7.22.2018

[film] Ryuichi Sakamoto: Coda (2017)

7日の午後、Oneohtrix Point Neverのライブに行く前にCurzonのBloomsburyで見ました。
坂本龍一の音楽活動を追ったドキュメンタリー。
NYのFilm Society of Lincoln Centerでは今も絶賛上映中のようだが、こっちではもうほぼ終わっていて、でも先月、彼のBarbicanでのライブがあった週の上映の際、BFIではQ&Aもあったりした。行けなかったけど。

311の津波で海に浸かった学校のピアノの弦を弾いて鍵盤を叩いて音を出してみるところ、放射能の防護服を来てそこの浜辺を歩くところ、避難所でのコンサートで「戦場のメリークリスマス」を弾くところ、ここまでが冒頭。 本編に入るとまず本人が癌でステージ3の治療中であることが明かされて、そこから新譜を製作していく過程とYMOの頃から映画音楽製作などを含む幅広いキャリアの振り返りが並行して流れていく。

坂本龍一についてはずっとあまりよい聴き手ではなくて、でも自分の高校から大学にかけてはYMOが全盛でどいつもこいつもバカみたいに聴いていたので聴かずに過ごすことなんてできなかった(それでも意地でもレコードは買わなかった。サウンドストリートは聴いてた)ので、それなりに思うところはあって、この映画を見ながら思い出したその辺のところを少し。

坂本龍一はいつも世界との関わりのなかで音を出し、音楽を作ってきたひとだ。音が世界のなかで立ちあがる、あるいは音の立ちあがりと共に世界がうまれる、その音が持続し、減衰し、やがて消滅する、その物理的なありようが世界にどのような響きやうねりをもたらすのか、彼の音楽は常にその成り行きに繊細に耳をすます、自分の音と音楽が伝わっていく世界やプロセスも込みで捕まえる、そんなふうに世界に向き合って「聴く」態度と共にあった。 だからある時のテクノロジー、ある時のダブ、ある時のオーケストレーション、ある時のオペラ、ある時のブラジル音楽、といった様々な領域への傾斜はその文脈のなかで捉えられるべきだし、世界をまるごとひとつを創りだすものが映画なのだとしたら、彼の映画音楽がその立ち上がりの瞬間に、その推移と共にあることは必然、要請に近いものなのだったのだと思う。

そしてこれって、パンクやロックが世界に向かって取ってきた態度とは根っこから相容れないものだった。(とパンクやロックを聴く人たちは勝手に思ったりしていたの)

さて、そんな彼が、音楽も含めた彼の世界が、病によって消滅するかもしれない危機にさらされたとき、あるいは911や311のような外の世界の唐突かつ暴力的な瓦解に直面したとき、彼の音はどんな様相をもって立ち上がろうとするのか、心身の減衰や消滅はどんな音として現れて記録されるのか、という問いによろよろと向き合う姿を記録したのがこの映画で、それはこういう闘病映画の際によく言われる「力強い」とか「精力的」とかいうのとは程遠く、よろよろした初老の男がレコーダーを抱えて野山を歩いたり部屋の隅で変な音を採取するさまが映し出される。 そしてその最後に立ち現れる音楽のなんと儚く、繊細で美しいことだろう。

こういう映画に「奇跡」のような言葉や概念を持ち込むことはあんまよくないと思うのだが、なんかそういうものが見えてしまっている気もするので、見てみてほしい。


Yellow Submarine (1968)

音楽映画をもう一本。 8日、日曜日の11:00にPicturehouse Centralで見ました。
公開50周年で、4Kリマスター版がでっかい画面で帰ってくるよ、ってお祭りのようにずっと宣伝していたので初日に行った。

ストーリーはいいよね。The Beatlesが世界征服を企む悪のBlue Meaniesと愛と音楽の力で戦うの。

最後に註記でアニメーションの仕様上リマスターには限界があって、のようなのが出て、でっかい画面だとやたらチカチカして目がまわるようで(お話とは全く関係ないところで)ちょっときつかったのだが、ドルビーでばかでっかく再生された音はちょっととんでもなかった。 お風呂で遊ぶおもちゃの潜水艦なんかじゃなくて、ほんもんの潜水艦としか言いようがないやつがばおおおーって襲ってくるのだった。

7.20.2018

[film] Tag (2018)

7月6日の金曜日の晩、West Endのシネコンで見ました。いろいろへとへとの金曜日で寝ちゃう気がしたけどだいじょうぶだった。

83年、9歳の頃から20年以上にわたって毎年1ヶ月(2月とか5月とか)の間、えんえんTag  - 鬼ごっこを続けている男子5人組がいて、Wall Street Journalでもレポートされた感動の実話の映画化。中味は単なるバカコメディなんだけど。

冒頭、Hoagie (Ed Helms)が清掃会社の採用面接を受けていて、あなたPh.D持っているのになんでこんなところに来るの?て聞かれたりしてて、その理由は幼馴染のBob (Jon Hamm)がCEOをしている会社に潜入してその年のTagを開始するためだった、と。 BobがWall Street Journalの記者とインタビューをしている時に掃除夫姿のHoagieが乱入してそれが始まって、Bobもそれを平然と受けて立っているので、あんた達なにやってるの? と記者がおもしろがって同行することになり、地方に散らばっていたTagメンバーのChillie (Jake Johnson)とKevin (Hannibal Buress)も拾うのだが、難関は故郷にいるJerry (Jeremy Renner)を捕まえることで、こいつはその月末に控えた結婚を機にTagをやめるとか言っているらしい、なめてんじゃねえぞ。

いろいろルール細則はあるらしいのだが、とにかく追っかける方は相手が結婚式の最中だろうが会議やっていようがトイレ入っていようが入院していようが24時間なりふり構わず徹底的に追っかけてよいことになっていて、逃げるほうはどんな手段を使ってもとにかく逃げて逃げて、どっちの側もそのためには騙しもなりすましも狂言もなんでもやる。ひとによってはそれを愛と呼ぶのかもしれないが、この場合は単なるバカなんだとおもう。

とにかくこうして5名+ WJ記者にHoagieの妻を加えた7名はHoagieの実家の地下に作戦本部を敷いて、Jerryの捕獲作戦に乗り出すのだが、こいつはJeremy Rennerなもんだからすばしっこくてずる賢くて最強で、Wedding Crasherやれるもんならやれば、でも新婦は妊娠してるんだし邪魔しないでね、とか軽くあしらわれて。 地元の結婚式なので親族同窓みんな来ていて、かつてガキ共全員を陥れたFemme FataleであるCheryl (Rashida Jones)が現れて撹乱したり、事態は混迷の度合いを増していく。ただ鬼ごっこをやりたいだけなのに。そしてその欲望を抑えることなんて誰もできやしないの。

ただの鬼ごっこに30年くらい没入して大人たちが(大人になっても)遊んでいる、というバカらしさが結婚式とか家族の絆とか故郷とかその他もろもろを巻きこんで一同総倒れの総崩れになっていくさまを面白く描いていて、確かにおもしろいんだけど、もーっともっとおもしろくできたのではないか、とか。 実話だからなんか遠慮したのかな。

ぼんくらMキャラを演じさせたら天下一品のEd Helmsと容赦ない狂犬Sキャラが似合うJeremy Rennerのせめぎ合いはなかなか絵になって、絵になるのはこれがただの追いかけっこだからなのかな。一方が追って、一方が逃げて、家の隅っこから地平線の彼方まで、延々それを繰り返しているだけ、でも見方によってはこんなにシンプルで楽しい映画になるネタもないかもしれないよね。

最後に実際にやり続けている本人たちの動画が映し出されるのだが、ほんとに楽しそうでよかったねえ、だった。

主題歌みたいに流れるのがCrash Test Dummiesの“Mmm Mmm Mmm Mmm”で - この変てこな曲を久々に聴いて、あったよねえーと思っていたらエンドロールで、今度は主要キャストが順番に歌ってくれるので、呪いのようにしばらく耳から離れてくれない。
「むーむーむーむー」

Portlandでセラピストの役で出ていたのはCarrie Brownsteinさんだよね?

7.19.2018

[film] Orlando (1992)

7月4日の水曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。
ここではそんなに古くない、でもあまり見れなくて微妙に懐かしい映画を35mmで上映してトークとかQ&Aをくっつける、という不定期緩めのシリーズがあって、そのひとつで。

上映後のトークに登場するのは、こないだ”The Cost of Living” - カバーが素敵 - を出した小説家のDeborah Levyさんと、こないだ” Free Woman: Life, Liberation and Doris Lessing”を出した批評家のLara Feigelさん。どちらも、読みたいけど全く読めていない。

“Orlando”は見ていなかった(あの頃ばたばただったのよ)。
原作はみんなが知っているVirginia Woolfの小説”Orlando: A Biography” (1928) 。

1600年から始まって現在(1992年時点)まで、Orlando (Tilda Swinton)が時間を超えて性を超えて英国の歴史を自在に渡っていくさまを、Death - Love - Poetry - Politics - Society - Sex – Birth といった章立てのなかで描く。 始めは男子だったOrlandoが女子になっちゃうのは”Politics”のところで。

400年に及ぶ話だし、英国の歴史に詳しいわけでもないので、個々のエピソードを読み解く - 原作との対比も含めて - ということよりも単にそのまますらすら見ていけばよいのかな、くらいで。 とにかく画面は、今ならCG使っちゃいそうなところを手作りでこまこま編み込んであって、綺麗な織物のようで飽きることがない。

400年だもんだから、Elizabeth I (Quentin Crisp !)からの寵愛とか、Princess Sasha (Charlotte Valandrey)との恋とか、コンスタンチノープルへの遠征とか、Shelmerdine (Billy Zane)との親交とかほんといろいろあって、最後には娘まで生まれていることになっているのだが、Orlandoはその仮面のような表情やしなやかで優雅な挙動をほぼ変えずに旅を続け、その時々の蜻蛉のように歴史の絵画の中に納まっていて、そういう描き方をすることでそれを見る我々は(性を超えた)個人におけるDeathとかLove とかPoetryとかPoliticsとかSocietyとか SexとかBirthとかについて思いを巡らすことになる。 たぶんあと10回見てもその感触は都度異なって見えるのだろうし、それをジェンダーやフェミニズムやクィアーの議論が活発になっている(よね? いない?)いま、見直してみること、あるいは例えば、前世紀初のVirginia WoolfやVanessa Bellも含めたジェンダーや結婚に対するスタンスを踏まえて見直してみることとか、あれこれ考えはつんのめっていくので、とっても豊かな映画だなー、と感心する。

トークの中でも指摘があったDerek Jarmanとの関係 - 監督のSally Potterさんは一緒に仕事をしていたそうで、彼の“Caravaggio” (1986)や”The Last of England” (1987)との関係から見えてくるものもあるはず。Tilda Swintonさんは彼の”Caravaggio”がデビューではなかったか。

ここで描かれた英国の変遷とか国境・時代越えのスケールに比べれば、Brexitなんてほんと小せえことだわ(だからやめちまえ)っておもう。 あと、ラテンアメリカ文学の作家がマチズモぷんぷんの世界に対してこれをやるのではなく、野蛮な男共がうなりをあげていた英国に対して女性のWoolfがやった、ということと、さらに映画版のほうではこれをはじめから女性であるTilda Swintonさんが演じた、その誕生を祝福したのはクィアーであるElizabeth I = Quentin Crispだった、ていうあたりが痛快なのね。

ゲスト2名によるトークはそれぞれが自作を朗読したりやや纏まりに欠いたとっ散らかったものだったが、Woolfの原作も含めて、Orlandoの世界が広げてくれる女の一生、男の一生、あるいは歴史・時間というものへの洞察の深さ豊かさは半端ない、という点で一致していたように思う。今こそ見られるべきクィアーな一本である、と。

音楽は最初と最後にJimmy Somervilleが天使の歌声を披露してくれるのと、途中の音楽にもLindsay CooperがいてFred FrithがいてDavid Bedfordがいて、Sally Potter自身も関わっているのだった。そういえば彼女の弟ってVdGGのNic Potterさんなのね。

Tilda Swintonさんはこの映画のあとも転生を続けていて、最近だとチベットの方に渡って”Doctor Strange” (2016)に出ていたよね。

この上映会、次回はこの金・土にWhit Stillmanさんをゲストに迎えて、”The Last Days of Disco” (1998)と”Love & Friendship” (2016)の上映があるの。

7.18.2018

[film] Mary Shelley (2017)

7月8日、日曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。
映画のなかに出てくるMary ShellyがShelleyと一時期暮らしていた近所にあるシアター。
(彼女が亡くなるまで過ごしたSloane Squareのアパートはこないだ見っけた)

監督は“Wadjda” (2012) -『少女は自転車にのって』- のHaifaa al-Mansourさん。

本屋を営む著名な父William Godwin (Stephen Dillane)と暮らすMary Shelley (Elle Fanning)が継母とぶつかったりしながら新進気鋭の詩人Shelley (Douglas Booth)と出会ってときめいて恋におちるのだが、彼には既に妻子があってなんだよ、って裏切られたり父にも反対されたり生まれた子供も亡くしたり苦難の波が続いて、そうやって彼女の内側でぐらぐら溜まっていったいろいろと見世物小屋で見た驚異の電気実験とか自分でもなんか書きたいな欲求などなどが嵐で閉じ込められたLord Byron (Tom Sturridge)の別邸でめりめりとスパークして有名な化け物譚 - ”Frankenstein; or, The Modern Prometheus” (1818)として誕生するまで。の実話。

そうして誕生したこの子 – お話しはその内容の異様さ故に彼女自身の名を付して出版されるまでにも困難続きでかわいそうでふざけてんじゃねーよ、ったらないの。

このメンツであれば(まだみんな若いんだから)例えばShelleyとの出会いとその後もずっと続いていく彼との愛を軸にドラマチックに構成することもできたであろうに、そうはしなくて、Maryが直面したいろんな不条理や不満がいかに彼女を悲しませ、絶望させ、そしてあの怪物を生みだすまでに至ったのか、なにが彼女をそこまで苦しめたのか、そして彼女はとうとうその怪物の母となって、周囲にざまーみろ、ってやったのか、を重層的に描いていてとてもよいと思った。苦しんで耐えて忍んで最後に光が、というより終始物語の底で渦を巻いているのは彼女の満たされない怒りとか不満とかで、それが閉じ込められた空間とByron卿の不遜さでぶちきれて着火して燃え広がって、いったん生を受けて立ちあがった怪物は誰にも止めることはできない。彼女はなんで あんな血も骨も凍るようなお話しを書いたのか、書けたのか。

ホラー映画だったら間違いなくどこかの時点で阿鼻叫喚の殺戮地獄に変貌してもおかしくないようなテンション。 “The Beguiled” (2017)に続いてElle Fanningさんの内面の渦と炎が表面に噴出するぎりぎり手前で彼女をどこかに引き留めている何かがあって、それって何だと思う?ってこちらを真っ直ぐに見つめてくる。

彼女がものすごい怪物的な衝動や妄想を育てて溜めこんでいた、それをホラーストーリーとしてぶちまけた訳ではなく、ただ書かれるべきものとしてそこにあって、だから彼女はひたすら書いた。アプローチとしては彼女の朽ちていく内面と分断された屍体の接合〜怪物としての復活をサイコドラマとして交錯させるというのもあったと思うのだが、そうはしなかった。そこを自分はかっこいいと思って、だから出版時に彼女の名前が伏せられてしまった時、彼女の怒りが爆発したのはよくわかるし、監督が拘ったところ、議論を呼びそうなところもこの辺りではないかしらん。

いっこあるとしたら、Shelleyがぜんぜん魅力的に見えないとこかなあ。

あと、同じ嵐の晩に同じおうちで生まれた"The Vampyre" (1819) by John William Polidori (Ben Hardy)のエピソードも少しだけ出てきて、いいの。 つくづく変態だったByron卿のやらしさも込みで。

[music] Oneohtrix Point Never

7日、土曜日の晩、Barbicanで見ました。

この日はThe Cureの結成40周年の記念ライブ - 今年唯一のライブ - がHyde Parkであって、当然そっちに行くもんよねと発表時点から強く思っていたのだが、ものすごい勢いであっという間にチケットは無くなってSold outがついて、ううーむになってこいつはしぶとそうだ、と。

他方でこれのチケットも早々に売り切れていて、ある日悪くない席が空いていたのでとりあえず取って、そしてしばらくしてThe Cureのと日にちが被っていることがわかった。 こちらをキャンセルしてThe Cureのほうをなんとかする、というのがそれなりにThe Cureに寄り添ってきたものの取るべき態度ではないか、と思っていたのだが、日が近づくにつれて暑いしだるいし、なんかどうでもよくなっちゃったので、そのままにして当日が来てしまった。 あーあ。

7:30に場内の照明がサーチライトのようにぐるぐる回って、オープニングのCURLが現れる。
5人いて、まんなかにエレクトロがふたり、ギターがひとり、太鼓がひとり、曲によって3人がラップする。エレクトロのひとりはMica Leviさんで、彼女はたまにギターもがしゃがしゃやる。 音はエレクトロ+ヒップホップ、なのだが、全体に漂うアンダーグラウドのスカスカした殺気みたいのがすごい。 道端とか場末の倉庫で鳴らしているかのような素の空気感がそのまま演奏の粗さとテンションに出ていて、だからなに? の無頓着さもかっこいい。

8:30くらいにOneohtrix Point Neverが登場する。 配布されたプリントにはMyriad Ensembleとある4人のバンドで、ドラムスひとりとキーボードとかコンソールに向かう3人。OPN = Daniel Lopatinさんは真ん中の少し高い位置に座って、たまに愛想よく手を振ったり微笑んだりする。
背後には鋭角で切り取られたパネルが組み合わさっていて、ステージ右左の高いとこには化け物みたいな球形のオブジェが風鈴みたいにぶら下がってくるくる回っていて、照明は曲によって緻密に設計されているようで、ストロボからなにからがんがん。

こういう系統の音に詳しくないので、誰それのなにに似た音、みたいな形容ができないのだが、このショーの中心となる新譜”Age Of”のジャケットアートなどなどを見ると、中世の異形とか魑魅魍魎とか魔女狩りとか、その辺の過去の時間や非人間、非生物のありようをデジタルの波形を使って「数々」-「いっぱい」- Myriad - 表してみたらこんなふう、って。 

音は分厚いかんじはしなくて粒とエッジの立った音々がひとつの面上と線上でびちーっと並んで共時で攻めてきて、そこに人力のドラムスが独特の揺らぎを持ちこんでくる。 暖かい~冷たい音という形容とは別の、蛍とか星みたいに瞬いては消えていく、きれいなだけの音のうねりが無機質な平面上に散らされた時に一瞬立ちあがる生々しさ – 途中で1曲だけ、カウボーイハットに仮面をした長袖レオタード姿の女性ダンサーが5人、客席側からステージに上がってひと通り踊ってそのまま客席に降りて消えていった - なんだろあれ? の奇妙な感触 -これは映画 “The Bling Ring” (2013) や”Good Time” (2017)のサウンドトラック、それらが走っていた画面上でも起こっていたことだよね、と改めて確認した。

エレクトロでリズムもあるけど、フロアで踊るかんじの音ではなくて、どちらかというとクラシックを聴くのに近いかんじでみんな背筋を伸ばして聴いていた。曲によってはニューエイジみたいに聴こえるのもあったし。別にいいけど。

屋内よりも野外で聴いてみたほうがおもしろいのではないかしら。
アンコールもしてくれた。 もっと邪悪なひとをイメージしていたのになんかよいひとっぽかった(それがどうした? - Richard David Jamesみたいだと思ってたか?)。

7.14.2018

[log] July 13 2018

12日の昼前、在英日本国大使館ていうところからメールが来て、13日にトランプの訪英に抗議するデモがあるので「安全確保に努めるように」とあって、当日のルートとかがご丁寧にリンクしてあって、デモにはどっちみち行くつもりだったのでわざわざ教えてくれてありがとう、だった。

そのメールに直接そうは書いていないけど、危険だからデモには近寄らないように、みたいな書きっぷりで、なに言ってやんでえあの提灯フグがのさばって国境越えて来ることの方が世界にとって10000倍危険だわ、って思ったのと、昨年の2月に訪英しそうだったときにウェストミンスターでの抗議デモに行って、散々文句いって撃退したのにのこのこやって来るとはいい度胸だナメてんのかおら、って。

13日金曜日の午後は仕事でLondon Bridgeの方にいて、4時過ぎくらいからうずうず落ち着かなくなって4:30くらいにもう我慢できねえ、って地下鉄でトラファルガー広場に向かった。ほんとは着替えて行きたかったのだけど、そんなことも言ってられない。

昨年2月よりもすごい人出で、みんなそれぞれ好き勝手な格好(夏祭り?)で、思い思いいろんな手書きのプラカードを手に楽しそうで、雰囲気はすごくよくて - こっちのデモはほんとに雰囲気いいのよ、警察が出張って弾圧モードで危険なのは日本のやつよ -  プラカードを見ていると、しみじみあのブタやろうはこんなにもいろんな言葉や絵(すごいのが多い)や風船で底の底まで嫌われているんだねえ、って感動した。 で、ここまで言われてもカエルのツラでしぶとく辞めないからここまで行っちゃうんだなあ、って。

広場は人で埋まっていて暑いので池のとこにもじゃぶじゃぶ入ってて(いいなー)、その上のNational Galleryのあたりまでびっちりで、壮観だった。赤ん坊に子供から老人まで、いろんな人種の人たち、そして壇上で次々にスピーチしていく人たちもそれをそのまま反映して、パレスチナのひと、シリアのひと、メキシコのひと、アメリカのひと、ムスリムのひと、トランスジェンダーのひと、ラップのひと、環境活動のひと、どれも力強くてかっこよくて、スピーチ慣れしているのかな、と思ったけど、ちがうの。 みんな必死で切実なんだよ。

なんで英国の人たちが(そして日本人の自分が)アメリカの大統領について、その訪英についてこんなにも抗議するのかというと、レイシストでミソジニーでホモフォビアで環境を壊して自分たちの権益のためにはなんでもして、要するに橋をかけるのではなく壁を作って世界を分断した、それを大国の政治のトップにいるガマガエルがおおっぴらにやった、そのやり口があまりに酷くて勝手なのと、このヒキガエルが分断してぶっ壊そうとしている世界は、いま我々が暮らしている世界だからなの。だから黙るわけにはいかないの。 「みんなアメリカを嫌っているから行進しているんじゃない、アメリカを愛しているから行進しているんだ」

だからみんな自分の生きて立っているそれぞれの場所から、彼のやっていることは絶対におかしい、許されることではない (なんで子供を檻にいれて平気でいられる?)、とMartin Luther King Jr. やJames Baldwinの言葉を引いて、連帯しよう、Stand ByではなくStand Upしよう! って言うの。

そのスピーチの熱狂がいちばん盛りあがったのは、やはりJeremy Corbynが登場したときだろうか。すごい人気なんだねえ、だった。 明快で力強いスピーチの動画はネットにあがっているので見てみてね。

日差しが強すぎて目が回ってきたのと足が痛くなってきたのと夕立が来る気がしたので、途中で抜けたのだが、よいライブに行ったのと同じかんじで、すこし元気になった気がした。

それにしても、ここまで嫌われているやつの腰巾着でご機嫌とりまくって尻尾ふってばっかりの自分の国の首相(名前もタイプしたくない)って…  しばらくは英国でいいや。

夕立は久々にみごとなのが来て、雷もばりばりで、いいなー夏だなー、だった。

7.13.2018

[film] The Bookshop (2017)

3日、火曜日の晩、CurzonのMayfairで見ました。

たまたまこの日のこの時間帯、World Cupの英国 vs. コロンビア戦とぶつかっていて、場内は老夫婦とか女性たちばかりでたいへん静かなよい雰囲気だった。

丁度いまかかっている(もう終わっちゃったかな?)アメリカのRom-Comぽい” Book Club”の方はなぜかあんま見たくないのだが、こっちは見たかった。

原作はPenelope Fitzgeraldの同名小説 (1978)、で未読(読みたい)。

1959年、イギリスの海辺沿いの田舎町でFlorence Green(Emily Mortimer)が本屋を開こうと奔走していて、物件は”The Old House”ていう危険なくらいにぼろぼろであんなとこ住むのは無理、と言われるようなところで、地元の金持ちは人が集まるアートセンターに改築しようとしているのだが、彼女は負けずになんとしても、と買い取って開業する。近所のもしゃもしゃ髪の女の子Christine (Honor Kneafsey)が手伝ってくれて、丘の上に住む怪しげで頑固そうな老人Edmund Brundish (Bill Nighy)が本を送れと手紙で言ってきたり、他方でなんとしても建物を手に入れたい金持ちViolet (Patricia Clarkson)は汚い手を使ってきてFlorenceと対決して..

Florenceの本屋の運命やいかに、というお話しよりも建物を手に入れてこつこつ自分の本屋を作っていって、評伝とか詩の本を求めてきた老人Edmundにブラッドベリの『華氏451度』(1953)を送りつけて反応を見たり、その反応がよかったものだから今度は発売されたばかりのナボコフ『ロリータ』(1955)を送りつけて、あなたはこれについてどう思うか? これを店で売ってもよいと思うか? って聞いたりとか、そういうやりとりの方がたまらなくわくわくで、本屋を開く楽しみって、まずはこういうのなんだろうなってじーんとした。 ストーリーの成り行きはそんなに明るくぱっとくる話ではないのだが、最後のところで少しだけほっとする。 ここがあるだけでいいわ、って。

つまり、人はなんで本屋を開きたいと思うのか、開くとどんなことが起こるのか、それはどんなふうに本好きへと伝搬して更なる本への欲望をかきたててどこまでも広がっていくのか。それは本という分厚く綴じられた紙の束、読書という行為、本を手にいれるという行為、それらの大屋根となってくれる本屋をきれいに貫いていて、だから本屋はこんなにも必要とされるものなんだなって。図書館にもそういうとこはあるけど、あっちは神殿みたいなもんで、こっちの本屋は自分の掘立小屋で穴蔵で、でもどちらも極めて必要だし。

公の図書館が骨抜きにされ、町の素敵な本屋がどんどん潰されて、こういうのをビジネス(要は金)とかいうぜんぜん関係ない、読書経験なんてしたこともなさそうな屑共が動かしているのが今の日本で、だからほんとにあの国のなにもかもが嫌でだいっきらいでたまらない。でもあれらをあんなふうなのーたりんのバカ共がやっているのであれば、本好きの魂は、ジェダイのようにどこかにまだいっぱい残っているはずで、いつかきっと、とも夢を見たりもする。

ものすごく甘くて勝手なわがままだけど、先があと1年とか見えてきたら自分ちにあるのをぜんぶ並べて本屋とレコ屋をやってみたいな、ていうのはたまに思う。どこかの「業者」なんかに処分されるくらいなら自分で売ったりあげたりしてお片付けしたい。

地味な作品なので日本で公開されるかはわからないけど、本屋の日(確かあったよね?)にくっつけたりして公開されてほしいな。 いや、それ以上に本好きのためにはFrederick Wisemanの”Ex Libris: The New York Public Library”をお願い。(英国ではもうじき正式公開される)

Bill Nighyがすばらしくて、古典ばかり読んできた堅物なのにブラッドベリやナボコフに萌えておろおろしてしまう、そんな役は彼にしかできないわ。

FlorenceがChristineに贈る本が、Richard Hughesの”A High Wind in Jamaica”。
そして最後に、John Bergerに捧げる、ってでるの。(じーん)