10.16.2017

[film] Lucky (2017)

10日の火曜日の晩、21:15からLeicester Squareのシネコンで見ました。LFFの1本。
ついこの間、余りに突然の訃報が来たばかりで生々し過ぎてきついよう、だけどこれを見ることでお別れをすることができるのであれば、と。

Harry Dean Stantonの最後の主演作で、彼が、彼にしか演じることのできない役を彼にしかできない演じ方で演じている。 ストーリーとか個々のエピソードとかよりも彼が演じるLuckyがそこにいる/いたという感触とか彼の輪郭、息遣い、そういうのとか、彼がいっちゃった後のがらんとした部屋のかんじばかりかやってくるので切なくて辛くて、隣で見ていた若者はずっとべそをかいてて、それもよくわかるの。

冒頭、砂漠の景色をゆっくり横切る陸亀がいて、そこから亀のように干からびたLucky (Harry Dean Stanton)の首筋と髭を剃る姿と身支度をして帽子をかぶって外に出る様子と、日課と思われるカフェでのクロスワードをしたり、場所を変えてバーでそこの常連 - David Lynchとか - や店員とだべったり、合間にずっとタバコを吸ったり、突然なんか言ったり、(スペイン語で)歌いだしたり、そういう姿が繰り返されるだけなの。 カフェで隣あった客 - Tom Skerritt! - との会話でかつてNavyにいたらしいことがわかり、結婚したことがないこと、子供も身寄りもないこと - もわかって、そういうのをずっと心配している近所の人が来てくれたりもするのだが、そんなことされてもどうしろというのか、と心配する方もされる方も困って顔を見合わせるしかない。

なにか事件や問題が起こったりすることもなく、Luckyの日常を定点観測しているだけ、のような内容なので、ドキュメンタリーでもおかしくもない気もするのだが、やはりこれは映画で、映画のなかで様々な人生を演じてきた男の生の、映画的に映しだしてみるしかないその終わり(本人がそれを一番よくわかっている)のありようなのだと思った。

テーマをよく言われ易い「老い」のようなところに置くとぼやけてしまう気がする。若者だろうが子供だろうが今ここにある魂の状態について、その扱いかたについて、明確に伝えようとしている。
それをここには書かないけれど、とにかく映画を見てほしい。 Harry Dean Stantonという俳優のことを、彼の映画のことをよく知らなくても、彼のあの大きな目がなにを語ろうとしたのかはわかり易すぎるくらいわかって、この後で彼が旅立ってしまったことをあわせてみると、これを遺してくれてありがとうとしか出てこない。

上映後に脚本のLogan Sparks氏のQ&Aがあった。 氏は自分の結婚式のBest ManをHarryにしてもらって、自分の息子にStantonと名付け、Harryに会う前と後で自分の人生ははっきり変わった、と言い切っている人で、そういう人がHarry Dean Stantonのことを書いた映画で、彼にとってもまだ映画を見るのは辛いそうなのだが、とても誠実にいろんな質問に答えていた。ここに出てきたエピソードとかLuckyの挙動はほとんどが彼が生前やっていたようなことなんだって。

日本でも公開されますように。(Harry Dean Stantonの特集上映と一緒に)

あ、俳優としてのDavid Lynchさんはほとんど出来上がっていた。Twin Peaks的ないみで、ね。


今日(15日)でLFFが終わりました。 まだ書いていないのはあるのだが、明日から仕事で中東のほうに行くので一週間くらい更新は止まります。   これのおかげで水曜日のMatt JohnsonがFilm Scoreを語る会は行けなくなっちゃったよう …

ではまた。

10.14.2017

[film] My Generation (2017)

8日の日曜日のLFF。 この日1本目に見るはずだった"Wonderstruck”は前に書いたように地下鉄が動かなくなって大慌てで駆けこんだ先のOvergroundの電車が目的の駅に止まってくれなかったので諦めた。
ぜんぜん聞いたことも見たこともない駅に来てしまい、しかも3時間くらい空きができてしまったので、Rough Tradeに行ってレコード漁ろうかとバスに乗ったら途中にGeffrye Museumがあったので降りて寄ってみた。 英国のふつうの暮らし - 家、部屋、建付けとかも含めて展示しているところで、前から行ってみたかったの。庭園もとても素敵なかんじだったし。
展示内容をみてわかったのだが、今自分の借りているところは昔の住居でいうと屋根裏部屋に位置づけられるらしい。
なるほどなー。 ← そんなのわかっとけ。

Rough TradeではThe Wedding Presentの本- “SOMETIMES THESE WORDS JUST DON’T HAVE TO BE SAID"が置いてあったので買った。 すごくよい本だよ。

映画は、3時過ぎにCurzonのChelseaで見ました。
ここはKings Road沿いの映画館(シネコンではない)で、Kings Roadはブティックとかカフェとかガーデニングの店とかいっぱいあって、平日は見るからにお金持ちなマダムが犬ころを散歩させたりしてて、古くからの貴族とかもうじゃうじゃ暮らしている界隈で、そういう老人たちにとってのアイコンであるところのMicheal Caineが出てくるドキュメンタリーで、本人も来るというので、ぱんぱんの場内は着飾った老人たちの枯れた香水の湯気でむんむんで、みーんなシャンパンのグラスとか傾けてやがるの。映画館で。

Michael Caineのドキュメンタリーではなくて、60年代のLondonがなぜ特別なのか、特別だったのかをMichael Caine自身の語りとインタビューの抜粋、当時のフッテージの切り貼りといろんな関係者の語りで浮かびあがらせる。出てくるのはDavid Bailey, Joan Collins, Roger Daltrey, Marianne Faithfull, Lulu, Paul McCartney, Terry O'Neill, David Puttnam, Mary Quant, Vidal Sassoon, Sandie Shaw, Penelope Tree, Twiggyなどなど。

冒頭に流れるのがThe Kinksの"Dead End Street"で、それがそのまま"Waterloo Sunset"に変わり、これだけで泣きそうになるのだが、60年代のロンドンの街中を、当時のばりばりのMicheal Caineが歩いたり車に乗ったりの映像 - "Alfee"とか"Gambit"とか - と、それと同じ動作を反復する現在のMichael Caineの姿が交互に切り替わって、それを見ている老人たちの溜息、吐息が渦を巻いてすごい。

50年代の停滞を経て、60年代のLondonはWorking Classの若者にも等しく機会を与える、そういう方向に大きく転換したのだ、というのがポイントで、そうやって開かれた扉を通して音楽でもファッションでもすごい才能がいっぱい現れて、それは国内に留まらずBritish Invasionという形で世界に知れ渡って、続いてやってきたドラッグカルチャーの到来と共に一挙に萎んだ、というわかりやすいお話し。

これまで余りきちんと考える機会も材料もなく、なんとなくぎんぎんしていてすごいと(みんなが言うから)思っていた60年代のSwinging Londonのありように初めてきちんと、その時代の典型的な像 - 彼自身がWorking Classから出てスターになった - Michael Caineをガイドに迎えて知ることができた気がした。
(ちなみに彼は最初Michael Whiteていう名前で活動していて、スタジオに電話してその日の出番があるか聞いていたら丁度いい役があるけど同じMichael Whiteがいるから名前変えろって言われて、たまたまその電話ボックスの外の映画館でかかっていた"The Caine Mutiny"の看板を見て"Caine"にしたんだって。別の映画がかかっていたら別の名前だったかも、って)

ただもちろん、彼のあの容姿や振る舞いでもって当時のGenerationを表象させてしまうことがどこまで正しいことなのか、という当たり前の問いは残る。それって日本の50-60年代の青春を石原兄弟とか日活映画のイメージで語ってしまうことの危うさと果たして同じなのか違うのか、そこはわかんないかー。 でもそれにしたってほんとにみんなかっこいい(よく見えてしまう)のはなんで? ていうのはあるよね。

映画が終わってやんやの大喝采の中、Q&AでMichael Caine氏が登場する。(Madnessの"Michael Caine"と共に、はただの夢でした)
もうさー、足を組んで座っただけで映画のMichael Caineとおなじなのよ。

いろんな質問が出て割とさばさば答えていたが、俳優を志しているという若者がひとつアドバイスをください、というのに「どんなアクセントでも喋れるようになりなさい」と即座に返したのにはおぉー、てみんな唸っていた。 あと「対面で演技をするとき、片方の目で相手をじっと見て、もう片方の目でカメラを見る、これをできるようになりなさい」って。

あと、Londonの町が変わったと感じたのはどんなときでした? に「イタリア料理店ができたこと」ていう答えとか。

あと、ドラッグがなんでだめだったか - はいうまでもないか。

10.13.2017

[music] Kid Creole and the Coconuts, Arto Lindsay

7日の晩、Barbicanで見ました。

前に映画のとこで書いた80年代New YorkのDowntownシーン振り返り特集のひとつ、のようなかたちで行われたライブ。
おなじシリーズでもういっこあったのは、"Jim Jarmusch Revisited"ていう Jim Jarmuschの映画音楽を演奏するライブで、鍵盤はSteve Nieveさんだったりしたのだが、Jim Jarmusch本人が来てなんかやるのならともかく、 そうではないようだったのでパスしたの。

でもこっちの、Arto LindsayとKid Creole and the Coconutsは悩ましくて、特にKid Creoleはライブ見たことないしなー、もう相当老人だろうし動けるのかしら? とか思って、7月頃にチケット取った(ら、前から3列目だった..)

彼ら最近は何か活動しているのかしら、と思ったらCulture ClubとかABCのサポート・アクトもやっているのだった。
NYでライブ告知とか見たことなかったのは80年代に活動拠点をヨーロッパに移したからなのね。
(ライブのMCでは米国に「いられなくなった(笑)」て言ってた.. )

事前のタイムテーブルではどちらの割当も1時間15分だったので、前座というより対バンなのね、というArto Lindsay氏のバックはパーカッション、ドラムス、鍵盤、ベースの4人 - 6月に来日したときのと同じ? メンツで、ばしゃばしゃ羽音のレンジが広くてやかましい太鼓の砂利道にMelvin Gibbsのぶっとくうねる荒縄が筋をつくって、そこに鍵盤が薄いカーテンをふんわり、と思ったらアヒルのくちばしギターががしゃがしゃと切り裂いて、ふん! みたいなそういう音で、これとか、Cyro Baptista氏がJohn ZohnやMark Ribotらと一緒にやるときの音 - 90年代の旧Knitting Factory 〜 Tonicあたりで鳴っていた音が自分にとってのNYアンダーグラウンドの、一番涎だらだらになる音だなあ、と思って、なにをどう聴いてもどうしようもなく気持ちよいばかりなので、ああしょうもないと思った。

Arto Lindsayさんはゆらゆらふらふら変幻自在で、仙人みたいになっていた。あひるポーズも仙人の余裕で何度か決めてた。

休憩のあとでKid Creole and the Coconuts。 最初に遠くから「でーを!」のバナナボートがアカペラで聞こえてきて、ドラムス、鍵盤、ベース、ホーン3人、ギターのバックにCoconutsの女性3名 - 当時からのメンバーだったらすごいよね - だったがそれはなくて、みなさんぱりぱりの、英国から1名とオランダから2名 - が入ってきて、ギターの若者(後で、August Darnellの息子さんであることがわかる)が威勢よく煽って、いつものあの恰好のAugust Darnellが滑るように入ってきて、Coconutsの3人と絡みまくる。
あーこういう楽しい系のやつ、久しぶりかも、と思ったら3曲めくらいまでにあげてあげてBarbicanのお行儀よい年寄り(&孫)だらけの客席を総立ちにさせてしまうのだった。

かんじとして一番わかりやすいのは、映画"The Blues Brothers"(1980)で、Cab Callowayが待ちでざわざわし始めた観客を瞬間湯沸かしさせてしまった、あの場面。 あれとほとんど同じよ。あの長いコートになんか仕込んであるとしか思えない。

わたしはくたびれていたので座ったが、立っているひとはずーっと立ってそれぞれに楽しそうにスイングしてて、いいなー、だった。
1時間強の本編のあと、20分くらい続く1回めのアンコールがあって、さすがにもうへとへとじゃろ、と思ったらバンドはステージの端にまだ待機してて、当然な顔して2回めに入って更に軽快に吹きはじめて、それがまったく終わる気配を見せないので、かつて3時間を超えてもぜんぜん終わる気配を見せなかったGeorge Clintonの恐怖 - あんときはほんとしぬかとおもった - が立ちあがってきたのだったが、さすがにあそこまではいかなかった。

終わったあとホールのロビーがダンスフロアになってて、NYから来たDJさんが午前1時までお皿廻すらしかったが、こちらもごめんなさいして帰った。

後になって冷静に考えてみて、このええじゃないか音頭を、当時のDowntownシーンにどう位置付けるべきか、改めてわかんなくなったかも。 「なんでもありだったからさ」のバケツにつっこんでしまってよいのだろうか?

[film] Columbus (2017)

7日の午後、"The Meyerowitz Stories (New and Selected)”を見た後に、Prince Charles Cinemaに移動してみました。

これもLFFで、これも父親がコーマになってしまうお話だった..

Indiana州のColumbusで、建築家の男性が雨のなか倒れて、その後に彼の息子Jin (John Cho)がやってきて滞在を始めるのだが回復するのかもわからないまま、ただ待つしかなくて、そこで地元の女性Casey (Haley Lu Richardson)と知り合う。 彼女は建築を勉強していて、できれば建築家になりたいという夢があって、そのためにここを離れて他の大学で、という話もあるのだが、療養中で不安定ででも工場で遅くまで働いている母親の面倒を見るためにここにいる必要があるのだという。

それぞれの親の事情でColumbusに留まらざるを得なくなっているふたりの、特にすることもないのでタバコを吸いながらColumbusの建築を眺めてあーだこーだ言ったり、ぼーっとしたりする無為な日々を描いた、ほとんどそれだけの映画なのだが、びっくりするくらい、ものすごくよいの。

画面はほぼ固定で、人物の像は遠くから背中をむけた状態でとらえられたものが多くて、その向こうには建物がでっかくあって、その状態で静かに会話してばかりなので建築の紹介番組みたいに見えなくもないのだが、森や緑の間からぬうって抜き出て建っている建築物たちを見ていると、これらってそもそもなんでここに建っているの、とか、なんでこんなものの前で立ちつくして魅せられてしまうのか、という疑問はふつうに湧いてきて、彼らもそれに近い会話をしたりしながらそういえばそうかも、とか発見したりしている。 肉親が倒れたり病気だったり、自分らの将来も含めて不安定な宙吊り状態にある彼らからすると、でっかい建築の揺るぎない確かさとか不変さって、素朴な違和、異物としても現れてきて、なんなのだろう - 変なの、というのが見ているこちらの感覚としてもよくわかるし伝わってくる。

それが伝わるように画面とか光の具合とか音とかを柔らかく繊細に掴まえようとしているようで、他の土地だったら河だったり湖だったり岩だったり森だったりするかもしれないそれらが、この映画では建築物であることがとてもよくわかって、それがわかってくる頃に近づいていくとは思えなかったふたり - Jinのそばには父のアシスタントだったEleanor (Parker Posey)がいる - の距離も。

John Choの抑えまくった異邦人としての演技は溜息もののよさなのだが、それを静かに受けとめるHaley Lu Richardsonさんがすばらしくよくて、Ellen Pageさんが出てきた頃のようなかんじ。 いつも口はへの字に結ばれていて、じゅうぶんわかっているのに互いに踏みこめなくて、浮き沈みを繰り返しているけど悟られたくはなくて、結果あーあ、って俯いてしまう - またしても。 その連続。 

Columbusは行ったことないのだが、こういう映画で見る建築の数々はとても素敵だったので、機会があったら行ってみたいかも、て思った。

https://columbus.in.us/guide-to-the-architecture/

10.11.2017

[film] The Meyerowitz Stories (New and Selected) (2017)

7日の土曜日の昼間、LFFの(自分にとって)2日目、Embankment Garden Cinemaていうとこで見ました。
こんなとこに映画館あったのかしら? と思ったら駅の横の公園に特設テントみたいのができてて、そこが映画館になっているのだった。 スクリーンのでっかさも音も申し分なかった。

今回のLFFで一番見たくて、真っ先に取ったのがこれ(ほんとは、"Lady Bird"に来てほしかったのだが..)で、見れたのであとは割とどうでもよく.. はないかやっぱり。
いまはWes Andersonの新作よりもRichard Linklater の新作よりもPTAの新作よりも、Noah Baumbachの新作が見たかったの。

ものすごく、身体が震えるほどおもしろかった、画面が切り替わる(たまに途中でぶち切れたり)ごとに、暗転するごとに、ああ、ってページをめくりたくなって、でも読み進めるのも勿体なくて、という読書の壺にはまったときの感覚がやってくる。 映画を見ていてこういうのはなかなか来ない。

全体でチャプターが4つくらいあって、最初が"Danny"、次のが"Matthew"。 ちょうど「フラニー」と「ゾーイ」みたいに。

冒頭、Danny Meyerowitz (Adam Sandler)が娘のEliza (Grace Van Patten)とダウンタウンの路上で駐車スペースを探していて、この探しかたで彼の性格がだいたいわかって(ま、通常のAdam Sandler)、彼は彫刻家の父Harold Meyerowitz (Dustin Hoffman)のアトリエ兼アパートを訪ねて、そこには義母のMaureen (Emma Thompson)と妹のJean (Elizabeth Marvel)がいる。 Maureenの料理はひどいみたいだけど誰も文句いわない。
Dannyは定職を持たずにだらだら暮らしているようだが、かつては音楽を志したこともあったらしい、というのがElizaとのピアノのデュオでわかったり、父の友人 - L.J. Shapiro(Judd Hirsch)の個展がMOMAであるというのでDannyは父にくっついていくが、父はそれなりに名前は知られているもののもはやシーンの端っこにいることがわかったり。

Dannyの弟で、でも母親が違うMatthew (Ben Stiller)は西海岸で不動産を切った貼ったでいつも電話ばっかりで慌ただしくて、でも成功しているらしいことは身なりとか話しかたでわかって、なにもかもDannyとは違ってぱりっとしている。 父がまず気に掛けて無意識に口にするのはMatthewのほうで、その辺もDannyには気に食わないから、ふたりは犬も食わないような小競り合いばかりしている。

他にもいつも忘れられるJeanのこと、元妻のJulia (Candice Bergen)のこと、自主製作で変てこジャンクポルノみたいなのを作っているElizaのこと、L.J.の娘のLoretta (Rebecca Miller - "Maggie's Plan"の監督だよ)のこと、みんないちいち紹介していったらきりがない(でもおもしろくてさ)のだが、そんな一族がHaroldが脳内出血で倒れて昏睡状態になると更にがたがたの最悪になっていって、さてどうなるのかしら? と。

こないだの"The Big Sick"だとコーマになった彼女のまわりで一途な恋が小爆発するが、こっちの方は家族の中心にあったHaroldの不在が更なる混乱とか不和をまき散らして、やがて驚くべきことに(驚かなくてもいいけど)、なんとなく風邪が治るみたいによくなったりもする。 それが家族なのだとは間違っても言えるようなもんじゃないのだが、家族ってずっと誰かが風邪をひいているような、そういう集団のことさ、くらいの言いっぷり。 このかんじは例えば"The Squid and the Whale" (2005)の家族像にも確かにあった。

ここのとこ、"Greenberg" (2010)  - "Frances Ha" (2012) - "While We're Young" (2014) - "Mistress America" (2015) と、何があったんだか知らないがちょっと脇道にいってしまった変なヒトたちを描いてきたNoah Baumbachがもう一回家族を描いて、そこではこれらの変なヒトたちのいろんな断片がぐるぐる弧を描いて踊っているので、なんかすごい。 でも、それでも正論を吐くような奴はこれっぽっちも出てこない、という線は守られていて、誰もがみんなとても愛おしい。

とにかく、Dustin Hoffmanを真ん中に、その子供、腹違いの兄弟にAdam SandlerとBen Stillerを置く、それだけでもう、ありがとうしか出てこないよ。 このふたりのそれぞれの映画でかっこよくないじたばたの取っ組みあいを何十回も見てきた気がするが、ここの兄弟の取っ組みあいなんて、あまりにそれがそのまま出ているので感動して言葉を失う。

これは"(New and Selected)"なので"(Old and Selected)"でも"(New and Revised)"でもなんでもいいから続いていってほしい。
とりあえず次は、Haroldの3人の元妻たち、とか。それかElizaの冒険とか。

音楽は、ついにRandy Newman先生ですよ。 エンドロールの歌声に感動した。
でもそれ以上にちらっと聴こえてくるPrefab Sproutの"Wild Horses"に泣きそうになったわ。

10.10.2017

[film] How to Talk to Girls at Parties (2017)

6日の晩、"Manifesto"をBFIで見たあとにPrince Charlesに移動してこれ見ました。
金曜日だし、いいの。

待望のJohn Cameron Mitchellの新作。 "Baby Driver"と並ぶ今年のパンク炸裂映画。
原作はNeil Gaimanの2006年の短編で、2007年のヒューゴー賞にノミネートされて、ローカス賞の最優秀短篇を受賞している(未読)。

この回はこの日の2回目の上映で、ひとつ前の回がUKプレミアだったと。
で、John Cameron Mitchellが元気たっぷりに登場して、上映前だけど質問あるひと〜?
客「なんでCroydonが舞台なんだ?」、監督「いいとこ突くね〜。あそこなんもないのにねー」 などなど。

77年の英国のCroydon。 
Enn (Alex Sharp)は朝起きあがってレコードプレーヤーまわすと、The Damnedの"New Rose"ががんがんで、これだけでもうしぬほど好きになる。
彼はパンク関係のイラストを描いてはチラシとかステッカーを貼ってまわったり、友人のVicとJohnと3人で自転車乗り回してレコ屋いったりパンクの小屋行ったり毎日ふらふら遊んでて(いいなー)、そんなある日、いつものたまり場(そこの女王がNicole Kidman)に寄って帰る途中の夜、住んでいないはずの建物が変に光ってて音楽が聞こえてくるので入ってみると変な人たちがうじゃうじゃいて、3人それぞれにゆらゆら幻惑されて、要するに彼らは宇宙からコロニーごとにツアーにやってきた宇宙人で、EnnはZan (Elle Fanning) と知りあって仲良くなりたくなって、いろいろお話しして、「パンクってなに?」とか聞かれる。

77年の英国で、Elle Fanningみたいな宇宙人からパンクってなに? と聞かれたらどう答えるべきか?
その答えはともかく、そういう映画なの。 とにかく最高としか言いようがないの。

EnnがZanに最初にキスしようとして唇が触れそうになったとこでげろしちゃうとことか、たまんないったら。

で、その晩、EnnはZanを自分ちに連れて帰って母と会わせて、翌日はNicoleのとこのパンクの集まりに連れていって、これが地球のパンクだおらーみたいな盛りあがりがあって、ずっといればいいのにな、になるのだが、Zanはこのツアーが終わると長老に食べられてしまうのだという。
そんなことさせてなるものか! ってEnnと仲間たちは.. 

最後までパンクでぶっ通すかと思ったらそうでもなくて、ラストは1992年に飛んで、とっても切なくしんみり終わって、でも文句ない。
全体の筋構成はSFで、そこにBoy Meets Girlと、ロンドンの外れにやってきた宇宙人との遭遇と、3人のすれっからしパンクが大人になる話と、更に親になる(とはどういうことか)話まで入ってきて、要するに、優れたSFが常にそうであるように、我々が学ぶべき大切なことがぜーんぶ入っている。 
言うまでもなくそれは、「パーティで女の子に話しかけるには?」ていう世紀の、喫緊の、永遠の難問・難関ともまっすぐに繋がって刺さってくるんだよ。

上映後のQ&A、監督のスマホ経由でNeil Gaimanさんが挨拶してくれた。 (彼とAmandaの赤ん坊の声が聞こえたよ)

Q&Aに同席していた脚本のPhilippa Goslettさんによると、オリジナルの短編を映画に書き直すのって、原作はパーティが終わるところから始まっているし、短篇なんだけどすごくいろんな要素がぜんぶ入っているしで、ものすごく難しかった。 そもそもテーマはタイトルとはあんま関係なくて、"Parenthood"みたいなとこだし、と。

音楽は冒頭のThe Damned以外は最近の人たち - The New PornographersのA. C. Newmanとか - に当時のパンクのテイストでもって作って貰ったと(サントラもでるって)。 あと、3人が自転車で走り回る冒頭のぺらぺらした70年代のTV画面みたいな画像は、デジタル圧縮されたのを引き伸ばしたり、Martin Scorseseのそういう類のデジタル処理をしてくれるラボに委託したりしたのだと。

なんでNicoleは(こんな安っぽい映画に)出てくれるんですか? という問いには、彼女は"Rabbit Hole"(2010) - よい映画じゃった - 以降ぼくの奴隷だからさ、って(やや得意げに)。

あと、Elle Fanningさんはアドリブの天才だったって。 そんなかんじよね。

この舞台がNYだったら... て少し思って、そういえば昔に"The Brother from Another Planet" (1984)ていうのがあったねえ。 恋の話ではなかったと思うが。

正式公開されたらまた見よう。

10.09.2017

[film] Manifesto (2015)

London Film Festival (LFF)が4日から始まっていて、6日の晩のこれが自分の最初ので、BFI Southbankで見ました。

LFFは初めてでどんなものかわからないし、平日昼間なんて当然仕事だし、前売り時点では出張の予定もあったし、本数もVenueの数もNYFFと比べるとなんかやたら多いので、BFIメンバー向けのチケット発売日には結構ブレーキかけて、明らかにそのうち公開されそうなのはやめる、とか、チケットの値段が高いの(ゲストが豪華)はやめるとか、時間がぶつかっているのも結構あって、結果として12枚とった。(すでに1本、地下鉄が動かなかった&慌てて走って飛びこんだら別の電車だった、で見れなかったのがでた(涙)。今後の教訓とする)

ここまでのとこ、やっぱしNYFFがいちばん好きかも。 東京のよかぜんぜんよいけど。

2015年リリースのオーストラリア - ドイツ映画で、監督は映画というよりは"Film Installation"だと言っていた。

古今東西のいろんなマニフェスト - 主にアート系の - を13のシチュエーションで13のキャラクターに扮したCate Blanchettさんが読みあげたり、ヴォイスオーバーで被せたり、そこで生まれるギャップやくすくすや「お呼びでない」感を紙芝居のように淡々と見せていく。監督が冒頭に言っていたようにこの作品が製作されてから2年が過ぎて、ポピュリズムの嵐が吹き荒れるなか、「宣言」の持つ重みとか軽みとかを改めて考えてみるよい機会かも、と。

どんな格好とか場面が出てくるかというと、廃墟のようなところのゴミ袋さげた浮浪者だったり、為替だか株だかの取引のオフィスだったり、ゴミ処理施設だったり、コンサバなお宅のマダムだったり、金持ちの豪邸でパーティしてたり、お葬式だったり、パンクバンドの楽屋だったり、人形使い(Suse Wächterのすばらしい人形たち)だったり、ショーの集団振付をやっていたり、放送局のキャスターとお天気レポーター(どっちも彼女がやってる)だったり、小学校の教室で先生やってたり、てんでばらばらで、その振れ幅とCateの適応ぶりっこがあまりに激しいので、SNLのコントかなんかかと思う。

で、それらで朗読されるManifestoは例えば、Marx / Engels『共産党宣言』、Tristan Tzara『ダダ宣言』、Lucio Fontana、Alexander Rodchenko、Guy Debord『シチュアシオニスト宣言』、Bruno Taut、Barnett Newman、Wyndham Lewis、Malevich、Picabia、
Wassily Kandinsky / Franz Marc 『青騎士』の序文、Paul Éluard、Louis Aragon、André Breton 『シュルレアリスム宣言』、Claes Oldenburg "I am for an Art... "、George Maciunas 『フルクサス宣言』、Sol LeWitt、Stan Brakhage、Jim Jarmusch "Golden Rules of Filmmaking" (2004)、Lars von Trier "Gogma 95"、Werner Herzog "Minnesota Declaration"、などなど(の断片)が、なんの字幕も説明もなく、ひとつのセグメント内で割と勝手に自在に接合されている(らしい - きちんとチェックしたわけではないから)。

これらの宣言は主に、世界や社会と芸術のありようが乖離分離を始めた近代以降、「反芸術」とか「脱芸術」のような視点も含めて社会と芸術のありようを再び見つめ直したり切り結んだり戻したりするために - 簡単にいうと「芸術は社会に何ができるのか?」とか「芸術は社会を変えることができるのか?」といった問いにしっかり応えるべく用意されたものだと思っている。

いまのポストモダン(なの?)を生きる我々からすると、もはや「マニフェスト」のような言説のありようからしてぜんぜん信じらんない、どうでもよいものになっていて(→その反動としてのポピュリズム)、そこを流れていくテキストたちは「宣言」というよりもはや「詩」のように聞こえたりもして(この上映では加えて外国語 - 英語のしんどさもある)、それはそれで素敵かも、ていうのと、もしそれが「詩」であるとしたら、それ故のパワーは持ちうるのかも、ていうのと、そうなったときに映画の、映像の力は看過できないものなのかもしれない - 最後のセグメントで小学校の教室で子供たちに聞かせるのが映画作家のテキスト(ただしてんでばらばらだけどね)であることを重ねあわせてみると。

そういったことよりもやはり(よいことなのかわるいことなのか)、ポイントはCate Blanchettの13面相・擬態の楽しさに向かってしまう、のはしょうがないのかしら。 彼女、もはや芸達者とかそういう域を超えている気がした。

上映後のQ&AではCateさまが登場して、撮影はとても楽しかったわ〜とかひらひら優雅にのたまわれ、いくつか質問もされたけどぜんぶ女王様のように答えてて、それでもまったく問題なくて、とにかく素敵でしたの。