12.31.2011

[log] いろいろ - Dec.31, 2011

いろいろたまってしまったので、まとめて一挙に書いてしまえ。

12/11(日)"ICE" (1970)

ロンドンに発つ前の晩に。
日仏の特集『鉛の時代 映画のテロリズム』から1本くらいは見ておきたい、と。
いちテロ組織の活動をドキュメンタリー風に追っていくようでありながら、はっきりとフィクションであること、その際が浮かびあがるような作り。 
これを経て次の"Milestones" (1975)に行ったのだなあ、と。

12/18 (日) "HUGO 3D" (2011) 

ロンドン最後の日曜日にみた最後の。
わかりやすいし画面はきれいだし、Scorseseの最近の作品のなかでは、ぜんぜんよいとおもう。
けど、シネフィルの人たちが、泣いた!とか大絶賛するほどのもんでもないような。
『帝都物語』みたいに圧倒的な悪役とか魑魅魍魎とかいたほうがよかったのかも、とか。
どうでもいいけど、主演の男の子がJeff Tweedyそっくりでさあ。

12/23 (金) "Black Magic" (1949) 『黒魔術』

帰国した翌日、シネマヴェーラの特集『映画史上の名作6』から。
オープニングがかっこいいの。カリオストロ侯爵の復讐潭を軸にマリー・アントワネット期のフランス王室の陰謀、催眠師メスマーとの確執などなどが絡んで、お話を締めるのはA・デュマという。
なんでこんなおもしれえのが未公開のまま60年、だったわけ?
IMDBにはDouglas Sirkが監督する予定だったとかあるけど、そしたらどんなんだったかなあ。

12/23 (金) "Nothing Sacred" (1937) 『無責任時代』

『牛泥棒』(1943) のWilliam A. Wellmanによるスクリューボールコメディだって。
こんなのも未公開だったの。
NYのタブロイド紙の記者が特ダネ狙いで田舎のラジウム中毒で死にそうな娘を拾ってきて悲劇のヒロインに仕立てあげてNYじゅう大騒ぎになるのだが、実は飲んだくれ獣医の誤診で中毒でもなんでもなかった、さてどうする、と。
とにかくCarole Lombardがぱきぱき素敵でさあ。終盤のビンタで漫画みたいにひっくり返るとことか最高。
もうちょっとちゃんとしたカラーで見たかったなあ。

12/24 (土) "A Night at the Opera" (1935) 『マルクス兄弟オペラは踊る』

おもしろかったねえ。なんも考えてなくても、動きを目で追っているだけでいくらでも笑っていられる。
詰め込み船室のとこもおもしろいけど、やっぱしラストのオペラハウスの大騒ぎだねえ。
あの、緞帳を垂直にざざーっと這いあがるとことか、信じらんない。
オペラの描写もメインのふたりのとこだけはちゃんとしてるし。
あの会場って、先代のMetropolitan Operahouseなのかなあ。

28日は会社休んで、2本見ました。

12/28 (水) "Mission: Impossible - Ghost Protocol" (2011)

六本木で見ました。おもしろかった。
ほとんどのアクションのとっかかりがサーバーに直接触んないといけないから、ていうのがおもしろいよね。 サーバー=(昔の)金庫、なのね。
でも、サーバールームて地上130階とかには作んないし、どのサーバーのどのポートに差せばいいかなんてそんな簡単にわかんねえよね、ふつう、とか。
でもいいの。 なんかおかしいし。みんな目つりあげて一生懸命走り回ってるし。
最後のあれもあれだけど、ぎりぎりで無効化されたあれがサンフランシスコのあそこにがん、てぶつかって落ちるとこがよかった。 でも、元がぼろいもんだからぶつかったショックで電源入っちゃってどっかーん、とか、だれでも思うよね。
Jeremy Rennerが狂犬じゃないふうで出てていかった。 おれの前職はなあ... って爆弾処理とかやってくれたらもっと面白かったのに。
Léa Seydouxさんもすてきだったねえ。

12/28 (水) "El Bulli: Cooking in Progress" (2011)

閉店によってその秘密(てほどのもんでもないか)が永遠に封印されてしまった(かに見える)El Bulliの1年を追ったドキュメンタリー。
1年の半分でメニューの開発して、残りの半分でお店やってる。
Ferran Adriàは確かに料理のありようを変えた。
料理の要素をサイエンスとデータベースとプレゼンテーションに分解した。
そいで、「おいしい」という食体験をその角度から実験したり検証すること、それができる、ということを世に知らしめた。
楽器ができなくても、ライブの経験がなくてもデスクトップ上で音楽は作れる、それと同じような状況を作り出したのだと思う。
それを具体的にどうやっているのか、を静かな画面構成で追っていったのがこの作品。
Ferran Adriàが料理を作るシーンはなくて、実際につくるのは弟子たちで、彼は延々試食して、だめ出しをしたりするだけ。 
目がぜんぜん笑わないの。「俺にまずいものを食わせるんじゃねえ」って。
あと、火を使うシーンもほとんどなかったかも。
たぶん、使われなかったとこに秘密のほとんどはあるんだろうな、ということがわかる構成だったかも。 ま、店がなくなっちゃった今となってはどうでもよいことなのだが。

12/29 (木) "At War with the Army" (1950) 『底抜け右向け!左』

すっとぼけぼんくらキャラのジェリー・ルイスとねちねちすけべやろうのディーン・マーティンコンビによる軍隊もの。 でも戦場のはなしではなくて、事務所みたいなとこで延々しょうもないことをやったり痴話喧嘩みたいのをやってるだけなの。
でも、音楽になると楽しくてうっとり。 いいよねえ。

これの後で、新宿Pit Innに向かって大友良英 + Jim O'Rourke DUO を聴いた。
なんか締めのライブ行きたいなーと思って。

後ろのほうだったのであんま見えなかったのだが、Jimのプリペアドピアノと大友さんの鉄琴とか、全体としてはとても静かな、除夜の鐘のようにじんわりと染みてくるノイズだった。
アンコールでやった、ピアノとギターのシンプルなのも素敵だった。

これで今年のライブはおわり。
この後、晩から渋谷に戻って。

12/29 (木) "サウダーヂ" (2011)

後でちゃんと書きますわ。 すんばらしい音楽映画だった。

12/30 (金) "One Hour with You" (1932) 『君とひととき』

結婚3年目の仲良し夫婦の、妻の親友が夫に、その親友の夫が妻に、それぞれアタックをかけて、さてどうなるでせう、というお話。 主題歌がすんごーく素敵なのだが、そんなのはともかく、ルビッチのエロが全開ですげえ。 でも画面上はぜんぜんそんなんではないので、それをすけべと感じるあなたがすけべなのです、という罠がびっちり張られててどうすることもできない。
揺るぎない楽観すけべ主義の炎。 すごいわよ。

12/30 (金) "New Year's Eve" (2011)

六本木で見ました。年またいだら見る気しなくなるだろうし。
NYでもLondonでもレビューは最低だったから、それなりに覚悟はしていて、そのせいかそんなにひどくもないような気がした。
最後に結ばれるカップルのオンナのほうがあれじゃなかったら、ほんもんの市長が出なかったら、もうちょっとましなもんになっていたと思う。

だいたいさー、大晦日の玉落としなんて、あんなの田舎もんしか行かないよ。
に始まって、つっこみどころ満載なんですけど。

Michelle Pfeifferはたしかにイタいけど、他に適当なひといっぱいいたじゃろー、とか。
(Juliette Binocheでよかったじゃん、べつに)
Lea Micheleのメイク、はりきってがんばったのだろうが、もうちょっとなんとか、とか。

Michelle Pfeifferの勤務先は14th stって言ってたけど、あの場所は40thのPark Aveだよ。
あと、ふたりが約束してた54thのあたりなんて、なんもないよ。

Radio City Music Hallの看板に、1/29にあったIron & Wineのライブ告知がそのまま出てるの。

そしてどこまでも差別されるスタテン ...

12/31 (土) 幕末太陽傳 (1957) デジタル修復版

今年の締め映画はこれでした。
何回見てもすんばらし。 気のせいかも知れないが画面全体が明るくなって廊下の向こう、さらにその先の海の向こうまで、ずうーっと見事に見渡せて、風通しがよくなった気がした。
その遠くの、向こう側(あめりか)に、俺はまだまだ生きるんでぃ! てさーっと走って行ってしまう佐平次のかっこいいこと。 見習いたい。

そしてしゃべりとアクションが止まんなくてすごい。そのすごさが遊郭の人たちと佐平次にはあって、幕末の志士たちには見事にない。だから明治以降の日本はだめになっていったのね、とか。

それにしても、この映画に出てくる猫とネズミはなんなの? ていつも気になってしょうがない。
飼ってるの? そのへんに勝手にいるの?


というわけでよいお年を!
年が明けたら2011ベストでも書いてみよっと。

12.25.2011

[log] Dec.25, 2011

21日の夕方、HeathrowのラウンジでPCの蓋をぱたんと閉めたあとで、はんぱない寒気と吐気とぐるぐるに見舞われ、こりはたんなる車酔い人酔いとはちがうあれだ、とぼーんとしたあたまで思い至ったもののどうすることもできず、しょうがないのでTonic Waterの小さい缶3つとカモミールをちゃんぽんにして飲みながらとにかくひどくならないようにするしかないと目をつむってて、そうして飛行機に乗りこんだら両脇が例によって赤ん坊連れで固められてて、そういえばこないだ米国から帰るときもそうだったなんだろうこれも罰ゲームかなんかか、でもクリスマスだしきっと天使さまかなんかなんだと思いこむことにして、とりあえず離陸した。

機内食もぜんぜん食べれる状態ではなかったので、お姉さんに和食の小鉢セットだけくらさい眠たいのですとお願いして、それまでの間に、何度目かの"Crazy, Stupid, Love."を見て、最後のほうのキュートなJessicaの後ろ姿を見てからプログラムをaudioのクラシックに切り替えて、リストとしか思えないピアノがばりばりうるさかったがそれでも即座に落っこちて、気がついたらほとんど日本だった。

おうち戻ってからもげろげろは続いて、深夜0時に電話会議で起きた以外はずーっと寝てた。
電話会議で知ったのだが、6時間早いタイミングで帰国した米国側もまったく同じ症状でげろんげろんなのだった。 げんいんはあれかあれかあれか、とか話し合ってみたが、そんなのすでにどうでもええわ、なのだった。

次に気がついたのは23日のお昼で、少し食べてからまた落ちて、でも3時すぎにむっくり起きあがって支度して、ゾンビ状態でシネマヴェーラに向かって「黒魔術」(1949)と「無責任時代」(1937)を見た。 なんであんなに混んでいたのかしらん。 どうやって席を確保したのかも覚えてないや。

24日のイヴもよれよれのまま、シネマヴェーラで「マルクス兄弟オペラは踊る」(1935)を見て、その前、イヴにこんなの見にくるやつにサンタさんが来てくれるわけないからセルフで、と英国で買うのをやめといた"Quadrophenia"の豪華箱を買って、今年の散財はおわり、もうぜったいおわりだから、ということにした。 たぶん。

25日はちゃんと活動しよう、せめてMI4見るとか、ルビッチ見る(変わんないじゃん)とか、代官山のゴジラとか、と思ったのだが、昼間にちょっと横になってさっき気がついたら外はまっくら闇のなか、なのだった…  もうぜんぜんだめ。

みなさまよいクリスマスを。 
もう過ごしちゃったひとも。これからのひとも。

 

12.21.2011

[log] Dec.21, 2011

Heathrowまできました。

あんま寝ていなかったせいか、パディントンまでのタクシーでげろげろになった。
まだきもちわるくて倒れそうなきがする。
(ならPCであそんでるんじゃねえよ)

今回は、予定通りに帰国できる。 すばらしい。
来週からみんな休暇に入ってしまうから、というだけなんだけど。

英国から日本に帰るのって、久々か、ひょっとしたら初めてではないか。
いっつもアメリカに渡ってばかりだったし。
だから、いつものTerminal5じゃなくて、Terminal3で、でもあまりにごちゃごちゃで更に気分悪くなってきたので、買い物はとっととあきらめた。

今回、映画6本しか見れなかった。
やっぱし土地勘がないので動きにくい。 あと夜が早くて9時過ぎたらもうだめなかんじなの。
これじゃだめよね。

日本に帰ったら連休らしい。
もう、とにかく寝る。ぜったい寝る。いっぱい寝る。

おやすみなさい。

[film] Margaret (2011)

18日の日曜日の午後、Harrods行ったあと、Odeon系のインディペンデントのシネコンみたいなとこでみました。
Time Out LondonのBest of 2011 Filmに結構入っていたので、見てみようかと。

マンハッタンの西の上のほう(84thあたり? そんなに高級でもないエリア)に母と弟と3人で暮らす高校生のLisa(Anna Paquin)は、割とふつうにいる少しだけ不良の生意気な娘さんで、ある日バスの運転手にちょっかいだしたら、その運転手は赤信号をスルーして、結果中年の婦人を轢いてしまう。
Lisaは血まみれになりながら婦人を救おうとしたのだが、彼女はそのまま亡くなってしまい、警察の事情聴取には、自分のせいで運転手がミスをした、ということを言えないまま、婦人の信号無視というかたちでケースはクローズしてしまう。

もやもやを抱えつつ高校生活に戻るのだが、なにやってもどこいっても衝突してばかりでうまくいかない。
オフブロードウェイで女優をやっている母は、彼女を慕うコロンビアの起業家(Jean Reno... あやしー)とつきあったりで忙しいし、バージンなんていらねえ、と穏やか系不良のKieran Culkin(Igby...)に頼んでみたりするが、これもうまくいかない(しっかりしろIgby!)。

どんどん荒れて、相談相手もいないまま追い詰められていった彼女は、亡くなった婦人の家族とかその友達に会ったり、いろんなひとに相談した結果、自分の証言した内容を変えて、正直に事の経緯を明らかにして、裁判に持ちこもうとするのだが、それもまた・・・

彼女の学園生活、というよりも親や事件をきっかけに知り合った大人たちとの間でじたばたしまくって、友達もみんないなくなって、とっても痛くて哀しいLisaの姿がマンハッタンの昼のざわざわ、夜のしんとした冷たさのなかで丁寧に描かれる。 ここには希望も救いもない。わるいけど。

いろんなひとがいっぱいいるマンハッタンの、そこで生活するいろんな大人たちとの間でDisconnectされたまま、イライラを募らせていく彼女のことを理解できる、とはいうまい。 ただ、あそこの大人たち、例えば裁判所とかMTA(交通局)とかがどういうロジックで動くのかとか、動かないのかとか、そういう話はとってもよくわかる。 だからそこを経由したうえでの彼女の苛立ち、というのは、わかんないでもない。

それにしても、Anna Paquinのテンションはすさまじい。 役作りとかをすっとばして、そのままそういうひとみたいに見える。 ぼくはどこかできみのことを知っている。

彼女が相談を持ちかける気弱な数学の教師にMatt Damon。 彼女にさみしいのよ、とか言われてつい淫行してしまったり。
それから、ちょっとぼんくらでみんなにからかわれる国語の教師にMatthew Broderick (しっかりしろFerris!) とか、なにげに豪華だったりする。

撮影は2007年に終わっていたのに編集に時間かけすぎて訴訟おこされて、最終的にMartin ScorseseとThelma Schoonmaker組が編集して仕上げてここまでもってきた、と。 150分。 そんなに長いかんじはしなかった。

主人公の名前はLisaなのになんで、"Margaret"なのかというと、英国の詩人Gerard Manley Hopkins (1844 - 1889)の詩:"Spring and Fall: to a young child" から来ているそう。 この詩が国語の授業で読まれるシーンがあるの。

いらいらしたり嘆いたり、上がったり下がったり大変だねえMargaret---, みたいなやつ。

この詩、Natalie Merchantさんの曲にそのままなったりもしているので、それなりにスタンダードなのかしら。

あと、母と娘のお話、ということでいうと、"Black Swan"のバレエ抜き版、みたいなかんじもあったかも。  あそこでも、アッパーウェストの古いアパート暮らしの母娘の関係と、それがなんとなく崩れていく様が描かれていた。

学園ものというよりも、女性映画というよりも、New Yorkの映画、かなあ。
あの独特の冷たくて、とりつくしまもないかんじが。 それがちゃんと描けているのってなかなかないとおもう。

だからOccupy Wall Steetは、こういう場所から、起こるべくして起こった、ともいえるのよ。

[art] Gerhard Richter: Panorama

18日の日曜日のおはなし。
土曜日の晩、Judyの歌にぐすぐす涙していた頃、わらわらと着信が入っていたので半分出社を覚悟していたのだが、結局なんもなかった。

もういっこのMustだった展覧会がこれ。
Tate ModernでのGerhard Richterのレトロスペクティヴ。 
レトロスペクティブを「パノラマ」、としてしまうとこがいかにも。

Gerhard Richterについては、これまでずっと「保留」扱いにしてきた。
アート系の書店や洋書屋に行けばいくらでも作品集があるし、追っかけることは容易なのだろうが、じっくり直接見る機会ができるまでは、あんまし考えないでおこう、と。 
それくらい多様で多彩で、果てがないように見えたの。

60年代の初期のPhoto Paintingから入って、ふたつめくらいの部屋にデュシャンの「階段」と「大ガラス」を参照した作品があって、あーそういうことなのかも、と。

網膜に投影されて像をむすぶ絵画、具象、抽象、かたち、色、そして人、ランドスケープ、世界。
この時点でこれらは全て等価で、透過で、ではそれらがアート作品として知覚され美的体験みたいなところに届くまでになにが必要となるのか、どういうプロセスをたどるのか。

我々の知覚にとって美とはいったいなんでありうるのか。 絵画やオブジェはそこでどういう役割を担ってきたのか、担うべきなのか。
彼のアートはつねにここに立ち返る、というか、彼のアートはそのプロセスを検証し、括弧付きで「体験」するための道具、医療器具みたいなものとして「機能」し知覚にダイレクトに「作用」しようとしているかに見える。 だまし絵とか気づきなんかとは全く別のかたちで。

デュシャンが宙吊りにしてひっくり返した近代における「美」の様相を、「パブリック」という概念を軸に/梃子に展開していったのが50年代以降のアートだったとすると(超おおざっぱ)、Gerhard Richterの取り組みは、それすらも包含した、あらゆる対概念(抽象/具象、パブリック/プライベート、偶然/必然、写真/絵画、ガラスの向こう側/こちら側、等々)を取りこんで並列に置いて入れ子の刺し子になっただんだらでぼやぼやの世界を拡げてみせることだったのではないか。 パノラマ。

そういうかたちでしか、そういう機能や作用をもたらすアートとのインターアクションを通してしか、現代における「美」は知覚されえないのではないか、というちょっとしたひっかかりと、それでもなんで、ひとは美しさ、みたいなものを求めていくのか、ゴミとかクズとかではなく、という問いの隙間に彼のいろんなかたちをした作品群はあって、それらは通常、ぼくらなーんも知らないもん、という顔をしてそこに置かれている。

難解で、やかましくて、人目をひいて、過剰で、そういう形でしかそのありようを伝えることができない現代の「アート」と、ジャンクだのゴミだのクソだの、いろんな恐怖や脅威にまみれている「現実」「リアリティ」と、そういうなかで、彼の作品やオブジェは圧倒的に寡黙でプレーンで、そこにあるだけで。 しかしそれがなにか、ふつーの美術作品とは異なる位相にある、どこか違う像を目の表面に映してくれることがわかるのだった。

要はたんじゅんに、美しい、と思ってしまったのだった。 よいのかわるいのかわからんが。

会場をずうっとなめていくと、ものすごくいろんなバリエーションの作品がたっぶりあって飽きない。 
あとどれを見ても新鮮さと瑞々しさ、みたいのがずっと残るの。 
そして、どれもかっこよくて痺れる。
かんたんにいうとそんなとこ。

もう80歳なのね。 ぜんぜんそう思ってなかったけど。
やっぱしカタログ買ってしまう。 やけくそでハードカバーのほうを。

Tateを出て、せっかくだから買い物でも、とHarrodsに行ったのだが、めちゃくちゃな人混みで、びっくりして出てきた。 それにしてもあのデパート、なんであんなわけわかんない構造なの。

さっきまでの美術館のなかの光景と、これらは、それでも繋がっているのかいないのか-

昨晩とおなじく、BBC2でFritz Langの"Secret Beyond the Door…" (1947)なんかやってる。
すごすぎるー。
だからやめてってゆってるのに。 これから詰めものしないといけないのに…

12.20.2011

[film] Meet Me in St. Louis (1944)

ホテルに荷物をおろしてから再び外に出てBFI(British Film Institute)に向かう。

いまBFIでやっている特集はMGMのミュージカル特集、他には、なぜかソクーロフなんかもやってる。

MGMの特集から"Meet Me in St.Louise"と"Kiss Me Kate"(3D)を見る。
"Kiss Me Kate"は、ぜんぶで6回上映があるのだが、自分のとった8:40の以外はぜんぶ売り切れていた。
あと、BFIでは、"It's a Wonderful Life"(1946) もやっているのだが、これもSold Outしていた。

こういうとこ、欧米っていいなあ、とおもう。(New YorkとLondonだけかもだけど)
クリスマスには"It's a Wonderful Life"とか"Miracle on 34th St."を家族とか好きなひとと一緒に見るっていうのが年中行事みたいになっているとこが。
どっちもすんごーくよい映画、ではないかもしれないが(でも少なくとも悪い映画ではないよ)、みんなで代々、同じ季節に同じ画面を見て、同じように泣いたり笑ったりするのって、家族にとっても映画にとってもよいことよね。

"... St.Louise"がはじまるまでの約20分でBFI内の本屋をあさる。 
John Watersせんせいのサイン本があったので買った。

なんか食べものを入れないといけなかったので、そこらにいっぱい出てた屋台で、ヌガーを一枚買ってしまう。 なんでよりによってヌガーなのか、他にいっぱいあったろう? とあとで思ったのだが、よくわからない。しょうがない。
とってもおいしかった。 トスカーナの、って言ってたけどほんとうだろうか。

さて、"Meet Me in St.Louise"。
DVDも持ってるし、何回も見ているのだが、何回見たっていいにきまってる。

前回見たのはたしかFilm Forumで、とってもきれいなプリントだったが、今回のはあれを上回る。 
フィルムを水に浸したのではないか、と思われるくらい瑞々しくて鮮やかな色。
絵本の1ページにぐぐぅーって寄っていくとそこに映画の世界が広がっていくのだが、その先もまたひとつの絵本のように楽しくて、美しいの。 絵本でなにがわるいのか。

家族の四季、四季ごとの家族が描かれるし、邦題は『若草の頃』だったりするのだが、これの冬の巻は、ここんとこだけで最高のクリスマス映画だとおもう。

JudyがTootieにしんみりと歌う"Have Yourself a Merry Little Christmas"は、何回見たってTootieと同じように泣いてしまう。
で、胸と頭がいっぱいになってパニックおこしたTootieがびーびー泣きながら庭に飛びだして、雪だるまをぼこぼこに虐殺するとこで同じように胸がいっぱいになってつい周囲に雪だるまを探したくなる。(あったためしがない) 

きっとVincente Minnelliも、Judyの歌を聴いて同様に錯乱しちゃったんだとおもう。

しかし、こんなに泣けて泣けて狂おしいシーンなのに、これをげらげら笑いながら見る英国人とかいるんだよ。 ありえないよ。 パブでビールばっかし飲んでるとあんなふうになっちゃうんだねえ。 かわいそうに。

終わって、シアターの1から3に移動して"Kiss Me Kate"(1953) の3Dを見る。
3D版て、前Film Forumでやっていたのであるのは知っていたのだが、見るのははじめて。
入口で配ってた3Dのグラスが昔のElton Johnがやってたおもちゃみたいなやつで、なんかおかしい。

前座でBugs Bunnyのアニメーション -これも3D- が流れる。"Lumber Jack-Rabbit"ていうの。いいねえ。

で、"Kiss Me Kate"は、最初のMGMのライオンが飛びだしてくるの。 それだけでいいかんじ。

俳優さんはそんなぱっとしないし、歌がべらぼうにうまいわけでもないし、踊りもまた同様、ストーリーも、わざわざシェイクスピアに絡ませるほどでもなかろうに、程度で、でも、Cole Porterの音楽がよいので、それだけでいくらでも見て聴いていられる、しかも3D、そんなやつです。

それくらいで丁度いいのかも。 なんどもなんども見るには。

3Dは、最近のと比較してもぜんぜんしょぼくなかった。 技術的にこの頃のと今のって、どれくらい違うのだろうか、とか。


BBC2でFritz Langの"The Big Heat" (1953)がはじまってしまったよう。 
ねないといけないのにー。

[art] Leonardo da Vinci: Painter at the Court of Milan

17日土曜日のおはなし。
渡英前から、これだけは、映画いっぽんも見れなくても、これだけはなんとしても、だったのがこれ。
前売りは全日分既にSold Out。 チケットを取るにはその日の朝行って並ぶしかない。

8時半少し前に出たのだが地下鉄 (Jubilie…)が途中止まったりしやがって、着いたら9時を回っていた。National Galleryの前には誰もいなかったので、いないじゃん、と思ってのんきに写真撮ったりして遊んでて、でも背筋になんかやな予感が、と思ってちょっと離れたところをのぞいてみたら、そこにはぐちゃーっとありえない人溜まりが。 

もう並ぶしかないので並んだのだが、とにかく寒いし(マフラーも手袋もわすれた)、雨降ってくるし、泣きそうだった。 英国だから、ということでiPodでThe Smithをずっと流していたのだが、"Hatful of Hollow"を過ぎて"Meat is Murder"まで来たところであまりの寒さにコンクリにあたまぶつけて死にたくなってきたので、T-Rexとかに変えてぴょんぴょん跳ねて暖をとる。

列が動き始めたのが開館時間の10時、チケットを買えたのがようやく11時15分くらい。
その時点で取れた入場時間帯は1:30 - 2:00。 £16。 取れただけでじょうとう。

1:30迄隙間があいたので、隣のNational Portrait Galleryで展示をいくつか見る。
"The First Actresses"ていう英国の18世紀の女優さんたちの肖像画特集と、"Photographic Portrait Prize 2011"ていう2011年の肖像写真大賞受賞作品の展示。 なかなかよい写真がいっぱい。

http://www.npg.org.uk:8080/photoprize/site11/index.php

それから、National Galleryのカフェ、National Cafeっていうとこ(イタリアン)で、da Vinci展記念メニューみたいのをやってて、ついでだし、と食べた。(ミネストローネとサフランリゾット、ぜんぜんおいしい)

1:30に行ったらすんなり入れた。中は、普通の展示よりは混んでいたが、日本みたいに柵があるわけでもないし団子の列でべったり行進していくわけでもない。(あれ、変だよねえ)
とりあえずちっちゃい素描はほぼすっとぱして(後でカタログで見る)、でっかいやつだけ流していく。

da Vinciがミラノ公に仕えていた80'sから90's(あ、15世紀のね)の頃にフォーカスした展覧会。
画家としていちばんばりばりにキメてた時代のやつら、なの。 すごいの。

展示場である地下の部屋はぜんぶで6つ。
最初の部屋で脳の毛細血管がぷちぷち音を出しはじめて、ふたつめの部屋で鼻血だして卒倒しそうになり、鼻血も涎もいくらでも出ていい、失禁したっていいから目だけは最後まで生かしておいておねがい、とそこらじゅうに掛かっているマリアさまイエスさま達に手当たり次第お祈りしつつ、なんとか最後までいく。

昨年のBritish Museumでのルネサンスの素描展もすごかったがあれよか遥かに上を行く。
今年のアート関係の、たぶんベスト。 とんでもねえ。

"Portrait of Cecilia Gallerani (The Lady with an Ermine)"の白テンの毛皮のふさふさ、未完の"Saint Jerome"(ヴァチカンにあるやつ)の頭から首にかけての線のぎりぎり感、"The Virgin of the Rocks"のセカンドバージョンのほうの、天使のけつに食いこんだレースのひだひだ、"Christ as Salvator Mundi"の右手の完璧なフォルムと、宇宙がつまった水晶、その重みを支える左手の柔らかさ、などなど。

ルーブルにある"The Virgin of the Rocks"の最初のがあって、くるって振り返ると、セカンドバージョン(これはもともとNational Galleryにある)がそこにいるの。 前を見ても聖母、後ろを見ても聖母。 ありがたやありがたや。 

この先、どんだけデジタルアーカイブがあれこれどんだけ極めていったところで、今回のここで網膜から脳神経を走っていった電撃とアドレナリン嵐は逆立ちしたって再生できないね、て断言しよう。
モダンアートなんてくそくらえ、とかそういうことも思った。 
絵が、アートが、頭んなかに捩じこんでくる強さが、もうぜんぜんちがう。

別館地下のメインの展示コーナーのほかに、本館でも展示をやってて、そっちは「最後の晩餐」特集だった。「最後の…」絡みの習作いくつかと、オリジナルの修復期間中(20年以上)に代理で展示されていた弟子制作版の実物大のをそのまま運んできていた。 
これはこれで十分すごいの。 昨年マンハッタンで見たマルチメディア駆使したやつも、悪くはなかったけど、絵なんだから、こんなふうな絵でじゅうぶんじゃん、とか。

久々に本館のほうにも来たので、いつものようにHolbeinとRembrandtとRaphaelとVermeerをみる。(Vermeerは1点しかいなかった)あと、いつも乳をびろーんて出してて朗らかなPalma Vecchioのおねえさん(あんただれ?っていつもおもう)も。

da Vinciのカタログは、当然のように買う。 意地になってハードカバーのほうを。

それから歩いて前の晩のICAの本屋に行って、何冊か。

ひとつ買ったのはこれ。
http://www.thamesandhudson.com/9780500288917.html

そしたら、この本にはいろいろ問題があるらしいことがわかった。 ふうん。
http://fanzinesbytealtriggs.weebly.com/

この時点で両手が本でいっぱいになってしまったのだが、重いのは今日中に運んでしまおう、とそのままバスでRough TradeのEastに行って何枚か買った。 クリスマスで店内は賑わっていたものの獲物はあんましなかった。12inchなんまいか、7inchなんまいか、10inchいちまい、くらい。 あと本も少し。 

The Pogues & Kirsty MacCallの"Fairytale of New York"の7inchが再発されてた。 うれしい。

ここまでで、これいじょうの買い物はぜったい無理、になったのでバスでいったんホテルに戻る。

12.18.2011

[film] The Women (1939)

Londonの土日が終ってしまったよう。 
ぼろぼろのへろへろだが、とりあえず見たかったものは見れたかも。
だらだら書いていきますわ。

金曜の晩、奇跡的に空いたのでさっさと抜けて見にいったのがこれ。
ICA (Institute of Contemporary Arts)の映画部門で。
途中トラファルガー広場を抜けていったのだが、クリスマスにしては案外しょぼかったかも。

ICAのなかにある本屋というのがまた、地下出版好きの脳とココロをくすぐってくれるやつで、上映直前までじたばたうだうだした。(結局買わず … このときは。)

George Cukorの1939年作品。
George Cukorでいうと、38年の"Holiday"と40年の"The Philadelphia Story"の間にあるやつ。
しかしこのひと、38年から40年までの間に、uncreditのものも含めると全部で8本も撮ってるんだよ。 なんだそれ、だわよ。

客は全部で10人くらい。女子が8割。外国人1割。

もともとは演劇で、New Yorkではロングランを記録していたやつ。
この映画、子供も犬も馬も含めて男子は1匹も出てこないの。
マンハッタンの、当時の女子ネットワークのなかでのいろんなイベント(みんなでファッションショーに行くとこがあって、そこだけカラーになる)とかいざこざをリアルに楽しく描いてて、まあおもしろい。

夫と娘と一緒に幸せに暮らしていると思いこんでいたMaryは、噂が吹き溜まるネイルサロンで突然夫の浮気のことを聞いて愕然として、調べてみるとほんとうらしくて開いた口がふさがらず、更に相手(Joan Crawford)がデパートの香水売り場にいる下品でがらが悪い姐さんなので呆れかえって離婚・別居することにしたのだが、The Social Networkの表面張力の下ではミクロな戦いとか噛みつきあいとか罵倒ケツまくりとかが延々繰り広げられていくのだった。 そして戦いの決着は。

とにかく出てくる全員 - 母も娘も含めて - 全員ばりばりにタフでめげなくて、すごいの。
ふにゃふにゃしてて一番わるい旦那はもちろん最後まで登場しないのだが、女子語りのなかではぐさぐさに血祭りで面目も跡形もない。 

すごいすごいしか言えないけど、Norma Shearer, Joan Crawford, Rosalind Russellのフロント3人がとにかくすごい。 あんたらだったらそれぞれひとりでじゅうぶん立派に生きていけるでしょ、と思うのだが、そうではないのよ、というとことか … よくわからんが。

この映画、2008年にリメイクされてて(日本ではDVDスルー、邦題は『明日の私に着がえたら』…(恥))、フロントのキャストはそれぞれMeg Ryan, Eva Mendes, Annette Bening。 ちょっと見てみたいけど、オリジナルに勝てているとは思えないなー。

終って、後ろの列でずっときゃっきゃっ言いながら楽しそうに見ていた女子3人組のひとりが、あたしこの映画がほんとにほんとに大好きなのよ! て力強く言った。 よい娘さんだねえ。


いま、BBCでTake Thatの復活ライブなんかやってる。 Robbie、おもしろいねえ。

12.15.2011

[film] Moneyball (2011)

土曜日の午後に六本木で見ました。
これをNew Yorkで見なかった理由はかんたん、Oakland Athleticsの実話ドラマだから。

冒頭のFootageからJohnny "原始人" Damonが出てきて、Jason "筋肉バカ" Giambiが出てくる。
2001年のDivision Seriesの対Yankees戦。
これのあとで、原始人はRed Soxに行って、筋肉バカはYankeesに来て、暗黒の00年代がはじまったんである。
忘れるわけがない。 (これがNYで見なかった理由.. ざわざわうるさくなるにきまってるから)

んで、映画はこの敗戦をきっかけにはじまったAthleticsのGM - Billy Beane (Brad Pitt)の奮闘を描く。

Baseballの人材確保はつまるところ人身売買みたいなもんだ。その選手の夢とか将来までも買って、だめだったらぜんぶお払い箱で、それでも次のシーズン、次のゲームは続いていく。 そしてゲームは勝たなければ意味がなくて、勝つためにはお金がいる。
で、これをどうやって安くあげて、しかもゲームに勝って、みんなが幸せになれるのか、それを考えて実行することが肝心で、でもそれを従来の、ふつうのやり方でやっていてはだめだ - そんな時にでてきたのが、Jonah Hill と彼のもちこんだMoneyball理論なの。

Baseballを見にくるファンの代弁者という立場から人買いをするスカウトたちと、勝つために必要なリソース(出塁率の多いやつ)を確保して使おうとするフロント(GMとAGMだけだが)の確執、そのせめぎあいを軸に、GM自身の挫折した過去や彼の家族のお話をねじこんで、彼の捨て身の賭けと、でっかい賭場としての、アメリカ国民の「夢」としてのBaseballのありよう、その現在形を描き出す。 
もちろん、最終的なところは、シナリオ通りにはいかない - だからゲームなんだけど - というところにもちゃんと落ちている。

基本は脚本家(Aaron Sorkin & Steven Zaillian - ヒットメーカー)の映画なので、ほんとスムーズに、洟垂らしてぼーっとしながらでも見ていることはできる。 TVでBaseballの試合みてるのとおなじように。 それでよかったのかしら、とか。

そんなふうにきれいに進行していくかのようで、たまに、逆上したブラピがぼこぼこにものをぶっ壊すところがあって、それがよかった。
なんの説明も前置きもなしにどかどかがしゃーん、とかモノにあたるとこがいいの。

"The Social Network"では主人公がぼーっとしたナードの風貌の裏で平気でひとをばっさり切ったりするが、この主人公も一見快活なビジネスマンのようでいて裏にはもやもやぐしゃぐしゃの闇を抱えこんでいて、そのへんの出し方はよいかも。

Jonah Hill も、ほとんど"Cyrus" (2010)とおなじような不気味なキャラだが、いい。

Moneyball理論を適用したからと言って優勝できるわけではないし、同様にお金をかけたから優勝できる、というわけでもない、だからこそ止められないんだ、やるんだ! とかゆってBaseballに夢とか人生とかをぜんぶ託して、神目線で語られるようなのはまっぴらごめんなのだが、そういうとこは割と冷めてて、上に書いたようながしゃがしゃどがーん、とかでうまく回避できていたかも。 
うまくいくこともあるしいかないこともあるさ、それだけの-。


邦題は、『ブラピのきんたま野球』かなんかでよかったのにな。

12.13.2011

[film] Winter's Bone (2010)

一日だけ会社行ったってどうなるもんでもない、脳みそすかすかでなにも入ってこないし、昔のはぜんぶ忘れてるし。
そんな金曜日の晩、やけくそになって日比谷でみました。

見ておかないと次に帰ってくるころには終わっちゃいそうなやつ。
そいで、昨年、見そびれていたやつ。

山奥の村で、弟と妹と精神を病んだ母親とくらしているRee (Jennifer Lawrence)は、保釈中の父が行方不明になってて、このまま見つからないと父が勝手に担保にして置いていった今の家から出てってもらうことになる、と告げられる。

で、ひとりで身寄りとか伝手を頼って父の消息を尋ねていくのだが、誰ひとりいい顔はしなくて、首を突っこむな、と言われるし、脅迫みたいなことまで受ける。 彼女はそれらを通して、父はもうこの世にいないのだな、ということを悟り、今度は彼の死体を探すことにする。 彼の死を証明できない限り同じ目にあうことは見えているので-。

ものすごく寒くて冷たい、どんづまりの世界がここにはある。
それは、Occupied...の人たちが主張する99%のなんかとか格差とか、そういうのとは全く異なるレイヤーにあるそれで、社会の法とか流通とは別の経路にある掟、みたいなとこで動いていて、でも彼らはずうっとそうやって生活してきた。

Reeが迫害されるのは父の死の真相を探ろうとしたから、というよりは掟の外側で動こうとしていたからだ、ということが彼女にも、見ている我々にもわかってくる。 そういうふうにある社会とその端っこに立っているひとりの女の子の後姿が、ミズーリの冬の荒んだ景色(潰れた赤茶色の)と"Winter's Bone"というタイトルから寒風のようにこちらに向かって吹いてくる。

そんな守ってくれるんだが虐めてるんだかわからない親族共にたったひとり仏頂面で立ち向かうJennifer Lawrenceの存在感がすばらしいのだが、もうひとり、やさしくはないし狂犬のヤク中だし、でもなにかと彼女の側にいて動いてくれるおじ(父の兄)のTeardropを演じるJohn Hawkesもよいの。

このひと、こないだの"Martha Marcy May Marlene"でもMartha Mayを骨抜きにしてしまうカルトのリーダーをほとんどおなじ存在感で演じていたが、なんだろうね。 
がりがりの犬顔男と丸っこくてぶすっとした猫娘の組み合わせ。

犬とか牛とかいろんな家畜と同じ列でじーっと生きて動いているこれら、その風景がひたすら圧倒的なの。 すごいものが映っている、というよりはフィルムを塗りつぶすかのような光と湿度、水の冷たさが、まったく晴れ間と若葉のない世界がそこにある、ということが。
逃げ出そうとあがくわけでも、がんじがらめで身動きがとれないわけでもない、ただのぺたんこな地面としてそこにある、そういうー。

あと、2010年にこういう映画が出てきたことの意味を考えてみることだよね。

[film] The Girl with the Dragon Tattoo (2011)

ロンドンにおります。 ひどい天気〜 ひどい仕事〜

こっちから先に書いておく。

12日、成田で、いまのロンドンはほんとに見る映画がぜんぜんないようー、とぴーぴー泣いていたら、トレントおじさんが泣くんじゃないよ、これでもくらえ、って出してくれたのがこれ。 
洒落たことやってくれるじゃねえか。 これで2009年9月の西海岸の件はちょっとだけ許してあげよう。(まだゆってる)

12日の11:59pmスタートの一回きり、ロンドンでは1館だけ。 158分なので終わって戻ったら3:00amだろう。
それでも見るか? とフライトの間じゅうずっと悩んでいた。

13日には合衆国側が大西洋を渡ってくるので、自由時間が取れるのは12日の晩しかない。
どうせ時差もくそもないあたまとからだだし。
べつにそんな苦労してまで見なくたって。
でもアメリカで見るよかイギリスのほうかも。
ま、チケットなくなっている可能性だってあるしな。 などなど。

でもでも、やっぱし、2月まで待たされて映画泥棒のCMの後に見るのは嫌だったのだ。

ホテルに入ったのが夕方6時。仕事だの食糧調達だので軽く2時間。外は雨。
Twitterをちょっと見てしまったら、ロンドンのひと、Last Chanceだよ!とか言ってて、しょうがないので外に出る。
だめだったら、適当になんか見て帰ってくればいい。

で、地下鉄2回乗り継いで行ったら、チケットは簡単にもらえた。タダ。 一枚で二人入れる。
こんな雨の月曜日の深夜、あとちょっと待てば見れるやつにわざわざ来ないよね。

ホテルに戻って11時まで朝寝というのか夕寝というのかをして、地下鉄で向かう。
ぼーっとしていて、地下鉄のホームにiPhone落として、捕まえようとしたらそのままするするっと滑っていってホームの下に落ちてしまった。 慌てて駅員のひとを探して話したら、深夜に作業員が拾うようにしておくから、明日の朝にくるように、と。
こんなふうに時間をロスしてしまい、着いたのは10分前くらい。

劇場の入口は金属探知機ばりばりの厳戒態勢で、Blackberryまで取られてしまった。

もっている時計はあれだけなので、ほんとに11:59に始まったのかは不明。
場内は、センターのブロックはきちきちだったが、他は割と空いてたかも。

前置きが長くなりましたが。

まず、オープニングタイトルバック、あの"Immigrant Song"に乗って流れる映像がとんでもない。
こないだ公開された、ちょっと気取ったかんじのPVとはぜんぜんちがう、NINの新作PVとしか言いようがない、壊れた/壊される人体、マシーン、粘膜/粘液、流体、虫、花、カラス、等々 - NINの記号、刻印としか言いようのないあれこれが21世紀のデザイン/映像として再生される。
さらに痛快なのは、このイメージって、本編とはあんま関係ないように見えてしまうことなのよ。

わたしは原作本を読んでいないしこれの前の同原作の映画も見ていないので、これらとの比較で言うことはできないのだが、それでも十分におもしろかった。 "The Social Network"にあった脚本と音楽でぐいぐい前に引っ張っていく魔力こそ薄れているが、人里離れた島でひっそりと暮らす一族の間に張りめぐらされた暗黙のひだひだと40年前の失踪事件の謎解きを前作と同様のじぐざぐのナラティヴで表面にひっぱり出そうとする。
そしてこれは前作にはっきりとなかった、暴力と支配への衝動を凍てつく冬の光景のなかに対置・可視化していくこと。

それを探ることができたのは警察でも探偵でもなく、それまで全く異なるトラックを歩んできたジャーナリストとハッカー、それとテクノロジーだった、ということ。 
血(族)の記憶とCPUの衝突、化石として凍結された欲望、その噴出を。 その鉱脈を。  
...ヨーロッパ、そしてスカンジナビア...

世の中の多数のひとが望むであろうDavid Fincher的なモーメントはこれも前作同様、そんなにはない。(あるとこにはあるけど)
ここでのDaniel Craigは、007でもCowboyでもなく、ひたすら受け身でおろおろしっぱなしで、替りに、刺青を背負ったRooney MaraさんのLisbethが走りまわる。 本筋とは関係ないがロンドン地下鉄でのひったくりシーンの鮮やかなこと。

Rooney Maraさんて、"The Social Network"でEricaさんをやっていた娘だったのか。 
Sキャラ定着だねえ。

たぶん、メインプロットだけをとってしまえばごく普通のサイコスリラー仕様なので、歳末賞戦からは離れたところに置かれてしまうのかもしれませんが、D.FincherやT.Reznorの作品に親しんできた人たちは彼らの作品に浸る快楽はそういうところにあるのではないことを十分に知っていて、少なくともそれに応える内容のものではあるの。 だからいいの。

音楽は、前作よかTrent Reznor色がくっきりでた、何曲かはもろNINだろ、みたいのもある。
"Fragile"の持っていた夏のイメージを冬に持ってきたようなかんじのも。
あとはこまこましたトリートメントがところどころに。 きっと時間いっぱいあったんだろうな。

トリートメント、ということでいうと、とにかく半世紀以上に渡るいろんなヴィジュアル、戦前の家族写真から現代の監視カメラの映像まで、あらゆるヴィジュアルのパターンとヴァリエーションがミルフィーユみたいに織り込まれている。これらを追っていくだけですごくお勉強になるはず。 お金もかかっているねえ。

ラストは、ほんのちょっとだけせつない。 なんか東映ヤクザ映画のラストみたいな。
そしてクリスマスなんだよ。 せつなく終わるクリスマス映画なんだよ。
だから日本の2月公開なんて、ありえないのにさー。

あと、猫映画でもあるな。

出るときにポスターもらった。 どうしよこれ。

落っことしたiPhone、今朝駅に行ったら戻ってきた。 背中にひびが入ってたが動く。 えらい。


写真はぜんぜん関係ないけど、地下鉄のホームにがーんとでてた、"New Girl" - ZooeyさんのAD。

12.12.2011

[log] Dec.12, 2011

えー。 成田空港におりまして。

これからクリスマス休暇でロンドンに飛びます! きゃー。

...だったら素敵なんだけどな。

これは罰ゲームかなんかか。
しかし罰ゲームが一年以上続くか…

戻ってきたのが木曜日の晩なので、きんどうにち、みっかかんしかいなかったわけだ。
直接飛んじゃえばよかったのに、という声もたしかにある。
でも金曜日はちゃんと会社行ったし。
それにレコードとか本とか、いったん置きに戻る必要があったんだよ。
ほんとに重くて肩が抜けて腰に刺さるかとおもったんだよ。

クリスマス前には帰ってくるよてい。 
なにもなければな。(  …また)

一応、それなりに、健気に調べてみたものの、見事になにもないの。
アメリカの映画は入ってくるのちょっと遅いし。
ホリデーシーズンだしね。 そんなもんよね。

今回の相手は、アメリカの数十倍てごわいので、夜遊びしている暇はねえし。
連合国(アメリカ)側も合流してくるので、相手しなきゃいけないし。

しかしねむい。 四六時中ねむい。
体内時計がよっつくらいあって、みんなそれぞれ同期に失敗してぶっこわれているようなかんじ。
ずうっとこたつで丸まっていたい。

短い滞在でしたが、みっかかんで、3本見ました。
これらについてはまたそのうちー
   

12.10.2011

[log] NYそのた - Dec.2011

ぜっさん時差ぼけちうー。
NYからの帰りの飛行機では、3本ちょっとか。 あんまなかった。

"Crazy, Stupid, Love." (2011)
日本帰ってから劇場で見ようと思っていたのだが、時間が取れるかわかんなかったので、とりあえず見てしまった。 劇場で見たいよねえ、これ。

Steve Carellが長年連れ添ったJulianne Mooreに離婚を言い渡されて錯乱してるとこにぎんぎんのRyan Goslingが現れてナンパとかいろいろ指南してくれるの。で、いろんな女性(Marisa Tomeiさいこう)と関係を持つのだが、ずっといじいじして妻に未練があるの。 Steve CarellのおうちのBaby Sitter(Analeigh Tipton)は彼のことが好きで、でも彼女のことを好きなのは子守りをされてた彼の息子なの。 Ryan Goslingはそのうち弁護士の卵のEmma Stoneと出会ってめろめろになっていくの。 こんなふうにいろんな線がぐしゃぐしゃだし、とっちらかっているのだが、おもしろかった。

CrazyでStupidな"Love"ということもできるのかもだが、「狂人、愚人、愛人」でもいい。
邦題は、ぜんぜんだめよね。

それにしても、だ。 "Dirty Dancing"はオンナを落とすのにそんなに、そんなに有効なのだろうか。
昨年みた"Heartbreaker" のときはへらへら笑っていたが、2回続くと冗談とは思えない。
いつかやってみたいのだが、持ち上げたとこでぺっちゃんこだな。

それから半分寝ながら"Friends with Benefits"を、もう何回めだ?

それからドニー・イェンもの、ということで"The Lost Bladesman"ていうのを。
邦題は『三国志英傑伝 関羽』。

三国志も中国の歴史もぜんぜんわからないので、最初のうちはなにがなんだか誰が誰だかわからず、だったのだが、とにかくドニー関羽さんは最強である、と。強くて情に厚くて、毒を盛られても刺されても、ぜんぜん死なない。 最後にいくにつれてばらけていって血沸き肉踊るみたいなとこがなくなっていくのが残念なのだが、彼がでっかい剣をぶわーんて振りまわすとこだけで、十分なのね。

それから、邦画でも、と「モテキ」を見てみたのだが、なんかぜんぜんだめで、途中でやめちゃった。 なんでだろうねえ。 サブカルとかだめなんだよねえ、だけではないような気がした。ちょっと考えてみる。

でもさあ、"Crazy, Stupid, Love."見て、"Friends with Benefits"見て、これ見ると、ふつうに、たんじゅんに、日本てだめだな、て思わない?

もういっこ、買ったものとか、Brooklynの食べもののお話は、そのうち書きたい。
じかんがあれば。

[film] Mysteries of Lisbon (2010)

4日の日曜日(もう一週間前かあ..)、Brooklyn MuseumのあとでBAMに行って見ました。

BAMのCinematekでは、12月の頭から"Sound and Fury"というタイトルでポルトガル映画特集をやってて、そのなかの1本。 ちなみに同時期にLincoln CenterのFilmのとこはルーマニア映画祭やってた。 どっちも知らない世界ばっかしだったのだが、せめてこれくらいは、と。

昨年他界したチリ生まれの映画作家、Raul Ruizの遺作。原作は19世紀のCamilo Castelo Brancoの小説。 元々は1時間 x 6回のTVシリーズとして製作されたものを編集したもの。

休憩が1回はいる272分。この前の週は237分のだった。 これやると日曜の午後がぜんぶ潰れてしまうのだが、どっちにしても見れる機会がそうあるとは思えないから見よう、と。

そして"A Brighter Summer Day"もそうだったように、これもある時代の、ある場所の少年の彷徨いをみっちり描いていく。 ただ、そこに流れる時間のありようは、やはり、まったくちがう。

大枠は、孤児院に預けられている14歳のJoãoの自身の出生の謎を探る旅、なのであるが、途中からなにがなんだかわからなくなっていく。関わってくる人物がそのまま自身の過去を語り、更にその中の誰かがどっかに飛んで、誰かが誰かになって、記憶と回想とそれらを語る複数の声が交錯し反響し、どこに連れていかれるのかわからないようなナラティブのなかに閉じ込められてしまう。

Joãoが常に持ち運んでいる(母が与えたものだ)小さな玩具の舞台のなかですべては進行していくかに見えて、その舞台装置もまた、少年の置かれた時間のなかにある。

そんなふうに過去がまるごとぶちこまれた装置の総体を"Mysteries"と呼ぶことができるのかもしれないが、そこに難解さやとっつきにくさは全くなく、むしろ目眩を引きおこすような美しさが延々続いていくのでうっとりしているうちに終ってしまう。ソクーロフの「エルミタージュ..」のあの驚異が、どこを切っても、どこから見ても溜息がでるような瞬間の持続が4時間続く。

ポルトガル語の語り、何を考えているのかわからない顔、何かを考えている顔、強い目、建物の天井、壁、調度、光と影、晴れと雨、いろんなドレス、ひらひら。

でもこれは美術館ではなくて、これが、これこそが映画的経験としか言いようがないもので、そのために用意された4時間だったのだねえ、と。


ぜんぜん関係ありませんが、BAMのCinematekではこのあと、”Adventures in the 80s with David Gordon Green”ていう特集が始まったの。

"The Sitter"(Jonah Hillさいこう、たぶん)を作ったDavid Gordon Greenセレクトによる80年代の5本。 いいよねえ。見たかったよう。

- Risky Business (1983)
- Adventures in Babysitting (1987)
- Uncle Buck (1989)
- After Hours (1985)
- Something Wild (1986)

Jonah Hillにはもうちょっと歳取ったら"Uncle Buck"のリメイクをやってほしい。
だからあんま痩せないでね。

[art] Youth and Beauty: Art of the American Twenties

帰ってきました。 あうあう。

最後の日曜日、虫の息だったのであんまし無理はしないことにした。
久々にBrooklyn Museumに行って見た展示がふたつ。
最後に来たのはいつだったか。まだ改修前だったはず。

最初に見たほうの展示は、アメリカのJazz Age - 黄金の20年代を当時の絵画、写真、彫刻などから概観したもの。

http://www.brooklynmuseum.org/exhibitions/youth_beauty/

どれも無垢で素朴で若くてぴかぴかと力強く、よかったねえ、みたいな印象以外にはあまりない(とびぬけて見るべきところがあるわけでもない - はっきし言って)のだが、前日のMetでのStieglitzの時代展と繋がっているテーマも多く、ヨーロッパからの構成主義からの影響(これも素朴な)とかをあちこちに見ることができておもしろかった。
あとは層が厚くて、いっぱいある。 固まったムーブメント、というよりは群発地震のようにそこここでいろんなことが起こっていたことがよくわかる内容だった。 まさに"Youth and Beauty"。

展示のトップイメージになっているLuigi LucioniによるPaul Cadmusの肖像は小さいけど見事で、あとはEdward Hopperはやはり特異に見えるとか、『優雅な生活が最高の復讐である』のGerald Murphyがまとまっていていかったとか、個々にはいろいろー。

続いて、その下のフロアでこれ。

HIDE/SEEK: Difference and Desire in American Portraiture
http://npg.si.edu/exhibit/hideseek/index.html

アメリカのモダンアートが性や性差、その穴や溝や割れ目、でこぼこに対する欲望や目線をどう扱ってきたか、それが時代やテーマごとに表現にどう反映されてきたのか、というのを正面から扱った最初の(ほんと?)展覧会、昨年秋にワシントンのSmithsonianで行われたやつの巡回。

かんじとしては、昨年Tate Modernで見た"Exposed: Voyeurism, Surveillance and the Camera"に近かったかも。 でも印象としては極めて真面目な。 秘宝館みたいのではない。

展示の冒頭にあるのがThomas Cowperthwaite EakinsによるWalt Whitmanの肖像写真。

http://www.brooklynmuseum.org/exhibitions/hide_seek/eakins.php

しょっぱなからこれなの。すごいねえ。 そこからWalholとかJasper Jonesといった60年代の前衛を経由して最近のNan GoldinとかAnnie Leibovitzあたりまで。 
当然、裏に表に偏見、差別、AIDSといったテーマは反復されていく。

量も質もメジャーで、濃いのもいっぱいあって、ずうっと彷徨っているとだんだん性の不思議とその迷宮に呑みこまれていくような、それらの降って湧いてを絶えず繰り返してきたアメリカの近代、ってなんかすごいねえ、と。 
まあ、奥深いよね。 それはそれは。

12.07.2011

[log] Dec.7, 2011

あうあう。 というわけで、帰りのJFKに来ました。
どしゃ降りで車がぜんぜん動かず、いつものようにげろげろになった。

11/6に入ったので、ちょうど1ヶ月の滞在だった。短いよねえ。
あれも見れなかったこれも見れなかった、そんなのばっかし。
でも仕事できたんだからね、しょうがないよね。

まだ書いてないのも少しあるので、それらはおいおい。

今回、Brooklynの食べものばっかり追っていた気がする。
ほんとにおそるべし、だったの。

[music] Latterman - Dec.3

土曜日の晩、"Shame"のあとで、Williamsburgで見ました。
今回、時間がなかったこともありライブはぜんぜんだめで、やっぱしライブって映画と違って体力使いすぎてしまうし、でも音はずっと聴きたくてうずうずしてて、で、こいつでいいや、みたいなかんじ。 あんまよく知らずに。 ごめん。

当日で$14。 これの前後のMaxwellsもBell HouseもSold Outしてた。

前座の2番手、Explosivo!から。
ルックスはぜんいん見事にごめんなさいだったが、音はいかった。
2台のギターをカッティングとメロでうまく使い分けてて外見とは別に丁寧にあげていくかんじ。

Lattermanが出てきたのは10時半すぎくらい。
すごい人気だったのね。 でした。

ライブは5年ぶり、とか言ってて、客もそんなに若い子はいなかったが、しょっぱなからものすごい盛りあがりで、大合唱になって、遠くで見てても気持ちよかった。
始めのうちはダイブやモッシュもいっぱい、だったが、メンバーのひとが、「こらこら、いまそこで人の頭をふんずけた奴がいるだろー? まずそれやったらちゃんと謝るように。 それからなにより、そんなことしないことだよ!」 とかちゃんと言っててよいかんじだった。

このエリアで見たことがあるのって、Against Me! くらいだったが、音としてはほんとに完成度高いし、音はぱりぱり気持ちよく走っていくし、客もみんな喜んで笑っているし、別にいいじゃん、いいよね、なのだった。 (なんか大人目線) 

帰り、おみあげにアナログ買って帰ろうかなー、と思ったがすでに半端でない量を抱えていたので、素直に諦めた。

今年、あといっかいくらいはライブ行きたいよう。

[film] Shame (2011)

Brooklynでお菓子をしぬほど食べたあと、土曜日の夕方に、Chelseaのシネコンで見ました。

Steve McQueenによる英国映画。 NC17指定。

マンハッタンの31stのモダンなアパートに暮らすBrandon (Michael Fassbender)は、独り身で容姿はかっこいいのにSex中毒で、コールガールを含めいろんなひととやりまくり、シャワーしてても自慰、会社のトイレでも自慰、おうち帰ってPC立ち上げたらエロ画像、と、棒いっぽんを中心に全ての生活がまわっているかんじ。

で、そんな彼のとこにあばずれで奔放な妹(Carey Mulligan - いきなりすっぱだか)が転がりこんできて、いろいろ挑発みたいなことするし、自慰してるとこ見られちゃうし、いらいらしまくって、ぶちきれて大喧嘩したら妹は行き場を失ってリストカットしちゃって、兄はああおれはなんて恥ずかしい人間なんだらう、ってしみじみ泣くの。 それだけなの。

Brandonはアナログでグールドのバッハ聴いたりする、村上春樹の小説の登場人物みたいな奴だし、妹萌えでもんもんするとことかも、設定は日本のドラマみたいなのだが、貧乏くさいかんじが全くしないのは、要は日本にはひとりのMichael FassbenderもひとりのCarey Mulliganもいない、ということに尽きるのではないか。

Michael Fassbenderさんは、冒頭からすっぱだかでずっとうろうろするし、自慰やるわ男ともやるわ3Pだってやるわ、悶え顔苦悶顔泣き顔ぜんぶ出してて偉いねえ、これらの点に関しては"Shame"でもなんでもないなあ、と。

えらい長回しがいっぱいあって。
妹と上司と3人で飲んで、アパートになだれこんだら妹と上司がいちゃつきはじめて、いたたまれなくなった彼が運動着に着替えて外に走り出すとこがあるのだが、5th Aveからまっすぐ西に、Madison Square Gardenのとこまで全力疾走するとこを切れ目なしで撮っている。
あれ、ぜんぶレール敷いたのだとしたらすげえ。

あとは、歌手をやってる妹がダウンタウンのバーで"New York, New York"を歌うシーンがあって、兄はその歌を聴いて不覚にも泣いちゃったりするのだが、その歌のシーンも一気に。

他にも、会社の同僚の女の子を誘ってのディナーで、レストランに着席してからオーダーして会話がぎこちなく噛みあわないまま進行していくとこをぜんぶ、そのまま垂れ流している。 
なんかすごい。

しかし、"A Dangerous Method" (2011)でユングやって、その次にこれ、って。
要は、すけべ、ってことなのね。


終わって、監督の名前がスクリーンに出たら、前の席にいたおばあさんが、「あれ、生きてたのね」て呟いたのがおかしかった。

[art] Maurizio Cattelan: All

最後の土日でした。 まあいろいろ。 へとへと。

今回、展覧会かんけいは、あんまいいのがなくて、でもこれだけは、だったのがGuggenheimでのこれ。

で、これに行くならついでにこれもか、とまずはMetropolitan Museumのこっちの展示に行った。

"Stieglitz and His Artists: Matisse to O'Keeffe"

Metは軽く100回は通っているとおもうが、9:30の開館前に並んだのははじめて。
Suggestedの入場料が$25になっていた。 行くたびに上がっていくねえ。

展示場に行く途中のとこで、"Infinite Jest : Caricature and Satire from Leonardo to Levine"ていうのをやってて、まだだれもいない展示コーナーのしょっぱなにda Vinciのデッサンが掛けてあったので、20cmくらいのとこでそれだけじーっと見て通過する。

Stieglitzが20世紀初に5th Aveにオープンした"291" (Gallery)を経由して紹介されたヨーロッパの当時のModern Art - Rodin, Matisse, Picasso, Picabia, 彼の周辺にいた同時代の画家たち -  John Marin, Marius de Zayas, Charles Demuth、同時代の写真家たち - Edward Steichen, Paul Strand、そして、One and Onlyの Georgia O'Keeffe。

とにかくざーっと急ぎでなめてしまった(25分、$25で)ので、ふむふむふむ、だったのだが、もうちょっとちゃんと見ておけば、とこういうのに限って後から。 StieglitzやSteichenの(今見てもじゅうぶんに)かっこよい写真達がアメリカのモダンアートにもたらした影響、を別の角度から、群像劇のようなかたちであぶり出す、一見軽いようでとっても深くて素敵な展示でした。

Carles Demuthの作品を纏めて見れたのはよかったし、Stieglitzの撮ったO'Keeffeのエロくてかっこいいことったら。

そのあとで、Guggenheimまで小走りして、10時の開館とともに中に入って、みました。
天井からじゃらじゃらぶらさがったいろんなのを見たり探したりしつつ、あの廊下をぐるぐる回りながら登っていくのが問答無用に楽しい。
たまに、ぶらさがった玩具の人形が突然太鼓たたいたりして。 (Occupy...の人たちが来たのかとおもったよ)
こんなの、"All"...   としか言いようがないよね。

写真は、左がエントランスから上をみたとこ、真ん中がまんなかあたり、右がてっぺんから下をみたとこ。 実際にはもっとぐじゃぐじゃ。



ここまでここの天井をうまく使った展示って、あんましなかったかも。

まるでクリスマスツリーだよねえ、と思ったとこで、Metropolitanのツリーを見ていなかったことに気付いたのだったが、そんなかんじ。

あれらぜんぶのぐじゃぐじゃをどうやって吊っていったか、はMuseumのサイトにいくと動画で見れます。

で、夜になると吊り紐がきいきい鳴りだして、こいつらは動きだすんだよ...

12.06.2011

[log] Occupy Lincoln Center - Dec.1st 2011

木曜日、いよいよいろんなのがやばくなり、週末に予定していた出国がだめになったところで、そういえばOccupy Wall Steetに行っていなかったな、と。  
映画と食べものばっかし追いかけてて(あ、仕事もね)、すっかり忘れていた。

わたしはヒ弱でキ弱な負け犬系サヨクなので、こういうのは喜んで、いや、喜んじゃいけないけど、行く。

99%ばんざい。 えいえいおー。

夕方7時過ぎにWall SteetのベースであるZuccotti Parkに。
どっかに書いたかも知れんが、90年代と00年代の一時期、ここの半径50m圏内で働いていたことがあるので、ここの公園にはいろんな思い出がいっぱいある。
なので、ニュースとかでここでのいろんな小競り合いが報じられるたびになんかきゅーんとしていたのだが、戻ってみると、ああ懐かしいなー、しか出てこない。 よくないけど、いい。

この日の昼間は、ここでJackson Browneのライブ、というほどではない弾き語りとかがあったらしいのだが、晩は、(たぶん)いつものようにみんなで円陣をくんで、ひとりひとりの発言をみんなで復唱してた。 これは前日のJem Cohenのショートでも見ていて、復唱する、というとこでなんかセクトっぽい臭いがして嫌なかんじがしないでもなかったのだが、輪のなかに入ってみると、ここでのそれはあくまで、後ろのほうのひとにも言っていることがわかるようにすることを目的としたものなのね、ということがわかる。 (聞こえないひとは手をあげてひらひらさせること)

グラウンドゼロに建設中の新しいビルも見た。 タワーと、もういっこのガラスのやつ。
なんかねえ、タワーは別(どうでもいいや、あんなの)として、もういっこのやつを見ると、目の前に前のやつがぼうっと浮かんでくるよね。
お昼にZuccotti Parkを抜けてランチを買いに行くその先にあったWTCの入口がそのまま浮かんで、あれ、泣くひとは泣いちゃうとおもう。

で、いったん部屋に荷物を置いて、Lincoln Centerにむかう。
10:30pmからOccupy Lincoln CenterていうのがあってPhillip Grassさんがなんかやる、と。

10:30に着いたときは、まだ20~30人くらいしかいなかった。
でもNYPDがバリケード立てて、広場に入れないようにしてて、そいつを挟んで睨みあいをしているのだった。
ただ、抗議する側の基本は非暴力のガンジーであるから、睨みあいと言っても、「おじさんそんなとこに立ってなにしてるの~?」とか「子供にそんなとこ見せておとうさんはずかしくないの~?」とか、そんな呼びかけ(主に女性から)が多い。

柵を越えてビラ新聞"Occupy Wall Steer Journal"をばらまくおじさんがたまに警察にどつかれている程度だった。 (どつかれるたびにカメラが一斉にそっちのほうに、「証拠映像」を撮りにいくのでNYPDもやりにくそうで)

ここの広場はみんなのパブリックスペースで、観劇の前とか後とかに、みんなでわいわいする楽しい憩いの場のはずだったのに、それがなんで、デモするってだけで締め出されなきゃいけないのか、Bloombergでてこい! なのだった。

11時近くになって、南のほうからちんどん屋みたいにどかどかどんちきした一団が流れてきてわれわれ(われわれ、だってさ)の一団と合流して、下でやっていたのと同じような抗議の復唱がはじまる。 (なにかしゃべりたいひとは受付の女性のとこに行って名前を書いて順番に、というルールがあるらし)

寒くてしょうがなくなってきたので輪にはいって一緒に復唱する。
いろんなひとがいろんなことを言うのでおもしろかった。
ライブのCall & Resとおなじようなもん、とか、英語のレッスンみたいなかんじもした。
で、そうしているうちにいつのまにかPhillip Grassさんが輪のなかにいて、ステートメントを読みあげたの。 
(ちなみに丁度この晩、Metropolitan Opera Houseで、彼のオペラ、"Satyagraha" - ガンジーがテーマの - が上演されていた)
これがそのとき彼が読みあげたビラね。 これを3回リピートしたの。
 

ちょっと背中をまるめた、もうおじいさんといってもよい彼が、声をはりあげて"Mic Check, Mic Check!"(て最初にいうのが決まり)とかやっているのを見るのは、なかなかよい光景だった。 

そのうち、オペラが終わった客も柵の向こう側から合流してきて柵の向こうから柵なんてどけちゃえ、ってどかしたりした(で、しばらくすると戻しにくるの...  これがえんえん)。

しかし、Wall stもそうだったが、全体の雰囲気はとてもフレンドリーでやわらかくて、居心地がよい。
これじゃテントはって、共同生活したくなっちゃうかも。
変わるものはこういうところからしか変わらないし、変わらないものはどうせ変わらないだろう。 そんなんでいいのかも、って。

この場所での議論、ということだと、アートってなんのための、だれのためのもんなの? だれも買えないようなチケットの値段設定して、喜んでいるのはだれなの? (Bloomberg? )  というのが繰り返しでた。
それは日本でも同じなんだけどね。 あの国はみんなよいこだよね。

これの翌日、金曜の晩はOccupy Broadway、ていうのがあって、仕事の帰りに寄ってみたが、もともとざわざわした場所であるせいか、あんま緊張感ないままに進んでいるようだったので、少しいて帰った。

写真もいっぱい撮ったのだったが、Upして面倒なことになるとやなので、Upするのはやめた。

[film] Eames: The Architect & The Painter (2011)

すべてがぐしゃぐしゃに崩壊してブラックアウト寸前まで、行くとこまで行ってしまいそうな予感を抱えつつ、とりあえず火曜日の晩、IFCで見ました。

上映前の予告編の枠で、Jem CohenのOccupy Wall Streetに関するショート"Newsreels"が流れる。
忘れてはいけないのだった。ここで見れます。

http://vimeo.com/ifccenter

Eames夫妻のドキュメンタリー。 ナレーションはJames Francoさん。

http://firstrunfeatures.com/eames/

断っておくが、わたしはスノビッシュに余裕たっぷりにEamesの椅子だのコルビジェだのを語るCASA Brutus野郎共(会ったことはないけど)なんかだいっきらいだ。
たかが椅子じゃねえか、と思うし、連中の嗜好愛好するデザインやインテリアが世界から消えてくれたらどんなに世界はすっきりするだろう、ておもう。

でも、Eamesに関していうと、この映画を見ればわかるのだが、椅子はあくまで彼らのキャリアの出発点でしかなくて、もっと大きな視野と世界観に立っていろんなことをやろうとしていたのだ(- アメリカ人的なおめでたさ - よくもわるくも - はあるにせよ)、ということを俯瞰できる内容になっている。

うんと省略して言ってしまうと、Steve JobsやGoogleが今のITの世界でやったこと、やろうとしたことを50年代から、デザインの世界で、いや、デザインというより世界の見方接し方を、デザインを媒介とすることでドラスティックに変えようとした、今でいうVisionaryでありInnovatorであった、と。

で、それをカリスマ的なオーラと実行力でぐいぐい引っぱって進めていった(夫Charlesのほうはそうだったみたいだが)、というより夫妻ふたりの関係 - ArchitectからドロップアウトしたCharlesとPainterの目をもったほんわかしたおばさんのRay - を軸に周囲を巻き込んで共同作業として転がしていった、その様が、関係者の証言と、彼らの残した映像、特にフィルムを中心にわかりやすく綴られている。

これらはそんな二人だったから、この二人のケミストリーがあったからこそできたことだった、と。
それは、まだまだ豊かだったアメリカと50~60年代の西海岸の空気が可能にしたものだったのかもしれないが、なんか楽しそうでいいよねー、と。 

64年のNY万博のIBMパビリオンの展示とか、”The World of Franklin and Jefferson”の展示とか、今見たらどんなだろう(どっかで見れるみたいだが)、て思う。 見たいな、と残されたフィルムの抜粋あれこれを見ていくとふつふつと思うのだった。 こないだのSaul Bassのとおなじく。

最後のほうで、Charlesの愛人問題とかにも少し触れられるのだが、Charlesが亡くなった、そこから丁度10年後の全く同じ日にRayも亡くなる、そのへんの符合は、なんかすごいねえ。 ふたりで示しあわせたのだろうか、とか。

12.03.2011

[film] Drive (2011)

28日、月曜日の晩、Times Squareのシネコンで、なんとなく見逃していたやつを1本。

Ryan GoslingがロスのDriverで、こないだMOMAで見た"The Driver"(1978)みたいに強盗の後の車での逃亡を請負してて、普段は映画のカーシーンのスタントとか車の整備とかしているの。

アパートの並びの部屋の刑務所に入っている夫を待っているCarey Mulligan(+その連れ子)とちょっと仲良くなって、彼女の夫が出所してきたとこで、つきあいで彼の仕事の手助けをしたらそいつがやばい金で、なかなかやばいことになる。

Ryan Goslingは楊枝くわえて終始無表情で殆どしゃべらなくて、Carey Mulliganと話すときだけ、ちょっとだけ柔らかくなって、そのトーンで穏やかに進むのかと思ったら、後半はなかなかぐさぐさでえぐいかんじに。

Ryan Goslingの短髪でつるっとした無愛想なとこ、訳ありでちょっと疲れたかんじのCarey Mulliganのショート、黒字にピンクの手書きのタイトル、その字体のままのエンドロール(ロールしないでぱらぱらめくられていくの)、がんがん流れるやや暗めのシンセポップ(だれだこれ?)、悪役のAlbert BrooksとRon Perlmanのいかにも悪悪なかんじ、とにかく全編に80年代テイストむんむんなの。 

そうした必然はあんまわからんが、主演のふたりが見事にそこにはまってしまっているので、まったく文句ない。

Ryan Goslingは、こないだの"Blue Valentine"でも、"The Notebook"ですら、いつ突然ぷちって切れて暴走するかまったく読めない不気味さがたまんないのだが、この作品はほとんど、そこのみにフォーカスしている。

Carey Mulliganさんも、ほんとにうまいのねこの娘さんは。

もう12月なのかー。
ほんとは今頃空港に向かっているはずだったのだが。 また延びたの ...

[film] A Brighter Summer Day (1991)

ぽかぽかと異様にあったかい。 日曜日は午後から映画1本だけ。 『牯嶺街少年殺人事件』。

Martin ScorseseのWorld Cinema Foundationによって2009年にリストアされた237分のDirectors Cut。(昨年秋、BAMでの上映のときに逃したやつ)

これが1週間、Lincoln Centerで2:00と7:00の回だけ上映されていて、それに合わせてEdward Yangのレトロスペクティブがあったの。
これがThanks Givingの連休にもろにぶつかっていた。もちろん見たいのばかりだったのだが、感謝祭にレトロ台湾というのは、なんか違う気がしてー。  でもこれくらいは見ておかないと、と。

最初の数日はEdward Yang婦人が挨拶に来たりしてて、最終日の(12/1)は、Mingを演じたLisa Yang(米国在住)が挨拶したという。(みたかったなー)

本土と台湾の関係があって、戦後の復興期で、貧しいながらも教育には熱心な家族と兄弟姉妹があり、幼馴染がいて、学校があり、学園ドラマがあり、学校の外でのいざこざとか対立するグループがあり、その外には闇とか大人の世界とかがあり、やくざがいて金持ちがいて、「戦後」のアメリカンポップスが流れてきて、雨がふったり晴れたりして、大人になりかけた少年は少女に強く、一途に恋をして、やがて。

それは例えばコッポラやヴィスコンティの映画に流れる時間とは結構違って、これらは確かにどこかで見ていて、自分もそのはじっこの切れ端を知っている50年代末~60年代初のアジアの風景や家屋や学校で、でも、それだからといって、よくできているとか、親しみをおぼえるとか、なつかしいとか、そういう感慨はあまり湧いてこなくて、これらの風景はひたすら生々しく圧倒的にそこにある。

それはロングでひととひとの目があったときに、微笑むか、じっと見つめあうか、なんだてめえおら、って追っかけてくるか、その眼差しのどれかどこかにしかひとは属していない、そういう切迫感のなかにある、そのなかにしかないような、そういう世界なのだった。

あるいは、向かい合ってどつきあうか、横に並んで一緒に歩いていくか、そのどちらかのトラックにしか、ひとはいないような。 
"One Track Mind"。 ElvisじゃなくてJohnny Thundersが流れてもよかった。

だから、これらのいろんな要素が湿気のようにつぶつぶじっとりと纏わりついてくる風景のなか、少年がその無表情の裏でどこまでも切羽詰っていくかんじがたまらないのだし、最後のあの瞬間も、あまりに唐突でびっくりで、でも他に行きようがないかんじで(後から)納得がいく、それは彼らの会話のなかに出てくるトルストイのどんな小説よか哀切でエモーショナルな一瞬、なのだった。  

あのふたりが画面のなかに黙っているだけで、なんであんなにたまらなくなってしまうのか、ほんとにわからん。

どしゃぶりの中の闇討ちのシーンは、しみじみすごかった。 鳥肌もん。

音楽は、ほんとにいいなー。 バンドの演奏も、繰り返し流れる"A Brighter Summer Day"も。

休憩あるかと思ったらぜんぜんなかった。 237分。

これの後で、"Yi Yi"(2000)(ヤンヤン 夏の思い出)- 173分もあったのだったが、ものすごくおなかいっぱいになったので、帰りました。