12.31.2021

[log] 年のおわりに

年を越すというのがなんか特別なことらしくみんなばたばた楽しそうに締めたり備えたりするのを横目で眺めて、ふん!そんなことするもんか、ってなにもしないままぼーっと過ごしてそらみろあーあ、ってやるのが恒例となっている大晦日の過ごし方で、でも昨年の暮れは誰が見たって様子が違う異常事態だったので、でも動いちゃいけないことだけは確かだったので、あたまのなかのコタツに足を突っこんでぶつぶつ書いていた。

いまのにっぽんはというと、一応いろんな宣言は解除されてどこにでも行けるようになっている反面、昨年の英国の、クリスマス直前にしおしおとロックダウンに向かっていったあの状態になんだか似ている。いくらやめてー、って言ってもどうしようもないあれをまた繰り返すことになるのか。解除したり緩めたりすれば感染は拡がる、いまのヨーロッパを見てもあったりまえのことなのだが、わかっちゃいるのにひどい。だれが、なにがひどいのか、政治なのか自然なのか、はあんまよくわかんないままに。

英国でワクチンが承認されたのが昨年の12月の初めで(まだそんなもん)、そのお陰で死者や重症者の数は目に見えて減ってきたものの、それでもまだ人は亡くなっているし、感染するとその周辺への打撃は決して小さくないし。だから決して常態に戻ったわけではない、自分のふるまいが見えないところで惨事に加担しているかもしれない、という意識はずっとある、けど映画館には行ってしまうので.. だめだねえ、って。

表面はひどかった昨年の暮れとおなじくずっとひどいままが続いている、という認識なのだが、今年の方が特段にひどい気がする(個人の感想です - “Death to 2021”見てもそんなかんじ)。本当にさいてーの、長くてしんどい泥沼の1年だった。 5月に帰国して隔離後にこっちの会社で働きはじめて、船便が届いて、でもいまだに開いた箱は2/3くらい、適応できたアタマは半分くらい、床をなんとかしないとなー。でも床は勝手に動いたり広がったりしてくれないしなー。

帰国した直後のあれもいやだこれもいやだ、の(帰国駐在員によくある)不適応症のどんよりと、にっぽんという国があきらかに貧しく幼稚に下品に転げ落ちていくその最中にやるとは思わなかったオリンピックが開かれ、それに続くコロナの自助/棄民政策などで、どれだけ書いてもしょうがないことだけど、ほんとしみじみこの国(の語る欺瞞だらけの未来)が嫌で嫌で出ていきたくなって、でもいま脱出する術は限られているので、ひとはこれを地獄とよぶ。

なので、死なない程度に生きておいて、そこで残された僅かな力とその使いようでいつでも脱出できるように自分と半径10メートルを生かしておく、そこに注力してその知恵と勇気を蓄えたりスイングしたりできるように映画をみたり本をよんだりを繰り返す、そのペースは掴めてきたかも。 でもそれにしても会社員の通勤て、改めて奴隷キープのやり口としか思えなくなってきたねえ。

そしてこれらの反対側とか裏側にはすばらしくまじめできちんとした人々が大勢いて、その人たちに支えられてきたのだなあ、というのをものすごく感じたことも確か。一時帰国のときによく感じるあれにも近い、少しぐしゃぐしゃしたありがたみと感謝の思いと。

そういう両端で揺れているふりをしつつ、結局お片付けはほぼあんましやらないままー。

31日、大晦日なのでできるだけ怖いのを見たくて、最後に映画館で見たのは”Tragedy of Macbeth” (2021)で、帰ってからなんかもの足りなくてMetrographのストリーミングでJean Rollinの”Night of the Hunted” (1980) - 『猟奇殺人の夜』も見た(これはよかった)。あと、恒例のNetflixの”Death to 2021”も。

久々なので紅白とか見てはぁぁー、ってなっていた(きもちわるくなると隣のクラシックに替える)。とにかく「おかえりモネ」の主題歌の冒頭でなにを歌っているのかがわかったのでよかったことにした。


みなさまよいお年を。 これから2021年ベストの選定にはいりまー。

12.29.2021

[film] I’m Your Man (2021)

12月12日、日曜日の晩、Apple TVで見ました。
Maria Schrader監督によるドイツ映画で、原題は“Ich bin dein Mensch”。 主演のMaren Eggertさんは今年のベルリン映画祭で主演女優賞 - じゃないジェンダー区分をなくしたので、Best Acting Performance - を受賞している。

邦題には「恋人はアンドロイド」とかあるけど、劇中には「ヒューマノイド」か「ロボット」という言葉しか出てこない。 Rom-comで、日本では相も変わらずポスターも含めてキラキラしたお飾りと漂白がされているようだが、そんなに甘い話でもないような。

近未来のベルリン、考古学者で独身のDr. Alma Felser (Maren Eggert)はダンスホールで自分を”Employee”と名乗る女性(Sandra Hüller)からTom (Dan Stevens)を紹介される。Tomはロボットで、Almaの日々の用達しから不満不平の充足まで、すべて彼女の仰せのままを満たすように設計されているという。 研究の予算獲得のため大学の上から説得されてこの実験プログラムにモルモットとして参加することになった彼女は乗り気ではない。 Ex-彼のJulian (Hans Löw)とのこともまだもやもやしているし、実家には痴呆症の父もいるし、日々の不満や悩み事でいっぱいだし、そんなことをロボットごときが解決してくれるとは思えないし、そんな期待をしたこともないし、相手をしている暇なんてありゃしないの。

でも仕方なくTomを連れ帰って、朝になると”彼”が見事な朝食を用意して待っていてくれたりするのでめんくらうし、忙しかったりいらいらしている時に親しげに寄ってこられるのも嫌だし、そんなの気を使わなくていいから、っていうと何もしないでただそこにいるだけだったり、そうするとちょっと悪いかな、になったり、でもそういう感情の揺れや惑いもぜんぶTomのAIは見越したり微調整したりしながら動いているのだと思うと癪だし、Almaはそんなやりとりを重ねながら自分の日々の苦労あれこれや一緒にいる人に求めようとすることなどについて考えていくことになる。

そんな彼女の戸惑いや思考のプロセス - ロボットとは、自分が日々ロボットに求めるものがあるとしたらそれは何なのか - などについては、当然我々自身の身に照らして考えることになるので、なかなかおもしろいの。もちろん、そんなの研究テーマでもない限り考えたこともないので、そんなところで考えこんでイラつくことすら時間のムダだし鬱陶しい、って一度は彼を返品してしまうのだが、一旦、一時期でもTomを生活の一部として「使って」しまった後に開いた穴があることにはたと気がつく。そしてそれを見透かしたような出ていったTomの言葉と動きと。

そこから更に、Tomに対する扱いや振るまいってロボットに対してだけでなく生身の人間に対してもやってしまっている所作や態度だったりしないだろうか? それを無意識にふつうの他人と近しい人(含. 自分)に分けてやっているだけで、実はロボット的なケアも含めてものすごく複雑な処理を他者に要求したりしていなかっただろうか? そこに甘えたり依存したりしている部分は見えていないだけで間違いなくあるし、そして自分から離れていったExや痴呆で家族の記憶を失いつつある父は、自分がいらないと見えないところに追いやってしまったTomとどこが違うのだろうか? って。

これ、Tomが限りなく人間に近く見えたり動いたり、エラーも故障もほぼなく動作するロボットで、周囲からも彼はロボットではなく人に見えている、というのと、そもそも主人公はロボットとかAIになんの期待も抱いていない、という前提があって初めて成り立つコメディで、これをよりシリアスにリアルに捉えてみれば、例えば”Ex Machina” (2014)のような冷たいサスペンスにもなりうるやつで、着地点があんな甘いのでよいのか、という観点からの賛否があることはわかる。けど、rom-comとしてみれば、ごくふつーのrom-comのように見えてしまう - メタrom-com的なところがおもしろいな、って思った。

でも、Tomみたいのがいたらお片付けも仕事も処理系のはぜんぶやってもらえるし、旅行行く時もいろんな手配とか任せられるし、自分はお散歩したり映画行ったり本読んだり(たまに音読してもらう)、使いようはいっぱいある気がするんだけど。でも、実際にいて動いていると、いることを意識せざるを得なくて面倒だったりするのかしら、って勝手なことばかり考える。 猫よりは楽、なのかしらん。


書かなければいけないのなんてないことはわかっているのだが、書いていないのが頭の奥に溜まっていくのはなんかストレス - そのうちに忘れちゃうから - で、時間があれば書きたいのだが時間があると寝ちゃっていたり、これだから冬ってやだわ、って。 しかもお片付け、なんてさ…

12.25.2021

[film] The Matrix Resurrections (2021)

12月18日、土曜日の夕方、Tohoシネマズの六本木で見ました。
監督はLana Wachowskiのみで、Lilly Wachowskiは関与していないもよう。

前世紀末、渋谷のパンテオンで見た”The Matrix” (1999)にはそんなに熱狂しなかった派で、既にサイバーパンクは来ていたので新しくもなんともなかったし、バレットタイムにしてもワイヤーアクションにしてもなんか恥ずかしいかんじがしたし、エンディングのRATMにしても、あーあうまく取りこまれちゃって、くらいだったし、その後の”Reloaded” (2003)と”Revolutionss” (2003)にしても、先がああなるのは見えていたし過剰でくどすぎて目は疲れてぐったりになるし、そんな程度のものだったの。

でも今回のはなんかよかった。年寄りウケを狙ったのかもしれないけど、“Bound” (1996)と同じくらい好き - 恋愛映画だよね。 以下、いつものようになにがネタやねん、というレベルのネタバレをしています。 過去の3作を見ていなくても、主人公たちですらあやふやになっているところをフラッシュバックできちんとなぞってくれるのでだいじょうぶだと思う。

サンフランシスコに暮らす長髪ヒゲのThomas Anderson (Keanu Reeves)はゲーム - ”The Matrix”のデザイナー/クリエイターとして成功していて共同経営者のSmith (Jonathan Groff)と共に次のゲームのリリースの準備を進めているのだが、精神的にはどんより疲れてなんか不安定で、カウンセラー/The Analyst (Neil Patrick Harris)のところに通っている。

そこにMorpheus (Yahya Abdul-Mateen II)やBugs (Jessica Henwick)と名乗る若者たちが現れてやっと見つけた、とか、迎えにきた、とかわけのわかんないことを言うので混乱して、でも彼らといるとありえない銃撃戦に巻き込まれたりして散々で、でもこれも病の一部なのだとThe Analystのところに通い、他方で若者たちが話すかつての自分やMatrixのこと、どこかで会った気がするTiffany/Trinity (Carrie-Anne Moss)のことも気になり始める。

最初の”The Matrix”でNeoが向こう側に引き摺りこまれたのと同じようなことを前半ではやっていて、でももうミドルエイジでそうたやすく引っかからないThomasがどこを押されてどう目醒めるのか - だがしかし今回は、どちらかというと家庭をもって子供もいて生活になんの不満も不安もなさそうなTrinityをどうやってひっぱりこむのか、赤の錠剤と青の錠剤どちらを飲むのか - が肝心のテーマで、でもなぜそうする必要があるのかについては、だれも明確な答えを持っていない。例えば、それが恋というものだからー、など。

“The Revolutions”の最後で死んだはずだったNeoがなぜ死ぬことも許されずに再生されたのか、「革命後」のMatrixでNiobe (Jada Pinkett Smith)ら残された人類になにが起こっていったのか、についても説明されて - 要はよくわかんないらしい - けど、そういうことは起こるんだろうな、と推測されるおなじ土壌の上で、Neoが再起動 - RebootではなくResurrection - され、宿敵であったSmithも、かつてのOracle的なところにいるAnalystも、反乱分子の若者たちもその像をクリアに、露わにしてくる。

そして、でも、なんといっても今回はTrinityのことで、これってカフェで一瞬目があった素敵な彼女にどうやって話しかけて自分のほうに関心を持ってもらったりするのか、というrom-comの最初の壁に人類と機械の攻防の歴史をぶつけてみてどうなる?/どうする? というこれ自体が荒唐無稽な(SFというよりは)rom-comとおなじような構造になっている、というあたりが、それをやや疲れた中年のふたりの目の交錯のなかで正面から取り組もうとしているところが、いちばんきゅんとくるところかも。年寄りにとっては。

そして、Matrix全体がこのふたりの逢瀬を全勢力をかけて潰しに来ようとする、その混沌に満ちたばかばかしさもすばらしいったらない。最後の方のビルから人々がぼとぼと落っこちていくのとか、列車の中の大虐殺とか、レミングみたいですごいしMatrixもそこまでのところに行ったか、って。しかもこれ、また同じことの繰り返し - なにが起こったのか誰もじゅうぶん把握していない - になるかもしれないのに。

でも、そういうことは起こるものだし、ふたりの恋は最強のものなんだから、って、今回はTrinityの方が目醒めてしまうところが素敵だし、最後に彼女がNeil Patrick Harrisに子供をダシに使いやがってくそ野郎、って怒りの一撃を加えるところとか、すごくよいの。(Neil Patrick Harris、”Gone Girl” (2014)に続いてまたしてもずたずたに)

ネットの世界で理由づけできないことが起こる、という点でこないだの”Free Guy”のようなことが起こるのかも、と思っていたが、あの方向からのはなかったかー。


クリスマス。今年のクリスマス盤は、Sharon Van Ettenさんの”Blue Christmas”の7inch(サイン入り)とか、Aidan Moffat and RM Hubbertの”Ghost Stories for Christmas”とか。でも突然現れたLCD Soundsystemの”Christmas Will Break Your Heart”にやられた。

あと、9月にオーダーしていた本たちが24日に突然届いた。Kevin Cumminsの”Joy Division - Juvenes”、Questloveの、Warren Ellisの、Sally Rooneyの、ぜんぶサイン本。お片付けをしながら本は読めないからお片付けはー。
 
よいクリスマスとなりますように。

12.23.2021

[film] Bis ans Ende der Welt (1994)

12月12日、日曜日の昼間、ル・シネマで見ました。
英語題は“Until the End of the World”。邦題は『夢の涯てまでも』。 4Kリストアされた287分のDirectors Cut。よくわかんないのだが、これのDirectors Cutって300分のバージョンもあるらしく、むかし、2004年の正月にリンカーンセンターで見たときのは、この300分版だった記憶がある。

1999年、軌道上にあるインドの原子力衛星が制御不能となって地球に落ちてくるから、と世界が大パニックになっている時にClaire (Solveig Dommartin)はそんなのどうでもいい、ってつんとして無関心なのだが、逃げる車の渋滞と事故に巻きこまれて、Chico (Chick Ortega)とかギャングの一味と知り合い、怪しげなTrevor McPhee (William Hurt) - 後にSam Farber - という男の逃げた追ったに巻きこまれて、そこに別れた恋人のEugene (Sam Neill)とか探偵Philip Winter (Rüdiger Vogler)が絡んでみんなで世界を移ろっていく、全体のテイストとしてはB級映画なの。

ベルリン~リスボン~モスクワ~北京~東京と渡りながら騙したり騙されたり喧嘩したりの追いかけっこの中で明らかになる人の記憶を映像化して脳にダイレクトに送り込む装置のことと、そいつを手にしたSamの野望 - オーストラリアに住む盲目の母Edith (Jeanne Moreau)のために妹とかいろんな映像を撮っていくのと、でもそのせいで目を傷めたSamとClaireは恋仲になっていく。

第二部、機器を携えてオーストラリアの砂漠の真ん中に着いたふたりは機器の発明者であるSamの父Henry (Max von Sydow)の研究所で母に向かって映像の再生と送信実験を始めるのだが、これは人体への負荷が高くて送る側は死にそうになるものの、なんとかうまくいって、うまくいった後に嵌ったら抜けられなくなって廃人のように落ちていくの。

原題通りでいくと、「世界が終わってしまうまで」に、世界が終わってしまうのだとしたら、それまでどうやって過ごすのか/生きるのか? というテーマのお話し(邦題だと「夢の涯てまでも」ついていきたい or 「夢の涯てまでも」ついてくるなんてうざい、のどちらか)で、これが作られた当時の空気でいうとみんな割とノストラダムスを素朴に信じていたので、そんなのあたりまえじゃ勝手に終わるわボケ(→ 適当に過ごす)、でしかなくて、”Der Himmel über Berlin” (1987) - 『ベルリン天使の詩』もそうだけど随分ロマンチックな話だよねえ、と当時は思ったものだった。

こないだの”Don’t Look Up” (2021)の方では、世界の滅亡を前にしているのに自分の見たいものしか見ない聞かない政治家たちのありようが描かれていて、こっちだと… やっぱり自分の関心の向かうところにしか行かない。でも政治もメディアもここの視界には一切はいってこない。

物語は夢や記憶を映像として再生して抱きしめることができてよかったねえ、で幸せに終わるのではなく、その後にその世界への依存症、中毒症が別のかたちで主人公たちに危機をもたらすところまで描く。それは衛星とは比べようもないくらいの強さでそこに現れる危機なのだが、それを救うのがEugeneの書き文字 - 文学である、って極めて白人的な文化観だよね - にっぽん文化の描き方もアボリジニの扱いも - などととりあえず突き放して見てしまう。今となっては。好き嫌いで言えば、この辺のしょうもないかんじが好きなんだけど。

あとは音楽映画としてのすばらしさ、というのもある。グランジが世界を覆って(よくもわるくも)足下を泥まみれにしてしまうぎりぎり手前の、80年代末のいちばんナイーブにコミュニケーションや他者や世界について考えていた時代の音楽ががんがん流れてきていちいち泣きそうになって、それだけでよいの。U2のタイトル曲だけあんまし、だけどそれ以外の、Lou ReedもR.E.M.もElvis Costello(の”Days”)もNick Cave and The Bad SeedsもPeter GabrielもRobbie Robertsonも。

技術的なところでは、ここの仕掛けを転用してできあがったのがMatrixの世界で、24時間機器を手放せなくなるふたりの姿はMatrixに接続されて機械に消費される人類の姿に繋がっていく。やはりここで世界はいったん終わってMatrixが立ちあがったのではないか。そしてMax von SydowこそがMatrixの祖で、つまりつまりベルイマンの描こうとした世界というのは、やがて世界を覆って人間にとって替わろうとするなにか(神だろうが機械だろうが)とアートのせめぎ合いを先取りしていたのではないか、と。

あと、データ容量で2500GBをすごそうに語っているところとか、なんか微笑ましい。

東京のシーン、今の若い人たちが見たらどんなふうに映るのか。昔はあんなふうだったのよ。我々が戦前の昭和を見ていたようなかんじなのだろうか? Joseph Loseyの”La Truite” (1982) - 『鱒』で描かれた東京もまたー。(あの景色のトーンてなんなのかしら?)


今年の仕事はおわった。もうしごともかいしゃもだいっきらいだ。こんなに嫌になったことがかつてあっただろうか?
(いっぱいあったよ)

12.21.2021

[film] Last Night in Soho (2021)

12月11日、土曜日の午後、シネクイントで見ました。

一昨日19日の晩に、Edgar Wrightが愛してやまないSOHOの映画館 -Curzon SOHO – 彼はロックダウン前後によくここの写真をUpしていた - で“LAST NIGHT IN SOHO’s last night in SOHO”っていうトークイベントがあって、行きたかったなー、だったのだが、そこではSOHOという土地に対する彼の想いがいっぱい聞くことができたに違いない。

コーンウォールに祖母と暮らすEloise - Ellie - Turner (Thomasin McKenzie)はデザイナーになりたくて、合格したLondon College of Fashionに入学しようとひとり家を出る。自殺した母の残したレコードから60年代のロンドンのカルチャーに強い憧れを抱いていた彼女にとってロンドンの学校生活はキラキラの希望に満ちたものだったが、幽霊なのか幻影なのか、母 (Aimee Cassettari)の姿を鏡の中に見たりする彼女のことを祖母は少し心配している。

ロンドンに着くなりタクシー運転手に絡まれて嫌な思いをしたり、寮に入れば同室のJocasta (Synnove Karlsen)と彼女の仲間たちから意地悪な扱いをされたのでそこを出てMs. Collins (Diana Rigg)の下宿に間借りすると、その晩、60年代のSOHOにある盛場でSandie (Anya Taylor-Joy)という同い年くらいの女性を目にして、SandieはそこのマネージャーのJack (Matt Smith)に取り入って歌手になるべくオーディションを受けたりしている、そういうリアルな夢をみる。その夢のなかでEllieはSandieを外から見ているというよりも写鏡を通して彼女の感情まで伝わってくるような、いつもそんな近い位置にいる。

初めは華やかだし歌もうまいしSandie素敵!がんばれ、とか思っていたものの、やがてJackがSandieにそこにきた男性客の相手をするように仕向けているのを見て、Sandieの辛さや嫌悪がわかるようになると、こんな夢は見たくないよ、になるのだが、夢のなかのSandieは助けを求めるようにEllieを見つめてくるようでー。

だんだん夢を見るのが怖くなり、パブで夜のバイトを始めてもSandieのことが頭から離れなくなって彼女の行動も常軌を逸したものになっていく。Sandieはかつてこの部屋に間借りしていた女性の霊かなにかなのか、彼女はEllieになにを訴えていて、なにをしてもらいたがっているのか..  などなど。

夢を見ることの怖さが、その部屋とか彼女の周辺にいる人たちの怖さに伝播して彼女を追いつめ、その謎が明らかになったと思った途端 - 明らかになったことで別の角度からの恐怖がたちあがってわらわらと襲いかかってくる。そういう段段の構造で戸板がひっくり返るようにEllieにやってくる恐怖とパニックは、見ている我々には恐怖というより、その恐怖が明らかになった後は残酷な痛ましさ、として映ってしまうので、これがホラー映画として意図されたものなのだとしたら、少し失敗なのかも。都会に出てきた少女の試練やひどい思いをするお話、として見れば、ややナイーブすぎる気もするけど、わからないでもないかも。

学校や寮での仲間との虐めのようなやりとりとか好意をもったばかりに酷い目にあうボーイフレンドのことも、なくてもよいくらいに薄いし、Terence Stampはもう少しうまい使いようがあった気がするし、亡霊になっているママがどこかで出てきて助けてくれるのかと思ったのに、とか。Edgar Wrightさんとしては、まずあの時代のロンドン - 魔都SOHOの物語を撮りたくて、そのためには女性が主人公である必要があって、そのためには… ってやや無理をしてしまったのかも。男の子の冒険物語だったらいくらでもぐいぐい突っ込んでいく、その痛快さと勢いがあまりなかったような。

あと、”Beat Girl” (1960)からの影響はとてもよくわかった。Jack役はこっちだとChristopher Leeがやっていてー。

SOHOのいろんな通りや建物や角がちょこちょこ出てくるのでとても懐かしくて。だいたい週末の最低どちらか一日は必ず通っていた。ロックダウンで人がいない時でも日本食材店とか海外の雑誌屋はやっていたし。ロックダウンになる前だと、Second Shelfで古本を見て、雑誌屋とレコード屋(3つ)を覗いて、お腹がへったらドーナツとか食べてSOHO SquareをまわってFoylesで新刊本を見て、締めにCurzon SOHOかPicturehouseかPrince Charlesで映画を見て帰る - こんなサーキットを延々繰り返して、でもちっとも飽きなかったの。ここまでいろんな - 本屋とレコ屋と映画館とデパート(Liberty)と食べ物屋がぎっちり詰まった界隈は世界のどこを探してもなくて、ここはそういう状態を維持した「繁華街」として100年くらいやってきたのである。ほんとに何が起こったって不思議じゃない気がするし。


あーあ、どっか行きたいな、ちぇ。(こればっかり)

12.20.2021

[film] È stata la mano di Dio (2021)

12月9日、木曜日の晩、シネリーブル池袋で見ました。英語題は“The Hand of God”。

Netflixでも見れるけど(以下同。見れるなら映画館で見た方がぜったいによい作品て、あるよね)
作・監督はPaolo Sorrentino。今年のヴェネツィアで銀獅子をはじめ沢山獲っている。こないだのTIFFでも見にいける時間帯でやっていたのだが、なんとなくパスしてしまった。

Paolo Sorrentinoはそんなに好きでもないし絶対必見、と思っているわけでもないし、“This Must Be The Place” (2011)にしても”The Great Beauty” (2013)にしても、わかるけどどこか過剰でぎらぎら盛りすぎてお腹いっぱい感が強くて、それを「イタリア」で括ってよいのかどうか.. イタリア料理にお手あげになりつつも離れられないのにもまた似て.. 音楽だとゴスの世界のあれらのかんじ。

冒頭、マラドーナの言葉が掲げられた後、海上の空からナポリの岸の方に向かって鳥になったカメラがぐーんと寄っていく。

80年代のナポリ、バスを待っていたPatrizia (Luisa Ranieri)に謎の運転手が声をかけて、不妊で悩んでいた彼女は半分廃墟のようになっているお屋敷でフードを被った小さい妖精? -The Monacielloに触れて、その後の夫とのごたごたで病院送りになった彼女のところに甥の17歳のFabietto (Filippo Scotti)と父Saverio (Toni Servillo) と母Maria (Teresa Saponangelo)と兄Marchino (Marlon Joubert)が呼ばれたりして、始めのうちはFabiettoが主人公なのかもよくわからないまま、変で雑多な親戚家族に隣人友人たちが強い陽射しのもと、ゆっくり紹介されていく。階上に住む男爵夫人Baroness Focale (Betty Pedrazzi)とか、父は浮気しているのに異様に仲良いままの父母と家族とか、船を操ればぜったい捕まらない密売人とか、善いのも悪いのも変なのもふつーなのも、みんな不思議な調和関係を保ってそこに溜まっている。

マラドーナがナポリのチームに移籍してくる! っていうありえないニュースを前にみんなで浮かれ騒いで、初めてひとりでサッカー場でのゲーム観戦にでかけたFabiettoが帰ってみると両親が一酸化炭素中毒で亡くなっていた。こんなふうに自分ひとりが生き残っているのって、なんという偶然であることか – これをマラドーナの1986年のワールドカップでの「神の手」騒動 - 偶然の/一瞬の交錯 - に重ねてみたのがタイトルで、これは実際にPaolo Sorrentinoの身の上に起こったことで、この壊滅的で悲劇的な出来事を通して彼の生の意味とか将来とか – 映画監督Antonio Capuano (Ciro Capano)との出会いから映画の世界を志すとか、ずっと憧れていたPatrizia(の乳房)のこととか、男爵夫人との奇妙な情事とか、現実から少し浮きあがったところにあったあれこれがこちらに向かって緩やかに動きだしてくる辺りまでを描く。そのぐちゃぐちゃして煮えきらなくてこれからどうしろというのかあうう… ってなるところまで、なんかわかる。

誰もがフェリーニの“I Vitelloni” (1953) - 『青春群像』 や “Amarcord” (1973)を思い浮かべると思うし、役者志望の兄がフェリーニの映画のオーディションを受けるところもあるし、本人もその辺は意識しているようだが、自伝的なことをフィクションとして足場を組んで周到に積みあげる、というよりはそれが起こった瞬間の熱とかうなされようとか高揚感とかうんざりとか、ややエモの方に寄って右から左から混沌と共に吹きつけてくる。ナポリのこと、マラドーナのことをまるで知らない人にどこまで響いてくるものなのかは微妙かも。他方で、17歳で突然に両親を失ってしまったあとにすべて違って見えてくる景色 - みたいなところはかろうじて伝わってくるような。

この辺の熱っぽいはったりに粋がり - 踏み間違えたら詐欺師ぽくも見えてしまう手口は“The Great Beauty”とかにもあった気がして、これらの滲みでてくる蒼い悩みにどこまでのって寄り添えるか、など。

ラストで主人公がPino Danieleの"Napule è"を聴いているところは”Call Me By Your Name” (2017)のエンドロールのとこを思い浮かべたりするのだが、この辺ものれない人にはのれないかも。New Orderの”Touched by the Hand of God” (1987)あたりが流れるかと思ったけど、やっぱりちがうか。

でも画面はきれいだし音もすばらしくよいので大画面で。 またナポリ行きたいなー。

12.17.2021

[film] Don’t Look Up (2021)

12月10日、金曜日の晩、ヒューマントラストの有楽町で見ました。

Netflixで24日から見ることができるが待てない - 自分はClintの映画を初日に見るひとではないが、Adam McKayの映画であれば初日に見る。

ミシガンの天文台に泊まりこんでいる天文学専攻大学院生のKate Dibiasky (Jennifer Lawrence)が地球に向かっている6kmくらいのサイズの隕石を発見して、何度計算しても6ヶ月後くらいには地球に衝突することが確実で、衝突したら地球は間違いなくぶっ壊れることを知る。

彼女は大学の上のDr. Mindy (Leonardo DiCaprio)にコンタクトして、Dr. Mindyもそのやばさを確認して、彼は政府筋の天文学者のDr. Oglethorpe (Rob Morgan)にエスカレーションをかける。

Dr. Oglethorpeはふたりに軍用機を手配してDCに運び、大統領(Meryl Streep)とその息子で補佐官(Jonah Hill)との面談をアレンジするのだが、大統領も補佐官もまともに取りあってくれない。続けて人気のTVモーニングショーに出演してCate BlanchettとTyler Perryのキャスターの前で喋るのだが、番組は人気歌手(Ariana Grande)の離れたくっついたで慌しくてそれどころじゃないかんじで、なんなのこれは地球がなくなっちゃうのに、になる。

それでもさすがにやばいと思ったのか、ホワイトハウスは隕石を打ち落とすべく愛国メッセージをたっぷりまぶして宇宙飛行士(Ron Perlman)をシャトルで打ち上げるのだが、なぜか打ち上げたやつが戻ってきて、なんで? ってなると大統領の背後からテック界の大御所ビリオネアのPeter Isherwell (Mark Rylance) が出てきてもっといい案があるよ、とかいう。

だんだんやけくそになってきたMindyはCate Blanchettと寝るようになり、Kateはそこらで遊んでいたスケボー小僧のYule (Timothée Chalamet)とつきあい始めて、でも滅亡の日はお構いなしに近づいてきて..

メインのふたりを除くと、個々の細かいやりとりや主要キャラクターの造型はまるでSNLのスケッチでばかばかしいことこの上なく、笑える人には笑えるけどそうでない人にはぜんぜん、系のやつなのだが、ストーリーの転がっていく先についてはまったく笑えない - まるで全滑りじゃん - というあたりが評価の別れるところなのだろう – これはまったくいつものAdam McKayなのでわたしはすばらしいと思った。

政治(大統領周辺)もメディア(モーニングショー)もコトの重大さなんてどうでもよくて、地球が亡くなるっていうのに自分の支持率のこと、番組の視聴率のこと、しか頭になくて、他の国も自国さえよければ、って「独自路線」などとぬかし、どいつもこいつも身内と取り巻きに囲まれて科学者の言うことなんてまったく聞く耳もたない。(Mindyがいちいち何度もそれはちゃんと査読したのか?とか聞くのがおかしい)

あとは、補佐官のJonah Hillがふんぞり返っていう“There’s you, the working classes; there’s us, the cool rich, and there’s them …”。日本の政治家にもまったく同じこと言う奴らいたよね。

ここでのネタはわかりやすい隕石だけど、これがコロナ対応と地球温暖化対応でのリアルを指していることは誰が見たって明らかで、これの笑えないことときたら笑うしかない。これ、トランプ信者とか右の方の連中はどう見るのかしら?

こんなオールスターどたばたコメディなので、最後にはスーパーマンとかMatthew McConaugheyが現れてなんとかしてくれるのかと思いきや、そんなのまったくなし、シャレにならない状態で地球は滅びる。国も社会もメディアも愚かだったから..(そしてお金もコネもなかったから…)

タイトルの”Don’t Look Up”は、空を見上げてみろ、でっかいあれが見えるしやばいのは一目瞭然だろ、っていう科学者に対して反対派がはるキャンペーンの文句なの。見なきゃいいんだから、って。それで見なかったことにして死んでりゃ世話ないのか。 どうせ死んじまうのならー。

Mark Rylanceのビリオネアは”Ready Player One” (2018)のゲーム開発者とほぼ同じような役柄。そこにどうみてもElon MuskとJoe Bidenが入っていて、おもしろいけど半端に生々しくて気色わるい。

もし地球が滅びなかったらDiCaprioは、”The Revenant’ (2015)で放浪の旅にでて熊と戦って、Jennifer LawrenceはKatniss Everdeenとなって反乱軍を率いるのね。

[music] King Crimson

12月8日、水曜日の晩、オーチャードホールで見ました。来日公演の最終日。

チケット代がすごく高いし、コロナが収束するとは思えなかった(→結局中止)し、直前まで買うのを保留していた。けど、もうこれでたぶん最後にするからもうほんとに最後だから.. って(確か前回もそう思った)。 意気込みとしてはその程度だったのですこしだけ書く。

2019年の50周年記念ツアー – “2019 Celebration Tour”の、Royal Albert Hall 3daysのうちのday1(6月18日)に行ったのが彼らを見た最後。

なんかはじめはふつーにグチとか文句しかなくて、ものすごい人混みでしかも年寄りだらけで怖いし暑いし、ツアータイトルの“Music is Our Friend 2021”ってなんだそりゃ、だし、ビジュアルセンスはひどいし – ひどいのは大昔からだった – とかなのになんでこんなに人気があるのか、プログレのくせに – でも最近はプログロックなんだよな変なの、とか、撮影禁止だけど最後にTony Levin氏の合図で、とか小学生かよバカにしているわ、とか。

最近のRobert Frippの発言やインタビューをとんと見ていない - 見るのはトーヤとのなんとも言いようのないめおと囃子ばかり - ので、このツアーの編成や構成の狙いや意図をじゅうぶんわかっていないものの、このバンドの成り立ちは(少なくとも80年代のreboot以降は)ディシプリンだの規律だの、それらの絶え間ない実践の場(ライブも曲もバンドそのものも)として自ずと組織化されクオリティコントロールされている - その厳しいありようがKCのKCたる由縁で、常に最新で最高なのです – ってThe Great Deceiverな言いっぷりで、まるで50年間ずっと安定した人気を誇るレストランみたいなもんなのかも。

なので鉄板の前で包丁技を競い合う3人のドラムスがフロントで、背後に弦と管と声が、というのはディシプリンの末の完成された形態としてここ20年くらいずっとあって、客の関心はクラシックの定番料理に加えてどの程度新しめのネタを盛ってくるのか、そういうところにあったり。

本当はかつてSparksやKraftwerkがやったようなアルバム単位での全曲披露をやったほうが集客できそうな気もするのだが、それはたぶん絶対にやらない。

なんでいつも前方のドラムス部隊と後方のギター、ベース、メロトロンの組を対立する二項のように見てしまうのか、その時点でFrippの思うツボなのではないか、とか思うのだが、なんかやめられない。3つのドラムキットが編みだすどかすかぐにゃぐにゃした混沌がまずあって、それを鞭を使って統御できる(できているように見せる)場を壇の上から探す旅、その材料としての過去のどす黒い楽曲群。 オトコのバンドだよねえ、とも思う。The League of Gentlemen ていうのもあったし。

ライブでの“Red”って、メインのリフの終わりのところに一音はさむ(ぎゃーん、が、ぎゃっぎゃーんになる)のがずっと嫌でたいへん気持ちわるいので、Change.orgで「やめてほしい」って言いたい。あとMel Collinsのきらきらした管とかあってほしくないし。

前回の個人的なピークは「猫飯」で、今回の個人的な野望はまだなんでかライブで出会えていない“Larks' Tongues in Aspic, Part Two”が聴けたらなー、だった。その気配がないのであーやっぱりだめかも、と思っていたらアンコールの最初でやってくれた。この後にそのまま”Part III”か”Fracture”でもやってくれたらなー、だったのだが、最後はやっぱし”Starless”だった。 このまま会場まっくらにしちまえばいいのに明るく楽しく写真撮影なんて、だれがのってやるもんか、って。


いまのところの心残りは、来年5月に延期されたままになっているLondon PalladiumでのVan der Graaf Generatorとなる。まだチケットは捨てていない。
 

12.16.2021

[film] Annette (2021)

12月8日、水曜日の午後、英国のMUBIで見ました。あれこれがまんできなかった。
どうせ映画館でももう一回見るだろうし。 Leos Caraxが今年のカンヌで監督賞を受賞したミュージカル。Caraxの娘Nastyaに捧げられている。

MUBIの上映のあとにおまけで付いていたSparksのふたりへのインタビューによると、”Holy Motors” (2012)の時のカンヌでCaraxと知り合ったふたりがLAに戻って、当時作っていた作品を彼のところに送ったら興味を持ってくれたらしく暫くしたら一緒にやりたいと言ってきた、と。なので原作にはMael兄弟がクレジットされている。(Sparksのドキュメンタリーにもあったように、彼らにはJacques Tatiとの実現しなかった映画プロジェクトがあったりするし、つまり)

冒頭はスタジオで(Leos Caraxはモニターの前に)Sparksを含むキャスト全員がオープニングタイトル- “So May We Start”を歌いながら外の通りに飛びだしていく(ワンカット?)。これだけで十分あがる。

Henry McHenry (Adam Driver)はバスローブを羽織って女性コーラスをバックに毒舌・自虐ネタをオラオラくりだすスタンダップコメディアンで、ソロで十分お客を呼べるくらいの人気者で、Ann Defrasnoux (Marion Cotillard)はソプラノのオペラ歌手で大スターで、自分のソロ公演での歌の世界では何度も死んで(殺されて)いる。

そんな美女と野獣ふうのふたりの恋の行方はTVの芸能番組でも繰り返し取りあげられていて - その様子は都度インサートされる - カメラの前でもふたりはお構いなしのべたべたで - “We Love Each Other So Much” - バイクで一緒に走り、野原を歩き、ベッドでセックスして、当然のように結婚してAnnetteが生まれる。

お人形さんのようにかわいい、というか映像として映っているのはリアルに動く女の子のお人形(Ann + Marionette = Annette?)で、目の中に入れてものかわいがりようで、でもこの頃からHenryに対するセクハラの告発が複数の女性たちから上がって、当然のようにメディアは集中砲火を浴びせてラスベガスまで進出していた彼のショーはぼろぼろになっていく。

そんななか、家族で船に乗って夜の海に出て行ったとき、暴風雨が襲ってきてAnnは海に落ちて亡くなってしまう。その晩、Henryは月夜に照らされた独りぼっちのAnnetteがAnnの声で歌っていることを発見する。 こいつはすごい、ってAnnのExの伴奏者(Simon Helberg) - 後に指揮者 - を引き連れて行ったAnnetteのショーは父のスキャンダルと母の悲劇を背負った不憫な娘の歌、として大当たりしてツアーまで組まれて..

荒唐無稽で人工的な - 緑と黄色の色使い - 世界のなかで食い合いながら流されていく魂たち。表向きはTim Burtonあたりが描きそうなドラマ、なのだがどれだけ禍々しい救いようのない世界だったとしてもそこには(どんな形であれ)愛というやつがこびりついていて、その手に負えないしょうもなさが居座ってどん底で渦を巻く、その動物のような野蛮なありようはどんな人工の細工もなぎ倒して肉屋の軒先にぶら下げられて見世物になる。その底を掘りながら這って生肉を見ようとする目、その目の暗さと、でも。

Adam Driverは、まあすごい。こないだの「決闘裁判」で最後にぶら下がることになる肉の塊、最後の方の貌はあれに近い獣のようなところ(Annetteの対極)にまでいって、赦しも救いもないままにドアの向こうに。

光(Spark)に照らされれば歌がでてくる、そういうからくり人形として作られているようなのに、でも明らかにAnnetteは生きている(あれ、どうやって動かしているのかわからないけどすごい)。いつ彼女がナイフを手にしてチャッキーのような猟奇に走ってしまうのか、化け物に変容してしまうのか、そういうスリルも確かにあった。無生物と生物の間に横たわるぶにょぶにょした何か。Sparksの音楽って70年代の絢爛からテクノを経て現代まで、檜舞台に現れては消しあうドラマチックな愛だの欲望だのの刹那。これは確かにSparksの映画でもあるのだった。


お片付けの季節がやってきたらしいが、地震がきたらどうせ崩れるのでもう少し待ってみたい。

12.14.2021

[film] Venom: Let There Be Carnage (2021)

12月5日、日曜日の午前、Tohoシネマズの日本橋で見ました。97分は魅力。

前作の”Venom” (2018)はグロそうだったので未見。未見でもいいかー、くらいで。監督はGollumだったりCaesarだったりのAndy Serkis - この人の少し前の監督作 - “Breathe” (2017)は悪くなかった。

予告だけだと二人羽織楽しそうだな、って、全体に漂うB級ぽいばかばかしさがよいと思った。MCUだのマルチヴァースだのあれこれ面倒くさい - その説明を物語というより全貌が見えていない設定に求めてくるところが - になっている時に、この食人鬼対決みたいなB級まるだしのわかりやすさは捨てがたいし、”Love Will Tear Us Apart”が流れるというし。

冒頭、90年代末に矯正院で引き離されてしまうCletus (Woody Harrelson)とFrances (Naomie Harris)のかわいそうなカップルがいて、Francesは移送中に破壊的な超音波をだして逃走して改めて捕らえられてより厳重な施設に入れられ、Cletusは連続殺人犯として刑務所に入れられて死刑執行を待っている。

サンフランシスコでジャーナリストとしてVenomと共生しながらなんとか暮らしているEddie (Tom Hardy)は、Venomのお陰でCletusが犯した殺人の遺体遺棄の場所を突きとめてお手柄になったのだが、刑の執行を待つCletusに改めて面会にいったところで彼に嚙みつかれて、その血からCletusのなかにVenomの亜種 – こいつがCarnage – が刑執行の場で誕生し、Natural Born Killersとして再生したCletusとCarnageは、Francesを救い出して(彼女も凶暴なミュータント-Shriek -Shrekじゃない - になり)ふたりでCarnage -大殺戮を始める。

他方でVenomとEddieは変わらずに喧嘩ばっかりしているので別れることにして、別れたと思ったら上のようなあれこれ都合のよくないことが起こるし、そこにAnne (Michelle Williams)も絡んでやっぱり一緒に暴れるしかない、ので暴れる、それだけなの。 テーマらしいテーマがあるとしたらどんなに憎みあっても離れられない凸凹のふたり、みたいなところか。

こういうのにありがちの、化け物になってしまった(or 共生している)自分の性根とか居場所に関する道徳的な、あるいは実存に関する悩みとか、戦うにあたっての善悪の拠り所とか責任みたいな話はばっさり切り捨てて、Eddieの場合だと仕事とか生活の安定を、Venomだと食欲を満たすところでのみ生きて繋がっているので話がはやい。やっちまえー、でばりばりばりーって。TVの30分の特撮もののような、子供が見ても途中から見てもすぐに没入できて見終えたらすぐに忘れてしまう、そんなやつ。

いちおうSpider-Manのシリーズのなかでは悪役として位置付けられるVenomでも、ここではそれより悪辣なCarnageの登場によっていちおう善玉のような憎めない振る舞いを見せて、そこにEddieのあまりにもふつーの、我々と同じような日常のどうでもいいあれこれを被せて、そこにCletus/Carnageの問答無用の極悪コンビをぶつける。こんなの誰にけしかけられなくても犬みたいに吠えて噛んで戦うしかない。

こんなのが日本では瞬間でも1位になったのだしたら、それはそれで考えさせられてしまうのだが、その根は映画とは別のー、としてよいのだろうか - ほんとはよくないけど、それすらも面倒だからいいや、って。 よくない…

Venomは黒で、Carnageは赤で、ふたつの顔を合わせてみると、Carnageの方がやや崩れて劣化しているように見える。やっぱりコピーされた分家はどこかで質が落ちてしまうのだろうか、とかそんなことも思った。Tom HardyとWoody HarrelsonだったらWoodyの方がすごいに決まっているのにな。

”Love Will Tear Us Apart”はほんとどうでもいいような、てきとーな使われ方だった。つまり。

このあとに見た”Jane Eyre”との食い合わせのわるさときたら。


お正月は田中絹代特集になったらしい。

12.13.2021

[theatre] Jane Eyre (2015) - National Theatre Live

12月5日、日曜日のごご、Tohoシネマズ日本橋のNational Theatre Liveの再映(?)で見ました。
3時間半の長さなのだが、日曜の午後にこういうのを見てうっとりできるのってよいかも。(翌日には仕事がつまんなくて泣いているのだが)

BristolのOld Vicによる2015年のプロダクションで、オリジナルは前後編で2日間に分けて上演されていたそう。原作はもちろん、Charlotte Brontëのクラシックで、演出はSally Cookson。

舞台には木材で二階建てのジャングルジムのような構造物が組まれていて、これは建物の骨格でもあり足場でもあり、ここの一階と二階、枠の外側と内側の間をくぐって抜けたり渡ったり、こいつは固定で、この脇や背後を人が行き来して(ドアはなくて)、枠やカーテンが上がったり下がったり火事の時には背後で火が噴きあがる。

あとは音楽担当のBenji Bowerを中心とした小編成のバンド - ジャグ - ちんどん屋系がステージ上にいて、Melanie Marshallによるソロ・ヴォーカルが入る。俳優たちはJane (Madeleine Worrall)を除いて複数の役を兼務(含. 犬と人の兼務あり)して主人公の周りの声に厚み(入れ替わり立ちかわり)を与える。

親と死別した後、預けられた家を追われて孤児院にやってきたJaneが仲良しだったHelen (Laura Elphinstone)と病で死別したりしてMr. Rochester (Felix Hayes)の家に住み込みの家庭教師としてやってきて、そこのフランス語しか喋れない娘Adele (Laura Elphinstone)に英語を教えているうちに当主のRochesterと恋におちて求婚されるものの彼は結婚していて精神を病んだ妻 - Bertha Mason (Melanie Marshall)が同じ屋敷に幽閉されていたことがわかって、傷ついてそこを出て行き倒れそうになったところを牧師のSt John (Laura Elphinstone)に助けられて、彼と一緒にインドに行こうって誘われるのだが、やっぱりできないってRochester邸に戻ったら… (火事)

原作はもちろん問答無用に目を離せないやつなのだが、巻き込まれ型ロマンスのうねりを真ん中に持ってくるというよりもどこにも留まることができない/留まることを許されないJane Eyreの一代放浪記、のような趣きで、彼女に降りかかってくるいろんな方角からの縛りや不条理や不幸に彼女が何を言って返してどんなふうに立ち向かって弾きだされたり克服したりしていったのか、その想いや言葉を拾いあげ、それが背後で重なるコーラスとなって舞台を覆って広がっていく。隅っこで泣きながらそれを呟いて呪うのではなく、正面を向いて世界に向かって見得を切るようなかんじで。

原作が持っていた装置としての家屋敷や土地・風土の縛りが導きだす閉じた空間の暗さや閉塞感をあえてとっぱらうことで、とても風通しのよい普遍性をもったドラマになっていた気がする。Barthaの隠蔽されていた呻き声すら掬いあげて歌として響かせる - ここは演出家の明確な意図があって、おそらくJane Eyreの声もまた、すべての女性に覆い被さってくるコルセットからマナーから血縁から - の因縁や縛りを解き放つものとして機能し組織化されている。そこまでやるのか、というところで賛否はあるのかも知れないけど、Janeのざっけんじゃねーよ!が響いて伝わってくるだけでも素敵、って思った。

全体としてミュージカルがもたらす組織化された高揚感ともまた違う、手当たり次第に楽器を手にとって歌ってあがっていくバンドのノリというか。わんわんのPilot (Craig Edwards) ですら彼女のことをじっと見ていたり(鞭がしっぽ)、彷徨うJaneが移動するときに、キャスト全員が隊列をくんで通過する土地の地名を連呼していくところ、昔の「全員集合!」みたい(しらないか…)で楽しかったり。

あと、いつも思うのだが休憩時間あけに演出家のインタビューとかの映像が流れるやつ、ぜんぶ終わったあとにした方がよいのではないか。後半のシーンの一部が流れちゃったりするし。

あと、舞台にもよるのだが、これはライブで見たかったなあ、っていうことがしみじみわかったり。それがわかると劇場に行きたくなって、行きたくなるけど…  (嘆息)


英国のNHSからCovid-19のワクチンをはやく受けるように、ってメールが来た。行っていい? 行きたいんですけど。

12.12.2021

[theatre] Life is a Dream

12月4日、土曜日の晩、エジンバラのRoyal Lyceum Theatreの配信で見ました。

17世紀、スペイン黄金時代のバロック演劇の作家 - ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカの同名戯曲(未読)が原作。原作の英語翻訳版(by Jo Clifford)は有名らしいがその割にあまり上演されてこなかったそう。演出はWils Wilson。

シアターと舞台の全景は映されなかったが、舞台上にも客席が作られていて、役者の衣装替えや化粧をするコーナーもそこに晒されていて - Ivo van Hove仕様 - 全体が見世物小屋のような作りになっている(のかな)。

ポーランドの女王(Alison Peebles)によって(悪い子に育つという預言を恐れて)幼い頃から地下に幽閉されて飼われていたSegismundo (Lorn Macdonald)が表に出てくる。口にはMad Maxみたいな口輪を填められてしゅーしゅー唸って獣のような目をしてて、当然のように猛り狂っていて近寄れないかんじなのだが、女王は彼を宮廷に戻してどうなるか見てみようとする。

ポーランドの王位は継承者であるいとこ同士のEstrella (Kelsey Griffin)とAstolpho (Dyfan Dwyfor)が結婚して継ぐことになっていたがふたりの仲はぎくしゃくしていて、そこに現れたSegismundo(この人も継承者)がEstrellaに一目惚れして間に入った召使いを殺してしまったり、かつて会ったことのある男装のRosaura (Anna Russell-Martin)を口説こうとしたり、やっぱりめちゃくちゃで手に負えないわ、と改めて幽閉されることになって結局のところ人生は夢みたいなもの - ”Life is a Dream”、って思うようになるのだが、 家臣Clotado (John Macaulay) に言われた“Even when you’re dreaming/ The good you do is never lost.”という言葉が残る。

やがて不満が爆発して蜂起した民衆がSegismundoを担いで反乱を起こし、そのごたごたの中でなにが起こったのか捩れていた恋人たち - AstolphoとRosaura、SegismundoとEstrellaもきちんとくっついて、そうやって目覚めたSegismundoは女王を赦して、反乱を起こした首謀者を塔に幽閉して、めでたしめでたし、になる。

ここには人生は夢なのか、夢だとしたらなんでこんなにもきついのか、とか、意志は運命に打ち勝てるのか、とか、獣と人間の違いとか、どうやって人は学んで変わることができるのか、とかいろんなテーマがあって、これらの顛末が”The good you do is never lost”っていうところに集約されているような。ここでいう”The good” - 「善」って、なにをもってどんなふうにして形成されるのか? - そんなの相対的なもので時の権力の型にはめられることではないのか、など、そういうところも含めて、舞台上に並べられていくので、いろいろ考えさせられる。

衣装は古典というより現代ふうで、反乱の場面では自動小銃だってでてくるし、舞台上には現代の観客も置かれているので、これはどちらかというと現代の我々についての劇で、ロックダウンで長く自宅に幽閉されてきたスコットランドの人々は、改めて”Life is a Dream”について考えてしまったに違いない。ほんの少しのタイミングや機会の違いで簡単に人がぽろぽろ亡くなったり仕事も失われたりして、それでも人々はいつか元に戻れることを信じて日々の買い物をしたりエクササイズしたりリモートで仕事をしたりしながらよいこにして待っていた。これをそれなりの規模とか節度で実行させたのはなんだったのか、ということよ。例えば。

(政府がやれと言ったから、だけじゃないと思う)
(でもそれらを無意識に浸透させて誘導するのも権力とか宗教の重要な使命であり機能だよね)
(もちろん、反対側でいろんな陰謀論が渦を巻いたし、今になっていろんな反動が噴き出していることもわかるけど)


Film at Lincoln Center(NYFFの元締め)で来年の3月に田中絹代特集やるって。だからなんで日本で見れないのさ?

12.10.2021

[film] Shoplifters of the World (2021)

12月3日、金曜日の夕方、シネクイントで見ました。
積極的に見たい、わけはなくて、今更こんなの見てもグチみたいのしか出てこないんだろうなー、とか思いつつ。実際にそうなったねえ。

Stephen KijakとLorianne Hallが書いてStephen Kijakが監督しているThe Smithsへのトリビュート映画。Morrisseyが楽曲と映像の提供に許可を出したことで世界が驚いた(これが最大のニュースだったか)が、登場人物のちょっとした台詞にもいちいち歌詞の引用が織り込まれたりしていて、とにかくThe Smiths愛に溢れたやつであることは確か。ずっとファンだったら、こんな作品を作れたら幸せよね。

87年、アメリカのデンバーに暮らすCleo (Helena Howard)がある朝、The Smiths解散の報を聞いてうそーって泣き出すのが冒頭で、ここからなんか違和感が。 “The Queen is Dead”の後、コンピレーションの“The World Won't Listen”と“Louder Than Bombs”が出て、シングルの"Shoplifters of the World Unite"が出た頃にはバンドの不和と解散の噂は既にあちこちにあったので、突然聞かされて驚くようなことではなかったのだけど。 別にそういうファンもいたのかも知れないけど、この彼女の悲嘆 – 突然The Smithsが解散しちゃったよう - が映画の大きなドライバーなので、ここに乗れないとたぶん..

Cleoは友人でレコード屋でバイトをしているDean (Ellar Coltrane)のところに行っていつものように万引き(彼が店番のときはさせてくれる)をしながらThe Smithsが解散しちゃったんだよ、って告げるとDeanも悲しんで店内でThe Smithsの音楽をかけていると店のオーナーがやってきてそんなのかけるんじゃないクズ、って殴られたので、Deanは見てろよ、ってその晩に行動を起こす。

Cleoには軍に入って町を離れる予定の友達以上恋人未満のBilly (Nick Krause)がいて、友人のSheila (Elena Kampouris)とPatrick (James Bloor)のカップルも先行きが微妙でもやもやしていて、彼らがThe Smiths解散の報をきっかけに一晩の – いろんな決意を胸に - パーティに繰り出すのと、そこにDeanが町のラジオ局でメタルを中心にかけているDJ - Mickey "Full Metal Mickey" (Joe Manganiello)の番組に押し入って銃を突きつけレコードのケースを広げ、今晩はずっとThe Smithsの曲をかけるんだ、って脅す現場が重なる。こうして忘れられないあの夜のサウンドトラックとして、The Smithsの曲が流れ続けるの。

で、そうやってラジオで流すと – DJは銃で脅迫されていることも放送でいう – 警察も来るけどいろんなところからThe Smithsファンが自転車に乗ってやってきて、みんな悲しんでいるんだね! って。

こうして夜明けまで踊ってキスして喧嘩して彷徨う4人のバックに流れる音楽としてナルシスティックで妄想で膨れあがって自爆に向かうThe Smithsの音楽はとってもはまるので、そこはただ流れているだけで気持ちよい。この作品自体がThe Smiths愛と妄想が作りあげたお話しなのでそれはあたりまえにそうなのだが。 暗くても割とメジャーでアッパーな曲ばかり流れる、という文句は当然あるけど。

ただ、銃を持ちだすほどのあれか、というのは少しある(いまのアメリカの銃のありようを考えると)。”Airheads” (1994) - 大好き - みたいなコメディにしちゃえばよかったのにねえ。

いくつか変なとこもあって。Deanが“Strangeways, Here We Come”からの曲をかけろ、って盤を出すのだが、解散の報が流れたときにはまだリリースされていなかったのよ(どれだけ輸入盤屋に通ったことか)、とか、DJが離婚の原因のひとつにNirvana批判に忙殺されてたから、と言うところ、87年のNirvana(まだ結成されたばかりよ)を批判するのってすごい耳だねえ、とか。

あと、”Pretty in Pink” (1986)のAndieのことをdisるシーンがあるんだけど、そこはまあわかんないでもない、けど君らのやっていることは”The Breakfast Club” (1985)のガキどものすったもんだにそっくりではないか、とか、Sheilaが“Desperately Seeking Susan” (1985)のMadonnaよろしくドライヤーに向かってポーズを決めるとか、あの時代のあれこれを持ちこみすぎて、結果的に薄まっていない?

そしてそもそも、デンバーにあんな数のThe Smithsのファンていたの? - いや、いたのかもしれない。日本だって、The Theの初来日公演(1990年)で初めてあんなに沢山のJohnny Marrを愛する人たちがいたんだ、って驚いたのだし。

これを見てThe Smithsに接して恋におちた若い子がいたとしたらどこをどんなふうに見て聞いて、なにを受けとったのかなあ、っていうのは割と興味ある。

最後に、彼らは今… をMorrisseyの現在と並べて置いてみたら全体に塩味と酸味が効いてほどよいかんじになったのでは。

12.09.2021

[film] The Power of the Dog (2021)

11月30日、火曜日の晩、池袋のシネリーブルで見ました。これもNetflixで見れるのだが、これはぜったいでっかいスクリーンで見たくて、実際に見てよかった。

今年のヴェネツィアで銀獅子賞を獲ってNYFFでもLFFでもTIFFでもかかったJane Campionの新作。原作は1967年に書かれたThomas Savageの同名小説。西部劇。

20年代のモンタナで、牧場をやっているPhil (Benedict Cumberbatch)とGeorge (Jesse Plemons)のBurbank兄弟がいる。Philは荒っぽくて汚れていて無口な見るからに西部の男タイプで、Georgeは兄には敵わないと思っているのか正反対に小ぎれいにしていて社交的なタイプで、牧童を率いて引っぱっているのは明らかにPhilで、彼は自分を育ててくれてもうこの世にはいない‘Bronco’ Henryを伝説のように想って周囲にも「彼はすごかったんだぞ」って伝えたりしている。

原野で一軒家の食堂を営む未亡人のRose (Kirsten Dunst)と一人息子のPeter (Kodi Smit-McPhee)がいて、Peterはとても賢そうだが華奢で紙でテーブル飾りのお花を作ったりしている。

そこにPhilの一行が現れて荒っぽくテーブルを囲んでPeterをからかったり、そのやりとりを見て悲しんでいるRoseを見たGeorgeは放っておけなくて彼女の傍にいるようになり、やがて彼女を自分の家に連れてきて、結婚したとPhilに告げる。これに関してPhilの対応は冷淡で、ふーんとか言いつつもピアノの練習をしているRoseがつっかえる箇所をバンジョーでさくさく弾いてみせたり、意地の悪いところを見せる。

ここまでだと、典型的な西部男のPhilが都会の社交の方に寄ろうとしているGeorge-Rose-Peterをじわじわ痛めつけて、そのせめぎあいの果てに惨劇が.. くらいかと思ってるとぜんぜん違う変態の方にうねっていくので、そのうねりの妖艶さ - からっからの大地の上に艶かしく現れるそれ - にやられる。

紙のお花をからかわれてべそをかいていたPeterは医者になる勉強をしていて野ウサギを見つけてなでなでしていたかと思えば、翌日にはその子を解剖していたり、土地のはずれで炭疽症で死んで転がっていた牛の組織を切り取っていたり、向こうの山には何がいるかわかるか?というPhilの問いにPeterはあっさり答えてしまったり、明らかに虐めやシゴキに走ると思われたPhilの目が変わってPhilとPeterの関係は驚くような化学変化を見せて親密になっていって、その反対側でRoseは孤独のなかアルコールに溺れていく。

‘Bronco’ Henryが遺した鞍を撫でて愛でるその手で牛の革を細かく割いてロープを編んでいくPhilと科学への好奇心からナイフで獣の組織をさくさく捌いていくPeterの手、そこにくっついたふたりの胴体がどこからどんなふうに絡まったのかはっきりとは語られないのだが、結末はやはり… 。 そういえば、“Bright Star” (2009)もひたすら編んでいく映画だったような。

犬の力に犬の苦痛がはびこる野蛮な地の果てで、ひとはなにに救いを求めるのか? 痛みを和らげてくれるものはなんなのか? そもそも痛みってなんなのか? などをPhil – Peter – George - Roseそれぞれの象徴的な顔とか風貌のもとに彫りだして、皮を剥いで - その疎通のとれないかんじを晒しているかのような。そして我々はいまだに哀れで汚れた犬畜生なのだとしたら、どうやって聖なるなにかに届くことができるのかできないのか、などなど。 タイトルの引用元として旧約聖書の詩編22編が引用されているのだが、獣性と聖なるもののせめぎ合いってJane Campionがずっと追っているものだと思う。

ちょっと変な、クィアな西部劇として比較できるのはいっぱいあると思うし、復讐劇のようなものとして見れば、”Stoker” (2013)なんかも思い浮かべたり。

あと、Jonny Greenwoodの音楽もすばらしい。”Phantom Thread” (2017)の頃からストリングスの使い方がものすごくよくなった気がするのだが、今回のも荒野の風でありながら内面を貫いて突っ切って吹いてくるかんじ。

Benedict Cumberbatchのなんとも言えない爬虫類のすごみのたまんないことったら。もうじき来るあれも、Tom Hollandとの間で今作みたいなことになったらおもしろいのにな。



レインコーツ本が翻訳されて、33 1/3シリーズのと同じやつかしら?と思いつつ自信がなかったので買ってみたらおなじやつだった。そしてヴィヴィエン・ゴールドマンさんの”Revenge of the She-Punks”も翻訳が出るのね。2019年に出張でNY行った時、McNally Jacksonのイベントでこの2冊の本の著者が並んでお喋りしていたなあー。

12.08.2021

[film] tick, tick...BOOM! (2021)

11月27日、土曜日の夕方、ヒューマントラスト渋谷の音のでっかいとこで見ました。
Netflixでも見れるのだが、これはシアターみたいなところで見るのがいいに決まってる、って。

ちょうどStephen Sondheimの訃報が流れてきた日で、この映画にも出てくる(劇中では俳優さんが演じているが留守電に入った声は本人の)ということなので、それもあった。一時期NYに住んでいた者からするとStephen Sondheimの名前ってものすごく頻繁に見るもので、新たなミュージカルが出るたびにレビューは彼からの影響や彼の過去作との比較で語られるし、Best & Worstもしょっちゅう編まれているし、今作の中でも彼が見ている!彼が評価してくれている!で主人公は一喜一憂していたりする。

今作でAndrew Garfieldが演じているJonathan Larsonもそういう伝説のひとりではあって、1996年の”Rent”の爆発的な成功と35歳での突然の死は、ミュージカルはまったく見ない人にも十分に聞こえてくるものだった。(”Rent”は見ていないの。公開直後はチケットまったく取れなかったし、当時の自分のプライオリティは音楽のライブ→バレエ→オペラ→映画、くらいだった。ミュージカルは11年いたのに、人のアテンドで行った2~3本くらい..)

“In the Heights” (2021) のLin-Manuel MirandaがJonathan Larsonに捧げたオマージュであり、彼の監督デビュー作でもある。プロデューサーにはBrian GrazerとRon Howardの名前がある。

1992年、East Villageの小劇場でJonathan Larson (Andrew Garfield)がバンドをバックにピアノに向かって今の自分とこれまでの自分についてまくしたてるように歌って語るステージ – これが”Rent”のひとつ前の彼の舞台作品 - ”tick, tick...BOOM!”で、この自伝的モノローグに至るまでの彼の90年前後の実生活や創作面での苦闘がステージの上とドラマの現場を切り替えながら進んでいく。

彼がずっと構想を練って温めてきた近未来ミュージカル - ”SUPERBIA”のワークショップとその成功 – これが認められて舞台化されることになれば大きな一歩 – に向けてダイナーでバイトをしながら友人たちや関係者の間を走り回って苦しんで.. という一刻一秒を争うじたばた(→タイトル)で、そこに演劇を諦めて代理店に就職した幼馴染の親友のことや、彼を含む数人がAIDSになってしまった辛さ等のエピソードが挟まって、どん詰まりのなか、自分にとっての音楽とは、ミュージカルとは、という地点にまで追いつめられていく。

そのへんの藁をも掴みたかった半径数メートルの焦りまくり繁盛記を作品にしたのが”tick, tick...BOOM!”なので、結果が万事うまくいったお話であることはわかっているし、ただの下積みキツかったけどがんばってよかったね話のように見えてしまうのかもだけど、舞台上で語られる時間がない時間がないって走り回る過去と現在に脈打つ音楽がピンポンしながら交錯していく構成と、彼の音楽の前のめりにつんのめって畳みかけるように転がって伝播していくエモの熱がすばらしい。 この波状攻撃は確かに“In the Heights”にもあったやつかも。(Jonathan Larson、バンド活動ではなくて、どうしてミュージカルにしたかったのだろう? こういう曲を書けるならバンドやっても当たった気がする)

はらはらどきどきだった”SUPERBIA”のワークショップの後で、Sondheimやその他の人たちのアドバイスから、もっと身近な題材をって、とりあえず目の前の焦りや苛立ちについて語って歌いだしたのがこれだとすると、これを幾重にも折り重ねて隣人を束ねて編んでいったのが”Rent”、なのだろうか。これを見てしまうと”Rent”って傑作になることを約束されていたような作品ではないか、って。

そしてこんなJonathan Larson像をたったひとりで走り切るように演じてしまったAndrew Garfieldのすばらしさ。この人の溜息もべそも泣き言も、ぜんぶ耳元の目の前で起こっているように感じられて、掻きむしられてしまう。器用すぎて好きに使われすぎな気がするのだが、ほんとにうまいな、って改めて。

Jonathan Larsonの部屋にNINのステッカーが貼ってあったよ。

12.07.2021

[film] Passing (2021)

11月22日、月曜日の晩、Netflixで見ました。
今年のNYFFでもLFFでも上映されて評判だった女優Rebecca Hallの監督デビュー作で、Nella Larsenの同名小説 (1929)の映画化。全編モノクロ。

1920年代のNY、暑い夏の日、Irene (Tessa Thompson)がホテルで涼もうとお茶を飲んでいると、こちらを何度もじっと見つめてくる女性がいて、彼女は幼馴染で高校の同級生のClare (Ruth Negga)だった。再会を喜びつつ、近況を聞いていると、彼女は白人のJohn (Alexander Skarsgård)と結婚して、自分は白人として”passing”しているのだと得意気に語るので、ずっと友人だった彼女を自分と同じ有色人種と見ていたIreneはややショックを受ける。

Ireneは同じ有色人種で医師のBrian (André Holland)と結婚して2人の子供たちに恵まれ、ハーレムで過不足のない暮らしをしていて、彼女も有色人種としては肌の色が薄いのでホテルのティールームとかに軽く白人のふりをして入ったりすることはあってもClareのように夫まで欺くようなやり方生き方でいいのか..? って自問しつつ、だんだんClareと会いたくないな、になっていく。Johnのシャレにならないレイシストまるだし発言を聞いたりすると猶更ありえないわ、ってなるのだがClareはお構いなしで、やがてみんながいるパーティの席でClareのこと(彼女が有色人種であること)がばれてしまうと..

“passing”をどう訳したらよいのか、「なりすまし」だとやや強めの故意の悪意を感じるし、「通過」だと向こうが見過ごしているだけなのでばれなきゃいい、のような無責任さも漂うし。

現代よりずっと人種差別や偏見が深く根付き、白人であることの特権が大きかった時代なので、そうやって生きることは生き残るために切実で必要なことだったのだ、という言い方もできるし、いや、そうやっていても何も変わらないし同胞のためにも、という言い方もできただろうし、何よりも嘘をついているってことじゃないのか、とか。 あるいは、これってそこを感知/認知する白人の側の(無)意識やバイアスにも依存することなのでどうしようもないじゃん、それなら.. と言うこともできるのだろうが、でもとにかく、そうやってあの時代を生きた人々はいた。

この件についてIreneとClareが正面から議論したり喧嘩したりする場面はなくて、やや淡めのモノクロ画面の濃淡のなか、ふたりとも”passing”できてしまいそうなところでのIreneの延々続く葛藤と小さな棘のような苦悩が最後まで生々しい。そして誰と誰が争っていて本当の敵はだれでなにで、あっけにとられてしまうラストの一瞬の悲劇は、誰によってどうもたらされたのか、明確には示されない。”passing” - 見て見ぬふり? 見なかったことにしよう?

“Passing”は人種における「通過」を示す概念だが、これと同様のこと – ひとによっては大きいけどそうでない人にとってはどうでもよい – は今ではあらゆる属性 – もっと多様な人種、ジェンダー、セクシュアリティ、等々を跨いで散らばっている。上のほうではダイバーシティ&インクルージョンが経営理念のようなところで語られていく欺瞞から身近なところではSNSでの暴きあいみたいなのまで、ある人をその人として同定することの難しさ、あなたは誰?- 自分は誰?という問いに纏わりついてくる痛みや面倒くささが端正に丁寧に描かれていて、考えさせられることいっぱい。

本作は、この問題の終着点や見解を示すというよりは、決して理解には至らなかったかもしれない - でもおそらく互いのことを十分にわかっていた - ある時代に生きたふたりの女性の交錯を繊細に捕らえた物語で、Tessa Thompsonの、Ruth Neggaの微細な表情の変化や震えを見つめるカメラがすばらしいの。

いまの/これまでのにっぽんでもこれと同様のことってある/あったはずよね。


“The Shop Around the Corner” (1940)がBFIでリバイバルされてる - と思ったら英国各地でやるのかー。よい国だなー。 そして、なんで40年代には素敵なクリスマス映画がいっぱいあるのか。

https://www.bfi.org.uk/lists/10-great-christmas-films-1940s


12.06.2021

[theatre] La Ménagerie de verre

11月28日、日曜日の朝4時(中央ヨーロッパ時間の20時)にむっくりと起きあがってストリーミングで見ました。

パリのオデオン座の制作によるIvo van Hove演出、Isabelle Huppert主演によるTennessee Williams の『ガラスの動物園』(1944)の舞台をInternationaal Theater Amsterdamが配信したもの。

日本にも来るはずだったのが来れないことになった、のは英国でも同じで、Barbicanで上演される予定だったチケットを発売日に - Isabelleさまの上演後トークがある日のいちばんよい席のを買って待っていたのにロックダウンで延期されて、でもその程度の延期ではどうにもならなくて結局キャンセルされて、泣いた。 だからストリーミングだろうが朝の何時だろうが見れるのであれば何があっても見るさ、だったの。

2005年のブロードウェイの再演 - Jessica LangeがAmandaで、Christian SlaterがTomを演じたときのは、確か見た記憶があるのだが、細かいところの記憶がないー。

Tennessee Williams自身の自伝的な作品なので、原作が書かれた時点から10年くらい前、大恐慌の傷跡が残るセントルイスでTom Wingfield (Nahuel Pérez Biscayart - Tennessee Williamsにちょっと似たかんじ)が自分と家族の追憶の物語を語り始める。追憶の世界なのでそこは洞窟のように薄暗くて壁画のような落書きもあって、半地下の世界のよう。 いつものIvo van Hoveの舞台の、舞台を取り囲む部屋や境界によって浮かびあがらせるようなメタな仕掛けは今回はなくて、蝋燭のような光の下でホラーのように語られ、視界が狭まって逃げようがない事態や情景が広がっていくのを固唾を吞んで見守っていくかんじ。

Tomの語りに導かれて母Amanda (Isabelle Huppert)と足の悪い娘のLaura (Justine Bachelet)が登場する。父はもうとうに家を出てしまっているが、Amandaにとってはどうでもよいことのようで、自分が過去も未来もこの家の中心で、ずっとひとりで台所にいて、いろんなことを畳み掛けるようにえんえん喋りながら - あのいつものIsabelle Huppertの喋り - 自分の過去について喋ることで自らを律し立て直し、家族を外界から護り、とっくに壊れているかもしれないなにかを見つめて揺るがない。けど、だれもそれをちゃんと聞いてはいなくて、Tomは頻繁に外に出て行ってしまうし、Lauraは自分の内の世界にずっと篭ってしまっていて、全体は彼女が壁の奥に隠しているガラス細工の動物たちのありようそのまま - 壁の向こうから出されると光があたって輝くけど、へたに扱うと壊れてしまうのでそうっと暗がりにしまっておくの。こうして家全体も洞窟のなかにありー。

その緊張関係に満ちた壊れやすさがいつ、どんなふうに壊れてしまうのかはらはらしていると、外からTomの友人Jim(Cyril Gueï)が現れて、Amandaはおお張り切りでLauraに引き合わせてよいこなのだからうまくいくに決まっている、と。 実際にJimはよい人でふたりがArcade Fireの”Neighborhood #1 (Tunnels)”に合わせてダンスをするシーンとか素敵なのだが、TomもJimに対しては想いがあるようで、でもそういうのはぜんぶ、「自分には婚約者がいます」の言葉でぜんぶどこかに散ってしまう。それを受けたAmandaが次にどういうアクションに出るのか、については勿論描かれることはない。

若者らしく自分が一番さ! って外に向かって意気揚々なTomも別にあたしなんか、ってひたすら内に向かい続けるLauraもそれぞれに単純なキャラクターではないことは十分に伺えるのだが、この舞台ではそれらを遥かに超えた毒親 –なんて言えないくらいに強く複雑なうねりを見せるAmanda - Isabelle Huppert – の佇まいがすべて持っていってしまう。強くて尊大で夢見がちで何言われてもへっちゃらで見たいものしか見なくて掴みどころがなくて、そういうのがぜんぶぎりぎりの表面で外からのウィルスと接近戦をしているのが見えるのに超然としている。もちろんこんなの女優としての彼女が見せるひとつの面でしかない – ないことがありありなのに、彼女の顔を見つめるしかなくて、見ているだけでなにかが壊されながら流れていく。

アメリカ映画が伝統的に描いてきた「こわれゆく女」の源流。あるいは、Isabelle Huppertさんが好きすぎてフランスでの上映権を買ってしまった”Wanda” (1970)とか - Isabelle Huppertさんを最初に見たのは00年代にBAMでの”Wanda”の上映会でのトークで、ものすごい勢いと熱量で”Wanda”について語っていたことを思いだす。

あーでもやはり、奥に広がる洞窟を覗きこむように舞台で見たかったなー。

12.03.2021

[film] 月は上りぬ (1955)

11月23日の祝日、鎌倉の川喜多映画記念館でやっている田中絹代の展示に合わせて彼女の監督作品2本(午前1本、午後1本)が上映されたので見てきた。そこまでしても見たいやつだったの。TIFFのあとはもうどこも上映してくれないの? ひどすぎない?

恋文(1953)

田中絹代の第一回監督作品。朝日新聞に連載された丹羽文雄の同名小説を木下恵介が脚色して成瀬巳喜男が脚本に手を入れたという。助監督には成瀬の『おかあさん』 (1952)とおなじく石井輝男の名前がある。

彼女は1949年に初めて海外(アメリカ)に渡って同期にあたるクローデット・コルベールとかジョン・クロフォードとかベティ・デイヴィスの活動に触発されてなんかやらなきゃ、って戻ってきたらアメリカかぶれ、ってメディアに叩かれて、そこを救ったのが成瀬の『銀座化粧』(1951)~『おかあさん』(1952) - だったと。

戦争から戻ってきた礼吉(森雅之)は古本のせどり(転売屋)をしている弟 - 洋(道三重三)のところに身を寄せるのだが、ぼんやりしてばかりで幽霊のようになっている。友人の山路(宇野重吉)が渋谷のすずらん横丁(いまの恋文横丁)でやっている米兵に向けた恋文代筆業 - 米兵の相手をして子供ができたり生活に困ったりした女性達が窮状を訴えたり会いたいって言ったりを英語でうまく伝える手紙の代筆 - を手伝うことにする。

礼吉のぼんやりはかつて恋人だった道子(久我美子)の面影をずっと追っていたからなのだが、ある日代筆業の客として道子を見かけて追いかけてやっと会えたと思ったらこれか! って散々彼女をなじって、言ったあとで自分でもぼろぼろになっていくので、弟が見かねて道子に会ったりすると、彼女には彼女なりの事情があったりしたのだ、ってわかるし山路も礼吉に怒ったりするのだが..

後年の『女ばかりの夜』 (1961)のテーマ – どんなにあがいてそこから抜けようとしてもそれを許されない女性たちのありよう - は既に底流としてあって、それが勝手な男性側の視点からもプレスされることで結果的に悲劇をもたらす。身勝手な男性意識の典型で、米兵への恋文代筆という職業だってその屈辱的な従属関係の後ろにくっついて商売をするってしょうもない位置にいるくせに悩んでいるのは自分だけだみたいな顔をして。でもこれはアメリカ占領下だったから、とかそういう事情とは関係ないこと。

そういうどん詰まった(故になし崩しで勝手に転がっていかざるを得ない)男性の表情をやらせたときの森雅之はすごくて、そこに被さる久我美子の引き攣ったままのか細さもすばらしいの。最後が移動中の車のなかの切迫感と共に終わるところとか、見事だと思った。

あと、これは見てみればわかるけど、いろんなおなじみスターの皆さんがこれでもか、ってかわるがわる登場してくるのもすごい。だれそれがカメオで.. って騒がしいレベルじゃない。

弟が路面店に並べている洋雑誌の数々、あれぜんぶほしい。売って。


月は上りぬ (1955)

田中絹代の監督2作目 - 最初は『春琴抄』を考えていたそう。脚本は斎藤良輔と小津安二郎の共同。助監督には斎藤武市。五社協定のせいでキャスティングが難航したらしいが、小津は撮影の間ずっとセットの後ろで見ていたという。

こーれーはー、すばらしいラブコメだった。ジェイン・オースティンみたいなの。大好き。

戦争で奈良に疎開したままそこで暮らしている浅井家がいて、父の茂吉(笠智衆)と三姉妹 - 長女で未亡人の千鶴(山根寿子)、次女の綾子(杉葉子)と三女の節子(北原三枝)がいて、近くのお寺には千鶴の亡夫の弟 - 昌二(安井昌二)が居候のように住み着いていて節子とは仲がよい。

昌二の友人で電信技師をやっている雨宮(三島耕)が出張でやってきて、気になるらしい綾子との間でのくっつく-くっつかない-くっつけたいなどで節子 & 周辺が勝手にやきもきして、東京に帰った雨宮を追って綾子が出ていったと思ったら、今度は昌二と節子がじたばたする。それらの若者たちを晩秋の月夜がしっとりと包んだりしているの。

雨宮と綾子の電報のやりとり - 雨宮が”3755”って送ると綾子が“666”って返すとか - なんだそれはオーメンか、ってなった後に判明する驚愕のプロトコル(万葉集)とか、すったもんだの果てに子供みたいに仲直りして一緒に東京に行くことにした昌二が節子に向かって、『飯をつくれ、洗濯をしろ、金には困るぞ、でもいつも笑っていろ、俺がうんと可愛がってやる』とか言う、それも繰り返して念押しするあたりは鳥肌もんの気持ち悪さ(斎藤と小津、どっちが書いたんだろ?)で、そんな奴についていったら死ぬぞやめたほうがいいぞ、とか思うのに節子は泣きながらうんうん頷いていて、月夜の晩の生々しい光が恋人たちを狂わせたに違いない、って思わせるくらいに屋内から外に向かったカメラは素敵で、同様に外から縁側をとらえたカメラもよいの。客席も含めてみんなで月の光を浴びてうっとり酔っていくかんじ。

とにかく、綾子と雨宮が月の光の下を歩いていくシーンのすばらしいこと。踊らなくたってキスをしなくたって、月がいるだけであんなにも幸せそうに満ち足りて見えるってどういうことなのかしら。

最後に残った千鶴にもよい人 - 佐野周二がいそうなので、お前もどうだって茂吉はいうのだが、おとうさんそれやったら『東京物語』になっちゃうわよ、って。

あと、北原三枝が下女役の田中絹代に演技指導をするシーンのおもしろいこと。

これならこないだのカンヌで評判になったのもわかる、クラシックだわ、って。


ロックダウン中にクローズしていたロンドンのPicturehouse Central(映画館)が復活してて、クリスマス映画特集で”The Holiday” (2006) を上映するときのイントロでJude Lawが来るって。いいなー。
いま必要なのはこういうのだよねー。

12.02.2021

[film] 女ばかりの夜 (1961)

11月20日、土曜日の午後、国立映画アーカイブの『NFAJコレクション 2021秋』で見ました。 個人的に田中絹代監督作品を追って見ていきたいシリーズ。 彼女の監督作としては5作目。原作は梁雅子の『道あれど』、脚色は田中澄江。

1958年に施行された売春防止法で売春は禁止されたものの道端には依然として売る女性に買う男性たちが溢れていて、女性たちは捕まえられてもすぐに戻ってきてしまうのであった、という前振りがあり、そういう女性たちのための更生施設 - 白菊婦人寮が紹介される。

そこには寮長の野上(淡島千景)に寮母の北村(沢村貞子)に女性スタッフがいて、冒頭ではこの施設を見学にきた上流ぽいご婦人たちを前に寮の施設とかそこで暮らすいろんな寮生のキャラクターも紹介されて、夜中に脱走を繰り返すよしみ(永美沙子)とか彼女にべったりのレスビアンの亀寿(浪花千栄子 .. びっくり)とかほんとにいろんな女性たちがいて「女ばかりの夜」が過ぎていく。

そんななか、米兵を相手にしてきた主人公の邦子(原知佐子)は模範生としてまじめに更生したようだったので、社会に出ることになる。最初に働きに出た先は達吉(桂小金治)と妻のよし(中北千枝子)が営む町の小さな食料品店で、そのうち従業員経由で邦子の出自を知ってしまったよしがうざくなったので彼女が留守の間に達吉をはめてざまーみろって出て再び路上に立つもののあっという間に捕まって寮に送り返される。

続いて大勢の女工が働く住み込みの工場で、前は前歴を変に隠していたから面倒なことになったのだ、と最初に言っておくわ、って自己紹介で自分の過去を正直に告げたら工場の不良女子たちに絡まれて集団リンチにあい(ひどい)、病院送りになってもうなにもかも嫌だ、になる。ここまでくると寮の側も考えてしまう。

こんどはだいじょうぶだろうと、邦子は冒頭で施設の見学にも来ていた志摩夫人(香川京子)が経営するバラ園の仕事を紹介され、寮の同じ部屋にいたチエ子(北あけみ)とふたりで暮らしながらがんばっていると、そこで働く技術者の早川(夏木陽介)が近寄ってきて、真面目に結婚したいと言う。あのねあたしは.. と言っても彼は曲がらずに親を説得してくるから、って実家に帰っていくのだが..

赤線があろうが無くなろうが困難な時代をめげずに逞しかったり豪快だったり哀しかったりしつつ生きる女性たちのお話しは溝口でもなんでも男性監督によっていくらでも作られてきた気がするが、これはそういうのとは少し違って、なんで彼女たちは社会や世間から弾きだされたままで(結果的に)元の場所の元の仕事に戻ってきてしまうのかを、社会学的と言っていいくらいの細やかな目線と論理で説明してくれる。彼女たちはそもそもそういう素性だから境遇だから – なわけがなくて、結局世間の目(的な機能をもつ無反省な差別偏見マシーン)が彼女たちの振る舞いや居場所をそういうものとして規定して、一度それを読み取ったマシーンは彼女たちを経済的にも組織(含.家族)的にもそういう場所に追いやる(追い戻す)ように動作する – それをさらに大きな機械として丸めこんでその正常性を保っているように構成員に示す(その指令をくだすのはだれ?)のが社会というものなのだ、って。

女性監督としての田中絹代は邦子の悲しみは勿論、その無念や悔しさに十分寄り添いつつも、この不条理などうしようもなさをこれでもかってぶちまけていて、そして最後にひとりの海女として平穏に暮らす邦子を見せながらも、なんで彼女がここにこうしているのかわかる? ここまで来なければならなかったかわかる? って問いかけているような。男たちの影や目線がどこかに写り込んでいる夜、ではない「女ばかりの夜」はこんなふうに描かれなければならなかったの。

ここから『お吟さま』(1962)のラストを思うと、やっぱりすごいよね。

12.01.2021

[film] The Mauritanian (2021)

11月21日、日曜日の午前、Tohoシネマズの六本木で見ました。邦題は『モーリタニアン 黒塗りの記録』。

時間割の事情なのかシアターがMX4D(まだ入ったことなし)ので、拷問の体感リアルなのがやってきたらやだな、と思ったけどさすがにそれはなかった。

2001年の911の関係者として拘束され、そのままグアンタナモの収容所に14年間拘留されたMohamedou Ould Salahiの2015年に出版された手記”Guantanamo Diary”を元にした作品。911に関連したものは見ておかないといけないと思っている(のと、まだグアンタナモって閉鎖されていないので現在も続いている話として)。

911から2ヶ月後の11月、モーリタニアで家族と過ごしていたMohamedou Ould Salahi (Tahar Rahim)は、夜中にアメリカ軍が話したいと言っている、と呼ばれて連れ出され、そのままアフガン→グアンタナモに送られてしまう。彼の携帯にオサマビンラディン宅からの着信があったこと、いとこがアルカイダの重要人物だったり、911の実行犯をリクルートしたり自分の部屋に泊めていた疑いがあること、等が拘束の理由。

彼は身に覚えのないことは知らないとしか言いようがないのでそう返すのだが、アメリカからすればそれは否認ではなく未自白の状態となるので吐くまで拷問、という論理になってどこまでも終わらない。

この状態でパリの事務所経由で依頼を受けた弁護士Nancy Hollander (Jodie Foster)と部下のTeri (Shailene Woodley)がSalahiの弁護をすることになり、軍の方は検察としてStuart Couch中尉 (Benedict Cumberbatch)を立てる。Stuartは友人のパイロットが911の犠牲者でもあり、絶対に立件するのだ、って燃えている。

グアンタナモの現地に赴いてSalahiと面会したNancyとTeriがとにかくなんでもいいから話して書いて、と関係を深めていくところと収容所から出された黒塗りだらけの調書 - 黒塗りレポートについては、Adam Driver主演の”The Report” (2019)も参照 - を追っていくところ、そこに2005年(映画の現在時点)の映像とここより前の尋問の際の映像がより狭まったフレームサイズで交互に映しだされていく。それらはどれもSalahiの現在と拘束されてからの過去を追っているだけで彼の頭のなかにある(or ない)過去のなにかを再現したものではない。

やがてNancyたちとSalahiの関係がよくなってきて、これはいけるかも、になりかけた頃にリリースされた調書でSalahiは全面的にクロの供述をしていて、それを見たTeriはあきれて抜けてしまうのだが、Nancyはその供述の信憑性に疑いを持って収容所で実際に何が行われていたのか - そこを掘っていくと..

その反対側でSalahiの証言を追っていたStuartも同じ壁にぶち当たり、Salahiの証言の正当性を保証するものが全くないことに愕然とする。こんなのだめじゃん無理じゃん…って。

結局、911をきっかけとした「テロとの戦い」を大義名分にイラクとアフガンに派兵までしてしまったアメリカとしては、なにがなんでも「犯人」を挙げて極刑にして国民に示したかったのだな、ということ、そのなりふり構わない必死さが明らかになっただけ、それがNancyやStartといった「まともな白人たち」によって露わにされただけでもよかったではないか、と見るか、それにしても酷すぎるしなんでこんなことが許される仕組みになっていたの- なんでもありになるじゃん、と見るか。

とにかくこれがあるのでブッシュもラムズフェルドもチェイニーも未だに、断固絶対許すことができないの。
自分の国の入国管理局がほぼ同様の人権蹂躙を(自国の法システムのなかで堂々と)やっているのでぜんぜん偉そうなことは言えないのだが、(このケースのように)法の外側で異国の人に向かって好き勝手にやり放題のやつって(あ、戦争もその一例ね)なんとかならないものだろうか。

いちおうSalahiは釈放されて本はベストセラーになってよかったねえ、なのだが、それでも彼とNancy組がなにかに勝利したかんじはまったくない。ここに来るまでに何人の罪のない人たちが亡くなったり狂ったりしてしまったのか、未だにグアンタナモ拘置されたままの人たちは何人いるのか、なんで(オバマもバイデンもいまだに)閉鎖できないのか、など。

それにしてもからからの骨のように乾いて意地と怒りで真っ白になって喋りまくるJodie Fosterの凄みとかっこよさ - いやかっこいいとか褒めてはいけないと思うのだが、すごい。自分みたいのが何人いてどれだけがんばったって救われない、どうすんだよこれ、っていう怒りと絶望の狼煙。その反対側で、罪への怒りに沸騰しつつも敬虔なクリスチャンとしてケースから身をひくBenedict Cumberbatchの繊細な演技も見事なのだが、あのJodieには勝てないような。


もう12月で、いろんな映画の特集がいっぱいあって楽しそうなのだが、1週間でもいいからクラシックの定番クリスマス映画を特集してくれる名画座がほしいよう。入れ替えなしでずっと流しっぱなしにしてくれるの。