2.20.2018

[film] A Touch of Love (1969)

11日、日曜日の晩、BFIで見ました。 邦題は『愛のふれあい』...

BFIで映画監督Waris Husseinの回顧上映シリーズが始まって、よく知らないので見てみることにした。それまでTVで活動していた監督の映画第一作で、この後に『小さな恋のメロディ』を撮るのね。 上映後にやはりこれが映画デビューとなったIan McKellenと監督のトーク付き。
原作はMargaret Drabbleの”The Millstone” (1965) - 邦題は『碾臼』。これを彼女自身が映画用に脚色している。

博士号を取るために大英博物館の図書室で勉強をしているRosamund Stacey (Sandy Dennis)が独り暮らしをしているらしいロンドンのアパートに戻ってきて、酒をぐびぐび飲んでお風呂にお湯をためて、どうも自殺をしようとしているらしいのだが友達一同が入ってきてその試みは失敗して、いつもの恋バナとか結婚するだのしないだのになったりするのだが彼女は乗ってこなくてなんかどんよりしている。

回想のなか、どこかのパーティで新進ニュースキャスターのGeorge Matthews (Ian McKellen)と出会った彼女は帰り際に彼と寝ちゃって、しばらくすると妊娠していることがわかって、それがどんよりの原因だったことがわかるのだが、やがて彼女はひとりで産むことを決意する。

そこから映画のトーンは少し変わって、彼女が勉強の傍らひとりで病院に行って子供を産んで、産まれてからも赤ん坊が怪我したりで病院に通い、でも英国の病院のがちがちに融通が利かない不便さにぶちきれたりごたごたするのだが、どうにかなんとかなったり。

最後、キャスターとして十分有名になっているGeorgeと偶然再会したRosamundは赤ん坊を見てほしい、と言っておうちに来て見てもらうのだが、結局彼には言い出せないままで終わるの。

全体としてあんま明るいお話しではないのだが、Rosamundの張りつめた惑い顔と絶叫と踏んばりがすばらしくて、最後は吹っきれたようだし、よかったねえ、な感じは残るからよいの。

上映後の監督とIan McKellenのトーク。デビュー作を見直してみてどうでしたか? との問いにIanさん「NHS - National Health Service - 国民保健サービス – はなんとかならんもんかのう…」って。
(NHSっていろんな不足からサービス劣化が深刻化しているのが頻繁にニュースになっているので、全員爆笑)

監督のWaris HusseinもIanもこの作品、同じタイミングでTVの世界から映画の世界に入ったというのと、どちらもケンブリッジ出身ということで終始寛いで和やかな雰囲気で、更に原作のMargaret Drabble もケンブリッジで、これって確か彼女自身の経験から来たんじゃなかったっけ?とか言っていて、後で調べたら監督は38年生まれ、Ian McKellenもMargaret Drabble も39年生まれなのだった。(Monty Pythonも半分はケンブリッジのほぼこの年代だし、どこかに60年代のケンブリッジ人脈が英国のTV、演劇、映画の世界にどれだけ蔓延って影響力を持っていたかを書いた資料とかない?)

という具合の身内話、昔話みたいのが続いて(おもしろいからぜんぜんよいの)、他には病院のシスター役で出ていたRachel KempsonってVanessaのママだよ、とか言うので誰かと思ったらVanessa Redgraveのママだったり。

それまでやってきたTVと映画の違いはなんだったでしょう? と訊かれて、Ian「映画は撮り直しがきくことかな」 - 監督「でもあなたはだいたい2~3回ですぐ終えていたよね」- Ian「そうだったっけ? Peter Jacksonには29回も撮り直しさせられたぞ。このわしが!」、とか。

主演のRosamund 役のSandy Dennisさんについては、アメリカの俳優さんなので少し心配だったけど全く問題なくてすばらしかった、とふたりとも合意。彼女、JazzのGerry Mulliganと結婚してて(その後別れた)、100匹くらいの猫と暮らす猫おばさんだったんだって。

あと、米国のタイトル“Thank You All Very Much”は、なんでそうなるのかぜんぜんわからなかった、意味不明、って。たしかに…

そうそう、昨年の10月、田舎のChichesterのシアターで上演されたIan McKellen主演の『リア王』、この夏にロンドンで再演するって。あの遠くまで行った苦労はなんだったのよ。 でもすばらしい舞台だったのでもう一回見たいし、見れるひとは見にいったほうがいいよ。

[art] William Blake in Sussex: Visions of Albion 他

1月 〜 2月のアート関係のつづき。

Ilya and Emilia Kabakov:  Not Everyone Will Be Taken Into the Future    @Tate Modern

ひとつひとつの作品の深みと広がりが余りにでっかく、消化するのに時間が必要な気がしたので間を置いて2回見た。ソ連~ロシアという国と、その上に暮らす人々の上に(プロパガンダ、とまでは行かないが)お天気のようにあれこれ降ってくる/吹いてくるいろんなこと、それが日々の作物とか生活にもたらす粒粒をこまこま拾いあげて標本箱に展開し、でもほれ、それがなに?のようなところに落としてなんとも言えない余韻 – ノスタルジア? 未来? うーむ..  の地点に置き去りにする。これってソ連~ロシアていう地域性、その歴史を外したところでどんなふうに成立するのかしないのか、とか。 その流れで、人がみんないなくなった部屋とか風景にどうやって人の影やぬくもりみたいのを浮かびあがらせることができるのか、とか。

最終日に行ったら£25のカタログを£9.95に割引してた。今度から最終日に行って買うことにしよう。

Red Star Over Russia: A revolution in visual culture 1905–55    @Tate Modern

TateのIlya and Emilia Kabakov展示の別の棟でやっているのだが、関連あるよね。
ロシア革命(100年)関連展示では昨年Royal Academy of Artsで見た”Revolution: Russian Art 1917–1932”が質量とも圧倒的にすごくて(British Libraryのは行けず)、これはそれより時間軸を広げてポスターとかの紙モノを中心に展示しているのだが、よくもまあ… なかんじは変わらず、こういうのを国を挙げてやっていたのだからすごいなー、でもそのすごいのでも、当然のようにかっこいいのとださいのといろいろあって、でもぜんたいのかっこいい比率はいまのどっかの国が代理店に頼むださくて気持ち悪いキャンペーンなんかよか、数段上なの(あたりまえか)。

Ocean Liners: Speed and Style   @Victoria & Albert Museum

豪華客船を使って旅行するのが最高の贅沢だった時代、上客を呼びこむために豪華客船を豪華に飾り立てていたいろんな装飾とか調度品とかのゴージャスでかっこいいところをどーんと展示する。アールデコ調のが多い装飾、家具、絵画、食器、鞄、制服に室内着、エンジンの模型から工程からなにから、当時の貴族・お金持ちの生活をそのまま船の上に移植しようとしたらこんなふうになった、と。すげえ.. しかないのだがおもしろい。というか社交って大変だねえ、とか。

Robert Wyattの”Shipbuilding”のシングルのジャケットのあの絵(横に長い)とか、タイタニック号のダイニングのドアの破片とか。 あと、昔のBritish Airwaysの広告で、QE2とコンコルドでNYへ、£995!とか。また見に行きたいかも。

Into the Woods: Trees in Photography @Victoria & Albert Museum

Freeの展示。雲とか木とかの写真が好きなので、ていうだけ。ふつうにAnsel AdamsとかAlfred Stieglitzとかのでっかい木の写真があって、他にAbbas Kiarostamiとかもある。

Opera: Passion, Power and Politics  @Victoria & Albert Museum

V&Aに新しくできた地下のギャラリーで。 ここのBowieとかPink Floydの展示でやった聴きながら見ていく展示をオペラを題材に。オペラの起源から上演・演奏・舞台形態の変遷、イタリア、オペラの大作家、フランス、ロシア、近代まで、国(権力)や貴族のバックアップを受けて(それらと不可分で)発展していったアート形態であり、他方でひとの声というプリミティブな道具を駆使する、その点ではスポーツに近いなにかかも知れないが、オペラにまつわる当時の絵画や資料をどっさり纏めて展示している。絵画だとManetの”Music in the Tuileries Gardens” (1862) があったり、Käthe Kollwitzの肖像まであったり。 最後の部屋は近現代のオペラでRobert Wilsonの” Einstein on the Beach”とかStockhausenとかの抜粋が大スクリーンでがんがんに。いようと思えば貴族の気分で半日だらだらしていられそうな – でもほんもんの貴族はこんなとこに来ないよねたぶん、なのだった。

Andreas Gursky   @ Hayward Gallery

リノベーションが終わって再開されたHayward Galleryの第一弾がこの展示。
だいたいでっかい、圧倒するランドスケープの写真がどかどか並んでいて、でも圧倒されるのって彼の写真そのものというよりは、彼が写し取ろうとした対象の向こうとか奥のほうにあって、それらはなんなのだろうね、って。たぶん、こんなふうにしちゃって.. どうすんのよこれ、みたいな溜息とともに見るこれら(の威圧感みたいなの)って、なんなのだろう。 写真の解像度と映画の4Kとかって根本的になにかちがうよね、とか。 会社のロビーとかに置いてあるとかっこよさそうなやつ、とか。 これでもアートなの、ていう自嘲と共に壁みたいに聳えているのだった。

Charles I: King and Collector @Royal Academy of Arts

英国史とか全く知らないのだが、チャールズ1世っていうのは絵画のコレクターとしてヨーロッパ中から当時のいろんなのを集めまくって、1649年に斬首されたあとに散逸してしまったのだが買い戻した分もあって、それらを一同に集めてみたので見て、ということらしい。

というわけでTitianにRubensに MantegnaにHolbeinにDürerにお抱えのAnthony van Dyck に、国王自ら集めたのだからどれも国宝に決まってんだろ、みたいに乱暴などっしりした節操のなさで西欧絵画のすごいのがどかどか並んでいる。なかでもMantegnaの壁4面を埋めつくすテンペラ画 – “Triumph of Caesar”なんて、今は女王陛下のコレクションらしいがこんなの普段どうやって置いているのかしら?  これらって、良くも悪くも現代の我々がイメージする「西洋絵画」の典型的な寄せ集まり、と言ってよいのではないか、と。 なので知り合いとか連れてきて西洋絵画リトマス試験紙に使うことができるよ。そんな知り合いいないけど。

William Blake in Sussex: Visions of Albion @Petworth House and Park

https://www.nationaltrust.org.uk/petworth-house-and-park/features/william-blake-in-sussex---visions-of-albion-exhibition

17日の土曜日に行ったばかりなのでまだ生々しい。場所はロンドンから南西に電車で1時間ちょっと、1時間に1本のバスで15分程行ったとこにあるのだが、信号故障で途中の駅で降ろされ、振替バスにえんえん乗せられて目的の駅まで行って、更にそこから普通のバスで、軽く1時間以上ロスした。

会場はNational Trustが管理している公園と邸宅で、展示はここの2室、50点程でそんなに多くないのだが、内容はすばらしく充実していた。Blakeがペンとかでこまこま描いていきながら幻視しようとした神とかその国とか天国とか地獄とか。ごちゃごちゃしているようで細部の線を追っていくとその線の流れが渦を抜けて不思議と透明なところに連れていってくれる。この幻視感覚はちょっとびっくりで気持ちよくて、めちゃくちゃちっちゃい文字が書いてあるだけの小さな作品ですら、そうなの。

旅行者が足を延ばすのはちょっと大変そうだけど、ロンドンにいるひとは行ったほうがよいかも。
カタログとMiltonの詩の序文がプリントしてあるティータオル買った。

建物の横の公園というか庭園もとんでもなくでっかくて、ふつうに回ると軽く2時間かかるらしく、池のとこまで行って鳥を眺めてから戻った。 春になってから来たらよいかんじかも。
William Blakeの住んでいたコテージも近所にあるらしいのだが、車がないと無理そうだったので諦めた。 帰りも信号は復旧していなくて振替が面倒で。

地道に続けているちょっと遠めの美術館まで行ってみよう、のシリーズ、次はTate St IvesでやっているVirginia Woolf : An Exhibition Inspired By Her Writings に行きたいのだが、ちょっと遠すぎだねえ。

2.19.2018

[art] Tove Jansson (1914-2001) 他

アート関係のがどんより溜まってしまったので、憶えている限りのをメモ程度で。時系列で。

Winnie-the-Pooh: Exploring a Classic   @Victoria & Albert Museum

V&Aで12月中旬くらいに行ったら床上1m未満を這いまわる(そういう会場の仕様)元気いっぱいの子供たちで芋洗い潮干狩状態で、もう一回来なきゃな、になった。展示内容は最強のクラシックに決まっているのでなんの文句もないの。あの映画 – “Goodbye Christopher Robin” - に描かれたようなほんのちょっとの切なさが見えないかしら、ていうのは贅沢というもの。ちょっと意外だったのはディズニーのプーのコーナーもあったことくらい。

Harry Potter: A History of Magic   @British Library

1 月3日、2018年最初に行った展覧会。オンラインのチケット予約がバグなのかなんなのか一向に取れなかったので朝に並んでメンバーになってから見た。

オープン当時、BBCでこの展示について特集番組が組まれていて、単にHarry Potterの物語を中心とした資料の展示というより作品の世界観を構成する古今東西の要素を博物館や文献史料から寄せ集めて博物学的な観点から再構成してみる、ようなことを言っていて、本は読んでいなくても(映画は - すぐ忘れちゃうけど - 結構見ている)大丈夫かも、と思って行ってみた。

会場はテーマ毎に部屋があって、テーマは、薬、錬金術、薬草学、お守り、占星術、予言、魔除け、魔法動物、などなど。それに関係したHarry Potterからの抜粋とか挿画もあるし子供には楽しいインタラクティブな仕掛けもあるが、なによりもBritish Museumを始め英国各地の美術館や博物館から怪しげなのも含めて網羅的に集めてきているのがすごい。この手のネタは英国にはいくらでもあるんだろうな。薬草のところに「蒟蒻」の文献があって、いまも日本ではダイエットに使われている、とか、魔法動物のとこにBritish Museumにあるあの「人魚のミイラ」 - 本物初めてみたわ - もあったり。

Scythians: warriors of ancient Siberia
 @British Museum

今から2500年前、900 ~ 200 BCにシベリアの大地にあった文明の証みたいなのをいろんな出土品 - 装飾品、衣服、道具、などなどを並べて示す。こういうの、自分にとって全く未知の領域で、そんなおお昔に、あんな広い土地範囲に、今の我々が同定したり想像したりできるような文化、文明として括りうる何かがあったのかどうかわからない - 学術的にはあった/ある、ということなのね - ので、たんにすげえーとか、しぬほど寒そうー、とかで終わってしまう。 金の装飾品はなかなかチャーミングだったけど、ああいうのってコピーライトとかあるもの?

Rose Wylie: Quack Quack     @Serpentine Sackler Gallery

とにかくでっかい落書きみたいな絵がキュートでたまんないので、見てほしい。
あの輪郭に力強いストロークに、タイトルとか文字とかが被るときゅんとするのはなんなの。

http://www.serpentinegalleries.org/exhibitions-events/rose-wylie-quack-quack

Scott Mead: Above the Clouds   @Hamiltons Gallery

飛行機の窓側の席から撮ったと思われる写真3枚組をセットで展示していて、それぞれの写真のフレームは飛行機の窓のかたちになっている。 なんで3枚組かというと、飛行機が前に進んでいくやつである以上、真横と前と後ろがあるからだよね。機内から写真を撮るのが好きなのでこの人が写真を撮ったときに頭に浮かんだであろう(!)とか、よい景色が下に広がっていると当たり、とか思うその感覚とか瞬間はとてもよくわかるのだった。

Tove Jansson (1914-2001)   @Dulwich Picture Gallery

ずっと行かなきゃとじりじり思っていたやつで、最終日の1月28日、日曜日の朝に走りこんだら入口にチケットはすべてSold Outの張り紙があって一瞬で背筋が凍り、でも諦めずに窓口に行ったらさっき余ったチケットを1枚だけ置いていった人がいるからあげるって。
見知らぬひと、ありがとう。

美術館のあちこちにムーミンとか連中の張り紙があって素敵ったら。
ムーミンを描く以前の、画家としてスタートした頃からの作品も含めて包括的に。 昨年のSouthbankでの展示 – “Adventures in Moominland” – では、彼女がなぜムーミン/ムーミン谷に向かっていったのかを解りやすく説明してくれたが、この展示はそれ以前に彼女が見ようとしていた世界の大枠がわかるようになっていた。初期の油彩で描かれた自画像のタッチはVanessa Bell (1879-1961) のそれにも似て、淡い背景のなかに少し揺れる輪郭と、でも強い眼差しの女性があって、画家としての最後の作品(油彩)も自画像で、そこから先は線の細いイラストになって、誰もが知るあのTove Janssonに変わっていく。 その線があの動物、というか妖精の丸みや弾みを帯びてくるともう❤️しかない。

こんなのカタログぜったい買うよね、と思ったら売り切れていたのでとっても残念だった。

Modigliani  @Tate Modern

かつてMOMAで見たDegasの展示がその画家に対するそれまでの認識を一変させてしまったのと同様のでんぐり返しをもたらしてくれそうな予感があって、でもそこまではいかなかったかも。
初期の線と平面を中心に構成された硬質な人物像が、展示のまんなか過ぎに出てくるヌードのあたりで明らかに揺らぎ何かがせめぎ合って動揺しているのが見えて、そこには見飽きないおもしろさがあってModiglianiの食いこみかたすごいかも、って思った。でもそこから先、なにか諦めてしまったような感じが漂っていたのは気のせい、か。

ここで一旦切ります。

2.18.2018

[film] The Shape of Water (2017)

7日の晩、BFIのPreviewのチケットが取れたので、見ました。誕生日に半魚人映画を。

1962年、アメリカの海岸沿いの町にElisa (Sally Hawkins)がいて、首筋に子供の頃からの消えない爪傷があって、手話でしか会話できなくて、映画館の建物の上に一人で暮らしてて、隣人のGiles (Richard Jenkins)は広告画家でゲイで猫と暮らしてて、ふたりは仲良くて、それなりに世界はできあがって安定して回っていたのだが、ある日彼女が夜勤で清掃している(政府系?軍?の)施設に行くと厳重な警戒を敷かれた水槽一式が運び込まれて軍人と思われるRichard (Michael Shannon)が息巻いてこいつは俺のもんだとかわあわあ騒いでいるのだが、指を噛み切られて血まみれになったりしている。

水槽の中にいるやつに興味が湧いたElisaは掃除をしながらゆで卵をあげたりしつつそいつとおっかなびっくり仲良くなっていくのだが、そいつはRichardの調査で虐待されて弱ってきたのでなんとかしてあげなきゃ、とGilesや同僚のZelda (Octavia Spencer)の助けを借りて一緒に脱出計画を立てて実行しようとする。 そこにソ連の科学者 - 工作員(実は善玉)とか、やたら勘が良くてサディスティックにヒステリックに追っかけてくるRichardが絡んで、どうなってしまうのか。

大枠はそういう流れで、でも真ん中にあるのは社会の片隅でひとりぼっちで生きてきた彼女(この映画に出てくるのはみんなひとりぼっち)と畸形 - 希少生物 - 研究素材として扱われている半魚人の水面下の手探りの恋が、そんなことってありうるのか? ていう惑いや驚きや力瘤や希望を乗っけて夜の町に、水の中に思いっきり解き放たれ、水は彼らのすべてを包みこむ、そういう愛のほうにあるの。

Guillermo del Toroの異形畸形動物に対する愛(さっき、BAFTAの監督賞受賞スピーチで、Mary Shelleyへの感動的な謝辞を)、クラシック・モンスター映画(善玉悪玉が明確に分かれる)に対する愛、それらの愛を包み込んで溺れさせてくれる水に対する愛(この包み込む・覆われる、への志向はホラーのジャンルでも同様のアプローチを..)、その水のかたち (The Shape of Water) をなんとか掴まえ、捕らえようとする試みはちょっと昔のミュージカルとか御伽噺の体裁をとりつつうまくいっていると思った。とにかくElisaとあれが幸せになってほしいよう、って誰もが願ってしまう、そういううねりをうまい具合に起こしてくれて、それはあのラストのうわああーっていうあれに繋がる。

ゆで卵とか、ネコを食べちゃうとことか、キャデラックとかおもしろいエピソードがいっぱいある反面、血がでるとこは痛そうすぎてちょっときつかった。

Sally Hawkinsさんの水との相性、変てこ動物(含. Paddington。来年はGodzillaまで..)との相性の良さは驚くべきものだが、それ以上にMichael Shannonがものすごい形相で前に出てきてしまうので半魚人 vs Michael Shannonみたいになっちゃったのも残念だったのかもしれない。
でも、改めて自分にとってこの領域は“Splash” (1984) のがいいなあ、て思ってしまった。


今日(18日)の午後、うちから歩いていける一番近い上映館(であることを知った) - Ciné Lumièreで、もう一回見た。 なんで見たかというと、上映前に音楽のAlexandre Desplatの挨拶があって、 彼ってどんな人か見たかったから。 ただ彼、フランス語でえんえん15分くらい喋っていたので … だった。後で少し慌てて司会のひとが英語でフォローしてくれたのだが、映画自体がすばらしい広がりを持って深く展開していくので音楽を組み立てる必要はあまりなかった、とか、フルートとか口笛はぜんぶ彼自身が吹いているとか、もっといろんなこと言っていたと思うのにー。

彼がロンドンに来たのはもちろん今晩のBAFTAの授賞式に出るためで、見事に受賞したねえ、おめでとうー! でした。 彼の音楽の細やかさときたら、主人公のエモのひだひだと半魚人のエラに寄り添って離れないほんとに素敵なやつなんだよ。

[film] Coco (2017)

12日、月曜日の晩、一週間長いよう、と逃げるようにしてPicturehouseで見ました。
Disney/Pixar制作のアニメーション。 2Dだったけど3Dで見たほうがきれいで素敵だったかも。
メキシコと音楽がテーマだというのでそれなら見なきゃな、という程度で。

むかしむかし、ギター片手に歌手になりたくてたまらない若者がいて、音楽の道を追求するために妻と幼子を捨てて家を出てしまい、残された妻は悲しみに暮れながらもがんばって靴屋を興して、それ以来、その家は靴屋として繁盛して、音楽は御法度になりましたとさ。そんな家に生まれてしまったMiguelは禁じられていることは承知のうえで、やっぱりどうしても靴屋よりは音楽がやりたくて、家族からはぜったいだめ、って叱られてばかりなのだが、ある日彼は遺された昔の写真の欠片から、自分の曽祖父は国民的歌手のErnesto de la Cruz だったのではないか? と思うようになる。

だから自分はこんなに音楽に惹かれてしまうんだ、と激しく思い込んでしまったMiguelは、死者の日のお祭りのタレントショーになんとしても出たくなり、ひいじいちゃん許して、とErnesto de la Cruzのお墓に飾ってあった彼のギターを盗みに入って、そしたらバチが当たったのかなんなのか、死者の日でこっち側に渡ってくる死者の人混みのなかに自分を見つけて、どうなっちゃったのかと大慌てになる。

こうして死者の国でのMiguelの冒険が始まって、死者の国の死者はみんな骸骨さんで、そこでのMiguelは生きた人の子、ってすぐにわかってしまうので大騒ぎになるのだが、そこには曽祖母も含めて自分のご先祖一族がみんないて、Ernesto de la Cruzはそこでも大歌手で、自分の過去(誰かの記憶に残っているはずの自分の面影)を取り戻したいHéctorとも知り合って、Miguelは元の生者の国にどうしたら戻ることができるのか - それは自分の家族の過去の秘密を辿っていく旅でもあったの。

“Remember Me”ていうErnesto de la Cruzの昔のヒット曲が鍵になっていて、死者は(死者の国を介して)生きているひとの記憶のなかでいつまでも生きていくことができるもので、だから忘れないでね、というのと、その記憶はそういう歌や音楽や昔の写真を通して継がれて、紡がれていくものなのよ、って、これだけで泣いちゃうよね。

“Coco”っていうのは、Miguelのおばあちゃんの名前で、家族のなかで一番の高齢なのでずっと椅子に座ってぶつぶつ呟いててもうボケているのだが、なんで彼女の名前がタイトルになっているのか、思いだすとそれだけで(以下略)。

死者の日っていうのは日本ではお盆のことで、だからこの話は我々にもとてもよくわかる内容だと思うの。
死者はいつも自分たちの傍にいて、こっちを見ていてくれるし、だからこっちもちゃんと話しかけたりしてあげないと、とか、おじいちゃんやおばあちゃんが見ているから(ちゃんとしなきゃね)ていうのは感覚としていくつになっても残っている気がする。
(最近の、歴史を変えたがっている人たちってこの点で日本のヒトじゃないのだとおもうわ)

だからこういうの、日本でも作られてもおかしくないよね、とか思うのだが、最近近いかもこれ、って思ったのは”Kubo and the Two Strings” (2016)だったり。

極彩色でこまこま描きこまれた死者の世界の光景は圧倒的で(だから3Dのほうが)、そこにいる神の使いみたいな変な生き物たち - 特に水牛の角と鷲の翼をもったぎんぎんのでっかい虎 - がすごくよくて、死んだらあれに会えるのだとしたら死ぬのも悪くないかも、て思った。ほかにも可愛いのがちょこちょこいる。

死者の国なのでFrida Kahloが出てくる。他にもいっぱいいるよね。


ところで、昨日買ってきたSuperchunkの新譜がすばらしい。 春に向かっていく音。

2.17.2018

[film] Loveless (2017)  

10日の土曜日のごご、Picturehouse Centralで見ました。原題は”Нелюбовь”

昨年のカンヌで審査員賞を、LFFでもBest Film賞を受賞していて、これの公開を機にBFIでは監督のAndrey Zvyagintsevの特集上映が組まれたりしていた(ぜんぜん見ている余裕なし)。

雪がしんしん降ってとても寒そうなモスクワで小学校から出てくる子供たちがいて、そのなかのひとりの男の子は友達と話すこともなくまっすぐアパートに帰って自分の部屋に籠る。しばらくするとそのアパートを買おうとしていると思われるカップルが見にきたりして、彼の母親は離婚するのでそこを売ろうとしていることがわかる。やがて母親と既に別居しているらしい父親が現れて売れないアパートのこと、子供のことも含めて押し付け合いみたいなきつい口喧嘩の修羅場になって、それを戸の影で聞いている男の子は声を殺して泣いている(←見ていてとても辛い)。

そこから母親はおしゃれして恋人と豪華なレストランで食事して彼のこぎれいなアパートに行って泊まって、父親も既にお腹の大きい恋人と仲良く買い物して彼女の家に行って泊まって、両親がそれぞれにそういうことをしていると、学校からお子さんが学校に来ていませんけど …  という連絡が入る。

警察に捜索依頼に行ってもすぐには動いてくれなくて、まずは子供の行きそうなとこで心当たりがある場所とか親戚友人のうちとかを全て探してみてください捜索はその後、と言われて、それでも見つからなかったので数日後にようやく捜索が始まってチラシ張り紙も配られて、でもやはりなんの手がかりも見つからないまま、やがて廃墟になった団地の片隅で彼のジャケットが見つかったり、同年代と思われる子供の遺体が発見されたりするのだが、彼は消えてしまったかのように。

子供を捜しだすサスペンスと並行して罪深い大人たちへの罰が… という誰もが期待しそうなシンプルな方には行かなくて、両方の親たちがそれぞれに向きたいと思って向いたほうに寄っている間に両者の亀裂の溝に落ちて忽然と消えてしまった子供、彼の落ちた穴というか雪で真っ白に塗られた地表の – “Loveless”としか言いようのない状態がどこにどんなふうに現れるのかを、親たちふたりの関係だけではなく、地元警察の官僚的な動きとかウクライナの紛争に関わる軍の動きまで含めたより大きな地図のなかに置いてみる。スマホを手にしたそれぞれが勝手に追っかけてそれぞれで勝手に満ちたり浮かれたりしている愛の隙間で置き去りにされるというのがどういうことなのか。
”Lack of Love”ではなく”Loveless” – の風景はどんなふうに見えるものなのか。 → ものすごく寒くて寂しい。

これ、今のロシアの都市部の典型的な風景かもしれないけど、当然それだけではない我々を取り囲んでいるそれでもあって、誰もがこういうことが起こりうる状態・事態にあることを知って予測できていながらではどうしたらよいのか、どうすべきなのか、ということについてはうつむいて沈黙してしまう、そういういちばんタチが悪いやつ、と言えるのかも。 起こってからみんなわーわー泣いて騒いで、やがてきれいに忘れてしまう。

あとねえ、この映画に出てくるすべての人たちが俳優の顔をしているように見えない、という怖さ。彼らは我々の周りのそこらにいるふつうの人たちのようで、そういう点では、Robert Bressonの”L’Argent” (1983)と同種の恐ろしさを感じた。 でもあの映画と違うところは、この映画には明確なかたちをとって現れる「悪」のようなものがない、ということ。つまりこれに対置される「善」とか「救い」はカケラも見えてこない。 どこまでもLovelessである、と。

2.15.2018

[film] The Final Year (2017)

これも政治カテゴリーだと思うので、HBOのドキュメンタリー映画を続けて。
11日、日曜日の午後、BloomsburyのCurzonで見ました。

タイトル通り、Barack Obama政権と彼のチーム – 特に外交政策担当 - の2016年初からの最後の1年間の活動 – Obamaが最後にギリシャで演説をするまで - に密着したもの。

これの予告はBFIでもずっと流れていて、”The Post”と同様、見にいくのは辛かった。”The Post”の辛さは過去に達成されたことと現在とのギャップになんで?  だったのに対しこっちのはついこの間のことで、あとほんの少しだったのになぜ到達できなかったのか、という敗北感がじんわりとくる。勿論自分はアメリカ国民ではないのだが、そういう話ではないの。

このチームは大統領選の敗北を受けて既に解体され失われてしまったわけだが、あと1年、彼らがやろうとしていた活動をそのまま続けていたら救われた難民の家族やシリアの子供たちはどれくらいいたのだろう、と思うとやりきれない。 特に今のガマガエル政権のロールバック - 歴史が前に向かって進むなんて大嘘だと思い知る – を見てしまうと、苦しさと無念さが多重でやってくる。

チームは大統領のBarack Obamaに、副大統領のJohn Kerryに、アメリカ合衆国国連大使のSamantha Powerに、大統領副補佐官のBen Rhodes、主にこの4名で、彼らは国連を中心にここに取りあげられただけでも、シリア問題、ボコ・ハラム、キューバ国交、広島、地球温暖化問題などなどを、基本は現地に赴いて、そこの政治家や当事者たちと話しをしたり、或は国連の議場でロシアを正面から罵倒したりもする。

まずは目の前の問題 – これは明らかになんとかしないとまずいよね - に対して動くし大統領も含めて現地で徹底的に対話をするので、アメリカの内政干渉のようなかんじはしないし、アメリカだからできること、とか元の種はアメリカが、とかいろんな言いようがあることはわかるけど、これがアメリカという国単独のお話しだったらあんな手に汗握るものにはならないと思った。

あるいはアメリカだって相当いろんな問題を抱えているし、悪いところがいっぱいあることも十分わかるし、事後の計算だってあるであろうことは承知のうえで、彼らの動きをなんでいいなー、と思うのかについて、最初のほうで大統領自身が(自身の人気の秘密に言及するかたちで)クリアに説明してくれる。お金に惹かれる人もいる、Power(権力)に惹かれる人もいる、でも人は”Story”にも惹かれるものなんだ。 アメリカの場合だと、それは「独立宣言」なのだ、と。

「独立宣言」の普遍性とその強さがベースにあるのだとしたら、それは十分に納得するし、そういうことなのか、と思うところがあるし、例えば自身もアイルランドからの移民であるSamantha Powerさんが市民権の授与式で行うスピーチとか、誰にも思い当たることだから感動的なの。普遍性というところでいうと”Citizen”というタイトルの重さと、それから非暴力。暴力はいけない、人を傷つけてはいけないというのもあって、そういうのからぶれない。シンプルであるが故の力強さ。今の時代の正義とか平和ってどういう形でありうるのだろうか、と。

ちなみに日本だって憲法という素晴らしいStoryを持っているのだが、いまのカルト政権は「明治」だの「神武」だのよくわかんないStoryを崇め奉っていて、それが現代の人権や多様性を認めようとする地点からほど遠いところにあるのにも構わず、周囲に脇目もふらずに自分たちだけでひたすら熱狂している – だからカルト、って呼ぶしかないし、気持ち悪いったらない。

映画では、時間が2016年の後ろのほうに来て、背後からガマガエルの影が忍び寄ってくるところは思いだしたくもなくて、あーあ、って何度でも溜息をついて吐きそうになってしまう。

どうでもよいけど、2016年にまだBlackberryだったのね、とか。
日本でもようやく公開が決まったらしい“I Am Not Your Negro” (2016)と併映してほしいな。


冬のオリンピックが始まっているらしいが、報道ではほとんどやらない(そういうチャンネルに行けばいくらでもやってるけど)のでとっても静かでありがたい。これでいいのよよね。

Sky(ケーブルTV)の映画チャンネルではクリスマスの時にそうだったようにValentine用のChannelが立ちあがり、どうでもいい(つまり大好き)系のラブコメ、ロマコメを大量にざぶざぶ流し続けてくれるのでとっても嬉しいの。
クリスマスのときに散々やってた(散々見た)”Love Actually”なんかValentineでもまだやってて、もう50回くらい見てる。