11.30.2013

[log] Melbourneそのた - November 2013

26日の夕方、恐怖国家になりさがってしまった自分の国に戻ってきました。やだやだ。
しかも戻ったら戻ったで仕事漬けでさいてーでやってらんねえ。
帰りの機内で見た映画は2本。

Red 2

もともとが漫画なので漫画ぽい、としか言いようがなくて、そこそこおもしろいけどなんだろ、Bruce WillisもJohn Malkovichも引退した凄腕の元スパイ達には見えなくて、かろうじてそんなふうに見えるのはHelen Mirrenくらいで、あれだけ弾を打ちまくってぜんぜん仕留めることができないイ・ビョンホンを現役最高の殺し屋とか言うのは冗談だろ、だし、横できゃーきゃー言っているだけのMary-Louise Parkerはいらないんじゃないか、とかいろいろ突っこみどころもいっぱいで、筋に集中できないまま終わってしまった。


毒戦 (Drag War)

もうじき公開されるジョニー・トーの新しいやつ、我慢できずに見てしまった。でも映画館でも見るからね。

ラリった状態で料理屋に車で突っこみ捕えられた男 - 麻薬工場の事故で家族を失い自棄になってて、このままでは死刑確実の男 - を利用して大規模な麻薬サプライチェーンへの潜入捜査を試みる麻薬捜査班の苦闘を描く。
最初のほうはじりじりはらはらの取引と駆引きの世界が続くばかりでこれのどこが、だったのに、"War"としか言いようのない銃撃戦になだれこむ終盤の展開がすばらしいー。 しかも今回は白昼の路上。 距離のとりかたがすごいねえ。
いつものように銃に撃たれたとき、続けさまに撃ちこまれたときの痛いかんじをこれでもか、と見せてくれる。

映画館で見たときにまた書きましょう。
メルボルンでのその他あれこれ。

23日の土曜日、ペンギンに行く前にQueen Victoria Marketていうでっかい市場に行った。
日用雑貨から生鮮食品、デリまでなんでもそろうでっかい市場で、食べものはどれもおいしそうで、我慢できなくなってホットドッグ(でっかい)食べて、生ガキ1ダース($12)食べて、果物屋でチェリー200g買ってたべて、ドーナツの屋台トラックが出ていたので2ヶ(いっこ$1.1)食べた。 ペンギンに備える必要があったんだよ。

魚屋はイワシもアジもマスもイカもタコもカニも、どいつもこいつもぴちぴちおいしそうだし、肉屋はすべてがぶっとくて赤身好きにはたまんないものだった。 これだけ自然産品が充実していたらそら壁作って守るよね。
オーガニックのコーナーもあったがまだ規模は小さくてこれから、のような。

24日の日曜日の午後、天気もよかったし前回のリベンジと前日のリベンジ - こっちを向いているウォンバットを見たい - にのぞむべくもういっかいメルボルン動物園に行った。
ウォンバットがだめだった件は書いたが、今回はコアラもカンガルーもエミューもだいたい見れた。けどでっかいペンギンとアシカは出ていなかった。 前日の小ペンギンは木の間でかくれんぼしていた。

おもしろかったのはミーアキャットで、いろんなポーズとって楽しませてくれて、やっぱし猫なんだこいつら、とおもった。













動物園を出てからこれも前回とおなじくGertrude St界隈に行った。
いまだに地図上のどのへんにあるのかわかっていないのだが、こんなかんじなの。

http://www.gertrudestreet.com.au/

レコード屋は新たに"The Searchers"ていう古本&古レコード屋を見っけて、なかなかすばらしかったのだが時間もあんまなかったので諦めた。

料理専門の古本/新本屋では1時間くらい遊んでいて、買ったのはそんなに古くない古本 -
Sarah Freeman "Mutton & Oysters - The Victorians and their food" ていうの。
イラストもいっぱいあっておもしろそう … だけどほんとにいっぱい、どこまでも積みあがっていくねえ今年は。

あと通り沿いのArcadiaていうカフェで食べたラザニアはなかなかびっくりのおいしさだった。

さっきNeutral Milk Hotelを見て帰ってきていつ死んでもいいくらい幸せなので、もう今年があと1ヶ月しかなくてもいいんだ。

11.29.2013

[film] The Hunger Games: Catching Fire (2013)

24日の日曜日の夕方、メルボルンの街中をうろうろしたあと、ホテルの下で見ました。
ほかにはThorとかも見たかったのだが、まずはこっちよね。

前作の監督:Gary Ross、撮影:Tom Stern、音楽監督:T-Bone Burnettといった重厚で地に足のついた製作陣と比べると、次々とリリースされたトレイラーを見ただけで安くなっちゃったかも、という気がして、それは確かにそんなふう、特に最初のほうはなんか退屈で、どうすんだこれ、のかんじが漂うのだが、後半に向かうにつれて変なふうに変貌していく。

前回のHunger Gameで勝利したKatniss (Jennifer Lawrence)とPeeta (Josh Hutcherson)を"Hope"の象徴として革命の神輿にあげようとする反乱勢力とこれを逆手にとって"Fear"の象徴に置き叩き潰そうとする権力側の戦い、という軸と、とりあえず家族の生活は保証されたし、元の恋人Gale (Liam Hemsworth)と表の恋人Peetaとの関係も問題ないし、でも権力者への憎悪はたぎりまくるKatnissのぎりぎりした日々と。

全体にぐしゃぐしゃの、べたべたのエモが漲っていて、出てくる人達はどこかしら狂っていて、それが伝染してみんな異様なテンションで走り回っているかんじ。
けっか、衣装も表情も動作もとってもB級ぽいのだが、それ故の妙な切なさと熱が襲ってきてだれもかれもをハグしてキスしたくなる、そんな映画なの。
のれるひとはのれるけど、だめなひとにはぜんぜんだめなのではないか。 わたしはたまんなくなって3本指ポーズをしたくなった。

とにかく誰彼キスしまくって、むくれて狂ってイノシシのように突っ走るJennifer Lawrenceがすごい。  Léa Seydouxの不機嫌にアメリカの荒涼と無軌道を足したようなものすごい形相でつねにぷんぷんしてて、サバイバルとはいえこんな娘に振り回されるPeetaとGelaがかわいそうになる。 Peetaなんて、結婚したらぜったい尻にしかれるに決まっているのに、それでもそんな女といたいの? なにかを握られてるの?

それでも、そんなふうに彼女が堂々傍若無人に画面上にのさばっているが故に、彼女のふくれっつらとキスがものすごくリアルにやってくるし、くそじじいのPresident Snow (Donald Sutherland)がこいつを(or 互いを)心底うっとおしいと思うのもようくわかる。
それは"Silver Linings Playbook"での混乱した危険なTiffanyそのままのようでもあり、とにかく目が離せない - こっちには寄ってこないで、と祈りつつ。

そこに今回新たに加わったJohanna (Jena Malone)のほれぼれするようなビッチぶり。 まるで杉本美樹と池玲子だよね。 恐怖女子高校じゃなくて恐怖国家で。

ラストのKatnissの怒りに燃えた目 - てめえぜったいぶっころしたる!- はどう見たってやくざ映画のそれで、そう思ったらMockingjayのピンがやくざの代紋にしか見えなくなった。
それはそれでぜんぜんよいし、革命映画とし見てもMatrixなんかよか断然おもしろいの。

エンディングで流れるThe Nationalもしみるんだねえ。

11.25.2013

[log] November 26 2013

昨日の夕方、メルボルンからシドニーに着いて、空港前のホテルで(寝れないのだが)寝るだけで、日本時間の3:30amに起きてパッキングして、なんとかシドニーの空港に着いて、ラウンジでButtermilk Pancake(いちいち作ってくれる)とホットミルクをいただいて、ふう。となったところ。 
パンケーキは生地がべっちゃりめだし、付け合せのベーコンがカナディアンベーコン(ぽい)のがちょっと、なのだがお腹はおちついたかも。

今回は、映画3、ペンギン1、動物園1、市場1、そんなかんじだった。
レコード屋は行ったけど買わなくて、Books for Cooksで古本と雑誌を買ったくらい。

牛は食べなかった。 生牡蠣は2ダースくらいたべた(控えめ)。

日曜日に"Adoration"を見たあとで前回も行ったMelbourne Zooに行ってみたのだが、今回もウォンバットはだめだった。 いたことはいたけど、前日のやつと全く同じポーズで、穴のなかで背中を向けてまるまっていた。 動物園のゲートを抜けてすぐに見にいった時がそうで、1時間半後、帰りぎわにもう一回行ってみたけどおなじだった。しんでた。
日曜の昼間だし眠いのはわかるけどさ、もうちょっとがんばってほしい。














というわけで、ウォンバットへの妄想は膨れあがるばかりだったの。
ちょっとでも姿みせて愛想ふりまいてくれたら仕事だって1000倍がんばるのにな。

今週の残りもぱんぱんなので帰ってもたのしくない。 
Thanksgivingだというのにー。

ではまた。

[film] Adoration (2013)

24日、日曜の朝10:00、よろよろとホテルの下に降りていって見ました。 まだペンギン熱が冷めない状態で。

オーストラリア/フランス映画(撮影はNew South WalesのSeals Rock)だし、原作はDoris Lessing の短編"The Grandmothers"(未読)だし。
元々のタイトルは"Two Mothers"で、米国リリース時のタイトルは"Adore"、だった。

Roz (Robin Wright)とLil (Naomi Watts)は、幼馴染で、海が見えるSeals Rockでずっと一緒に遊んで育ってきて、結婚してからもずっとこの場所に住んでいて、Rozの子はTom (James Frecheville)、Lilの子はIan (Xavier Samuel)で、彼らふたりもサーフィンしたりしながら彼女たちと同様、一緒に大きくなってきた。

冒頭でLilの夫/Ianの父の葬儀のシーンがあって、でもふたつの家族が楽しく一緒に過ごす時間は変わらず、ある日ママたちの昔のアルバムを見ていたら、そこに亡き父の姿をみつけたIanは寂しくなってRozのとこに行き、一緒に寝てしまう。  自分のママがIanの寝床からジーンズ脱いだ姿で出てくるのを目撃したTomは衝撃を受けてIanのママに言いつけると、自分だって負けるもんか、とLilと寝てしまう。 おおらかでよいこと。

ママ同盟は緊急会合を開いて一線を超えるのはよくないわ、と合意に至るも、若い彼らの性欲の前になすすべもなくやられっぱなしとなり、更に気まずくなった二回目の会合での会話; Roz「最近どうよ?」、Lil「すんごくいい」 ... 「これを止めなきゃいけない理由なんかないと思う」  ...  というわけで、4人の幸せに満ちた関係が続いて2年、ふたりの若者はとも社会人になり、Tomは父親の演劇関係の仕事を手伝うべくシドニーにいて、オーディションにきた若い娘と仲良くなり、結果Lilとは疎遠になっていく。 んで、Lilは、いつかこの日が来ると思っていたわ、と諦め、RozもおなじようにIanに、もうやめましょ、と言って突然そっけなくなり、やがて若者ふたりはそれぞれ若いお嬢さんたちと結婚し、おなじようなタイミングでそれぞれに娘が生まれて、おばあちゃんたち - 息子たち とその妻たち - 孫たち という新たなファミリーツリーができあがる。

で、こんどは成長した娘たちがお互いのパパたちと...  ていう方向に行くかと思ったら、さすがにそうはならず、もうひと悶着あってわくわくするのだが、とてもおもしろい。おもしろがるような性質のもんか? というのはあるのかもしれないけど。

でもさーこれ、海沿いの美しく穏やかな色彩と陽光があって、そこでの生活に困らない人たちと、あの4人の整ったルックスがあって初めて成り立つおはなしだよね。
どれかひとつでも欠けたら見たくなくなるかも。
特にふたりの女優 - Robin Wrightの毅然とした姿・表情とNaomi Wattsのぐんにゃり柔らかい物腰の対比が見事で、とくにNaomi Wattsの艶っぽさにはなかなかびっくりした。

なんか、ペンギンのコロニーって、こんなふうなのかも。 (←まだ冷めてない)

音楽は、みんなで酔っ払ってダンスするときにKirsty MacCollの"In These Shoes?"がかかるのがうれしい。 しかも2回も。

[log] Penguins - Nov.23 2013

先にも書いたが今回の出張は完全Awayでストレスまみれのずたぼろで、どうしてくれよう、なのだが、同行者のなかにずっとペンギン~ ペンギン~ てうわごとのように呟いているひとがいて、なんなのか聞いてみるとPhillip Islandていうとこにいくと野生のペンギンの行列が見れるのだという。
でも島とか船で行くような場所だと万が一のことが起こったときに怒られるので、うーんと困っていたら車で2時間くらいで行けるのだと。
結構有名なツアーらしいのだが知らなくて、やってらんなくなった合間にサイトとか見ていたら脳の底で暫く眠っていたワイルドライフ熱が渦を巻き妄想を呼び、やがてそれが暴走を始めて週末はぜったいこいつらに会いにいくんだ、待ってろペンギン! になってしまった。

http://www.penguins.org.au/

行くにはメルボルン発の観光ツアーに申し込むしかなくて、でもそういうのは苦手なので若いひとにやってもらい、でも観覧席はGeneralじゃなくてPenguin Plusじゃないとやだ、とか注文つけてすまないことをした。
だって、Penguin Plusの席のがよく見えるっていうんだもの。

自分のこれまでの記憶にある一番のペンギンモーメントは、95年頃、ガラパゴスのBartholomew Islandの海でシュノーケリングしていたら横にぴゅん、て寄ってきて一緒に泳いでくれたやつ(ほんとよ)と、同じ島の尖り岩の横でたったひとり、天を仰いで「あー」って相手を切なく呼んでいたやつで、それらを思いだしたらここのLittle Penguinsを見ないで帰るなんてありえない、とおもった。 

というわけで23日の土曜日、丸一日潰して行く。
朝起きたら窓に雨の水玉が見えて死にたくなったが、9時頃にはあがっていた。たまに小雨がきたりする程度。

1時くらいにバスに乗ってちょこちょこ寄り道しつつ、ペンギンが待っているとこ(べつにあんたなんか待ってねえよ)に向かう。
パレードが始まるのは日没から、昼間海の沖合に遠出してご飯を食べていた彼らは日没に合わせて陸にあがって、海岸沿いの草地とか灌木地にある巣に戻ってくるの。今の時期は繁殖期で、戻ってくる群れのなかには既に子供(ルーキー)も含まれているそうな。
なんで日没まで待っているのかというと陸にいる天敵 - 狐とか鷹とか - を闇に紛れて避けるためなの。
ちなみに22日の日没は20:41、この日は1134匹が海から上がってきたのだと。
彼らはこういうのをずうううっと、毎日土日もなしに何百年も(たぶん)続けているんだよ。 えらいねえ。

途中寄り道した牧場みたいなとこにはタスマニアデビルとカンガルーとコアラと羊とロバと馬とエミューとクジャクとトカゲがいた。 カンガルーの餌($2)を買って、食べさせてあげようとしたのだが、カンガルーくんは飽食していたのかそっぽ向いてて、ロバのところに置いてみたら容器ごと持っていかれてしまった。 ロバなんかだいっきらいだ。

あと、ウォンバットさんもいたのだが、穴のなかでふてくされて丸まっていた。あんなふうに丸まられてしまうと猫でも犬でも豚でもウォンバットもでおなじただの毛玉だよね。

それからNobbiesていう岬にも少し止まった。カモメも繁殖期とかで丘の斜面にヒナがうじゃうじゃいてうるさかった。そこに行くまでの野っぱらがワラビーの保護区になっていて、草の間に何匹か頭をだしていた。

19:30くらいにペンギンセンターに着いて、チケット貰っておみあげ屋をのぞいたりしたあと、遊歩道を抜けて観覧席のあるとこに向かい、闇に暮れようとしている海に相対して座る。 あたりまえのように寒いったら。これ、風が強かったらしぬかも。

20:30頃、波打ち際のところにもそもそ動くいくつかの黒い点が確認できて、それらが揺れたり固まったり離れたりしながらペンギンぽいシルエットの塊を作り、それが次第に大きくなる - つまりこちらにだんだんと近寄ってくるのがわかる。 たくさんのペンギンがこちらに向かって歩いてくる - いや、こちらではなく、それぞれ自分ちに帰ろうとしているだけなのだが - それだけでなんでこんなにぞくぞくわくわくしてしまうのか。 宇宙人とか変な怪物とか、むこうからこちらへ、意思が通じるとは思えないなにかがやってくるのとおなじようなイメージなのね。

観覧席の前にはちいさい丘みたいのがあり、丘を下りたところに海のほうに流れていく浅い水路があって、その水路を渡ったあとは各自家路に向かうだけ。道はいくつかあって、緩やかな上り坂になっているパス(ペンギン達が何十年もかけて踏み固めていったものだという)を通っていくのもいれば、整備された通路を抜けてセンターの周囲の森に行くものいる。歩く距離はだいたい1kmだって。 30cmの背丈の彼らにとっての1kmって。

で、20:38頃、近寄ってきた彼らの影がしばらく消えた、と思ったら丘の上にひしめく一団となって現れてそこで暫く待機か、とおもったら最初の5~6羽がよたよたと丘を下りはじめる(客席全員溜息 ~ サイレントの悲鳴)。 つんのめって転がり落ちるようなやつ(ごめんね期待して)はいなくて、下まで着いたらこんどは水路を渡る - ぴちゃぴちゃぱたぱたぺたぺた ていう水音も愛おしく、その渡りを終えると、ふたたび止まってえーとどっちだったっけ、とか固まって考えてて、じゃあねーまたあしたー、というかんじでそれぞれが自分たちの巣に帰っていく。2羽一緒のが多いが、1匹単独のもいる。 最初のグループにいたうちの3羽は、斜面沿いのペンギンパスをふたたびよろよろ登り始め、ものすごくゆっくり、でも3羽一緒にがんばってて、そんな後ろ姿もたまんないのだった。

最初のが下りたあとは次から次へ、でも決して怒濤のレミングとかヌーになることはないペンギンパレードで、だもんだからいくら見ていてもまったく飽きないの。 たまに逆方向に戻っていくやつとか、丘から離れた草むらでぼーっとしているやつとか、丘の中腹の盛り土の上でぐるぐる回転しているやつとか、いろんなのがいるの。 

完全に日が落ちて暗くなると(観覧席のところは薄暗い照明あり)、丘に上がったあとにパートナーを呼び合う声がやかましくなる。ぽぽぽぽぽみゃーみゃーにゃーにゃー、とかそんなふうで、その声が重なりあい、暗い灌木の茂みのなかからサラウンドでわんわん響いてきてすごい。グレムリンのギズモの、あんなふうな声よ。 こいつらがグレムリンだったらおもしろいのになー。 海に浸かって増殖したやつらが人を襲いはじめるの。

途中から雨が来たこともあって21:10くらいから客は退けはじめ、われわれも21:20くらいには遊歩道を抜けて戻る。 戻る途中もペンギンさんたちと一緒に帰るかんじで楽しいの。

センターに戻ったとき、体は冷えきっているのでみんな暖かい飲み物(おまけ)を貰うのだが、かんぜんに頭がオーバーヒートしていたのでアイスキャンデーを食べた。 気味悪がられたが、気持ちよかった。

で、9:45にバスに乗り込んで、ホテルに着いたのは23:40くらいだったか。
眠かったが仕事のメールとかが入ってきたのでむかむかと対抗しつつ、車中で流していたBBCのドキュメンタリーシリーズ - "Penguin Island"ていうのを見て復習していた。 ペンギン博士にでもなってやろうか。

ちなみに写真撮影は厳禁なの。 映画とおなじく目に焼きつけて帰るしかないの。

また見たい。こんどは1月か2月に。仕事ぬきで。
それか、パタゴニアか南アフリカで。

11.24.2013

[film] Sister (2012)

今回の出張は、ほんとまじで動けなくて死にそうで、二度とこんなとこ来るもんか状態なのだが、それでも木曜の晩に抜けだして見ました。
ホテルが入っているコンプレックスの1階にあるシネコン。 9月に来たときはここで"Frances Ha"を見た。 上映されたのはそのときと同じ部屋(ちっちゃい)だった。

原題は"L'enfant d'en haut" (そのままか)のフランス/スイス映画。
Léa Seydouxが主演、音楽はJohn Parish & PJ Harveyときたら見ないわけにはいかないの。

スキーリゾート地の麓に暮らすSimon (Kacey Mottet Klein)は、小学校高学年かせいぜい中1か中2くらいのガキで、スキー場の更衣室とかに忍びこんでリュックとかゴーグルとか手袋とかスキーとかを盗みだし、それを周りの子供とか大人とかに売り捌いてお金を稼いでいる。

彼の姉と思われるLouise (Léa Seydoux)はSimonの目の前で男と喧嘩して別れて、そのまま木の陰で座りションするというあっぱれな登場の仕方からもわかるように、典型的なダメ女で、仕事も男もぜんぜん続かなくて、生活費はSimonの腕に頼りっぱなしなの。 SimonはそんなLouiseに呆れたり悪態ついたり、しょうがねえなあ、とか言いつつも養ってあげてて、彼の商売だって紙一重で危ない目にあっているのにLouiseにはなにも言わない。

物語はクリスマスの直前からスキーシーズンが終わり、つまりSimonの稼ぎブチがなくなる春前までのふたりの喧嘩したりくっついたり大喧嘩したり、でも結局離れられなかったり、そういう日々を追う。 突然事態が好転したり王子様とか一攫千金とか、そういうのはなくて、寒そうな冬の光景とひりひりした生活、暖かくない家庭、憎んでは憎まれのずるずるした関係が続いていくばかりで見ていて胃が痛くなるのだが、でも野良猫Louiseと野良犬Simonの面構え - 不機嫌に怒ったり泣いたりいがみあったり - がどこまでもすばらしく、つまり一匹と一匹のお話の力強さ、突き放した冷たさ硬さ、は徹底していて目を離すことができない。

ラストのケーブルカーのとこなんて、なんと言ったらよいのか。

あと、このタイトルはね。

音楽はそんなに鳴らないのだが、John Parish & PJ Harveyの"Girl"の、あのちりちりしたギターとポーリーの擦れ声が遠くに聞こえるのと、John Parishのインスト - ケーブルカーのワイアーの軋みにピアノが被さってくるとことか、この2人の音、あの音の肌理以上にふさわしいものがあるとは思えない。

Simonを演じた彼もすばらしいのだが、Léa Seydouxの凄さを改めて。
いま一番見たい映画は"Blue Is the Warmest Color"なの。

11.23.2013

[film] À Nos Amours (1983)

10日の日曜日の夕方、上野をうろうろした後、イメージ・フォーラムのピアラ特集で見ました。 時間も体力も尽きていて泣きそうだった。

「愛の記念に」。 英語題は"To Our Loves"。

Suzanne(Sandrine Bonnaire)はLucていうそれなりに素敵な男の子と仲良かったのだが彼とはうまくいかず、友達とつるんで男をとっかえひっかえして、家にも寄りつかなくなり母親はヒステリックに怒鳴りつけたり引っぱたいたりするし、兄も「このビッチ!」とかぶんなぐったりするし、どこにも行き場がなくてうろうろすればするほど家庭は壊れていって、婚約パーティでも離れていた父親(Maurice Pialat)の登場でさらに場が崩れてしょうもなくなるのだが、翌日彼女は別の男とからから旅立って、父もそれを暖かく見まもるの。

この作品が作られた80年代初の岡崎京子的な、命短し恋せよ乙女的な文脈で読むこともできるのかもしれないが、それとは違う気がした。
そこまでべたべたに愛を求めていないようで、でもそれは水や空気とおなじで、それが尽きたらすぐに死んだっていい、そういう潔さと激しさが裏側に、彼女の血としてある。

そんな娘を体現する、冒頭の演技のリハーサルシーンからだんだんに眼差しが座って力強さを増していくSandrine Bonnaireさんがすばらしい。

パーティに現れた父親が、ピアラが、ゴッホのことを言う。  ゴッホが実際には言わなかったかもしれないが、言ったはずのこと、として。
「侘しさだけがいつまでも残る」と。「侘しさとは他者のことだ」と。
ゴッホがテオ宛の手紙でそんなようなことを言っていたのは芸術についてだったとおもうが、芸術を愛に置き換えてもまったくおかしくない。

そしてここまで来ると、ラストのSuzanneの清々しさと、"Van Gogh"のラスト、喪服姿のMargueriteの力強い目ははっきりと繋がることがわかる。
侘しさを突き抜けて、愛を自分のものとした彼女たちの美しいこと。美しくあれ、と。

それにしても、画面に登場するピアラの存在感の強いこと臭いこと。
小汚く、うさんくさいおやじ臭さときたらファスビンダー級なのだが、フランス風のよりうさんくさいかんじがたまんない。

音楽はPurcellのオペラ「アーサー王」から"The Cold Song"、これをKlaus Nomiが歌っている。

あなたにはわたしがどれほど硬くしなびて老いて寒さに脆く、息をするのもきついかわかっているのかしら?
いっそのこと凍死させて。させて。させて。

というようなことを歌うの。

11.22.2013

[film] Carrie (2013)

6日の水曜日の晩、有楽町でみました。

De Palmaのオリジナル版(1976)も見ていないし、キングの原作も読んでいない。
オリジナル版のビジュアルは、当時の自分にはあまりにおそろしすぎて、こんなの見たらしんじゃうに決まっている、だったの。

歳とっていろんな映画を見れるようになったし、Chloë Grace Moretzさんは、この娘はなんでこんなに血でびたびたの映画ばかりに出るんだろうねえ、というのが気になってしょうがなかったので、行った。

Julianne Mooreの出産シーンから始まって、血塗られた子供なんだねえ、というのはわかるのだが、そのあとでその赤ん坊はChloë Grace Moretzさんになっていて、呪われたかんじはぜんぜんしなくて、ごくふつうにふっくらかわいいのに突然いじめられるのでよくわかんなくなる。 まあいじめというのはそもそもが理不尽なものであるしな、と思っているとこんどはさらに理不尽な超能力、ていうのが出てきて、すべてはそういうもんである、というトーンで運んでしまうので、ホラーというよりはSFみたいなかんじがしてしまうのだった。

半端な学園ドラマに重心を置くより、折角がんばって目を剥いてふぅふぅ言っている(自傷癖ありの)Julianne MooreとCarrieの親子関係に的を絞って掘りさげて積みあげていったらもうちょっと怖いものにできた気がする。  怖くなくていいの、哀れなかわいそうなCarrieを描くの、であればなにも言わないけど。

"This is the End"とか"The Cabin in the Woods"にあったような最後の審判、天の裁き、みたいのがあればまだすっきり収まったのかもなのに、ごめんね、ごめんね、って言いながらずぶずぶ地中に潜っていってしまうので、こっちこそなにもしてあげられなくてごめんね、になってしまうのだった。

既にみんなが突っこんでいるであろうが、Carrieをプロムに連れていったTommy、天罰かもしれないけど落ちてきたバケツにあたまぶつけて死んじゃうって、まぬけすぎてすごい。 そんなバケツ男の子供(娘)を身籠ってしまったSueも、これからどうするのか。  続編はその娘がCarrieを地の底から蘇らせて対決することになるのだろう。

それにしても、あのPromのパニックシーン、あんなクソもミソも一緒、みたいな描き方しなくても、と思うし、こういうときは誰かひとりくらい知恵を絞って対抗する子が出てくるもんだと思うし。

音楽はふつうに学園ドラマぽく、ざくざくしててよかった。

[log] November 19 2013 - Mel

火曜日の午後からメルボルンで仕事を始めています。 けど今回はほんとうにびっちりできつい。 外は20時半まで明るくて、街中はクリスマスの準備が始まっていてとっても楽しそうなのにずうっと建物のなかで缶詰状態。

行きの機内で見たのは2本。

"Grown Ups 2"
どうせまたDVDスルーに決まっている、いやそれすらもなしかもしれぬ、という危機感に煽られてまっさきに見ました。
1のほうがまだ、恩師のお葬式ていう大義があったけど、今度のは自分ちの近所周辺でぐだぐだ遊んでいるばかり、しょうもない下ネタとか変顔とか変人とか、そんなのを垂れ流しているだけで、しまりのないことおびただしい。

それでもいいのだ、Adam Sandlerの世界は、というひとはいうのだろうが、でもここまでくるとさすがにかも... と思って、いややっぱしいいんだ、と思い直す。
Adam Sandlerなら許される世界というのは、たしかにある。 それはなんとしても守られなければならないものだ、ととりあえず言っておく。

内容なんて書くのもばからしいのだが、あーなんかつまんねえー楽しくぱーっとやりてえなー、といつもの仲間が言いだして、じゃあパーティーをやろう! しかも80'sで!
ていうのと、地元でぶいぶい言わせている大学生たち("Twilight Saga"のTaylor Lautnerなど)との戦争、が絡むの。 その程度なの。

前作にあった"Grown Ups"ていう要素はあんまなくて、せいぜい子供と家族と地元愛とか、そんな程度、そしていつもの変な人(達)のオンパレード。
あとは得意の80'sネタで、J.Geils Bandが(ホームパーティーなのに)来て庭で演奏してくれて、みんな仮装パーティみたいのして楽しそうでいいなー。
日本でも最近、80'sを懐かしむパーティがあるようだが、ああいう醜悪な光景とは違うのね。

今回はRob SchneiderとNorm MacDonaldが出ていないのが寂しかったが、 久々にCheri Oteriを見れたのがうれしかった。(Steve Buscemiの妻、という設定)
"Twilight"であれだけきゃーきゃー言われていた(狼)Taylor Lautnerは、あんなんでいいのか。

エンディングはREO Speedwagonの"Live Every Moment"で、ぜんぜんもんだいないよね。

"2 Guns"

麻薬の潜入捜査をしているDenzel WashingtonとMark Wahlbergが麻薬王の金を銀行からふんだくろうとするのだが、じつはこのふたり、お互い覆面で別々の組織の指揮下で動いていて、盗んだ金の処理と盗んだあとの動作もそれぞれの指示で動こうとしたら当たり前に衝突して、てめえぶっころしてやる!になるのだが、盗んだお金も実はぜんぜん別のところの覆面で、結果三つ巴くらいで命を狙われてどうしよ? になるの。

もともとはコミックらしく、ふつうの人だったら10回分殺されて塵も残らないであろうはずなのに、DenzelとMarkだと死なないんだねえ。
元恋人を殺されたDenzelの怒りが沸騰する(はずの)とことか、もうすこしくっきり出たらなー。

テーマ的にはもろジョニー・トーの世界なのだが、でも舞台はメキシコで、たしかにメキシコのが雰囲気はよく出ていたかも。

で、帰りの便で"Drag War"を見るべきか、あと少し我慢して映画館でみるべきか、悩んでいる。(映画館でも見るけど)


11.18.2013

[log] November 18 2013

暑さもようやくどっかの彼方に行ってくれて、これから文化の秋だわと喜んだのもつかの間、仕事がどかどか落ちてきて平日の晩の寄り道なんてありえない世界になってしまい、けっか土日にぜんぶしわ寄せがくる、これもまったくありえない、とぶうたれていたら、メルボルンに行くのがきまった。こないだの金曜日のことよ。 あみだくじ、よりはもうちょっとましな屁理屈みたいなやつのせいで、誰ひとりなっとくしていない、けどわるいのが自分じゃないこともたしかだ。たぶん。

寒いところからあっついところへの移動、って体調くるうんだよね。 毛穴が文句いうの。

決まってからみっかで出張、ってやはり短くて、行った先でのことは諦めるけど(いやあんまし諦めない、じたばたするのは諦める)、行かなかったときに見ようとしていたやつの落とし前をどこでどうつけるのか、の練りなおし、みたいのが面倒くさい。どっちみち諦めだけど。どうせ。
オーディトリウム渋谷の酒井耕・濱口竜介とか森崎東とか、まだ2本残っているビアラとか。
フィルメックスのグレミヨンだけは、なんとしてもー。

今回は突貫工事なので人もいっぱい連れていて、好き勝手はできない。できないったらできない。 けど土日があるからなあー。 ちょっとくらい無理かなあ。ウォンバットに会いたいなあ。

ファーストのラウンジでカレー出すのやめて。 チーズもキャンディみたいにくるまった安いかんじのプロセスチーズでよかったのに、半端な切れっぱをお皿に乗っけなくていいのに。

では。いってきま。

11.17.2013

[film] Van Gogh (1991)

10日の日曜日、イメージ・フォーラムのモーリス・ピアラ特集で見ました。

冒頭、画布の上をさーっと横切る青のブラシが素敵で、それは「荒れ模様の空の麦畑」- "Wheat field under a stormy sky" の青い空で、荒れ模様の空なのにあんなに鮮やかに澄んだ青 - ゴッホにはそういうふうに見えていた世界のお話である、と。

アルルの日々も過ぎ、サン=レミの精神病院も退院したあと、37歳のゴッホが最後の2ヶ月を過ごしたオヴェール=シュル=オワーズでの日々を描く。 出来事も登場人物も史実のだいたいには合っている、ふう。

村の飲み屋兼宿屋に滞在し、風景や身辺の絵を描きながらガシェ医師宅に通い、娘のマルグリットと仲良くなり、娼婦のカティとか弟テオの家族とか昔からの付き合いも続いている。
病院から出たばかりの不安定な様子が露わに画面を揺らすようなところもなく、一見ふつうの職業画家として日々は淡々と過ぎていく。 かに見える。

けど、彼が画布に向かう風景、彼が窓越しに対象(マルグリット)をじっと見つめる姿と、彼の背中の向こうに広がる野原や畑を遠くから捉えるカメラ(いいんだねえ)の確かさに対して、彼を中心とした人々との会話ややりとりは酒場の喧噪、窓の向こうを通過する汽車とか馬車とかのがたごとで中断されて中途半端なところに留まり、やりきれないかんじが残る。常に。 

その対照のなかに曝されていた彼のシーソーゲームが終盤、弟テオの住むパリに出かけたところでぷつんと糸の切れた凧になり、どんちゃん騒ぎを経てそのままオヴェールに朝帰りしたあと、朝帰り後の目が眩んだ状態のままにくらった(誰から?)よくわからない銃創がもとでころん、と死んでしまう。

その死によってオーヴェルの、パリの世界が閉じてしまうわけではなくて、これまでと同じように世界は流れていく、その流れのなかに冒頭の「荒れ模様の空の麦畑」の青を、左から右に滑っていくブラシを置いてみる、と。

壁に向かいあい丸まった状態で硬くなってしんじゃったゴッホ。
これだけではなく、ゴッホを演じるJacques Dutroncの佇まいの背丈、立ち姿、目つき口もと、肩、その存在の硬さと強さがすばらしく、実在のゴッホがどうであったにせよ、彼を間違いなくひとりの、たったひとりでぐるぐるの世界と対峙していたゴッホたらしめている。

このひと、"Moonrise Kingdom"で家出した女の子が抱えてきたFrançoise Hardyのレコード、"Le temps de l'amour"を作ったひとだったのね。 家出物語である"Moonrise Kingdom"が永遠の家出人ゴッホとこんなふうに繋がったのは、ただの偶然にせよ、なんかよいねえ。

もうひとつはマルグリットを演じたAlexandra Londonで、彼女のなんともいえない柔らかさ、ふくれっつらでゴッホにぶつかるさまが素敵で、白のドレスで出てきて黒のドレスで終わる。
ゴッホの死、ではなく彼女の活きた強い目で終わる、そういう映画でもあるの。

テオの家にあった「花咲くアーモンドの木の枝」の前でピアノを弾いたのは誰だったのかしらん?

11.14.2013

[film] CRASS: There Is No Authority But Yourself (2006)

9日の土曜日の晩、"Trance"のあと、同じ新宿で横ずれして見ました。

チラシには日本プレミア上映て書いてあるし、売り切れたらどうしようとはらはらして、「椿姫」のあと(2:00くらい)に駆けこんだら番号は一桁台だった。
やっぱし日本のパンクなんてこんなもんよね、けっ、とおもった。

CRASSのドキュメンタリー、映画の冒頭にもでてくるが、Clashじゃないよ、CRASSだよ。
ぜったいコモディティ化しない、産業化しないパンク、ていうのはこっちの。
英国のパンクバンドというか集団というか、バンドとしての活動は84年に一旦止まっているが元メンバーたちは影に日向に当初の強い目線とアティチュードを保ち続けていて、その様を確認して、うむ。 て深く頷いて反省する、それだけで十分なの。

中核メンバー、Penny Rimbaud、Steve Ignorant、Gee Vaucherの証言と、活動の拠点であるDial Houseと、Permacultureとか、その思想の核心と、それらを通してパンクとはなにか、パンクであるというのはどういうことか、をバンド結成当初から掘りおこしていく。 彼ら3人だけで十分といえるのか、とか、捕捉しきれるわけないだろ、とかいろいろあるのだろうが、いいからだまってみろ、ていう。

つい最近まで、レコードと本(こないだ翻訳がでたジョージ・バーガー 著『CRASS』は必須)くらいしかなくて、それでもぜんぜんよかったのだが、やはり動いて喋っている姿とか結成直後の街頭ライブを見るとおおー、とか思うし。 全裸のPenny Rimbaudによるコンポスト便器での実演(一歩手前)まで見ることができるし。

筋金入りの活動家であり思想家であり詩人でもあるPenny Rimbaud(じじい)と直情型のパンク小僧Steve Ignorantが出会い、そこにデザイナーのGee VaucherやDave Kingが加わり、そこに拠点、基地としてのDial Houseがあったことでバンド、というより活動集団、としての色合いを強めていく、けどあの時代のセクト的な匂いはあまりない(当時、現地、ではどうだったか、はあるのかしら)。 まず相手の話を聞いてそれを受け容れる、ということが基本にある人達だからー。 

"There Is No Authority But Yourself"は"Yes Sir, I Will"のトラック7 の最後にあるフレーズ。
その少し前のパートはこんなふう。

You are being used and abused
And will be discarded as soon as they've bled what they want from you.
You must learn to live with
your own conscience,
your own morality,
your own decision,
your own self.
You alone can do it.
There is no authority but yourself.

『自分を支配できるのは自分だけだ』 やっぱし日本ではむずかしい、かねえ。

ちなみにデビュー盤の1曲目"Asylum"にある"Jesus died for his Own sins. not MINE"は、Patti Smithの"Gloria"の"Jesus died for somebody's sins but not mine" から来たもの。  
彼らの詩はとてもシンプルでわかりやすくて、でもほんとに深くてかっこいいったらない。
(画面上では白抜きのタイプ字体でばりばり連射される)

音楽映画だけど、爆音上映にはたぶん馴染まない。ザラ紙に鉛筆でがりがり叩きつけている、そんな音がずっと鳴り続けていて、それは通常音量でもじゅうぶん耳について離れない強さなの。

彼らの音を最初に聞いたのは、むかーし、徳間ジャパンからRough Tradeの7inchが国内盤で纏めてリリースされたことがあって、そのときに渋谷陽一のサウンド・ストリート(ていうラジオ番組があったんだよ)で彼らの"Reality Asylum"がかかったのね。あんときの衝撃ときたら、それはそれはすごくて、風景がかわった。(昔語り)
あのとき、他にはTelevision Personalitiesの"I Know Where Syd Barrett Lives"なんかもかかったのだったねえ。

パンクはどうもな... ていうひとにはJeffrey Lewisの"12 Crass Songs" (2007)をおすすめしたい。 こいつも、ユニークといえばユニークで。

11.12.2013

[film] Trance (2013)

9日の土曜日、椿姫のあと、新宿に移動して見ました。 
夕方のパンクまでまだ時間があったのでそれまでの穴埋め、というかんじ。

Danny Boyleってこれまできちんと見ていなくて、特に好きというわけでもなくて、みんなが騒いだ"Trainspotting" (1996) のどこがよいのか、まったくぴんと来なかったのね。
あそこに出てきた「英国」の「若者群像」みたいのが、ぜんぶ嫌いで、これまで英国音楽を聴いてこなかったような連中が「最高の音楽映画だ!」とか褒めているように思えてならず(偏見です)、彼がロンドン五輪の式の総監督をやる、と聞いたときもそらみろやっぱし、てかんじだった(ええ、偏見ですよ)。

なのでまったく期待せずに見て、その割にはよかったかも。 短かったし。 James McAvoyもRosario Dawsonもすきだし。

オークションハウスに勤めるSimon (James McAvoy)とFrank (Vincent Cassel)率いる強盗団(4名)がグルになって、出品されたゴヤの"Witches' Flight" - 「魔女たちの飛翔」(1798) をセリの途中に強奪しようとする。のだが運び出す手前でSimonとFrankの間で小競り合いがあって、結果絵はどこかに消えてしまう。 ありかを知っているのはSimonのはずだが、彼は記憶がない、と言い張り拷問しても出てこないところをみると、どうも頭を殴られてしまったのが原因らしい。

催眠療法でなんか引き出せるかも、と療法士としてSimonが選んだのがElizabeth (Rosario Dawson)で、雇われた彼女がトランス状態の彼のあたまからひっぱりだしてきたものは。

失われた名画とかいうのは、消滅したわけではなくて、どっかに必ずあって、誰かがどこかに隠しているはずだし、失われた記憶も同様で、どっかに必ずある、どこかに誰かが隠した、ということも考えられる。 トランス(状態)、というのはそういう場所ぜんぶに光をあて、瞳を全開にしてオールアクセス可にするその状態とその時間で、そうすることでみんな幸せになれるのかしら、というのはテーマのひとつで、それって犬みたいにいろんなとこを嗅ぎまわる依存症とかなんとかフェチとかストーカーとかを喜ばせるだけじゃないの? とか。 あと、その状態のトリガーをひくのは誰なのか、なんなのか、とか。 それがもたらすのは快楽なのか、服従なのか。 服従なのだとしたら、それを強いるのは誰なのか、なんなのか、とか。 三つ巴のSM、とか。

「魔女たちの飛翔」をなにがなんでも手に入れる/取り戻す、というのがいつの間にかテーマから外れて、失われてしまったなにかを見つけるゲーム、にひっくり返ってから、物語は変な具合にどんどん捩れていって、その転がりっぷりがおもしろいといえばおもしろい、のかもしれない。 
そもそも「魔女たちの飛翔」っていう絵はさ。

James McAvoyもRosario Dawsonも、裏の裏まであるような得体のしれないキャラクターをしれっと演じるとうまいし、こわいよねえ。
剃毛の件とか、そういうものかー、とすこしびっくりした。

音楽(Rick Smith)はさすがにこなれていて、おもしろい。 捩れたまま上滑りしていくサイケなエレクトロ。 もうすこしダークなゴスっぽいクラシックでもよかったかも。

11.11.2013

[film] Traviata et nous (2012)

9日の土曜日の昼、ユーロスペースで見ました。
この日はオペラで始まってパンクで終わった。

『椿姫ができるまで』。英語題は"Becoming Traviata"。

2011年春のエクサン・プロヴァンス音楽祭で上演されたヴェルディのオペラ、La Traviata - 椿姫 - これのリハーサルから本番直前までのヴィオレッタ(Natalie Dessay)、演出家(Jean-François Sivadier)、指揮者(Louis Langrée)などなどを中心した完成までの総力戦を描く。

椿姫のおはなしはいいよね。奔放な高級娼婦だったヴィオレッタがアルフレードの一途な愛にやられて一緒に暮らし始めるもののアルフレードの父にねちねち言われて身をひいて、その後もいろんな巡り合わせがわるくて一緒になることは適わなくて、ヴィオレッタはつのる想いを抱えこんだまま結核でしんじゃうの。 とってもかわいそうなの。

舞台装置も登場人物もそれらの関係も背景もシンプルながら、驚き、葛藤、興奮、一途、疑念、企み、失望、未練、絶望、喪失などなど、愛のまわりで渦を巻いて噴きあがる感情のあれこれを丹念に拾いあげて歌いあげる、そんなやつで、だから演出も演技も音楽も、それぞれにものすごくいろんなヴァリエーションがクラシックなやつからモダンなやつまで - あるに決まっている。

Jean-François SivadierとNatalie Dessayは、モノトーンでシンプルなセット上で、ヴィオレッタとアルフレードの感情の触れあうその瞬間、なにかが崩れおちるその瞬間にのみフォーカスしているようで、そこまでこまこま切って詰めて仕上げていくんだねえ、と当たり前ながら感銘を受ける。
音楽とかコーラスの練習もそうで、ピアノの彼女の弾きながら解説が楽しかった。

映画のメイキングだと完成したのを見ることができるが、こっちはライブの上演バージョンを見ることができないのがつまんないよね、と思っていた。 けど、幾度となく反復されるリハーサルのやりとりを通して、重なりあい積みあがっていくふたりの感情の分厚さが波としてこちらに強く確かに押し寄せてくるようで、これに関しては、ライブを一回見るよりよかったかも。もちろん両方見れるならすばらしいのだが。

オペラは、93年から96年くらいまでの間、METに通っていた頃に所謂古典演目はだいたい見た。
演出もこてこてでよいから、とほとんどがFranco Zeffirelliのをわざと選んだ。
当時はインターネットなんてまだろくなもんでなかったから予習もできず、今みたいに座席の背の電光字幕もなかったので、開演30分前にパンフを貰ってそこにある粗筋を頭に叩き込んで臨んだ。
終わるとへろへろになったが、オペラおそるべし、てうっすらこわくなって疎遠になった。
"La Traviata"もこの時代に見たのだったが、あのときはこんなにも濃厚で細やかな愛の地雷が仕込まれた舞台だとは思いもしなかった。

オペラ入門としてもよいかも。

11.07.2013

[film] Sign 'O' the Times (1987) - 爆音

3日のごご、「天国の門」でへろへろになった後、しばらく新宿を彷徨い、6時過ぎに吉祥寺に着いた。 Princeを爆音で。夢のような。

この作品は、公開当時に(確か)新宿で見たし、LDも買って何回も見た。 けど、映像に向き合うのはたぶん20年以上ぶり。

"Parade"(1986) のあと、The Revolutionを解散してソロになり、当時まちがいなく絶頂期にあったPrinceのライブフィルム。
半端な寸劇みたいのが入るし、ステージ上のパフォーマンスも8割はLive音源にあわせたRe-shootだというし、"U Got the Look"はPVの転用だし、穴だらけだけど、いいの。
すでに山ほどあったヒット曲は"Little Red Corvette"のほんのさわりしか入れず、ほかにCharlie Parkerのカバーが入るだけ、あとはぜんぶ"Sign o' the Times"の曲のみ、つまり映画ぜんぶが同アルバムの プロモの仕様なのだが、ノンストップでダイナミックでアバンギャルドなFunk道に思いっきり踏みこもうとしていた、その道が正しいことを信じて疑わなかった(彼も。 われわれも)Princeの87年がまるごとぶちこまれている。

これのあと、未リリースにおわったごりごりの"The Black Album"を経由して、開き直ったかのような極彩色ポップに転がった"Lovesexy" (1988)まで、この時期のPrinceの音というのは、すべてが総倒れ的に腐れていく80年代末期のシーンにおいて最後の最後の希望だったの。 よいこはみんな知っているはなしだけど。

ほとんどがFairlight CMIとLinn Drumによる宅録仕様なのに、古びていないよねえ。 "Sign o' the Times"の冒頭のエレクトロがどれだけ衝撃的に空気を震わせたか、を改めて思いだした。  当時のLP2枚組であるが、所謂トータルアルバムではなく、個々の曲はばらけていて、でも密閉感といかがわしさ、親密さと性急さが同居している、という点、鼓膜にぶつかってくる音の肌理、触感というところでは統一されている。  要はとっても濃いPrinceがのたくっている、と。

この映画の音もみっしり、霧のように豆腐のように均質な音の壁を作っていて、爆音上映の快楽のまんなかに求められる暴発感とはちょっと違うのだが、こんなライブの音もそんなにはない。

ここから暫く経ったNPGの頃のライブは、もうほとんど王族で、最近の(いちばん最後にみたのは2010年)ライブはギミックも変なギターもなし、圧倒的なオーラの乱反射のみで持っていってしまうかんじなので、やはりこの時期の、王子が王子のままにがむしゃらに暴れ、欲望をたれながしまくる姿は貴重だと思う。

バンドはメンバーそれぞれに怪しくてバカみたい(褒めてる)で素敵なのだが、なんといってもSheila Eのかっこよさにしびれる。
John Bonhamがその熊みたいな風体から熊みたいなキックを蹴りだすのと同じく、Sheila Eはそのしなやかな姿態そのままにびゅんびゅんしなるリズムを叩きだして、そういう彼女の動きと音がきれいに同期するさまが美しくて、それだけで快感なの。

Shiela EとCatのコンビネーションもいいよねえ。 このふたり見ているとMiley Cyrusなんてただの遅れてきたガキ、だよね。

このツアーメンバーと同じ陣容で行われた"Lovesexy"ツアーも素晴らしかったのだった。東京ドームの初日に行って、あまりによかったので翌日も行った。 ドームであんなきれいな音を聴いたのははじめてだった。(昔語り)

あと、観客はだれも写真撮っていないから客席は当然のように暗くて、キャンドルくらい。 最近のライブ風景は携帯の画面でちかちか明るいんだろうな。


もうじきのLou Reedの爆音、"A Night with Lou Reed" (1983)が見たかったなー。この時期の音がいちばん好きなんだけどなー。

11.05.2013

[film] Heaven's Gate (1980)

ぜんぜんぱっとしなかった連休の二日目、3日日曜日の昼に新宿で見ました。
『天国の門 - デジタル修復完全版』

新宿シネマートにあんなでっかいスクリーンがあるの知らなかった。 (これまで小さいほうしか行ったことなかった...)

この作品は、2004年に219分版をNYのFilm Forumで見ている(メモ見たら2004年10月11日)。 資料にある2005年のMOMAでのお披露目って、これの後だったのかなあ?。
今回とは違って、途中で一回休憩が入った(あの字体ででっかく"INTERMISSION"てでるの)。 色味は今回のほうが衣装の白とか血の赤がより鮮やかに出ている、気がした。 最後の戦闘の砂ほこりは、前のほうがよりもうもうでわけわかんなくてよかったかも。

ここに書くのを忘れていたが、6月の爆音祭のとき、実は一本だけ見ていて、それが"The Deer Hunter" (1978) だった。
Deer Hunterは、テアトル東京で公開時に見て以来で、当時はまだああいう映画を見たことがなくて、それはそれは怖いくらいに突き刺さってきたのだった。
アメリカのどこにあるかわからない地方の若者の、日本に住む自分たちとは一切関係ないはずのヴェトナム戦争で - しかも10年以上前に- 起こった、まったく無縁の題材を扱った映画が、なんでこんなにも怖く、切なく眼前に迫ってくるのか、映画の中味もさることながら、そういうかたちで揺さぶりをかけてくる映画がある、映画というのはそういうかたちで感情に作用しうるものだ  - 例えば文学の古典を読む、というのとはまったく別の - ということを知った、これが最初のほうの経験だった。

で、その映画と再会したうえで2004年の「天国の門」を振りかえり、改めて2012年の「天国の門」をくぐってみると、いろいろ思うところはある、というか頭がパンクするくらいいろんなことが襲いかかってくるのだった。

Harvard、Class of 1870の卒業式の高揚と寂寥といろんな感情がぐるぐる円舞を続けるその果ての、20年後のワイオミング、この地に保安官として赴任したJim (Kris Kristofferson)と彼が直面した東欧系移民への虐待 - 牧場主協会だけでなく州や国も加担している - という事態と、これらにまったく無力なまま、愛する人たちを守れないまま戦いに向かわざるを得ない、そのずるずるしたやりきれなさが全体を覆う。 そのやりきれなさと徒労感はそこから更に数年を経た、東部のエスタブリッシュメントとして暮らす彼の姿にも影を落とす。 

卒業式のスピーチで総代のBilly (John Hurt)は自分達は"well-arranged"である、と言った。言ったけど、実際には支配階級の落ちこぼれとして酒に溺れてどうすることもできずに自壊していく、それはおそらく社会に巻きこまれた時点(東部 → 西部、というのもあったかどうか)からずっとそうで、数時間前、数日前、日々の悔恨を抱えながら、誰にも、どうすることもできないなにかが眼前に聳えていて、その崩しようのない大きな建物の入り口を、あるひとは「天国の門」と、希望と皮肉を込めて呼んだ、のかもしれない。

劇中での"Heaven's Gate"は移民たちが集う娯楽施設 - スケートリンクの看板にあって、そこで移民のみんなが輪になって踊る、あるいはJimとEllaがふたりで舞う、そんな場所で、遊興施設を"Wonderland"とか"Paradise"と呼ぶのと同じことなのかもしれないが、この映画での"Heaven's Gate"は、すでにその門の前に滑りでたときにはもう遅いのだ - 死は目の前にあるということだから - という、軽いんだか重いんだかわからない絶望をめぐるゲーム。 ゲームの伴奏曲。 ライブで伴奏するのはディランのバックにいた人たちで、だから、"Heaven's Gate"というよりは"Heaven's Door"なのかもしれないが。

「なんでこんなことになっちゃったんだろう」という後悔の只中に引き摺りこんで、それはJimやBillyのものではなく、我々のものでもあるのだ、という焦りと確信が3時間半をあっという間のものに、19世紀アメリカの事件を21世紀の我々のものにする。 映画のなかで呼ばれる固有名が、Michael Kovach、Nate Champion、Ella Watson、その他処刑リスト上で読みあげられる125名の実在した名前たちが、亡霊となって目の前に現れる。 そういう強い磁場と磁力をもった映画なの。 (それはバジェット超過でスタジオを潰した「呪われた映画」とかいうのとは全く別のいみでね)

この映画を、たんなる洋画マニアのものに留めてしまうのは本当にもったいない。青春の輝きが泥沼の暴力に押しつぶされていく様とその諦念を底の底まで、ありえないような美しさとリアリズムで描き切った、その力強さときたら稀有のものだから。 それはあの大画面と共に椅子に縛り付けられないことには見えてこないものだから。

あと、Deer Hunterもそうだったけど、どこまでもオトコの世界の映画なんだよね。 アメリカ合衆国はオトコが作ったんだ文句あるか、と言われたらそれまでなんだけど。ああそうですか、なんだけど。 つくづく、Jimのあほんだら、なんだよ。 肝心なときにだらだら酔っぱらって寝っころがってばかりで、ブーツなんてどうでもいいんだよ、働け! 走れ! なの。

Isabelle Huppertは、まだぷっくらしていてかわいい。 これが30年後、3人のアンヌに分裂してしまうんだから、人生わかんないもんよね。

Vilmos Zsigmondのカメラもほんとうにすごい。そして今は "McCabe & Mrs. Miller" (1971)をとっても見たい。

「マイケル・チミノ読本」はおもしろいようー。 30分でするする読めてとっても勉強になる。

[film] Blue Jasmine (2013)

いっこ、書くの忘れていたやつ。 10/7の月曜日のよる10時過ぎ、NYのAngelikaで見ました。
これ、メルボルンでもシアトルでも見る機会はあったのだが、Woody Allenの新作はAngelika Film Centerで見るべし、というのが自分のなかにあったのでつい延ばし延ばしにしていた。

それにしても、公開されたのが7月末だというのに、10時過ぎのシアターにはまだ10人くらい入っていた。

前作の"To Rome with Love"、前々作の"Midnight in Paris"とか、アンサンブル中心のコメディとはちょっと違って、Cate Blanchettがほとんど一人で出張って周囲を暗黒に引きずりこむ/引きずりこもうとする。

Cate BlanchettがJasmineで、かつてはNYの社交界でぶいぶい言わせていたらしい彼女がSFの田舎にやってくるところからはじまる。ブランドものの服とバッグで装い、一見ちゃんとしたひとのように見えるのだが、終始お酒を片手に抗鬱剤らしい錠剤を飲み、いらいらぶつぶつ独り言や毒を吐き続ける彼女のそばによってくる人はあまりいない。 夫(Alec Baldwin)とは疎遠だし、音信が絶えていた妹とはまったく話が噛みあわない。再出発を目指してPC教室とかにも通ってみてもぜんぜん続かない。

NY Timesのレビューは「欲望という名の電車」の主人公BlancheとBlanchettを重ねていて、それはそれでぜんぜん正しいと思うものの、この映画でのBlanchett - Jasmineの暴走っぷりには目を見張る。

一見、愛を失ったイタい中年女のお話、ではあるものの、Cate Blanchettの「あたしを見て。相手になって」引力のぎすぎすが余りに凄まじくて目を離すことができないし、どこまでも不幸などんづまりトーンなのに笑えてしまうところがすごいの。 なんだかんだ強いんだよねあんた、とか。

ここ数作のアンサンブルものでうかがうことのできたWoody Allen的な神の手はなく、"Cassandra's Dream"や"Vicky Cristina Barcelona"にあったような二人芝居の綱引きもなく、"Match Point"の頃のようなScarlett Johanssonひとりへの偏愛とも違って、Cate Blanchettに行けるところまで行かせてみる、そんな演出をしていて、それがAllenの映画には珍しい透明感をもたらしているような。   Allenすらをもコントロール不能にしたCate Blanchettのすごみ。

邦題は「限りなく透明に近いジャスミン」でおねがい。

11.04.2013

[film] Violet & Daisy (2011)

26日の土曜日の夕方、新宿で見ました。『天使の処刑人』。

Violet (Alexis Bledel)とDaisy (Saoirse Ronan)が殺し屋さんコンビで、尼さんの宅配ピザ(そんなんあるか)の格好して押し入ってばりばり殺しまくるのがオープニング。
ふたりはその後しばらく休暇をほしかったのだが、アイドル歌手Barbie Sunday (Cody Horn..)のドレス欲しさにもういっこ楽勝ぽい仕事を引き受けることにする。

やくざから金を奪ったから殺してくださいと言わんばかりのそのターゲットのアパートに入ったものの、まだ客人は帰っていなくて、待っているうちにふたりは眠ってしまい(ねるなよ..)、起きたらその男(James Gandolfini)が こっちを見ている。 彼は殺し屋さんが来ることも承知していて、むしろ来るように仕向けていたことがわかり、彼の身の上聞いたり、彼が焼いてくれたクッキー食べたり(たべるなよ…)しているうちに、いろんなタイミングがずれて調子がくるって、やがて他の殺し屋チームもやってきたりで、なかなかトドメを刺せないの。

屠殺される予定の家畜と遊んでいるうちに情が移って、みたいなかんじもして、でも家畜はやがて君に殺してほしいんだよ、とか言いだすもんだから変なかんじに転がっていく童話みたいな。

女の子ふたりの殺し屋メルヘン、というよりはJames Gandolfiniを間に挟んだ擬似父娘(or家畜)ドラマで、これを通してふたりはまたひとつ成長するのだった、ていうふうに見てしまうの。

それにしても、こないだの"Enough Said"でもそうだったけど、妻に逃げられて年頃の娘とも疎遠になっている寂しい中年男、という設定がはまりすぎるJames Gandolfini。
ソファにどっしり座り、じっとこっちの目を見据える彼に「いいからはやく片付けてくれ」、て言われたらどうする? 

Violetの前の相棒の話とか、殺し屋内の序列とか掟とか、煮えきらないとこも一杯だったので、ついJames Gandolfiniの方ばかり気になってしまうのだった。
ふたりともキュートだし、Saoirse Ronanさんはほんとにうまいねえ、とは思うのだが。
君たちふたりなら殺し屋じゃなくても十分食べていけるんじゃないの、とか。

サントラはRoberta FlackとかNat King Coleとか古くて甘いのと、10,000 ManiacsとかSarah McLachlanとかなんとも言えない半過去のとが混ざっていて、ここももうちょっとがんばればなあ、だった。

死体の上に乗っかってぐしゅぐしゅ足踏みするとこはなかなか。葡萄の収穫みたいだったねえ。

11.03.2013

[film] Elysium (2013)

23日の水曜日、日比谷でみました。終わっちゃいそうだったので少し慌てて。

同じ監督さん(Neill Blomkamp)による"District 9"は、貧困問題とグローバリゼーションに異星人侵略と人体変容SFを正面衝突させて追いかけっこ活劇にして、最後はとほほ… のしんみりテイストで終わる、渾身の世界観ぶちこみ具合が気持ちよいやつだった。

こんどのは近未来で、異星人は来ないけど、今の世界から100年後くらいの同一線上にある。
"District 9"で宙に浮かんでいた禍々しい宇宙船はそのまま選りすぐられた金持ちが暮らすステーション - "Elysium"に変わる。 前作で天空に浮かんでいた制御不能で貧しく汚いやつらは、そのままぐるりと天地がひっくり返り、今や地球の表面ぜんぶが"District 9"化している。

前科者のMax (Matt Damon)は工場で意地悪された挙げ句に致死量の光線を浴び余命5日といわれ、全身に機械を装着してElysiumへの特攻ミッションに身を投じることにする。 Elysiumの支配者 (Jodie Foster)の刺客(District9の彼ね)とかと小競り合いをしつつ空の上を目指す。

ここも前作とおなじ巻き込まれで、自分の思うようにならない(自分が思っている以上に強い)身体にされ、結果的にでっかい何かと戦う羽目になるのだが、その敵って、実は同じ人類の奴らで、なんだよそれ、て思うの。
他方、前作で彼のあたまに常にあった愛しい家族との思い出に相当するのが、自身と幼馴染の彼女との子供時代の記憶で、前作で家族はいなくなってしまったが、記憶はずっと彼と共にあり、記憶だけが彼を支え続ける。 それだけを抱えて、宙に浮かぶ象徴に向かって突っこんでいく。

矢継ぎ早なアクションの展開と主人公のエモががたがた噛みあわないまま、とりあえずやっちまえいっちまえ、の性急さがパンクでいかった。

つるっぱげでメカを装着したMatt Damonのスチールを見たときはうわあ、と思ったがぜんぜん悪くなかった。でっかいひとだし、ああいうアクションは(かっこいいとは別に)よいのね。 Jodie Fosterの鬼婆は、見かけ以上にやわで、もっともっと鬼畜で行けたはず。

Elysium本体も、もうちょっと強くてもよかったんではないか。OS再起動かけたらIDの属性がぜんぶ落っこちちゃう、ってあんましだよね。

この状態があと少し進むと、地球上にひとは住めなくなって、"WALL·E"とか"Oblivion"のほうに行くんだねえ。 そういえば、"Oblivion"のコマンダーも鬼婆だったねえ。

11.02.2013

[film] Moonrise Kingdom (2012) - 爆音

もう11月になってしまったよう。 どうするんだよう。
書けるやつからぱらぱら書いていきます。

31日の木曜日の晩、爆音収穫祭で見ました。
6月の本爆音は出張だのなんだのでぜんぜん行けなくて、ほんと久々のバウスと爆音。

ロンドンで昨年の5月に見て以来。 あのときはロンドン到着直後で頭のなかがぼうぼうの嵐だった。

ボーイスカウトからはみ出した男の子とゴスの女の子が出会って恋に落ちるお話。
Summer's Endという場所、夏の終りに、夏の終りの大嵐がやってくるお話。

双眼鏡で遠くのものをなんでも近くで捉えようとする女の子と、近くのものからできるだけ遠くに遠ざかろうとする男の子のお話。月の満ち欠け、潮の満ち引き。 彼女の家のなかの様子も彼らが移動する島の距離も、すべての縮尺が狂っていて、響いてくる音楽のレンジもめちゃくちゃで、それらをひっくり返して錯乱に導く恋が、さらにそれを追っかけて台風と鉄砲水がやってくる。

60年代の中頃、アメリカの北のほうの入り江、かつて先住民が切り開いたパスを抜けて、すべてが捩れて孤絶した土地で暮らすボーイスカウト(集団)とか家族とかひとりの男(Bruce Bruce Willis)とか。

男の子はボーイスカウトのサバイバル道具一式を、女の子は双眼鏡と6冊の本とアナログと携帯アナログプレイヤーと子猫を持参して、駆け落ちする。
ロマンチックなガキ同士の恋のおとぎ話ではない。 男の子は里親にも捨てられ、女の子の母は浮気している。 わんわんは矢で殺されちゃうし、ハサミによる殺傷沙汰もあるし、ピアスの穴あけまである。ふたりが互いを求めてべたべたするシーンは、どう見たってエロすぎる。

いかがわしさと抑圧、生々しさと礼儀正しさと、これらは全て生きのこりを掛けた作戦に欠かせないもの。
前作の狐もそうだったし、Wes Anderson映画の主人公はみんな生き残るために必死なの。

最後、ぶらさがって「絶対手を離さないからな」というBruce WillisがLou Reedに被ってならなかった。

爆音の暴発、暴れっぷりはすばらしいものだったが、映像が35mmフィルムだったらなあ。はっきりとデジタルのだめさが出てしまう、わかってしまうような、色の美しさを殺してしまうデジタルだったの。