7.31.2012

[film] Profondo Rosso (1975)

土曜日、あまりの暑さに昼間は白目むいて完全に死んでて、夕方に京橋で1本だけみました。

『サスペリア』のヒットにあやかって、制作年はこれより前なのに『サスペリアPart2』としてリリースされたものだと。
こういうのって、どうなんだろうか、とずっと考えている。
当時(70年代後半~80年代)、洋画のマーケットを拡張するためにいろんな工夫して営業努力して、それはそれなりに成功した。
でも、彼らの「営業努力」って、基本は彼らの「商品」である映画のイメージを歪曲したりラベルを貼ったり、要は誇大広告に近いものを打って、観客を騙していただけだったのではないか。
当時、何も知らなかった我々は、昔のそんな出来事をお祭りのようなノスタルジーと共に楽しく思い出すことができるのかもしれない。
けど、今はちがう。  配給会社は、ずっと同じビジネスモデルと営業姿勢のまま、つまり客を小馬鹿にするやり口を維持したまま、我々は日本公開時期を都合のいいように延ばされ(或いはDVDスルーにされ)、待たされる間にくだらないタイアップだの前宣伝だのを散々見せられ、最低のセンスの邦題だのコピーだのに我慢させられ、映画館に入れば映画泥棒呼ばわりされる、もうそういうのにほんとうにうんざりなんだ。
例えば(なんでもいいけど)、"The Avengers"の米国公開直後、英語圏ぜんぶがわーって盛り上がっていることを知りながら(もうみんな簡単に知ることができるの)、なんで3ヶ月以上待たされなきゃいけないのか、しかも「日本よ、これが映画だ」とかわけわかんない最低のコピーと共に、指をくわえなきゃならんのか。
洋画興行の衰退は業界が自分達ではまったんだよ。 映画泥棒のせいじゃない。
もちろん、映画興行なんて昔からそんなもんよ、そういうのも含めての映画なんだとか、大人顔で言うひともいるのだろう。
でも、ここ最近のは、ものすごく不愉快で不快で気持ちがわるい。
映画を好きな人たちがやっているものとは思えないから。

そのうち、自分にとっての映画は、シネマヴェーラと日仏とアテネとCriterionのDVDリリースだけになってしまうのだろう。 ぜんぜんいいけど。


とにかく、そんなでも、映画はおもしろかった。
基本、こういう血がどばどば(ホラー)はだめなのだが、アルジェントは、アサイヤスが2010年のNYFF(Carlosの年!)のとき、対話講座で紹介しているのを聞いて、ちゃんと見なければ、と思ったの。 このとき紹介していたのは"Inferno" (1980)だったが。

冒頭、子守唄のような音楽の鳴るなかでの殺人(のシルエット)、そして超能力おばさんの怪しげなお告げと殺人、たまたまそれを目撃したピアニスト(男)と新聞記者(女)が事件を探っていくうちに、第二、第三の殺人が起こっていくの。

超常現象系のホラー、というよりは謎解きミステリーで、事実とか核心が明らかになっていくにつれてなにかを知っている人たちが血祭りにあげられていって、最後には当然、謎にたどり着こうとするひとが狙われる。

ナイフ、ガラス、熱湯、大理石に歯、車引き摺り、ネックレス輪切り、とか殺しのバリエーションはいっぱいあって、どれもこれもものすごく痛そうなのだが、こわいのはその瞬間のぐざぐざ、よりも、そこに誘導されるまでのイメージの連なりのほうなの。 気配、物音、人影、廊下の奥の暗闇、はっきりとなにかが飛びだしてきそうな扉の向こう、壁の向こう、鏡の向こう、などなど、それらははっきりわかっているのに決して届かない距離と目線の元に置かれていて、でもどうすることもできないまま、やっぱりこちらに向かってとんできて、ああ、と思ったときにはもうしんでる…

壁、壁のしみ、洗面台、廃屋、などなど、美術のすばらしいこと。たんに古いだけでなんもしていないのかもしれんが。
そして音楽はもちろんGoblin。 ごぶごぶどかどかすばらしい強さで廊下いっぱいに鳴り渡る。 ホラーなのに煽るような、妙に高揚するかんじで鳴るの。

しかし、事件にぐいぐい首つっこんでいくピアニスト、きっと暇なんだねえ。夜中になんでわざわざあんなとこに出かけていくかねえ。

もう8月なのね...

7.29.2012

[film] The Dark Knight Rises (2012)

やっと追いついてきた。

27日金曜日の晩、六本木の先行で見てきました。
先行に行くほど見たかったのか、というとぜんぜんそんなことなくて、FRFも行けないし、つまんなくて退屈だったからさ。 ついでにFRFのチケット代の倍くらいの本とか買って散財した。 楽しくない。

"Batman Begins"も見てないし、ネタバレとかしたらいけないようだし(けっ)、あんまたいしたことは書けませんけど。

もちろんおもしろかった、がしかし中盤のどんよりした感じはなんだったのか。
地上の殴り合いとかがとにかく鈍重できつそうでさー。

ほんもんの悪意をもった悪人とか強大な組織がまじの本気をだせば、街をあんなふうにしてしまうことだってできるし、この監督の前作"Inception"みたいに夢の中に侵入することだってできる。それを映画のなかで実際のセットを作って実現してしまい、街はぼこぼこになったりぐんにゃり倒立したりして、それがブロックバスターとなって社会現象化する。
都市とか機械(メカ)の容貌ががつんがつんとすごくなっていく一方、ヒトはあくまでヒトで、だからここでのBatmanは、翼を使っての飛翔すら禁じられて、Baneにボコボコの丸裸にされてしまう。

力の強いものが世界を掌握する、善なるもの、正しいものが勝つのではなく、そうなったものが正しいのだ、という論理、それに従ってヒーロー(リーダー)も社会組織のありようも変わっていくはずだ、では、そこにおいて善とか正義というのはどういう意味を持つのか、などなどなど。

それは近未来の話なんかではなく、サッチャーあたりから始まって現東京・大阪の首長まで、更にはやんわりと均等に強制されるオリンピックの熱狂とか、ごくふつうに(それがどんだけ異常なことか)流通している肉食の思想。

成熟した都市における法と正義、支配と平和秩序、組織と命令、復讐と悪、この映画のあれこれを巡って「気鋭」「新鋭」のなんとか学者さん達が屑みたいな論文だの本だのをいっぱい量産することになるのだろう。 しかもそこんとこにコロラドの事件まで…  やだやだ。 ただの映画なのにさ。

そういうのが画面の向こう、光の落ちたゴッサムの貌の奥にどんより浮かんでくるのが嫌なかんじだったので、ひたすらAnne HathawayさんとJoseph Gordon-Levittさんに集中することにした。ふたりともすんごく素敵だ。
これが15年前はAlicia SilverstoneさんとChris O'Donnellさんだったんだよな...

あとは、みんなが泣くMichael Caineとか。 おじいちゃん… て。

Ricki Tarrは、George Smileyの部下だったはずなのに。

機械関係は、どれも夢のようにすごくてかっこいい。 "The Avengers"の空に浮かびあがる空母もそうだったが、もうなんだってできるんだねえ。

音楽のHans Zimmerも、あんぐり。小さい音だとわかんないかもだが、画面のひとつひとつにびっちりと粘膜のように張りついてて、それが偏頭痛のようにずきずきと圧迫していって、クライマックスで暴走する。 つくるの大変だったのではないか。

予告でも流れている台詞、"This isn't a car~"と"Not everything. Not yet"がSNLで散々いじられることを期待したい。


オリンピックの開会式は、Billy BraggさんのTweetを追っかけたくらいなのだが、曲目リストを見たら"Gregory's Girl"のテーマとかあった。 そこのとこだけ見たかったかも。

7.28.2012

[film] Streets of Fire (1984)

22日の日曜の夕方、"Attack the Block"のあとに京橋までぷらぷら歩いてって見ました。

冒頭、映画泥棒のCMが流れたので、ものすごく盛りさがる。 京橋でも逃げられないのかー。
この、犯罪的に下品で劣悪なクリップが、こういう特集に喜んでやってくる善良な映画ファンを思いっきり萎えさせて、結果的に映画館から遠ざけることになったって、わかっているのかしら。

更に字幕:T田おばさん、と出てああそういえば、と思うのだった。(全体に、おばさん的にださいの)

この作品は、公開時も見たし、そのあとも2~3回は見ている。
今回のこの特集で、理由はなんでかわからんが、一番、強烈に見たくなった作品。
なんでだろ、去年MOMAでWalter Hillの"Driver"を見たからかしら。
こないだのRyan Goslingの"Drive" (2011)なんかはもろこれの流れだよね。

冒頭に字幕で、どっかの時代のどっかの街、とでるが、あんな音楽は80年代にしかなかったし、あの電車はシカゴだよね。
人気歌手(Diane Lane)がライブしてたら、暴走族みたいな一団が入ってきて歌手をさらって行っちゃうの。食堂のおねえさんが、Tom Cody(Michael Paré)、助けて、って手紙書くとどこからかTomがやってきて彼女を救いだして、悪いやつら(Willem Dafoe - ぴちぴち - など)をやっつけて、また去っていくの。

なんで悪いやつらは彼女をさらっていったのか、Tomはなに考えててなんで突然闘犬になってすたこら去っていったのか、警察はなにしてたのか、謎だらけだけど、でもいいの。
きれいなおねえさんはさらわれるもんだし、強いおとこはしゃべらないもんだし、悪いやつらはつるんでやってくるもんだし、警察は無能なもんなの。 バイクと車と喧嘩と夜の街、そこに音楽ががんがん流れてくるんだから、ぜんぜんいいじゃないか。

たぎる怒りを熱いパッションでもって叩きつけるのではなく、お掃除するみたいにクールに無表情にやっつける。 そういうのがかっこいいとされた時代もあったのよ。

なんかさー、昨晩Dark Knight見てきて、わるくはなかっけど、疲れたのよね...

音楽はいいよねー。 最後のライブシーンのChoreographyなんか、なにひとつすごいことやってないのに、とってもパーフェクトなかんじがする。
そして、Ry Cooder & Jim DickinsonとJim Steinmanがひとつの映画のなかであたりまえのように同居している。 ブエナビスタ前夜、この時期のRy Cooderは素敵だったなあ。

Wardrobeはアルマーニ。Rick Moranisのださいチェックのやつも。

7.26.2012

[film] Attack the Block (2011)

22日の日曜日、銀座で見ました。 もう終わっちゃいそうだったし。
終わってしまうといえばシネパトスも終わってしまうらしいのだった。 すごく思い入れのある映画館、というほど通ってはいないのだが、あの雰囲気がなくなってしまうのはいやだな。 ただでさえ最近の銀座って、ぜんぜんいかす方に行っていないとおもうし。

ロンドンの南のはずれ(Oval stって見えた)の団地で、そこらをごろついているガキ共が、おねえさんからひったくったりしていると隕石みたいのが落ちてきて、車にぶち当たって穴を開けたので、車もいただき、と中を覗いたら変なのが出てきたので取っ組みあってやっつけたら、相手はエイリアンみたいな見たことない生き物だった。 動かなくなったそいつを団地のたまり場に持ち帰って置いておいたのだが、しばらくしたら更に凶暴な連中が宙からばらばら落ちてきてさあ大変、と。

団地をうろうろしている頭も品も悪そうな連中なので、そんなエイリアンみたいな獣と取っ組み合うなよ、とか、死骸をわざわざ持ち帰るんじゃねえよ、とか思うのだが、ぜんぜん聞こうともしないでぶいぶいいきがっている、そのかんじがよいの。

エイリアンはでっかいゴリラみたいで黒い毛がはえてて、目が見えないようで、鋭い歯が蛍光緑に光って、四つ足で走って追いかけてくる。
エイリアンとか思わずに、凶暴な獣と思えば思えなくもなくて、そうすると、映画の向かう先もエイリアンとのバトル、とか言うよか、凶暴な獣と団地のガキ共の喧嘩、縄張り争い - やられたらやりかえせ -  みたいなところに落ちてきて、でもだからといってつまんないかというとそんなことは全然なくて、すごくおもしろかったりする。
エイリアン侵略モノというよりは団地のガキの騒動に毛むくじゃらの獣が絡んできたような。

連中が根城にしている団地、というのもポイントで、四角四面でどのフロアもどの部屋も等しく同じで、でも老人も子供もいろんな人たちが暮らしていて、彼らもそんな家族の一部として暮らす、というのと同時に、そのなかに暮らすワル組織の一部である、という、緩くて半生な関係のなかに縛られた、でも一応ごろつきなんである、と。
で、そういう連中であるから、すごく強かったり、団結して小賢しかったりすることもなく、びくびくして逃げ回るか、強がって攻めるか、押しと引きのやりとりがおもしろい。  そしてそこに、冒頭でひったくりにあった看護師のおねえさんが不機嫌に巻込まれて挟まっているの。 分別ある大人なんてただのひとりも出てこない。

この設定でゾンビ、という線もあったのかもしれないが、そうはしなかった。
ゾンビだと入ってくるに違いない「感染」ていうちょっとウェットな要素を、エイリアンものだと一応蹴散らすことができて(勝手に落ちてくるんじゃねーよ)、結果少しだけ軽くできる。 この作品に関してはその軽さがよい方向に効いている。 この辺のセンスのよさはちょっと英国、かも。

最近の団地もの、おもしろいかも。 インドネシアの"The Raid"もそうだし、日本の『孤独な惑星』もそうだし。
アメリカの団地はあまりに草ぼうぼうで殺伐としすぎてて絵にならないかんじだけど、英国とかアジアの団地はなんかいい。 あんま住みたくはないけど。

Nick Frostさんは、ここんとこゾンビとか宇宙から来たやつとか、そんなのしか相手にしていないねえ。

7.25.2012

[film] Man on a Ledge (2012)

21日の土曜日、『影の列車』に続けて六本木で見ました。 『崖っぷちの男』。しゃれにならないー。 

すんごく見たい1本、てわけでもなかったのだが、主人公の男が上映時間中、ほとんどずっと立っている窓台は、Roosevelt Hotelで、実際そこで撮られたのだと。
あのホテルは、泊まったことはないけど、あの前の通り(45th st)だったら、2000回以上は行ったりきたりしているはずなので、そりゃ見てあげないと、と。

無実なのに入れられちゃったぽい男がシンシン刑務所に入っていて、父親の葬儀のため監視つきで外に出たとこで騒ぎ起こして逃走してどこかの小屋で支度して(つまり準備していた、と)、次にホテルのロビーに現れて21階の部屋にチェックインする。
お食事をしてお祈りをしてから男は窓をあけて(あんなふうに開くのかなあ)、窓枠に立って、そうすると下の通りにいた人々が気づいて(あんなふうに気づくかなあ)、大騒ぎになって、警察が来るの。 警察は交渉人(Elizabeth Banksさん)を立てて、裏で男が何者で、一体なにをしようとしているのかを探りはじめる。 それと同時に隣のビルでなんかの動きがあって、それと男の動きや彼の起こした騒ぎが連係していることがだんだんわかってくる。

すごいどんでん返しがあるわけではなくて、時間の経過と会話の進行と共に全貌が見えてくるやつなので筋を書くのは難しいが、よく練られていて面白かったです。
二番館とか飛行機とかでみて、おおあたり、ぱちん、て指を鳴らすようなやつね。

閉じた人間関係・環境のなかでじりじり進んでいく、というよりは21階から見下ろした下界とそこに集まってきた野次馬、ひとつのホテルと隣のビル、警察内のあれこれ - 狭いような広いような縦横天地 - を巻込んで行ったり来たり転がっていくストーリーが楽しい。
更には、シンシンからMidtownのホテル、更にはWall Stへと繋がっていく世界、とか。

ものすごく強いひと、ものすごく悪賢いひとは出てこない、みんななにかしら裏に傷みたいのを抱えているか、ぼんくらのどっちかで、「計画」もそんなかっちりしているわけではなくて、窓の縁を小走りするようなすれすれで進行していく。 いろんな意味で「崖っぷち」なのは彼ひとりではないの。(彼が眼下の群集に喝采されるシーンがあるし)

Roosevelt Hotelの45thを挟んで南側のビルの1階には、Paul StewartとJ.Crew(出張が延びたときにシャツとかを買うとこ)があるのだが、上から見た構図のなかには入っていないように見えた。修正とかされていたのかしら。

俳優さんは地味だけどみんなよかった。
Avatar(Sam Worthington)の弟がTintin(Jamie Bell)なんだよ。
あと、Edward Burnsさんが久々に見れて嬉しかった。

7.24.2012

[film] Tren de Sombras (1997)

21日の土曜日、髪切ってから見ました。 とにかく天気がひどすぎる、って何回書けば。

José Luis Guerín映画祭の、最後の(まだ見てないの残ってるけど。ああイニスフリー)、この期間内では最後の1本。 『影の列車』。

20~30年代に実在し、突然消えてしまった映画作家の家に残されていたフィルムを発見し、それを修復した、という説明が冒頭字幕で入って、以降、ナレーションも説明字幕も一切入らない。

最初は、この修復されたと思われる16mmフィルムそのものが流されていく。 田舎の風景、そこに暮らす映画作家とその家族のポートレート、など。 湖、ボート、ブランコ、女の子、男の子ふたり、自転車、そして列車。

その後でフィルムに映し出された田舎の現代の姿、車がびゅんびゅん走り、線路は草で覆われて、羊がいて、などが出てきて、カメラは今も遺されている映画作家の家に入っていく。 そこで作家が見たであろう窓からの光、夜の光景、雨、嵐、それらの音、などなどが映し出され、そうしていくと突然、作家が知覚したであろう光景がこっちのフィルム上に転移・侵入してくる(ように見える)。 フィルムの修復工事(工事中)を通して、過去の作家が見ようとした風景を現代の作家が見い出そうとするそのプロセスの只中で、(再び)見出される時、ふたりの焦点が合って、衝突しあうノイズが消えたその瞬間に起こることが起こるの。

映画を見るときに頭のなかに起こることって、こういうことだよね、というのをおいしい食べ物をゆっくりと咀嚼するみたいに見せてくれる。
自分の知覚域、自分の時間にはない別の時間と世界がなだれこんでくる、その瞬間の官能とその持続と。
『ベルタのモチーフ』もこの『影の列車』も、どこか遠くの隠れ里みたいなところで、魔法のようにそれは起こった。
『シルビアのいる街で』は、そういうのって都市の雑踏のなかでも起こるのだろうか? という問いかけだった。

あるいは、『ベルタのモチーフ』にあった3つの世界 - 子供の世界 - 大人の世界 - 映画の世界 - がここにもあるとか、ドキュメンタリーとフィクションのサンドイッチ構造について云々することもできるのかもしれないが、どれも割とどうでもいい。 とにかくうっとり陶然となって涎たらしてた。

ホラーでよく使われる手口のを、ホラーとは全く逆の甘美で緩やかな時間のなかにドラマチックに描こうとした。 いや、それは見方によっては十分ホラーかもしれなくて、実際幽霊みたいのも見えてしまうのだが、それでも美しいんだし、「彼ら」が蘇ることになんの問題があるだろうか。

朽ちていく16mmフィルム、そういうのに対する思い入れ、というのは確かにあって、それってなんだろう、と。
記憶の修復、思ひ出のあれこれを撚り集めて、あれってあんなだったかも、というひとかたまりの記憶とかイメージを作っていく作業って、フィルムの修復と似ているのか違うのか。 例えば今の子供たちが50年後にデジタル素材のなかに見るであろう自分達の家族の記憶、その色や明るさと自分達のはどれくらい違うのか。 腐食なんかとは無縁のデジタル素材は、我々の記憶のありようにどういう影響を与えるのかしら。

とりあえず、自分には関係ないからデジタルいらない、としていいや。

なんとなく、Jonathan Carrollの『死者の書』を思い出した。 他にもあるだろうけど。
あそこでも、列車は重要なイメージとしてあったよねえ。

あとは、音楽がとてつもなくすばらしくて、ずっと鳥肌がたってた。
シェーンベルクの『浄められた夜』があんなにもかっこよく、荘厳に鳴る映画があっただろうか。

ぜんぜん関係ないけど、ピランデッロの『カオス・シチリア物語』の翻訳が、なんで今頃でてるわけ?
25年おそいんじゃねえか。

7.23.2012

[film] This Must Be the Place (2011)

20日、金曜日の晩、ううう首相官邸前...とか思いつつこの体調で人混みのなかに行ったらしぬ気がしたので、「きっとここが...」とか後ろめたく思いつつ、銀座で見ました。
『きっとここが帰る場所』。

引退してアイルランドのお屋敷でよぼよぼと隠遁しているロックスターのCheyenneは、いまだに長髪でメイクで革ジャンで、つまり輝きを失って壊れたロックスターそのままの生活 - 街のみんなが彼が彼であることを知っているが、笑いの対象にしかならない -  を送っている。 そんな彼が父親危篤の報を受けてNew Yorkに(船で。なんで船?)戻ってみると父親は既に亡くなっていて、彼は父がその最期まで自分に辱めを与えたナチスの戦犯を追っていたことを知る。 で、Cheyenneはいくつかの手がかりと戦犯追跡のプロのおじいさんの力を借りて、既に亡くなっているかもしれない旧戦犯を追って西に向かう。

15歳のときに家を飛びだして以来、一切関わりを持たなかった父親への償いに彼の仇をうつ、というのが最初の動機としてあったのかもしれない。 だから途中でものすごく痛い思いをするでっかい銃を買ったりする。
でも、旅の過程で各地に点在する旧戦犯の家族と会ったり、旧戦犯本人と会ったりして彼のなかで変わってくるものがある。
彼の父親が生涯かけて追いかけていった(でも、やろうと思えばできたであろうに殺さなかった)相手と、追いかけていったその理由を(父親の声が至るところで被さってくる)、旧戦犯が過去から逃げ去るように置き去りにしてきた家族を、彼らにとっての"Home"を知ることで。

ものすごく紋切型の、どこにでもありそうなロードムーヴィーだし、わかりやすい自分発見の旅だし、画面も色も音もわざとらしくきんきん作りこんであるし、ぜんぜん好きになれないタイプの映画のはずなのに、ぎりぎりで嫌いになれないのはなぜなのだろう、と。

おそらく、Cheyenneのキャラクターがきちんと描かれているからだ。
いやいや、彼のキャラクターこそ、わざとらしい作りこみの、紋切型の極致ではないか、と言うかもしれない。 でも、ああいう「ロックスター」はまちがいなくその辺にいる、作りあげられたイメージから逃れられず、体は老いて顔はしわしわなのにピュアなロックスピリット(恥)に拘り続けて、未だに自分の親とまともな会話のひとつもできないままの「子供」はいっぱいいるのではないか。

そして映画は、そういう彼らに対する救いも導きも啓示ももたらすことなく、Cheyenneとその父親(達)の物語を、ナチズムからロックンロールへと至る"Home"をめぐる迫害と逃走の旅として敷延してみせる。 彼らのいう"Home"は我々にとっても普遍的な"Home"足りうるのか、というのはとりあえず置いておくとして。 少なくとも世界には"This Must Be the Place"と呼びうる場所が - それを「帰る場所」と呼んでよいのかどうかは別だとおもうが - あるのだ、ということを忘れないように、と。

で、その旅のサウンドトラックとして流れているのがバンド"Pieces Of Shit"の音であるという -

ラストはたぶんもういっこ考えられて、それはリードギターが勝手に走っていかないタイトなロックバンドの復活 - もうメイク不要のロックシンガーの帰還、になったはずだ。 でもそれだとわかり易すぎてつまんないか。

あとね、『ものすごくうるさくて...』の映画版は、ほんとはこんなふうに撮られるべきだったのではないか、と思う。

David ByrneとWill OldhamによるThe Pieces Of Shitな音楽は文句なしに素晴らしいのだが、ラストに降り注ぐGavin Fridayの"Lord I'm Coming"が泣きたくなるくらいによい。

Cheyenneの外見のモデルは誰なのか、Robert Smithあたりかなあ、とか思ったが本人が聞いたら怒るかしら。

それにしても、ライブに行けていないので全身が干上がってしにそうだわ。
今日のMark Kozelekも行けなかった... 
FRFも3日めだけでいいのにチケットなんかどこにもありゃしない。

7.22.2012

[film] Hearts and Crafts (2011)

三連休ずっと映画ばっかりというのもさすがにいいかげんにすれば、なかんじがしてきて、でも他にはなんもやるきおこんない(天気のせいさ)ので、月曜日は渋谷でこれ1本だけ見ました。 42分だし、800円だし。

エルメスというブランドのPV。 でも大層なブランドイメージをあれこれして人を小馬鹿にするようなやつではなくて、そこで働く職人さん達の仕事と彼らの声を地味に紹介していく。
馬具、スカーフの下書き、色作り、色付け、皮を読む人、皮を切るひと、クリスタル、などなど、素材も道具もぜんぶ違うのだがそこに携わる職人さんの眼差し、職人さんを目指すひとの眼差しは皆おなじように誇りをもって静かに燃えていて、ああなんて素敵なのかしら、とおもった。

いろんな人たちがいて、政治亡命してきたひとも、声が出ないひとも、アジアの少数民族のひとも、50過ぎて転職したひともいる。 そうするとね、これだけいろんな人たちがいるのだったら、その裏でうまくいっていなくてどんよりの人たちも相当数いるんだろうなー、ってつい心配してしまう。 
ふつうの心配だけどね、ぜんぜんひとごとじゃないんだけどね。

構図も含めて極めてクールにまとめられたその映像は、その端正さ故にいろんなことを(極めて自然に)語ってくれる。声が映像とは別のオーバーダブのが多くて、だからほんとに彼らの正しい「声」なのか疑わしい、それでも、映像だけだったとしても見えてくるものはあって、これはこれでドキュメンタリーのよいかたちなのかも。

どうでもよいけど、スカーフのグラフィックを作っているのってAppleではなくてHPのPCだったねえ。
 

[film] A計劃 (1984)

15日の日曜日、"Convoy"に続けて見ました。 『プロジェクトA』。
こういうのは2本続けて見るのがふつうなんだよ。

公開時にはもちろん見てるし、名画座の二本立ての併映によく入ったりしていたので、結構見ているほうかも。

筋とかはいいよね。海上警察のジャッキーが海賊と戦うんだよ。サモ・ハンもユン・ピョウもいるよ。 まだみんなぴちぴちでばりばりだよ。 昔のジャッキーはこんなにすごかったんだよ。
(自分らだってな…)

前半の酒場での乱闘とか路地での自転車追っかけとかは、無条件に楽しいし、すごいと思う。
今でもがんばればできないことないのではと思うけど、だれもなかなか真似できてない。
ジャッキーが若い、とかそういうことよりも、有名な時計塔からの落っこちも含めて、ここには奇跡とか魔法とか、そうとしか言いようのないものすごい瞬間、今のアクション映画では滅多に見れなくなったような奇跡的な瞬間が沢山詰めこまれている。 

でも肝心のA計画のとこはそんなでもないの。 計画通りにいかない、というか計画なんて最初からどうでもいいのよね。 合言葉のやりとりとかが面白いとかその程度で、最後なんて3人がかりでよってたかって簀巻きにして爆弾でこっぱみじんて、あんましではないか、とか。

やっぱしねえ、ジャッキーとサモ・ハンが並んでぎーってするとことか、血が騒ぐよね。
最近のジャッキーみて、あうーってなるのとは逆に。
でもこれを見て唸りまくっていた当時、25年後の彼らがどうなるかなんて、想像つかなかったよねえ。
(自分らだってな…)

7.21.2012

[film] Convoy (1978)

15日の日曜日は京橋でした。

NFCがこんなのやるんだー、と誰もがへええーになった特集 『ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画』。
まあ行くよね。 TSUTAYAに行けば借りられるのかもしれないが、最近の名画座はこんな半端なやつなかなかやってくれないし。
MOTの特撮のと同じく元気をなくしている中年たちを回顧モードで更に後退させようという国家機関の策略なのだろうが、おもしろけりゃなんだっていいわ(← というくらいに後ろ向き)。

例えば、時代の偏差はあるにせよ、A級/B級ていう区分でいうとこれらの映画の殆どは当時A級のほうだったはずだ。 はずだったのに、ラインナップ全体を見渡した時にかんじる、このなんとも言えないB級感はなんなのだろうか。

でもねえ、これらの「洋画」は間違いなく「世界」- それがどんな世界だったにせよ - への入り口として、その風味を教えてくれるものとして機能したのである。 はじまりは78年の『Star Wars』とか『未知との遭遇』あたりだったと思うが、とにかく一日中映画館の暗闇にどっぷり浸かって浸って、マッシュポテトってなに? とか想像して遊ぶことができたの。 座席指定、各回入替が普通の時代の子供達はかわいそうだよねえ。

雑誌でいうと、わたしは断固「スクリーン」派でした。 「ロードショー」はメジャーでガキむけなかんじだったし、スクリーンにはたまにポルノとか載ってたのよね。

あと、これと同系の網羅的な特集としてはFilm Forumでやってるこれをなんといっても見たい。

http://www.filmforum.org/movies/more/universal_100


前置きが長くなりましたが、"Conboy"。
こないだの"The Longest Yard"(1974)と続けてみれば、りっぱな反体制活動家(でもがさつでだらしない)になれる。

楽しく一緒に街道を走っていたらねちねちした警察野郎(追悼:Ernest Borgnine)にいじめられたので頭きてちょっかい出したら大騒動になっちゃった系の。

大義とか正義とかはあまり関係なくて、暴走族がつるんで暴れるのとも違って、こちとら仕事してんだから邪魔すんじゃねーよ、というのと、困っているんならみんなで助け合おうじゃねえか、えいえいえおー、程度の軽いかんじの。 そんなふうに背景は結構軽いし適当なのだが、とにかく道路をトラックが埋め尽くしてしまうその様だけがひたすら圧巻ですごい、連中を怒らせたらこんなんなっちゃうんだから、それだけ見ておけ、ていうの。

これはこの時代の"Unstoppable"でもあって、隊列を組んでいようが列から離れようが、とにかく彼らは止まらない。 誰ひとり、権力と調和することも権力に回収されることもなく、道路と車があったら走るしかないんだぜ! ていうそういうやつ。 

エコとか環境がうるさくなった今の時代には作れなくなってしまった作品でもある。
でも、権力に抗うときの基本的な態度、みたいなのはしっかり教えてくれる。
Kris Kristofferson、ひとりだけかっこよすぎだけど。

音楽はベースがぶんぶんすごいのでやっぱし爆音で見たいねえ。

7.19.2012

[film] La Frontière de l'Aube (2008)

14日の土曜日、"Guest"が終わってイメージフォーラムの階段を駆けあがり、そのまま上の階の部屋で見ました。

『愛の残像』。 英語題は"Frontier of the Dawn"。

ストーリーはシンプルで、カメラマンのFrançois (Louis Garrel)が撮影で女優のCarole(Laura Smet)と出会ってふたりは恋に落ちて親密になるのだが、彼女には滅多にやってこない夫がいて、そういうのが嫌になって彼は彼女から離れてしまい、彼女は辛くなって精神病院に入って、退院するのだがそこで服毒自殺してしまう。 彼は彼女から別れたあと、別の女性と付き合いはじめて、子供ができたので結婚することにしたのだが、鏡の向こうにCaroleが出てくるようになって、こっちに来て、という。 ずっと一緒にいるっていったじゃん、と。

出てきたのはCaroleの幽霊なのか、罪悪感を感じているFrançoisの無意識なのか、それは割とどうでもよいことで、映画は生前よりも遥かに生々しく、力強く鏡の向こうに現れるCaroleの姿を描き、やがて結婚式の朝、Caroleのところに旅立ったFrançoisを描いて終わる。

そこには不思議も謎も狂気も呪いもなにもない。 何かを隔てて向こう側とこちら側に置かれた恋人たちが再び一緒になる、それだけの。
それは、闇と光がせめぎあう夜明けの時間、その突端でいつも起こっていること。

Garrelの映画では、(たとえ永遠に失われたものであっても)いつもふたりが一緒にいる、一緒につるんで画面のなかに映りこんでいることが大きな意味を持っていて、このふたりだけの白と黒の時間を創りだすことが、彼にとっての映画であり、そうやって創りだされた時間はCaroleの言うようにずっと「あなたの夢に隠れている」ことになるの。

怪談でもなく、光に溢れているわけでもないのだが、夏の映画だった。
明るい話ではないのに、何故かとても力強い。

Louis Garrelが見事なのはいつものこと(いつもPhilippe Garrelの分身とか言われててかわいそうかもしれないが、でもあれほどのどよーんとした分身感を出せるひともいない)だが、この作品についてはLaura Smetがなんといってもとんでもない。
彼女が板の間にごろんと転がって「会いたいー」とか悶々しているところのぬめーっとしたかんじとか。  Femme Fataleとかいうよりも、彼女のなまえのついた動物のようなかんじ。

William Lubtchanskyのカメラがすばらしいのと、その画面を切り裂くように鳴り渡るDidier Lockwoodのヴァイオリンもまた。

7.18.2012

[film] Guest (2010)

連休の初日の土曜日に見ました。 José Luis Guerín特集の1本。
『シルビアのいる街で』をいろんな国の映画祭に持っていった際にモノクロのデジタルカメラで撮った旅日記であり、「ドキュメンタリー」である。
今回、自身がカメラとなるGuerínは映画祭のGuestであると同時に、その国のそこに暮らす人たちにとってのGuestでもあって、それってそこで映画を撮ろうとする映画作家にとってどういうことなんだろうか、という内省が常につきまとう。

2007年のヴェネツィアから始まって2008年のヴェネツィアまで。

その間、渡りの足場としてのNew Yorkに行って、南米はコロンビア(ボゴタ、カリ)、チリ(サンチャゴ)、ブラジル(サンパウロ)、キューバ(ハバナ)、ペルー(リマ)、アジアではマカオと香港、最後にイスラエル。
ナレーションも地名の記載もない。 区切りのようなかたちで日付が入るが、ほんとうにその日に撮られた映像なのかは、わかりようがないし、わからなくても構わない。

New Yorkではメトロポリタン美術館の映像にWilliam Dieterleの『ジェニーの肖像』(1948)の冒頭のナレーションが被さる。
ものすんごくベタなんですけど、絶対これ、ずっと狙っててやってみたかったんだろうなー。
(この時点でもうぜんぜんドキュメンタリーのかんじじゃない)
Jonas Mekasとの対話のとこはカメラが緊張しているようで微笑ましい。 お話しのあと、ふたりが別れた地点は1st Aveの2nd stのとこ。メカス先生はそのまま職場(Anthology Film Archives)に向かったのではないかと。

アジアでも、南米のどこの都市に行っても、広場でキリストの支配(ヘロデ、サマリア、箱舟、などなど)を熱烈に説く人々がいる。
他にもいろんな忌わしい過去(大抵が植民地やテロリストによる支配)の話をする人たちに出会うのだが、このキリストの人たちはどこでも必ず現れて、大声で怒鳴りまくっている。
で、これが旅の最後のほうでイスラエルに到達して、ああそういうことね、とわかるのだが、じゃあ、と肝心のそのキリスト現場みたいなとこに行ってみても、そこにいるのは言葉の通じないガキだけだった、と。 (ここは笑ってあげてよい箇所だとおもう)

映画祭でのQ&Aセッションのシーンも少しだけ出てきて、そこでは必ず「ドキュメンタリーとフィクションの境界は?」みたいな質問が飛んでいる。 それにGuerínがどういう答えを返したのかは巧妙にオミットされていて、こいつー、てかんじなのだが、最後のヴェネツィアで登場するおばさん - Chantal Akerman - が、大声で「そんなのどっちだっていいのよ」なんて言ってざーっと流してしまう….
Chantal Akerman、こんなひとだったのかー。

例えば、この手のドキュメンタリーに求められがちの、対象にぐいぐい迫って何かを引き出してくるような押しの強さは感じられなくて、こっそり聞き出したお話しを後からこちょこちょ繋いで練りあげる"Guest"の慎ましやかな態度が印象に残る。
で、それでもそこにはモノクロ画面の構図の見事な美しさと、そこに映しだされる人々の強さ - 『工事中』もそうだったけど、そういうのを拾いあげてくる眼の確かさみたいのがあるの。 
コロンビアのカリの、ほんとは110歳なのに100歳だと言い張るお婆さんにしても、ハバナの集合住宅のおじさんおばさん達にしても、マカオのおじいさんにしても、みんなほんとに素敵な佇まいで、これならキリスト来なくてもいいよ、とか思ってしまうのだった。

そういえば、ここで撮られた土地って、みんな『工事中』の範疇に入ると言ってもおかしくないのだな、ということに気付いて、更に、ここで撮られた素材はそれ自体が工事中のなにかとなって次の『メカス×ゲリン 往復書簡』 - ここでの対話はもはやGuestではありえない - に転がっていくの。

南米に行かなくなって10年以上になるのだが、もういっかい行きたいなー。

あと、『ジェニーの肖像』も、久しぶりに見たい。

7.17.2012

[film] Awesome; I Fuckin' Shot That! (2006)

金曜日の晩、眩暈と吐き気で死にそうだったのだが、とにかく吉祥寺に出て見ました。 
爆音映画祭のラスト(後夜祭の手前)、シークレット上映作品『ビースティー・ボーイズ 撮られっぱなし天国』。

Adam Yauchさんが亡くなってもう2ヶ月、我々はちゃんと彼のことを追悼できていない。
みんなそれぞれ忙しいし戦っているし、彼はそんなのやるなって言うに決まっているから、誰もなんもやらないのだとおもうが、でも、追悼とは言わないまでも、彼から貰ったいろんなものに対してありがとうを言うくらいの場とか機会はほしい、と思っていたら爆音がやってくれた。

Beastie Boys、彼のいた3MCsのライブ映像を、彼が企画して、彼(Nathaniel Hörnblowér)が監督して、彼の作った会社(Oscilloscope Laboratories)がリリースした作品。
湿気がうっとおしくてしょうもない金曜の晩の90分、90分だけ、この映画をがんがんに鳴らして、体を揺らす、たった一回だけでもそういう機会を作ってくれた爆音の人たちに本当に感謝したい。

映画の話はいいよね。 ファン50人にHi8 Cameraを持たせて会場に散らして、好きなのを好きなように撮ってよし、けどカメラの電源だけは切るなよ、といって集まってきた映像をこまこま編集した60000カット(主催者発表)。

わたしは2004年10月9日、このライブの場にいた。 まんなかより後ろのステージ向かってやや右。だからどっかに後ろ頭くらい映っているかも、と今回もじーっと見てみたのだが、映ってはいないようだった。
それから、2006年3月28日、この映画の完成披露、NYプレミアの会場にもいた。(IMDBのこの映画のページに貼ってある写真はそのときのもの)
Adamさんの姿 - ばりばりのスーツだったけど - を見たのはこれが最後となってしまったのだなあ。

ライブ映像については、こんなもんかー、と。
客席に持ちこまれた50台のカメラがもたらしたのは、ものすごく革新的なアングルとか、インタラクティブうんたらな可能性とか、そんなのとは程遠い、男子便所からの実況とか、そんなようなもんでしかなかった。 しかし、それこそがBeastie Boysのライブのコアであるところの百姓一揆にも似た絞まりのなさ落着きのなさに直結するなにか、なのである。 これこそがU2とかColdplayとか、ライブ設備にばかみたいな投資をする代理店連中とはぜんぜんちがう、でも画期的ななんかなのである。 たぶん。

(このかんじを今週NYでプレミアされるLCD Soundsystemのラストライブの映像がどうかもっていますように...)

この映画が撮影された当時のことを、若い人たちには説明しといたほうがよいのかもしれない。
ブッシュの最初の4年 - 911を始めとして、とにかく最悪だった4年間が終わろうとしていて、大統領選の直前で、しかし彼の再選を阻止することは難しい、ケリーでは勝てないことが既に多くのひとには判っていた、そういう、どんよりと暗い時期にこのライブは撮られたの。

ラストの"Sabotage"があんなふうな、ライブハウスみたいな狭さを感じさせる突進モードで撮られているのはそういうわけだ。ブッシュ再選断固阻止、だったの。
みんなほんとにやけくそになって叫びまくっていた。 それしかできなかった。 叫びすぎて酸欠で視野が狭くなって、MSGがO-Nestくらいにかんじられた。

爆音でそこらへんのかんじが少しでも伝わってくれたらなーと思ってみてた。
そして、この上映が反原発のデモと同じ金曜日に実行された、というのも決して偶然ではないのだと。

でも、あたりまえだけど、やっぱしライブにはかなわないもんよね。
Mix Master Mikeのプレートが地殻にどすんてぶちささるように重いターンテーブルの音は、あれはライブでないと。

しかし、ステージでひょこひょこ踊ったり歌ったり、バックステージでにっこりしているAdamを見ているとまだ彼がいなくなったことが信じられなくて、なんとも言えなくなる。 
もういっこのBBみたいに、結成50年とかで"Body Movin'"とかをよれよれ演ってくれると思っていたのにさー。

そして、彼のチベットをはじめとする世界への非暴力への希求が、今ふたたび、Intergalacticに飛んでいきますように。 

[film] One Day (2011)

9日、月曜日の晩にひっかけて見ました。
Anne Hathawayさんだし、もともと見たかったんだけどね。
あんま深く追ってなくて、軽いラブコメみたいのかと思って行ったら違ったのでなかなかびっくりした。
こんなお話しだったのかー。

88年の7月15日、Emma(Anne Hathaway)とDexter(Jim Sturgess)が大学の卒業式の帰りに出会って彼女の部屋に泊まっていって(でも寝てない)、そこから始まるふたりの恋人までいかないだらだらしたつきあいその他を毎年のOne Day - 7/15というカットで追っていく。
ある年の7/15は一緒に楽しく過ごすし、ある年の7/15はすれ違って終わる、ある年の7/15は泣きながら電話したりする。
この間、彼はTVの深夜番組でセレブになって結婚して子供をつくって離婚してぼろぼろになるし、彼女はメキシコ料理屋で働きながら作家を夢見て、でもブレークできずに、もやもやしたりしている。
この日がものすごく特別な意味のある記念日でもなく、ふたりが特別な関係にあるわけでもない限り、この日はただ、たまたまそうであっただけの日、として過ぎていって、どっかに行ってしまう。 
でもそうじゃないことがあったとき、その地点から巻き戻してみたりするよね? たぶん、そういうのをやりたかったのだと思うのだが。

ふたりの関係は2006年の7月15日に突然おわってしまう。 
邦題にある『23年のラブストーリー』というのはおかしいし、わけがわからない。
最初からラブストーリーとしてはじまったお話しではないし。

おそらく、ほんとうであれば、ふたりのそれぞれの19年間を7/15という定点で観測していったときに、どっかの地点から恋が始まる、その始まりを、双方に明かりが点いたその瞬間をはっきりと刻んで、そのどこかの"One Day"が天上に燦然と輝くはず、だった。
そういうのすらきちんと描けていないので、ラブストーリーとしてもカップル大河ドラマとしても、中途半端で、どう見たらよいのかわからないの。 かわいそうねー、で、それだけでいいのか。

これなら事故で88年以降の記憶を一切失っちゃって、また最初からぜんぶやりなおし、のほうがまだわかりやすかったかも。

それぞれのOne Dayで、その年の1曲が背景として流れてくる。
88年がTracy Chapmanの"Talkin' 'Bout a Revolution"、89年がTFFの"Sowing The Seeds Of Love"とか、その後もJames, Black Grape, Primal Scream, Fatboy Slim, Trickyとか、選曲はわるくない。 BlとかOaとかが入ってこないのはよかった。
で、締めはElvis Costelloさんの"Sparkling Day"ていうの。

でもなー。 

7.16.2012

[film] The Skin I Live In (2011)

8日の日曜日の午後3時、"The Longest Yard"の直後、興奮状態のままに横走りしてって見ました。 もう終っちゃいそうだったし。 『私が、生きる肌』。

おもしろいねえ、Pedro Almodóvar。 あいかわらず。

整形外科医(Antonio Banderas)のすんごい邸宅の一室にぴっちり全身タイツで皮膚を保護された女性が監禁されている。
そのうち、彼女は医師の全身火傷で亡くなった妻に瓜二つになるように「形成」されたらしいことがわかってくるのだが、では「彼女」はそもそもどこから来て、なんでここにいることになったのか。

そーんなにまでして生きていたいのか、生かしておきたいのか、と呆れるほかない強い強いヒトの欲望とそのすぐ裏側に必然として張りついてしまう/張りついている「死」への虞れ。 その相克が謎解きに近いかたちで明らかにされていくのはいつものAlmodóvarなのだが、今回のは復讐や情念のドラマがタイトル通り皮膚の皮一枚隔てたところで愛とか、思ってもいなかったような方角にころっとひっくり返る。

で、そういうのをどろどろべたべたではなく、冷たくてモダンな色彩構成とかディスプレイ越しの映像とかを通してさらっと見せていく。 
いや、わかんないけどね。 今回もヌードとかいっぱい出てくるのだが、その出し方がほんとぺろっと即物的で、一見やらしくなさそうで、でも実はすんごくエロでフェティッシュなかんじもする。
それに、よくよく考えると相当残酷なお話なんだけどね。 そうは見えないようなとことか。

なんとなく、モダン・スパニッシュのお皿だねえ、とかいっつも思う。 好きだけど。

あと、久々にボカシというのを見たわ。 まだやってるんだねえそんなのー。

[film] The Longest Yard (1974)

8日の日曜日、午前10時のなんとか、で午後13時くらいに見ました。
スポーツ映画の、監獄映画の、群像映画の、問答無用のクラシックであることは勿論、正義とはなんなのか、それを貫くとはどういうことか、を極めて具体的に説いた作品でもある。他になにを言うことができるだろう。

フットボールの監獄の職員チームをリーグで勝たせるために組織されたチーム、始めから負けることを要請されたチームを率いることになった元プロのアメフト選手のPaulと、囚人で組織されたそのチームのタッチダウンへと向かう長い長い道行き。 そもそもの実力として勝ち目がないことはPaulには解っていて、かつ土壇場で負けるように改めて念押しされて脅迫されて、それでもなお、何かが彼に火をつけ、その火がゲームの進行と共に拡がっていって、最後の盛りあがりと緊張感ははんぱない。

既にこの手のフォーミュラのスポ根映画も漫画も古今東西いくらでもあるわけだが、この映画はスポーツ万歳とか男の友情とか、そういう、なんかを振興するような振るまいとはちょっとだけ違う気もする。

誇りなんだよ誇り、とか。
囚人のひとりひとりにも、客席でブラスファンクをわいわいやっている変なひとたちにも、冷酷非道だった看守長にも、それはじりじりと伝染していって大きなうねりを作る。 画面割りとか編集とか、そのあげ方のかっこよくてすばらしいことったら。 

しかし、所長だけは、このくそじじいだけは、最後まで狂ったように曲げない、曲がらない。
でもさあ、だからねえ、今こそ見られるべき映画なんだよ。原発の体制側の何を信じているんだか知らんがのバカ共とかに向けてさあ。

2005年のAdam Sandler版も見ないとなー。

つい最近掲載された看守長のサディスティックはげ、Ed Lauterさんのインタビュー記事。

http://www.avclub.com/articles/veteran-character-actor-ed-lauter-has-40-years-wor,82312/

7.15.2012

[film] En Construcción (2001)

7日の土曜日、イメージ・フォーラムのGuerínの特集から2本、続けて見ました。

En Construcción (2001) - 『工事中』

バルセロナのいかがわしい地区を取り壊して立て直す工事の現場とその周りを追ったドキュメンタリー。

まだ人が住んでいるアパートのすぐ隣で取り壊したり積みあげたりが繰り返される。
工事のまわりで住人が追い立てられたり困ったり問題が出たり、といった社会問題にフォーカスしたものというよりは、工事現場と工事中、ある特定の時間と空間に居合わせたいろんな人たちの姿を追ったもの。

子供もいれば老人もいるし、出稼ぎで来たひとも、親子で働いているひとも、そこで暮らしているカップルもいる。
15世紀だか紀元前だか(人によって全部いうことが違う)の人骨だってでてくる。

進行していく工事の横でいろんな人間関係もまた同じく工事中、というか足場を作ったり外したりがあって、そのコントラストと切り取りかたが素敵なの。 街の修復とか歴史の刷新とか、そんなでっかいイベントのすぐ横で、それでも人は右に左に動きまわっていて、ここだって間違いなく『シルビアのいる街』になりうるのだ、と。  それは作為として、そういうきれいな撮り方をして、撮れる場所を探したから、ということではなく、シルビアを探せ、と、そういうことなのではないか。

例えば、Frederick Wisemanのドキュメンタリーにあるような全ての要素を風呂敷の上に並べ、ひとつひとつの動きを丹念に追ってそれらをひとつの絵巻物として練りあげていく手法とは異なり、どの人物も情景も、すべては最初から狙っていったもの、時制と場所も整合していないように見える。

Guerínにとって、ドキュメンタリーであるべきかどうか、というのは割とどうでもよくて、我々の目はシルビアを追うレンズとなって、いろんな「工事中」の只中を彷徨う。

ラスト、娼婦とごろつきのカップルがおんぶしながらゆっくり歩いてくるとことか、いいよねえ。


Los Motivos de Berta (1984)  -  『ベルタのモチーフ』

Guerínのデビュー作。
ベルタを追っかける、というよりは、ベルタ、というひとりの少女を原っぱのまんなかに置いてみたときにどんな映像が、映画が、目の前に広がってくるだろうか、というスケッチ、のような。
白いページの上に、Guerínはこんなふうに描き始めたのだ、と。

ベルタは母親と二人で暮らしていて、母は少し病んでいて、兄は軍隊に行って不在で、隣には男の子(ルイジト)とその父の二人親子が住んでいて、交流があるのはこの家族だけ。 彼女は学校にもいかず手伝いをしたりふらふらしながら日々を過ごしている。 ある日、ナポレオンの帽子を被った変なおじさんが近くに越してきて、いろいろあったらしいことを語っていた男は突然拳銃で自殺してしまう。男が死んだあとにいろんな人たちがやってくる。 どこからか映画の撮影隊がやってきてわからない言葉(英語)でなにやらやっている、などなどなど。

原っぱや森での遊び、カエル、焼けただれて置いてある車、壊されてしまう秘密基地、遠くの街からやってくる車、郵便、こちらの世界、原っぱの向こう側の世界、などなどなど。
いろんなスタイルで作っていったデモテープを丹念に繋いでみた、そんなかんじもする。

ベルタの内面には注意深く立ち寄らず、彼女と世界との間に出来始めた隔たりとそれが原っぱのなかでたてる小さな音を拾いあげようとする。

「モチーフ」の切り取り方に例えば、フォード、エリセが大好きな50代男性、の判りやすすぎる嗜好・傾向を見ることは簡単だが、それのどこが悪いのか。 映画はこういうところからしか始まらないのだねえ、と改めて思うのだった。

7.14.2012

[film] Essential Killing (2010)

6日、金曜日の夕方にさっと抜けて、ぜいぜい言いながら逃げまくって吉祥寺に行って、見ました。
イメージ・フォーラムでの公開時には見逃してて、でもどうせこれは爆音でやるじゃろ、と思ってたらほんとにやってくれた。

すごくおもしろい。
2010年の末にLincoln Centerで『早春』(1970)の上映があったとき、監督が来て挨拶して、"Essential Killing" が今のとこ自分のベストだ、『早春』はセカンドベストだ、って言ってて、それがよくわかる。

男が必死になって逃げているだけの映画。
なんで彼が逃げているのか、なんで彼は追われているのか、バックグラウンドはなにもわからないし、男はほとんどしゃべらない。
ただ、そのしゃべらない、ということと必死の形相から状況はやばくて、そこにヘリがばりばり飛んでくるともう、相当これはひどいんだろう、って。

たまに男の故郷なのか、夢のなかなのか、桃源郷みたいなシーンが出てくる。
でも今はそうじゃないんだ、と。
あの場所には還れないのだ、ということか、あの場所を目指せ、ということか。

崖つきの砂漠で軍みたいなとこに捕まって、施設に収容されて、移送中に事故があったのでその隙に抜けだして、今度は雪原で、飢えと寒さで死にそうになったとこで、一瞬匿われて、そこから再び外に出ていく。

「逃亡」と「殺し」とその裏側にある「生きる」ということ、それらひとつひとつのアクションの、究極の型、のようなものが抽象的な、超越的な目線を一切排したかたちで映しだされている。
過激でも残酷でも陰惨でもない。

ずっと過酷でぎちぎちしていたトーンが屋根のあるところに匿われ、傷と血を拭われたことで少しだけ弛んで、流れが少しだけ変わる。
「xxから逃げる」だったのが「xxへ向かう」ようなトーンに、男の表情も含めて微妙に、わずかに。

キリストの受難の旅みたいなかんじもする。白い馬だし。 ガレルの『内なる傷痕』(1970)をちょっとだけ思い出したりもする。
で、最後までいくと、Essentialな殺し、って彼が実行するものなのか、彼に対してなされるものなのか、とかね。

それにしても、あの母乳のシーンはすごいよねえ。
どんな「殺し」よりも、こっちのが強烈だったりする。

7.13.2012

[film] Dans la Ville de Sylvia (2007)

会社を半分休んだ翌日の4日、もう体が動かなかったので一日まるごと休んだ。 独立記念日だし。
ほぼずーっと丸まって寝ていたのだが、午後になってなんか動かないともったいない気がしてきたので起きあがって1本だけ見てきた。
元気だったら爆音の『精神の声』(328分)とかも考えたのだが、こんな体力ない状態でみたらはっきりと向こう岸に行ってしまいそうだったので諦める。

イメージフォーラムで始まっていたJosé Luis Guerín特集から『シルビアのいる街で』。
Guerínの作品は、TIFFでやったメカスとの往復書簡のしか見ていないので、この機会にできるだけ見ておきたい。
のだが、いまの時点で『シルビアのいる街の写真』と『イニスフリー』はもう見れないことに気づいた。 ちぇーっ。

ストラスブールの街で6年前に会った女性(シルビア)の面影を探してうろうろする若者の3夜。

たったそれだけなのに、このおもしろさ、ぞくぞくくるかんじはなんなのか。
あーこの作品すごい好きなやつかも、と思いながら画面を見ていた。 
たぶんこれから先、何回でも見ることになるであろう作品リストに追加される。

6年前に出会ったとき、彼女はここの演劇学校に通っている、と言っていた。
それだけでそこのカフェに座って、周りの女性をスケッチしたりしながらじーっと目で追っかけている。
設定としてはなかなか気持ちわるいのだが、彼の風貌がべたべたしていないのでよいのかも。

2日目に彼女だ!    ていうのを見つけて街中を延々追っかけていく。 この追っかけっこがとにかくすばらしくて、街中の路地とかお店、アパート、いろんな人たちとか、の間をすたすた歩いていく彼女、同様にひょろひょろ追っていく彼、ぴーんと張られたふたりの間の糸(彼女の背中と彼女の肩越しにある目)に空気と光が纏わりついて風になびく髪のようにそこらじゅうに散らす。
そうするともう、そこらじゅうの女性がみんなシルビアに見えてくるの。
それこそフィクションでもドキュメンタリーでもない、自然現象みたいにそういうのが起こる瞬間をカメラは捉えている。

彼はようやく彼女に追いついて、会話することができるのだが、彼女はシルビアなんてしらない、彼の知っている彼女とはちがう、きもちわるいわね、という。 それはほんとうかもしれないし、彼女はうそついているのかもしれない。
そうかー。 やっぱしー。 そういうもんかー。 しょうがないねー。

で、その晩、なんとなくバーで拾った女性と寝ちゃうのね。 このすけべやろうは。
で、そんなことしたもんだから、翌日は更にそこらじゅうでシルビアがまわりだしてしまうの。

この彼は、この後もずっと懲りずにシルビアを探し求めて世界を彷徨っていくに違いなくて、それはおそらく、Guerínが映画を撮り続けていくことの態度表明でもあるの。 すごくべたなロマンチストみたいだが、画面の美しさと力強さは丁寧に冷静に考え抜かれて切り取られたものだとおもう。

シルビア(じゃなかったけど、たぶん。)を演じた彼女(Pilar López de Ayala)は、Oliveiraの"O Estranho Caso de Angélica" (2010) でとってもきれいな死体のAngélicaを演じたひとだった。
どっちにしてもDream Girlなのね。

7.12.2012

[film] Don Hertzfeldt 2006-2012

『孤独な惑星』に続けてみました。
これもUS、Junk、カートゥーン版の「孤独な惑星」なのかもしれない。

『きっとすべて大丈夫』3部作の本邦初上映。

3部作っていうのは、"Everything will be OK"(2006), "I am so proud of you"(2008), "It's such a beautiful day" (2012)で、こないだのイメージ・フォーラムの特集上映のは、最初のふたつまでだった。 このときは当然爆音ではない。

ぜんぜん"Everything will be OK"とは思えない病んだビルとそのまわりの人々とか家族とか。
前のイメージ・フォーラムでの特集は、彼の他のナンセンスな小品と一緒だったこともあり、印象が結構異なる。 
たぶんこの3部作だけ纏めてみるとダイレクトに迫ってくるものがあるのできついひとにはきついかもしれない。

そして、3部作の最後の"It's such a beautiful day"も、内容は前の2つからも簡単に予想できるように、ぜんぜんbeautiful dayではない、でも絶望からも遠いものだった。 かといって安寧な、悟りの境地に到達してしまうようなものでもない。

それは向こうからやってくるような。 つまり、
"Everything will be OK"とか "I am so proud of you"とか "It's such a beautiful day"とかそういうのをビルに向かって語りかけているのは誰で、どこからなのか、ということなの。

体も頭もなにもかも、全ての自由とコントロールを失い、感覚と感情のみとなったビルの永劫回帰の旅。
ローファイ版のニーチェなのかもしれないし、東西の古典から、他にいくらでも参照項は出てくるだろう。 個人的には『八月に生まれる子供』かもとか思ったが、そういうのを思い出さなくても、ビルが爆音と共に通り抜けて辿りついた場所は、たぶんあの震える線と滲んだ色と光がなければ現れることがないものだったとおもう。 

3作目はいちばんカラフルでサイケで、目の裏側にそのまま繋がる夢の映像に近いもの - Wendersの"Until the End of The World" - 『夢の涯てまでも』が捕まえようとした夢とか、そんなことを思ったりもした - 機械に繋がれながらも最大限の自由を手にすること、更にその彼方に向かおうとする意志と。

ものすごく抽象的な詩みたいな側面もあって、くるひとにはくるしこないひとには... とかそういう乱暴なことを言ってはいけないのだが、いろんなひとに見てほしい作品であることはたしか。

爆音が本当に適正なのかどうか。 もっとでっかい音でもいいように思えたし、それかうんと高解像度のディスプレイでヘッドホンで微音を拾うように没入するのもよいかも。

これの後は、爆音実験映画+ライブで、前売りも買ってあったのだが、あたまとからだがぜんぜんすべて大丈夫ではなくなってきたのでよれよれと帰ったのだった。

[film] 孤独な惑星 (2011)

清澄なんとかからがんばって吉祥寺に移動したのだが、あんまりの気圧と湿気でなにもかもいやになる。
これが今年の爆音映画祭の最初となった。

ユーロスペースで見逃していたやつをなんとなく、だったのだがすごい沢山の人がいたので驚いた。
人気があるひとが出ているの? どうなの? (誰に聞いてよいのかわからず)

マンションで一人暮らしの女のひとがいて、彼女の隣の部屋にカップルが住んでて、そのカップルがすごい喧嘩して男のほうが追い出されて、隣の住人の部屋のベランダにテントはってそこで暮らし始めるの(いろんな不干渉、非接触ルールを作ったうえで)。

男はそこから元カノにわかんないようにバイトに出てって夜はそうっとテントに戻る、そんな生活ありえない、ことはわかっていても、あってもおかしくないかも、と思わせる程度のリアルさで彼はやつれたり疲れたりしている。

孤独な惑星のかんじが出ていて、なかなかよかった。
どうせ孤独なんだから、と開き直ることもなく、さみしいようーとべたべた寄ってくるわけでもなく、四角四面の壁やドアや窓で仕切られた空間のなかをそれぞれに横切っていくいろんな惑星たちの昼と夜と。 

惑星の軌道は地球上にあるようだが、太陽さんはいったいどこにあるのか、だれもわかっていない。わかったら楽になるかもなのに。
惑星はどこか遠くに旅に出ることも、衝突してクラッシュしたりして惑星をやめることもできない。 黙ってぐるりといろんな境界の上を渡っていくことしかできない。

主人公の女性(竹厚綾)がすごくよくて、彼女の祈るような寝顔(どことなく「果てなき路」のヴェルマに似ている)と、「お祈りしているんだ」とか言いながら世界地図(白地図)にピンを刺したり抜いたりしているのを見ていると、なんだかたまらなくなる。 

音は実に豊かにいろんなのが聴こえてきて、転がっていく惑星がたてるとしたらこんなの、だろうな。
たったひとりがたてる音、窓の向こうのベランダの音、ベランダとの間のどこかで鳴る携帯の音、ベランダの彼方からの音、壁の向こう側の音、これだけの音に囲まれていてもなお/いるが故に、それでも惑星は孤独であるという -

7.11.2012

[art] Thomas Demand

戻ってきた翌日の3日、ありえない虚脱感に襲われた、ということになり、午後会社を休んでみました。
この展示はじきに終っちゃいそうだったし、爆音の前売り買っていたのがこの日のだったことがわかって、抜けないわけにはいかなかったの。

清澄なんとかの駅でおりたのはすんごい久しぶり。

いろんな「現場」を模型とかで工作して、それを実物大の「写真」として写してみて、そうしてできる「現場写真」。
現場の生々しさを伝えるはずの「現場写真」は、撮られた時点で「事後」であることから生々しさからは遠く、だからといって、決して単なる情景を撮ったものにはならない。 与えられた情報をもとに我々のあたまのなかで再構成される「現場」のありよう、その微妙な、第三者的な立ち位置をフィクション(つくりもの)の側から逆照射してみよう、と。

コトが起こったその場所に実際に行ってそこに立ってみえるものと、彼の実物大の写真の前に立ってみえるものとの間にどんな違いがあるのか? たいして違わないんじゃないのか? 当事者でも幽霊でもない限り、わかんないんじゃないのか、と。

そういう「事件」と「第三者」の関係は、そのまま作者であるThomas Demandとそれを鑑賞する我々の関係(作者が提示しようとした何か=再構成しようとした現実世界 - と我々の目にうつる何かは同じものとして見えているのか?)にも置換しうる可能性があって、要は、みてくれは素朴でぺらっとした写真なのに、裏にはものすごくいろんなテーマが網の目のように張られている、そういうおもしろさがある。

あとは、階下でやってたアーティストトークのビデオ見ててわかった、それでもなんとか本物らしく見せるためにやってるものすごいこまこましたいろんな努力ね。 あれを見てしまうと映画製作にも近いなにかを感じてえらいなー、とか。

写真と動画とでいうと、動画のが圧倒的におもしろくて、"Pacific Sun"なんかは不謹慎だとわかっていてもおおーっ、となるし、"エスカレーター"の裏の映写の、ループし続ける35mmフィルムには感銘を受ける。 
えんえんループし続ける、再生を繰り返していくなにか、そのエンジンはなんなのか、というのもテーマとしてはあるよね。

下のフロアでは次の展示の特撮のセットを準備してて大変そうだったが、特撮とも違うねえ、とか。
特撮は技術であるが、これはそのもうちょっとだけ手前の、もっとやわらかいもにゃもにゃしたなにか。

しかし、こっちの(特撮の)展示は、混みそうだねえ。

7.10.2012

[log] NYそのた - July 2012

NY、残りのあれこれ。

今回は映画もライブもあんまなかったので、28日(木)の晩、お食事に行った。
折角なので新しいところ、ということで、トライベッカのateraというとこ。

最近はやりのオープンキッチンで、日替わりおまかせ$150のコースのみ。
シェフのMatthew Lightnerは、PortlandのCastagnaにいたひとで、デンマークのNormaにいて、スペインのMugaritzでAndoni Adurizに師事したという。

New York Magazineのレビューが結構よかったのだが、ここの評価はたまに外していることあるし、この手のModern Eclectic Cuisineって、WD-50の例もあるように、なかなか定着してこない。
ただ他方で、老舗の大御所(Bouley, Daniel, Jean Georgesなど)が伸び悩んでいる背景には、こういう新勢力の台頭もあったりするのかなあ、とか。

結局はおいしいもん食わせろ、なんだけどね。
通りに面したとこには店の名前の看板がなくて怪しげ。 カウンターはぐるりと15席、あとは6人掛けのテーブルがひとつ。

まんなかの調理台でシェフを含めて4人くらいがスポイトだのなんだのいろんな器具を使ってよってたかって作業(調理、ってかんじはしない)、しててそのまわりを、工程管理するおねえさんとか、火入れとかパンとかデザート担当とかが囲む。全部で10人くらいか。

最初に「スナック」ていうのが10品。 スナックなので籠とか箱とかに入ってて、はい、って出されたもんを手でつまんで口に運ぶ。
これがなんともいえずおもしろくてたのしい。 食材の風味と外見、食感に触感(さわってぶにゅ、とか)、料理名を聞いて、目で見て、鼻で嗅いで、手で摘まんで、口に入れて、もぐもぐして、飲みこむ、これらの各工程でインとアウトのイメージが全て微妙にずれまくるので全体としてはこれなに? の吹き出しが脳内で乱立していく。

例えばフォアグラ落花生、ていうのがあるの。
茶色の殻つき落花生の形で、ちょっとだけぬめっとしてて、でも後味はしっかりフォアグラがくる。
こんなのばっかしで、メレンゲでできたロブスターロールとか、うずらの卵とか。
おいしいおいしくないでいうと、おいしい、けど、それは各自のおいしさの定義とか許容範囲の更新を要求してくるような押しの強さがあって、今にして思えば、これらのスナックは、メインの前座として、各自における「おいしい」を一旦宙吊りにするような機能を持っていたのではないかしら。
問答無用においしいー! ていうのもあるが、一瞬考えて、おいしいー、って言っていいのかしらこれ? と周りを見回してしまうようなやつもある。

そこいくと同じようなスタイル(カウンター対面、てづくり - てつまみ)でも、(例えば)お寿司のシンプルなことったら。
あんな、試験管とかスポイトなんかで実験しながら作ってるような料理なんて食えるかい! 黙ってうまいもん持ってこんかー! みたいなひとは来ないほうがよいかも。

スナックの後のメインは9皿。 メインの食材+付けあわせのはっぱ、とかの組合せになってて、スナックほどアヴァンギャルドではなく、なにが料理されているのかはわかるし、一応ナイフとフォークもある。

なかにはラーメンやってみました、とか言って失敗してたのもあったが、全体としてはすばらし。
トリュフです、と言ってでてきた外側真っ黒のビーツのローストがおいしかったねえ。
この流れでどうやって締めるのかとおもったら、最後の方はどまんなかを狙ってVeal ~ 和牛のリブアイへと。 特に和牛は赤身のまっかっかなレアで、付けあわせの酢漬けのMarrowの刃物のような鋭さと共に震えがきた。

好感をもてたのは、泡とか液体窒素攻撃がなくて食材真向勝負をしようとしているとこ。 
ほとんど東海岸のローカルで自分達で見つけてきたものでやりくりしようとしている。 野草やハーブの使い方は相当ちゃんとしていた。

メインのあと、オプションでチーズも取って(すごくおいしかったのだが、どこのだったかメモとるのわすれた)、デザートは4皿でた。
デザートは、どんな変なのが出てくるかどきどきしたのだが、シャーベット → ピーチ → Churro → アイスクリームサンドと、これも見事な直球で、直球であるが故の切ない甘さとやさしさにやられる。 さっきまであんな変態だったくせに、別れ際になったら… とかそんなかんじ。

というわけで、すごくおもしろくておいしくておなかいっぱいになったのだが、好き嫌いの多いひととか、アレルギーのいっぱいあるひととか、そういうひとはちょっと難しいかも。 
(予約の際に結構聞かれます)

http://ateranyc.com/

今回、本はあんま買わなかったかも。 雑誌はあれこれ買ったけど。

"Canyon of Dreams : The Magic and the Music of Laurel Canyon"
http://www.sterlingpublishing.com/catalog?isbn=9781402765896
これのソフトカバー版が出ていたので買った。 西海岸音楽の包括的なガイド。写真いっぱい。

あと、33 1/3シリーズの、Talking Heads "Fear of Music" by Jonathan Lethem。 
これ、どこの本屋にも山積みされてた。

VFILES x Gallagher’sはateraに行く前に立ち寄ったのだが、East Villageにあったころの1/3くらいしかなかったかも。
90年代初のPaperとか、少しだけ買いましたが、古雑誌の値段のあがったこと(つりあげてるでしょ → V)。

レコードは、ぜんぜんで、少し買った程度。
Dirty Projectorsの8x8 inchていうのを買った。 塩化ビニール板からそのまま切り出したみたいなぶあつい四角の板。溝は片面だけ。 

BAMに行ったら、Next Wave Festivalの30th seasonのパンフが置いてあった。
もう30thかあ。行き始めた頃は15thとかだったもんなー。
アイスランドのVesturport TheaterがゲーテのFaustをやって、その音楽をNick CaveとWarren Ellisがやるのとか、音楽だとJohn CaleがNicoへのTributeをやるのとか。

行き帰りの飛行機では、新しい映画はぜんぜん見ないで落ちてた。

行きは、"We Bought a Zoo"と"The Vow"をふたたび。
"The Vow"、記憶を失ったの男のほうだったら、どうだっただろうか、とか思った。 彼女は割とあっさり諦めてしまうのではないか、とか。

帰りは、7月に入って番組が変わってて、まず"21 Jump Street"を。
やっぱしこれおもしろいわ。 なんだか意味不明だがどかどか盛りあがるエンドロールも素敵。

それから"The Hunger Games"もふたたび。 国家とかメディアのありようをきちんと俯瞰できて、それは現代とも地続きで、そういう点で近未来の荒唐無稽SFなんかではない、そうとうきちんと作られた映画なのだな、というのが改めてわかった。
続編には、Jena Maloneさんが出ると。 これはなんかすごくなるかも。
   
あと、「レンタネコ」ていうのを見てみたのだが、猫がぜんぜんまんなかに出てこないのでつまんなくなって切った。

あとほかになんかあったか。


7.07.2012

[film] Magic Mike (2012)

この天気のやろうわぁ(怨)。

"Funny Face"を見終えて外にでてもまだ7時くらいで、外はぜんぜん明るい。
そろそろ最後の晩をどこでどう過ごすか考えねばならないのだった。

もちろん、できればライブ、なのによいのがない。
WilliamsburgでWhite Rabbitsのフリーのライブがあったのだが、チケット貰うために並ばねばならなかったし、East VillageではMelvinsがどっかの地下でライブをやるということで少しざわめいたものの、チケットは170枚くらいの先着手渡し、とか言っててこれもお手あげ。その近所でJunk系のArt Showをやってて、彼らのライブはその会場でもストリーミングされるということだったが、そういうとこに行くと、どうでもいいがらくたを買いこんでしまうに決まっているので、近寄らないことにした。 なにもかもかわいそうすぎる。

いっこだけ、Mercury LoungeのEarly Show(7:30〜)でSam Prekop and Archer Prewittがあったので、これにしよ、と。 これなら終ってから映画ももう1本見れるだろうし。

念のため最後の獲物を求めてGeneration RecordsとOther Musicをうろついた後、小屋に入った(当日券$10)のが8時過ぎ、まだ前座が始まったばかりだった。
ひとりでぶよんぶよんしたエレクトロにもごもご歌語りという、あんま好きなかんじではなくて、これならこないだのSilever Applesのがぜんぜん爽やかだったねえ、とか思ったのだが、このおっさんがぜんぜん終ってくれなくて、ふたりが出てきたのはほとんど9時くらい。
1曲目がSam PrekopのモジュラーシンセにArcher Prewittのギター、というこれまでとは違うかたちの長めの曲がわるくなくて、2曲目からイメージ通りのギターデュオになって、あーこれこれ、というかんじ。
とっても気持ちよい夏ギターの音、だったのだが、映画も見たかったので3曲くらいで外にでる。

映画は、これか、"Your Sister's Sister"のどっちかで考えていたのだが、リリースされたばかりでなにかと盛り上がっているし、行きの飛行機でもういっかい"The Vow"とか見てしまったりした(だってろくなのやってないんだも)ので、こっちにした。

9:50にKips Bayのシネコンで見ました。 ガキだらけのUnion Squareのとも、やくざもんだらけのTimes Squareのとも違って、ここのシネコンはMidtown Eastの住宅街の中なので観客は近辺の家族とか、割とおとなしめなの。
 
しかし、この映画に関しては、ほとんど女性の集団でわいわいざわざわしていた。男は彼女に無理やり連れてこられたふうが多いかんじ。

映画はとってもよかったです。
わたしはSteven Soderberghの作家性とかぜんぜんわかんないし、そんなのどうでもよいのだが、この映画はいいなー。 
Channing Tatum(Magic Mike)による男性ストリッパーの青春もの。
裏芸能モノぽいじめじめべたべたしたとこのない、さらりと爽やかな印象を残す。

オープニングがいきなり、Matthew 「馬」Conaugheyですよ。 彼もついにここまで来てしまったか、という。いいんだけどね。いきなり開けたよね。あっちのほうに。

でもう、こんな冒頭からきゃーきゃーで、Channing Tatumが布団から起きあがってタオルをずるっと落として(Vowがみえるかみえないか)、きゅっとしたおしりまるだし全裸の後ろ姿を曝して外の世界にばーんと向かったとこで、すさまじいどよめき(高周波)と歓声がわんわん広がる。 おもしろいー。

彼のほかにもうひとり、19歳なのに目が虚ろでぼーっとした貧しい若者がいて、Mikeに犬のようについてってそのままなんとなくストリッパーになってしまう小僧がAlex Pettyferくん、"I Am Number Four" だった彼で、この子もよいの。 "I Am Number Four"で宇宙人としての自分に目覚めていったのと同じように、ストリッパーとしての自分に目覚めていってしまう。
こいつが穴埋めで無理やり舞台に立たされ、"Like A Virgin"にあわせておどおど脱ぎはじめるとこなんか最高。

彼を女手ひとつで育てあげた勝気な姉にCody Hornさん。弟の舞台を見てどきどきするとことか、Mikeとのやりとりもとってもおもしろい。

ストリッパー稼業とか仲間とのあれこれもあるけど、それだけではなくて、ふつうに土方しているとことか、銀行にローン借りに行って断られたりとか、がんばるMikeの青春が気持ちよい。
Channing Tatum、やっぱしいいやつかも。

ラストのカットもほんとに素敵でさあ。

あと、げろにむしゃぶりつくかわいー子豚とかも出てくるので、それだけでじゅうぶん。

NYのはあと1回くらい書くかも。

7.06.2012

[film] Funny Face (1957)

最後の土曜日、美術館まわったあと、ホテルに一旦荷物を置いて、Williamsburgに出て、レコード屋猫と本屋猫に挨拶して(それぞれで少しだけ買う)、滞在50分でマンハッタンに戻って、Film Forumに行った。

ほんとのところ、Lincoln Centerで始まったAsian Film Festivalでかかった、"Five Fingers of Death" (1972) - 『キング・ボクサー/大逆転』- とこっちと、どっちにしようか悩んだのだが、このくそ暑いなか、目玉えぐりとか見たくなかったのと、せっかくSchiaparelliのピンク見たんだし、こっちのピンクも見ないと - "Think Pink!" とか思ったのね。

客席はおじいさんおばあさんたちと、ゲイと小さい子供連れ、くらいしかいない。それでもほぼ一杯になっていた。

始まる前、画面に"Overture"とひとことだけ出て、Film Forumでかかった古今東西の名画のスチール - どれもこれも、それはそれはかっこいい - がぐわんぐわん流れていって、最後に"25th Years of Repertory"と出る。 ~みんな盛大な拍手。
ほんとにねえ、ここのRepertory(昔の名画紹介シリーズ)がなかったら、こんなに映画見るバカにはならなかったはずなのにね。

上映はフィルムではなくてデジタルで、ただ、ここのデジタルは今年の最初のほうで審査会みたいな特集("This is DCP")をやって観客に見て貰った上で判決が下されたはずで、上映するっていうことは審査を通ったってことなんだね?

画質に関していうとびっくりするくらいきれい、テクニカラーのややきわどいかんじの色合いもきちんと出てて、ただちょっと明るいかな、程度。
この作品の場合は、それくらいでちょうどよかったかも。

映画は、別にいいよね。 『パリの恋人』。
オードリーとアステアで、ぜんぶ御都合主義で、映画としてもラブコメとしてもあとちょっとがんばってほしくて、歌も踊りもそんなにすごくはないけど、でも、いいの。

Fanny Faceだろうがなんだろうが、あんなかわいい娘がグリニッジ・ヴィレッジの本屋なんかにいるもんか、とか、ファッション誌の写真家で歌って踊れて彼女がいないときたらゲイに決まってるのになんかおかしい、とかいちゃもんなんていくらでもつけられるし。
でも、それでも嫌いになれないのは、例えば目が合った瞬間に電気が走るあの瞬間とかがシャッターの音と一緒にたくさん入っているのと、オードリーがぐるって回ったりするのが素敵だから。

そういえば、"Sabrina" (1954)もこれも、あんまいけてない女の子が年寄りに拾われて立派に成長するお話だねえ。

終って外に出たら、ロビーには更に大量の老人たちとゲイさんたちが溢れているのだった。

売店にはちゃんとKay ThompsonさんのEloiseの本もちゃんと置いてあった。

あと、翌月曜日(2日)の上映時にはIsaac Mizrahiがおしゃべりしたんだってさ。

7.05.2012

[art] Rineke Dijkstra: A Retrospective

土曜日は11時くらいに仕事が、滞在延長してもなんの意味もなかったようなぼろかすな結果で終わり、なにかに噛みつかないと気がすまないくらいあったま来てお腹が減ってきたのでとりあえず外にでる。

まず、ものすんごく暑かった。着いた日もそうだったが、あれよか日射しは強い。

上のほうの美術館に向かうのはわかっていたので、それなら久々にとCafé Sabarskyに入り、Wiener Schnitzelをばりばり食べてApple Strudelを頬張ってようやく落ち着いた。 相変わらずおいしかったけど、ひとりで$50こえてしまった。

落ち着いたとこで気を取り直してNeue Galerieの入り口の看板のぞいたらこんなのやっていたので見ることにする。 
Heinrich Kuehnにフォーカスした展示はNYでは初だと。

Heinrich Kuehn and His American Circle : Alfred Stieglitz and Edward Steichen

StieglitzやSteichenのような巨匠の、写真表現の奥底を探っていくような粘っこい強さは感じられない分、子供や家族を撮った写真の素朴な美しさに惹かれる。 陰影がついて、色がつく、それだけでその人が現れて嬉しくなる、そんな写真達。 特に和紙にプリントしたシリーズの肌理の素晴らしいこと。 Lartigueの家族アルバムもこのひとのも、見ているだけでじーんとしてしまうのはなんでなのか。

それからGuggenheimに歩いて行って前日(6/29)から始まったこの展示を。

Rineke Dijkstra: A Retrospective

オランダ人写真家のSFMOMAから巡回してきた回顧展。
有名な浜辺のポートレートの他にもいろんな若者たちの写真が。
元気いっぱいとか生々しいとか痛々しいとか、そういう所謂リアル系ではなくて、一見すると無表情でプレーンな印象を与えるのだがようく見ているといろんなことを語ってくるの。

子供と大人の中間にあって、自分の顔や姿態がまだ固まっていない、彼ら自身のなかで自分をどう出したら、見せたらよいのか/出すべきなのか解りかねている少しの戸惑いと恥じらいと、そういった表情とその一瞬を丁寧に切り取っている。

一見するとJuergen Tellerあたりのぺたーっとした写真に似ている気がしないでもないのだが、彼の写真を見ているとたまに感じるこいつなんも考えてねーんじゃねえの、みたいな腹立たしいなにかはやってこない。 愛だよ愛、なのかもしれない。

写真の他に動画作品もあって、壁面4つに順番に子供が音楽にあわせて踊るところを映している。
カメラは固定、白の背景をバックに、ふつーのかっこで、特にダンスが巧いということもない子供たちの、いろんなダンス。 忘我で踊りまくる子もいれば、恥ずかしくなって途中で止めそうになって、でも気にいった箇所が来るとまた踊りだしたりとか、いろんな子がいる。 見てて飽きない。

もういっこ、Guggenheimのぐるり廊下をてっぺんまで使ってやっていたのがこの展示。

Art of Another Kind: International Abstraction and the Guggenheim, 1949?1960
http://web.guggenheim.org/exhibitions/anotherkind/

ポロックから始まって、世界中のど抽象系(要するに何が描いてあるかぜんぜんわかんない系)の平面絵画(たまに立体もあり)を螺旋状にこれでもかと並べてある。 それをぜんぶ"Another Kind"とか括っちゃうのって結構乱暴だよね、とか思ったし、いっこいっこ見ていったら疲れそうだったのでざーっと流した程度。見たかったのはあくまでRineke Dijkstraだったのだが、この展示が複数階に分かれていたので通らないわけにはいかなくて。 上のほうにYves Kleinの青が見えたので、とりあえずそこまで行って戻った。

次のMetropolitan Museumではふたつだけ。

Schiaparelli and Prada: Impossible Conversations

入ってすぐのところで、ばかでっかい画面でBaz Luhrmannによる二人(Schiaparelli役はJudy Davisが)の対話映像が流れてて、この断片は会場のあちこちで繰り返し流されている。 
展示のタイトルである"Impossible Conversarion"には、いろんな意味があって、Schiaparelliが既にいない以上、対話そのものが成り立ちえない、ということもあるし、作者が異なり、時間的に隔たって生まれてきた芸術作品(=美術館にあるのだからね)に果たして「対話」が成立しうるのか、というのもある。
しかしながら、入口のとこの映像でふたりの間の「対話」は成立しているように見えるし、なによりも作品(とその展示方法)を見てみれば、そこに何らかの対話関係、共鳴しあうなにかがあることは一目瞭然なの。

ふたりの間に決定的な相違と断絶があるとすればそれは、「ドレスのデザインは職業というよりはアートの領域にある」というSchiaparelliに対し、Pradaは「デザインはクリエイティブではあるがアートではない」、というとこね。 (この「対話」部分だけ切りとられて会場にでかでかと貼ってあるし、こないだのSPURの特集でもこの部分はピックアップされていた)

でね、ざーっと会場見たふつーのねえちゃんあんちゃん達がおそらく思うであろうことは、「PradaってSchiaparelliのパクリなんじゃねーの?」ではないかと。 この辺のとこを服飾デザインはアートなのかそうでないのか、の両者の見解と絡めて考えてみるとおもしろいのね、たぶん。

あと、イタリアの女たらしおやじ共からすれば、ねえちゃんたちがきれいに見えればどっちだっていいじゃん、であろうからその辺をどうするのか、というのもある。 そこはどうにもならん。 たぶん。

でも展示としてはすごくちゃんと練って考えられた、完成度の高いやつだと思いましたわ。

もういっこが屋上で展示してたやつ。

Tomás Saraceno on the Roof: Cloud City

毎夏の屋上展示はこれまででっかいレリーフとか、どうでもよさそうなのが多かったのだが、今回のはなんかかっこよさげだったし、天気もよかったので久々に上ってみるみるか、と。
きんきんして眩しかった。中に入ってのぼったり遊んだりするのは時間制のチケットがいるようだったが、そんなの取ってる時間はなかったからそこは諦める。 なんか、高級ふうジャングルジム、のようでしたわ。


ひととおり見て、バスで下に下ろうと思ったのだが、こういうときに限ってバスは来ないことになっているので、taxiで南下して一旦ホテルに荷物(展覧会のカタログとか)を置きにもどった。

7.04.2012

[film] Ted (2012)

金曜日の晩、"Neil Young Journeys"のあと、Union Squareのシネコンに移動して見ました。
この映画もこの日が初日で、シネコンのロビーがひとでごったがえしていたのは、たぶんこいつのせい。
前宣伝がなかなかすごくて、ロンドンでもMark Wahlbergとクマが連れションしているビルボードがどこに行っても貼ってあった。

で、10:10の回を狙って行ったら、8:30の時点でこの回はもう売り切れてたので、10:40の回を取って、上映の20分前に行ったら、この回のシアターはすでにぱんぱんで中に入ることができず(つまりみんなずるしてるってことね)、11:10の回に回されてしまった。
しかしこんな時間なのに子供の歓声があちこちで聞こえてたのはどういうこと?
 
で、そんな大騒ぎして見るほどのもんだったかというと、そこは微妙に微妙なのね。 悪い映画じゃないけどさ。

John (Mark Wahlberg)は子供のとき、親に貰ったぬいぐるみのTeddy Bear(だからTedなの)が大好きになって、ずうっと一緒にいたいです、て流れ星にお祈りしたら、ある朝クマが立って歩いてしゃべりながら寄ってくる。 ふつうだったらこんなのホラーだと思うのだが、とにかく危害を与えるわけでもないしそういうもんかも、と彼も家族も周囲もみんな受け入れて、JohnとTedはずっと一緒にいることになる。

こないだの"The Muppets"だと相方MappetsのWalterはずっと歳を取らずに人形のまま留まるし、"A.I." (2001)だと、ガキとクマは同じサイズのまま止まっている。 けど、この作品のTedは、Johnと一緒に歳を取っていくので、だんだんにおやじ化していくのね。

それは確かに時間に抗うことができないおやじ(達)の物語ではあるのだが、同時に大人になりきれない子供(達)の物語でもあるの。 Johnには付き合って4年になる彼女 - Mila Kunis - がいて、そろそろ結婚を意識しはじめているのだが、踏み切ることができないし、仕事だってずっといまのままでいいのか、とか。

でもクマはそんな心配とは無縁なので(いいなー。クマになりたい)、はっぱやったり女を連れ込んだりやりたい放題やってて、やがてJohnとの間に溝ができてきて、と。 だれもが思いつく定番のバディ映画のパターンを動くぬいぐるみ相手にやってて、そんなに外してない。 脇ですこしだけ暴れてくれる愉快な友達とかがいたらもうちょっとおもしろくなったかも、だけど。

Norah Jones本人が出てくるの。
それと、Flash Gordon (Sam J. Jones)も出てきて、主人公を導いてくれる。
問題は、あのQueenのテーマ(でんでんでんでんでん…)がずっと頭のなかで回り続けることね。
他にはTiffanyの"I Think We're Alone Now"とか、全体に微妙に80'sだったねえ。

あと、Ryan Reynolds、あんたが一番おかしかったかも。

7.03.2012

[film] Neil Young Journeys (2011)

帰国していますけど、この天気はあんまりすぎる。

まだNYにいた先週の金曜日、夕方に抜けて見てきました。
この作品、NYとLAはこの日が初日で、NYではTImes SquareとSunshineの2館のみ。Times Squareのほうで見ました。 初日だし、売り切れてたらどうしよだったのだが、シアターに入ったら10人くらい、萎れたおじいさんみたいな人たちがぼーっといるだけだった。 初日なのに。 

Jonathan DemmeによるNeil Youngのドキュメンタリー、2006年の"Neil Young: Heart of Gold"、2009年の"Neil Young Trunk Show"(これは見てない)に続く3本目。

冒頭、ライブ会場のセットアップ風景に続いて、Neil Young本人が車(でっかい昔のアメリカの)を運転しながら自分が生まれ育った界隈を案内していく。 ここには昔川があって魚とか亀とか取ってあそんだ、とか、ここが親父の名前がついた学校(ほんとにでかでかとScott Young High Schoolて書いてある)とか、なんとなくほのぼの紀行モノみたいなのりなのでちょっと心配になる。

がががしかし、TorontoのMassey Hallでのライブ(日付は2011年の5/11 - "Le Noise"のツアー時のもの)に画面が変わって、1曲目の“Peaceful Valley Boulevard”が鳴りだした途端、ものすごくびっくりする。 これはアコギの音なのか、ほんとはなにが鳴っているんだ? 等々。
ひとつの楽器とひとりの声だけなのに、この厚さ、豊かさはなんだろう、と。これまで聴いたことがない音。

続いてギターはエレクトリックに替わり、"Ohio"を。
ここでもギターの音は凄いのだが、それとは別のところで画面に釘付けになる。
ここで歌われているKent州立大学での州兵による鎮圧の映像がそのまま使われ、その犠牲となった4人の学生の顔と名前が前面に出てくる。 あれから40年以上を経てもなお、君たちの死は無駄にしない、絶対に忘れないと死者と生者の両方にむかって強く強く歌いかけてくる。

その後は、"Le Noise"からの曲の合間に"Down by the River"、"After the Goldrush"、"My, My, Hey Hey (Out of the Blue)"などのクラシックを。

"Neil Young: Heart of Gold"でのNashvilleのライブが、天上に舞いあがっていくような、音楽の神様に全てを捧げるかのような無垢な愛に貫かれていたのに対し、この映画はその逆に、地上めがけて杭をぶっ刺す、振り下ろすかのような怒濤の殺気に満ちていて、それがぴーんと張ったギターの弦上からとてつもないレンジで飛んでくる。

それにしてもこの音、シネコンなのに服がびりびり震えるくらいのでっかさと深く澄んだ水のような底のなさと。 大抵の映画の音にはあんま驚かなくなっているつもりだったが、これには唖然とした。 

監督へのインタビューなどを読むと、プレミア時のTorontoの映画祭では98Khzで上映してて、ほんとは98Khzで展開したかったのだが、多くの上映施設がまだ98Khz対応できていないことから48Khzでもよいことにした、と。 このシネコンもおそらく48Khzだと思うのだが、それでもこれだけの凄まじいことになる。

爆音はもはやミニマムで、その上で水に浮かんだそうめんのいっぽんいっぽんがクリアに見えるような音質も求められるのだろうな。

ラスト、Ben Keithさんに捧げされていることがわかって、ゆったりとしたアコギによる"Helpless"が静かに流れていくの。 この曲だけトーンがちょっと違った。

今日はあんまりにもだるかったので午後会社休んで吉祥寺の爆音に行ったのだが、前売り買っていたライブ付きのはさすがにパスしてしまった。 アナログばかだけでもがんばればよかったかも、と少し後悔している。

7.01.2012

[log] July 01 2012

帰りのJFKに来ました。

仕事は壊滅的、修復できないくらいずたずた、全敗だった。
だからか、というかそのくせ、というか慌ただしくてなにひとつできなかった。

残りは少しづつ書いていきますが、金曜日からありえない暑さになって、これもきついのだった。
土曜日は、午後から自由になったので美術館3つ、映画2つ、ライブ0.5、くらい。
暑ささえなければなー。

こないだロンドンに着いた直後も慌ただしかったが、昨日の土曜日も慌ただしかった。
ロンドンの場合は、あんま土地のことをよく知らないので行ければラッキーなかんじの緩い慌ただしさなのに対して、NYは、それなりにわかっている(つもりの)ぶん、結構ぎりぎりいろんなものを詰め込もうとするので、リアルに慌ただしくなる。 で、そこに暑さとか絡んでくると舌だして勘弁しておくれよ、になる。

しかし、もう7月かよ。
こっちも勘弁しておくれよ、だわよ。

[film] Radio Unnameable (2012)

火曜日の晩、BAMで見ました。 これだけは前売りで買っておいた。
6/20から7/1まで、BAMでは、BAMcinemaFest2012ていうのをやってて、どういう趣旨のかは知らないのだが、独立系の小品みたいのが新旧長短含めていろいろ並んでいて、そのなかの1本なの。

Lena DunhamさんがCo-Writerとしてトークに参加した"Nobody Walks"(先週土曜日)とか、昨日の土曜日には"Kicking and Screaming"(1995)のReunionとかがあって、Noah Baumbachも出てきたのだが、これはチケットぜんぜん取れなかった。 本日(7/1)晩のClosingは、Don Letts先生によるドキュメンタリー"Rock ‘n’ Roll Exposed: The Photography of Bob Gruen"で、なんというか、全てにおいてタイミングが悪すぎる(自分の)。

この作品もドキュメンタリー。
Free Form Radioの先駆としてNYのWBAIていうラジオ局で50年以上に渡ってDJを続けているBob Fassさん(78歳)の足取りを、彼自身が残した膨大なアーカイブと共に紹介する。
Free Form Radioていうのは、DJのひとの語りとかミュージシャンによる演奏とかインタビューとかリスナーとのおしゃべりとか、なんでもありのやつで、彼は深夜0:00から午前3:30まで、眠れない夜を過ごすひとたちのために、50年間(途中中断もあったが)自分の番組を続けてきて、今も木曜の同じ時間帯に放送は流れている。

60年代初のグリニッジヴィレッジで俳優をしてて、その流れでなんとなくラジオ放送を始めたという彼の番組には、今からするとえええ、みたいな人たちがいっぱい登場して弾き語りとかおしゃべりをしているの。
Bob DylanもPhil OchsもAbbie HoffmanもJoni MitchellもCarly SimonもThe Incredible String Band(Joe Boydがインタビューででてくる)も、Arlo Guthrieの"Alice's Restaurant"が最初に演奏されたのはこの番組のなかだった、とか。 Garland JeffreysもKaren Daltonも瑞々しい歌声を聴かせてくれる。
音は流れなかったが、他にはTownes Van ZandtとかPatti Smithの名前もでました。

音楽だけではなくてカウンターカルチャーのほうも、68年、Yippies (The Youth International Party)によるGrand Central Stationの占拠のときは、彼の放送がハブとなって現場の生々しい情報を流しつづけていた。
いまのTwitterの人力生放送みたいなことをやっていたと。
他に、88年のTompkins Square Park Riotのときも、彼の放送は前線の人たちを支えていたと証言されたり。

そういうのだけでなくて、番組での会話中に自殺しようとする青年を懸命に救おうとするとこ(8時間後に住所を突き止めて命は助かった)とか、ひとりのDJによる放送がロウソクの灯りとなってNew Yorkという都市、その50年をひっそりと、しかし鮮やかに浮かびあがらせる、そういう拡がりをもった映画でした。

やっぱりラジオってだいじだよな、とおもった。 Webはラジオではないし、ラジオにはなれない、とBobさんの深く揺るぎない声を聞いてて感じた。

映画の後半で、Bobさんの自宅にあった膨大な(ほぼ家一軒分の)テープ類を映画のスタッフが運び出す場面があるのだが、スタッフえらい、としみじみ感動した。
アーカイブは今、どっかの大学の資料庫に安全に保管されて、テーブ起こしは延々続けられているという。
その一部は、今後もここで公開されていくそう。

http://www.radiounnameablemovie.com/

終映後のトークは、ほとんど昔からのリスナーによる同窓会みたいなかんじで、あの時代のじじいばばあはほんと元気なんだな、と思った。

映画のあと、10時からは映画館の横にあるBAM Cafeに移動してSilver ApplesことSimeon Coxeさん(このひとも70を超えているはず)のライブがあった。 映画みたひとはFree。

最初にBobさんの挨拶があって、CageやVareseと並んでSilver Applesの電子音楽がどれだけ大きな影響を持っていたかを力強く証言する。 その力強さときたら、まあ、へたな音楽評論家なんか太刀打ちできないだろうな。

Simeonさんは朗らかに歌いながら結構ぶんぶんしたトラックをかましていった。これが70歳の音か?

Bobさんは一番前の椅子に座ってずうっと音を聴いていたが、その間もいろんな人たちが彼のとこに寄っていってえんえん握手したりハグしたりしてて、なんか素敵な光景なのだった。

写真は左がBob Fassさん、右がSilver Apples。