.com/

レコード
今回はあんましなくて、店猫に挨拶しておわったかんじ。
John Barrymoreが朗読するシェイクスピア、ていうレコードとか買った($5)。

もう一軒の猫本屋 - Spoonbill & SugartownSpoonvillにも行ってみたが、店内でインディープリントの可能性、みたいなシンポジウムをやってて、ぼーっと聞いていたらなかなかおもしろい内容だったのだが、猫は出てきてくれなかったの。残念。

食べもの関係は、日曜日の夕方、元気で寒くなかったらBrooklynに渡ってBattersbyに5度目の挑戦をしたかったのだが、寒さでめげて、Manhattanの近場のにした。 Il Buco Alimentari e Vineriaていうイタリアン(こないだのフィガロにも載ってた)。
Il Bucoの元のお店は90年代からあって、インテリアがぼろい農家の小屋みたいで、割とふつーのイタリアンだったのだが、こっちは見事に最近のやつだった。 メインでたのんだスペアリブはばかでかい骨付き肉の塊に黒胡椒粒が衣としてびっちりまぶしてあって、イメージとあまりに違っていたので、少しびっくりした。

Shake Shack(ハンバーガーとミルクシェイクの店)がチョコバーを売り出していた。Mast Brothers謹製。 $17とちょっと高め。

金曜日のGrand Centralの100周年記念式典は、なかなかすごくて、9:30頃に寄っていったら既に封鎖されててホールの中には入れなかった。この日だけ、駅構内のいろんなお店がセールとかやってて、チャオベラのアイスクリームがスクープ10¢とか靴磨きが10¢とか、どっかのスカーフが$2とか、いろいろあったのだが、人がぐしゃぐしゃすぎて並ぶ気にはまったくなれず。

それにしても、今回は1910年代のあれこれにあちこちで当たっていたかんじ。

ローカルTV局のNY1では、式典の中継とEd Kochの訃報をずーっとやっていたのだが、途中でGrand Centralを舞台にした映画のクリップをつないで流していた。 
ものすごくいっぱいあるよね。最近だと"Friends with Benefits" (2011)とか。
自分がよく憶えているのだと、"Carlito's Way" (1993) - エスカレーターを夜間ずっとOccupyされてた - と"Arthur" (2011)くらい、かなあ。

Zooey DeschanelさんがパンテーンのシャンプーのCMにでてた...

今年のValentine Day, BAMは「ローマの休日」かあ。
割とふつうだなあー

まだなんかあるか。

2.13.2013

[theater] Cat on a Hot Tin Roof - Jan.30

いくつか確認したいことがあったので原作本(翻訳だけど)を本棚から探してみたのだが見つからなくて、諦めて本屋に買いにいったら絶版だったのでびっくりして、改めて本棚の奥地まで掘り進んでひっぱりだすのに時間がかかってしまった。 せいりせいとん。

30日の水曜日、BroadwayのRichard Rodgers Theatreで見ました。 『焼けたトタン屋根の上の猫』。 
前の晩のCat Powerから猫つづき。

これに関して、上演していることは知っていたものの行けるとは思っていなくて、半ば諦めていた。
会社のシアター好きのおばさんに時間があったらみたいなー、くらいのことを言っておいたら、$100超えのチケットが$99になるクーポンを持ってきてくれた。 同じく会社の(映画・シアター好き、ゲイ)の長老におうかがいを立てたところ、レビューは散々だぞ、ていうのとMaggieの役を Elizabeth Taylor以上にうまくできる娘がいるとは思えん、と言われた。 そんなこと言われてもさ...

で、夕方、ICPに行ったついで、シアターのブースに寄ってみたら当日券があって、真ん中のあんま悪くない席だったので取っちゃった。

アメリカの映画を、旧いのも新しいのも見て追っていきたい、と思った頃から、Eugene O'NeillとかArthur MillerとかTennessee Williamsの演劇はライブできちんと見ておくべきでは、という気がしていて、だから「欲望という名の電車」は2005年にJohn C. Reilly - Natasha Richardsonていうキャストで、「ガラスの動物園」は2005年にJessica Lange - Josh Lucas - Christian Slaterていうキャストで見た。  どれもそれぞれにびっくりして、「トタン猫」はその流れで、本当は2003年のMaggieがAshley Judd, BrickがJason Patric、Big DaddyがNed Beatty、というのを見ておきたかったのだが、もうどうすることもできない。
 
更に昔だと初演時(1955年)の演出 : Elia Kazan、Brick役はBen Gazzara、って見たかったなー。 
あとは1990年の、Maggie役にKathleen Turnerとか。
今回のはMaggieがScarlett Johansson、BrickがBenjamin Walker("Abraham Lincoln: Vampire Hunter" のひと)、でこれはこれで、もちろん見たいよね。

8時開始、3幕もの、休憩2回。
幕は薄明の淡い白にアメリカ南部の、覆いかぶさるような木々のシルエット。虫の声、鳥の声。

一幕目で焼け猫であるところのMaggieがBrickを虐めまくって、二幕目でBig DaddyがBrickを虐めまくって、三幕目でなにかがひっくり返って、抱擁が。

ゆっくりと傾いて沈んでいくアメリカ南部の大家族のそれぞれが抱える歪んだ欲望、自己欺瞞、親友の死に対する罪悪感、疑念、妬み、憎悪、焦燥、捨て鉢、やっぱり愛、それでも絶望、などなどをぐるぐるのとぐろ模様のなかに描いて、それでも最後はなんとなく落着してしまう。 何の解決もしていないと思うし、陽がさせばトタン屋根は再びやけて熱くなって、翌日からまた同じことを繰り返すかもしれないし、絶望とか病気とかが加速して突然死んじゃうかもしれないのに、とりあえず、カーテンは降りる。 この放棄・放任と、もういい終わり、終わるんだ、という言い切りの強い意思。 眩暈がするくらいの臭気とついていけないかんじと、でもそういうものかも、という。

彼らを最後の最後に立ち直らせたのは家族の力とか絆とか、それぞれのそれぞれに対する愛や希望とか、そんな抽象的なものではない、南部の沼地の向こうから立ち上がって吹いてくる、雷のように鳴り響く怪しげななにかが一対一、個と個で向い合って罵りあい渡りあう彼らの呼気や血流をさらっと裏返した、そんな描き方をしている。 ていうか、あの終わり方は、たんなる偶然で、そんなに気にすることもないのかもしれない。

Scarlett Johanssonさんは、声を少し嗄らしていて、これが原作の冒頭に細かに指定されているMaggieの声の出し方にどこまで合っていると思えるか、がおそらく評価の分かれ目なのかもしれないが、なかなか立派に猫していた。 最初はすごくつんつんとげとげしたビッチで、そこからだんだん丸く透明になっていって、やがてはあの声と唇でやさしく包みこんでくれる、少し前のWoody Allenを虜にしたであろう彼女の生の魅力が南部の湿気とともにこちらに吹いてくるのだった。 

意外なほどよかったのが、Brick役のBenjamin Walkerさんで、MaggieとBig Daddyの両者からてんこ盛りの愛の裏返しでぼこぼこにされ、松葉杖という3番目の肢(..これはつまり。)がないと歩けなくて、親友の死によって自責と孤独と絶望の淵に立たされ、アルコールと汗と涙でぐしゃぐしゃの汁まみれ、ひくひく悶えまくるさまを見事な艶っぽさで演じていた。

で、このふたりが大きな家の大きな部屋のまんなかの大きなベッドの上で互いの頬を包みあったところにレースのカーテンがすうっと降りてくると、ここが世界の中心で、原作の冒頭で著者が書いていた我々はなんのために生きるのか、なんのために死ぬのか、その答えも布の向こうに幻のように浮びあがってくるの。

見ながら、なんとなくファスビンダーの映画を思い浮かべた。 彼の映画にある自縛とか自棄とか不自由とか。(ファスビンダーの場合、女性をぜんぜんきれいに描かないけど)
で、今のわれわれがファスビンダーを必要としているのと同じように、こんなふうな生煮えの地獄をみんな望んでいるんだねえ、と。
  

2.11.2013

[art] George Bellows, 他

1月28の週、NYでの展覧会関係を3つ、纏めて書いておく。

日曜日着で土曜日発(ああ、Stormがあと一週間早く来てくれたら飛行機とべなくてよかったのに)、というごく普通の出張滞在パターンの場合、美術館に行くのが一番難しいの。

到着した日曜日は浮き足立ってて絵を見たりしている余裕なんかないので、美術館に足を運ぶのは平日の夕方しかないのである。しかも月曜日は大抵のとこは休みで、木金以外は5:30とか6:00に閉まってしまう。 
ま、そんなの考えてないで仕事しろ、ってことなんだけど。

1.29日の火曜日、一瞬の隙をついて地下鉄で86th、そこから小走りでMetropolitanのフロアに駆けこんだのが17:10、閉館は17:30なので、この時間になるとチケットブースには人がいなくなっていて、タダで奥に入っていくことができる。しかし、並行していくつかの通路の閉鎖/囲い込みと客の追い出しが始まっているので、変なとこに入り込むとデッドロックでおだぶつで、スリル満点なの。

当然のように下調べなんてしてこなかったので、目当てのはあそこ、と見当をつけて階段を駆け上がって、フロアにいる係のおばさん数名にやんわりブロックされつつもう終わるんだけどー、って言われつつも指で"3 minutes!" てやりながら滑りこんだのがこちら。

George Bellows
http://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2012/bellows

1882年にオハイオで生まれて1925年、42歳の若さで亡くなったアメリカの画家の回顧。
1911年、Metropolitan Museumに最初に作品を買い上げられた時、彼はまだ29歳だった。

この展示のタイトルにもなっている有名な拳闘の絵 - "Stag at Sharkey's" (1909)を始め、"Blue Snow, The Battery" (1910), "New York" (1911), "Forty-two Kids" (1907), "Beach at Coney Island" (1908)、などなどの20世紀初頭のNew Yorkの景色とそこで暮らす人々の表情が素朴に、しかし活き活きと切り取られている。 同じ年(1982年)に生まれたEdward Hopperの絵にある静けさ - そこから漂ってくる孤独な影とは対照的な雑踏や人の動きの強さと明快さがあって、いいなー。
これが今から100年前のNew Yorkの景色なのだ、と。
約15分、でも点数はそんなに多くなかったのでなんとか。


2.30日水曜日の夕方、7分くらい真横に走ってICP(International Center of Photography)で見ました。 6時Closeで中に入ったのが5:20頃。やはりおばさんに閉まっちゃうのよ、って言われ、いいの! って言ったら学生料金($10)で入れてくれた。 さんきうー。

Roman Vishniac Rediscovered
http://www.icp.org/museum/exhibitions/roman-vishniac-rediscovered

1897年ロシアで生まれて1940年に米国に渡ったロシア系アメリカ人の包括的な紹介。
ホロコースト前の東欧ユダヤ社会の生活、特に子供達を撮った写真がすばらしいの。
ひとりひとりの子供達の目と表情を見ていると、この後の彼らの人生はどんなふうに転がっていったのだろう、って吸い込まれて目がまわってくる。
これはカタログを買いました。

もういっこ、戦争報道写真のChimの展示もあって、こちらも子供達の姿が目に刺さる。

We Went Back: Photographs from Europe 1933–1956 by Chim


3.1日金曜日の夕方、MOMAは特になにがなんでも、ていうのはなかったのでたらたら行ったらタダで入れてしまった。ラッキー。

一番見たかったのが"Inventing Abstraction, 1910–1925"ていう展示。
アメリカの美術館て、こういう起源を紹介する教科書展示がほんとにうまいと思うのだが、これも正にそうで、なんといっても下のサイトの網目図ね。

http://www.moma.org/interactives/exhibitions/2012/inventingabstraction/

例えば国や地名や固有名をもった人物、といった具象・名・物を捨てて、「美」を転用・敷衍可能な「抽象」概念としてネットワーク上に、網目の上に散らしていくこと、更にそういう行為そのものもアートとして成立しうることが発見された時代。 そんな1910年代に誕生した架空・妄想のネットワーク、その形象、地図を大風呂敷の上にばーんと拡げてみせて、これもまたAbstractにぐにょぐにょ動いていく。

展示スペース内には仕切られた小部屋があって、そこでは"Reinventing Music: 1910-1925"というタイトルで20世紀前衛音楽のスタンダード(Varèse, Schoenberg, Ives, Webern, Debussyとか)が流れていた。 けど、音が小さすぎて(まわりがやかましすぎて)あんま聴こえないの。

それから同じフロアでやっていたこれ。

Tokyo 1955–1970: A New Avant-Garde
東京の前衛芸術にとってこの区切りがどういう意味を持つのかちょっと調べてみたが、あんましよくわかんなかった。 実験工房は51年からだし、具体は54年からで、あれはTokyoじゃないし、展示されていた岡本太郎の「森の掟」は1950年だし。
前の"Inventing Abstraction"もそうだったけど、とりあえず15年で切っているだけなのかも。

点数はそんなになくて、全体としてはハイレッド・センターと工藤哲巳が圧倒的。
でも、実はこれだけで十分なのかも、とか思った。 最近の日本の若いアーティストなんて工藤哲巳を前にしたらペットみたいに人畜無害だよね。

それからムンクの「叫び」、世界に4バージョンある「叫び」のうちの唯一の個人蔵、パステルバージョン、ていうのが展示されていたので見た。 油彩でみっちり塗りこめられてない、やや風通しよく灯籠流しで風に飛ばされていっちゃうような「叫び」。 これはこれでよかったかも。

でも、ムンクは他のもすばらしい(すぐ横に小さい展示コーナーがあった)ので、みんな、そっちも見ようね。 あと、絵の横であのポーズして携帯写真撮りっこするのはみっともないのでやめよう > 東洋人のみんな。

2.10.2013

[film] Silver Linings Playbook (2012)

ふたたびNYの話に戻って、2/1(金)の寒い寒い晩、"Sound City"の後の2本目、ダウンタウンのAngelikaで見ました。 23時の回だったが、結構入っていた。

この日が初日だったWalter Hill(久々)の"Bullet to the Head"にしようかとも思ったのだが、これは公開されそうだったし、もうじき公開、という点ではこれも同じだったのだが、とにかく寒くて、なんかほっこりしたかったんだよう。

予告で盛り上がったのが、Elle Fanningの"Ginger & Rosa"とRoman Coppola - Charlie Sheen - Jason Schwartzmanの"A Glimpse Inside the Mind of Charles Swan III" でしたわ。
見たいなー。

妻の浮気相手をぼこぼこにしてメンタル系の施設に送られてしまった情緒不安定のPat (Bradley Cooper)が実家に戻ってきて、息子の帰還にはらはらする父Robert De Niroその他と、その近所に住む夫が事故死してセックス中毒になっていたTiffany(Jennifer Lawrence)が知り合って、罵りあいながらも近づいていくお話。
Patはなんとしても妻Nikkiに会いたくて、Tiffanyは彼の手紙をNikkiに渡す交換条件に、ダンスコンペティションのためのレッスンを一緒にやることを持ちかけて、練習の日々がはじまる。

それぞれのパートナーを失っておかしくなった人(自分はおかしいと思ってない)とおかしくなった人(自分はおかしいと思ってない)がダンスのパートナーというおかしな形で絡みあいながら、彼らを囲む人たちも場所もまた一筋縄ではいかなくて、そこではSliver Linings(希望の光)なんて事故か冗談か、のようなかんじで、そもそもそんなの誰も希望していないという。

みーんな狂ってて、わーわーやりあいつつアメフトのEaglesが勝ちさえすれば幸せ、というそういう人たちの映画のことを指してアメリカしょうもなー、とは決して言えない、今の日本は。

"The Hangover"をはじめ、ぼこぼこにされるのが定番になりつつあるBradley Cooperと、あらゆる困難と逆境に不機嫌な顔でぶつかっていくのが得意のJennifer Lawrenceの組み合わせが素敵で、そのふたりがダンスをする。 ふたりのダンスは、Patがリハビリでゴミ袋のパーカーを被ってジョギングを始めたところにTiffanyがちょっかいを出しながら並走しようとする、そこから既に始まっていると思うのだが、このダンスシーンの素晴らしいこと。 このためだけに何度でも見たくなる。

ふたりがTiffanyのうちでダンスレッスンをしているところに、出所してきたメンタルヘルス仲間のChris Tuckerが割り込んで、Tiffanyと楽しくダンスするのをみたPatがちょっと妬いて真剣になって、そのレッスンが終わったときのやったぁ(!) ていうTiffanyの顔とか、素敵なんだよねえ。

ダンス・コンペティションの本番、妻Nikkiが来ているのを見つけてそれぞれに動揺が走り、Tiffanyは本番前なのにバーでウォッカ2杯飲んだくれてて、それでもダンスは始まって、ぎこちなさとパッションとやけくそが混じりあったそのダンスは、まさにそういう人と人の感情と身体の接触と衝突と摩擦としてはっきりと現れて、ダンスとしてどう、というよりなんだか濃厚で生々しくて。
(ダンスの振り付けはMandy Mooreさん)

だから、Jennifer Lawrenceさんがこれでいろんな主演女優賞を獲っている(獲るであろう)ことには全く異議なしなの。

そしてこれは、"The Fighter" (2010)がそうだったように、すれっからしのしょうもない、しかし鉄壁鉄面の一族郎党の物語でもあって、ある意味惚れ惚れしてしまう。 Robert De Niroがあんなふうに地団駄踏んでも、SNLのギャグのようにしか見えないとこはあれなんだけど。

あとは音楽ね。これも"The Fighter"と同じく音楽が、ドラムスのキックが人物を前のめりに走らせる。 かっこいいの。(Original musicはDanny Elfmanさん)

しかしあの邦題、わけわかんないよね。「希望」なんてお得意ワードなんだから使えばいいのに。

終わったら軽く午前1時まわってて、笑っちゃうくらい寒かった。

2.08.2013

[log] February 04 2013

3日の夕方にNYから成田に帰ってきて、4日の午前に羽田から香港に発って、10時間滞在して、5日朝の6時に成田に戻ってきました。
当然のように、へろへろのぼろぼろ。 なんもやるきになんないまま一週間おわってしまった。

昨年10月のシンガポールと同じく、現地泊なしの日帰りで、あんたはどんだけアジアが嫌いなんだ、と嫌味を言われたが、べつにアジアは嫌いじゃない。 仕事が(ちょっと)嫌いなだけだ。

行きの飛行機では映画なんて見てる暇あるもんか、だったのだがお食事の間はついなんか見ちゃうし、でも映画のメニューは前日のとまったく同じだったし、あまりにもないから"Hitch" (2005) を見た。 見てないと思っていたが昔見ていたことに途中から気付いた。

初夏のマンハッタンの光景に泣きたくなって、Will SmithはあんましだけどEva Mendesはすごくよいねえ、とか思った。
あとはKevin James。 NYからの帰りの飛行機で"Here Comes the Boom" (2012) を見てこれを見ると、このでぶさんの身体能力はひょっとしたらとんでもないものかもしれない、とか。

映画を見てから思いっきり落ちた。飛行機に間にあわなかった夢を見てうなされて目覚めたら飛行機の上だった。
というのが2回続けて起こった。 なんて真面目でわかりやすいの、と思った。

はじめての香港は、ずっとタクシーで移動していたし、地名も地形も東西南北もぜんぜんわかんないし、現地通貨も一切持ってないし、なので印象以前のおはなしなのだが、上海よりはなんかすてきかも、と思って、でも映像としてまず頭に浮かぶのってジョニー・トーの香港だもんだから、いつ建物の暗がり・闇の奥から両手に銃を握った男たちがぬっと現れて撃ってくるかとか狙われているんじゃないかとか、気が気じゃなかった。

晩御飯を食べたレストランのまわりに並んでいた食材屋がなかなかよいかんじで、これってチャイナタウンよかすごいかも、と思ってからここはほんもんのチャイナじゃねえか、と思った。 晩御飯はローストしたガチョウ(ダックじゃない)で、SFのチャイナタウンよか、NYのチャイナタウンよかおいしいかも、と思って、これもほんもんのチャイナなんだからねしっかりしよう、と。

空港に着いたのが22時くらいで、そこから先は自分が幽霊になった気がした。
お腹いっぱいなのか空いているのか、眠いのか眠くないのかよくわからないまま免税のとこをうろうろして、飲食コーナーでPopeyes (Bonafide Chicken!)とBen & Jerry'sがあったので、どうしようかおろおろして、ラウンジに行ったらチーズがないのでしょんぼりして、徘徊老人てこういうのかも、とおもった。

帰りの便は午前1時過ぎ発で、もう乗ったら寝る、だったのだが、リクライニングの角度がすごく変で、緩い角度でおしりが大地に突き刺さるかんじで、こんなの無理、と泣きたくなったのだが、気がついたら落ちてた。

もうこういうの二度とやらない。

2.05.2013

[film] Sound City (2013)

この映画も、"This is 40"と並んで、この滞在中になんとしても見なければ、だった1本。
2/1(金)の公開初日の晩、リンカーンセンター(の新しいほうのシアター)で見ました。

Sound CityていうのはSan Fernando Valleyにある(あった)レコーディングスタジオで、ぼろいし臭いし、なのだが、70年代からいろんな人達がレコーディングしてきて、そこで生まれる音はなんでか素晴らしく、沢山のミュージシャンを魅了してきて、沢山の名盤を生んできて、監督であるDave Grohlさんが、数々の関係者インタビューを通してその謎に迫る、と。

Dave Grohlさんの映像センスについては、これまでのPVとか、こないだの3Dスタジオライブでも示されてきたように、端からぜんぜん期待していないし、実際に学校の先生みたいにくどくど同じことを語り続けるのではっきりうざいのであるが、ロック・ドキュメンタリーとしての風呂敷のでっかさ、よくやったね、なかんじについては否定しない。 洋楽聴きであれば必修映画となることは間違いなかろう。

前半は、ここで生まれた名盤の数々を作った人達のインタビューを通して年代順に振り返っていく - Buckingham Nicksから Fleetwood Mac, Tom Petty, Rick Springfield, Fear, などなどなど。 実際にこのスタジオ内でレコーディングしたミュージシャンの証言に加えて、スタジオの外側から、レコーディングという作業そのものについての言及もある - まるで仙人のようなNeil YoungさんとかRick Rubinさんとか。

だだっぴろいフロアでメンバーの全員が向かい合って、せーので音を出すことで、その瞬間に生まれるケミストリーがここにはあった、と。
ごくあたりまえの話なのかも知れないが、レコーディング・スタジオというのはそんなバンドサウンドを記録する場なのだ、と。

これらの証言と並行して、なんでこのスタジオの音がよいのか、どんなふうによいのか、も明らかにしていく。 Neveのコンソール、世界に4台しかなくて、ここのはそれを更にカスタマイズした特別なやつであること、特にこいつを通したドラムスの音はすばらしい音になる、と - これはTaylor Hawkinsが実際に叩いて、更に監督自らもばりばり叩いて、んで、その時その上に"Smells Like..."のあのドラムスがなだれこんでくるところは、もう、いやでも鳥肌がたつ。 なんか悔しいけど。

というわけで、"Nevermind"の製作当時、レコーディング観点からの話も(Butch Vigさんのコメントを含め)入ったりして、で、これがチャートの1位になって以降、ここはRATMとかWeezerとか、オルタナ系ミュージシャンの聖地となるのだが、やがてやってきたデジタル化の波とオーナーの死などが重なってスタジオ自体は2011年にお亡くなりになる。 合掌。

で、ここで話は終わらなくて、Sound CityからNeveのコンソールを買い取ったDave Grohlが、自身のスタジオにそいつを移設して、Sound Cityという場の持っていたヴァイブとマジックを、何人かのミュージシャンを呼んで再現してみよう、という試みを記録したのが後半部。

Stevie NicksとかJim Keltnerとか、かつてのSound Cityを知っている人達とのセッションは楽しいのだが、なかでもびっくりなのがRick Springfieldなの。 さてやってみるか、というかんじで彼がギターを刻み始めた途端、そのかっこよさにDaveを含めてみんな唖然。 高校生だった昔昔、Rick Springfieldをすてきと思ってしまったことをちょっとだけ恥じていた自分、きみは間違っていなかったんだ、と救われるの。

あとは、Trent Reznor, Joshua Homme, David Grohlのトリオによるセッション。
最初はTrent Reznorがエレピで、Joshua Hommeがギターだったのだが、Trentがふとベースを手にして鳴らしてみたラインがかっこよかったので、Joshuaはベースにスイッチして、音全体の佇まいはもろ、あの、くぐもった青緑のTrent Reznorの音になる (コメントは、おじいちゃんに習わされたピアノのこと、などなど)。 これだけで十分すばらしかったのでふーって溜息をつくと、Trentは今の音源一式を全部自分のコンソールに取り込んで、たったひとりで画面に向かい、その上にギターをじゃらじゃら被せてしまう…

アナログの良さを讃えてデジタルを悪者にするのは簡単だが、デジタルでできることは沢山あるはずだし、その可能性はまだ極められていない - (それをやるのが自分の仕事で、自分にはそれができる) - というようなことをTrentは言うの。
至極、じゅうぶんごもっともなのだが、このコメントはこの映画のテーマとは見事に逆行していて(ま、そもそものテーマ自体、反時代的なわけだが...)、これに対してDavid Grohlがなんか言うのかと思ったらなんも言わずに(ま、言えないね)、その次の大御所セッションでお茶をにごす。

それが、Paul McCartney, Krist Novoselic, Pat Smear, Dave Grohlというなんとまあ、の顔合わせなのだが、これが凄すぎてびっくりする。 このセッションに関しては、どう見てもSound Cityの雰囲気だのコンソールだのによるものではなく、たんにPaul McCartneyという人がとんでもないのだ、というだけの話なのだが、とにかく、この人を見よ、と。
Kristがベースを弾きながらあんなに楽しそうに腰を振っているのを見たのはNirvana以来だ、とDaveが目を細めるとこもよいの。

ここで提起された制作の現場のはなし、アナログとデジタルのことって、映画でもたぶん同じような議論はあるのだろうけど、どっちにも寄ってほしくない。 両方ばらばらに勝手に散らばっていてほしいものだが、難しいんだろうなー。

日本でも当然、当然公開されることでしょうが、なによりも音のよいシアターで上映してほしい。爆音だとちょっと違うかも。バスドラのボールドな音像がくっきりと出るようなとこで。

[music] Quicksand - Jan 31

順番は前後してしまうが、書きやすいのから書いていくことにする。

このチケットだけは渡米前に買って行きました。
北米Reunionツアーの最終日、元の最終は1/30で、追加が出たのでこの日になった、と。

前座のCymbals Eat Guitarsの最後3曲くらいに会場に入った。
Key入りの4人組ギターバンドで、ちょっとくにゃくにゃしているかんじがあったが、それは多分あたまが既に本編のほうを向いていたから。

Quicksand, 登場したのは9時20分くらいだったか。
しょっぱなは当然のように"Omission"で、ベースが鳴りだしたとたんに客席はうねり始めて、歌いはじめて、大騒ぎ。
中盤の↓のとこなんて、自分のまわりは全員当然のように合唱していた。

Framework falling down on the downside
Built on a weak spot
Facts hiding in your mind
Waiting 'til the bomb drops (→ 絶叫)

しかしこれが90年代バンドの音か、というか、これこそが90年代の、Post-Hardcoreの音、なのである、と。
ごりごりに硬い、こびりついた錆を削るヤスリの、流砂の音。 ものすごく気持ちよい。
つるっぱげのギターも、丸太のようなベースも全開で一直線で、これっぽっちもブランクを感じさせない。

Walter Schreifelsさんだけ、歌もやらなきゃいけないので慌ただしくて、ひょろひょろよれよれ流砂に足を取られるかんじだったが、バンドの音としては申し分なく、Quicksandにイメージしていた音そのもの。
それにしても、こんなにも弾けるように瑞々しく鳴るものか? と、そればかり思っていた。
このままパーマネントに活動再開してなにが問題になるだろう?

ピークは真ん中あたり、"Slip"から"Thorn in My Side"そいで"Dine Alone" に行くあたり。
それから、カバーの"How Soon Is Now? "も見事に。 (間奏のとこでベースのひとは"Puertorican Morrissey - Sergio Vega! - -" て紹介されてた)

比率としては"Slip"からの曲のほうが多かったかも。 盛りあがりも断然。
アンコールは1回で3曲。 客出しは、"The Kids Are Alright"、でした。

唯一残念だったのは、思わせぶりっぽくステージに上がって嬉々としてダイブを繰り返す体型の弛んだ中年共で、こいつらだけは地面に頭突っこんでそのまま起きあがってくんなバカ、とマジで思った。

お土産に"Slip"のアナログ買った。 もう一回ちゃんと聴かねば、としみじみ思ってしまったの。

2.02.2013

[log] February 02 2013

2月2日はGroundhog Dayで、朝の7:30のTV中継時、在Staten Island Zooにお住まいのChuckくんの予想によると、春は近いとのこと。(今朝はマイナス7度だけどね)
毎年これを見るたびに思うのだが、Groundhogにとってはほんといい迷惑だよね。

帰りのJFKに来て、CheddarとMonterey Jackとクラッカーにありついたところ。
すごくどうでもいいことなのだが、クラッカーがWheatだけしかなかった。Sesamiはもうないのか?

ぼろぼろなのはいつも通り、今回の滞在は、映画4、ライブ2、シアター1、美術館3、となった。
お天気のUpDownが激しくて、今回はお食事関係をほとんど犠牲にして、これが限界で、これ以上やったらお仕事できなくなる。できてないけど。

昨日(2/1)は、朝からEd Kochが亡くなって大騒ぎで、しかし彼のドキュメンタリー映画("Koch")の公開初日に、更にはGrand Central Stationの100周年という記念日にそういうのがあって、なかなかすごい一日であった。 ご冥福をお祈りします。

残りは順番に書いていきますが、3日の日曜日の夕方に日本着いて、4日の朝に香港に飛んで滞在約10時間、その夜1:00amのフライトで戻る、というバカみたいなことをやる(ちょっとたのしみ)ので、頭と体のネジが飛んでしまうかもしれない。

というわけで、飛行機に向かいます。

[music] Cat Power - Jan 29

29日の火曜日の晩、Terminal5で見ました。 今年最初のライブようやく。
直前まで行けるかわからなかったのでチケットは買っていなくて、当日券勝負、$35。
前座はパスせざるを得ず、9:15に会場について、9:30きっかりに本編がはじまる。

バックはステージ右手に女性のDrとG、左手に男性のKey + GとB + Percの4人構成、Chan Marshallは立ったままずっと歌に集中している。 長髪猫から短毛銀猫になっていた。

延々続くギターの単音アルペジオからゆーっくり夕暮れに向かって沈みこんでいくようなアンサンブル。 ドラムスのシンプルにすとんと落ちて抜ける音がよくて、そこにたまーに横からの太鼓の音が遠雷のように被さってきて、気持ちよい。

背後には実写動画も含めて結構いろんな映像が流れていくのだが、それで音の世界が大きく変わったり動いたりすることはなかった。

新作の"Sun"はまだあまり聴けていないのだが、ほぼそこからのセットだったもよう。
Voがそんなに前に出て来なくて、コンクリートの上を吹いてくる風のような声、でもそれがこのバンドのブルージーな、でも漆黒には向かわないトーンにはよくはまっていた。

中盤以降、目に見えてぐいぐいよくなっていって、ずっと聴いていたかったのだが、アンコールなしのほぼ1時間半。

客席に手をふったり、客出しの音楽が鳴り始めてもずっとお辞儀していたり、「来てくれて本当にありがとう」と言ったり、"You Are Free" (2003)の頃のピアノに向かって不機嫌全開2時間ライブとかを知っているものとしてはあっけにとられてしまうのだったが(周囲の客の何人かも絶句していた)、本人はいたってふつーに幸せそうにふんふんしてて、つまりは一匹猫で、猫が幸せならばこんなによいことはないかー、なのだった。

[film] Movie 43 (2013)

到着した日の日曜日、"This is 40"のあと、南東方面に少し歩いてVillageのAMC、3:00の回のを見ました。
"This is 40" の後に "Movie 43"て、なんか変。

公開直後の日曜日なのに客は10人いなかったかも。 興行的には惨敗、って月曜日の新聞にはでてた。

でもおもしろかった。 こういうのだいすき。

12人の監督による14の短編。
Dennis QuaidがGreg Kinnearのプロデューサーのところにこんな映画の企画があるんだけど、と持ちこんで、ひとつひとつ熱っぽく説明していくの。

でてくる人たちは、たとえばー;

Hugh Jackman, Kate Winslet, Liev Schreiber, Naomi Watts, Anna Faris, Kieran Culkin, Emma Stone, Richard Gere, Kate Bosworth, Justin Long, Uma Thurman, Kristen Bell, Christopher Mintz-Plasse, Chloë Grace Moretz, Gerard Butler, Seann William Scott, Johnny Knoxville, Halle Berry, Stephen Merchant, Terrence Howard, Elizabeth Banks ...

などなど、冗談かよ、みたいな人々が出てきて冗談みたいなことをやりまくる。
SNLのネタ(TVではできない、でもあの番組ほどこなれてない)に近いかも。

でも、全体を束ねている(いくつかでは監督も)のがPeter Farrellyなので、それはそれはくだんなくてお下劣で、子供でもひと目でわかっちゃうようなやつばかりなので、書くことすらできない。 なのであんま書けない。

Kate Winsletがセレブ俳優のHugh Jackmanとブラインドデートをする話なんて、今でも思いだすとおかしくてさいこーなのだが、やっぱし書けない。
Hugh Jackman、あの状態で" Les Misérables"やってくれたら、ほんとに「あゝ無情」でぜったいよかったのになあ。

あとは、Elizabeth Banksの監督によるChloë Grace MoretzとChristopher Mintz-Plasseの"Kick-Ass"組の1本。
ネタからすると、まだ小さい女の子が人を殺しまくる"Kick-Ass"よか遥かに危険で、日本のアイドル子役だったらぜったい事務所が許さないようなやつ。

あと、Seann William ScottとJohnny Knoxville組が、Gerard Butlerの小人をいじめまくるとか。

でも、全体として、宣伝したり感想書いたりするほうは書きたいことあんま書けなくてフラストレーション溜まるし、それにしては余りにくだんなすぎるので金返せ、みたいなことしか言えなくて、損だよね。 そういうとこも計算してあえて毒を散らしているのだろうが、でも、これもまたハリウッド・ストーリーの枠に組みこまれているのかも。

でも、やっぱし好きだなーこういうの。