12.31.2022

[log] 年のおわりに

というわけで2022年はもう終わろうとしていて、でも今年についてはウクライナで戦争が始まってしまったので、もうそれだけでなにやってもなに見ても、そもそもやるきなしでどうでもいいし仕事のほうだって、そのまままったくぜんぜんだめで - ずっとだめだけど - 言い訳だろうがなんだろうがなんでもいいさ、ってやけくその状態が続いている。 とにかく戦争はだめ。

映画館とか美術館とか本屋に行くのも、こういうのを書くのも完全に逃避で、それで構うもんか、くらい。
年が明けたらすこしはよくなったりするのだろうか? (しーん)

午後に積みあがった本のお片付けに着手して、約3時間で挫折する。 山を崩れない状態にするのと埋もれていた本たちを並べ替えるのは両立しないのよ。いっつも思い知ったあとですぐ忘れる。

今月に見たので書けていないのもいっぱいあったので、少しだけ下に並べておく。長めに書きたいのはまた別で。

年が変わったら2022年のベストに着手しなければー。


The Bee Gees: How Can You Mend a Broken Heart (2020) 12月8日 @ ヒューマントラストシネマ渋谷

The Bee Geesの評伝ドキュメンタリー。自分にとってのThe Bee Gees体験は、まず『小さな恋のメロディ』があったのでThe BeatlesやBowieよりもふるくて、子供の頃に初めて買ってもらったラジカセで最初にテープに録ったのも当時ヒットしていた”How Deep is Your Love”だったりするのだが、”Melody Fair”からどうしてああいうディスコの方に行ってしまったのかの謎が少し解けた気がしたのでよかった。あと、Andy Gibbのこととかも。

最後に出てくるBarry Gibbの2017年のGlastonburyのライブ、ただでさえ感動的なのだが、この映画を見た後だとものすごくしみてきた。


Thirteen Women (1932) 12月13日 @ アテネフランセ文化センターの「中原昌也への白紙委任状」より。

筋だけ聞くとB級のジャンクで適当なノリのやつに思えたのだが、ものすごくファウンデーションとスケールの整った文芸作品のように見える。あんまり怖くないのはそれでよいの? というのはあるけど、でもぜったいこちら側の世界と繋がる(ことを狙った)作品だなあ、って。


Rachel, Rachel (1968)  12月14日@ アテネフランセ文化センターの「中原昌也への白紙委任状」より。

Paul Newmanの初監督作、原作はMargaret Laurenceの小説 “A Jest of God”。Rachelを演じたJoanne Woodwardはゴールデングローブのドラマ部門で主演女優賞を、監督は監督賞を獲っている。

Paul Newmanがこれの次に撮った木こりのお話 - “Sometimes a Great Notion” (1971)も素敵なのだが、こちらもすばらしい。亡父の強い擦り込み影響の下、教師として働きつつずっと母親の面倒を見てきたRachelのほんの少しの、危なっかしい目覚め - それはよいことなのかわるいことなのか - たぶんだいじょうぶかも、くらいの軽さとそれが浮き彫りにする彼女の強さ、がよいの。


Harry & Son (1984)   12月22日@ 下高井戸シネマの「年末映画祭り!”ほぼ”アメリカ映画傑作選」より。

これもPaul Newmanの、最後から2番目の監督作。作家志望だけどぷらぷらサーフィンとかしているわかものHoward (Robby Benson)と解体屋だったが体の調子がよくなくて失業者となった父 (Paul Newman)、父子ふたりとご近所の彷徨いをそんなに深刻じゃなく描く。骨相占いをしながら大量のオウムを飼っているJoanne Woodwardとのやり合いとか、Paul Newmanが犬みたいにころんと死んでるとことか、素敵。80年代の映画の間に置いたら結構異質なかんじもするのだが、どうかしら?

あと、スター俳優が監督する映画として、Clint Eastwoodとの比較もあるのだろうが、わたしはClint映画のどの辺がすごいのかあんまりよくわかんないので、ここでのPaul Newmanの柔らかくてきとーに撮っている(ようにみえる)ところが好き。

Ethan Hawkeによるドキュメンタリー “The Last Movie Stars” (2022‑ )も見なきゃ。


Get Crazy (1983)  12月15日 @ 菊川のStranger

1983年の大晦日のYear Endライブを行う小屋(というかホール)でいろんな雑多な演者によるライブが進行していく裏で、小屋の乗っ取りを企む富豪とオーナー側がわけわかんないめちゃくちゃな争いを繰り広げていくの。音楽はブルースにレゲエにハードロックにパンクに西海岸のらりらりの雑多でいろんなのが流れていって演奏もギャグも煽りも極めて雑だし外しててもお構いなしで、だけどこんなもんでよいのだ、って堂々としている。

主題歌はSparksでMalcolm McDowell の役はRussell Maelがやるはずだったとか。Malcolm McDowellとDaniel Sternが絡んでいるだけで嬉しいのと、ぜんぶが終わって廃墟となったステージでひとりお呼びでなかった? みたいな顔で弾き語りをするLou Reedったら…


Tomorrow Morning (2022)  12月17日 @ 恵比寿の(ついガーデンシネマと書きたくなる)ユナイテッドシネマ。

30歳で幸せな結婚をして10年後の40歳でやむなしの離婚をしようとしている夫婦の結婚/離婚前日前夜の様子を歌と踊りで綴るミュージカル。そうなんでしょうね〜 としか言いようのない双方の言い分が巧みな歌と構成によって重ねられて、どちらの言い分とか語りも説得力は十分なので披露宴とかで(フルで)流すとよいのかも、とか。 これの10年後にもう一回振り返ってみるのも楽しいかも、とか。映画よりは舞台の方が切実に訴えてきそうな気はする。

でもやっぱりこういう夫婦の葛藤ものって、今日の昼にみたサッシャ・ギトリの『毒薬』(1951) とか『ローズ家の戦争』(1989) みたいなぐさぐさになるのがいいなー、とか。

あと、主人公夫婦の住んでいるところは『MEN 同じ顔の男たち』の夫婦が住んでいたエリアでもあるので、オルタナの展開を期待してしまうのは避けられずー。


空の大怪獣 ラドン (1956)  12月18日、Tohoシネマズ日本橋で。4Kリストア版。

わたしの一番古い映画の記憶は『怪獣総進撃』でラドンがビルを突き破るシーンなのだし、鳴き声(でいいの?)もゴジラよりラドンの方が先にあった記憶があるので、これは見ないわけにはいかなかった。

誰もが驚嘆しているように、画面はものすごく、かつて見たこともなかったような澄んだ明るさで、これが正しいのだ、と言われたら黙るしかないのだが、坑道の奥で蠢くヤゴがあんなにクリアに見えてしまってよいのか、とか。

あと、東京都現代美術館での井上泰幸展にあったセットが吹き飛ばされるシーンはたまらなかった。
それにしても、この映画のラドン(たち)って出てきただけで攻撃されて駆除されてしまうのほんとにかわいそうでならない。いまだったらぜったいやっちゃだめだからね。


The School for Good and Evil (2022)
  12月18日 @ Netflix

Paul Feigなので見る。事情は知らんが善悪の戦いをずっと繰り広げていた双子の兄弟が造った善と悪で隣り合う学園にそれぞれあたしこっちじゃないんですけどー って送り込まれてしまった幼馴染ふたりの葛藤とやがて迫りくる戦いと。

(善悪の境界とか並びようとか)なるほどなー、って勉強になることも多いのだが、あともう少しだけ、善と悪について掘り下げてみたら、Forceのダークサイドとかハリポタのあれとかも絡めてみたら学園ものとしてもっと深く考えさせるおもしろいものになったのではないか。悪はなんでいっつも悪として循環して再生産されるのか、など。


Never Goin' Back (2018)  12月20日 @ Tohoシネマズ日比谷シャンテ

作・監督のAugustine FrizzellさんのだんなはDavid Loweryなので彼がExecutive Producerに入っている。中世糞尿趣味は共通している.. のかしら。

親友女子ふたりがダイナーでウェイトレスのバイトをして誕生日のリゾートビーチへのバカンスを夢見て計画していたら肉親とか隣人が日々の借金だのドラッグ関係のあれこれでやらしく絡んで邪魔してどうしようもなくなっていくものの、最後にとてつもない逆転技を繰り出して勝利する。最後の最後で「好き」な方に転んだ。


貸間あり (1959)  12月21日 @ 国立映画アーカイブ

原作は井伏鱒二、脚本は藤本義一と川島雄三、監督は川島雄三。
大阪の川の近くの少しの高台に、お人好しで博覧強記のフランキー堺とその他いろんな人々が同居している家に貸間を求めて淡島千景の陶芸家がやってきて、他の変人ばかりの同居人たちとの間に巻き起こるいろんな騒動にどたばた。ポジティヴなのもネガティヴなのも含め、もうなるようにしかならないじゃろ、みたいな危険域に突入して、そうなったところでぜんぜんクビが回らないかんじがやってくるのだが、へへーんうるせえ! って最後っ屁とか立ちションとか。(川島&フランキーの魔法) 現実はこうはいか.. (略)


La boum (1980)  12月23日 @ シネマカリテ

『ラ・ブーム』は高校卒業する直前の卒業旅行(というものだとは思わなかったが世間的にはそうなのか)に出ていく晩に銀座の東劇で封切りされたばかりのを見たのだった。内容はきれいさっぱり忘れていたのか見なかったことにしたかったのか。Sophie Marceauがかわいい、とかそういうの以前にこの映画に描かれていることすべてが異次元・異世界のなんかとしか思えないのだった。

いま見返してもそんなに印象は変わらなくて、日々恋愛があんなふうにまわっていくのであれば(以下略)。 彼女の部屋にAndy Gibbのポスターが、くらい。

自分のことだけど、旅の直前にテープに落としてWalkmanで再生したXTCの”Ball and Chain”が夜の銀座に見事にはまって、その光景だけは鮮やかに憶えている、ことなどを思い出したり。


Glass Onion: A Knives Out Mystery (2022)  12月23日 @ Netflix

イノベーターの富豪(Edward Norton) からのからくり箱で招待を受け取ったディスラプターの不良分子(ろくでなし)たちが彼の島に集まって「彼」の殺人の謎を解くはずが..

“Menu”のやなかんじとか、下ネタのない”Never Goin' Back”とか、いろいろ思い浮かぶなか、「探偵」とはとても呼べないようなDaniel Craigの態度とストーリーテリングは画期的ではないか。ハイバジェットのB級に正面から取り組んでいて、なんじゃこれ? になるのだが、これがグラス・オニオンだ! と。 そしてそれもまた、だからなに? ではある。ぼんくらの出し方とか、タランティーノ以降、と言ってよいのではないか。

それにしても、昨今のSNS周辺のうさんくさいのってぜんぶこういうかんじよね、って(腐臭)。


こだまは呼んでいる (1959)  12月25日 @ 国立映画アーカイブ

監督は本多猪四郎 。
山梨の麓から奥地に向かう定期バスの運転手/池部良と車掌/雪村いづみはずっとコンビでバスの仕事をしていて、仲良しというよりはツンケンした職場関係なのだが仕事はうまく淡々とこなしていて、でもふたりの近隣一帯には尋常でない結婚しなきゃ圧の嵐が吹き荒れていて、雪村いづみは地元の有力者で本屋を営む藤木悠 - 沢村貞子の親子のところに花嫁修行&トライアルに出されることになって.. というこてこての - でもわかりやすく筋が通ってちゃんとしたRom-comで、よかった。 本多猪四郎、『大怪獣バラン』(1958)の次でもさらりとこんなのを撮れてしまうのってすごい。


Cats' Apartment (2022)  12月25日 @ ユーロスペース

邦題は『猫たちのアパートメント』。猫が見れるのであればなんでも。
韓国でかつて最大規模だった団地が廃れて取り壊されることになって、そこで暮らして猫ママたちにたっぷり餌を貰って堂々歩き回っているノラさんたちを計画的に去勢/移住/移動させるプロジェクトが始まることになる、そのドキュメンタリー。

と言っても相手はほぼ半野生動物だし、そんなにかっちりとした計画を作ったところでうまくいくわけもなくて、結局はノラ猫いいなー、っていろんな猫の面構えとかにうっとりして終わってしまう(やるほうも見るほうも)。それでぜんぜんよい気がしたの。


12.27.2022

[film] Argentina, 1985 (2022)

12月18日、日曜日の昼、ラテンビート映画祭(土日の二日間しかやらないの短すぎー)をやっているヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。邦題は『アルゼンチン1985 歴史を変えた裁判』。
今年のヴェネツィアに出品されて、オスカーの外国語映画賞部門にアルゼンチンからエントリーされている実話 - 歴史的な実話 - をベースにしたドラマ。

1976年から1983年まで続いたアルゼンチンの軍事独裁政権下に国家警察が国民に対して行っていった弾圧 - 誘拐 - 拷問 - 大量虐殺を裁く法廷 - Trial of the Juntas -が突然軍事ではなく民事のほうに下りてきて、裁かれる軍の側は民事なんてちょろいのでどうとでもできる、って余裕のなか誰もやりたくない検事正に任命されたJulio Strassera (Ricardo Darin)は限られた時間のなか、チームを編成しようとするのだが、知っているベテラン検事はみんな軍政寄りでふさわしくなくて、ようやく見つけた副検事は大学で教えていたけど法廷での経験はないLuis Moreno Ocampo (Peter Lanzani)で、あとはほぼ若手の、正義感だけはありそうな連中が集まってきて、時間もないのでそれで始める。

国民の誰もが起こっていることを知っていた、けど密告や監視〜粛正を恐れて口を噤んでいた事実の証拠を各地に散って掘って集めていく苦労と、チームに対して堂々とかつ頻繁に繰り返される脅迫 - Julioの娘に近づいてきた男は妻子持ちの軍関係者だったり - でもそれを追っかけるのがませた弟だったり、ふつうに銃弾とか送られてくるし、副検事の親族には軍関係者がいたり、あれこれ容易には進まなくて、イタリアのマフィアの裁判を通して起こった血みどろの報復劇を思い起こしてはらはらしたりもするのだが、このドラマはゆったりとしたペースとところどころすっとぼけたホーム(&チーム)コメディのノリで140分を一気に見せてしまう。

6人の裁判官で構成される法廷での証言の数々はあまりに陰惨なものが多くて証人たちも苦しみながら必死で語り、それらのひとつひとつが明らかにされるにつれ静観していた世論もこれは有罪しかないだろう、にゆっくりと傾いていって、非常時での一部関係者の止むない暴走としていた軍側の主張は通用しなくなっていって..

最後のJulioによる論告は数日前から彼がいろんな人たちに会って話や意見を聞いたり頭を抱えながら推敲していったもので、映画ではその全文(おそらく)がそのまま語られる。それは当時の法廷でのアーカイブ映像にもあるようにスタンディングオベーションを巻き起こす鳥肌ものだった。 この場面を見て聞くためだけでもこの映画みて。

Julioと彼のチームの強さや不敵さ、その秘密は最後まで明らかにはされないのだが、それでも彼らがどうして、なんのために戦ってあの結末に持ちこんだのか、持ちこまなければならなかったのか、その思いは、例えば子供を殺された母親たちが被る白いスカーフなどから十分にうかがうことができるのだった。

もっと的を絞って緊迫した法廷ドラマにすることもできたのかも知れないが、それよりももっと広い視野で、1985年という年にアルゼンチンに、あの国の正義のありかたにどういうことが起こったのか、それは国にとってどういう意味をもったものだったのかを正面から見据えて、改めて問いかけるものになっているように思った。もっといろんなエピソードや困難もあったに違いないのでTVシリーズとかにした方がよかったのかも。

チリのもそうだけど、これらはほんの40-50年前に起こった暴力的な悲劇で、要因は単純に括って総括できるものではないのだろうが、国(軍)が強権発動して国民を黙らせようと言論統制して運動を弾圧して大量虐殺をして、それを指揮した連中はそのまま軽く逃げ切ろうとした、そういうやつで、これと同様のムーブや気配は今のこの国にもいくらでも見ることができる。 デモに対する風当たりとか、政治家や警察なら犯罪を犯してもちっとも起訴も逮捕もされないとか。過去のひとごと、じゃないから。

昼間にこういう映画を見てしまったので、その深夜の蹴り玉ワールドカップはアルゼンチンがんばれ、にならざるを得ないのだった。楽勝だよね、とか鼻歌してたらあんなに拗れるなんて。たまにスポーツ観戦とかするとこうなるの。

12.26.2022

[film] The Eternal Daughter (2022)

12月16日、金曜日の午後、米国のYouTubeで見ました。

年末に向かって、まだ見れていなくてここから見ることができる作品をできるだけ見ておこうシリーズ。来年3月とか5月とかのリリースまで待つとかありえない。国内の洋画のアワードリストとか見ててさー、日本の「映画評論家」、「ライター」のひとたちは欧米と見ているものがあまりに違うこと、そのギャップに嫌になんないの? まるで鎖国してるみたいじゃん? 文句いうと干されるからなんも言わないの? なんかあれだよねー。

日本で公開されないのが信じられない”The Souvenir” (2019) / “The Souvenir Part II” (2021)のJoanna Hoggによる新作。配給はA24、Executive Producerには(前2作と同じく)Martin Scorsese。(今作の公開にあわせてMetrographで行われたふたりの対話がものすごくおもしろい)

https://metrograph.com/hogg-scorsese/

Julie (Tilda Swinton)とRosalind (Tilda Swinton - 二役) の母娘と犬のルイ(たぶんTildaが飼ってる子だ)が深い森を抜けて(そこへの旅とそこに絡まる音楽もすばらし)その奥の方にある古いお屋敷にやってくる。タクシーの運転手は窓のところに女の子が.. とか言う。

その館はホテルでひとり応対したレセプショニスト(Carly-Sophia Davies)は無愛想で不機嫌で予約が見当たらないとか散々言って、でもなんとか部屋に入る。母のRosalindは疲れているからとすぐに寝るのだがJulieは寝付けない。他の宿泊客はいないはずなのに部屋の、館のたてる音、外の風の音、鳥だか獣の声? 子供の声(まさか)? 自分の頭の中で鳴っているのか外にあるものなのか、すごくリアルにわかる。

やがてJulieは映画作家で、次作を書いたり構想を練るために来ているらしいこと、この館は母が戦時中に暮らしていた館でもあること - なので喜んで貰えると思って静養に連れてきたこと、などがわかってくる。母は小さな薬入れからいつも薬を指に取って飲んでいてとても弱っている。 そしてこのJulieとRosalindというのは”The Souvenir”のあの母娘 - Honor Swinton ByrneとTulsa Swintonに他ならないことに気付く。

Julieは母が過去について語ることを遺しておこうとメモを用意したりするものの母が嫌がるので、母が喋り始めるとそっとスマホのVoiceメモをonにしたりする。やがて母がこの館に纏わる悲しい思い出を語り始めて涙をこぼしたりするとJulieは取り乱してお母さんに悲しい思いをさせるために連れてきたわけじゃないのごめんなさい、って嘆いて許しを請う。

無愛想なレセプショ二ストは食事の注文をとりに来るときにもつんけん無愛想で、仕事を終えて帰るときには彼(?)の運転するクラブ系の音楽をぶんぶん撒き散らす小型車に乗って消える。携帯は外に出て場所を変えたりしてようやく繋がる程度、他には愛想のよい庭師のBill (Joseph Mydell)がいて、彼との会話だけが少しの安らぎとなる。

母はかつてこの館に暮らして、自分の知らない娘時代を送り、それを(伝えられるかどうかは別として)抱えこんだままここで消え去りそうなかんじで横たわり、そうしてあるのが母で、母になったことのないJulieには到達できないところにいて - 自分はどこまで行っても彼女の永遠の娘であることしかできない。

それ故に湧きあがってくる愛おしさとやりきれなさが、ふたりの切り返し(同じ画面にふたりが一緒に入っているとこは最後までこない)と共に波のように寄せては返しを繰り返していって、やがてメインイベントとなる母の誕生日がやってくる。なんで彼女は痛ましくなるほど必死に母にここで幸せな時間を過ごしてほしいと願ってきたのか、その理由が..  

ホラーではなくて、でも途中でJulieがキップリングの『彼等』を読んでいる場面が出てきたりするのでそういうことか、というのはわかって、とてもせつない - 辛くて悲しいかんじにはならないけど。Jack Claytonの”The Innocents” (1961)とかも。

Joanna Hoggの画面作りは初期の”Archipelago’ (2010)の頃からずっと、ある場所/ある建物のなかで誰かと共に過ごす時間の、そうやって大切なひとと一緒にいること、起こったこと、その記憶を刻印することにずっと注力している。今回の撮影はウェールズのSoughton Hallで行われたそうだが、行ったことのないこの館で彼女たちと過ごした時間とか響き渡る音の余韻がいつまでも残る。

こないだの”Aftersun”にもそのかんじはあって(ちなみに両作品で音響は同じひと - Jovan Ajder)、そこからTildaの出演作や彼女の薦めていた英国の映画などを思い起こしたりー。

12.25.2022

[film] Meet Me in the Bathroom (2022)

12月16日、金曜日の晩、ShowTimeの7日間無料トライアルに入って見て抜けた。ずっと見たかったやつ。

もととなったLizzy Goodmanによるオーラルヒストリー本 “Meet Me in the Bathroom: Rebirth and Rock and Roll in New York City 2001–2011” (2017)は出てすぐ買ったのだが、いまは部屋内山のどこかに埋もれていていったいどこにあるのやらー。

1999年くらいからのNYのダウンタウンの音楽シーン - 特に9/11以降に火がついて何が出てきてもなんだかおもしろいことになっていたあれらとはなんだったのか、を関係者インタビューやアーカイブ映像から追う。 ここのシーンについてはお客としてだけどそれなりに中にいたかんじはあるので。

冒頭にホイットマンの『草の葉』から”Give me the Splendid, Silent Sun” (1900)の一節が朗読される。こんなような;
Manhattan streets, with their powerful throbs, with the beating drums, as now;
The endless and noisy chorus, the rustle and clank of muskets, (even the sight of the wounded;
Manhattan crowds, with their turbulent musical chorus—with varied chorus, and light of the sparkling eyes
Manhattan faces and eyes forever for me.

NYのダウンタウンのアパートで、最初に出てくるのがThe Moldy PeachesのAdam GreenとKonya Dawsonで、彼らが煽りたてて引っ掻きまわさなかったらThe Strokesもシーンもなかったと思うので、これは正しい。 そこから先はStrokesが爆発していくさまとYeah Yeah YeahsとかInterpolとかの若き日々が描かれて、そこからなんのイントロもなく9/11のあの日の映像にー。

道路に射す日の光でもうあの日のそれとわかる、まだ怖くて目を逸らしてしまうところはある(現地での上映の際はだいじょうぶだったのだろうか?)のだが、映像はなんとか見ることはできて、音楽シーンの方は大きな声で復興! とか言わなくてもそこここで勝手に鳴り出したかんじになる(直後は音楽なんてぜんぜん聴く気になれなくて、どこかのタイミングからいてもたってもいられなくなったような)

より具体的にはThe Strokesがおらよ、ってかんじでHammerstein Ballroomでぶちあげて、InterpolのBowery Ballroomの一週間連続があっというまにSold outした辺りから燃え広がっていって、でもこれらのおおどころよりも、LiarとかRadio4とかOut Hudとか!!!とかGang Gand Danceとか、どこのヴェニューに行ってもそういう連中が必ずなんかやっている、そんなかんじで、退屈はしなかった。ライブが終わってもどこそこでパーティーやるから、とかはしごも普通だったし。

ベースはだいたいベースがうねって踊れるリズムの上に不機嫌なじゃきじゃきギターを重ねて、その上になげやりなThe Fallふうか、John Lydonの断末魔ふうの声や叫びが乗る(だけ) - 要は、英国の80年代初にポストパンクと呼ばれていたカテゴリーのにとても近い - PILによるCANやクラウトロックへの参照も含めて。そしてそこにはべたべたうっとおしい系のエモへの反動というのもあった気がする。

そういう流れのなかでESGやLiquid Liquidもライブをやってくれたり。
これだけじゃなくて、エレクトロ寄りでBlack DiceとかAnimal Collective(はボルチモアだけど)も出てきたし、もうちょっと跳ねる系だとLe TigreとかThe FaintとかLes Savy Favがいたし、エモ - ハードコア系だと、CursiveとかDeath CabとかRival Schoolsがでてきたし、とにかくどこかでなんかやっていた。毎日でもライブ行けたと思う。(行けなかったのは映画も見始めていたのと、他にもダンスとか演劇とかいっぱいあったのと、あと日々の仕事もな…)

で、それらのバンドが雑誌のように日々リリースしていく大量の音源を無節操に(ではないか、それなりの権威づけをしたりしつつ)リリースして下支えしていたのが、Other Musicっていう、あのドキュメンタリー映画になったレコード屋だったの。ミュージシャンもヴェニューもレコ屋も観客も、すべてが奇跡的に幸せな円の循環をなして繋がっていた気がする。そして、そういうのを「シーン」と呼ぶのだろうな、って。

映画の話に戻ると、当時あそこから出てきたビッグネームを中心に取りあげてすごかったんだぞ! って語るのはこのテーマに関していうとちょっとずれていたかも。それだけには止まらなかった”Meet Me in the Bathroom”のごちゃごちゃした喧騒こそ描かれるべきだったのに。

映画のなかでいっこ気になったのは、The Raptureの"House of Jealous Lovers”〜”Echos”のリリースをめぐる疲弊と絶望のなかでJames MurphyがLCD Soundsystemをたちあげた、みたいになっているのだが、LCDって、ふつうにRaptureの前座とかやっていたんだけどな..

行きたいなー。The WalkmenもThe Moldy Peachesもまたライブやるしなー。


クリスマスはほーんとに腑抜けのまま終わってしまった。仕事も納めてしまったので年末にかけては向こうの見てない映画を漁っていくくらいしかないのかー。なんももりあがらないー。

12.22.2022

[film] Aftersun (2022)

12月14日、水曜日の昼、A24のScreening Roomで見ました。

作・監督はこれが長編デビュー作となるスコットランド出身のCharlotte Wells。プロデューサーのリストにはBarry Jenkinsの名前がある。既にいろんな賞を受賞しているしSight and Sound誌では今年のNo.1を獲っている作品。(これを描いている時点でまだ発表になっていないが、おそらくGuardian紙のUK, USでもNo.1になる。UKのNo.2は”The Quiet Girl” だよ!)

冒頭、DV-Camの電源オンオフのジージーしたノイズが頻繁に鳴って動作確認しているようで、11歳のSophie (Frankie Corio)とパパのCalum (Paul Mescal)が夏の休暇でトルコのリゾート地(変な名前)に出かけようとしている。時代は1990年代の後半、パパとママは既に離婚しているらしいことがやがてわかる(電話しているのでシリアスなケースではない)。

ホテルに着いても部屋にベッドがふたつないとか細かいことがあったりの緊張を孕みつつも、旅の、バカンスの冒険、トラブルやダメージにそれらの顛末を描こうとするものではないことがわかってくる。Videoに撮っている映像、再生された映像、頭に残っている風景や交わされた会話などを注意深く並べて、起こった出来事よりもその時のトーンや色、温度を掘りおこしてその触感を確かめようとしているかのような。

Calumはとても優しい、というより大人っぽくてスマートなSophieをどう扱うべきなのかを注意深く考えながら、父娘ふたりでいることをとにかく楽しもう、って常に行動しているようで、そうしている背景も – 彼のそもそも危うそうで暴力に向かいがちなかんじ – 動きの端々から伺うことができる。(この辺、Paul Mescal - "Normal People"の彼だよ - ってすばらしい俳優だなと改めて)

こんなだから最初のうちはいつこのバカンスとふたりの間柄が唐突に引き裂かれて暗転してしまうのか、がひりひり忍び寄ってくるようで少し怖いのだが、落ち着いたクレバーなSophieの動きによって心地よく裏切られていくのがよいの。プールサイドでのこと、シュノーケリングに行ったときのこと、ゲームセンターでバイクレースのゲームをやるとき、絨毯を見にいって値段を聞いたとき、そして休暇の締めにくる"Under Pressure"でのダンス.. などなど。あんな優しい(優しくなった?)パパいないかも、って思いつつも、その裏でCalumがひとり必死に自分の中のなにかをコントロールしようとしている - 傍らに自己啓発本や太極拳の本がある – ことも見える。

もうひとつ、トルコの青空と対比するかのように数回に渡って断片的に挿入される、暗く明滅するクラブのフロアで踊り狂うCalumが手を伸ばしてくる映像、これらが指し示すのはー。

ここにママが一緒にいたらいいな、も、このままパパとずっと一緒にいたいな、もあまりなくて、あの時がこうだった – から/けど、今はこう - というのを感傷を脱色して重ねて並べて、上から(もう戻ってこないように)踏みしめている - Aftersun/日焼けの後 – かのよう。それがなんでなのか、は明らかにされないし、する必要もない。でもあの時、CalumとSophieは一緒にいたんだよね、と。

どうしてなのだろう? というのが最後のほうになって現れる大人になったSophie(Celia Rowlson-Hall)によって明らかになる – いや、はっきりと明らかにはならないのだが、だからああいう構成であり色味だったのか、というのが見えてきて、そのかんじは誰にも思い当たるところがあるのではないか。感傷でも惜別でも後悔でもなく、あったあった(… )くらい。そしてしばらくしてからああいうことだったのかな、って水泡のように浮かんできて、暫く残って消えるような。(このまま消えてくれていいような)

人によってはSofia Coppolaの”Somewhere” (2010)を思い出す、のかもしれない。あれも11歳の娘と空虚な日々を送る父親の、どこか遠いところでの短い出会いを描いたものだったが、この”Aftersun”は場所(somewhere)ではなく、かつてあった時間を描いたもので、幼年期に通り過ぎていったそんな時間の描き方はとても英国的(かつ女性的?)な、Margaret TaitやLynne Ramsayが描いた幼年期のそれに近いと思った。

12.21.2022

[film] Siebzehn (2017)

12月10日、土曜日に『Gucchi's Free School × DVD&動画配信でーた 現代未公開映画特集! with Stranger』という一日イベント(?)から菊川で3本見ました。

英国にいた時にしみじみ思ったものだが、向こうではメジャーリリースされないいろんな小品が2週間くらいの単位でふつうにじゃんじゃか映画館でやっていて、ぜんぶ追えるわけではないものの、おもしろいのもすごくあって、日本に紹介されるのって本当にその一部で、もちろんそれは日本でリリースされるインディー系の小品でも事情は全く同じなのだからもっと日本のを見れば? なのかもしれない。けど、小さい頃からずっと洋画を見て洋楽を聴いて海外文学を読んできたのと同じで、そう簡単に行くものではない(し、そんなの大きなお世話だし)。

今回紹介された3本は、どれもそれぞれに違っていてよくて、配信でも見れるやつなのだろうけど、映画館で見るのってやはり違うし。以下、見た順で。


Lingua Franca (2019)


作・監督・主演をIsabel Sandovalがひとりでやっている。
Olivia (Isabel Sandoval)はフィリピン系移民でロングアイランドのブライトンビーチの近辺に住んで、仕事は高齢で認知症の気があるOrga (Lynn Cohen)のケアを住みこみでしながらフィリピンの母親に仕送りをしていて、でも不法滞在状態なので、グリーンカードを取るための結婚相手を斡旋する業者ともコンタクトをとって、でも外れてがっかりしたり。

Orgaの孫のAlex (Eamon Farren)はちょっと不良で、酒でトラブルを起こして叔父のやっている屠殺〜精肉工場でバイトを始めたところで、Oliviaと出会って互いになんとなく惹かれていくのだが、Oliviaは自分の置かれた状況もあるから踏み出すことはできなくて、でもAlexのガラの悪い飲み友達が彼のところに泊まりに来た時、Oliviaの部屋にあった金を盗んで、さらに彼女のフィリピンのパスポートを見ると、昔の男性の写真だったのでおい!ってAlexにいう。 Alexは少し動揺するものの既にOliviaのことを好きになっていたので、後でOliviaが不法滞在でトランスでもあることを告げても、黙って聞いていて..

ふたりはハッピーエンディングを迎えたのかどうか、明確には示されなくて、最後の画はOrgaの姿 - 自分が誰であるのか、すべてを忘れてしまってもそこに居場所のある彼女と、自分が誰であるかの輪郭はくっきりとあるのに居場所のないOliviaとの対照が。


Siebzehn (2017)

英語題は”Seventeen”。オーストリア映画で、2017年のMax Ophüls Awardを受賞している。
作・監督はMonja Artは1984年生まれのオーストリアの人。

オーストリアの原っぱや湖のある田園地帯に暮らす17歳のPaula (Elisabeth Wabitsch)は高校最後の年にきて、教室で日々つるんでいる仲間もいるのだが、斜め前に座っているCharlotte (Anaelle Dézsy)のことをぼんやりいいなー、と想っていて、でもCharlotteにはいつも忠犬の彼が横についているので、自分も手近にいるTim (Alexander Wychodil)なんかと付きあい始めてみたりするものの、やはりちょっと違うなってなったり、そんな彼女をみて興味をもったLilli (Alexandra Schmidt)が声を掛けてきて(それは遊びだったことがわかり)でもやっぱり自分はCharlotteがいいなー、ってなって..

都会生活とか大学生活への憧れもないことはないけど、父親に障害があるので家を出ていくことはできそうにないし、シリアスに考えてもしょうがないしー、ってぼんやりなのだが、その誰のせいとも言えないいたたまれないかんじがとても生々しく伝わってくる。

高校生の、授業の合間にぼんやり夢想してどこまでも止まらなくなる妄想(たまに実映像としてでてくる)をいくらでも好き放題に野放しで走らせていくと、こんなふうになる。カミングアウトをするしない、とか虐めや抑圧の軽さ重さなんてどこにも見当たらず、どこまでも真っすぐな平面の上で、自分はだれを好きになってだれとどっちに向かっていくのだろう、を延々自問していく、そのシンプルな軽さがなんか素敵で。

あと、フランス語のコンクールで、Paulaがプルーストについて話すところ、よかった。


Das merkwürdige Kätzchen (2013)


英語題は“The Strange Little Cat”。作・監督のRamon Zurcherの長編監督デビュー作で、彼はこの後に”The Girl and the Spider” (2021) - 未見 - を撮ることになる。72分で、カフカの『変身』を大雑把にベースとしている、というのだが、カフカよりもなんだか変、って思った。

ベルリンの、ごくふつうの中流そうな家に家族+親戚が集合する。まんなかにいる父母とまだ小さい兄と妹、犬と猫、そこにおばあちゃんが運ばれてきて、あまり顔をだしたことのない叔父夫婦もやってくる。 起こる起こらない話でいうと、洗濯機を直したりはするけど喧嘩も事故もパニックも起こらないで、映画は食事その他の仕度を始めようとしている母から始まって、時間的にもほぼそこに留まったままー。

たったこれだけ、なにが起こるというわけでもないのに、家族という集団の、あるいはその活動(行ったり来たり、おしゃべり、睨み合い、たまにどつく、など)の変てこで変態なことときたらとてつもない(ように見えてしまう)ことに息を吸うのも憚られてしまってこれは何? になる。

かんじとしては”The Humans” (2021)にちょっと似ている、でも”The Humans”のがまだ人間ぽいかー。

12.20.2022

[film] Decision to Leave (2022)

12月9日、金曜日の晩、MUBIで見ました。
この日はMUBIでこれが見れる初日、だったので夜遅かったけど見る。邦題は『別れる決心』。
今年のカンヌのコンペティション部門に出品されてPark Chan-wookは監督賞を受賞している。

欧米でのPark Chan-wookに対する評価はなかなかびっくりなところがあって、”The Handmaiden” (2016) - 『お嬢さん』なんか、英国ではものすごくロングランされていた。たぶんだけど、彼の映画が表象するアジアンぽいエロとか湿気が欧米のはまる人にははまってしまうのではないか。で、この作品もそういう – Asian femme fataleもの、として受けたかんじがあるようなー。最初に見たポスターの、真横を向いてぼやけたPark Hae-ilの奥でこちらをまっすぐ見つめてくるTang Weiの目の力だけで。

釜山の刑事ヘジュン (Park Hae-il)と相棒のスワン (Go Kyung-pyo)は、退職した入国管理局員キ・ドス (Yoo Seung-mok)がよく登っていた山の麓で死体となって発見された事件を担当する。ヘジュンはずっと不眠症で、妻のジョンアン (Lee Jung-hyun)とは週に一度しか会わないくらい疎遠になっている。ふたりはキの若い妻ソレSong Seo-rae (Tang Wei) - 中国から移住してきて、韓国の言葉や会話にあまり馴染めていなくて、高齢者介護の仕事をしている – を聴取するのだが、彼女の手には引っかき傷が、足と胴体にはあざがあったりしたので、ふつうに彼女は第一の容疑者になる。

こうしてヘジュンはソレのアパートの前で張り込みをして、彼女を監視していくのだが、それに呼応するかのように彼女もへーきな顔で彼のことを追っかけるようになる。調べていくなか、ソレはヘジュンに不正な入国で韓国に来ていること、中国では彼女の母親が病の末期で頼まれて薬殺していること、母が亡くなる前に、満州で独立運動をしていた韓国の祖父が残した山を引き取りに行くよう言われたこと(だからここに来た)、などを語る。キがソレの不法入国に関わったことと、遺書と思われる手紙が発見されたことからキの件は自殺で、ソレは容疑者でなくなった、とヘジュンはソレに伝える。

こうしてヘジュンとソレは捜査員と容疑者の関係から離れてデートしたり密会したりしながら親しくなっていくのだが、そうやって近くになってみると、新たに隠滅された証拠とか、新たにわかってきた事実とかが見えてきたり、もともと不眠症で鬱の気もあったヘジュンは彼女への愛(誘惑?)と不信の間でへろへろの骨抜きにされていって…

事件の真相や真犯人や絡みあった謎を解いていくサスペンス、という(見方もできるが)よりも、それを口実に互いの真意や好意を探るほうに思惑が少しづつずれていったかと思ったらそれを利用するかのように証拠の隠滅や目くらましが為され、並行して新たな事実も見つかり、それでもいいや愛してしまったのだから、ってまぬけに突っ走ろうとする。 宿命の女にやられる典型的なダメ男のケースなのだが、女性の側に見え隠れしてもおかしくない悪意や好意があまりよく見えず、目をこらしてそこを見ようとすると別のものが見えてしまう、という所謂どつぼに嵌った、ってやつだと思うのだが、これでふたりが幸せになれたか、未来の幸せが見えるか、というとそんなでもなく.. というすべてにおいて中途半端でどこにも行きようのない中間状態のバランスの悪さ - 不信、猜疑心、誘惑、惑い、抱擁ときどき暴力、などが見事なカメラとか焦点とか明暗とか距離感のなかで浮かびあがってくるのがおもしろい。 ノワールに行けたらまだ楽なのかも。

“Decision to Leave”の”Leave”は単に「別れる」というより別れられなくてぐだぐだになってしまっている状態から逃れる、そんな関係から立ち去る、ようなかんじもあって、ヘジュンとソレは別れるのだが、やがてソレの新たな夫となった投資家の男がプールで死んでいるのが発見されて..  

こんなふうに近づけは近づくほど止まらずに「真相」から遠のいていくかのような拗れようが劇的とはとても呼べない冷たいトーンと、どこまでも熱くならない/なれないまんなかのふたりの不均衡によって延々切り返されていって、最後の最後に”Decision”の重みが残って、それはとても苦く痛ましい。古い民話に触れたときに感じるなんともいえない哀しみのような。

主演のふたりは文句なしで、特にヘジュンの方のなんにもできないまぬけ男のかんじ、成瀬の森雅之みたいなー。

12.19.2022

[film] Men (2022)

12月9日、金曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。
邦題は『MEN 同じ顔の男たち』。A24による英国の、とってもシンプルで英国なフォーク・ホラー。作・監督は”Ex Machina” (2014)のAlex Garland。音楽も”Ex Machina”と同じBen Salisbury + Geoff Barrow。

ロンドンのドックランズあたりのアパートに暮らすHarper (Jessie Buckley)は夫のJames (Paapa Essiedu)との口論(+ 被虐)の末に彼が飛び降り自殺するのを見て(窓の外を落ちていく彼と目があう)、あれこれ疲れ切ってしまったのでハートフォードシャーの村のカントリーハウスにひとりで滞在しようと車で訪れる。田舎の空気を吸ってしばらくは嫌だったことも忘れよう、っていっぱい落ちていたリンゴを齧る。

滞在する家屋の説明に来た管理人のGeoffrey (Rory Kinnear)はよく言えば親切で世話好きで悪く言えばおせっかいでうざくて、典型的な田舎のおじさんだけどまあしょうがないか、くらい。

滞在するところには満足した(インテリアとかすごくよいのでもっとちゃんと映して)ので付近を散歩でもしてみよう、って庭を抜けて廃れたトンネルを抜けて原っぱから古い家の写真を撮ったりしていると、緑の家をバックに禿げて全裸の中年男が突っ立っているのを見て、なんだこれは? にちょっとなる。

宿に戻って友人のRiley (Gayle Rankin)と話しているとさっきの裸男が頭から血を流した状態で外をうろついていて、郵便受けに手を入れてきたりしたので警察に通報して逮捕して貰ったり、教会があったので落ち着いてみようと、そこにいた神父と夫Jamesの自殺について話してみると、あなたの方にも悪いところはなかったですか? とか言うのでムカついてパブで飲んでいるとさっきの警官がいたので犯人のことを聞いてみると何もしていなかったので釈放した、とかいうのではああぁ? ってなるとか、とにかく会う男ぜんぶ何なんなのおまえ? の言動と動きに終始していて、しかもその顔はぜんぶGeoffreyの、Rory Kinnearの顔をしているように見える。

どういう顔かというと、ベースはにこやかだし暖かそうだし人あたりもよいのだが、眉とか口先をほんの数ミリ動かすだけで冷笑/侮蔑したような顔に、そこから更に数ミリで不機嫌で威圧的な顔相に簡単に着脱・トランスフォームしうる、日本人でも営業一筋の中 ~ 壮年パワハラ男が伝統の顔芸のように誇示してくる典型的なあれで、たぶんHarperにそう見えてしまうだけ、なのかもしれないがなにしろ”Ex Machina”を作った人なので、そういうロボを一式揃えて村外の人のおもてなしをしているのかもしれないし。

起点となるのは亡くなった夫Jamesのことで、彼女を殴っておいてそんなことをさせたのは彼女だっ、て呪いながらアパートの上から落ちて肘から手首ぐらいまでを柵でぐっさり股割きして死んでいた彼のイメージがあって、それ以来男なんてみんな自分を誇示して構ってもらいたがるあんなんばっかり現れる、ってその通りに終盤、改めてドアのところにぬめぬめ何度も何度も変態しながら産みだされる(生産的な)なめくじみたいな”Men”にしまいには呆れてあーあ、になる。実際にそれは笑っちゃうくらいなあれなのだが、果たしてあの対応でよかったのかどうか。 ほんとうは親友Rileyも呼び寄せて、Geoffrey の群れと“The Shining” (1980)のShelley DuvallとJack Nicholsonくらいの死闘をすべきだったのではないか、とか。でもそんなののために体力使うのムダなのよね、あほくさ – なんだけど執拗につきまとってくるあれらはいったい(怒)! って。

テーマ(敵)が空気とか制度に近いところにあって蚊みたいにいくらでも湧いてくる(しかもリラックスしたい田舎の方に行ったときに限ってそこにでる)奴らにどう対峙すべきか、というお話でコンパクトにまとまってて悪くないのだが、結局あーあ、しかないところがどうにももやもやしてしまう。

日本でも同様の - 過疎の山奥に一軒家を買ってリフォームして静かに暮らそうとした女性を村の男女がよってたかって – これはまじでぜんぜん笑えないかー。日本の俳優でGeoffreyの増殖顔をあてるとしたら誰になるのかしら?

この作品のように静かにスタイリッシュに笑えないどうしようもなさを追求するのもあるのだろうが、どうせなら思いっきりB〜C級の方に振って、サメ映画のようにいろんな”Men”を量産していくのもありなのではないか。続編は山で、オフィスで、宇宙で、スポーツイベントで、同じ顔のオトコたちが暴走して端から勝手に自滅していくやつを。

音楽はもうちょっと凶暴でもよかったかも。Mica Leviが”Under the Skin” (2014) でやったようなくらい。そういえば”Under the Skin”て、Scarlett Johanssonが”Men”を捕食していくお話だったねえ。

12.18.2022

[film] Persian Lessons (2020)

12月5日、月曜日の晩、立川高島屋のkino cinemaで見ました。
本来であればこんなのぜったい岩波ホールがやってくれたはずの作品だったのに、会社を早く抜けて立川まで遠出しなくてはならなくなる。こんなによい映画なのにさ。

邦題は『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』。監督はウクライナのVadim Perelman、原作はドイツのWolfgang Kohlhaaseによる短編"Erfindung einer Sprache” - 直訳すると「言葉の発明」) - 本当に起こったことなのかどうかは諸説 - によるロシア/ドイツ/ベラルーシ映画で、ベラルーシからオスカーにエントリーされたがベラルーシの人がそんなに関わっていないから、という理由で却下されている。

ユダヤ人のGilles (Nahuel Pérez Biscayart)が大勢のユダヤ人と一緒に車に押し込まれてどこかに運ばれている途中、隣にいた男にペルシャ語で書かれた本を高価なものだし役に立つかもしれんから持っとけ、と渡される。

それはナチスの収容所に向かう車で、途中丘の上で降ろされ並べられた彼らは一斉に掃射されて「処理」されて、でもGillesだけは早いタイミングで倒れて死んだふりしたので弾が当たらず、それを見抜いていたナチスの兵にふざけんな、って立たされるとGillesは咄嗟に自分はユダヤ人じゃないペルシャ人なのだ、と先程貰った本を見せ、兵士はぜったいこれ嘘だと思いつつ上官にペルシャ語を喋る奴を連れてきたら肉の缶詰をやる、と言われていたので彼を収容所に連れて帰る。

連れてこられた「ペルシャ人」Gillesと相対したナチスドイツの大尉Klaus Koch (Lars Eidinger)は、彼に簡単なテストをして、ここでKlausに数単語でもペルシャ語の知識があればアウトだったのだろうが、まったく知らなかったのでGillesがでまかせでてきとーに変換する単語で納得して、Gillesは収容所の台所で働きつつ晩にKlausのレッスンの相手をしていくことになる。

でも、いくら適当と言ったってそれなりの語彙は揃えなければならないし、学習意欲たっぷりの敵はきちんと学んで復習してレッスンに臨んでくるのでGillesのほうでもそれなりに準備しないといけなくて、ちょうど捕虜の名簿を作る仕事を貰ったので各行にある名前の最初の数文字を切って単語を作って意味を添えて、これを(メモなしで)頭の中に蓄積していくGillesも相当な記憶力の持ち主だった、と。

そしてそんなGillesを偽者と信じて付け狙う兵士とかその隣で待遇に不満を抱く女性兵士とか収容所を運営する側にもいろいろあるし、GillesはGillesで裏で陰口を叩かれたからといって引くわけにはいかない - バレたら即死刑だから。教師として強くなっていくのがおもしろい。

という大尉と上層部を除けば全員が一触即発の緊張感の只中にずっとあり、いろいろあってぼろぼろになったGillesがもうこれ以上持ちこたえるのはムリだ、ってなったところで大戦でのドイツの形勢が悪くなり、収容所ぜんぶを畳んで移動することになる。でももうGillesは擦り切れて生きるパワーをなくしていて…

Klausは戦争が終わったら絶縁していた兄のところに行ってペルシャ料理の店を開くのが夢で、そのためにペルシャ語を習おうとしていた。戦争の後を夢見る敵 - 自分を殺そうと思えば軽く殺せる敵が勝手に描いている夢のために、そこから逃れて(周りの同胞は虫ケラのように殺されている傍で)どうにか生き延びるために、ありもしない言語を作って紡いで与えることの虚しさについて考える .. ぜったいに無理だ。

最後に描かれるふたりのエピソードはあまりに対照的、というか薄氷で、痛快さとは程遠い痛ましさがあって、そこに収容所での、基礎も応用もないふたりの間でしか通用しない言語のレッスンを重ねてみる。でも、戦争における敵味方というのもそんな汎用性にも根拠にも欠ける架空の言語のやりとり(のようなもの)に終始するなにかなのかもしれない、とか。でもでも、そんなところで数百万の人間が簡単に殺されてしまった、その恐ろしさにはやはり震えてしまう。

Gillesを演じたNahuel Pérez BiscayartさんはBPM (2017)に出ていた人かー。ぼこぼこにされてぼろぼろに擦りきれていく様がほんとうにリアルで怖くてすごいの。

12.16.2022

[film] Adventureland (2009)

12月4日、日曜日の昼、東京写真美術館の『『甘い夏』公開記念 青春映画祭』ていうのから2本見ました。ここに2週連続で通うことになろうとは。

邦題は『アドベンチャーランドへようこそ』。前に英国のTVで見た。日本では劇場未公開だったなんて。
監督は”Superbad” (2007)の、そしてこの後に名作”Paul” (2011)を撮るGreg Mottola。音楽はYo La Tengoで、彼ら以外の挿入曲もたまんないのが多すぎ。

1987年の夏、大学卒業後にヨーロッパを旅する計画を立てていたJames (Jesse Eisenberg)は、親から家計がやばくてそれどころじゃない、と言われて計画を取りやめ、ピッツバーグのテーマパーク – という程のもんではないローカル遊園地 - Adventurelandでのバイトをせざるを得なくなる。

Adventurelandには管理人にBill HaderとKristen Wiigとか、同僚にMartin Starrとか変なのばかりだし、客のほうもろくでもないのだらけで、おもちゃの馬を走らせるゲームの担当になった彼は客の呼び込みもなんもできなくてうんざりぐったりなのだが、同じゲーム担当の大人っぽいEm (Kristen Stewart)の佇まいにぼーっとなる。けど、彼女の後ろにはパークのメンテナンス担当のMike (Ryan Reynolds) – いまの百倍おとなしくかっこつけてる - の影がちらついていたり。

大人になった(公開当時には40を過ぎているであろう)Jamesが振り返ってみれば甘酸っぱい、でも当時としては相当にばかばかしかったなあー、のひと夏のあれこれ、どたばたじたばたを追っていって、歯ぎしりするというよりはなんだったんだろ.. ってぼんやりして、そこに”Adventureland”っていう寂れ具合もたまんない「遊園」地の名前が映画のように被さってくる - 例えばこんなふうに。

メインになるのはおそらく当時童貞でおどおどしたJamesと(彼 - 男性目線からすれば)すべてが謎めいててわけわかんないが故に猫のように狂おしいEmとのやりとりで、過去数千の青春映画で繰り返されてきた悶々した描写 vs, 短絡クラッシュばかりなのだが、とにかくこの後に”American Ultra” (2015)で再び競演することになるふたりの相性は悪くないので文句はないの。

“Superbad”からブレなくスムーズに移行してきたガキ(オトコ)目線ははっきりとあり、それはそれでよいのだが、こういうの昔ほど楽しめなくなっているような。それはたぶん自分のせいなのだろうな、って(青春映画)。でもこういうジャンルはもうなくなってよいのかも。

音楽は1987年 – レイブもグランジもサブカルも来ていないので、まだあけっぴろげで無邪気でこっ恥ずかしいのが多い。そういうこてこての間にLou ReedとかBig StarとかHüsker DüとかThe ReplacementsとかViolent Femmesとかがわらわら聴こえてきて正気に返るような。 どうでもいいけど、The Cureの”Just Like Heaven”のリリースはもっと後ろだったんじゃ? と思ったら87年10月だった。全体の流れ方としてはまったく異議なし。


Breathless (1983)

↑ に続けて見ました。監督はJim McBride、音楽はJack Nitzsche。

Jean-Luc Godardの長編デビュー作 – “À bout de souffle” (1960) -『勝手にしやがれ』の英語題をそのままタイトルにもってきて『大胆にリメイク!』(宣伝コピー)したものであると。

ラスヴェガスのちんぴらで車泥棒とかをしていて、Silver SurferのコミックとJerry Lee Lewisのロケンロールをこよなく愛するあんちゃんのJesse (Richard Gere)は、休暇でヴェガスを訪れていたときに一晩を共にしたMonica (Valérie Kaprisky) - UCLAで建築を学んでいるという - のことが忘れられなくて、ポルシェを盗んで彼女のいるロスに向かって突っ走るのだが途中で警官に止められて、追いつめられて車のなかにあった拳銃を手にとったら弾がとんで警官に当たって、ロスに着いたJesseは警官殺しで新聞に載っていた。それでもMonicaのことが好きでたまんなくて単細胞の一直線なので彼女を追っかけて、昔の仲間から金を受け取ってメキシコに逃れて結婚しようとするのだがー。

JLGのオリジナル(原作はFrançois Truffaut & Claude Chabrol)がやろうとしたことにはどちらが近いのか、っていうのは(ほんの少し)ある気がして、でも脚本がわるいのかもしれないが、後半のJesseとMonicaのやりとりは結構ぐだぐだでしょうもなくて、そういう「なにやってんのこいつら? - 勝手にやってればー」みたいなのを絵として撮りたかったのかなあ、と思っていたらラストのあのショットですべて腑に落ちる、というかこれを撮りたかったのかー、と。

あと、こういう純朴なバッドガイをやらせたときのRichard Gereの殺気とわけわかんないぎらぎら具合はなかなか素敵なのだが、やはり“Days of Heaven” (1978)の彼にはかなわないかも。

こちらも挿入される音楽はすばらしくて、Mink DeVille、Brian Eno、Philip Glass、Link Wray、主題歌ともいえるJerry Lee Lewisの(そしてエンディングではXの)"Breathless"とか、どんぱちが始まる前に流れるThe Pretendersの"Message of Love"とか、たまんなく盛りあがってよいの。


原則見られればよい、し関係ないはず、なのではあるが、この特集でかかったやつ、やっぱり初夏くらいに見たかったかも。

12.15.2022

[film] The Electrical Life of Louis Wain (2021)

12月3日、土曜日の晩、Tohoシネマズ六本木で見ました。
朝から”Mad God” - “Mr. Landsbergis”と見て、しみじみ世の中が嫌になっていたのを救えるのは猫しかいないわ、と。 邦題は『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』。

監督は英国の変てこやくざ映画”Giri/Haji” (2019)に俳優として出ていたWill Sharpe、古典のキャラクターを任せると異様に入り込んでしまうBenedict Cumberbatchが主演と製作にも入って、ナレーションはOlivia Colman。他にもTaika Waititiとかあ-らこんな人が! みたいなのがいっぱい、英米の猫好きがよってたかって入り込んでいるかのよう。

Louis Wainというアーティストは、子供の頃に読んだ教科書ではSéraphine Louisなどと並ぶシュールレアリズム系のアウトサイダー・アートの人で、そこでの猫はぐるぐる模様のなかにあったりしたのだが、あんなかわいい猫たちも描いていたのかー、と。

ヴィクトリア朝の頃の英国で、貴族の端くれのLouis Wain (Benedict Cumberbatch)は未亡人の母と5人の妹たち(うちひとりは精神を病んでしまう)を養うために絵を描いたり - 右手と左手を同時に動かしてあっという間に描きあげるとか - どんなことでもやってせかせかと働き続けるのだが、誰も助けてくれないし彼自身の金銭感覚もてきとーだったので生活はどん詰まりのままどうしようもなくて、でも妹の家庭教師としてやってきたEmily (Claire Foy)と恋におちて天上に舞いあがって、彼女のが年上だし階級も下なので家族の反対もあって、でも結婚したふたりは幸せで、それなのに彼女が癌と診断されて真っ暗になったそんな時、庭先に現れた白黒の野良子猫にふたりは魅せられてしまう。

Peterと名付けられたその猫をふたりはネコ可愛がりして、Emilyが猫って私たちと同じよね、と言うのでLouisはいろんな活動をしているPeterの絵をいっぱい描いて、それは友人の実業家Sir William Ingram (Toby Jones)の手によって描く端から売れて大人気作家になるのだが、いくら描いても描いてもLouisのところに殆どお金は入ってこない仕組みになっているのだった。

やがてEmilyが亡くなり(彼女と別れるところ、悲しすぎる)、Peterも亡くなって、すべての生きるパワーと支えを失ったLouisは精神病院に送られてひとりぼろぼろに…

猫ともEmilyとも出会う以前にLouisは彼の頭の中だか外だかを稲妻のように走る電流(のようなにか)にも魅せられていて、そういう電気ショック(の源)が彼の周りにはいっぱいあって、その電撃のひとつはEmilyで、もうひとつのは猫で、EmilyはいなくなりPeterもいなくなってしまったけど、そういえば猫はそこらじゅうにいるなあー、って気が付くと(びりびり)。

LouisがDoctor StrangeだったらEmilyにもPeterにも会わずに忘れて済ませるバースを呼びだすのかもしれないが、猫に魅せられて、猫のなかに没入しているElectricalなLifeって - そういえばCumberbatchは”The Current War” (2017)でエジソンを演じていたし”The Imitation Game” (2014)ではAlan Turingだったし、電気/電流系なのかも - どんな雲のなかにあって彼には何が見えていたのか、なぜ彼はそこまでして猫に、猫描きに没入していったのか、その辺のどうしようもなく狂おしいかんじがもうちょっと描けていればー、というのは少しだけ。

でもそうすると今度は、なんで君はそんなにかわいいのかゴロゴロにゃー、っていつもの猫好き忍法にやられるだけになってずるい。(なんで猫なのか? ただの4本足の毛玉獣なのに? をきちんと説明させることを許さないのがElectrical猫のおそろしいところ)

これと同様のノリで『The Electrical Life of 内田百閒』って誰かやらないかしら。『ノラや』のあの世界を。

あと、猫を救おう!ってH.G. Wellsに扮したNick Caveが出てきてラジオで喋ったりするのだが、これがいつものふつうのただのNick Caveがラジオで喋っているのにしか見えなかったりするのがおかしい。

最近は映画以外は、猫動画しか見ていない。映画でも猫が出てくるとよい映画になってしまう。なんかよくない。

12.13.2022

[film] Mr. Landsbergis (2021)

12月3日、土曜日の昼、イメージフォーラムで見ました。

“Mad God” (2021)を見たあとに歩いて向かって、向こうに”I’m donut?”のながーい列が見えたので少し並んでみたのだが上映に間に合わなかったので諦めた。くやしい。

Sergey Loznitsaのドキュメンタリー、邦題は『ミスター・ランズベルギス』。248分で間に10分休憩が入る。彼のドキュメンタリーとしてはこないだ見た“Babi Yar. Context” (2021) - 『バビ・ヤール』 に続くもの。

ソ連のペレストロイカの流れを受けるかたちで1989年から1991年にかけて起きたリトアニア(他のバルト三国も同様)の独立運動をリードしたVytautas Landsbergis(ヴィータウタス・ランズベルギス)。当時の生々しいアーカイブ映像と現在の氏へのインタビューを通して、あの運動はなんだったのか、どうして非暴力で- 死者は出ているが – この革命は実現されたのかを追っていく。 ナレーションもなく、最小限の字幕以外は入れないかたちで、映像とそこに出てくる人々に語らせていくスタイル。 放映用の素材を「わかりやすくする」ために字幕やテロップを入れまくり、インタビューにはわざとらしい吹替えや効果音をへーきでいれてしまう現代のニュース映像ではたぶん無理なやつ(あれほんとなんとかして)。

リトアニアの主権とソ連からの独立を訴えて実現しようとする政治組織サユディスが国内で立ち上がり、そこに当時国立音楽院の教授だったランズベルギス氏が加わって指導者となり、Mikhail Gorbachev(ゴルバチョフ)の施策に一見乗っかるかのようにここまでならやっていいよね?ほんとはあそこまでいけるよね?とかやっているうち、はじめのうちは余裕でにこにこしていたゴルビーから笑みが消えて、そんなことをしたら大変なことになるぞ、って警告のあと、実際に経済制裁とか官僚の更迭とか嫌がらせが始まるのだがリトアニアの民の勢いは止まることなく意思も固いままで、1990年3月11日、第一回リトアニア最高会議で議⻑に選ばれたランズベルギス氏がソ連に対して独立を宣言すると、向こうはいいかげんにしろよ、って首都ヴィリニュスに軍の戦車一式を派遣してきて閉鎖して占拠しようとして…

この辺の流れは革命の怒涛の勢いと熱情で一気に一挙に進んだわけではなくて、サユディスとか最高会議の場でもいろんな意見があるしでるし – 絶対にあったであろう修羅場での議論はあまり出てこないが - でもおそらくランズベルギス氏が揺るがずオーケストラの指揮者よろしく全体をまとめてあげて、ソ連側に対する態度も要求もきれいにシンプルに一貫していた。 ソ連は飼い犬がここまで激しく、しかし整然と歯向かってくるとは思わなかったに違いない。

現在の映像のなかで当時のことを振り返るランズベルギス氏の様子が素敵で、くしゃくしゃっていうかんじで笑いながら、でもやったのは自分じゃないよ(みんなでやったんだよ)、みたいな余裕。 インタビューで、ランズベルギス氏のことは文化と教養があるから信頼している、っていう市民の言葉があるのだが、ほんとにそうだと思った。政治家に文化と教養がない(あまりになさすぎ。なにあれ?)国はほんとに滅ぶよな、ってどこかの国をみて。

そしてランズベルギス氏だけではなく、最後まで抵抗の姿勢を貫いて崩さなかった/崩れなかった市民もすばらしく、丁度”Andor” (2022)のS1の最終エピソードを見たあとだと、これだ! って思うよ。 革命っていうのは通りの静かな音楽から始まってひとりひとりが立ちあがることなのだ、って。いまは穏やかな氏も物陰ではLuthen Raelみたいなことをどっしりと語っていたのかも知れない。

連邦国家が施策に織りこんでイメージしていた「解放」or 「緩和」がかつて強制編入された共和国の側からは全く異なるものとして受けとられていた、というのと、いったんそこで露わになった両者の溝は後からどちらがどうこうしようとしても決して埋められるようなものではなかった(そこを無理やり埋めようとするやり方にも違いはでて)その決定的な段差こそが文化であり歌となって溢れて、だからランズベルギス氏が音楽の先生だというのはとても象徴的なことだなあー、って。

そしてもちろん、このドキュメンタリーはウクライナの昨年から今までのありようも逆照射してはいないだろうか(ロシアという国の、国境に対して頑迷でどうしようもないところも)。 もし当時のゴルバチョフが今のプーチンだったら.. いや、当時のゴルバチョフを見ていたからプーチンはあんなんなっちゃったのか、とか。 でも最近、ほんとに国ってなんなの? いる? とか思うことばかり。利益権益を握った個人や企業が自身を維持するためにあるとしか思えないんだけど? 国。

初日だったからか映画とは別で撮られた直近のランズベルギス氏のインタビューと、チュルリョーニスのピアノ曲を演奏する姿の動画がおまけで上映された。

時代は異なるけど、Jonas Mekasがいて(亡命したけど)、Vytautas Landsbergisがいた国 – リトアニア、やはり行ってみたい。

12.12.2022

[film] Mad God (2021)

12月3日、土曜日の午前、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。ぜんぜん「ヒューマントラスト」してない作品といえよう。

Guillermo del Toroをはじめ多くの映画人が「神」とか「マスター」とか崇めてやまないPhil Tippettが原作、脚本、造形、作画、など約30年をかけて、ほぼひとりでこつこつ作りあげたストップアニメーション。途中で頓挫してクラウドファンディングで繋いだり、完成一年前に監督が精神病院に入ることになったり、いろんなことがあった、らしい。30年かけたのだったらそれくらいはありそう。

70年代の終わりくらいから洋画を見始めた人にとって、Phil Tippett、という名前は特別なブランド名、というより、変なモンスターとか動物とかが動きだしたりスクリーンを横切ったりする都度に無意識に摺りこまれてきた刻印とか紋章のようななにかで、なので彼の名前があると痺れて拝み倒す、というよりも気が付けば手が勝手に動いてお菓子の缶を開けて頬張ったりしてしまうあの感覚、そういうやばい方の符号になっていて、だから今回も気が付いたらチケットを取って映画館に座っていたりする。それはそれでこわいったら。

タイトルの「狂った神」はお狂いになられた神さまが主人公となって暴れて壊しまくる、大魔神みたいなやつではなくて、狂ってしまった神(ひとつであれ複数であれ、どんな形でも)が下痢のようにもたらすであろう世界ってこんなんではないか、くらいのかんじ – それが指し示すその先にPhil Tippettそのひと、を置いてみてもそんなに違和感はない。いっそのこと見ているこちらを引きずり込んで狂わせてくれ、くらいのものを期待してしまう。

暗くおどろおどろした世界にバベルの塔のような建物が見えて、その上方から潜水服のようなものに身を包んでスーツケースを抱えた男がワイヤー(蜘蛛の糸)を伝って地底に降りていく。男は地図のようなものも携えていて、立ち止まる都度それを広げるのだが、その紙もぼろぼろと朽ちて欠けて小さくなっていく。男が誰なのか、どこに向かおうとしているのか、その目的は、など、ナレーションも台詞も字幕も一切ない。見ていればわかる、極めてシンプルな地獄巡り絵巻。昔のガロにあったようなどす暗い画の世界。

降りていった地底なのか何かの底なのか - はどろどろ汁気と湿気たっぷりで薄暗くて空も見えない、変な魔物や怪物がうろうろしていて蹴とばされたり食べられたり潰されたりが茶飯事で、顔のない軍隊がいるボッシュやブリューゲルの世界。 男がスーツケースに仕込んだ爆弾を仕掛けようとしてもうまくいかずに診察台に縛りつけられて解剖されて、男の体内から出てきた赤ん坊をどうするとか、その男のあたまに記録されていた映像を吸いあげた別の男がバイクでやけくそのようにして走り出すとか、そんなゴスゴスした描写 – ぜんぶ人形なのでそんなに気持ち悪くはない – が延々続いていく。

蜂の子が延々弧を描いて飛んで(火にいる)爆発と消滅を繰り返しながら自らの死体の上に蜂蜜とか黄金を練りだしていく、海の底や地の底でこれまでも繰り返されてきた虫レベルの錬金術の営為を虫レベルのViewと視野 - 狭いのか広いのか/低速なのか高速なのか - で描きだす。誰にも止めることなんてできやしない。

こういう神が、Phil Tippettの創作の底には常に見えて寝っ転がって閉塞していた – それも30年 - というのはなかなかすばらしくないだろうか? ビッグバジェットの大作であっても、少なくとも極楽浄土のハッピーなお花畑ではなかったことが確認できただけでもなんか嬉しくなる。

“Guillermo del Toro's Pinocchio” (2022)との比較でいうと、どちらも生の普遍と世界の果てを巡って火花を散らしていくところは似ているのだが、こっちのはひたすら下降するのに対して、”Pinocchio”はどこまでも横滑りしていくとことはやや異なるかも。どちらの創造主もちょっと「狂っている」とこはおなじかも。

あと、音楽だけはちょっと残念だったかも。こんなにゴスで”Downward spiral”映えするネタはないのになー。

12.10.2022

[film] Black Adam (2022)

12月2日、金曜日の晩、109シネマズの二子玉川、IMAXレーザーで見ました。
監督は”Jungle Cruise” (2021)のJaume Collet-Serra。

DCについては、Wonder Woman 3のニュースを聞いてはらわた煮えくりかえって頭きているとこなので、まともに書けないかもしれないけど。 これはヒーローがどうした以前にDwayne Johnsonが現世でいかに最強であるかを示す(しかない)ものなので、ネタばばれもくそもない、はじめからこたつみかんモードで。

BC2600年、古代都市のカーンダックで王のAhk-Tonが圧政を敷いているなか、魔法の石”Eternium”の採掘現場の奴隷の子が魔法だか呪いだかの力を授かって救世主Teth-Adam となって(という辺りは終盤にきちんと説明されて、えっ..?ってなる)王を倒して、という伝説だか神話だかが描かれる。

現代のカーンダックは無国籍ギャングが支配する国際無法都市になっていて、そこで考古学者のAdrianna Tomaz (Sarah Shahi)と彼女のチーム(+ 息子)はカーンダックの行方不明の宝物とその謎を追って砂漠の岩山の奥に入っていって、なんか見つけたと思ったら大勢の武装した連中に囲まれてて、じたばたしているうちに岩戸の奥からTeth-Adam (Dwayne Johnson)を蘇らせてしまう。寝起きで機嫌悪かったのかいろんなのをぶち壊しつつ悪い連中を一掃してくれたものの、ちゃんと英語を喋るこいつは善玉なのか悪玉なのか。

彼の出現に気づいて懸念を示したのがSuicide Squad を統括していたAmanda Waller (Viola Davis) で、彼女は”Justice Society (≠ League) of America”っていうチームのHawkman (Aldis Hodge) - 羽野郎だけどFalconほどいけてない。ほんとうはWill Smithの担当枠 - とDoctor Fate (Pierce Brosnan) - お金持ちのシニアで金兜をなでなでする - に指令を出して、Atom Smasher (Noah Centineo) - でっかくなる。Ant-Man + Deadpool - おしゃべり大好き白人男性 - とCyclone (Quintessa Swindell) - お天気を操る。Halle BerryのStormとほぼ同じ - の若い男女もここに加わって正体不明で不敵なTeth-Adamを退治しようと出陣する - けど当然歯が立たない。

とりあえず最初の波をひと通り蹴散らした後で自分の役目は終わったから、って自ら頼んで海底に凍結して貰ったらこの後でやばい本丸のSabbac (Marwan Kenzari)が蘇り、どうする? になるのだが、どっちみちぎんぎんに蘇らせて我こそがBlack Adamなりー、って覚醒するのは誰がどう見たってわかるし。

どちらかと言うと地球のヒーローを名乗って登場するJSなんとかの方が雑にうざくて、普段の町の治安悪化は放置しているくせにこういう時だけ現れるなー、って町衆にヤジられていた通りだし、”…of America”って付いてるのになんで国外に干渉してくるのか、だし、終わりの方でDoctor Fateがなにやらかっこつけてみたりするけどもう遅いし、どっちにしても町をぼこぼこにぶっ壊すだけじゃんか。

宣伝では「ダークヒーロー」とか言っていたが、奴隷解放の突端で”Shazam!” ってやって登場したBlack Adamが正統派ヒーローでなくてなんなのか(ひょっとして既存体制を破壊したらダークになっちゃうの? まじ?)、JSAの決断とか動きの方がよっぽどダークでブラックで怪しくて、それは今の大国の動勢とも繋がっていない? あと、同じ地元の希少鉱物によって発展への道が開けたワカンダとカーンダックの違いとか。ワカンダは技術も含めて発展したけどずっと権力集中型の王制で、カーンダックは奴隷制が破壊された後は混乱が続いて、この辺の設計というか考え方って、あんなんでいいの?

この辺の事情とか背景はどう描いたって(現代社会がそうだから)ぐだぐだになるに決まっているので、ぜんぶBlack Adamの覚醒を起点としたなにもかも巻き込まれ型のパニック・アクション  - 要はモンスター・ムーヴィー - にしちゃえば痛快で軽くなってよかったのに、なんか笑えない微妙なふうに薄まってしまったような。HawkmanとDoctor Fate (運命博士)の絡みなんてどーでもええし、別枠でやってくれ。

あと、今後もし彼とSupermanと喧嘩するならどこか別の星でやるように、JLもJSAも全力で説得してほしい。

あーそれにしてもWonder Woman 3がなー。MCUとトレードとかできればいいのに。

12.09.2022

[film] Salesman (1969)

11月27日、日曜日の午後、イメージフォーラムで見ました。
ダイレクト・シネマ・ドキュメンタリーの先駆とか古典とか言われている作品。
監督はAlbert MayslesとDavid Mayslesの兄弟にCharlotte Zwerinの3人。

シカゴに本拠を置くMid-American Bible Companyから派遣されて、車で住居を一軒一軒回って聖書を販売していく4人のセールスマンの姿を追っていく。

4人はネクタイを締めたスーツ姿で、"The Badger"、"The Gipper"、"The Rabbit"、"The Bull"と呼ばれて、みんなでモーテルに寝泊まりして、その日の営業成績についてうだうだ言い合いながらニューイングランドからフロリダまで売り子の旅を続けていく。

ターゲットになるのは低所得層が暮らす地域のぺったんこの一戸建てが並ぶ一角で、ベルを鳴らしても出てこないか、出てきてもどんよりだったり、家に入れてくれて話をさせて貰っても買う気なしお金なしやる気なしだったり当然いろいろあって、売る側は仕込まれた売る技術を駆使してがんばるのだがうまくいかないことの方が当然多い。

各家庭の訪問時には撮影する許可を貰ってからAlbertがカメラを、Davidが録音を担当して、持ち帰った膨大な量のフィルムをDavidとCharlotteが編集した、と。

4人の朝から晩まで、売り子である彼らの表情や発する言葉に受ける言葉、訪問される家の様子や愚痴や倦怠、それらを見ていると神の聖なるメディアであるバイブルが取引される場のそれには到底見えなくて、この「商品」がゴム紐や切手であっても変わらないし、この場で突然ちゃぶ台がひっくり返されて凄惨な銃撃戦や殴りあいが勃発しても驚かない、そんな微妙なテンションで描かれる訪問販売の現場が、実は作り物でもなんでもない - と思わせるところが肝なのだが - そういう世界は、こんなところにこんなふうに転がっているのだ、21世紀を生きる我々のまわりにも。

ストーリー的にはアイリッシュ系で”The Badger”のPaulがどこまでも諦めずにいろんな技を駆使して売り込もうとするも、地獄におちろ!としか言いようのない仕打ちを受けてずたずたぼろぼろにされていく - でもそれを見てもそんなにかわいそうには見えなくて笑ってしまったりして、どっちみち全員地獄に堕ちるんだわ、みたいなところにはまっていく -その辺がおもしろい。なんでこれがおもしろいんだろ? と考えさせるような世界の重箱の隅。

このおもしろさは半分捏造である、としたPauline Kaelとの論争もあったくらい。映画批評の足場も揺るがしてきそうなやつ。

同様におもしろくてやめられないとまらないのドキュメンタリー作家、Frederic Wisemanとの違い。どちらも膨大な量の素材を撮り貯めて、それを時間をかけて編集して練りあげていく、というスタイルは同じでも、Maysles兄弟の指向と対象はダイレクトに個人に向かうのに対し、Wisemanの関心はそれを覆う森 - 組織とか集団とか場所 - に向かう。同じ社会科学でも心理学と社会学の違い、くらいはあるかも。 だからMayslesのって、撮られている対象に自分が興味をもてないと、どうしても乗れないところがあったりするかも。

そして、その被写体が、映画だなんだ以上に最高におもしろくてたまんないのが ↓


Grey Gardens (1975)

↑ のに続けて同じ日に同じ場所で見ました。

むかしTVで見た(米国ではとてもポピュラーな作品)けど、映画館では初めて。
監督にはMaysles兄弟に加えてEllen HovdeとMuffie Meyerが加わって全部で4名。

Jacqueline Kennedy Onassisの叔母 - 要するにアメリカの旧家で名家で貴族の”Big Edie" と呼ばれるEdith Ewing Bouvier Bealeとその長女でLittle Edie" と呼ばれるEdith Bouvier Beale のふたりがイーストハンプトンのゴミ&ネコ&アライグマの屋敷で優雅に暮らしていて、そんな彼女たちの歌ったり悪態ついたりの堂々とした日々を追って揺るがない。

彼女たちは元はマンハッタンの76th & MadisonのThe Carlyle Hotel(ここの前のバス停で降りることが多かった。なつかしい)になるところに暮らしていて、一家は1923年にGrey Gardenを買って、Big Edieの結婚が破綻した後もそこに住んで、そこにLittle Edieが越してきて、とにかく”Salesman”がずっと渡ったり移動したりして暮らしているのと対照的に彼女たちはずーっとこの屋敷にいて、動かない。

世を捨てた没落貴族の母と娘の生活がどんなふうなのか、悲惨さなんて欠片もない痛快さがある。どれだけゴミに囲まれていても誇りと歌とユーモアがあれば生きていけるんだから、っていうのをべらんめえのNY英語で目の当たりにすると、どんなことだって怖くなくなる。

このふたりに関しては、ダイレクト・シネマがどうの、は通用しなくて(というかどうでもよくて)、誰がどう撮ったってああなってしまうのではないか。それくらい彼女たちは存在として飛び抜けていて、チャーミングで、強い。

あの名曲、Rufus Wainwrightの”Grey Gardens”の冒頭で引用されているライン;
"It's very difficult to keep the line between the past and the present. You know what I mean?"
線なんて引く必要があるのだろうか、って。

そして、着実にゴミ屋敷化している自分の部屋をこの年末にかけてどうにかしないと、本当にだめだ。英国からの箱でまだ開けていないのだってあるのだ(威張んな)。

12.08.2022

[film] Guillermo del Toro's Pinocchio (2022)

11月26日、土曜日の晩、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。
どうでもいいけど、「ヒューマントラスト」ぽいお話かも(嘘)。

Netflixでは9日から見れるようだが、これは映画館で見ないと、なやつだと思った。Guillermo del ToroとMark Gustafson- “Fantastic Mr. Fox” (2009) -の共同監督 + Jim Henson Companyによるストップアニメーション & ミュージカル。音楽はAlexandre Desplat(歌詞はRoeben KatzとGuillermo del Toroの共同)。

実写で多くのクリーチャー(のどちらかというと悲劇)を創造してきたGuillermo del Toroにとってこれが悲願の待望のプロジェクトだったこと、子供に向けられた教訓もの - 嘘をついたら鼻が伸びちゃうよとか – ではないことははじめから明白なのだった。約2時間はちょっと長いかもだけど。

原作はCarlo Collodiの”The Adventures of Pinocchio” (1883)で、舞台を(19世紀ではなく)ファシズム台頭期の1930年代のイタリアにしている。ついこないだ公開されたDisney - Robert Zemeckis – Tom Hanksの実写版の方は見ていない。

勤勉な大工のGeppetto (David Bradley)は息子のCarloと幸せに暮らしていたが、Carloは教会に「完璧な」松ぼっくりを取りに行ったところで空爆で亡くなってしまい、Geppettoが悲しみに暮れて酔っ払うなか、何かに取り憑かれたようにCarloの墓の傍らにあったでっかい松の樹から木彫りの人形を作って、これがPinocchio (Gregory Mann)になって、その一代記を旅するコオロギであるSebastian J. Cricket (Ewan McGregor)が弁士のように歌ったりナレーションしたりしていく。

やがて木彫りの人形は、翼をもった樹の精(Tilda Swinton)から命を貰って自分で勝手に動くようになり、同様にその姉であるDeath (やはりTilda Swinton)からはいくら死んでも死なないやり方を教わって、善悪の区別もなんにも知らないのでサーカス団のCount Volpe (Christoph Waltz)と手下のお猿(Cate Blanchett)の言われるままに騙されて地の果て海の底まで旅していく。

命を授かったPinocchioはテリブルな野生のガキで誰にも制御できなくて、周囲から変な目で見られてサーカスでサルと同列扱いになるのだが、ここに厳格な役人のPodesta (Ron Perlman)と忠実な息子のCandlewick (Finn Wolfhard)のきちんとした父子、更にその頂点に立つMussolini (Tom Kenny)が対比される(日本の戦時のにもそのまま適用可)。そんなPinocchioの上には爆撃された教会の木彫りのキリストがあって見下ろす。 これらの宗教や家族のありようの対置も、最後には生と死のそれに織り重ねられていく。

もうひとつは魂のこと。Geppettoの抜け殻になった魂を埋めるかのように樹人形の中に組み込まれる魂 – 更にPinocchioの中にはコオロギが住み込み、Pinocchioをのみこむ大魚(すてき)とかの果てのない命の入れ子構造 - があり、無垢と残酷さと狡猾さの間を何度も生きて死んでを繰り返し簡単には死なせてくれない。でもその反対側でGeppettoは亡くなって…

父子愛の話、というより、過剰な愛とその崩落が生みだした手製のモンスター/クリーチャーのお話、彼らは人の手によって、その欲望を満たすために造られたので死ぬことができない、でも造りだした本人(ここではGeppetto)は人間なので死ぬ、という決定的な溝と倒錯とそこに横たわるしょうもなさと、でもそれ故にそんな腐った人間どもは怪物となった君たちを愛するし必要とするのだ - ここにいてほしいよ、っていう。Guillermo del Toroの創作に向かうにあたっての宣言のような生真面目さ - よくもわるくも。

思い浮かべたのはやはりスピルバーグの“AI: Artificial Intelligence” (2001)だろうか。子を亡くした夫婦の愛の穴埋めとして持ってこられた機械がその持ち主から捨てられた後にたどる運命と孤独 – ずっと氷の底にひとり沈められていた彼にとっての「孤独」とは。

父と子、生と死、世界の果て、クリーチャーの呪縛に呪い(伸びる鼻)、こんなふうにいろんなテーマが盛大にぶち込まれ過ぎて魚のおなかの中みたいなカオスになっているところが賛否なのかもしれないが、これをクラシックの原作を使って木の人形劇にしたところはすばらしい。Pinocchioの木の造形と質感とかGeppettoの顔とか、あれ以外考えられないようなはまりようではないか。これが操り人形劇だったら.. ? とか少し考えている。

そしていつものようにちっとも売れそうにないけどよく聴くと実は名曲ばっかりのAlexandre Desplat の音楽と、それに乗って楽しそうに朗々と歌いまくるEwan McGregor – “Moulin Rouge!” (2001)以来では? - もとてもよい。Forceを使うコオロギにしてもよかったのに。

あと、海で巨大な海獣でもだしてくれたらよかったのになー。


12.07.2022

[film] EO (2022)

11月26日、土曜日の午後、東京都写真美術館のポーランド映画祭で見ました。

この日は裏でJonas Mekasの特集上映もあったのだが、どうしてもロバ映画を見たかった。

今年のカンヌでJury Prizeを獲って、来年のオスカーの国際長編映画部門でポーランド代表にもエントリーされていて、NY Times紙の今年のCritics Pollの一位にもなってしまったJerzy Skolimowskiの新作。脚本は彼の妻のEwa Piaskowskaとの共同、撮影は”Cold War” (2018)が印象的だったMichal Dymek。

“Au hasard Balthazar” (1966)-『バルタザールどこへ行く』を誰もが思い浮かべるだろうし、作る側も十分意識はしているのだろうが、あそこまでかなしーかんじはないので安心して。でもだからといって”Babe” (1995)のように見終わってかわいー! って満ち満ちてしまうようなものではもちろんなく、人間界の都合とか気ままな暴力に翻弄されて不条理に彷徨うロバの、そして誰にもちゃんと守ってもらえないロバの – つまりこれは力を持たない我々の物語としても見ることができて、“Essential Killing” (2010)の世界とも繋がっている。そもそもSkolimowskiがただのロバかわいー映画を撮るわけがないし、でもそういうとこにあんなロバを持ってくるなんてじじい〜 くらいは言いたくなる。

改めて「ロバ」って、馬や犬ほど人の友達になってくれないし(檻に入れられたEOの外を軽快に走っていく美しい馬の描写がある)、猫ほどアナーキーでもないし、食肉にもならないし、タフでスローな重労働に向いてて、鳴き声がそのまま名前になるくらいどうでもよくて、すべてが人間の都合でいいように利用されてきて、でも暴動もストもしない。 そんな彼らの孤独な目とキュートさが前面に出てくる。

冒頭、サーカスで真っ赤なばちばちのライティング(冒頭にWarningがでる)のなか、少女Kasandra (Sandra Drzymalska)と一緒に舞台で喝采をあびるEO(ぜんぶで6頭のロバが演じているらしいのだが、メインはTakoっていうロバだって。Takoと呼ばれるロバ..)は、彼女と一緒で幸せそうだったのに突然やってきた動物愛護団体から虐待容疑があるし虐待されてるから、って強制的に連れ出されて、そこから彼の放浪が始まる。

カメラはEOのクローズアップ(目と顔半分)が多いしロバ目線もあったりするのだが、使命感を抱いたロバが苦難の果てにKasandraの元に戻ったり終の棲み処を見出したり、そういうお話ではないの。むしろロバがそんなこと考えるわけないし、運命なんて信じてないし、とか、そのへんは一貫して徹底しているような。

ひとつは野生のも含めたいろんな動物たち - フクロウとかキツネとかカエルとかいろんな獣がうごめく夜の森の描写のなかに押し入ってくる軍の描写とか – との対比があり、もうひとつは先の見えない彷徨いのなかでEOが知り合ういろんな人間たちがいる。よい人もいれば危ない人もいてはらはらするのだが、印象的だったのは草サッカーをしているふたつの陣営があって、そこに立ち寄ったEOがたまたま勝った一方のチームに祭りあげられて、でもその晩、祝勝しているパブに殴りこんできた猛り狂う敵チームに言いがかりでぼこぼこにされてしまうとこ。 ほんと、ワールドカップもオリンピックも、あんなのいらないし早くなくなってほしい、って改めて思うし。 で、ここまで来ても、EOがそういう事態に嵌ってしまったのって、EOのせいだと思う? EOがロバだから? EOの努力が足らないとか? いう? (いろいろ)

で、そうやっていろんな人を見たり会ったり、暗い淵を覗いたりして、ポーランドからイタリアまで流れ着いた果てに、ようやくまともそうな修道院のひとに拾われたようで、今度こそああよかったねえ、となったところでそこにいきなりIsabelle Huppertが現れるので動揺する。 え? なに? くらい。

ここでどんなことが起こったのかについては書きませんけど、Isabelle HuppertはIsabelle Huppertっていう固有種か、宇宙人か、くらいのことは思って、映画としてのスケールもここで別の次元に突入したかのように見える – それが全体の構成とかバランスから見たらどうか、という議論はおそらく、あるのだろうが。

ああ我々もEOくらいの(不)器量と偶然でなんとかこの世を渡っていけますように、とか。

あと、ロバってやはり素敵で、パーフェクトなシェイプで、ロバが橋の上にただ立っているだけで見事な絵になるなー、って。


Chopin. Nie boję się ciemności (2021)

“EO”の前にみた58分の中編ドキュメンタリー。 
邦題は『ショパン 暗闇に囚われることなく』。英語題は”Chopin. A tale of three pianos” (でも画面上に表示されたタイトルはこれじゃなかった気が)

3人– シリアの、韓国の、ポーランドの、それぞれの事情や背景をもつピアニストが、レバノンのベイルートで、韓国では北朝鮮との国境付近の橋で、ポーランドではアウシュビッツの跡地で、ショパンを演奏するまで。各ピアニストの過去とその土地に対する思い、そしてショパンとピアノ演奏にかけるそれぞれの思いを語る。

そうだねえ、しかないのだが、できればもうちょっと、なんでショパンなのか?(スクリャービンとかジェフスキーとかではだめ?)とかを聞きたかったのと、演奏を切らないでもっときかせて! って思った。
 

12.05.2022

[film] All the Streets Are Silent: The Convergence of Hip Hop and Skateboarding (1987-1997) (2021)

11月23日、勤労感謝の日の晩、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。
邦題は『All the Streets Are Silent:ニューヨーク(1987-1997)ヒップホップとスケートボードの融合』。 2021年のTribeca Film Festivalでも上映されたドキュメンタリー。

80年代から90年代にかけての10年間くらい、NYのアンダーグラウンド・カルチャー(サブカルとか、そういう呼称はなかったような)がどんなふうに組成され、それが所謂「文化」のようなものとして認知されるに至ったのか。 WarholとかJean Michel Basquiatといった固有名ではなく”Downtown”とか“Street”で括らざるを得ない事態となっていた、そのありようをアーカイブ映像を中心に追っていく。

映画だと”Beats, Rhymes & Life: The Travels of A Tribe Called Quest” (2012)とか”mid90s” (2018)とか、New Museumでの2013年の展示 - “NYC 1993: Experimental Jet Set, Trash and No Star”(展示のカタログ)とか、参考資料のようなのが割とあるのと、自分が98年まであそこに住んでいたので、あんなところでー、のような関心は当然ある。

監督はJeremy Elkin、音楽はLarge Professor、ナレーションはEli Gesner。

話題の軸になるのは10th Ave.にあったナイトクラブ - Mars Barとコロンビア大学の地下で放送されていたラジオ番組 “The Stretch Armstrong and Bobbito Show”、これらに集まってたむろしにきたヒップホップ界隈の人たちとスケーターの人たちがなんとなく寄って「融合」して、そこから映画が生まれたりファッションブランドが生まれたりセレブが(以下略)

ヒップホップという粗い、ジャンルにもなっていなかったようなジャンルと、スケート、っていうそこらの道路を走っていくだけのスポーツにもなっていないようなジャンル - 明確な集団は形成されていないよう - がどうやったら「融合」しうるのか、それって、カリフォルニア・ミュージックとサーフィンがどう、とかロックと革ジャンバイク集団がどう、のようなのと同じなのか違うのか(単なるイメージの接合、なのかもしれないし)。

ここにはナレーションを担当したEli Gesnerたちが撮りためていた膨大なアーカイブ映像があって、モノクロだったり粗いカラーだったりする中にはこんな人が映っていた、あんな彼こんな彼女がこんなところに、という驚きがあり、それを当時の関係者の証言 - Yuki WatanabeとかMobyとか - が補完して、歴史的にすげえだろ、みたいなのまで示されているのだが、果たしてそれがなんだったのか、というところにまでは到達していない気が。

市長がEd KochからDavid Dinkinsだった時代、荒れ放題で荒廃したNYの治安に乗っかるのか隠れるのか、夜中にたむろして騒げる場所を探していた若者たちがばらばら集まってきて、そこでいきなりライムして名をあげるBusta RhymesやWu-Tang Clanなど - が出てきたり、Larry Clark/ Harmony Korineが映画”Kids” (1995)を撮ったらそれが当たってRosario Dawsonが出てきたり、そうやって集まった連中がTシャツを売ったりするようになってそこからブランドのSupremeがうまれたり。 ただこれって自然発生的に集まったり溜まったりしていったもので、「融合」をドライブする力とか特別な場とか人とか焦点があったようには、あんま見えないところがなー。いやそれでも、そうやってNYのヒップホップやスケートボード・カルチャーは生まれたのだ、と言われたらそうなんですねー、としか言いようがないけど。

荒れ放題になった次に、政権がクリントンになり、市長がRudy Giulianiになって警察を大量投入した街の浄化とかダウンタウンのgentrificationとかビジネス活性化がなされて、そこにうまくのることができた、というシナリオが個人的にはしっくりくるのだが、そこらへんの話はやはり出てこないし。

“All the Streets Are Silent”というタイトルはうまいなー、と思って。実際にこの「融合」(があったとしたら)は一般市民にはぜんぜん聞こえてこない遠くのどこかで起こっているようだった。Mars Barは名前は聞いていたけど、10th Aveの方もHouston st.より南も近寄ってはいけないエリア、と(駐在員には)強く言われていた。ので、音楽のライブに行くときには手ぶらで財布は持たず、ポケットにIDとカードと現金を分散して入れて、逃げられるようにしていたし、ブルックリンに行くのはBAM (Brooklyn Academy of Music)に行くときだけ、マンハッタンからの行き帰りは地下鉄ではなくてBAMBusっていう予約制のバスを使っていた(あーなつかし)。そういうのの裏でこんなのが、というのはわかるけど、それだけの、どこかの外国の話のようだし。

なーんか、かっこつけすぎだよね。みんな今はブランドでお金持ちになってよかったよかった、ってだけだし。

でもスケートはやってみたいな。もう20年くらいの片思いだけど。

12.03.2022

[film] 永遠に答えず (1957-58)

11月23日、勤労感謝の日にシネマヴェーラの特集『月丘夢路生誕100年記念 美しい人』で『青春篇』(1957)と『完結篇』(1958)を続けて見ました。

この特集では『月蝕』(1958)、『東京の人 前後篇』(1956)、これ、『夜の牙』 (1958)と見て、どれもおもしろくて「美しい人」しかない。『乳房よ永遠なれ』(1955)もこの作品群の間に置いて改めて見たかったなー。

斎藤豊吉の全国主要民放二十二局連続ラジオドラマが原作で、監督は西河克己。この特集で見た『東京の人』もそうだったけど、長尺で波乱万丈かき混ぜられメリーゴーランド式メロドラマの原型のようで、そういうののヒロインをやるときの月丘夢路の輝き具合ときたらとんでもない。

青春篇(1957)

伊豆の方をハイキングしていて足を痛めた由美子(月丘夢路)と出会った小峰(葉山良二)が東京に戻っても仲良くなって仲良くなりすぎてやばい交際をしていたら小峰に学徒出陣の招集がかかって駅のホームでのお別れの後、由美子は妊娠していることがわかり、小峰の子を産むのだが彼の戦死の報を聞いた叔母(小夜福子)はこの先大変になるから、と子供は亡くなったことにして裏で養子に出してしまう。

戦争が終わって、闇市の長屋で叔母とお汁粉屋をやりながら隣でおでん屋を営む源吉(大坂志郎)に助けられていると、叔母は地元のやくざの嫌がらせで痛めつけられて亡くなってしまう(亡くなる直前にあんたの子は実は生きている.. その子はいま… って(言わない)。そしてその子の素性は隠されたまま源吉のところに)。

由美子は旧友に請われてヘルプで通っていた日舞の稽古で小峰の戦友で家元の井崎(安井昌二)に惚れられて、でも彼には許嫁のあかね(浅丘ルリ子)がいて、それでも一緒に大舞台を踏んで恋仲になりそうになったところで実は生きていた小峰の名を聞き、まさかそんな、って死ぬ思いで彼の実家の塩釜にとんでいくと、彼と地元の市会議員の娘の結婚式が行われようとしていて、がーん、て。確かに衝撃だろうなー。

ここまでで、とにかくぜんぶのタイミングがぎりぎりのところ外れたり外されたり、これでもまだ序の口だから、って因果の泥沼が暗示されているのがたまんない。

あと、月丘夢路さまの舞いがとてつもなく美しいのでびっくりして、いちころで惚れる(のはわかった)。


完結篇(1958) - 「青春」が終わったらもう「完結」か、と。

井崎の許嫁のパパで洋画家の山根(小杉勇)が舞台での由美子の舞いが忘れられなくて彼女の消息を追ってみるとでっかいキャバレーの女給をやっているので、自分の絵のモデルとして彼女を自宅に招いて、そこからあかねの劇団の代役(また代役)で舞台出演の誘いが来て、劇の原作者で演出家の西島(水島道太郎)の劇団と九州公演に発って、そこで西島と近づいて彼の連れ子と遊んでいたら足を怪我して二度と踊れなくなってしまうのだが、それでもういいや、って西島と結婚することにする。

おでん屋から工場に転職していた源吉も怪我をして、彼の母親からいいかげんに所帯もてと言われて一緒になることにしたみつ子(稲垣美穂子)の実家に由美子の娘を預けることになるのだが、その娘が由美子の実の娘であること、青春篇の終わりで小峰があの後結婚しなかったことを知ると由美子に知らしめるべく九州に向かって…

ストーリー的にはどうなっちゃうのか? の嵐がぼうぼう吹き荒れて山場を迎えるその反対側で、だいたい同じような顔の男たちの間を玉突きのように行ったり来たり翻弄されるのに疲れちゃったでしょもう楽になっていいのよ、と見ているこちらも思うようになって、ああそれにしてもかわいそうな源吉 … って。

とにかく最後には雪の積もる塩釜で、ようやく本当の親子3人が会うことができて、ここまでの事情を娘にわかってもらうのは大変そうだな、って思いつつもああよかったよかったねえ、って涙を浮かべてしみじみするでしょ。でもこの先にあぜんぼーぜんの華厳の滝みたいのがあるんだよ。そして『永遠に答えず』の意味がはっきりするわけさ - なあ神さま、あんなの永遠に答えらんないわよね。

12.02.2022

[film] Les cinq diables (2022)

11月21日、月曜日の夕方、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。英語題は”The Five Devils” - 邦題は『ファイブ・デビルズ』。

新作ばかりを見るのが続くと、その慌しいかんじとか疲れ具合とか、って名画座で旧作を見るのと全く異なる気がするのは自分だけだろうか?

監督はArnaud Desplechinの”Ismael's Ghosts” (2017)やJacques Audiardの”Paris, 13th District” (2021)の脚本を書いていたLéa Mysius。 ポスターにある火柱に向かう女性たちとタイトルから魔女狩りみたいな話かと思ったが違った(いや、ひょっとしたらそんなに違わないのかも)。

山間にあるファイブ・デビルズという小さな町で水泳の先生をしているJoanne (Adèle Exarchopoulos)がいて、その横に小学生くらいの彼女の娘Vicky (Sally Dramé)がいる。教室が終わるとJoanneは湖に向かいVickyに脂のようなものを全身に塗ってもらってから20分経ったら教えて、と告げて湖に入っていって泳ぐ(ひー。冬っぽいのに)。Vickyはその脂の瓶にMom2とかラベルを貼っていて、家に戻ると彼女はいろんな匂いを瓶に詰めてコレクションしていて、ママが匂い当てクイズとかすると百発百中なのですごい嗅覚の持ち主であることがわかる。学校での彼女は髪の毛のことを「トイレブラシ」とか周りの子供たちから寄ってたかって虐められたり、ひとりぼっちなのでそんなことをしているのか/虐められたからそうなっちゃったのか、とにかくVickyはママの傍にずっと張りついている。

こんなふうにJoanneとVickyは仲良しだが彼女の夫でVickyの父Jimmy (Moustapha Mbengue)との関係はもう冷めていて、ある日彼が妹のJulia (Swala Emati)を連れてきて数日泊めると聞くと様子が更に変わって「やめて」と言っている。Juliaは刑務所から出てきて、しかも精神の病を患っていたようでJoanneとも過去になにかあったらしい。

やってきたJuliaはちょっとミステリアスで怖いかんじで、Vickyを見る目も少し変なかんじで、でもVickyがいつものようにJuliaの持ち物を寄せ集めて匂い瓶を作って嗅いでみると、そのままばたん、て昏倒して、気が付くと今とは違うどこか別の時間と場所にいるらしい。そこでVickyは明らかに若い頃のママとJuliaの姿を見て、若い頃のパパもそこにいたりして、JuliaはそこにVickyの姿を見ると驚いて声をあげたりする。

若い頃のJoanneとJuliaになにがあったのだろう? と興味をもったVickyが何度か匂いによって過去に潜るようなことを続けていくのと並行して、少し時間が経った今ではJoanneとJuliaは再会した時のとげとげしたかんじはなくなって少し近寄ってきたように見えるのと。

なぜVickyは叔母であるJuliaの匂いを嗅ぐと時間を遡って自分が生まれる前の世界に行ってしまうのか、なぜその場所でその時代なのか? なぜJuliaはVickyを見ると慄いてしまうのか? それらの問いは、自分はなんで生まれてきちゃったのか? はたして自分は生まれてきちゃってよかったのか? という問いになんとなく繋がっていくようなのがとても切ない。

JoanneとJuliaは愛しあっていた。それは誰にも自分たちにも止めることができないどうしようもないやつで、でもそれ故に孤立してしまって周囲に軋轢を生んで – "Love will tear us apart"のドラマが数年を経て家族にまで波及して、でもそれでも"Love"はなんとかそこに踏みとどまって手を延ばして再生しようとする。その鍵は大好きなあなたの匂いだったのか、って。くんくん。

偶然かもしれないけど、“Petite maman” (2021)-『秘密の森の、その向こう』で起こった不思議にとても近いような。ママの深い悲しみを感じ取った娘に見えてしまう、いや見えてしまうだけではなく、それに応えるかのように向こうからもやってくる何かがいる/ある。

フィルムで撮っているそうだが、画面の質感がとても素敵で、湖の冷たさ、Vickyのもしゃもしゃ髪、人が人を見つめて(嗅いで)ああその人だと思う、その場面場面が絵のように残る。撮影のPaul Guilhaumeさんて、脚本の方にも名前が入っているのだが、あまりそういうのってないような。でも言葉以上に表情の変遷がとても印象に残ることは確かかも。


12.01.2022

[film] The Menu (2022)

11月20日、日曜日の午後、シネクイントで見ました。

孤島にあるイノベーティヴ系のガストロノミーにがんばって予約を入れたり会社の経費で入れたりフード・クリティックだったりの人々が船に乗ってディナーに訪れて、そこで経験するめくるめく饗宴と狂乱と。 ホラー、なのかもしれないが、コメディのようにも見ることができる。 プロデューサーにはAdam McKayとWill Ferrellの名前があるので、なるほどー、って。

ディナーに臨むほうは、軽くひとり$2000くらいかかるやつなのでぜったいにすごい経験にしようと気合をいれてやってくるし、ディナーを供するほうは、これまでに培った評判と名声と期待に応えるべく、パーフェクトでラグジュアリーな経験とサービスを惜しみなく一糸乱れぬフォーメーションでこれでもか、って見せつけようってがんばる。

この全体の絵図がなんとなく変なものであること、しかもその両者を挟んだ中心にあるのが、すごい色だったり形だったり煙を吐いていたり膨らんだり縮んだりスポイトや実験器具で食べたり、「イノベーテイヴ」だったり「フュージョン」だったり「バイオ」なんとかだったりの想像をはるかに超えた「プレゼンテーション」とか「味覚体験」だったりして、それを戴いたからといって角だの羽だのが生えたりするわけでもなく、お腹はたぶんいっぱいになるけど、翌日にはそれもへっこんで、なんか慣れないもの食べたなー ってお茶漬けをかっこんでいそうな - ネガティブに見てしまえば。

さらにシニカルに見てしまうと、ここでの「美食」とサービス体験のためにあちこちにものすごいストレスが掛かったり統制がしかれているはずで、それらは実際のレストランなどでも既に報告されていたりするし、こないだの”Boiling Point” (2021)にも描かれていたとても不健康なやつだと思うし。 そこまでしてやる?.. というものではないか。人によっては。

映画は、レストラン”Hawthorne”を仕切るオーナーシェフ – 多くの部下を従えた絶対的権力者 - Julian (Ralph Fiennes)のところにお食事にきたTyler (Nicholas Hoult)とMargot (Anya Taylor-Joy) - 彼女は当初予定していた相手ではなかったことが明らかになる - カップル、その他、俳優とか批評家とかビジネスマンとか一癖二癖の客たちがアミューズブーシュから始まるコースのひとつひとつを戴きながら想像もしていなかったとんでもない目にあっていく、痛そうなのもあるのだがそれがあんまし怖くはなくてどこかおかしいのはどういうことなのだろう。

なんか、そういうところに来るひとは主-従関係に浸りにくる、というのもあるのではないか。 医者とおなじでシェフはさじ加減ひとつで簡単に人を殺すことができる、そういうパワーをもった人に高いお金を払って船に乗って会いに行く、その滑稽さがまずあって、そこで変なの、って笑ってしまうとRalph Fiennesの挙動ひとつひとつがおかしくてたまんなくなって、「おいしくないから帰るわ」ってたったひとり彼と対峙するAnya Taylor-Joyの不良っぽさが素敵に光ってしまうのと、最後は思ったとおりのあーあーになってしまうのと。

欲をいえば料理一皿一皿をもっとちゃんと見せてほしかったかも。イノベーテイヴだなんだと能書きたっぷりであるからには、どんな食材(or 非食材)をどんな器具だの装置だので加工したりフュージョンさせたりして、なにが/だから/どうしておいしいと言えるのか、を説明してほしいしそこにシェフの圧が加わると道端の馬糞だっておいしくなるよな、って(昔のスネークマン・ショウのネタにあったむしゃむしゃ食べるあれを映像でやってほしかった)

終盤にでてくる、作っているところが見れるチーズバーガー、どうしても”Chef” (2014)のグリルドチーズサンドが浮かんできてしまう。映画の方向としては正反対の両者であるが、後者の方がよりおいしそうに見えたかも。

(料理のコンサルタントはDominique Crenn - 彼女はSFのLuceにいた人なのね)

ああいう(イノベーティブな)のって本当においしいのか、(広義の)味覚の未知の/無意識の領域を開拓しているのかもだけど、確証は持てないし開拓したからなんぼのもんやねんー、って。結局肥えた貴族の道楽にしかならなくて、そう思ってしまえばあの結末はあれでよいのかも。
 
こんなふうにものすごくあれこれ広げていけそうなネタはいっぱいあるのにちょっと変てこなサスペンスホラーのようなとこで終わってしまったのは勿体なかったかもー。

自分の経験したレストランでの恐怖、というと90年代のDanielとかBouleyでの延々終わらないデザート攻め、というのがあって、もうお腹いっぱいなのに次々と、5皿とか7皿とか出てくるの。負けたくない(なにに?)しおいしいので食べてしまうのだが、Danielのときは食べ終わったら午前1時過ぎてお腹ぱんぱんで動けなかった。 あんなのもうできないわ。
 

[film] November (2017)

もう行ってしまった11月。 11月20日、日曜日の昼、イメージフォーラムで見ました。
これの前に見た『恋人はアンバー』からのギャップ.. はないこともないけど、いいの。

原作はAndrus Kivirähkの2000年の小説”Rehepapp ehk November” - 英訳すると"Old Barny aka November"、監督はエストニアの69年生まれのRainer Sarnet。2018年のアカデミー賞の外国語映画部門のエストニア代表に選ばれている。

きれいなモノクロで、このあいだ見た”Marketa Lazarová” (1967)のように雪と狼が出てきて、また寒くて暗くて人の顔とかよくわかんない世界か、と思っていると傘の骨みたいなのが勝手に動いてチェーンを引き摺りながらヘリコプターのようにゆっくり飛んでいって、牛小屋に入って牛と向き合い - 牛を殺さないでー と思ったらその牛をぶら下げて飛んで村人? のところに連れて戻ると、そいつは「仕事をくれ」とかいう。

これが“Kraat” – クラット – 使い魔と呼ばれるジャンクな精霊みたいなので、人々にこき使われているなにかのお使いのようなやつで、これを操るためには悪魔と取引が必要とか。あとは11月は死者が戻ってくる月なのでみんなで着飾って待っていると真っ白い人たちが大量に現れてそれぞれの家の中に入ってみんなで食事をして、家の宝がきちんと保管されているかを確認したりする。結構ずうずうしそうな死者たちで、こちらのお盆にやってくる方々とはやはり違う。

村の娘Lina (Rea Lest)もその晩、そうやって亡くなった母と会う。彼女は村の青年Hans (Jörgen Liik)を好きなのだが、Hansは村外れの丘の上の邸宅に暮らすドイツ男爵の娘(Katariina Unt)のことが好きで、LinaはHansにこっちを見てもらうために床下の家宝を盗んで悪魔と取引したり、館からドレスを盗んできたり、でもLinaのところにはでっかい年をとった髭男が求婚してきてぐへへ、とか言っていて、Linaは男爵の娘を殺そうと思うのだが月夜の彼女が美しすぎてできなくて…

ストーリーとしてはこれくらい。メカニカルにぎくしゃくしたクラットを動かしているなにか、先祖や精霊や伝染病がどこかからかわるがわるやってきて人々は雪とか泥にまみれて祈ったり沈んだりしながらその相手をしていて、丘の上のお屋敷に暮らす貴族は召使いたちも含めてどこかしら狂っていて、登場人物たちはこれくらい。

どちらかというとエストニアの神話が元になっているらしいクラットとか死者や災厄や悪魔がふつうにそこらにいて取引したりする、そんな民間伝承のようなところが映像として展開されていて、その世界まるごとのおどろおどろの暗く禍々しい確かさ(スローで冷たい怖さ)などを見渡して異教の地だ異世界だあ、になればよいのかと思われる程度、できればそこにLinaとHansの11月の恋物語 - 悲恋とまではいかない - が絡まって人間と魔界との、あるいは人の世界の身分を超えた情念が絡まってスパークしてくれたら申し分なかったのだが、そこまでは行かずにひとつの村世界、そこの11月のエピソードのようなところに留まってしまったのはややもったいなかったかも。魔法を使ったり化け物を出して、とまでは言わないけど。

それでも、ゲゲゲの鬼太郎がいなくても水木しげるの世界が十分魅力的なのと同じように、テリー・ギリアムとかブラザーズ・クエイとかヤン・シュヴァンクマイエルの世界がストーリーどうこうよりまず事物の動きなどが楽しかったりするのと同じように、モノクロでやや湿っぽい11月の村は魅力的なのだった。モノクロの明彩は少しきれいすぎる気もするけど、CG使っていなさそうなのはよいかんじだし。

でもあえて言うなら、この隔絶された異界に対する異物感とか、これはなに?なにが起こっているの? の混沌に対する恐怖や混乱がもう少し滲んだりじわじわ来てもよかったのではないか。ちょっと魔物に言われたり宣言された通り円滑にコトが運びすぎる気がして、見て追っていけばわかるのだがそういうものなのかなあ、って。撮ったのを見ているこちら側には絶対に来ない、そういう安心感の元で作られている気がして、もっとめちゃくちゃでわけわかんなくした方が盛りあがると思ったのだった。

11.28.2022

[film] Dating Amber (2020)

11月20日、日曜日の午前、Tohoシネマズ新宿で見ました。

『恋人はアンバー』。日本の宣伝ポスターのコピーが問題(ほんと問題だわいつまでたっても)になって修正された、だからこそこういうのはひとりでも多く見に行かないと、って思ってしまうやつ。

1995年、アイルランドのキルデア州で、軍隊のばりばりマッチョな父に育てられたEddie (Fionn O'Shea) - 最初のほうであんたBlurのメンバーに似てるね、って言われてる。DrumsのDaveかな - は、父を失望させたくないし一人前の男子として見てほしいし、って卒業したら軍隊に行こうと思っているが、自分がゲイであることも直視したくないけど自覚していて、学校の先生とかにぼーっと憧れつつ、どちらかというとなんで女子に近づこうとしないんだ? なよなよしてて怪しいぞ、っていう同級生男子たちからの虐めとか同調圧にどう対応すべきか、のほうに苦慮している。

Amber (Lola Petticrew)は父を自殺で失ってから、母とふたりで暮らしながら母の所有するトレイラーハウスを学内のカップルに時間いくらで貸して稼いだお金を缶からに貯めていて、将来はそれを元手にロンドンにパンクでアナーキーでインディペンデントな書店(よいなー)を開くことを夢みている。AmberはEddieよりは大人で、現実的に自分がレズビアンであること、そこに立って自分の夢や将来をどう作っていくのかについて十分自覚的なのだが、目の前で派手に転んでひとりで頭を掻いたりしている哀れなEddieを見ていられなくなり、ふたりが男女のカップルとしてオープンに付きあうことで親も含めた周囲をだましてやり過ごせるのではないか、その方が楽だったりしないか、ってEddieに提案すると彼もこれに同意する。(アイルランドではこの2年前 - 1993年まで同性愛は違法とされていた)

そうしてふたりで学内を「カップル」として練り歩いたり、むりやりキスしてみたり、ダブリンまで列車で旅をして夜のクラブでそれまで自分の知らなかったドラァグクイーンとかいろんな人たちを目の当たりにしてバカ騒ぎをして、ここでAmberはSarah (Lauryn Canny)と出会ってときめいて自分の進む道に手ごたえを掴むのだが、その横にいるEddieはクラブで騒いだ後、自分の進路(軍隊行き)とかこれからやっていける自信のようなのとかが足下が揺らいで見えなくなってしまい、Amberの手も吹っ切って前以上にぐだぐだの支離滅裂になっていく。

ふたりの怪しく危なっかしいカップル仕草が巻き起こすどたばたをコミカルに描いて、そこからみんなが納得して安心するカミングアウトやパートナーとか家族の理解へー という方に簡単には向かわないところはよくて、Amberはそんなやつに構っている暇はないし、ってEddieとのうそ関係を解消するのだが、Eddieは自信も自分も見失ってだんごになっていって、やがて軍に入隊する日が近づいてきてこのままでいいのかって、でも荷作りを始めて。

“The Breakfast Club” (1985)的に親子や周囲との溝をひと騒ぎの後に埋めて旅立つ、そういうおめでたさは(よくもわるくもJohn Hughes的な父はいない。母は少し)なくて、個々の傷や痛みを見つめながらどうしたもんか.. ってまっすぐ真面目に悩んでいる(90年代..?)のはわかるし、悪くないと思うのだが、でも最後にAmberが貯めていたお金をEddieに渡してほれ持って行ってきなー、って発たせてあげるのはやっぱりやりすぎだと思った。彼のお母さんがやるならまだわかるけど、AmberにはAmberの夢があるのだしSarahと一緒にロンドンに行く、のが筋ではないのか。監督は留まる者と去る者、の対照を描きたかったらしいけど。

英国の田舎のような位置づけとしてあるアイルランドの、そのまたさらに地方で自身のセクシュアリティやクィアネスに向き合って、家族や学校と日々折り合いをつけていくことのしんどさを男女の青春映画としてきちんと描こうとした作品だと思うので、あそこだけ残念だったかも。 ほんとならAmberがEddieにおまえもついでに来い! って彼の手を引っ張ってロンドンに強奪し、あとは”Empire Records” (1995) みたいになるの - 95年だし、あの舞台はアメリカだけど。

音楽、あの頃ならもうちょっといろいろできたのではないかー。

[film] Where the Crawdads Sing (2022)

11月19日、土曜日の午後、Tohoシネマズ新宿で見ました。
邦題は『ザリガニの鳴くところ』。Delia Owensによる同名ベストセラー小説 (2019)は読んでいない。

製作にはブッククラブで原作本を紹介したReese Witherspoonの名前があり、脚色には”Beasts of the Southern Wild” (2012)のLucy Alibar、書き下ろしの主題歌をTaylor Swiftが歌っている。

1969年、ノースカロライナのBarkley Coveという湿地帯のある小さな町で、Chase Anderson (Harris Dickinson)という地元の少し金持ちであまり評判のよくなかった若者が櫓の上から落ちて死んでいるのが発見される。争った形跡も襲われた痕跡もなく第三者の怪しい指紋などもなく、酔っぱらって落ちた可能性も否定できないのに、警察は昔からここにいて世捨て人のような暮らしをして地元民から”Marsh Girl” - 沼女 - って呼ばれている24歳のKya (Daisy Edgar-Jones)を容疑者として拘束して裁判にかける。

映画は、Kyaを子供の頃から見て知っている弁護士のTom (David Strathairn)が弁護にたつ裁判の経過を追いながら、並行してKyaの幼年期からここに来るまでのことを辿っていく。

アル中でDVの父(Garrett Dillahunt)に愛想をつかして母(Ahna O’Reilly)が家を出ていって、それを追うようにふたりいた兄もいなくなり、幼いKya (Jojo Regina) はひとりで父の下で面倒を見なければならなくなり、学校も虐められるので行かなくなって、たまに助けてくれるのは買い物に行く先の雑貨屋のJumpin’ (Sterling Macer, Jr)とMabel (Michael Hyatt)の夫婦くらい、そのうち父親もどこかに消えてなくなり、なのでたった一人で、読み書きもできないまま大きくなる。

少し大きくなったKyaに近所のやさしそうな青年Tate (Taylor John Smith)が寄ってきて読み書きとかいろいろ教えてくれるようになり、初めての恋につながるのだが、進学で町を出ることになった彼は約束していた独立記念日になっても戻ってこなくて、Kyaの初めての恋は消えて、でも彼に貰った出版社のリストにずっと描いてきた動植物のスケッチを送ったら出版しないか、と言ってきたのでその契約金で生活のあてはできる。

そして続いて現れたのがChaseで、初めはやさしいふうだったのにじつは性格わるいし実は婚約してるしで、そこに突然Tateが戻ってきた - ばかばか、と思った頃にこの事件が。

ストーリーの軸は映画のほとんどを占めるChaseの死の真相を捌いて掘っていく裁判でもなく、KyaとTateのなんとなく“The Notebook” (2004)を思わせる - 水にはまってしがみつくようにキスをしているのを見るとつい - 「純愛」にあるのでもなく、蒸発した母がやばくなったら「ザリガニの鳴くところ」に逃げなさいとKyaに教えていたその場所 – どこと明示はされないが湿地帯の奥深くにあるであろう穴蔵のような隠れ家のような場所に向かっていくように思われた。

ただ映画で描かれる湿地帯 - Kyaが生きることのできるザリガニの鳴くところが、BBCのドキュメンタリーに出てきそうなくらい絵に描いた楽園のようにきれいに描かれているのと、あとはMarsh Girlと呼ばれたKyaは、父親がいなくなった後、ひとりでどうやって生活して成長できたのだろう、って。人と関わらず読み書きができない状態で「野生の少年」にもならず、ああいう町であれば棄てられた子はふつう保護観察下におかれると思うのだがそれもなく、スナフキンみたいなまま20歳過ぎまで.. ?

そういうところも含めて、この作品はあの土地と少女のありようを巡る軽いファンタジーのように見るのが正しいのでは、と思うのだがやはり原作を読んだほうがよいのかしら。全体としてキャラクターの善悪があまりにクリアにわかりやすく分かれているのがなー。沼のどろどろがいいとは言わんけど、このテーマと領域ならテネシー・ウィリアムズ的ななにかとか、その端っこくらいは感じさせてほしかったかも。

そんななか、最後に聞こえてくるTaylor Swiftによる主題歌 - ”Carolina”が沼にほんとうに足を踏み入れてしまったかのような生生しさで迫ってくる。何度も何度も繰り返される”And you didn't see me here - They never did see me here”  というフレーズの強いこと。

あとはKyaを演じたDaisy Edgar-Jonesもすばらしかった。TVシリーズの”Normal People” (2020)では、今回とは逆のお金持ちの令嬢 - でもやはり親とは切り離されていて、相手役の男子の方が貧しい母子家庭 - を演じていたが、一見弱そうに見えて実はひとりであることを貫いてびくともしない強さとしなやかさを、なめてかかってくる連中にさらりとかましてみせるかっこよさときたら。

11.25.2022

[film] Recalled (2021)

11月19日、土曜日の昼、シネマート新宿で見ました。
邦題は『君だけが知らない』、ハングルでは” 내일의 기억” – 英訳すると”Memories of Tomorrow”。この邦題、いいよね。 監督のソ・ユミン Seo Yoo-minはこれが長編デビュー作となるそう。

最後に急展開とかどんでんがあるわけではなく時間経過と共に明らかになっていくやつ、なのでふつうに書いていったらなにかバラかしているかも。なかなかおもしろかった。

病院のベッドでスジン(ソ・イェジ Seo Yea-ji)が目を覚ますと、ジフン(キム・ガンウ Kim Kang-woo)が涙を流しながらよかった.. って言ってて、見るからに弱って痛々しいスジンは病院行きのもとになった怪我かなにかで記憶を失っているか混濁している - ということを自分でもわかっている。

起きたときに傍にいたジフンがおそらく自分の夫、そんな彼が当然のように車で連れて帰ってくれた先が彼女たち夫婦の家(モダンなニュータウンの一角)、なのか? と見ている方も思いつつ、家に戻ったスジンのフラッシュバックなのかデジャヴなのかひょっとしたら実際に起こっていることなのかの区別がつかない/つけられない事態とパニックが続いて(退院できる状態だったとは思えない…) そのどのひとつもストーリーに落としこめるほど信用できるものではないが、スジンの経験した事故がとても怖く深く彼女の過去に根をはったものであることはわかる。

他方でジフンは夫婦でカナダへの移住の準備を進めているらしく、ビザ申請に行った大使館でのジフンの急いでいる様子とか、スジンが描いたという夕陽でまっかに染まった湖(カナダにある)の絵をみせたり、でもこんな新築ニュータウンのようなところに入ったばかりのようなのにもう移住するのか/できるのか、とか。

もうひとつは建築資材の盗難(のふり?)事件を追う2人の刑事と、そこの監視カメラに車で立ち去るジフンの顔が映っていて、更にジフンの建築関係の会社が傾いてやばそうであること、などがわかってくる。 流れとしては普通にジフンが怪しいと思うしそういう動きをしているし、おそらく本当の夫ではないなりすましで、でも単にスジンになにか悪いことをするために近づいているのでもなさそうなー。 (ここまでにする)

それが自分の記憶なのかどうかはあてにならなくて、見えているもの、浮かんでくるものは幻覚のようなものかもしれないことがわかっていても、そこに傷や痛みや危機 - 自分だけでなく小さな女の子とかの - が見えてしまうので、スジンは懸命にいろいろ動いて引っかき回しているとそれに跳ね返るように「事実」 - 男たちの顔が浮かんだりやってきたりしてきて、それらの点と線と時間軸が繋がっていく気持ちよさというか(事件の)気持ちわるさというかがー。

自分に見えていることは他人には見えない – これは当然として、ここでは自分の過去が自分のものではなくなっていること、それを知って握っている他人が自分(の過去)をきちんと知らせないままでいることの恐怖があって、この蓋をされたような恐怖もまた他人に伝わるものではない、と – 『君だけが知らない』ままにしておいたことには理由があった、けどどっちみち傷は開いてしまう。あのときスジンが偶然同窓生に会わなければどうなっていただろうか? あのままカナダに渡ってなにも起こらなかったかのように過ごすことと、この結末に向かうこと、どちらがー。

この辺の記憶(を自分が持てないこと、自分のを他人が持っていること、変わってしまうこと/消えてしまうこと)にまつわる恐怖とか強迫観念とか、最近いろんなところで大きくなってきているような気がしてなんなのだろうか、って。歴史修正主義のああいうのとなにか。

あとは舞台となったマンション - 日本だったら団地 – のエレベーターとかフロアに並ぶドアとかの誰もが知っていそうな配列、毎日見ている - どこかで見ているいろんな人の出入りのもたらす眩暈とか。 それが廃墟となった同様の建物に埋め込まれていたなにかによって揺さぶられて真実が..  というあたり。

11.24.2022

[film] Mrs. Harris Goes to Paris (2022)

11月18日、金曜日の晩、109シネマズ二子玉川で見ました。『ミセス・ハリス、パリへ行く』。
原作はPaul Gallicoの小説”Mrs. 'Arris Goes to Paris” (1958) – 英国でのタイトルは“Flowers for Mrs Harris”。

1957年のロンドン、バタシーの辺りで掃除婦 – 契約している家に通ってお掃除してまわる仕事 – をしているAda Harris (Lesley Manville)がいて、戦争に行ったきり戻ってこない夫を待ちながら仕事仲間のVi (Ellen Thomas)や飲み仲間のArchie (Jason Isaacs)と毎日慎ましく楽しく暮らしていて、ある日掃除する先のけちなお金持ちLady Dant (Anna Chancellor)のクローゼットにある豪華なドレスを見せられてぽーっとなり、これがほしい! とパリに行くためのお金を貯めようと思って、ドッグレースに大金を賭けたり(大負けしたけど実は)、夫の戦死の通知と共に遺族年金が… とかあって、現金を握りしめて初めてのパリに飛ぶことになる。

駅で寝泊りしているおじさんたち(よい人たち)に聞いてHouse of Dior – あの、50年代のDiorだよ! に着いて、オートクチュールのお披露目商談会に入ろうとしたところで門番のように冷酷な支配人Claudine (Isabelle Huppert) - “Phantom Thread” (2017)でLesley Manvilleが演じていた役柄 - に止められて招待状もなにもないなら入れないよって意地悪されるのだが、その場にいた公爵Marquis de Chassange (Lambert Wilson)に入れてもらって、次々に出てくるモデルさんの纏うドレスにぽーっとなりつつ欲しいドレスの番号を紙に書いて(あんなのぜったい決められない)でもやはり隣の金持ちに意地悪されて一番ほしかったドレスは落とせなかったけど、札束をちらつかせたのが効いたのかアトリエで採寸しましょう、って言われてやったー、になる。

でも宿もなにもない状態で採寸に通ったりどうするの? になると、そこにいた会計担当のAndré (Lucas Bravo)とモデルのNatasha (Alba Baptista)に助けてもらって(Andréのアパートに泊まる)、公爵は晩にディナーに誘ってくれて、夢のような時間を過ごすのだが、横からClaudineのいじわるがちょこちょこ入ったり、公爵の貴族目線に失望したり、Dior本人に直談判までしたりして、天国、というほどでもない。でもパリの(パリも外国も初めての)イギリス人が体験する初めての異文化、ということではよいことわるいこと含めてとても楽しい滞在記となる - 誰にとっても心当たりありそうな素敵な旅の思い出が。

こうして英国に戻ったAdaのところにドレスが届いて、でもそれを有名になりたくて泣きながら困っていたパーティガールに一晩貸してあげたら…  

どこまでもお人好しでお節介好きで、でも変に頑なだし頑固だし、自分の愛するかわいい英国人の典型のようなMrs. Harrisの行状記として、Adaの全身満面の笑顔いっぱつでとにかくハッピーになれることは確か、なのでとても好き。みんなに見てほしい。

50年代後半のパリ、街角ではストとか労働争議も盛んで汚れて荒んでいるし、ずっとサルトルを読んでいるNatashaはAndréと「即自」と「対自」について議論していたり、Adaのいる英国では(この映画のなかでは出てこないけど)Kitchen sink realismが立ちあがりつつあった頃、オートクチュール的な華やかな文化はどんなふうに受けとめられたり共存しようとしていたのか、たぶんこんなふうだったのでは、というのがふわふわしていない、ただの夢物語でないかたちで示されているような。最後のほうに出てくるClaudineの自宅とかもまた。

どんなに生活が苦しくても大切な人を失っても歳をとっても、きれいなものは断固として見たいし触れたいし、その思いを妨げるのは許さないんだからな、ってAdaは全身で訴えてくる。そういうものを目の前で見て触れて、手を延ばしてみること、その出会いの瞬間の電撃 - あの感覚だけはいつまでもとっておきたいな、って。 あーだからNYに、ロンドンに、パリに、行きたい。 いまの東京って機会も含めてそういうのが失われすぎてて−

それにしてもLesley Manvilleさんのすばらしいこと。幸せを全身で呼吸するときの彼女の笑みときたらその向こうにある過去の悲しみや辛さをも際どい数ミリの薄皮で見せてくれる、そういうやつで、英国の女優さんてほんとこういうのがうまいなー、って。Sally Hawkinsさんとかもそういうとこある。 (Isabelle Huppertさんとか、フランスの方はその真逆でぜったいに裏面を見せない見せるもんか、としている感覚があったりしない?)

11.23.2022

[film] 愛の世界 山猫とみの話 (1943)

11月17日、木曜日の晩、国立映画アーカイブの『東宝の90年 モダンと革新の映画史(2)』更に企画展示との連動小特集 – 「脚本家 黒澤明」で見ました。

監督は青柳信雄、原作は坪田譲治・佐藤春夫・富澤有為男でこれを如月敏、黒川慎(黒澤明)が脚色、特殊撮影が円谷英二、演出助手に市川崑。

猫の話なら絶対みるので山猫の話かと思ってチケット取ったら違った(山猫と「み」の話だったらよかったのにな)..

冒頭のナレーションで、「すべての子供は国のもの」「子供を守ることは国を守ることだ」のようなことを堂々と言われるのでそれだけでげろげろ、って逃げたくなる。

曲馬団で雑巾のように虐待されていたところを少女たちの更生施設に連れてこられた16歳のとみ(高峰秀子)は少女たちの間に入っても一切喋らず馴染めなくて虐められてばかりで、施設の所長(菅井一郎)さんもとみを連れてきた山田先生(里見藍子)も心配して見守るのだがとみは一方的に虐められてばかりで、そのうち彼女を庇おうとした山田先生を攻撃した生徒をぶんなぐったとみは山の方に走り去って消えてしまう。ここまでが前半。

山のなかでたったひとりで過ごす一晩の孤独と恐怖が円谷英二の特撮でたっぷり描かれたあと、翌日お腹が減って彷徨っているときに見つけた山小屋のような家の中にあったお粥をたまらずかっこんでいるとそこに住んでいるらしい勘一(小高つとむ)と幹二(加藤清司)の兄弟に見つかって、彼らの父の松次郎(新藤英太郎)が熊撃ちに行ったまま戻ってこないというので、固まって暮すことにして、ご飯を作って食べて、襲ってくる嵐の晩 - 特撮再び - には3人一緒に耐えたり、ここで初めてとみが喋る声を聞く。

でもそのうち家に蓄えておいた米もなくなったので、とみは人里に出て民家から食べ物を盗んで持ち去るようになり、その姿を目撃した村人から「山猫」って呼ばれて噂になってくると、山田先生はそれがとみのことではないか、って気になりはじめて、そのうち松次郎がひょっこり山から戻ってくると(なにやってたんだよおまえ)子供たちをケアして守ってくれたとみのことを村人たちと一緒に銃を持って追いかけ始めて(ほんとさあーなにしてんの? ひどすぎ)、走っていくとみに発砲したりして、とみの運命やいかに…

作りようによっては『冬の旅』にできたかもしれない、無頼の目をもつ高峰秀子の疾走はFlorence Pughのと同じくらいすばらしい。

プログラムの説明には『敬愛するドストエフスキーの『虐げられた人びと』の影響』とか書いてあるのだがほんとかよー、しかない。虐げる人びとの気持ち悪さしか見えてこないわ。

子供たちに「おまえはおれのもの」って宣言した上で隅に追いやったり放置したり虐待したり追いかけたりやりたい放題やって、指摘されたら頭ぽりぽりして「ごめんー」だけとか、こんなののタイトルが『愛の世界』ってどういうこと? (西海岸だとこれが”Don't Worry Darling”になるのか) こんなのもろDVの論理に原理だし、それが変わらないままずっとふんぞり返っているにっぽん。


11月1日に同じ特集で同じ年の『ハナ子さん』(1943)を - 監督がマキノ正博でミュージカル仕立てだというので - 見たのだが、これはコメディだったけどやはりきつかった。産めよ殖やせよ〜 隣組でがんばろう〜 のりきろう〜 のなにがきついかって、こんな朗らかな笑顔でふるまう共同体から送り出された兵隊がそういうのを背負って平気で殺し合いをやってしまえること、殺せば同じ笑顔で讃えられること。 そしてこちらの方も反省はまったくなく、沸き出しても隠蔽したり改竄したり変わるつもりなんて一ミリもない。日本サッカー協会の会長の発言とかだって、自分でもどこが問題なのかおそらくちっともわかってないグロさ。こーんなに気持ちわるい大会ないわ。


こないだのKeith Leveneから一ヶ月もたたないのにWilko Johnsonまで逝ってしまった..  RIP.

11.21.2022

[film] Don't Worry Darling (2022)

11月16日、水曜日の晩、ヒューマントラストシネマの有楽町で見ました。

監督はデビュー作の”Booksmart” (2019)がすばらしかったOlivia Wilde。脚本も同作を書いていたKatie Silberman。

いつの時代のことかは明記されないが、カリフォルニアの砂漠の真ん中だか端っこだかに会社の名前 – Victoryを冠した計画された住宅地があって、ミッドセンチュリーモダンで揃えられた小綺麗な家々が並び、男たちは朝になるとあの時代のカラーの車にそれぞれ乗りこんでみんなで隊列をなして山のほうのVictory社に吸いこまれていく。

家の中に入ってみれば朝食はコーヒーとトーストとベーコン、出ていくのは夫たち、残された妻たちは掃除に洗濯に買い物にバレエのレッスン、などなど。毎日/毎週おなじメニューと行動様式で済んでしまうし、衣服は普段使いも含めてあら素敵!って言いあえるやつだし、衣食住で不満があったり困っていそうなものはないし、他のことをやったり考えたりする必要ある?

若いAlice (Florence Pugh)とJack (Harry Styles)の夫婦はそのなかの一組でまだ十分にあつあつで、隣組のようなご近所のAliceの友人にはBunny (Olivia Wilde)とMargaret (KiKi Layne)がいて、夫たちも妻たちと同じように会社内では繋がっているに決まっているし、夜はどこか誰かの家のラウンジで飲んだり踊ったり喋ったり楽しそう。終電とか気にしなくていいしな。

会社の創業者でCEOのFrank (Chris Pine)は圧倒的なカリスマ性でもって社員の魂を掌握して君臨して、社員もVictory Projectに参加してFrankの事業に貢献できることを誇りに思っていて忠誠を誓ってがんばるし、Frankの妻のShelley (Gemma Chan)もそれを支えるべく、妻たちの方への声掛けや顔出しも忘れない。

まずはここまでの設定に乗れるかどうか。気候はずっと温暖で片頭痛もなさそうで、ああいう家具とか住居デザインが好きで、家には本とレコードが十分にあって、近所づきあいやパーティー沢山も苦にならなくて、新しいものとか冒険とかを激しく求めなければ、いいんじゃないの? くらい? (まあむり)

でもAliceはどこがどう、とは言えないけど、日々の充足感とは別になんかおかしくないかここ? って感じるようになって頻繁にBusby Berkeleyスタイルの輪になって踊る女性たちの幻影が目の裏側に見えたり、隣人のMargaretの言動が少しづつおかしくなっていること - 更にそれらを友人たちがあんま気にしないこととか、やがてMargaretが首を切って屋根から落ちたり、煙をはく軽飛行機が山の向こうに消えたのにみんな知らんぷりしたりしているので、自分で山を登って追いかけて、そこのてっぺんにあった建物をのぞいてみると..

パーティとかでAliceが顔色を変えておかしな言動をしたり挙動をしてもFrankやShelleyはそんなに気にしているふうには見えず、むしろJackを昇進させてくれたりして、Aliceからすればいやあんたたち絶対へんだから、って。 そこから先は“Midsommar” (2019)ふうのホラー - 明らかにみんなおかしい - でも具体的にどこ、とか理由とかはまったくわからない – みんなだいじょうぶだよって笑う - 出たいけど出られない抜けられない – あれもおかしいこれもおかしいに絡めとられていく。そうやっていると赤いユニフォームのお掃除係みたいな連中が..

or みんな変なのは自分たちでもわかっているのだと。けど、それを言って変わったり変えられたりするのもまた面倒だし、自分に直接の危害や困難が降ってこない限りは見て見ぬふりをしておいた方が無難だ、少なくとも食うに困らない生活は保障されているし妻も満足しているのであれば、ということ? - それってシンプルに今の我々じゃん? とか。

あの家々や経営幹部が、住民をコントロールしているように見えるのが怖いのか、なにも変わらず/変えようとしないまま平々凡々と時間が経っていくのが怖いのか、そこから抜けだすパスがないことが怖いのか、これらぜんぶの目的やゴールが一切見えないことが怖いのか、こういうのを含めてわからないことがわからないのが怖い、と言えばじゃあ抗うつ薬とか睡眠薬とか、そっちにしかいかないのは冗談じゃない、ってすべてをぶっちぎって走りだすAlice – すばらしい走りっぷり - を見るしかない。

この辺、あえて言えば”Booksmart”が定型にまみれた学園生活の最後に破壊神が降り立ってハリケーンを巻き起こそうとした、その漫画を描いたのと同じように、すべてがコントロールされてのしかかってくる家とか企業の理念とかのグロい全方位の恐怖を描こうとした、のかもしれない。でも、できればもうちょっとだけ、Aliceの瞳に刻まれたのがなんだったのか、彼女の顔はなんであんなふうに歪んだのか、を知りたかったかも。

山の上になんかあるしマッシュポテトも出てくるし、”Nope”みたいなところに行くのかとも思った。けど、お話しはあくまでも”Don't Worry Darling”ってAliceに囁き続けるどこかからの声をとらえようとする。

Alice - Florence Pughの相手役のHarry Stylesがなかなかよくて、線は細いけどがんばることだけが取り柄みたいな生真面目な役柄を巧く演じていた。Frankに言われるままに猿回しの猿みたいに無表情でくるくる回るところとか。

そしてChris Pineの能面の気持ちわるさ。この人”Star Trek”とか”Wonder Woman”の熱いキャラよりも実はこっちの方なのではないか。Matt Damonなんかの数十倍気持ち悪いことができるのではないか(ほめてる)、とか。

あと、もっともっとドリーミィな音楽でぱんぱんに塗り固めてくれてよかったのに。

[film] Rosita (1923)

10月25日、火曜日の夕方、MoMAのストリーミングで見ました。邦題は『ロジタ』。
書いたままポストするのを忘れていた。

オリジナル版は散逸していて、ロシア語版など複数のプリントを参照しながらMoMAによって修復されて2017年のヴェネツィアでプレミアされて、2018年にMoMAで公開されたバージョン。監督はErnst Lubitsch(彼にとって最初のアメリカ映画。監督名のとこに”uncredited”でRaoul Walshって併記されているのだがほんと?)、製作・主演はMary Pickfordでそもそも彼女がルビッチをアメリカに招いた(あとで仲違いするけど)。1872年のフランスの舞台劇 - ”Don César de Bazan” - 『バザンのドン・セザール』がベースで、女性版フランソワ・ヴィヨンものを狙った、と。

セビリアで、大道芸人でギターを弾いて歌うRosita (Mary Pickford)は穴ぐらのようなところに一家で暮らしてて極貧のごちゃごちゃで、もういいかげんにしてほしい!、って王を激しく非難して侮辱する歌(サイレントじゃなかったらなー)をじゃんじゃか歌って民に大うけしていると、そこに自分の国のいけてなさ(自分でわかっている)を視察に来たまぬけで女たらしなスペイン国王 (Holbrook Blinn)が現れ、パワフルでお茶目なRosita を見て、自分がバカにされているのに彼女にすっかり魅了されて王宮に連れてくるのじゃ、って引っ立てようとする。 抵抗する彼女を見ていたDon Diego (George Walsh) – ちゃんとした身なりの人 - は、彼女を救うべく間に入って、やはり引っ立てられてしまう。

RositaとDon Diegoは宮殿内の囚われの身同志であっさり恋におちてしまうのだが、王様の方に対しては厳しくて言いなりにはならずに、あんたのこと相手にしてやってもいいけど、その前に自分の家族を王宮に住まわせろ、とか注文つけて、彼女の家族がぞろぞろやってきてやりたい放題するようになり、その反対側で王様は言うことを聞かない彼女への腹いせとしてDon Diegoとの結婚を申しつけた上で、その式の直後にDon Diegoの銃殺刑をやってやる、って。

お願いだから彼の命だけは助けてほしい、ってRositaは王様と交渉して、じゃあ執行の時の銃は空砲にしておくよ、って彼女に説明して、でもその裏でああ言ったけど実弾入れとけや、って部下にこそこそと指示して、それを後ろでじっと見ていたのが日頃の浮気とか三枚舌で旦那にあったまにきていた女王 (Irene Rich)で …

ルビッチ得意の豪快な女の子が権力者とかいけすかない男共を手玉にとって引っかきまわしてざまあ! っていう系統の(男女が逆だとつまんないよね)に分類されると思うのだが、ベースが劇作であるせいかドラマチックな仕掛けとか粘着するやらしい王の件など、減速させたりつんのめる要素もあちこちに見られて、Don Diegoの刑執行をめぐる裏の駆け引きは最後までどっちに転ぶかわからなくて、一応めでたし~ で終わるものの、脱線してロミオとジュリエットの悲恋で終わってもおかしくはなかったかも(そうしても悪くなかったのではないか)。

あと、ヒエラルキーの頂点にいたのは実は女王だった、その女王のことをもう少し描いてくれてもよかったのに。この後、ルビッチの『ウィンダミア卿夫人の扇』(1925)にも出ることになるIrene Richはワーナーがルビッチと契約した際の刺客でもあった、と。

ルビッチとしてはアメリカ進出にあたって大人気(だし呼んでくれたし)のMary Pickfordをメインに据えて威勢のよいぱりっとした宮廷活劇をやりたかったのかもしれないが、原作が結構クラシックなやつだったので思うようには捌ききれず、結果としてMaryのご機嫌を損ねてしまった(撮影後の彼女は相当気に食わないことがあったらしく興行的には当たったのにフィルムとかぜんぶ廃棄してしまったという)、ということなのではないか。『ルビッチ・タッチ』本には当時の批評が好意的だったこと、に加えて谷崎潤一郎の評なんかも掲載されている。

それでも最初の方の彼女が群衆を前にぐいぐい煽るシーンとかは遠くから捕らえていてもすばらしいし、王様のまぬけなかんじも含めて全体に漂うスカスカした緩いかんじはわるくないかも。ただこのレストア版はやや寄せ集め感があって、オリジナルはもっとテンポよく軽快なものだったのではないかしらー。

11.20.2022

[film] Ticket to Paradise (2022)

11月13日の午後、Tohoシネマズ日比谷で見ました。

『断絶』に続けてみるのはいくらなんでも、という気もしたがそんなときもある。邦題は片仮名そのまま。なんかつまんないのー。

情熱的に(情熱のみで)結婚して娘が生まれてすぐにいがみ合って別れてからはすれ違うたびに毛を逆立てて威嚇しあう仲のDavid (George Clooney)とGeorgia (Julia Roberts)の元夫婦がいて、娘のLily (Kaitlyn Dever)のロースクールの卒業式でもそれぞれ空気を読まない頓珍漢な喝采合戦をしている。 Lilyは学友のWren (Billie Lourd)と一緒にバリに卒業旅行に旅立つのだが、着いて早々に海藻の養殖をやっているGede (Maxime Bouttier)と出会って、転がり落ちるように恋におちて、もうたまんないから結婚するのだ! になる。

ロースクールではずっと勉学に浸かっててその鎖から解かれてエキゾチックな異国に放たれた途端に現地の若者と恋におちる、そこまではわからなくもないがいきなり結婚なんて、しかもバリで向こうの家族とずっと暮らしていくなんてやり過ぎの行き過ぎだし、気がついたら取り返しがつかないくらいにお互い憎みあうことになる(はず!)、愛する娘が自分たちの二の舞のようになることだけは食い止めなければ、という点において合意して共闘することにしたDavidとGeorgiaは一緒の飛行機に乗り込んだ途端に刺々しまくり、しかもGeorgiaの方には頭のネジが飛んでしまったかのように彼女にメロメロのフランス人パイロットPaul (Lucas Bravo)がべったり貼り付いてくる。

こうして娘を取り戻すべく腕まくりして勇ましく乗り込んでみたものの、新郎の家族も村の人々も、なにより新郎のGedeからしてとってもスイートでよい人だし、島はパラダイスとしか言いようがないし、突っ込みを入れたりサボタージュする意味も理由も見つからない空振りばかりで。仕方なく式当日のキーアイテムである指輪を盗んで隠すことにするが、しばらくしたら当然ばれて「なにやってるの?」になったりするのと、久々にふたりきりで自分たちの結婚とその躓きについて話してみたり、パーティーで馬鹿騒ぎしたりするなかで - 完全に孤立してしまっているし - 近寄っていくDavidとGeorgiaは。

最初の1/3くらいでどこにどんなふうに落ちるのかとか、その教訓とかメッセージとかが見えてしまうし、わざとそういう構造にしているのだとしても、あまりにわかりやすくストレートすぎるのと、結局George ClooneyとJulia Robertsふたりのかけあいの巧さとパワーに拠っているのと、でもそんなの予告の段階からわかっていたはずなので、あーあって(はぐらかしてくれると思ったのにー)。

そういう定型の終わり方からなんとしても逃れようとしたのかどうなのか、あのラストは、え? それなの? それだけ? ってなんかしらけて、そのまま続けてNG集に入っても楽しく笑えないのだった。

あるべき筋立てとしては例えば: 目的地のバリに向かうふたりに幾重ものトラブル - Paulも絡んでくる - が襲いかかっていつまで経っても辿りつかず、あれこれ協力してがんばってぼろぼろになってなんとか到着したときに肝心の式は終わっててあーあ、なのだがそんなふうにして乗り越えた困難はふたりにとって無駄なものではなかったようで…(ここで“Ticket to Paradise”、というタイトルが効くの)

それか、パパとママがそれぞれの部下とか友人の息子を刺客としてバリに送り込んで、Lilyに近寄らせて奪還作戦を展開するの(あとはそのまま、数年後にバリ版の”Mamma Mia!”が)。

それにしてもJulia Robertsって、”My Best Friend's Wedding” (1997)では元カレの結婚式を断固阻止しようとするし、”Runaway Bride” (1999)では自分の結婚式から何度でも逃走しようとするし、Weddingなんて人生の終わり、反対! 嫌だ、ということを役柄の上でずっと言い続けている気がして - なんでだろうか? - でもそれだけでなんかよいなー、って思ってしまう。

あと、C+C Music FactoryやCypress Hillがパバママのしょうもない懐メロ扱いされて毛嫌いされてしまうことがわかった。だいたい30年前のだしな。 もうしらん。
 

11.18.2022

[film] Two-Lane Blacktop (1971)

11月13日、日曜日の昼、菊川のStrangerで見ました。久々に見ようかなー見たいなー、くらい。
監督はMonte Hellman、邦題は『断絶』。シリアスっぽいけど、原題は「2レーンのアスファルト道路」ってだけだから。

この作品を初めて見たのは2003年のリンカーン・センターで、この時はここでも久々の上映だったらしく(まだデジタル上映なんてないから)35mmのニュープリントで、担当の人(あれ、誰だったのかしら?)は「これはすごい作品なんです!どこがすごいかわかんないと思うけど」ってとても興奮していて、「?」ってなったが見てみたら実際にその通り、ほんとにどこがすごいのかあんまよくわかんないけどすごい! のだった。ものすごい突風とか豪雨をいっぺんに浴びて「なんだったの..」ってなるかんじ。

夜の公道ぽいところでいろんな車がぼうぼう音を立てながらお金を賭けてレースをしていて、グレイで車体の板とかぺなぺなでもっさりした(そんなに速そうには見えない)”1955 Chevrolet 150 two-door sedan” – という種類の車らしい - の運転をするThe Driver (James Taylor)とメカニックをするThe Mechanic (Dennis Wilson)が暗いなかで黙って作業して運転をして、彼らはその時に自分がやることをやっているだけで、その説明もここに至る経緯もなにもない、彼らの名前すら明らかにされない。舗装された道路 - Two-Lane Blacktop – をただ走っていく - 走っていくためにはお金が必要で、お金を得るためにはレースで勝つ必要があって – のぐるぐるを繰り返す、勝って一攫千金はないし、負けて橋の下、でもなさそう - でも死んでしまうリスクは高そう - そんなふうにして生きるのはどんなもんなのか、それを映すために必要なものしか視界に入ってこないし撮っていないし。車の運転も車がどうやって走るのか、どうすれば速くできるのか、わからなくても、この描き方であればわかる。少なくとも彼らの受ける振動や視界がどんなふうなのか。

そうやって東の方(どっちでも)に走りだした車の後部座席に、どこから来たのかわからない少女 – The Girl (Laurie Bird)が住みついて一緒に旅をするようになり、更に途中ですれ違ったり追い越したりしていたいけすかない黄色い車を運転するGTO (Warren Oates) - 彼もなんで走っているのかよくわからないけど隣の車線にいたりして敵対、というほどではない - が目に入ってくる。登場するのはほぼこれだけ。

画面上ではほとんど会話せず車を走らせているだけのThe Driver & The Mechanicに対して、GTOは道端にヒッチハイカーを見かけると乗せてあげて親しげに話しかけたり自己紹介したり(結果出ていかれたり)対照的で、The Girlはあまり明確な意思表明はしないで好きに乗ったり下りたりを繰り返している。

The DriverとGTOは東の方(ワシントンD.C.だったか)へのレース(先に着いたほうが勝ち)をやろうっていうことになるのだが、そこに行くまでの途中でもレースで金を稼ぐ必要があって、気まぐれでシカゴに行かないか、とかも出てきて、結局The Girlは朝のダイナーにいた若者のバイクに乗って消えてしまうし、最後もどこかのレース場で、踏みこんで走っている途中でフィルムが焼けて溶けるように終わってしまう。

そうやってTwo-Lane Blacktopの流れのなかでしか生きられない蛍のような若者たちの姿を、取り巻く社会とか家族とか階層とか、そういうのを一切切り離したところ(=断絶?)で描いて、そこになんの線引きも判定も裁定もしないで、でもドキュメンタリーかというとそうではなくて、でもJames TaylorもDennis WilsonもLaurie Birdの「虚無」とはまた違う方を見ている無表情はなにかを語っていないだろうか?

これを車もない、身寄りもない(自分から切った)女性のバージョンとして描くと併映していた”Wanda”(1970)になるし、彼らが80年代に入って落ち着いてお金とか仕事をもったりすると”Crash” (1996)に登場するようになる - 事故シーンが一瞬ある - のかもしれないし、もう少し主人公たちに喋らせたりすると『国道20号線』(2007) になる。

ほとんど口を開かないJames Taylorの殺気のアウラがすさまじいのだが、少し猫背ですたすた歩いていくところとか、ぼそっと”How are you doing?”みたいなことを言う時、現在のどこから見てもよいおじいさんの彼、が垣間見えたりするので、ずっと走っていっても人って変わるところもあれば変わらないところもあるな、とか。あたりまえだけど。

11.17.2022

[film] Black Panther: Wakanda Forever (2022)

11月12日、土曜日の夕方、109シネマズの二子玉川で見ました。IMAX 3Dで。
ネタバレはー: もうしててもいいよね。

監督は前作から続いてRyan Coogler、The Black Panther - T'Challaの彼以外ではありえない主演俳優Chadwick Bosemanの死を受けて、復活も代替もCGもなし、彼は彼だったのだから、の状態で製作が進められて、”No Woman No Cry”が流れる予告篇で彼のあとに残された女性達(妾じゃない、たぶん)を巡るドラマになりそうなことが示されて、どっちにしたって見るしかないやつ。

冒頭、T'Challaは危篤状態の危機にあって、妹のShuri (Letitia Wright)は最後まであのハーブの調合を試してなんとか救おうとするのだが間にあわず、国葬が行われてQueen Ramonda (Angela Bassett)は後継の話(ハーブの再生によるBlack Pantherふたたび)をしたりするのだがShuriは伝統なんて知るかくそくらえ、になっている。

ワカンダの発展の礎となった鉱物資源ヴィブラニウムの寡占を巡ってワカンダに対して国際的な非難が高まるなか、米国が開発したヴィブラニウム探知機を使って海で作業をしていたら緑色の海の民が現れて作業員たちを皆殺しにして、同じ連中がワカンダの方にも(包囲網を軽く突破して)現れて強くて、自分たちは海の王国タロカンで、王のNamor (Tenoch Huerta)は探知機を作ったやつを引き渡さないと大変なことになるぞ、って脅す。

それでShuriとOkoye (Danai Gurira)は米国に飛んで、Everett K. Ross (Martin Freeman)-脇にJulia Louis-Dreyfusがいると夫婦漫才のよう - を突っついたりしながら情報を聞きだして、東部の大学にいた工作娘Riri Williams (Dominique Thorne)に辿り着いて彼女をワカンダに引っ張っていこうとするのだが途中でタロカンに襲われてShuriとRiriはさらわれてしまう。

これは非常事態でタロカンとの戦争になるかも、ってRamondaはハイチでひっそりと暮らしていたNakia (Lupita Nyong'o)を訪ねたりして準備をしているとやっぱりタロカンが大々的に襲ってきて..(タロカンが襲うべき相手はまずアメリカじゃないの?)

アフリカの奥地に小さいけど技術的に高度に進んで経済的にも豊かな理想郷のような国があって、でもがっちりした王政は維持してて王になるものはまず喧嘩が強くないといかん、というのが前作で描かれたワカンダの全体像で、でもそこで一番強かったT'Challaが亡くなった後、海底に同じように独自の文化をもって発展をしてきた国が現れて向こうからぶつかってくる。彼らによってあっさりRamondaまで失われてしまった後、伝統なんて..と言ってきたShuriは立ちあがるのか、あんな半魚人連中とどうやって戦うのか。

力(筋肉のほう)による統治は国の成り立ち時点からずっとあるし、周辺国もずっとそうやってきたのだし、そのバランスも簡単に崩せるものではないのでこの辺は逃れられるものではない、というのはMCUまるごと、神の世界から宇宙まで含めてそういうものなので、しょうがないものなのかも知れないけど、”Black Panther”に関してはあえて原始の、最小単位の民族、のような場所からその広がりとアイデンティティを猫系動物のしなやかさ、石と草によるトランスフォーメーションで示したところがかっこよかったのだと思う。

今回、代が替わって亡くなったものはお棺に入って送られてぜったい戻ってこない、Black Pantherは決して戻ってこない – Shuriはギークで、テクノロジー周辺にしか興味ない、となって - それでも、Namorの煽りがあったとはいえ、やはり筋肉による競り合い殺し合いの方に行っちゃうのかー。Shuriがハーブを試したときも、よりによってKillmonger (Michael B. Jordan)のやろうが(幻覚として)出てきてしまうのかー。そしてNakiaは ー。

だってさー、ワカンダもタロカンもどっちも悪くないし平和だったのに、アメリカが変なふうに突っついただけでなんであんなふうに目の前のものをどかどか壊したり殺したり始めちゃうの? そこに座って、落ち着いて話せないの? それが自分たち民族の歴史のはじめにあったから、はわかるけど、だから代が替わっていったのに – それでも聞いてくれない.. の? 最後の決着が白黒ではなくああいう形になるのは当然だわよ。(ふつうの勝ち負けになったら文句いう)

Shuriは、おそらくちっとも戦いたくなかった。だからハーブを摂取したときに思い出したくもないKillmongerが嫌がらせのように現れたのだし、最後にあの子が出てきたときも少し安心した、そういう迷いのなかで選びとられた彼女の”Black Panther”はとても細くしなやかで、他のRiriの金属のあれやOkoyeのMidnight Angelの間にいるかんじで、その逡巡や、(悪くいえば)押しの弱さについては賛否あるかもしれないけど、わたしはよいと思ったし、だからこそ最後にShuriの瞼に浮かんでくるT'Challaの笑顔がとても切なく儚くのこる。

これがMCUフェーズ4の最終話だそうだが、「フェーズ」ってなんなのか、いつも調べなきゃ、と思いつつどうでもよくなってしまう。

次作は一旦アクションものを停止して、『Black Panther: 女系家族』っていうホームドラマ仕立てにしてほしい。(Ramondaは回想シーンでいっぱい出てくる)

あと、これは”Aquaman”のときにも思ったけど、海の危機ってこれだけじゃなくいっぱいあるのだから - 特に最近 - もっといっぱい出てくるべき。あの人たちはやっぱり毎日毎日魚食べているのだろうか? それもずっとレアの刺身ばかりなのだろうか? とか。

11.16.2022

[film] La pyramide humaine (1961)

11月9日、水曜日の夕方、ユーロスペースの特集上映「現代アートハウス入門 ドキュメンタリーの誘惑」 - すばらしくよい特集だったのに見れたのはこれだけだった - で見ました。邦題は『人間ピラミッド』。

Jean Rouchによる映画とは、映像とは、そこで展開される「俳優」や「演技」のありようがどうやって社会と関わってくるものなのか、になどに関する基礎文献のような作品。

タイトルはエリュアールの1926年の散文詩集“Les Dessous d’une vie ou la pyramide humaine” 『ある人生の裏面または人間のピラミッド』から取れらている、と。 映画って人生の裏面、なのかしら?

1959年、フランス領コートジボワール、アビジャンの高校で、地元の高校のアフリカ系学生と親の仕事で現地に来ている白人学生の間には意識的or無意識的な壁があるのか放課後の遊びも交流もなかったりする。それに気づいたJean Rouchは、この状態を克服しようとする(or 反発しようとする)生徒たちの行動「について」そのまま映像に収めてみようと思う。

冒頭は、監督本人から生徒たちに対して、君たちの学校生活の映像を – 特にアフリカ系学生と白人学生の交流について - 撮ること、どういう内容について撮るか - 異人種間でもっと交流をしたい/すべきと思う生徒もいるし、別にそんなことする必要はないと思う生徒、無意識の差別意識や偏見を持っている生徒もいる、そういうキャラクターを各自に割り振るので、その役割設定に従うかたちで実際に動いてみてほしい、と。それがどういう結果をもたらすことになるのかわかっているのか? という生徒からの問いにはわからない、と返す。そんなことも検証できてないのにやるなんて信じらんない、と生徒。

こうして、自分たちに割り当てられたキャラクターに従い、もっと交流して互いを知るべき、という考えをもつ(ことになっている)白人のナディーン、アフリカ系のドニーズの2人の女生徒のサークルを中心として、授業中に、休憩時間に、放課後に、舟とか自転車で、それぞれのコミュニティで、それぞれの家庭で、街角で、繰り広げられていくいろいろな会話や行動が、そこから生まれていく友情や恋心、更にはそこから広がる失望やあからさまな敵意などが並べられていく。

彼女のところに遊びに行こう、遊びにいかない? (はじめは同性、続いて異性も。人種間だけじゃなくてジェンダー間のギャップもある)という動きに対して、信じられない – そんなことをするあなたはもう友達じゃない、という反応がナディーンがアフリカ系の彼とデートを重ねるようになって以降に出てきて、動揺と波紋を広げるようになり、やがてみんなで遊びにいった難破船のある海に入って自殺してしまう男子学生(もちろんフィクション)、にまで行って、最後はナディーンがフランスに帰国してしまう。

自分の行動がその周りにいる誰かになんらかの影響とか行動を引き起こして、それはやった人には思いもよらないような形での刺し傷とか弾丸のようになることもある。人間ピラミッドの上の人は下にいる人のことなんてふだんは知ったこっちゃないのだ、という影響とかダメージの波及のしかた、そのありようを分かりやすく示して、それって日々当たり前に起こっていることだけど、こんなふうに見えたりもする。それは原作や脚本があって、その決められたラインに従って監督やスタッフが俳優たちを固定したり動かしたりして作っていくドラマとは起こりうるコトの次第あれこれの幅や深さが根本的に違っていて、でも我々の周囲で起こる(起こり続ける)出会いとか別れって、だいたいこんなふうな、自分が自分ではない場所に置かれたところから始まったりするものなのではないだろうか? という提起がある。

ロメールやリヴェットの「ドラマ」とはとても呼べないような不安定で危うい筋運びとか、上手いのか下手なのか俳優? なのかすらわからない彼らがこっちに来たり向こうに行ったり、それだけのことにはらはらのめり込んでしまうのも、こういう「現実」があるからで、それはいまのここの現実のありようと地続きで、だからつまり。 こういうのははっきりと映画の、映画だからできることのひとつと言ってよいのだ、と言っている気がした。

11.15.2022

[film] Amsterdam (2022)

11月10日、木曜日の晩、Tohoシネマズ六本木で見ました。

1933年のNYで第一次大戦の帰還兵のBurt Berendsen (Christian Bale)は戦争で片目を失い、身体も捩れてしまった医師で、退役軍人の医療ケアをしながら戦友で弁護士のHarold Woodman (John David Washington)と連絡を取り合っていて、元上官で急死したBill Meekinsの検死を依頼される。 解剖はやったことないのだがIrma (Zoe Saldaña)という女性の助けを借りてなんとかやってみて、どうも毒を飲まされていたようだ、と。その直後に会ったBillの娘Elizabeth (Taylor Swift)は父は殺されたのだ、とふたりに告げた途端に彼女は轢き殺されてしまい、BurtとHaroldが彼女を殺した、って追われる身となる。

そこから舞台は1918年、一次大戦下のヨーロッパに移り、軍でのBurtとHaloldの出会いがあって二人とも重傷を負って血まみれで看護婦Valerie (Margot Robbie)に介護されるのだが、彼女は兵士の身体から取り出した銃弾や金属片を集めてアート作品を作ったりしていて、ふたりは誘われるままに彼女のアムステルダムのアパートで一緒に暮すようになって、そこでBurtの義眼を作ってくれるというPaul (Mike Myers) – 実はMI6のスパイ - とそのパートナーのHenry (Michael Shannon) - 実はUSのスパイ – と出会ったり、HaloldとValerieは恋仲になったりするのだが、Burtが米国 - Park Ave の妻のところに戻ることを考え始めた頃、Valerieは姿を消してしまう。

舞台は再び1933年に戻って、殺人容疑者として追われるふたりは殺されたElizabethの背後にいたと思われる富豪のTom Voze (Rami Malek)とLibby (Anya Taylor-Joy)の屋敷に赴くとそこにいたのがValerieで、彼女はTomの妹で、少し心を病んでいるようで、彼女がElizabethをふたりのところに向かわせたのだと。そこで過ごす彼らのところに殺し屋とかPaulとHenryとかが現れて、謎の組織 - Council of Fiveが浮かびあがり..

TomはBillの友人で著名な将軍Gil Dillenbeck (Robert De Niro)に会ってみたらどうか(退役軍人からの依頼なら受けてくれそう)と勧めて、彼らと会って退役軍人会ガラでのスピーチを依頼されたDillenbeckはそれを受けるのだが、そこで依頼されたスピーチの内容とは…

第二次大戦前の米国で財界を中心にそういう陰謀が蠢いていたこと、それがどこまでリアルなものだったのかについては諸説あるらしいのだが、映画の最後の方はその辺の瀬戸際っぽいテーマ - 米国はファシストに売られちゃうのかどうなのか、というスパイ戦で描かれそうな濃い闇をいかに戦い抜いて今の状態を維持したのか、をフロアの喧嘩のようにじたばた描いて、それはそれでよいのだが、これと1918年のアムステルダムで描かれる3人とその周辺のアンサンブルとは、じたばたどたばたしたトーンは似たかんじのようでもあんまし嚙みあったり層をなしているようには見えなくて、たぶんValerieがやろうとしたジャンクアートみたいなもの、に寄せたかったのかもしれないけど、ちょっと無理があるかもなー。Wes Andersonの変てこ群衆劇一座のもつ空気感がまるごと現実世界に接続されてしまってなんか気まずくなって笑いも凍りついた、そんなような違和感というか。

というのを最後のDillenbeckのスピーチの、そこだけ浮いたように変な生真面目さから感じてしまい、その理由はエンドロールのところでわかるのだが、それにしても変なかんじ。いや、変な時代に起こった変なお話だったのだよ、ということなのだろうし、ファシストネタはいつだって笑いのネタにしてよいものだったはず – それがなんとなく笑えないものになっているのだとしたらそれはつまりー、とか。

1918年から15年を経た1933年という時間差。例えば今世紀の米国のイラク侵攻から同じくらいの時間差を経たいま、という対比をしてみる意味はあったりするのだろうか? 確かに財界出身のゴミみたいなファシストもどきはいっぱい湧いてきたけど。懸念、ないことはないけど..

それにしても、すごい豪華キャストが次から次へ出てくる(Taylor Swiftなんて一瞬で死体に)ので、なーんてもったいない、ってそればかり思っていた。
Mike MyersとMichael Shannonの英米スパイの取っ組みあいの喧嘩、とか義姉妹 - Anya Taylor-JoyとMargot Robbieの猫喧嘩とかが見たかったのになー。


Pearl Oyster BarがCloseしてしまったって。こんなに悲しいことがあろうか…

11.14.2022

[film] The Clock (1945)

10月29日、土曜日の昼、シネマヴェーラの『ジュディ・ガーランド生誕100年記念特集 永遠のジュディ』特集の一本め、見ました。

原作はPaul & Pauline Gallico、監督はFred Zinnemannから替わったVincente Minnelli、邦題は『二日間の出会い』。Judyが劇中で歌わない作品の最初の一本。こんなのも日本未公開だったの?

次の出立まで48時間の休暇を貰った兵隊のJoe Allen (Robert Walker)がごった返すNYのペン・ステーションでこれからどうしようか(右も左もわからないけど)ってなっているとエスカレーター(セットのやつ。実際にはあんなことにはならないらしい)でヒールを引っ掛けて壊したAlice Mayberry (Judy Garland)にぶつかって、日曜日で開いてなかった靴屋を無理やり開けて修理して貰って、JoeはNYはじめてなので一緒に案内して貰えないかって頼んで、上の開いたバスでてきとーにセントラルパークの動物園とかメトロポリタン美術館とかを見せてつきあってあげて、ずっと一緒にいたいな付き合ってくれないかな、って犬のようになってどこまでも追いかけてくるJoeと、困ったなこっちは日曜日でやりたいこともいろいろあるのにな、のAliceの微妙な温度差が、ここでさよならしたらもうずっと会えなくなってしまうかも…の切なさに少しづつ寄っていく、そのスリルと、それがいきなり結婚しよう!になって英国国教会で式を挙げて、血液検査で時間がない間に合わない! ってはらはらして、のAliceの目線からすれば思ってもみなかった巻き込まれ型コメディ。

Joeが走ってバスを追いかけてくるので、じゃあアスターホテルの時計(The Clock)の下で! とかダウンタウン方面に向かう地下鉄の雑踏ではぐれてExpress(快速)とLocal(各駅)を間違ってぜんぜん会えない! (←よくある!) 会いたくなった時にはそういえば名前聞いてなかった! とか、どこまでもぜんぜん大丈夫じゃない二人に牛乳配達の老夫婦(実際に夫婦だって)とか、ひたすら絡んでくる酔っ払いとか、ただ見ているだけの変な人とか、NYのいろんな人たちが視界に入ったり絡んだりしてきて、これは一緒になるしかないな、になっていくところがよいの。 突然の出会いがこんなふうに恋になってこんなふうに結婚に繋がったら、の48時間。 別れた彼がそのまま戦地に向かってしまうのが切ないったら。

これ、Joeからすれば充実した休暇を過ごせて戦争に行く前に結婚までできたのでとってもよかった、かもだけど、Aliceにしてみれば週末を強引な田舎者に引っ掻き回されて、結婚したのはいいけどそのまま駅でお別れになって戦争に行かれて、そのまま還らぬ人になったらどうする? の心配も丸かぶりだろうし、本当にあれでよかったのかしら? って少し。


Judy特集はもう終わってしまって、11月4-5-6の週末は奈良・京都に行ったりしていたので見れたのはたったの5本だけだった。他のも少しだけ書いておく。以下、見た順番で。


The Harvey Girls (1946)
 『ハーヴェイ・ガールズ 』

Harvey Houseっていう西部の鉄道沿いの(実在した)チェーンレストランに集団で働きにきた「ハーヴェイ・ガールズ」と一度も会ったことのない文通相手と結婚するためにやってきたSusan (Judy Garland)が列車のなかで一緒になって、現地に降りたってみればSusanの文通相手はどうでもいいおやじで、彼女がときめいた手紙を書いたのはレストランの隣で男向けサルーン・バーを経営するNed (John Hodiak)だった。うんざりしたSusanは結婚せずにそのままハーヴェイ・ガールズに加わって、向かいのサルーンを支持する地元おやじ達の嫌がらせ勢力と腕まくりして喧嘩していくの。

Susanははじめは反発していたNedと仲良くなっていくのだが、バーをやりながらひとりで砂漠の風景を見にいったりしているような奴、なんか怪しくて信用できなくない?

あと、Susanの恋敵として出てくるこないだ亡くなられたAngela Lansburyさんが素敵でー。


Ziegfeld Follies (1945)
 『ジーグフェルド・フォリーズ』

総合監督はVincente Minnelliで、1932年にこの世を去って天国にいるFlorenz Ziegfeld Jr. (William Powell)が自分の作ったレビューをオールスターキャストで回想していくノン・ストップのミュージカル(たまに漫談とかも)メドレー形式のオムニバス。 Fred AstaireからCyd CharisseからLucille BallからFanny BriceからJudy GarlandからEsther WilliamsからLena HorneからGene Kellyから次々と。もちろんCGもVRも一切ないんだよ – って言ったときにふーん、で終わっちゃうのなら、ここから先には。

Ziegfeldというと、なんといってもマンハッタンの54thにあった映画館Ziegfeld Theatre (1969-2016)で、あんなにゆったりできる素敵な映画館はなかった。ここで最後に見たのは”True Grit” (2010)だったなー。


Girl Crazy (1943) 『ガール・クレイジー』

監督は当初はBusby BerkeleyだったがNorman Taurogに交替になり、最後の"I Got Rhythm"のとこだけBusby Berkeleyが演出。

Mickey RooneyとJudy Garlandが組んだ最後の学園もので、大金持ちの御曹司でプレイボーイのMickey RooneyがYaleではなく田舎の農学校に送られて、そこの学長の孫のJudyと組んで生徒数減少で閉鎖予定だった学校を救うおはなし。

Mickey RooneyとJudy Garlandのコンビを見ているとついMolly RingwaldとAnthony Michael Hallのふたりを思い出してしまうねえ(ちがう。ちがうんだけどさ)。


In the Good Old Summertime (1949)
 『グッド・オールド・サマータイム』

監督はRobert Z. Leonard。大好きな”The Shop Around the Corner” (1940)のリメイクであれば、見ないわけにはいかない。

気難しいOberkugen (S. Z. Sakall)が店主の楽器店が舞台で、そこにVeronica (Judy Garland)が職を求めてやってきて、店員のAndrew (Van Johnson)とは事あるごとに対立して、でも彼女にも彼にもパーフェクトな文通相手がいて相思相愛なのでそんなの気にしていなくて..

オリジナル版と比べるのは酷かもだけど、ミュージカルにすることでなにかが失われてしまったような気がしてならない。基本は彼らの日々の仕事中や業後の会話を通してどうやってふたりが糸を手繰りつつ出会っていくのか、という話なので。でも、これはオリジナル版の方にも言えることだけど、男子側が文通相手が誰なのかを先に知ってしまうのって、ちょっとずるいのではないか、とか。

11.11.2022

[film] Pacification (2022)

10月30日、日曜日の晩、東京国際映画祭をやっているシネシャンテで見ました。
副題?に “Tourment sur les îles” - 「島の苦しみ」とあるAlbert Serraの新作。 165分。

Albert Serraについては、昔に初期作品いくつかを日仏で見て好きになり、”The Death of Louis XIV” (2016)でおおーっとなり、2018年にベルリンまでIngrid CavenやHelmut Bergerが出演した劇作品 - “Liberté”を見に行って、2019年にマドリッドのMuseo Nacional Centro de Arte Reina Sofíaまでインスタレーション作品 - ”Personalien”を見に行って、なのに映画版の”Liberté” (2019)はストリーミングじゃなくて映画館の闇のなかで見たいなー、って言っているうちに終わってしまったので見ていなくて、それみろバカ、と言っているうちに新作が。

舞台はフランス領ポリネシアの一部であるタヒチで、夜中、小さな船に乗りこんだ海兵隊?の兵隊たち数名が島にあがって、Paradiseなんとか、といういかにもな名前の南国酒場に入って酒を飲んだりダンスを眺めたりする。みんな騒いで発散するような雰囲気はなく、湿気と夜風に浸ってじっとりしている獣のような怪しさが漂う。

M de Roller (Benoît Magimel)はずっとひとりでこの地に駐在しているフランスの高等弁務官で、いつも白いスーツを着てバーテンや民族舞踊をするチームとも馴染みでバーの隅っこにいて、特に振り付けをやっているShannah (Pahoa Mahagafanau)とは仲もよくて、彼らの話を気さくに聞いたり声をかけたりしながらそこにいる。ある日住民たちの話を聞く会で、フランスが秘密裏に核実験を再開しようとしているらしい、という話を聞いたのでデモをしようと思う、という声があがり、その場はいきなりそんなことをしない方がよいと収めるのだが、ほんとうだろうか? って。彼らにその情報を流したのはどこの誰なのか?

なんとなく気になったMはひとりで(たまにShannahを伴って)島のあちこちを見にいったり隣の島の有力者に会いにいったり、単独で情報収集を始める。かといって物語はここからスパイ活劇のようになるわけではなく、島のいろんな風物とかサーフィンの名所(すごい波)とか夜中のどしゃ降りとか、明らかに潜水艦ぽい影が認められるとか、夕方になるとそこに向かってボートで漕ぎ出していく女性たちがいるとか、そういうのを前にしても動かず/動けずに立ち尽くしてばかりのMの姿を見せていく(自分になにができるというのか?) - のと、実際にそれらの光景は異様に不敵にでっかく広がっている(すごいので大画面で見るべき)。

Serraが最近の数作でずっと描いてきた(気がする)ねっとりとした、明らかに向こう側でなにか(おおよその見当はつく)がいやらしく蠢いている(なにをしているのかまではなんとなく)不穏な闇とか夜の描写はここにもあって、そこに謎の権力(者とその向こうの組織?)が関わっていそうなところも同じで、今回はそれが「楽園」と呼ばれる一見開放的な島(でも植民地)で繰り広げられている、というー。

あまり喋らずにサングラスをして遠くを見つめてばかりのBenoît Magimelの姿がよくて、突然闇夜に消されたり海に突き落とされたりしてもおかしくないのだが、それでもそこに居座ろうとする白人男の自業自得の孤独 - Chantal Akermanの“La Folie Almayer“ -『オルメイヤーの阿房宮』(2011)の主人公みたいになる手前の擦り切れっぷりがなんともいえない。

そして最後の方で(最初からいたけど)正体を現す軍の提督(Marc Susini)が部下に対して静かに、洗脳するかのように言い聞かせる統治の原理原則みたいのがしみじみリアルで恐ろしい – それを黙って聞いている兵士たちの無表情も含めて。これだけのパラダイスが広がっていようが夜空がどんなに美しかろうが - 植民地であることなどもたぶん関係なく - これが核のある世界の現実なのだと。

というような悪の論理とか陰謀論めいた世のぐだぐだに拳をあげて何かを訴えたりするわけではなく、こいつらもそれを見ているこっち側ももうみんな死骸なんだからあの大波とか放射能とかゴジラにでものまれて流されてしんじゃえ、くらいのことを静かに語っている気がした夜の雨の、絵巻物の見事さ。

ひょっとしたらMもShannahも、とうに亡くなって向こう側にいる人たちなのではないか、くらいのことを思った。それくらいに見事に撮られた「楽園」のありよう。


ここまでで今回の映画祭の感想はおわり。 もう何回も書いているけど(何回でも書くけど)、暗闇で映画を見ている時間以外の不快さったらない。あんなの業界関係者向けの見本市に呼び名を変えて「映画祭」の看板下ろしちゃえばいいんだ。

11.10.2022

[theatre] National Theatre Live: Straight Line Crazy (2022)

10月26日、水曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。NTLは上映があると無条件で見るかんじになってきたような。

1910年ころからNY州と市の都市計画に携わって今の州と市のランドスケープとルックス – 特に幹線道路や公園の周辺 - を決めて真っ直ぐな線を引いたRobert Moses (1888 - 1981)をRalph Fiennesが演じる。

Robert Caroのピューリッツァー賞を受賞した評伝”The Power Broker: Robert Moses and the Fall of New York” (1974)を元に(とは明記されていないらしいが)David Hareが脚本を書いてNicholas Hytnerが演出して、今年の3月にロンドンのBridge Theatreでプレビュー/上演されたもの。その後、Off-Broadwayの方にも行っている。

主演はRalph Fiennesなので、この近代史上の大物の巻き起こすドラマをすばらしい勢いと貫禄で演じていて、彼の一人芝居でも十分くらいなのだが、彼の事務所の部下として数名 - Mariah Heller (Alisha Bailey)やFinnuala Connell (Siobhán Cullen) - と描かれるそれぞれの時代で彼の周囲にいた支援者、敵対者も登場する。

全2幕もので、一幕目は1926年、当時のNY州知事だったAl Smith (Danny Webb)を巻きこんでロングアイランドの公園整備とそこを抜ける幹線道路計画を実現しようとする話。お金持ちの私有地が沢山あったロングアイランドをStraight Lineで突っ切ろうとする計画に市長は予想される(地主のお金持ち有権者からの)反発を見越して難色を示すのだが、それを強引な自論でもって押し通そうとするMoses – これはやがて実現される。でもそのなかでなんで鉄道じゃだめなの? どうしても自動車が通るexpresswayがいいってなんで? という疑問も湧いたり。

二幕目は1955年、ワシントンスクエアパークの真ん中を突っ切ろうとする道路整備の計画が公園を愛する地域住民の反対にあって潰される話で、反対派のJane Jacobs (Helen Schlesinger)とのやりとりがセンターにきて、「公共」の考え方が戦前と戦後で大きく変わってきているのではないかとか、歳を重ねてより頑迷になり、やや疲れているようだけど決してそれを認めようとしない困った老人、になってしまっているMosesの姿が印象深い。

どちらの話も、Mosesの当時のヴィジョンやその妥当性や先見性について云々する、というよりは時の権力と結託して強引かつ狡猾に自分の計画を進めていこうとする政治のパワーゲームの勝ち負けが中心で、彼がNYになにをしたのか – そのよかったことも悪かったことも - がそれなりに明らかになってきている現在では、この切り口でよかったのかも。(元になったRobert Caroの本がそういうトーンらしいので) 例えば東京の街がクズみたいなパワポだの子供騙しな「完成予想図」だのでゼネコンを儲けさせるためだけに木々を切り倒して人々を追いやって日々醜く変わっていくそのやり口なども、この辺を起点として考えることもできるのだろうなー、とか。

そして強い権力を握るひとがそれを行使する際に見えたりやったりしてしまう差別的な目線(なにのどこを優先するかの結果として)もはっきりと出て、この辺が都市における貧困とか、最近だと排除アートのあれこれに繋がっていくのだろう。そういう作品ではないことはわかっているけど、Mosesがこれらの都市計画を通して最終的になにを実現しようとしていたのかが最初のほうではっきり示されていたらもう少し全体の見晴らしもよくなったのではないか。

そうであっても、二幕目の反対派住民との対話のなかで自分で地雷を踏んでどうしようもなくなって捩れて疲弊して地団駄を踏むMoses = Ralph Fiennesの演技ときたらすさまじい。

あとは改めて、MosesがNYの州とか市にやったこと – JFKから市内に入るexpresswayもトライボロ・ブリッジもずっと(30年以上? もっと?)ずるずる渋滞が止まらないまま(車酔い必須)だし、でもリンカーンセンターもジョーンズビーチもシェイ・スタジアムも音楽のライブにはなくてはならないvenueなのだし、でもワシントンスクエアパークからSOHOの辺りを道路が分断しなかったのはよかった、でよいのか? それがやがてあの辺の地価の高騰を招いて結果的に無味乾燥なブランド店だらけにしてしまったのでは? などについて考えることもできる。

あと、Mosesのやったことは映画のなかのNYのランドスケープやその変遷にも関わっているはずで、”West Side Story”にもでてきた穴掘り~強制移住なんかはもろだろうし、他にもありそう。(戦後のrom-comによく出てくるコニーアイランドへのデートは電車を使うのが多いので違うのかしら)

NYの景色に対する思いもそこから始まったNYの暮らしに対する思いも単純なものではなくて、そういうの(の一部)が100年くらいにこの男の狂ったような線引きによってもたらされた.. ってなんかおもしろい。他の都市にはないよね。 あと、ここ数年のマンハッタンのスカイラインの変貌はなんとかしてほしい。ぜーんぜん美しくないとおもうー。

11.09.2022

[theatre] Les Fourberies de Scapin

アンスティチュ・フランセ東京による「モリエール生誕400年記念 スクリーンで見るコメディ・フランセーズ」という企画で、Comédie-Françaiseによるモリエールの古典2本、Pathé Live(National Theatre Liveみたいなの)で配信されたものをル・シネマで見る。週末の2晩がとんでしまったけど、よかった。 モリエールも含めてほんとにおもしろいのだからもっと値段下げて上映回数増やしてくれればよいのにー。

Comédie-Françaiseは90年代にBAMに来た時に生の舞台を見て(その時はマリヴォーの『二重の不実』だったかモリエールの「ドン・ジュアン」だったか..)、それまでは古典演劇なんて見たことなかったのにこれがものすごくおもしろくて衝撃で、それ以降シェイクスピアとかもライブで見たほうがいいのかな、になった。

Les Fourberies de Scapin

10月22日、土曜日の晩に見ました。上演されたのは2017年10月26日。『スカパンの悪だくみ』。舞台の演出はDenis Podalydès。 本編が始まる前の映像で衣装がChristian Lacroixであることを知る。こんなところにいたのね。

港町ナポリの青年オクターヴ(Julien Frison)は、父アルガント(Gilles David)がいない隙に恋人イアサント(Pauline Clément)と結婚していたのだが、父はオクターヴを仕事仲間のジェロント(Didier Sandre)の娘と結婚させようと思っていて、彼の息子レアンドル(Gaël Kamilindi)もジプシーの娘ゼルビネット(Adeline D'Hermy)と結婚しようと思っているのだが大金の身請け金が必要で、困ったふたりはレアンドルの使用人スカパン(Benjamin Lavernhe)に相談すると悪賢い彼の極めててきとーな悪だくみが..

親たちをだまして金を巻きあげるのと、話をでっちあげて言いくるめようとするのと、どれもぎりぎりでなんとかなりそうで、ジェロントを袋叩きにしたりしてざまあみろ、になったところでぜんぶばれて、てめええ..  ってなったところで冗談みたいなどんでん返しですべて落着してよかったねえ、になる。こんなのでいいのか? という乱暴さ軽薄さも含めての「悪だくみ」、なのね。

元はテレンティウスの戯曲に着想を得たものなので、スカパンの粗野ではったりに満ちた振舞いは道化のそれでよいと思うのだが、これらがLacroixのクラシックな衣装(すてき)を纏って演じられるといいのか..に少しなったけど、これでよいのだと思った。

スカパン役のBenjamin Lavernheは、こないだ見た“Délicieux” (2021)にも出ていたけど、べらべら小狡そうで叩き売りとか宗教の勧誘とかやったら巧そうだねえ。


Le Madalie imaginaire

10月23日、日曜日の晩に見ました。上演されたのは2020年11月5日。モリエールの遺作でもある『病は気から』。舞台の演出はClaude Stratz。

17世紀のパリで、医者の言いつけを愚直に信じて病床に自分で自分を縛りつけて薬とか浣腸づけになって不幸であることの幸せを噛みしめているアルガン(Guillaume Gallienn)がいて、娘のアンジェリック(Claire de La Rüe du Can)は恋人クレアント(Yoann Gasiorowski)と一緒になりたいのだがアルガンは崇めているお医者さまの異様にキモい息子のトマ(Clément Bresson)とアンジェリックを一緒にしようとしていて、アルガンの若い後妻のベリーヌ(Coraly Zahonero)は、病で死んじまうであろう(死んでほしい)父と娘を仲違いさせて遺産をひとりじめしようとしていて、そういうのを見かねた女中のトワネット(Julie Sicard)がアルガンの弟のべラルド(Alain Lenglet)に手伝ってもらってひと芝居 - アルガンに一回死んでもらおう – うつことにして、やってみると …

他にこれ以上のオチなんてないじゃろう、の落語にもあったようなどたばた風刺喜劇で、死にたくない願望といんちき医術と遺産さえあればあとはいらないの悪だくみを「病は気から」- ほーら問題ない、って乱暴に丸ごとぜんぶ蹴散らしてなにか問題でも? って。スカパンの袋叩きもそうだけど、これで本当にショックで死んじゃったらどうしたのだろう、とか。

結局、どいつもこいつも自分のことしか考えてない半病人みたいのばっかりじゃん、しっかりしようよ! っていうただそれだけなのだが、ややゴスがかった荘厳なセットと臭ってきそうな(お尻まるだし)アルガンの体よりも頭のなかを見て貰ったほうが - のやばい挙動を見ていると当時はこんなふうだったのかもしれないし、カルトやゲーム(妄想)や健康(商売)への執拗な宣伝に溢れかえる今の世の中を見るとたいして変わっていないのかもしれないねえ、とか。

Comédie-Françaiseのコメディって、舞台セットや衣装も含めて、作劇をできる限り厳格にオリジナル – 本来上演されていたであろう様式を活人画のように忠実に再現することで、露わになるであろう段差やあらあら(なんてひどい!) - も含めて見せようとしている気がして、それなら歌舞伎や浄瑠璃でも同じではないか、なのかもしれないのだが、いまの自分がコネクトできてしまうのはシェイクスピアなども含めて西洋の方なので、しばらくはこちらを追いかけたいかも。あと描かれる人の欲とか業の普遍性とか、これは劇に限られることではない古典の小説や戯曲を読むときのベースでもあって、何度でも上塗りされてよいの。


アメリカの中間選挙、アメリカのは過去何度も死ぬほどひどい目にあってきたし今度も覚悟していたのだが思っていたほど… だったかも。 でもなんであんなのが..  は相変わらず、ある。
 

11.08.2022

[film] After Yang (2021)

10月23日、日曜日の午前、Tohoシネマズ日比谷のシャンテで見ました。

これの翌日に『エドワード・ヤンの恋愛時代』を見たので、この後に見ておけば本当に”After Yang”になったのにな、とか。(”After Edward Yang” - で主題として繋がらないこともないかも)

“Columbus” (2017)がとてもよいと思ったKogonada監督のA24制作による新作。近未来SFである、と。原作はAlexander Weinsteinによる短編"Saying Goodbye to Yang"(未読)、テーマ音楽は坂本龍一。

Jake (Colin Farrell)とKyra (Jodie Turner-Smith)の共働き夫婦には養子の一人娘Mika (Malea Emma Tjandrawidjaja)と彼女の養育・ケア用に買ったロボットのYang (Justin H Min)がいて、4人家族として幸せに暮らしていたのだが、家族みんなで参加したオンラインのダンスバトルの後にYangは突然動かなくなってしまう。

機械の故障停止のようなので、ふつうであれば分解して返品交換破棄なのだが、Mikaが悲しんでまた会いたいっていうので、できればYangをそのままの状態で再起動できないか、とJakeはYangの履歴などを探り始めて、製造元の保証はあるものの新品ではない中古として購入したので修理できる範囲には限界があるし、そのままだと腐蝕が始まってしまうよ、となったところで、Yangにスパイウェアに使われるカメラが埋め込まれていること、これがそのままメモリバンクに繋がっていることがわかって、ここに収められたデータや映像を見ていけばなんかわかるかも、になる。

もうひとつ、Yangが動かなくなった後に窓越しに彼の様子を見にきた若い女性がいて、彼女はAda (Haley Lu Richardson)というクローンであることがわかって、Jakeたち家族の前の持ち主に関係があって、Yangの映像のなかに彼女が紛れていることがわかってきて。

Yangが動かなくなってしまった原因をYangの内部の機構とかバグなんかではなく、彼がこれまでに見てきた情報とか記憶(自分たちとかMikaとのこととか)にあるのでは、という推測にまっすぐ行ったのが興味深くて、そこにJakeがはまって、Kyraが少し呆れながら見ている。ずっと自分たちの傍で自分たちの行動を見ていたロボットに、自分たちのなにが記録されているのか、その記録(活動)が原因で停止したのであれば、その理由はなんなのか絶対に知りたい、になるし、そのロボットあるいは製造元が利用者にとって不利益をもたらすなにかを実行していた可能性もないとは言えないし、などなど。そんなColin Farrellの動きから”Minority Report” (2002)での彼を思い出したり。

でも後半、物語は陰謀論に繋がってもおかしくない記憶の迷宮に立ち入って混沌として … なんてことはなく、メモリバンクから投影された映像を通してYangが見ていたものとは? を巡る少し抽象的な話に入る。

Yangのメモリバンクにあったのは記録された映像でしかなくて、でもそれをバンクに格納したのは誰のどういう意思や意識によるものだったのか? それらの映像がそれを見た人によって記憶や思い出に変わることを意図したものだったのだとしたら、その目的はなに? その記憶っていったい誰のものと言えるのか? それが停止の原因なのだとしたら、これって自殺のようなものといえるのか? などなど。

ひとの生は有限で、時間が来ると途絶えてその記憶もどこかに消えてしまうのに対して、Yang内にあるそれ(記憶と呼べるものなのか)は、Mikaのも、その前のAdaのもずっとある状態を維持して残っていく。Adaが事故で亡くなってもMikaが老いても、Yang=自分が動いている限りは。YangはMikaの成長を見ていくうちにこういう人と機械との間のギャップをはっきり認識するようになって、それが辛く苦しいものである(になる)ことを知って、その辛さを自分が停止することで回避できるのだとしたら - 機械の考えることなんてわかんないけど/機械は辛さをどういうふうに認識するようになるものだろう? 等。

こうして最後、Yangのメモリ上の映像は博物館に展示されることになる … というのはちょっとつまんないオチだったかも。別媒体に移そうとした途端に自爆装置が働いて… とかの方がまだ。それか、Mikaは人間ではないYang以上に精巧に作られたロボットで、彼女が自走できるようになったのを見届けて停止した、とか、プラットフォーム上にアップされた複数の、大量の映像を管理するAIが同様に暴走したり停止したり、やがて内紛を起こすようになる、とか。

できればもう一回見て確認してみたいのだが、“Columbus”で特徴的に描かれていた建造物、というのも同じような役割を担ったりしていなかっただろうか? そしてこれは父親がコーマになる話だった…

人が作りだす奇怪なでっかいものとか精巧なもの、それに相対する人そのものの脆さとか弱さ、その狭間でくよくよしながら生きていくしかない、って変だけどそういうありように対するやさしさはあってよいもの、とか。(力こぶ握られるよりぜんぜんよい)

あと、YangもMikaも中国系である、ということの意味も(たぶん)ある。Kogonadaは十分に意識しているはず。

11.07.2022

[film] 獨立時代 (1994)

10月24日、月曜日の晩、東京国際映画祭の1本め、シネスイッチ銀座で見ました。
4Kデジタルリマスター版。 邦題は『エドワード・ヤンの恋愛時代』、英語題は“A Confucian Confusion” – 儒教的混乱 – 孔子曰く云々から始まって延々問いと答えが止まらないやつ。

90年代、好景気で盛りあがる台北で、文化系事業のバブルの端っこで勃発する恋愛のとったとられたとか結婚するしないとかお金とか安定とかを巡るコメディ。日本が配給に関わったりしていることもあり、当時の雰囲気などはとてもよくわかる。

カルチャーイベント等を企画する会社を経営するモーリー(倪淑君)がいて、彼女の学生時代からの親友で同じ会社で一緒に働いてきたチチ(陳湘琪)がいて、チチには学生時代からの友人で恋人のミン(王維明)がいて、モーリーには大財閥の御曹司で親が決めた婚約者のアキン(王柏森)がいて、でもモーリーの様子が変なので戻ってきたアキンはコンサルタントで友人のラリー(鄧安寧)に相談する。ラリーはモーリーの会社にいる若いフォン(李芹)と不倫関係にあり、モーリーとの間も会社の状態もよくなさそうなので、チチは会社を抜けることを考え始めていたり。

あと、モーリーの姉(陳立美)は人気キャスターの有名人で、別居状態の彼女の夫(閻鴻亜)は世捨て人のようになってしまっている元人気恋愛小説家で、彼の小説の盗作疑惑をかけられた舞台演出家バーディ(王也民)は同級生でもあるモーリーに泣きついてきて…

とこんなふうに登場人物すべてがかつての/進行形の友人関係、恋人関係、利害関係(頭があがるあがらない)、などの網の目のなかにあって、これらの関係の深い浅いなどを会話のなかから把握していくのは始めのうちは大変なのだが、個々の会話のなかで取りあげられる今後あんたとはやっていけるとかやっていけないとか一緒になるとかヨリを戻せないかとかの寒暖の差や負っている傷の深さなどはわかるし、これら会話劇の合間に差しこまれる紙芝居のような字幕で大局的にどういう状況にあってどっちに向かいそうなのか、などはなんとなくわかったりもする。

台北の、生計面の苦労はあまりしなくてよいまま、学生時代からの友人関係を持ちあげるかたちで会社生活に入った若者たちが直面する仕事上の、というよりは地上から少し浮きあがった恋愛とか結婚とか別れとか、あんま考えたくない今後の人生あれこれについて正解なんてない水面上をじたばたしたりしんみりしたりの2日間と3日目の始まりを描いて、それだけなのにすばらしくおもしろいの。

登場人物それぞれが下す決断とか挙動について、ものすごく自信があったり熟慮の末にやったりしているわけではなく、誰かの入れ知恵だったり噂話だったり、あるいは考えすぎの思いこみだったり、でも起こってしまうことは起こってしまうもので、そうやってアクションはオフィスからバーから車からエレベーターから、どこでだって起こるしその結果がどう転がるのかはちっとも予測がつかない。そんな「獨立時代」のカラーとか明暗とか。

例えばロメールが「喜劇と格言劇」シリーズで古くからある格言に集約できそうなじたばたを一本の映画(コメディ)を通して(なんとなく)語ろうとした騒動を、あるいは最近だとホン・サンスがあれこれむき出しの「起こっちゃったこと」を並べて示すその先にあるよくわからない「あなた」のこととかを、エドワード・ヤンはコント集のような短い会話の連なりのなかに凝縮して見せているかのよう – 登場人物ひとりひとりの困惑したり混乱したり立ち尽くしてあーあ、になるその顔やどつきあうそのシルエットだけで十分に何かが語られていて、そこには見る側の思い入れとかみんなが納得できるオチだのオトシドコロだのはまったく必要ないの。

見ていてとにかく楽しくて、これってなんなのかしら、って。文化系サークルの延長みたいに躓いては悩んでばかりの連中と金持ち系サークルにいある鼻もちならない連中の衝突とか囲い込み合戦のようで、実は全く人と人との繋がりとか一緒になることなんて求めていないかのような潔さ – こちらのキャラクターへの思い入れなどを一切弾き飛ばす - があって、これって最近のなんでも「ステークホルダー」みたいに繋いで結んで可視化してみよう(けっ)みたいなのとは真逆の、やっぱし「獨立時代」としか言いようがないというか。『恐怖分子』(1986) - “The Terrorizers”にあった後ろ頭の分子たちが巻き起こす恐怖をそのままコメディの方に倒しただけというか、のとてつもないスリルときたら。

エドワード・ヤンの他のも全部、一気に見せてほしい。見たい。


RIP Mimi Parker..  大好きだったよう。ありがとうございました。
 

11.03.2022

[film] White Noise (2022)

10月29日、土曜日の晩、東京国際映画祭をやっているよみうりホールで見ました。
国立映画アーカイブで『太陽を盗んだ男』(1979)を見たあとに(上映後のトークはとばして)。

Noah Baumbachの新作で、原作はDon DeLilloの1985年の同名小説(未読)。Noah Baumbachはこれまでほぼオリジナルの作品(or Greta Gerwigとの共作)を撮ってきたので、原作ありは珍しい。

冒頭、大学教授であるらしいSiskind (Don Cheadle)がアメリカ映画で描かれるカークラッシュがどんどん軽快な快楽をもたらすものに変わっていった、その歴史について解説する。

Jack Gladney (Adam Driver)は彼の同僚の大学教授で、アメリカのヒトラー研究の第一人者(なのにドイツ語会話ができないってあるの?)らしく、人気はあるようだが体はやや不健康にたるんでむくんで、不穏な夢とか幻覚のようなものにうなされたりもしている。

妻のBabette (Greta Gerwig)とは互いに何度目かの結婚で、間には過去のパートナーとの間の子供たち - Denise (Raffey Cassidy)、Heinrich (Sam Nivola)、Steffie (May Nivola) - もいて賑やかで、ものすごくハッピーなかんじでもないが、そんなに不幸でもない。そこらにいくらでもいそうなアメリカ中西部の白人中産階級のファミリー。(監督の前作 - ”Marriage Story” (2019)の家族の人たちと比べてみよう)

でも最近Babette はなんとなくぼーっとして物忘れが.. とか言っていて、Deniseによるとこそこそなんかの錠剤をのんでいた - ”Dylar”というその錠剤はググっても出てこないしなんか怪しい、と。

そして運転手がウイスキーを飲みながらよれよれ走っていた有害化学物質満載のトラックがながーい貨物列車と衝突して大爆発事故を巻き起こし、見るからに有毒そうな黒煙が立ち上り、それは真っ黒い雲となって空を覆ってGladney家の暮らす一帯にも緊急避難命令が出て、一家は車に荷物を積んで指示されるままに走り出す。

放出されてしまった化学物質がどういうもので、どれくらい有害でよくなくて、どこまでいつまで拡がっていくのか、どうなったら収束するのか、責任者は誰なのか、全く情報がなくて、避難所では錯綜する情報を巡って憶測も飛びかうのだが、Jackは車にガソリン給油するときに浴びた雨がだいじょうぶなやつだったのか - 浴びたらあと2年半とか聞いた - が引っかかっている。

こんなふうに「死」がはっきり目の前に現れるのではなく、漠然とたまに気になるシコリみたいにちらちら鼓膜を透過していくのがWhite Noiseで、その反対側には子供達が夢中になる航空ショーでのクラッシュとか、サーフィンなんてやりそうにない体格なのにサーフしていきなり亡くなってしまったJackの同僚とか、Jackの専門のヒトラー、Siskindの専門のエルヴィスの死に向かう衝動とか、よりくっきりしたのがある。

Toxicな黒雲は微生物を撒いたらなんとかなったとか、Babetteのドラッグもそれがなんなのか明らかにならないけどなんか生きてるしとか、なにはともあれスーパーマーケットの精肉売場がオープンしたからいいじゃん、みたいになる。それでいいのか…

ベルイマン的な死や闇、邪悪さへの畏れを散らつかせつつも、どうしても向こう側には行けない - こちら側がブレーキをかけているのか向こう側が届かないのか - そこに挟まってくる、囲いこんでくるWhite Noise、とは。事故が起こったから/家族が仕事がどうなったから/歳をとったから/こんなことになっちゃってどうする、という形で描かれてきたNoah Baumbachのコメディが初めて登場人物たちを外部環境、のような不可解なものに向かわせている、というか。 よくわからない陰謀に右往左往しながらも立ち向かうWes Andersonをソフトにしたような。

Jack役ってはたしてAdam Driverでよかったのか? “While We're Young” (2014)のBen Stillerとかの方がうまくはまったのではないかしら? とか。

ラスト、モスクのようなスーパーマーケットに全員集合して、これまでずっとWhite Noise的ななにかを業のように背負ってきたLCD Soundsystem - 久々の新曲。どまんなか! - の主題歌に乗って、ゆるーく踊るの(ちょっと緩すぎ)。ここだけSpike Jonzeあたりに演出させてもよかったのに。

これって実は次の”Barbie” - 監督はGreta Gerwigだけど - の布石なのではないか、と。


この国のノイズのほとんどは”White”ではなくて、ずっとToxic Noiseで、今朝のアラートとか、ほんとに邪悪で愚かなのばっかしなの。しみじみやだ。

11.02.2022

[film] Irma Vep (2022)

いろいろ溜まってきたので書きたいのから書いていく。
10月30日、土曜日の午前から午後にかけてep.1~4を、31日(会社休んで)月曜日の午前から午後にかけてep.5~8を、東京国際映画祭で見ました。場所はよみうりホール。

この映画祭で一番見たかったやつなので発売日に突撃して、でもぜんぜん繋がらなくて泣きそうになったやつで、なのに当日の会場はどちらもかわいそうなくらいにがらがらで、前の方の真ん中に移動してとってもだらしない恰好でみた。

今年の6〜7月にHBO Maxで放映された8エピソードからなるTVミニシリーズで、製作にはA24も関わっている。
上映前、ビデオで監督・脚本のOlivier Assayasがメッセージを。この作品は本来このサイズと音量で、一本の作品として一気に見られるべきものであり云々。 彼、”Carlos” (2010)の時にもNYFFでまったく同じことを言っていたよね。

彼が1996年に撮った”Irma Vep” – 当時監督の妻だったMaggie Cheungを主演に据えた愛すべき(としか言いようがない)インディー作品のセルフリメイク、という以上に、そもそもここでやろうとしていたLouis Feuilladeのサイレント“Les vampires” (1915 -16)シリーズのリメイク、というよりモダンなリブートで、これらの製作を通してAssayasの映画愛というか、それ以上に映画活劇とはどういうものか、なぜそれが社会に必要とされるのか、を考察するものにもなっている。

全8エピソードのタイトルはFeuilladeのオリジナル版の10エピソードから8つをそのまま転用している。以下順番に”The Severed Head” - “The Ring That Kills” - “Dead Man's Escape” - “The Poisoner” - “Hypnotic Eyes” - “The Thunder Master” - “The Spectre” - “The Terrible Wedding”。

アメリカからIrma Vepを演じるMira Harberg (Alicia Vikander) – MiraはIrmaのアナグラム – がパリにやってきてアシスタントのRegina (Devon Ross)と合流する。Miraは主演していたジャンクSF超大作 - "Doomsday"のプレミアへの参加もあるのだが、それの監督でかつて恋人だったHerman (Byron Bowers)と更におなじくMiraの恋人だったLaurie (Adria Arjona) – しかもHermanとLaurieは結婚間近 - もパリにいると聞いてげろげろ、ってなる。

それとは別にMiraは”Irma Vep”の監督のRené Vidal (Vincent Macaigne) - 96年版と役名は同じでJean-Pierre LéaudからVincent Macaigneに – やコスチューム担当のZoe (Jeanne Balibar) - 96年版のNathalie RichardからJeanne Balibarに、頭を抱えてばかりのプロデューサーGregory (Alex Descas)は96年版から変わらず – たちと会って、最初の衣装合わせでIrma Vepのスーツ - 96年版のぴっちりとしたラテックスからよりしなやかな柔らかい素材に変わって、これを着て動き出した瞬間のMira = Irma Vepの見事さに全員がほーってなる。

エピソードのサブタイトルをきちんと反映してストーリーが展開していくものではなくて、①現代の製作現場のスタッフ側、キャスト側それぞれの苦労に不満に困難、②オリジナルからの該当場面の抜粋、③場合によってはそれが撮られた時の主演女優Musidoraの回顧録を映像化したもの、④実際に撮られた画面の抜粋、⑤場合によってはそれが1996年版ではどう撮られていたか、などがランダムに繋げられていく。なんでそんなやり方をするのか、というと映画の撮影はそう簡単に運ぶものではなくて、それは100年以上前の吸血ギャング団が社会に向かって仕掛けようとしていたあれこれとか、主演のMusidoraやMiraが直面する女性に向けられた蔑視の目とか、前作の後の妻との別離が監督にもたらした衰弱と疲弊と、幾重にも重層化された困難に溢れていたから。

でも、映画は複雑にこんがらかったメイキング、に留まることなく、それでも映画とは、映画だから、というところに踏みとどまって強く何かを訴えようとしている気がするし、これは冒頭にAssayasが語ったようにコメディなの。 吸血鬼団の話なのに誰ひとり死なないんだから。

監督やMiraによるFeuillade版の解釈だけでなく、Reginaがずっと抱えているドゥルーズの「シネマ2」や、そうやって勉強中の彼女が監督不在の隙間を埋めることになった時に持ち出してくるKenneth Anger - ルシファーが召喚する白魔術としての映画とか、もちろんハリウッドのフランチャイズものとか配信プラットフォームとか昨今の「コンテンツ」の変容とか、現代にこのクラシック「映画」を再生させることの意義にまで踏みこもうとする。

Miraは見るからに大金持ちのGautier (Pascal Greggory)からグローバルに展開する香水のメインキャラクターに指名されたり、LAのエージェントZelda (Carrie Brownstein!)からは女性のSilver Surfer役のオファーが来ていたりの順風満帆で、これに対してRené Vidalは96年版でもとっても不安定だったが、今回もパニック障害を起こして現場を放り出して失踪してしまう。

96年版では代行監督としてLou Castelがやってきたが、今回はよりによってハリウッドからHerman(とLaurie)が現れてやり方をぜんぶ変えたい、とかわめくのと、失踪してしまったRenéの魂の彷徨いもきちんと描かれる。 セラピストとの対話とか、96年版で主演した後に別れたJade Lee (Vivian Wu) - 96年版は役名もMaggie Cheungだったけど – が突然目の前に現れて – どうも彼女は幽霊っぽい – Renéとしんみり話すシーンはとっても沁みたり。

あとはMira以外にキャスティングされた俳優も – 高慢ちきで待遇に文句を言い続ける共和党野郎のEdmond (Vincent Lacoste)とか、Miraの元カレの俳優で、いまの恋人 – ティーン向け歌手のLianna (Kristen Stewart)が流産しちゃって辛いようって泣きながらMiraのとこにヨリを戻しにくるEamonn (Tom Sturridge)とのエピソードとか。でも極めつけはドイツからきたコカイン中毒で大暴れする大男のGottfried (Lars Eidinger)が底抜けにすばらしい。彼が自分のパートの撮影を終えたあとのパーティ(Thurston Mooreがギター抱えて登場)でぶちあげるスピーチなんて立ち上がって拍手したくなった。

GottfriedがR.W. Fassbinderに言及したりするところもあり、なんか“Warnung vor einer heiligen Nutte“ (1971) - 『聖なるパン助に注意』みたいなことをやりたかったのかしら? Lou Castelもいたし。

あと、特筆すべきなのはAlicia Vikanderのダンスも含めた動きのしなやかさと軽さ、そしてVincent Macaigneの懐の深さというか、ジブリみたいに伸び縮み自在のふてぶてしいかんじがたまんない。

とにかくいろんな場面や局面が最後までとっ散らかり続けるので、見ていて飽きないしあっという間に終わってしまうし、こんなふうに感想とかいくらでも書いていけるのが楽しい。

あと音楽は、Thurston Mooreで、加えてAssayasの映画なので次から次へといろんなのが流れてくるのでたまんない。今回印象に残ったのはTelexの“Moscow Diskow”とかNenaの”99 Luftballons”とか。欲を言えば、96年版でのSonic Youthのささくれだったギターが刺さってきて空気がざらっと変わるあのかんじがほしかったかも。

あと、Tシャツとかトートとか、いちいち全部おしゃれ過ぎてほしいのばっかし。

そして、なんといっても、René Vidalが完成させたはずの”Irma Vep”の最終形がどうなったのかを見たい。あれだけ撮っていったのだからあとは編集するだけではないのか。絶対傑作に決まっているし。

そしてそして、そこまで行って最後に浮かびあがる(はずの)Irma Vepとは何者なのか?