11.14.2018

[film] Wildlife (2018)

11日の日曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。上映後にCarey MulliganさんとのQ&Aつき。

原作はRichard Fordの同名小説(1990)- 未読。これをPaul DanoとZoe Kazanが一緒に脚本にしてPaul Danoが監督したもの。映画製作は初めてとなる文芸オタクの二人が膝付きあわせて、どんな議論を重ねて練りあげていったのか目に浮かぶようだが、出来あがったものは微笑ましい、なんてところをはるかに越えたすばらしいものだった。

60年代、モンタナの一軒家にJeanette (Carey Mulligan)、Jerry (Jake Gyllenhaal)、彼らの息子で16歳になるJoe (Ed Oxenbould)が仲良く暮らしていたのだが、ある日突然Jerryが勤務先のカントリークラブをクビになって、後日それは勤務先の方のミスだったと言ってくるのだがプライドを傷つけられたJerryに戻るつもりはなく、失業状態となった彼は家や車のなかでぼーっとしていることが多くなる。 Jeanetteとの関係も危ういかんじになってきたところで、Jerryは頻発している山火事の消防隊の支援に手を挙げて、ひとり山奥の方に消えてしまう。

Jeanetteはパニックを起こしつつも仕事を探さなきゃと、どうにか地元のスイミングスクールのトレイナーの職を得て、親子の生活を立て直していくのだが、スイミングスクールに来た生徒として知り合った年寄りでそこそこ金もあるWarren Miller (Bill Camp) に吸い寄せられるように近づいて親しくなっていく。

というような、ついこの間までみんな幸せだったのに突然なんで? と目の前に迫ってくる山火事を見ているかのような光景(実際に彼が間近にそれを見るシーンがある)が多感なJoeの目を直撃し、ママのところにやってくるやらしそうなMillerやMillarとの密会に向かうママ、彼女の外観や挙動が荒んでいくのを信じられない思いで見つめ、彼は学校よりも町の写真館でのバイトに精を出すようになったころに、Jerryが山から戻ってくる。

少しやつれたJerryの目、突然消えた夫に対するJeanetteの憎悪の目、元に戻すことができない山火事になることは目に見えているのに、Joeの目はふたりをはらはら見つめるしかなくて、でもここから先の展開とラストの切り取りかたがとてもよいの。 あのラストはねえ、思いだしただけで身もだえするくらい素敵で、ここだけのために何回でも見たい。

激しいシーンはあまりなくて静かでスローで、モンタナの山を眺めつつ遠くに汽笛が聞こえたりバス停に散りはじめる雪の見事なこと、色彩や構図はEdward Hopperの絵画で、アメリカの60年代の田舎だからこそ描けたような情景、あるいは“Little Miss Sunshine” (2006)で言葉を失ってしまった男の子を演じたPaul Danoだからこそ描けた家族のドラマ、この映画については繊細すぎるくらい繊細に考え抜かれたディテールがすばらしく、だから全体を通して一回だけ口にされる”Wildlife”という言葉も活きてくるのだと思った。

ぜんぜん関係ないけど、山火事が出てくるせいか成瀬の『山の音』を思いだしたりした。成瀬のメロドラマにある、こまこまどこかしら狂っていて戻ってこれなくなる怖さと切なさ、あるかも。

上映後のCarey MulliganさんとのQ&Aは、ひとりの女優としてJeanetteのような女性をどう演じ、彼女の挙動についてどう思ったか、というところに集中して、それに対する彼女の答えもとても納得いくものだった。突然愛する夫が失業して家を出て行ってしまったとき、混沌と共にショック状態がくるのは当然で、そこでまずしなきゃいけないのは子供を守ってその食い扶持を確保することなので、彼女が取った行動に特別おかしなところはなくて(実際に母親になって – もうじき次のも、って - わかったところもある)、少なくともそういう状態をもたらした男の側がそっちの論理であれこれ判定したりするのはおかしいと思う、というようなことを実際にはこれよりずっと長く喋っていて、彼女も相当考えながら役作りをしていったことは明らかで、そういえば彼女のこれまでの作品も理知的な眼差しと獰猛な眼差し、その隙間に現れる羞恥の間を微細に揺れ動いていくスリルに満ちた、そういうものだったねえ、と思った。

Paul Danoはこのまま映画監督になっちゃうのかしら?  俳優としての彼が演じてきた変てこなキャラが好きだったので、そっちも続けてほしいのだけど。

邦題、こんどふざけたらただじゃ..

11.13.2018

[film] The Nutcracker and the Four Realms (2018)

2日の金曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。いろいろあってへとへとだったのでなんも考えずに見れるのがよくて、Disneyだけど監督はなぜかLasse Hallström(とJoe Johnston)だし、どんなもんかしら? くらい。 日本でももうじきやるよね。

原作はバレエのくるみ割り人形、というよりE. T. A. Hoffmannのくるみ割りの方、というので楽しみにしていったのだが、はて、あーんな筋だったかしらん?

ヴィクトリア朝時代のロンドン、母を亡くしてしょんぼりしているStahlbaum家の姉弟のところにもクリスマスは来て、Clara (Mackenzie Foy) への贈り物は鍵のかかったタマゴみたいので、でも鍵はついてないので、ちっ、てなって、今度はDrosselmeyer (Morgan Freeman)氏のパーティに行ってそのタマゴを見せるとふふーんとか言われて、今度はそこの家のプレゼントを貰うときに、張り巡らされた糸を手繰っていくとなぜか雪山のなかに出てしまい、いい加減にしろよ、てなったら鍵があったので手を伸ばしたらネズミがそれを咥えていっちゃって追いかけていくとCaptain Philip Hoffman (Jayden Fowora-Knight)と会って、彼を案内役にして進んでいくとでっかいネズミのおばけとか張りぼてのロボットみたいのが現れ、妖精のSugar Plum (Keira Knightley)のところまで行くと、ここはあなたのママが作った世界なのよ、とか言われて、でもママは死んじゃったんだよ、というとええーって悲しまれて、そうすると突然無政府状態になって鉛の兵隊が束になって襲ってきて、Mother Ginger (Helen Mirren) はおっかないし、Claraどうする? になるの。

かんじとしては節操なく場当たり的に進行して余りにご都合よく収束してしまう「不思議の国のアリス」とかジブリ系(てきとー)のなんかで、これがクリスマスじゃなかったらぜってえ許さねえからなてめー、くらいのかんじ。

本来であれば怪しげな魑魅魍魎が跋扈して戦争状態にある4つの王国(「指輪物語」?)を理系の知恵と技術をもったClaraがなんとか丸く治めて、ママあたしがんばったのえらい? になるはずだった、のかなあ。

そもそも4つの王国がなんなのかよくわかんなかったし、それになんでママは家族に内緒であんな世界をこしらえて、そこでなにをしようとしていたのかよくわかんないし、Drosselmeyer氏はなんで解ったふりしてニタニタしているのか不気味だし、なんでまた思わせぶりにフクロウを飛ばすの、とかいっぱい出てきて、そうかこの混沌こそがヴィクトリア朝時代のロンドンなのね、でいいの? ドイツロマン派の夢を土足で踏みにじるヴィクトリア朝の野蛮、ていうこと?

Keira Knightleyは楽しそうに狂いまくってはしゃぎまくっていてよいけど、もうちょっとSugar Plumなかんじになっててもよかったし、Helen Mirrenは生姜婆あ、みたいにもっと脳につんとくるかんじがあってもよかったかも。

主役のMackenzie Foyってどっかで見た気が、と思ったら、あの(”The Twilight Saga: Breaking Dawn – Part 2”(2014)の)Renesmeeか! パパがRobert Pattinsonで、ママがKristen Stewartなら最強(の吸血鬼)に決まってるよね。
そうか、だからヴィクトリア朝なのか(←ひとりで納得してる)。

あと、ABTのMisty Copelandさんがくるくる踊ってくれるシーンもあるので、バレエの「くるみ割り」を見た気分にちょっとだけ浸れてお得、ていうのもあるよ。

11.12.2018

[film] Play It As It Lays (1972)

Barbicanで3日の土曜日、丸一日開催されたNew Suns: A Feminist Literary Festival、ていうイベントで見ました。

“New Suns”っていうのはOctavia Butlerの”There is nothing new under the sun, but there are new suns”から来ていて、この日Barbicanの施設内では映画上映、講演、ワークショップ、ブックフェア、等々が開かれていた。映画はこれの他に、アーシュラ・K・ル=グウィンのドキュメンタリー - ”Worlds of Ursula K Le Guin” (2018)もあったのだが、これは売り切れてて、見れたのはこの1本だけ。

原作はJoan Didionの同名小説(未読)、脚本はJoan Didionと夫のJohn Gregory Dunne、監督は(JoanはSam Peckinpahに監督してほしかったようだが)Frank Perry、プロデュースは監督と義兄のDominick Dunne – この製作陣は前の年に作られた”The Panic in Needle Park” (1971)とほぼ同じ。 日本での公開はされていない模様。 あったり前の35mm上映。

LAに暮らすMaria (Tuesday Weld)が、どこかの療養所と思われる施設のきれいな庭園の通路を往ったり来たりしながらぶつぶつと過去を回想していく内容で、ネヴァダからモデルとして出て、女優になってお色気アクションみたいなTVシリーズをやっていたものの、プロデューサーのCarter Lang (Adam Roarke)との間は結婚生活も含めて破綻していて、娘のKateも障害を抱えて施設に入っていて、いろいろ面倒みて話しを聞いてくれる友人のB.Z. (Anthony Perkins)はゲイで、彼女がまっ黄色のシボレーで道路をブッ飛ばしても何しても結局捕まったりでろくなことがなくて、とにかく全体として不幸でどうしようもなくて、だから施設にいるのだと思うのだが、で、だからどうしろと?  って、彼女はこちらに問いかけてくる。

まず思い浮かべたのはJohn Cassavetesの”A Woman Under the Influence” (1974)  -『こわれゆく女』- で、あれもそうだったけど、彼女たちからすれば混沌としたメンズの荒野を極めてロジカルに、誰にも頼らず頼まず前に行こうとしているだけの話しで、Cassavetesよりは散文的で緩いものの、力強いことは確かで、かっこいいの。 ただ、”A Woman Under the Influence”にあんな邦題を付けてしまうようなメンタリティも含めて、これを受け取る男共のしょうもない反応(and 無反応)のどん詰まりはじゅうぶんに予測できて、最後にB.Z.が服毒自殺してしまうのもそういうのがあったからではないだろうか、とか。

そしてもういっこ思い浮かべたのは、見たばかりだったこれ。

The Other Side of the Wind (2018)

3日、土曜日の昼にCurzonのBloomsburyで見ました。こちらではNetflixだけでなく1週間くらい劇場でも上映されていた。

Orson Welles については9月の頭に同じ場所でドキュメンタリー”The Eyes of Orson Welles” (2018)を見ていて、それはWellesの三女がNYのチェルシーのどこかの倉庫に眠っていた彼の遺品が入った箱を開けてみて、そこから出てきたメモやドローイングを元にWellesが映画を通してやろうとしていたことをShakespeareやKafkaへの言及も含めて追っていく、というもので、どちらかというとドキュメンタリーを作成した監督のWellesへの思いに溢れかえったやつだったのだが、なんにせよ、まだWellesは生きているのだ、のかんじはとってもした。
(チェルシーにWellesの資料が保存されている件については、昔どこかで聞いたことがあって、それがどこだったか思い出せない)

“The Other Side of the Wind” - 70歳を迎える著名な映画監督Jake Hannaford (John Huston)の未完の、ところどころ欠落して(いつまで経っても終わらない)作品を巡って周辺のいろんな関係者が、よりによって監督のお誕生日に合わせてわーわー言うのと、その映画にも登場するミューズ - Oja Kodar – が映画の中からなのか外からなのかいろんな妖気を送ってくるのと。

こまこま筋やロジックを追うのがばかばかしくなるくらい多彩なイメージが次から次にやってきて時系列を無視した支離滅裂な追っかけっこを繰り広げる。 これらがほんとにWellesの晩年の頭のなかにあったのだとしたら、先の”The Eyes of Orson Welles”で出てきた映画の魂を求めて彷徨う求道的なのとはよい意味で違う、映画についての映画なのでおもしろいのと、どっちにしてもすごいのはWellesのことなんて殆ど知らない、今回の復元の意味やありがたみをちっともわからない連中にもなんだこれ.. って見入らせてしまうとらえどころのなさ、だと思った。

印象としては70年代のAltmanの群像劇の、どこまでも即物的に行こうとするところをふわふわ骨折脱臼させてわけわかんなくしたような、そんなかんじで、あそこで無言のミステリアスな位置に置かれていたOja Kodarに言葉と行動を与えてリアルワールドに解き放ったのが”Play It As It Lays”のMariaなのかも。

どうしてあれもこれも70年代のアメリカだったのか。”The Last Movie” (1971)で映画が終わった辺りから始まっている気がするあれこれ、風の向こう側にあるのはなにで、こちら側にあるのはなんなのか、それらをそう置いているのはなんなのか、等については引き続き考えていきたい。

New Sunsの会場ではフェミニズム関連のブックフェアもやっていて、PenguinからLondon Review of Booksからぜんぜん知らないマイナーなZineみたいのまで10店くらい出店していた。
古本を売ってたコーナーでMuriel SparkとDerek Stanfordの選/編によるMary Shellyの書簡集 - “My Best Mary”を買った。いつになったら読めるのやら。

11.11.2018

[film] L'Hirondelle et la Mésange (1920)

LFFのずっと前、9月30日の日曜日の午後、Barbican Cinemaで見ました。

ここでは9月から11月にかけてSilent Film & Live Musicていう小特集をやっていて、それの最初の1本(ぜんぶで3回)。
日本でも昨年アンスティチュとかで『ツバメ号とシジュウカラ号』として公開されて、いいなー見たいなーと思っていたやつなので、見れてよかった。

英国でタイトルがフランス語原題のままなのは、”la Mésange”に該当する鳥が英国にはいないので適切な訳語が出てこなくて、ということらしく、主催のひとが「だれかしってるひと? ”Titmouse”でいいの?」とか会場で聞いていた。

音楽はライブ伴奏で、ピアノとハープのふたり、ちょっと切ないメランコリックな旋律で、ピアノはアコーディオンとかフルートも兼務するし、ハープは爪弾くだけじゃなく縁を叩いたり引っ掻いたりふたりだけとは思えない多彩なアンサンブルを聴かせてくれてすばらしい。音だけでご飯おかわりできる。

20年の頃、ツバメ号とシジュウカラ号 - アントワープからフランスに向かっていく束ねられた2隻の船があって、ベテラン船頭のピエールが動かして妻のグリエとその妹のマルテがそれを助けて順調に運行仕事をしているふうで、積み荷の様子とかを横でみていた若者ミッシェルが雇ってほしいと言ってきて、試してみるとミッシェルは仕事もしっかりやるし、だんだん家族の信頼を得てマルテとも仲良くなっていくのだが、ミッシェルの狙いは闇で運んでいる積み荷のほうにあって、やがて..

タイトルからふたつの船が仲良く並んで川面を滑っていくのをみんなで助け合ったりの爽やかなやつかと思っていたのだが、結構ダークなのがギラリとするのではらはらしていると、展開はその想像のうえをいくやばい方に行ってしまい、でもそんなのお構いなしに川は流れて船は滑っていくねえ、という全体に漂う無常感が、一次大戦でところどころ破壊された川辺の町の風景にも合って、何とも言えない詩情を引き起こすところがすごい。どいつもこいつも必死だったんだなあ、って。
とにかく川辺の風景がゆっくり後ろに流れていくだけでたまんないの。


St. Wenceslas (1929)

BarbicanのSilent Film & Live Music特集の10月の。28日、日曜日の昼間に見ました。

この日は丁度今のチェコが建国されて100年の記念日で、この日からロンドンで始まるCzech100: Made in Prague Festivalの第一弾で、この作品はチェコの映画史にとっても記念碑的な一本なのだと。
演奏はCappella Marianaていうプラハで古音楽を演奏するグループで、太鼓&笛、ハープ、男性ヴォーカルの6人編成で、男子のコーラスが入るサイレントって珍しいかも、と。

チェコ(というかボヘミア)の建国に貢献したSaint Wenceslaus I, Duke of Bohemia (907-935)のお話しで、当時ものすごいお金をかけて千人規模のエキストラをいれて作った歴史超大作、だそうなのだが、あんまそんなかんじはしなくて、ものすごい数の外敵が襲ってきてもオーラと人徳でへへーって捻じ伏せてしまうものの、それを妬んだ劣等感まみれのブサイクな兄に殺されてしまう、というシンプルな筋で、あんま超大作には見えないの。

それでも撮影は、後にMichael Caineの“The Ipcress File” (1965)や”Alfie” (1966) を撮ることになるOtto Hellerが参加していてなかなかエモでドラマチックで、宮廷ドラマとしては悪くなかったかも。
音楽は、生の声の重なりがあんなふうに映像に合うのかー、ておもしろかった。群像劇だと特に映えるねえ。

サイレントの世界って底なしにすごいかもやばいかも、になりつつあることを改めて。

11.10.2018

[film] Juliet, Naked (2018)

4日、日曜日の夕方、Leicester Squareのシネコンで見ました。公開直後のはずなのに、なんでこんな変なとこでぽつぽつとしかやってないんだよう。こんなにおもしろくて素敵なのにさ。

原作は(プロデュースも)Nick Hornby、プロデュースにはJudd Apatowもいて、音楽は(元Shudder To Thinkの)Nathan Larsonで、ここんとこの活動に外れなしのEthan Hawkeが主演しているRom-Comなんだから、悪いわきゃないの。必見なの。

英国のSandcliffていう海辺の田舎町の博物館で学芸員をしているAnnie (Rose Byrne)がいて、彼女には15年くらい一緒に暮らしているBFのDuncan (Chris O'Dowd)がいて、彼は90年代に一瞬有名になってツアーの途中に忽然と消えてしまった伝説のミュージシャン - Tucker Crowe (Ethan Hawke)のファンサイトを作ってそれをこつこつ幸せに運営してて、Annieはその様子があんま気に食わないしDuncanとの間に子供も欲しいけど彼は嫌みたいだし、少し距離を置き始めたところ。 ある日、家に届いたDuncan宛の包みを開いたら”Juliet, Naked”と書かれたCDが出てきて、どうやらTucker Croweの昔のデモ音源らしい。ぼーっと聴いていたらDuncanがやってきてなんだこれ? って彼は驚愕して狂喜して(泣いてんの)、サイトにもUpして得意になってて、Annieは腹立ててそこに自分のシニカルなコメントを書き込んでみたらTucker Crowe本人らしいアドレスからメールがきて、そんなことを正しく指摘してきたのは君が初めてだ、とかいう。半信半疑でメールのやりとりを始めたら互いに止まらなくなってだんだん惹かれていったあたりでDuncanが町女と浮気していることを知った彼女は彼を家から追い出す。

Tuckerの方はペンシルベニアかどこかでEx-妻のガレージに彼女との間の息子のJackson (Azhy Robertson) - かわいい - とごろごろ適当に暮らしていて、Ex-Ex妻との間の娘Lizzieが出産で相手の男の住むロンドンに行くとかいうので、ついでに行ってみるから会わない? てAnnieに連絡して会うことにするのだが、ロンドンに着いたところでTuckerは突然倒れて入院してしまう。病院からの彼の求めに応じて本を持って(Foylesの袋をさげてる)、病院に行くと、Tuckerはもうしんじゃうに違いないと思ったLizzieがEx-Ex-ExとかEx-Ex-Ex-Exの子供とか家族・コロニーまるごとをみんな呼んでいてものすごい状態で、こりゃ世界がちがう、無理だわ、とあきれたAnnieは一旦田舎に戻る。

やがて回復したTuckerはJacksonを連れてAnnieのところに現れるのだが、ほほうAnnieに新しい彼ができたか、と軽く寄っていったDuncanが見たのは、彼が20年間追い続けてきた伝説の…  だったと。ここから先、3人それぞれにとってぐるぐるの惑いと悶えに巻かれてまみれての修羅場がめちゃくちゃおもしろい(他人の不幸は..)、に決まってるの。

傷を抱えたまま突然音楽をやめてしまい、そのままぶくぶくゴミにまみれている元音楽家、田舎でそんな彼の消息を追いながらぶつぶつ燻っているひねくれ男、そんなろくでなしとの関係を引き摺ったままあーあ、って溜息ばかりの女、どいつもこいつもよい具合に枯れて腐れて救いようがなくて、だからこそ惹かれあうのかなんなのか。そして子供たちだけはいつも元気いっぱいで輝いていてよかったね(というNick Hornbyの世界)。

“Before …”シリーズでも見ることができたある瞬間に突然スイッチが入ってそこからの世界をがらりと一変させてしまうEthan Hawkeの魔法をここでも見ることができてとても興奮するのだが、Chris O'Dowdのぶれのない高慢ちきぷんぷんの臭気もたまんないし、Rose Byrneの眉間の皺(たまにJulie Delpyを想起させる)もすばらしくて、要は、Rom-Comとしては”High Fidelity”より断然すてきで好きだと思いましたの。

若い頃 - 90年代のTucker Crowe – 当然90’sのEthan Hawke - の写真はとても90’sしていて、そこに被ってくる彼のバンドの音もオルタナの少し前にあったようなのに近くて、このかんじってやっぱり00年代のとは違う、なんだろ、とか思った。

そんな昔に録音されたデモの音が20年以上経ってから恋の嵐を巻き起こす、ってやっぱり素敵で、音楽は聴きつづけておくにこしたことはない、と。(CDプレイヤーは捨てないでおいたほうがいいのか)

[film] They Shall Not Grow Old (2018)

10月27日の土曜日の晩、Imperial War Museum (IWM)で見ました。

第一次大戦の際に残された大量のアーカイブ映像をPeter Jacksonが復元して纏めたもの。第一次大戦終結から100年の今年、英国ではいろんな追悼イベントが行われていて、その中のひとつとしてこれがLFFでプレミア上映された際にはウィリアム王子も列席して、そこでの上映は売り切れでぜんぜん見れなかったのだが、LFFの後にイギリスやロンドンの外れの方でぽつぽつ(一日一回くらい)上映していて、IWMではこの週末の2~3日、17時からと19時からの2回だけFreeで上映すると。入場は先着順だから早目に来てね、というので1時間くらい前から並んだ。

IWMていうのは戦争関係の資料とかいろんな実物とかを収集保存展示している国の機関で、戦争はきらいなので行ったことはないのだが、反戦のポスター展とかもやっていたりするのでやっぱ一度は行ったほうがいいよね、くらいは思っていた。でもここの終了時間間際に並んだので他の展示などは見れないまま。

映画を上映した場所は映画以外にレクチャーとかもできそうな隙間風が来るだだっ広いホールで、でも画面も音も申し分なかった。LFFのときは3D上映されたようだが、ここのは2Dで、一番最初にPeter JacksonがIWMに見に来てくれた皆さんありがとう、見てね、って画面の向こうから挨拶する。

最初は開戦が宣言された時の晩から、これはこの前に見たサイレント”Blighty” (1927)にもあったように静かであっけなくて、こないだまでドイツの連中とはラグビーの試合してたのになー、くらいのトーンで起こって、みんな1ヶ月くらいでとっとと終わるよね、くらいの楽観的なかんじで、そのかんじのままの勢いで軍に志願してくる若者はいっぱいいて、年齢を偽ってでも入隊したい、と言ってきた連中のいろんな手口まで紹介される。

音声はおそらく当時の記録として文書とかに残されていたものを起こして複数の声優がフィルムに被せていく、後の方の戦場での声は、フィルムに映しだされた口の動きを読唇の専門家がお喋りとして復元して、声優がそこにあわせていく。後者のリアルさときたらすごい。デジタルすごい。

軍に入った若者たちは服とか靴とか銃とか日用品一式を支給されて、6週間だかの訓練を経た後、川辺から船に乗せられてフランスに渡って… という具合に、市民が戦争に参加するまでの過程が極めて具体的に描かれて、ふつうのひとが戦争に行くっていうのはこういうことなんだ、ということがわかる。 

で、フランス国内を隊列組んで平坦な陸地を移動していくところから画面がするする大きくなって、色がついて、背景音、喋っている声も含めて音声がいきなりリアルな臨場感をもって、戦場のなかに入っていく感覚がやってくる。(ここはちょっとびっくり)

それと共に兵隊たちの顔から笑顔が消えて何が起こってもおかしくない緊張感のなかに放りこまれていることがわかる。そこから先の前線の塹壕の描写は泥まみれのぐじゃぐじゃ、ひどい衛生状態のなか死体がそこらじゅうに転がっていて、蠅がたかっているその羽音まで聞こえて、ネズミもうようよ、炎症を起こした足先が腐っていくようなところもぜんぶ映されている。人だけじゃなくて馬もそこらじゅうで重なって死んでいて、走っている馬車ごと爆弾で飛ばされるようなシーンまである。大砲をぶっぱなすと衝撃で周囲の民家の瓦がぼろぼろ落ちたり、大砲の後は戦車がめりめり進んで行って、最後に歩兵部隊の突撃、となるのだが、指令が出るときに向けて彼らが銃の先に剣を据えるとこなんて胸が張り裂けそうになる。向こう側には機関銃の掃射があるかもなのに(実際にあったことを我々は知っている)、どんな気持ちだったのだろう。そしてその先には死体の山があって、その血は泥と一緒くたになってどす黒いだけ。

映画みたいに見えるところもあるけど、これらはぜんぶリアルの、本当に撮られたもので、こんなふうにしてイギリスでは少なくとも100万人が戦死した。

そういうの以外には休憩時とかみんなで酒飲んで歌うところか、ドイツの捕虜とのやりとりとかもあって少しだけ笑顔も見えたりするのだが、ここでの笑顔はもうやけくそのそれにしか見えなくてとっても痛ましいし虚しいし。

映像は彼らが故郷に戻っていくところで再び縮んで最初とおなじサイズのモノクロに戻るのだが、見るだけでもぐったりしすぎて安堵どころじゃない。あんなところにずっといたら後遺症にもなるよね。

“As You’ve Never Seen It Before”というコピーがあって、確かにそれは映像の異様な生々しさも含めてそうなのだが、なんでこれまで見ることができなかったのか、ていうのと、こういうのがありながらも次の大戦は起こったし、未だに世界中で戦争は起こり続けているし、なんなのかしら、っていうのはふつうに思う。

同様の戦場での記録は二次大戦でもベトナム戦争でもあるのだろうが、近代になればなるほど、兵器の破壊力殺傷力は増して、ここまでスローな(という形容は嫌だけど)、見た目にはっきりとわかる地獄はなくなっているのではないか(地獄はどっちみち地獄、であるにせよ)。

タイトルはLaurence Binyonの詩"For the Fallen"から取られていて、映画は従軍したPeter Jacksonの祖父に捧げられている。

こないだの”The Great Victorian Moving Picture Show”といいこれといい、英国の古い映像の復元や保存にかける情熱ってすごいな。
古いものを大事にっていうのは英国人のベースにあるんだろうけど、それにしてもえらい。

映像どころか日報ですら平気で隠蔽しようとするきれいごとだいすきの国にっぽんでも見られるべきよね。

*英国のひと、11日日曜日の21:30からBBC Twoでまるごと放映するみたいよ。

[film] Rudeboy: The Story of Trojan Records (2018)

LFFからの1本、10月15日、月曜日の昼間にBFIで見ました。

チケットを取っていなくてSold Outしてて、でもStand-byに並べばなんとか、と勝手に思って行ったらシアターが小さいせいかぜんぜん戻りチケットがなくて、ぎりぎり直前で中に入れた。

Trojan Recordsを中心に据えた音楽ドキュメンタリーで、このレーベルの生み出したスカやレゲエがなぜ、どうやって英国の音楽シーンに浸透していったのか。 個人的には、これらの音はなんであんなふうにパンクとくっついてポストパンクのあれらを生み出したのか、とかその辺。

映画は50年代、まだイギリスの植民地だったジャマイカから始まって、関係者証言や資料映像だけでなく、ところどころ役者さんによる再現ドラマも交えながらなにが起こっていったのかを追っていく。まずは倉庫にサウンドシステムを構えて工場や農場での労働の後に歌って踊れる場所をつくって、それが当たってヒット曲とかが生まれたのが始まり。62年にジャマイカが独立すると、ジャマイカから労働力として大量の移民が英国に渡るようになり、そこで、故郷を懐かしむ人々が同様のサウンドシステムを組んで、あそこでやっていたのと同じようなダンスミュージックを作って流していこう、と68年に始まったのがTrojanで、それは単にレーベルを作って音楽を「流通」させよう、とかいうのではなく、移民たちマイノリティの置かれた社会や文化的な状況を反映した生活に不可欠ななにか、メディアとして立ちあがっていったのだと。 その音楽もジャマイカ本国でスカやロック・ステディが流行ればそのまま取り入れられて、やがてそれは同様に社会の隅っこにいた白人の労働者階級の若者たちを取りこんで、スキンヘッドでかっこよく踊る子供たちが現れて、Chris BlackwellのIsland Recordsを経由した音楽シーンへも拡がりを見せるのだが、レーベル自身は7inchや廉価盤の量産の繰り返しで膨張して、経営が悪化して潰れてしまう。

最初のほうに出てくるミュージシャンはほぼ知らなくて、Lee "Scratch" PerryとかDesmond Dekker, Jimmy Cliff, The Maytalsあたりから知ってるかんじになるのだが、そういうのよりおもしろいのは週末に向かう酔っ払いのための音楽として白人の子達を取りこんで、ちと洒落たRudeboyの音楽としてでっかくなっていった、という辺り。この辺て、パブロックがパンクの下地を作っていったのと同じような流れを感じる。酔っ払いの憂さ晴らし、週末に向けたひと暴れのためのBGMがこれら「革命」の音楽を準備していったって、なんかね、金曜の昼からパブでうだうだしているロンドンの人達を見ると納得するし、いいなって。 ああいうのを見ると生産性を巡る議論なんてブロイラーの鶏(鶏ごめん)のための妄想だわくそったれ、って改めて思う。

60年代にジャマイカから渡ってきたスカ、レゲエ、70年代にNYから飛び火してきたパンク、これら外からやって来た音楽が英国でどうやって内在化 - 肉化していったのか。 ダンスでよってたかってフロアを踏み鳴らす、っていうのはあったんだろうなー。パンクがレゲエやダブにくっついていったのも、まず音としてかっこよかった、ていうのもあるのだろうが、辺境コミュニティの芯を貫いて鳴るその強さと太さと雑多さ、ていうのもあったのではないか。

そこのところ - 音楽が流行り歌からぶっとい本流に練りあがっていくところ – って、音楽メディアが7inch – 12inch – CDを経て、ヴァイナルとストリーミングにまで来た今もあまり変わっていないのではないかしら。むしろストリーミングでいろんな音を簡単に摂取できる今の方がそれらの流れをより俯瞰しやすくなっていて、こういう音楽ドキュメンタリーが沢山作られるようになったのもその辺の事情と関係あったりするのかしら。

関係ないけどむかーし、”Rude Boy” (1980)っていうThe Clashが出てくるドキュメンタリーとフィクション半々みたいな映画があったのだが、あれ、今みたらどんな印象もつだろうか? 当時見たときはさあ…