8.31.2018

[film] The Go-Between (1971)

12日、日曜日の夕方、BFIのPinter特集で見ました。

原作はL. P. Hartleyの小説” The Go-Between” (1953)で、これはみんな大好きThe Go-Betweens(ていうバンドがある)の由来でもあって(でもこの辺、昨年出たRobert Fosterのメモワール - ”Grant & I” - には明確に書かれていない)、映画の方は脚本がHarold Pinter、監督がJoseph Losey。71年のカンヌでグランプリを獲っている。 邦題は『恋』だって…

20世紀の初め、裕福なとこの友だちMarcus (Richard Gibson)のNorforkのカントリーハウスで夏休みを過ごすことになった少年Leo (Dominic Guard)が経験するひと夏のいろんなこと。

着いてすぐにMarcusがはしかにかかって動けなくなってしまったのでひとりで遊ぶしかなくなったLeoは、買い物に連れて行ってくれたりした美しくてやさしいMarian (Julie Christie)にぽーっとなったり、敷地の向こうの小屋にいるおっかなそうな農夫Ted Burgess (Alan Bates)にこわごわしたりしていると、絶対誰にも言うなよって言われてふたりの間の手紙の運び屋 – これが”The Go-Between” - を頼まれる。なんかふたりで怪しいことをやっているなあと思いつつも、その秘密のなんかに加担しているというわくわくが彼を懸命に走らせるのだが、Marianには良家との縁談が進んでいることもあってMarianの母のMrs. Maudsley (Margaret Leighton) はこいつらの挙動にかりかりし始めて、それぞれの夏はどうなっていくことやらー。

未知のお屋敷、未知の貴族ぽい人たち、未知の田舎の景色、お屋敷内のぼうっとした暗がりと夏の田園地帯の明るさの対比、その間を走っていくLeoをロングで捕えたショットがすばらしくて、更にそこにMarian(姫)とTed(百姓)の道ならぬ恋と、LeoからMarianへのほんのり甘酸っぱい憧れが被り、バックグラウンドでMrs. MaudsleyとMarianのややどろどろした身内の見栄とか確執とか – とってもPinterぽい - が乗っかってくるあたりがたまんなくて、そこに Michel Legrandの流麗な音楽が絡まるともう夏の田園映画決定版、というかんじにはなる。 絵画だとJohn Singer Sargentあたりが描くような。

ふたりからすればLeoはただの使いっ走りで、Leoもそれをわかっているしぼく何やってんだろ、なのに、結末があんなことになったので彼のGo-Betweenした夏は永遠のものになってしまった気がする。 永遠にその間が埋まることがない何か、を見つけた夏。

白いドレスのJulie Christieは眩しすぎるし、Alan BatesもMargaret Leightonもそこに百年くらい居座っているようなしぶとい風体で頭から離れなくて。 ここにスイカと花火があったらパーフェクトな.. 

だからもう夏は終わったんだって。

Buster Keaton Triple-Bill

12日、日曜の昼、”The Go-Between”の前にBFIで見ました。

BFIでは月に一回くらいサイレントの上映会をやっていて、この日は家族向けのBuster Keaton特集で、Keatonのは何を見たっておもしろいから見る。ヤング・プログラマーのKeaton Leigh氏によるイントロがある、というので待っていると出てきたのは小学生くらいのガキで、この子がKeatonくんで、彼がいうには、ぼくはDiane KeatonもMichael Keatonもちっともクールと思えなかったのである日、親になんでこんな名前にしたのさ? と聞いたらこのKeatonから取ったというので(すげえ親だな)、Keatonの映画を見ていたらおもしろくてはまっちゃったんだ、って。

なのでこの日上映される短編3本 - “The Electric House” (1922), “The Balloonatic” (1923), “Cops” (1922) も彼が自分でおもしろいと思ったのを選んだ、と。 そこから先はBFIでよく見る太ったスタッフのおじさんとの受け答えで、サイレントって音がないんだけど退屈じゃない? (答)ぜんぜん、いろいろ想像できるから楽しいよ - とか、色もないし3Dでもないけど平気? (答)白黒ってクールじゃん - とか、伴奏するピアノのおじさんに音は即興でつけるの? 事前に練習するの? って聞いたり - (答)ピアノのおじさん - 即興だよ、実は今日のやつも2本は見たことないんだ、って(...えええ)。

そうやって始まった上映会はパパママに連れられた子供たちにも大受けで、なんかいいなー、って思った。  Keatonの身のこなし技術は子供の教育にはぜったい必要よね、とか。

10月のLondon Film Festivalのプログラムが発表になった。この日程は...

8.30.2018

[film] Heathers (1988)

11日の土曜日、2本の1937年のJoas Crawford映画の合間に、これもBFIで見ました。

リリースから30周年ということで4Kリストア版がリバイバル公開されてて、ミュージカルもあるし、監督のMichael Lehmannを招いての上映会はあっという間に売り切れていたし、なかなか謎の盛りあがりを見せている。こんなに人気ある作品だったのね。
邦題は『ヘザース/ベロニカの熱い日』。

オハイオの高校で、Heathersていうファーストネームがみんなおなじ”Heather”っていう高慢ちきな3人組がいて、Veronica (Winona Ryder)は彼女たちに認められたくて周りをうろちょろしているのだがおちょくられたり虐められたりばかりなのでだんだんなんなのこれ、て頭くるようになって、転校してきたJ.D. (Christian Slater)にそれを言ったら彼はひとりのHeatherを洗剤で殺しちゃって、そこからJ.D.はどんどんエスカレートしてなぎ倒していくのでどうなっちゃうのかしら、と。

これまでの学園ものがどちらかというと嫌なことがあってもみんなでどうにか解決してうまくやろうぜマインドだったとこに、気にくわないんだったら消しちゃえばいいじゃん、ていうオルタナな解決策を明るめに持ちこんできた、そういうやつ。 死/死体というのを学園風景のなかに(川の縁に)置いてみたのがこないだ見た”River's Edge” (1986) – ここにはKeanu Reevesが出ている – だったとすると、Winona Ryderをまんなかに置いたこれは、更にそれ(死)を前景に出して、学校には夢も聖域もない、Best FriendもWorst Enemyもたいして違わない、それはくそったれの社会 – Society – と同じで、そのもので、だから自殺だって殺人だってふつうにあるだろぼけ、ってびんたをかましてくる。

でも、それは、だから、救いようのない底なしの地獄なのだ、とは言わない。
2回流れる”Que Sera, Sera” - 最初のはSyd Strawさん(アレンジはVan Dyke Parks !)、後のはSly and the Family Stoneの - が全体の空気を作っていて、そこにWinona RyderもChristian Slaterも軽やかに乗っかって颯爽と向こうに走っていってしまう。 それは、これの数年前に“Ferris Bueller's Day Off” (1986)でFerrisたちが父親的な同調勢力から鮮やかに逃走したのと似ていないこともない。 Heathersや体育会系男子の意味不明の圧に従うことにいったいどんな意味があるというのか。
そういう旧来の文脈から離れてみたとき、ティーンエイジの恋 - 彼らはほとんど感情を露わにしない - はどんなふうな模様を描くのか。などなど。

ただこの30年の間に、学校というのがいるだけで命を狙われてしまうようなシャレにならない場所になってしまったことも確かだし、こないだの”Eighth Grade” (2018)のようにネットという別次元の囲い込みに追われている今の子たちの事情もあるだろうし、そういったことも含めていろいろなことを考えることができる。 或いは、John Waters的なブラック・ジョークの流れに置いてみることだってできるだろうし。

音楽は”Que Sera, Sera”以外では、Don DixonとMitch Easterによるバンドによる”Teenage Suicide (Don't Do It)”ていうのが流れる。 Don Dixon、なつかしいな。

あと、Joan Crawfordさんはこの映画にも一瞬でてきたのですごいや、て感動した。

8.29.2018

[film] The Bride Wore Red (1937)

11日の土曜日、BFIのJoan Crawford特集で見た2本。どちらも37年、どちらもJoseph L. Mankiewiczの製作。
どちらもJoan Crawfordがすばらしくて、とにかくおもしろいったら。

The Bride Wore Red (1937)

お金持ちのArmalia伯爵 (George Zucco)が若い貴族のRudi(Robert Young)と議論していて、人を貴族か労働者かに分けてしまうのは単なる運だと思う、と主張して、それを試してみようぜ、ってひとり安酒場に行ってそこで歌っていた歌手のAnni (Joan Crawford)をリクルートして、お金とドレス一式あげるから高級リゾートホテルに滞在して金持ち貴族を引っかけてみろ、期限は2週間。という話を持ちかける。

Anniはそれに乗って意気込んでホテルに乗りこむとそこには幼馴染のMaria (Mary Philips)がメイドでいたりするのだが、AnniはAnne Vivaldiていう名の貴族のご令嬢、ということになってひとりで食事していると既に婚約者がいて彼女の一族と滞在しているRudiが引っかかってくる。彼は簡単にめろめろになって転がってきてしめしめ、なのだが 他方で地元の郵便配達員のGiulio (Franchot Tone - 当時のJoanの実の夫)も実直ないい奴なので気になり始めて、Giuloは彼女の企みを知ってそれでも彼女に想いを寄せてきて、さて最後に彼女はどっちを選ぶのか。

今だったらこんな鼻持ちならない問いや筋立てそのものがOutだと思うのだが、原作の設定だとAnniは娼婦だというし(そういえば”Pretty Woman” (1990)だって今見直したら相当なのかもなあ、とか)、これの監督は30年代に唯一活躍した女性監督 - Dorothy Arzner – だというし、単純に今の物差しで見てはいけないと思うものの、(男共からすれば)大らかで都合のよい時代だったのねえ。そういう時代だったからこそ、Joanみたいな人も現れたのかもね。

Mannequin (1937)

11日の土曜日、間に4Kリストア版の”Heathers” (1988) を挟んで晩に見た。ひまなの?
製作はJoseph L. Mankiewicz、監督はFrank Borzage。こんなの見るしかないやろ。

Jessie (Joan Crawford)は懸命に働いてLower East Sideのぼろアパートに暮らす貧しい一家を支えていて、一見羽振りのいいEddie (Alan Curtis)と仲良くなって結婚して、その披露宴で海運屋のお金持ちJohn L. Hennessey (Spencer Tracy)と出会う。ふたりの新婚生活は微妙で、Jessieはブロードウェイの舞台のバックの踊り子として働かなければいけなくて、そんな時、HennesseyがJessieに好意を持っていることに気づいたEddieはJessieにこれから離婚してお前はHennesseyと結婚しろ、でさっさか離婚して慰謝料をふんだくれと言われて、渋々そうするのだが、Hennesseyの素敵な人柄に触れて本当に好きになってしまい、幸せに結婚したのにまだEddieは付きまとってきて、同時にHennesseyの会社でも労働争議がもちあがって…

設定が結構ムリっぽかった“The Bride Wore Red”よりもこちらの方が滑らかなドラマとして見応えがあって、Spencer Tracyがあまりにいい人すぎるのでかえって心配になった(なんでそれまでひとりだったのかしら? とか)。

前の” The Bride Wore Red”もこの作品も、貧しいけれどそれなりに骨があってひとりでがんばっているJoan Crawfordに貴族とかちんぴらとかがお金絡みの話を持ちかけてきて、ひと悶着あって、でも最後にはお金で人をどうにかできると思ったらおお間違いよ、やっぱりいい人がいちばんよ、ていうところに落ちる、というところは共通しているかも。

じゃあこれをJoan Crawfordじゃないもっと女性女性したひとが演じたらどうなったか、と考えてみたけど、ふたりがきちんと恋に落ちるためにはJoan Crawfordみたいに芯からしっかりしていないとだめなんじゃないか、という点でやはりJoan Crawfordはどうみたって最強なのだった。 こういう女性像が求められていた時代、というのもあるのだろうか?  それともそこにJoan Crawfordそのひとがいたから、ということなのかしら?

8.28.2018

[music] Rip It Up: The Story of Scottish Pop

26日、日曜日の午後、National Museums Scotlandで見た展示。
こいつがあるので夏はEdinburghに行かねば、というのがあったのと、一度は名高いEdinburgh International Festivalに行ってみたいな、ていうのと、夏の終わりの3連休が重なって、ここしかないかんじになったので、1泊でEdinburghに行ってみた。
行きは電車で帰りは飛行機。

わかってはいたけれど、自分はScottish Popってぜんぜんわかっていなかったよね、ていうのと/ていうか、そもそもScottishがどこからどこまでで、だからそれがどう、ていう聴き方をしてこなかったよね、ということが再確認された。
それがよかったのか悪かったのかはわからないけど、反省してどうなるものでもないし、これからもこれScottishだから、というカテゴリーで聴くわけではないと思うのだが、それでいいんだよね、ということもだいたい認識した。

“Rip It Up”というのはOrange Juiceの2ndの同名タイトル曲で、この曲から引用したSimon Reynoldsの総括本 - ”Rip it Up and Start Again: Postpunk 1978-1984” (2005)のタイトルでもあるのだが、2ndがリリースされた当時の失望と、さらに暫くして出た日本盤のどうしようもないタイトルへの失望と、その他当時のいろいろが思い出されたりするので個人的にはあんま嬉しくないの。

それでもScottish Popのひとつの典型としてOrange Juiceがこんなメジャーなかたちで取りあげられたのは嬉しいので、自分にとっての関わりを少しだけ書いておくと、最初に彼らを知ったのは81年に徳間ジャパンが纏めてリリースしたRough Tradeの盤のなかのオムニバス”Clear Cut”で、当時その辺の音(と情報)に飢えていたので出てすぐに買って、これ - ”Simply Thrilled Honey” - は渋谷陽一のサウンドストリートでもオンエアされて(あと、大貫憲章の全英Top20で”Blue Boy”がかかった記憶があるのだがやや混濁してるかも)、やがて7inchも買って、そこからPostcard周辺も掘るようになって、暫くして出てきたイルカさんが飛んでいる1stの音の厚さ(当時としては)にびっくりして、でも聴きこんで、その後の2nd以降はちょっと違っちゃったかなーと思いつつ聴いてた。当時はまだネオアコなんてカテゴリーもなかったし、少し後に出てきたAztec Cameraはこれもちょっと違うカテゴリーだったし。米国のThe dB’s とかThe Feeliesとかとも並べて聴いていた。 という辺りが当時聴いていた振り返れば割と青春ぽく見える音たちのおもひで。
(しょうもなくダークなほうの、もあるよ)

会場内はPopの黎明期と大雑把な紹介 - Lonnie DoneganとかAlex Harveyから始まって、New Waveがあって、それがGlobalになって、今の若手のいろんなのに繋がる、と。

各コーナーでビデオが流れていて、クリップと関係者の証言がいろいろ。 New WaveのところではRichard JobsonやMalcolm Ross がお話ししている。 The Rezillos, The Skids, The Pastels, Altered Images, Orange Juice, The Associates, Strawberry Switchbladeなどなど。 The VaselinesとかTeenage Fanclub, BMX Banditsとかあの辺はやっぱし団子にされている。
The Jesus and Mary ChainもScottishなのかあ、とか。

きゅんとした展示物はClare Groganさんが落書きをいっぱいしている”Gregory's Girl” (1980)の台本とか。

その次がGlobal化の時代、ということでBay City RollersからNazarethとかEurythmicsとかTexasとか。
ふうん、こんなのもねえ、というのがわかって感心するのだがなんでこれが? ていうのは結構くる。

若い世代になるともうなんでも入れてないか、くらいうじゃうじゃいる。Garbage (Shirley Manson)とかFranz FerdinandとかTravisとかBlue NileとかArab StrapとかBelle & Sebastianとか、それくらいまででいっぱいいっぱいだと思うのだが最近のはわからなさすぎ。多過ぎだわ、って。 好き勝手に聴けるコーナーがあったので、いようと思えばいちにちいられる。

終わりのほうでは、でっかい3面スクリーンで最近のフェス映像からScottish関係のをピックアップしてずっと流しているので暫く座っていたのだが、年配の人たちはみーんな”Don't You (Forget About Me)” で、どーんどーんどーんどーん♪ て歌って出ていくのね。

でも、だから、やっぱりScottishだいすき! みたいにならなかったのはよかったかも。
というかあまりにてんでばらばらで大味すぎで、これでみんな好きになるのだったら世話ないかも。
あーでも、久々にあれも聴きたいこれも聴きたいずっと聴いてないわ、がごろごろ出てきて困った。
定義できるわけでもないけどあえてするなら、全体としてはがりがりガサツで引きつっているけどどこか暖かくてヘンテコで憎めない - あの独特な訛りとおなじようなものかしらん。

9月27日にはトークイベントでClare GroganとRichard Jobsonがでるのかあ…
9月29日にはRecord Fairがあるのかあ..

売店ではカタログと、悩みに悩んでもういいかげんにしなさい、って自分で自分をぶん殴りつつ我慢できなくなってPostcardの猫シャツ買った。遠隔で巻き添えをつくろうとしたけど失敗した。もうこれを最後に猫のシャツとか買わないから。 たぶん。

[film] Langrishe, Go Down (1978)

4日の土曜日の晩、BFIのHarold Pinter特集で見ました。
Aidan Higginsの66年の小説をPinterが脚色し、BBCの”Play of the Week”ていう番組枠の中で78年に90分ドラマとして放映された - のが2001年のLincoln Center Festivalで110分のフィルム版として再リリースされたもの。

1930年代、アイルランドの田舎の小さくない邸宅にLangrishe家 - Imogen (Judi Dench), Helen (Annette Crosbie), Lily (Susan Williamson)の3姉妹が暮らしていて、3人とも未婚で若くはなくて家は古くて売ろうにも売れないかんじで、でも3人ふつうに同じ家で大きな諍いも焦りもなく質素に暮していて、そこの離れの小屋に哲学を専攻しているというドイツの学生 - Otto Beck (Jeremy Irons)が間借りしてがさごそ暮らし始める。

ImogenはOttoに関心があるようで小屋の掃除に入ったりして話をするようになり、やがて二人でダブリンまで出かけて帰りのバスを逃して、Ottoの友人宅でワイルドな連中と朝まで過ごしたり、彼の小屋で寝泊りするようになり、そういう二人の騒がしさは穏やかに暮らしている二人の姉妹 – 特におっとり真面目なHelen - にも当然知れて、当然よい顔はされなくて、穏やかな緊張を孕みつつ過ぎていく日々を追い、そのうち学位論文のために忙しくなっていくOttoとImogenの間もうまくいかなくなって、やがて。

お話しとしてはぜんぜんどうってことないのだが、時間をかけてゆっくりと崩れ、消滅に向かっているかのような田舎の旧家の三姉妹(巻きこまれているけど、それでどうしろって?)と、そこに突然現れたドイツの(30年代のドイツの)粗野な(でも知的っぽい)若者が持ちこんだ不穏さと緊張感、そして恋を知って揺れるImogenとその姉妹の、それでも先が見えない(ことを全員が知っている)どん詰まり感が、絵画のような田舎の景色のなかに端正に描かれていく。
Rom-Comの方にもサスペンスホラーの方にも行かない、ただ”Go Down”していくそのありよう。

それにしてもImogen - Judi Denchの、あの姉妹の中であたしはここで埋もれたくないんだ、ていう撥ね返って背伸びしようとする不敵な表情と、得体の知れない言葉を操りながら彼女をいいようにしてしまうOtto - Jeremy Ironsの若々しさにふてぶてしさ、ふたりの生む化学反応が田舎の古くて澱んだ空気と交わることで何もかもどうでもよくなって、最後にはざけんなよ、ってライフルを持ちだしたくなるのはよくわかるかも、って。

ここにはこのPinter特集のテーマ - ”Power, Sex & Politics”のうち、PowerもPoliticsも一見、ぜんぜん見えないようで、でもここにこそ、こういうところにこそ、というのはなんとなくわかる。 階級とかそこに纏わる意識を巡るなにか、というよりも、都会と田舎、のようなところで表出してくる、昔の日本にもあったようなかんじの。

今やブロックバスターで女王とかMI6のヘッドとか、悪の黒幕とかそんなのばかりやっている大御所のふたりが若い頃はこんな田舎でこんなふうに燻って悶々と互いの毛を逆立てていたって思うのはおもしろいし、なによりも瑞々しくていいなー、って。

あと、Pinter本人がダブリンのアパートでOttoに絡みまくる酔っ払いの役で出ていて、こんなひとだったのね、と。
とってもイメージ通りなかんじ、ではあった。

8.25.2018

[film] Grand Hotel (1932)

感想を書いてないやつが夏休みの宿題なみに溜まってしまったのでさっさか書いていかないと。

8月から10月までで始まった特集 - “Fierce: The Untameable Joan Crawford” - がなかなかすごくて、ここまでで6本くらい見てきたけど、どれもぜんぜん外れない。 Powerhouse、というしかない。
この時代の女優としてはこれまでBarbara Stanwyck派だったのだが、いまの時代に必要とされているのはまさにJoan Crawfordなのではないか、と言う気がしてくる。

特集の予告が見れる↓
https://whatson.bfi.org.uk/Online/default.asp?BOparam::WScontent::loadArticle::permalink=joancrawford&BOparam::WScontent::loadArticle::context_id=

4日、土曜日の夕方に見ました。 Sold-Outしてた。
ベルリンのGrand Hotelが舞台で、そこで働くひとも含めていろんな人々の事情や人生がロビーにいるだけでグランドに交錯して展開していく冒頭から、そこに滞在しているいろんな人たちのドラマを繋いでいく。 ラストを除けばカメラがホテルの外に出ていくことはない。  ホテル=世界。しかもグランドなやつ。

もうバレエはやめたいと言うバレリーナのGrusinskaya (Greta Garbo)がいて、堂々としているけど得体のしれないBaron (John Barrymore)がいて、病気で先が長くないのでやけくそ半分残りを贅沢して過ごしたい会計士Kringelein (Lionel Barrymore)がいて、彼のかつての雇い主で仕事の交渉で頭がいっぱいのPreysing (Wallace Beery)がいて、彼に雇われたタイピストのFlaemmchen (Joan Crawford)がいて、GrusinskayaはBaronにぽーっとなって、ある人はお金を必要としてて、ある人は愛を必要としてて、ある人は死に場所を探してて… ていう具合にみんなそれぞれやりたいこと、やらねばならぬことがあって、ホテルは仮の住まいで通過点であることはわかっていて、でもこの場所このタイミングでなんとかしないと、ていう瀬戸際にあるから劇的なことも起こる。 でもやっぱし動いていく列車とおなじでずっとそこに一緒に留まることはできなくて、結局どうするかはそれぞれの —

という刹那から生まれるいろんなドラマをこまこま切り替えながら追っていく - 所謂 "Grand Hotel theme”を生んだ作品でもあるわけだが、これが可能となるのはおもしろい脚本に、なによりも俳優ひとりひとりの力がないと無理で、その点これ - GarboにBarrymore兄弟 - はとんでもなかったかも。 たった一日か二日のお話に彼らの生を(あっけなく消えてしまうのも含めて)燃えあがらせて焼き付けて、その上で"Grand Hotel. Always the same. People come. People go. Nothing ever happens." て言い切ってしまう。そしてそれを見るひとはこの地上の、自分にとってのGrand Hotelとは何なのか、どこにあるのか、を考えることになるのだと思う。

Greta GarboとJoan Crawfordが同じ画面内にいる瞬間はなくて、ドレッシングルームも別だったので実際の交流はあんまなかったようなのだが、そういったところも含めて、Grand Hotelなんだなあ、と。

終わったら老人たちからは大拍手だった。 拍手できるような老人になりたいな。

[log] NYそのた -- August 2018

昨日の晩から暖房つけてる。 さようなら夏。

もうあんまりないけど、NYの夏休み、そのたのあれこれを。

今回は避暑しなきゃ、というテーマがあったのでまずMontaukに行ってみた。
ずっと行ってみたかったし、こないだ映画 - ”That Summer”を見たというのもあって、このままだとずっと永遠行かなくなっちゃうかも、という気がしていたし。 例えばNYのアートって、Hamptom - Montaukの有閑お金持ち達が遠隔でドライブしていたようなところもあるし、それがどんな場所なのかを知っておくのは重要だよね、って。 たった1日の滞在で知れるかよ、というのはあるにせよ。

16日のお昼にJFKに降りたち、そのままAirTrain - 電車と乗り継いで、行けるところまで行って、そこから先はUber、になった。 ふつうに行こうとしたらマンハッタンからの電車は日5本とかそんなものなので、臨機応変にいくしかない。 時間も含めたこういった便の悪さの蓄積がなにかを形作った、というのはあるのだろうか。

Uberに乗っていたのは1時間半くらい、Montaukに通じる道が1本しかないので、途中で詰まったりしていて、どうしてもそれくらいの時間はかかって、これが週末だとさらにひどくなるのだそう。通り沿いにはCitarella (高級スーパー)があって、ブチックも並んでいて、Galleryもあるしレコ屋(よさそうだった)もあったし、東海岸だとConnecticutのGreenwichの駅前みたいなかんじ。 夏の軽井沢(行ったことない)もこんなふうなのかしらん。

着いたのは軽く16時を過ぎてて、折角きたので泳いでみる。Coney Islandのビーチは何度も行ったけどあそこで泳ぐ気にはあんまなれなくて、東海岸で泳いだのははじめてだったかも。ちょっと冷たかったけど、人もそんなにいなくて砂が心地よくてよかった。 Brightonのビーチにもこの砂があったらなー。 あと、理由はわかんないけどカモメが飛んでいたり歩いていたり、カモメ天国。

海からあがってからは日が暮れる(20時くらい)までだらだら散策して、海かと思ったら池 - Fort Pond で水上飛行機が着水したりするのを眺めつつ沈む夕陽をみたり、翌朝も浜辺から日の出をみたり、少しお休みしているかんじになった。 朝の浜辺には釣りをしている人たちがいて、見ているとPorgyが釣れたりしていて、足だけじゃぶじゃぶしているときも魚の影が見えたりしたので魚はいるんだねえ(←いるだろ海なんだから)。

翌日は東の突端の灯台まで行って、灯台の上まで昇った。展望台みたいにみんなでぐるりと見れるわけではなくて、狭い光源のところをかわりばんこに覗くかんじなのだが、これがHopperの絵にもあったアメリカの灯台なんだねえ、って。あんな狭いところからあんなでっかい海を懸命に照らしているんだねえ。

食べ物屋はあんまなくて、通ったのはMontauk Bake Shoppeていうパン屋 & サンドイッチ屋 & お菓子屋さんくらい。朝は行列ができていて、粉も売っていてお菓子からなにから粉物全般みたいな。パンケーキもドーナツもおいしくて泣きそうになった。 いつの日かちゃんと探求してみたいのだが、米国と英国で、粉物 - パンケーキとドーナツはなんであんなに違うのか、ついでに言うとベーコンもなんであんなに違うのか。どっちがおいしいとかいう話ではなくて、どっちもそれぞれにおいしいのだが、あの違いはなに? って。 土が違うんだしそこで育つ植物も違うし、それを食べて育つ動物も違うんだからあたりまえじゃん、かもしれないが、なんだろう? なのよね。

Montauk、最低1週間くらい滞在しないとたぶんわかんない気がするので、また来たい。
海のかんじはとっても好きなやつだったし。

マンハッタンにはバスで戻って(じゃない、着いて) - 半分くらい寝てた -  その晩は、CoteていうKorean BBQ + ステーキハウス、に行った。 基本は韓国料理のコースになっていてメインのお肉は4種類くらいのいろんな部位を小さめに切って焼いてくれる。 NYのKorean Townの焼肉屋って安くておまけいっぱいでおいしくて魅力なのだが、ここのお値段は日本の高めの焼肉屋(行ったことないけど)くらい。アイデアはすばらしいと思うけど、いつまでもつかしらん。 ぜんぜん関係ないけどむかしKorean Townの焼肉屋のメニューに日本語直訳のがあって、「いろんな部位の盛り合わせ」みたいなおかしなのがあったな。たしか。
これの帰りにとてつもない雷豪雨にやられた。

土曜日の昼は、Met Breuerのついでに4月にも行ったFlora Barで、今度は”Egg and cheese sandwich with tomato chutney”ていうのを。 バーガー状のサンドで、イメージできる通常のエッグサンドとはぜんぜん違う。 まんなかにかりかりのモッツアレラのフライが挟んであってこれとトマトチャツネの組み合わせがすごくてタマゴは後からじんわりくる。 Grub Streetの”The Absolute Best”にも選ばれているのは当然。

土曜日の晩は、いつも通りのPrune。今回のメインはPorkのPorterhouseにして、Vealの心臓(ハート型..)とか。ここのデザート - Lemon Semifreddoは、改めて最強の夏のお菓子だと思った。

日曜日は天気もよくないし時間もないのでホテルの近くでナポリビザを。これも粉物だけど、違うんだよねえ、ロンドンのとは。

レコードは12thのAcademyでJudee Sillの未発表のとアナログいくつか、そこからいつものようにMast Booksに行ったら場所が数軒手前に移動していて、より広く明るく、つまりいつもの数倍危険になっていてどうしよう、になった。Anne Waldmanの古い詩集とか、古雑誌 - Raygunとか、いろいろ。

McNally Jackson Booksでは、Zoetrope: All-Story - これLondonで手に入らないのかなあ? - のNick Caveのとか、”One Track Mind”ていう、NY Subwayのレリーフとかタイルの模様のドローイング集 - 序文はJonathan Lethem - とか、あと取っておいてもらったChris Stameyの”A Spy in the House of Loud” - これ、80年代のNYパンクとは別の音楽事情を切り取ったとっても面白い記録になっている - とか。StrandではJustine Kurlandさんの昔のとか、ようやくみっけたBill Cunninghamの”Facades”とか。 ぜんぶでなんとか手荷物ぎりぎり、うんざりの重さ。

これくらいかしらん。

8.24.2018

[art] New York, August 2018

NYでのアート関係、今回ここだけはなんとしても、みたいのはなかったのだが、それでも見たいのはいっぱいあった。
以下、適当に飛ばしつつ見た順でざっと。

The Morgan Library & Museum
17日の夕方、金曜の晩は9時迄やってて、タダで入れてくれる。

The Magic of Handwriting: The Pedro Corrêa do Lago Collection

ブラジルのPedro Corrêa do Lagoさんが収集した歴史上のえらい人達の手書きの原稿、手紙、書き込み、などなどをジャンル別に140くらい集めたもの。意識して書かれたもの無意識に書いていったものそれぞれだろうし文字はヒト、とか言われてもそもそも何書いてあるか本人にしかわかんないのもあるだろうから、こんななんだー、くらいに見ておけばいいのかも。
個人的にはWittgensteinのだよなー。

Wayne Thiebaud, Draftsman

Wayne Thiebaudの絵はケーキ屋のディスプレイと同じでただ寄っていってわああーってうっとりしたり涎垂らしたりすればそれでよいのだが、でも近寄ってよく見ると結構でろでろで食べてだいじょうぶかしら、になったりして、でもおいしそうだからいいや、と。
展示のテーマが“Draftsman”なのでささっと仕上げているかんじのが多いのだが、駄菓子っぽさが際立ってとてもよいの。アスパラガスのドローイングとか、うまいなあ。

Medieval Monsters: Terrors, Aliens, Wonders

中世の本とか巻き物とかそういうのに描かれた怪物どものイメージを集めた中世ヨーロッパ妖怪図鑑。トホホ系の漫画みたいのもいっぱいあって、本来であればこれら怪物どもって(共同体的、宗教的)よいこにしていないとこいつらが来て呪われたり食べられたりしちゃうぞ、の目的があったと思うのだが、あんま怖くないし勇者が勇ましくやっつけるにしてもなんか間抜けぽいところがなんとも。 たぶん神さまの聖なる御威光がびゅんびゅんだった中世だったからこんなんなってしまったのか、異端の方を探してみればもっと怖いのはあるのか、そこらを知りたくなったのでカタログ買っちゃった。

The Metropolitan Museum of Art
18日、土曜日の朝に。ここんとこ、NYの土日の朝10時はだいたいここに来ているかも。

Devotion to Drawing: The Karen B. Cohen Collection of Eugène Delacroix

そういえば5月のパリに行ったときのを途中まで書いて放ってある..
LouvreでもやっていたDelacroix展(あれはLouvreとMetの共催だった)の、これは彼のドローイングを中心に纏めた展示。Louvreで見たときの印象とも重なるのだが、結構勢いとか思いつきでさくさく描いていく人だったのかも、という気がして、だからへたうま落書きみたいなのもあって出来不出来が激しいのだが、でもそこがおもしろくて、タッチや構図がはまったときの握り拳が見えるようなかんじ。 あの虎のドローイングにはそんなかんじの動きと勢いがあって、東洋の墨絵のような気もするし、動きがない方だと構図とか文様とかに対する実験もあるし。

Heavenly Bodies: Fashion and the Catholic Imagination

どこで展示やっているのかしら、と思ったらビザンチン美術と中世美術の展示コーナーの通路とか隅々にはめ込んで過去の宝飾品とかのなかに紛れるようにデザイナーたちの服 - 20世紀初から現代までの - が展示されている。なので僧院服のように厳かだったり質素だったりするのと意匠は細かいけどシェイプはシンプルだったり、あるいはもろに神々しく神さまの恩寵を一身に、みたいのもあり、全体としてとっても荘厳できれいなのだが、どうなのかしら、ていうのはあるよね。

つまり現代のクチュリエたちはこれらの服を神の御身元に捧げるべくして創っていったわけではなく(そういうのがあるんだったらすまんだけど)あくまでイメージとして借りていったわけで、そういう出自も意図も根本的に異なるそれぞれをミックスで展示するのって、美術館のやることなのかしら、と。
もちろんMetは現代アートも扱っているので広義のそういうインスタレーションとして見ればよいのだ、そもそも現代の我々のあたまの中とか表象界ではそんなようなイメージの混在とか混濁はいくらでも行われているではないか、と。でもさー、美術館なんだよ。ただ美しさに痺れて浸ればいいわけじゃなくて、その美はどこのどういう文脈から来たものであるかを学ぶ場所でもあると思うの。 図書館だったら江戸時代の文学と昭和に書かれた時代小説を並べて置かないよね(たぶん)。

Reimagining Modernism 1900-1950

特にExhibitionとして明示していないのだが、Metが所蔵しているモダンアートのエッセンスをコンパクトに纏めてあってとってもお得なかんじ。MOMAほど尖がっていなくてGuggenheimほど凡庸じゃなくて、アメリカのも含めて幅広く網羅してある。 というかヨーロッパ中心になりがちなモダンアート地図に「アメリカ」を加えて再構成してみる、それが”Reimagining”、ということなのかしら。
ところでバルテュスの「夢見るテレーズ」がなかったんですけど。隠したりしてないよね?

Neue Galerie New York
ここのオープンは11時なので、Metを出てから上に向かって走る。これもいつもの。

Gustav Klimt and Egon Schiele: 1918 Centenary

今回大きな特集はなくて、このふたりが共に亡くなった1918年から100年、という節目なのでいろいろあって、ほんとうはウィーンに行かねば、なのだが年末までにそんな時間とれるかしら。
ここが所蔵しているKlimtとSchieleの小品を中心に、部屋の壁4面に各2面づつ、タイルのように窓のように並べてあって、こうやって並べてみるとそれぞれの色や線、タッチの違いが鮮明に見えておもしろい。どっちがどっち、という話ではもちろんないのだが、そんなふうに窓のように並べてみることで彼らの絵の住人たちがアパートに固まって住んでいるようにも見えたり。

The Met Breuer
Neue GalerieからMet Breuerに下りる、というのもきまった獣道であって、ただ74thまで走るのはしんどいのでバスで下る。セントラルパークの木陰でだらだらバスを待つのもよいの。

Obsession: Nudes by Klimt, Schiele, and Picasso from the Scofield Thayer Collection

Scofield Thayerていうのは20年代にThe Dialていう雑誌を起こしたアメリカの出版者、コレクターで、KlimtとSchieleになぜPicasso? というのはこの人との交友を起点にしているから。
入口に彼のサークルにいた人達の写真があって、T.S.EliottとVirginia Woolfが一緒のとか。

後期のシーレのドローイングがいっぱいあって、線が太くなって漫画の女の子みたいに見えたり、なかなかキュートだった。ピカソの青期の”Erotic Scene” (La Douceur) (1903)て、この人のコレクションだったのね。

Whitney Museum of American Art
まだ18日、午後にFilm Forumで映画を見て、いったん①の線でFranklin Stの駅に行ってホームの駅表示に”Aretha”って落書きしてあるやつを見て”Respect”って呟いて、また少し上にいってWhitneyに。

David Wojnarowicz: History Keeps Me Awake at Night

この人のことはあまりよく押さえてなくて、80年代にBody workを中心にいろんな活動をしてAIDSで亡くなった、程度しか知らなかった。例えばKeith Haring (1958-1990)のポップなわかりやすさとは対照的で、でもそのとっつきにくさにこそなんかあるよねとは思っていた。

写真、Video、インスタレーション、絵画、音楽(バンドもやっていた)なんでもありで、やけくそさと切実さと欲望とがじっとりと迫ってきて、それらが向かう対象も国とか制度とかよりはもうちょっとパーソナルな至近距離ので、なんだかとても身につまされるかんじ。こういう人、あの頃は割といっぱいいたような、とか。たぶんそれがいろんな意味で長続きしないこともわかっていて、その辺から噴きあがってくる” History Keeps Me Awake at Night”という呟きをWalt WhitmanからWilliam S. Burroughsにまで連なるアメリカの夜 - Queerの系譜と80’sのNY  Undergroundシーンに置いてみること。

An Incomplete History of Protest: Selections from the Whitney’s Collection, 1940–2017


ここで延々やっている展示で、Protestする対象がなくならない以上、Protest は延々続いていって、決して完結することはない – Imcompleteである、と。ここの展示がよいのはなんか暗くないの。みんながみんな好き勝手にわらわら勝手に一揆しているかんじ。 これじゃCompleteしようがないよね、って笑う。

Eckhaus Latta: Possessed

1階のチケットなしでも入れるエリアでやっていたファッションの展示。展示もあるけど販売もしているのでふつうのブティックのようなかんじもした。そんなにぎんぎんではなかったのでTシャツ買おうかと思ったけど高かったのでやめた。

International Center of Photography
19日 - 発つ日の朝10時に行った。早く着きすぎても近所のWhole Foodsで野菜とか見ていられる。

Henri Cartier-Bresson: The Decisive Moment

みんなが知ってる「決定的瞬間」 - オリジナルの仏語タイトルは”Images à la Sauvette”だけど -  の写真集の写真を並べたもの。 有名な写真ばかりでふんふん♪ なのだが、これらって決定的瞬間を捕まえた写真たち、というより決定的瞬間てふだんのありふれた生活のなかにいくらでも溢れている、っていうことを言ってるんだよね、って改めて。

Elliott Erwitt: Pittsburgh 1950

1950年、Edward Steichenが当時22歳だったElliot Erwittを政府主宰の写真プロジェクト - 大恐慌から抜けて近代都市に生まれ変わろうとする街を撮る - に推薦して、その際に撮られたのがこれら。
“The Americans”よりも8年前、若い眼が捕らえた若いアメリカの姿は、我々のよく知るElliott Erwittよりもリアルで強くてあぶらぎっている。 68年前…

RFK Funeral Train: The People’s View


68年6月8日、暗殺されたRobert F. Kennedyの遺体を乗せた電車がNYからWashington DCに向かって走って、数千人の人々が線路脇でその姿を見送った。その列車と人々をドキュメントした写真家のPaul Fuscoの作品と、それ以外のイメージも寄せ集めてオランダ人アーティストRein Jelle Terpstraが再構成したもの。マルチスクリーンで走っていく電車とぽつぽつと見送る人々、振られる星条旗、もう戻ってこないなにか、に対する複雑な視線が刺さって重なってくる。

こんなものかしらー

8.23.2018

[film] Christopher Robin (2018)

19日、日曜日の午後、JFKに向かう前にTimes SquareのAMCで見ました。
新しい映画も見たいかな、って思って”Juliet, Naked”かこれか、だったのだがこっちにした。
(英国よりも公開が先なのはアメリカ映画だからなのか)

昨年の”Goodbye Christopher Robin” (2017)が実話を元にしたドラマだったのに対して、これも実話だったらよいのにな、なのだがそう簡単にはいかないか。

監督はMarc Forster、脚本にはAlex Ross PerryとかTom McCarthyがいて、音楽にはJon Brionの名前がある。たっぷり泣かせてもらおうじゃねえか。

最初は子供時代、幼年期の終わりにあるChristopher RobinがHundred Acre WoodでWinnie the Poohたちみんなとお別れをするシーンで、これだけで泣きそうになる。とにかくあいつらがみんなふつうに動いて喋りやがるの。
このあと寄宿学校に行って戦争に従軍したChristopher (Ewan McGregor)は、Evelyn (Hayley Atwell)と出会って結婚して娘のMadelineができて、いまは鞄屋に勤めているのだが、Madelineを寄宿学校にやるために日々がんばっていて、その上更にコストを20%減らせとか言われたり相当くたびれている。(うんうん)

Poohのほうはある日目覚めたら仲間たちがいないので、Christopher Robinに聞いてみよう、って樹の穴に入ってみたらLondonの公園に出て中年のよれたChristopherとばったりして、Christopherはびっくりして(するよね)、Poohを自分ちに連れて帰るのだが台所とかめちゃくちゃにされてしまったので彼を抱えて電車でSussexの方に戻ることにする。Hundred Acre Woodでなんとかみんなに再会できて、彼らに自分がChristopherであることをわかって貰えてよかったねえ、なのだが翌朝目覚めたChristopherは大変だ会議に遅れちゃう、と家を飛びだして行ってしまう。  (なんかここ、昔の恋人や仲間に再会して翌朝..のよくあるパターンみたいだ)

でも彼が苦労して作っていた削減プランを忘れて行っちゃったので、みんなと(パパが昔描いた絵で彼らのことがわかった)MadelineはLondonにばたばた追っかけていくの。

話しとしてはこれくらいで、うーんと簡単にすると歳とって疲れていろいろあって大変だけど、みんなとの友情は忘れちゃいけないよね、ていうことかしら  -  ていうか、そういうメッセージみたいのだけを切り取れば前世紀にはいくらでもあったmiddile agedサラリーマンのパパがんばってね、みたいなのになりがちで、でもそんな陳腐なとこに落としてはいけない。

タイトルは” Christopher Robin”だけど、Christopher Robinがんばれ、の映画じゃないの。Christopher Robinがいて、少し離れたところにWinnie the Poohたちがいて、その両者が場所と時間を隔てて向かい合ったり手を繋いだりする、その電球が点滅するような細やかで繊細なすれ違いをすくいあげてふうっ.. ていう、それだけの。

Winnie the PoohやEeyoreのいう「なんにもしない」をする、「ただそこにいる」をする、その大切さをどうやって伝えるか、この映画の難しさはここにあって、Paddington熊には到底真似できない後ろ向きのすり足をしつつ彼らの丸まった背中とかくたびれた縫い目とかを見て、おじいさんみたいなぼそぼそ喋りを聞いているとそれだけでいいや、になるの。 
あとは蜂蜜があればいい。(Not a Marmalade)

音楽はJon Brionだねえ。Richard M. Shermanさん自身がピアノ弾いて歌う”Busy Doing Nothing”が…

頼むからお願いだから変な宣伝しないで。プラントハンターも出てこないで。

8.22.2018

[film] Blessed Event (1932)

18日、土曜日のごご3時、Film Forumで見ました。
映画もあるけど、Film Forumがリノベされたと聞いて、どんなふうになったのか見てみたくて。

Film Forumって、3つのシアターで新作(Premiere)と旧作(Repertory)をかけている70年代からある上映館で、NYが舞台のRom-comにもたまに出てきたりする。わたしにクラシック映画(というより映画ぜんぶ)のおもしろさを教えてくれたのはここ(とアストリアのMuseum of the Moving Image)で、成瀬だって溝口だってここの特集で知ったの。

この作品は土曜日のこの1回きり上映で、ここの名物プログラマーのBruce Goldsteinさんの解説つきなので昔からの予感が働いて、前日、モントークからのバスのなかでチケット取っておいてよかった。Stand-byも含めてすごい行列(ほぼぜんぶお年寄り)ができていた。

pre-Code時代のコメディの傑作で、みんな大好き”His Girl Friday” (1940)の元になった”The Front Page” (1931)のオリジナルのブロードウェイ舞台版 (1927)で主役のHildy Johnsonを演じていたLee Tracyが実在したジャーナリストWalter Winchellを模したタブロイド紙のコラムニスト役をやってて、当時、この舞台でのLee Tracyっていうのは70年代のDeNiroやPacinoが当時の俳優に与えたのと同じくらいの影響をJames CagneyとかSpencer Tracyとかに与えた、それくらいすごかったんだから云々、というようなことをBruce Goldsteinさんは映画の登場人物さながらのスピードでばーっと喋って、とにかく映画がはじまる。

上司に怒られて秘書にあきれられてばかりのコラム書きのAlvin (Lee Tracy)はBlessed Event – 子供作り – についてのちょっとエロなコラムを書いて、クラブ歌手のDick Powell – これが映画デビューだって – と組んで面白半分に拡散したら新聞は売れたのだが、これをおもしろく思わないギャングがのしてきて、恋人家族会社ぜんぶ巻きこんだ大騒ぎになって、ていう程度の軽いお話しなのだが、これを機関銃みたいなトークの応酬と、アニメみたいにぴゅんぴゅんした動きと、とっても特徴のある顔だちの人たちのなかにぶちこんでて、とにかく速いこと速いこと。 日本の昔の映画にも回転数まちがったんじゃないか、みたいのがあったりするけどあんなかんじで、とにかく早口英語(だよねあれ?)に付いていくのに必死であんま笑えないの(周囲の老人たちは異様に爆笑していたけど)。

上映後の解説は当時の検閲がどのカットでどんなふうに働いたのかをその映像と共に具体的に追っていったのだが、検閲って、中央で一括ではなくて州や地方によって個別に施されていったらしく、ここはどこそこの州でカットされた、と字幕で出る。まず、なんでカットされたのか、どこがいけなかったのかちっともわかんないのと、カナダなんてカットされまくりでぜんぜんわからなくなっちゃったのではないか、とかいろいろ頭抱える。 お母さんが"I'll be damned"って言っただけなのにカットって、なんだそれ?

あと、Bruce氏は今回上映されたLibrary of Congressの35mmフィルムを今年の春に見てこれまで見たことがないシーン約7分 - おそらく検閲前の - が入っているのを見て仰天したのだと。これまで何十回も見てきたのに改めて目を疑った… って。 いや、何十回も見てきたほうに仰天したりする。

改装されたFilm Forum、外装内装はびっくりするくらい変わってなかった。 改装=お掃除? くらいの。トイレの匂いも並び方も売店で売っているお菓子も上映前の携帯を消そうね画面も。 椅子だけバルセロナから取り寄せたとか言っていて、確かにふっくら心地よくなっていたかも。 そういうのはいいよね、って。

あと、昔よく見かけた常連さん(向こうは知らないだろうけど)の顔もいくつかあって、なんか嬉しかった。
まだ生きていたのね、って。

同じような顔認識の台帳がBFIでもできあがりつつあるねえ。

[film] BlacKkKlansman (2018)

こっちから先に書く。 20日の月曜日の朝7:30くらいにヒースローに着いて、タラップ(タラップだった..)を重い荷物抱えて降りて、地下鉄でおうちに戻って荷物担いで階段昇ってへろへろになり、でも洗濯終わるまでは寝ちゃいかん、て眠気覚ましに今晩なんか見るのないかしら、って探してたらこれがあって、メンバー先行の時点であっという間に売り切れていたやつなのだがうとうとしながら粘ってみたら昼過ぎに釣れたので安心してお昼寝した。

BFI Southbankで18:15から。上映後にSpike LeeとのQ&Aがあって、その模様は全英180箇所くらいに同時配信される、と。
会場に入るとTemptations とか昔のソウルががんがん流れていてあがる。

“Gone with the Wind” (1939)のあるシーンから始まって、そこに大学のセンセっぽいAlec Baldwin(誰を指しているかはすぐわかる)がインチキ史観を得意げにかますのが冒頭。

70年代頭、コロラド・スプリングスの警察にふっくらアフロのRon Stallworth (John David Washington)が入って、最初は記録倉庫に配属されて腐っていたら次はマイクを付けられてコロラド大学に来た黒人解放運動のリーダーの演説会のUndercoverをやらされ、そこにいた学生側のリーダーのPatrice (Laura Harrier)と出会って、演説と彼女の熱にやられてしまう。

ある日KKKの募集広告を見たRonは、職場のデスクからそこにあった電話番号に電話をかけて、おれはニガーがだいっきらいで我慢ならねえって話をしたら向こうから会おう、って言ってくる。その際に本名を名乗ってしまったのでおまえバカか、って言われるのだがRonの替わりにFlip (Adam Driver)がなりすましで向こうに潜入して、最初はおまえユダヤ人じゃねえか、って疑われたりするのだが、ぎりぎりかわして組織に信頼されていって、Ronの方は電話の口先だけでKKKのGrand Wizard - David Duke (Topher Grace)と定期的に話をするところまで行ってしまう。

やがて、David Dukeがコロラド訪問するというのでFlipは当然その集会に出なければならず、Ronの方はよりによってDavid Dukeの当日のボディガードを任命される。ここに合わせてKKKは爆弾テロを計画していて、さてみんなどうなっちゃうのか。

ストーリーだけだとこんなかんじなのだが、背景としてRonとPatriceの恋とか、当時流行っていたBlaxploitation Movieのこととか、KKKの集会で上映されて喝采を浴びる”The Birth of a Nation” (1915) - 『国民の創生』とか、その模様に対比する形でHarry Belafonteが学生たちに向かってリンチされ殺されていった同胞たちの歴史を重く静かに語るとことか、幅と厚みがいっぱいあって、でも基本は軽妙な活劇なの。 それでも最後は2017年の8月に起こったCharlottesville attackの映像とくそったれトランプまで出てきて終わる。冒頭のフェイク(トランプ) →  嘘のような本当の話 → リアル(トランプ)という流れと構成になっていて、つまりぜんぜん終わっていないよねこの件、と。

Standing Ovationで迎えられたSpike Lee - 見るのは初めてじゃない、New York Knicksのゲームに行くと大抵いたから – は、いつもの調子でいろんなことを話してくれたが、いくつか。
  • この話(実話)はプロデューサーのJordan Peeleが原作本を送ってきて初めて知った。
  • この映画で”The Birth of a Nation”と”Gone with the Wind”を引用したのはこの2本がアメリカの建国の歴史のある側面を象徴していると思ったから。
  • “The Birth of a Nation”を見るなとは言わない、あの映画に描かれていること、あの映画がホワイトハウスで上映されたということについてもっと議論されるべき、ということは言いたい。
  • 政治はこわくない。こわいのは映画のようなかたちで時間をかけて浸透していく文化のほう。
  • 映画にこういった政治ネタを持ちこみたがらない人がいるのはわかる。でもそういう態度自体が既にじゅうぶん政治的なんだよ。(← ほーら)
  • 最後にCharlottesvilleの映像を入れたのは、これが今も継続している問題だということ、米国の歴史はこういった延々続いている負の犠牲の上に成り立っているいるのだということを認識してほしいから。 だから2か月後の中間選挙と2年後の大統領選に向けて..(以下略)。

Spike Leeの映画が映画マニアみたいなひとたちの間であんま評判よくないのは知っているけど、これは本当におもしろいので見てほしい。クライマックスの紙一重のとこなんてほんとはらはらで楽しいから。

主演のJohn David Washingtonて、Denzelのとこのぼんなのね。The Equalizerの子。

“I, Tonya”でほれぼれするようなぼんくらを演じていたPaul Walter Hauserさんが同様にKKKのぼんくらをやってて、最高。

これが日本でどんなふうにプロモーションされるのかわからないけど、ここにあるヘイトや侵略、差別の構図 – 美しい国とかいうとんちき妄想 - は日本でもまったく同じだからね。沖縄とか北海道に対してひどいことやってきたんだから。まちがえないでね。

8.21.2018

[music] Pere Ubu

17日の金曜日の夕方にモントークからバスでマンハッタンに入って、The Morgan Library & Museumをのぞいてから、West Villageの(le) poisson rougeに入ったのが20:20くらい。 ありえない湿気の晩だった。

(le) poisson rougeは、最近はクラブ寄りのお祭りライブが多くなってしまったようだがたまにこういう変なのをやってくれる。
調べてみると最後に来たのは2012年のLambchopで、その前は2011年のElenoir Friedburgerで、その前はJon Brionだった。

Pere Ubuのライブを最後に見たのは93年の”Story of My Life”のツアーをIrving Plazaで見たときだったかしら? あれもとてつもないライブで、これがあればグランジもオルタナもぜんぜんいらんわ、とその貫禄に圧倒されたことを思い出す。 でもあれから20年以上経ってもまだライブしているとは思わなかったねえ。(あ、Pere Ubu自身は軽く結成40年越えてて、アンダーグラウンドのUbu王だからね)

前座がふたつあったのだが、体力がしんでいたので20:30くらいに始まるであろうメインだけ。
バックはギター、ベース、ドラムス、エレクトロ&テルミンの4名、ドラムス以外はそれなりのお歳のみなさんで、でも支えられてなんとかステージに上がって杖ついてまんなかに来れたDavid Thomasさんが一番心配なかんじで、椅子に座って譜面台を睨みつつ、赤ワインの瓶を取りだして自分でグラスにとくとく注いで呑みながら始める。

音はRobert Wheeler氏のテルミンが唸りをあげながらもギター中心の気持ちよいがりがりで、そんなにジャンクでもアヴァンでもそんなにみっしりしているわけでもないただのロケンロールしているとこが素敵で、途中からベースにTony Maimoneさんが替わって入ると更に滑りがよくなって、いくらでも浸っていられる。

それよかびっくりなのはDavid Thomas氏で、外見だけだと志ん生とかヒチコックとかペンギンとか、(歳を重ねた)青山真治先生というか、でもなのに声はちっとも枯れていないしおしゃべりは軽くてお茶目で、こんなに歳とっちゃったのにさー、履いてるのはただのサンダルだし着てるのはこんなデニムなんだよね、とか言ってて、でも曲が始まると完全にバンドの、Pere Ubuのヴォーカルとして一枚になるの。

ラストは*Love Love Love*であげてあげて、すげえなーと思っていると、引っ込むのは大変なのでここからそのままアンコールね、と言って、がんがんの”Kick Out the Jams”をぶちかまし、なんてことない顔してそのまま”Sonic Reducer”に入っていって、なんだこれ、って呆然としていると”Smells Like Teen Spirit”が鳴り出して、わわわ、ってなったらそこはイントロだけでそのまま*Final Solution*になだれこむ。 そういうことかー。 “Don't need a cure”の連呼から”Need a Final Solution”と歌う。 若い頃とは別の聴こえ方にはなるのかもしれないけど、いろんな意味で決定版だよね。

そうは言いながらも、確かに治療はいらないけどこれがFinalになるともまったく思えなかったことは確かで、また会おうね David! て気持ちよく外に出た。 そしたら小雨の裏で変な気圧が渦を巻いてて、たいへんぐったり気持ちわるくなった。 夏はまだぜんぜん終わっていないのだった。

[music] RIP Aretha Franklin

今朝(20日)、NYでの夏休みから戻ってきました。その間のことは追って書いていきますがまずはここから。

16日の午前、JFKに着いて、AirTrainのホームに走りこんだ時にTVのニュース画面で知った。
既に危篤であることはわかっていたけど、これまでも健康上のあれこれはあったのだし、とお祈りしていたところだったので、本当に残念でならなかった。 Detroitで亡くなった彼女の魂がまだ漂っていそうで、みんなが祈りを捧げているこの数日間だけでも、地続きのNYにいられるのであれば、とにかく目一杯の感謝と祈りを捧げるしかないよね、と。

彼女を最初に見て知ったのは映画 “The Blues Brothers” (1980)だった。 映画館で見てすぐにレコード屋に走って、映画のサントラとLP - ”Lady Soul” (1968) - を買って聴きこんだ。 それまでずっと英国の暗いのとかぼそぼそもごもごなに歌っているのかわからないような歌ばかり聴いていた自分にとって、これが初めて買ったソウルのレコードで、そこに躊躇がなかったかといえばあった、のだがあの映画のなかのArethaに説教されてしまったので問答無用だった。だから自分にとってのソウルはMotownでもStaxでもなくAtlanticで、それからしばらくして中古で”Aretha Live at Fillmore West” (1971)を手にいれて圧倒される。 未だにあのライブ・レコーディングはゴスペルとソウルミュージックとR&Bのエッセンスが混じりあって、人の声があの場所のなにかを掴まえて神に届こうとして一番近いところまで行った到達点だったと思っている。

自分にとってパンクは行動原理 - とにかく頭ぶつけて火花を散らしてあとは後悔しない - であるが、Arethaの歌は行動の規範だった。 なんかをやるときには“Think”が、ひとに会ったときには”Respect”が、巻きこまれそうなときには"Chain of Fools”が、沈んでいるときには"Spirit in the Dark" が鳴っていたり聞こえてきたりした。 それはある種絶対的な声でもって上から降ってきて、だから”Queen of Soul”というのはほんとうで、自分にとって彼女の歌は常にそういうものだったの。

92年の秋にNYに渡ってしばらくして、ClintonのInaugurationで彼女が*I Dreamed a Dream*を歌うのをTVで見て、ああ彼女が大統領のために歌う - なんというとんでもない場所に来てしまったんだろうどうしよう.. と震えたことを思い出す。 仕事よりもそっちのほうで震えていたのだった。

彼女のライブは90年代に2回、00年代に1回見ていて、90年代のはRadio City Music Hallのと、Lincoln Centerので、後者のは彼女のレパートリーではなくてゴスペルを歌う、という企画で、ゴスペル界の猛者達とバトルのような歌合戦を繰り広げるとてつもないやつで、自分がこれまで聴いてきたものの正体は、本丸はここにあったのだな、と思い知らされた。 2003年のライブもRadio Cityので、客席にはArif Mardin先生もいて、彼女のソウルの集大成のようなものすごく豪華なやつだったことを思い出す。

これらを見ているので、世の中でどんだけ”Diva”みたいなのが出てきてもちっとも驚かないし、ソウル・ミュージックというのはそんなふうにどっちが上とか相対的な何かを競うものではなく、すべてが”Respect”される境地のようなところで鳴って、みんなに等しく降り注ぐなにかなのだ、ということを教えて貰ったのでなにも怖くない。 ネガティヴィティ、というのは底なし無限の地獄でそれはそれで面白いのだが、ポジティヴィティ、ていうのは、彼女のような女王の絶対王政のお導きがあればそれで十分足りてしまうなにかで、それがある/あった、ので自分はここまで死なずにこれたのだとおもうし、彼女の声はいつでも手と耳に届くところにあって、どこかに消えてしまうことは決してないの。

Queen of Soul。 本当にありがとうございました。 ご冥福をお祈りします。

8.16.2018

[log] August 16 2018

何度も書いているけど今年の夏の暑さはほんとうに異常で異様で、それでも日本よりはましだろ、なのはわかるけど、でも冷房のないロンドンの地下鉄やアパートの暑さと冷房があっても効いてこないという日本の屋内の暑さをたんじゅんに比較するのは違うのではないでしょうか、と。 どっちも死にそうなのにつべこべ言ってるんじゃねえ、てのはわかりますけどね。ええ。

というわけで、7月の真ん中くらいから「避暑」みたいな言葉が雲のように浮かび始めて、ここだと北欧とかスイスあたりになるのだろうが、そういうとこ行って涼んでもねえ、だし先週くらいから気候も通常運転に戻って涼しくなってきちゃった(夜は窓閉めないと寒くなった)ので、しょうがねえ、と通常運転でNYに行くことにした。

そういえばここ数年はPanoramaに行ったりしていて、あれはあれで楽しいからよいのだけど、今年のラインナップときたらしーん  – わかっていてしーん&わかんなくてしーんのミックス - みたいなかんじだったのと、ライブは6月のMeltdownで散々行った気がしたので少し抑えて、でもただNYの街行くだけだといつも通りに本屋行ってレコ屋行って映画館行って「だけ」、になっちゃう可能性が大きいので、もう少しなんかないか、と思ったりしている。

でもそうは言っても、ロンドンに来て半年が経過していた昨年の訪問と、そこから更に1年が過ぎた今度の訪問は、目線も気分もたぶん違っていて、まだふらふらしていたロンドンのあれこれをNYのあれこれで答え合わせするかんじだった昨年に比べると、今年のは余裕でどっちに対してもそういうもんよね、って言える気がする ← なにさま?

そしてたぶん、ここからしばらくは、そうやって現れてきた都市の違いを踏んだり転がしたりしながらこれらの都市とか街とかが自分にとってどういう意味を持つのか、本当にそれらがないとしんじゃうのか、みたいなところを確認していくことになるのだろう。自分の死に場所を探してみる、みたいなのを。
そういうことを考えたりするようになったのは、ロンドン(とかその他の欧州の街)が本当にいろんな死者といろんな死体の上に建てられた街で、その上に住む人たちは死者を想うように自分たちの街の成り立ちだのなんだの、そんなことばかりを考えている(ようにみえる)から - という辺りからNY(とかアメリカの街)を考えてみることは可能なのか? どんなふうに? 意味あるのかしら? などなど。

だいたいさあ、暑さで干上がった土地から遺跡が浮きあがってくる、ってなんだそれ、とかも。

こっちには月曜の朝に戻ってくる。時間はもうすでにぜんぜんない。
とにかくゆっくりしてきますわ。やれるもんなら。

ではまた。

8.15.2018

[film] Trucking Edith (2016)

7月31日、火曜日の晩、Curzon Bloomsbury内のドキュメンタリー小屋で見ました。

主に30年代の英国の庶民や街の風景を捕えた写真家としてNational Galleryにも展示がある Edith Tudor-Hartは、ソビエトのスパイでもあり、歴史に残る2重スパイとして知られるKim Philbyをソビエトに紹介したりもしていた – って本当なのか、と彼女の甥っこでもあるPeter Stephan Jungkが追っていくドキュメンタリー。

こないだの”Bombshell: The Hedy Lamarr Story” (2017) ほどのびっくりはないものの、事情によってふたつの顔を維持していた女性アーティスト(彼女もウィーン出身だ)がなにを見て、追求していたのか、そのなぜ?を知る、という点でこの2本は近いところがあるかも。

1908年にウィーンのユダヤ人コミュニティに生まれた彼女はバウハウスで写真を学んで、幼稚園の先生をした後、医師との結婚を機にロンドンに渡り(なのでナチスの迫害からは逃れた)、そこで貧困のなかにある人々やスペイン市民戦争の難民の写真を撮ったりしているうちに共産主義の方に傾いていって、ウィーンで知り合っていたArnold Deutsch - 彼が直接Kim Philbyをスカウトしたとされる – の手引きでロンドンでLitzi Friedmann – Philbyの最初の妻 – と出会って..  などなど。

対象が対象なので証拠として確認できそうな資料はあまり残っていなくて、ロシアまで行ってみてもアーカイブを見せて貰えなくて(まあそうよね)、なので部分部分はアニメーションで補足したりしている。 人物の相関関係とか時間の経過はそうなのね、くらいしか言いようがなくて、でもやはり見て考えてしまうのは、カメラのファインダーを覗いてそこから世界を見る、という写真家の営為と、限られた視野やソースのなかで諜報活動をするスパイの営為は彼女のなかのどこでどんなふうに繋がっていったのだろうな、ということ。 彼女のなかではそれなりに一貫した行為だったのではないかしら、と。

スパイというのは国を裏切って国益を損わせるという(その国からすれば)犯罪行為なわけだが、その国の掲げる理想が自分の信じるところと違うとか、自分が今見ている風景とあまりに違うとかいうとき、ひとは怒ったり失望したり沈黙したり自殺したり政治活動したり革命に向かったり… スパイというかたちで現れる活動もこの線で、30年代の英国がどんなだったか、彼女やBill Brandtの写真くらいでしか見ることはできないのだが、例えばCambridge Spy Ringというのは、あれらの風景のなかから集団意識のようなかたちで立ちあがったなにか、ていうのはありそうだし、所謂「アートと政治」について考えてみるよいネタだと思った。 いまだにアートの文脈で政治のことを語ってほしくないとかわけわかんないことを言っているガキ共には必須にしたい。

Edith Tudor-Hartの写真はたとえば以下で見ることができる。

https://www.nationalgalleries.org/art-and-artists/artists/edith-tudor-hart

http://spitalfieldslife.com/2017/08/03/edith-tudor-hart-photographer/

[film] First Reformed (2017)

7月30日、月曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。Paul Schraderの新作。

NY州の外れにあるFirst Reformed Churchの牧師Ernst Toller (Ethan Hawke)は何か思うところがあるのか、ノートに手書きの日記を書き始めて、1年後にはこれを破棄する、と宣言している。
彼は牧師として軍に従軍していたこともあって、でも彼の勧めでイラクに行った息子は亡くなって、今はひとりで苦しんで頻繁に酒を飲んでいて体調もよくないらしい。

ある日、礼拝に来た身重のMary (Amanda Seyfried)から、旦那のMichael (Philip Ettinger)の様子が変なので話しを聞いてやってほしいと請われたので会ってみると、環境活動家(ラディカルなほう)である彼は最近の気候変動のあれこれに絶望していて、もう地球はもたないと思うのでMaryには中絶したほうがいい、と言ったりしているのだと。 また話をしよう、ととりあえず帰したのだが暫くするとMaryが家のガレージでこんなのを見つけた、と起爆装置の付いたベスト - 自爆テロ用の - を持ってくる。とにかく話をしよう、とMichaelに連絡して、面会に指定された公園に行ってみるとそこには自分で頭を撃ち抜いた後の彼の体が転がっていた..

Michaelの遺志の通り、汚染された湖の畔でコーラス隊がNeil Youngの”Who's Gonna Stand Up”を歌う、という寒々しい葬儀をして、彼の遺品(含ベスト)を引取り、彼のPCに遺されたものを見たりしていると、Tollerにもいまの地球環境はこんなにもやばいのか、というのが伝染してくる。

ていうのに並行して地元の偉い人達が出席する教会のアニバーサリーの準備が進行していて、そこのスポンサーである地元の企業家の工場主に環境汚染の話をしてみると、なに言ってんだおめーは、みたいな勢いで乱暴に一蹴されてしまう。

PCからMichaelの思考を辿っていくのと、イベントの準備でいろいろ頭を下げたりしているのと、日々悪化していく自身の体調(医者からは癌の疑いがあるので検査を、と言われる)と、そしてこれらを全部たったひとりで引き受けてこなしているTollerのなかである考えが持ちあがってくる。
イベントの直前、TollerはMaryにとにかくイベント会場には来ないように、と強くお願いするのだが、その当日がきて…

監督自身もどこかで言っていた気がするが、これはブレッソンの『田舎司祭の日記』(1951)、あるいはその原作のジョルジュ・ベルナノスの小説を現代のアメリカの(やや)田舎に適用したらどんなふうになるか、を試行したもの、なのかも知れないし、更にはタイトルであるFirst Reformed Churchの成り立ちや教義も踏まえると見えてくるものもあるのだろうが、そういうのなしでも十分にのめりこむことができる。

特に後半の、事件が起こったり何かが始まっているわけでもないのに画面全体を覆う刻一刻の不穏さと緊張感はなんなのか、Tollerの立ち姿、歩き方、口調、メモ書き、それくらいなのに、それがMichaelの背中を押していた畏れや絶望と同調して殆どホラーの切迫感でもって見ることを強要してくるような。

とにかくEthan Hawkeがとてつもない、と言おう。最後に現れる奇跡みたいななにかは、Before Trilogyのラストの一瞬に彼が見せてくれる曲芸のようななにか、に近いのかも。あそこでの饒舌さとは180度異なる寡黙さ硬さでもって、それが、それだけあればひとは生きていけるのだ、というのを表出させてみせる。 それって簡単にできることではないと思う。

8.14.2018

[film] The Pumpkin Eater (1964)

7月29日の日曜日の晩、BFIのPinter特集で、”The Collection”に続けて見ました。

原作はPenelope Mortimerの小説、脚本がPinterで、監督はJack Clayton。
邦題は『女が愛情に渇くとき』(← 女性を貶めて男性客を呼び込む昭和の邦題マーケティング。最近の邦題は女性客を呼びこむ方に向いているが根は一緒。しみじみしょうもない)

今回のPinter特集のメインイメージになっているのが、この映画のかっこいいスチールなの。

Jo (Anne Bancroft) がJake (Peter Finch)と2番目の夫の紹介で出会って仲良くなって結婚して、Joには3度目の結婚で、Jakeの連れ子も含めて8人くらいの子持ちの大所帯になって、賑やかで幸せそうに見えるのだが、売れっ子のScreen writerでよいひと風のJakeのDVとか度重なる浮気とかで、Joの精神とか行動が緩やかに病んで壊れていく様をアントニオーニ風に荒んでいく心象風景と共に描いていく。

Jo - Anne Bancroftの演技が圧倒的で、デパート(Harrods)を歩いていて錯乱して泣きだしてしまうところ、美容院で隣に座った客とのやりとりでおかしくなるところとか、医者とのかみ合わない会話とか、表面 - 表情とその裏側の攻防をどろどろ風にではなく表面張力を保ちつつドライに並べていくことで、人混み(含.家族)のなかの彼女の孤独と救いようのなさが際立ってすごいの。

Jake – Peter Finchは同年の“Girl with Green Eyes”に続いて社会的地位もある堅くて立派な文化人ふうで、女子はすぐにぽーっとなるけどその裏で実は… みたいな役が揺るぎなくかっこいいし。

そしてこれの前に見た2本のPinterの中編を経て、ここの夫婦間の葛藤ドラマを見てみると、ひと同士の猜疑心とか嫉妬とか不信とか起因なのでどこまでも深く際限なくて、ほんと延々終わらないし決着つかないし、そういうのをぷつっと切ってしまう(前2作のような)のもあるし、この作品のようにそれでも我が家、ここが最後に還る場所、みたいに落着(錯覚)させてしまう(実はなにひとつ解決していないけど)やり方もあるし。 例えば、ベルイマンだとここに神とか仮面とか血縁とかより抽象度の高いなにかを持ちこんでくるので考える軸みたいのは出てくるのだが、こっちのには一見なんもない – なんでもあり - な気がしていて、そこを単なるKitchen sink realismって片づけてよいかというとなんか勿体ないかなあ、って。 例えば、Pinterの演技者とか筋運びへの作為、放置に近いようにみえるその底なし感の底にあるのって、フェミニズム観点で掘ってみると相当いろいろ出てくるのではないかしら。 それをやっていくと50 - 60年代の英国の文化土壌みたいなところに行ってしまうのかもしれないけど。

タイトルは英国の童歌 - "Peter Peter Pumpkin Eater"から来ていて、これも主はPeterの方で、かぼちゃ喰いの欲張りPeterが妻になんかしちゃったよー、とかいう歌なの。

というのと、あとこれらの背後に「悪」とか「罪」とかは入ってこないのか、とも思って、それをやりだすとキリスト教的な倫理だのに行って面倒だからかもしれないし、ふだんの日々もそういうのなしで流れているから、ということなのかもしれないけど、これだけ端正できれいな画面構成でずーっと来て、最後の最後にホラーみたいなほうに転調するとか、映画ならあってもおもしろくなったかも、とか。なくてもじゅうぶんにおもしろいけど。

他にはちゃきちゃきした浮気相手のMaggie Smithとか、妻が浮気されて文句を言いに来るエロおやじ風のJames Masonとか、Joを混乱させるためにやってくる脇役達も素敵なの。

たいへんおもしろかったので、このPinter特集、追える範囲で追ってみることにした。

8.13.2018

[film] The Collection (1976)

7月29日の日曜日の午後、BFIで見ました。BFIではこの7-8月に、Harold Pinterの没後10年企画 - ” Pinter On Screen: Power, Sex and Politics”という特集がかかっていて(昨年はJoe Ortonだったねえ)、うううなんか重そうだなあ、と思いつつこれを機にお勉強してみよう、てかんじで見始める。

タイトルの前に“Laurence Olivier Presents”と付いていて、これはGranada Televisionが76年から78年までやっていたTVプログラムのことで、Laurence Olivierの監修と出演で、彼がArtistic DirectorをやっていたNational Theatreで掛かった演劇作品をTV用に翻案したのを放映していたのだそう。 ぜんぶで6作品あって、他にはTennessee Williamsの”Cat on a Hot Tin Roof”とか。

PInter自身の演劇用の原作は1961年のもの、このTV版は63分で、30分番組だったのか途中にCMが入ったのか、真ん中あたりで一旦途切れる。

最初にキャストの名前が出てきたところで、その4名の豪華さにちょっとびっくりする。

ロンドンに暮らす初老のHarry (Laurence Olivier)は朝帰りしたところで一緒に暮らしているBill (Malcolm McDowell)宛の妙な電話を受けて、そのあと今度はBillが家にいるときに、James (Alan Bates)ていう見知らぬ男の訪問を受けて、そいつはいろいろ遠回しに慇懃無礼に聞いてくる。そのJamesがBillに対してストーカーぽく追い詰めていくやり方がおもしろいのだが、要は、地方でファッション・イベントがあった際、自分の妻で自分のブティックをやっているStella (Helen Mirren)とBillはホテルで会っているだろう、そこで何をした? 寝たのかどうなのか? と。 同じことをJamesはStellaに対しても聞いていて、Harry経由でも聞いたりしていて、でもその度にみんな言うことが微妙に違うのでJamesはどんどん焦りまくってドツボにはまり、聞かれて掘られる側はなんなのあんた? の不機嫌になっていって、つまりあんたが気にしているのはあの晩ふたりが寝たかどうなのか、っていうことらしいけど、それがほんとうだったとしたらそれがなんだってのよ? 嘘だったとしてもなんだってのよ? 結局あんたなにがどうなったら納得して安心できるわけ? などなど。

裕福だけど仲がよいとは思えない夫婦と、同居していて仲がよいのか悪いのかよくわからない怪しい男達との四角形の間で繰り広げられる、嘘をついているのは裏切っているのは嫌っているのはおまえだ戦争の顛末。
結局なんかさみしくてつまんないってことなのね.. って猫を抱きしめるStellaの猫がものすごくかわいいの – “Jeune Femme” - 「若い女」に出てきたムチャチャと同じ猫。

それにしてもHelen Mirrenのクールでかっこいいこと(今と変わんないの)。

The Lover (1963)

29日のBFIで、”The Collection”に続けて上映されたもの。これもTV放映されて、シアターで上演されたのはこの少し後だったという。画面はモノクロで、54分の作品。

Richard (Alan Badel)とSarah (Vivian Merchant)の夫婦がいて、ふたりの立派なおうちがあって、朝にRichardが家を出て行くときに「彼は何時に来るの?」と聞くとSarahは「3時よ」とか返して、その後にSarahはおめかしして服とか靴を素敵にして、その時間にやってくる男を迎い入れる準備をして、RichardはRichardで娼婦とよろしくやっているようなことを言ってて、でもやがて3時にやってくる男はRichardか、Richardにそっくりの男であることがわかって、つまりこいつらは互いになにをやっているのだろうか、と。後半はそんなふうにして維持されているふたりの関係についての口論で、これも先の”The Collection”と同様、つまりあなたは実際のところどうしたいわけ? になっていくのだが、これがなんかの刺激を求めるゲームみたいなもんなのか、まじでなんかの危機に直面しているふたりの症例を現したもんなのかは、わからない。 出口なし、なのかオープンドアなのか、やけくそなのかも。

しかしこれが63年にTVで流れた、ていうのはすごいかも。プロデューサー/ディレクターのJoan Kemp-Welchさんはこの時代のTVの世界で最初に活躍した女性で、この作品でいろんな賞を獲っている。 Sarahが午後3時に向けて着飾るシーン、ものすごく丁寧に描かれているはそういうことかしら。

[film] Il regista di matrimoni (2006)

7月28日の土曜日、BFIのMarco Bellocchio特集で見ました。
英語題は”The Wedding Director”。 邦題は「結婚演出家」。 これもえらくおもしろくてさー。

著名な映画監督のFranco Elica(Sergio Castellitto) は、自分の娘の結婚式でぜんぜんやりたくないのにあんた監督でしょ、ってビデオカメラ持たされてうんざりしているのが冒頭。 それから次回作に予定していたマンゾーニの「いいなづけ」の映画化のオーディションで参加した女性からセクハラの嫌疑をかけられて更にうんざりして、そこからすべてが嫌になってシチリアの方に逃げてたそがれていると、そこの浜辺でこれから結婚するらしいカップル用の記念(?)ビデオを撮影しているB級映画監督から、あなた有名な監督ですよね大変光栄ですついでになんかアドバイスください、と言われたので適当にシナリオ考えてあげたら、そいつはえらく喜んで、そこから話が広がって地元のマフィアの大ボス - Principe di Gravina (Sami Frey)の娘の結婚式のビデオを、という話になったのでいいかげんにしろよ、って返すのだが既に話は通っていてPrincipeからも認められてしまったので逃げようがなくなり、こわごわその屋敷に行って(そこまでの道のりがおもしろい)花嫁 - Bona (Donatella Finocchiaro)に会ってみたら電気に打たれたように彼女のことが好きでたまらなくなってしまったのでどうしようか、と。

やはりSergio Castellittoが主人公だった『母の微笑』と同じように、それなりの社会的地位にある男 - でも神とか絆とかあんま信じていない - が向こうから降ってきた望んでもいない状況に翻弄されてうんざりしながらも最後になにかを掴んだかんじになる、そういうお話として見ることもできる。 『母の微笑』の真ん中にあるのが既に亡くなった人(お葬式)だったのに対して、こっちは結婚式という他人の幸せで、相当にどうでもよい案件であるはずなのに、気づいたら巻き込まれて逃げようがなくて、しかもひょっとして恋の主人公は自分なのかもしれないやばいわ(なんとかしろよ)、って突然気づく。 そんなおっさんスクリューボール・コメディとして見れないこともないかも。

あと、前半のセクハラの件もそうとれるのかもしれないが、撮る側と撮られる側の力関係がくるりとひっくり返ってしまうとき、そこではなにが、どんなことが起こっているのか、という奇妙なスリルとそこに生まれるドラマ。 そうなったとき、カメラのこちら側は、なにを撮ったらよいのかしら? という動揺が映画そのものを揺さぶる。 セルフィーでもやるか? とか。

なんで映画監督なのか、というと映画監督って人が結婚式に向かっていくドラマと人がお葬式に向かっていくドラマを撮る職業だからだ、と言えないこともないからで、そしてその前者のやつが、オファーを受けないと、失敗すると殺されるようなやつだったりすると、彼(彼女)が主演のひとと恋に落ちて結婚したいと思ってしまうのは必然なのではないか、と思ったりする。それが職業柄、というもの。

そういうあれこれを孕んでどうなっちゃうのか、と手に汗を握って見ていると最後はあーんな見事なところに行ってしまう。
すごいわ、まるでオペラだわ、って。

日本の映画監督でやってみたらおもしろいのに。 黒沢清主演とかで。

[film] Gun Crazy (1949)

7月25日、水曜日の晩にBFIで見ました。ここでずっと毎週なんかやっているクラシックを大画面で見ようの特集で、7月のテーマは”When Love Goes Wrong…” - 「愛がこじれちまった時…」 - だって。
最初に上映された時のタイトルは”Deadly Is the Female”だったがあんまりではないか、ということで現在のになった。 邦題は『拳銃魔』。 ぴっかぴかの35mmフィルム。

上映前にKings Collegeの先生による簡単なイントロがあって、公開当時、フランスでは当たったけどアメリカとイギリスでの評判は散々で、特にイギリスではLaurieを演じたPeggy Cummins - こないだ見た “My Daughter Joy” (1950)のJoy役ね - がハリウッドで成功したイギリス女優、ていうイメージだっただけに、なんで彼女があんなビッチなのを(怒)、ていうのもあったのだって。

Bart (John Dall)は14歳の頃に拳銃店のウィンドウのガラスを割って銃を盗もうとして捕まって、矯正院に入れられた過去があって、でも出所した後も銃への偏愛は止まずに、幼馴染ふたりといつも銃で遊んだりしていて、だから銃の扱いは巧いのだが決して生き物は撃たないようにしていた。 そんな彼が巡回する見世物小屋の拳銃ショーみたいので、銃使い芸人のLaurie (Peggy Cummins)と出会って、互いに腕を認め合って恋に落ちて結婚するのだが、Laurieは豪快な浪費家ですぐにお金がなくなって、強盗とかをするようになって、それが重なって遂に襲撃した会社の給与課で人を殺して全米のお尋ね者になっちゃって、最後には逃げ場がなくなってBartの実家に戻ってくるのだが、そこにも当然 …

Bartの銃フェチも、Laurieの狂気凶暴も、それが何に起因するのか、彼らの行動がそれらのどの辺を突っついて起動されるのかきちんと説明がないまま、彼らは目配せするなり向こうのほうに一目散に突っ走っていってしまう、その挙動一式はCrazyとしか言いようがなくて、だから”Gun Crazy”なのだろうが - 邦題はちょっと違うよね - それでも、Bartの家族や幼馴染たちは彼を - 彼のCrazyじゃないよいこのところを - 信じていて、最後はそれが彼らの自滅の元になってしまう、という皮肉。 でもそれって冒頭の裁判のところでわかっていたじゃん、て。 だからつまりは”Deadly Is the Female”なんだなって。

“They Live by Night” (1948) - 『夜の人々』にしても、一連のBonnie & Clydeモノにしても - 犯罪をしたカップルが逃げていく破滅劇のなかに置いてみたとき、ふたりの絆とか愛の深さみたいのがあまりきちんと描かれていないので、それが破滅したときのあまり悲しみは来なくて、逆にそれがふたりの理不尽なアクションに勢いを与えていて、痛快ですらあったりする。 出会い頭に散った火花の勢いそのままで最後まで行ってぷつりと終わる。 スチールにある銃をぶっ放そうとするLaurieをなんとか押しとどめようとするBart、のあのすばらしい一瞬にすべてが入っている。

これ、むかしNYのFilm Forumで見たのが最初で、MOMAでも見て、でも何度見てもぜんぜんWetに来ないのってすごいなあ、って。 “They Live by Night” (1948)は、劇場でかかる度に、もう10回以上は見ていて、見るたびにボロ泣きなのにねえー。

8.07.2018

[film] Ant-Man and the Wasp (2018)

3日の金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。暑さだの疲労だのでへろへろの金曜日。公開初日だったのかしらん。
Queenの伝記映画の予告がかかって、当然、てかんじで盛りあがる。

おもしろくてたのしかった。Quantum realmがなんなのか相変わらずちっともわかんないけど、一番荒唐無稽でSFぽいかんじで、みんな、たかが地球のため市民のためにそんながんばらなくていいよ、って言いたくなる他のAvengersのよか断然こっちだわ。

前作 - “Ant-Man” (2015) - の終わりにQuantum realm から生きて帰ってきたScott / Ant-Man (Paul Rudd)を見て、Hank Pym (Michael Douglas)は、あそこに行ったきり戻ってきていない妻のJanet (Michelle Pfeiffer)がまだあっちで生きているのではないかと仮説をたて、娘のHope / Wasp (Evangeline Lilly)と一緒に研究と実験を続けていて、他方でScottは前のAvengersの件の後始末で脚にセンサー付けて自宅に軟禁状態なのだが、彼らの実験にリンクしているのかJanetぽい人が出てきた気がしたんだけど、てHankのところに連絡したら彼らは飛んできてそれが本当なら実験続ける意味あるし、と言われる。 ただQuantum realmとこっち側の間にちゃんとしたトンネルをつくるにはある装置が必要で、それを持っている悪い連中から奪い取るのと、その装置とラボ(建物)一式を巡って、やはりあっち側のトリートメントが必要なAva / Ghost (Hannah John-Kamen)が現れて横取りしようとしてきたり、もちろん警察とかもいろいろ入ってくるのでめんどくなる。

穴掘り工事と穴掘り道具を巡るすちゃらか捕物帳で、穴が掘れたから、掘れなかったからどうかというと、あんまこっちの当座の生活には影響なさそうだし、そこででっかい蟻さん達がぶんぶん働いていたとしても大変だねえ、としか言いようがない。(どうせ蟻だし。設定としてキリギリスのキャラがあっても悪くなかったかも)

そしてその大変だねえ(ひとごと)、の線上で間抜けな悪党一味とScottの仲間のLuis (Michael Peña)たち(おなじくらいぼんくら)がぶつかって小競り合いをしてて、楽しいったらない。 ここだけ延々やっててほしかったくらい。 

こうして、San Franciscoの街の上をAnt-ManとWaspと巨大化したいろんなの(とミクロの鉄砲玉たち)が飛び交うことになって、もうなにが起こっても誰もなんも驚かないの。Hulkは化学実験のだから巨大化してもしょうがないか、だけどこっちのは物理のだからわくわく楽しい。Quantumなんとかのせいで本当に起こるかもしれないじゃん、とか、本当に起こったらどうなっちゃうかしら、とか。

とにかくこうして、Janet (Michelle Pfeiffer)は戻ってくるわけだが、Pet Semataryになってたら面白いのに、ていうのはなかった。Michelle Pfeifferなら本当にものすごいのやれるし、Michael Douglasならそれを正面から受けとめることできるのにな。

そしてこの流れが次のAvengersのにどう合流してくるのか、と。
別に合流しなくてもいいのに。この昔のB級どまんなかのかんじでずっと走ってほしいのに。

アリがドラムキットの前に座っていたので、Adam & The Antsやってくれると思ったのにな。
Peyton Reed ならやってくれると思ったのにな。

あと、Hank Pymってなにして稼いでいるんだっけ?

8.06.2018

[film] Sicilian Ghost Story (2017)

7月27日、金曜日の晩、BFIで見ました。一般公開前のPreviewで、内容もよく知らないままに。
2017年のカンヌ批評家週間のオープニングで上映されたものだそう。

洞窟の中のフクロウのクローズアップが最初で、その後もイタチ(?)とか犬とか馬とか虫とか動物がいっぱい出てきてよいのだが、とにかくイタリア、シチリアの田舎に12歳のLuna (Julia Jedlikowska)がいて、クラスメートのGiuseppe (Gaetano Fernandez) と下校途中の森のなかで追いかけっこしてじゃれ合って、彼の乗馬訓練(彼はお金もちの坊ちゃんらしい)を眺めたり、互いに見つめあって幸せそうで、でもある日からGiuseppeが学校に来なくなって、彼の家を訪ねて行っても彼の母親が狂ったように泣き叫んでいるのが聞こえたり、窓辺で真っ青になっているのが見えたり、とてもよくないことが起こっているらしいことがわかる。

その後はどこかにさらわれて監禁されているGiuseppe(← 彼の父親に対する報復らしい)と星に聞いたり森に聞いたり動物たちに聞いたり、彼の生存と彼が戻ってくることを信じて自身の心の底まで降りて絶望的な追跡と彷徨いを続けるLunaの姿を追う。 やがてふたりの想いは神さまに通じて、でもなく、Ghost Storyなので精霊とかがなんとかしてくれる、でもなく、森のどこかで自分たちを見ていたGhostがどっかに連れて行って隠しちゃったんだ、て想いが空回りしていくLunaは疲弊して、Giuseppeはぼろぼろにされていって、そして最後の最後には…

一途でまっすぐな少年と少女の愛のお話しで、彼と彼女が同じ星を見て同じ地面に祈る限りその想いは通じるはずなのに、そうはならないのでGhost Story、なのだろうが、きらきらしたファンタジーのほうには断固向かわずにそれぞれの閉ざされた世界で、それぞれの知覚と伸ばせる腕を精一杯伸ばして瞳を拡げて闇の向こう側に到達しようとする、彼が夢に出てくる限り彼はどこかにいてこちらを見ているのだと信じようとする、その手探りの感触とそこに触れてくる自然のありようが瑞々しくて、辛いけどそうやって紡がれて現れてくる幽霊の、その居場所まで思うことができる、そういうお話しだった。怪談やホラーに転化するぎりぎり手前で、若いふたりのラブストーリーに留まっている。 留まらせたものはなんなのか。

Bellocchioの描くイタリア、とは全く別の、でもこれもイタリアなのだろう。全体として突き放したところはどこか似ていて、でもそれに対する食らいつきかたはぜんぜん違う。後半の冥界を彷徨うかのような暗さ、でも同時にすべてを見渡すことができるような視界の広がり - 瞳孔が広がっていくような描き方はすばらしい。

Lunaの目も面構えも素敵でかっこよくて、彼女と動物たちを見ているだけでいい - なんてことはないけど、目を離せなくなることは確か。

だが、最後にこれ(Giuseppeの誘拐)が93年に実際に起こったことだと知って衝撃を受ける。
それってちょっと辛すぎる。

8.05.2018

[film] L'ora di religione (Il sorriso di mia madre) (2002)

7月22日、日曜日の夕方、BFIの Marco Bellocchio特集で見ました。 英語題は”My Mother’s Smile”、邦題は『母の微笑』。
原題を直訳すると「宗教の時代(私の母の笑顔)」になる。

画家、イラストレーターとして成功しているErnesto (Sergio Castellitto)はある日ヴァチカンの枢機卿の訪問を受けて、亡くなった母を聖人に認定する話があるのでそのためのインタビューに来るように、と言われて混乱する。 亡くなった母は確かに信心深かったが、冷たいところもあって精神を病んだ兄に刺殺されてしまっていて、そういうのもあるのかErnesto自身は無神論者だった。別れている妻との間にできた息子は神って奴がどうしても頭から出ていかない、と文句を言って走り回っていて、どうしたものかと息子の宗教の先生に会いにいくとなぜか彼女に惹かれてしまったり、やがてヴァチカンへの熱心な働きかけをしているのは叔母であることがわかったり、イラストの仕事はなにそれみたいなケチばかりつけられたり、君主制を崇めるやつから決闘を申し込まれたり、いつの時代の話だ? っていうのと誰のための話だ? っていうのがぐじゃぐじゃになっていって、父であり息子であり甥であり恋人であり画家である彼の足場はドラマチックに揺れまくって、そんな彼を聖人になってしまうかもしれない母は遠くでうっすら微笑んで見おろしている。 なんなのこれ?

イタリア人の宗教に対する考え方とか意識、同様に家族に対するそれ、などなどを知らないと深く理解することは難しいのかもしれないが、こないだ見た”The Eyes, the Mouth” (1982)で描かれた家族のありようなどと併せてみると、どれだけおお神様なひどいこと、荒唐無稽なことが襲ってきても、死者は向こう側でなんか微笑んでいて気楽でいいよな、と言いつつも結局どうあがいてもそんな家族から逃れることはできないのだ覚悟せよ、って。

狭い世界のなかにいろんな視線や思惑が大量に交錯しながらErnesto目がけてやってきて、そのそれぞれにスラップスティックに困惑させられてどツボ喜劇のように見えないこともなくて、でも当座の話の中心に来るのは聖なる母であり、その向こうの総本山ヴァチカンであり、でも彼女は紛れもない自分の母親として自分を創ったのだ、それは断固として神ではなかった、気がする。
でも、であるが故の「宗教の時代」なのだと。宗教があれば解決すること間違いなしよ、と。

そして、なによりErnestoがあの中でいちばん、母親が聖人であることを理解していたのではないだろうか。

そしてこれらをちっちゃなホームドラマの枠に納めてしまわないのもBellocchioであって、画面構成にはイタリアンバロックの大風呂敷と荘厳さと光と闇があり、オーケストレーションと音響はがんがんで、黙っていても神さんはそこに顕現しそうな勢いで吹いてくるので、圧倒されてしまう。
ありがたやありがたや、にはならないけど、そこに頑としてある聖性、のようなものははっきりと伝わってくる。

迷えるErnestoを演じたSergio Castellittoさんがすばらしくて、BFIで配布されたプリントには彼のコメントが載っている。最初はGeneralなアウトラインしかなくてどう演じたものかだったのだが、監督と対話を重ねてあそこまで行ったのだと。 ヴァチカンからのお告げのシーンは「受胎告知」として受けとめるように演じた、って。

[film] Sicario: Day of the Soldado (2018)

7月22日、日曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。 英国でのタイトルは“Sicario 2: Soldado”。
1の方は見ていなくて、でも予告がなんかかっこよかったのと、レビューもよかったから行ってみた。1を見ていなくてもだいじょうぶだったと思う。たぶん。

米国 - メキシコ国境の国境越え不法移民摘発の現場で自爆テロがあって、さらにカンサスのスーパーでも同様の自爆テロが起こって、背景にメキシコのドラッグカルテル間の抗争があると見た米国政府 - CIAは特命チームのMatt Graver (Josh Brolin)に声を掛け、彼はコロンビアにいたAlejandro (Benicio del Toro) をチームに呼び寄せる。

彼らの計画は抗争しているライバル組織の片方の親分の娘Isabela (Isabela Moner) - めちゃくちゃ気が強い - を誘拐して双方でどんぱちを誘発して自滅させるというもので、誘拐自体はうまくいって米国側にIsabela を運んで、これも自演で救出した彼女を敵側の縄張りを通って帰すところでまるごと一網打尽にしようとするのだが、護送する途中で護衛を頼んだメキシコ警察が突然襲ってきてAlejandroとIsabelaは砂漠に放り出されてしまう。 メキシコ警察との間でやばいことになるのを避けたい米国政府はこれ以上本件に関与することを禁じてしまったので、メキシコにとり残されたふたりはどうなっちゃうのか。

ていうのに、国境越えの移民移送をアメリカ側で手引きするブローカー組織に誘われて腕を試されようとしているメキシコ系青年Miguel (Elijah Rodriguez)の成長とか葛藤とかが絡んでくるの。

Josh BrolinとBenicio del Toroのしぶとい凶犬の面構えが並んでいる時点でTomとかDanielとかJeremyとかMattとかが出てくるような世界を救え系のではなくて、どいつもこいつも汚れた世界に足つっこんでる西部劇みたいのかと思って、でもそれよりは街中ではなく国境を跨いだ、というより国境を無化するふうに - 空撮のかっこいいこと - 成り立ったギャング映画なのかも、と思った。

どれだけ空から偵察して確認してもどこが国境なのか安全圏なのかも、誰が敵味方なのかもわからず、銃器だけはいくらでもあって、そこで取り引きされるのは金でもドラッグでもなく、人 - 若者たち - であるような、そんなギャング同士の抗争。 これ、泥沼というより底なしで、なぜって金とかドラッグ起因は良い悪いが明確にわかるけど、人になっちゃうとそうはいかないから。
(いまの日本政府がくそなのはそういうことなの、ここのギャングのやってることと同じくだんない抗争のための動員なの)

あのBenicio del Toroにはびっくりしたわ。(見ればわかる)

シリーズとしてはまだ続きそうだねえ。

8.04.2018

[film] La balia (1999)

7月19日、木曜日の晩、BFIのMarco Bellocchio特集で見ました。英語題は”The Nanny”。 原作はピランデルロの短編だという(未読)。 これ、めちゃくちゃおもしろかった。

20世紀の初め、イタリアの田舎で裕福な精神科医のProf. Mori (Fabrizio Bentivoglio)は患者に共同生活をさせる型の療養院(?患者は女性ばかり)のようなのをやっていて、妻のVittoria (Valeria Bruni Tedeschi)は身重で、お産でひどく苦しんだ後になんとか産むことはできたのだが、その後で赤ん坊がお乳を呑んでくれなくなった、とやつれた顔でいう。

夫は乳母を探すべく村にでて、お乳が出る女性(とその乳) - “wet nurse”ていうのね - を全員横に並べて、以前街角で見かけた気がしたAnnetta (Maya Sansa)を指名する。今彼女が育てている彼女の赤ん坊の養育は諦めてこちらに来て貰うことになるがいいか、という条件で、彼女がいいと言ったのでAnnettaはMori邸に住みこみの乳母としてやってくる。

Prof. Moriは静かで患者の痛みとかを全く理解しないようなタイプの医者で、Annettaは無口で表情もあまり変えなくて、夫は政治活動で投獄されていて、夫は獄中から手紙を寄越すけれども彼女は読み書きができなくて、ある日彼女はProf. Moriに授乳の空いた時間に読み書きを教えてほしい、と懇願する。

映画は自分と赤ん坊の間に乳母を迎えることになったVittoriaと周囲の微妙な緊張とか、Prof. Moriの病院で過ごすいろんな患者たちの様子とか、デモや暴動で騒がしくなっていく村の様子などなどを追いながら、Prof. Moriに読み書きを習い始めたAnnettaとそれをきっかけにだんだん親密になっていくふたりの日々を追っていく。

裕福な階級のお金持ちだから許される乳母を持つこと、そこに雇われてそこ(権力者)の赤ん坊にミルクを与えて育てること、その外ではそういったことも睨んだ未来に向けての闘争や暴動が繰り広げられていたり、若い医者と患者がいつの間にか恋に落ちていたり、邸宅と病院、村の間でいろいろ起こりそうな空気があるのだが、Prof. Moriに読み書きを教えて貰ってたどたどしく文字を書き始めたAnnettaはとても嬉しそうで、外部との境界線上で緊張感を孕みつつもその内側でふわふわと育ったり温められたりしているなにか – なまもの - がある、というおもしろさ、スリル、滑稽さ(?)。

その柔らかな緊張を野蛮な革命や暴動が切り裂くのでもなく、不機嫌なVittoriaや患者たちがぶち壊してしまうのでもなく、その境界を感知しない内側で何かがゆっくりと動めいて育っていく、そのよく見えない不穏な動きとか気配のぞくぞくとかぞわぞわ – 狂った向こう側のひとにしか感知できない、でもまだぎりぎり狂気には至らない - にこそ何かがあるんだから、って、これピランデルロの世界だよねえ。

切り取られた画面がどれも絵画のように美しくて、赤ん坊を抱いてりゃ聖母なんとかになっちゃうのかよ、とか最初は思っていたのだが、ただ単に町中とか通りとか部屋の調度とか、あと中心にいる3人の顔とか、がみんな古典の、クラシックの光と影を持っているのだった。だからなんだよ? なんだけどイタリアとしか言いようがない美があるねえ、って。

『カオス・シチリア物語』(1984) - もう一回みたくなった。

8.02.2018

[film] Gli occhi, la bocca (1982)

7月14日、土曜日の夕方、BFIで見ました。英語題は”The Eyes, The Mouth”。

BFIでは7月に”Satire and Morality – The Cinema of Marco Bellocchio”ていうMarco Bellocchioの回顧特集上映があって、監督本人もトークで来たりしていたのだがぜんぜん行けなくて、終わりの方の数本を見れただけだった。 そしてものすごく後悔している。おもしろいのが多すぎる。

ボローニャの街に俳優のGiovanni (Lou Castel)が降りたって、ぜんぜん帰りたくなさそうに実家に戻ると双子の弟が棺桶に冷たく横たわっていて、こめかみには銃弾の跡があって、自殺したのだと。(80年代初の大晦日、花火があがる中、自殺しちゃう若者が出てくるイタリア映画、確かあったよね)

その理由や背景を探るというより、後に遺されたGiovanniとか母(Emmanuelle Riva)とかおじ(Michel Piccoli)がどんなふうに死を受けとめて変わったのか/変わっていくのかと、婚約者だったWanda (Ángela Molina)のあまり悲しんでいないふうだったところが気になったGiovanniは彼女と過ごしていくうちに親密になってしまったりとか。それって不謹慎とか言うのかどうなのか、それを言うなら突然命を絶ってしまったあいつの方だろふざけんな、などなど。

『ポケットの中の握り拳』(1965) - (実は見てない)に続いて家族の中心の主人公にLou Castelを置いたことについて、Marco Bellocchio自身がミスキャストだったと語っていたり、彼の双子の兄弟も68年に自殺していることなどを考えると、簡単に括ってしまうことができない作品なのだと思うが、自殺しようが生き返ろうが、遺されたものはのこって、遺された彼らの行動や言動、表情(目と口)がどんな歪な形や軌跡を描くにせよ、少なくとも家族というものが消滅することはない。 そんなふうに変容しながらもそこに遺っていく家族のありようがやや過剰に表現されたのがこの作品なのではないか。

というのと、これはそれぞれの置かれた場所で強烈な輪郭を見せる俳優たちの映画でもあって、終始でっかい音をたてまくって睨んでくるLou Castelにしても、その反対側で消え入りそうな – でも絶対に消えない聖母の柔らかさで立ちつくしているEmmanuelle Rivaにしても、更にその反対側で不敵に笑っているÁngela Molinaにしても、みんなあまりに強くて濃い。双子の片割れからすれば - 自身の半身が失われ、母からすれば子供たちの半分がいなくなっても彼らが凝視して食いしばる世界は頑としてそこにあって対峙しているかのよう。なんでだろ? 

それを、間違っても家族ばんざいとか、だから家族ってすばらしい、にするのではなく、この逃げても振り切ってもどこまでもしつこくまとわりついてくるやつ(ら)、なんなの? って何度も何度も問いかけてくるの。

家族内のミクロな諍いや瓦解がそのなかにどのような波紋を投げて揺らして、それでも彼らを家族の規範とか規律のなかに留めているものがあるのだとしたら、それって何なのか。そこにこそ社会が社会として維持される秘密や神秘もあって、同時にそれを転覆したり変異させたりする可能性も見えたりするのかもしれないけど、でもそれにしても …  みたいな革命への野望とその足下の泥沼を並列させる目線がおもしろくて、これ以外で今回見たBellocchio作品でも主人公は医者だったり画家だったり映画監督だったり、彼らは社会的には成功していて「全体」を見れる立場にいる人達なのに実際にはいろいろあってぼろぼろで死んでたりして、なにやってるの? だったり。

ていうようなことが、今回の特集でひとつひとつを見ていくとわかってきて、ひとりの作家を追いかけるおもしろさがしみじみわかって、よかった。

ところで、リビングで子供たちが見ていた日本語のアニメ、あれなんだろ?(「xxx提督!」とか言ってた)

8.01.2018

[film] The Last Days of Disco (1998)

6月20日、金曜日の晩、SOHOのCurzonで見ました。あまり見れなくなった割と最近の作品を35mmで上映する企画。公開から20周年記念(ひー)でもあり、上映後にWhit Stillmanのトーク付き。

80年代初のNYで、大学を出て出版社で働き始めたふたり - Charlotte (Kate Beckinsale)とAlice (Chloë Sevigny) - の仕事からアパート暮らし(railroad apartment!)から今後のキャリアから男友達いろいろから、それらをなんとかする/できるかもしれないソーシャルな場としてあったDiscoを中心とした日々(The Last Days)を描く。

お日さまが出ているときの生活、沈んでからの生活、昼の街に夜の街、それらを渡っていくのは親友というほど親しくもなく嗜好も性格も違っていて当然のふたりの会話で、それに引き寄せられるようにいろんな種類の男共が虫のように寄ってきてはぐるぐる回ってどこかに消えて、そんな男共はたいてい会話も見かけもぱっとしないかろくなもんじゃなくて、彼女たちは女王だからどうとでもできて、それらがDiscoミュージックと共にスイングしながら右から左に流れていくさまを見るのはかっこよくて痛快でたまんない。

もちろん現実にはうまくいかないことの方が多いに決まっているのだが、そんなわかりきったことを描く必要なんてもちろんなくて、このふたりの会話とステップの軌道を追っているだけでおっそろしく洒落た(Shameやずっこけも含めた)都会のお話しができあがってしまう驚異。

とにかくKate BeckinsaleとChloë Sevignyの組合せがすばらしすぎておもしろすぎてずっと見ていて飽きない。

ノンストップで皿回しの号令のもと上げ下げされるばかりのクラブミュージックと共に「フロア」とか”BPM”とかマシーンに近いところでダンスが語られるようになったところで、場としてのDiscoは消滅して、ここにあったような夜の秘めやかでソーシャルなあれこれは中小機能別に再編されてサブカルとかオタクとかネットとかのほうにシフトした、と。

それをセックス(肉)と街という別の角度から(同じ80年代初のマインドでもって)取り戻そう(お喋りを再開しよう)としたのがSATCだったのではないかしら。

80年代初、東新宿のほうのDiscoとかには行ってて、確かに変なひとはいっぱいいたけど、ソーシャルとは程遠かったねえ。でっかい音で音楽聴いてご飯食べられるとこ、でしかなかった。

あと、35mmフィルムの質感、この映画ではたまんなかった。

Loew’s Jersey theatreで撮影していたのか。(Bright Eyesのライブで行ったことある)

Lutèceでランチを、っていう台詞がでてきた。LutèceってNYに着て最初に行ったフレンチレストランで、その時もランチだったけど、めちゃくちゃ緊張したのと、サーモンがとんでもなくすばらしくて、これまで食べていたフレンチはなんだったんだ、になったことを思いだした。

上映後の監督とのQ&Aはついこないだ掲載された↓以外の情報はあまりなかったが、Éric RohmerやWoody Allenと比較されることについて、よく言われるけど、でもちゃんと見て貰えばわかると思うけど、ぜんぜん違うからさ、とやや疲れ気味に語っていたのが印象的だった。

https://www.theguardian.com/film/2018/jul/10/how-we-made-the-last-days-of-disco-whit-stillman-kate-beckinsale

Love & Friendship (2016)

21日、土曜日の午後、前の晩とおなじとこで見ました。今度のは監督Whit Stillmanに加えてSir James Martin役のTom BennettとCharles Vernon役のJustin Edwardsがトークに参加、その後で原作本のサイン会もあった(けど、これは出ず)。

18世紀末の英国で、夫に先立たれたLady Susan Vernon (Kate Beckinsale)が一人娘のFredericaのためと自分のためにお金持ちの男を探してじたばた騒いで周囲から顰蹙を買いまくる、けど最終的にはどうにかなってしまうおめでたく幸せなお話しで。Jane Austenが書簡形式で綴った”Lady Susan” (1794)をWhit Stillman自身が緩めに翻案している。

見るのは2度目だったのだが、前の晩から続いたKate Beckinsale - Chloë Sevigny組の相性のすばらしさと、アメリカから眺めた英国の変てこさが(いま住んでいることで)よくわかる場面もあって、改めておもしろいところがいろいろ、だった。

上映後のトークではTom Bennettさんの演じるSir James Martinの英国臭がどれだけ効いたのか、とか十戒ならぬ十二戒のエピソードが生まれた背景事情とか、なかなか。

監督からは改めてKate Beckinsaleがいかにすばらしいかっていうのと、冒頭で登場人物の背景を字幕で説明するやり方が生んだ効果とかの話が。

[film] Mission: Impossible - Fallout (2018)

もう8月だなんて、今年はあと5ヶ月しかないなんてありえない。

7月28日の土曜日の午後、BFI IMAXで見ました。

これの公開にあわせて、ケーブルTVのSkyではTom Cruiseチャンネルを延々1ヶ月くらいやってて、いろいろ見れた。やっぱし”Minority Report” (2002)と”Vanilla Sky” (2001) が好きかなあ。(どっちもTomの顔が崩れるやつだね)

MIの6作目で、監督は5作目 - “Mission: Impossible – Rogue Nation” (2015)のひとと同じ。
前作で捕まえた悪い奴 - Solomon Lane (Sean Harris) の残党がまだ世界中で悪いことしてて、今後はプルトニウム3球転がしてやばいことしようとしているので、Ethan Hunt (Tom Cruise) - 何とかしたまえ、って。

で、今回はJeremy Rennerは(鬼ごっこが忙しかった?)いなくて、そいつはCIAの仕事ざんす、って言い張るおばさん(Angela Bassett)が連れてきたでっかい奴 August Walker (Henry Cavill)がEthanの横にいて、あとは前作にもいたIlsa (Rebecca Ferguson)が途中から割って入って、パリで暴れてロンドンで暴れて最後はカシミールの雪山での対決になるの。

前作– Rogue Nation (2015)って、ずーっと走り回って追っかけてばかりで捕まえたらぼかぼかやってまた逃げられて、の繰り返しで、追いかけまわすことがあんたのMissionなんか? ちがうやろ? とか少し言ってみたくなったりもしたのだが、今度のもずっと足とかバイクとかヘリとかでフィジカルでリニアな追っかけっこをしてて、テクを使ったひらけゴマの、いちかばちかのスリルがあんまないの。 Benji (Simon Pegg)もLuther (Ving Rhames)もどうせEthanがやるから、みたいな態度で脇で立ってる。 これで147分はなー。

あとMissionが大変ならMI6もCIAもみんな協力しろってば。 散々手柄の捕りあいみたいなことしといて最後はEthan、地球のためにがんばれー なんて虫がよすぎで、そのへん、James Bondのパターンとあんま変わんないかんじにもなっている。
こうして”Mission: Ethan Hunt”になればなるほど、Jackie Chanに衰えが見え始めた頃と同じ感覚を抱いてしまい、スタントのすごさばかりがクローズアップされるあたりもきついかも。

アメリカ合衆国の大統領はTrumpって設定なのかしら?  それでAlec Baldwinは…

ロンドンのシーンは場所が映画館から近いこともあってみんなざわざわしてた。でもSt. Paul’sの寺院のてっぺんから上を伝って(伝えないけど)Blackfriarsまでがーっと走り、鉄道の屋根を伝って川を渡って左に折れてTate Modernの塔のてっぺんまで、ってあの距離を全力疾走したらふつうに死ぬよね - うんうん、ってそういうざわざわ。

でも眠くはならなかったし退屈はしないから。