4.27.2024

[film] Sometimes I Think about Dying (2023)

4月19日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。上映後に監督のRachel Lambertと主演のDaisy RidleyのQ&Aつき。

オレゴンの小さな町の小さな会社 – なにをやっている会社なのかはわからず – で事務をしているFran (Daisy Ridley)がいて、出社するとすぐ机に座ってPCをONにして仕事にかかる。同僚への朝の挨拶もしているかしていないかくらい小さくて、職場でドーナツが出ても手をつけず、世間話にも興味がなくて、髪も適当のほぼすっぴんでPCに向かっているだけ。

という典型的に地味で最近の「ワークスペース」なんて呼び方とは程遠い殺伐としたアメリカの職場の描写が続いて、それだけでなんか嬉しくなってしまったので、以降、レビューとしてあんまちゃんとしたものになっていないかも。

パーティションが切ってあって、見たくない話したくないときは逃げることができて、窓から見える風景もどうでもよい殺風景なもので、少しケミカルの匂いがしてて、給茶コーナーではいつも誰かだらだらしていて、文具コーナーはいつも出しっぱなしで殺伐としてて、要は朝来て仕事をして夕方になったらばらばらと帰る、それだけの場所でしかなく、孤立しているというより別に誰とも仲良くなりたいと思わないしこのままずっと仲良くなくて構わないと思っているFranは”Sometimes I Think about Dying”で、窓から見えるクレーンで首を吊られたり、自動車事故にあったり、蛇に襲われたり、森のなかで横たわったまま虫にたかられていたり、といったことを夢想してうっとりする。自殺したい、というのとはまた別で(わかんないけどたぶん)、自分が打ち棄てられてそのまま朽ちていく - それが持続している状態でありたくて、それを別の自分が見つめて夢想する - 心理学的に説明できるなにかはあるのかもしれないが、その状態の解析や分解に向かうことはなく、Franの職場でのそういう状態 - 仕事というよりはSpreadsheetが好き、って言ってしまうとか、独り暮らしのアパートでレンジご飯を食べたらTVも見ずに22時には寝るとか - のそういう無風で無表情な状態と自分の死んだ姿が対置されていく。 自分も職場ではそういう妄想を30年以上続けているので賛同しかない(のでレビューとしては…)。

ある日、彼女の職場にRobert (Dave Merheje)というハゲの中年男が中途で入ってきて、人柄は悪くなさそうで危険なかんじもしない、彼がFranにチャットで事務のことなどを聞いてきたことをきっかけに少しFranの方から近寄ってみて、仕事の後に映画を見て食事をして、というのをやってみる。でも映画オタクっぽい彼とは何一つ嚙みあわず気まずいままで転がっていくだけで、翌日の彼は前より素っ気なくなっていて、でもここで引き下がったらこれまでと同じになってしまう、と思ったのかどうなのか、飛び降りるかんじで彼の家でのパーティに参加してみるのだが、でもやっぱり…(以降、既視感たっぷりというか、いたたまれないあのかんじの繰り返し)。

という、ふつうのラブストーリーのようなところに落ちる要素がまったくない地味な映画で、最後のほうでしょんぼりしたFranが退職したばかりの女性 - 職場の同僚だった頃は特に親しくもなく、彼女への寄せ書きを書くのも困ったくらい – と偶然再会して少し話してほんの少しだけ何かが… というお話し。

それだけで、映画としてはあまりにも地味すぎてなんもなくて - 厚めの音楽とタイトルの書体とかはちょっとゴージャスかも - こういう不愛想でどん詰まった主人公を描くのであれば同じくオレゴンを舞台にするKelly Reichardtみたいなやり方もあるのに、とか思わないでもない。のだが、Daisy Ridleyの演じるFranはSWのReyの1/10000も動いていないけど、たったひとりだけど、間違いなく一貫した像をつくってそこにいる。そこはよいと思った。

上映後のQ&Aはそんなにおもしろい話はなかったのだが、Franの死体にたかっていた虫たちは本物だったんだって。

4.25.2024

[film] L'ombre de Goya par Jean-Claude Carrière (2022)

4月16日、火曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。

英語題は”Goya, Carrière and the Ghost of Buñuel”。監督はBoschのドキュメンタリー”El Bosco. El jardín de lossueños” (2016)などを手掛けたJosé Luis López-Linares。

Jean-Claude Carrière (1931-2021)がスペインのGoyaの生家やゆかりの地を訪ねたり、プラド美術館の前で個々の作品の前に立ったりしながら、自分の作品に決定的な影響を与えた - のはもちろんだがそれ以上に幽霊として取り憑いて離れないGoyaの世界について語っていく。彼にはMilos Forman監督によるフィクション – “Goya's Ghosts” (2006)があったりするのだが、そこには触れずに初めて絵の前に立ったときの驚きと共にひとつひとつ。 最初の方で出てくるのがプラド美術館にある“The Threshing Ground or Summer” (1786) -『脱穀場』で、ここにどれだけ多様で雑多なものが描かれているか、いかに構図としてすばらしいものか、描かれている人たちが、その階級も含めてそこで生々しく生きているのか、向こう側の世界、過去に向けた親密な目とともに語って、その目線が表面から想像の世界にまで降りてくると、少しづつLuis Buñuelが顔を出すようになる。このドキュメンタリーにCarrière自身がWriterとして関わっているのでこの辺の組み立ては十分に狙ったものなのだろう。彼の他にCarlos SauraやJulian Schnabelもコメントしたりするが、彼らは別になくてもよいかんじ。

Goyaの個々の作品と掘ればいくらでも出てくるその深さ – 映画のポスターになっている肖像画“The Black Duchess” (1797)から展開していく「指」のおもしろいこと – などについて語りながら、実は自分自身(の作品)について語ってしまっている – 相手がGoyaのような巨匠に対してそれが許されるのは限られた人だと思うのだが、ここではすべての語りが単なる絵画の解説の域を越えて、すんなりとこちらに入ってくる。まるでGoya自身が何かを言わんとしているかのように。

Carrièreはこれを撮りながらおそらく自身の死を十分に意識していて、でも、だからこそ作品やその土地を前にして自分の言葉でGoyaが見ていた何かを語りたかったのだと思う。その相手、向かう対象が一緒に仕事をしていったBuñuelではなくGoyaだった、というのは、それ自体がCarrière/Buñuel ぽいというか。

今度マドリッドに行ったらあの教会には行かねば。


John Singer Sargent: Fashion & Swagger (2024)

4月16日、火曜日の晩、↑のの前にCurzon Bloomsburyで見ました。最初にGoyaのチケットを取って、その前になんかやっていないか見たらこれがあったので、この晩は美術のお勉強映画2本立てで。

日本でも見られるのどうかは不明だが、Exhibition On Screen (EOS)というシリーズがあって、話題の展覧会とか画家とかテーマを取りあげて、英国だと配信で£4.99とかで見ることができる(映画館だと£6.99だったか)。そのシリーズの1本で、ここでも感想を書いたTate Britainでやっている展覧会 – “Sargent and Fashion” – 昨年ボストン美術館では”Fashioned by Sargent”のタイトルで開催された - を取りあげたもの。Tateのはすごくよい展示だったのでまた行きたいと思っている。

内容としてはキュレーターやいろんな専門家が展示の内容に沿ってJohn Singer Sargentの足取りを説明していくもので、日曜美術館あたりとはやはりレベルがぜんぜん。

Sargantの絵に出てくる実在の人物 - 多くはスポンサーのお金持ちやセレブ – Swagger – こちらに向かって見得を切ってくる人々のポーズや表情、目線や指先の仕草の独特さ、ジェンダー(クイアー)アイデンティティ、そんな彼らひとりひとりの身体を覆う、その上に被さったり覆ったりする布や衣服の、ブラッシュ・ストロークの調味料の怪しさと不思議なかんじ – それがどんなふうにその人物の威厳や特別さ、ずっと残るその人の像を引きだすことに成功しているか、について、例えば写真家のTim Walkerが熱く語って、彼がTilda Swintonをモデルに撮ったポートレートなども参照される。

そして絵画の横に彼らが纏っていた衣装(のほんもの、それに近いもの)が並べられることで、その魔法の効力と不思議さを改めて思い知ることになるの。画家以前のスタイリングやコーディネーションのようなところで、既にとんでもなく見る、というより引き出す力があったのではないか、と。

制作当時にしては規格外でスキャンダラスに見えるものもあったみたいだけど、今見ると割とふつうに入ってきて、かっこよいったらないしー。

今週末はTate Modernで始まった”EXPRESSIONISTS KANDINSKY, MÜNTER AND THE BLUE RIDER”にいくんだー。

4.24.2024

[film] El sol del membrillo (1992)

4月17日、水曜日の晩、BFI SouthbankのVíctor Erice特集で見ました。

これはまだ見たことがなかった。英語題は”The Quince Tree Sun”、米国でのタイトルは”Dream of Light”、邦題は『マルメロの陽光』。1992年のカンヌで審査員賞と国際映画批評家連盟(FIPRESCI)賞を受賞している。

どうでもいいけど、QuinceはQuinceってかんじで、「マルメロ」ってなんか違う気がするんだけど(ポルトガル語由来か)。「かりん」の方はなんかわかる。

Ericeが”El sur” (1983)に続けて撮った3本目の長編作で、138分のドキュメンタリー。

マドリッドの画家Antonio López García (1936-)が改築中(?)の自宅に入って木枠からカンバスを作り、一本のQuinceの木の前にイーゼルとカンバスを据えて、自分の足の置き位置にも釘でマークをして、重しを吊るして中心線を決めて、Quinceの実にも縦横の白い線を引いて、自分がこれから描く、描こうとする世界を固定 – することはできないので、基準線を沢山引いて、時間の経過と共に変わっていく世界 - 果実は熟して重くなって下方におりてくるし、差し込む陽の角度は冬に向かって傾いていく – に備えている。雨が降り出すと木の周りにビニールの囲いを作ってその中で作業をするが、激しい雨風にはどうすることもできない。

ものすごく厳格な料理人のような、修行僧のようなきっちりタフな作業をしていくのかというと、そんなでもなくて、ラジカセから音楽を流したり、友達ととりとめないことを話したりしながら描いていく。家の改装で壁を壊したりしている3人の大工さん達と同じような緩さと風通しで日々の時間が流れていく - 日付やその経過は字幕で表示される。

こんなふうに創作の過程を追っていくことで、Antonio López Garcíaの絵画観や創作の秘密を明らかにする、というよりは”The Spirit of the Beehive” (1973)の父親がやっていた養蜂や、”El sur”の父親がやっていたに水当て、のような仕事との相似を描いているような。 相対するのは自然物で、その背後にはよくわからない法則や原理がありそうだが、とにかく変わりやすく絶えず動いていくので思うようにはならなくて、その断面を捕まえるしかない。絵は途中まで油彩で、途中からデッサンに変わって細密で正確であろうとすることに変わりないものの、写真ともハイパーリアリズムのそれとも異なる、「絵」としか言いようのない表象が現れる - でも完成形がこれ、というのは示されない。 そこでは目を見開いて捉える、と同時に「目を閉じる」ことも必要で – 目を閉じることについては”The Spirit of the Beehive”にも”El sur”にも言及があって、Ericeの最新長編作ではタイトルにまでなってしまった。- 目を閉じてみること。

職人的な技巧や時間をかけなければ到達できない境地 や成果 – Ericeの映画もそのひとつかも - についての映画ではなくて、目を開いて見つめること – 目を閉じること、その間に現れる世界のありようを捕まえる、その作法についての映画なのではないか。彼の最初のふたつの長編ではそれを担っていたのは「父親」だったわけだが…

彼の作業と並行して同じく画家である妻のMaría Morenoの作業 - ベッドに横たわるAntonio Lópezをモデルとした絵が描かれているところ、とか彼の家の周囲、マドリッドの住宅街の夜景 – TV画面がぼんやり光っていたり – が映しだされて、どれもシンプルに美しい。いろんな人が出てきていろんなことを喋ったりで楽しくて、138分あっという間なのだが、全体に漂うぽつん、とひとりであるかんじ、はなんなのだろう? ってずっと思っている。

3月の頭にマドリッドに行った時にMuseo Nacional Thyssen-Bornemiszaで見たIsabel Quintanillaの回顧展(すばらしかった。まだやっているので近くの人はぜひ)では、彼女の夫の彫刻家Francisco Lópezの作品の他に、この映画に出てきたMaría Morenoの絵も、モデルとしてポーズをとるAntonio Lópezの(Isabel Quintanillaによる)絵もあったりしたのだが、彼らに共通していると思われる対象 - 静物、家具、壁、家の周り、景色とそれを絵のなかに置く置き方、などがどういう背景(土地、はあるの?)や意識のなかで生まれてきたのか – そこでしばしば対照されるVilhelm Hammershøiの絵画とか。スペイン内戦(の記憶)、はそこにどんなふうに絡まっているのかいないのか、など。

日本は湿気があるので難しいのだが、果物がゆっくりと朽ちて黒ずんで形が壊れていくさまって、こちらではよく目にして、それが妙に美しかったりするので困ったもんよね。(だからといって食べ物は粗末にしないように)

[theatre] Opening Night

4月15日、月曜日の晩、Gielgud Theatreで見ました。

原作はJohn Cassavetesの同名映画(1977)、演出はIvo van Hove、ミュージカルの楽曲はRufus Wainwright、と自分の好きなのが三つ揃いだったのでこれは行かねば、と楽しみにしていたら予定より早く打ち切りの話が出てきたので、やや慌ててチケット取った。

映画の”Opening Night”は大好きで(でも”Love Streams”(1984)のがもっと好き)、昨年7月のイメージ・フォーラムの特集でも見ているのだが、結論からいうと、映画とは別ものとして見た方がよいのかも、とふつうに思った。映画版のどっちに転ぶのか、何がどこでどう破綻してしまうのかの緊張感、そのこんがらがった組まれよう– Opening Nightに向かって冷たく固化していくかのようなそれが、映画と舞台とでは、さらに舞台劇でもミュージカルとなると、薄まるとこ濃くみえるとこ、違ってくるのは当然だと思うし。

映画版でGena Rowlandsの演じた、疲れていろんな妄想や過去のあれこれに怯えて頑迷に閉じこもりシャッターを下ろそうとする、自分の役柄にどうしてもコネクトできない主演女優Myrtleの存在感、その輪郭の強さは圧倒的で、彼女は演技だろうがなんだろうが… って居直るかのようにくっきりとそこにいたのだが、そういう状態にある人がミュージカルで歌って - ミュージカル的な輪を作ってそこに入ろう、入ってもらおうと思うだろうか? (”A Woman Under the Influence” (1974) -『こわれゆく女』で彼女が歌うシーンはあったけど、あんなふうに凍りつくかんじになっちゃうのではないか)

舞台は左手にフルバンド(9人くらい?)がいて、真ん中にあるのは枠の外れたリハーサルルームで、カメラを抱えた撮影クルーが俳優たちの動きを追って、その様子がリアルタイムで正面のプロジェクターに映しだされる(劇場の外に出たり、頭上からのアングルのもたまに入ってきて、これらは録画かも)、といういつものIvo van Hove仕様 – すべては地続きで逃げ場なんてどこにもないのだ、という。

舞台版のMyrtle (Sheridan Smith)は、外見は – その笑顔も含めてなんかかわいらしいかんじで、Gena Rowlandsの超然とした大女優のオーラと磁場はなく、どちらかというといろいろ気をまわし過ぎて疲れて壊れちゃったのかな、という程度で、彼女に憑りつく亡霊のNancy (Shira Haas)も演出家のManny (Hadley Fraser)もプロデューサーのDavid (John Marquez)もMyrtleの元カレで共演男優Maurice (Benjamin Walker)も、全員が爬虫類か化石のように冷たく頑固でとんちきだった映画版に比べるとまだリテラシーがあるというか、彼女なら立ち直ってくれるのでは、というやや暖かめでポジティブな空気のなかにいる。

公演初日に向けたリハーサルとその苦難の旅を秒読みで追っていく舞台、というとこないだ見た舞台 - ”The Motive and The Cue”が思い浮かんで、これは演出家と主演男優のふたりが演劇とは?演技とは?という根源的な問いのまわりをぐるぐる掘っていこうとするものだったが、こっちにはそういうのがなく、鍵となるMyrtleの苦悩や挙動についても、そもそもなんで? が十分に描かれていないので、あーやっちゃったよ… と だいじょうぶ、やれるはず! の間のどたばたとその繰り返しで終わってしまう。それはそれでスリリングだからよい、という見方もあるのだろうが。

で、でも、それを救うというか補うのがRufusの音楽で、バンドサウンドだからか、”Want One” (2003)~ ”Want Two”(2004)の頃のファットで暖かめの音と歌 – これの次の“Release the Stars” (2007)ほどぎらぎらしない - が見事に鳴る。基本のストーリーラインはどん底からの復活、だと思うのだがそこに感動的にはまってしまうよい曲ばかりで – “Opening Night”ってそういうドラマだったっけ? はあるとしても。

帰り、劇場の通路から出口に向かうところにRufusがいたの。最初は人違いじゃないかと思ったけど、何度も彼のライブは見ているし、他の人もあっ、て言ったりしていたので彼だと思う。とっととそのうさんくさい髭を剃って、今回の曲も含めたバンドでのライブをやってほしい。

そういえばRufusがカバーした”Perfect Days”、すごくよかったよねー。

4.22.2024

[film] Eno (2024)

4月20日、土曜日の晩、Barbican Centreで見ました。

この日はRecord Store Day 2024だったので朝早く起きようと思っていたのに起きて立ちあがったらよろけてクローゼットの扉に激突して流血はしなかったもののでっかいたんこぶを作り、半分やるきを失って、Rough Trade Eastに8:30に着いたらとんでもない行列だったので1時間並んで諦めて(昔は6:00に来ていたことを思いだした)、他にもついてないことまみれのしょんぼりだったのだが、晩のこれで救われた。

Brian EnoのドキュメンタリーのUKプレミアで、上映後にEnoと映画関係者とのQ&Aがある。

Barbicanに着いたところで会場に入るEnoさんを見たり(偶然)、有名な人もいっぱい来ていたようで確認できたところだと斜め後ろにPeter Gabriel氏がいて、だれにでもすぐわかる(キリンみたいだから)Thurston Mooreとかも。

監督はGary Hustwit – Dieter Ramsのドキュメンタリー”Rams” (2017)の音楽をEnoが担当してからの付きあいだそう。

上映前のイントロで、上映時間は約1時間半だが、これはGenerative Art作品なので今後同じバージョンのものが上映されることはない、と言われる。?? になるのだが100時間以上のEno自身の発言や関連するインタビューやライブやイベントのフッテージ映像、彼の作品をAIに読みこませてあって、それらをAIがランダム(ではないことが後でわかる)にジェネレートして見せてくれる、と。

で、このアーキテクチャを構築したBrendan Dawesと監督がスクリーンの前にあるなんかの機械(上映後のトークによると、ストックホルムの若者に作ってもらったそう、Sandanceでの上映時にはまだラップトップだったって)の起動ボタンを押して映画がはじまる。

というわけなので、このバージョンについて感想を書いても、これと同じバージョンのものが上映される可能性がそんなにないのだとしたら、どうしたものかー になる。(一般公開時にどうするか/どうやるかについてはまだ検討中、とのこと) 

こうして、池や川のある自宅近くを散策しながら寛いでいろんなことを話すEno、アートスクールの頃からRoxyに入って音楽活動を始めた頃から、Bowieとの共作のこと、80年代に過ごしたNYでのこと、Omnichord1台で作ったApolloの音楽のこと、などのクリップなんかが出てきて、場面が切り替わる時にはスクリプト画面が出てうにゃうにゃやっているので、なんかをGenerativeしているのだわ、というのはわかる。

上映後のトークで、クロノロジカルに纏められたドキュメンタリーは嫌いだしそういうのは作るつもりもなかった、そうで、時代は昔にいったり現代に来たりを散漫に(でもないのだが)繰り返していく。映像の中にも出てくるEnoとPeter Schmidtが1975年に作ったカード作品”Oblique Strategies” - カードを一枚ひくとインストラクションが出る – と同じように何が出てくるかはその時にならないとわからない。 今回の上映会の様子もどこかのタイミングでマテリアルとして加えられ、いつか上映されるかもしれない、など。

個々の中味についてあれこれ言ってもしょうがないのかも知れないが、ひとつだけ、”Discreet Music” (1975) の話から入って、EnoがBowie(の声)について語り、BowieがEnoについて語るところ – Enoってなにをやっているのかよくわからないんだ..とか - のところはなるほどなー、ってものすごく腑に落ちた。あと、客観的に見て- というのが「ない」ことは承知の上で、やはりRoxy MusicとFripp & EnoとCluster & Enoのところ、彼がプロデュースしたいろんなバンドたちについては余りに触れられていなさすぎではなかろうか、とか。あと、先のBowieのコメントの他ではEnoの活動について第三者が何かを述べたり位置づけしたり、ということはしていない。あくまでEnoによるEnoの総括が主 - “Taking Tiger Mountain (By Strategy)”のジャケットみたいな。

あと、あのラスト(だけ?)は決めてあったのではないか、と。

これを従来のドキュメンタリー映画作品と同列に並べて見てよいものか、については議論があるところだろうし、すべきだと思うけど、アート作品(or アートについてのアート作品)として、おもしろいことは確か。対象がEnoだから、というのはあるのだろうが。どうせだから見る側で上映時間の長さまで指定できればよいのに。3時間版とか。- できるはず。

上映後のQ&Aというよりトークがものすごくおもしろかった。

Eno自身からGenerative Artをつくっていく4つのステップが紹介され、これは技術的なるところも含めてこういうものであるとして、それでは従来の映画のEditorはいったい何をすることになるのか? - トークに参加していたEditorの人によると、コントロールフリークであるべき編集の仕事からするとものすごく難しく大変な作業だった、と。作業の流れとしては素材をある塊りで編集して、それをカテゴライズして食べさせて、ロードマップとかストーリーラインのようなものを作って食べさせて、AIとの間でそのやりとりや調整を何度も繰り返し、それでもアウトプットがどうなるのかの予測はつかない、と。

Enoが強調していたのは、すべてをAIのアルゴリズムに委ねてしまうことの脅威と危険性で、なぜならいまの世に出ているアルゴリズムの殆どはMuskとかZuckerbergのようなお金を儲けたい白人男性のために作られている - ソーシャルメディア上のComplexityは分断を作りやすく、分断(差別化)はお金を生むから。そうではなく、ComplexityからSimplicityの方に向かうストーリーを考えていかなければいけないのだ、と。(個人的にはSimplicityにもいろいろあるし、軽く潰されやすいので注意が必要だとは思うけど) ここは本当にそう - 勝手に埋め込まれているAIの怖さ - なんだよ、旧Twitterのいまの気持ちわるさを見てみ。

(アルゴリズムの白人男性優先バイアスについてはドキュメンタリー “Coded Bias” (2020)がわかりやすい)

2018年にBritish Libraryで行われた彼のレクチャー”Music for Installations”の時のメモを見ると、この時点で彼はすでにSimplicityとComplexityの話をしているのね。今回のドキュメンタリー用のネタでもなんでもなく。その時にも思ったけど、この人の自分でおもしろがって多少わからなくてもまず始めてしまうところも含めて、アーティストとしても教育者としても本当に理想の動きのできるひとだなあ、って。

この映画と一緒にツアーしてくれないかしらん。

[film] El espíritu de la colmena (1973)

4月13日、土曜日の夕方、BFI SouthbankのVíctor Erice特集で見ました。

BFI Southbankの一番大きいシアター、NFT1が改修工事でしばらくクローズになっいて、4つあるシアターが3つになり、その影響なのか4月からの特集プログラムが取りにくくて困る。これも直前までSold out印がついていた。

英語題は”The Spirit of the Beehive”、邦題は『ミツバチのささやき』。 日本の公開時にシネ・ヴィヴァンで見て、最初にDVD化された時にもすぐ買って、でもなんかもったいなくて開封してない。

Víctor Ericeのデビュー作で、これはものすごい1本で、どうものすごいかと言うと、デビュー作にその作家のすべてが込められているというのが本当だとしたら、ここには彼が映画を通して語ろうと思った何かが、子供が目の前に広がる世界まるごとを - その誤解も妄信も畏れも込みで - 飲みこもうとするかのようにぜんぶフィルムの上に広げられているから。ミツバチの群れが女王蜂のためだろうがなんだろうが、とにかく花に押し寄せて輝ける花粉の粒をかっさらってくる勢いで箱の中を蜜の光で満たそうとしているかのようで、実際にそうなっていると思うから。

学校に通うまだ小さな姉妹がいて、養蜂をしている父と母と古い家に住んでいて、村に巡回の映画がやってきて、それはフランケンシュタインの映画で、平原が広がって遠くには打ち捨てられた小屋があって、線路があって列車が走っていて、手紙のやりとりがあって、まだ内戦は続いているらしく、大人の世界は子供にはわからないことばかりできょとんとしている。

姉妹ふたりにとっての世界の謎が解きほぐされるわけではなく、そういうものだから、と放置されてしまうわけでもなく、どこからか現れるフランケンシュタイン - まだ恐怖の対象とはなっていない - のような、精霊のようななにかはいるのだ、と目を閉じてごらん、と父は言う。あれだけ果てしない原っぱや、伸びていく線路や、世界の広がりを見せておいて…


El sur (1983)

4月14日、日曜日の晩、BFI Southbankの同じVíctor Erice特集で見ました。原作はスペインのAdelaida García Moralesの短編小説。

↑のデビュー作から10年後に発表された長編2作目。 10年かけるのかー という驚きと、これなら10年かかるかも、という納得がぐるぐる果てのない追いかけっこをして、それはリリースから40年経ったいまでも変わらず。

今回、暗がりを抜けようとしている淡い光のなかに浮かびあがる娘はひとり、前作より少し大きくなり初聖体拝領式のお祝いを前にして、そのために南の方から祖母と父の乳母がやってくる。前作で姉妹たちの目の前に映し出されていたいろんな世界とその謎は、少女の父の - 自分の生まれる前も含めた父のよくわからない過去や水源を見つけだす不思議な能力にも向けられ、その多様なカケラたちと現在を結ぼうとする。

“El sur” - 南 - というのがその方角で、そこにも世界の中心はあり、冒頭で少女Estrellaが父の失踪を知る際も、父が頑なに語ろうとしない過去のその根っこにあるのも、祖母たちがやってくるのも「南」で、そこに行けば過去も含めてすべての謎は解かれて明らかになるのか、そうはならないだろうと思いつつも、自分の知らない土地とそこに(そこでも)流れていた時間に思いは飛んでいって止まらない。自分の大好きな人たちが過ごした土地で、かつて何があったのか? それを知ったら自分には何が起こるのか - 父を嫌いになったり、父は自分を嫌ったりするのだろうか?

どこにでもありそうな家族の、父と娘の柔らかなありようを追いながら、歴史やしきたりのようなものが彼らにしたこと、するであろうことを我々の家族や土地の物語に敷衍できそうなところまで広げてみせる。魔法でもお伽噺でもなく、そうやって動いて、たまにダンスしたりしつつ生きられてきた近代の家族の物語として。

前作に続いてここでも映画は小さくない役割をして、フランケンシュタインが、アナの目の前に現れてみせたように、今度は父親が、スクリーンに現れる女優 - Irene Rios(Aurore Clément)の方に向かって - 映画の世界に消えていってしまうかのような動きを見せる、というのと成長したEstrellaと父との再会に繋ぐことで時間を飛びこえる装置としても機能しているようで、だからこんなふうに。

だからこんなふうに映画はあるし、世界もまた、と。
Víctor Ericeが地面を歩いて水のありかを教えてくれるのを驚嘆の目で見つめるしかないのだった。

4.19.2024

[film] Back to Black (2024)

4月13日、土曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。

Amy Winehouseの評伝ドラマで、彼女については既にドキュメンタリーの”Amy” (2015)とBBCが制作したドキュメンタリー”Amy Winehouse: Back to Black” (2018)もある – どちらも未見 - のだが、こちらはSam Taylor-Johnsonの監督によるドラマ。音楽はNick CaveとWarren Ellis。

冒頭、Amy Winehouse (Marisa Abela)が懸命に走っている姿を少し上から捉えて併走していくショットがあって、最後の方でも反復されるこのがむしゃらで懸命な姿がずっと残る。

Amy Winehouse (1983-2011)については一般の人と同じ程度にしか知らない。彼女が登場した00年代の、特に後半の方は自分が英国音楽から一番遠ざかっていた頃かも。そういう人でも十分にわかる – 楽しめる内容になっている。映画は一部で酷評もあるみたいだけど、地元Camdenの住民からも当時の雰囲気はちゃんと出ている、の声はある、とGuardian紙は。

最初にユダヤ人の家族にいるAmyと彼女が大好きだった祖母のNan (Lesley Manville)と、やはり音楽が好きなタクシー運転手の父Mitch (Eddie Marsan)との関係が描かれて(母との関係は薄い)、歌手としてのデビューはあっさりさくさく進んで、成功もすぐそこにやってきて簡単なのだが、そんなことよりCamdenのパブでBlake Fielder-Civil (Jack O’Connell)と運命の出会いをする。ビリヤードをしていたBlakeがジュークボックスでShangri-Lasの”Leader of the Pack”をかけて口パクと振りでAmyを完全に虜にしてしまうシーン、その瞬間のすばらしいこと。

こうして怒涛の恋におちた二人だったが、Blakeには抜けられないexがいたし彼自身が薬中のちんぴらでいいかげんだし、Amyはそれに負けないアル中の暴れん坊の寂しがりだし、くっついては喧嘩して離れてまた… の繰り返しで、ようやくマイアミで結婚して間もなく彼はあっさり逮捕されて刑務所に入り、彼を信じて面会に通う彼女に離婚したい、と告げる。他にも祖母の死による悲しみが彼女を襲ったり、辛いことばかりが彼女を追いたてていくように見える。

Amyが音楽の世界でいかに、どうやって自分の世界をつくりあげ、その息づかいでのしあがっていったのか、その反対側で酒やドラッグがどれだけ危うい状態を掘り進めていってしまったのか、これらの陽と陰のコントラストのなかに浮かびあがらせる、というより父と祖母とBlakeのそれぞれの関係のなかでキスしてハグしてうんざりして喧嘩して、そういうのの繰り返しの背景というか、その状態のなかで呼吸するように、走り抜けるように彼女は曲を作って歌っていったのだ、という構成。

最期の一番辛そうなところ - 誰も見たくなさそうなところ - は描かれなくて、それでよいのだと思った。最近見た映画で思い浮かべたのは”Priscilla”(2023)で、ここでの歌手でアイコンは男性の方だったが、一途にひとりの男を思って家族をぶっちぎって走っていくその姿はなんだか似ていて、ところどころそっくりの画面もあったようなー。おばあちゃんがよい役割をするところとかも。音楽映画というよりは女性が走り抜ける恋愛映画、として見るのが正しいのかも。

誰がやったって似てない、って文句言われたり嫌われたりしておかしくない役柄をMarisa Abelaはとてもよくこなしていると思った。彼女の柔らかさとJack O’Connellの愚直な筋肉バカっぽい硬さと。 あとはNanaを演じたLesley Manvilleの見事なこと。彼女の役柄でそのまま1本映画を撮れそうなくらい。

挿入されるAmyの歌以外のスコアはNick CaveとWarren Ellisのふたりが楽器演奏も含めて全て自分たちで作っていて(プロデュースはGiles Martin)、エンディングで流れるNick Caveの新曲- "Song for Amy"はとんでもなく沁みてくる名曲 – Nick Caveってこういうのをやらせるとほんと天才 - なので、これを聴くためだけにシアターに行ってもよいの。


ところで明日はRecord Store Day 2024なのだが、どうしたものか、まだ悩んでいる。レコード買っても、まだ聴けないしなー。