7月2日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
“Big Screen Classics” - クラシックを大画面で見よう、といういつものやつで、7月のテーマは「プール」だそう。
最初にJean Vigoの短編”Taris” (1931)が上映される。水泳チャンピオンのJean Tarisの泳ぐ姿、水中の姿を撮ったもので、Taris本人よりも水の動きや揺らめきの不思議、その音にフォーカスしているような。
監督は先月に”Last Summer” (1969)がBFIで異様な熱狂と共にフィルム上映されたFrank Perry、脚本はパートナーのEleanor Perry。原作はNew Yorker誌に掲載されたJohn Cheeverの同名短編で、Cheeverはカメオで出演もしている。 撮影終了後にリテイク/差し替えられた部分の監督はノンクレジットでSydney Pollackが担当し、差し替えされたパートにはBarbara Lodenが出演していたそう。邦題は『泳ぐひと』。
アメリカ東部のコネチカット州 - お金持ちが暮らす州 – の森のなかの邸宅、日曜日のホームパーティーを開こうとしているプールがある一軒家の庭先に、どこからか水泳パンツいっちょうのNed Merrill (Burt Lancaster)が現れて、迎えた側もみんな彼を知っているようで歓待して、二日酔いが酷いけど一緒に飲もうよ、などと誘うのだが、彼はこの近辺の家にあるプールを全部泳いで渡っていけば自分の家に帰れるはずなのでそれをやってみたい、って一人で決めて意気込んで、そこのプールにざぶん、て飛び込むと、困惑する友人たちを置いてすたすたと次の家に向かう。
その行動を通して、Nedはその近辺のコミュニティに顔と名がそれなりに知られた人であることがわかってくるものの、彼がどこから、どこで水着一枚になって、そもそも何をするためにそこに現れたのかはわからないし、彼のアイデアも、なんでプールなのかも、何が起点や動機になっているのかも一切わからず、映画は彼の明るく屈託のない「アメリカン」の笑顔と年齢にしてはそんなにたるんでいないボディをアップでCMのようにとらえつつ追っていく。
庭には囲いや柵がない(囲う必要のない広さと安全がある)ので、彼はすたすた誰かの庭に入っていくと、彼を知っている人のなかにはよい顔をしない人もいるし、道端でひとりレモネードを売っている少年に会って、水のないプールで泳ぎを教えてあげたり、かつて彼の娘のベビーシッターをしていたJulie (Janet Landgard)と会って彼女がかつてNedに憧れを抱いていたと聞くと、一緒に行こう、って誘うのだが怖くなったJulieに逃げられたり、すっ裸の老夫婦がいたり、かつて愛人だった女優Shirley(Janice Rule - Barbara Lodenから替わった)の庭先でやっぱり冷たく(←すごい温度差で)追い払われたり、公営プールでいじわるされたり、足を怪我して寒いし、心身共にぼろぼろになっていく。
展開があまりに唐突だったり変だったり、だんだん彼への当たりがきつくなっていくにつれ、これが寓話のようなものだとわかってきて、ラストでやっぱり、となるのだが、それ以上にアメリカの階級や富裕層の当時の空っぽな(に見える)ありようがプールを介したランドスケープとして芋づるでずるずる連なってくるのがおもしろい。 David Hockneyはこの映画を見たのかしら?
アメリカでは普通の一戸建てでも庭にプールがあったりしてなんでだろう?と思っていたが、人種差別・偏見の煽りでパブリックのプールには入りたくない層をうまく取り込んでこのスタイルが広がっていった(というのがイントロで説明された)とか、Nedは白人なのであんな恰好で庭に入っていっても笑って手を振れば許されるのだろうとか、そういうことも思う。そんな特権的な”The Swimmer”(の終わり)。
そしてここに”Wanda” (1970)の真逆の、ネガティブであてのない彷徨いを重ねてみることは可能だろうか。可能なのではないか、とか。
それにしても、最後(は崩れてしまうが)までアメリカの笑顔と態度を維持しつつ半裸で歩き通したBurt Lancasterの力強さ、刻印するパワーのようなものにはすごいな、しかない。本人はすごく気に入っていた作品だというし。
そして、Frank Perryの映画としては(間にTV作品はあるみたい)、この後に” Last Summer”が来る、というのがなんとも。 そして、この後の映画”Trilogy” (1969)は未見なのだが、こないだ古本でこれの原作?本を見つけた。Truman Capote, Eleanor + Frank Perryの共著で、”An Experiment in Multimedia”とあって、Capoteの3つの短編 – “A Christmas Memory”, “Miriam”, “Among the Paths to Eden”の原作小説(by Capote)とScript(by Eleanor Perry + Capote)とFilmのスチールとクレジット、翻案にあたってのNote(by Eleanor)がセットになっているの。 まずは映画を見たい。
7.09.2025
[film] The Swimmer (1968)
7.07.2025
[film] 花樣年華 (2000)
6月29日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
公開25周年を記念した”In the Mood for Love 25th Anniversary Edition”として、6月27日からお祭りのようなリバイバルが始まって、まだ上映されている。Sight and Sound誌の5月号の表紙&特集がこの映画だったのは、そういうことだったのか。
2022年のデジタル・リマスター版の時のリバイバル - 新宿で見た – から改めて4Kリストアされて、色の落ち着きというか濃度・質感はこっちの方がよくなった気がするのと、9分の未公開シーンが追加されている。当初、撮影されたものの使われなかった二人のセックスシーンが加わるのでは、という話もあったがそれはなく、どこが追加されたんだろーあそこかな?くらいのもの。Sight and Sound誌の特集に掲載されたWong Kar-waiのインタビューを読むと、この作品の成り立ちやテーマのありようからして、細かなところで前にでたり後ろに隠したり、ずっと続いていく追加編集はあってもよいのかも、と思わせるし、見る側にしても、最初に見た時、前回見た時、今回見た時で印象は刻々と変わっていって、今度のが一番よかった – よく見渡せて湿気等が目に張りつく気がした。それもまた – In the mood for Love, ということか。
そもそもは1960年代の香港を舞台に、炊飯器の登場とそれが家庭内の女性たちに与えたインパクト、解放感に焦点を当てた作品を作ろうとして、そこにRaoul Walshによるミュージカルコメディ”Every Night at Eight” (1935)のために書かれた曲"I'm in the Mood for Love"を1999年にBryan Ferryがカバーしたものからタイトルが取られて、そもそもはふんわりとした食べ物の話が真ん中に来るはずだった。
配偶者が出張によって長期間不在となり自分で料理をつくって食卓を囲んだりする必要がなくなった彼らはポットに麺を入れてもらったのをテイクアウトすればよくなったし、日本から炊飯器も来たので、食事は自分で作らなくなって、そういえば隣人も配偶者が不在で狭い廊下ですれ違う – なにやっているのか興味ないしどうでもいいけど、でも向こうも同様のことを思っているのだとしたら... というすれ違いが毎晩のようにMrs Chan (Maggie Cheung)とMr Chow (Tony Leung)の間で繰り返され、はじめはMrs Chanの勤め先の上司の動向と同じように「その」匂いみたいのを感じるくらいでどうでもよかったのだが、ひとりの食事の時間が続いたり同じように雨に降られたりが繰り返されているうちに、どこからか(毎度)In the Mood for … のリフレインが。
カメラはいつまでもふたりの物理的な距離を測れる側面からの位置(時折変な動き)を保って、それぞれの手の動きは追うけど正面から見つめ合う切り返しにはいかなくて、その距離を保とう守ろうとすればするほど、ふたりのもどかしさ、互いに認めたくない己の欲望が湯気のように沸きたってきてどうしようもなくなっていく。のが見える。雨に降られたくらいで冷めるものではなくー。
舞台となった1962年といったら日本では『秋刀魚の味』の年で、同じく食べ物がテーマの映画として(ちがうか)、こうも違ってきてしまうものなのか、とか。『秋刀魚の味』はひっぺがす話で、こっちは(ひっぺがしたい、もあるけど)匂いに寄っていく – 寄せられてしまって困惑してどうしようもなくなる話、というか。
このふたりは互いの事情を明確に語らず、嗜好やああしたいこうしたいも、自分が何をどうしたい、どこまで行きたいのかも最後まで語らず、謎のままで放置の知らんぷりして、それでも彼らが画面の上であんなふうになってしまう肉の声~求めている親密さは調光や衣装や音楽を通して痛痒いほどの距離感で伝わってくる。この点においてMaggie CheungとTony Leungは本当にすごい俳優だと思うし、この作品はどこまでもそんななまめかしいMoodと空気を、その微細さを伝えるべく迫ってきて止まらない。 そして我々はその細部を料理を楽しむように何度でも味わって、口のなかで転がして…
In the Mood for Love 2001 (2001)
上映前にBFIの人が、終わってもおまけがあるから席を立って帰らないで、と言っていたのがこれ。
2001年のカンヌでのWong Kar-waiのマスタークラスで「デザート」として上映されただけだった9分間の短編。
21世紀の街角にコンビニ、というか深夜までやっているデリがあって、ちょび髭をはやしたTony Leungは店員で、Maggie Cheungはそこにやってくる派手な格好にサングラスの謎めいた客で、彼女は何かを抱えてて大変そうだが、お腹を減らしてていつも何かを食べていなくなって、彼はそれを毎晩見つめているだけなのだが、これが2001年に現れるMoodのありよう、というのはわかる。チープに外した洋楽のPVのようだし、ちょっととっぽい兄さん姐さんのかんじは『恋する惑星』 (1994) のようでもあるし。
一皿で終わっちゃうのなんて「デザート」じゃない。まだなんか隠している気がする。
[film] M3GAN 2.0 (2025)
6月29日、日曜日の夕方、CurzonのAldgateで見ました。
監督は前作M3GAN (2022)からのGerard Johnstone。ストーリーも脚本も同じく、主要登場人物たちもそのままの、正しい続編。制作はBlumhouse。
“M3GAN”は“Child’s Play”とか悪魔人形とかのおどろおどろしい人形ホラーに連ねられるべき作品だったのかもしれないが、(自分には)そんなに怖いと感じなかったのは、M3GANが開発者Gemma (Allison Williams)の姪のCady (Violet McGraw)を守るというコマンド通りに動くおもちゃ/ロボット/AIだったからで、そこには人形ホラーにつきものの憑き物とか怨念邪念とか超自然的なところが一切なかった。自律型のロボットが命令の通りに動いて少女を守る、それだけの話なので、すべてが、ま、そうくるよね、で終始していてわかりやすかったの。
今回もそこは明快で、米軍がM3GANのコードを転用して作ったAmelia (Ivanna Sakhno)という軍用ロボットが暴走して軍関係者を殺していなくなって騒ぎになり、Gemmaのところにはバックアップから生き延びていたM3GANが現れて自分ならあれを止められるので戦えるボディーをくれ、とか言っているうちにAmeliaはAI富豪のクラウドから邪悪AIを使って世界を支配しようとしていて、要はT2みたいにバージョンアップされた敵とこないだのMIみたいに全世界を乗っ取って支配しようとする話のミックスで、ラストもT2そっくりだし、バカバカしくてうさん臭いったらないの。
唯一の救いは、これをArnold SchwarzeneggerやTom Cruiseのような正義感たっぷりの男性役者が演じるのではなく、お人形さんが - 戦闘用のボディを貰う前の壺みたいなやつもおかしい – 軽やかにダンスしたりしながらバサバサ殺しまくってくれることで、怖さという点では前作より更に怖くなくなっていて、この辺はそれでよいのか。背後の悪い奴だってすぐわかっちゃうし。どうせなら思いきって笑える方に振りきっちゃってもよかったのではないか、と少し。
印象に残ったのは前作のあれこれを後悔しているGemmaがAI規制に乗りだしつつも押し切られてしまうあたりで、まず規制すべきはAIじゃなくて富豪の方なんだよね、って改めて思った。AIはどれだけ規制かけたってArtificialにがんばって乗り越えようとしてくるので、世界支配系のネタとしては尽きないけど、どうしても飽きがくるかも。
たぶん3.0はそのうち来るのだろうが、どこに向かうのかを想像するのは楽しい。もうAlienやPredator 系のを出すしかないのか、Gemma/Cadyと一緒にThunderbolts*に入って貰うとか、思いきってハイスクールもの(既にやられている気がする)の方に吹っ切ってしまうか。
How to Train Your Dragon (2025)
6月21日、土曜日の午後、BFI IMAXで見ました。3Dのもあったが目が回る気がしたので2Dで。
原作となったCressida Cowellの絵本が元であるのはもちろん、2010年のアニメーション版を書いたWilliam Daviesのも元にしていてストーリーもメッセージもあのまま(当然)だし、アニメ版で父親の声をあてたGerard Butlerはこの実写版でも父親役だし、つるっとしててびゅんびゅん飛び回るドラゴンは実写化してもどっちみち3-Dアニメでしかないし、実写化して大きく変わったところをあまり見出せないのがなんか。
爬虫類ぽいぬめぬめびたびたをもっと前に出しても、と思うと確かに魚とかはそんなふうなのだが、ドラゴンが人を襲って食べちゃったりするとこをリアルにだすわけにもいかないし、最大の魅力である空を自在に飛び回るとこはそんなに変わらないしー。ただ実写であれだけぐるぐる飛び回ったりしたら酔ってげーげーしたりもありかと思うがそれもないしー。
アニメと同じようにシリーズになるのかしら? 白いのはまだ出てきていないし。
7.05.2025
[theatre] Stereophonic
6月30日、月曜日の晩、Duke of York’s theatreで見ました。
90年代に出てきたウェールズのバンド – Stereophonics、の話ではなく、オフブロードウェイで2023年に初演され、2024年にブロードウェイに行って、その年のトニー賞でBest Playを含む5部門を受賞した演劇のWest End版。メインキャスト7名のうち、ブロードウェイ版から3名はそのまま来て、4名がWest End用にUKでキャスティングされている。
原作はDavid Adjmi - 2013年からこの舞台をどうやって作りあげていったのかについては、Guardian紙に記事がある。機内のラジオで聞いたLed Zeppelinの”Babe I’m Gonna Leave You”が起点だって。演出はDaniel Aukin。
ミュージカルではないが、バンドと彼らが作っていく音楽が中心的な役割を占めて、歌詞と音楽は元Arcade FireのWill Butlerが書いて、俳優たちが(吹き替えではなく)ライブで楽器を演奏して歌っていく。休憩込みで3時間15分。
ステージ奥はガラス張りのレコーディング用のブースになっていて、手前にはミキサーやコンソールの機材があり、エンジニアたちはこちらに背を向けるかたち。両脇には休憩用のソファとかがあってタバコとかドラッグとかケンカとか。エンジニアの卓でレコーディングブースの音はコントロールできて、ブース内の音を消すこともできるし、オフにしろ、って指示された音をこっそり盗み聞きしたりもできる。
1976年、カリフォルニアのサウサリート(←いいところだよ)のスタジオで、最後までバンド名が明らかにされないブリティッシュ-アメリカンの5人組バンドが2ndアルバムのレコーディングをしようとしている。エンジニアは(まだプロデューサーに昇格していない)Grover (Eli Gelb)とCharlie (Andrew R. Butler)で、リーダーでドラムスのSimon (Chris Stack)は妻子がイギリスにいて、薬とアルコールでよれよれのベースのReg (Zachary Hart)はキーボード/ヴォーカルのHolly (Nia Towle)と夫婦なのだが、Regがずっと酔っ払いのよれよれすぎてどうしようもなくて、作曲をして音楽の中心を担うギター/ヴォーカルのPeter (Jack Riddiford)とヴォーカル/タンバリンのDiana (Lucy Karczewski) は恋人同士なのだがいつ別れてもおかしくない緊張関係のなかにある。
こういう状況でレコーディングの試行錯誤を重ねていくバンドの1年間(計4幕)を、バンド内のヒトの緊張関係や内紛状態を通して描くというより、何十回テイクを重ねても終わらない楽曲のレコーディングを通して、ドラムスの音がよくないとか、ドラムスのクリックを使う使わないとか、ベースラインが気にくわないとか、ヴォーカルのキーをもうちょっととか、きわめて具体的なところで見解の相違や不平不満がでて、それが日々の夫婦関係、恋人関係にも影響を及ぼし、バンドそのものの存続もどうしよう、になり、でもやっぱり反省したりバンドってよいかも、になったり。 最近のはどうだか知らぬが、ロックを聴いて、そのアーティストを好きになってインタビュー記事などを読むと、レコーディングにまつわるこういった目線の違いや痴話喧嘩みたいのはいくらでも転がっていたので、そうなんだろうなー、くらい。
リハーサル~本録りまでの、演技(演奏)も含めて実際の音として出して、(台本上の)最終テイクでばしっと決めるのって結構大変ではないか、と思ったのだが、ライブの音としてはちゃんと出て鳴っていて感心した。
PeterがどうしてもDianaに「指導」をしようとしてDianaが構うな触るな、って苛立って反発するシーン、その緊張のありようは↓の”Elephant”のそれを思い起こさせた。女性の声やニュアンスをどうにかできる/したい、という目線で迫ってくる男性の傲慢と無神経。その延長に、バンドであることの意味とは?もやってくる。自分の思った通りの音にしたいのならソロでやるのが一番だが、そうしないでいる理由はなに? と。そしてバンドの目指すのが「成功」であるとしたら、それってなに? なにをもたらすものなの? だから我慢しているの? など。
緊張~解放・発散を繰り返す小集団の密室劇がブースとコンソールで層になっている - MonoではなくStereoの濃さ、おもしろさは確かにあって3時間あっという間なのだが、プロデビューをしているバンドなのだから、影響を及ぼそうとしたり口を挟んできたりするのは、この7人の間だけですむわけがないとは思って、でもそこまで覆いきれないのはしょうがないのか。
音の感触、重心は70年代のバンドぽいが、映画”Almost Famous” (2000)で鳴っていた70年代の音ほどではないかも。バンドにモデルはいないようだが、構成とかカップルがいたとか、思い起こしたのはやはりFleetwood Macあたりかも。でもこのスタイルでバンドの、レコードの制作過程を追うのだったら、パンク初期のChris Thomasがプロデューサーに入った時のSex PistolsとかNick Loweがプロデューサーに入った時のThe Damnedとかのがおもしろくて痛快なものになったのではないか、とか。
7.03.2025
[theatre] Elephant
6月26日、木曜日の晩、Menier Chocolate Factory Theatreで見ました。
Borough Marketの近くにある小さくて古い劇場で、トイレは場外に置いてあるトレーラーにあったりする。
昨年もShepherd's Bushの劇場で上演されていた一人(と一台)芝居の再演。
作、作曲、主演はAnoushka Lucas、企画と演出はJess Edwards。休憩なしの1時間25分。
客席が四方から囲んで舞台を少し見下ろすかたち、真ん中には円形のサークルが掘られていて、そこにマホガニーのアップライトピアノが置いてあり、その傍らにLylah (Anoushka Lucas)がさらっと現れて穏やかに、ピアノにはぜんぶで88の鍵盤があります、うち黒鍵は36、白鍵は52あって、などと語り始めて、鍵盤に手を置いて試すように歌いだす。が、ずっと歌っていくわけではなく、ピアノから離れて客席を見つめながらモノローグだったり、リハーサルになったり、ラジオの音声や録音された男性の声なども被さってくる。彼女が歌っているときは、サークルがピアノと一緒にゆっくりと回転する。多分どこかにマイクはあるのだろうが、一番前で見ていても彼女の頭に装着されたものは見えず、客席に地声で届く範囲で語り、歌っていくような。
彼女が小さい時にこのピアノは住んでいた公営住宅の窓から運びこまれて、母親も音楽を、歌うことを奨めたし彼女も弾いて歌うことが好きだったのでずっとそうして弾いて歌って一緒に育ってきて、奨学金で高校からオックスフォードにも進学して、ドラムスをやっている彼もできて、でもそうやって自分の音楽を掘り進めていく中で、労働者階級である出自や、イギリス、フランス、インド、カメルーンの混血であることを否応なく意識させられ、レイシズムにも晒され、彼女自身のヴォイスも音楽に向かう姿勢も変わってくる。 楽しいからって始めたはずのことが、苦痛に近い縛りとして迫ってきて、それは彼女の日々の生活と地続きで。
音楽の道を考え始めた時にレコード会社の男たちから軽く言われてしまう、もっとUrbanに、とかAlicia Keysのように歌えないか、アクセントなどももっとこうしたら、もっと品のない歌詞にしたら - 売れるんじゃないか、とか、恵まれていて血統のよさそうな彼の家に行った時にも彼の家族から端々を突っこまれ、品定めされているような感覚がつきまとって、彼女を嫌悪と無気力のループに押しこめようとする。(もちろん彼らは後から「そんなつもりはなかった」とさらりと言うだろう)
そしてそうなった彼女が向きあう友達であり同士であるピアノは、そのアイボリーの鍵は、アフリカで殺された象の頭蓋骨~牙でできていて、それをここまで運んできたのは自分とルーツを共有しているかもしれないかつての奴隷たちで.. といったことを考え始めると止まらなくなっていく。 自分たちはなんでここ(英国)にいるのか、なんのために鍵の先の弦を、それらを束ねた音楽を打ち鳴らすのか、等。
劇は、そんな彼女の痛みや辛さをブルースとして歌いあげたり祈ったりしていくのではなく、こんなことがありましたけど、自分はこのピアノ – Elephantと一緒に歩んでいきます、というプロテストに向けたさばさば潔い宣言になっている(きっかけとしてGeorge Floydの事件もあったそう)。 客席のひとりひとりを見つめるまっすぐな目と後ろに引かない背筋が、これで終わらないことを告げて、かっこいい。 大きなホールで訴えるようなものではないが、はっきりと伝わってくるものはあった。
こんなふうに、例えばピアノを弾く、服を着る、ご飯を食べる、それだけで政治的な何かは否が応でも絡まってくる。いい加減目を覚まして選挙に行け。
[film] Marry Me (1949)
6月24日、火曜日の晩、BFI Southbankでたまにやっている”Projecting the Archive”というBFIのアーカイブから持ってきた昔のフィルムを上映する会、で見ました。
監督は後にHammer FilmsでB級ホラーを出していくTerence Fisher、脚本を後に”Alfee” (1966)や007ものを書くLewis Gilbert。制作はGainsborough Picturesで、とにかくとっても英国調の松竹大船というか。
結婚相談所 - Marriage Bureauにそれぞれの事情や理由を抱え結婚相手を求めてやってくる人々 - 中心人物はいない - を巡っていくアンサンブルドラマで、各エピソードの進行がランダムに右から左に流れていくだけの取っ散らかったやつなのだが、ところどころおもしろくてよいの。いまはオンラインのマッチングで見えなくなっているあれこれが、全て手動で何らかの介在が必要であった、と。
新聞記者のDavid (David Tomlinson – “Mary Poppins”(1964)のGeorge Banksね。空軍パイロットだったこの人は2回飛行機事故にあって死ななかった、って上映前のトークで)が結婚相談所の実態を探るべく老姉妹が経営するところに客としてやってきて、オーストラリアの牧羊家、とか適当に嘘をついて置いてあった顧客ファイルを持ち去り、候補者と会ってみるのだが、そこから選んで仲良くなった相手もDavidと同じようになりすましで固めまくっていて、やがてDavidの記事と共に彼の正体が明らかになると…
ダンスホールでホステスをしているPat (Susan Shaw)は自分を田舎者であるというMartin (Patrick Holt)と出会って少しときめくのだが、彼が聖職者のカラーをつけているので諦めて、でも彼は諦めずに追ってきて、でもPatの職業がばれてしまうと…
フランス人女性のMarcelle (Zena Marshall)は英国の滞在許可期限が迫っていてお金を払ってでも結婚して滞在を延ばしたくて、Andrew (Derek Bond)は新事業のためのお金がほしくて、出会った二人はそれを互いに正直に話して恋におちて、でもMarcelleはフランスに恋人Louisがいて、そいつが殺人犯で脱獄して英国に渡ってきてMarcelleを探していることがわかり、Louisが現れると、恋人どころか夫だったことがわかるのだが、Andrewと格闘の末バルコニーから落ちてLouisは死んじゃうの。
我儘で女性嫌いでもちろん結婚なんかするもんかのSir Gordon Scott(Guy Middleton)の執事のSaunders (Denis O'Dea)が仕事を辞めて引退するので伴侶がほしいと結婚相談所にやってきて、理想の女性としてピックアップされた女教師のEnid (Nora Swinburne)がSir Scottの家にやってくると、Saunders にいなくなられたら困るSir ScottはSaundersになりすましてわざと失礼な態度をとったりするのだが、Sir Scottはその時の彼女の態度と対応に感銘を受けて、Saundersが彼女を諦めた後に、彼女を探して結婚相談所まで行って…
こんなふうにどのエピソードもそれなりにおもしろく – 一番おもしろかったのはSir Scottのやつかな - しかし彼らみんな結婚なんてしなくても十分にひとりで生きていけそうな強くて濃いイギリス人たちなのになんで結婚相談所にまで行くんだろうか – 変なイギリス人! ていうのは改めて思った。日本の戦後のドラマを見てもたまに思うことだが、結婚というのが社会を渡っていくための予防接種みたいなものだったのかも、って。
Tornado (2025)
6月24日の晩、上のを見た後にBFI Southbankで見ました。
スコットランド映画の新作で、主演の日本人女性が有名芸能人夫婦の娘である、というのは後で知った。監督はJohn Maclean。
18世紀後半のスコットランドの荒野を逃げている女性(と子供)がいて、それをSugarman (Tim Roth)とLittle Sugar (Jack Lowden)の率いる見るからに悪そうな一団が追いかけていて、追いかけっこの途中で回想がはいる。
Tornado (Kôki)と父? のFujin (Takehiro Hira)が旅芸人の一座でちゃんばら人形劇をやって放浪していくうち、そこにいた子供がSugarmanの金貨を盗んだので、彼らはFujinを含む一座をほぼ皆殺しにしてTornadoたちを追い回して、でもやがてTornadoは覚醒して… という復讐西部劇みたいなお話し。
別にスコットランドで時代劇や西部劇があったってよいと思う。けど、平岳大に侍の恰好をさせて太刀を持たせて構えとか振りまでさせて、でも殺陣とか一切なしに弓矢でどん!はないよね。Tornadoの復讐にしても、あんなの殺陣でもなんでもないし。18世紀のスコットランドではそんなものは通用しなかったのだ、という冷たい話にするならそれはそれであり、かもだけど、それなら「我が名はトルネード!」とかかっこつけないでほしいわ。
というわけで”Marry Me”の幸せが一挙に冷めてしまったのだった。
7.01.2025
[film] Caché (2005)
6月23日、月曜日の晩、BFI SouthbankのMichael Haneke特集で見ました。
英語題は”Hidden”、邦題は『隠された記憶』。 カンヌでは監督賞を含む3部門で受賞している。
ヨーロッパ - パリの古さとモダンさが合わさった邸宅 –かっこいい- を通りの向こうから映している静止映像が流れていて、そこにキャスト等のクレジットの文字が機械的に覆っていくのが冒頭。 やがてその映像 – ただの家とそこを出入りする家族など - が収録されたビデオテープがそこに住む裕福な家族 - Anne (Juliette Binoche)とGeorges (Daniel Auteuil)、息子のPierrotの元に差出人不明で送りつけられる。誰が何のためにそんなことをしているのか、不明すぎて気持ち悪く、そのうち首から血を流している落書きのような絵も送られてきて、子供の安全もあるので警察にも相談するのだがこの段階では調べようがない、と退けられ、やがてGeorgesが子供の頃に過ごした実家の映像が送られてきたので、思い当ることがあるらしいGeorgesは、子供の頃に一緒に暮らしていたMajid(Maurice Bénichou)のところを訪ねるが、彼は当然そんなの知らない、という。
Majidのアルジェリア人の両親は、Georgesの実家で農場労働者として働いていたが、1961年のパリ大虐殺で行方不明になっている。親を失ったMajidに責任を感じたGeorgesの両親は、彼を養子にするつもりで実家に置いていて、送られてきたビデオテープによってGeorgesの記憶に蘇るものがあって..
誰がカメラを置いてその映像を撮って、そのテープを送ったのか、の犯人捜しをしていく映画ではなく、一連の無機質な映像や落書きが誰に、何を想起させるのか、それは何に根差すものなのか、をじりじりと追って迫って、そのなかでGeorgesはAnneに対してすら頑なに口を閉ざして、内に籠って自壊していく。
フランスのアルジェリア戦争と植民地主義に根差した集団的記憶と罪の意識がブルジョア階級にどんなふうに根を張って、その視野をおかしくしたりしているのかを描いた、というのは後で知って、なんでそこまでして隠されなければならないものなのか、は説明されないので、Georgesの大変さと、でもそんなの知ったこっちゃないし、が両方きて、画面上で陰惨な酷いことが起こる場面ですらスタイリッシュなので、ますます勝手に悩んでいれば、になってしまうのだった。
他方で、日本でこういう過去の、歴史に記されるような過ちがそれなりの規模で正面から掘り返されずに個々人のトラウマみたいなところに押し込まれがちな(ように見える)のって、やはり社会化とか教育(修正された歴史の内面化)によるところが大きいのだろうか? しょうもないブルジョアのドラマにされてしまうのであっても、こっちの方がまだ健全である気はする。
Le temps du loup (2003)
6月25日、水曜日の晩、上と同じくBFI SouthbankのMichael Haneke特集で見ました。
この人の映画って、見ていてかなり緊張を強いられるし、辛いし、後味もよくないのに、つい見に行ってしまうのはなんでなのか。みんなで揃ってなにか反省とかしたいのか。
英語題は”Time of the Wolf”、邦題は『タイム・オブ・ザ・ウルフ』。
郊外の山小屋のようなところにGeorges (Daniel Duval), Anne (Isabelle Huppert) – ここでもGeorgesとAnneだ - と彼らのふたりの子供たち - Eva (Anaïs Demoustier)とBen (Lucas Biscombe)がやってきて、荷物を運びいれたところで先に入りこんでいたらしい男とその家族が、銃を構えて荷物を渡せと脅し、Georgesを簡単に撃ち殺して、その先は、AnneとEvaとBenが家のない荒野を彷徨っていく。
なにかの大惨事や大災害に見舞われたのか、それによって社会のなにがどうなって彼らがそうなったのか、事情とか背景は一切説明されず、夫/父を失った家族が放り出された先に待ちうける困難、出会う人々とのやりとり等を具体的に描いていって、そこは人権や通貨などによってそれなりの安全を保障された「社会」ではなく、食うか食われるかの奪い合いがあり、手に入れたもん勝ちの世界で、Anneにとっても、Evaにとっても、Benにとっても、それぞれで辛苦の様相は異なっていて比較できるものではないが、みんな我慢して耐えるしかなくて、シンプルにしんどそう。
↑の” Caché”の世界と同様、コトの中心で誰がなにをしたのか、どうしてそうなっているのかの説明がないまま、だだっ広い荒野のまんなかで気持ちがよくないまま我慢せざるを得ない事態が延々続いて、それによって主人公たちの立ち居振る舞いがどうなっていくのかを描いて、だんだんに滅入ってくる。
イントロでも言われていたが、コロナ禍の最初の頃はこんなかんじだったので、その居心地の悪さとか、先の見えないかんじは確かにわからないでもない。でもあの時はそれでも「社会」的な何かがまだ機能して/しようとしていた気がする。それすらも失われた先になにがあるのか。
日本の震災の避難所って、こんなふうだったのではないか、って少し思ったり。
上の作品もそうだが、ものすごく強固で説得力のある物語世界 - 例えばディストピアのそれ - を構築しているわけではなくて、実験場のようなところに置かれた人々がそこでどう振る舞って自身の自我や尊厳をどうにかしようとするのかを見る、更には彼らにとって「不安」や「恐怖」と呼ばれるものを構成している成分はなんなのか、それは他者に伝えたりできるものなのか、とか、それらをスケッチして並べていくことで見えてくる「本性」?みたいなものとは。 やっぱり「レミング」なのか、とか。