7.31.2011

[film] The Myth of the American Sleepover (2010)

月曜日の夕方、とつぜん時間があいたので、Angelikaで見ました。
まったくマークしていなくて、ポスターだけ見てなんとなく。

David Robert Mitchellのデビュー作。
2010年のSXSW Film FestivalでSpecial Jury Award(Best Ensemble Cast)を受賞している。

Trailerはこちら。
http://www.imdb.com/video/imdb/vi1509202969/

これはねえ、あたりだった。すごくよかった。

Sleepoverていうのは、お泊まり会のことで、一晩、どっかの家とか体育館に寝袋持って集まってだらだらおしゃべりしたりゲームしたり、そういうイベントで、映画は夏の終わり、新学期が始まる前のひと晩、いろんなとこで開かれたSleepoverに集まって来たティーンの様子を描いたもの。

ミシガンの郊外、メインになるのは4人、顔じゅうにピアスしたショートカットでころんとした女の子、スーパーマーケットで見かけた女の子を探している男の子、シカゴの大学に行くことが決まっていて、双子の女の子を好きになってしまった男の子、友達の彼にキスしてしまった三つ編みの女の子、どれも、ごくふつうの、どこにでもいそうな。

学園モノ、と呼ぶことができるのかもしれないが、親達も教師達もジョックスもナードもチアリーダーも、そういうのは出てこない。
いじめもなりあがりもない。 ドラマはない。でもドキュメンタリーでもない。

たぶん、まだ90年代なのか。
だれも携帯持っていない。TextもTwitterもFacebookもない、そういう時代の。

みんな友達や彼・彼女と一緒に手つないで夏休みをだらだら過ごしているだけで、そんな彼らがそれぞれのぼんやりした期待とかわくわくと共に寝袋を抱えて家から家に集まってくる。 月夜の蟹の産卵みたいな変な行動、に見えないこともない。

おしゃべりして、ゲームして、告白して、TVみて、酒のんで、大抵はうまくいかない、けど惨劇にもパニックにもトラウマにもならない、夏の虫さされ、すり傷、程度の。 でも真夜中にむかっていく胸の高鳴りとか、夜明けに向かっていくあのなんともいえない高揚感とか、それらはずうっと残る。 たぶん一生、のこるよ。

それらをはじめてのように経験するひとりひとりの表情、希望、失意、諦念、とか歩き方とか、そういうのがほんとにいいの。
画面はなんか処理をしているのかもしれない、リアリティ系の嫌な陰影はあまりなくて、乾いたつるっとしたクラシックな色使い。

音楽はほとんどカーステとかラジオから聴こえてくるハードコアみたいのが殆ど。
唯一、デブの娘とめがねの娘(殆ど"Ghost World"(2001) 組)が自転車に乗って夏の街をぬけていくシーンで、Beirutの"Elephant Gun"が流れるの。
これだけで、もうだめ。 この映画ぜったい、いい。

他にも双子の子を外に連れ出すとことか、でぶの娘が踊りだすとことか、いろんな、ほんとにちょっとしたすれ違いとか傷とか、なにもかも控えめに、でも大切に掬いあげようとしている。  

神話(Myth)て、こういうふうに作られるものなのよ、って。

いいなあ、夏の映画。

[film] Cops and Robbers (1973)

日曜の午後つづき。

"Long Day's Journey…"のあと、ああぜんぜんLong Day's Journeyになってくれない、と嘆きつつ下のほうにおりる。

映画の前にVan Leeuwenのアイスクリームに寄ったらほとんどのが売り切れていた。
Palm Sugerとチョコだけがぶがぶ食べてさっと出る。

晩は会社の会(すこしはつきあいなさい)が入ってしまったので時間が限られてしまった。
いろいろ選択肢をうじうじ考えて、結局昨日とおなじAnthologyで東京12ch 映画にした。 館内に貼ってあったポスターがこれ。



















この並びには他に「ブルース・ブラザーズ」、「ポパイ」の日本版ポスターがあって、それはこのもう始まっているこの特集のためなの。

"Hollywood Musicals of the 1970s & 80s, Part 2: The 1980s"
http://anthologyfilmarchives.org/film_screenings/series/37623

このラインナップ、ほとんど泣きそう。 これとJudyをはしごできたらこの夏はなんもいらないのだが。

というわけで、『警官ギャング戦略』。
冒頭、深夜の酒屋に入ってカツアゲする警官のバックで、タイトル曲が流れる。
"It's a world of cops and robbers ~♪" といううさんくさいリフがきらきら流れるソフトロック調の曲で、これがMichel Legrandのなの。

70年代のNYで、警官ふたり組がこのバッヂがあればなんでもできる!と悪の道に突っ込んで行く。パレードでわあわあ盛り上がるWall Streetで強奪を仕掛けるべく、なんかどっかで見たようなビルに押し入る… あたりまでは憶えているのだが、途中で意識を失っていて、なにがどうなったのかあんまわからなかった。

けど、夏のNYのうだるかんじと、車の走っているとこはすごくいかった。
またこんどね。

晩の会の後でもう一本どっかに、という気も少しはあったのだが、いいかげん疲れたのであきらめた。 とにかくあっついんだもの。

7.30.2011

[film] Long Day's Journey Into Night (1962)

一週間前の日曜日の昼、Walter Readeでみました。 174分。 白黒。

これも日曜の昼から見るような映画ではぜんぜんないのだが。

4月に亡くなったSidney Lumetの追悼特集、"Prince of the City: Remembering Sidney Lumet" のなかの一本。

原作はEugene O’Neill の戯曲で、57年のピュリッツアー賞を受賞していて、お芝居のは2003年くらいにBroadwayでみた。
これも全4時間くらいのながーいやつで、しかし圧倒された。

キャストは4人(+メイド)。お母さん、お父さん、長男に次男。
彼らの暮らす家、夏の朝から夜にかけてのじんわりと進んでいく/止まっていく/終らない時間と家族ひとりひとりの悲しみ、痛み、妄執のお話。

自分がみた舞台版のときのキャストは、Vanessa Redgrave, Brian Dennehy, Philip Seymour Hoffman, Robert Sean Leonard。 
このキャストをライブで見たいというだけでチケット買って、その磁場に圧倒されてむこうの古本屋で原作本かった。
原作の翻訳版は昔筑摩の世界文学全集に収録されたものがあるらしいのがだ、まだ見つかってない。真剣に探してもいないのだが。

映画はお芝居ではなくて映画、だからもうちょっと映画ぽいやり方で空間の取り方とか時間の経過を示すかもと思ったのだが(全てChelseaのスタジオで撮られているらし)、そういうとこはあんまなくて、あくまで俳優4人の演技とアンサンブルに重点が置かれているようだった。

映画版のキャストは、Katharine Hepburn、Ralph Richardson、Jason Robards、Dean Stockwell。 全員が62年のカンヌのベストアクトレスとアクターを獲って、オスカーはKatharine Hepburnが主演女優賞ノミネート(ちなみにこのときの主演女優賞は『奇跡の人』のAnne Bancroft)。

母親はモルヒネで、男共はアルコールでやられてて、壊れてて、そういう状態で延々ぐちぐちたらたら過去から現在から未来の不幸を呪って怒鳴りあっているばかりなのだが、ここでのKatharine Hepburnは、その壊れっぷりがリアルに怖い。その怖さでいうと"A Woman Under the Influence" - 『こわれゆく女』のGena Rowlandsの次くらいにこわい。

あとはDean Stockwellもすごくいいねえ。

音楽はAndré Previnのシンプルなピアノ曲。冒頭の数分間はどよーんとした闇のなか、このピアノだけが流れている。休憩時間の間も。

しかし、Lumetがこれを監督したのは38だったのね…


Walter ReadeではLumetのあと、水曜日からJudy Garlandの特集がはじまってて、ロビーにポスターがいっぱい貼られてた。 ぜんぶみたいよう。

7.29.2011

[film] The Last Run (1971)

ファスビンダーの後、もうこんな世のなかやだ、とぶつぶついいながらそのまま東にだらんだらん歩いて、暑さでなんどか吐きそうになりながらAnthology Film Archiveで1本みました。

B級カルト映画の名門DVDレーベル、"Blue Underground"の創設者であり、映画作家でもあるWilliam Lustigを讃えるシリーズで60~70年代の半端でない半端もんがいっぱい上映されてて、これはRichard Fleischerの車アクションもの。 

Blue Undergroundのリンクはこちら

他に見たかったのは、Dennis HopperとWarren Oatesがでてくる"Kid Blue" (1973)とか。

日本題は、『ラスト・ラン/殺しの一匹狼』。 もともとジョン・ヒューストンが作る予定だったのを途中からフライシャーが引き継いだらしい。

初老のGeorge C. Scottが一匹狼の運び屋で、これを最後の仕事にして引退しようと思ってて、ヨーロッパのどこかで囚人護送車から逃げた脱走野郎とその彼女を拾って、国境をぶちぬいて爆走していく。東京12chふうみ。

老人がひとりで車を整備する静かなとこからはじまって、ひたすら乾いた道路を老人と若いふたりを乗せてぶいんぶいん車が走っていく、そのかっこよさがかっこいい、ていうだけの映画なのだが、いかった。

音楽はJerry Goldsmithの濡れ演歌みたいなものがなしーやつで。


晩はちゃんとしたお食事でも、ということで、Brushstrokeに行ってみた。

かの、Bouleyが辻調と組んでNYにぶちあげた、日本料理のお店ね。

David Bouleyの90年代、オリジナルの"Bouley"はそれはそれはそれはすごかったのよ。
それが00年代に入って、場所を新しいとこにして、Bouley Bakeryをはじめたり、電気釜を買ってダシやらなにやらの研究をはじめたあたりから、彼のお皿からオーラが消え始めたようにおもって、どうなんだろ、とずっと思っていたものの、彼は止まるひとではないし、ま、しょうがない見守ってあげよう、だったの。

場所は、かのDanubeがあったとこ。 Danube、ほんとに好きだったのになー。
あの漆黒のヨーロッパ・ゴスなデコールが、白木のオープンキッチンに変わっていた。

2種のコースのみで、いただいたのは上ほうのTasting menuを。
最後のご飯ものだけ、6種類くらいから選べたのだが、あんま冒険しないで握り寿司にした。

カンパチとか冷製スープとか鴨とか茶碗蒸しとか、それなりに。 お腹はふくれた。
NOBUとかあのへんの危なっかしいかんじはなくて、ちゃんとしていた。 そらそうか。

日本料理の基本を異国のひとにもちゃんと伝えよう、みたいなところはしっかり守って、外してなかったかも。
日本人だけでやってもああはならないだろうしね。

一瞬だけDavid Bouley本人がカウンターの向こうに立ってた。へんなかんじだった。

デザートはもうちょっとがんばったほうが。
豆乳のパンナコッタなんて、あれじゃコンビニ菓子だわ、とか。

でも、嘉日のラディカルさには負けるかも。


帰って久々にSNLをみました。
ホストは、Amy Poehler、音楽ゲストはKaty Perry。
へんな服、へんなコーラス、へんな振り付け。 でも、Gagaはどこがよいのかぜんぜんわからんが、この娘っこは、なぜかどうしても嫌いになれない...

[film] World on a Wire (1973)

土曜日のお昼にみました。 かんかん照りの夏の昼間に。

ファスビンダー、73年のTV movie "Welt am Draht"。 
昨年のMOMAの修復映画大会の目玉作品で、でも行けなくて、もうじきCriterionからDVDも出るらしいのだが、210分(二部構成)のDVDなんか見ていられるわけないと思っていたら、IFCで一週間だけ公開されると。

あっついし、ながいし、なんて言っていられない。

修復はMichael Ballhausが全面監修しているそうで、これはもう、圧倒的にすごかった。
冒頭の雪に濡れたような建物の遠景だけで、既にとんでもないの。
ガラス、鏡、水、のなかを通る光、それらのちょっとした屈折がもたらす歪んだような、爛れたような色、天地の感覚。 リアリティ、を「の、ようなもの」のところに置いて、それでもこちらの知覚に侵食してくる圧倒的な「世界」。 映画作品として構築されたこの表象世界もまた、三番目の入れ子になって迫ってくるかんじ。

コンピュータ上に仮想世界(Simulacron、ていうの)を構築する(約9000人分のIDをつくってその中で生活させて、どうなっていくのか見る)実験を進めている政府機関の科学者が突然死んだり、失踪したりして、そこの同僚である主人公がその原因を探っていくのだが...

原作はダニエル・F・ガロイ〈Daniel F. Galouye〉のSF、『模造世界』 SIMULACRON-3(Counterfeit World)ていうやつで(読んでない)、創元SF文庫から出ているらし。

こういう、サイバースペースとかマトリックスとかセカンドライフものが、73年にあったとか、そういうのは割とどうでもよくて、見るべきなのは人工的な世界とか虚構のなかで、自身のよりどころを失い、周囲の全てが信じられなくなって暴走し、やがて破滅していく主人公、という70年代ファスビンダーに一貫してみられるテーマ(「シナのルーレット」(1976)とか「デスペア~光明への旅」 (1978)のあたり)が、SFという設定のもとで、とてもわかりやすく、しかし強烈に出ているところがすごいの。

自分がふだん現実と信じこんでいるものはほんとうにそうなのか? そもそもの自分はどこに、どっち側にいるのか? とかそういう議論が、プラトンやアリストテレスの引用とともに展開される。 
でも、表面は、やたらでかい、ぎらぎらしたドイツ女、とか、なに考えてるのかわからないのっぺりでっぷりした男とか、いつものファスビンダー、のとこもある。

クラシックと電子音、更には木々や鳥の声がきりきり交錯しながら調度が狂っていく音響も含めて、すべてが眩暈のなかに、宙づりになった世界のなかにあって、それらはすべて意図して構築されたもので、ぶらぶら揺れている。

TVを意識したのかもしれんが、そんなに思弁的なとこも暗いかんじもなくて、かっこいい車もでてくるし、ライフルもでるし爆破シーンもある。 70年代のアクション映画、みたいなかんじもするの。


休憩時間に、ここの名物であるDavid Lynchさんのコーヒー - David Lynch Signature cup coffee - ていうのを飲んでみる。
びっくりするくらい香りがすてきでおいしい。禁断のなんかでローストしたとか、変な粉でも入れてみたとか?

あと、これもずっとねらっているシネメタルTシャツのファスビンダーのは、今回も悩んだ末にパスした。 来るたびに悩んでいるな。

[film] Horrible Bosses (2011)

金曜日はほんとうに、くそあっつくて何度か、何度でも死ぬかとおもった。

だもんだから会議に参加していた全員やるきゼロで、5時にあがってみんなで角のパブに逃げこみ、だらだら飲み始めたので適当なところで抜けて閉店間際のBergdorf の古本屋に駆け込み、2冊だけ買う。 どちらも昔から置いてあって、どうしようかなー、だったやつ。

- Kenneth Anger "Hollywood Babylon" どこの時点のかわからぬが、初版、て書いてあった。
これの日本語版はこないだ再発されましたが、あれよかぜんぜん大判で、写真がみごとなの。

- むかしKnopfから出たde Meyerの写真集。 紙の質と印刷のかんじがたまんなくて、つい。

で、夕暮れの公園でしばしぼーっとした後、Times Squareに下りて、今日から公開の"Friends with Benefits"をみようとしたのだが、暑さから逃れようとあがく難民でロビーはごったがえしており、9:30pmの回はすでに売り切れ、しょうがないので隣の映画館でこれを見ることにした。 どっちみち見るつもりだったし。

あんましぱっとしない3人組が、自分達がぱっとしないのは性悪な上司のせいだ、ということでお金を集めて殺しのコンサルタント(Jamie Foxx)を雇って、実行しようとするのだが、うまくいくわけないよね、というおはなし。

性悪な上司は、とてつもなく陰険でパラノイアのKevin Spacey、すだれ髪でひたすら気持ちわるいColin Farrell、色情狂の歯科医さんのJennifer Anistonの3名。 
まあひどいんですよ。(でも、Jenniferはちょっとはゆるすかも)
でも、どっかにいる、ぜったいいる。 お前なんかいなくなっちゃえ、というやつらが。

とにかく、加虐のほうも被虐のほうも、出てくる連中ぜんぶがろくでなしで、どうしようもなくて、計画もぜんぶぐだぐだのしょうもない方向に転がっていく、その様がとてもリアルでわかりやすくて、たのしい。

"The Hangover"のどっちに転んでいくかわからない系の笑い、というよりは上司と部下、というかっちりした関係の縛りのなかであがいてもがいてひっくり返っていく笑い。

久々に狂いまくっているKevin Spaceyを観れるとこ、”Just Go with It”の後で、更にすごくなってしまったJennifer Anistonのコメディエンヌぶりが観れるとこ、など見どころはほんとにいっぱいあるの。

監督は、"Freakonomics" (2010)のひとで、いろんなものがいろんなとこに食いこんだり捩れたりしていくのをねちねち描くのがうまいねえ、とおもった。
Todd Phillipsの豪快でたまに投げやりなノリとは別のやつが。

[film] Beginners (2010)

木曜日の晩、ひょい、て時間が空いたのでTimes Squareで見ました。

前回の帰国前日に公開されたやつがまだやってた。
"Thumbsucker" (2005)のMike Millsの新作。

"Thumbsucker"が指しゃぶりを止められない大人になりきれない、ひとりぼっちの青年のお話しだったのと同じように、今度もどこかしら壊れかけたひとりの中年(38歳、という設定)の姿を描いている。 

その中年がEwan McGregor で、彼の父親は末期癌でそんなに長くなくて、でも年とってからゲイになって、若い恋人がいる。 で、だからといってぐれたり反抗したりするわけにもいかなくて、父の看病をしながら父のこれまで生きてきた世界に関わりつつ、絵を描いたりぼーっとしたり、の日々。

死にかけているのに泰然として人生を楽しもうとする父親役がChristopher Plummer で、これは文句なしにすばらしい。 
あと、恋人役で”Inglourious Basterds"(2009) のMelanie Laurentさん。彼女もすてき。

あと、犬も字幕経由でしゃべる。 この辺がにくいの。

基本はこの3人+わんわんのアンサンブルで、どこかで救いや奇跡が現れたり、涙と感動になだれこむわけでもなく、ひとり絵を描いて生きている青年が父の看病を通して父の人生を見つめて、自分のこれまでの生を見つめなおして、新しいいろんな関係の糸に目覚める、そんな程度の。

Mile Millsなので画面構成とか、色のかんじとか、気がつくとどこかで鳴っているピアノとか、生き物のように生まれて流れて絵を描きはじめるいろんな線とか、画家のひとの映画だなあ、ておもった。

悲しみ、はあんましなくて、しょんぼり、でもなく、ほんのりしんみりするかんじがなかなかよかった。

[film] Four Adventures of Reinette and Mirabelle (1987)

帰りのJFKなう。

ほんとは、木曜日に帰国の予定だったのだが、結局2日延びた。
おかげで久々のお食事会もフジ(これはむりだったか)もだめになった。
まあ、いつも思うことだが、仕事のやりかたをなんとかしないとねえ。(て、偉そうにいえる人にならないとねえ)

でも、いつも思うことだが、あっというまだった。
土日があるからいろいろできると思っていたが、毎日しゃれにならない暑さなので、動こうにもあんま動けず、ぜんぶがなし崩しのずるずるだった。

だんだんに書いていきますが、いつおわることやら。
みれた映画は全部で10本。新しいのが5本、旧いのが5本。 ライブは0.4...(涙)。


到着した20日は、機上でがんがんの頭痛、痛み止めのんだら目がまわりだして(いつものこと)、そのまま空港からのTaxiでげろげろに車酔いして、ホテル着いたらそのままばったん、だった。 

で、夕方になってようやく起き上がり、BAMのCinematekに出て、これみました。

『レネットとミラベル/四つの冒険』。25周年記念でこれと、"Le Rayon vert (Summer)" - 『緑の光線』これは6月の最初でもう終ってる - がニュープリントで1週間だけ公開されている。 25年かあ... だよねえ。

当時、『緑の光線』と『レネット...』でロメールにやられてしまったひとは多かった。はず。

特に『レネット...』はLDが出てすぐ買って、そのなかでも「青い時間」のエピソードがだんとつで好きで、少女趣味だのさんざん言われても断固ぜったい好きで、そこだけ何10回見たかわからない。
冒険というほどのもんではない、都会の女の子と田舎の女の子が出会って、田舎と都会で、うだうだしているだけなの。

「青い時間」。夜明けの、全てが静まりかえる一瞬を待つ、最初の試みはトラックの音で失敗するのだが、そのトラックの音と一緒に誰かの携帯がどんぴしゃのタイミングで鳴ったので、みんなでわらった。

上映後に第3話「物乞い、万引、ペテン師」にも出ていて、『緑の光線』の共作者で主演女優でもあったMarie RiviereさんのQ&Aがありました。 
『緑の光線』のDelphineそのままみたいなかわいいおばさんで、通訳なしで一生懸命英語でしゃべって、たまに客席に助けてもらったりしてて、微笑ましかった。

ロメールは、リハーサルにはものすごく時間を掛ける(6ヶ月前から始めるそうな)かわりに、本番はほとんど1テイクだったとか、ふうん、ていう話がいっぱいあった。

で、この日のこの回は9:15から彼女の作成したロメールのドキュメンタリー、"In the Company of Eric Rohmer"の上映もFreeでついてきたのだが、くたくただったので諦めて帰った。 

ロメールを見たあとって、映画館を出てからしばらく、夜空とか舗道とか木陰とか、なにみても新鮮なんだよなー、とあのかんじに久々に浸った。
たとえそこがうだるようなBrooklynだったとしても。

7.23.2011

[film] Harry Potter and the Deathly Hallows: Part 2 (2011)

昨日も今日も100Fを超えた。ほんとにひどいわ。


連休の最終日、六本木で、2Dでみました。
Part1の3D化は間にあわなかった(でもPart2はまにあった)、ていうことはもともと2Dで撮られて後処理で3D化しようとしていたわけで、そんなら別に2Dでいいんだろ、とか。
これまでずっとMomoで聴いてきたもんをいきなりStereoで、て言われてもちょっとね、とか。

うん、わるくなかった。 たしかにぜんぶおわった。
Part1が相当にぼんやりした、どーすんだこれ?みたいなやつだったので尚更、なのかもしれない。 Star WarsのEP6よか、Load of the Ringsの最後のよか、期待してなかった分、よいものに見えてしまった。 
いいのか、よかったのか? みたいなことをまだ考えてる。

学園モノが、最後にちゃんと学園モノとして終った、というところが大きい。
現実社会を引っ掻き回すようなことはせず、終始学園のなか、高校大パニックに留めることで先生生徒ひとりひとりの焦燥感が全面にでて、最後の戦いモードが盛り上がる。
どっかの惑星の小熊連の力を借りたり、ハン・ソロの乗ってないファルコンが活躍したり、という致命的なミスもない。 Nick Caveも流れてこない。

しかも、胸毛まで生えてきて、暗い顔して覚悟はできているようだがいまいち踏み切れない主人公ハリーを(たぶんわざと)放置して、周囲が勝手に暴走していくところがいい。 

それはもう一方の主人公である鼻無しについてもおなじで、藁人形攻めで落とせるのなら、そんな強くないんじゃん、とか。 最後に鼻が生えてくるのを期待したのだが、それはなかったな。

校長先生に人妻への永遠の愛をコクるSnape(直接言えよ!)とか、いきなり仁王立ちのMaggie Smithおばあさんとか、「うちの娘になにすんのよ!びっち!」の一言でBellatrixを葬ってしまった八百屋のおばさんみたいなひととか、横から走りでて奇跡の逆転シュートを放ってしまったNevilleくんとか、印象に残ったのはそんなやつらばっかりだ。 世の中そんなもんよ。

Part1でHermioneの腕に彫られた呪いみたいのはどうなったんだ?とか、あそこのあれはどうした、どうなった? みたいのもすごくいっぱいある気がする。 
もはやどうでもよいことだが。

結局、えんえん7本もやって、魔法では世界征服もできないし、身を焦がすような恋を実らせることもできないことがわかった。 じゃあ魔法ってなんなんだよ! と誰もが床を蹴っとばしてしまうにちがいないが、そういうのは魔法に頼ってはいけないんだよ、というのが子供達へのメッセージなのかもしれないね。 ちっ。

で、そうしてみんなただのおじさんおばさんになってしまうのな。
 

7.22.2011

[film] 歓待 (2010)

NYは、ありえないあっつさ。 湿気がない分、鉄板の上。

日曜日に渋谷でみました。

江東区の小さな印刷工場 - 住居兼用 - でふつうに暮らしている家族のとこに怪しそうな男が現れて、なんだかんだ言ってそこのひと部屋に間借りしてしまう。
その男は次に妻だという外国人(最初はブラジルから来た、といって、次はボスニアから来た、という)を呼び込んで、さらにいろんな外国人が現れて、あらら、という状態になる。 ぜんたいとしてはほのぼの変、でもそれだけではないの。

いつのまにか家族のなかに入りこんで、弱みをがっちり掴んで抜けられない足場を作って、さらに仲間を呼び込んで全体をひっくりかえす。寄生虫みたいなオセロみたいな。なんかの罰ゲーム、みたいな。

カメラは闖入者を受け入れる家族となかに入りこんで行く闖入者の目線を通して、家族の事情(これもなんかあやしい)、住居の構造(というほどのもんではないが)、などなどいろんなことを淡々と映しだしていく。
どれも驚くような内容のものはない、日本人のわれわれはどこかで、こういう家族とか家があること(むかしはふつうにあったよ)をなんとなく知っている、はず。

映画は、この「はず」みたいなところを括弧で括って、家族とか住居とか地域とかにおける境界、不審者、外部のもの、とはなにか、そこに出てくる居心地の悪さとか違和感みたいなのはどこから来るのか、などなど、「もやもや」を宙づりにして、これなんなの? て考えさせる。

川縁に住み着いたホームレス、不法滞在の外国人、「コミュニティ」の治安を脅かす、といわれるこれらの「もやもや」。

なんでこれらは気持ちわるいとか言われるんだっけ? 
「安全」て「治安」てなんだろ?

宙づりになった「もやもや」は最後にいろんなひとがわーってつっついてお祭りになってひっくりかえしてわけわかんなくなって、なんとなく元にもどる。 まるで何事もなかったかのように。

よかったね、なにごともなくて、という地点に来て、最後に「歓待」という言葉がふわんと浮かんでくるの。 彼ら、どうおもったのかしら。 ちゃんともてなすことことができたかしら。 またそのうちね。

全体のトーンはコメディなのだが、これってかんたんにホラーにひっくり返るものでもあるの。
闖入者が家族ひとりひとりを血祭りにあげていく、或いは、家族が寄ってたかって闖入者をぼろぼろにしていく、ホラーでは割と常道のこんな設定が、下町の町工場経由で、こんなにも簡単にひっくり返せるかもしれないのよ、というメタ・ホラー映画でもあるの。

都知事に見せたいよね。 けしからん、とか言うだけだろうが。

7.20.2011

[log] July 20

あうあう、もうぜんぜん・・・

まだ書いてない映画メモが2本ほどあるのだが、いまは成田空港で、またJFKにむかうの。
今回は土日をまたぐので、少しは余裕があるかもしれないが、連れとかもいろいろいるのでどこまで撒けるか、じゃなくて、しごとなんだからしごとしろ。 

せっかく土日をまたぐのに、そういうときに限って、あんましないのだねえ。野外のライブとか。

映画も29日までいられれば、いろいろ見たいのも出てくるのだが、いまのとこは旧作中心になるもよう。 もよう、じゃなくてしごとのことをかんがえたまえよ。

これは夏休みじゃない、とはっきり書いとけ。

[log] July 15

時間がないー。

とにかく暑くてやってらんない仕事行きたくないー と思っていたところに、15日まででいろんなのが終ってしまうことがわかったので、げーとか言いながら病気になって休むことにした金曜日。 

とりあえずユーロスペースにいって、最終日のGlauber Rocha作品から2本。

『狂乱の大地』(1967) "Terra em Transe"

南米の奥地にある架空の国エルドラドの政争を題材に、国益と民の救済、政治と詩、そしてさまざまな理想と映像を巡って提示される逡巡、自己問答。 
ふたつの立場、ふたつの施策の間で引き裂かれ、それでも突っ走ろうとして最後に崩れ落ちる主人公を真正面から堂々ととらえる。
ローシャ自身のマニフェスト、というか墓銘碑のようなと思えて、であるが故に画面はどこまでも堂々として揺るがず、どのショットもおっそろしく瑞々しく、しかもかっこいい。 なんだよこれ、かっこつけすぎじゃないか、というくらい。


『黒い神と白い悪魔』(完全版)(1964) "Deus e o Diabo na Terra do Sol"

つい逆上して領主を殺してしまった貧しい農夫が、放浪する救世主(黒い神)の元に流れていって、その黒い神を狙う賞金稼ぎとかもいて、血で血を洗う抗争に巻き込まれていくのだが、その顛末とか行く末の悲惨さとかしょうもなさを描く、というよりも結局どっちに行く? どうする? ということを絶えず胸元に突きつけられ、問われるような、そういう切迫感がずうっと続いていくので、こわいったらこわい。決して傍観者であることを許さない映像の濃さと強さ。

とにかく出てくる全員の顔がすごくて、特に黒い神のあとに出てくる白い山賊コリスコとアントニオ・ダス・モルテスの迫力が尋常ではない。 やっぱし山賊とか海賊って、ああいう顔と風体だよねえ。あのぶあつい、弾とか刃とかを通さないような身体と、その地面にすっと立つ、姿。 ジョニデのなんか、ただのコスプレだよねえ、とこれ見るとおもう。

『アントニオ・ダス・モルテス』は、こんどまたきっと。

その後で、恵比寿の東京都写真美術館に行って、これも終りそうだった『プラハ 1968』を見る。
これまでも部分部分はいろんなところで見てきたが、纏まってみたのは始めてで、そうして見るとやはり圧巻だった。あの、写っているひとりひとりの目の強さときたら。
ローシャの60年代の2本の後で見ると、はっきりと、この時期の辺境と呼ばれた地域の地盤の硬さ、そしてそこに踏んばって、穴をあけてでも断固踏み留まろうとする人々の姿と共に、世界はあったのだなあとおもった。

そのあと、7:00からイメージフォーラムで、最終日の『ラルジャン』(1983)を。
これ、公開時に見て、これがブレッソンの最初で、ものすごいものを見てしまった気がして、それは未だにずっと続いている。LDも持ってる。

なんの説明もないのに、なんの修羅場もないままに、複数の家族、複数の人々、がぱたぱたと交錯していって、最後にああいうことになる、そこにもなんの説明もないし、わかることを強要しない、神はいない、すべては画面の上で起こっているのに、沢山出てくるドアのどこか・どれかとこちらの世界は繋がっているようにおもえる。こんなにこわい映画はないの。

あと音がねえ、鳴るだけでいちいちびくびくする。そういう鳴りかたで鳴るの。

7.18.2011

[film] Thor (2011)

爆音ゴジラの後、家に戻って少し寝てから再び外に出て、なんとなく。
積極的な理由はあんましなくてね、Marvelでむかーしからあった企画、っていうのとこれからずるむけしてくるであろうAvengersモノに備えておくため、程度で。

監督がKenneth Branaghで、原作のコミックのファンだった、というのもあるらしいが、これはシェイクスピアじゃ! とか嬉々として演出したんだろうな、というのは簡単に想像できる。しかも3Dだし。ぜんぜん3Dじゃなくてもよかったと思うが。

内容も父と息子、兄弟の確執から裏切りと成長(したのか?)というシェイクスピア、て言えないこともないようなとこもあるし(でもそれ言い出したら…)、ギリシャ(or 北欧)神話みたいでもあるし(でもそれ言い出したら…)、だからね、ふつーに楽しめる、ほんとに可もなく不可もなくみたいなやつで、でも、こういうのに期待するのって過剰なのとか過激なのとか以外のなにものでもないから、なんかね。 
"Iron Man2"のMickey Rourkeみたいなバカ悪役がほしかったなあ。

Sam RaimiとかMatthew Vaughnが監督していたらもうちょっとバカなほうに寄っていたかも。

だから気になるのはほんとどうでもいいとこばっかし、使いっ走りのAgent Coulsonの挙動とか、"Stark"ていう固有名とか。

Natalie Portmanさんは、たぶん、コミックものだったら楽勝ぽいし、ここでKenneth Branaghとコネ作っておけば文芸モノにも広がるし、程度だったのだろう、相当にどうでもいいかんじ。 
天文系のギークだったら地球に落ちてきた男にあんなふうにべたべたできないよね、ふつう。

あと、Rene RussoさんがThorの母親だった。 そうかあー。

あと、エンディングで流れるFoo Fightersの"Walk"があまりに作品世界にはまっているので笑った。 ”I never wanna die”て連呼するとことか。尊大で豪快で傲慢で、いいひとみたいだけど、実は周囲のことあんま考えてないようなとことか。
(製作側もあまりにはまるっているから、ということで後から持ってきたらしい)

でも、そんなに暑苦しくなかったのはよかったかも。 
神さまの世界もたいへんなんだねえ。

7.16.2011

[log] お引っ越しその後

気がついたら引っ越しして1ヶ月が過ぎていた。

ここらで軽くふりかえっておこう。

■ 米国から戻って前のおうちに入ったのが2006年。
■ 米国からの荷物とトランクルームに預けてあったのと、実家とかに預けてあったのが、一挙になだれこんできて、あっという間に家中箱でうまった。
■ 最初のうちはがんばって箱を潰していたのだが、そのうち箱を開けるスペースすらなくなってしまい、全てが嫌になって会社まで辞めてしまった。
■ 会社辞めてお片づけに集中するつもりだったのに、ほとんど毎日映画館とかに通ってあそんでいた。たのしかった。
■ そうしているうちに、滞在中に貸していたおうちが戻ってきたのだが、広さ的にどうすることもできないことがわかっていたし、あと戻りはいやだったので、売っ払ってしまった。
■ 2010年の後半は殆ど異国にいたのでそういうのに煩わされることもなくしあわせに過ぎてしまった。
■ 311がきて、箱と本がそのままふつうに崩れて倒れてきたら簡単にやられる、つぶされる、ということがわかった。 それでもよかったのだが。
■ 余震のたびにがらがらいろんなものが崩れて寄ってくるので、またなにもかも嫌になってきた。 けどこんど会社やめたら橋の下とか公園とかに行くしかない。 それでもよかったのだが。
■ とりあえず前よか広めのとこみつけて、引っ越すことにした。レコードや本買うときよか悩まなかった。

■ 出張から戻って3日後、引っ越しの3日前から箱詰めを開始した。
■ ぜんぜんあまかった。 引っ越し屋の持って来たダンボールはすぐなくなったので、6割くらいが当日勝負となった。 箱のパンダがにくたらしくなった。
■ 引っ越し当日は朝8:30からはじめて夕方6時くらいまでかかった。引っ越し屋がパニック起こして、援軍を呼んだりしててかわいそうだった。見積もりした営業のひと、怒られただろうなあ。
■ 過去いろんな引っ越しをしてきたが、これまででいちばん過酷でしんどかった。
■ 今回は箱を開けるスペースはあるし、本棚も追加投入したので、はじめの頃は楽勝、のような気がした。 いまはそんなに楽観できないかんじ、になりつつある。
■ ずうっと開けていなかった箱が結構あった。一番古いやつは2001年に米国に行くときにトランクルームに預けたときの箱、次に古いやつは2006年に戻って来たときの箱。 5年ものと10年もの。なかなか香ばしい。
■ アナログの箱は6つくらいと思っていたのに今回新たに4つくらい発掘された。いちいち驚かない。
■ 箱の中味も、いちいち驚いていたらきりがないので驚かない。 ほほう、程度で。 でもあとでじーっと見て考えこむ。いったいこれはどこから?
■ 米国を離れる直前のどさくさで買いこんだ(としか思えない)本とかDVDとかアナログがものすごくいっぱいあることがわかった。 これはちょっとうれしい。
■ おなじ本やCDがいっぱい出てくるのも、もう驚かない。
けど、岩波文庫の聖テレジア『完徳の道』が3冊でてきたのは謎。そんなに徳がほしかったのか。
■ 売っ払うものは売っ払う箱にどんどん突っこんでいく。いまのとこ、CDが3箱、本が4箱くらい。
■ 90年代のNew York誌とか、80年代後半のマリクレールとか、タイムアシェットから出てたころのElleとか、昔の雑誌はおもしろいねえ。 
■ VHSとか悩ましいのも多い。ポッパーズMTVとかが入ってるやつ。あと、80年代後半のNMEとかSoundsとか、古新聞みたいなやつ。たぶんだれかが置いてったのとかなんだけど。 どうしよ。
■ 箱をちょっと開けて中味を確認、そのまま見なかったことにする。という仕打ちをしてしまった箱があと10くらいある。 どうしよ。

■ あと3ヶ月は軽くかかるんだろうな。 夏になっちゃったしな。

[film] 爆音ゴジラ

7月9日は、爆音のオールナイト。東宝の怪獣もの4本。

これはもうしょうがないの。怪獣が出るいうたらみんな出動するでしょ。それとおなじなのよ。

これまで爆音がなかったのが不思議なくらい。福島の件を持ちだすのは野暮ってもん、かもしれんが、でも、きちんと足場は固めておかないと。

結果からいうと、これはもう断然、圧倒的な伊福部昭ナイトだった。重低音爆音、というよか爆撃、としか言いようがない、あの轟轟した低音に一晩中引き摺りまわされっぱなし。 
あとは、田崎潤と宝田明、かな。

放射能はというと、もうとっくに、きていた。やられていた。爆音はそれを特大のガイガーカウンターとして耳元に突きつけてくれただけだった。

以下、順を追って簡単に。

■ ゴジラ (1954)
オープニングタイトルの漆黒をバックにどーん、どーん、どーん、どーん、と鳴り渡る冒頭のあれ、あれだけでもうじゅうぶん。
それにしても… とやはり思うよね。広島と長崎を経て、こういう映画を作っておきながら、この時点で反省点は既にじゅうぶん網羅されているにも関わらず、なんで平気で忘れてしまうことができたのか、と。 村上春樹の講演ではないが、これを忘れること、忘れるふりをすることができてしまった自分たちの愚かさ、浅ましさを、今度ばかりはぜったいに忘れてはいけないの。

■ 海底軍艦 (1963)
1万年以上どっかの海底でうじうじ世界制覇を狙ってきたムウ帝国と戦争負けたのに聞こえないふりしてどっかの島に籠っておなじように世界デビューを狙ってきた旧帝国海軍がよくわからん互いの意地をかけてぶつかりあう。
これも最近世界のあちこちで見られないこともない、もういいじゃんそんなの… 系の戦い、で、なんだかどんよりしてしまった。 ムウ帝国をぶちのめすのはいいけど、そのゴミで海はやっぱり汚れるじゃねえか、どうすんだよ、とか。

マンダのあのうりゅうりゅした唸り声を爆音で聴けたのはいかった。
マンダよわいけどな。

■ 怪獣大戦争 (1965)
当然リアルタイムで見てはいなくて、70年代の東宝チャンピオンまつりで見たのだろう。でも、当時の小学生でもゴジラのしぇー、は「あーあ、やっちゃったよ」と思ったのを憶えている。 これ以降顕著になっていったゴジラの除染化、はエネルギー・電力業界の陰謀だったのかも、とか適当におもうことにした。

X星人がレディーガードで悶えながら死んでいくとこは虫だよね、とか。

■ フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ (1967)
子供の頃にTVでみて、こんなかわいそうでかなしーのあるかよ! と憮然とし、ある種のトラウマになっていた1本、だと思いこんでいたのだが、トラウマだったのはどうも『フランケンシュタイン対地底怪獣』(1965)のほうだった(ラストのとこ)らしいことがわかった。 
あと、サンダとガイラは兄弟ではなくて、クローンだった、ということもわかった。クローンでも性格はあんなに違っちゃうんだね。

あと、ひょっとして、サンダって山にいるからさんだ、で、ガイラは海だからがいら、なの? それってみんなとっくにしってることだったの? なんでだれも教えてくれなかったの? とか日曜朝の4時くらいに悶々としていたのだった。

あと、スチュワート博士って、イアン・デューリーに似てるよね。
どうでもいいけど。


朝の光がありえないくらいに眩しくて、見たやつぜんぶ夢みたいにおもえた。

[film] 恐怖女子高校 暴行リンチ教室 (1973) - 爆音

七夕の晩に爆音でみました。

こういう系(てなに?)は阿佐ヶ谷でいくつか見ていたし、これもたしか阿佐ヶ谷でみたやつなのだが、あそこの、床にべちゃーとなるかんじ(お茶の間まぐろ)で見るのとはぜんぜん違う、ふつうのスクリーンで見るとそれなりにびっくりする。

おお、映画だー、みたいな。(なんだそれ)

いえ、爆音もあるのかもしれんが、映画としてとってもブリリアントな、映画どまんなかのオーラがぶあーっとでてた。

女優さんはみんなへたくそで台詞棒読みだし、喧嘩もエロも中途半端でなんだそれ、みたいのもいっぱいあるのに、なんだろうな。

反権力、とか、やらしい大人(悪徳教頭の名は、石原仙太郎…)に立ち向かう、ていうのはこういうことなんだ、と杉本美樹とか池玲子とか女番長連中のぎんぎんした目つきが語ってしまうとこ、とか、当然のようにスクリーンのあちこちにならず者とか、流れ者とか、不良とか、そういう連中がごろごろしているとこ、とか。 

ほんとふつうにおもしろくて、最後の激突のとこなんて目が離せないしすごいし、あっという間なんだよね。 (冒頭のリンチのとこだけは、さすがにいやだ)


翌日の金曜日は、ユーロのローシャ特集に行こうとおもったのだが、時間がなくなり、イメージフォーラムのブレッソン特集に駆け込む。

59年の『スリ』。
これも、何回みてもすごいのな。
クライマックスのポケットから機械みたいに財布がおちてそれに連結された別の機械みたいに手錠がくるっと絡まってくるとこ、あそこで人生がまるごと音をたてて落ちる、そういう音がする。 
『ラルジャン』のほうも、そういうすごい音が。あの金属音。

しかし、ブレッソンを見るといっつもなんか反省してあれこれ申し訳ない気分になるのね。

なんでだろ。

7.15.2011

[film] Hesher (2010)

あっつい。 なきたい。

邦題は『メタルヘッド』だが、これはちょっとちがうよね。
原題は"Hesher"で、これはJoseph Gordon-Levitt演じるメタラーというよりスラッカー、の名前で、彼はメタルを聴いているようではあるが、メタルの世界観(そもそもそれってなにさ?)やその音に誘発されて出来事やアクションが転がっていくわけでもなければ、終わって頭のなかがメタルに染まってしまうわけでもない。

こうしておけばメタル系のリスナーも集まってくるのかもしれないが、マーケティングにイメージとしての「メタル」を使っておもしろがるのはもうやめるべきだ。 メタル村のひとたちはみんなよい人たちだから、微笑んでなにも言わないだろうけど、とってもきもちわるい。 こういうきもちわるいの挙げていったらきりがないわけだが。

父と子(T.J.)と祖母が暮らしてて、父は沈んで全てにやるきがなくて、T.J.もいじめられててしょぼくれてて、レッカーで持っていかれた潰れた車を欲しがっている。そんな彼らの家に突然上半身裸のHesherが現れておなじ屋根の下で暮らしはじめるの。

そういう闖入者がきて、居座られて、彼らは最初は唖然とするものの、追いだそうとしたり警察よんだりすることはない、そういうことすらどうでもいい、それくらい脱力・自失している、と。

Hesherのほうも、勝手に飲み食いしたりするものの、TVみたり洗濯したりギター弾いたりおばあちゃんとお話ししたりする程度で、ほぼ無害/どちらかというと有害、程度。 極悪な有毒ななにかを持ちこんだり垂れ流したりするわけでもない。
ただいつも御機嫌、というわけではなくて、どちらかというと不機嫌、なに考えてるのかわかんないので不気味、たまに助けてくれるようなことをしてみたりする。 が、元々なんのためにいるのかわかんない奴なので、基本はなんも期待できないし、すべきではない。 妖怪だよね。 

でも、そもそも他者、というのはこんなようなものなのではないか、同じ屋根の下にいようがいまいが。
ということをT.J.はだんだん学んでいく、他者と暮らす、というのはこんなふうで、その向こうにはなにかしら野蛮でぼうぼうした世界が拡がっていそうだ、と。

最後に、Hesherは、ああいうのを残してどこかに去っていくのね。

で、まあ、Hesherを演じるJoseph Gordon-Levittが、とにかくすばらし。
ただ不気味にいるだけ、でじゅうぶんにあやしくて、でも無臭のようで、かつてのキアヌがはっきりと(多分に無意識に)持っていたあのかんじを、このひとはコントロールされた演技として前にだしてくる。

彼のリアル・イメージとしては元QOTSAのNick Oliveriさん(こないだ逮捕されてたけど)あたり、かなあ。 

全体としては、初期のジャームッシュの映画がもっていたとぼけて枯れたかんじがなんとなく。あれよか雑だけど。 でも、おばあちゃんとのお散歩のとこは、あれはなんかずるい。反則だよな。

本作のプロデューサーでもあるNatalie Portmanさんは、ビンボーでいけてないスーパーの店員娘で、T.J.にほんのり好かれたりするものの、かなりどうでもいい役どころで、"Black Swan"みて、"No Strings Attached"みて、"Thor"みて、これみると、かんぜんになんか見失っている気がしないでもない。 本人がしあわせならよいけど。

シリーズ化は、ないか・・・

7.11.2011

[film] Red Riding Hood (2011)

いっぽんいっぽん書いてる時間がぜんぜんないので、適度にとばしていきます。

先月29日の夕方にユーロスペース、Glauber Rocha特集のつづき。

"Barravento" (1962)

ローシャの長編1作目、モノクロの映像がとてもきれい。
バイーアの漁村に古くから残る因習や儀式(+それに左右される漁)と、彼らを縛ろうとする領主と、都市から戻ってきた若者、この3者の葛藤がバイーアのでっかい海(すばらしい海だ)、鳴りやまない土地の音楽をバックに、極めてシャープに切り取られる。
画面構成と編集のかっこよさ、畳み掛けるような怒涛の展開は、既にローシャのもので、そしてその視座と力強さは、このBarravento - 大地と海が一変して、生活や社会が激しく変わる瞬間 - をしっかり見据えるべく、ここから遺作となった『大地の時代』まで、ぶれなかったのだなあ、と改めておもった。


”Red Riding Hood” (2011)

『赤ずきん』。 2日の土曜日に新宿で。
どっかの山奥の山村で、狼の化け物(Werewolf, 字幕は「人狼」だって)が出ると言われてて、その人狼を退治するはなしと、貧しい家族のために両想いの幼馴染とは別の相手と結婚するよう言われて揺れる赤ずきん娘と、仲良いんだか悪いんだかよくわからない彼女の家族と。

より具体的にいうと、人狼はどうも村の内部にいるようで、それって誰よ? というのと、彼女のそばに寄ってくるのがどっちもいい男なのでどうしよう困っちゃう、ていうのと、なんでみんなあたしのことじろじろ見て疑うのよ! ていうのの3面少女漫画構成で、あんまし怖くなくてよかった。 
なんかどっか似てるかも、と思ったら監督は”Twilight”サーガの1作目を撮ったひとだった。

人狼に噛まれたひとは(即時ではないが)人狼になっちゃう、という設定は、ゾンビか吸血鬼か、だし、もうちょっと伝奇的なところとか、血縁どろどろとか、殺戮の陰惨さとか、悶々溜まっていく怒りとか不満とか、入れてもよかったのかもしれないが、あくまで女の子向け、ということで。 
でも、主演のAmanda Seyfriedさんて、ホラー向けの顔だし、もうちょっとじたばたするかと思ったのだが、腰の据わった村娘、みたいなどすのきいた目が逆に頼もしくて、それが最後のほうで。

人狼退治でどこからか流れてくるちょっと狂った神父にGary Oldman、主人公の祖母(おばあちゃん、おばあちゃんのお耳はなんで・・・)にJulie Christieと、脇もよいのになー。

赤ずきんの赤は、雪景色に映える鮮やかな赤で、血の赤ではなかった。 それになんであんな長いのかとか、そのへんの説明がもうちょっとあってもよかったかもしれんが、そんなの誰も気にしないか。 

でもそんなのよか、要は、彼が狼だって、家族が狼だって、村八分にされたって、負けないで生きるのよ! ていうメッセージなの、かなあ。 
"Let Me In" (2010) もそうでしたが、弱いけど、儚いけど、あえて異形のものに寄り添って、街や村から出る、一緒に行く、そういう系の-。

予算の関係もあったのだろうが、人狼、もうちょっとなんとかすれば-。
あとあの風情もくそもない赤い月とか。

音楽はBrian Reitzellさんで、地味だったがところどころとんがってて悪くなかった。

7.06.2011

[film] Buongiorno, Notte (2003)

この日の4本目。 

あんまきつくはないのだが、会社休んでなにやってるんだろ、というかんじにはなるわ。

『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』の爆音を見たら、これも見ないわけにはいかなくなったやつ。 『夜よ、こんにちは』

これも20世紀の史実、赤い旅団によるモロ元首相の誘拐事件を題材にしている。
男女4人のグループが一軒家を借りて、誘拐者の幽閉用にフォームして、コトを起こして、家に首相を連れてきて閉じ込めて、連中は誘拐された側の国や政府と交渉し、誘拐された当人とやりとりし、「実行」のリミットに向けてじりじり動いていく。

連中は何かを変えようと思ってコトを起こしたはずなのだが、すべては「計画」だの「イデオロギー」だのの通りに動かざるを得なくて、コトはあらかじめFixしたなにかのように淡々と進行していくだけで、それはそれでなんの問題もないはずだったのに、そのことに苛立ちはじめる。

誘拐してきたのは権力の象徴でも政治的シンボルでもなんでもなく、たんなる人間だった、静かで聡明なひとりのおじいさんだった、というそれだけのことなのだが、そこから「革命」への道は近いようでとおくて、「人殺し」と「勝利」、「テロ」と「革命」の間で彼らの目が落ちつきなく彷徨いだす。

革命(or テロ)という信念のもと、一定期間、特定の場所に籠って揺れまくりながらも押し切って(押し切られて)しまう本作と、一途な愛をもって、いろんな場所や時間をえんえん引き摺られ、ぐるぐる悶々しながらも最後の最後まで諦めなかった(でもどこかに捨てられ、忘れさられた)『愛の勝利を - 』のIda。

ふたつの映画で描かれた、ふたつの人物(群)像、ふたつの時代の間に横たわるものって、なんなのか。
もちろん、ぜんぜん別のなにか、に決まっているのであるが、でも、ほんの少しの可能性を、堂々巡りのなか、ひょっとしたら変えられたかもしれないなにかを、ぐるぐるから解放される予兆を孕んだブレとか隙間みたいのを指し示す。 
これがあるから、どちらもテーマは重くて暗いのに、取り返すことができなかった何かを描いていながらも、苦しくはないの。

爆音はそんな時代の爆音・轟音の隙間に射しこむほんのすこしの静寂をくっきりと浮かびあがらせるの。
それはもちろん、勝ち負けなんかではない、でもはっきりとしたひと握りの拳、ひとすじの涙としてそこにある/あった、ある可能性のことを。

今回の映画に関していうと、過去のテロ映像のバックをつんざいて轟くPink Floydがとんでもなかった。 はじめて『狂気』の狂気を聴いたかんじ。

タイトルの”Good Morning, Night”はEmily Dickinsonの”Good Morning, Midnight”からとられたものだという。

夜さんと昼さんがお互い想いあいっこしながらも、一緒にはなれなくて、ぐるぐるまわっていくしかなくて、なんかせつないわ、ていう詩(たぶん...)なのだが、これとラストの朝の雨の街をてくてく歩いていく首相の姿を重ねると、なんか泣けてしまうのだった。

戻れないことはわかっているのに、朝は夜に向かって「こんにちは」、って挨拶したかったんだよ。
朝が来たのは、朝になれたのは夜があってくれたから、ってわかっているから。

7.05.2011

[film] Millenium Mambo (2001)

今年の爆音映画祭は、26日の"They Live" (1988) だけはなんとしても、と思っていたのだが、Twitterみたら混んでて当日券あやしそうで、行ってだめだったらやだし、他方でお片付けとかぜんぜん終わらず、じたばたしているうちに諦めてしまった。 やはり吉祥寺はちょっととおい。

で、とにかく火曜日は、新宿からごご4時くらいに着いたのだが、とにかくあっつくて、6時過ぎの"Millennium Mambo"まで、かき氷でも食べてふらふらしていようと思っていたのだが、氷屋を探しているうちに熱にやられてから揚げになってしまいそうな熱気で、なんとしても屋内退避するしかないなこれは、ということで『右側に気をつけろ』(1987)から見てしまうことにした。

これ、公開時に劇場で3回くらい見ているし、何年か前の爆音でも見たし、LDももってるし、パンフももってるし、agnes b.が公開時につくったでっかいポスターももってる。
でも、80年代ゴダールでいちばんすきなのはだんとつで『カルメンという名の女』(1983)で、これはそんなでもない気もするのだが、でも何度みてもおもしろいことはたしか。

映画についての映画、光の軌跡としての、轟音と共に軌跡を描く乗り物としての映画、のるかそるか、右側に気ぃつけとけ、そんなふうなの。

で、"Millenium Mambo"のほう。
最初にみたのは2004年の米国で、とにかく冒頭のみしっとした音の壁というか空気感にやられて(ずうっと背景は赤、スモーキーな赤、だと思っていたがちがった、なんだったのか?)、これはまたみたいー、と思ったのだが内容はすっかり抜けおちていた。 
でもこの映像と音とスー・チーがあれば/いれば、あとはなんもいらない。 

でも前半はやっぱりきついし、見ててぜんぜん楽しくない。
90年代のほんとに終わり、とあえて置いたのかもしれない閉塞感、密室感、依存症、威張り合い、小競り合い、あんなのはもういい、思い出したくもない。

ミレニアムだよ、ととりあえず置いてみたような時代の輪切り。 この映画は、2001年から10年後の世界から、自分のことを「彼女」と呼ぶVickyの語りと共に綴られる。

10年前はさー、こんなんだったんだよ、最悪だよね、という軽い溜息と自嘲、それは同時に、10年後にはこんなふうにあってほしいなー、という、彼女のうっすらとした祈り、とも重なりあう。

彼女はあのまま日本に残ったのだろうか、夕張に向かったのだろうか。
残ったのだったら、彼女はもう知っているよね。 
2011年の日本は断然、もっともっと最悪なんだって。

そういうふうに、10年の時を隔ててノックをしあう自分、そして世界。 
冒頭のあれはタイムトンネルで、それは20年後、30年後と繋がっていても構わない。
どっちにしても最悪なのか。 どっちも最悪なら、べつにいいじゃん、泣くこたない、なのか。

世界をそんなふうに切り取って、それに"Millenium Mambo"と名付けてみて、それを風船のように宙に浮かべて平然としているかんじ。 次の次の”Three Times” (2005)の時間のありようもこんなんだった。
描かれている世界はとことんWetなのに、眼差しはどこまでもCoolで、醒めてて。

外に出たら熱風と湿気と共にすごい耳鳴りがして、映画と繋がってるなー(除.夕張)とおもったのだった。

[film] Puccini e La Fanciulla (2008)

Wire行くの忘れたショックがおもく・・・

先週の火曜日、いろいろがまんできなくなり午後休んでさぼる。

まず新宿に出て『プッチーニの愛人』見ました。

インターナショナルタイトルは"Puccini and the Girl"、イタリア映画祭の2009のときには『プッチーニと娘』のタイトルだった。
オペラ作品の『西部の娘』- "La Fanciulla del West" - とも(たぶん)重ねてあるので、「娘」のがよいとおもう。

まず冒頭で、日本語字幕で(日本語版のみ?)コトの経緯が説明されていて、かつこれはプッチーニを聴くひとの間ではふつうに知られた事件のようなので、御丁寧に、としか言いようがないのだが、以降、殆ど台詞のない、押し殺したように静かな世界 - 世の中の大概の修羅場がそうであるような - が展開していく。

『西部の娘』を制作しながら、同時にいろんな女の人に手を出しつづけるプッチーニ、夫の挙動に目を光らせつついらいらしっぱなしのエルヴィーラとその側近、両者の間で押し殺されるようにきゅうっと絞められ、光と行き場を失っていくかわいそうなドーリア。

3人の暮らしている世界は、それぞれぜんぜん別のもので、でもそこにあるのは同じ建物、湖畔、風の音、鳥の声 - 美しいトスカーナの光景はひとつで、その3人の世界がひとつの風景の上でじんわりと撚り合わされて膨らんでいく様がスリリングで、言ってはいけないのかもしれないが美しくて。

そうしてこうして、ドーリア・マンフレーディ事件はおこった、と。

『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』とおなじく、これも前世紀の初め、歴史のなかで埋もれ、忘れられようとしていたイタリアの女性(達)のお話しなのだが、前者の地の果てめがけて大砲をぶっぱなすかのような怒号のけたたましさ、何があっても生き延びようとした強さとは対照的に、ドーリアはひとりしくしく泣いて、ぷつりといなくなってしまう。

償われるべきなにか(誰によって?)、として再構成される歴史のなかのイタリア女性。 
同じシアターでやってるし、2本続けて見てもよいかも。 
ぜんぜん違う映画、でもどっちもスケールはすごい。

プッチーニ役のおじさんのピアノがなんかうまい(+とてもよい音)ので、なんだろと思ったら、もともと音楽家のひとだったのね。

で、映画がおわって新宿の下界に降りたったらうだるような熱でしにそうになって、這うように吉祥寺のほうへ向かう。