1.31.2021

[film] Time (2020)

1月24日、日曜日の晩にAmazon Primeで見ました。昨年割と話題になったドキュメンタリー。
LFFでも上映されて、昨年のサンダンスではU.S. Documentary Directing Awardを受賞している。

アフリカン・アメリカンの女性 Sibil Fox Richardson = Fox Richが主人公で、彼女が20年以上に渡って撮影してきたモノクロのホームビデオの映像を編集したものにこの映画スタッフが撮影したやはりモノクロの映像が繋がったり連なったり。

1997年、Fox Richと夫のRobertの夫婦は、ふたりで経営していたヒップホップファッションのお店が苦しくなったことから強盗を働いて逮捕された。 妻は司法取引で12年の刑を受けて3年半で - 1999年に仮釈放され、夫は司法取引を拒否したので仮釈放なしの60年の刑を言い渡されて服役した。事件当時、ふたりの間には4人の子供があって、彼女は双子を妊娠していた。

Richardが入れられた刑務所はルイジアナ州の原野 - 元は奴隷が働くプランテーションだった - のなかに要塞のように浮かんでみえる難攻不落のやつで、何度か空撮で映し出される。

映画はRichardの仮釈放を求めて活動家となり講演やイベントに出たり、弁護士や機関に掛け合ったり果てのない交渉の進捗を確認したり、もちろん母親としても慌ただしく奔走するFox Richの姿を追っていく。その間に彼女が撮り続けていた家族の映像や夫に向けたビデオメッセージが挟みこまれる。

これを見たら誰もが彼女の力強くチャーミングな言葉や表情の数々と夫への愛に打たれて彼女を応援したくなるに違いないし、そうやって見てもよいと思うのだが、彼女が見て聞いてほしいと繰り返し言っているのは、なんで同じ罪を犯して彼は懲役60年なのかおかしいだろ、ということで、だがしかし、この映画の中心のテーマはそんなことが起こってしまうアメリカの狂った司法制度を問題視することでも夫の被った罪の重い軽いを検証することでも、その判決に間違いなく挟みこまれている人種差別を告発することでもない。どこまでもポジティヴで力強いFox Richの「待つわ」への讃歌でもない。

ふたりが出会って結婚して子供が生まれて事件が起こるまでの時間、事件の後に妻が出所してこの映画が出るまでの約20年間という時間、それはFox Richにとって、子供たち - なかでも父のことを知らずに育つ双子たちにとって、刑務所にいるRichardにとって、それぞれ違う流れ方をしたり強いたり強いられたりしてきた時間で、それらが彼女のホームビデオにはカプセルになって詰め込まれている。 それを見る我々自身にとってもそれは同じ20年なのか別の20年なのか、そんなふうにある地点に向かって流れていく時間について考えることが、このシンプルなタイトルのテーマなのだと思う。 20年、やっぱり長いし、でもあっという間だった - あっという間にものすごく歳をとった(憎)、などなど。

いまだに国民の殆どが死刑制度を無反省に支持している野蛮人の国にっぽんでは、いやでも、そもそも犯罪を犯したのが悪いんだろって自慢の自業自得セオリーを掲げてきょとん、となってしまうかも知れないけど、ほんとうに生活に困ったら自分はどうなるのか、そして捕まって60年とか言われたらどう思うか、想像してみることよ。なんで自分はそんなに高いところにいるって思えるんだろうね。

ラスト、ついにようやくRichardと会える日がやってくる。そこで、画面の上で何が起こるのか見てほしい。改めてこのタイトルがしみてくる。無駄になった時間なんてなかった。それがどんなだったにしても、「時間」はそこにあってあなたはそこにいたんだね、って。だからこうしてキスできるんだよ、って。

ホームビデオのやや粗めのモノクロ、撮影陣によるきめ細かなモノクロ、スローモーションや逆回転をうまく織り込んだ編集、ここに被さってくるEmahoy Tsegué-Maryam Guèbrou - 1923年生まれのエチオピアの尼僧さん - のぱりぱりした不思議なリズム感のピアノもすばらしい。 これ、映像がカラーで、音楽がヒップホップだったらどんなふうに見えただろうか?

あとはFox Rich彼女自身がやっぱりかっこいいの。自分で撮っていた映像のセンスも素敵で。
少しだけ意地悪いことを言うと、これ、ふたりの立場が逆で妻の方が懲役60年だったら夫はあそこまでがんばっただろうか? こういう映画になっただろうか? って。


昨年の暮れから今まで、ずうっとつまんないのであちこちいろんなのをポチしまくっているのだが(こわいよう)、今日の昼にGoat Girlの新譜が(なぜかドイツから)届いた。物理的に届いたレコードとしては今年最初の1枚。もちろんピンク盤で、サイン(というよりイラストだわ)入り。
少しシンセとか入っているけど、ちっともメジャー感なんてなくて、ごとごとがりがりしていてよかった。

1.30.2021

[film] Perceval le Gallois (1978)

1月24日、日曜日の昼、アメリカのMUBIで見ました。
英語題は”Perceval”、邦題は『聖杯伝説』。監督はÉric Rohmer、撮影はNéstor Almendros。

12世紀フランスのクレティアン・ド・トロワの未完の物語詩 - “Perceval, the Story of the Grail” - 『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』。アーサー王伝説を扱ったもので、Robert Bressonの“Lancelot du Lac” (1974) -『湖のランスロ』も彼のが原案だったりするのかしら?(ちゃんと調べてない)

ウェールズの田舎に母と暮らす愚直なPerceval (Fabrice Luchini)が諸国を旅していろんな人と出会って聖杯を見つけて伝説の円卓の騎士”Perceval le Gallois” - ウェールズのパーシヴァルとなるまでを描く。Gauvain (André Dussollier)とかも出てくる。Pascale Ogierも出てくる。

ストーリーは台詞を含めて原作に相当忠実らしいし、伝説とかお伽噺みたいなものとしてふんふん、て見て聞いていれば流れていってしまうのだが、その語りのスタイルはなんだろこれ、になって少し考える。

『獅子座』(1962)とか『コレクションする女』(1967)とか『モード家の一夜』(1969)とか(すごく適当に拾っています)で現代に生きる男女の場面場面で立ちあがったり萎んだりする生々しい欲望の交錯の現場と行き場をとてもそれらしく見える見え方で切り取ってきたRohmerはなんでここでこんなのをー。

ぺったんこ(に見える)薄青緑が背景となるセットで、衣装を纏って古楽を演奏したり朗唱したりするバンドが必ずいて、風景はこれもベタな遠近の強弱を強調した書割で、建物は丸か四角の原色ぺなぺなの板紙作りで、人々はやってくるとフェイクの木々が植えられたロータリーをぐるりと回ったり。喋る言葉とその喋り方も原作に忠実なのであろう古語をそのまま使って朗々と吟ずるような、自身を三人称で語ったり一人称だったりの混合形式があって、中世の彩色画の世界を三次元にもってきたような世界ですべてが展開して、馬に乗った決闘シーンなんて、向かい合ってえいってどついて3秒で終わる。

“Braveheart” (1995)とか “A Knight's Tale” (2001) といったハリウッドが追求する中世騎士劇(なのかなあれらは?)でよく見かける錆びた甲冑とかかっこよく朽ちかけたお城とか髪を振り乱して目をむいて雄叫びをあげる騎士たちのドラマチックな要素は欠片もなくて、なぜならこれらはハリウッドがその内側で培養してきた時代劇のドラマ性が要請する「リアル」要素でしかないから。

クレティアン・ド・トロワの時代が見ていたリアルを彼の物語世界から当時の絵画や建築まで含めて走査探索して再現してみると例えばこんなふうになる。物語における「リアル」の探求というのはこういう形でしかなされないもので、なぜそうする必要があるのかというと、物語から我々が読み取る意味や受け取る感動とかはそういう背景も含めた精緻な読みなしにはありえない(原理的には)はずのものだから。古典はそうやって古典になってきたのだし、古典が伝えようとしたことを学ぶというのはこういう読みと積みあげが必要なのではないか、と。学者さんが文献を読んでいくのと同じこと。

リアル=いまの自分の肌感覚、みたいに敷延してそこで震えたり痺れたり、つまる/つまんないを軸に本を読んだり映画を見たりっておもしろくないし、続かないのよ。そうやって続かないからこそ産業の方は続かせるべく消費を促していくわけだけど。

というアプローチもあれば、他方には『湖のランスロ』みたいにどこまでも即物的に生身の肉によってみて、でも刺したら血がどばどば出るしふつう痛いし、みたいに隠さず暴け曝せ、みたいなのもある。ものすごく怖かったけど、もう一度見直してみたい。

この作品の後に(TV映画を1本挟むけど)Éric Rohmerは「コメディと格言劇」のシリーズを始めて、そこでは現代に遺蹟のように残っている格言や笑い話は日々の職場や生活や恋愛の局面でどのような形で機能するのかしないのか、それは結果としてどんな「教訓」をもたらすのか、それはかつての用法からどれくらいズレてしまうものなのか、といったことを真面目に追及しようとする。どこまでも一貫している。物語はいかに可能となるのか、という問い。

現代でこのころのRohmerに近いことをやっているのってWes Andersonだと思うのだが、どうだろうか? この作品を見て最初に思い浮かべたのがWes Andersonだったの。ノワールの闇がなくなった世界で、陰謀や謀議や「悪いこと」や「悪いやつら」はどうやったら映画として生きるのか、という問い。


気がついたら週末で、次に気がついたら月曜日で、もう2月になっちゃうんだよ。 やだなあ。

1.29.2021

[film] Risate di gioia (1960)

1月23日、土曜日、Film ForumのVirtualで見ました。4Kリストアされたモノクロ。とってもおもしろかった。

原題を直訳すると“Joyful Laughter”。英語題は”The Passionate Thief”。日本公開はされていない?
原作はAlberto Moraviaで、彼の短編集”Racconti romani” (1954)(と続編の”Nuovi racconti romani” (1959)も?)からの2編 - "Le Risate di Gioia”と"Ladri in Chiesa”をミックスしたもの(?)。

ローマの大晦日の夕方、小さなアパートでこれから地下鉄の車掌の仕事に出かけるうらぶれたAlfredo (Mac Ronay)がいて、妻は仕事があるのでお祝いなんてできないけど応援してるわがんばってね、と悲しそうに送りだして、彼が出ていくといそいそ嬉しそうにパーティの支度を始める。

シネチッタのスタジオではエキストラ女優のTortorella (Anna Magnani)が撮影中のばかでかい宗教劇のセットで仰々しい衣装とカツラを纏って「ミラクル~ ミラクル~」とかわめき叫んでいて、でも大晦日の晩なので「はいおしまい」になると、衣装を脱ぎ捨てて支度をするのに家に飛んで帰って、更に狂ったように夜の町に飛びだしていく。ここまででなにやら尋常ではない一晩になりそうな予感がたっぷり。  

夜の22 :00、泉の前でTortorellaを待っている仲間たちは、彼女もう来そうにないから行っちゃおうか - 来たら来たでちょっと面倒だしな – と逃げるようにどこかに移動してしまい、Tortorellaが着いた時にはだれもいないので、なんなのよみんなー、とかいう。

他方で初老のUmberto (Totò)と若いスリのLello (Ben Gazzara)のコンビにとって年越しパーティの雑踏は稼ぎ時/場なので、連携プレーであっちでスッてこっちでカスめてをやろうにも邪魔が入ったりなかなかうまくいかなくて、そうしているところにパーティ命でごうごうに燃えたぎったTortorellaが現れて旧知のUmbertoを見つけてきゃーきゃーはしゃいで、でもお蔭で彼らの仕事は捗らずにアメリカ人の運転手を巻きこんで果てのない彷徨いに突入して、Tortorellaを置き去りにした連中と日本食居酒屋(「ます」って提灯がいっぱい。いろいろ謎)でぶつかったり、スリふたりはTortorellaをふっきろうとしてもなぜかまた会ってしまうし、花火が飛んできたとかいちゃもんつけてドイツ人のお屋敷のパーティに潜りこんでも追い出されちゃうし、最後は夜明けに教会で新年のミサに出たところで..

深夜を過ぎても延々帰れない/どこにも辿り着けない底抜けのかんじは “After Hours“ (1985)のようでもあるのだが、彼らの恐怖は折角の大晦日なのに、みんな着飾ってきゃーきゃー楽しそうなのに、そこに乗れない、稼ぎ時なのにちっとも稼げない(から帰れない)、というところにあって、でもそれが空振りに終わったりはぐらかされたりしても、何かが達成されるまではめげない、移動し続けるってほんとすごいわ、って感心する。

フェリーニの映画にもよくあると思うのだが、いったん妄想(主人公たちはそうは呼ばない何か)とかゴールが自分の頭にセットされてしまうと絶対にそれを降ろしたり修正したりすることをよしとしない、そのために悪夢的な事態に巻き込まれてへろへろになり、それでも自分はちっともおかしくないおかしくなってるのは世界の方だ!って叫ぶのって、イタリア的ななにかなのだろうか。これらの映画は主人公たちの方ではなく、世界の方がどれだけ狂ってこちらにのしかかって倒れてくるのかを示せれば十分で、その点でこの作品はとっても王道で、楽しいったらない。そしてその狂った「世界」がローマという都市のありようや成り立ちと表裏なのは言うまでもない、これが起こりうるのは花火ばちばちのローマだからこそ、という…

Anna Magnaniの終わりまでまったく途切れることのないテンション - どんなことでも自分に都合よく寄せて扇でぱたぱた散らしてふんぞり返ってしまう芸はとてつもなくて、そこにTotòが加わることで、なんかお呼びがかからないけどあなただけはわかってくれるはず、になってしまうふたりが楽しいのは勿論、すごくかっこよくて切れそうな若者なのに実はそんなでもないBen Gazzaraの軽い滑りっぷりも素敵で、このトリオをどこまでも見ていたくなる。

ほぼJohn Cassavetesの映画でしかBen Gazzaraを知らなかったりすると結構(心地よく)衝撃かも。


こういう映画ばっかり見ていたいなー、と思いつつ、街の人混みが恋しくなったり旅に出たくなる結構危険なやつかも。

1.28.2021

[film] King of the Hill (1993)

1月20日、水曜日の晩、Criterion Channelで見ました。1月末でいなくなるリストにあったから。邦題は『わが街セントルイス』。

Steven Soderberghの“Sex, Lies, and Videotape” (1989), “Kafka” (1991)に続く長編3作目。彼自身の脚本作品としては2作目。A. E. Hotchnerの同名の自伝的小説を基にしたもの。どうでもいいけど、A. E. HotchnerってNewman's Ownの共同創業者なのね。ここのパスタソースは輸入食品を試したり食べたり始めた時分に随分お世話になったし、アメリカに行った最初の頃、Paul Newmanのポップコーンはライフセーバーだった。

大恐慌時代のセントルイスで、居住用のぼろいEmpire Hotelに家族で暮らしているAaron (Jesse Bradford)がいて、学校では成績優秀のようなのだが、家族は仕事でいろいろ抱えて大変そうなパパ (Jeroen Krabbé)とママと弟と暮らしていて、そのうち弟はおじさんの家に送られて、ママは病気の治療でサナトリウムに送られて、Aaronとパパはケチャップをお湯で溶いたものでやり過ごしたりしているのだが、パパは仕事でしばらくの間行商に出るから/これがうまくいったらまたみんなで暮らせるから/お前は賢いからひとりでなんとかやっていけるだろ、くらいのノリでホテルに置き去りにされてしまう。ひどい。

ホテルの周辺で通行人をどつきまくる悪警官とか、通りにたむろするやな奴らにやばい取り立て屋に、ちょっと不良だけどいろいろ助けてくれるLester (Adrien Brody)とか、ホテルの中ではずるをしているポーターとか、黒人のエレベーターガールとか、住人だと癲癇を抱えて母とふたりで部屋にいる少女とかお金持に囲われている少女Lydia (Elizabeth McGovern)とか、いろんな人達が世界にはいて(そういうふうに世界はできていて)、日々のエピソードには事欠かなくて、滞納されている家賃をごまかしてロックアウトされずに生き延びていくために敵と味方がきれいに分かれて彼の前途に立ちふさがったり傍らにいてくれたり。やがて学校は卒業する時がくるし、ホテルはずっといられるわけではないし、大恐慌の闇は廊下のすぐ向こう、ドア板一枚向こうを覆いつつあって、どこまでも落ち着くことを知らない。

ものすごく陰惨でベタなお話しにしようと思えばいくらでもできそうなところを、知恵と勇気とちょっとしたヘルプと嘘八百で乗り切っていく下町の少年の痛快で爽やかな冒険譚に仕上げている。Aaronの頬っぺたがいつもぴかぴかでもうちょっと不健康ぽさを出してもよかったのでは、とか、悪意たっぷりの性悪大人たちに囲まれた地獄感を出しても、とか思ったけどバランスとしては絶妙で、この辺はヘミングウェイやドリス・ディの伝記作家でもあるA. E. Hotchnerの巧さなのだろうか。

Steven Soderberghの作品、として見ると(そんなにきちんと見ているわけではないけど)、彼はいつも生き残るということ、そこにおいて絶対に必要となる「お金」(≧ 愛)のことをテーマのひとつとして追っている気がする。”Magic Mike” (2012)なんかも、これもChanning Tatumの実体験がベースだし、こないだの”The Laundromat” (2019)とかも。あと、それを個人単独の問題や試練とかに寄せないで雑多で多面でユニークなアンサンブルのなかで描く、なぜならそれが(今の)世界なのだから、というドラマの見せかた。

Soderberghのアンサンブルを見るときにいつも思うのはRobert Altmanのアンサンブルとの違いで、Altmanの集団は「ヒステリー」がついてもおかしくないくらい全員が風邪をひいたり狂ったりの郎党感満載で突っ走って砕け散る、どいつもこいつものおもしろさがあるのだが、Soderberghの集団は機能分化していてドライで、個が集団に殉ずることはない気がして – そこにお金が絡むから? 彼らのありようが映画のトーンを決めているような。 でもどっちもおもしろいしどっちも好きだし、いかにもアメリカの集団の原型のように - 残念ながら野郎ばっかしだけど - 彼らっているよね。

あと、あたりまえのことだけど、主役のJesse Bradfordを筆頭にみんな若い。Adrien BrodyもElizabeth McGovernもKatherine Heiglも。 みんなよいかんじで歳を重ねてていいなー。


いろいろつまんないので、SkyのTVで“A Discovery of Witches”っていうのを見始めて、Series 2の真ん中くらいまで来た。
OxfordとVeneziaとFranceとMadison (US)を繋いだ魔女と吸血鬼の目覚めとか恋のお話で、”Twilight”サーガよりもスケールでっかくておもしろい(はず)と思うのだが、もうちょっとなんとかできないのかなあ、って。 Series 2に入ったら、16世紀のロンドンにスリップして、そしたらChristopher MarloweとかWalter RaleighとかHenry PercyとかJohn DeeとかElizabeth Iとかが出てきて、わーわー、ってなったのに、なーんであんな使い方しかしないのー。

1.27.2021

[film] Le sel des larmes (2020)

21日、木曜日の晩、Film ForumのVirtualで見ました。

Philippe Garrelの新作。 英語題は”The Salt of Tears”。撮影はRenato Berta、脚本はJean-Claude CarrièreとArlette LangmannとGarrelの共同。昨年のNYFFでかかっていて見たかったやつ。

家具職人を目指しているLuc (Logann Antuofermo)がパリのどこかの駅に降りたって、バス停でバスを待っていたDjemila (Oulaya Amamra)と出会って、その晩に待ち合せして仲良くなって何度かデートをしていくのだが、LucのところでセックスしようとしてもDjemilaはそれはダメって拒んで、その辺から溝ができてしまい、工芸学校での短期研修が終わるとLucは田舎に戻ることになって、別れを惜しみながらもやっぱりお別れする。

田舎に戻ったLucは、やはり職人をしているパパ(André Wilms)のところで修行していくうち、高校の同級生で恋人だったGeneviève (Louise Chevillotte)と再会して再びつきあうようになり、仕事場でパパも含めて3人で会ったりするようになる。そのうちGenevièveは結婚まで考えるようになるのだが、Djemilaからも手紙が来るしLucはそこまで真剣ではなくて、そのうち工芸学校に合格したLucはパリに出発する準備を始めて、Genevièveは妊娠しているの、とまで告げるのだがそれが却って逆効果で..

パリで学生になったLucは友達が街で引っかけた女性の横にいたBetsy (Souheila Yacoub)と仲良くなって一緒に暮らし始めて、彼女は彼にとって魅力たっぷりでずっとべたべたしていたいのだが、彼女の昔からの知り合いの若者Pacoが行くところがなくてかわいそうだから部屋に置いてやってくれないか、と頼むので部屋の隅で寝泊まりさせるのだがだんだんこいつが目障りになってきて..

他方で田舎に残されたパパとGenevièveはLucは遠くに行っちゃったね、とか話して、Lucの子を堕したGenevièveは泣いて、病気の治療でパリに出てきたパパとLucが会ってもどこかぎこちない状態になって、やがて..

大枠では3人の女性とLucのそれぞれの出会いと別れを描いた3章(章立てされているわけではないが)から成っていて、でもそれを通してLucが何かを学んだり成長したり、というお話しではなくて、別れては出会ってを繰り返しつつ本当の愛なんてどこにもないし、そもそもそれって何なの?って立ち尽くしてばかりで、それを横で見ていた文人のパパもいなくなって。

ほぼ2年毎に撮られた愛の3部作 - “La Jalousie“ (2013) 『ジェラシー』~ ”L'Ombre des femmes“ (2015)『パリ、恋人たちの影』~”L'Amant d'un jour“ (2017) 『つかのまの愛人』の後にGarrelは何を撮るのか? これは新たな3部作の始まりとなるのか? 勿論そんなのわかるわけないのだが、結婚して子供がいる男の傍で恋をし、苦悩し、情動に身を任せていく女性たちの姿を中心に置いた3部作との対比でいうと、出てくる女性は変わらず複数だが、本作はどちらかというと男性の方にスポットがあたっているような。Lucは多少悩んだりするものの、基本は恋(というより欲望)に身を任せて自分の好きなようにやっていて、結果的に女性を捨てたりして、自分の矛盾や冷酷さに後ろめたさを覚えつつもそこに没入して身を焦がしたり破滅させるようなところまではいかない。恋愛や別離の、その過程を描くドラマとしてはやはりどこか弱くて、この作品で一番印象に残るのはLucを彼から少し離れて見守っているパパの方で、Genevièveとの間にできた子供を捨てた(ここで旧3部作の方には行かないことがわかる)Lucに何かを伝えようとしつつもどうすることもできずに空を見上げて星を数えている。とうに乾いた涙の、あとに微かに残った塩の味。

恋愛というのが普遍もくそもない、人の一筋縄ではない奇怪さとか不浄さとか儚さとかを映しだすものであることを散々示した上で、それでも(負けずにでも懲りずにでもなく)ただ相手のことを想ってみっともない何かを晒してしまう男女を描いてきたGarrelではあるが、その距離感が少しだけ変わったような気がした。そのかんじをどう表現したらよいのか、まだ考えている - わかりやすさ、とはまた違うし。

でも、LucがBetsyと出会った時のクラブでのおなじみのダンスシーンはものすごく素敵で、ここだけでぜんぶ大好き! になってしまう。流れる曲は、ここGarrelの数作の音楽を担当しているJean-Louis AubertさんがいたTéléphoneの”Fleur de ma ville”(1980)。振り付けは“Regular Lovers” (2005)の”This Time Tomorrow”の痺れる群舞シーンも担当したCaroline Marcadéさん。あの映画のあそこで震えがきたひとは今回もぜったい見にいくべし。踊りのとこだけ見て帰ったっていいの - いやよくないけど。


英国のCovid-19の死者数が10万人を超えた。まだ米国よりは少ないのだし、とか、数は結果でしかない、という声もあるのだろうが、やはりこの数は尋常ではないし、これを減らすために国はなにをしてきたのか、というとやはりぜんぜんだめだった、と言うしかないのではないか。 ご冥福をお祈りします。

 

1.26.2021

[film] MLK/FBI (2020)

1月18日、月曜日の晩、BFI Playerで見ました。Martin Luther King Jr. Dayだったから。

このテーマではピュリッツァー賞を受賞したDavid Garrowの著作があるし、Garrow自身もこのフィルムには出てくるので、知ってるよ、なことも多かった気がするが、とてもわかりやすく纏められたドキュメンタリーだった。

冒頭が1967年4月4日、ワシントンDCでのMartin Luther King Jr.(以下MLK)の演説で、ここでの熱の高まりを見て、公民権運動の指導者としてMLKが熱狂的な支持を集めていることを危惧したJ. Edgar Hoover(以下JEH)率いるFBIは明確な危機感をもってMLKを危険人物として仕立てあげようとする - “It’s clear that Martin Luther King is the most dangerous Negro in America.” とかなんとか。 

当時、ノーベル平和賞を受賞してジョンソン大統領とも懇意になって最強だったMLKのイメージを貶めて黒人のリーダー・救世主としての地位から陥落させ、結果として公民権運動を失速させようと、JEHは盗聴活動に必要となる司法長官 - Robert F. Kennedyからの許可を取りつけて、彼の自宅や滞在先の電話や回線に工作して情報採取を開始する。当初FBIが狙っていたのはMLKの活動と国を挙げての脅威としていた共産主義との接点を見いだすこと(確信していたらしい)だったのだが、盗聴を開始したら思ってみなかった角度からの情報が採れてしまったので攻め方を変えることにする。

それはMLKが滞在先のホテル等で妻以外の女性(達)と性的交渉を持っていた(or いかがわしいことをしていた)、というもので、このイメージはJEH/FBIの白人(特に女性)にとって黒人を性的脅威の対象として見るという従来の偏向路線(ここで『國民の創生』のクリップ)にも沿っていたのでこれ幸い、とメディアに対するキャンペーンを張る。

こうしてMLKを“the most notorious liar”と断定するFBIのコメントが付された記事がワシントンポストやNYタイムズに掲載されて、実際に世論調査でのMLKの支持率はFBIのそれよりもぜんぜん低くなるのだが、それでもこのキャンペーンは成功しなかった。おそらくJEH/FBIが次の一手に踏みこむ前にMLKが暗殺されてしまった、というのもあるのだろうが、なんでうまくいかなかったのか、についてはちょっと踏みこんでほしかったかも。

これはこれで怖い話だけど、これとは別に戦慄したのは1924年から1972年迄の48年間、FBI長官として君臨した JEHのやり口の方だった。国民の正義の味方 – “G-Men”としてのFBIをTVや映画を通して前面に押し出し、その反対側でコミュニズム/コミュニストを絶対的な仮想敵としてやり玉にあげて、これらを通して国民に団結と結束を呼び掛ける。その裏側でここにあったような盗聴のような工作活動や赤狩りを繰り広げて敵のイメージを練りあげる、ってものすごくきちんと噛み合ってて機能して/させていたのだろうな、って。当時の彼らがSNSを手にしていたらどこまでやったのかしら.. ? とか。

でも個人的に謎なのは当時の彼らってコミュニズムがこういうものだから危険とか、ちゃんと説明していたのだろうか? って。これは今もウヨの人たちがふた言目にはアカとか中共とか馬鹿のひとつ覚えみたいに繰り返すのと同じで、あれこれ思考停止の隘路に見事にはまっているようでなんかー  というのはいつも思うこと。

でね、ここでJEH/FBIが危惧していた民主主義を根底から破壊するような行為 - テロが2021年に、コミュニストや黒人たちの手によってではなく、彼らが「自国民」ど真ん中として想定・認知していた愛国白人層を中心にして起こってしまった、っていうのはおもしろい(おもしろくないけど)。これって急激に何かがひっくり返った、ということではなくて、その根もやり口もこの頃から用意されていた(そして自分たちでその穴に..)のだと思う。

話を戻すと、FBIの諜報活動によって1963年から68年の間に採取されたMLKのテープは現在National Archivesに保管されていて、2027年にはこれらが公のものとなる。その時に何が明らかにされるのかわかんないし、それまで生きていられるかもわかんないけど、その時にどれだけMLKのレガシーが毀損されようとも、MLKの成し遂げようとした理想はまだ揺るぐことなく輝いてて達成されていますように。BLMがあたりまえのこととして実現されていますように。

最後はいつも自分の国のことを振り返ってしまうのだが、にっぽんには当然MLKはいなくてFBIもいなくて、替わりに自民党と代理店とメディアが頭の中で鎖国して、にっぽんすごい、美しい、えらい、をえんえんやり続けてどこまでも分断と(幼児)退行が止まらない状態になっているの。 … ゴジラに期待するのもむりないわ。

やたらかっこよく鳴ってる音楽はPreservation Hall Jazz Bandだった。


トランプという世界最悪の害獣がいなくなった世界に”GDZ/KNG”の予告が現れていまのところこれが全世界がもっとも待望するなにか、になっている気がする。 戦略として007の再々延期はぜったい失敗だったと思うんだけど。 コロナに打ち勝った証として体育大会をやりたいとかいう謎の国と同じ匂いがする。

1.25.2021

[film] Adolescentes (2019)

1月17日、日曜日の昼間、BFI Playerで見ました。
My French Film Festivalは世界中でやっているやつで、BFIのここでもSubscriptionで好きなだけ見ることができる。上映作品は場所によって少しづつ違うのかしら? と思ったら同じみたい。

これは日本のでもやっていて邦題は『思春期 彼女たちの選択』.. ラインナップのラベル『フォーエバー・ヤング』っていうのも死ぬほど(と言うほどじゃないけど)恥ずかしい。グローバルでこれみたいだけど、40年くらい前のCMみたいなかんじ。

見始めてしばらくはフィクションだと思ってて(Richard Linklaterの”Boyhood” (2014)方式)、実際の出来事も被さってくるので編集とか大変だったろうな、と思ったらドキュメンタリーだった。よく見たら監督のSébastien Lifshitzは性同一性障害の女の子を描いた”Little Girl” (2020)のひとだった。

フランスの片田舎に暮らすふたりの少女、AnaïsとEmmaの13歳から18歳までを追っかける、というよりゆったりと流していく130分。 最初に歯のブリッジを外したりしているEmmaは税務関係の仕事をしているらしいママにスペイン語を叩きこまれたり、馬に乗ったりスケボーをしたりミュージカルのオーディションを目指したり、家庭環境は割と恵まれているかんじで、EmmaよりややぽっちゃりしたAnaïsはママが入院したり幼い兄弟の面倒を見たり家が火事になったり、家庭の事情はややヘビーで大変そうで勉強も苦手ぽいのだが明るくて、こんなふたりはずっと親友で、友達仲間とおしゃべりしたりプールや海辺でよく一緒に遊んでいる。

最初の方は学校の先生から言われたこと、親から言われたこと、自分が立てた目標とか夢とか、でもまずは試験ねとか、周囲が自分に対して言ったり課したりしてくるあれこれについての疑問とか反発とか、できたできないで上がったり下がったりの日々で、大変だなあって。そのうち社会の出来事が入ってきてシャルリー・エブド襲撃事件があって、他にも同様のテロの緊迫したニュース映像が流れてきて、それらに対するデモや集会があり、選挙があり、それらに対して自分はどう思うか、とか(をきちんと家庭や学校で話したりするのはえらいねえ)。

やがて自分の進路を決める、考えるという季節になるとEmmaはミュージカルは諦めてでもアートに興味があるので映画関係の勉強を始めて、Anaïsは勉強は諦めて病院の看護婦のインターンのようなことを始めて、ドキュメンタリーとして切り取る前に相当いろんな悩みとか議論も喧嘩もあった(親との喧嘩はあちこち頻繁に出てくる)のだろうけど、最後は自分であっさり決めてて、カメラの方に向かって直に話すことはしないのだが、誰それに言われたから、ではなくまずは自分で、っていうのがいいなー、ってそれだけなんだけど。

彼らふたりがフランスの中高生の平均的な青年期に向かう典型かどうかはもちろんわからないのだが、なんだかとってもふつうなかんじがして、でも自分があの時期にそれを言われたらふつうって何だよ? って怒ったりしていた、そういう危うさにも配慮した細やかさで時間をかけてふたりに接していることはわかるような。 だってあの時期の数年間カメラにずっとついてこられたら嫌になっていいかげんやめて、になるよね?  暗く荒れる修羅場とか苦悶とかも編集なのかきちんと整理されて噴出するようなこともなくて、ここは”Little Girl”のそれと同様の見せ方のような。

どんなに仲がよくても親たちがなにを言おうとも、最後はふたりがそれぞれに家を出ていくところで終わって、でももちろん終わりじゃなくてこれから、っていう終わり方で。

あんまAdolescents - 思春期っぽいネタはないことを不満に思うひともいるかもだけど、”Eighth Grade” (2018)みたいに「学年」のようなところでさらりと切り取っている。日本でこれをやろうとするとまず校則とか制度対応の話が前に来そうな気がする。

授業でボヴァリー夫人のメランコリーについてやるところとか、いいなー。
フランスで育って勉強したらもっとちゃんとした大人になれていた気がする(殴)。

音楽はTindesticksのあの柔らかな質感がずうっと耳に張り付いてきて、終わりに流れだす”Take Care in Your Dreams”がこの上なく優しく響いてきて、タイトルもよいけど、素敵な曲。


午前中に雪がわんわん降り出してあっという間に真っ白になったのだが、そのあとすぐに雨に変わって、ぜーんぶ流れてしまった。 積もったら公園に行こうと思っていたのに、つまんなくなってふて寝した日曜日。

1.24.2021

[film] Not Wanted (1949)

1月12日、火曜日の晩、アメリカのMUBIで見ました。

MUBIではElmer Clifton, Ida Lupinoの作品とあるが、Ida Lupinoの名前は共同脚本と共同プロデュースにクレジットされていて、監督はElmer Cliftonのみ。実際にはElmer Cliftonが心臓疾患で初期の段階で降りて、実質はほぼIda Lupinoが監督した、ということらしい。

当初のタイトルは”Unwed Mother”(未婚の母)だったが検閲が入ってこれになったそう。
冒頭の字幕には「これは毎年100,000件も語られているお話です。御協力頂いた国中の病院や機関のみなさんに深く感謝します」とでる。

冒頭、目が虚ろで憔悴した顔のSally (Sally Forrest)がふらふらと坂を登ってきて、店の外の乳母車にいた子を抱きあげてそのまま連れていこうとしたところを誘拐未遂で捕まって、茫然自失状態のまま留置場に入って「どうしてこんなところに..」って回想シーンになる。

19歳のSallyはレストランバーでバイトしていて、両親に頼まれたお使いを忘れて、母親 (Dorothy Adams)から、あんたもちゃんとした男を捕まえないと、あたしみたいに一生台所に繋がれた奴隷になっちゃうから気をつけるんだよ、でもそんな男はどこに行ったら見つかるんだろうねえ、って嫌味を言われたりしている。この母親の小言に全てが集約されているかも。

で、一緒に食事にきた友達の紹介で自分のバイト先のバーでピアノを弾いているSteve (Leo Penn - Sean PennとMichael Pennのパパね)と出会って、彼のピアノの勢いと一匹狼の無頼風にぽーっとなる。ベレー帽を被って女学生みたいなSallyとピアノを挟んで向かい合うふたりの絵が素敵で、彼のライブの後にダンスをしたりピアノに並んで座るようになる。でも彼は次の活動場所であるCapital Cityに行くから、と連絡先だけ残していなくなり、Sallyは無免許のスピード違反でつかまったり不安定になって、そのまま荷造りして家を出てしまう。

Capital Cityに向かう夜行バスでは隣の席にいたDrew (Keefe Brasselle)が声をかけてきて、よい人っぽい彼は、安い下宿屋を紹介してくれたり、自分の勤めているガソリンスタンドにSallyを雇ってくれたり、最後までとってもよい人なのだが、すぐにでもSteveと会いたくてたまらないSallyは彼の部屋に行ったら彼はあまり嬉しそうではなくて、電話番号を伝えても電話してくれないし、こちらからかけても出てこないし。

他方でDrewとのデートは楽しいのだがやっぱり思いきれなくて、Steveのところに行ってみるといろいろ行き詰まっていて不機嫌そうな彼はこれから南米に発つから、という。あたしのことなんてどうでもよかったのね、って泣くSallyに、自分は結婚なんてできる男ではないのだと。こいつはもうだめだ。

で、Drewとの何度目かのデートでメリーゴーラウンドで遊んで、彼からプロポーズされて夢みたい.. ってメリーゴーラウンドのぐるぐるを見ていたら気分が悪くなって倒れて、医者に来てもらうと妊娠しているよって。誰にも言わないでほしいと医者には伝えて、誰にも告げずに荷物をまとめて次の町に移ってウェイトレスのバイトを始めるのだが誰にも相談できないので教会に行ったらそこで倒れて、気がついたら病院でカウンセリングを受けて、そこにはSallyと同じような境遇の女性が沢山いた。

Sallyを諦めきれないDrewは、彼女のいる病院をつきとめて訊ねてくるのだが、そこが未婚の母たちの施設であることを知ってショックを受けて帰っていって、Sallyはそこで共同生活をしながら出産して、でも子供は育てられないので養子にだして、そこを出るとクリーニング工場に勤め始めるものの、手放した子供のことが頭から離れなくて..  → 冒頭のシーン → 留置場。
 
お話もテーマもちっとも古くなくて、70年前から無責任な男に捨てられて相談できる人も行く場所もなくなって苦しむ女性は毎年100,000件もあったのだと。 “Not Wanted”の主語は誰だったのか、それはどう変わっていったのか。

母親がSallyに”respectable man”を見つけろ、と説教する、そのrespectable manのありようも戦後アメリカが豊かになっていくにつれて変わっていって、Steveのような男はビート・ジェネレーションの先駆けのようにすでに出て来ていたのだと思うが、そういった社会背景のようなところまで押さえながら、だからと言って女性が苦しんでいい理由にはならんだろ、とSallyの虚ろな眼差しを通して訴える。

これがIda Lupinoの実質監督デビュー作なのだとしたら、やっぱりおそるべし。

70年前と変わっていない、という件、日本という国だとおそらく100年くらい前から変わっていないと思うのだが、あの国の場合、立場とか機会以前の(男女も年齢も人種も)平等原理原則とか人権みたいなところからぜんぜんだよね。ぜんぜんていうのはそれを決めたり考えたりするところが男ばかりなので幼稚園からやり直せ、みたいになるの。前例踏襲の思考停止状態でなんでだめなのかわかんないバカばっかしで、そんなバカをみんなして持ちあげてるんだもの。ほぼ犯罪だわあんなの。

1.23.2021

[film] Dear Comrades! (2020)

1月16日、土曜日の昼、Curzon Home Cinemaで見ました。 原題は“Дорогие товарищи!”- “Dorogie tovarishchi!”。

ロシアのAndrey Konchalovskiyの新作。 モノクロ・スタンダードで、ほぼ2時間。昨年のヴェネツィア映画祭でSpecial Jury Prizeを受賞している。

NYのFilm Forumで始まっていたのがこちらからは見れなくて泣いていたら英国でも早めに公開してくれた。政府にあっさりじわじわ殺されそうになっている今の季節、絶対に必見のやつ。

1962年6月2日にソヴィエト連邦の南部ノヴォチェルカッスクで起こったソヴィエト軍とKGBが起こした - Novocherkassk massacre - ノヴォチェルカッスク虐殺の3日間(6/1~6/3)をドラマ化したもの。

主人公のLyuda (Julia Vysotskaya)は共産党本部に勤める中年の市職員で、かつてはスターリンの軍に仕えていたガチの共産党員だったので、フルシチョフの修正主義に対してはあんなふうに緩くされて何を信じたらよいのか? って煮え切らないものがあって、自分も老いた父と10代の娘Svetka (Yuliya Burova)と暮らしながらだらだら不倫していたり、あれこれやけになっている。

工場のストライキに端を発した市民の抗議行動が食費の値上げに対する不満によって更に膨れ上がって市庁舎に向かって押し寄せてきた時、Lyudaを含む市の官僚は誰もどう対応していいか具体的な答えを持っていなくて、軍には弾薬を持たせていないはずだし、いいかげん嫌になったLyudaは「あんな連中は一掃してしまえばいい」って思わず言ってしまったりする。この辺はまだ喜劇。

ところが軍が弾薬を用意していることがわかり、なんの合図もなしに突然市民に向かって発砲を始めたので会議室の連中は愕然騒然として、何よりパニックになったのはSvetkaがデモに参加していることを知っているLyudaだった。勿論自分も退避しなければいけないのだが、その途中でばたばたと目の前で撃たれて死んでいく市民を見て恐怖に駆られる。 突然虐殺が始まるところは、主人公達の張りつめた緊張の糸が切れて雪崩のように起こるのではなく、外側の淡々とした均一な時間感覚と距離感で撮られているので余計に恐ろしい。虐殺とはそういうもの。

軍は遺体をすごいスピードで回収してどこかに運び去っていったので、KGB職員のViktor (Andrey Gusev)に助けてもらって病院とか遺体安置所を回って娘の行方を探していく。その過程で明らかになっていく国が市民に対してどんなひどいことをしたのか、その事実をどう封じ込めようとしているのかといった不可解さと不信、自分は体制側でもなんでもないのだ、という底抜け感。自分は何も見ませんでしたという誓約書にサインする時に怪しい動きをした看護婦は容赦なくどこかに運ばれていくし。

そんな状態で議場に登壇して“Dear Comrades!” - 親愛なる同志よ!で始まるスピーチを求められたLyudaはトイレに駆けこんで吐いてしまったり。

死体をトラックに積んで運んでいるのを見たというのを聞いた彼らは、その行先を知っている農夫を突きとめて埋めた現場に連れて行って貰う。そこはなんの目印もないただの原っぱでただ穴掘ってどさどさ束ねて埋めたって。靴下の先に穴が開いた若い女性の死体を見なかったか? と聞いたら見た.. というので。

歴史の闇 - 震撼する真実云々というやつで、この件も30年間公式には認められず、調査もされてこなくて、1992年になってようやく調査団が組織されている。この映画はその調査団を率いた人が脚本のコンサルタントとして入っているので真実に近いものだと思うが、事実として並べられているのはあっけないほどシンプルで、軍が文句を言う市民を虐殺して処理して箝口令をしいてアスファルトをきれいに掃除した。なんの策謀も思惑もなさそうな、ただそれだけ。「責任者」はいなくているのは「同志」のみ。怖いったらない。

おそらくこれを見た多くのひとが1月6日にワシントンDCで起こったこと(あれはテロだからね、念のため)を想起するかもしれないし、これが共産党のやり方なんだひどい、とかわーわー思うかも知れないが、そういうわかりやすい短絡がいかに危険で間違っているかようく注意しながら見て考えてほしい。でも改竄したいひとも陰謀論やりたいひとも自分たちの快楽でやっているのだからどうしようもないわあれ。

あとさー、ストをするくらい賃金下げられて食費も上げられたらふつうあんなふうに怒って押しかけるよね、国に向かって。そこで、だからやっぱり国に向かってなんか言うのはいけないことなんだよ、ねえ同志! になってしまうのが一番こわい(いまのどっかの国ね)。国はそこを狙ってあんなことをやってくるのだろうし。


Comrades、といえば、こないだまでNetflixで「愛の不時着」っていうのを見ていた。あまりに長いしみんな泣いてばっかりなので死にそうだったが、やたら冗長なスクリューボール・コメディだと思って楽しんだ。でもこれやるなら舞台を70年代の東西ドイツにして、エーベルバッハ少佐とその周辺でやってほしかったなあ..(この漫画を読んでいたのは80年代までなので、てきとーに言っています)

1.22.2021

[film] 麦秋 (1951)

1月9日、土曜日の昼、BFI Playerで見ました。↓の”Ratcatcher”からだと「麦」繋がり。

英語題は”Early Summer”。紀子トリロジーのふたつめ、という点では『晩春』(1949) の”Late Spring”からわかりやすく繋がるけど、英語題は他に”Early Spring” (1956) - 『早春』もあるので混乱するかしら?

まず北鎌倉の浜を犬が歩いていって、廊下には鳥籠が近いところと遠いところに置いてあってどちらも鳥がちゅんちゅんしている(鳥籠はところどころ出てくる)。ここの間宮家にはほぼ家にいる周吉(菅井一郎)と志げ(東山千栄子)の夫婦がいて、医師をしている長男の康一(笠智衆)と史子(三宅邦子)の夫婦と元気のいい彼らの息子ふたりがいて、長女の紀子(原節子)は未婚で東京まで通勤する会社員 – 専務の秘書 - をしている - という三世代同居の家がある。あと、康一と紀子の間には戦死した次男の省二がいた。

周吉の兄でもうお年寄りの茂吉(高堂國典)が大和から訪ねてきて、紀子が28であることを聞いた茂吉は「嫁にゆこじゃなし婿とろじゃなし鯛の濱焼きくおじゃなし」 - 英語字幕だと“Some women don’t want to get married – You’re not one of them, are you?”、そろそろなんとかせんとな、って耳が遠くて子供達からもばかにされている茂吉は大仏のところで紀子に同じことをもう一回いう。紀子の結婚については老人達だけでなく康一も史子と紀子のいる席でシャコを食べながら、戦後になってどいつもこいつもエチケットだなんだ、エチケットの悪用で女がずうずうしくなってきた - だからお嫁にいけないんだ、とか、好き勝手に言ってて、もうやらないといかんな、が紀子の外で渦を巻く。
 
紀子の周りには結婚しない仲間の友人アヤ(淡島千景)と夫婦仲が円満すぎて喧嘩ばかりしている高子(井川邦子)がいて、友人の結婚式の後でも既婚者ふたり組と未婚者ふたり組の対決になって、未婚者にはとやかく言う権利なしとか、未婚者はあたしたちどうせ小姑だもん、と言いあったりしていると、会社の専務(佐野周二)からもいいかげんに行けよ、いいのがあるんだ、どっかの常務で童貞かどうかはわかんないが、とか勧めてくる。この専務は変態としか言いようがないキモさ満載でいろいろありえない。

これまで見てきた小津映画の主人公が結婚に向かうシリーズでは、結婚を女性を幸せにするために不可避のものとしつつも結婚する当事者と結婚によって去られる者(親)とその周辺を軸としたRom-Comだったが、この作品では結婚の価値や意義はそのままに、それが家族全員に - 相手の家族のぶんも巻き込んで - なにをもたらすのかを考察しているように思った。  結婚したら家族は本当に幸せになれるものなのか?  家族の幸せってなにがどうなっている状態のことをいうのか? とか。 ものすごく深く考えてあれこれ練りこまれたとてつもない傑作ではないのこれ。

専務が持ってきた縁談の相手は、顔写真はよくわかんないもののみんなに評判で、でも初婚で42っていうのはいいのか? いや欲張りすぎてはいけない、とかやっていると興信所がうろついているわよ、って近所のたみ(杉村春子)がやってくる。たみの息子の謙吉(二本柳寛)は康一の同僚の医師で、戦死した次男の省二の親友で、妻を亡くして幼い一人娘とたみと3人で暮らしている。康一のふたりの息子が玩具のレールのかわりに食パンを買ってきた親に抗議して家出したときに、紀子はたみのところに彼らの消息を訊ねてきて、そこでなにかの火が灯ったのか、秋田への転勤で謙吉が旅立つ前夜にたみがあんたみたいな人に来て貰えたらねえ、と呟いたのを掴まえてあたしなんかでよければ.. と謙吉との結婚を決めてしまう。謙吉の意思なんて知るか、と。

この紀子の突然の決意が家族周辺にもたらした波紋はでっかく、あたしたちがついていながら申し訳ないとか、あの娘は田園調布のお庭があってショパンが流れててスコッチテリアがいるような家庭に行くかと思っていたのに、とか各自言いたい放題で、でも紀子はどうしてそんな気になったのか… たみに言われるまで近すぎて探し物がそこにあるのに気がつかなかったとか、安心できる気持ちとか、すっとそういう気持ちになれた、後悔することはないのだ、って。(ねえねえ謙吉のきもちは?)

でも紀子を中心としたそういう狂騒の隣では周吉と志げがしんみり、紀子が嫁にいけばこの家も変わる - いまがいちばんいい時かもしれないねえ、って空を飛んでいく風船を見上げていう - 風船を飛ばしてしまった子は泣いているかも。 そうやっていろんなことを振り返って物憂げな志げの表情、謙吉の転勤を告げられた時のたみの悲しそうな顔とか、その逆に紀子から結婚してもいいと言われた時のはしゃぎよう - あたしゃおしゃべりでよかったとか、あんぱん食べない?とか。失われてしまった子供達、飛んでいく風船を中心に家族の移り変わりを見つめてきた老人たちのアップダウンが基調にある。(とにかく東山千栄子と杉村春子のすばらしいこと)

もういっこは経済で、子供達のレールもそうだし900円のケーキもそうだしお茶漬けもあるし、やりくりとかお金勘定 – もつもたない - の話も無視はできないの。結婚もそういう経済活動の延長としてあるのだと。紀子が史子に語る - (謙吉の)子供とうまくやっていける、お金がなくても平気、子供くらいあるほうが信頼できるとかいう辺りも。 

ところどころで印象的に移動するカメラ - 有名なクレーンショットも素敵で、家出して海辺を歩いていく兄弟と、終わりの方でやはり海辺を歩く史子と紀子の後ろ姿が重なる。 ラストに大和にきた周吉と志げが畑道をいく花嫁行列を見て、どんなとこに片付くんでしょうねえ、の後の横移動とかも。

音楽(by 伊藤宣二)はオルゴールの音色みたいなぴらぴらしたのが、この家庭ではそれなりに不穏に耳触りに聞こえてきたり。


ところで『宗方姉妹』(1950) はなんでBFIにもCriterion Channelにも置いてないの?


アマゾンプライムに上がっていたという小津の彩色版、やったやつには校庭100周、なんかで済まされるもんではないと思うが、やっぱり教育かねえ。Webばかり見てコンテンツとか言っているとああいうバカが出て来ちゃうのねえ。

Inaugurationのライブ、Foo Fightersの時点で午前2時だったので寝ちゃったのだが、Katy Perryの花火は見たかったなあ。

1.21.2021

[film] Ratcatcher (1999)

1月11日の晩、MUBIで見ました。

これもMUBIの“First Films First”のシリーズから、英国のLynne Ramsayさんの長編デビュー作。
邦題は『ボクと空と麦畑』(... ) アメリカ公開時には字幕が付いたらしいが、たしかに字幕がないと難しいスコットランドの。

Lynne Ramsayさんの“Morvern Callar” (2002) ~ “We Need to Talk About Kevin” (2011) ~ “You Were Never Really Here” (2017)はこちらに来てから見て、ご本人のトークも聞いて、Tilda Swintonさんと監督の対話も聞いて、とてもかっこいい素敵な人だし。

70年代の初めのグラスゴーのぼろぼろの公営住宅 - 長屋みたい – があって、周りにはドブ川みたいなどろどろの運河があって、回収屋のストライキでゴミ袋があちこちに積みあがって子供達が袋を叩くとネズミがいくらでも湧いてくるし、それらが焼かれた煙は明らかに有害で住民に健康被害をもたらす(とTVでは言っている)。ママは子供たちを押さえつけて髪を梳いて頭皮にくいこんだダニを取ってあげていたりする。

冒頭、レースのカーテンで自分の体をぐるぐる巻きにして回りながらミノムシーとかやっているRyan (Thomas McTaggart)は母親にひっぱたかれて(子供の頃やった。やられた)、外に遊びに出て行って川縁で遊んでいたJames (William Eadie)のところに行ってふたりでばじゃばじゃ遊んでいたら淵にはまって溺れて死んじゃって、主人公はJamesであることがわかる。Jamesは自分がRyanを殺してしまったのではないか、という後ろめたさを抱えたまま、それが映画の終わりまで彼を引っ張っていく。

ひょろっとしたJamesのぼろぼろの家ではいつも酔っ払って転がっている父と母と姉と妹がいて、いつもだいたいTV(サッカーか音楽番組)を見ている。ネズミ取りに小さなネズミがかかってかわいーとか遊んでいてもパパはそいつをそのままトイレに流しちゃったり(ネズミは海に行くんだって)、家賃の督促から隠れたり、取り壊しが決まっているアパートは新しい住宅に移転するための審査も始まっているのだが、審査の人が来たときもパパはぐでぐでであーあ、になったり。

家の外に出ても野蛮な世界で、ふつうに虐めっ子がいて虐められている子がいて、メガネをドブに落とされたMargaret Anne (Leanne Mullen)と仲良くなるのだが、彼女は日常的に不良のガキ共にいたぶられたりやられたりしていて、Jamesもどちらかというと虐められる方なのだが、ぼろい家と同じくどこかに行けるわけでもないし、なんとかサバイブしている日々がある。

そしてそんな生態系の最下層にはゴミのなかで暮らすネズミたちもいて、大人からは嫌われるし子供たちからは玩具にされて散々なのだが、ネズミを誕生日プレゼントとして貰ったりしているKenny (John Miller)が大切にしている白ネズミ – Snowball っていう名前 - の尻尾をいじめっ子たちは風船に結んで空に飛ばしたらSnowballは地球の外に、月に向かって飛んでいって、月にはウサギじゃなくてそんなネズミがいっぱいいる。 そうやって飛んでいくSnowballを羨ましそうに見るJames。

もういっこ、すばらしいシーンはバスで遠くに出かけたJamesが新築の住宅地に入ってその窓の向こうに広がる麦畑に向かって駆けだして黄金色の草の間を転げ回るところ。ここだけ別の映画のようで、でも家に帰るとTVでTom Jonesが”What's new, pussycat?” を歌っていたり。 そして映画の後半に再びその場所を訪れたJamesは..

どうすることもできない場所に家畜のように幽閉され、こちらに理解しようのない闇を抱えて蠢いているひとの傍には甘いファンタジーと、底の抜けた暴力が平気で隣り合っていて、それらはなんのギャップもなく彼らの内と外を繋いで結んでいる。夢も現実もたいして変わらないのだと。 というのがLynne Ramsayの映画を形作るひとつの星座で、水の底に沈んでいくJamesのイメージには、“You Were Never Really Here”のJoaquin Phoenixのそれが被さる。

でも最後にJamesが見せる笑顔だけはちょっと破格なかんじで、やられる。(彼女の後の作品には見られないかも)

音楽はTVから流れてくるTom JonesとかEddie Cochranとかの歌謡曲がいっぱいなのだが、Jamesが初めてひとりでバスに乗って遠くに行こうとするシーンで流れるNick Drakeの”Cello Song”がとってもよい。

JamesもRyanもKennyも、絵に描いたようなスコットランドの子供の佇まいで、Shirley Baker (1932 –2014)の写真にでてくる英国の子供達のそれに重なる。彼女の写真もこちらに来て出会った素敵なもののひとつ。


外は暴風雨で気圧がめちゃくちゃなので死にそうなのだが、午後からずっとInaugurationをつけて何を見てもじーんとしている。あれが出ていった、というだけで心の底からほっとするし、執務を開始した、と聞くだけで傷が回復に向かっているかんじがする。 あーよかったよかった。二度とあれの顔は見たくない声も聞きたくない。

1.20.2021

[film] Un 32 août sur terre (1998)

1月10日、日曜日の晩、MUBIで見ました。

これも”First Films First”のシリーズから、今をときめくDenis Villeneuveの長編デビュー作。言葉はフランス語のカナダ映画で、英語題は “August 32nd on Earth”。98年のカンヌの「ある視点」部門に出品されている。

夜のハイウェィを車に乗ったSimone (Pascale Bussières)が空港に向かって疾走していて、だんだん瞼が重くなって、あっと思ったら暗転して字幕には“August 32nd”と出る。朝になって目が覚めた彼女はひっくり返っている車から這いだして元の道路まで歩くとなんとか状況をのみ込んで、そこに走ってきた車に乗せてもらう。車を運転している男は今日は32日の金曜日だ、と言ってSimoneは鼻血を垂らして、診察して貰った病院では頭を打っているので記憶とかになんか混乱があるかも、とか言われる。

病院から自宅に向かって歩いていく途中で道端に座って陽の光を浴びて草とか転がっている動物の死骸とか虫とかをじっと見つめたり(たぶんここでなにかが彼女に起こる)。

日付は8月33日になって、Simoneは途中で泊まったモーテルから再び歩きだし、その途中で元恋人のPhilippe (Alexis Martin) を呼びだして - 途中に素敵な猫がでてくる - Simoneは彼とかつて交わしたアイデアの子供を作ろう、をやらないか、という。 いまは別の恋人と暮らしているPhilippeはよい人のようで困惑しつつもいいよって言って、これもかつてふたりで考えた件 - 作るならどこかの砂漠でやろう、って24時間で戻ってこれる砂漠、としてソルトレークシティに飛ぶことにする。

その翌日の34日にユタに着いてレンタカーをしようと思ったら事故のときに免許証を失くしていたことに気付いて、そっちは諦めてタクシーの運転手と交渉して砂漠 - Dune - まで行ってもらう。

ぺったんこ砂漠のまんなかについて、さてやろうか、ってなってもなんか気まずいので、運転手には1時間後に戻ってきてくれないか、って頼んで、運転手が去ってからさて、って向き合ってもなんか違うかも、になったのでやっぱり戻ることにする。で、戻ってきた運転手がべらぼうな運賃をふっかけてきたので話が違うって怒ったら砂漠に置き去りにされて、ふたりはえんえん歩くことになる。

Simoneが座りしょんをしたらそこで黒く干からびたヒトの死体を見つけたり、ようやく幹線道路に辿り着いてヒッチハイクでなんとか空港まで戻ることができて、飛行機まで日本のカプセルホテルのようなところに泊まって売店で買ってきたお酒をのんで、気がついたら日付は35日でSimoneは自分の家に戻っていて、Philippeを呼びだしたら彼は途中で暴漢たちに襲われて昏睡状態に..

彼らの行動と展開はさくさくわかりやすくストレートで、都市も砂漠もぺったんこでわかりやすいモダンなデザインのもとで、そこで情動と刹那に身を任せて突然走り出す - 音楽がカットインしてくるさまはヌーヴェルバーグのように見えなくもないし、Philippeの部屋には“Jean Seberg : American Actress” (1995)のポスターが貼ってあるし - そんなみんな納得できる普遍性をもった青春映画かも。

突然すぐそこにある死を見てしまった(or 冒頭の事故でいったん死んでしまっているのかもしれない)女性がその薄皮いちまい隔てた向こうにある生を求めて元カレと旅に出る8月の夏休みの追加日、みたいな数日間。その彼が向こう側に行ってしまいそうになった時、彼女はようやく生の時間を手元に取り戻す、というー。

Denis Villeneuveの作品、そんなに見ているわけではないのだが、”Arrival” (2016)でも“Blade Runner 2049” (2017)でも、母になること、ってテーマとしてあるのかも。

音楽はRobert Charleboisの”Tout Écartillé” -「おの! おのじゃめ!」って空耳アワーで使えそうな or もう使われてる? - が何度か流れて強烈で、”Stranger Than Paradise” (1984)での Screamin' Jay Hawkinsに相当するやつだと思った。


アメリカは明日でようやく4年間続いた悪夢から脱けだすことができる。あれを(最後にあんなことがあったとはいえ)自分たちの手で追っ払った、っていうのはうらやましいったらない。他方で、にっぽんは今の地獄をあと何年間続けていれば気がすむの? そんなにあんな奴らがいいの? みんな生殺しされていてそれでいいの? いいんならすきにすれば。

1.19.2021

[film] I basilischi (1963)

1月5日の晩、MUBIで見ました。

ここでやっている”First Films First”という – いろんな作家のデビュー作を紹介するシリーズからの1本。これはイタリアのLina Wertmüllerさんのデビュー作を4Kリストアしたもの。英語題は”The Basilisks”。すごくおもしろかった。

バジリスクっていうのは、ヨーロッパの想像上の動物でヘビとかトカゲとかの王様で、トサカもあったりして、とにかく強くておっかないのだが、見たらすぐ殺られるくらい禍々しく危険なやつなので誰も姿を見たことがない、そんなやつだって。

音楽はEnnio Morriconeで、撮影はフェリーニの“8½” (1963)を撮ったGianni Di Venanzoで、監督のLina Wertmüllerは“8½”の助監督をしていた、と。どちらも1963年で。フェリーニを言うならこれは彼の”I vitelloni” (1953) - 『青春群像』に似ていないこともない。けどこれは雄牛たちのお話しではなくてバジリスクのー。

イタリア南部のなにもなさそうな、死んだような町で食卓を囲んでスープを飲んでランチをとっている家族があって食べ終わってテーブルを離れるとそのままみんなベッドに横になってフィエスタをする(いいなー)。この様子がおもしろくて、教師は机で寝ているし、床屋は椅子でそのまま寝ているし、老人は数名で固まってしんでるし、お医者とか眠らない人達もいるけど、町全体ががらーんと死んでるかんじ。

戦後ようやく再オープンになった文化センターの落成式の日だって来ているのは昔を懐かしむ老人ばかりで、そこにはカルチャーなんてない。こんなふうに身体も文化も死んだような町の - 絵葉書に押されたまま100年くらい変わっていない様子がなんの装飾もなく - なんたって死んでるから – ドキュメンタリーのように描かれる。

お話しはここで特に定職も持たずに日々をだらだら過ごす若者3人 - Antonio (Antonio Petruzzi),   Francesco (Stefano Satta Flores), Sergio (Sergio Ferranino)の女の子をめぐる内輪揉めでも、お金とか仕事を求める修行のお話でも、都会(ローマ)に出ていく旅でもない、内部で暴発して崩れ落ちるような苦い青春のそれとも違う、ただひたすらうだうだしてどこにも行けない行かない姿を描く。この町は彼らをどこにも導かないしなんの学びも成長ももたらさない、いつも誰かが誰かのことを噂したりぶつくさ言ったり追ったり追われたりを繰り返して、でもなんの判決が下るわけでもない、それを十分にわかっていて覚悟 – というほどでもない、なんとなくそこにいるだけを繰り返している連中の彷徨いがたまんないの。

町には長い一本道が何本かと広場と坂と外れには遺跡みたいのもあるのだが、誰も観光になんか来なくて、二人組の女の子を二人組が追っかけたり毎日退屈なので夜にバルコニーに寝間着で出てくる「バレリーナ」を眺めたり、アメリカから来たレコード盤をかけたりとか、そんなことばかりしている(いいなー)。誰もいない広場で男の子が石畳に落書きかなんかしてて、そこにひとり歩いてきたAntonioが小銭を渡すと、その子が立ちあがって機械みたいにひょこひょこ踊りだす、そのシーンがたまんなくキュートで悶絶した。

ある日Antonioの叔母さん夫婦が来て彼をローマに連れていくと言いだして、そのまま車に乗せて連れ去ってしまう。Antonioを乗せた車から遠ざかっていく町の姿をとらえて、さよならAntonio、とか思っても彼はろくでなしなのであっさりそのまま戻ってきて、結局なんも変わらずに瞬時にいつものお喋りに戻るの。

繁栄を目指すわけでも滅亡が待っているわけでもない、数千年前からずっとそのままで子供は若者になり若者は老人になっていく、そんなふうにぐるぐる回っていく彼らの町とか彼らの日々って悲惨だろうか?  そういうのとは違うって、そういう世界があるっていうだけのことだって、例えばフェリーニの映画は、彼の映画の世界はそういうふうにあって、そういうのがなんでいつもイタリアだったりするのか、はわかんない。 これもいつも。 で、それはバジリスクなのか。


Phillip Spectorが亡くなった。 彼のWall of Soundは中学の頃からビートルズやストーンズよりもいっぱい浸かって聴いてきた。これからも聴くと思うけど、Rest in Peaceは言わない。さよなら。地獄におちやがれ。いじょう。

1.18.2021

[film] 早春 (1956)

1月7日の夕方、BFI Playerで見ました。2時間24分もあった。

英語題は”Early Spring”で、『早春』、というとイエジー・スコリモフスキの映画にもそういうのがあった気がしたが、こっちの英語題は“Deep End”で、まあ当たり前だけど、ちがうわ。

蒲田の住宅街(長屋みたいに並んでいる)にサラリーマンの正二(池部良)と妻昌子(淡島千景)の夫婦が暮らしていて、向かいには杉村春子が住んでて、ドブ川を渡って原っぱを抜けて駅の方に歩いていくと人がわらわら増えていって、ホームには人がいっぱい溢れていて、そのホーム上で会社の同僚の高橋貞二や知り合いと挨拶して週末にみんなでピクニックに行く相談なんかをしてて、こんなの毎日やっていたら死んじゃうかんじもするが、勤め先は丸の内 - 丸ビルで、とにかく毎日がんばって通勤しているらしい。

元の上司で仲人の小野寺(笠智衆)とかもう会社を辞めている阿合(山村聡)と会ったり、酒場で会った東野英治郎から会社員生活なんてろくでもないものだったし、続けるもんじゃない、とか聞かされたり、結核で寝たきりになったまま回復しない三浦(増田順二)がいたり、こんなふうにサラリーマン生活には嫌気たっぷり、先の見えない疲れが見え始めてて、夫婦生活の方も - 彼らは息子を疫痢で失っている - 笑顔や会話がなくなり始めている。

で、みんなで江ノ島にピクニックに行ったときに正二はきんぎょ(岸恵子)と仲良くなって、昼間に会って、晩にもお好み焼き屋で会ってキスして、そのまま旅館(月島あたり?)でひと晩を過ごしてしまって、そこからだんだん昌子との間もきんぎょとの間もなんだかぎこちなくなっていく。

昌子は実家の母しげ(浦邊粂子)のところ - おでんがおいしそうで素敵な猫がいる - であれこれ言いあったり、友人の中北千枝子にグチ - 女房なんてご飯炊く道具だと思ってるのよ、とか語ったりしている。

正二はかつての軍人仲間 - 加東大介たちと飲み会をして(ろくでもない戦争話と軍歌)、ぐでんぐでんになった彼らは夜更けに正二の家に転がり込んで昌子に絡んできて - 翌日は息子の命日なのに - ますます夫婦仲はひどくなってー。

そのうち友人の間では正二ときんぎょの間が噂になり始めて飲み会でみんなして査問会をしてつるしあげよう(ひー)になって、そこにひとり座ったきんぎょは、あんたたち小姑の腐ったみたいだってぶちきれて - ほんとにさいてーの連中 - なにがヒューマニズムだよクソ - 出ていって、その勢いのまま正二の家に押しかけてしまい…

こうして夫婦ふたりの亀裂が決定的になったときの夜の部屋の暗さがすばらしく、それとは対照的な夏の明るい朝に昌子は家を出ていっちゃって、もうあれこれどうしようもなくなった正二は部長の中村伸郎が持ちかけてきた岡山への転勤話を受けることにする。

夫婦の危機を描いた作品には『お茶漬けの味』(1952)があって、あれはサラリーマンとしては成功してお手伝いさんもいる裕福な家庭で、そういうのの内側で腐っていくのが嫌になった妻がちゃぶ台をひっくり返そうとするお話だったが、こっちの原因はサラリーマン生活とかなにもかも嫌になってきた夫の側で起こって、出ていったら戻ってくる話にはなりそうがないし。でも転勤がそういう困難を解決してくれるって、サラリーマン生活に自分から身を差しだす証でしかないし。

実家に身を寄せたら母からは「杉山さん、男がいいからね」とかわけわかんないことを言われるし、昌子の弟の田浦正巳はそれって古いなあ、なんて笑うのだが、そんなことをちゃらちゃら言うあんたはこの次の『東京暮色』で有馬稲子に思いっきりビンタをくらうことになるんだからね。

なにもかも半端なダメ男を演じた池部良はすばらしいのだが、この映画で圧倒的に正しいのはきんぎょではないか、と思った。 岸恵子が『東京暮色』の明子を演じていたらどうなっていただろうか。

「高度成長期の日本を支えたサラリーマン(男)」とか「戦争で日本のために戦った軍人(男)」がいかにしょうもないろくでなしだったか、1956年の時点でこんなにも正確に的確に表現されているのに、いまだに彼らを近代日本の礎みたいに崇め奉ってやまない一定の勢力がいて、そういうのが今のにっぽんをこんなにだめにしちゃったんだわ、って。

そういえば、『東京暮色』で流れていた変な行進曲みたいのはここで既に流れているのだった。


あと3日をきった。 お願いだから何も起こりませんように。

 

1.17.2021

[film] 東京暮色 (1957)

1月6日の夕方にBFI Playerで見ました。小津を見ていくシリーズ。 英語題は”Tokyo Twilight”。
『エデンの東』(1955)を翻案したものだそうだが、そうかしらん?

冒頭は、浦辺粂子がやっている飲み屋でカウンターには田中春男がいて、そこに銀行員の杉山周吉(笠智衆)が来て、このわたとか的矢の牡蠣を頼んで、雪が350キロも積もっているスキー場とか志摩の賢島(かしこじま)とか、あんなところじゃないと育たない真珠の話とか、距離感がちょっと狂っているどこかの土地の話をする。

周吉は妻を亡くしてからずっと一人で、そこに乳呑み子を抱えた娘の孝子(原節子)が夫を見切って身を寄せていて、妹の明子(有馬稲子)は暗い顔であまり家に寄ってこなくて、ある日叔母の重子(杉村春子)が周吉のところに現れて明子がお金を貸してほしいと言ってきたのよ、という。

明子は遊び仲間で学生のけんぼう(田浦正巳)の行方を探していて、彼のアパートに行ったり同じ遊び仲間ののんちゃん(高橋貞二)に聞いたりしていると、五反田の雀荘のおかみ喜久子(山田五十鈴)が明子のことを探していたと聞いて訪ねていったりする。彼女はけんぼうの子を妊娠していて中絶するためのお金を工面しようとしていたのと、喜久子については自分の実の母なのではないか、という疑念をもっているのだが、周吉には疑われたり怒られたり、刑事にも怪しまれるし、どこにも居場所がなくなっていく。

こんなふうに映画はいろんなことに絶望して頰っ被りをして男たちや喜久子を追って身を崩していく明子とその明子を心配してマスクをして通りに出ていく孝子の、彼女たちの追跡劇 - なにを追っているのか? - を中心に、その反対側でほぼなにもしないろくでなしの男共を描く。 ほんと、ここに出てくる男共ときたらけんぼうも周吉も麻雀ばかりしているのんちゃんも、脇にいる山村聡も中村伸郎も突っ立っているだけでなにもしない役立たずばかりだし、元気に笑ったりしているのは重子くらい、バカをやるのはのんちゃんくらいで、全員揃って不景気な顔をしている。

中心にあるのが明子の絶望的な - 実際に絶望している表情と身振りなので小津の映画にしては暗いのかもしれないが、なにもしない無反省な男たちが引き起こした過去と現在のあれこれに振り回されて自由や将来を縛られてしまう女性、という空模様についてはいつものあれ、でそんなに変わっていない気がした。 それが終わりの方、珍々軒での明子の強烈なビンタと線路への飛びこみという形で唐突に終わるのにはややびっくりしたけど。

最後、「死にたくない、出直したい」と何度もいった明子の件を乗り越えて、親がふたり揃っていることは子供にとって必要なことだから、と夫の元に戻ることを決意する孝子、夫の仕事について過酷な北海道に旅立つ喜久子、孤独な一人暮らしの老人に戻る周吉、と人生いろいろで、彼らにとっては出直しになるのかそのまま暮れるばかりなのか、だし、これからもまったく変わらないであろう重子みたいのもいる、ていうのが東京の暮色なの。正直いって希望はあまり見えないかんじ。

この暮色を底として晩年の作品に顕著となる「結婚しない女性に幸せはこない」とか「ひとりで暮らす老後なんて可哀想」の思想に繋がっていくことはわかるのだが、そこに向かったとしても辛さしんどさ全体の総量はあまり変わらない気がする。(あくまで個人の感想です)

明子は除いて、そこまでの人生を通して圧倒的に可哀想だと思ったのはやはり喜久子のことで、最後に明子と対面する時の山田五十鈴の重く、でも繊細な演技はすごいったらない。中村伸郎が使いっ走りになるのも当然の貫禄というか。

全体はこんなふうに暗いのだが、全編でほのぼのしたマーチみたいな音楽(by 斎藤高順)がてけてけと静かに流れていて、あれはなんなのかしら? とか。

あと、周吉のオフィスを訪ねてきた重子はなんであんなふうに走ってトイレに行ったのか、とか。

1.16.2021

[film] Pretend It's a City (2021)

1月9日から12日の間、何回かに分けてNetflixで見ました。邦題は『都市を歩くように-フラン・レボウィッツの視点-』 これが今年見た最初の新作映画だかTVプログラムだか、になる。

Martin Scorseseが監督、でありFran Lebowitzの対話の相手になっていて、彼以外にもAlec BaldwinとかSpike LeeとかOlivia WildeとかToni MorrisonとかDavid Lettermanなんかとのトークの映像も所々に入ってくる。音楽はNYを舞台にした映画音楽からLeonard BernsteinからCharles MingusからNew York Dolls(RIP Sylvain Sylvain)から、なんでも。

Martin Scorseseが以前に監督した彼女のドキュメンタリー”Public Speaking” (2010)もこの際に見てみようと思ったのだが、Webにあるのは短縮版みたいなやつだったので、見れていない。

Fran Lebowitzさんについては各自勝手に調べてほしいが、ここんとこ自分が見るドキュメンタリーには彼女が登場してコメントをする場面がなかなか多くて、昨年だけでも“Toni Morrison: The Pieces I Am” (2019)、“The Booksellers” (2019)、“Wojnarowicz: F**k You F*ggot F**ker” (2020)と3本もあった。

彼女の語るその内容がおもしろくて納得、というのは勿論なのだが、それが正しい正しくない、ということよりも自身の言葉に突っ込みを入れて、自分が拠って立つ場所や根拠を明らかにしつつもだからこういうことだよね、ということを語る、それを的確な例えを使ってユーモラスに伝える、これをべらんめえみたいな口調ですいすいやれる、そういうアクロバティックな話芸に痺れている。どうしたらそんなユーモアのセンスを? って聞かれて自分の身長を伸ばすのと同じようなもんよ、なんて答えていたけど、とにかくおもしろい – それはお喋りだけでなくて、例えばこの映画にもいっぱい出てくるが、彼女が街中をぶらぶら歩いている、それだけでなんか愉快な絵になってしまう。なんでだろうね?

見たのはシリーズ1で、各30分くらいで全7エピソード、それぞれに“Pretend It's a City” - “Cultural Affairs” – “Metropolitan Transit” – “Board of Estimate” - “Department of Sports & Health” – “Hall of Records” - “Library Services” ていうタイトルが付いている。

テーマはNew York。全体のタイトルは“Pretend It's a City”。その理由については最初のエピソードの中で触れられている。みんな街を歩いていてもみんなスマホを見たり自分のことしか考えていないくせに、そこに街があるかのように振るまっているし、観光客以外の人達だっている街だ、っていうふうに見せかけている。”Pretend.. ”の前には”I feel like”が来るのであくまで彼女がどう感じたか、であるし、そもそも”City”とはなんぞや? という話はあるにせよ、NYっていうのは極めて利己的な人々が集うところで、ここで動いている連中はみんな自分のお金のためにそれをやっている、そんな雑多な交差点のような場所なのに、街として喧伝されたり場合によっては愛されてしまって文学になったり映画になったり音楽になったりしてしまう不思議。

映画はQueens Museum of ArtのNYCの巨大ジオラマを前に、Franがゴジラのスーツを着てマンハッタンに上陸するとしたらどこから?(Martinが本多 猪四郎!って声をかける)というかんじで、個々のテーマを踏みつぶし、度々ジオラマの前に戻って全体を俯瞰しながら都市を焼け野原にしていく。あるいは、NYの市長なんて大変なのでやりたくないけど、やれるのなら夜の市長(Night Mayer)をやりたいと、もしそうなったらなにを? とか。 日本版でどんな字幕がついているのかいないのかわかんないけど、文化活動、交通、お金取引、スポーツと健康、過去の記憶、本について、などなど。

それぞれの話はNY生活とか風物全般への悪態を延々並べていって、そんなに嫌なら出ていけばいいのに、になる手前で、いやそれってこういうことなのよ、って(本人はぜったい言わないけど)愛とか、まあDV夫との腐れ縁みたいに続いてしまうあれこれについて。

とにかくNYで生活するって大変なんだ(ワーグナーのリングサイクルみたいになる)、と。自分も日本から2回引越した(ついでに言うと、ロンドンへの引越しの方がまだ楽だった気がする)ので同意しかないのだが、とにかく近所にきちんとしたクリーニング屋を見つけるのだけでも大仕事で消耗するしなんでもすぐ壊れるし崩れるし、でもそのくせ、いろんなコストが掛かりすぎてやってられない、とか全員が口を揃えて文句いうくせにみんなやって来てしれっと暮らしている - というミステリー。

こんな調子でTimes Squareの人混みについて、タクシーに地下鉄にバスのサービスについて、必要なお金について(宝くじには当たる必要がある。うんうん)、タバコやドラッグについて、スポーツなんてどーでもいい(Spike Leeとのやりとり、おもしろすぎ)、ヨガマットのこと、パーティについて、Guilty Pleasureについて(Guiltyなんて感じる必要ない)、インターネットについて、本と本屋のこと、などなどを語り、その合間合間に、いろんなエピソード – ブロードウェイの“The Phantom of the Opera“のオープニングに行ってパニックになったこと、ヴィレッジでCharles Mingusに追いかけられたこと、Andy Warholとのこと、などなどが付いてまわる。

で、やっぱりスポーツなんて世の中から消えてしまえばいいし、お金は必要だし、よいアパートも必要だし、本は世界だからそれを手放すことなんてありえないし、”Wellness”なんてクソくらえ、だし。わかんないもの、いらないもの、必要なのに手に入らないものだらけなのに、助け合いなんてゼロなのに、なんで生きていけてるのかあんまわかっていないけどずっと生きてる、と。

これってべつに「正論」とか「金言」を持っていたりそういうのを語ったりする強さとか、「ネタ」として仕込んだり溜めこんだなにかとか、なにかの主義主張の代弁なんかとかとはまったく別のもので、彼女がこれまでいろんな人と会ったり喋ったり本を読んだり映画を見たりして重ねてきたいろんな経験の束が彼女のいろんな引き出しから半自動でべらべら出てくるようなかんじで、それだけなのにとにかく笑えて、そうそうそう、になるのと、やっぱり本は読まなきゃ映画は見なきゃ、っていつも焚き付けられる。

一度ライブで見てみたい。Martin Scorseseのトークは結構聞いている(このおじいさんは珍しい映画の上映があるとよく映画館に現れて話をしてくれていた)のだが、ふたりのやり合いはおもしろいに決まっているし。

彼女の語りに近いのを持った日本のひとだと、自分の知っているところだと淀川長治さんではないかしら。 あ、Tokyo CityはPretend どころか、あんなのただのフェイクの寄せ集めだとおもう。

シリーズ2も楽しみー。

1.15.2021

[film] Barefoot in the Park (1967)

7日、木曜日の晩、Criterion Channelで見ました。邦題は『裸足で散歩』。
もとは1963年の同名の舞台劇で、作者のNeil Simon自身が映画用に脚色している。

この1月はCriterion ChannelのBarbra StreisandとJane Fondaを見て冬を乗り切ろうとぼんやり思っていたのに、気がつけば世の中がとんでもないことになってて、混乱したのか小津とか昔のノワールとかを見始めてしまった。今年はどうもあれこれだめらしい。

結婚したばかりのCorie (Jane Fonda)とPaul (Robert Redford)が馬車でセントラルパークを抜けてそのままThe Plaza(あれ嘘っぽいけど)にチェックインして、部屋から1歩も出ない(なんてもったいない)あつあつの数日間を過ごした後、West 10th  - なので、タイトルの”Park”はWashington Square Park - にあるアパートで暮らし始める。

そのアパートに始めにCorieが行ってみるとエレベーターのない5階で、ひーひー言いながら昇って、やはり電気系統がきちんと機能していない(ふつうのこと)ので電気屋に来てもらうと彼も階段で死にそうになってて、その日に届く予定だった家具も来ないことがわかって(極めてふつうのこと)、天井のガラスには穴が開いてて、他にはドアのところに空の猫缶が積みあがっていて姿を現さない変な住人とかいろいろいて、でも一番異常だったのは彼らの上の屋根裏のような部屋にVictor Velasco (Charles Boyer)ていうおじさんが暮らしていて、彼が自分の部屋に出入りするにはふたりの寝室を経由する必要がある、ということだった(これはあんまないかも)。

そんな変なところに住んでいる変なおじさんとCorieは仲良くなって、彼女の母でとっても心配性のEthel (Mildred Natwick)を加えた4人でディナーをしよう、ということになり、Victorの案内でスタテン島にある謎のアルバニア料理のお店の奇天烈なもてなしを受けてへべれけになり、戻った後にEthelとVictorはどこかに消えてしまったり、こんなどたばたした一連のやりとりを通して天然のCorieと法律事務所の駆けだしで真面目でお堅いPaulとのギャップが明らかになっていく。タイトルは2月に公園を裸足で歩こう!っていうCorieの誘いに乗ってこなかったPaulへの呪いの言葉でもある。

ぶっとんだCorieと意固地になっていくPaulのやりとりは見ていて楽しいのだが、ふつうに思うのは、そういうキャラの違いがもたらすであろう諍いなんて、結婚前にわかっていたんじゃないの? って。いくら恋は盲目だからってさ…   こないだの“Édouard et Caroline” (1951)の夫婦喧嘩はすでに互いにわかっていたふたりの違いがささいな出来事の積み重ねでランドスライドを起こしていくドラマでわかりやすいのだが、こっちはどうなのか。 たぶんCorieはその性格ゆえにそんな違いなんてちっとも気にしてなくて、真面目なPaulはそれをそのまま - 彼女が気にしていないのならそれでいいのだ、って信じこんだ - ていう辺りが目前の危機を前に一挙に表に出てきた、ってことなのかしら?

でもそういう思い込み起因のどたばたが連鎖してドツボにはまっていくさまを描くのって、時間が繋がってみえる映画よりも場面がぱたぱた変わる演劇の方が向いているような気がした。舞台版を見ていないのでなんとも言えないけど。舞台版のオリジナルではPaulをRobert Redfordが、CorieをElizabeth Ashleyがやっている。 2006年のブロードウェイ・リバイバルではPaulをPatrick Wilsonが、CorieをAmanda Peetが ← これは見たい。

今のRobert RedfordとJane Fondaで、PaulとCorieのその後、を30分でいいからだれか撮らないかなあ?

ところで、5階まで階段、ていうのは結構きついよ。”Emily in Paris” (2020)も確か5階 - 欧州なので実質6階 - のリフト(エレベーター)なしで、あのドラマのリアリティを疑ってしまったのはあの辺もあったの(リフトがないってことじゃなくて)。若いからって、アパートに帰ってきたときのリフトなしを考えたらあんなにふんふん楽しそうに出かけられないと思う。 うちも5階で、10月からリフトがずっと壊れて動かなかった。配達とかの用事で昇ってくる人たちがあまりにぜえぜえかわいそうなので、自分で降りていくようになったり。 でも今週ついに直った。うれしい。  なんでそんなに時間がかかったのか?  そういうもんなんだよ。 NYの地下鉄とおんなじよ。

1.14.2021

[film] 浮草 (1959)

10日、日曜日の昼、Criterion Channelで見ました。英語題は”Floating Weeds”。
小津自身による『浮草物語』(1934)のリメイクだそうだが、元のは未見。
バックステージもので、劇中で上演されるお芝居の数百倍おもしろいお芝居みたいなお芝居が転がっていく。

西の方の寂れた港町に旅回りの駒十郎一座が船でやってきて、チンドン屋がチラシを撒いてガキ共がぞろぞろついてきて夏の公演が始まろうとしているのだが、一座の男衆は暑いしやる気があるんだかないんだかで、遊郭のようなところ(ここのモンドリアンのような格子ガラスはなに?)に行ってみたり野添ひとみが顔を剃ってくれる床屋(でも実際には..)に行ってみたり、だらだら適当にやっているご様子。

一座の頭の嵐駒十郎(中村鴈治郎)はいそいそと飯屋のお芳(杉村春子)のところに行って、かつて彼女との間にできた息子 - 清(川口浩)のことを聞いて、大きくなって郵便局勤めをしている彼との再会も喜ぶ。清に対して駒十郎は伯父さんということになっていて、伯父さんにしてはややべたべた過ぎる入り浸りようを見ておもしろくなくないのが駒十郎の傍にいる看板女優のすみ子(京マチ子)で、そこにいた加代(若尾文子)を呼んで、あの清ってのを誘惑してみなよ、っていう。

全員がこんな具合なので芝居の入りはよくなくて、それでもしょうがないか、って誰もなんとかしようとしない。で、すみ子に言われてあいよ、ってふたつ返事で受けて清のとこに向かっていった加代の方はそれまで色恋なんて知らなかったに違いない清と見事にはまって、べったりになる。なにしろ若尾文子と川口浩のふたりなので、いけるところまで行ったれ! って誰も文句をつけない。

で、すみ子がいい加減あたまきて大雨のなかお芳のところに出かけていって駒十郎と大ゲンカするところがすごい。 「だれのお蔭やだれの?」とか「ちくしょう、ぬかしやがったな」とか、通りに降り注ぐ大雨がシールドのようになってそこを挟んで睨み合う様ときたらSW EP1のDarth Maulのちゃんばらのシーンみたい。この喧嘩は駒十郎と加代の間にも転移して、「おまえらとは人種がちがうんじゃ人種が」とかビンタに足蹴もたっぷりで、漫画みたいにすっとんだりしない分、リアルに生々しい。 そして、修羅場の舞台となる稽古場には夏なのに雪みたいのがちらちら舞うし。

そんなに大暴れしたのに一座は金を持ち逃げされて解散せざるを得なくなって、みんなしょんぼりしんみりするのだが、その翌朝、旅館でふたりで(あーあやっちゃった.. って)ぼーっとしている加代と清がいて、このふたりを巡ってはお芳と駒十郎の間でもう一悶着ある。 あの子は帰ってくるわよってお芳が強く言ったらほんまに帰ってきて、清は駒十郎と喧嘩して、今度は清が駒十郎に「出てけ!」っていったら、駒十郎はまた旅に出ちゃうの。 で、駅の待合室にはすみ子が..

自分は旅役者として生きるしかないんだ、って周囲を散々罵倒して傷つけてきて、もう年も重ねたし少し更生する機会も出てきたかと思ったら結局血管ぶち切れの大暴れをして元の鞘、でも旅役者なんだから許して.. って今だったら許されないアウトローのように旅の日々に戻る。 ラストは『彼岸花』と同じように電車(馬車じゃない)が遠ざかっていくシーンだけど、向かう先は随分ちがう。

とにかく『小早川家の秋』と同じように(ほぼ同じキャラの)中村鴈治郎が入り組んだ路地の間をすたすた歩いていくだけで、西部劇みたいになにかが巻きおこる予感たっぷりなの。

あとは寂れた海辺の町の夏の風景がたまんない。ほぼ溶けたかき氷(イチゴ)、アイスキャンデーのきれいな赤、ガキがかじるスイカ、ラムネの水色の瓶に、月のように浮かぶ縁側の青い提灯とか。ああいう夏はいったいどこにー。

英語字幕だといろんな罵倒表現を学ぶこともできる。「あほ、どあほ!」は“You Prize Fool” とか。


2016年11月のシアトルで、あれが大統領に決まった時に背筋を走った不吉な予感が、ことあるごとに感じていた吐気が、あんなふうな終わりを迎えようとは誰が予想できただろうか。でもあそこまで放置してきた共和党もひどい。まだなにが起こるかわかんないけど。 一ヶ月後には少しは穏やかに笑顔になれていますようにー。

1.13.2021

[film] 彼岸花 (1958)

5日、火曜日にBFI Playerで見ました。英語題は”Equinox Flower”。
里見弴の原作で小津の最初のカラー作品。アグファの赤っていいよねえ。

駅のホームで結婚式で降りてくる人達を見ながらあれこれ勝手なことをいう駅員たちがいる。
平山(佐分利信)が旧友の河合(中村伸郎)の娘の結婚式に出て、よい式だなあとしみじみしながらも、仲間の三上(笠智衆)は欠席していたので少し気になる。

平山の家も娘の節子(有馬稲子)の結婚が気になり始めた頃で、妻の清子(田中絹代)と娘ふたりと箱根に出かけて、その翌日に会社に現れた谷口(佐田啓二)から節子と結婚したいと言われてありえない、ってなったり、三上からは家を出てバーで働きながら男と同棲しているらしい娘の文子(久我美子)を見てきてくれないか(式を欠席したのはそのせい)と頼まれたり、馴染みの京都の旅館の女将 - 佐々木初(浪花千栄子)から娘・幸子(山本富士子)の縁談をどうしたものかと言われたり、幸子からはお母さんほんまに困ったもんで、と言われたり。

こんなふうにお話しは「竹はいらないね」とか「結婚が金だと思ったら真鍮だった」とか名言を散りばめつつ、いろんな立場からの「幸せな結婚」とはどういうものか? のまわりをぐるぐる回っていく。平山は節子によく考えてみろ(会社なんて行かなくていい)とか、困ったやつだ、とか散々お説教するのだがお困りを巻き起こしているのが自分だということには気付かないらしい。

とにかく平山は節子の結婚はぜったい認めない、結婚式にも出んぞ、親の心配をなんだと思っているんだ、って言い続けるばかりなので、どうしたものか。誰か叱ってやるやつはおらんのか。

そんな彼の横で絶妙のおしゃべりでひっかきまわす浪花千栄子とどっしり受けとめて揺るがない田中絹代のふたりがすばらしい。最後の対決の後、田中絹代が立ちあがってラジオのとこに寄って音楽に身を寄せて、ラジオを消せと言われて座るとことか素敵ったらない。

結果的には「浅はかなトリック」(英語字幕だと”set-up”)を仕掛けた山本富士子とその素をつくった浪花千栄子のおしゃべりが世界を救う。こうして積み木の世界の秩序は保たれるのだと思った。

もういっこ、平山の部下で谷口の友人の近藤(高橋貞二)が平山とかバーのママ(桜むつ子)に散々いじられるところもおもしろい。こういう半地下の「いつもの。ふつうの。国産の。安いの」世界もあるのだと。

あと、最後の家族のちゃぶ台のとこ、かかっているテーブルクロスとかその周りのセッティングがパーフェクトですばらしいの。そのまま絵になってしまいそうな。

彼岸花は、いつかの箱根で家族で楽しんだのを最後に結婚後の異界(彼岸)に旅立っていく女性と、親たちの策謀と思惑が渦を巻く此岸の間に咲くやつで、その間には駅のホームなんかがあるの。


秋日和 (1960) 


4日の午後、Criterion Channelで見ました。英語題は”Late Autumn”。これはもう何度も見ているので少しだけ。

原作は↑と同じ里見弴なのだが、『彼岸花』できっぱり結論がでたはずの「娘が幸せになれば親も幸せになるはず」仮説を改めて検証するために間宮(佐分利信)& 田口(中村伸郎)& 平山(北竜二)のトリオが召喚される。ねちっこい。何度でも蘇って再利用されるDCやMarvelの悪役みたいなかんじかも。

旧友の7回忌の集まりの後でこいつらがいつもの座敷で、かつて全員が討ち死にした未亡人の秋子(原節子)とその娘アヤ子(司葉子)をサカナにして、「いい、ありゃいいよ」とかやって、まずはアヤ子の結婚なのだが、それを達成するためには秋子さんもついでに、って自分たちの慰みにしようと画策する。

そんなおっさん共に立ち向かうのが秋子の会社の友人百合子(岡田茉莉子)なのだが、彼女は最終的におっさん達とお寿司屋(彼女の自宅)で仲良くなってしまう。ここがいつもなんか納得いかなくなるので、今回改めて見てみる。

おっさん共は「アヤちゃんを幸せに結婚させるためには叔母さんにも再婚して貰わなきゃならない」と強調して、では秋子に再婚の意思があるのか?というと百合子は「聞いたんです」「いけなかないわ、いいと思うわ」、ってなんか連中と手を結んでしまう。ここがさー。

これの前夜にアヤ子と喧嘩している百合子は秋子のところに寄って、秋子は困った娘ねえとか言いつつも自身の再婚については「そうかもしれないわねえ」→「あたしがいたら邪魔ね」→「幸せになれるのだったらそんなこと我慢しないと」と押してくる百合子に向かって語るのだが、ここになんか掛け違いがある気がして。 これが再婚の意思表明になるのか.. なあ?

これ、『彼岸花』の続編として、浪花千栄子と山本富士子の母娘の縁談話にしてしまえばよかったのに。 浪花千栄子の再婚相手として浮上するのはもちろん中村鴈治郎で、トリオは頭があがらないの。ぜったい抱腹絶倒のロマコメになったのにな。

とにかくこの作品の岡田茉莉子さんは最強で、そういえば彼女は昨日が誕生日だったのね(祝)。
昔々、2003年の小津生誕100年のイベントでコロンビア大学とFilm Society of Lincoln Centerの主催の蓮實重彦さんの講義があったとき、自分のすぐ後ろの席に座っていたのが岡田さんで少しびびった。この時の講義がとてもおもしろくてだんだん映画を見るようになっていったのよね。

その時の内容がこれ。
http://www.rouge.com.au/4/ozu_women.html

 

1.12.2021

[film] Between the Lines (1977)

1月2日の晩、Criterion Channelで見ました。

監督のJoan Micklin Silverさんが暮れに亡くなって、その追悼なのかCriterionでピックアップされていた。彼女の”Crossing Delancey” (1988)は2018年にBFIで見てとても好きだったので見る。
NYでは2019年の2月にリストア版がQuad Cinemaでリバイバルされているのね。

ボストンにあるBack Bay Mainlineという架空のAlternative Newspaperの編集部が舞台。Alternative Newspaperっていうのは地方紙ともちょっと違う、メジャーなメディアが取りあげないような地元の小さなネタやスキャンダルとかを腰を据えて取りあげて真相に迫っていくやつで、NYにはかつてVillage Voiceがあった。大抵は無料で配られていたり自分で拾ったり。日本にはある/あったのかしら?

脚本を書いたFred Barronにはそういうペーパーの編集部にいた経験があり、Joan Micklin SilverさんもVillage Voice(祝復刊)にいたことがあるそう。

Back Bay Mainlineのオフィスはいろんなライターがわいわい詰まった寄り合いで、次の号の方針ややることを決めていく。Michael (Stephen Collins)やHarry (John Heard)といった(若いけど)実績を積んだベテランもいれば、なにかを書いてみたいDavid (Bruno Kirby)のような小僧もいれば、音楽担当のちんぴらMax (Jeff Goldblum – ぎんぎん)がいれば、通りで売り子をしているThe Hawker (Michael J. Pollard)もいれば、フォトグラファーのAbbie (Lindsay Crouse)はHarryとLaura (Gwen Welles)はMichaelとつき合っていたり。広告担当のStanley (Lewis J. Stadlen)はしょうもない広告取ってくるんじゃねえ、ってみんなにしばかれているのだが、会社としてのお財布は厳しくて儲かってなくて、大手メディアの傘下に入る(買われる)話がずっとちらちらしていて、それがまたスタッフのぎすぎすを生んでいたり。

個々のエピソードがどう、というよりも70年代のRobert Altmanの群像劇のスタイルで人と人の群れたり散ったりをまるごと同時同録で追っていってどたばた慌しく膨らんだ状態でさらりと終わる。オフィスのドラマとしてはふつうに(ふつうじゃまずいが)殴り合い怒鳴り合いがあって、タイプライターは叩き落とされ、コーヒーが撒き散らされ、コンプラ観点では相当にザルで鷹揚で問題ありありのふうで、ああいう方が毎日なにかが起こって楽しいだろうな、少なくとも鬱になったりするかんじはなさそうな。

主な舞台はオフィスの他にHarryのアパートとか、みんなで飲み会をするバー - Southside Johnny and the Asbury Jukesがライブをしている – とか、これらが「職場」もONもOFFもない均質な温度感でダンゴになって転がっていく、これって警察とか消防署とかやくざのいる酒場とか、そういうノリのドラマのようで、次から次へといろんなことが流れていくので少なくとも飽きることはない。このノンストップの一族郎党の祭りをデジタルの時代により緻密に濃厚にやっているのがWes Andersonなのかもしれない、とか。

これは60年代末を経たヒッピー文化のひとつの終わり、ではあるのかもしれない。みんなで突撃する前に行間を読んで動こう、という - ただそこに苦さや敗北感はあまりなくて、それぞれになんとかやっていきますわ、に向かおうとしている。 そこでそんなんじゃだめだろなめんな、になったのがパンク。 青春期の音楽ジャーナリズムを描いた”Almost Famous” (2000)は、これより少し前の時代、だろうか。

あと、こういうAlternative Paperのクオリティはともかく、こういうスタイルでみんなでぼかすかやりあいながら作られていく記事だと、今みたいなフェイクとか陰謀論のような件はそんなに起こらない気がする。 誰かがそんな記事をあげようもんならみんなで寄ってたかってそんな恥ずかしいのやめろ、になったのではないか。 もちろんこれはネットができるずっと前の話で(でも、オウムもネット前だ)、今のってネットに向かう孤独なひとりひとりが自分さえ気持ちよくなれればいいや、で短冊を書きなぐったり愛でたりしているだけのまったく別次元の話なのだろうけど。
なにを言いたいのかというと、だからVillage Voiceの復活は意味があるのだ、と。

いろんな人が登場してそれぞれの立場から勝手なことを言って向こうに消えていくこういう映画って、お正月向きだったかも。小津のもそうだったけど。

Joan Micklin Silverさんの他の作品も見たい。こういう追悼の時、BFIとか映画館の方が早いんだよな。


だいじょうぶだ、今年はまだあと350日以上ある。 今年が始まってまだ2週間経ってない、って気づくとしにそうになるけど。

1.11.2021

[film] Édouard et Caroline (1951)

1月2日の昼間、MUBIで見ました。アメリカのMUBIにJacques Beckerが2本きている。
英語題は”Edward and Caroline”(エドワードとキャロライン?)、邦題は『エドワールとキャロリーヌ』。
パーティの支度で喧嘩を始めた夫婦がパーティの後に仲直りするまでの約6時間を描いた小咄。クラシック。

小さなアパートに暮らすピアニストのEdouard (Daniel Gélin)とCaroline (Anne Vernon)の若い夫婦がいて、ある晩、Carolineの叔父のClaude (Jean Gallard)の家の開かれるパーティに参加するのでそわそわしている。 そのパーティでみんなにEdouardのピアノが認められれば、これからの活躍の場も広がるしこの貧乏からも抜け出せるだろうし、とCarolineは前のめりなのだが、そんな金持ちやスノッブばかりのとこで演奏しても… とEdouardはややうんざりしぶしぶモードで。

準備をしていると同じアパートに住むおばさんが田舎から出てきた息子のためにあなたのピアノを聴かせてやってくれないか、って現れて、ふたりがとても感激してくれたこともあり余計にパーティなんてさ… になったり。

更に準備しているとEdouardの着ていくチョッキが見当たらなくて、Carolineが助けを求めて実家に電話してみると従兄弟のAlain (Jacques François)が持っているというのでEdouardはそこまで借りにいくことになって、この時点でもう彼は行きたくない度がマックスになっているのだが、チョッキを借りて家に戻るとCarolineがドレスの丈をばっさり切ってどう? とかいうのでそんなの(足を見せるなんて)ダメに決まってるだろ、って返したら大ゲンカが始まってお互いあんたとはもう別れるやってらんない - おう上等でえ、になる。

でもチョッキを借りてしまった手前、パーティに行かないわけにはいかないので、Eduouardはひとりで出かけることにして、パーティにやってきたいろんなゲストに紹介されたり挨拶したり、そこでふたりが喧嘩をしたことを聞いたAlainはCarolineを引っ張ってくるために彼らのアパートに向かって、それとは関係なしにパーティは始まってピアノを演奏する段になって..

Carolineの怒りと呪いがEdouardの指を.. とかそういう話ではなくて、演奏はつつがなく終わって感心してくれる人もいっぱいいてよかったよかった。で、この先見るべきはそこよりもふたりはあそこからどうやって仲直りするに至るのか、のところで、ここを夫婦喧嘩は犬も喰わねえからな、とか言ってみたところでどうなるもんでもない。

Claudeのパーティ会場にやってくるいろんな人たち - ロシア人の給仕からお金もちのご婦人からアメリカ人の大使から、彼らとの出会いに会話に、その前のアパートの母と息子とか - そういうのが少しづつふたりに作用していって、会場に向かう前に感じていたうっとおしさ面倒さがそれらの背後に隠れていって、パーティが終わってアパートに戻ったら家を出る支度を始めていたCarolineの旅行カバンとかを見たり、そういう細かないろんなことがEdouardとCarolineのふたりを夜更けに向けて変えていったから、っていう描き方をしている。

もちろん最初から憎み合っていたふたりではないのでそんなの簡単さ、なのかもしれないが、その辺の細やかさが示されて初めて普遍性を獲得するドラマで、このへんは小津のを見ているととっても思う。一緒に暮らす人同士の関係とその温度を自明のものとしてタイマー設定しても野暮なものにしかならないの。特に華とオーラがあるようにも思えないEdouardとCarolineのふたりが最後はこんなに素敵なふたりはいないな、になってしまうのは魔法でもなんでもない。

あと、Edouardのピアノは日本だと三味線とか長唄になるんだよ。

あと、パーティが嫌なやつなのはぜったいで、このコロナを機にパーティ文化なんて全滅してほしい。


なんの商品名だか忘れたが、じゃが芋をベイクしている背後にThe Kinksの”Tired of Waiting for You”が流れるCMを見てしまい、こいつがここ数日間ずっとBowieに染まっていた頭を一掃してしまった。ずーっと回っている。 Kinksの破壊力おそるべし。

1.10.2021

[film] 小早川家の秋 (1961)

1月3日の昼間、Criterion Channelで見ました。小津を後ろから見るシリーズ。
英語題は”The End of Summer”、Criterionの解説には”The Kohayakawa family”とあるけど映画のなかでは「こはやがわ」って言っている。

最初に松竹ではなく東宝がくるので変なかんじ。舞台は京都と大阪で、ネオンの赤が美しい。

大阪の造り酒屋の一家があって、大旦那が小早川万兵衛(中村鴈治郎)で、そこの経営は長女文子(新珠三千代)の婿の久夫(小林桂樹)が切り盛りしていて、他には長男の未亡人で画廊で働いている秋子(原節子)がいて、次女の紀子(司葉子)がいる。

ある日、万兵衛の義弟の加東大介が取引先で工場主をやっているぎらぎらした磯村(森繁久彌)に秋子の再婚話をもちかけて、丑年の磯村は牛のように乗ってくるのと、もうひとり、会社員の紀子にもそろそろ、ってお見合い話が来たりするのだが、彼女は同じ会社の札幌に赴任することになった寺本(宝田明)の方が気になっているらしい。

このふたりがいっぺんに片付いてくれたらお家も安泰なんじゃが.. . と家族は言いあうのだがこの映画の主人公は彼女たちではなくて大旦那の方で、最近隠れるようにちょこちょこ出かけるようになったので、番頭の命をうけた店員の六(藤木悠)にあとをつけさせてみると尾行は失敗して、でも大旦那は昔の愛人(焼けぼっくい)の佐々木つね(浪花千栄子)とその娘の百合子(団令子)の家に通ってふたりで競輪したり、百合子のBF(アメリカン)が持ってきたサメの子(キャビア)を食べたりして気楽に楽しんでいることがわかる。

それがばれた時の文子と大旦那のやりとりと喧嘩の緊張感(一歩もひかない新珠三千代)がすごくおもしろいのだが、そうやって意地の張り合いをしていたら大旦那の具合が悪くなって、でも治らへん性格なので懲りずに立ち上がって、孫とのかくれんぼの途中で鬼を放棄してこっそりそのままお隠れになって消えちゃって、炎天下で競輪とかしたりしていたら…

女性たちにはどこまでも結婚によって落ち着いて(片付いて)頂きたいのだが、家の長の大旦那は好きにしたい放題やって、散々楽しんだ果てに「ああもうこれでもうしまいか? しまいか?」ってぽっくり死んでしまうという、ムシのいいはなし(家族談)。 結婚式で片付きましたねよかった、って終わるのではなく、火葬場への行列と墓場のカラスでしんみり終わる。 これがThe End of Summerで、(三途の?)河原から火葬場の煙を眺める農夫の笠智衆が呟く - 「後から後から生まれてくるわー ようでけてるわー」が締めてくれる。

うん、ようでけてるわ。 でもそれは誰にとっての、かしら?

とにかく中村鴈治郎が家の廊下を着替えたりしつつ抜けていったり、ぶつぶつ言ったり、通りをすたすたすいすい歩いていったり、彼のみごとな舞踊のような所作と芝居を見ているだけで楽しい。ほんとは佐々木の家で遺体で横たわってて家族が現れたとこで「騙されよってからに」ってひょっこり立ち上がるかと思ったんだけどな。つねが団扇で扇いでいるし。

画面のデザインがびっちりとすばらしくて、酒屋の桶の並びから、縁側の向こうのサルビアの赤、レンガの薄赤とか、昔の日本家屋の造りが - 大阪の家も京都の家も - いいな素敵だなー、っていうのと、最後の葬列のシーンは、二人の人物の立ったり座ったりの呼吸とか煙突に向かう葬列とか、背後でえんえん鳴っているセミの声と音楽も含めた様式がフェリーニの映画みたいに見えたりする。 あと、最後の河原から墓場の景色は格子ではなく斜めの線が入る。 これらをぜんぶがちで計算している。


NetflixでMartin Scorseseの、というよりFran Lebowitz の”Pretend It's a City” (2021)を見始める。ものすごくおもしろくて、もったいないのでまだ最初の2エピソードだけ。 自分がなんでNYという都市に惹かれてきたのか、いまもそうなのか、その理由をぜんぶFranが説明してくれる。あの調子で。 少しだけ元気がでた。

1.09.2021

[film] 秋刀魚の味 (1962)

1月2日の昼にBFI Playerで見ました。あまりにお正月ぽくないのをなんとかしたいかも、っていうのと、暮れに『流れる』をみた流れで。で、見始めたらおもしろくて小津を後ろから順番に見ていっている。BFIとかCriterionに入っていないのは見れないのだが、見れるところまで。

英語題は”An Autumn Afternoon”。Google翻訳にかけると”Autumn sword fish taste”。DeepLだと”taste of saury”になる。”Autumn Sword Fish”はすごいな。

会社勤めをしてて仕事以外にすることがなくなったオヤジ共が自分たちの慰みで娘たちの縁談に首を突っこんで痛いめにあったりしょんぼりしたりするコメディシリーズ。

大企業の重役の平山周平(笠智衆)は長女の路子(岩下志麻)と次男の和夫(三上真一郎)と三人で暮らしていて、長男の幸一(佐田啓二)は秋子(岡田茉莉子)と結婚して団地に暮らしている。周平が最近オフィスに来ていない女性社員の消息を聞くと結婚しました、と言われて、それを教えてくれた女性に君もそろそろだねえ、とか言う。そのすぐ後に平山の友人の河合(中村伸郎)が訪ねてきて路子さんの縁談はそろそろじゃないか、と言うと平山はいやあれはまだ子供だから – いやいやそんなことはないぞ、という会話があり、ところで友人の堀江(北竜二)は若い細君をもらってよさそうだぞおくすりでもやっているのかな、とか。

この冒頭の10分くらいのハラスメント満載の会話と基本設定だけで何が起こるのかだいたい分かってしまうしまうのがすごい。これに続く平山と河合と堀江の3人の飲み会での会話では、すっかり勢いを失ってしまった自分たちの恩師ひょうたん(東野英治郎)の話と若い妻を貰って元気がいい堀江の話に及んで、堀江は平山と河合にいいもんだぞ、お前たちもどうだ? とかいう。酒場の座敷で「まじめなはなし、ここだけのはなし」とか言いつつじとじとねちねち、いつのまにか話が進んで筋書きが練られていく美しいオヤジというかじじいの国にっぽん。この会食文化はいまだに..

この「世界」の強烈な臭みを味わったのは『秋日和』(1960)が先だったかこっちが先だったかそれがいつだったのかの記憶は定かではないのだが、最初に見たときもこれはたまんねえな、って思った。で、(不愉快だから)二度と見たくないわ、になるかと思ったのだがそうはならずに、見れば見るほどおもしろくてたまんないものになる不思議。

とにかく、若い女性は結婚しなければいけない、結婚しないで独りでいると不幸になる、というのが絶対命題としてあって、この強迫観念に取りつかれた哀れな男親たちと、自分の結婚は自分で決めるしあたしがいなくなったら困るのはお父さんじゃないの、っていう娘たちが「困るんです」「いいんです」って抵抗してく様と、立場と局面によって小爆発を繰り返す彼女たちの不機嫌がじじい共の共謀とか懐柔、更には時間の経過によっていかに回収され、結果的にそのシステムを維持しようとするのか/維持されてしまうのか、が醍醐味なの。いや、維持されるところは(認めたくないけど)しょうもないし幸せになるならそれでいいや、なのだが、女性の不機嫌がどう表現されるのか - 着物や手ぬぐいをばさって放り投げるとか -  が個人的には興味深い。男たちが決して見ようとしないところで女性たちはこんなふうに戦ってきたのだし、あのがちがちにおやじの時代だった昭和でもこんなふうに戦ってすたすた歩いていったのだよ、と(ポジティブに考える)。

それか、ここにあるのは溝口や成瀬以上に禍々しく婦女子を縛りにくる伝統的なにっぽんの家族のありようを示していて、これが美しいにっぽんの家族、みたいに朗々と紹介されてしまった(というか嬉々として紹介してしまった。今もそれやってるけど)のがそもそもの間違いなのではないか。

で、そんな観点にたった時にローアングルを含めて画面の構成(縦横、奥行き)とか団地の廊下とかオフィスの廊下とか、ぺなぺなの壁に煙突(≠要塞)とか、なんでみんなトイレに立つとあんなふうに背中を見せて去るのかとか、いろいろものすごくおもしろくて、会話の切り返しのタイミングとか強弱とか、同じくお酒を飲むシーンが多いホン・サンスのと比べるとこっちの方が断然すごい。

タイトルに「味」が入っている、ということでやはり『お茶漬けの味』とも比べてしまう。お茶漬けは主人公の佐分利信が簡単に作れるからこれでいいんだ、っていう妻に対するメッセージとして機能していたのだが、秋刀魚は...  劇中には出てこなくて(鱧は出てくる)、ある季節になると人によってはたまんなくなるやつ、かなあ? とにかく焼いて煙を出せ、っていうメッセージかなあ? タイトルに季節が入っているシリーズにもなんか共通項はあるのだと思う。(個別に流れて消える時間 – 味と共通に流れていく時間- 季節)


今日はDavid Bowieの誕生日なので、BBC Fourで過去のいろんな映像をお蔵出ししている。見たことないのだらけで目が離せない。なんて素敵なひとなのかしら。

英国は1日の死亡者数が4月の記録を更新してしまった。ロンドン市長が緊急メッセージを出して、この数は30人に1人だって。そうやって見ればすごい数かも。

1.08.2021

[film] All the Vermeers in New York (1990)

12月29日の午後、MUBIで見ました。
シカゴの映画作家Jon Jostによる、あんまりインディー臭のないアメリカン・インディー作品。

Anna (Emmanuelle Chaulet)と  Nicole (Katherine Bean)とFelicity (Grace Phillips)の3人はNYのアパートをシェアしていて、Annaはフランスから来ている女優で、Nicoleはギャラリーに勤めていて(Gracie Mansionがギャラリーオーナー役で出てくる)、Felicityは声楽のトレーニング(ぷるるるるるるる)をしたりスイカを食べ散らかしたりしている。彼女たちがいるアパートはモダンで快適そうで、本棚に並んでいる本は、経済から小説から画集まで割と雑多で、彼女たちの本ではなさそう。

株のディーラーをやっているらしいMark (Stephen Lack)はオフィスで複数の通話をスイッチして顧客とテンション高くべらべら喋りながら時折フロアに向かって怒鳴り散らして、を終日やってお金を稼いでいる。
もうひとつ、Nicoleのいるギャラリーには作品を預けているアーティスト(ちゃらい兄ちゃんふう)がお金をせびりにくるところも描かれる。 これがまだバブルの香りがほんのり漂っていた80年代末NYの光景。

ある日、Metropolitan Museum of Art(MET)のオランダ絵画コーナーにあるフェルメールの絵 - 特に『少女』 - の前でそれをじーっと見つめるAnnaの後ろ頭を見たMarkが彼女に声をかける。 君はこの絵に出てくる女性のようだ、とかなんとか。彼に見えたのは後ろ頭で、少なくとも正面からは見ていないはずなのだが、普段から見えないものを見ようとしているトレーダーなのでなにかが見えたのかも知れない。会って食事でもしないか、と誘ってきたMarkに、Annaはなんか怖いものをかんじたのかNicoleに一緒についてきて貰って、初めは英語がわからないフランス人のふりをして、話してみればMarkはそんなに悪い人でもなさそうだし沢山お金を持っていそうなので会って、家賃を立て替えて貰ったりする。Markは$3000をあっさり出してくれて。

トレーダーだけど割とアートが好きで、NYにはMETに5つとFrick Collectionに3つ(映画の中でこの数だったっけ?)のフェルメールがあるんだよ、と『リッツくらい大きなダイアモンド』のようなかんじで語るのだが、Annaにはふーん、くらいで、なんだか頭痛で調子がよくなかったMarkはMetのフェルメールの絵の前で耳から血を流して倒れてしまうの。

Eric Rohmerのような仕事と空き時間と都市の隙間で男女が出会ってあとちょっとでどこかに転がりそうになったところで、不吉な出血と昏倒によってそれがぷつりと途切れてしまう。それだけなの。

Rohmerの“L'ami de mon amie“ (1987) - 『友だちの恋人』で主役のBlancheを演じたEmmanuelle ChauletさんがBlancheよりはややしたたかで強い女性を演じている。部屋はレントだけどあの映画に出てきた彼女のアパートよりは暮らしやすそうな。

ストーリーとして謎なところはほぼなくて、登場人物はみんなふわふわ絵とかマネーの世界を漂っていて、そういうなかで突然空からタライが落ちてきて「あらら..」っていうようなの話なのだが、ありそうなありそうでないような、という線をとてもシャープに引いてて気持ちよい。肥溜めのようになってしまったここ数日間のアメリカから見るとまったく別の世界に見える。

METのフェルメールだと『眠る女』のテーブルに掛かっている布の模様のかんじがとにかく好きで、あの前だったら1時間でも立っていられるけど、そうやって声をかけられたことはないねえ。 ふつう、かけないよね。

そういえばFrick Collectionの方だと、こないだのTVシリーズ”The Undoing” (2020)でNicoleのパパのDonald Sutherlandが、あそこのターナー(だよね?)の前に座っていつも考え事をしていた。金持ちはいいよな。

あと、World Trade Centerの屋上も出てきて、あれ? って一瞬混乱するのだが、この頃はまだ存命中だったのか。

第二弾は男性同士の出会いを描いた”All the Rembrandts in Paris”、第三弾は”All the Jakuchūs in Tokyo”になってほしい。


とつぜん七草粥が食べたくなったのだが、草はどこに生えているのか?

1.07.2021

[film] Dick Johnson Is Dead (2020)

12月30日の昼間、NetFlixで見ました。年内に見ていなかったやつのおさらい。

Dick Johnsonはドキュメンタリー映画作家/シネマトグラファーのKirsten Johnsonの父親で、シアトルに暮らす引退した精神科医で、認知症の症状が出てきている。10年程前に母親 – Dickの妻を認知症(& 階段から落ちた)で失っていることもあり、やがて間違いなく訪れるであろう彼の死を前に、Dick Johnsonが死ぬ、ということはどういうことなのかを、想像上の映像として記録してみようと思う。精神科医としてそういう相談や症例に接することもあったであろう父親は同意(ただ、どこまで理解していたのかは不明)し、彼女の撮影に協力していくことにする。

こうしてKristenは彼女のスタッフに声をかけて、Dick Johnsonが車に轢かれたり、落ちてきたエアコンに潰されたり、首からどばーって流血したり、といった”Dick Johnson is Dead”が決まるシーンをスタントマンとか血糊とか映画の仕掛けを使って丁寧に撮影していって、パパは娘のやることを面白がってついていって、それは彼が認知症の進行に伴って車と家を手放してKristenの暮らすNYに越してからも続いていく。

もちろん、娘がイメージする・見つめようと思う父の死と、父がイメージする自身の死のイメージは違って当たり前なのだが、でも共通しているのはそれがふたりにとって近い将来にやってくる避けられないものとして目の前にあること、認知症が進行中の父にとってはこういったことを自分が認知できるうちに - 過去の記憶を整理するのと同じように - やっておきたい、ということもあったのだろう。

ああこれって所謂「終活」? - ちがう。 なんでも「〇活」ってつけて消費を促進しようとする日本の糞で貧しいマーケティングには吐き気しかないのだが、これはDick Johnsonの死に向けた「活動」なんかではない。「活動」には終わりがあるけど、これはそういうものではないの。母が階段から落ちて亡くなった時から、どんなに親しい肉親もいつかは死んでしまうこと、その死の恐怖と向き合うことは避けられなくて、Kristenはその恐怖に自分の仕事である映画と愛 - 父への愛と映画への愛 - をもって立ち向かう。あるいは、愛がその恐怖を呼びこんだのかも知れない。 どちらにしてもこの愛は父と娘の間だけのものではなくて、Dickの母の死にまつわる記憶やKristenの子供達や友人たちにも及んで広がって感動的なフィナーレになだれこむ。(やられた)

このテーマはとても肌身に近いものだし、自分にももうじき起こることとしてここのところ手を見つめて考えないわけにはいかないあれでもあるので、あんま見たくないな、というのもあったのだがとてもよかった。ひとつにはDick Johnsonの飄飄とした - 昔のハリウッド俳優のような佇まいとユーモアがあって、もうひとつには淡々と自分の仕事を、自分の声と共にこなしていくKristenの強さもあると思う。家族の一員の死、を描いたそこらのお涙頂戴ドラマより、よっぽどいろんなことを考えさせてくれる。


Bloody Nose, Empty Pockets (2020)

これもドキュメンタリーで、12月28日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。
これもいつかは死ぬ、なくなる運命にあるなにかを描いている、

ラスベガスの外れにある一杯飲み屋 - Roaring 20sの最後の一日、昼頃の開店時から常連の酔っ払いがだらだら寄ってきて、だべったり歌ったりしながらそのまま夜になって、いろんな人達が夜の蛾のように提灯に寄ってきて呑んで喋って小競り合いもあったりして、というゆったり過ぎていく時間 – でももう戻ってこない - を切り取って繋いだもの。

アメリカでは批評家の評判がとてもよくて、確かに常連の酔っ払いやカウンターにいる人達のいっちゃったよい顔たちはアルトマンの群像劇に出てきそうなたまんない何かを映しだす。誰もが自分の行きつけの、今はコロナで潰れてしまったり入れなくなったりしまった思い出酒場を思い浮かべるに違いない。そして映画とはこういう時間と場所、そこに巣食う人々の表情をカメラにおさめるものだったはずだ、と。

でもお酒があんまし呑めなくて、こういう酒場であんまりいい思いをしたことがない人にとっては、そんなに来ないやつかもしれない。いっぱい呑めて笑って喋っていろんなことを忘れて(翌日にはそうやって起こったことも忘れて)楽しむことができたらどんなにかよかっただろう、ってこれまでに10000回くらい思ってきたと思うが、これを見ると間違いなくそういうことを思う、と思う。

あとこれって、自分らにとっての本屋とか映画館みたいなものだろうか? なくなったら死にそうになるくらい辛い、といういみで。いや比べるな、かしら?


英国の今日いちにちの感染者は62,322人、死者は1,041人。 そしてDCで起こったことの映像はひたすら恐ろしく、悲しい。
ここまでで、2021年が始まってまだ1週間、仕事が始まって3日目の、まだ水曜日なんだよ。今年はもうぜったいやってらんない。

1.06.2021

[film] Da 5 Bloods (2020)

12月28日の昼、NetFlixで見ました。2020年の残りものを拾っていく作業からの1本。

前作”BlacKkKlansman”でKKKに潜入する捜査官たちを描いたSpike Leeがベトナム戦争を描く。短い紹介文だけだと、現代の老いたベトナム帰還兵たちがかつての戦場を再訪する、という内容のようだったのでしんみりした老人回顧映画を想像していたらぜんぜん違った。アフリカン・アメリカンにとってベトナム戦争がなんだったのか、をあらゆる角度からぶちこんでかきまぜてぶちまけた現代の戦争映画、そのものだった。

ベトナムの空港でOtis (Clarke Peters)、Melvin (Isiah Whitlock Jr.)、Eddie (Norm Lewis)、Paul (Delroy Lindo)の4人が再会して、同窓会のようにかつての戦争のこと、現在のことについて語り合う。そこには彼らのリーダーでありヒーローだった“Stormin’ Norman” (Chadwick Boseman)の姿はないが、彼を含めた5人が栄光の小隊 - ”Da 5 Bloods”で、やがて彼らの目的はNormanの遺体を見つけて弔うこと、当時の彼らが見つけてそのまま現地で行方不明になっている金塊でいっぱいのケースを見つけることであるとわかる。

彼らはそのためにジャングルに入る許可を取り、現地のガイドVinh (Johnny Tri Nguyen)を雇い、Otisは従軍時につきあっていた娼婦のTien (Le Y Lan) - 彼女の娘の父親はOtisであると言われる - 経由で金を国外に持ち出すために怪しげなブローカーDesroche (Jean Reno)を紹介して貰って(取り分についての交渉がある)、そこにPTSDであるPaulを心配して追ってきた彼の息子のDavid (Jonathan Majors)が加わり、更に裕福なお家の出でありながら現地で地雷探索を続けているフランス人のHedy (Mélanie Thierry)のチームも背景に現れ、こうして並べてみただけでこの旅が不吉で血なまぐさいものになることは決まりで。

こうして『地獄の黙示録』よろしくボートでかつての戦場に赴く過程で割と朗らかだった4人の老人たちがだんだんおかしくなっていく – そこにはかつての彼らの戦場での記憶と当時のドキュメンタリー映像やニュース映像が画面アスペクトを変えて織り込まれ、彼らの/アメリカの狂気に赴く旅を正当化し、現場についてからの「発見」以降は金塊を巡る血みどろの抗争が展開される。

戦争を巡る愛国や忠誠や犠牲にまつわる美談は、戦争に駆り出されたアフリカン・アメリカンの数や従軍中に聞かされたDr. Martin Luther Kingの暗殺のこと、彼らが実際に見た戦場の地獄の映像と共にかき消され、既によれよれの彼らの唯一の拠り所は誇り高きDa 5 Bloodsの名と戦場で神のような活躍を見せたNormanの勇姿だったのだが、それも現代のベトナムで暮らす人々にとってはだからなに? 結局せこい金塊泥棒だろ? でしかない。

それでも、Spike Leeはベトナム戦争を間違った戦争として糾弾したり貶めたりすることはしていないように思える。あの戦争の惨すぎる悲惨を見つめつつ、頑迷なトランプ支持者になってしまったPaulに対してさえも、Marvin Gaye - “What’s Going On”, “God is Love” - やLangston Hughesを引用しながら彼らの魂を真剣に掬いあげようとしているような。 そうした地点で、本当にこれでいいのか? このままで良くなっていくと言えるのか? という問いに応えるように作った(作ったのはDavid Byrneだけど)作品が、"David Byrne's American Utopia" (2020) だったのではないか。少なくともこの2本はアメリカにおけるユートピア - ディストピアの方を掘ることなくユートピアを – 巡る試論のように共鳴している気がした。

キャストは誰もがすばらしいのだが、やはりPaul を演じたDelroy Lindoがとてつもないのと、Chadwick Bosemanはますます神に近づいてしまったねえ、とか。


Monsoon (2019)

12月23日の晩、BFI Playerで見ました。↑とは全く別の形でベトナムの戦後を描いた – 戦場にされてしまった国を離れ、でもその国に戻ってきた人々をめぐる静かなお話し。

若いベトナム系英国人Kit (Henry Golding)がサイゴンにやってくる。彼は6歳の時に両親と兄と英国に渡った(今は)英国人で、今回は国を離れて以来はじめて、亡くなった両親の遺灰を撒くために後からやってくる兄家族と合流する前にひとりでサイゴンやハノイを旅して、幼馴染だったLee (David Tran)と再会して彼の家族と会ったり、父がベトナム帰還兵だったというLewis (Parker Sawyers)と出会って愛を交わしたり、ハノイでアートのキュレーションをしているLinh (Molly Harris)と出会ったり、そういうエピソードが言葉少なく淡々と描かれる。

Leeには当時自分が住んでいた家(だった場所)に連れていってもらい、Lewisとはなぜ自分は(故郷でもないのに)ベトナムにいるのか、について話し、Linhとは蓮のお茶を作るところに連れていってもらい「退屈でしょ?」「いや全然」とかそういう会話をして、それらはみな、Kitにとってのベトナムはなんなのか - 故郷といえるのか? – の問いとそれに伴う痛みの周囲をまわっていく。自分が生まれ育った家を見ても何も感じないのであれば、それは故郷と言えるのだろうか、故郷の喪失、というのはどういうことなのか、などなど。

誰も責められるべきではないし責められるわけがない、でもなんで自分の家族は英国に渡って(母からは単にクイーンが好きだったから、と聞かされた)、Leeの家族は残ったのか、自分が残っていたらどうなっていただろうか、とか。

どこにも、なにを見ても答えなんてない、その状態が精神にもたらす言葉にならない苦痛を体現してぶらぶらしていくHenry Goldingがすばらしいの。あの映画でもそうだったように彷徨う天使役をやらせたらこの人に適う人がいるだろうか。

そしてここには勿論、なんでこんな素敵な国を戦場にしたんだ? が後からくる。
ベトナムだけじゃない、パレスチナだってアフガニスタンだってイラクだってシリアだって..

1.05.2021

[film] Sylvie's Love (2020)

12月27日 – ホリディなので曜日なんてどうでもいい - の晩、Amazon Primeで見ました。

リリースは23日だけど、直前だったからクリスマスの最中に相手しているヒマはなくて、終わってからそういえばこんなの届いているけど、ってその箱を開けてみたらその冗談みたいなクオリティにびっくりして、どんな顔をしたらよいのか当惑して。 これを12月の初め頃に、シアターで見ることができたらどんなに素敵だったことでしょう。

62年、NYのTown Hallの入口でコンサート(Nancy Wilsonだって)に入るのに誰かを待っているらしいSylvie (Tessa Thompson)が、たまたまそこに現れたRobert (Nnamdi Asomugha)と出会って、ふたりは互いにはっきりと動揺しながらも再会を喜ぶ。

と、映画はそこから5年前に遡って57年のハーレムで、Sylvieは父親がやっているレコード店 – MonkとかSonny Rollinsが新譜でじゃんじゃん入ってくる - タイムスリップしたい – でTVを見ながら店番をしていて、ジャズバンドのサクソフォン奏者のRobertが現れて、Sylvieに惚れちゃった彼はそこの求人の貼紙をみてバイトしたいって近づいてふたりは仲良くなっていくのだが、Sylvieには婚約者があった。バンドの華として注目されつつあったRobertはSylvieを自分のライブに招待して、彼女は彼の演奏にいっぱつで魅了されて緩んで、でもやがて彼のバンドはパリでのライブの契約を結んで、海外に旅立つことになる。RobertはSylvieに一緒に行こう、というのだが彼女は思いとどまってお別れする。

そこから物語は分岐してSylvieはTV局のプロデューサーのアシスタントになって料理番組の裏方仕事に没入しつつ、元いた婚約者と結婚して子供を生んで、パリでのライブを成功させて戻ってきたRobertはマネージメントと自身のこれからやりたいことの間で悩み始めていて、そういう状態で再会したふたりは、再び燃えあがるのだが..

偶然の再会 → めくるめく回想 → 分岐点 → それぞれのキャリア → 再会・再燃 → それぞれの&ふたりの苦難、というメロドラマの王道を辿っていく。そんなにでっかい苛酷な運命の溝とか渦はなくて、黎明期にあったTV制作の現場 - 女性のキャリアの突端で、Motownのようなポピュラーミュージックの登場に押されつつもまだ発展途上にあったジャズの現場で、自身の将来をそれぞれに模索しているふたりが立ち止まって見つめ合う、その揺れる眼差しと熱とがじんわりと伝わってくる。

既にいろんなところで言われているように50~60年代のハリウッドのメロドラマの王道を黒人のふたりを主人公に再構成していて、これまで作られていそうでいなかった … らしいのだが、これに近い最近の実例として”Far from Heaven” (2002)とか”Carol” (2015)くらいしか知らなくても、そうそうこんなふうかも、っていうのはなんとなくわかる、のはなんでかしら? そしてたとえそんな昔のメロドラマとかを知らなくても、このふたりのドラマをハンカチと力こぶを握って追ってしまうのはどうしてなのか? これらのドラマがセットや書割のなかだけでない現実のメロやエモのなかにあることを、そこを生きてきた我々はどこかでとっくに知っているから、とか書くとくさいだろうか。でもそうやって入りこんで浸って見ることを許してくれるゴージャスな色彩と空間がここにはある。50~60年代のハーレムとジャズ – 撮影のDeclan QuinnはGordon Parksの写真を参考にしたという – がどうしてそう見えて、それを可能にしてしまうのか、については引き続き考えていきたい。時代は違うけどこないだの”Soul”の書割も精緻に描きこまれたNYとジャズの映画だったよね。

そしてこのドラマの主人公としてはっきりとそこに生きているふたりを演じたTessa ThompsonとNnamdi Asomughaには称賛しかない。ひとりが監獄行きになったりしなくても、それぞれが別の道を行こうとも、どこかで巡りあって向かいあうことになるふたりの運命 - 絆なんてちゃちなことは言わない - それがSylvie’s Loveなのだ、ってそれだけ。

撮影は”Carol”と同様16mmみたいなので、フィルムで見てみたいな。


英国、今度はレベル5だそうで、3度目の国まるごとのロックダウンだと。とにかくひとりでも多くの人が助かるなら1年でも2年でもやったらええのや。 そんなことよりあたしゃ日本の方がよっぽど心配だよ。あんな程度の「宣言」で人が救われるとは思えないもん。
 

1.04.2021

[film] Possessor (2020)

12月22日、火曜日の晩、BFI Playerで見ました。

暮れ間近にはいつもどこかしらおっかない1本を見ることにしているのだが、今回はこれがそれ。
とにかく泣きそうになるくらい怖くて(ああいうふうに出血するのだめ)、最初の数分だけできつかったのだが、なんとか持ちこたえる。

冒頭、黒人の若い女性が電極みたいな五寸釘みたいな針を頭のてっぺんに刺して(そこだけでもう…)、自分の感情をテストするような動作をしてからエレベーターに乗ってパーティー会場に行って、そこにいた偉そうな男の喉をかっ切る(ここでもう十分だめ)と、実行した彼女は駆けつけた警官に撃ち殺される。

これの直後に別の場面ではいろんな機材に繋がれた女性Vos (Andrea Riseborough)が起きあがると上司らしい女性Girder (Jennifer Jason Leigh)から記憶のテストのようなものを受けて、彼女が自分の記憶を持った正常なひとに戻っていることを確認している。

Vosは電極を刺した人にそのインプラントを通してその人に憑依(Possess)して契約ベースで殺人を実行する組織の一員で、それをやるためにはそれなりのスキル - 殺人を実行する人に憑依して、殺人の時だけ彼/彼女の感情とか感覚をコントロールする - が必要で、更に実行後に憑依者を切り離して自身に戻ってくるためにはその場で憑依している奴(自分)を殺すしかないのだが、最初の殺人のシーンで彼女は憑依者を殺すことができない。上司でVosを育ててきた殺し屋Girderは、今のところそこが彼女の弱点で、そこには彼女の別居している夫と息子(への未練?)も影響しているらしい、と。

次の契約のターゲットはでっかいやつで、データマイニングをやっている企業のCEOのJohn Parse (Sean Bean)とその娘のAva (Tuppence Middleton)。 VosがPossessするのはAvaの婚約者のColin Tate (Christopher Abbott)で、周到に準備して相手を殺すところまではなんとか実行するのだが、その後でColinを殺す段になるとやはり自分で自分に引き金を引くことができない。その状態で逃げたりもがき苦しんだりしていると、Vosが入っているColinの肉が目覚めてきて…  

こういうのはSF小説とか(既にどっかにありそう)で文字で読むのであれば各自イメージできて楽しいのだろうが、リアルな実写で肉とどうやって繋いでそこから侵入してその先で殺して殺されて、ってやられる - しかもそれを作っているのはDavid Cronenbergの息子さんのBrandon Cronenbergで、こういう血と肉とワイヤーと各種計器とか、それを刺したり抜いたり飛び散ったりに関しては容赦ない筋金入りの人(々)なので、怖いったらない。

確かに暗殺を専門のやくざとかロボットにやらせるのは身元や契約元が割れてやばくなったりするけど、内部に精通している身内がやる - そいつにそれなりの動機があって自暴自棄になっているのであれば、そいつの体を乗っ取って実行してしまえば、割と怪しまれなくてすむに違いない。 殺人藁人形を本人ではなくその隣にいる人に仕掛ける、というか。

この映画はこれまでは祟りとか呪いといったスピリチュアル界隈で使われていた「憑依」を現実世界のテクノロジーを使ってやる - そういうアイデアを示すだけではなくて、このやり方が孕む危険性をワイヤーで繋がっている自己と他者の血肉のレベルの相克とか侵食とか混濁が起こるこんなところあんなところまで含めて示している。 それをわかりやすい(わかりやすすぎる)手に汗握る活劇にもっていったところは賛否あるのかもしれないが、もうこんなやばいことやめましょうよ、って叫びたくなるくらい嫌なかんじにはなっているので、よいのかも。

続編(あるとしたら)は憑依したボディガードが標的を守るというVosたちの対抗企業が現れる、か、肉を乗っ取った世界にハッキングしてそれを外部から操ろうとする組織が現れる、か、Possessor同士のどんぱち(←これは直接やれや).. になるのではないかしら。こわい世の中になったもんだわ。


あーあ、明日から仕事なんだわ。ぜんぜんそれらしくないクリスマスと新年を過ごしたのだから、ここしばらくの間はぜんぜん仕事らしくない仕事になってもだれもなにも言わないでほしいな、とか。

1.03.2021

[film] Mogul Mowgli (2020)

2020年の12月の後半に見て、まだ書いていないのがごっちゃり溜まっていて、これらを今のペースで書いていくといつまで経っても終わらないしどんどん忘れていってしまうので、とにかく新作を中心に書けるやつから書いていこう。

12月20日、日曜日の晩にBFI Playerで見ました。

監督は、これが長編デビューとなるBassam Tariqで、主演、制作、共同脚本にRiz Ahmedさんがいて、昨年のLFFで上映されたときにも話題になった英国映画。いまもストリーミングでいろんなとこでかかっている。

パキスタン系英国人ラッパーのZed (Riz Ahmed)はちょうどNYでブレークしたばかりで、これから米国ツアーだ!ってぶいぶい意気込んでいるところで、でもちょっと冷めてきた気がするガールフレンドからツアーの長旅に出る前にもう2年も帰っていない故郷に戻ってみたら? と言われたので実家のある英国ウェンブリーに帰ることにする。

地元のラップ仲間の間では伝説扱いされて得意になる反対側で、父母の反応はアメリカに行く前とほとんど変わらない頑固なそれで、あーあ、と思っていると体の一部に力が入らなくなっていることに気づく。病院に行くと進行性の自己免疫疾患と診断されて、すぐに入院して治療を受けないと大変なことに..  と言われる。 

いや、これから自分の全キャリアを賭けたツアーが始まるのでそれはだめだ、というのだが、ガールフレンドを含むプロモーター側は割と冷淡に冷静に受け止めていて、代役として彼の格下のRPG (フライドチキンのラップとかやっているバカ)を立てるというし、父親からはそんな悪魔みたいな音楽をやっている天罰じゃ、みたいなお決まりの反応しか返ってこない。

映画は難病をきっかけに自分の過去、家族にコミュニティ、パキスタン系移民の家族である自身のアイデンティティ、自分の音楽、これからの治療、ガールフレンドのこと、などなどを見つめ直して、見つめ直せば直すほどそれらが強迫観念のように束になって襲いかかってきて彼を根っこから潰そうとして、それに対する彼のたったひとりの葛藤や戦いを描く。 その切迫感を表すのに回想のなかで絞り出される彼のラップの迫力ときたら凄まじい。 でもあえて言うとその切迫感の向かう先が多種多様すぎて、結局どこに行きたい(どう生きたい)のかがもう少し出ていたら。

“Sound of Metal” (2019)では進行性の難聴に襲われてキャリアを絶たれてしまうドラマーを演じたRiz Ahmedが、ここでも難病によってその道を閉ざされるラッパーを演じていて、でも彼が失う感覚やその場所、その喪失が彼を向かわせたり振り返させたりする対象は少し異なる(当然)。どちらにしても彼のなりふり構わぬ焦燥と絶望の身振りがドラマにもたらすリアリティはすごくて、ただ英国でラッパーとしてもキャリアを積んでいる彼なので、地に足のついたハマりようはこっちの方が上かもしれない。

こないだ見た”Asia” (2020)でも難病に掛かって動けなくなった娘と母のドラマがあって、あまり好きなジャンルではないものの、動けなくなったときに傍にいる人も含めて描くこういうのって、結局自分の生と死を看取ってくれる人は誰なのか、そういう人っている? ていうあたりを問いているのかしら。特にいま、隔離されたらそれきり、になってしまう可能性がいっぱいあったりするのであればなおのことー。


こちらは1日を過ぎたら通常営業なので、今日はもうふつうの土日と同じで、あさってからは仕事かー、って泣いてる。 休めたかどうかなんて気にしてもしょうがなくて、こういうぼんやりした状態のままクリスマスと年末を過ごしました、っていうことをずっと記憶にとどめておくこと。

年明けのことを少し書くと、BBCのどんぱちの中継を見て、その後はカウントダウン前からやっていたAlicia Keysのライブに切り替わって、”Empire State of Mind”をやってくれたのでNew Yorkのことを思ってじーん、て。

1.01.2021

[log] Best before 2020

新年あけましておめでとうございます。

2020年最後に見た映画は昨日書いた。2020年最初に聴いた音は、大晦日の”The Hacienda 24 Hour House Party NYE!” - たのしかった! - からThe FallにいくかNew Orderにいくか迷って、NOの”Dreams Never End”にして、そのあとうーんやっぱ違うかも、ってThe Fallを聴き直す。

2021年最初に見た映画は、もちろん映画館はやっていないので、Criterion  Channelで、”Holiday” (1938) - お正月映画 - を見て、お散歩に行って戻ってからMUBIで”First Cow” (2019) - 干支映画 - を見た。

[Film]

2020年、途中からロックダウンになって、ストリーミングで見た映画をここのカウントに加えるかどうするか迷ったのだが、ストリーミングを外すと空っぽすぎるかんじになるので、加えることにする。 昨年は映画館で見たのが111本、ストリーミングで見たのが中短編も含めて413本。

なにを見るのか困る、ということは一切なかった。いくらでも湧いてでてきた。ロックダウンの間、平日は仕事の後に必ず1本は見るようにして、土日休日は2本以上見るようにしたらこんなふうになった。別にこれ、仕事の後にジムに行ったり走ったりするのと同じだから。

The Guardian紙のベスト50のうち38本を、Sight&Sound Magazineのベスト50のうち37本を見ている。

映画イベントとしては、BFIのTilda Swinton特集で、毎晩のように通って彼女の話を聞くことができたのが忘れられない思い出。こんなにいっぱい見たのも彼女が「見るのよ!」って言ったから。

[新作20] - 見た順

▪️The Personal History of David Coppefield (2019)
▪️Emma. (2020)
▪️Portrait de la jeune fille en feu (2019)  -  Portrait of A Lady on Fire
▪️The Assistant (2019)
▪️Never Rarely Sometimes Always (2020)
▪️Shirley (2020)
▪️The King of Staten Island (2020)
▪️Fourteen (2019)
▪️First Cow (2019)
▪️Make Up (2019)
▪️Une fille facile (2019)  - An Easy Girl
▪️Babyteeth (2019)
▪️Les enfants d'Isadora (2019) - Isadora's Children
▪️Rocks (2019)
▪️On the Rocks (2020)
▪️Kajillionaire (2020)
▪️The Forty-Year-Old Version (2020)
▪️Saint Maud (2019)
▪️Nomadland (2020)
▪️Small Axe (2020) = Mangrove, Lovers Rock, Red, White and Blue, Alex Wheatle, Education

ものすごくいっぱい削った。 このリストに”Emma.”を入れるか入れないかでなにかがくっきり分かれる気がする。

[ドキュメンタリー20] - 見た順

▪️Toni Morrison: The Pieces I Am (2019)
▪️Cunningham (2019)
▪️The Great Buster (2018)
▪️L'empire de la perfection (2018) - John McEnroe: In the Realm of Perfection
▪️Other Music (2019)
▪️The Booksellers (2019)
▪️Romantic Comedy (2019)
▪️Beyond The Visible - Hilma af Klint (2019)
▪️Woman Make Film: A New Road Movie Thorough Cinema (2019)
▪️John Lewis: Good Trouble (2020)
▪️Flannery (2020)
▪️David Byrne's American Utopia (2020)
▪️City Hall (2020)
▪️Recorder: The Marion Stokes Project (2019)
▪️Gunda (2020)
▪️Wojnarowicz: F**k You F*ggot F**ker (2020) (2020)
▪️Coded Bias (2020)
▪️Colectiv (2019) - Collective
▪️Born to Be (2019)
▪️Dick Johnson Is Dead (2020)

今年のドキュメンタリーは、14時間の”Woman Make Film”と”City Hall”がほぼ全てだった気が。

[旧作20] - 見た順。ドキュメンタリーの旧作はこっちに含めている。

▪️Baby Doll (1956)
▪️America America (1963)
▪️Peter Ibbetson (1935)  
▪️Somersault (2004)
▪️It Felt Like Love (2013)
▪️Dinner at Eight (1933)
▪️Mysteries of Lisbon (2011)
▪️And When I Die, I Won't Stay Dead (2015)
▪️Babylon (1980)
▪️An Angel at My Table (1990)
▪️Out 1: Noli Me Tangere (1971)
▪️Walk on the Wild Side (1962)
▪️Born in Flames (1983)
▪️Os Verdes Anos (1963) - The Green Years
▪️Fragil como o mundo (2002) - Fragile as the World
▪️Astenicheskiy sindrom (1989) - The Asthenic Syndrome
▪️Raising Victor Vargas (2002)
▪️Dance, Girl, Dance (1940)
▪️Strangers When We Meet (1960)
▪️Le procès (1962) - The Trial

これもいっぱい削った。


[Art] - 見た順。

オンラインでは見ていない。行くことができた美術館は48。その中の企画展とか常設とかいろいろ。

▪️Léonard de Vinci  @Musée du Louvre
▪️William Blake   @Tate Britain
▪️Bridget Riley  @Hayward Gallery
▪️Goya. Drawings. "Only my Strength of Will Remains"  @Museo del Prado
▪️A Tale of Two Women Painters: Sofonisba Anguissola and Lavinia Fontana  @Museo del Prado
▪️Picasso and Paper  @Royal Academy of Arts
▪️坂田一男: 捲土重来   @東京ステーションギャラリー
▪️ハマスホイとデンマーク絵画   @東京都美術館
▪️Léon Spilliaert   @Royal Academy of Arts
▪️Madame d’Ora   @Neue Galerie New York
▪️Alfred Jarry: The Carnival of Being   @The Morgan Library & Museum
▪️Cecil Beaton’s Bright Young Things   @National Portrait Gallery
▪️Titian: Love, Desire, Death   @National Gallery
▪️Aubrey Beardsley   @Tate Britain
▪️Artemisia   @National Gallery
▪️Raphael. Legacy and Inspiration  @Gemäldegalerie Alte Meister
▪️Between Cosmos and Pathos: Berlin Works from Aby Warburg's Mnemosyne Atlas   @Gemäldegalerie

圧倒的だったのはLouvreのLéonard de Vinci、TateのWilliam Blake、PradoのGoya、National GalleyのTitian、Artemisia。 くやしかったのはイタリアのRaphael。


[Music]

行けたライブはたったの4つ..(泣)なので順位もくそもない。また行けるようになりますようにー
ストリーミングは映画の方に集中していたのでまだ入っていなくて、あれこれとってもついていけてない。

[LP]  -  積ん聴が増えた。盤が重いので、箱ものはほぼ買っていない。

▪️Bob Mould  “Blue Hearts”
▪️Waxahatchee  “Saint Cloud”
▪️Sufjan Stevens  “The Ascension”
▪️Weyes Blood  “Titanic Rising”  - 2019年のだけどずっと聴いてたので
▪️The Beths “Jump Rope Gazers”
▪️Laura Marling “Song for Our Daughter”
▪️La Roux “Supervision”
 

[Theatre & Dance]

これも3つくらい… そのうちストリーミングも見る。

▪️Feb 14  Tanztheater Wuppertal Pina Bausch — Bluebeard. While Listening to a Tape Recording of Béla Bartók’s “Duke Bluebeard’s Castle”

▪️Feb 21  Endgame + Rough For Theatre II  @Old Vic
▪️Mar 07  West Side Story  @The Broadway Theatre


今年こそはたくさんのよいものに出会うことができますようにー。