2.29.2016

[film] The Walk (2015) - 3D

19日の金曜日の晩、二子玉川のシネコンでみました。終っちゃいそうだったし。

フランスの軽業師、綱渡り師のPhilippe Petit が1974年に建てられたばかり(でも開業前)のWorld Trade Center(WTC)2棟のあいだにワイアーを張ってひょいひょい渡って落っこちることなく生還したという事実を彼の回顧本をベースに映画化したもの。

この出来事については、2009年のオスカーを受賞したBBC製作によるドキュメンタリーフィルム - “Man on Wire” (2008)があって、実際の映像や事実関係はそちらを見ればよろしいの。
でもこれを見たとき、確かに冗談みたいにすごいことをやってのけたねえ偉いねえ、と感心する反面、達成したことが冗談みたいにすごすぎるので、ほぼPhilippe Petitとその仲間にのみフォーカスがあたってしまう(ので、なんかうざい)ことだった。 これがフィクションとして撮られたらどんなにかダイナミックで素敵なものになったことでしょう、と当時は思ったものだった。

映画は自由の女神のPhilippe Petit (Joseph Gordon-Levitt)の語りで、若い頃に綱渡りの師 (Ben Kingsley)と出会って修行して軽業師として活躍始めた頃、WTC建設の計画を知って電気が走って、あそこに昇って綱渡りをしよう、て夢を描いて仲間=共犯者を集めて、というフランスを舞台にした前半部、ほんとにNew Yorkに渡って計画を実行に移すまでの後半部からなる。

もういっこ“Man on Wire”を見たときに思ったのは、かれの無謀な計画を実行してあげた/させてあげたのはNorth TowerとSouth Towerの2棟の兄弟であって、彼らへのリスペクトがちょっと足らないんじゃないか、ということだった。今度の映画化でその辺はじゅうぶん、もちろん彼らは既に亡くなっているので殆どCGなのだが、Philippeの魂に火をつけた、彼を焦がしたWTCの魅力はそこで働く人たちの動きも含めて伝わってくるの。

ビルの下の道路幅とか間近でみたときの壁の陰影とか、細かくみるとやっぱCGよね、みたいなところはあったけど、でもいいの。そういうところも含めてすべてはもう再現不能な遠い昔のなにかになってしまったんだなあ、って少ししみじみした。

ひとは何故山に登るのか - 最近でてきた邦画洋画それぞれのエベレスト登頂ドラマ(どっちも見てないや)のなんともいえないうっとおしさ - 主人公たちの達成感とかマルチ苦労話をなんで強要されにゃあかんのか - みたいな要素は薄い。
シンプルににょっきり伸びた2本の高層ビルの間にワイヤーいっぽんぴーんと張って、その上を歩いてみる、それだけ。 克服すべきは高さと細さと、それらからくる不安定さ、だけ、捕まっても外国人ですから、で逃げられるよね、程度でなんとかなると思っている軽さがすばらし。 そして映画は「高い」っていうのはどんなふうに地面から遠くて、そこを「歩く」っていうのはどんな具合に危ないのか、をPhilippeの目と動きを通して存分に教えてくれる。 教えてもらっても使えないけど - 新しいOne World Trade Centerでは。

あとはJoseph Gordon-Levittのお見事な軽さ - いま、町の軽業師を演じるのにこんなにふさわしい人がいるだろうか。
ついこないだの"Premium Rush" (2012)で高速の自転車乗りとしてマンハッタンじゅうの道路を自在に行き来して制覇して、"Inception" (2010)では現実と夢の間を自在に、"Looper" (2012)では時間を、"Don Jon" (2013)では次から次へと女性を... 
壁を伝ってひょいひょい飛び越えて、ガッツポーズしていつもへらへら笑っている。 かっこいいったらないの。


終ってから、はじめて蔦屋家電ていうのを見てまわった。  蔦屋だわ、ておもった。  いじょう。

[film] 桜の代紋 (1973)

18日、木曜日の晩 、時間が空いたので、京橋の三隅研次特集で見ました。
英語題は"Cherry Emblem" とかで、10年後くらいにJames Gray +  Joaquin Phoenix でリメイクしてほしい。

大阪(? 関西弁)で暴力団担当のベテランやくざ刑事 奥村(若山富三郎)がいて、勢力伸び盛りの組にそろそろいい加減にしろやとか言っていたら、闇で銃器一式を仕入れたあとで警官を殺して逃走、ていう事件がおこって、主犯はもしゃもしゃアフロでなに考えてるかわからない凶暴な石橋蓮司で、そいつを若山がなんとか捕まえて尋問するけど知らんぷりするので静かにブチ切れ、何日も眠らせないでおいたあと、とつぜんアフロに柔道着を着せて道場で玩具みたいにべしゃべしゃ畳に叩きつけるのが最初のすごいとこ。

でも、そうしている間に信頼しているやくざ(大木実)の組はひとひねりで潰され、かわいがっていた部下(ぴちぴちの関口宏とか)は殺され、内部に密通者がいることがわかってふざけんなになった途端にそいつも消され、ついには自分の家族にまで手を出されて、わかりましたもうやめてください、て事務所にいったら当然のように雑布みたいにぐさぐさの半殺しにされて、さて。
ここから先は書かなくても。

勝プロ製作だし、と身構えていたほどバイオレントな描写はなくて(でも、ぴゅぅー、ていうのはやめてほしい)、派手なアクションも絶叫も慟哭もなくて、寡黙でごにょごにょいう奥村のぶっころすぞてめえ、の不穏な目つきがひたすらおっかなくて、その目がじーっとなにかを伝えたらあとはドン!(壊)、なの。 特にラストのたったひとりの殴りこみの殺気 - 殺気ってどういうふうに画面に映りこんでくるのか - 例えばこんなふうで、奥山の赤黒く腫れあがった顔が濡れていると思ったそのあと、ひたすら唐突で瞬時の問答無用の圧殺をもたらすなにかで、どこまでも容赦ない。 ひー、しか出てこない。

どうやって撮っているのかわからないが、大阪の街や路上がところどころ水やガラスの上に浮かびあがっているような不思議な透明な見え方をしていて、やくざも警察も彼らの繰り出す暴力も権力も互いに張りめぐらされたいろんな糸も、結局のところ脆いなにかの上でバランスしているだけで、奥山ひとりの沸点越えであっという間に崩れさり、大ボスの大滝秀治に撃ち込まれた渾身の銃弾で揺さぶられた椅子の反動はそのまま奥山を牢屋に放りこむ。

とにかくおっかなかったよう。

2.28.2016

[film] Kyoto, My Mother's Place (1991)

16日の火曜日、だるすぎたので会社休んで、最初はおとなしく寝ていたのだが、なんか散歩でもするかと思って、気がついたらシネマヴェーラにいて、『フィクションとドキュメンタリーのボーダーを超えて』ていう特集から1本を。 1本だけ。 50分だし、いいかって。

大島渚本人のナレーション・出演で、亡き母のポートレートから入って彼女の暮らした京都、自分が生まれて育った京都という場所、日本を代表する観光都市でもある古都について、自身も現地を歩きながら紹介していく。 自分の母はどんなひとだったのか - 明るくて控えめで典型的な京女 - その人はどんな家で育ったのか - 京町家 - うなぎの寝床 - どうしてそんな家の構造になっていたのか、というあたりから京都というにっぽんの歴史から見ても特異な都の成り立ちや容貌、そこに長く横たわって人々を縛るなにか、なども含めて明らかにし、それは母だけでなく自分の生、自分の家族にも明らかに影響を及ぼしていて、更にそれは自分だけのことではなく現代の京都とそこに暮らす人たちにとってもそうなのだ、と。
そう、だから京都はこんなふうなんですよ、と。  BCCの依頼で製作されたフィルム、だそう。

My Mother’s Place。 “Land”でも”City”でも”Town”でもなく、”Place”という言い方。
Kyotoという場所、容れ物 -  その土地を崇めてこんなにもすごいんだから、て自慢するのではなく、世界のどこの誰にだってMy Mother’s Place はあり、My Father’s Placeはあるよね、という。

それにしても、母、自分、自分史、家族史とそれが成長したり展開していったりした土地、町の紹介、これをたったの50分間に詰めこんでしまうなんてすごすぎる。 「失われた時を求めて」から恋愛のパートをとっぱらって - そんなのありえないけど - 思いっきり煮詰めて縮めたらこんなふうになるのかもしれない。

この週末に京橋でみた『古都憂愁 姉いもうと』(1967) と併映するととってもよいかも、と思った。


このあと、渋谷から新宿に移動して文化学園服飾博物館で終っちゃいそうだった展示をみました。

「魔除け -身にまとう祈るこころ-」

世界じゅうのいろんな民族は、それぞれの長い歴史とか風土とか慣習とかを通して、それぞれはなにを魔とか邪とかよくないものとして見て、それを避けたりそこから自分たちを守るためにどんなふうに服飾の色や形や道具をつくり、継承してきたりしたのか。

さっきの”Kyoto, My Mother's Place”が都市、町の魔除け仕様(風水とか)の紹介のようなところもあったので、ああ繋がったかも、とかおもった。

展示数はそんなに多くなかったが、国や民族ごとにあたりまえのように違っていておもしろかった。
とくに、何を危険な魔のものとして捉えるか、何をどんなときにどう守りたいのか、ていう角度で見て行くとなるほどねー、と。 これらをたんじゅんに「ダイバーシティ」とか言って頷こうもんならあっというまに祟られちゃうからね。しらないからね。

日本だと、ねんねこ半纏、とか、いぬばこ、とか、縫い終わりの糸、とか、背守り、とか、こぎん、とか。 ひし形とか龍とか虎とか。 背中を守るんだねえ。

台湾のタイヤル族の赤とか百歩蛇とか。アンチモニーのゴス化粧とか。黒い馬とか山羊の毛とか。
パンクとかゴスのファッションて魔除けなのね、たぶん。て思った。

北欧の魔除けがなかったのはなんでか。 いらないから?  ブラックメタルは根が違うってことか?

2.26.2016

[film] Carol (2015)

13日の土曜日の晩、アケルマン特集から日本橋に移動して見ました。

マンハッタンのデパート(やはりBloomingdale'sがモデルだって)の売り子として働くテレーズ(Rooney Mara)は、おもちゃ売り場のややぎこちない客として現れたキャロル(Cate Blanchett)にすこしどきどきして、いくつかの偶然のやりとりが重なって彼女の邸宅に呼ばれて、とても気になる存在として意識するようになる。

キャロルは寒色系のきらきらのキリンでかっこよくて、テレーズは暖色系の帽子むっくりカメラ娘で、まずこのふたりが一緒にいる絵姿がほんとうに素敵。

テレーズには欠点のあまり見当たらない元気で快活な彼がいて、彼のほうは結婚したいと考えていて、キャロルは離婚調停中で、娘の養育権を巡って争っているのだが、夫ハージへの嫌悪と子供を失うことへの恐怖とその根本にあるらしい自分の嗜好への罪とか恥の意識などなどでぼろぼろになっていて、テレーズはそれを敏感に感じとってはらはらして目を伏せるのだが、やがてキャロルのほうから手を差し伸べてくる。 で、テレーズはその手を取るの。

同性を好きになることはいけない、とされていた時代、戸惑い恥じ入りつつもその罪を、堕ちていく自分を受け容れたキャロルはその罪の領域にテレーズを招き入れる。 それはいけないことなのかもしれないが、とっても甘美で素敵で、なんでそれを責められなければいけないのかわからないし、止められるものではないの。 失うんだったら死んだほうがましだし、どうせ娘を取られてしまった自分は死んだようなもんなのだと。

くぐもったり重なりあったりするガラス、そのガラスに反射する向こうの世界やこちらの世界で歪んだり擦れたりしている像や表情、後ろ頭、極めてゆっくりと糸をひくように動いていくそれらの奥のだんだらのなかでそれは進行していって、消え去ることはないけど、止まっていてくれるものでもない。 像はテレーズが大事そうに抱えるカメラのなかに、電話は公衆電話だったり交換手がいたり盗聴されていたり、必ず間になにかが挟まっていてダイレクトに触れる、伝わるものはなにひとつない、けどそれはしっとり濡れた画面を伝って浸食していくの。 『エデンより彼方に』(2002) で、偏見と - その裏側で愛が - 避けようもないかたちで進行して拡がっていったのと同じように。

愛は夢のように甘美にでも同時に犯罪の後ろめたさをもって二人を誘って、その先にはいろんな受難が待っているのだが、でもそれでもなお甘くて、強い。言葉はあまりいらなくて、絡みあう視線、その導線となる目配せ、それだけで十分にふたりの狂おしさが伝わってくる。
ラスト、すべてを失ったキャロルがテレーズを見る目はすさまじく崇高すぎて近寄れなくて、でもテレーズは。 原作のラストもすごくよくて、いくらでも噛みしめることができる。

あんまし最近のLBGTの文脈のなかで語ってほしくない。恋のどつぼにはまって、その只中で狂って叩きのめされている人たちに見てほしい、そういう、ほんとに純な恋愛の映画。

Cate Blanchettさんはほんとにすごいなー。”Blue Jasmine”での彼女がJasmineでしかありえなかったのと同じように、ここでの彼女はCarolとしか言いようがない。

そして、最後のほうにちらりと登場して、やはりその強い目でテレーズのなにかに火をつけるCarrie Brownsteinさん(原作ではジュヌヴィエーヴていう青い瞳のイギリスの女優、ていう設定)。


ぜんぜん関係ないけど、何十年ぶりかで坂田靖子の世界にひたって陶然としている。
これだわ、これ。

2.22.2016

[film] In the Heart of the Sea (2015) - 3D

11日のお休みの日の夕方、有楽町で見ました。『白鯨との闘い』。

映画の冒頭にHerman Melville (Ben Whishaw)が出てくるので「?」となるのだが、これの原作は2000年に出版されたNathaniel Philbrickによる“In the Heart of the Sea: The Tragedy of the Whaleship Essex”で、この本は同年のNational Book Award(ノンフィクション部門)を受賞している。

原作は1820年の捕鯨船Essex号の海難事故をまだ見習い船員だったTom Nickerson (Brendan Gleeson)の目線で追ったもので、Melvilleは「白鯨」を書く際にここで描かれた鯨襲撃をモデルにしたとされているのだが、映画にはイシュメールもエイハブ船長もピークオッド号もモービィ・ディックも出てこないし、「白鯨」とは航路もちがうし、あれはBased on Actual Eventではぜんぜんないのよ。

ではなんで映画の冒頭にMelvilleが出てきて事件の生き残りであるTomと対話するところを描写するのかというと、この映画もまた、19世紀のMelvilleがそうしたように現実の悲惨な出来事をベースとして新たに象徴的に我々の物語を語りますよ、ということなのだと思う。

鯨油確保のための捕鯨基地として栄えるナンタケットの一等航海士Owen (Chris Hemsworth)はEssex号で南に下って太平洋に向かおうとしていて、最初の一頭は見事に仕留めるのだが、ぼんぼんで見栄っ張りの船長Pollard (Benjamin Walker)の傲慢かつ愚かな判断で嵐にぶつかって船はぼろぼろ、戻ることも考えるのだが、エクアドルで補給/修理しているときに巨大な鯨の噂を聞いて、手ぶらで帰るよりはこいつを仕留めていったらどうか、と欲を出して再び太平洋に乗り出していく。

後半はまさかのマッコウクジラの大群に遭遇して狂喜するも群れの中から現れたばかでかい鯨(白鯨というほど白くはない)に一瞬で船を叩き潰されて全員が海に投げ出され、3槽の小舟で陸地を求めて大海を彷徨うきりきりとしたサバイバル劇が中心となる。

その先に輝かしい勝利とか制覇とか大逆転が出てくる見込みも兆しもまったくなく、自分たちの飢えや狂気との辛くしんどい戦いが延々続くばかりで、ネタとしては盛りあがらないはずなのだが、なぜか手に汗握ってしまうの。 自業自得じゃんしょうがないじゃん、ていうのと、でもそれでも、その自業自得をあたまからひっかぶって懸命に生きる、というところに我々の日々が被ってくるせいかもしれない。
(あと、Thor - Owenが簡単に死ぬわけないわ、ていうのもあるか ... な)

最後にTomがMelvilleと別れる際、西部では地面から油が出てくるんだって、もう命懸けで鯨を捕る時代は終わったんだな、ていうシーンがあるのだが、ここがとっても象徴的で、自然に抗いつつ海に出たり地面掘ったりそれで人が死んだり殺されたり、といったことのしょうもなさを敢えて言っている。 こちらをじっと見据える鯨の目の強さと刺さりまくる切り返しも静かにそれを訴えかけてきて、たまらないの。 あの鯨さんはゴジラであってもおかしくなかった。

だからさー、邦題の『白鯨との闘い』なんて嘘八百で、「白鯨」とは勝負にすらなっていないの映画見れば一目瞭然だし。
例えば原発問題を津波との闘い、の方向にすり替えるのと同じことで、ほんと幼稚で愚かで、うんざりだわ。

ついでにEssex号の件を調べていたら、航海の途上にガラパゴスのフロレアナ島で、あそこのゾウガメを数百頭食用に積んだとか、いたずらで火を放ったら全島に燃え広がってフロエアナのゾウガメ(ガラパゴスのゾウガメは島ごとに種が異なるの)とモッキンバードが絶滅した、とかあって、おまえらなあ(怒)、になった。 天罰だ天罰。

嵐雨と波とぼろ船と荒縄と火、これに鯨、さらに飢えと漂流のしょっぱさ。 どS系海洋パニックとしては映像のすごさも含めてお腹いっぱいで、当分いらないかんじ、にはなった。

2.20.2016

[film] Trespassing Bergman (2013)

10日の晩、ノーザンライツフェスで見ました。『グッバイ!ベルイマン』。
(別にだれもグッパイ言ってないとおもうけど…)
今年のノーザンライツは『むかし、むかし』とこれだけになってしまったが、もし時間があったら『ソング・フォー・イェテボリ』ていうのも見たかったかも。 去年、少しだけイェテボリふらふらしたので。

ベルイマンが60年代から亡くなるまで暮らしたバルト海に浮かぶフォロー島(the island of Fårö )の家を何人かの映画作家が訪れる映像と、島には上陸しないもののインタビューで「わたしとベルイマン」(or わたしのベルイマン)を語る映画作家たちと、それと並行して50年代からのベルイマンの代表的なフィルムを追っていく。

島を訪れる映画作家たち - Alejandro González Iñárritu, Claire Denis, Michael Haneke, John Landis, Ang Leeなど - は、彼の家の本棚ビデオ棚、窓からの風景、島と海、実際に彼の映画のロケ現場、などなどに見て触れて感じてみんなだいじょうぶ? ていうくらい異様に興奮している。ベルイマンの創作の秘密や源泉(と自分たちが思うもの)を拾いあげてありがたやありがたや、で。

島に行っていない組 - Woody Allen, Wes Anderson, Francis Ford Coppola, Martin Scorsese, Robert De Niro, Ridley Scott, Lars von Trier - などは自由に好き勝手にべらべらベルイマンてさあー、とか語っている。

島組はカメラ抱えて子供のようにはしゃぎまくり愛と情熱たっぷりにまだそこらを彷徨っている彼の霊に触れたかのようなトランス状態になって、感極まりすぎてClaire Denisさんのようにあーもう気持ち悪くなってきた帰る、みたいなひともいる。(本棚とビデオ棚、みたいなー)

行ってないインタビュー組は良くも悪くもてんでばらばら、各自のキャラがストレートに丸出しで、これはこれでおもしろい。 きちんきちんと冷静に語るAllenやCoppola、結局自分語りになってしまうScorsese、マスターベーションとか睾丸とか下ネタ炸裂で、でも最後に愛を告るLars von Trierとか。(Takeshi Kinanoも出てくるけど、なにあれ)

雑誌とかの映画特集で「映画好き」が必ず挙げる欧米の「大御所」作家たちをここまでめろめろにしてしまうベルイマンの影響力 - 特にアメリカの70年代作家へのそれ - についてはきちんと考えてみたい気もするが、なんか若い頃の彼らにぴったりはまる映画的思考の枠組、みたいのを与えてあげたんだろうな、とか。

作品紹介だと『ファニーとアレクサンデル』が初めて見たベルイマンでもあるので、個人的にはいちばんじーんときた。
子供の頃に見て「シームレスに入ってくる」のでとてもびっくりしたと語るLaura Dernさんと、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』からの影響(そうそうそう! それにしてもなんで字幕で書名を入れないの?)を語るCoppolaさんとか、解説もすばらしくよくて。

ベルイマンの島に興味をもったきっかけは2013年のThe New Yorker Festivalのいちイベント - Noah Baumbach & Greta Gerwigのトークで、ふたりが"Frances Ha"のプロモーションでスウェーデンを訪れたときにこの島に行って彼の家に入って、ハネムーンのように揃って熱く島の魅力を語っていたことだった。 そうかそんなにすてきなのかー、と。

いつか行きたいリストに追加。

2.19.2016

[film] Der var engang (1922)

7日の日曜日(お誕生日だった)の夕方、アケルマンの後で渋谷に移動して見ました。
トーキョーノーザンライツフェス。 結構人でぱんぱんにふくれていて、北欧映画好きな人のベースがだんだんにできつつあるのかしら。 
少なくとも自分は年一回、北欧のむかしむかしのサイレントを見て柳下さんの演奏を聴いて少しぴりりと震えて暖まる、ていうのが結構強い慣例になりつつあって、それはとっても素敵なことだとおもう。

『むかし、むかし』。 英語題は”Once upon a time”。

で、今年のはCarl Theodor Dreyerのお伽噺だというのだから見ないわけにはいかない。
1958年に発見されて2002年に修復されたという国宝だというし。

中世だかの昔、イリヤ王国ていうとこのお城に気にくわない求婚者を地獄に送り続ける性悪なお姫さまがいて、デンマークの王子が精霊の助けを借りて乞食みたいな焼き物木こりだかに化けて、追放されたお姫さまと焼き物小屋で質素だけど清く正しい生活をしてなんとなく改心するのだが、最後の仕上げでお城に無理やり連れていかれていやいやわんわん泣き叫ぶところに王子が現れて、きょとんとするの。(お姫さまも、われわれも。)

王子のくせにろくろまわしとか貧乏暮らしが似合いすぎる、とか、そう簡単に性格変わるもんか、とか、王子の顔、気づけよ、とか、いろいろつっこみどころたっぷりなのだが、貧乏暮らしがほんものに見えてしまうのも、宮殿暮らしが悪夢に見えてしまうのもぜんぶお伽噺の魔法なんだわ、と思うことにする。 だまされてなんぼ、の世界なの。

あと、薄暗くてでっかい樹に縛り首になったひとがぶらーん、ていうあたりはしらじら怖くて、ドライヤーだわ、とか思った。

一応原作の戯曲はあって、他にもアンデルセンの「ブタ飼いの王子」(しりませんでした)とかにも似ているそうなのだが、ブタ飼いでも焼き物屋でも見てくれで人を判断してはいけませんよ、ていう教訓もあって、そういうのを見たあとのトークで、衣装の違い - お姫さまのロココとデンマークの王子の中世風の違いとかを丁寧に教わるとそういうことなのかー、てぽんと膝を打つ。

失われているので文字で説明するところ、スチール写真のみの紙芝居になってしまうところなどがあるのだがぜんぜん脳内補完できるの。 でも結婚式のとこは動いているとこみたかったなあ。変なダンスだったに違いないしー。 そのうちどこかで発見されることを祈る。

あんま関係ないけど、Brooklyn Academy of Musicで始まった魔女映画特集 - “Witches’ Brew” - もちろん”The Craft” (1996)なんかもやってくれる。
18日の晩は2012年のノーザンライツでもやったBenjamin Christensenの『魔女』- “Häxan” (1921)で、オリジナルのサイレント版に加えて、68年に製作されたWilliam S. Burroughs がナレーションを、Jean-Luc Ponty が音楽を被せたバージョンも上映されるの。 見たいなあー。

2.18.2016

[film] World of Tomorrow (2015)

2月2日の火曜日の晩、「GEORAMA2016」ていうイベント(?)のなかの「ドン・ハーツフェルトの夕べ」ていうのに行った。

『きっとすべて大丈夫』3部作は、2012年にイメージフォーラムで最初の2部を見ているし、爆音で3部作ぜんぶも見ているし、bitter filmsのサイトからDVDも買ったし、それでも何回でも見るし、今回は新作も見れるというし、本人がやって来るというのだから行かないわけにはいかない。

『きっとすべて大丈夫』3部作は、何回見ても、なんだろうな、いろんな方角からいろんな感情がこちらの感情にダイレクトにぶつかってくるので混乱する。 疲れているときはしんどいのだが、なんでこんなんなっちゃうのかすごいなー、ておもう。マスターピースとはとても呼べないけどずっと偏愛して聴き続ける変なアルバム、みたいになっていくのだと思う。

後のQ&Aの監督の発言で、あの第3部 - “It's Such a Beautiful Day”がなんであんなダークでどうしようもない救いようもないふうになってしまったのかについて、狙っていたわけではなくて、気づいたらなぜかああなっちゃっていた、みたいに語っていたのがおもしろかった。 なんだかほっとしたの。


今回はじめて見た新作 ”World of Tomorrow”。  女の子のおはなし。 16分。

ある日女の子エミリーんちの電話が鳴って、取ってみると大人の女のひとの声で自分はエミリーの3世代後のクローンで227年後の未来から掛けている、って、もっと話したいんだけど、Internetじゃない - その進化形のOuternetていう空間があるからそこで会いましょ、おいで、っていうの。

ふつう、そんな電話が掛かってきたってそんなの誰が信じるかよ、て思うのだが、これはDon Hertzfeldの世界なので、とりあえず信じる。
(信じる信じないのはなしをしだしたら、こんなの線でできたペラペラ漫画みたいな世界だから総崩れになっちゃうんだけどね)

エミリーを呼び出したクローンエミリーはエミリーに227年後の世界でのいくつかの記憶を語って、それはあんまよくないのだが、でもエミリーには知っておいて貰いたいのって、でもそんなこと言ってもエミリーはただの幼児だからその意味がわかるとは思えなくて、ここで伝わってくるのは、3世代後のクローンからまだ無垢なエミリーに伝えないといけないようなことがある、そういう事態がおこる、ていうことで、これって「なんて素敵な日」のビルがだんだんにおかしくなっていくのと同じような向こう側からやってくる避けようもないなにかの予感とその悲しさがある。 エミリーに撒かれた記憶の種は彼女のその後の人生に影響を及ぼして、なんらかの形でクローンエミリーのなにかを救うのだろうか。 或はもうどうしようもないことがわかっているから言ってみたのだろうか。

なぜ自分の孫とか親戚ではなく、クローンなのだろう?  鏡の向こうの寸分違わない誰かである必要があった、ていうことか。

どんどんからっぽになっていったビルと/まだからっぽでこれからいろいろ埋まっていくエミリーと、そこにやってくる、そこを通り過ぎていく世界のいろんなのとその明日と。 ぐにゃぐにゃどこまでも伸びてオシログラフみたいにうねっていく線は、彼ら彼女の存在の外縁であると同時に時間そのものでもあって、その線をノイズも含めたいろんな面とか色とかが覆ったり崩したりしていく。  ふつうのアニメーションが描きだすきらきらしなやかな明日の世界とはちがう - 世界はこんなもんじゃない - じゃあどんなもんだってんだよばーか! くらいのことはおもったり。

画面や色味は初期CGみたいなけばけばした原色多用のサイケとジャンクのあいのこで、そこにエミリーの子供声(姪っ子の声なんだって)が絡むとなんじゃこりゃ、な世界になってしまうのだが、見終わったあとのぽつりとしたかんじ(取り残される、のともちょっと違う)は変わらないの。

ラストの一瞬のずっこけ、最高だった。
こんなのオスカー獲るわけないとおもうけど、おもうけど、獲ったらすごいねえ(がんばれ)

監督のトークとQ&Aもおもしろかったけど、たぶんそこにいた人たちの誰もが、あーやっぱりこういう人だったんだ、と再確認したり納得したりしたのではないか。 よい意味で。 
DVD買った、けどサインは貰わなかった。 またどっかで会う気がしたからさ。

2.16.2016

[film] O Passado e o Presente (1972)

31日の日曜日のごご、渋谷のオリヴェイラ特集でみました。
『過去と現在 昔の恋、今の恋』。英語題は”Past and Present”。

こないだのオリヴェイラの特集で見れたのは結局これだけだった。いろんな特集てんこもりで土日はバカみたいに慌ただしくて、他方でシネコンやってる映画で見たいのは殆どやってない、と思っているとスピルバーグもゼメキスも終わりそうになっててどうしようで、なんかとってもおかしな状態だと思う。

事故死した夫リカルドの墓を移し替えるということで未亡人ヴァンダのお屋敷にカップル2組(ひとつは夫婦、もうひとつは元夫婦)とひとり身のマウリシオが集まってくる。

ヴァンダは今だにリカルドのことばかり想ってめそめそしてばかりで、現夫のフィルミーノは完全にバカにされて相手にされず、リカルドの双子の弟ダニエルが家にくるようになってからその虐待(と言ってよいくらい)は酷くなって、悲嘆したフィルミーノは屋敷の窓から飛び降りてしまう。

けどすぐには死ねなくて死ななくて、彼が生死の境を彷徨っているときも、それぞれのカップルは現在の恋のただ中で愛してる愛してないで揺れまくったり悶えたりしてて、不謹慎極まりなくて哀れフィルミーノなのだが、そんなふうに滑稽でどす黒いのが恋ってもんよ、と高らかに「結婚行進曲」が流れまくる。

やがて事故で亡くなったのは実はダニエルで、ヴァンダが会っていた男は実は死別したリカルドだったことがわかったりするのだが、そうするとなにが起こるのかというと。

死によって失われてしまった恋、それは失われた過去で永遠に取り戻すことはできないのだが、だからこそ焦がれて止まない。恋が永遠を目指すものであるなら、それは失われた時間の中にしかないのではないか、ていう金持ちの倒錯と変態と。 

朴訥な庭師のおじさんとちょっとかわいいメイドがいて、彼らが普通の民代表としてちょこちょこ出てきて、ラストは前途まっしろな若者のウェディングが描かれるのだが、それらとの対比でヴァンダとその仲間たちはブラックになってしまうかというと、ぎりぎりでならないところがすごい。 こういうもんだから、て堂々としている。

これは「挫折した愛の四部作」の第一部で、残りの3つは以下。

Benilde ou a Virgem Mãe  - Benilde, or the Virgin Mother (1975) 「ベニルデまたは聖母」
Amor de Perdição - Doomed Love (1978) 「破滅の愛」
Francisca (1981) 「フランシスカ」

来週、リンカーンセンターで4部作をぜんぶ35mmプリントで上映するんだよ。いいなー。

http://www.filmlinc.org/series/manoel-de-oliveiras-tetralogy-of-frustrated-love/

見たことあるのは「破滅の愛」。すごかったんだよう。もう一回みたい。

2.15.2016

[film] Golden Eighties (1986)

なんで『向こう側から』に続けてこれなのか。 確かにこれも「向こう側」なのかもしれないが。
Valentaine Dayだから?

この特集を通してみると「ジャンヌ・ディエルマン」や「囚われの女」がすごいことはじゅうぶんわかるだろうし、70年代パンク女の子のかっこよさもわかった。

問題はこの作品なのよ。

公開当時も見ているしパンフだって買った(いいかげんに出ておいで)のだが、当時はなんかよくわかんなかったの。
80'sを「ゴールデン」と呼んでしまうことも、そもそもこの割とださださなミュージカルコメディにそういうタイトルが付いてしまうことも、どうなのだろうか、というのがずっとあった。

洋服店と美容室とカフェと映画館が並んでいるパリのブティック街があって、洋服店の若旦那ロベールは美容室の女主人リリ(Fanny Cottençon)が好きで、でもリリはジャンていう金持ち旦那に囲われてて、ロベールに片想いしているのは美容室のマド(Lio)で、ロベールのママのジャンヌ(Delphine Seyrig)のところには昔別れた恋人のイーライが米国から現れてずっと会いたかったって誘われて、書いていて恥ずかしくなるくらいぺったんこの、軽くキスしただけで簡単に落ちたり靡いたりする恋愛模様のまわりで80'sファッションとメイクの若者たちが歌って踊るの。 

結局ロベールはマドとの結婚式の前日に戻ってきたリリに寝返るし、ジャンヌはぎりぎりのところでイーライから離れるのだが、これらの恋模様には主人公も中心もなくて、どいつもこいつも好き勝手に発情したり右往左往しているばかりで、みんな恋愛がすべて、永遠の愛を信じる!とか高らかに言うくせにアクションは常に言葉を裏切って止まらない。  - “Action Speaks Faster”

まあたしかにこういうのが80年代だったわけ。でもさー、当時はべつに特異なことだとは思ってないから、ふーんで終っていたのだが、90年代に入ってなんか様子が変わってくる。 本当の愛とか本当の自分とか、ボロ雑巾みたいなのを纏った小汚い連中がうめきだすわけ。んでそういうやつらが80’sを小馬鹿にしはじめて、世代論なんて大嫌いだったし別に相手にしたくもないんだけどサブカルだのなんだの持ちだしてしょうもない陣地取りみたいのを始めたのでうるせえやバーカ、とかそういうかんじになって、そら擁護したるわ、になった。 ほーんとどうでもいいんだけど。

映画はやっぱしちょっと恥ずかしかったけど、でもこれでいいのだ、だった。
少なくとも『街をぶっ飛ばせ』や『私、あなた、彼、彼女』の女の子が、『おなかすいた、寒い』しか言わなかった女の子が、ここの軽さ、個の希薄さ、常態化した片想いにパラダイスを見出したであろうことはとってもよくわかるし、75年に45歳だったジャンヌは平凡さの果てにここについに何かを見出したのだ、と信じたくなるの。

終って、数十年ぶりにスタカン聞いてスキップしながら帰った。

[film] De l'autre côté (2002)

14日の日曜日の昼、あたりまえのように「シャンタル・アケルマン」に向かいました。
ドキュメンタリー「向こう側から」。英語題は”From the Other Side”。

ここでの"the Other Side"というのはメキシコのことで、アメリカとメキシコの国境のはなし、と言ってしまえばそれだけなのだが、そういうことではなくて、向こう側とこちら側を隔てているものはなんなのか - 単に物理的な壁であったり越境を取り締まる警備隊だったり - だけではない向こう側にうずくまったり佇んだりしているなにかを見つけようとする。

メキシコから不法入国しようとした人の数、成功数、失敗数、逮捕された人の数、亡くなった人の数、行方不明となった人の数、両国間の経済格差、不法入国がもたらす経済的インパクト、同対策のために必要とされるインフラ、法整備などなどなど、数値化を含めてこの問題をおもてにひっぱりあげて議論のベースを作る、みたいなことはここではしない。そんなの誰だってできる。

向こう側に渡ろうとした家族が消えてしまったおばあさん、とか個々の声を記録していく。 インタビュー、対話という程深いものではなくて、祖父母の代にスペインからやってきて結婚相手もスペインから来た人で、移民としての血と誇りと、他方で今はなんでこんな ... みたいな話しが続く。 自分の意思で、自分のリスクと責任で向こう側に渡る、それのどこがいけないのかしら、でも、それにしてもなんでこうもしんどいのかしら? という疑問符に砂ぼうぼうで荒涼としたメキシコ側の荒地と、そこに張られたでっかいフェンス、その周りを幽霊みたいに漂う人々の姿(→ アピチャッポン?)をカメラは映し出す。 そこまでしなきゃいけないことなのか、誰がなんのために?

後半は、アメリカ側で国境の近くに暮らす人々、守る人たちの声になって、自分たちはいいけど子供たちは守らないといけない、とか、でも国境を守る当事者としての力強い発言はあまりなくて、ただ、今の状態がよいものとは言えない、という見解についてはどちらもあまり変わらない。

なんか、不法な国境越えは許されない、なぜならそれは不法だからだ、という不毛な堂々巡りのなか、フェンスはどこまでも延びて強くなって、これからもドローンだのセンサーだので更に摘発の前線は強化されていくのだろうが、本質的な議論 - そもそもなんのために、だれのためにこんなことやってるの? が置き去りになっているような気がものすごくする。 このフィルムが製作されたのが2002年という、911の直後だったことを差っぴいても、いまのこの時代に東西ドイツみたいな壁を作ることの意味を考えてしまうの。

そういうなかで、彼女の語り手に対する接し方、話の引きだし方はIntimateとしか言いようがなく、どこまでも弱いほうに寄り添おうとしているのと、最後、LAに向かう夜のハイウェイの車中からのカメラに被さって彼女の声(おそらく)がフランス語で、身近にいたメキシコ人の使用人の女性が突然いなくなってしまったことを語る。 
ちょっと不安げに、さみしそうに。

ねえ、それがどういうことだかわかる? って。

2.14.2016

[film] Je, tu, il, elle (1974)

13日の土曜日のアンスティチュ、12時少し前に着いたらとんでもない行列ができててたいへんびっくらした。
前日のあんなの見て聞いたらこの土日に絶対通うしかないことはわかっていたが、それにしてもさー。

Portrait d'une jeune fille de la fin des années 60 à Bruxelles (1993) 
『ブリュッセル、60年代後半の少女のポートレート』

TVシリーズの「彼らの時代のすべての少年、少女たち」の一篇として94年11月4日に放映されている。
同じシリーズでこの翌週にはOlivier Assayasの“La page blanche”が放映されてて、他にはClaire Denisの“US Go Home” とか、ぜんぶみたい。

前の日の「街をぶっ飛ばせ」(1968) - 「おなかすいた、寒い」(1984) の流れに見事に連なる、でも作られたのは93年で、でもまったく、あきれるくらいに一貫していて、ブレがない。
女の子のなにもかも爆破してやる願望、家出、空腹、女の子友達、どーでもいいただの通過儀礼、彷徨い、などなどが彼女にとって常に現在形のテーマだったことがわかる。 

68年のブリュッセル、15歳の少女ミシェルはずんぐりむっくりのしかめ面で、太い横縞のボーダーにパンツ履いてて、父親の財布から札束を抜いて、学校にうその届け(おじが、おばが、父が亡くなりまして)を出して、通知表を破り捨てて街をうろうろして、映画館に入ったところで隣で膝をこすりつけてきた脱走兵ポールと出会ってキスをする。

ふたりでどうでもいいことおしゃべりしながら街を散策して本屋でキルケゴールがどうの、とかサルトルのことで意見が合わないやつなんてありえねえ(かっこいいー)とか、いろんなこと喋って不在だったいとこのうちに忍びこんでLeonard Cohenの"Suzanne"にあわせてぎこちなくダンスして、ついでだしいいか、くらいのノリでバージンもぽいして、晩は友だちとパーティいくからじゃあね、と別れる。

仲良しの女の子ダニエルと出かけたパーティ(ところであの選曲はなに)ではあいつがいいんじゃない、とかあれこれ彼女にふっかけてみるのだが、互いにあんま盛りあがらなくて明け方まで長い散歩をして、ポールにしなよ、そうすればあんたが傷つくの見なくてすむからさ、てぽそっと告白しておわるの。

ミシェルはほぼシャンタル自身なのだろうけど、彼女はこれを作ったときは43くらい、ていうのを考えるとすごいよねえ。 ここまで突き放してかつての自分を振り返ること、できるんだなー。
パンクだよねえ。


Je, tu, il, elle (1974)
『私、あなた、彼、彼女』

場面はそれぞれの人称に従ってだいたい4つ。
シャンタル自身が「私」を演じている。
最初の「私」は、新しい部屋に入居したと思われる彼女が家具を移動したり壁を青く塗って緑に塗り直して壁にベッドを立てかけてマットレス直敷きにして手紙を書いて手紙を書きなおして、全裸になってごろごろして、食べものはというとぼろい紙袋にスプーンを突っ込んでしきりになにかを掬って舐めていて、なんだろとおもっていたらそれは砂糖で、なかなか衝撃なのだがとにかく砂糖をじゃりじゃり舐めながら28日間(て言ってた)ごろごろして、待っている - すべての過去が通り過ぎるのを、新しいなにかが現れるのを。

「あなた」は窓の向こうにちらっと現れたみ知らぬ誰かのこと。たぶん。

そこから彼女はヒッチハイクの旅に出てトラックに拾われて、運転手の男と食事して酒のんで性の処理してあげて身の上話きいてあげて、ひたすらにこにこと受け身で相手をしてあげる - それが「彼」。

「彼女」はガールフレンドのおうちを訪ねて、でも「長居しないで」て言われたのでむくれてコートを羽織るのだがやっぱりハグして、彼女にサンドイッチ作ってもらって - パンにバター塗ってヌーテラ塗って、もう一枚はバターとクリームチーズ(たぶん)塗って、とってもおいしそうなのだがそれはともかく - ふたりはベッドで全裸て抱きあうの。ふたりの肌の擦れあい、シーツの衣摺れの音、喘ぎ声は殆どなくてハミングみたいな声が微かに聞こえるくらい、白いふたつの身体がひたすらダンスのようにアブストラクトに絡み合う姿をえんえん描く。愛の交歓というよりはひたすらひりひりと互いのでっぱりとひっこみ、溝や断層を確認するみたいな行為。

で、朝になるとシャンタルは出ていく。
はじめの場所に戻るのか、最初に彼女の待っていたなにかは見つかったのか。

上のほうに余白の多いモノクロの構図が実に決まっていて、かっこよかった。

ところで、「彼女」を演じたClaire Wauthionさんて、「8月15日」の冒頭で"Pour Claire"て言われている彼女、なのかしら?

このあとの『ジャンヌ・ディエルマン』は見ていたのでパスして日本橋で”Carol”をみた。
テレーズが壁を緑に塗っていたり、別の映画とは思えなかったわ。

2.13.2016

[film] Saute ma ville (1968)

これを書いているひとの傾向として、ライブとか移動とか生もの系は割と早めに書いてしまう(忘れちゃうんだよかわいそうに)のだが映画とかは見た後もだらだら置いておく(忙しいんだよたぶん)ていうのがあって、でもこのたびのChantal Akerman特集はなんでかはっきりとライブ系のノリがあって、見たらすぐ書かなきゃ書きたいな、になっている。
なんでかしら? と思っていた辺りが金曜日の映画みてレクチャーを聞いてなんか一気にわかった気がした。

というわけで12日の金曜は、この特集のヤマで必見のだったのだが、お仕事の会議が降り積もってこびりついてどうしようもなくなっていたので午後休んだ。
しょうがない。 わるいのは会議だ。

Les ministères de l'art (1989)
17時から「芸術省」。フィリップ・ガレルが監督したやつでシャンタルがでてくる。
字幕も同時通訳もなく、プリントが配布されただけだったのでちんぷんかんぷんだった。けどいいの。
もともとTV用に撮られたものらしいが、ガレルがシャンタルを含む当時のフランス映画人にインタビューしていく。絵としては16mmのざらっとしたかんじがガレルでうれしかったのと、どうやってああなったんだかいっつも謎のガレルのもしゃもしゃ鳥の巣あたまと、最後のほうで登場するひねた僧侶みたいな格好でガニ股ですたすた歩いていくレオス・カラックスがたまんなかった。


Saute ma ville (1968)
『街をぶっ飛ばせ』。 英語題は、”Blow Up My Town” 13分。

今さら言うな恥ずかしい、と怒られても仕方ないのだが、そうかこういうのがあったのか、と思いしらされた彼女のデビュー作。 モノクロで、出てくるのは彼女ひとり、流れるのは彼女のてきとーなハミングのみ、モノローグもなし。花束を抱えて自分の部屋に駆けあがり、掃除してタバコ吸ってパスタ茹でて食べて片付けて猫と遊んで猫放り投げて靴をみがいて自分もみがいて、要するに独り身の女子が帰宅してからやりそうな(とみんなが思っていそうなこと)を鼻歌つきのやけくそでばたばたやっつけながら窓枠に目貼りしてコンロのガス全開にしてどっかーん。 画面はまっくらなのでエンドロールもなくて、クレジットを読みあげる彼女の声でおわる。

これをバーレスク的な動き(と後のレクチャーでは言っていた)で一気呵成にやってしまうのだが、ここにあるのはバーレスクていうよかはっきりとパンクの刹那と性急さだよね。 絶望と不満と衝動を死ぬほど抱えて表に出てきたんだ、これがわたしで、最初っからぶっ飛んでるんだからね、ていう宣言。

Le 15/8 (1973)
『8 月15日』 42分。

1973年8月15日。 これも女子ひとり、室内でのいろんな生活の動きにたどたどしい英語でのモノローグ(画面はフランス語字幕)が被さる。画面に出てくるのはシャンタルではなくフィンランドからバリに来ている留学生で、部屋にいるのが好きなの、とか街角でいきなり腕を掴まれてこわかった、とかたわいないことを延々ツイートしているかんじなのだが、パンを齧るとこ、ジャムを舐めるとこ、タバコを吸うとこ、などなどには"News from Home"と同様、母国語の通じない場所に、どこかからなにかを越えてやってきてしまった女性の、なにかから切り離されてある引きつったような引き摺られるような感覚があって、それはベルギーのユダヤ人 - 強制収容所の生き残りの娘として生まれ、辛い時代を過ごした彼女にずっとあった感覚、のように後のレクチャーでは説明されていたが、それだけかなあ。

でもとにかく、映画が終るころには彼女のことがとても好きになっているの。

J'ai faim, j'ai froid (1984)
『おなかすいた、寒い』。英語題は、”I'm Hungry, I'm Cold”.   12分。

ものすごくパーフェクトな80年代若者映画。
『街をぶっ飛ばせ』同様、こんなのも知らないで彼女を追悼していたのかばかばかばかばか(x4)恥しらず、と頭を壁に打ちつけてしまったくらいおみごと。
すらっとしたのとずんぐりしたのの女の子ふたり、一緒に家出してみたもののお金はあんまなくて「おなかすいた、寒い」くらいしか言うことなくて、お店に入って食べてタバコ吸って喰い逃げして、いくらやっても「おなかすいた、寒い」で、やがてどうしようもなくなってレストランに入ってやけくそでふたり合唱してみたら奢ってくれるおじさんたちがいて、夜もそのおじさんのおうちに泊めてもらうことにして、すらっとしたほうはちょっとした隙に服を脱ぐみたいに処女をすてて(いてー! って一瞬いうだけ)、さていくか! って街に飛びだしていくの。 めちゃくちゃかっこいいー。

(また後で書くけど、今日みた『ブリュッセル、60年代後半の少女のポートレート』、これがまたとんでもなくてさー)

上映後のニコラ・エリオット氏によるレクチャーは、すばらしく充実していて、これ聞いたら彼女の作品ぜんぶ見たくなる。
デビュー作に見られる彼女特有のテーマや痛みがその後の作品 - 代表作と言われる『ジャンヌ・ディエルマン』はもちろん、最後の作品まで通底していることを例示しつつ、その特性を”Intimacy”と”他者性”と”共感”の3点から説明していった。

これにもういっこ加えるとしたら倫理性 - 正しさへの指向、ていうのもあったのではないか。
それって3つの特性の帰結として現れてくるものかも知れないが、ちゃんとしたパンクがそうであるように、常に正しいなにかを指し示していたのだとおもう。(→ひとりも悪人は出てこない)

トークの最後におまけ映像として少しだけ上映された”The Eighties” (1983) - “The Golden Eighties” のリハーサル歌入れで、カメラに背を向けて腕をぶんぶん熱狂的に振り回して一緒に歌いまくる彼女の姿を見て、とってもたまんなくなった。

(Lena Dunhamさんの名が浮かんでしまったのは自分だけだろうか)

[film] Om de wereld in 50 concerten (2014)

31日、日曜日の昼、渋谷で見ました。
この日のメインはこれの後のオリヴェイラ特集だったのだが、見てもよいかなー、程度の。
『ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る』 - “Around the World in 50 Concerts”

ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の創立125周年記念ワールドツアーに同行したドキュメンタリー。 クラシック好きじゃなくてもおもしろいよ。たぶん。
大所帯でそれぞれに大荷物を抱えて飛行機でぶーんて移動して一斉にホテルにチェックインして、ぶわーんて一斉に音だして演奏して、少しだけ人に会ったり観光したりして、また移動して、を繰り返す。 楽団のツアーってそういうもんなのだろうけど、こうやって追ってみるとおもしろいなー、って。大人数で弦を引っ掻いたり菅を吹いたり金属とか木片を叩いたり、そうやって2〜3時間の音楽を体を使って奏でて、あとには物理的になにも残さないで次に向かう。

映画はそんな大移動に伴うじたばたとか悲喜劇とかを拾いあげる、というより、彼ら音楽家たちの、オーケストラが地球をぐるぐるまわっていく移動行為そのもののおもしろさ、にフォーカスしているように思えた。

あんな何百もの楽器だの声だのが、ひとつの場所、決められた時間に、特定の指揮やインストラクションに基づくとはいえ、ぴったり整合する規則性をもったアンサンブルを奏でて、場合によってはひとに感動を与えてしまったりするかもしれない - という器楽演奏の奇跡が、この大移動を通して、似たようなかたちとパスでもって反復されているような気がしてならなくて、更にそこにおおもとの音楽が創られた時代からの時間、伝承と継承の旅をかけ合わせてみると、天文学的ななにかのようにも思えてくる。

クラシック音楽って、あんまきちんと聴く機会がないのだが、ライブで接すると古典だろうがモダンだろうがなに聴いても実験音楽のように聞こえてきてすごいなーってびっくりしまくるのは自分だけかしら。  みんな冗談のように巧いし、音の線も粒もちゃんと聴こえてくるし。
ロイヤル・コンセルトヘボウを初めて聴いたのはまだなんの嗜好も定まっていないまっしろだった頃にエアチェック(ていうのがあったんだよ)して聴いたコリン・デイヴィス指揮の「春の祭典」だったと思う。 あの頃はなんでもよく聴くとってもよいこだったのに、なんでこんなことに ...


(この映画と直接の関係はないけど)ほんとに切実に思うのは、クラシックにしてもオペラにしてもバレエにしても、この国だと料金高過ぎてほんもんのライブに触れる機会がなさすぎるってことだ。 中間業者だか団体だか友の会だかしらんが数十年前と同じ感覚のまま自分達が儲ける仕組みを組み上げてて、誰も文句言えない構造のまま限られた層のじじばばにしかチケットが渡らないようになっている気がしてならない。 シネコンでデジタル配信されるぺなぺなのライブ映像見て聴ければそれでじゅうぶんなんてぜったい、思わない。

教育もそうだけど文化もほんとに貧しい国 - お金さえあればなんでも - の国 になっていくんだろうなー。 汗だの筋肉だのばかりがもてはやされて、この国ほんとにやだ。

2.12.2016

[film] It Follows (2014)

30日の土曜日の晩、六本木で見ました。終わっちゃいそうだったし。

"The Myth of the American Sleepover” (2010)の監督David Robert Mitchellがホラーを、と聞いてふうむ、だったのだが、でもありかも、て思っていた。
あの映画が映しだしたのは、夏の終りのかけがえのない瑞々しい青春の、甘酸っぱいひと夜の思ひ出のように見たいひとには見えてしまうのかもしれないが、いやいやあんなふうに月夜に若者がじゃらじゃら集まってくるなんて不気味だしおかしいよね蟹の産卵じゃあるまいし、みたいに言うことだってできないことはなかった。のでは。

であるから、これはこわそうだぜったいこわいに決まってる、と決めつけていて、だから見るのもあんま気乗りしなくて。 いつそいつがくっついて追っかけてくるのか、拳を握りしめながら見た。

なにかに怯えて取り乱した女の子が下着姿で家から飛び出してきて、逃げるように車で遠くに走り去って、ひとっこひとりいない場所から携帯で家族に別れのメッセージを伝えて、明け方には変てこな格好で死体になっている、ていう冒頭。

高校生のJay (Maika Monroe)は恋人と映画見にいって、周りにいる人々のうち自分は誰とすり替わりたいか当てゲームをしていたら、彼に見えているひとがJayには見えないことがわかって、彼は慌てて映画やめよう、ってそこを出て湖岸に行って車内でセックスしたあとで、変なことを言う。

君になんかをうつした。そうすると他人には見えない「それ」が追っかけてくる、「それ」はいつも違うやつで走らないけどどこまでも追っかけてきて君を殺そうとする、セックスして他人にうつすと追っかけの順番が変わって「それ」はそっちを追っかけるようになるから、嫌だったら誰かとセックスすれば、て告げて彼はどっかに消えてしまう。(やりにげよりひでえ)

それは時と場合で違ったりしていて、既に死んでいるひとの相がでてて無表情で、尿垂れ流したりしながらこっちに歩いてくる。 決して走らない(George A. Romeroのゾンビ定義)けど止まらないでやってくる。やってくるのが見えたら一目散に遠くに逃げるしかない。

こうして妹のKelly (Lili Sepe)とか近所の幼馴染のPaul (Keir Gilchrist)とかメガネ娘とかと一緒に逃げたり籠ったりがんばってみるのだが、「それ」はなんだかんだ突然やってきて、しかもJayにしか見えないのがきついしこわいし。 しょうがないのでそういうもののけを気にしない同級生と寝たり赤の他人と寝たりPaulと寝たりしてみるのだが … おいおい。

“The Myth of American Sleepover”との共通項でいうと水が湛える不気味さこわさ。キスもセックスも、水(分)を介して行われて、その間をぬってなんか現れるていうところと、デトロイト郊外の半分壊れていて、そこを親のいない子供達がわらわら動き回っている風景と。
(最後のほう、屋根の上に全裸で突っ立っていたのは…)

「それ」っていうのは誰とでも寝まくるティーンの貞操に関する呪いじゃ、とかいうのはあまりにあまりの解釈かも。

2.10.2016

[film] Dokfa nai meuman (2000)

24日、日曜日の夕方、渋谷のアピチャッポンの森特集で見ました。
「真昼の不思議な物体」。 英語題は“Mysterious Object at Noon”。

この特集のなかで「世紀の光」は回数いっぱいやっているからあんま見る機会のなさそうなやつから攻めていこう、と思っていたら「世紀の光」も見れないままいつの間にか終わってやがるの。 ばかばかばか。

モノクロの粗い、地べたや路地でそのまま撮ってみましたみたいな映像(撮影は16mmだそう)で、カメラは子供たちとかその辺の人たちにお話しを聞いている。 聞かれた人たちが、脚の悪いひとはさー... とか好き勝手なイメージや各々の空想を勝手にぺらぺらてきとーに語るところと、同じようにそこらの人たちがそうして語られたイメージやストーリーを寸劇ふうに演じるところ、このふたつの映像 - ドキュメンタリー : フィクション - のかわりばんこの連鎖が場所や集団を変えながら、旅をしながら流れていく。

なんじゃろこれ?  と最初はおもうよね。
言葉をはき出す人たちがいて、それを食べるように演じる人たちがいて、両者は見えないどこかのなにかで繋がっていて空の上に操り人形師みたいなひとがいて、とか始めのうちは思ったりもしたのだがそんなふうでもないかんじで、これはやはりもっとスケールのでっかい世界のあれ - それこそ真昼の不思議な物体そのもの - なのではないか、とか思ったり(いいかげん)。

誰かのいった言葉がほんとうの「こと」として映像として動きだす、というのはものすごい奇跡的なことのようでもあるし、あたりまえのこと - 言葉やイメージで示し得ないものは映像化できないから - のようでもある。そもそも、脚の悪いひとのことを喋ってみて、とカメラを向けたところから最初の反復は始まっているわけだし。

それにそもそも、あらゆるお伽話も法螺話も - それこそ映画だって - こんなふうなゆるゆるのあやとりから始まっていったのではないか。 このへん - あたりまえのこととありえない(ように思えてしまう)ことがなんの変哲もない映像のなかにつーんと共存してしまう- それをひとつのお話 ・映像として見せてしまう力 - がアピチャッポンなんだよねえ、とか思おうと思えば思えてしまうのかもしれないが、それこそが真昼の不思議な物体の思うツボなのではないか、とか。

場所が動いて変わっていくところの映像も音も、とてもかっこよくてほれぼれしてしまうのだが、これがカラーだったら、にっぽんだったら、全く異なる印象のものになったと思う。(もっとしょぼい、たぶん)

関係ないけど、彼の”The Adventures of Iron Pussy” (2003) ていうの見たいな。

2.09.2016

[film] Timbuktu (2014)

24日の日曜日の昼、渋谷で見ました。終っちゃいそうだったし。
「禁じられた歌声」

冒頭、砂の上を走って逃げるバンビを車が追い回して、銃で撃ったりしていて、お願いやめて、て思っていると「撃ち殺さなくていい、走って疲れさせるんだ」とか車の男たちが言うの。この冒頭がすべてを象徴している。

マリ共和国の古都ティンブクトゥに銃を携えジハードを唱える過激派の兵士達が現れてあれこれ不条理な弾圧を始める。 女性は靴下と手袋を身につけろ、音楽もダンスも禁止、サッカーもだめ、モスクに銃を運びこみ、見初めた娘に強引に結婚を申し込んで、従わなければ逮捕、ていう。

父と母と娘、孤児の牛飼いの子の4人で幸せに暮らしていた一家の牛が湖の漁場を荒らした、といって漁師に殺され、それはないだろ、と文句を言いにいった父親と漁師がもみ合いになり、父親の懐に念のために入れていた銃が暴発して漁師は死んじゃって、父親は兵に連れ去られて拘束され、話しの通じない裁判と彼らのいう「法」のもとで裁かれて、死刑ということになる。ノー慈悲。

彼らのいうアッラー、彼らのいう法とティンブクトゥの住民を律してきたそれらとの間には同じイスラムでも明確な溝とギャップがあって、そのギャップそのものについての対話は一切為されず許されず - なぜなら神も法も問答無用の絶対だから - というしょうもない、取りつく島もない状況や局面が描かれる。
それは数が多くて武器を持っている方が強いに決まっていて、一方的な逮捕・拘束だの拷問だのを呼びこんで、もちろん住民も黙ってはいなくて、手袋して魚売れるわけねーだろバカ、とか、なんであんたみたいな知らねーやろうと結婚しなんなきゃいけないんだ、とか、或は狂ったようになってうろつく、とか、こっそり歌う、とか。
(肩にでっかい雄鶏をのっけて衣服を引きずりゆらーって歩いたり舞ったりする狂ったような女性、すばらしい)

ものすごく残酷で息苦しい、絶望的な世界がどっしり、というほどでもなく、この不可思議で不寛容で目詰まりした世界をなんとか走り抜けたりすり抜けたり笑いとばしたり、それぞれのふつーの生活とかポエジーみたいなところまで踏み込んで描こうとしていて、そんなことしてなんになるの? ていう醒めた目や冷笑をも取り込んで、それがなにか? ていう、そこまでの覚悟をもっていて、でも最後はやっぱりきついのだが、でも。

目をそらしてはならぬ、ていうのと、なぜならこれはティンブクトゥだけの、今だけの話しではぜんぜんないのだから、ていうのと。 最初のほうで描かれる幸せだったころの家族の、ほんとうに幸せそうで素敵な笑顔を忘れてはいけないのだ、と。 
見終わって残るのはそっちのほうだった。

2.08.2016

[film] News from Home (1976)

7日の日曜日の昼、アンスティチュの「シャンタル・アケルマン追悼特集」でみました。 
こんどこそ絶対みるんだから、て意気込んで行った。  「家からの手紙」

76年当時の、NYのいろんな場所、いろんな時間を撮って繋いで、そこにシャンタルの母からの手紙を朗読する声(英語)が重ねられる。その声は映っている場所のノイズにかき消されてしまうことも多い。 場所の選択、場所と場所のつなぎ、手紙の朗読をオーバーダブする箇所やタイミングに明確なルールや意味(性)はないように見える。

対象を撮影する場所は、それがマンハッタンで何か(車とか電車とか)、誰かが映っていて、それらが動いている、という点を除けば意味があるとは思えなくて、彼女が読みあげる手紙は(おそらく)母国語で書かれたであろうものを彼女自身が英語に変えて音読している、という点、それが頻繁に町のノイズにかき消されてしまう、という点でなにごとかを意味しているように思えないこともない。

これらと"News from Home"というタイトルを重ねたときに見えてくるもの - 母からの手紙は決してニュースにはならず - みんな元気よ - 親戚のだれそれは元気よ - お札を同封したから - 手紙待ってます - いつも同じことを繰り返し書いてきているようで、逆にニュースていうのはシャンタルから母に向けたこれらの映像のことなのかしらとか、つまり、シャンタルはお母さんの手紙もとぎれとぎれの英語になってしまうような場所で、こんな事物や人物が映りこんでくる場所にカメラを置いて回して暮らしているんだよ、ていうことを伝えようとしているのか。  これを見たらママはあの子ったらだいじょうぶかしら? て思うだろうし、これを見る我々も、シャンタルだいじょうぶか? になるのではないか。 少なくともああ元気そうね心配いらない、にはならないかも。

という見方がひとつあるのと、彼女の切り取った光景と自分の脳内NYをマップすることでものすごくおもしろい、多層的な印象やイメージが生まれてくる。 失われた時、のようなものがそこにくっきりと現れる、ような。

冒頭の場所はトライベッカのあそこ、とか、Vestry St. 9th Ave, 46th Ave, がでてくる。 地下鉄がChristopher - Houston - Canalと止まるのでこれはダウンタウン行きの①ラインだ、とか、あれはTimes Square駅のAとEのホームだ、とか、St Marks TheatreがあるからEast Villageで、これ、Veselkaの軒先じゃないか、とか、トークンブースなんて今の子はわかんないだろうな、とか、それにしてもひでえ落書きだな、とか、地下鉄が96th st → 86th stと止まったので次に停まる駅で①ラインなのか⑥ラインなのかわかるぞ、と思ったら切れちゃったり、とか、Times Squareのシャトルのホームからメインコンコースに渡るとこ - 今はパフォーマンスとかやってる辺り - にホットドッグスタンドがあったのね、とか、10th Aveを車でゆっくり上にのぼっていくところは、Penn Stationがあって、Port Authorityがあって、42ndがあって、PANAMビルの脇腹がみえて、"Times Square" (1980) の彼女たちがたむろしていたのはこの辺なんだわ、とか、いろんな想念が雑念が、夏のぶっこわれた消火栓みたいに吹きあげてきて止まらない。

地下鉄の車内を固定で捉えた画面。そこに映り込んでいる30 - 40人くらいのいろんな人たち、通りに佇んでいる、歩いてきてすれ違ういろんな人たち、彼らひとりひとりのその後の40年間を想像してみよう。 なんかとってもめまいがしてくるのはなんでか。

最後、2nd Ave(だよね、あれは)のゆるやかな坂をまたいだ後で、突然、South Street Seaportから出帆するラストがほんとにすばらしいの。 それまで地べたを地味に水平移動していたカメラが波に揺られるようになり車や地下鉄のノイズに変わってカモメの鳴き声が遠くから聞こえてくる。 そして、沖に出ていくに従って左側にぼうっと現れるツインタワー。

NYを離れていくイメージ、波がゆっくりと過去と現在の像を揺らすイメージとしてこれは完璧で、なんども夢に見るくらいに出てきたイメージがそのままあって、なんか泣きたくなった。 
(「世界の現状」(2007) の彼女のセグメントがおなじような)

あと、今後は新しいOne WTCがこの像に変わっていくのだろうか、とか、Instagramやスマホで撮られた大量のイメージで代替可能なのか、とかいろいろ思ってしまうのだが、40年後のこれらが、この美しいフィルムとおなじ何かを湛えているとは思えないの。

このあと、「アンナの出会い」も見たかったのだが、「むかしむかし」のチケットを買っていたのでそっちに移動した。 ところで、むかしむかしにアテネフランセでやったシャンタル・アッカーマン特集のパンフをずうっと探しているのだが出てこない。

いま、メカスの“Lost, Lost, Lost” (1976)をとっても見たい。

2.07.2016

[film] Buscando a Gastón (2014)

土曜日の夕方に成田に戻ってきました。 5時少し前に駐機して走って5時19分発のNEXに飛び乗ったのだが東京駅に着いたのは6時20分くらいだったのでアンスティチュは諦めた。ううう。

機内で見た映画たち;

Buscando a Gastón (2014)
「料理人ガストン・アクリオ 美食を超えたおいしい革命」。英語題は“Finding Gaston”。
見逃していて見たかったやつ。

ペルーの料理人Gaston Acurio - 94年、リマにAstrid & Gastónをオープンして、当初フレンチビストロだったはずのそれがどんどんペルー地産料理レストランに変貌していって、世界のベストレストランに選ばれるまでになった、本人と周囲のインタビューを通してその軌跡と哲学を明らかにしていく。

料理人としての技法を駆使してマイナーな地位にあったペルーの食材や料理を世界に通用するレベルまで高めて広めていくこと、それを通してペルーの農業や漁業、料理教育のベースを豊かにする - このサイクルをまわしていくことでペルー経済を救うこと。 書いてしまえば簡単だけどものすごく大変そうで、でも確かに映画のなかで言われているように90年代に暗黒だったペルーの経済は、そんなでもなくなっている気がして、もちろん彼ひとりの所業ではないのだろうが。

ペルーに初めて行ったのは96年くらい、仕事で3〜4回行った(その頃に彼はもう自分の店でのしあがろうとしていたのね)。 映画にも出てくるお魚もセヴィーチェもキヌアもトウモロコシも芋も、食材の豊かさおいしさにはとてもびっくりしたものだったが、でもそれを言うならブラジルもチリもアルゼンチンもエクアドルもそう - 現地のものにスペインやアフリカのものが流れこんで多様化・進化していった - だと思っていて、ではなんでペルーだったのだろう?

そこにGastonがいたからだ、というのは多分当たっていて、ではなんでブラジルの料理界にGastonは現れないのか、そんなにも彼の技術はすごいのか、政治家の息子としてその辺に長けていたからなのか、といった辺りを映画は明らかにすべきだったのではないかしらん。 彼が試食したり人と会ったりするところではなくて料理するところの、そこで起こる魔法を見たかったのに。

でも、食材とその生産者、料理をつくる人をレスペクトすることが世界の平和につながる、ていう彼の思想はそんなに間違っていない気がする。「カスタマー」にひたすらぺこぺこして「和食」とかわけわかんないもんを代理店経由で持ち上げてバンザイしているこの国のみっともない食事情よかずっと健全だわ。

彼がNYに出したお店 - La Mar Cebicheria Peruana  - がNY Timesのレビューで星ゼロをくらったことは有名なはなしなのだが、もうクローズしてしまったので行って確認することもできないの。

ああでもおいしいセヴィーチェ食べたくなった。 すごいセヴィーチェってとっても繊細で口のなかに海まるごとみたいに広がって転がって至福なんだよねー。


Pan (2015)

これも見逃していたやつ。 Joe WrightによるPeter Panの前日譚。 孤児のPeterはどうしてPanのPeterになったのか、ていうおはなし。

第二次大戦の頃のイギリスで孤児院のとこに棄てられていたPeter(Levi Miller)が黒ひげ(Hugh Jackman)の空飛ぶ海賊船に吸いこまれて、怪しい石を掘りだす奴隷仕事をさせられるなかHook(Garrett Hedlund)と知り合って、海賊と原住民と彼らが守る妖精の国との戦いに巻きこまれていくの。 やがて原住民のTiger Lily (Rooney Mara)から聞かされるPeterの出生の秘密と黒ひげのやろう〜 を通してPeterが目覚めるまで。

ロンドン上空に現れた海賊船が孤児院の屋根の上で子供たちをひょいひょいさらっていくところと、それをイギリス空軍が迎撃して宇宙まで飛んでいっちゃうあたりまではすごくおもしろいのだが、採掘の奴隷仕事から革命だー、になって、でもぼくはそんな器じゃないし飛べないし、てうだうだするあたりからなんかふつーでつまんなくなっちゃうのね。 なんでPeterが覚醒して大人になることをやめちゃったのか、もうちょっとちゃんと描かないといけないんじゃないの、とか。

Rooney Maraかわいい。 あの扮装、The CreaturesのころのSiouxsie Siouxだよね。 ちょっと運動神経なさそうだけど。

それにしても、“Smells Like Teen Spirit”はこういう群衆ミュージカルの定番みたいになっていくのかしら。

あと、あの鳥。どっかで見た気んだけど..

これ以外は、”The Peanuts Movie”をもういっかい見てじんわりして、まだ時間があったので”Valentine's Day” (2010)  - 来週だし - を見ていた。既にとってもなつかしいかんじ。

2.05.2016

[log] February 6 2016

帰りのシドニー空港まできました。
あたりまえだけど、あっという間すぎて、あとあとなんだったんだあれ、みたいに残されるであろうかわいそうな時間。

昨晩のご飯はシーフードではなくて、お肉だった。
Neil PerryさんていうQantas航空の機内食のデザインをやっている - と言われて名前を思いだしたのだが、Qantasはこれまで夜行便しか乗っていなくて、チーズ盛り合わせとアイスクリームくらいしか食べたことなかった - セレブシェフのお店で、1936年に建てられたアールデコ建築 - もとは証券取引所だか銀行だったかの建物で、Kobeの熟成肉もあったのだが、ふつうのDry Agedので36ヶ月と60ヶ月のがあって、60ヶ月のにした。
よく考えてみると、5年前のお肉、ってことだよね、て思って、3年前のと5年前のとだと、どれくらい違うのかしら、と少し思ったが、思っていたよりしっかりしっとりしていておいしかった。 5年も暗いとこ(たぶん)で焼かれるのを待つのって、どんなかんじだろうか。

ふだんお酒は飲めないことになっているのだが周りに日本人いなかったし、オーストラリアの地ワイン飲ませてあげる、というので少しだけ舐めてみた。 オーストラリアのインディー系のがすごいっていうのはよく聞くのだが、あまり試す機会ないし。 Clonakillaていう、キャンベラ産のシラーズ(シラーズっていうのはシラーのオージー読みね)で、一緒に行ったキャンベラのひとのおうちの近所のだという。

すごくどっしりしてて土っぽくてでも後にのこるブドウのかんじがしなやかで、いつまでも飲んでいられるかんじで、すごーい、て思って、あとで値札みてたいへんびっくりした(この年のは日本には入っていないみたい)。

デザートはPavlovaをたべろ、て言われたのでたべる。 パッションフルーツが振りかけてあるメレンゲケーキで、あっという間になくなっちゃったのであんま憶えていない。 そりゃおいしいでしょ、みたいなかんじ。

泊まっていたホテルの一階にCreperieがあって、食べたいなー、だったのだが時間あるわけないし。

帰り、ホテルまで歩いていく途中、金曜の晩でみんなわいわい、通りで涼んでいるのでも浮かれているのでもなく楽しそうにしていて、なんかいいなー、だった。
メルボルンもよいけど、こっちも坂とかいっぱいあって楽しいかも。
またこなくては。

ではまた。

[art] Grayson Perry – My Pretty Little Art Career

シドニーにはほぼ予定通りについた。
ねむい、だるい、することがない。 (ねればいいのに..)

22時羽田発のQantasは今となってはなんか懐かしいボーイング747で、でっぷり昔のアメリカの車みたいにクラシカルでぼろくて、ファーストクラスはなくて、一番前の席は上の棚がないのでどこに荷物入れるの? て聞くと先頭まんなかの突きあたりにあるでっかいタンスみたいなキャビネットに入れといて、ていう。上着もここのハンガーにかけてね、というのだが、ほんとふつうのタンスみたいなので変なかんじ。 セルフサービスなのも、なんかおもしろい。

ここの機内ディスプレイはひと昔前の解像度いまいちのやつなので映画どうしようかなー、と思ったら、”Absolutely Anything”があったので見てみる(日本公開決まったみたいね)。Monty Pythonの連中が作っているのだが、Simon Peggがあまりに期待通りのSimon Peggしてて、そりゃ ”Absolutely Anything”だよね、みたいなふうに話が進んでいくので、ねてしまった..  床に落ちてた犬のうんこが自分で立ち上がってトイレに飛びこむところとかはおもしろかったんだけど。

仕事場に着いたのは11時すぎで、3時過ぎにはおわっちゃったの ...
べつにいいけどさ、べつにいいけどー、ランチのサンドイッチの時間をひいて3時間くらいのためにがんばって飛んできたわけ?  て強く言わないからこういうのばっかりになっちゃうのかなあ ...

とかぶつぶつ言わないで空き時間ができたことを喜ぼうではないか、金曜日だし! と切り替えて、荷物をホテルにぶっこんでから近所のMuseum of Contemporary Art Australiaに行って、これ見ました。
前回12月に来たときは見れなかったやつね。

http://www.mca.com.au/exhibition/grayson-perry/

Grayson Perryは英国のアーティストで、"Claire”ていう女性のオルターエゴがいて女装したりしてて、2003年にTurner Prizeを獲っていて、2007年に金沢で展覧会をやっている(未見)。

セラミックの壷とか焼き物とかでっかいタペストリーとか地図とかオブジェとか彫刻みたいのとか絵画とか落書きとか、展示タイトルのとおりの、「ちっぽけなあたしのアート遍歴」(謙遜)みたいなかんじの。

ふつうに、漫画みたいでおもしろいの。 メディアはセラミックがその典型だけどほんとに伝統にのっとっていて - ビデオで壷の製作プロセスを早回しで流していたが、地道に粘土を積んで回して整えて、を延々繰り返しながら、びっくりするくらいふつうに丁寧に作っていく - でもその表面に浮かびあがる絵とか模様とかちょこんと乗っかっているやつとかがバカな妄想してたり悪趣味だったりグロかったりエグかったり、米国だとJeff KoonsだったりMike Kelley,だったりJim Shawだったり、日本だとなんだろ - 楳図 かずおとかみうらじゅんとか、だろうか。

ただ素材がセラミックだったりタペストリーの布だったり、といったような伝統にしっかりのっている、あたりが大英帝国、なのかもしれない。汎歴史的なアートへの欲望や意気込みみたいのに従順なようでいて、しらーっと、でもねちねちとおちょくってみせる、とか。 本人のインタビュー映像も流れていたけど、ものすごく真面目なひとなのよね。 変人だけど。

この特別展示が3階で(これだけ有料)、せっかく来たので常設展示とかも見てみた。
ほとんどが現代オーストラリア作家の存じていない方々ばかりだったのだが、これって海外のひとが清澄白河にきても同じかんじになるんだろうなー、とか。 全体に大陸ふうとか土俗ふうとか、そんな形容がどこにでもはまってしまう気がしたのは気のせいか。

そんななか、Louise Hearman (1963 -) さんのがとってもよいかんじだった。
ここでいくつかの作品は見ることができる。
http://tolarnogalleries.com/artists/louise-hearman/

外に出て晩ご飯の待ち合わせまで時間があったのでGeorge Stていうメインの通り(ひたすらまっすぎ行くとキャンベラまで行けるんだって)をだらだら歩いてみた。
陽射しはそんなに強くなくて暑くもなくて気持ちよくて、昔のアーケードとか、あと本屋もあったので入ってみた。 割とふつうだったけど、料理本のコーナーだけ異様に充実していた、気がした。

ねむくなったので晩ご飯とかの件は、また別で。

2.04.2016

[log] February 4 2016

ずっとばたばたで落ちつかなくて微妙な低気圧頭痛も続いてて、まったくほんとにこんな仕事はって、こういうのはもうやめにしたいって、何度も何度もずうっと言ってるのに、いまは羽田でこれからシドニーに飛んで着いたら打ち合わせ場に直行して打ち合わせして土曜の朝のフライトでその夕方に戻ってくる。現地滞在24じかん。 穴に落ちたのか落とされたのかどこのどいつのせいなのか問答がどこまでいっても止まらない(もう2年くらいやってら)。

シドニー24じかん、はもうしょうがないとして、悔やんでも悔やんでも悔やんでも悔やみきれないのが明日からのシャンタル・アケルマン特集の、特に『アメリカン・ストーリーズ/食事・家族・哲学』で、土曜日のフライトが間違って2時間早く着いたら(成田着でやがる)なんとかなるのだが、まあむりよね。

もういっこいうと、5日の晩のGEORAMA2016ていうやつの、David OReilly x Don Hertzfeldtもすんごおく楽しみだったのにこういうとき、こういうのに限っての典型的なやつだわ。 ついてないわ。

シドニー、たしかもう3回目なのに、まだ美術館も映画館も本屋もレコ屋もいっこもなんも。
なんかきっと、そういう方角なのかもしれない。

ではまた。

2.02.2016

[film] 千姫御殿 (1960)

土曜日の午後の京橋、「編笠権八」のあとに続けてみました。
「編笠の権八」のあとに「千姫の御殿」。 それがどうした。

千姫っていうのは家康の娘で歴史上ゆうめいでかわいそうなたらいまわし姫のことね。

吉田御殿にお籠りしている千姫(山本富士子)のところに大工の若者が呼ばれてマッサージしてあげたらそいつが翌朝田んぼにぷかーて浮かんで、それから若侍とか、舞いの名手とかみんな千姫の虜になって仲良くなったと思ったら翌朝ぷかー、てなるので千姫のとこに行くとやばいってみんな思い始めたころ、隠密として内部を探るべく田原喜八郎(本郷功次郎)が千姫に近づいたり、実彼の仇を討つべく屋敷に潜入していた大工の許嫁おかつ(中村玉緒)が千姫に詰め寄ったりして、御殿をめぐるいろんな厚塗りごてごてが明らかになってくる。

なんもしらない千姫の周りが実は相当血なまぐさい、風評とかも炎上しまくりでぼろかすなのだが、それなのに、というか、であるが故に彼女はひとり無垢で美しくて、噂を聞きつけてやってきた男たちもころころばたばた虫のようにやられる、ていう、典型的なファム・ファタールの循環ができあがっていて、その歯車を裏でからから回しているのがやたら不気味でおっかない山田五十鈴なの。

でもそんななか切り札のようなかんじで田原喜八郎が現れて、御殿から遠くに馬で逃げていって、豪雨のなか洞窟でふたりが結ばれるとこはとても美しいのだが、それでもやっぱり。それはやっぱり。

千姫にしてみれば、①自分の知らないところで妖婦みたいに呼ばれてて実際にひとがいっぱい死んでる ②それをぜんぶ手繰っていたのは自分の側近の如月(山田五十鈴)だった ③最後の王子さまとして現れた本郷ですら実は隠密だった。 ていう空から金だらい3連発をくらってへろへろになったところで、もう一回どっかに嫁にいくか、嫌なら出家ね、あ、そうそう喜八郎は切腹だから、とか言われて、もうほんとに残酷でかわいそうで、これじゃ死んだも同然よね、とか思ったところで最後の最後に、ほんとうに美しいなにかが現れて少し救われる。  あそこで純な魂みたいのが顕わになる。

喜八郎が死んじゃうのと喜八郎が生きているのとあの後の千姫にとってはどっちが地獄だろう? とか考えるのは野暮というもの。

「近松物語」にしても「残菊物語」にしてもこれにしても、つくづくキリスト教でいう神はここにはいないんだなあ、とかおもう。
どうしようもなく残酷で救いようもない恩寵もないのだが、それでもなんか美しいものはある、ていおう。

画面の切りかたとか姫と御殿との距離のとりかたとか、日本美術だねえ、とうっとりしながら見ていた。 こういうのを紹介すべきよね。 世界に。

2.01.2016

[film] 編笠権八 (1956)

もう2月だなんてありえない。

23日の土曜日のごご、NFCの三隅研次特集でみました。
このひとのならなんでも見たい、になりつつあるかんじ。

どこぞのなにものかわからない志賀原権八郎(市川雷蔵)が山道をすたすた歩いていると背後から謎の長髪剣士が切りつけてきて睨み合いになり、その様子を見ていた藩の指南役がなかなかの腕のようなので稽古に寄らぬか、て誘って、あんまり気が乗らなかったのだが行ってみると、偉い人たちもみんな見ている公開稽古みたいなやつで、文句をいうのだがとりあえず藩の剣士をばたばた倒しちゃうの。 で、その帰り道、やられっぱなしで気にくわなかった藩の若い連中にいちゃもんつけられて、相手をしてたら間違って藩の指南役を軌ってしまって、てえへんだてえへんだー、になって藩から追われて、指南役の娘姉妹 - 千草(三田登喜子)と露路(近藤美恵子)はお上から仇討ちやってよしを取り付け、みんなして権八を追いはじめる。

片方は逃げて片方は追っかける途中、露路のほうが足を痛めてひとり群れから離脱し、ひょこひょこしていたら酔っ払いに絡まれて、そこを権八がやっつけて助けてあげたのをきっかけに、お礼にお食事でも、とか、剣を教えてしんぜよう、とか互いの素性を知らぬままに(ほんとかなー)ふたりは惹かれていって、でもそのうちに追っかけ組が追いつくと彼と彼女はお互いの正体を知って、がーん、なのだが、権八はおれを斬れるのはお前だけじゃ、斬れ、て露路にいうの。

非情な仇討ちものにこてこての少女漫画設定 - かわいいけどひとりでは生きていけないドジな妹 -をぶつけてみて、仇を討つのか愛をもらうのか、好きになった相手を斬ることができるのか、みたいなところに追いこんで、でも結局かっこいいのは市川雷蔵ひとり、ていうフェミニズム批評的にはどうしたもんか、みたいな世界なのだが、原作は長谷川一夫主演の歌舞伎のために書かれたそうなので、それじゃしょうがないか(なにが?)、なかんじもした。

65分、コンパクトにまとまっていてよいのだけど、権八ってそもそもなにやってるひとなの? とか、かげろうの剣ってなに? とか、「編笠」ていみあるの? とか、最初に斬りつけてきたあいつって誰? とか、よくわかんないところはいっぱいあって。 でも、ま、いいか。

オルタナエンディングの愉しみ;
① 最後に露路が、足を痛めてわざと近寄っていったのじゃ、思い知れこのくそ野郎~ ばさー(斬)、てやっちゃう。
② 権八を斬ろうとする姉に妹が立ち向かってそれを庇おうとした権八が姉を軌ってしまって、父と姉を殺したやろうを露路は愛せるのか、ていう別の試練が。
③ 夫婦となった権八と露路の枕元に夜な夜な父の亡霊が。