5.30.2013

[film] The Angels' Share (2012)

16日の日曜日、南極怪獣譚の後に銀座で見ました。『天使の分け前』。

スコットランドで、暴力沙汰を起こして裁判にかけられ、牢獄は免れたものの社会奉仕を命じられたロビーとその他数名が、奉仕活動の現場監督のハリーに連れられるままスコッチウイスキーの工場見学にいって、テイスティングをしてみたらはまって、それなりに勉強して愛好家サークルに入り込み、奉仕仲間3人と一緒にオークションに出される伝説の樽と一攫千金を狙うの。 

ロビーには彼女と生まれたばかりのお赤ん坊がいて、心底真面目に生きようとしていて、でもそのためにはお金が必要で、だから、というのはわからないでもないのだが、かといって奉仕活動の延長で泥棒詐欺さんはよくないのでは、とかいうまじめなひとにはあんま楽しくないかも。

スコットランドの荒地で育った彼らの境遇がそうさせた、とかそういう角度から攻めるのではなく、スコットランド人てほんとしょうもな、と誰もが頷けるややスケール小さめの与太者話として描いたところがよくて、そこにはなんの教訓も罰当たりもなくて、寧ろこんなスカスカに爽やかでいいの、とか心配になってしまうくらいなの。 そのへんがケン・ローチで、彼が向こうで愛される理由がよくわかる1本でもあるの。

Angels' Shareっていうのは、ウイスキーが樽で熟成される過程でどっかに消えてしまう2%のことで、スコットランドでは天使なのかも知れないが、日本だとそういうのは大抵妖怪の仕業で、映画ではロビーがそういうことをやっていて、なんにしてもろくなもんではない、と。
でもべつにいいじゃんそのくらい、なの。

ハリーはあのあと、どんな顔をしたのだろうね。

音楽は、The Proclaimersの"I'm Gonna Be (500 Miles)"、ほぼこれのみ。
グラスゴー、エジンバラあたりのへなちょこ(樽いっぱいあるよ)でもよかったのになー。


吉村秀樹さんのことは、なんてこった、と言葉を失うしかない。
あんなに硬く強く清々しく、縁を際立たせて鳴るギターの音はなかった。
ご冥福をお祈りします。 ああ。

5.26.2013

[film] Beasts of the Southern Wild (2012)

19日の昼間に銀座で見ました。これも終わっちゃいそうだったし。
まぁたこの邦題は.. と思ったのだが、ほんとに主人公の少女の名前は「ハッシュパピー」で彼女は「バスタブ島」に住んでいるのだった。
でもさあ、こんな邦題でみんな寄ってくるとおもう?
「ゴミの島のハッシュパピー」とか「アフロ少女 vs 南極怪獣」とかにしたほうがまだ..

昨年のSandanceのGrand Jury受賞をはじめ、オスカー4部門にノミネートされたりして、向こうの独立系の映画館ではずーっとロングランしていた。 どんなもんかしら、と。

南のデルタ地帯のほう、バスタブ島のゴミ山のなかで家畜だかペットだかに囲まれて父親と暮らすハッシュパピーがいて、その島にはフリー&イージー&ハッピーなコミューンがあって、対岸には工場が広がっていて世界の涯がある。

ハッシュパピーの父親は心臓に病を抱えていて、死んじゃうなんて許さないんだから、と彼女が毛を逆立てて怒ると、向こうからハリケーンがやってきて全部押し流してしまったり、南極の氷が溶けてでっかいオーロックス(aurochs。角のはえた猪かと思ったら、あれ牛なの?)の群れがやってきたり、大変なことがいっぱい起こるの。

困難な時代にたくましく生きる少女が災厄や父の死を乗り越えて世界を救う、ていうファンタジーで、日本人なら誰もが思うことでしょうが、ジブリの世界だねえ、と。
ハッシュパピーがひとりでオーロックスの群れに対峙するとこなんてナウシカ(たぶん。ちゃんと見てないけど)だし。

都会の民に受けたのはなんとなくわかる。 ヒトや世界を救う、ということをエコ(再利用)と環境(温暖化)、家族とコミュニティの今のありよう、ひとりの少女のがんばるさまを通してわかりやすく示す。
自分たちの生活環境とはちょっとかけ離れているものの、少し南部のほうならあってもおかしくないような、わかるわかる、な、そういう設定と展開とロジックと。

カメラが結構雑にがさがさと動くのでなんとかしてよ、と少しおもった。
でも、オーロックスがどかどかやってくるとことか、爆破シーンとかは昔の日本のTVの特撮みたいなかんじで妙に懐かしくしょぼくて、よかった。

5.25.2013

[film] 噂の女 (1954)

18日、『君と歩く世界』のあと、シネマヴェーラの『溝口健二ふたたび』で見ました。
開始1分で、あ、これみたことある、と気づいたけど構うもんか。

古くからある芸者の置屋の女将が田中絹代で、娘の久我美子が男絡みで自殺を図って失敗して実家に戻ってくる。
娘は実家が置屋であることを恥じている(要は売春の元締めだし)のだが、母は自分ちの看板に誇りを持っていて聞く耳をもたず、愛人で医者の若い男(大谷友右衛門)を開業させて一緒になることを夢見ていて、でも娘の具合を彼に見させているうちに、医者はだんだん娘のほうに傾いていって、やがて修羅場が。

母は娘に幸せになって貰いたいけど、そうするには置屋を廃業するしかない。
娘は太夫達みんなに幸せになって貰いたいけど、置屋を廃業したらそれは適わない。
更に置屋の太夫の皆さんは皆家庭の事情で働かざるを得なくて、病気になっても医者にすら行けない。
などなど、それぞれにややこしい利害とか事情の対立があってはぁ、てなったところで母と娘が恋敵であることがわかって、さらに面倒な波がやってくる。

単なる世代間のギャップ、とか時代の変わり目、とかそういうことでいいのか。
モダンな洋装、ショートカットの久我美子と和装の母親と太夫さん達、その周りの男共、古い置屋の作りと洋風のインテリアとか、それなりに調和しているように見えるのに。 なにがいけないのかしら?

田中絹代の首がゆらゆら揺れるところが好きなのだが、この作品ではいつもより多めにゆらゆらしててなかなか素敵なの。

あとは親子二股かける医者のやろうが憎らしくてさあ。
「みんなが都合よくなるんだし何がわるいんですか?」と自信たっぷりに居直るその様に名前を書くのすらおぞましい某市長を思いだしてむかついて、太夫さんが最後にしみじみいう嘆きをそいつの横っ面に叩きつけてやりたくなるのだが、映画に失礼なのでやめる。

というわけで、テーマ的にはぜんぜん古くなくてほんとにいろんなことを考えさせる。
今日も祇園モノ2本(36年と53年)見たけど、何回見てもすごいんだよ。

[film] De Rouille et D'os (2012)

18日、土曜日の昼間に渋谷でみました。終わっちゃうそうだったし。
『君と歩く世界』。英語題は"Rust and Bone"

無一文で宿無しらしいAlain (Matthias Schoenaerts)は息子を連れて南仏の姉のところに転がりこんで、警備員の仕事とかを始めて、クラブのいざこざからStéphanie (Marion Cotillard)と出会う。
Stéphanieはマリンランドでシャチのショーをやっていて、ある日シャチが乗りあげてきてセットが壊れ、彼女は膝から下を失ってしまう。

目覚めた病室で両足がないことを知った彼女はどん底に落ち、自棄になってAlainに連絡をしてくる。
彼は無造作にStéphanieを部屋の外に、海に連れ出して、彼女はそんなつもりはなかったのに泳いでみたらなにかが開けたかんじになって、それ以来ふたりは仲良くなっていく。

監督は『預言者』(2009) のJacques Audiardで、Alainはボクシングをやっていたという設定のぶりぶりの筋肉野郎なので、またきつくて辛い男の獣道系のお話かと思って、実際に格闘技の殴り合いとか痛そうなところはいっぱいあるものの、そういうのではなかった。 脚を失ったStéphanieが脚(骨)を獲得してしっかりと立つ、そういうお話かも。

義足をつくったStéphanieが「機能するか確認するために」Alainとセックスしたあと、ひとりベランダに立って、Katy Perryの"Firework" - シャチのショーでいつも流していた曲 - に合わせてショーの振付けをして、そこから更にマリンランドの水槽のところに行くの。 暗い水槽をこんこん、て叩くと奥のほうからでっかいシャチがやってきて彼女に挨拶をしてふわりと包みこんで、彼女の腕の動きに従って動く。 彼女はほとんど後ろ姿だけなのだが、この流れはとっても好き。

あと、ストリートの賭け格闘技でお金を稼ぐようになったAlainがやられそうになったところで、普段は殴り合いを恐がって車のなかにいる彼女が、鬼の形相(ややMelissa Leo入り)で車から出て、Alainのほうに歩いてくるとこ。 (結果はいうまでもなく)

というわけで、これはほとんどすっぴんで通すMarion Cotillardの映画で、すばらしいったらないの。
ああ、James Grayの"The Immigrant"を早くみたいー。

『君と歩く世界』ていうほどふたりはべったりしていない。Alainは後半にいくにつれ格闘技の世界にどんどんはまって鍛えているばかりで、Stéphanieは彼に会いたくなると携帯で"Opé?"(やれる?)ってメッセージ送るの。その程度の距離感もいいの。

なんか幸せに終わりそうな映画だねえよかったねえ、とおもったら最後の最後にほんとに痛そうなのがあって、つくづくいじわるだとおもった。 脚を失っても拳がつぶれても、なんとかなるってか?

音楽は最初と最後に流れるBon Iverが素敵。
あと、なんでかBruce Springsteenの"State Trooper"も流れる。 NJは関係ないよね。

5.24.2013

[film] IO e TE (2012)

しばらく邦画が続いたので洋画も~ 程度。 15日の晩に銀座でみました。『孤独な天使たち』。
英語題は"Me and You"で「ぼくときみ」。せいぜい「ぼくとオリヴィア」くらいなんだけど...

Bernardo Bertolucciの新作。10年のMOMAのレトロスペクティブに車椅子で登場した彼が、そのとき撮っていると言っていた新作はこれだったのね。(ちなみにそのときにかかったのは『暗殺のオペラ』だった)

冒頭、明らかにお金持ちのアパートからOvalの螺旋階段をぐるりと降りてくる主人公(ロレンツォ)のヘッドホンで鳴るのが、The Cureの"Boys Don't Cry"で、エンディングでは、Bowieの"Space Oddity"のイタリア語版と英語版が高らかに鳴り響く。 この2曲に挟まれた少年の映画が悪いわけがあろうか。

ロレンツォ(14歳)はちょっと過保護に育てられたマザコンぽい子で、友達もいなくて、でも神経質で引込み思案の彼がスキー合宿の申し込みをしたというのでママは喜ぶ。
でも実際にはスキーの支度していってきますーと言って、バスには乗らずにその代金をちょろまかし、7日分の食糧調達して、ペットショップで蟻が入った水槽を買って、合鍵をこさえて、誰も入ってこない自分のアパートの地下室に閉じこもるの。  そこに寝床をこさえていくらでも音楽聴いたり本読んだり自堕落したりし放題。 誰もがやるようなひとり基地ごっこを。

そうやってひとり楽しく楽しみはじめたころに、闖入者が現れる。 ヤク中の義姉(母親がちがう)のオリヴィア(23歳)で、蓄えておいた食べものも飲みものも遠慮なく取っちゃうし、ゲロ吐いたりうなされたりうるさいし、蟻の水槽も割っちゃうし男呼びこむし、怒るとみんなに言いふらすから、と脅したり、厄介で面倒で散々なの。

でも一触即発の殺し合いにはならなくて、お互い溜息をつきながら少しづつ寄っていって、そうして7日間が過ぎて、ふたりはちょっとだけ大人のお別れとやさしいハグを。

ロレンツォ役の子がよくて、髭が生え始めて吹き出物だらけで青い目で、RHCPのFleaの若い頃みたいな小汚く生臭いかんじで、キャラクターの生きているかんじでいうと『分身』並みだったかも。
オリヴィアもいかにもいそうな、そこにいるだけでいらいらやかましいオーラを放つ猫で。

彼と病院にいるおばあちゃんとのエピソードもよいの。

"Space Oddity"のところはそりゃ出来すぎ、とわかっているのにやられてしまう。 初期のBowieというのはそういうものだから。
最初と最後の曲(この2曲は大人が選んだかんじ)以外に、ロレンツォが聴いているのは、MuseにRHCPにArcade Fire。 地下に籠るような暗い目のガキがこんなのを聴くか? というのはちょっとひっかかるけど。

ちなみに、原作本の冒頭にはF. Scott Fitzgeraldの"The Crack-up" -『崩壊』とAimee Mannの"Save me"の一節が引用されている。

原作の終りはちょっと辛いのだが、映画の終り、朝の光のなか、路地のあっちとこっちでふたりが離れていくところの美しさは間違いなく映画だけのもので、あとにふたりの誓いがぽつんと残る、その余韻もよくてさー。

5.23.2013

[film] 山の音 (1954)

12日の日曜日、また神保町の川端康成特集でみました。
どうせなら見れるだけみてやれ、とかてきとーに。

原作はうんと昔に読んだ、けどよくわかんなかった。歳とったので今読んだら少しはわかるようになったかしら。
この原作も『千羽鶴』とおなじく、各章が短編としていろんなところに発表されたものを束ねたもの。

鎌倉のほうで、二世帯同居している家があって、尾形信吾(山村聡)の夫婦と修一(上原謙)の長男夫婦の4人が暮らしていて、そこに長女(中北千枝子)が娘と赤ん坊を連れて出戻ってくる。

信吾と修一は同じ東京の会社に勤めていて、行きは一緒でも帰りは別が多い。 修一はどっかに女を作ってて家に帰るのは遅く、嫁の菊子(原節子)を幼稚だ愚鈍だとあまり相手にしないの。 自分の妻のいびきとか自身の老いにうんざりしてきている信吾は、健気にがんばる菊子を不憫に思って、だんだん彼女のほうに寄っていく。

老いと死を意識して、家族は勝手にそれぞれいろんな問題抱えてじたばたするし、いろんなことが自分の思うようにいかないので嫌になってきた老人が、そばにいた長男の嫁を自分と同じように不幸でかわいそうだと思いこんで、ぼうっと妄想し、その妄想にしがみつく。 「山の音」ていうのはそういうときにどっかから聞こえてくる音なの。 山の神が怒っているのか、なにもかも押し流してしまえ、なのか、自分の頭の奥でなにかが呻いているのか。 (映画のなかで明示的には鳴らないけど)

映画は原作ほどねっちりと老人の意識や生態を追っていくわけではなくて、ほんとに(一見)静かで穏やかなホームドラマの役割のなかにある家族のひとりひとりをとらえようとしていて、それゆえに、ちょっとした亀裂とか生々しいなにかが顔をのぞくその瞬間が実に鮮やかに残る。 
どこか遠くで光った稲妻の音が山肌に反響してなにかしら?と思う、そんな山の音。 
原節子の一瞬の顔の歪みとか鼻血とか。

家庭の抱える地獄って、なんなのかしら、と、そういうのを考えさせる。
ピークを過ぎてて会社からも社会からも離れつつある自分、会社と女中心で家には寝に帰るだけの長男、あの家以外に居場所も行く場所もない妻と嫁、家を出たけど戻って来ざるを得なかった娘と孫、それぞれの抱える苦難は、でも決して暴力とか災禍に曝されることはなくて、ある調和を保っている、あるいは保とうとして震えたりする。 
それってなんなのか、なんでなのかしら、と。 裕福なおうちだから、で果たして説明できるのか。

そういうもんもんを見る側の我々に抱えこませた後、ふたりが鎌倉を離れて電車で東京に向かい、公園を歩くラストがすばらしく開けて、よいの。「ヴィスタ」が。

映画の"Revolutionary Road" (2008) をもういっかい見てみたくなった。なんとなく。

5.21.2013

[film] 千羽鶴 (1953)

11日の土曜日、『乙女ごころ三人姉妹』に続けてみました。

昨年、シネマヴェーラの「昭和文豪愛欲大決戦 2」で、増村保造 - 若尾文子 - 平幹二朗 - 京マチ子 - 梓英子 バージョンの『千羽鶴』(1969) は見ていて、こっちも見ておきたかった。

こちらのバージョンは、吉村公三郎 - 木暮実千代 - 森雅之 - 杉村春子 - 乙羽信子 なの。
どっちも、なんともいえずおもしろいよう。

菊治の父の妾さんだった太田夫人が成長した菊治とお茶会で出会ってぽーっとなってずりずりと寄っていって、父と息子の両方を味わってから熱くなりすぎて死んじゃって、それとおなじように菊治も太田夫人とその娘の文子の両方を味わって、それって志野焼をしっとり代々愛でるようなもんなのかしら、ていうのと、ひとは陶器じゃねえんだよばかやろー(がしゃーん)、ていうのと両方あって、男にはとっても都合よくできた、なかなか不気味で滋味深い幻想小説なの(... ちがうか)。

このバージョンは増村版よか相当あっさりしていて、菊治が文子と寝るところはないし、志野焼を割っちゃうのは嫉妬に狂った杉村春子で、それはそれでぜんぜん無理なくて、ラストの浜辺の菊治と文子のお別れのシーンも静かで爽やかで悪くないのだが、それでいいのか、というのも少しだけなくはない。
ひとの情念が宿ったかのように艶めかしい陶器と、それに引き摺られるように捏ねられて焼かれていくひとの業と、という底なしの泥沼のかんじ(女はすっこんでろ)があまりなくて、割れちゃったしぜんぶリセットしませうさようなら、みたいなノリってどうなのか、と。

しかし、69年版の若尾文子のふんふん欲情した佇まいと比べても、今回の木暮実千代は負けていなくて(全体からは浮いてるけど)、さすが雪夫人(絵図)、てかんじ。
あと、彼女の指がすごくふっくらと柔らかそうで、なんというか。

Pedro Almodóvarにリメイクしてほしい。 太田夫人はPenélopeで。

[film] 乙女ごころ三人姉妹 (1935)

11日の土曜日、神保町シアターの特集『文豪と映画 川端康成 「恋ごころ」の情景』でみました。

成瀬のトーキー第一作。29歳のときの作品。 
ここの前の特集で、サイレント時代最後の『限りなき舗道』(1934) を見たので、これも見ないと、だったの。

冒頭の浅草の町の描写で映画館の幟にちらっと『御誂次郎吉格子』の文字が一瞬見える。
この雑踏のなかに映っている人のなかにはこの映画を見た人たちもいるのだろうか(自分も見たんだよ、先週!)、いるのだったらどんなふうに思ったのだろうか、楽しかっただろうか、泣いちゃったのかしら、元気をもらったのかしら、とか、そういうことを思う。

原作は『浅草の姉妹』で、文芸文庫のピンクの「浅草紅団」に入っているやつかと思っていたら、入っていなかった。(絶版なのね)

浅草に三姉妹がいて、母親は門付け(料亭とかに行って三味線で歌をうたう流しみたいな水商売)の元締めをしてて、次女のお染(堤真佐子)は他の娘さんたちと一緒に門付けに出ていて、長女のおれん(細川ちか子)は劇場のピアニストだった男とくっついて家を出ていて、三女の千枝子(梅園龍子)はレビューダンサーで、お金持ちのぼんとつきあい始めたところで幸せそう。

次女だけ鼻緒が切れちゃったり、嫌なおやじ客に嫌なことされてうんざりしたり、同様にくさっている仲間の娘のケアをしたり、妹にも姉にも幸せになってもらいたいので、ひとりでぜんぶひっかぶって母親とも対決してぶちきれて、人生楽じゃなくて、ほんとうにかわいそうなの。

そのうち、どうもやつれ果てているらしい、と噂に聞いていた姉のおれんに会うと病気で郷里に帰ることにした旦那のために金策で走りまわっていて、お金のために昔つるんでいた不良仲間とも連絡を取りはじめたといい、やがて金づるを求める不良の手が千枝子の彼に及ぶのを見て…

雑踏の音処理のなか、どこかから聞こえてくる肉親の、姉妹それぞれの声、昔の楽しかった頃の笑い声、そういうのが耳元に響いてくるような親密な音の肌触り。 その鳴りを「乙女ごころ」と呼んで、『限りなき舗道』がサイレントであってもひとりで歩いていく杉子の声が聞こえてきたように、このトーキは三姉妹の声が貫いて刺さってくるの。

5.19.2013

[film] おぼろ駕籠 (1951)

10日、金曜日の晩、神保町でみました。 伊藤大輔の時代劇シリーズの最後。

最初に、幕府の偉いひとのとこで許嫁を大奥に持っていかないでください、と直談判する侍がいて、でも門外につまみ出されて彼は絶望して自害してしまうの。 それを通りがかりで見ていた和尚がいて、こんどはその後で大奥女中のお勝が殺されて彼女の幼馴染の若い侍が疑われ、彼の逃げこんだ先が和尚(阪東妻三郎)と旗本(月形龍之介)のいるとこで、そこにいつも酔っ払っていて自称男嫌いの芸者お仲(田中絹代)が加わり、なんか怪しいぞ、て捜査を進めていくと、お勝と派閥争いをしていた三沢(山田五十鈴)が浮かびあがって鉄面の彼女を追い詰めていくの。

夫婦で無理心中をして自分だけ生き残ってしまった過去をもつ和尚と、派閥争いのばちかぶりで中央から干されている旗本の、斜に構えたクールなふたりの間に、いつもべろんべろんになってどたばた割り入ってくるお仲がおもしろいの。

あと、事件が解決したあと、若いふたりがめでたしめでたしでべたべたするのを横目で眺めたあと、世を儚んでゆらーっとどっかに消えようとする和尚のあとをひょこひょこ追っかけていくお仲もよいかんじなの。

山田五十鈴と田中絹代の対決は期待していたほど飛沫は飛ばなくて、山田五十鈴は最後に凍った顔面で刃物をぎらっと光らせるところがほんとにこわい。 ああいうひと、いたんだろうな。

でもうまい俳優さんが並んでわーわーやっている(ように見える)だけで十分見せてしまうのはすごいわ、て感心した。

5.18.2013

[film] 素浪人罷通る (1947)

5/4に神保町で時代劇3本(トーキー1、サイレント2)続けてみました。
こういう機会でもないとちゃんと見れないしー。 以下見た順で。

素浪人罷通る (1947)

吉宗公の御落胤だという天一坊がパパに会うんだ、と江戸にのぼっていくと行列の規模がでかっいお祭りになっていって、そんなことしても殺されちゃうだけじゃ、と寺子屋の素浪人(阪妻)は止めるのだが、若君は金も名誉もいらないただひと目父の顔を見たいだけなのになんでいけないの? てつぶらな瞳で言うのでそれにやられちゃった坂妻は、じゃあ一緒に江戸まで付いていく、と妻と今生の別れをして、現地入りしてから大岡越前とかとも根回ししてうまくいくかと思ったら最後の最後に意地悪い官僚みたいな奴にならぬならぬ、召し捕りひったていー、て大捜査線が張られて、それでは、とPlan Bで将軍が鷹狩りにいく隙のランデヴーを仕掛ける。

戦時下で映画のなかの斬りあい立回り禁止令が出ているなか、よくもここまで熱くたぎるお話が作れたものだねえ、とおもった。
基本、目力と目くばせですべての物語が進んでいって、最後の馬上の父と息子の目がたりと、その万事OKを伝える大岡越前と浪人(お縄直前)の目くばせでわれわれは勝利を確信する。 この先どんな苦難が待っていようと、それは勝利なの。


御誂次郎吉格子 (1931)

プリントの最初にでるタイトルは『鼠小僧速花あらし』。 伊藤大輔33歳のときの作品。
追っ手を逃れて大阪に流れてきた鼠小僧次郎吉の逃げて隠れて逃げて、でも… のおはなし。
最初のところの船の中と外の大捕り物のスピードがすごい。猿の顔がちょこちょこ挟まっていてパニック感がはんぱない。

次郎吉をずっとじっと想って慕っているおせん(伏見直江)の艶っぽさにやられて、でもいろんな強欲とか企みの網に巻かれて、やがて追ってくる御用提灯の波とそれを見ている月と。 シャープで冷たくて、さくさくした画面運び故に物語の非情と悲しさが際立つの。


忠治旅日記 (1927)

伊藤大輔29歳のときの作品。 これが29歳の作品だよ。

前の次郎吉もそうだったが、定住できない凶状持ちとの適わぬ恋、どこに行っても厄介ごとは必ずついてきて、そこに追い討ちをかけるように大量の捕り手が迫ってきて、逃げ場はなくて、それでも主人公は愛と名誉に生きようとする、というあたりが基本のパターンとしてあって、このへんが「時代劇の古典」たる由縁なのかしら。

とにかく主演の大河内傳次郎の演技がすごいったら。 芝居がかった、とか小ざかしいコメントをぜんぶなぎ倒してひたすら圧倒的。芝居をやってるひとのほんとにすごい芝居はこんななんだから。 彼の声と唄が響いてくるんだから。 ここまで顔をゆがめてはじめて忠治のでっかさとそれ故の悲愴が活きるんだから。

ばかでかい桶の間で遊ぶ子供たちとか、忠治を想う娘とのやりとりでしんみりして、追っ手に包囲されたラスト、子分達の懸命の防御とじたばた、体の自由が利かない無念の忠治の顔、見るとこがあまりにてんこもりなので、フィルム全体が残っていなくてもぜんぜん気にならない。

1曲1曲の粒が揃ったアルバムみたいなかんじ。完全盤がでる前の"Smile"、それでも十分すばらしいんだから、ていう。

5.13.2013

[film] Iron Man 3 (2013)

6日の連休最終日、"Shirley"のあとに六本木でみました。 「アメリカ」いろいろ。

んー、しゃりしゃり軽くておもしろかった。 たぶん。
前作よりはちょっとだけウェットで、だからおとなもこどももみんな楽しめるよ。

これを見るにあたっての最大の障壁は、今作でフロントに出てきているらしいグウィネス・パルトロー問題をどうするのか、ということだった。
Coldplayがだいっきらいな自分はとうぜんこの女も同様にだいっきらいで、どうしよう、とおろおろしていたら同じ悩みを抱えているひとは他にもいっぱいいたようだった。

http://www.vulture.com/2013/04/how-to-not-hate-gwyneth-paltrow-in-iron-man-3.html

でも、これ読んでもあまりすっきりしなかった。 であれば腹をくくって見るしかない。

"2"でサバスのTシャツを着て、AC/DCに乗ってがんがん暴れ放題だったトニー・スタークは、父親(コンプレックス)問題が片付いて、かつ"Avengers"で地球を救うヒーローとして認知されたことを受けて、いよいよほんもんのヒーローとして一本立ちすることになる。 最初に自宅基地をぼこぼこにされて全てを失った後で、彼女の愛もしっかり受けとめ、そこらのガキともうまくやれるようになり、軍とも協力しあい、自身の野望の先にあったIron Manを自己同一化する、それを気づかせてくれたのが過去に自分の傲慢さ故にシカトしてしまった科学者の恨みだった、と。

うんうん、よい話じゃのう。

鎧と武器を全身に装着し、身体の延長としてそれらを使って戦うIron Manと、脳内の未開領域を活性化することでターミネーターとして再組織化された人体の戦い、という構図も象徴的で、武器はいくらあっても壊れて使えなったり動かなくなったりするけど、再生可能な人体があればそんなのいらないし、という敵との戦いで自身の無力さを思い知らされ、ポッツまで奪われて落ち込んだトニー・スタークを復活に導いたのはガキの「整備工なんだからさ」の一言だった。
この気づき(自分を整備できるのは自分だ) がラストの"I am Iron Man"という覚醒をもたらす(これは"1"でもラストに言っていたけど) ので、Iron Manのお話はこれをもって終わるわけないのだった。

しかしこれ、結構な危機のはずなのに、他のAvengerはぜんぜん出てこないのな。(最後にでてきたあれを除けば)
軍の人体実験 → 大統領の危機ときたら、こんなのCaptain Americaの管轄どまんなかだと思うのに、出てこない。  きっとまた、どっかの部屋の隅でいじけていたにちがいない。

いちばん楽しかったのは70年代B級活劇風のエンドロールのとこだったかも。

あと、Ben Kingsleyが演じる悪役のマンダリンて、名前が出るたびにあのバンドにいた女の子のことを…(ありゃマンダ・リンか)

[film] Shirley: Visions of Reality (2013)

"Leviathan"の後に続けてイメージフォーラム・フェスティバルで見ました。
最初の30分に(フェスティバルの)授賞式というのがあって、これってこういうイベントだったのね、とはじめてしった。

30年代から60年代まで、Edward Hopperの13枚の絵を実写で再現し、絵に登場する女性をShirleyと置いて、彼女の独白を絡ませる。
絵画と現実世界の対照のなかに、米国の30年代~60年代までの時事ニュースとEdward Hopperの世界を切りとる視線とShirleyの個人史を散らしてみるとどうなるか、という試み。

通常のドキュメンタリーだと、現実世界→絵画のアプローチ(画家はどうやって現実を絵画にしていったのか)を取って、このやり方はわかりやすいのだが、これは逆で、Edward Hopperの絵からひとりの女性(Shirley)の個人史をフィクションとして切り出そうとする。 でもこんなのNHKとかテレビ東京の割としょうもない美術番組がいつもやっているやつだし、あんま見る気もしなかったのだが、Edward Hopperというとこに少しだけ惹かれたの。
あの空っぽなEdward Hopperの絵からなにをどうやって引っ張りだそうというのか。

実写で再構成されたHopperの絵画(13枚)は以下(製作年代順。映画に出てきた順番はやや違っていたかも)。

Hotel Room (1931), Room in New York (1932), Night Windows (1938), New York Movie (1939), Office at Night (1940), Hotel Lobby (1943), Morning Sun (1952), Sunlight on Brownstones (1956), Western Motel (1957), Excursion into Philosophy (1959), A Woman in the Sun (1961), Intermission (1963), Chair Car (1965)

このうち、New York Movie (1939)のパートでは、(映画のなかの)シアターのスクリーンに William Wylerの"Dead End" (1937)が、Intermission (1963)のパートでは、Henri Colpiの"Une aussi longue absence" (1961) - 『かくも長き不在』 - が映っている。

Shirleyは女優で、シノプシスには"an attractive, charismatic, committed, emancipated woman"とある。彼女にはStephenていうフォトジャーナリストの彼がいて、ふたりは同棲している。 彼らが経由し、経験する大恐慌 ~ 第二次大戦 ~ 赤狩り ~ 公民権運動の時代の「アメリカ」を通して、Shirleyは再びなにかに目覚めて背中を押され、Living Theatreに参加すべく新たな旅立ちを決意する、と。

実写へのTransform - 再構成そのものはそれなりにちゃんとしていて、実写化によって当然リアリティも増し、そうすることでShirleyの声と生とはその記憶と個人史の重みをもっていろんなことを語り始め、更に選ばれた絵画と時代の推移に従ってそれは立派な物語として機能するようになる。

んで、そもそものEdward Hopperの絵を実写化することの意味、をずっと考えているのだがあんまよくわからないの。
Hopperの絵を語る際によく言われる「都市生活の孤独」みたいのって、ほんとかよ、と昔から思っていて、Hopperの絵は、記憶(個人の記憶、環境の記憶)からも場所の重力からもフリーでぺたんこでからっぽで、なーんも考えない動物みたいに窓のほう、光のほうを向いて突っ立っている、草を食むようにタバコを吸っている、ように見える。 (この動物化のトーンを更に皮膚の裏まで掘っていくとベーコンになる、のかも)  それこそがHopperの絵画の魅力なのだと思っていた。 (Hopperの絵を暗いと思ったことはない)

というわけで、Edward Hopperから入るのって、わかりやすいし、やりやすいのかも、だけどそれでよいのかしら? と。
サブタイトルとして、"Visions of Reality"てつけてしまうのも。 
このテーマならWarholとかLichtensteinとかでやったほうがおもしろくなったのでは。
そもそもなんで映画である必要があったのかなあ、とか。


5.11.2013

[film] Leviathan (2012)

いくつか飛ばして書きやすいやつから。
5/6の月曜日、連休最後の日、イメージフォーラム・フェスティバルでみました。 今度は新宿のいつものあそこで。

ハーバードの感覚人類学研究所(なんだろ、英語だと、Sensory Ethnography Labだって)に所属するふたりが撮った作品で、NYのIFCでは結構長いこと上映していた。
北大西洋の沖合で漁をする船の周囲に極小カメラを取り付けて、そこに映りこんだいろんなのをランダムに編集したようなやつ。 ナレーションなし。 音楽なし。 船員の会話はなに言っているかほとんどわからず、船中の機械音が絶えずじゃりじゃりわんわん鳴ってて、海中のこぽこぽ音、カモメの声、そういうのばっかし。

映像は殆ど夜中か夜明け、カメラは船と海の境目にもいたりするのでずっと暗く、なにが映っているのかよくわかんないのもあるし、紀行モノのTVの漁師船のようなほのぼのしたところは全くない。 むしろ漁業船の底にうごめくインダストリアルな冷たさと厳しさがずっとある。たまに船員の姿も映るが魚とかカモメとかと同目線上に置かれている。

大自然の驚異系の映像もほとんどなくて、床いっぱいにぶちまけられた大量の深海魚が口からハラワタを吹き出しながらでろでろ、でろでろと船の揺れにまかせてこっちに寄ってくるとことか、エイからエイヒレを切り出すとこ(ほとんどスプラッター)とか、絶えず機械と肉と多量の水分がせめぎあい、その周りをハエのように鳥が飛びまわっていて、それをハエの目で見るかんじで、あんまし気持ちよく感動できるようなのはない。 おもしろくなくはない、けど。

自分たちがおいしーとか言って食べているお魚はこういうところから来るんだ、みろ! とかいうことよりも、魚肉食とその産業の背後にある営為のぐろぐろした(映像としての)暗さと混沌にふーん、となる。 でもこの映像が、例えば人類学の領域にブレークスルーをもたらすほどのものになりうるのかというと、どうなのかしらー。

『リヴァイアサン』は、海の怪物で、ホッブスの本ともスチームパンクSFともあんま関係ない(と思う。ホッブスのほうは少しはあるかも)。
なんとなく、出てきた映像を見て、なんかゴスっぽいじゃん、とか言って付けてしまったのではないか、とか。

5.10.2013

[film] ダークシステム (2009) + ダークシステム2 時の牢獄 (2012)

5月3日、4連休の最初の日の晩、オーディトリウム渋谷で見ました。上映最終日だというし。
中編ふたつで、池袋でやっていた『完全版』とおなじ、らしいが、なんでタイトルをバラしたのかはわかんない。

「ダークシステム」

登場人物は加賀見と西園寺の親友同士の男ふたりとユリ、のさんにん。
場所は海辺と公園と加賀見の部屋と西園寺の部屋、ほぼこれだけ。

加賀見はユリとつきあおうと思ったその矢先、親友の西園寺にユリを取られちゃって、ぷるぷるあったまきてふたりの仲を引き裂こうとする。 どんなカップルにも隙はある、それを見つけてユリをモノにするんだ! と最終兵器「西園寺クラッシャー」(こんなの憶えていてもしょうがないのになんで..)を開発してユリと同棲する西園寺の部屋に置いてくる。

「そういうことだぁ!」とか「これでまちがいなし!」みたいなガキの思い込みでどこまでも暴走する加賀見とその企みを全て見越してダークな世界からせせら笑う西園寺、どっちでもいいんだけど、の顔でぼーっと突っ立っているだけのユリ。 

最後のしゅんかんに西園寺クラッシャーが炸裂して、加賀見は勝つ。
だがいったい何に? (というのはもちろん聞いてはいけない)

「ダークシステム2 時の牢獄」

登場人物はひとり増えて、ほんのすこしだけ豪華になった(ように見える)。 加賀見の髪はどうでもいいパーマに変わっている。

ユリとの結婚を考える加賀見の前に、高校の頃からユリのストーカーをやってて、トム・クルーズの熱烈なファンである「ファントム」(トムのファンだからファントム)が現れる。 ファントムはタイムトラベルの実験中に「10年後に現れるから」と消えて、その言葉のとおり、10年後にユリの前に現れる。 制服姿のまま…

科学のレベルは上で、しかもお金持ちなのでユリに贈り物攻勢をかけるファントムのまえに加賀見と西園寺(死んでなかった)はかなうわけがなくて、ユリは例によってなにも考えていないので、まじで絶体絶命になるの。
ダーカー・ザン・ダークシステム、であると。

ものすごくスケールの小さい世界で炸裂する食うか食われるかの恋愛バトル、普通こういうお話はあとちょっとだけ汎用的な寓話みたいなところに落ちて、みんなでうんうんわかるかもおかしいや、て笑っておわるはずなのだが、こいつはちょっと違ってて、どこまで行ってもレベルの低い虫みたいな争いが延々続いていく。 わざとやっているのだとしたら偉いかも、という気もすこしだけしたのだが、どうもそうではないかんじがする。 なんの作為もなく果てしなくバカで哀れな中二レベルの脳みそとその業がべたべたと垂れ流されている。

ダークシステム、といったときに想起される魂の闇とか出口なしの彷徨いとか、そういうのは一切ない。
せいぜいゲロ吐いて「さいてーだ!」とか「おぼえてろ!」とかそういう状態が性懲りもなく繰り返されているだけで、その救いようのないループをいう、のかもしれないけど、救ってやりたいとは決しておもわないね。
 
あと、ここで描かれている世界は、前の日に見た"Stemple Pass"の世界とおなじかんじかも。
あの主人公(カジンスキー)が死ぬほど嫌悪して手作り爆弾を運んでいった"Technological Society"とここのダークシステムは間違いなくどこかで繋がっている。 とっても不謹慎だけど。 
でもリアル感でいうと、ダークシステムのが上だったかも。 なんたってほんもんの西園寺クラッシャーがシアターに置いてあったし。

カジンスキーが20年かけてあれこれやっていったように、この映画もそれぐらいの時間をかけてどんどんダークになっていってほしい。
でもバカのままじたばた、ていうのが理想で、そこまでいったらちょっとは感動する、かもしれない。
でもつくづく、箸にも棒にもひっかからない男子映画だねえ、これ。

Subway CinemaのAsian Film Festivalで上映すればいいのに。

5.08.2013

[film] Stemple Pass (2012)

5月2日の木曜日の晩、イメージフォーラムで見ました。
毎年この季節になるとそういえば、というかんじでイメージフォーラム・フェスティバルがあったのを思いだし、James Benningが見れるなら、と喜んで出かける。

辺鄙で半端なところにあるメイン会場のとっても座りにくい椅子で見るよりは、と渋谷の会場のほうにした。

変な作品だった。 いつものことながら。

70年代後半から90年代にかけて「ユナボマー」として知られたTed Kaczynskiが70年代初から住み続けた山小屋(作品のタイトルはそこに向かうモンタナの道路から)をカリフォルニアに再現し(映像上は屋根の一部がみえるだけ)、そいつを含む森とか山とかの光景を固定カメラで撮っただけ。 順番は春と秋と冬と夏、各季節30分くらいづつで、ぜんぶで4ショット、計123分。

各季節の冒頭には彼の書いた日記とかメモとか声明文がJames Benning自身の声で読みあげられる。 でもその朗読(10分くらい?)がおわると、あとは無音、森の間に響く鳥の声とか雨の音とかヘリの音、そういうのしかなくなって、画面はまーったく動かないので、うーむ、と。 
鳥の声とおなじくらいいびきがいっぱい聞こえた。

春に読みあげられる70年代の、まだ山小屋生活を始めたばかりの頃のジャーナルは、リスやヤマアラシを撃って食べて、自給自足をはじめたころのもので、まだヒトへの嫌悪はそんなにない。 雲が元気に動いていく映像は後半、うるさかった鳥の声がぱたりと止んで、雨がさーっと降ってくる。

秋は、70年代後半、爆弾を作って路に置いたり届けたり、じんわりとヒトを憎み始めた時期のメモが読みあげられる。 小屋の煙突から煙がもくもく出ていて、鳥の声がうるさい。

冬は、85年に数字で暗号化され、2011年に解読されたメモが朗読される。
画面は雪で白くて、後半は雪みたいなみぞれみたいのが降ってくる。

最後の夏は、夕陽でオレンジ色に染まる森から始まり、投獄後に書かれた犯行声明文、獄中インタビューが読みあげられ、画面全体が夕闇にゆっくり沈んでいって、おわる。

エンドロールで、爆弾の犠牲となった3名の名前と、カジンスキーの文章を許可なく引用していることがぼそっと出る。

ある年のある季節の切りとられた無音の30分 x 4、という長さ。言葉で埋めてもじゅうぶんにおつりがくる余白。 このひとはここで、20年以上ひたすらヒトを、技術社会を嫌い、呪いながらこの景色を見つめ、この音を聞き、自給自足をしながらたったひとりで爆弾を作り続けていたのだなあ、と。

他方で、ここに映しだされている映像 - 森も山小屋もすべてはフェイクで、声も本人ではないし、読みあげられる文章も無許可なので本物かどうかはわからない、それでも漂ってくる禍々しさ、これって一体なんなのか、と。

映画のなかで読み上げられたテキストの日本語訳はここに。

http://www.imageforum.co.jp/sptext.pdf

でも、字幕とはちょっとだけ違うの。
字幕で「ワピチ」ってあって、なんだろと思ってあとで調べたらアメリカアカシカとかエルクとかだった。 このテキストでは「大鹿」てある。

ほんとどうでもいいことですね。

5.07.2013

[film] Lincoln (2012)

29日の晩に六本木でみました。
最初の3連休は、『愛よ人類と共にあれ』で始まって『Lincoln』で終わるという、人類愛に溢れかえるものとなった。 それがどうした、だけどさ。

これの完成前バージョンが昨年10月のNYFF、Secret Screeningで上映された直後にTwitter上で拡がったざわめきと興奮の渦はすごかった。
そこから日本での上映までに半年以上だよ。 それまでに批評家向けの試写は口封じでやっておいて、監督からの特別メッセージとかどうでもいい映像を小出しにしていく配給会社の小汚い手口にはしみじみと吐き気がした。 ばっかじゃねえのか。

待った甲斐があった、とは書かない。 むしろなんでこんなこじんまりとした作品をさっさと公開できないのか、ほんと理解に苦しむ。

奴隷制の撤廃のために必要となる憲法修正第13条の可決を南北戦争終結前にやる、やりたい、とするLincolnとその側近周囲敵方の駆け引きをじりじりと追う。 それは1票2票を争うぎりぎりの折衝で、このタイミングを逃したら次はない。 大勢は今無理やり通す必要はない、と思っている。

今ここで変えておかないと未来はない、とあらゆる手段 - 汚い手も含めて - とにかく票を集めて寄せて、歴史にあるとおり、修正案は通る。
エンドロールに出てくる膨大な資料だの博物館だの研究機関だのの数を見ても、ほぼ史実の通りと見てよいのだろう。
それがどうして通ったのか、Lincolnは通すことができたのか、明確な説明はない。 
Lincolnは修正を実現し奴隷制を撤廃した偉人、として認知されていて、映画のなかでもそのひょろっとして少し曲がった独特の後ろ姿、誰にでも声を掛けて話を聞くすてきなひと、としての魅力がしっかりと伝わってくる。

でも法案は、Lincolnがカリスマ性のあるすばらしいひと、偉人だから通ったのではなく、法案の内容が人類・人権にとって真に重要だったから通ったのでもなく、全ては事後、(今にして思えば)重要な修正を通したから、だからLincolnは偉人となった、という位置順番のはずだ。 それがなんでどうして、あれだけの抵抗勢力があったのに通ったのか、通せたのか。 これは映画とは別のはなしかもしれないが、なんだか気になってしょうがないの。

Lincolnが何度も執拗に連呼する"Now - Now - Now !"が示すとおり、これははっきりと今現在への呼びかけ、呼び覚ましを含んだものだとおもった。
今はどうなっているのか、今決めなければいけない、やらなければいけないことがあるとしたらそれはなんなのか、足元を見ろ、という強いメッセージがあるのだとおもった。
(この映画がオバマの時代に出てきた意味、というのも。 たぶん)
だからこそ、映画のなかのアメリカであの時なにが起こったのか、どうして通ったのか、は知っておきたい。
Lincolnて偉かったんだねえ、で終わってしまう映画にしておくのはとってももったいない。

だって、それがないと、今から100年後、911直後の混乱期に(例外状態として)アフガン~イラク攻撃に踏みきったブッシュ政権を正当化しうる目線の映画ができてしまってもおかしくないから。
それって断固あってはならないだろ、と思うわけ。 (Lincolnの時代のひともLincolnに対して同じことを思っていたのかもしれない、けどね)
映画にそこまで求めるのはちがうのかもしれないが、でもそこに横たわるであろう気持ちのわるいはらわたをずるずる引っぱり出せるのは考証論文でも批評でもなく、こういう映画だとおもうので。

映画は議会の表裏のやりとりの会話にひたすらフォーカスし、それを白と黒の濃淡のなかに浮びあがらせるような、地味といえば地味なつくりで、更にLincoln本人は会話のざわめきの背後にいて、いろんな脇の人たちが前線でわーわー言いあう。 なのでLincoln本人以外にもTommy Lee JonesとかJackie Earle HaleyとかJared Harrisとか、しぶいひとたちがいっぱい出てくる群像劇としても飽きないの。  とにかくおもしろいったら。


(そして、今の日本は最悪だった頃のブッシュ政権よか遥かにひどい)

[film] 警察官 (1933)

『限りなき鋪道』に続けて見ました。 昨年のこの企画からのアンコール上映、だそうな。

冒頭、都会に向かう車を検問していて、その中の怪しげな挙動の一人に寄ろうとしたところでその男と警察官伊丹(小杉勇)が学生時代の親友であることがわかって、この時点でその先の展開はだいたい見えてしまう。 その後、銀行強盗犯を追う同僚が殉死してしまったこともあり、伊丹は犯人の証跡 - 指紋採取にやっきになって、特に線上に親友の哲夫が浮かんでからの伊丹の捜査は熱を帯び、軒下に何日もぶっ通しで張り込んだりして大変そう。 職務に精魂を傾ける警察官たいへんだねえ、えらいねえ、というお話、或いはかつては親友だったふたり - 実直さを絵に描いたような伊丹と狡猾さを絵に描いたような哲夫、各々の風貌の違いも対照的 - の相克という話だけだと、ノワール的な暗さと緊張はあるものの、それだけではねえ、だったのだが。

午前1時きっかり、警察が犯人一味のアジトに乗り込んでいくラストの大捕物のとてつもなさにぶっとぶ。
画面全体に広がる夜の闇、そこを切り裂いて奥に延びていくサーチライトの光、悪夢のなかのような屋根づたいの逃亡と追跡のありえないスピードとそれ故にすべてが止まって見えてしまう底が抜けた浮遊感と恐ろしさと。
ギャング団に一丸となって立ち向かう警察組織の活劇をダイナミックに撮ろうとしたのだろうが、実際にはそれ以上の、なんだこりゃ、みたいなイメージの暴走を生んでいる。
ワイマール期の実験映画からの抜粋、と言われてもわからないくらいに変てこで、しかしかっこいいったらないの。

そうか、アンコールとはこれだったのか、と思った。
ラストのあそこだけ、全く別の音楽つけたらおもしろくなるねえ。

5.04.2013

[film] 限りなき鋪道 (1934)

29日、最初の3連休最後の日、神保町で見ました。 成瀬巳喜男の最後のサイレント作品、だそうな。

銀座のモダンな喫茶室で働く女給の杉子(忍節子)はにこにことっても器量よしで、つきあっていた彼から実家でお金持ちの嫁を貰えって言われたとか、映画会社から女優になりませんか、て言われたりとかいろいろあって、うーんて下向いて歩いていたら車にぶつけられて病院送りになるの。
車をぶつけたのは上流階級の大金持ちの御曹司山内(頭でっかい)で、彼には同じ階級の婚約者らしきお嬢さんもいたのだが、ふたりは恋に落ちて、愛さえあれば、と親族の反対を押し切って一緒になる。

でもやはり階級社会の壁は厚く、姑と義姉の仕打ちに耐えられなくなった杉子は距離を置きましょ、と家を出たら山内は車ごと崖から落ちて包帯ぐるぐるの瀕死状態に。
うんうん病院で唸っている山内の前で姑と義姉に傍にいてあげてちょうだい、と言われるのだが、杉子はあんたたちが維持したいのは家の体面でわたしじゃないんだわ、てぷーんて出ていっちゃうの。 そのさまを見た山内はショックと悲しみのあまり死んじゃうのだが、それを聞いても杉子は足を止めずにぐいぐい行っちゃうの。 従順な女給あがりだと思ってなめてんじぇねえよ、と。

杉子ちゃん、せめて立ち止まって「なむー」くらいやんなさいよ、とするか「かっこいいー!」て喝采を送るかで評価は分かれるのでしょうが、わたしはもちろん後者です。 鋪道は限りなく延びていくんだから振り返るこたあない。

という女性映画として見ることもできるし、当時の喫茶室文化を楽しむだけでもいいの。
ホットケーキ(≠パンケーキ)焼いてて、バターはころころでメープルシロップがない。
あとは壁のメニュー札にあった「トマトエード」と「アメリカンチー」をとっても飲みたくなる。

5.03.2013

[film] Anna Karenina (2012)

28日の夕方、日比谷で見ました。 もう終わってしまいそうだったし。

Joe Wright & Keira Knightley組によるクラシック文芸モノとしては『高慢と偏見』の次。 
だーかーらー Keira Knightleyはちがうとおもうんだけど、というそもそもの印象 - (高慢と)偏見があるのであんまし乗り切れない。 もちろん、小説と映画はべつもので、映画は映画として見るべきなのはわかっているのだが、原作を読んでいるときにぞわぞわ襲ってくる高揚感を映画に求めてもそういうのが来ないのは確かなの。 映画は衣装も景色もきれいきれい(淀川長冶ふう)で、ほわーんと見ていれば終わってしまって、それはそれでよいこととしたい、のだが、なんかぶつぶつ言いたくなるのはどうしたものか。

原作の冒頭にあった『幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸なものである』ていうラインと、アンナが自死するときの『これで誰からも、自分自身からものがれられる ~ 神さま、わたくしのすべてをおゆるし下さい!』は、ぜったいに外してほしくなかったのだが、全体の設定を舞台の上にひょい、と上げてしまったせい(脚本はTom Stoppard)で、地上約いちメートルくらいに浮きあがった、いつかどこかのお伽話になってしまった。
そういうふうに見せたっていいんだろうけどさ。ぶつぶつ。

そりゃ、問答無用のクラシックだし、いろんな取り方はできるんでしょうけど、自分にとってはあんま性格よくないアンナがおしゃべりと空回りを繰り返しながら破滅に向かって突っ走っていくエモ小説で、サントラはThe Smithsを延々流し続けたいくらいなのだが、そうではない、というひとだっている。 たぶんアンナをKeira Knightleyにした時点でこうなっちゃったんだろうなー。とか。

衣装とあのへんてこなダンスはよかったです。

[film] アツカマ氏とオヤカマ氏 (1955)

28日の昼間、シネマヴェーラの特集『復活!!久保菜穂子』で見ました。 
リハビリ第一弾がちょっとおもいかんじだったので、もう少しかるくて楽しいかんじのを、と探してこのへんを。

東京のスクーター会社の営業に工場から新しく着任してきたアツカマ氏(渥美謙太郎 - 小林佳樹)とそこの部長のオヤカマ氏(大宅鎌太郎 - 上原謙)の攻防を描く。

アツカマ氏はずけずけ厚かましくてずうずうしくて、でも営業の仕事はできて、オヤカマ氏はいつもがみがみやかましくて、週に3日は自宅でカレーを食べないと気がすまないの。
(ほかに、営業はぜんぜんだめでクビになるウラガナ氏 - 浦賀兼彦 ていうのもいる)

で、営業成績が振るわない東京支店のためにアツカマ氏が走り回って、ついでにオヤカマ氏の娘(久保菜穂子)まで手に入れて、業績もよくなってめでたしめでたしなのだが、ずうずうしくて声のでかい奴がそのまま勝っちゃうだけなのであんまおもしろくない。 けど、元は漫画だというし、サラリーマン・コメディなんてどうがんばってもこんなふうにしかならないのかなあ。 
軽くていいんだけどね。ぜんぜん。

小林佳樹は茫洋としていてそのまま歩いていると結構不気味なのだが、そのナリで堂々と厚かましいのでちょっと嫌なかんじがして、それなのにみんなにモテてしまうのが腑におちなかったり、チョビ髭生やした上原謙は二枚目だけじゃなくてこんなお茶目な役だってできるんだから、と変に張りきっているのがみえみえで、メインふたりのキャスティングはなんとなく微妙なのだが、支店長役の森繁の、鏡に向かって銀座のマンボ(なにあれ?)を歌って踊るその不気味さにすべてが吹きとんでしまう。

でも、会社って楽しいところじゃん、て思えてしまうところがねえ ...
(そう思いたくないらしい)

5.01.2013

[film] 愛よ人類と共にあれ (1931)

三連休初日の27日土曜日、神保町で見ました。
約2週間、咳がとまらなくてしんでて、その間ずっと映画見れなくてしにそうで、そのリハビリ第一弾として3時間超のサイレントはどうか、というのはあったのだが、だって見たいんだもん、としか言いようがなかった。 お茶とお菓子だって付いてくるしさ。

2時間くらい前にチケット買いに行ったら、99番で最後の一枚、と言われた。 えーなんで?連休なのにみんな。

最近の邦画でこのタイトルだったらどんだけ金積まれたって行かないが、この頃のお話ならぜったいおもしろいはず、という確信があった。
そしてじっさい、すばらしくおもしろかった。 一番前の補助席で首が痛くなったけど、3時間あっというま。

港に寄っていく洋行帰りの船の上から始まって、帰ってきたのは山口家の長男(岡田時彦)で、帰国直後のぐるーんと世界がまわる状態で山口家の紹介がされる。
家長の綱吉(上山草人)は仕事の鬼で港に迎えに行くことも歓迎のお食事にも行くことができない。(仕事の次は妾に行くし)
娘ふたりには自分の事業を手伝ってもらえそうな奴をあてがって(長女は既に結婚していて息子 - 高峰秀子だけど - がいる。 次女はこれから結婚させるところ)、長男は冷酷冷徹な学者さんで、事業を継ぐ意思はまったくなくて、次男の雄(鈴木傳明)は、幼い頃母と共に父親に捨てられた恨みから不良になって家に寄りつくことはなくて、でも彼にはダンスホール「アトランティック」のナンバーワン ダンサーの真弓(田中絹代)がしっかりついているの。

映画は事業に邁進するあまりに家族から孤立し、更には部下(娘の婿たち)からも疎まれていく綱吉と、同様にはぐれ犬として家族から敬遠されている雄を中心に、昭和のはじめの華麗なる一族と傲慢な父親の野望がゆっくりと崩れていくさまをドラマチックに描く。

後半、全財産をぶっこんで押せ押せで進めていた樺太の大型投資案件が部下の背信と山火事で焼け野原になってふっとんで、財産ぜんぶ差し押さえられ、肉親の誰からも助けてもらえなくなった綱吉が自殺しようとしたとき ...

誰もが羨むハイソで立派な御家族、大経営者であり鉄板のように固い父親、でもその裏側は虫食いの穴だらけで事業の崩壊と共に全ての綻びが一挙に顕在化して、というホームドラマの定型を当時のモダン東京の光景から樺太の森林、更にはアメリカの大地までスケールでっかく拡げてみせて、まったく看板倒れしない。
俳優さんは全員だれもがおっそろしくうまくて揺るがないし。 殴り合いとかのアクションも、山火事とかのスペクタクルもリアルではらはら、力強い。

野良猫の雄を支える真弓がかっこよくてねえ。服装を理由に妹の披露宴会場からつまみだされて荒れる雄に、「弱くてもいいの。正しいのならいいの」て諭したり、そうやって支えられた雄が自殺寸前まで追い詰められた綱吉にむかって吐きすてるようにいう「赤の他人であったとしても、困っているひとを放っておくことなんかできねえんだよう」とか。 あんたらはジョー・ストラマーか、なの。 サイレントなのに彼らの台詞は、彼らの声としてちゃんと聞こえてくる。

上山草人も鈴木傳明も顔の造型が濃くて深くて暗くて、彼らが追い詰められつつ狂っていくところはほんとにおっかないのだが、そこに田中絹代のまあるい顔が挟まると丁度よいかんじの絵になるの。 で、この三人が最後にはあんなことに。 

そうだよねえ、このころから日本には「正義」なんてなかったんだ (いまだってないんだ)。 としみじみした。

で、この田中絹代がそのまま成瀬の「おかあさん」になるんだね。

もうひとつ、驚異的だったのが柳下美恵さんのピアノでした。
3時間、ばりばりと力強いタッチは最後までまったく弛むことがなくて、映画のでっかさを見事に下支えしていた。