11.30.2012

[film] 千羽鶴 (1969)

連休の最初の金曜日、なんとなくシネマヴェーラでみました。特集「昭和文豪愛欲大決戦 2」の最後の。

原作は川端康成で、読んだことくらいあったはずだ、と本棚の奥から引っぱりだしてみる。 (こんな話だったっけ ...)
オープニングタイトルで、「ノーベル賞受賞記念」とでる。

鎌倉の茶人の息子で会社員をしている菊治(平幹二朗)のまわりのぐしゃぐしゃした愛憎模様。
父親(船越英二)の愛人Aだったのが栗本(京マチ子)で、それに続く愛人Bが太田夫人(若尾文子)で、京マチ子は、母親気分でどっかの御嬢さんと菊治を結婚させようとするのだが、彼のほうは、茶会で出会った若尾文子と突然嵐のような愛になだれこんでしまい、京マチ子はそれが気にくわなくて、裏でねちねちいじわるして、そうしたらもともと病弱だった若尾文子は自ら命を絶ってしまって、こんどはその向こうに新たな希望としてその娘の文子(梓英子)が突然現れるの。

で、こっちも最初は「いけませんわ」モードだったのだが、お茶室でなんとなく寝てしまい、こんなことでいいのか、と悩むのだが、そうすることで彼は父親の、彼女は母親の呪縛から自由になって、これこそが本当の愛なのかも、というのを知るのだった、と、こんな話でよかったのかしら...

京マチ子 vs. 若尾文子というと『赤線地帯』(1956) から続く因縁のゴジラ vs. キングギドラみたいなもんだと思うのだが、ここでの若尾文子はとてつもなくすごい。 病気のせいだか薬のせいだかわからんが、ずっと熱にうなされたような潤んだ瞳と息遣いでしなしなと息子のとこに寄ってきて、横でずっとふんふん言ってるもんだから、菊治はたまらず押し倒してしまう。(あれじゃ、我慢しろってのが無理だ)
娘からすればお母さんなにやってんのいいかげんにして、なのだが、いいのあたしは恋に死ぬんだからみたいな状態できんきんにのぼせているからお手上げなの。 

おせっかいばばあの京マチ子もいじわる小姑芸で撃退しようとするが、うるさいなあ、にしかならない。 胸元のでっかい黒痣(鋏でじょりじょりするとこがこわい)が武器なのだが気持ち悪がられるばかりで、でもどんなに疎まれてもおうちにあがりこんでくる根性がすさまじい。

でもいちばんわかんないのは娘の文子で、だって父子二代に渡って母親を取られちゃって、しかも後のほうは命まで奪ったかもしれなくて、さらにはうるさい京マチ子にまで付きまとわれて、こんなの呪われてるとしか思えないのに、それなのにお茶室で寝ちゃうんだよ。 お茶室って、そういうことしていい場所なの? 

なにがなんでもこの人、この恋、というのではなくて、恋愛はお茶碗であって、和と茶のこころでもって古いものを愛で、新しいものを愛しむ、割れちゃったらしょうがないのじゃよ、って言っているのかしら。 鶴だって千羽も飛んでくるんだよ、って。

最後、どこかに姿を隠してしまった文子に対して、もうこんなのに捕まるんじゃないよ、地の果てまで逃げるんだよ、と力強く思ってしまうのだった。

11.29.2012

[film] Tyrannosaur (2011)

18日、ホン・サンスの後に少し歩いていって、見ました。
『思秋期』なんてタイトルになっていたもんだから気づかなかった。あやうく見逃すところだったわ。

Joseph (Peter Mullan)は英国の郊外で一人暮らししている老人で、慢性の酒飲みで癇癪もちで、飲んだあとのむしゃくしゃで自分の犬を蹴り殺しちゃったり、バーで若者をぶんなぐったら返り討ちにあったり、そんな自分がどうしようもなく嫌になって、ある日街のリサイクルショップに逃げこむ。たまたまそこにいたのがボランティアで店員をやっているHannah (Olivia Colman)で、クリスチャンの彼女は、ぼろぼろの彼のために祈ってくれるのだが、彼女の住んでいるとこが高級なエリアだったりしたので、けっ、てJosephは出ていくの。

でも、彼女は彼女で夫のDVに苦しんでて内面からっぽのぼろぼろで、そういうふたりがどちらからともなく、ぎこちなく近づいていくおはなし。

ほんとに擦り切れてて、堕ちるとこまで堕ちているので神も救いも絆も信じてなくて、友達は死んでいくばかりだし、"Gran Trino"みたいな義憤にかられてなんかぶちまけることもできない、ほんとに暗く荒んだ陰惨な魂のおはなしなのであるが、ふたりが同じ画面にいるだけで、なんかいいの。 

"Tyrannosaur"ていうのは5年前に死んだというJosephの妻のあだなで、大食らいで階段を上るだけで"Jurassic Park"の恐竜みたいにコップの水の表面が震えた、それがおかしくてそう呼んでいたのだが、でもいなくなるとさあ... ていう。

そういう、まわりに人がいてもうっとおしいだけだし、ひとりで構うもんか、けどいないと... みたいに、ぎゅーっと内側に固まって放心した穴、かさぶた、になった老いたひとの状態がきちんと描かれていて、それを「思秋期」と呼ぶのはどうかと思うけど(叙情みたいのはゼロよ)、映画はとてもよくて、なんでいいのかうまく説明できないのだが、いいの。

米国映画だともっとジャンクに堕ちるか、思いっきり暴力のほうに振れるかしそうなところをJosephのひんやりざらりとした石頭とHannahの腫れあがった顔の並びの不細工な佇まいに寄せてみる。 それがなんであんなに。

ひとをぶんなぐるのも含めて、音はほんとにすごくて身を竦めてしまう。

11.28.2012

[film] Oki's Movie (2010)

新宿のホン・サンス特集『ホン・サンス/恋愛についての4つの考察』から、18日日曜日の昼間にみました。

『教授とわたし、そして映画』。

ホン・サンスの映画は数本しか見てないのだが、例によって軽くて、ぼーっと見ているうちに終わってしまう。 こんなんでいいのか、と思いつつ、でもなんだろこれ、と。
気持ちよいのだか悪いのだかよくわかんなくて、そういうのが気持ちいい人には気持ちよいのだろう、あたりまえだけど。

4部、というか4章構成で、若い映画作家ジングの現在と過去、彼の上にいる大学の教授ソン、その教授と関係を持っている女子学生オッキ、ジングが関係を持ちたいと思うオッキ、このゆるーい三角関係に映画制作、というのが絡む。 映画?

第1章でジングと教授の線、第2章でジングとオッキの線、第3章で3人の三角形が前面に出て、第4章では、この関係をテーマにオッキが作った映画が挿入される。

最初の章で映画は単なる事実の羅列ではない、とジングは若い学生に言うのだが、この線で恋愛における事実と嘘とのありようが、その境界がなにひとつ明らかにされないまま(する必要がどこにあろう?)、たったひとつのキスとか、夜通しオットのアパートの前で待つとか、朝に部屋に入れてもらって愛しあうとか、そういうのでころころ寝返ったりして、要するにやったもん勝ち、の非情な(笑)世界が、ぺたーっとした画面の上で綴られる。 画面の上で起こることがやはり正しくて、その線でジングは上映会のQ&Aで過去の恋愛のことを観客から糾弾されて憮然としたりする。

で、このジングを中心に置いた恋愛をめぐるスケッチが、最後のオッキの映画でかるーくひっくり返される。 単なる事実の羅列として横並びで比べられる初老の男と若めの男との、師走と年明けのデート。 どっちがいい、とか、どっちにすべき、とかそういう話ではなく、犬と猫のように並べられるふたりの男たち。

で、音楽はへなちょこな「威風堂々」なの。 なめてんのか。
はい、なめてます。 映画なんてこんなもんで、でもキスはたまんないの、と。


今年のBlack FridayのRSD、"Moonrise Kingdom"のサントラ10inchだけは、とりあえずおさえました。 ほっとした。

11.26.2012

[film] でんきくらげ (1970)

17日の土曜日、シネマヴェーラの『昭和文豪愛欲大決戦2』から1本だけみました。

原作は、遠山雅之で、とうぜん読んだことなかったです。

由美(渥美マリ)のお母さんがバーで働きながら娘を洋裁学校にやってて、アパートにはろくでなしのヒモ( 玉川良一)が転がり込んでて、由美がヒモに犯されたことをきいたお母さんは逆上してヒモを刺し殺して刑務所に行っちゃうの。

ひとり残されたマリは母と同じバーで水商売を始めたら川津祐介が寄ってきてもっといいところで雇ってくれて、さらにそこの社長(西村晃)も囲ってくれて、そしたら社長はのぼせてお風呂でしんじゃって、彼の莫大な遺産を求めて親族がたかってきたので連中に対抗するために川津祐介との間でやりまくってひと晩で子供をつくって、そいで見事に相続するのだが、そこまで行ったとこで川津祐介とは縁切って、るるるー、って母のところに還っていくの …

笑っちゃうくらいものすごいコテコテの貧乏転落話であり、銭をめぐるのしあがり話であり、渥美マリはずっと濃いめのメイクで台詞棒読みだし、ダンスクラブでふたりが踊るダンスはなんかの求愛ダンスみたいなわけわかんないテンションだし、でも、これはそういう様式の積み重ねを通してはじめてくらげみたいに浮かびあがってくる世界のなんかなのではないか、とそういうふうに思うことにする、とか。

それにしてもなんで「でんきくらげ」なの? と思ったら、渥美マリ主演「軟体動物シリーズ」ていうのがあったのね。

1.いそぎんちゃく (1969)
2.続・いそぎんちゃく (1970)
3.でんきくらげ  (1970)
4.夜のいそぎんちゃく (1970)
5.でんきくらげ・可愛い悪魔 (1970)
6.しびれくらげ (1970)

ぐにゃぐにゃ、たまにびりびり、ってことなのね。 ふうん。

[film] DUBHOUSE:物質試行52 (2012)

16日の金曜日の晩、新宿の七里圭の特集上映の最終日に見ました。短編みっつ。

最初が『夢で逢えたら』(2004)。
がらんとしたバスの中、男の子と女の子の出会いと、ふたりの暮らしが、声を一切欠いた世界のなかで描かれる。 生活音はふつうに聞こえるのだが、声だけが聞こえてこない。でも映画のなかで口をぱくぱくして会話が成立しているらしいことから、声だけがこちらに聞こえてこない、のか、ぱくぱくだけでもコミュニケーションが成立してしまう世界を描いているのかのどちらか、と思われる。

『眠り姫』が目に見える確かさを一切欠いた現実(気配のみ)を描いていたのに対して、『夢で逢えたら』は、隅々までクリアに描かれた夢(相手の声は届かなくてもわかる)を描いているような。

一見、異様な世界のようで、それは口内炎とか耳鳴りとかものもらいとか偏頭痛とか、少しだけ自由を欠いたいつもの皮膚のまわり、のことでもあるのだな、というのがわかってくる。 あるいはそこに、性差、というのを持ちこむのはありなのかどうか、とか。

映画は、我々が生きている世界(夢も妄想も現実もひっくるめて)に対して、なにでありうるのか、どこまでを描くことができるのか、という問いに対する極めて真摯なアプローチであり、こういう試みなしに、「リアル」とか垂れ流してはいけないのだし、こういう試みを経たあとではじめて、「夢で逢いましょう」ていうことも言えるのだね、とおもった。

次が、『Aspen』(2010)。 クラムボンの同名曲のPVを、ボツになったバージョンと公開されたバージョン続けて。 クラムボン、ちゃんと聴いたのは10年ぶりくらいかも。

どちらも、ダンサーの黒田育世さんが曲にあわせて野外で踊っているところを16mmのワンカット、一発録りで撮ったもの。 ボツになったほうの「一本道編」のが圧倒的にすばらしいと思ったのだが、ボツになった理由を後のトークで聞いてびっくり。
「一本道編」のほうだと、You Tubeの画面では小さすぎて、最初のほうなにが映っているかわからないから、だと。

PVの世界なんてそういうもんなのかも知れないが、でも小さくてわかんないから、で排除していったらなんも残らなくなっちゃうよ。
映画とか音楽の世界にわかりやすさを求めるのって、なんなの? そんなことしてなにが楽しいの?


最後が、最新作である『DUBHOUSE:物質試行52』 (2012)。

建築家の鈴木了二の連作としてDUBHOUSE:物質試行というのがあるらしく、50番が下田に作られた真四角の住宅(通称シモダブ)で、51番がそれを横に引き伸ばした国立近代美術館でのインスタレーション(通称モマダブ)で、52番がそれを映画に撮影してフィルムに現像したものである、と。

DUBHOUSEのDUBは、(われわれが80年代に浴びるように聴いてた)音楽のDUBのことで、いろんなエフェクトを掛けて原曲を圧縮したり希釈したり撹拌したりして再構成する、そういうやつで、では、建築におけるDUBの原曲に相当するものって、なに? とか。

鈴木了二さんは(旧)日仏学院で何度か上映後のトークを聞いたことがあって、そのたびに思ったのは(本人も言っていた気がするが)、映画について語ることと、建築について語ることはとても似ていて(映画と建築が似ている、というのではないよ)、その相似はわれわれが世界や社会との関わり(ポジもネガも)を考える際にとっても有効で、そんななか、ここでののKeyになるのが冒頭に字幕で示された「建築は、闇をつくる力がある。」という一行だったのだった。 或いは「闇を展示する」ということ。

50番から51番にDUBられる過程、あるいは51番から52番にDUBられる過程で再構成されたものは果たして「闇」だったのか。 51番にあった「闇」と、52番でフィルムに落とされた「闇」は、どれくらい同じなのか違うのか、違うとしたら、なにが違うのか。
観念の遊びみたいに見えるかもしれないが、人工物を作るという意味での「アート」においてこういうのは最低限おさえないといけないことだと思うの。

上映後、監督と短編にColoristとして参加している牧野貴さんとのトークは、ものすごくおもしろかった。
爆音3Dの直後だったこともあり、改めて、すごいことやってるのね、と。

話にも出てきた、日本のデジタル化市場の圧力の異様さ、には強く同意した。
米国だってもうちょっと慎重だし、少なくとも上映に関してはデジタルとフィルムの共存を前提とした流れが普通にある。 日本だけだよ、ガキみたいにはしゃいでるのは。

で、そういうしょうもないせめぎ合いのなかで、改めて映画とはなにか、という問いが前面に出てくるのね。

11.23.2012

[film] 2012 act.5 (2012)

ぜんぜん通うことができなかった爆音3D。 せめてこれくらいはー、と14日の晩、吉祥寺に。

牧野貴 ×『2012 act.5』ライヴ上映  + 『Still in Cosmos』。

これは3Dメガネを使った3D映画、ではなくて、2Dでも見ることはできて、でも片目側だけにフィルターが入ったメガネを掛けることで画面の見え方が変わって飛び出して見える、と。
これ、プルフリッヒ・エフェクトていう片目を薄暗くすることで生じる知覚の時間差でもって横移動映像を立体的に見せるやつで、こういうのがあるのは知っていたけど、やってみるのは初めてだった。 どきどき。

紙メガネ、フィルターが入ったほうを利き目に、ということで自分の利き目は左なのでそっちにつけるのだが、この左側のやつは、ぐらこーま、でぼろぼろなので、はてどうなるんじゃろ、だったが、だいじょうぶだった。

さて、最初の『2012 act.5』は、上映のたびに追加再編集されていく作品で、これが今年の5回目、残りあと2回の上映を経て、作品として完成するのだという。途中でフィルムがなくなってデジタルに移行したりいろいろあった、と上映前に監督が言っていた。
音楽/音響はライブで監督自身が演奏する。

3Dのように目の前にびゅんびゅん飛び出してくることはないのだが、じーっと見ているとスクリーンの表面がでっかいゼリー状の厚揚げみたいに膨れあがってせり出してきて、その表面でいろんなのが蠢いたり涌きだしたりする。 うまく言えない…

遠くで車の音が聴こえたあたりから画面全体の動きとその速さが尋常ではなくなり、前面にはりついたクラゲさんの触手が多段の多層にばりばりめりめり潜りこんで伸びきったあたりで分裂しそれぞれが共食い喧嘩をはじめる。 うまく言えない…

音は、その粒子が画面上の色のつぶつぶに乱反射したり合体したり、音像と映像のリンク、なんてちゃらいやつじゃない、音がそのまま光であり光がそのまま音となる、そいつらが正面衝突して現れる瞬間をスローモーションの横移動立体効果で見せてくれるのだった。

何分間やっていたのかわからんが、あと3時間やっててもぜんぜんよかった。

続く"still in cosmos" (2009)は、2009年の爆音映画祭でも見ているのだが、そのときはプルフリッヒ・エフェクトなしだった。 今回はエフェクトありの爆音で、もうこれはひたすら圧巻、問答無用のクラシック、マスターピース。 Jim O'Rourke + Daren Gray + Chris Corsanoのトリオによる圧力鍋のなかで沸きたつ音の渦が鼓膜に襲いかかってきて、どこまでいってもcosmos、鍋の壁を無限に押し拡げていくcosmos、の勢いがプルフリッヒの大波で更にぶっとくなってやってくるのだった。

2本あわせて1時間強くらいでしたが、終わったら目がぐるぐるでまっすぐ歩けなくて、これはこれでたのしいのだった。

これ、シルク・ドなんたらとかの数百倍スペクタクルでおもしろいんだけど、なんでお客さんあんま入ってないのかしら。

[film] Quatre nuits d'un rêveur (1971)

12日月曜日の晩、ユーロスペースで見ました。『白夜』。

今年1月のFilm ForumのBresson全作品レトロスペクティブで見たのに続いて2回目。
あのレトロスペクティブは他の国もツアーしてたようなので、まとめて来てほしいなー、という祈りをこめて足を運ぶ。

できれば『やさしい女』(1969)も一緒に見たかったのだが。
どっちもドストエフスキー原作、というだけでなく、どっちも彷徨える若者が読者に呼びかけるかたちで進むというだけでなく、映画だとブレッソンのエロ(なんてあるんだよ、と言ってみた上で)が狂い咲きしているようなかんじがあるの。

Martheの家の下宿人が貸してくれる本の山のなかにはアラゴンの『イレーヌ』とかクレランドの『ファニー・ヒル』といったエロ本があるし(原作ではウォルター・スコットとプーシキン)、妙に唐突で、しかしものすごく美しい彫刻のようなMartheのヌードとか。
しかも、そのヌードはJacquesに語りかけるMartheの話のなかで出てくるだけなので、Jacquesの目に届くことはないの。 なんてかわいそうなJacques …

こんなふうに決して到達できない女性の性のまえで途方に暮れてあーどうしよー、みたいなとこが腰のあたりからなかなか上に向いていかない変なカメラの位置とか動きとかから。

ぼーっと発情したあたまで街を彷徨うJacquesの白く包まれた四夜の出来事。
最初の夜、橋から身投げしようとしていたMartheと出会い、二夜目にお互いのことを話して親密になり、三夜目に更に親密になり、四夜目にいよいよ、というとこで突然夢から醒めて突き落とされる。
で、その翌朝、ああありがとうMarthe、とかしらじらつぶやきながら画布に向かうの。

あと、こないだTIFFで見たアサイヤスの『5月の後』をぼんやり思いだした。
Jacquesも『5月の後』の主人公のGillesと同じように、68年5月に間に合うことなく悶々と絵ばっかり描いているのか。 なにひとつ思う通りに手に入れることができない若者は錯乱して変な絵を描いたり、テープレコーダーになにか吹きこんだり、映画に向かったり、そんなことするしかなかったのか。

あとはなんといっても橋の下を抜ける遊覧船だよねえ。裸身と遊覧船がとにかくとんでもないので、ここだけでも見るべし、なの。

11.19.2012

[film] ...All the Marbles (1981)

11日の日曜日、渋谷で見ました。シアターNの最終興行、『カリフォルニア・ドールズ』。
自分の前日からの流れでいうと、姫 → 姉さん → ドールズ、であってだんだん強くなって手がつけられなくなって、全面降伏、と。

すんばらしー! さいこー!! 絶対見るべし!!!
こういうのはTwitterで一行呟いてそいで終わり、でぜんぜん構わないの。 まったく異議なし。

IrisとMollyの女子プロレスタッグチーム"The California Dolls"と彼女たちのマネージャーHarry (Peter Falk)の全米ドサ回りの旅と、一等賞の座を賭けたリノでのタイトルマッチを描く。
誰が見たってこてこて、汗にまみれたスポ根ものであり、ビンタにまみれたライバル/師弟ものであり、どろんどろんのショービズであり、ぜんぜん綺麗事ばかりではない、ゴミにまみれたこの世のお話で、それでも、それなのに大量のアドレナリンと涙と鼻汁を頭部に呼びこんで、終わった後にはなーんにも残さない。

そこにある快楽は魔法とか奇跡とかによるものではなくて、体育会系の地道でまっとうな練習の成果でもなくて、勝つんだ有名になるんだ一攫千金だばかやろー、ってさえない3匹がうらうら思いこんであれこれ仕込んだおかげ、っていうだけなの。 それがはまって当たったときのざまあみろー、のぞわぞわが最後のフォールでばん、ばん、ばん、てくるの。

これはカリフォルニア・ドールズ - すごい美人さんでもない白人の女子ふたりとぷーんと臭ってきそうなイタリア系マネージャー - がいたから成立した話で、これは男子タッグだったり、或いはライバルのToledo Tigersのふたりでも成立しなくて、たぶん、ロックバンドの映画を作るケースにもあてはまるなんかの方程式みたいのがあるんだとおもう。 で、そういうのを考えたり分析したりするのは野暮、ていうもんなの。

DVD化される見込みないから劇場へ急げ、は宣伝文句としてはいいけど、これはDVDになんなくていい。映画館の闇のなかで輝く彼女たちの戦いとおなじ、一晩かぎりのライブとおなじで、そこでしか見れないもので、でも、だから絶対見とかないとバカな、そういうやつでいいの。

11.18.2012

[film] 眠り姫 (2007)

10日の土曜日、池袋で『レヒニッツ(皆殺しの天使)』を見た後、新宿に移動して、特集上映『のんきな〈七里〉圭さん』 から2本続けて見ました。 

こいつは見ねば、というかんじではなくて、なんとなく、のんきなかんじで。

最初が『眠り姫』。
ずっとロングランが続いている作品であることは知っていて、そういうことなのかー、とおもった。 

人の影はほんの数回、幽霊のような形しか出てこなくて、だるくて眠くて職場に行くのがおっくうな中学校の非常勤講師(女性)の独白と彼女のまわりの人たちとの会話、彼女を取り巻くいろんな音、サウンドトラックの音楽、これらが中心にある音の映画。 音の濃度はとにかく圧倒的。

気配、ってなんなのか、と。 なにかがいる、なにかがある、そのなにかの確かさをより確かにするのは音であったり、光と影であったり、輪郭であったり、対象との距離感であったりするのだろうが、主人公が自身と世界との間で喪失しつつあると感じているなにか、主人公が「変だ」と言い続けるなにかを伝えようとしたとき、気配、というのがひとつあることは確かで、映画はそいつを、映像としてどうやって捕捉するのか、できるのか、その裏に表に音はどんなふうにひっついてあるのか。

んで、更に、それらの気配は必ずしも自分のものとして感じられるのではなくて、すべてが他人事のように半端に浮かんでくるのでより厄介なの。だから自殺するほど大変なことではないし、ただただなにもかも面倒になって布団にもぐるしかない。

だから、映っているのは主人公の白日夢でも幻視でもない。最初のほうで女性の短い絶叫が響くのだが、だからといってなにひとつ醒めることはなく、そのまま続いていく。
それは普通の人の生活といえるのか、いへ、それは姫の暮らしなのだと。

そういういろんなのを頭のなかから具体的に音と像に起こしていくのは大変だったんだろうなー、とか。

原作の漫画は読んだことがなかったのだが、後のトークでおおもとは内田百閒の『山高帽子』であることを聞いて、あー、て思って、帰ってから引っ張りだしてほぼ30年ぶりに読み返してみる。(旺文社文庫、81年初版、だよ)

猫が喋るとことか手の形が変(変だよねえ..)だとか、薄明のなか、全てが他人事で無責任で、バランスを欠いた変な厭世観は映画のなかにも伝染して充満しているのだった。 百閒の空気と濃度って、伝染するんだよね。

ここで切り開かれた知覚の扉の確かさを検証するためにも、例えば映像を消してみたときにどうなるかを探ってみるのはおもしろいはずで、だから17日のイベント『闇の中の眠り姫』はとっても画期的だったはず - 闇の中で眠り姫はどんな活躍をみせたのだろう - なのだが、闇以前に低気圧に負けてしまったのだった。

続いて19:00から『のんきな姉さん』(2004) を。

クリスマスの夜に会社で残業している姉(上司の三浦友和も残業してる)のところに、姉との禁じられた関係を書いた小説を送りつけて、ぼくはこれから雪山で死んじゃうんだからね! と電話してくる弟。
彼らの現在と過去、そのありえたかもしれないいくつかの軌跡を、あってもおかしくないクリスマスの打ち上げ花火として描く、というか。

原作は山本直樹の漫画で、そのおおもととして唐十郎『安寿子の靴』、森鴎外『山椒大夫』が。

「眠り姫」に弟がいたら、例えばこんな話しも成立するのかもしれない。
姫の、何もかも他人事である、としてしまう態度を「のんき」と置いてみて、そこにすべてを自分事として真に受けて苦悩する弟をぶつけてみる。そのぼんやり/きりきりとした相克を愛と呼んでみることは可能なのか、世の中の全ての愛なんてこんなようなもんなのではないか。 例えば。

35mmフィルムでの上映で、この点も「眠り姫」のデジタル上映とは対照的で、やわらかい系の色のかんじがすばらしく、いろいろ考えさせられるのだった。

11.16.2012

[theater] Rechnitz (Der Würgeengel) - Nov.10

土曜日の昼、池袋の東京芸術劇場ていうとこで見ました。
Festival/Tokyoから、原作はオーストリアのElfriede Jelinek、演出はスイスのJossi Wieler、製作はドイツのMünchner Kammerspieleによる『レヒニッツ(皆殺しの天使)』。 110分。

二次大戦が終わる直前、ロシアが侵攻してくる直前、レヒニッツにある親ナチだったオーストリアの伯爵夫妻の城で、180人のユダヤ人が「パーティーの余興」として虐殺されたという「史実」をベースにノーベル作家のエルフリーデ・イェリネクが作った戯曲。

舞台は複数の扉やヘッドホンで外部とつながっている三角形の部屋、でも普段は閉じられている隠し部屋のようなとこで、その部屋に5人の白人の人たちが現れる。初老の男がふたり、それよりやや若めの長身の男がひとり、女性がふたり(ひとりは初老、ひとりはやや若め、どちらも男性とカップルである様子)。 一見、ファスビンダーの映画に出てくるような、ドイツの、ちょっと変な市民の風貌。

最初は正装してて、軽めの軽音楽にのって、客席にむかってやあやあ、て挨拶する。5人は部屋の外の様子を気にしながらも、下着姿になったり、パジャマになったり、カジュアルになったり、服装を変え、ピザを食べ、ゆで卵を食べ、チキンを食べ、ケーキを食べる。

そういうふつーの衣食住の流れに乗って、5人はいろんなことを喋り続ける。 この舞台が闇の歴史、闇に消えようとしている歴史を描いたものであることを知っている観客は、彼らの発言をその文脈に沿って位置づけ、解釈しようとする。

ドイツの歴史、民族のうんたら、戦争のこと、歴史のこと、善悪のこと、事実をめぐるうんたら ...

彼らは虐殺に直接関わっている当事者なのか、パーティの参加者として虐殺を外から眺めているだけなのか、虐殺の模様を「後から」報告しようとしているのか、虐殺の現場を「再現」しようとしているのか。

そのどれでも当たっているようで、当たっていないようで、でも全体としてわかるのは、隠さなければいけないようなことが、ひっそりと行われて、しかしそこに罪の意識はあまりなく、しかたなくやむなくで、でも、それはとにかく行われる。 行われた。
だれが、どこで、いつ、は扉の向こうでダンゴになっていてぼんやりとしかわからず、どこかに隠されてしまって、でも、それは行われた。

そのコトの周辺をまわっていくのは自分の言葉ではない言葉 - 外国語のように語る蝋人形のような人たち。

で、そうやっていると、この5人は自分であり、あなたであった、のかもしれない。
或いは、そこにいたのは「天使」だったのか? だれに仕える天使だったの?
 
会話劇、というよりはいろんなテキストを登場人物ひとりひとりが読み上げていくかんじ。 あるテキストを受けて次に、というやりとりの連鎖が時間の経過と共にある像を作っていく、というよりは、壁に一枚ずつ短冊を貼っていって、その模様の総体がことの次第を浮かびあがらせる、そんなかんじ。 テキストとテキストの間の繋がっていかない段差こそが、その救いようのない事実を、光の届くことのなかった暗がり - 墓穴の奥を語る。 

この陰惨な、しかし複数の証言まるごと闇に葬られようとしている史実に光を当てるとしたら、こういう方法しかないのかも。

とか、或いはここで、映画は例えばどんなふうに、とか。(関連イベントでこの事件を取材したドキュメンタリー映画『黙殺』(1994)をやっていたが行けず.. )

あるいは、Pina BauschのTanztheaterのようなスタイルで、つまりダンスだったらどうだろう、とか。 (Pinaはやらないだろうけどな)

字幕の日本語がちょっときつかった。 あれじゃみんな寝ちゃうよね… (みんな結構ぐうぐう)

[film] Hollywood Boulevard (1976)

書く時間がなさすぎるー。

8日の木曜日、新宿でみました。
夜コーマンふたたびをやっているのは知っていたが、やはりぜんぜん時間がなかった。
これの前の週の『バニシング in Turbo』- Ron Howardのデビュー作も行けなくて、気がくるいそうだったのだが、このJoe Danteのデビュー作はなんとか行けた。

筋はいつもの通りあってないようなもん、というか、女優になりたいわふんふん、てやってきた娘さんがてきとーな代理人に紹介されるままてきとーな会社のてきとーな現場に行ってみると、そこはほんとにほんとにいいかげんなとこで、同じような女優になりたいもんもんの娘さんたちが吹き溜まっていて、でもときたま怪しいかんじで人が死んだりするのでなんなのかしら、って思っているとやっぱしやばかった、みたいな内容なの。

映画撮影に関する映画だから、ってこないだの夜コーマンでやってた"The Big Bird Cage"(1972) -『残虐全裸女収容所』なんかをそのまま切り取って貼り付けてるし(えーあれって「映画」だったんだー、と思ってしまう)、ゆるキャラみたいにひどいゴジラとか出てくるし、そんなんでいいの? とか言われても、いいに決まってるじゃん、なんでいけないの? になってしまう適当さがたまんない。

でもその適当さって、こんなもんでいいだろ、的に作っているわけでは当然なくて、あるものを全部使って出してわいわい楽しんでもらう、そのお楽しみは、基本エロとバイオレンスとアクションから出来ていて、それをぜんぶ詰め込んでみたら想定していなかったような味になってた、そんなかんじ。 とりあえず、おいしいんだから文句はない。

ふんわりのんびりしていると突然血だるま、みたいなびっくり箱系の落着きのなさは既にJoe Danteだったかも。
彼の3D映画、"The Hole" (2009) なんてぜったい面白いし、3D爆音向きなのになー。

あのゴジラに入っていたのがJonathan Demme、ていうのはほんとなの?


11.11.2012

[film] 「女の小箱」より 夫が見た (1964)

6日の火曜日の晩、低気圧でへろへろで、愛欲なんてどうでもよかったのだが、シネマヴェーラで1本だけ見て帰りました。

監督は増村保造、原作は黒岩重吾の『女の小箱』。 やっぱし読んだことないわ。

若尾文子と川崎敬三が夫婦で、でも夫は自分の会社の謎の投機筋からの株式買い占め対応で忙しくてあまり家には帰ってこないので、妻はずっと悶々している。 彼の会社の株をせっせと買い占めをしているのはクラブを経営したりしているばりばりの田宮二郎で、マダムで愛人の岸田今日子がいろんなとこから色落としで資金を集めてくるの。

クラブで働く女(江波杏子)経由で情報を得ている川崎敬三への報復として夫への不満たらたらの若尾文子を誘惑した田宮二郎は、つんつんした、でも一途な若尾文子に次第に本気になっていって、夫のひどい仕打ちに我慢できなくなってきた彼女も、当初の拒絶からだんだんに傾いていくの。

よくありそうなサラリーマン夫婦の崩壊をフィルム・ノワールのような裏社会との関わりを絡めて描いているようで、それは男社会の金と体裁をめぐる戦いであり、女同士の愛と独占をめぐる戦いでもあり、でも、その境界を超えて最後まで留まろうとするのは田宮二郎と若尾文子の一途で不器用な純愛で、メロドラマとしてとってもすばらしくよかった。

タイトルの「夫が見た」はあんまよくわかんなくて、だって夫の川崎敬三は同情の余地なしの最低野郎で、どちらかというと妻が夫の浮気現場を妻が見たところから彼女の反撃が始まるのだし。

冒頭の、自宅で夫の帰りを待つ若尾文子の描写とか音楽も含めてヨーロッパ映画みたいにかっこよくて、そこにきんきんにクールな田宮二郎とか、お化けみたいに強烈な(でもこれはこれで十分素敵な)岸田今日子とかがはまりこんで、その反対側に川崎敬三に代表されるサラリーマン諸君の、べたべた醜い往生際のわるさとかがあって、全てが鮮やかに切り取られた愛憎絵巻で、とっても見応えあるのだった。

増村保造+若尾文子の、もっとちゃんと見ておきたいねえ。

11.09.2012

[film] おんなの渦と淵と流れ (1964)

4日、日曜日の朝にシネマヴェーラで2本見ました。
特集『昭和文豪愛欲大決戦2』、よくわかんないのでとりあえず。

監督は中平康、原作は榛葉英治の『渦』と『淵』と『流れ』? - 読んだことない。

3部構成になってて、第1部が「渦」。 金沢で、自宅で妻(稲野和子)が小料理屋をやっていて、自分はぼんぼんの英文学研究者でなんもしていない男(仲谷昇)が妻の行状と過去に疑念を抱いてて、ある決意をする。

満鉄の関係で大連でお見合いで結婚したのだが、初夜のとき妻はほんとうに処女だったのか、とか、戦争が始まって現地で小料理屋を始めるのだが、妻の男あしらいが異様にうまいこと、とか、こっちから英文学の話をしてもぜんぜん乗ってくれない(そらそうだー)とか。
で、自分は温泉行くふりして押入れの陰にかくれて見ていると、やはり妻は地元の土建屋と...
ぼんぼんは暗い雨のなかぶるぶるわななくの。 ... 単に君とは合わない、っていうだけの話だと思うのだが。

第2部の「淵」で修羅場がより一層全開になって、ふたりはかわいそうなくらいに噛みあわなくて、でもお互いなんとかしなきゃ、という意思はあるので、こんなところにいるのはやめよう、て場所と家のせいにして、ぜんぶちゃらにして東京に出ることにする。

第3部の「流れ」で、ふたりは東京に移って、妻のおじが昔住んでいたとこを借りて、彼のほうは会社勤めを始めて、すべては元に戻ったような感があったのだが、近所づきあいから妻の女学校時代の過去が明らかになるにつれて、また別の渦がまわりはじめて、やがて。

時間が昭和初期から戦後まで行ったりきたりして、お話も「渦」、「淵」、「流れ」と分断されているものの、基本は妻の物語を自分のものにしたい、手元に置きたいと願うわがままなぼんぼんの御都合 - それこそ主人公が何年もかけて訳そうとしていたシェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』よろしく、いにしえの、とか、魔性の女、とかで片付けようとするのだが、指を差された妻のほうは、最初からそんなの関係なく、ただひとりの女としてあろうとしただけだった、という。

落としどころをこれが女というもの~これが男というもの~みたいなところに持っていかずに、渦だの淵だの流れだの(それは女の属性でもなんでもない。ねんのため)を生む決定的な溝とか段差のみにフォーカスし、シャープな構図とモノクロの映像のなかに際立たせて、最後にバカなおとこを突き落す、そのしらじらした目線がなかなか心地よかった。

それから『悶え』 (1964)。

監督は井上梅次、原作は平林たい子の『愛と悲しみの時』  - 読んだことない。

結婚した若尾文子と高橋昌也がハネムーンで小涌園に行って、初夜の新婦はどきどきだったのだがなんも起こらず、こんどこその二晩目もほっておかれそうになったので、わっと泣き出したら、新郎に逆泣きされて、実は事故にあって不能になってしまったんだ、とか言われて、がーん。(そんなのなんで言っておかないの...)

で、治療すれば治るかも知れないから、ってふたりでがんばるのだが、新妻にはいろいろ外からの誘惑(ぴちぴちの川津祐介)もくるし、自身もむしゃくしゃするし、夫は夫でクラブ通いなんかしてるし(欲望をふるいたたせるためだと)、大変なの。 あと、とりあえず子供を作ってしまえばどうか、と人工受胎をやってみようとか思うのだが、直前で怖くなってやめたり。

夫のほうで懺悔とか欲求不満とかそのたもろもろの激情が爆発しそうになると、背景が突然まっかのウルトラQ模様、音楽もどろどろの劇画調になって、うおおおおうぅぅぅ、とふたりで獣のように抱きあって悶えまくり、そのまま気がつくと朝になっていたりする。
そんなふうな夫婦のもんもん、それが『悶え』。

そういう「地獄のようだった半年間」(夫婦談)も最後には結局棒いっぽんで解決してしまうのでなーんだ、というかよかったねえ、なのだが、むかしはたいへんだったんだねえ、と思った。
でも、これこそが当時の平均的な家庭(夫は五井物産の調査課長、公団住まい、等)での平均的な「結婚」像・観の内外に張りめぐらされていた平均的な役割期待だと思われ、このへんて今はどんな具合なのだろうか。 彼らからしたら、同性婚なんてありえないものかしら。

なんか昭和の愛欲って、よくわかんないわ。(ひとごと)

11.08.2012

[music] Sunn O))) - Nov.3

3日の土曜日の夕方、収容所体験のあとで、別のばけものに出会うべく、代官山に向かう。
イベントのつながりとしては、なかなかよかったのではないかと。

去年も行った気がする"Leave Them All Behind 2012"。
6時過ぎに会場に入って、そのときはChelsea Wolfeの途中で、前のほうのアクトはその後の日本人のひとも含めてあんまよくわからず。

Sunn O)))とBorisは2010年の9月に、BrooklynのMasonic Templeでやった"Sunn O))) and Boris present ALTAR"ていうイベント以来、あのときは始まった直後に施設の電源がぶっとんで、復旧までに30分以上、まっくら闇で、再開してからも(もう一回とんじゃうとやばいから)まっくらで、わけわかんないから帰えろ、と1時少し前に外にでたら警察に包囲されててびっくり、というそういうやつだったの。 今回もそういうやばいのを期待してい ... なかったとはいわない。

8時きっかりに始まって、そういえば耳栓忘れたことに気づいたがもう遅い、びりびりとかばりばりとか、そんなような電磁系のぶっとい音束が何本か、天井までぐいぐい昇っていって小屋の床から重金属まじりの重い毒液が小屋全体をみるみる埋めていく。 部屋全体がそいつで満たされてたぷたぷになり、そいつにみんなが飲みこまれて麻痺してグラウンドゼロで、轟音とか爆音とかそういうのの内側にすっかりくるまれてしまったところで、その、鼓膜にぴっちりはりついたそいつがゆらゆら上下右左に揺れ始める。揺れ始めた気がした、というか。 
そんなずうーっとばりばり感電状態のまま、物理的にもまったく身動きとれない状態で、これが1時間半かあ、しぬなあ、とおもった。

稼働中のMRIのまんなかに宙づり状態で漬けられてて、脳細胞が「きゅう」とか音をたてながら毎秒数万単位で死滅していくのを感じつつも、ここにあるのは細胞膜の内も外も含めて間違いなく音楽で、ここにはベースもドラムスもぜんぶ入っている - All Inclusive だねえ、とか。 ステージ上はもわもわでよくわかんないし、自由が効かないのでどうでもいいことばっかり考える。

こういうとこにデートに連れてきたらぶんなぐられるだろうなあ、とか、こんな下痢起こした腸内みたいなとこに押し込まれてそれで6500円、収容所のも含めたらぜんぶで10000円か、田舎のおっかあにもぶんなぐられるなあ、とか、とかそんなような。

50分くらいたったところでマイクの前にジャワ星人のかっこのひとが立ってがうがう唸りはじめて、それは収容所でお化けのひとがやってたのと同じようなかんじで、今日は異形のものに説教される日なんだわ、とも思う。

着陸態勢にはいったのは終わる20分くらい前か、でもぜんぜんおわらずにずっと低空で旋回してて、おばけのひとは赤いレーザー光でびゅんびゅんなんかやっていた。 今後は、もうそれやってもディズニーになっちゃうんだねえ。

終わって外にでたら少し眩暈がする程度で、耳鳴りはそんなでもなかったのが意外だった。

こういうライブって、よかった、とか、すげー、とか、そういう感想は出ないねえ。
(放心状態で)浸かった... とか、浴びた... とか。 鑑賞とも消費からも、断固遠くにある音楽。

で、おうちに帰ってからDinosaur Jr.と被っていたことを知って、泣いた。  
一週間後だと思い込んでいた。 ばかばかばか。

11.05.2012

[art] Le Préau D'Un Seul

3日、土曜日の午後2:30くらいに西巣鴨まで行って、みました。

F/T(Festival Tokyo)ていうのも、あんまよくわかんないのだが、毎年なんとなく続いているねえ、TIFFよりはまだ好感がもてるかも。

フランスのJean Michel Bruyère /LFKsによる『たった一人の中庭』。

にしすがも創造舎ていうのは、元学校だったとこで、これまでのF/Tでも演劇とかで何回か行ったことがあるのだが、このインスタレーション、というか出し物(お化け屋敷みたいな?)は、旧校舎と体育館をぜんぶ使ってでかでかとやっている。

フランスの不法移民の収容所で合法/非合法に行われていたと思われることを「アート」の様式でもって白日の下に曝すこと。
これによって「現実」と「アート」の境界、Legal Alien - Illegal Ailenの境界、「平民」-「移民」-「難民」の境界、無意識下にあるいろんな「差別」うんたら、グローバル経済下における「国境」と国家観・歴史観あれこれ、国家における監視機関としての共用施設のありよう、などなど、ものすごくいろんな要素が多層的に重なり合ったまま、だれも責任取ろうとしない状態で苦しんで困っている人たちが沢山いるんだって、というあたりを抉りだし、そこをなんとかすべく、元「学校」という施設にでかでかと張り出された特大のアジびら、というか施設をまるごとアジびらにしようとする試み。

(旧)教室ごとにやっていることは分かれていて、収容所の各機能に対応していて、最初に入った部屋で羊のおばけみたいなかぶりものをしたひと(ではなくておばけ)がどぅんどぅんていうリズムに乗って怪しく踊ってて(Dance Floor)、その横の暗室(Dark Room)では、同じくお化けの皆さんがCBSのドラマの音声にのって口パク演技をしてて、要は彼らも楽しんでいますだいじょうぶです、と。

でもその反対側の教唆する部屋(Egging On Room)は家庭科の教室で、もうもうの湿気のなか、言うこときかないとゆでたまごにする、だか、ゆでたまごしか食わさない、だか、そういうソフトボイルドな拷問が行われているようで、その次の入浴する人々の部屋(Bather's Room)では、タイマー起動で水回りのあれこれも完全にコントロールされていて、ぼんやりこわい。

3階にあがってみると、Political Bureauていう学習室 - 政治オフィスがあって、そこではバナーとかビラを作りながら議論したり勉強したりのパフォーマンスがリアル進行中で、黒板には重信房子とか若松孝二とか。ビデオで上映されていたのは、JBのキンシャサのライブ?

その隣は更衣室(Fitting Room)で、床に牛糞のカーペットが張られた暗室で、一度に3人しか入れないらしく、よくわかんないけど20分くらい並んでみる。 そしたらお化けの衣装をきてコスプレができるという趣向だったようで、でもひとりでそんなことしてもしょうがないから2分くらいで出る。

それから体育館にいくと、そこが収容所テントで、最初の長く仕切られたとこで働く職員 - 医者とか料理人とかがお仕事してて、お料理とかはほんものみたいに手がこんでて、たまに音楽が流れてそれにあわせて踊ったりしてて、その奥のいちばんでっかいスペースが実際の収容スペースで、床には梱包で使うプラスティックの繭みたいのがざーっと敷きつめられてて、自動で動く介護ベッド(下にスピーカーが仕込んであって変な音が)が20くらいあって、豚の血で絵を描く機械があって、ブランコとかもあって、窓の向こうは日本のお墓(たぶん仏教。なむー)で、よくもまあここまで、というかんじ。

合法移民と非合法移民の間の線、その線を定義して、その線を維持監視し、その線上でヒトを仕分け、更にその作業を正当化しつつ隠蔽する国家の仕掛け、その全容をぶちまけるにはこれくらいでっかい仕掛けが必要だったのね、と。

ブランコに乗ったり、繭繭に埋もれて少し寝たりだらだらしたのだが、なんかとっても居心地がよいので困った。
それこそが体制側の思うツボなのだ! がっこだってそうだったじゃんか! とか思わないでもなかったが、とりあえずアートだからいい。病みあがりだから許して、とか。

4時過ぎくらいに、奥からおばけの人が二匹現れて、拡声器マイクを手に遠吠えみたいなあうあうパフォーマンスをはじめた。
音響は向こうのほうで、作業員のひとがMacで操作していたが、音のかんじは昔のTGにあったようなかんじので、悪くなかった。

夕暮れの中庭も貼りだされたビラがピンク色にはためいてて、素敵でしたわ。
この中庭では強制送還のパフォーマンスも行われるという - ここにきて「たった一人の…」であることがじんわりとしみてくる。

いや、だから素敵とか思っちゃいけないことはわかっているのだが、作った人たちをここまで追いこんでいった怒りとか恨みとか、すごいもんだねえ、と。 これで3000円ならべつにー。

帰宅して着替えたら床にあった繭が3つくらい落ちてきた。
あの後、ライブでぎゅうぎゅうだったのに、体のどこに挟まっていたのか?
ひょっとしてなんかマークされちゃったりしてないか、とか。
 


[film] Sleeping Beauty (2011)

まだ病みあがりでよれよれしつつ、2日の金曜日の夕方、シアターNに駆けこんで見ました。

『シッチェス映画祭ファンタスティック・セレクション』から『スリーピングビューティー・禁断の悦び』。
ヒューマントラストでやるやつとか、こんなふうにきちんと公開されなかった洋画がぽつぽつ見れるようになるのは悪くないけど、場合によってはコマ割りに合わせて会社休んだりしなきゃいけないし、そんなことよか上映館の減少のほうをなんとかしろよ! と思う。

この"Sleeping Beauty"はシッチェスみたいな枠(げろげろホラー)で上映されるのは違う気がしてて、なぜってJane Campion Presentsで女性監督が作っているし、NYではIFCでずっとロングランしてたし、ちょっとだけエロ入りのアート映画みたいなのかと思っていた。
うん、『禁断の悦び』とかいうのともちがったー。 川端のともちがうー。

女子大生のLucy (Emily Browning)は、学業のほかにコピー取りのバイト、レストランのバイト、たまに売春みたいのもやってて、でもずうっと金欠でシェアしてる家からも追い出されそうになってて(後で追い出される)、学校のペーパーで見つけた求人のとこに電話してみる。

そうしたらそのバイト、容姿やお肌をなめるように審査されムダ毛とかも処理された上で、正装した金持ちそうなじじい共の間で下着姿で給仕するやつで、でも実入りが悪くなかったのか嫌な顔もせず(もともと無表情だけど)こなしていたら、今度は別の、薬入りのお茶を飲んでひと晩すっぱだかでベッドでぐうぐう寝てればいいやつをやることになり、これって終えて起きたときにくらくらするのだが、これも収入はよいので続けて、そのお金でアパートを借りることもできるようになる。

で、眠っているLucyと老人客1,2,3とのやりとり(エロくない。へんなの)も出てくるのだが、こういうネタでフォーカスされがちなぐったりした裸の女を前にふるふる震える老人の性欲(とかネクロフィリアとか)とその渦の中心と周辺は、あんまなくて(一応あることはあるけど)、どちらかというと生きている世界では恋人死んじゃうし、バイト先クビになるし、アパート追い出されるし、ぜんぜんぱっとしないのに、死んだように寝ている世界のほうでもてもてでお金も入ってくるって、なんなのこれ、というLucyの苛立ち、うんざり、のほうが前に出ている。 

"Sleeping Beauty"を外から眺めて突っついて遊ぶ老人たちの目線ではなく、成り行きで"Sleeping Beauty"にさせられてしまった女の子の虚無があるの。 (ラストのビデオカメラの映像 - 死んだように動かないLucyと死んじゃってる老人と)

Lucyを演じるEmily Browningさんは、"Sucker Punch" (2011) に続く操り人形系のしらーっとした演技がはまっているのだが、そろそろぶちきれて敵を殺しまくるような映画もあってもよいかも。 それこそシッチェスで大受けするようなやつを。

この映画でお勉強したやつ↓

Sandhill Dunnart (かわいー)

http://www.australianfauna.com/sandhilldunnart.php