4.19.2018

[log] April 19 2018

いまは19日の夕方ちかくの午後で、JFKの、混雑しているとラウンジというよりはお好み食堂になってしまっているターミナル7の、そんなに混んではいないのでどんよりだれて眠いかんじの空気のなか、ぱたぱたやっている。

到着した土曜日の午後は20度を超えていてみんな半袖で、なんて気持ちよいのかしら、だったのだが、翌日はなーんて気持ち悪い、としか言いようのない寒寒のじっとり曇天がきて、コートを纏って震えながら歩き回ることになって、ほんとにもう、だった。ほんとにもう、じゃない状態なんてそう来るものではないのだが、よりによって、またよりによってかよ、って。

それもあったし日帰り旅もあったし仕事もなかなかあったので無理な遠出とか踏んばって深夜の徘徊とかはしないで、小さい範囲をこまこま動いて終わってしまった。 Brooklynも行かなかったわ。

ライブ1、映画1、美術館4つ – ほぼこんなもんで、お買い物だって行く店なんて限られているにしても、ぜーんぜんなかったの。もちろんそんなの釣りと同じような水物だから、行ったタイミングでどこかに隠れていなかっただけよ、なのかもしれないけど、それにしたってレコ屋でも本屋でもあんまりにもなくて、ここまでのは過去になかったので慄然として、いやそんなはずは、とか何回か戻ってみたりもしてみたのだが、久々にドツボにはまったかんじで、なかなかぐったりした。

いっこあるのはロンドンでいろいろ見たり漁ったりするのが1年経って定着してきたせいであんま驚かなくなったりじたばたしなくなったりした、ていうのもあるのかしらどうかしら。でも、どっちにしたってどっちにいたって出るときには出てくれるのだから、地味に待っているしかない、のだろうか。 って、いつまで同じところを回り続けているんだか。 
もちろん、それがわかるのだったらこんなことしていないわけだが。

でも、それに、だからといってNYを嫌いになったり飽きたりすることなんてあるわけないよね、と前の晩の遅くにBroadway - Lafayetteの駅構内のBowieの展示(というのかなんというのか)の、彼のNYに向けた愛の言葉を眺めたり、今朝のNY1(ニュースチャンネル)に登場してBronx Zooがテーマのラップを披露してくれたGrandmaster Mele Melとか見ると、たまんなくなる。 帰りたくないよう。

でも、それに、戻った翌日はRecord Store Day 2018なのだった。
やれやれ。 ではまた。

4.14.2018

[log] April 14 2018

イースターの連休で行ったマドリードのこと - とにかくいっぱい絵をみた、だけ - をまだ書いていなくて 、遊びに行った翌週に同じ場所に出張が入ってなにそれって憮然としたり、昨晩からシリアへの空爆が始まったり国会前があったり(ああ、行きたいよう)、気がつけば外気は急に春になっていたり、なんだか気忙しくつんのめっているのだが、いまは土曜日午前のヒースローにいて、やっぱりなんだか嬉しいのでぱたぱた打っている(ラウンジのWifiがしんでる…)。でもとにかく、これからNYに飛んで、途中日帰りでNashville行ったりするけど、金曜日の早朝に戻ってくる。 仕事はいつも通りになかなかいやでめんどうで、でも、この土曜の夕方からと日曜日はだんこ自分のものなんだから。

昨年の12月以来なのですごくいっぱい見たいのはあって、でもどうせいつものてきとーなノリとか乱高下しそうな気圧とか、なし崩しでまた次々と泡に消えちたり諦めたする可能性たっぷりで、まだ春になりかけだし、夏になったらまた来るからいいか、とも思ったり、今からそんな弱気ではいかん、て地面を蹴ったり。

でも決めてからこっち側で相当いろいろ廃棄処分になってしまうライブがわらわらあるのがわかって、それはそれでがっくりきている。14日はまるごとThe Pastels - フィルム上映、Q&Aにライブ(盛りだくさん) - だったし、17日にはGoat Girlsだったし、18日にはTyondai Braxtonの(なにやるかわかんないけど)World Premiereとかいうやつのはずだった。 がっつり集中してチケット買っておいた時期にぶつかってしまった。

渡ったあとだって、16日の(le) poisson rougedでのThe Nels Cline 4は売り切れてるし、Rough Trade NYCのThe Feeliesも売り切れてるし、帰国する19日にはMcNally JacksonでChris Stameyさんの本の出版記念でReadingとサイン会とミニライブ - Jane Scarpantoniさんが参加 - があるし、同じ18日からはTribeca Film Festivalが始まるし、St. Ann's WarehouseでRufusのライブも始まるし、なにげに踏んだり蹴ったりだわ。ちくしょうめ。
19日のごご、ターミナル7だけどうにかなってくれないかなあー。

でもとにかく、いいの。浸かってくるの。
ではまたー。

[film] The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society (2018)

こっちから先に書く。 10日、火曜日の晩にCurzonのMayfairでのPreview & 上映後にQ&A。

Mary Ann Shafferの同名ベストセラーの映画化で、原作は - 邦訳『ガーンジー島の読書会』も出ているようだけど - 読んでいない。

冒頭が1941年、ドイツ軍占領下のガーンジー島で夜間外出禁止令が出ているのに飲んだくれて夜道を急ぐ島民が軍に捕まって、問い詰められたときにタイトルになっている読書会の名前をとっさに口にして、その後も口裏合わせのためにその名前の読書会を開かざるを得なくなった、という由来のお話し。

そこから46年のロンドン、売れない作家のJuliet Ashton (Lily James) は出版人のSidney (Matthew Goode)と二人三脚でがんばっていて – Foyles書店(!そんな昔からあるんだ)で朗読Q&Aとかをやっていて、アパートも探したりしているのだが、戦火で家と両親を失った記憶がまだ彼女を苦しめている。そんなある日、ガーンジー島から小さな読書会をやっているのだが、チャールズ・ラムの『シェイクスピア物語』(アーサー・ラッカムが挿絵のやつ)を送ってくれないかという手紙がきて、それをきっかけに文通が始まって、彼女はアメリカの金持ち軍人Mark (Glen Powell)とつきあい始めたりしていたのだが、島の読書会の方に惹かれて、船で渡ってみることにする(彼女、船に乗りこむ直前にMarkからプロポーズされて指輪を貰うの)。

島に渡って読書会のメンバーと会ってみるとちょっと変だけどよい人達ばかりで、手紙を送ってくれたDawsey (Michiel Huisman) のことが気になったりもして、でも彼女がこの読書会のことをTimesで記事にしたいのだけど、というと全員が表情を硬くしてやめてくれ、となる。

そういえば会には創設メンバーのElizabeth (Jessica Brown Findlay)がいなくて、彼女はどこに行ってしまったのか、44年頃、そこで何が起こって、そのことでなぜメンバーはみんな口を閉ざして暗くなってしまうのか。

ここから先は書きませんけど、戦争がひとりひとりに何をしたのか、それはいつまでも残って終わったり消えたりするものではないというのと、そこで本は、読書は何でありうるのか、とか、いろんなことを考えさせてくれる。でも永遠にこの島にいるわけにもいかないか、となったあたりでMarkが現れて戻ろうか、って言うので果たしてJulietはどうするのよ、って。

占領されたこともないし戦争で近い家族を失ったこともないしそれによって酷くだれかを憎んだことがあるわけでもないけど、本や音楽がそういう魂の難民状態をなんとかしてくれることはわかるし、そこから読書会が彼らにとってどれだけかけがえないものだったのか、なぜそこに(内に同様の難民を抱えていた)Julietが惹かれていったのか、そしてなぜ彼女はそれをなんとしても書かねばと思ったのか、もわかって、それだけで十分素敵なドラマになっていると思った。 あんなに島も海もきれいなのにな。

どうでもよいけど、死ぬほどおいしそうな豚のローストが出てくるので要注意。バターも粉も使わないお芋だけのPotato Peel Pieって、Webにはレシピもあるようだが、どんなもんなのかしら。

Lily James さん、“Darkest Hour” (2017)に続いて世界一タイプを打つ姿がかっこいい女優さんになったかも。

上映後のQ&Aには監督のMike Newell、脚本のThomas Bezucha、Juliet役のLily James、Mark役のGlen Powell、あともう1名(たぶんProducerの人)が並んだ。 Glen Powellさんて、”Hidden Figures” (2016)で気のいいあんちゃん風のJohn Glennを演じていた人ね。
話題は絶妙のキャスティングをどうやって – Mike Newellさんの映画っていつもキャスティングだけはいいよね – とか、原作との異同とか、時代を微妙に跨って進む物語をどうやって編んでいったか、とかその辺。

英国で行ってみたい場所リストにガーンジー島が加わった。きりがないわ。

4.13.2018

[film] Kind Hearts and Coronets (1949)

3日の火曜日の晩、BFIで見ました。 これも英国映画の古いやつ、クラシック。

上映前にBFIでポスターとかをアーカイブしているセクションの人によるイントロがあった。
公開時のオリジナルポスターが出ていて、デザインは James Fitton、コピーには“A Hilarious Study in the Gentle Art of Murder”とある。Ealing Studiosの最良期の1本で、ダークで洒落てておもしろいんだから、って。
タイトルはテニソンの詩 - “Lady Clara Vere de Vere”から取られていて元のラインは、”Kind hearts are more than coronets / And simple faith than Norman blood.”ていうの。

1900年頃の英国、冒頭は監獄で、翌日の絞首刑を待っているLouis Mazzini公爵 (Dennis Price)がいて、自分の生涯を振り返ってメモワールを書きはじめる。

公爵家の生まれだった彼の母はイタリアのオペラ歌手と駆け落ちして、それ故に公爵家では認められず、父が亡くなった後、母は女手ひとつで彼を育てて、貧しい中亡くなって、亡くなる前に親戚のLord Ascoyneに彼の将来を頼むって手紙を送ったのに拒否されて、なのでLouisは呉服屋の丁稚の仕事から始まって苦労して、幼馴染のSibella (Joan Greenwood)まで奪われて散々なの。

こうして彼は公爵家の系図を手に、彼の上位にのさばって彼の先行きを阻んでいる親戚8人を片っ端から殺したり、殺した後で未亡人となったEdith (Valerie Hobson)を自分のものにしたり。
殺される側の8人はぜんぶAlec Guinness – Obi-Wan – がいろんな変装を – 含.女装までして演じていて異様なのだが、明らかに楽しんでいて、それを見るのは楽しい。

ストーリーラインだけだと、歓迎されない結婚故に公爵家から追われて不遇のままに亡くなった母の仇を討つため、謀略と殺人を駆使して成りあがっていくピカレスク・ロマンてかんじなのだけど、Louisの顔はおっとりとぼけた公家顔だし、イタリアンの血が混じっているせいかどこか軽くて、ただの貴族wannabeがお茶飲んだり洋服選んだり庭いじりするみたいに、ばさばさ殺していっちゃうし、公爵一族のどいつもこいつも堅くて愚鈍で家畜みたいに日々なんも考えてないふうで、殺される8役分のAlec Guinnessだって、あんた殺されるためだけに出てきたろ、って突っ込まれるためにいそいそのっそり登場して吹っ飛ばされたりしている。
で、そういう具合なのでLouisが逮捕されてもだれもびっくりしないし、本人もきょとんとしているようで。

英国風ブラックユーモア、というのがこういう場合に使われたりする形容なのだがあんまよくわかんなくて、ブラックをブラックたらしめる(ホワイトな)背景がなくて、ここで描かれている階級構造とか貴族社会の歯車とか挙動とか段々とかいろんなのまるごと、寸分の隙なくきっちりと組み上げられた箱庭のようになっていて、その揺るぎないことったら文句のつけようがない。例えば、Monty Pythonの世界をブラックとは呼ばないのと同じで、あれの、ただただ全員が揃って狂ってておかしいのをへらへら笑っていればよいのと同じようなかんじなの。

ただそういう変てこ世界のありようを眺めたってちっともさっぱりおもしろくもなんともない、ていう人がいるのもわからないでもなくて、でも自分はこいつらなんか変すぎてなにこれ?  と他人の不幸みたいなとこから入り始めたばかりなので、とてもおもしろかった。

ラストのあれは、すぐにおいおいって思ったし、ネタとしてはあまりおもしろくないのだけど、あれもお約束みたいなもんなんだよね。 あーめん。

あと、このエドワード調時代のこれと、Woodfall Filmsが描いている50〜60年代の英国は地続きなのか全く別もんなのか、そんな比較して意味あるのか、とか。

4.12.2018

[film] Saturday Night and Sunday Morning (1960)

イースター4連休の最終日、2日の夕方にBFIで見ました。 “Ready Player One”の後に。

BFIの4~5月の特集に” Woodfall: A Revolution in British Cinema” ていうのがあって、はじめはWoodfallって何よ? くらいだったのだが、このページに貼ってある予告みたら行かなきゃ、になった。なるよね。

http://www.bfi.org.uk/woodfall-revolution-british-cinema

そこから見た最初のがこれ。これを書いている時点で4本見たけど、どれもたまんない。
原作はアラン・シリトーの同名小説。Woodfall Filmsの創設者のひとりであるTony RichardsonがProducerとして参加している。

Arthur (Albert Finney)はバイク工場で油にまみれて労働をしていて、仕事が終わると両親のいる家に戻っての日々の繰り返しにうんざりしていて、そういうのがあるので週末はパブに飲みにいって憂さ晴らしして、そこで人妻のBrenda (Rachel Roberts)と落ちあって飲んで踊って寝て、それとは別に若いDoreen (Shirley Anne Field)とも知りあって、彼女のほうは母親がうるさいので深入りできないからなんとなく両方と付きあっている。 やがてBrendaが妊娠したと言ってきたので堕そうとあれこれするのだがだめで、彼女は産むことを決意して、やがてそれは彼女の真面目な夫 – Arthurの工場の同僚 – にも知れて、彼の差し向けた野郎ふたりに路上でぼこぼこにされて、回復してきたところで看病してくれたDoreenと結婚することにして、ふたりで将来の家のこととか話をするのだが、こんなのでいいのかなあ、ってArthurはどんより思っている。 そんな内容なの。

50年代の労働者階級の若者であるArthurが置かれた環境 - 路地とか横丁とか家のなかとかその明るさ暗さ、親とどんなやりとりをしてどうやって仕事に出ていき帰ってきてどんなふうに家に入って寝るのか、狭い路地でがみがみやっている近所のおばさんとかガキとか、そういうのまできちんと捕えているので、彼の鬱屈とかそこから抜け出せない縛りのきつさとか、なので余計に吹き溜まっていく持ってきどころのない怒りとか、ものすごくよくわかって、彼がその先に広がる、とりあえず週次でやってくる土曜の晩から日曜の朝にかけての憂さ晴らしの時間に掛ける思いとかもものすごくよくわかる。どれだけぶん殴られたってぜったい渡すもんか、ってなるよね。 飼い慣らされているって言われようがどうしろってんだ(と更にふつふつとどこにも向けようのない怒りが)。

こっちに来てBFIに通ううち、ここって英国の機関だから当然いろんな英国映画を見る機会が増えて、そうすると昔のを含めた英国の町とか村とかいろんなイメージが地図のように溜まったり繋がったりしていって、とても楽しい。この時代の若者が通過していく英国の景色は(例えば)こないだのMichael Caineのドキュメンタリー”My Generation” (2017) のそれに移っていくのだろうな、とか。 同じかんじはNew Yorkの映画を見るときにも起こって、それがあるので未だに昔のNY映画はつい見てしまったりするねえ。

この時20代前半のAlbert Finneyの生々しく強く生きているかんじときたら。ドキュメンタリーの中の登場人物のように汗かいてて、ぜんぜん演技しているようには見えないの。

あと例えば、ここで彼が抱えている鬱屈と、前世紀末にKevin SmithやRichard Linklaterが描いてきたアメリカの若者たちのそれと、今の日本のリアル若者たちが抱え込んでいる(ように見えてしまう)袋小路とは同じなのかどこがどう違うのか、とか。

調べていて知ったのだが、Woodfall Filmsの最後の作品て”The Hotel New Hampshire” (1984)なのね。
… シネマライズだねえ(じんわり)

4.11.2018

[film] Wonderstruck (2017)

6日の金曜日の晩、BloomsburyのCurzonで見ました。

これを見るはずだった昨年のLondon Film Festivalの日曜の午前、地下鉄が動いてくれなくて痛恨の見逃しをした悔しさがまだ燻ってたまんなかったので正式公開の初日に見た。でも大々的に公開するわけではない模様。こんなにすばらしいのにさ。

1977年、MinnesotaのGunflint Lakeで、狼に追われる夢にうなされる少年Ben (Oakes Fegley)がいて、彼は母 (Michelle Williams) を事故で亡くして親戚のところに引き取られて嫌な思いしてて、更に落雷で耳が聞こえなくなって踏んだり蹴ったりで、母の遺品のなかにあった本を携えて、父親の手がかりを求めてNYに旅立つ。

1927年、NJのHobokenには耳の聞こえない少女Rose (Millicent Simmonds)がいて、サイレント映画の女優Lillian Mayhew (Julianne Moore)のスクラップを作って、映画館で彼女主演の映画を見たりしているのだが、彼女主演の舞台を見にNYに向かう(やがてその女優はRoseの母親で、母親は彼女を避けたいと思っていることがわかる)。

77年のNYに降りたった耳の聞こえない少年の冒険と、27年のNYを行き場を失って彷徨う耳の聞こえない少女の冒険が交互に(77年はカラーで、27年はモノクロで)映し出されて、50年を隔てたふたつの物語はどこでどんなふうに絡みあってひとつの物語を、ひとつの星座を形作るのか -  でも実はこれらの結合の度合いとか物語としての必然性ってそんなに強いものではなくて、そうなったからといって奇跡のような素晴らしいことが起こったり現れたりするわけでもないの。

“Carol” (2015) は50年代のNew Yorkでなにかを喪失したふたりの女性がそこからふたりだけの愛を求めてひたすら逃走していくお話しだった。 Brian Selznick 原作のこの話は、ふたりの聴覚を失った孤児が、時間を超えて同じような場所にあるなにか – それは博物館とか古本屋とか、塵が積もったような溜まり場みたいなとこにあるらしいけど、十分にわかっていない - を探しだそうとして迷子になっていくお話。 ものすごく変な具合に入り組んで先は茫洋としていて、しかしなんとしてもロマンチックななにかに落とし込むんだから、という強引で理不尽としか言いようのない意思みたいのがあるばかりで、でも好き嫌いでいうとものすごく大好きですばらしいやつだと思った。

それはたぶん、夜空に勝手に適当に散らばっている星のいくつかを勝手に星座と呼んでそこに運命を託したり、文明だろうが動物だろうが鉱物だろうがなんでも集めて並べて博物館をつくったり、古今の紙束 - 書物を集めて図書館とか古本屋を開いてみたりするのに似て、それらを見つめて見えてくる何かの模様とか堆積とかに自身の痕跡とか軌跡を繋げてみる、そんなことをしてなんになるのか? たぶんなんにもならないのだが、自分がそれらをじーっと見つめれば見つめるほど、向こう側からもこちらを見てくれている気がする。病気かもしれないけど、それがなにか?

“Coco” (2017)で描かれた極彩色の死者の国も、”Ready Player One” (2018)でJames Hallidayが組みあげた仮想空間も、そういうゴミみたいなごちゃごちゃの集積のなかに隠された宝物を探す話だった。 この作品が探して差し出すのは宝物、というほどのものではないけど、一瞬で電撃のように彼らの身体を貫いてなにかを/すべてを解らせる - いつも「なぜ?」「なんで?」ばかり口にして混乱しているBenを黙らせる -  そんなようなもので、でもその電撃って、ふだん本を読んだり美術館に行ったり映画を見ているときに我々の頭のなかで起こることとそんなに違わないんじゃないかしら。そういうことが起こるからそれはやめられないのだし、そういうことが起こるのは「自分が」見たり読んだりしているから、だけではない気がする、よね?

最初のほうで、Benの母親の部屋のレコードプレイヤーではBowieの”Space Oddity”が流れていて、それはわかるのだが、エンディングにはThe Langley Schools Music Projectの”Space Oddity”が流れる。1976–77年にレコーディングされて2001年に「発見」されたこのレコードの曲が流れるのには意味があるの。彼らは”Can you hear us, major Tom?” って歌うんだよ。(オリジナルは”Can you hear me, major Tom?”) Carter Burwellさんの音楽もすばらしい。

ふたりの子役は本当に見事だし、3態(銀幕、舞台、--)を演じたJulianne Mooreもあの時代のひとみたいに素敵だし、彼らの表情がずっと、本のなかにいるように残る。 ”Carol”にもそういうところはあったけど。  “A Quiet Place” – すごーくおっかなそうだけど見たほうがよいかなあ。

映画館のCurzonて映画のプロモーション用の景品とかをTwitterでよく抽選/プレゼントしてくれたりしてて、昨年だと「お嬢さん」のタコTシャツとか、「犬ヶ島」のわんわんキットとかやってて、当たったことなかったし当たると思わなかったのに”Wonderstuck”のは当たっちゃった。本とDVDだって。こういうの当たるのってめったにないのでうれしい。まさに”Wonderstuck”だわ。 DVDプレイヤー持ってないけど.. (まずはブツがちゃんと届くかしんぱい)

4.10.2018

[dance] Bernstein Centenary

27日の火曜日の晩、Royal Opera Houseで見ました。

Leonard Bernsteinの生誕100年を記念したプログラムで、Royal Balletに縁の3人の英国人コレオグラファーによる3本の中短編プログラムでもって米国人のBernsteinをお祝いする。 レビューの評判がよかったせいか結構Sold outしていた。

Bernsteinのダンス(音楽)、というとNew York City BalletのGeorge BalanchineとかJerome Robbinsとかによる入門編のような - 音楽も、個々の動きの要素もその連なりもシンプルでわかりやすい - 定番のプログラムがいくつかあって、90年代に結構見たけど今見たらどんなふうに見えるのだろうか。
以下、上演順に。各演目の間には30分づつの休憩が入ってて、なかなか間延びしていた。

Yugen

振付はWayne McGregor。19分。
昨年ここで見たこの人による”Woolf Works” (2015) は Max Richterの音楽も含めてなかなか素晴らしくて(その時買った伴奏CDは未だによく聴く)、だから今回のも期待しないわけにはいかない。

曲はChichester Cathedralの依頼を受けて書かれたコーラス曲  - “Chichester Psalms” (1965)で、オーケストラに加えて結構大編成のコーラス隊による荘厳な合唱が被さる。

セットは”Woolf..”の時と似たかんじの中心が空洞になった縦長の構造物が背景にあって、これがゆっくり動いたり回転したりしつつ、11名のダンサーは時にスリリングに時に優雅に身体を絡ませあって、それらはものすごく複雑だったり緻密だったりアクロバティックだったりしているわけでもなく、これのなにがそんなに胸躍らせてくれるのか、まだ十分にわかっていないのだが、とにかく見ていてなんか気持ちよくてかっこいいのね。

“Yugen”ていうのは日本語の「幽玄」なのか「有限」なのかそれともぜんぜん関係ないなんかなのか、プログラムの冊子をざっと見た限りではあんまよくわかんなくて、なんとなく「幽玄」、ならありかも、と思わないでもないのだが、実際の動きはシャープで目を離すことができないかんじなのだった。

The Age of Anxiety

振付はLiam Scarlett。 39分。
“The Age of Anxiety”はW.H.Audenが1948年に発表した詩で、彼はこれでピュリッツァー賞を受賞している。 1939年、米国に移住した彼は18歳のChester Kallmanと出会って一緒に暮らしつつ、ポーランド侵攻や大戦に向かっていくどんよりした空気をNew Yorkから綴った"September 1, 1939"を書いているが、その流れのなか1944年に書き始めたのがこの詩で、Bernsteinはこれを受けて”Symphony No. 2 for Piano and Orchestra” (1948-49)を作った。バレエではこの曲をベースにJerome Robbins が1950年に、John Neumelerが1991年に作品を発表している。

場面は3幕構成で、NYのバー、アパートの一室、夜明けの路上があり、バーで飲んで騒いで、そのうち誰かのアパートに流れて引き続きはしゃいで、夜が明けて一日が始まっちゃうけどだいじょうぶ? .. よね、みたいな展開。ダンサーは7名。それぞれバレエのコスチュームではなくてバーテンダーだったら会社員だったり、舞台セットも含めて演劇的要素を持っていて飽きないし、たぶんもっともBernsteinの一般的イメージに近いやつだったと思うのだが、バレエとしてどうかというのは別のはなしで、“The Age of Anxiety”というテーマがやや空回りしていたのは残念だったかも。

Corybantic Games

振付はChristopher Wheeldon。33分。音楽は”The Serenade, after Plato: Symposium” (1954)。

それぞれが短めの全5幕構成で、延べ26名のダンサーがせわしなく出たり入ったりしつつプラトンの饗宴みたいな - 人々がわらわら好き勝手に言いあって統制がとれないような - イメージを作り出している、と言えばそうなのかも。 コスチュームはテープをぐるぐる巻きつけたようなタイトなやつで、動きのかんじはMerce Cunninghamの群舞のそれに似ていないこともない。一番従来のBernsteinのモダーンのイメージを踏襲しているふうで、このへんて難しいんだろうなー、て思った。

というわけで、順位つけるとしたら、1 > 3 > 2 か。 でも振り返りイベントとしてはとてもよかったかも。