5.22.2017

[log] May 22 2017

トロントに向かうべくHeathrowまで来ました。
なんかここんとこ毎週Heathrowに来ている気がする。

今回の往路は、キャンペーンをやっているとかで座席をFirstにしてくれて、セキュリティも当然Fast Trackになったのだが、ここでは毎回必ず荷物が引っかかって - Heathrowの厳しさときたらすごい、8割9割引っかかる - モスクワでは水のボトル入れたままでも通ったのに -  個別チェックのキューで30分以上待たされるので、Fast Trackの意味はあんまりないの。 マークされている、というわけではなくて多分荷物のなかの何かが何かに反応してしまうのだと思うが、キューで待っている人たちの前で荷物をぜんぶ開けられて出されてもう一回詰め直す、ていうのはなかなか恥ずかしいしうんざりなのだが、係のひとも意地悪しているわけではないので、しょうもないよね。 国境を越える、という行動をそういううんざりする何か、そういう徒労を強いる世界にしてしまった責任の一端は自分にもあるのだとおもうし、それが嫌なら美しいにっぽん、とか自我自賛しながら自国にいればいい、それだけだよね。

それにしてもBAのFirstのラウンジは豪華すぎてなにをどうしてよいのかわからない。
いちいち注文しないといけないし、それはそれでいちいち面倒だし。

いろいろ書きたいのが溜まってて、書かないと端から忘れていくので私用のPCを持ってきたのだが、なんか書いてる時間あればいいなあ。 トロントって、なんもない印象しか残ってなくて、たぶん部屋戻ってばったん、で終わってしまうんだろうなー。

急に入った出張なのでライブいっこ逃してしまうのがくやしい。
23日の晩、Cafe OTOでPsychic TV / PTV3がDerek Jarmanの”In the Shadow of the Sun” (1981)の上映に合わせて音楽をつけるの。
これ、オリジナルのサントラはThrobbing Gristleだったので必見だよ、ってがんばってチケット取ったのになー。

ああもう行かないと。
ではまた。

5.21.2017

[log] Lisboa - May 2017

19日の金曜日の朝から20日の晩まで、いっぱく二日の休暇でポルトガルのリスボンに行ってきました。

その前、15日~16日に仕事で行ったマドリッドのことを少しだけ書くと、スペイン初めてだったし人に連れられて右も左もまったくわかんない状態で動いていたたので、15日の晩と16日の昼の食事くらいしか書くことがない。

15日月曜日、マドリッドはサン・イシドロの祝日で、お店がほとんど開いてなくて、ホテルの近所の開いているところに入っただけ。あとから調べたら”Restaurante El Principado”ていうとこ。 でもハモン・セラーノの生ハムはありえないくらいのやさしさで、トマトソースにのっかったアンチョビも、石焼きの牛の赤身もすごいねえ、としかいいようがないやつだった。これがふつうの居酒屋のレベルだとしたらこわい。  食事が終わって解散して、喉が乾くに決まっているので水を求めて駅(と思われる)の方に行って、水は入手できたのだが、駅の構内にでっかい熱帯植物が植わっていてその下で大量の亀とか鯉が群れていた。 あれはなんだったのか。 しばらくその辺をうろうろしたのだが、夜の10時くらいでも店の外にテーブルを出してわいわいやってて、楽しそうだった。
16日、移動中に車の窓からプラド美術館 が見えて、泣きそうだった。今度必ずいくから待っててね。それからMuseum of the National Libraryの前も通った。 Barbieri (1823-1894)の特集をやっるのが見えた。そのうちね(以下略)

ランチはリオハ州が経営しているというレストラン - “Centro Riojano de Madrid Restaurante”ていうとこで、デコールはえらくゴージャスで、前の日に豚と牛はいっぱい食べたので、Red Legged Partridge - “Partridge”て「山うずら」だと思っていたのだがこれをそのまま辞書にかけると「アカアシイワシャコ」 - キジの仲間なのね - のエスカベッシュ(酢漬け)にしてみた。 大きさはうずらの3倍くらいあって、ものすごく上品でまろやかな酢漬けで、あっという間に消えた。

さてポルトガル - リスボン。
どうでもよいことかもしれないが、ロンドンとの間に時差がないの。 マドリッドは - マドリッドってロンドンより西にあるのに、1時間早くて納得いかなかった。少しは時差があったほうが旅行しているかんじがでるのね。 

もともとポルトガルは90年代、ブラジルに何回か通っていたときからいつか絶対に行ったる、と誓っていたところなので、ブラジルの食べ物があそこまでおいしいのだからそのルーツであるここは悪いわけがないし、銚子という野蛮でイワシばっかり食べている町で生まれたのでここのイワシを食べないことにはご先祖様 … には関係ないけど。

というわけなのでチケットと宿だけは早めに(ろくに調べないでBAのサイトで誘導されるままに)取っておいたのだが、そのあとは事前調査しなきゃ、と思いつつほとんどなんの手も動かしていなくて、ひとつだけ、ポルトにもできれば一瞬行きたいんだけど可能かしら、とやってみたが時間切れで諦めた。 こんな状態でホテルの名前すらメモしてない状態でじたばたしていたくらいなので、たぶん何の参考にならないかもしれないが、あくまで備忘で、以下、ポイントのみ。

最初に行ったのが、Museu Nacional de Arte Antiga - 国立古美術館で、ボッシュの「聖アントニウスの誘惑」を見たくて、平日の昼間、がらんとしたとこでほぼ独り占めでじっくり見れた。 いまブリューゲルのあれが行っているはずだが、あれの数倍変てこだと思う。 もういっこ、この日から始まっていた企画展、”Madonna”ていうヴァチカン美術館から聖母を描いた絵画、ドローイング、彫刻、タペストリーなどをごっそり運んできて展示してた。

美術館の3階にはポルトガルの宗教画や木彫りの彫刻とか、とっても素朴でほんわか趣のある聖母とか女神とかがいっぱいいたのだが、ヴァチカンの聖母さまたちに漂うセレブ感というか育ちの違いみたいのはなんかとんでもないねえ、と見ていくと、ラファエロの「受胎告知 - マギの礼拝 - 聖母の神殿奉献」の3連が出てきたのでまじか、とかミケランジェロの「ピエタ」がでーんとあったので、これレプリカよね? と思ったらやはり75年に造られたレプリカだった(それにしたってとんでもねえわ)。あとは大好きなバロッチの「エジプトへの逃避途上の休息」。 聖母さまとやらが幸せを与えてくれるなんかだとしたらこの絵がそれ、というロバですら後ろ向きでほんわか微笑んで輝いているやつ - があって跪きたくなった。

ボッシュの魑魅魍魎たちが頭蓋の裏側を気持ちよく這いずり始めていたのに大量の聖母さまが除菌して浄化してしまった気がして少しだけ残念なかんじもした。でもこれだけの聖母さま御一行をリスボンに持ってきちゃったということは、いまのヴァチカンは聖母不在の闇のなかにある、ということではないか。 そんなことでだいじょうぶなのだろうか、とか、展示初日でこんなにがらがらで許されるのか、とか、特別料金とらないで平気なのか、とか、いろいろ心配になって、お賽銭のかんじでカタログ買ってしまった。 あと、ボッシュの「聖アントニウス」に出てくる魔物のフィギュアをどうしようか悩んで、あと数ミリの繊細さに欠ける気がして買うのやめた。

美術館の次は本屋、ということで「世界で一番古い本屋」 - ほんとかな~「本屋」の定義にもよるよね - であるという”Livraria Bertrand”とあとその山だか丘の上のほうの古いおうちがいっぱいあるあたりも散策した。本屋はここのほかにもいくつか見たのだが、どこにでもフェルナンド・ペソアのコーナーがあって、Tシャツとかフィギュアもあるんだねえ、と記念に英語訳のを一冊かった。 ペソアについては博物館になっている彼の家に行くつもりだったのに土日は休みである、ことを金曜の晩に知って、泣いた。

映画は、リスボンのシネマテーク- Cinemateca Portuguesa - になんとしても行っておきたくて、金曜の夕方、プレミンジャーの「悲しみよこんにちは」(1958)をやっていたのでこれを見た。外壁に貼ってある垂れ幕にはでかでかとFUJIWARA / PREMINGERとあって、Chris Fujiwara先生が特集に加わっているらしかった。
とーっても素敵なシネマテークで、かんじとしてはNYのAnthology Film Archivesをお金をかけてリストアしたふうで、ああ近所にこんな映画館があったらなー(を世界中でいい続ける)のリストに追加しておいた。

“Bonjour Tristesse” - 「悲しみよこんにちは」についてはいいよね。前回これを見たのはLincoln Centerでのテクニカラーってこんなにすごいんだから特集だったが、カラーの美しさとJean SebergとDeborah Kerrたちの美しさが見事な調和を見せて、それがモノクロ・無調に転じていく顛末を、青春の終わりを、クールに - 決して残酷ではないの - 描いていて口あけて見ているだけで終わってしまう。

二日目は観光しようと思って、でもシントラに行くか近場のジェロニモス修道院とベレンの塔にするか直前まで悩んで、結局後者にした。 現地に着いたのが9:40くらい、10時オープンでみんな並んで中に入ってすごいなーでっかいなー、だった。ふーん、だったのはペソアのお墓があったことで、死後50年のときにここに持って来たんだって。

そこからかんかん照りのなかベレンの塔まで歩いて大西洋をみて大砲を撃つ部屋のなかに立って、この窓から見えたらとにかくどーん、てやったのかしら、でもこの部屋でみんなが一斉に射ったらすごくやかましかったんじゃないか、とか。

戻る途中でMuseu Coleção Berardo - ベラルド近現代美術館 - ていうのがあって、暑かったし、入ってみた。地下も含めた3階建てくらいで、ながーい回廊に1900- 1960のと1960 - 1990までのモダンアートがビデオやインスタレーションやでっかいブツまで、いっぱいあって、だいたい一作家一作品の余裕たっぷりで展示しているようだった。 歴史みたいなところはシュールレアリスムから表現主義、CoBrA、未来派、といった括りでそれぞれに一部屋づつ使って、ヨーロッパのはどれもしれっとかっこよくてつい見いってしまった。Mark Rothkoの30年代の素朴なやつとかもよくてねえ。

食べもの関係は3食くらいだし。
着いてすぐのランチはホテルのひとに聞いて、近くのChampanheria Do Largoていうとこでイワシと鮭とムールの3色丼 - じゃない皿、みたいなやつで、晩は同じくホテルの人に予約して貰ったのだが、希望していた9時頃のは取れなくて10:30になってしまい、お腹へってしにそうになった。

Cantinho do Avillez、ていうポルトガルのスターシェフである José Avillezが開いた高級ビストロ系のお店で、Daniel Bouludのdb bistro moderne、みたいなもんだろうか。 ハンバーガーもあったし。 メニューにベストセラーと書いてあった前菜のFish Soupはそんなでもなかったが、メインのAlentejo black porkのグリルはなかなかとんでもなかった。柔らかいのだが、自分の知っている豚の柔らかさとは違うなんかがあって、どういう処理しているのかしりたい。
あと、こういうお店のサービスがしょうもなくなるのはどこも同じだねえ。

2日目はまず、あの近辺に行ったらこれを食べとけ、のPastéis de Belémていうとこのエッグタルト(Nata)から。 エッグタルトだけだとつまんなかったので、揚げクリームパンみたいなの - をどう言ったらよいかわからなかったが、とりあえずなんか説明したら当たった。エッグタルト、皮が絶妙だったのと、揚げパンはクリームがほとんど黄身みたいな色で、とっても濃くておいしいんだけどこれ毎日食べてたらたいへんなことになる。 鳩が寄ってくるのもたいへんだったし。

ランチはこれも定番のCervejaria Ramiro、ていうシーフードのお店で、生牡蠣たべて、アサリ一山を蒸したのたべて、でっかいカニいっぴきたべて、アイスクリームたべた。 この手のシーフード屋って鮮度があれば、ていうのかもしれないが、アサリを鍋で茹でただけであんなんなるとは思えないし、カニを茹でてざく切りしただけであんなんなるとも思えない。 カニはとんかちで各自叩き割りながら甲羅に満たされたカニミソに浸して食べる。iPhoneがあっというまにカニの破片まみれになって、そういうのも含めてすごいとしか言いようがなかった。カニさんたちのあいだからあまりにむごいって声があがりはじめているのは当然だとおもった。

お店を出てからイワシまるごとを食べていないことに気づいたので、また今度、ということにした。

あとは公園にいた変な鳥とか。鶏とアヒルを足して割ったみたいなやつ - たまにすごい喧嘩してた - と、なぜか放し飼い(なのか?)にされていた立派な雄鶏と。 食べちゃうひといないのだろうか?

あと坂で足がしんで、サンフランシスコに最初に行ったときのことを思いだしたり。 坂の途中とかに建っているおうちはほんとに大変だろうな、うちの階段の比じゃないな、って思った。 ケーブルカー、結局乗らなかったのでこれもまた次回に。 イワシもあるのでまた行かないわけにはいかないし、次はポルトも。


なんかほんとにバカみたいだし、スタンプラリーしてるでしょ? と言われたら、う.. うん、と目を逸らして返さざるを得ないのだが、明日 - 月曜日の夕方からトロントに飛んで木曜日の朝に戻ってきます。
きっとそういう星回りなんだ、と星のせいにして、再びカバンひろげてパッキングする。

ではまた。

5.19.2017

[film] Alien: Covenant (2017)

14日、日曜日のお昼、BFIのIMAXで見ました。

前に書いたかもしれないが、わたしは”Alien” (1979)の公開時、胸を食い破ってエイリアンが出てくるとか聞いて、おっかなくて見にいけなかったひとで、それよりも更におっかなくて数も倍、とか言われた"Aliens" (1986)もじゅうぶん大人だったのに見れるわけなくて、だいぶ後になってTVで見て、こんなの劇場でみたらしんじゃう、て思った。

これのひとつ前の"Prometheus" (2012)は見た。 でも怖かったのかその内容を余り憶えてなくて、そこが残念だった。
見直してから行ったほうがいいかも。

コロニー船のCovenant号が移住用の人とか胎児とかをわんさか積んで、AIロボのWalter (Michael Fassbender)が面倒をみつつ目的の星に向かって航行していると、電気系の事故かなんかで船長のJames Francoが冬眠カプセルのなかであっというまに丸焼きにされちゃって、そしたらターゲットとは全く異なる別の星からコンタクトが来て、新しい船長(Billy Crudup ..)はざっと行ってみよう、って反対意見を押し切って探査に降りてみることにして、降りてみたらやっぱり...

そこにはWalterと同じ顔した初代AIのDivid (Michael Fassbender)がいて、Davidはそこでなにをやっていたのか、Covenantの乗組員になにをしようというのか。

冒頭で、Davidが動き始めたときのパパ - 作ったひと - との対話のなかで、死ぬことを運命づけられた人間とそれを考える必要がない我々とでは理想とするもの、それに向かう考え方も異なりますよね… パパ「…」みたいなシーンがあるのだが、この辺が出発点なのだろう。
(一点、ここで議論になりそうなところがあるとしたら、なぜDavidはそう言いながら絵や音楽を愛することができるのか、いらないでしょあなた? じゃないのか)

びしゃぐしゃ血まみれのシーンはこれまで通り。背骨の関節のとこに小さい穴が開いてぴきーって出てくるやつとか。
それにしてもさー、空気あるからってなんでヘルメットしないで未知の星の探索に出るのかしら。 しかもタバコなんか吸うかしら。
とか、あのカニみたいなやつって、なんでいつも顔のまんなかにぴったりヒットするのかしら、とか、あれってひっつくとやっぱりカニ系の匂いがするのかしら、とか。
あいつらの糸をひく粘液の元の水分てどこからくるの? 元の人間がそんなにジューシーには見えないんだけど、とか。 突っこもうと思えばいろいろ。

あと、怪物と最終的に対峙するのがいつも女性である、というのと、Davidは「母」を作ろうとしている、ていうのと、Covenantの操作を統括するAIが”Mother”と呼ばれている、とか、AIと人間、文明と永遠、みたいな壮大なテーマに向かうかに見えて実は父性と母性の衝突みたいな原始的なシンプルなところに落ちていくのではないか、とか。 シリーズはまだ当分続きそうなので見守りたい。こわいのでとっとと終わってほしいのだが。

あと、James Francoはまだわかるけど、Danny McBrideを乗組員になんかしちゃだめよね。
“This Is the End” (2013)でいちばん腹黒かったやつなんだから。


それにしても、Chris Cornell …  耳にしてまさか、嘘であってほしい、と強く思ったのに。
あの声をもう聞くことができないなんて。  どうか安らかに..


明日の朝4時半くらいに起きてリスボンに行ってきます。こんどのは1泊のお休み。
4月に飛行機取ったときにはこの頃こんなにばたばたになっているなんて思わなかったの。
現地のこと、なにを見るかとかこれから一から調べるの、かわいそうにー。

5.18.2017

[film] Manhattan (1979)

そういうわけでAllenの”Manhattan”に行こう。

モスクワから戻ってきた12日の晩、BFIで見ました。
ほんとうはFassbinder特集の”Despair” (1978)を見たかったのだが、これは売り切れてて、Stand-by ticketを狙って早めに行ったのに目の前、あと数人のところで持っていかれて無くなってすごいショックで、でもなんか帰るのやだな、って始まったばかりのこれの4Kリストア版のRe-Releaseを見ることにした。

BFIにはスクリーンが4つあって、NFT1ていう一番でっかいスクリーンでの上映。
この映画はでっかい画面のでっかい音で見るに限るの。 冒頭、Gershwin”Rhapsody in Blue”のぷぁ〜 ♪とかじゃかじゃん〜 ♬ とかに乗って切り取って並べられていくマンハッタンの光景、ここだけ見て帰っちゃってもいいくらいに素敵なNYがあって、ここのGordon Willis のモノクロに匹敵するくらい見事なカラーのNYとなると “The Sheltering Sky” (1990)の冒頭 - Vittorio Storaro、だろうか。

ストーリーは別にいいよね。 42歳、バツ2で17歳のTracy (Mariel Hemingway)と暮らしているIssac (Woody Allen)がMary (Diane Keaton)と出会っておかしくなってしょうもなくじたばたするサマ、というよりザマがひたすらおかしくて、あーあ、で、Allenがあんなヤツだったことを知ってしまった今となっては複合的な意味でおかしくて、うううむ、て唸るしかないという。

40を過ぎた彼があんなふうに己を顧みずに恋愛に突っ走ってしまうそのかんじ、わかんなくはないのだが、昔みても今みてもまあったくわかんないのは、結果的にふられたり逃げられたりいい気味とはいえ、なんであんな四六時中べらべら喋ってて髪もしゃもしゃでハゲかけひょろひょろのおっさんが、一時的とは言えモテたりするのだろう、ということなの。 前妻がMeryl Streepで、恋人1がMariel Hemingwayで、恋人2がDiane Keatonって、ぜったいありえないよね。

で、そういうありえないことが起こってしまう場所としてのマンハッタン、というのも30年前だったら信じたかもしれないけど、もうムリだわ。 Upper EastがどんなところでUpper Westがどんなところか知り過ぎてしまった今となっては。 この「今となっては」が反省とか後悔とか悔恨とかと一緒に至るところで渦を巻きながら襲ってきて、この映画をドライブしているのもIssacのぐるぐる循環する「今となっては」のやけくそ感なんだろうなー、って。

これが”Fear of Fear”のほうに向かわないのはアメリカ人だから? ということでいいの?

そして、スカイラインがすっかり変わってしまったManhattanの最後の美しさがすばらしいモノクロの映像で蘇ったことを堪能しよう。 これも今となっては、のおはなし。

ぜんぜん見たことのなかったモスクワから、少しだけ馴染んできたロンドンに戻って、ずうっと住んでいた街の映画を見る、ていうのは変なかんじで、なんかくすぐったかった。

5.17.2017

[film] Angst vor der Angst (1975)

まったく追えていなくて嫌になっているBFIのRainer Werner Fassbinder特集、5月2日、火曜日の晩に見ました。
英語題は"Fear of Fear"。

上映前にUniversity of KentのDr. Mattias Freyによる簡単なイントロがあった。 これがTVドラマとして撮られたということ、Margit Carstensen主演なのでMartha (1974) - これはSingleの話だけど - と比較されることが多いが、こっちは心の病の行方を描いたものではなく、あくまでふつうの生活を送ろうとする主婦のお話 - 少なくともFassbinderはそういう意図をもってこれを作ったのだ、って。

主婦のMargot (Margit Carstensen) には少しだけ忙しいけど優しい夫がいて、かわいい娘がいて、妊娠して息子もできて、世間的にはごくごく普通の家庭の主婦なのだが、たまに視界が歪んでものすごい不安に襲われていてもたってもいられなくなる。 彼女もその症状は自覚していて、起こると娘にあたってしまったりすることがあるのでなんとかしたいと思っている。 そういうふうにしてお酒をあおったりバリウムを求めて近所の医者のところに行ってよくわからぬままに彼と関係を持ってしまったり気がついたら手首を切っていたり、その変な挙動は同じアパートの別のフロアに住む母(Brigitte Mira)や妹(Irm Hermann)にも知られて呆れられて、だんだんに理解者も見てくれるひともいなくなって、孤立が深まるとさらに彼女の視野は歪んで狭くなっていって、その恐れが別の恐れを呼んでという連鎖と循環がひたすらおそろしい。

不安や恐れはFassbinderの映画のベースとして、基調音として空気みたいに常に流れているものなので、これもそういうものとして見ておけばよいのかも知れないが、ここまでふつうの、なんの変哲もない家庭のなかにそいつが家具のように持ちこまれて居座ってしまうと、改めてその異物感に驚かされるし、それがありがちな「向こう側の世界」に突き抜けて殺戮や異常行動に簡単に行かないがゆえにかえって、なんて厄介なものか、て思うし、なによりも我々はMargotの恐れや不安がどんな性質の、どんな感触のものか、どんなふうにやってくるのかわかる/知っているということの、なんとも言えない居心地のわるさ。 これこそが"Fear of Fear"ていうものなんだろうな、と。 (そういうのわかんない、というひとはFassbinderなんか見ないで一生幸せに暮らしてな)

ラストは隣人としてただそこに突っ立っているだけ、ていうすさまじい演技を繰り広げていたKurt Raabが、あのひと自殺したんだって、という声が聞こえて、救急車がちらっと見えて、ぷつんと切れるように終わる。 それもまたこわいの。簡単に向こう側には行けませんよ、行くの? って。

それにしてもMargit Carstensenのきりきりとおっかないこと、目を離すことができない磁場の強力なこと。
最近の映画で近いとこだとWoody Allenの"Blue Jasmine" (2013) 、だろうか。 Cate BlanchettとMargit Carstensenを並べてみるとなんか… 映画監督としての力量みたいのは置いておいて、FassbinderとAllenて明らかに特定のタイプの女性を崇めて、ある特定のタイプの女性を畏怖して怖がっているのではないか、とか。

[film] Frantz (2016)

夕方にマドリッドから戻ってきました。

8日月曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。 上映後に François OzonとのQ&Aつき。
一次大戦後のドイツで、婚約者のFranzを戦地のフランスで亡くして沈んでいるAnna(Paula Beer)がいて、他に身寄りのない彼女はFranzの両親と暮らしている。
ある日Franzの墓に花が供えてあるのを見つけて、更に彼の墓の前に佇んで泣いているひょろっとした若者を見かけて、声をかけるとそのフランス人はパリでFranzを知っている、単に知っている以上に彼とFrantzとの間にはなにかあったらしい。

フランスで彼になにがあったのか、彼はどんなふうに死んだのか、Frantzのことを少しでも知りたい彼女は彼- Adrien (Pierre Niney) を家に連れて帰って、でも戦後間もなくだしドイツ万歳の義父は敵兵 - 息子の仇としか彼のことを見ることができない。そのうち話を聞いていくとAdrienが本当にFranzの死を悼んでいることがわかって義父母も打ち解けて、食事を共にしたり散歩したりしていくうち、彼女はFranzと同じように文学や音楽を愛する彼を好きになり始めて、両親も一緒になることを勧めるようになるのだが。

この後にAnnaはドイツを去ってしまったAdrienを追ってパリに渡り、行方不明になっていた彼と再会して、でもお話はそう簡単には決着しないの。

まずロスタンの戯曲(未読)があって、それを原作としたルビッチの"Broken Lullaby" (1932) (未見、たぶん)が元にあるのだが、ルビッチのにいろいろ付け加えたりひっくり返したりしているので別のものとしたほうがよいかも、と監督は言っていた。

画面はほぼモノクロで、美しい思い出や回想シーンになると淡いカラーに変わる。すべては夢のなかのような。 Franzの死も含めてすべては夢であってほしかったのに、ともいう。

秋に結婚するはずだったのに夏が来る前にフランスで死んでしまったFranz、亡骸すら戻ってこないので、彼に関する欠落した記憶を求めて、その穴を埋めるために彼女はなんとかAdrienを探して話をせがんで、彼の語るFrantzを、彼の記憶にあるFranzをどこまでも求めて、でもどうあがいても彼は戻ってこなくて、Franzの最後の姿はAdrienの頭のなかにしかいない。 そんなの我慢できないし、それであるならば。

ああなんてかわいそうなAnna.. というそれだけのメロドラマなのだが、いいの。 こんなにむごい、かわいそうな話はないわ。 

というような残酷なメロドラマとして見ることもできるし、ひとは愛するひとのイメージのなかで/イメージがあればどこまでも生きていけるものなんだねえ、ていうコメディ(のようなもの)として見ることもできるのかも。
なんで死なんてもんが簡単にひとを引き裂くことができるのか? ちがう、ひとを引き裂くのは生の世界なんだわ、って。

Annaを演じたPaula Beerさんの強い目がすばらしくて、それだけで見る価値はじゅうぶん。
ふたりの佇まいがモノクロのコントラストにとっても似合っているなあ、とか。

ルーブルにあるマネの"Le Suicidé” (1877-1881)、こんど見ないと。

上映後のQ&Aでおもしろかったのは、あるシーンが”Casablanca” (1942)を思い起こさせるのですが? という質問に「実は”Casablanca” って見たことないんだ」とか。
あと、二人が田舎をデートするシーンはカザンの”Splendor in the Grass” (1961)を参考にしている、とか。
第一次大戦後のドイツを舞台として撮るのは結構大変だった、とか。
ひとによっては思うかもしれないLGBT的ななにか、はまったく考えていなかったって。

5.14.2017

[film] Réparer les vivants (2016)

こっちから先に書いておく。 英語題は“Heal the Living”。 邦題は「あさがくるまえに」。

13日の土曜日の昼、CurzonのBloomsburyで見ました。
気がついたらCurzonではここだけ、1日1回の上映のみになっていた。
あぶなかった。 こんなにすばらしいのを見逃すところだった。

予告が臓器移植を巡る家族の葛藤とか癒しとか救いとか時間との闘いとかのドラマのように見えて、ちょっと苦手かも、だったのだが、監督が”Suzanne” (2013) のKatell Quillévéréさんと知り、なら見ないといけないわ、になったの。

早朝、家を抜け出して仲間とサーフィンに出かけたSimon (Gabin Verdet)は、その帰りに自動車事故にあって脳死状態になってしまう。病院側は両親に臓器提供の可能性について話をして、彼らは苦しみながらも結論を出す。 その反対側で、成長した息子ふたりがいる音楽家のClaire (Anne Dorval)は自身の心臓病が悪化して臓器移植しか残された道はないと言われていて、息子たちと一緒に過ごしたり(”E.T.”を見るの)、ピアニストの恋人(女性)のコンサートに行って再会したり、自分がいなくなる時に向けて準備を進めていくのだが、臓器が見つかったと連絡が入って。

メインのストーリーラインだけを書くとこんな感じなのだが、決して片方の電球は消えたけどもう一方のが点灯した。うまくつながってよかったね、みたいな話ではない。”Suzanne”の監督がそれだけの話を作るわけがないの。

Simonの両親のことはもちろん、彼が亡くなる朝までベッドにいたSimonの彼女のJuliette (Galatéa Bellugi)とのこと、病院のSimonの担当医、gold finchを愛する臓器コーディネーターのThomas (Tahar Rahim)、Simonへの態度で病院をクビになってしまう看護婦、Claireがちょっと心配している次男、かつての恋人のピアニスト、Claire側の医療チームのひとりひとりまで、どんなひとの挙動も暮らしも眼差しも思いも決して疎かにしないし、彼らひとりひとりの生も確かにそこにあって、SimonやClaireの生と共にある - 結ばれているとか繋がっているとか胡散臭いなんかを語るのではなく、ただ同じ時間のなかにあるのだ、ということを驚くほど精緻に丁寧に描いている。

”Suzanne”でもそうだったが、この監督はちょっとした眼差しの振れとかその交錯だけでドラマを紡ぐことができて、その振動や交錯が波のうねりとなってSimonが最後にサーフィンをした海(の描写がすばらしいの)ように深く分厚く押し寄せてくる。このうねりと勢いに圧倒されつつもひとは自分のパスを、ボードの切っ先をコントロールしてバランスを取りながら波を渡る。そこにある危なっかしさと、それでも波に乗れてしまう驚きと共に。

SimonとJulietteが最初に出会って恋に落ちる場面の胸が苦しくなるくらいに初々しい波ときたらどうだろう。この5分ぽっちだけでも見る価値じゅうぶんあるよ。

後半はずっとめそめそ泣きながら見ていたのだが、ラストカットでBowieの"Five Years"のイントロのキックが聞こえてきたところで決壊してぼろんぼろんに泣いてしまった。客が3人くらいしかいなくてよかった。
ずるいよあんなの反則だよ、て思ったが、よく考えてみればこの映画の主題はあの頃のBowieが必死で手を差し伸べてきた悲痛なまでの想いにはっきりと共振している。 

そして「母に捧げる」という字幕が。 母の日に格好の一本でもあるのだが、フランス映画祭で一回だけ上映されてから一般公開は9月って ...
(おそすぎ。それと”Hidden Figures"は性懲りもなくやっぱりやりやが…(怒・略)
一刻も早く、フランス映画祭で見てください!(おすぎの気分)

あと、Alexandre Desplat さんの音楽も見事なのだが、なんだかんだBowieの一曲でふっとばされてしまうの。


あした、月曜日の午後からマドリッドに行って、火曜の晩に戻ってきます。
ちょっくらサッカーでも見に、とか言えたらいいんだけどねえ。仕事なんだねえ。