8.16.2017

[film] City of Ghosts (2017)

12日、土曜日の午後にBloomsburyのCurzonで見ました。
見るのはきつかったけど、これは映画がどうドキュメンタリーがどうという以前に、いまの我々が見て頭に刻んでおくべきものだと思った。 丁度00年代にMichael Mooreの一連の作品が切羽詰まった怒涛の勢いで我々を揺さぶったように。

元々はシリアの反アサド勢力だったメディア活動家のグループ(ここに出てくるのは20〜30代の若者たち)が唐突にRaqqaに侵攻してきたISに対抗すべくその危険性、暴力、住民の危機を世界に発信するためにRBSS (Raqqa is Being Slaughtered Silently) を組織して、ISが彼らの町でやっていること(公開処刑、公開拷問、晒し首、など)を隠れて記録してネットにupし始める。 ISは当然彼らの摘発と弾圧にやっきになり仲間が捕らえられたあたりからメンバーは散ってトルコやドイツに移民として渡るのだが、仲間は処刑されそればかりではなく友人や肉親まで手がかけられていく。

異国で住所不定の移民として隠れて暮らし、遅い通信で現地からのレポートや動画をひたすら待ち、届いたのを見てみれば親しい人達が殺されたり育った町が破壊されたりの映像ばかりで、しかし国に戻ったとしても殺されるに決まっていて、の底抜け地獄がそこにはあり、でも何故そこまでするか、というとISのやっていることははっきりと悪で卑怯で間違っているから。それを世界に知らしめる必要があるから。

いまのアメリカで起こっているヘイトの件、日本で起こっているそれともはっきりと繋がる。いやこれは別の問題とか日本は..とかそんなの認めるもんか。 人種やセクシャリティや国や宗教の違い(自分達と違うこと)を理由に他者に(言葉を含めた)暴力や迫害を加えて傷つけたり差別したり苦しめたりすること、これは絶対にやってはいけない悪いことで、メディアやジャーナリズムの機能役割はそれが起こっているんだったらそれを「いけないこと」「だめなこと」として、やっている奴らを卑怯者として、人権を侵害する犯罪者としてパブリックに正しく広めて糾弾すること、でしょ?  これは人殺しとおなじ絶対悪なんだから「両論」とか「言い分」とか「なんとかの自由」とか「周りが」とか「昔は」とかないの。偉い奴だろうが政治家だろうが許されないものは許されない、そしてそれを放置したり見て見ぬふりをしておくことも(それを見下ろすことができる場所にいる偉い連中は特に)また許されないの。

見てて胸が張り裂けそうになりながらバカ右翼のいう「自己責任」だの「国が守ってくれる」だの、ほんとにクソみたいな妄言だな、ていうようなことばかり思って、結局武力による解決 - 子供を盾にしているんだよ - しかないのか、とか真っ暗になってそれが延々ループして。

City of Ghosts - 生者ではなく幽霊の棲む町となってしまったRaqqa の今と、かつての楽園のようだった夕陽(or 日の出?)の光景との対比があまりに残酷で、こういうの、いつまでくり返されるだろうか、と。

日本にもCity of Ghostsはあるよね?  福島っていうとこに。 そこをそんなふうにした連中もGhostsで、ていうか妖怪みたいで、ちっとも糾弾されないのが変な国にっぽん。

[film] Beuys (2017)

11日の木曜日の晩、ICA (Institute of Contemporary Arts) で見ました。 Londonではここでしかやってなかった。

86年に亡くなった(もう30年かあ)Joseph Beuysのドキュメンタリー映画。
ところどころ欠損している(欠損していることがわかる)記憶があって、うんうん思い出したりしながらなんとか英語字幕についていくかんじ。

BeuysがNam June Paikとかと並んで(当時の)西武やワタリ周辺で少しだけ盛りあがりを見せた80年代前半はまだ、芸術はいかに社会を変えることができるのか、(or 少なくとも)関わることができるのか、みたいな議論がそこらにあった気がする。 
いまやアートは社会や公共に奉仕したり共棲したりコラボしたりするなにからしいのだし、大学教育から文系は排除されていくばかりのようだし、大学経営は企業経営とおんなじようなもんらしいのだし、アートに政治を持ちこむと煙たがられるらしいのだし、ほんとにあーあ(見事に腐りきっちゃったもんだわ)、なのだが例えば戦争とアートとか大学教育とアートとか、そういうのを少しでも(過去の振り返りとか未来のあるべき姿とか)考えてみようと思ったら、Beuysの通った道を避けたり無視したりすることはできないはず。

Anselm KieferだってGerhard RichterだってSigmar Polkeだって、みんな彼の弟子なんだからね。

でも全体として対象があまりにでっかすぎることも確かで、子供時代から飛行機乗りの従軍時代、怪我して鬱になってアートを志した時代、デュッセルドルフで教え始めた時代、政治に関わるようになった時代、それぞれいろいろあって、そこに彼の思想(思考=彫刻)があり、アートがあり、パフォーマンスがあり、環境があり、アクチュアルな行動があり、それらが絡み合っていて、もちろん大抵のアーティストなんてそういうもんだろ、なのかもしれないが、Beuysはそれを極めて意識的に、服装や帽子まで含めて自己組織化し、戦略的に扇動していった最初の「戦後」アーティストだったのだとおもうし、だから彼のアートはある時代の一部を切り取ってみてもゴミだったり毛皮だったりでろでろだったり石ころだったり、割とろくでもないもんだったりするのでなんか始末にわるい。

こういうアーティストって、まずは作品を見ろ、だと思うのに作品が実は... ていうのはおもしろいよね。
なんでもかんでもコンテンツ、の時代を嘲笑ってションベンかけてるし、Beuysって、いまの定義でいうところの「クリエイター」なんかとはぜんぜんちがう異物だよね。

なのでこういう映画だと薄まってしまったかなあ、という印象は少しある。 アーカイブ映像 - 野うさぎ、コヨーテ、渡米時のティーチイン等はもっとちゃんと見たいようーという欲求が高まるし、関係者証言も字幕が出ないのでどういう立場の人の証言、コメントなのかわからないし、時代でいうとFluxusの頃とかほとんどないし、Beuys以降の拡がり、というところで弟子のコメントくらいはほしかったかも。

じゃあ俳優を別に立てて評伝映画はどうか、というとううむー、ポロックやウォーホルやバスキアやカポーティやケルアックの映画みたいなアーティスト映画になるか、というと、どうかしらん...?

なんだかんだあるけど、これは日本で上映しないとだめでしょう。
アート系の大学関係者には椅子に縛りつけてでも見せるべき。

8.15.2017

[film] Prick Up Your Ears (1987)

11日金曜日の晩、BFIで見ました。

"Gross Indecency"の特集とも関係あるし、Joe Ortonが殺されて50年、これがリバイバルされて(他の映画館でも少しだけ)、彼の戯曲の映画化作品も別の特集で上映されている。

67年の8月9日、一緒に住んでいたパートナーのKenneth Halliwell (Alfred Molina)によって頭部を9回ハンマーでぶん殴られて34歳の若さで殺されてしまったJoe Orton (Gary Oldman)とKenneth、ふたりの青春を描く。 (Kenneth Halliwellも殺害直後に睡眠薬をグレープフルーツジュースでがぶ飲みして自殺)

映画は死後遺されたJoe Ortonの日記を彼のエージェントであるPeggy Ramsay (Vanessa Redgrave)が後の日記編纂者でありこの映画の原作を書くことになるJohn Lahr (Wallace Shawn)のところに持ち込んで、遺された彼らの視点や考察も交えつつJoeとKennethはなんであんなことになっちゃったんだろうねー、を追っていく。

JoeとKenneth(のが7つ年上)は一緒にRADA (the Royal Academy of Dramatic Arts)に入って演劇を学んでいくのだが、最初から演技も含めて天才肌で注目されていたJoeとエキセントリックなノリが(たまに)ウケたりしているKennethは意気投合して、やがてIslingtonのフラットに一緒に住んで共作したり図書館の本に悪戯(写真を貼りつけたり)して半年間投獄されたり、いろんなことをしていくようになる。 刑務所にいる間に書いた戯曲が当たったり、Beatlesの映画の台本を書くオファーが来たり時代の寵児になりつつあったJoeに対して、Kennethはぴったりくっついて共同制作者だから、といちいち口を挟んだりするものの彼の方に陽は当たらなくて、その辺の嫉妬も含めてふたりは夫婦のようになっていくのだが、Joeはそんなのお構いなしにどこまでも奔放で、薄暗い公衆便所での見知らぬ男たちとの逢瀬を重ねたりしていて、その辺もあってKennethはだんだんにおかしくなっていくの。

というふたりのいろんなエピソードを演劇を見ているかのように、あるいは小さな覗き窓からちらちら見るように見せていって、まだぴちぴちしたGary Oldmanの怖れを知らない不遜な天才ぷりとその横で焦ったり苛立ったりして頭髪を失い戻りようのない怪物になっていくAlfred Molinaの、それでも楽しそうなふたりに見えてしまう押したり引いたりの応酬がすばらしい。 これ、描きかたによってはふたりのゲイのすごく陰惨で暗い情念のドラマにもなりうると思うのだが、そうではない、それこそJoe Ortonの戯曲みたいにブラックなどたばたに仕上げていったのは正解だとおもった。

あと、時代的には80年代モロ、のノリにする方向だってあったはずなのにその辺は周到に回避しているかのよう。 Stephen Frearsえらい。

で、おもしろかったので売店で売っていたJohn Lahrによる"The Orton Diaries"をめくり始めて、並行して特集"Orton: Obscenities in suburbia"もぽつぽつ見たりして、なんかこのひとすごいわ、なのだが、このへんはまたあとで。

それにしてもGary Oldman、Joe Ortonの前にはSid Viciousを演じてて、George Smileyもやって(実在のひとじゃないけど)、もうじきWinston Churchillまでやるって、なんかすごいねえ。

8.14.2017

[film] Victim (1961)

少し遡って少しだけ書いておく。

BFIでは7月~8月に"Gross Indecency - Queer lives before & after the 67's Act"という特集(訳すと『とっても卑猥 - 67年以前と以後のクィアーの生きざま』てかんじ? )をやっている。 英国のCriminal Law Amendment Act 1885のSection 11 - ここで実際に性交していなくても男同志でやらしいこと -"Gross Indecency” -をしていたら罰することができるようになった- そいつが廃止されて50年という節目の回顧なのだが、毎年やっているLBGT Film Festivalとは別枠でものすごく力を入れてやっていて、その中で見た何本かを。

Victim (1961)

7月22日の晩に見ました。これはBFIだけじゃなくて他の映画館でもリバイバルで上映されていた。
最初になにかを抱えた若者が警察に追われて逃げていて、友人や本屋のおじさんや弁護士Melville Farr(Dirk Bogarde)に助けを求めていくのだが困惑されて冷たくされて、結局彼は逃げきれずに捕まって、やがて獄中で自殺してしまう。
彼が持っていたブツはこれを周囲にばらされたらえらいことになりますよ、て組織が脅迫のネタで使う写真とかでMelvilleのところにも警察がやって来て、こういう写真 - 車の中で彼と青年がなにかしているような - が見つかったのですが、と。 法曹界のエースとされて妻もいて、の彼にとって全てを失うやばいやつだったのだが、彼がとった行動は。
LBGT云々ていうよりもノワールや犯罪サスペンスとして最後までものすごく見応えがあって、なんといっても苦悩しつつも行動を起こすDirk Bogarde(モノクロ苦悩顔が似合う)がめちゃくちゃかっこいいの。
こういう話はいっぱいあったんだろうなー。

The Killing of Sister George (1968)

8月3日の晩に見ました。
64年のFrank Marcusの芝居を Robert Aldrichが映画化したもの。

June Buckridge (Beryl Reid) は長年続いているTVのソープオペラ"Applehurst"の出演者で、相当長く出ているので周囲からは番組でのニックネームの"George"で呼ばれていて、そこでの男前なキャラクターも自身に染みついていて、彼女は自分の家に若い娘のAlice - "Childie"(Susannah York) を囲っているのだが、彼女が愛想をつかして出て行っちゃうのではないか、というのを病的に恐れている。 番組の方ももう長いので切られる可能性が十分にあるし周りの何人かは切られていくし、それを握っているプロデューサーのMrs. Croft (Coral Browne)がいちいち気に食わないのだが、彼女がAliceのほうに近寄っていくのを知って。
長く続いたドラマの役が日常も含めていろんなものを支配したり縛るようになっていて、その縛りがなくなったとき、つまり"George"が殺されたときに何がどうなってしまうのか - もう若くないGeorgeの怒りとか焦りとか哀しみを主に女性3人の閉じた関係のなかで無情に、容赦なくサディスティックに叩き出していく演出がすごくて怖くて、そのへんのダイレクトな凄惨さ、でいうと、女たちのドラマ(でもないか)だった”The California Dolls"(1981)なんかの数百倍ダークで恐ろしい。 役がいつまでも続かないことも、Aliceとの関係が続かないことも、それが御法度であることもおそらくGeorgeには十分にわかっているのだが、どうしろってんだ牛にでもなるか、ていう魂の叫び。 舞台版でも最初からGeorgeを演じていたBeryl Reidがすごすぎるの。 特にラストなんて。

On Trial: Oscar Wilde (1960) + discussion

7月3日の晩に見ました。 上映の後にBFI関係者を含めたディスカッション。
Oscar Wildeの裁判 - 最初にあげたCriminal Law Amendment Act 1885のSection 11が適用された具体的なケースの裁判の過程を忠実かつ正確に再現したもの、ということだったのだが、半分以上がものすごく難しい法廷英語の嵐で、はっきり言ってちんぷんかんぶんだった。 ただその後のディスカッションで、この適用(彼のケースを有罪とすること)がどれだけ後に深刻な影響をもたらすことになるのか、は当時相当に真剣な議論がなされたし、こうして記録に残されて今現在も検証したり振り返ったりできるのだな、ということはわかった。 だーかーら記録の破棄なんてとんでもないことなんだってば。

BFI(国の機関)が、なんでこんなにこの問題 - LBGT - に力をこめて繰り返し特集をやっているのか - BFIだけじゃなくてBBCでも特集番組を結構やっている - というと、これが人権問題に直結するからなの。 50年前(ほんの50年前)の英国は国レベルで自国民に対して重大な人権侵害をしていた、結果としてカウンターも含めて様々な文化が培われたかもしれないけれど、そのことに対して思いっきり反省して二度とこういうことが起こらないようにする、そういうことなのだと思うし、それをやって損なわれるものなんて、何もないよね。

繰り返すと、LBGTは個々人の、特殊な嗜好や性癖の問題ではなくて人権のありように直結することだ。 それを義務教育から外すとか言っているどっかの国は正しい人権感覚や意識の醸成を放棄している(ように見える)、ていうことなんだよ。 人権に関しては自分の国はこうだから(それでいい)、ていう話じゃないの。  言葉とおなじで他の国の人たちときちんとしたコミュニケーションができなくなるよ、そんなんでいいの? っていうくらい重大なことなのにメディアはぜんぜん騒がないし、もう日本て国はほんとうに鎖国して幼児化退行してあの時代に戻りたいのだな。 しんでろ。

8.13.2017

[film] Howards End (1992)

6日の日曜日、”The Railway Children”を見て終わってそのままBFIの廊下を走り抜けNFT1のでっかいホールに飛びこんで見ました。 ちょうど始まるとこだった。日曜の午後、英国の田舎シリーズ。

25th Anniversaryで4Kリストアされたやつがリバイバル上映されている。
日本で公開された当時は渡米の準備のばたばたで見れなかったことを憶えている。 E.M. Forsterの原作は未読。

タイトルの前のクレジットで、バブルの名残だろうか、当時資本参加していたらしい日本企業の名前がでてきて少し恥ずかしい。あんたたち誰?いまなにやってんの? みたいな。 まあ、Cool Japanとか言って数十億(の税金を)ドブに捨ててるあの件よかまだましか。

Helen Schlegel (Helena Bonham Carter)が田舎のHowards EndでそこのぼんぼんのPaul Wilcoxから婚約の約束をもらって舞い上がって実家に連絡したけどFakeだったのあらら、ていうのが冒頭で、そこから延々続いていく都会(ドイツ起源)のぱきぱきしたSchlegel家と田舎で鷹揚でどんくさいWilcox家の確執、というか腐れ縁の数々と、そこに絡んでくる別の層で暮らすぱっとしないLeonard (Samuel West)とSchlegel家のお話と。

老いた当主のMrs. Wilcox (Vanessa Redgrave)とHelenの姉のMargaret (Emma Thompson)、MargaretとHenry (Anthony Hopkins)といったMargaretと軸に動いていく話と、HelenとPaulあるいはLeonardを軸に動いていく話と、どちらにしても都会と田舎、老人と若者、高慢と偏見、土地、階層、などなどを巡る、今の我々でも想像しやすいあーあ、なバタ臭いお話が次々と交錯したり捩れたりしていくのだが、これらの渦の真ん中に広大で、でも朽ちかけたHowards Endを置くことで結局ぜんぶ沈んじゃうのよね栄枯盛衰なのよね、なかんじが出ていてよいのと、そうは言っても想ったり願ったりした方にはなかなか転がらずに変なツイストが入ったりとか、時間の描きかたも含めてなんかバランスがよくないのだがそういうところも含めて最近の英国的(or アメリカ人が描いた英国的)な、どうにも嫌いになれない微妙な作品になっているところはあるかも。
それは多分にEmma Thompson とHelena Bonham Carterの姉妹のぷんぷんに生きている魅力によるもの - このふたりだけがほんとに生きている - だと思うが。

ポスターではWhit Stillmanが絶賛しててあーなるほど、て思った。

James Ivoryの20世紀 - “A Room with a View” (1985)とか”Maurice” (1987)とか、もう一回見直してみたいなー。 当時ですら中味なんもないけどきれいだなー、と思ったあの世界はいま、どんなふうに見えるのだろうか。

あと、Helena Bonham Carterの髪の毛、ほんとすごいなー。

これが25周年、ていわれてもそうかー、て思うだけだけど、...And You Will Know Us by the Trail of Deadの”Source Tags & Codes”とかBright Eyesの”Lifted or The Story is in the Soil, Keep Your Ear to the Ground”が15th .. といわれるとちょっとだけぞっとする。 おいおいおい。

[film] The Railway Children (1970)

6日、日曜日の昼間にBFIで見ました。
BFIって土日の昼間は家族で楽しめる映画とかワークショップをやってて、そのシリーズの一本。
英国の児童向け映画としては昔から有名で、でも見たことなかったので行ってみた。
客はぜんぶで5人くらい、うち子供はふたりくらい。

20世紀の初め、Waterbury家はパパ、ママ、Bobbie(Jenny Agutter)、Phyllis (Sally Thomsett) 、Peter (Gary Warren)の3兄弟、5人家族でロンドンで幸せに暮らしていたのだが、ある日家に大人ふたりが現れて、口論した後でパパはどこかに連れていかれてしまい、ママと子供達はヨークシャーの田舎の家に引っ越すことになる。 ぼろぼろの一軒家でいろいろ心配でわからないことも多いのだが、必ずパパは帰ってきますから、とママはやたら力強いの。

映画は長女のBobbieを語り手に、パパはそのうちきっと現れるからと固く信じて毎日毎日線路脇で通り過ぎる列車を見つめて過ごす子供たちと、そうしていて起こるいろんな出来事 - ロシアの病人とか足を怪我した学生とか、都度助けてくれる駅員とか近所の医者とか謎の紳士とかとの交流を綴っていって、基本は信じるよいこは救われる、神さんはちゃんと見ててくれる、のであんま心配はいらないのだが、でも子供の時分にこれ見たら胸が痛くなっただろうなー、くらいの程よいしょっぱさは感じられる。いまだに。

お姉さんのBobbyと次女のPhyllisとまだガキんこのPeterのトライアングルがよくて、3人がお手上げのときはフランス語もばっちりのママがいるし、駅員おじさんもお医者さんも助けてくれて頼りになるの。ご近所にはレスペクトだし、困っているひとや苦しんでいるひとがいたら分け隔てなく助けてあげること、とか教えてくれることもいっぱいある。 まじで。

そういう子供たちに訪れるラストの贈り物はわかっていてもよかったねえ、しかないの。
最後に登場人物みんなが電車に手を振るみたいに画面のこっちに向かって手を振ってくれるのもよいの。 47年前のバイバイ。 最初にこれを見た子供たちはみんな手を振り返したんだろうなー、って。

あと、列車と子供たちって、なんであんなに絵になるんだろうね、とか。
小さい頃って列車を見ていろんなことを考えたよね、なんで手を振ってくれるひととそうじゃないひとがいるのか、とか、なんでまるごとすれ違って行っちゃうんだろうとか、すれ違ったらまた会うことってないのか、とか距離とか速さとか届かないこと、などなど。 列車を見る子がみんな真剣に見えるのは手を振りながらそういうのを一生懸命考えているからだと思うの。 そのかんじが胸をうつのではないかしら。

ねえねえ、80年代末に The Railway Childrenていうバンドがあったんだけど(最近復活してるみたいだけど)、ちょっと好きだったんだけど、しってるひとー?

8.12.2017

[music] Mike Heron + Ed Askew

7日の月曜日と8日の火曜日、Cafe OTOで"Trembling Bells – Summer of Love 50th Anniversary Residency w/ Mike Heron + Ed Askew" ていう二日間のライブイベントがあって、Trembling Bellsていうグラスゴーのバンドをバックに Ed Askew(7日)とMike Heron(8日)がライブをすると。 2日間通しのチケットは£22で、この値段でこのふたりを見れるなら、と、First Summer of LoveもSecond Summer of Loveもよく知らないしわかんないし、なによりもここんとこ寒くてもう夏なんかどこ探しても見つかりそうにないのだが、とにかく行ってみる。

Ed Askew

この人はNYでずっとやってきた人で、"Ask the Unicorn" (1968)は少し前に再発もされたし、一部では有名ではなかろうか、と思うし、NYにもSummer of Loveがあったのかどうかはわかんない、けど、いちおう化石っぽい伝説のひと(1940年生)ではあるので見ておきたかった。

前座がPoetry Reading - Amy Cutlerさんで、スマホで鳴らすカラオケのしゃかしゃかしたバックにあわせて詩を読む、ていうおもしろいので、そのあとでEd Askewさんが出てきて高めの椅子にちょこんと座って、最初はピアノとのデュオ、そこにバイオリンが入って、更にTrembling BellsのDとBとGが入って、という流れで、でもバックが薄くても厚くても言葉を区切りながら囁くようにゆっくり歌ってハーモニカ(すばらし)を吹いて歌って、というスタイルは変わらず、Summer of Loveがどうこうはどうでもいいのでずっと歌っていてほしい。 演奏したのはほとんど新曲だったのもすごい。 Google行けば買えるからね、って言ってた。丁度1時間くらい。

Mike Heron

2日目の火曜日、初日と同じ時間19:50くらいに行ったら結構な行列であらやばし、で、早いもん勝ちの椅子席は取れなくて、まだ火曜日だし途中で体力使い果たしてしんじゃうかも、だったが読みが甘かった自分がわるいのよね。

前座はふたつあって、Poetry ReadingのJeff HilsonさんとギターいっぽんのAlasdair Robertsさんと。 前者はレコ屋のPOPみたいに、このバンド(orシンガー)が好きだったらこのバンド(orシンガー)を聴きなさい、を韻を踏み踏みえんえん並べていくのがめちゃくちゃおかしい。

Mike Heron (b.1942)さんが出てきたのは22時近くで、若い女性のKey & Choが両脇(ひとりは彼の娘さん)、背の高い魔法使いみたいなフィドルとTrembeling Bellsの3人がバックで、畑仕事からそのまま来ましたみたいなナリで、昔の絵巻物に出てくるGnomeみたいなMike Heronさんが満面の笑顔を浮かべて歌いだすと途端に月も星も太陽もいっぺんにぱーっと輝いて回りだして、音もカラフルに全方向からじゃかじゃかばんばんどかどか太鼓に弦に笛もぴーひゃら鳴りだして、昨日の様相とは余りに違うので恋の夏もいろいろなのね、だったが、ああこれが俗に言う(言わないけど)Incredible String BandのIncredibleな魔法か、と。 他に例えるのが難しいのだが、出てきたころの上々颱風がたしかにこんなふうだった、といって何人のひとにわかってもらえるかしら。

お盆の祭囃子 - Party musicをフォーキーに再構成しただけではないか、というひとはいうかも知れないが、音の粒の麩菓子みたいに溶けて消えちゃう儚さとISBの詩のもつ力強さとそれを空中に放つ複数の歌声がスパークして渦を巻いて異様な空間を、それこそSunn O)))やBorisにも負けないくらいの(逆向き重力の)磁場を作っていた。 あんなすごいとはねえ。

真ん中くらいでやった“Painting Box”とラストの“A Very Cellular Song”、このふたつが聴けたので7曲、50分くらいだったけどとっても幸せで、いちばん最後は娘さんとふたりでアカペラで歌ってしゃんしゃん、だった。

”Little Cloud" もやってほしかったなー。

いま、BBC FourでGlen Campbellの追悼番組やってる。
70年代のライブで、ピアノ弾いてるのはJimmy Webbで、泣きそう。泣け。  RIP