2.19.2019

[film] Stella Dallas (1937)

10日、日曜日の夕方に見た3本めのStarring Barbara Stanwyck。
淀川長治さんの名解説(Webでも読める)でも有名な作品よね。

マサチューセッツの炭鉱労働者の娘のStella (Barbara Stanwyck)は、炭鉱の重役のStephen Dallas (John Boles)の気を惹こうとしてて、彼の父が破産して自殺、婚約者Helenもそのせいで別の人と結婚してしょんぼりのところを捕まえて結婚して、彼女はStella Dallasになる。

やがて娘のLaurel (Anne Shirley)が生まれて、Stellaは娘のことしか頭にないくらい子育てに没頭して良くも悪くもべったりになっていくのだが、昔からの鷹揚な飲んだくれとずっと付き合っていたり、彼女の恰好はだんだんに大阪のおばちゃんみたい(ごめんなさい、あくまで印象だけで言っています)になっていって(なんでだろうね?)、Stephenは目を合わせてくれなくなり、彼のNY転勤を機に離れて暮らすようになる。

NYのStephenは今は未亡人になって3人の息子がいるHelenと再会してなんかよいかんじになり、そこにLaurelを呼んだら彼女も世界が広がって楽しそうにしているので、Stellaはだんだんに孤立していって、Lauraはやがてその土地の名家のぼんと結婚することになったのだが、婚約パーティにStellaが招かれていっても浮きまくって恥ずかしいことばかりなので、あたしがいるとLaurelのためにもよくないわ、って離れることにするの。  で、やがて結婚式の日がきて…

ものすごく辛い痛みや生死を分かつような別れがあるわけではなくて、昔からどこにでもありそうなベタな浪花の(ごめんなさい、あくまで印象だけで言っています)母娘物語、みたいなかんじで、これのきっついのはみんないい人で誰一人悪人が出てこない、っていうことなのかもしれない。たぶんStellaがちゃんと言えばいつでもLauraに会うことはできるしLauraも喜んで迎えてくれるのだろうけど、でもそういうことじゃなくて、もうふたりで過ごしたあの時間は二度と来ないんだな、っていう誰にでも思い当たりそうなしょんぼりした感傷と、あなたの幸せを世界で一番願っているのはこのママなんだから! ってラストシーンに向けてなりふり構わずエモ全開でぶちまけてくるBarbara Stanwyckのすさまじいこと。 幸せになってよう、って誰もがハンカチ握りしめて投げ銭しちゃうよね。

献身的な母と離れていく娘モノ、ていうとトーンはぜんぜん違うけどJoan Crawfordの“Mildred Pierce” (1945)てのもあって、ほんと母娘いろいろだねえ、って。(他人事)

これの原作となった小説は20年代のベストセラーで、なんでかというとアメリカで離婚や片親の問題がクローズアップされてきたという背景があって、Samuel Goldwynが最初のサイレントのを作った時、その映画化権は当時としては破格の$15,000だったのだそう。で、Goldwynがこれのリメイクをする際、Barbara Stanwyckはチョイスに入っていなかった - 母親を演じられるとは思わなかったって - とか、撮影に入ってもいろいろあったとか、配布されたノートにはいろいろあっておもしろ。


この日、BFIに行く前にV&Aで始まった”Christian Dior: Designer of Dreams”を見てきた。

チケット購入不要のメンバーでも軽く30分並ぶ盛況で(日曜の昼間だからか)、基本は2017年にパリ装飾美術館で開かれた“Christian Dior, couturier du rêve”のを持ってきて、V&Aの新しいギャラリースペースにぎっちり押し込んだかんじ(ややきつめ)。プラスでDiorはイギリス贔屓でした、ていうコーナーが新たにくっついたくらい。  装飾美術館のほうが威風堂々としていたかも。

あとカタログは構成、製本、紙質、ページ数(100p以上多い)ぜんぶパリの方の圧勝だと思いましたわ。

RIP Karl Lagarfeld ...  猫も沢山の本たちも悲しんでいることでしょう。

[film] Night Nurse (1931) + Baby Face (1933)

10日の日曜日は、BFIのBarbara Stanwyck特集で3本見た。 この回は初期の中編ふたつを束ねたもの。
やはりどっちもとんでもな(以下略)。

邦題は『夜の看護婦』で、たしかに間違ってないけど、なんか淫靡になってしまうのは ..自分がわるいのよね。
監督William A. Wellmanの出演作の最初の。

Lora (Barbara Stanwyck)は看護婦見習いになりたくて病院に来たのだが高校を出ていないからって追い払われる手前で、手助けしてあげた偉い人の口利きで採用されて、いろんな部局での研修を経て住み込みの看護婦としてお金持ちのおうちに入るのだが、そこのふたりの娘はすっかり見捨てられて衰弱していて、母親は毎日パーティの酒浸りで、やくざな出入りの運転手(Clark Gable)がぜんぶ仕切ってホームドクターとも口裏合わせしてて、子供たちの惨状をみかねたLoraが激怒して立ちあがり、見習い期間中に助けてあげたやくざのお兄さんと一緒になってとっちめて、ちゃんとした医者を連れてきてミルク風呂に入れて自分の血を輸血して子供を救うの。

最初は軽くてやわいかんじの娘っこに見えたLoraがぐでぐでに酔っぱらって子供の面倒をみない母親に対してブチ切れるシーンの剣幕形相がまじですさまじくて、誰もが背筋を伸ばして、最後は拍手が起こっていた。

Clark Gableのねちっこいワルなかんじも見るひとが見たらたまんないのではないかしら。この役、最初はJames Cagneyがやる予定だったんだって。

Baby Face (1933)


邦題は『紅唇罪あり』..
ペンシルベニアの父親がやってる安酒場で小さい頃から酔っ払い客の相手をさせられてきたLily (Barbara Stanwyck)がいて、そんな彼女にニーチェの『権力への意志』を説いて、都会に出てでっかくなるのじゃ、っていうおっさんがいて、父親は酒場の突発事故で死んじゃったので列車に乗って - 列車代は注意しにきたお兄さんを落として - NYに出て勝負することにする。

NYに着いてからも窓口付近にいる男をぜんぶ色責めで落として – やられる連中の中にはスーツ姿のJohn Wayneまでいる - 文書部から貸付担当からビルの下の方から順番にのしあがっていって、会計まで来て、そこのボスのNedは副社長の娘と婚約していたのだが、たまらずにLilyと寝ちゃったので娘はパパのとこに泣いて言いつけにいって、パパはけしからんな、てLilyを呼びつけるのだがそこで同じように彼女にやられて、なめんなふざけんなってやってきたNedは義父を殺して自殺する。

そういうスキャンダルから会社を建てなおすべくやってきた創業者の孫Courtland (George Brent)は彼女に金を持たせて追い出そうとするがかわいそうだったのでパリ店に異動させて(いいなー)、そしたら彼女はパリで成功してきらきらになっていたので惚れちゃって結婚したら、今度は会社が傾いたという知らせが...

最初から最後までぜんぶこのトーン - 色で落として出世して金と地位を手に入れてなにが悪いのさ? で貫かれていて、ちっとも悪くないしかっこいいよね、としか言いようがないの。ハラスメントみたいなことをしているわけではなくて、むしろ理不尽なそういうのから生き延びるための対抗措置としてやっただけなのにあれこれ言われる筋合いないわ、って。

外側の振るまいだけだとFemme fataleとか魔性の女、って怖々呼ばれてしまうのかもしれないけど、そうじゃないの、彼女はニーチェをやろうとしただけなの、かっこいいよね。(最後だけ人間に戻っちゃうんだけど)

上映が終わったあとで、検閲で削除されたシーンのいくつかが上映されたのだが、どこがいけなかったのか、ほぼわかんないくらい微妙な線なの。そんなもんよね。

2.18.2019

[film] Burning (2018)

11日、月曜日の晩にCurzonのBloomsburyで見ました。

村上春樹ものを見るのは”Tony Takitani” (2004)以来(NYのAngelikaだった)で、原作の『螢・納屋を焼く・その他の短編』(1984) は出た頃に読んだ - あの頃は出るとふつうに読んでた - けど、筋は見事に忘れている。 納屋を焼くところが出てこなかった、とこを除けば。

日本では「劇場版」と付いていて、NHKが放映したTV版もあるらしいがそっちはもちろん見ていない。

現代の韓国の街中で、Jong-su (Ah-in Yoo)が同じ村にいたHae-mi (Jong-seo Jun)と会って(整形したからわからなかったでしょ、という)、彼は作家になりたいこととか彼女はアフリカに旅にでるとかいろんな話をして、旅で不在になる間に飼い猫のBoilに餌をやってほしい、って頼まれて彼女のアパートに行ってセックスして、でも彼女がいない間、アパートに行ってもBoilはなかなか現れてくれないの(で自慰して帰るだけ)。 

やがてアフリカから戻ってきた彼女は現地で知り合ったというBen (Steven Yeun)と一緒で、Benはとても洗練されててなにやって稼いでいるのかわからないけど洒落たアパートでしょっちゅうパーティとかやっていて、Jong-suはHae-miはBenに取られちゃうんだろうなー、とか思いつつどうすることもできなくて、やがてBenは納屋、というかビニールハウスを焼く計画をJong-suに打ち明けたりするのだが、これも一体どうしろと、みたいなはなしで。

もういっこ、Jong-suが頻繁に実家に行かなければならない理由は、彼の父親が暴力沙汰を起こして収監されて裁判している(間に家畜の世話とかしないといけない)からで、法廷で父の突発的な暴力衝動のことを聞いても、これもどうしろっていうの、というしかない世界で。

Jong-suはフォークナーのような作品を書きたいとか、”The Great Gatsby”への言及があり、TVではTrumpの愚行蛮行のさまがずっと流れていて、アメリカ的な豊かさとそれがもたらすぼんやりとした格差が基調音としてあるような。

それはかつて村上春樹が描いた80年代的なアパシーとか無力感(そんなもんさ)の背後で進行したり浸食したりしていく不穏ななにかと似ているようでやはり違っていて、あそこで焼かれようとしていた納屋とは焼き方も納屋のありようも違っているように思われる。

Jong-suが頻繁に人の家の棚や引き出しを開けて見つけたり見つけようとしたりしている何か - この映画での納屋は明らかに何かがしまいこまれたり囲い込まれたりした空間で場所で、これに対して原作の納屋はもう少し観念的で漠とした想念が向かって漂う場所 - たんなる穴のような - でしかなかった気がする(ま、ちゃんと読み返さないとわかんないか)。

ラストの決着のつけ方 - ああなるんだろうな、ということがだんだん見えてくる、というのはこの映画の場合はよいことで、主人公が最後にああいうことをするのもわかるのだが、ここで着目すべきとこは、結末がどうとか原作との相違とかよりも、何が何の喩えになっているかとかよりも、”Burning”という状態に向かって画面上の光や温度、体温がゆっくりと変化し上昇していく、そのちょっと不可解な様がスリリングに描かれているところがよいのではないか。

その描き方が近代アジアの風景のなかにあることで、欧米の人たちが – 例えば “The Handmaiden” (2016)と同じように? - 絶賛したのもなんとなくわかる。 アジアのなかのにっぽん人からすると、70年代のATGにあんなような鬱屈したのって、いっぱいあった気がした、けど。 ただその描き方はこっちの方がどこまでもドライで視線が交わらなくててんでばらばらで得体がしれなくて、その掠れたとこが素敵だと思った。

[film] Golden Boy (1939)

9日、土曜日の夕方、BFIのBarbara Stanwyck特集で見ました。
NYのGroup TheatreのためにClifford Odetsが書いた脚本をベースにRouben Mamoulianが監督した作品。
めちゃくちゃおもしろいよう。(こればっか)

NYでボクシングジムをやっているTom (Adolphe Menjou)とその愛人で仕事上のパートナーでもあるLorna (Barbara Stanwyck)がいて、TomはLornaと一緒になるための離婚費用をつくるのにでっかい試合を打ちたいと思っていたところに売り込みにきた威勢のよい若者Joe Bonaparte (William Holden .. ぴちぴち) を見てこいつだ! ってなるのだがJoeはおうちではパパBonaparteの庇護のもとバイオリンの英才教育を受けてきたすごいバイオリニストでもあって、さらにLornaに惚れて、面と向かって愛してる、って言われたLornaもえっ… て揺らいでしまう。

Joeのおうちには姉がいて酔っ払いで気立てのいい義兄がいて、パパがこまこま仕切っていてなにかあると家族で演奏会になって楽しく歌い出す、そういうおうちで育ったJoeがなんで自信たっぷりに殴り合いのボクシングに向かったのか謎だしパパも嘆き悲しんで、ディナーに招かれたLornaもその雰囲気にやられて、バイオリンを続けたほうがみんな幸せになるのにな、になっていく。

そのうち地元の大物ギャングのSiggie (Sam Levene)が昇り竜のJoeに目をつけて、Madison Square Gardenでの大興行を持ってくるの。 Joeの将来をかけた大勝負はどっちに(バイオリンは続けられるのか)、そして彼はボクシング(やくざ)を取るのかバイオリン(パパ)を取るのか、LornaはTomとJoeのどっちに転ぶのか、Rom comというよりスクリューボール・ホームドラマみたいなかんじなのだが、緩急が激しくて、でも無理なく盛りあがっていくので目が離せない。

下町で育った若いバイオリニストが年上の女性と恋に落ちるお話しというと、昨年のJoan Crawford特集でみた”Humoresque” (1946)があって、あれはメロドラマでこれとは正反対の結末を迎えるのだが、暖かい家庭に育った壊れやすい繊細な青年を包みこんで護ろうとする女性がやがて戸惑いつつも恋にはまって、という構図は似ていて、こういう系の映画って他にもいっぱいあるのかしら。

こういう年上の女性に向かう恋愛ものって母性みたいなところに向かいがちなのかも知れないけど、Lornaがママみたいに世話を焼く(いつもネクタイを直してあげたり)のはTomのほうだったりするのがおもしろい。 年齢関係なく割と対等に置いているのがすてきで。


14-15日と仕事でストックホルムに行っていた。 ストックホルム初めて。
1722年にできた世界最古のレストラン、ていうところでディナーを戴いたのだが、そこに招いてくれた会社の偉いひと(自分よりぜんぜん若いけど)が、文学部なんだ、ということでなんでかジョイスとかプルーストの話を始めて、そこからなんでかデスメタルの話になって、90年代の始め、15歳くらいのときにバンドをやっててデモを手当たり次第送っていたら突然フランスから契約書が来てさ、とか言うのでなんていうバンド? て聞いたら、”EPITAPH”って。名前くらいは知っていたのでへええ、ていうとテーブルにいた他のおっさんたちもなになになに? となり、彼はメタルとデスメタルとブラックメタルの違いをみんなに説明することになったりしていた。 彼に知り合いがやっているレコード屋を紹介されたので翌日行って、何枚か買って帰って(手ぶらで帰れないよね。まったく想定外)。プログレとサイケとヘヴィー系とニューウェーブ少しのみ、Vintage Violence - ( - John Cale) ていう素敵な名前のお店だった。お店がある石畳の通り、古本屋とか雑貨とかぬいぐるみとか素敵なのだらけで、時間がいっぱいあったらやばかったかも。

ストックホルム、寒かったけど素敵だった。おうちに戻ってThe Cardigansの再発されたヴァイナル聴いた。  (アバは持ってなかった)

2.14.2019

[film] Blowup (1966)

3日、日曜日の晩、BFIのAntonioni特集で見ました。
上映前にRon役で出演しているPeter Bowlesさんによるイントロがあった。『欲望』。
これ、見たことなかった。日本だと某評論家のおかげでYardbirdsが出て来てJeff Beckがギターをぶっ壊す映画としか紹介・認知されてこなかった気がする。ほんともったいなかったわ。

原作はフリオ・コルタサルなのね。

イントロのPeter Bowlesさんの話 - Antonioniが英国で映画を撮る、というのは当時のロンドンの若い役者たちにとっては大騒ぎの大事件で誰もが – Terence Stampとか - 出演したがって、結局シェイクスピア役者として頭角を現していたDavid Hemmingsが主役になり、自分も役を貰えたのでよかったのだが、自分が登場して喋るシーンが最初に貰った台本と直前のそれでざっくり削られていて、そこで削られたスピーチの内容が映画全体にとってぜったい重要な内容だと思ったので、Antonioniに直訴した、と。当時のAntonioniは絶対君主だったので直接話すことも大変だったようなのだが、とにかく時間を貰えて、あなたがあの部分を削除したのは間違っていると言うと、監督はPeter、君の言っていることは全く正しい、でもな、あのスピーチを入れてしまうと映画の全てがきれいに整合してわかっちゃうのだよ、と言われたので返しようがなかった、と。 他には尋常ではない色(トイレの壁紙とか)への拘りとか。

Swinging Londonでざわざわしているロンドンで売れっ子の写真家のThomas (David Hemmings) - モデルはDavid Baileyだって – がいて、モテモテだし忙しい日々ででもふらっと車で外にでて骨董屋行ったり公園に行ったり、公園でぱたぱた写真を撮っていると若い女性と初老の男性が会っていて、スタジオに戻って現像して引き伸ばしてみると一見わからないけど銃とか死体のようなものが写っているので、これはやばいかも、になる。

そのうちあのとき公園にいたという女性(Vanessa Redgrave)が現れてフィルムを渡せ、というのだが彼もすんなり渡すわけはなくて、その後で公園にいったらやはり死体はあって、ても後で行ったらそんなものはなくて、すべてはそんなふうに、彼が目でみたもの、カメラが写したもの、それがブローアップされたもの、そのイメージが喚起してくるなにか、そのイメージについて語られるなにか、イメージを捕捉したり確かめたりしようとする動き - “Stroll on” - の間で揺れて、捕まえようとするとするりと逃げて、どこまでいってもそのもの、事象に到達することはできないように思えて、それってどういうことなのだろうか、と。

有名なYardbirdsのシーンもJeff Beckがぶち壊したギターのネックは、道端に置かれてしまえばただの木の破片でしかない、そういうゴミや瓦礫と紙一重のなかで瞬間を切り取って、それがお金や名声に変わって、みんなそれでわーきゃー言っている。 というその脇を革命を夢見る若者たちのデモが通り過ぎていく。

あの時代のロンドン、ということで起こりえたお話なのか、あるいは異国で、初めて全編英語で、スタッフも違うところで、改めて自分が撮るという行為とか、なにを撮ろうとしているのか、などについて考えてみた、ということはあるのか。そんな単純ではないか。

どうでもよいことだけど、David Hemmingsて、たまに若いときのMark E. Smith に見えることがあってね。

[film] Ladies of Leisure (1930)

7日の晩、BFI Southbankで見ました。2月から始まった特集”Starring Barbara Stanwyck”からで、出だしで見逃した分も含めてがんばって追っているのだが、それでも見れないのが出てきていてくやしい。だってどれ見てもすごくおもしろいんだもの。

Jerry (Ralph Graves)は鉄道会社をやっている富豪のとこのぼんぼんで、でも画家になりたくて、そんな彼が明け方にパーティ帰りでふらふら歩いてた娘Kay (Barbara Stanwyck)を拾って、軽い気持ちで彼女を絵のモデルとして雇って、最初は乱痴気パーティガールのKayをおもしろがっているだけだったのが朝まで過ごしたりしているうちにだんだんに近寄っていって、結婚しようか、になるのだが彼の家はそんなあばずれ許しません、てなって、彼はそんなのいいからアリゾナに行ってふたりで暮そう、って言ってくれるのだが、旅立ちの手前でKayは彼の遊び仲間に連絡してハバナ行きの船の乗ってしまうの。同居していた彼女の友達が大騒ぎして彼にそれを伝えて…

ストーリーはこんなものなのだが、彼の遊び人友達(♂)、彼女の豪快友達(♀)、厳格すぎる彼の父、理解は示すものの結局突き放して泣きを入れてくる彼の母、などなど、人物設定と配置はパーフェクトなrom comのそれで、そんなことよりもBarbara Stanwyckさまのエモがぜんぶ透けてみえるのに強がりを重ねて、それが終盤に向かうにつれて表面張力ぱんぱんになり、それが一筋の涙で決壊して周囲をエモの大渦に巻き込んでしまう凄まじさはなんなのか。古い表現だけど画面に釘づけって、こういうことなのね、って。

Frank CapraによるBarbara Stanwyckとの第一作で、プロデューサーのHarry Cohnが彼女をKay役としてCapraに推薦したのだが彼はあまり乗り気じゃなくて、面接しても彼が失礼な態度だったので彼女は泣いて怒って、でもまあテストで撮った彼女を見てみ、って言われたのでそのフィルムを見たらびっくりして即採用になった、って。それが十分に納得できるとてつもない演技。すでにBarbara Stanwyckはぜんぶある。いる。

あと、Barbara Stanwyckの役柄的にはこれのリベンジ – 豪華客船で、金持ちぼんをぼこぼこにする – をそのうち”The Lady Eve” (1941)でやることになるのね。

The Bitter Tea of General Yen (1933)


2日の晩、日本から戻ってきて3時間後くらいにBFIで見ました。
Barbara Stanwyck特集、これもFrank Capraの監督作で、邦題は『風雲のチャイナ』(.. 何故カタカナ?)

20年代、内戦でぐしゃぐしゃの上海に赴任してきたアメリカ大使と彼と結婚間近のMegan (Barbara Stanwyck)がいて、歓迎パーティの途中なのに難民を助けに外に出て行った彼を追う彼女だったが途中でごたごたに巻き込まれて気がつくとGeneral Yen (Nils Asther)のお屋敷にいる。

服も寝室も与えられて賓客の扱いのようなのだがMeganにとってはすべてが異次元異文化のこと - 邸内で大量の銃殺刑やったりしてるし – で、General Yenから食事の誘いを受けても無理に決まってるでしょ早く元のところに帰して、しかなく、でも腹を括って着飾ってお食事して、そうしたらようやく互いに解けてくるのだが、でもやっぱり。

NYのRadio City Music Hallでの最初の映画上映作品で予算もたっぷり使った歴史大作だったのだが、評判は散々で興行も大コケして、更に主演のNils Astherをツリ目にしてGeneral Yenを演じさせたりしたことはRacial観点からも問題視されて、でもそれでも、MeganがGeneral Yenと側室のMah-Li (Toshia Mori)に対して露わにしていく内面のせめぎ合いと、彼女への秘めた愛ゆえにそれを受けたGeneral YenのBitter Teaの苦悶の描写は繊細で見事なメロドラマになっていると思うし、邸宅のセットとか美術も素敵ったらなかったし。

2.13.2019

[art] Parisところどころ

8日の金曜日、会社を休んでパリに行った。

これまでパリ行きはだいたい1泊か2泊で、小さめのがらがらを引いていったわけだが、時間的には電車で約2時間半の、千葉の外れとか神奈川の奥に行くようなもんだし日帰りできるんじゃね? と思っていたのをやってみる。普段ロンドンの街中をうろついているときの肩掛け鞄だけ下げて。 昨年の暮れに行ったときに悪天候でじゅうぶん動けなかったののリベンジ、もある。

6:54発のに乗って10:17にパリ北駅着。これなら美術館が丁度開いたくらいだし。以下、見ていった順番で。

Collections Privees. Un Voyage des Impressionnistes aux Fauves @ Musée Marmottan Monet

「印象派から野獣派までの旅 – 個人コレクションを通して」   .. でいいのかな。
個人蔵の作品って、こないだのフィリップス・コレクションのようなでっかいのを除けば傾向も含めててんでばらばらなのだろうけど、あんま見る機会があるものでもないしなんかあったらおもしろいな、って行ってみたらなかなかおもしろかった。 カイユボットの素敵なのが結構あって、モネもルノワールもドガもゴッホもゴーギャンも。 ルノワールのバナナを描いた静物、とか。スーラのデッサン(殴り描きのような)とか。 野獣派はそんなに数がない気がしたけどマティスの描いた浜辺 – ぜんぜんやる気なしっぽい – とか。ヴュイヤールも。ロダンの裏側に並んだカミーユ・クローデルも。
あと、ここに来ると必ず寄るベルト・モリゾのコーナーももちろん寄った。

Musée Jacquemart-André

こないだまでカラバッジョの展示をやっていたのにもう終わっていて常設のみ、しかも一部改修工事中だったけど。 貴族のお屋敷だったところなので展示というより建物込みで。レンブラントが貸出中だったのはざんねんー。

Sigmund Freud. Du regard à l’écoute   @Musée d'Art et d'Histoire du judaïsme

今回の旅のメイン。 英語にすると“From look to listen“。展示の説明書きはほぼ仏語、フロイトもむかしふつーに読んだ程度なのだが、ものすごくおもしろかった。19世紀末にパリに来てヒステリーの治療現場に立ち会って影響を受け、自然科学の「見る」態度から患者の言葉をどこまでも「聞く」ことを通して精神分析の手法を確立し、こころや無意識の構造 – なかでも「セクシュアリティ」という縛り= 力の存在を明らかにしていく、というフロイトが辿ったその道程と、同時期にヨーロッパを中心に展開されていった本来見えないもの(超現実)を見ようと、表に引っ張りだそうとするアートの動きはどんなふうに連関していったのか。そのリンクって明確にあるわけではないし、でもまったく関係ないわけでもない、少なくとも世界の起源を暴き、見据えようとするその意思と意識において共振するなにかがあったのではないか。

というわけで展示は彼の専攻の文献とか実際の治療で使った器具とか記録とかがひとつの流れを作りつつ、彼の成果をアートの起源(ローマ時代の彫刻とか)まで遡って、これってこういうことだったのよ、っていうのと、彼の成果に点火されるようにして起動されたシュルレアリスム以降・周辺のアート(エロてんこもり)の流れを追っていく。 だからといってあれここれもフロイトでしょすごいでしょ、にはなっていなくて、その緩さがまた楽しい。

精神分析という学問の、安易にトンデモ世界観に結びつき易い危うさは十分認識した上で、でもそれがアートの方に向かうと途端におもしろくなる、というのは改めてすごいなー、って。

Breton, Dali, Giorgio de Chirico, René Magritte, Ernst, Grandville, Odilon Redon, Max Klinger, Alfred Kubin,  André MassonにCourbetの『世界の起源』があって、Duchampの『泉』があって、KlimitにSchiele、Robert LongoにMark Rothko(赤いの)まである。ぜんぶがフロイト起源とは思わないけど、パレードでいくらでも出てきそう。

そういえばロンドンのフロイト博物館、まだ行ってないや。

Musée de la Chasse et de la Nature

フロイト展をやっていたユダヤ歴史美術館の近くにあった狩猟自然博物館。
武術・スポーツとしての狩猟は好きではないのだが、狩猟文化がなかったら、ということはたまに考えるし、英国の食事文化にも当然そういうベースはあるし、ということでいろんな剥製を見る。銃器のコレクションは見ない。

あとは、これまでパリの書店を攻めていなかったので、この近辺の書店を少しだけ。 時間なかったのであまり回らなかったけど、まだいろいろ行ってないとこあるけど、おそろしいねえ。

Fernand Khnopff (1858-1921)  The master of enigma  @Petit Palais

Grand Palaisでやっていたミロの回顧展を逃したのは痛かったねえ、と言いつつ隣のに。

ベルギー象徴派の画家、くらいの知識しかなかったのだが、”The master of enigma”とある通り、きれいだけどよくわかんない空っぽさに溢れていておもしろい。きれいであることにいったいどういう意味を持たせようとしていたのか、なにを求めていたのか、『スフィンクスの愛撫』とかを見るとわかんなくなるの。 変な画家。
関連作品としてロセッティとか、なぜか杉本博司の写真まで展示されていた。

Jean Jacques Lequeu (1757-1826)  Builder of Fantasy  @Petit Palais

これも変な画家? かなあ。 フランス革命期の建築家、変な顔の肖像を描いたひと、くらいの知識しかなかったのだが、見たら異様におもしろくて。
ほとんどが建築や庭園のデザイン図面とエッチングなのだが、リアルな変顔の人とか猫とか、建物もディテールをよく見るとしれっと奇想してたり、びっくりしたのが建築図面の硬く微細な線で機械のように描きこまれた男女の性器の絵(両性具備のひとのも)で、すっとぼけたかんじも含めてなにかしらこれ? だった。 顔と建物と性器の絵、生涯で残したのがほぼこれだけ? だとしたらかっこいいなー。

食べ物は時間がないから、ちゃんと食べなくていいや、だったがここのところちゃんとしたものを食べていなかった気がしたのでお昼だけ、La Bourse et la Vieに行ってSteak-fritesをいただいた。
NYのLe CoucouのDaniel Roseがやっているビストロで、2回目。 マリネしたとろとろのリーキにヘーゼルナッツを合わせるとか、さすがだねえ。

Petit PalaisのあとはLa Grande Epicerieに行って缶詰とかヨーグルトとか仕込んで、おわり。

なんも買って帰らないはずだったのに、帰りの電車に乗る頃にはカタログ2冊とPascale Ogierのでっかい本とIsabelle Huppertと猫(科の獣)が表紙のVanity Fairとかを抱えてよろよろしていた。おかしい。

帰りの電車は20:00過ぎ発で、ちょうど滞在10時間、到着してからの移動は地下鉄とバスだけで、じゅうぶんに動けることがわかった。 のでまた来たいな。

それにしても、この街に1週間とか滞在したらどうなっちゃうのかしら..  とか思ったり。