2.28.2020

[film] Portrait de la jeune fille en feu (2019)

23日、日曜日の午前にCurzonのAldgateで見ました。英語題は“ Portrait of a Lady on Fire“。
原作があるのかと思ったら監督のCéline Sciammaさんがひとりで書いていた。”Tomboy” (2011)を、そして”Girlhood” (2014)を書いた人なので、外れない。

公開1週間前のメンバー向けのプレビューで、これの前にも昨年のLFFで評判になって(突撃したけど見れず)、これまでも何度か - Valentine Dayのとか - プレビューの機会はあって、でもなかなか行けなかったやつにようやく。
昨年のカンヌでは最優秀脚本賞とQueer Palmを受賞している。確かにすばらしいラブストーリー。

18世紀末、画家で絵を教えたりしているMarianne (Noémie Merlant)が、教室の隅にあった絵について生徒に聞かれて、それは“ Portrait of a Lady on Fire“っていうの、と語り始めるところから。

Marianneが画材を抱えて荒海を越えて孤島のお屋敷にやってくる。イタリアの貴族のとこに嫁いでいくそこの娘 - Héloïse (Adèle Haenel)のお見合い絵画を描くのが彼女の使命で、彼女の前に雇われた男性の画家はクビにされてて、母親からはHéloïseが描かれることを嫌がるのであなたは彼女のお散歩相手として来たということになっているから、と言われる。

こうしてMarianneとHéloïseは出会い、最初はとっつきにくそうだったHéloïseもお散歩していろいろ話していくと打ち解けて、Marianneは夜になって彼女の面影を思い出しながら絵筆を動かしたりするのだが、そのうち顔も知らないような相手のとこになんで絵一枚背負って嫁いでいかなきゃいけないんだ? っていうHéloïseの苦しみがわかるようになり、そうするとMarianneも自分の素性と目的を明かすしかないか、って自分がここまでで描いた絵を見せるとHéloïseはそれを却下する。ここに描かれているのは自分ではない - あなたにはわかるはずだ、と。

Marianneはそれを認めて、母親にも描き直し= 滞在延長の許可 - 但しわたしがイタリアの旅から戻ってくるまでね - を貰い、彼女が旅立ってしまうとそこから先はメイドのSophie (Luàna Bajrami)を加えた3人の楽しい暮らしがあって、改めて画家とモデルとして対面したMarianneとHéloïseは画布ごしに、わかっていたかのように恋に落ちる。やがて出来あがる絵画はふたりを引き裂いてHéloïseを一生苦しめることになるかもしれないのに、なのに、彼女を見つめて画布に描いていくのって、なんて素晴らしい経験だろうか、って。

画家とモデルの関係を描いた映画で思い出すリヴェットの『美しき諍い女』(1991) ほど狂ってはいなくて、恋に落ちる道理が絵の出来あがっていく過程に真っ直ぐに同期していてそうだよねえ、としか言いようがない。肖像を描く、ってそういう経験でもあるよね、と。
(”Titanic”はちとちがう)

他にも素敵だったり考えさせられたりするエピソードはいっぱいあって - 夜のお祭りのとことか - でも特に、エピローグの本のページのとこはとっても泣きそうになる。

とにかくふたりの衣装の色 - 赤と緑のコントラストとどこまでも見つめ合うふたりはそのまま絵から抜け出したようで、これらを総合するとどまんなかの恋愛映画、としか言いようがないの。

Marianne役のNoémie Merlantさんは、こないだ日本に帰ったときに見た機内映画 - ところで最近の機内映画、見たいのぜんぜんないよね - “Return of the Hero“ (2018) - 邦題『英雄は嘘がお好き』- これも古典劇 - で脇役だけどコミカルな演技してて印象的だった。

日本で上映されるならレズビアン&ゲイ映画祭みたいなイベントではなく、ふつうのとこでやってほしい。”Vita & Virginia” (2018)も忘れないでね。

もう一回みたいな。

[film] Panic in the Streets (1950)

22日、土曜日の晩、BFIのElia Kazan特集で見ました。前に見たことあるやつだったが、こんなにもタイムリーなネタがあるだろうか、って。邦題は『暗黒の恐怖』だって。

ニューオリンズの港町でやくざのBlackie (Jack Palance)とその仲間がばくちのテーブルを囲んでいて、そのうちの一人の顔色が悪くて熱あるし頭いたいし具合悪いから俺ぬけるわ、って外に出るのだが、囲んでいた連中は勝ち逃げは許さねえよ、って彼を散々追いまわして波止場で殺してしまう。

翌日発見された遺体を検屍した係官からU.S. Public Health Serviceにいる医者のClinton Reed (Richard Widmark)に電話が入り、彼が調べてみると顔色が変わって、これは肺ペストにちがいない大変だ、になる。警察のWarren (Paul Douglas)と一緒に、この遺体は誰なのか、どこにいて何をしていたのか、誰と一緒にいたのか、等を突き止めないとパンデミックになる、って遺体の写真一枚をもって街に捜索に出るのだが警察はそんなの無理だよ、ってあまり相手にしてくれないのでClintonひとりの奮闘が始まる。

やがて感染によると思われる別の死者が出て、なんかおかしいと感づいた新聞記者がなにが起こっているのか教えろ、と騒ぎだし、市長もそれが本当なら早く市民に知らせないとパニックになるぞ、って詰め寄り、そういうのを相手にしている間にも時間は過ぎて、Blackieの子分のひとりが発症して..

他にも最初に死んだ彼が移民として船から来たこととか、あまりに今のいろんなことに繋がってくるので手に汗握りながらみた。発生源を突きとめること、そこから感染の経路を探ること、そこから可能な予防とか隔離とかの手を打つこと、ウィルスの正体がどういうものかわかっていなかった、というのはあるのだろうが、であればなおのこと初期の封じ込めを徹底しておけば今みたいなことにならなかったのに… ていう素人でも考えればわかりそうなことを素人の代表であるはずのメディアが(この映画の記者みたいに)真剣に怒って詰め寄らなかったから今みたいなことになっちゃったんだよ。なんで明らかに初動に失敗している政権の言う「方針」だのなんだのをそのまま垂れ流してんの? あんたらいらないわよ。  

とか、そんな余計なことばかり考えてしまうのだが、そういうことを考えさせるくらいにこの映画に出てくるひとりひとりの顔や動きがもたらすドラマは生々しく今の世界のそれで、終盤の決死の追っかけっこは手に汗にぎる。Jack Palanceの、ウィルスなんて寄ってきそうにない悪っぷりとかアクションとか圧倒されるし。(追っかけっこの奥のほうに猫(犬?)みたいのが一瞬映るのがよいの)

でも、これら一連の騒ぎで菌は相当ばらまかれてしまっているかんじだから、本件が決着したあとも大変だったのではないかしら、とか少し心配。

これが70年前だよ。カミュの「ペスト」が売れているのならこっちだって。

[film] Lovely Rita (2001)

22日、土曜日の午後、BFIで見ました。
植物系怪奇ホラー? - Floral Frankensteinとか呼ばれている新作”Little Joe”の公開を記念してオーストリアの監督Jessica Hausnerの小特集が組まれていて、知らない人だったので見てみることにした。
監督の長編デビュー作で、2001年のカンヌの「ある視点」部門に出品されている。

オーストリアの郊外に暮らすティーンのRita (Barbara Osika)がいて、射撃をやったりしているパパは少し厳しいけどやや疲れたママも含めてごく普通の高校生がいる家庭があり、学校ではちょっと浮いててひとりでぼんやりして後ろ指さされたり、バスの運転手に惚れてぼーっとなったり、近所の病弱な男の子とあぶないことしたりしていて、どれも積極的に、というより退屈しのぎのつまんねーな、のかんじでやっちゃうので、それでいちいち怒られてもちっとも堪えないでへっちゃらなの。

そのうちバスの運転手とはクラブで踊って遊んでから突然相手にされなくなり、男の子は病状が悪化して入院した彼を強引に連れだして電車で逃避行しようとしたところを捕まり、いろんなことが思うようにならずに潰れていって、親からは相変わらずトイレの蓋を閉めないのを怒られたりして、それで..

上映後に監督のQ&Aがあって、これは90年代初にオーストリアで実際に起こったティーンの女の子による事件について考えたことがきっかけで始まった映画で、その時に裁判の資料とかも取り寄せて調べたりしたのだが、彼女の動機が記録のどこをどう見ても読んでもわからなかった、そしてそのわからないありようをそのまま映画にしてみようと思ったのだ、と。

“Lovely Rita”っていうのはバス運転手が寄ってきた彼女に対して言った台詞で、それを言われても嬉しそうでもなくて、表情をほとんど変えなくて、わかってほしいともわかってほしくないいとも言わない。わかってもらえるなんて思っていないし、わかってもらえるとなんかいいことあるのか? って。 Ritaとかヒトに対する問いかけというより、そうやってなんも返ってこない空洞みたいな空気感を中心にするとドラマはどんなふうに成り立つのか成り立たないのか。

客席からの質問には彼女の挙動とか家庭のありようについて、オーストリアの国民性に起因するもの?なんて質問もあったりしたのだが、自分がふと思ったのはGus Van Santの ”Elephant”(2003) なんかで、あそこにもあった退屈さとその背後で本人にも思いがけないような形で膨れあがる悪意とか殺意、のようなやつのベースって共通していないかしら、って。90年代の後半とかって、ほんとうにプレーンで平穏な日々が続いて、そこに911が来て、突然人々は憎悪、みたいなことを口にしたり表に出し始めたりした、そんな気が。

監督は今でもあの裁判の記録を読み返して、彼女はどうしているかな、って考えることがある、って。 それは闇というよりそこらに浮かんだ空っぽさで、だから見えにくくて、でもあるよねえ、って。

2.25.2020

[theatre] Endgame + Rough for Theatre II

21日、金曜日の晩、The Old Vicで見ました。

Alan CummingとDaniel Radcliffeによるベケットの2人芝居の2本立て。演出はRichard Jones、Set & CostumeはStewart Laing。
ベケット演劇をライブで見るのは初めて。最初に30分くらいの”Rough for Theatre II”、休憩を挟んで80分くらいの”Endgame”。

“Rough for Theatre II“は50年代後半にフランス語で書かれたもの。大きな窓がひとつある部屋の左右に向かい合うかたちで机が置かれていて、大きな窓のところに背中を向け片手を頭に置いた男が立ったまま固まっていて(この舞台ではでっかい人形。たぶん)、そこから飛び降りようとしているように見える。そこに官僚のA (Daniel Radcliffe) とB (Alan Cumming)が現れて彼の調書と思われるファイルを見たり彼の表情を確認したりしつつ、彼の生とか死についてあれこれ議論するの。Bはひょうきんでアトラクティブで、Aはクールで断定的で、ふたりの会話や動きは彼の飛び降り(自殺)という行為とそれがもたらすであろう結果の周りをぐるぐるするだけ(他に突然点いたり消えたりするランプとか鳥の声とか)。こんなふうに第三者が死とか生の価値や意味について裁定や評価をすることの不条理、というか胡散臭さが浮かんでくる。それは今でもふつうにあるけど、あっていいの? そういうもんなの? ふたりが天の声のように上空から議論することについては、”It’s a Wonderful Life” (1946)の冒頭が参照されていて、ああそうかも、って。

この作品は2000年のBeckett on FilmでA (Jim Norton) & B (Timothy Spall)で映像化されている。見たい。

Endgame (1957) -  『勝負の終わり』- チェスの「詰んだ」状態のこと

上の方に小さな窓がふたつある部屋にやや猫背で足を引きずる汚れた召使のClov (Daniel Radcliffe)がいて、中央の椅子に座って動かないやつの布をめくるとそれが主人のHam (Alan Cumming)でつるっぱげで目は見えなくて足は痩せこけて動けない(彼の足、棒みたいに細いと思ってよく見たら本当に棒 – つくりものだった)。Hamは喧しくて傲慢で王様で、用事があるときはホイッスルでClovを呼びつけるとClovは嫌々な様子ですっとんでくる。どうも逆らえないらしい。 他に舞台の左手にあるゴミ缶ふたつの中にはHamの両親 - Nell (Jane Horrocks)とNagg (Karl Johnson) - がいて、たまに顔を出して食べものを貰ったりする。

最初にClovが”Finished, it’s finished, nearly finished, it must be nearly finished…”って呪文のように唱えるところからも、もうこれは終わっている、終わりが見えている、どん詰まりの世界のことなので、そういうものとして眺めてみれば、そうだよね、しかない。

屈辱的で出口なしの主従関係があって逃げられず、親はゴミ箱に捨てられ、食べ物も痛み止め薬もなくなり、その先は↑の“Rough for Theatre II“みたいに窓からジャンプするしかなさそう、そんな世界でどうやって生きるの? - いやもうこれ終わっているやつだから、っていうループが繰り返されて、どんな問いも企てもこの循環(ゲーム)に飲みこまれていく、そういう世界像にどう立ち向かったらよいのか? -  いやなんも。 なのだが、最後のところは少しだけ、おや? ってなったりする。ゲームという関係性の放棄なのか、ゲームを成立させている世界そのものからの離脱なのか。 

どちらの劇もふたりの会話の切り返しがドライブしていくコメディで、部分だけ切り取るとコンビの漫談のようにも見えて、たまに生じる「…」の間に無間の闇とかがぽっかり、のような。そういう紙一重の宇宙を軽妙に綱渡りするAlan Cummingが芸達者なのはわかっていたが、Daniel Radcliffeのしなやかな鈍重さ、みたいな狙いすました演技もすばらしかった。リズムが見事なハシゴ芸とか股ぐらに粉を撒くところとかのおもしろさ。

シンプルであればあるほど今の我々の世界に近づいてくるように見える遠近法の魔法、なんて難しいこと言わなくても、ここで展開されたふたつの世界はあまりにも近くて眩暈がした。ベケットおもしろい。もっと見たい。

[music] Otoboke Beaver

23日、日曜の晩、Scalaで見ました。昨年5月初に見たライブと同じ場所で、でも会社をYametattaしたので失うものなんてなにもないぜ、ってよりかっこよく戻ってきたかんじ。

この晩はこれの真裏でThese New Puritansが16ピースのアンサンブルを率いてライブ(@ barbican)、ていうのもあったのだが、先にこっちのチケットを買っていたし、でもこの日は午前から”Portrait of A Lady on Fire”を見て、Royal Academy of ArtsでLéon Spilliaert展を見て、BFIで”Lourdes” (2009)を見て、とどめに”8½” (1963)を見てじゅうぶんへろへろで、そもそもだいたいなんでここ数週間、週末になると(必ず週末.)嵐が来て気圧とかぐしゃぐしゃになるのか、地下鉄はてきとーに動いたり動かなかったりしているのか、やつあたりの憤懣やるかたなく(← 家で寝てればいいだけ)21時少し前にScalaに着いたら階段も昇れないくらいにくたくたで、でも扉を開けてなかに入る。

湯気もうもうのなか前座で演奏していたのはDrinking Boys and Girls Choir(DBGC)っていう韓国の3ピースパンクで、外見は見るからにただの子供じゃん、てかんじなのだが音はキレてて爽やかでなんかいいの。日本にいたら業界ロックおやじとかがよってたかって餌食にして汚してしまいそうなやつだけど、このままで行ってほしい。

21:30丁度におとぼけが。前回はセッティングから全部自分たちでやっていたが、今回はスタッフがやってくれるようだし、フロアは始まる前から(明日から月曜日なのに)おお盛りあがりで、自分の周りにはぜんぜん日本人見えないし日本語聞こえてこないし、始まってからも大騒ぎ、曲が終わるたびになんだこれーって大笑いしつつ喜んでいる。喜ばしいこと。

“Yametatta”ツアーなので、真ん中くらいに会社を辞めたのでサポートしてねお金ちょうだいね、という発言があり、そのまま「週6はきつい」にはいる。自分も2度ほど会社をYametattaことがある(ふほんいながら会社員は続けている)ので、がんばってほしい。この「週6」も続けての「親族に紹介して」も、リズムの組み立てと展開がとてもユニークなのと、これは全般そうだけど日本語のフレーズの運びとか切り方とか、おもしろい。想像することがたやすい(気がする)日本語音韻ラップの組み立てとは別にハードコア/メタルに乗っかりぶつかる日本語の建てつけとして - 歴史を知らずに書いているけど - なんかシンプルなのに画期的ではないか。いまは何を言っているのかわかんなくても北欧メタルとかデスメタルと同じような発語/声の奇抜さ素っ頓狂さで十分ウケてしまっているのだろうが、どういうことを訴えているのか、電飾字幕で流せばいいのにな、とか。 引っ掻くギター傷にどんな毒が擦り込まれているのかを知らしめるためにも。

音のつっ走ったりつんのめったり振りほどいたりの緩急とか、いちいち噛みついたら離さないしつこさ獰猛さは昨年より強く自在になっている気がして、ああ1年経たないのにバンドってこんなにも.. ってみんな思い知ったとおもう。BABYMETALよりPurfumeより(どちらもよく知らんが)、しかるべきメッセージを吐きまくるにっぽんのハードコア女子グループとして世界に認知されてほしい。

昨年に続いてフロアから呑んで呑んで~コールが湧いて、メンバーから何度もやめて、って中指立てられていた。あれ、彼らは無邪気にやっているけど明確にハラスメントを煽るやつなのでまじでやめてほしいし、あんなのを教えた日本のやつらみんなしんでほしいし。

フロアは幸せそうに荒れて揺れてモッシュしまくりだったので写真なんか撮れる状態ではなくて、ああいうの久々だった。だいたい50分。 1分に満たない短いアンコールを2回やり、ギターをフロアに放り投げて、前座も含めた記念写真をとって終わる。

この勢いを止めないためにもこの地に腰を据えてしばらく定期上演方式でやってみてはどうか。どうせやめたったのだし。

2.24.2020

[film] Queen & Slim (2019)

20日、木曜日の晩、BFIで見ました。新作のアメリカ映画。

オハイオのぱっとしないダイナーでQueen (Jodie Turner-Smith)とSlim (Daniel Kaluuya) - ところでQueenもSlimも最後までこの名前で呼ばれる/呼びあうことはないの - が最初のデートをして、会話も弾まなくて互いにこりゃ失敗だわ.. って気まずいかんじで車で送っていく途中、後ろからポリスの車に止められ、明らかに差別的・侮蔑的な意図と目線でSlimを尋問して車のトランクをチェックしたりするので、弁護士のQueenが抗議して電話で通報しようとしたらポリスは銃を抜いてQueenの足を撃ち、そこをなんとかしようともみあったSlimは誤ってポリスを射殺してしまう。

しばしの沈黙の後、ふたりでどうする? 自首しようか?とSlimはいうのだが、事情を知るQueenはそれをしても裁判では100%負けるし一生シャバには戻れなくなるよ、と言うのでふたりで逃げることにしてその場その場で車を奪ったり換えたり、知り合いを頼りつつキューバに高飛びできるかもしれないマイアミを目指すことにする。

警察の車のカメラで撮られていた事件の顛末は報道され、ふたりは銃を持った凶悪犯として逃走中、って捜査線が引かれてしまったので、そこらのガキに食べ物を買ってきてって頼んでも、あ、顔しってるよ、とか言われてどうしようもない。 そこで貸しがあるというQueenのおじ(Bokeem Woodbine)の家にしばらく匿ってもらい、そこでQueenはドレッドをばっさり切ってタイトなトラ縞ドレスに、Slimも頭を丸めてちんぴら風になり、車も替えて見送られて旅立つの。

そこから先の逃避行はクライムムービーからアメリカを東に横断していくロードムービーとなって、いろんな局面で助けてくれる人くれない人いじわるな人など(肌の色関係なし)がいて、彼らの逃走に連なるBlack Lives Matterの抗議行動が描かれ、他方でダンスホールでのやりとりなんか溶ろけて素敵で、これらを通して当初はつんつん喧嘩ばかりしていたふたりの距離が縮まっていくところがよいの。でも、それでもそもそもなにも悪いことをしていないのになんでこんなところまで来ちゃったんだろう..  っていう辛さとか哀しさはくるし、あとは怒りだよね。断ち切りたいのに向こうがふっかけてくる憎悪を一体どうしたらよいのだろう、っていう絶望。

史上に残る名作『夜の人々』(1948)のふたりと比べるのはおこがましいかもだけど、あの映画が痛切なメロドラマを通して当時のアメリカの風景おおよそを見せてくれたのと同じように、この映画も突然糸を切られてしまった主人公たちの彷徨いを通して今のアメリカの荒んだの美しいのいろんな景色を見せてくれる。 美しいのは美しいから、見ていてとってもつらくなる。

監督のMelina Matsoukasさんはこれが監督デビューで、ファーガソンの件とか一連の事件を見て脚本のLena Waitheさん - “Ready Player One” (2018)のAechのひと – と一緒に一挙に書きあげて撮ってしまったという、そういう勢いはとってもある。

途上のサバナでふたりを匿ってくれるおうちにChloë SevignyとFleaの夫婦がいて、やや変なかんじだった。よい意味で。

2.21.2020

[film] Baby Doll (1956)

19日、水曜日の晩、BFIのElia Kazan特集で見ました。

脚本はTennessee Williamsが彼の一幕もの“27 Wagons Full ofCotton” (1955)と“The Unsatisfactory Supper“ (1946) をひとつに束ねてこの映画用に書き直したもの。擦れて白っちゃけた35mmプリントがたまんなくて、同じTennessee Williamsものの“A Streetcar Named Desire“(1951)より映画的にはおもしろかったかも。

ミシシッピのデルタ地帯で綿工場をやっている中年のArchie Lee Meighan (Karl Malden)がいて、ぼろぼろの邸宅にメイドの老婆と若妻のBaby Doll (Carroll Baker)と暮らしている。

Baby Dollは彼女の亡くなった父とArchie Leeとの昔の契約だか約束だかで結婚した(させられた)のだが彼女が成人して20歳になるまでは手を出してはいけないことになっているそうで、冒頭からArchie Leeが指をしゃぶって寝ている彼女を覗こうとしているのがばれて喧嘩、みたいなことをやっている。そういう事情があるからかなんなのか、ふたりは子供みたいに小競り合いとか喧嘩ばかりしていて、でもBaby Dollはあと数日で誕生日を迎えて20歳になる、そうなると...   そんなのあるかよ、ってこの設定をのめるかのめないかで、この先どう見るかは変わってくるのかも。

支払いが滞って家の家具をぜんぶ持っていかれてふたりで大騒ぎの大ゲンカをした後、Archie LeeのライバルのSilva Vacarro (Eli Wallach) – シシリアンだそう – の綿工場が夜中に火事を起こして、なんか怪しいんじゃねえかってSilvaがArchie Leeの家を訪ねてきて、あーめんどくせ、になったArche LeeがBaby Dollに客の相手をさせて自分はどっかに行く、とその辺から成り行きがおかしくなって、突然boy meets girlものに。ふたりがぼろぼろの家屋でレモネードを作りながらかくれんぼしたり踊ったりするところは、犬に鶏に豚まで出てきて別の映画のようになるのだが、素敵ったらないの。

そしてこのふたりの輝きが、外から戻ってきたArchie Leeの登場で更に変なふうに捩れてこんがらがって..

南部の廃屋みたいなお屋敷、そこに人質のようになって暮らす女の子、変質者に見えないこともない中年男、老メイドもどこか壊れてしまっていて、そこらを工場で働く労働者がうろうろ、そんなアメリカ南部のホラー映画設定のところに、ややまともに見える(ちょっとぎらぎらした)Silvaが現れて、なにがどう転ぶのか、先がぜんぜん見えないの。これが70年代のアメリカだったらふたりでArchie Leeを殺して旅に出るのかもしれないし、昭和のにっぽんにもこんなのあった気がする設定 - あったよねこんなの? - なのだが、Tennessee Williamsなので..

Karl Maldenは、“A Streetcar Named Desire“でもBlancheに一方的に思いを寄せておいて裏切られたって勝手にぶちキレるしょうもない中年男を演じていたが、今回のもそれに近い、自分より弱めの娘の上に立って父親気どりで快楽を貪る哀れな中年の挙動が炸裂していて、Baby Dollの輝きと見事な対照をみせる。 今リメイクするのだったらこの役はJohn C. Reilly以外に考えられない。

これがデビュー作となるEli Wallachのちんぴらっぽいやばみもよくて、彼はこれでBAFTAの"Most Promising Newcomer"を貰っている。

でも全体としてはやはりCarroll Bakerのすばらしさに尽きる。米国だけでなく世界中でカトリック系を中心に上映禁止をくらったことがそれを証明しているし、冒頭彼女が着ている寝間着なんてもろCourtney Loveの(もちろんCourtneyがマネしてるのね)だし、Holeの1stに"Babydoll"っていう曲もあるし、”Doll Parts"ていうのもあったし。

全体にどいつもこいつもみんな薄汚れてて、そういうなかから這いだそうとする、ってもろグランジのあれかも。

2.20.2020

[music] Max Richter "Voices"

18日、火曜日の晩、Barbicanで見て聴いた。
発売になったのがずいぶん昔で、チケット買ったのをすっかり忘れていて、Barbicanからの開演時間連絡メールで数日前に気付いた。あぶなかった。

演目はふたつで、最初に”Infra” (2008)、休憩を挟んで”Voices” (2020) – Barbicanからの委託を受けて製作された新作で、これがワールドプレミア(正確には2日間公演の初日である前日 - 17日か)となる。 つい7日前に出来あがったばかりだそう。

“Infra”は、2018年のこの場所で演奏された際にも聴いていて2度目。  2008年、Royal Balletで振付Wayne McGregor、ヴィジュアルJulian Opieで披露されたバレエ用のピース。でもそもそもは2005年のロンドン地下鉄の爆破テロをきっかけに作られたtravelling – commuting musicで、音楽的にはシューベルトが濃く入っていると演奏前に語っていた。演奏は弦が5名にRichterのKey。今回の演奏者はプレミアの時、レコーディングの時のメンバーなので最強、とのこと。

シューベルト。 と言われてもはぁ..  しかないので音楽のところはあまり語れないのだが、Max Richterは911の頃から始まってこれまでずっと政治的なトピックやテーマに取り組んでいて、それって、世界はどんどんひどく悲惨になっていないか、という問いの周辺を回っている。自分が映画館で見る新作映画の音楽がMax Richterのだった、ことが多いのは偶然ではない気がする。

そして今回初演となる”Voices”。オーケストラの構成はヴァイオリン8、ヴィオラ6、チェロ24、ダブルベース12、ハープ 1、フロントにソロのヴァイオリン、ソロのソプラノ、ナレーター、後ろに12名のコーラス、そしてMax Richter自身によるKey。

題材として彼が取りあげたのは国連のDeclaration of Human Rights - 『世界人権宣言』で、これについて彼は次のように語る(デジタルパンフより)

"It’s easy these days to feel hopeless or angry, as people on all sides do, and though the Declaration isn’t a perfect document, it holds out the possibility of a better world. A wish fulfilment of what can be, and of what we, in some imperfect way, have had."

最初に宣言を読みあげるEleanor Rooseveltの声 (1948) がテープで流れ、その後はナレーターが - ナレーターへのインストラクションは初めてこの星に降りたったエイリアンのように – 彼が音楽を担当した映画”Arrival” (2016)を思いだす – ゆっくりと淡々に。更にクラウド経由で募った世界中のいろんな言語による朗読の声(日本語のは女性の声だった)が会場のいろんな場所からランダムに放たれ、重ねられていく。

「宣言」のナレーションを聞くとさあ、本当にいいの。当たり前のことしか言っていないんだよ、なのになんでこんなにも離れてしまったのか、って。なにがこんなに隔たって/隔ててしまったのか、って。 憲法変えたいのならこれでいいじゃん。(いまの日本は笑っちゃうくらい見事に、ぜんぶ逆を行っているね)

音楽は彼のこれまでの作品と比べるとメロもテンポもややシンプルで、でも技術的には相当いろんなことを突っこんでかき混ぜて、内側のあらゆるレイヤーで大量の小競り合いとか内紛が重ねられていて出口なし、みたいなかんじで、そこに淡々とした「宣言」が被せられてはっとする、ような。 このぐちゃぐちゃが「構造」に起因するのかどこかからのなにかしらの「力」によるものなのか、なにをどうやったらこの雲みたいのを…  とかいろいろ考えさせられる。

そういうことがあるので、わたしにとっては彼がクラシックだろうが現代音楽作家だろうが映画音楽作家だろうがどうでもよくて、できるだけライブに通って聴くの。

これとおなじことをアバンギャルドメタルの様式でやってもおもしろい、はず。(もうだれかやっていたりして)

[film] A Streetcar Named Desire (1951)

16日、日曜日の晩、Felliniの”Roma”に続けて見ました。Stormの気圧のおかげでへろへろ、もう殺せ、状態だった。

BFIでは、2月~3月の特集、“Elia Kazan: The Actors' Director”が始まっていて、これまであまりきちんと見てこなかった監督だけど、見れる範囲で見てみよう、と。(でもまだ3本しか見れてない)

『欲望という名の電車』- Tennessee Williamsによるピュリッツァー賞受賞の戯曲をBroadway上演時の監督とキャストをほぼ引き継いで – Blanche役のJessica TandyだけLondon公演でBlancheを演じたVivien Leighに替えて – 映画化したのがこの作品。今回の上映にあたり新たにデジタルリマスターされている。

ニューオリンズの駅前にBlanche (Vivien Leigh)が降りたち、”Desire”行きの路面電車でフレンチクォーターにある妹のStella (Kim Hunter)と、その彼Stanley (Marlon Brando)が暮らすおうち(他にも数世帯いるところ)に転がり込む。 Stanleyは肉体労働者で野卑ですぐにブチ切れておっかなくて、彼の子を妊娠しているStellaは怯えたり喧嘩したりしつつも一緒にいて、そういうところに元教師でちゃんとしたお家の娘だったようにつんつん振る舞うBlancheが誰あんた? みたいなふうに入りこむ。

こいつはなんか裏があると思ったStanleyは彼女の過去を探りはじめ、他方で彼の同僚のMitch (Karl Malden)はBlancheの繊細さ(これまで会ったことないタイプ)にやられて彼女を誘うようになって結婚まで妄想して。

ガラスのように壊れやすいなにかを抱えた or 自身がガラスそのものになってしまった女性が酒とタバコとギャンブルでおらおらやることしか考えていない動物 - 男性の間に置かれてしまったときに起こる悲劇を崩れかけた古い家屋と距離の近さが気になる湿気たっぷりの大気のなかに広げてみせる。モノクロのくすんだトーンに建物の明かりとか霧のコントラストが映えてドラマの装置としても申しぶんない。

そこに転がるテーマ - 暴力とか格差とかジェンダーとか教育とか過去とかいろんな観点からラストまでの「あーあ」について言うことができると思うのだが、この映画に関しては俳優全員の演技のものすごさ - アンサンブルというよりそこから必死で逃げ回ろうとする -   その様子を可能な限り生々しく捉えるように画面が作られているところがあって、へたなホラー映画よりもよっぽどこわい。Stanleyがブチ切れてちゃぶ台(じゃない)をひっくり返さないまでも全員がちゃぶ台(テーブル)上に凍りついて動けなくなってしまうとこなんて、見ているこちらまで固まってしまう。 そんな怒んないで、しか出てこない。こわいよう。Blancheかわいそうだよう、ばかり。

ひとはいろんなことを経ていまのその人になっていて –Blancheの場合、夫が同性愛者であることがばれて自殺した過去があり – そういうのをぜんぶ確かめることなんてできないからつい断面の外見や挙動で乱暴に踏みこんでしまうこともあることはあるのだろうけど、でもみんなその点はおなじなんだから最初はふつうにリスペクトなんだよね。男ってほんとやーねー。

今更ながら“Blue Jasmine” (2013)のCate Blanchettってこれだったのかー、って。

いまの日本の与党が実現したがっている家族の理想型って、まちがいなくこういうのだよ。

[film] Roma (1972)

16日、日曜日の午後にBFIのFellini特集で見ました。”Fellini’s Roma”として書かれることもある映画で、昨年末にRomaに行ったというのもあり、ぜったいに見たいな、って。

感触としては”Amarcord” (1973)に近い、あれが自分の幼少時の記憶の断面スライスの上下数メートルを漂ういろんな人々の絵姿を愛をこめて煮出して映しだしたものだとすると、これは古代からずっと続いている都市が垂直だか水平だかの方向に抱えこんできた幽霊とか亡霊も含めたいろんな顔や姿の人たちがその表面(70年代初)をゆらゆら漂っていくさまを描いたやつで、枠組みとしてはわかりやすい。 けど、次々に新旧いろんな人々が現れては去っていくので、なんだったのあれ.. とか、それがどうした..  なかんじは”Amarcord”よりは強く漂うかも。

エピソードはいっぱい、若いFellini (Peter Gonzales)がローマに着いて下宿屋でいろんな人たちに会ったりとか、夏の夜の大通りのみんなで食事とか、ローマに向かう幹線道路の渋滞大雨での移動撮影とか、地下鉄のトンネルを掘っていたら遺跡が出てきた(けど空気に触れたら消えちゃった)とか、芝居小屋のしょうもない見世物(つまんないからって猫の死骸を投げるのはやめよう)とか、ぜったいそんなの着ないだろあんた、な法衣のファッションショーとか、さいごはバイクでぶんぶんぐるぐる街中を回っているだけとか、自身が全力で突っこみ入れつつもローマならあってもおかしくないな、ていう確信に貫かれたやつらで、見ていると、うん、あそこならあってもしょうがないわ、って思わされてしまう。そしてそれらはAvengersとかTerminatorみたいにタイムスリップして湯気たてながら現れたような得体のしれない連中(この映画のなかにも出てくる)が引き起こしているかもしれないので誰にも防ぎようがないし、そんなの防いでどうする/どうなる、だし。

Romaは昨年末に3~4日くらいしかいなかった程度だが、街の中に遺跡がそのままにょきにょき生えていて、そんなのへっちゃらで新旧互いに異物感を放電している様がとっても新鮮だった。ロンドンの街中にもそりゃ遺跡はいっぱいあるけど、あんなに強く、ここにいるからさ、って堂々と居座っているかんじはない気がする。闇に潜む幽霊というより街に裸で繰りだす妖怪とか化け物のかんじで根を張っている。だから夜の川辺とか橋のたもととか扉の影とか素敵でさあ、夜ずっと歩いているとなにかが出てくる/出てきそうなのがとってもわかるし。

おそらくこれと同じような街は世界中に数千とあるのかもしれないが、Romaが他とちがうのは大昔からセレブっていう特殊なタイプの妖怪が巣食っている、というあたり。シーザーもいたし法王もいるし、この映画でもGore Vidalが喋ったりAnna Magnaniが出てきたり。(後で知ったのだがElliott Murphyなんかもいたの?)

40数年前に撮られた風景と、いまのそれがリンクするって絶対かっこいいと思うんだけど。 NYでもLondonでもそれはできるし、昔の映画見ると感じるし。 ほんとうはさー、Tokyoでもこういうのを作れる隙間みたいのがあったと思うんだけど、いまや跡形もないよね。ださい土建屋がぜーんぶ潰しちゃって、ほんと恥ずかしいしバカみたい。

あと、見ていてものすごくパスタが食べたくなって、帰ったらぜったいこういうの作る、って思い描いて帰ったら家のパスタが切れていたときのしょうげきときたら..

2.19.2020

[film] Giulietta degli spiriti (1965)

15日、土曜日の夕方、Stormぼうぼうの中、BFIのFellini特集で見ました。
英語題は”Juliet of the Spirits”、邦題は『魂のジュリエッタ』。

中年に差し掛かったGiulietta (Giulietta Masina)にはパブリシストでかっこいい夫のGiorgio (Mario Pisu)がいて、パラサイトされそうなぱりっとした邸宅に暮らしていて、数名のメイドを抱える裕福な暮らしをしているのだが、冒頭の結婚15周年記念パーティとか、親戚も含めた来客が常に溢れていざわざわしていて、そこにやってくるのは見るからに怪しそうな(偏見です)男女ばかりで、降霊術とかチャネリングとかやっていて、Giuliettaも誘われるままに手を繋いで、バカバカしいわと思いつつも無視できず気になってどうしたものか。

他方で仕事が忙しそうで朝早くに出て行って夜遅くに帰宅するGiorgioには彼の寝言から浮気疑惑が持ちあがり、覚悟を決めて探偵事務所に調査を依頼してみればその結果は..

あとは近所に住むかっこいいSuzy (Sandra Milo)のこととか、今の自分のこと、これからの自分のこと、置いて行かれて誰からも相手にされなくなるのではないか不安とかをどうにかすべくいろんなとこにすがろうとしてもどれもいんちきぽくてどうしよう .. という典型的なミドルエイジ・クライシスの諸相をコントラストの強い色彩(初めてのカラー作品なのね)にインテリア雑誌のインテリア、臭気ぷんぷんの登場人物たちを絡めて描いている、ように見えて『甘い生活』のMarcello (Marcello Mastroianni)の彷徨いと同じようなのを、彼にほうって置かれた女性の側から映しだしているのかなあ、ともとれたり。

でもなんか、Marcelloがどこまでもフィジカルな方に涎たらしてやらしく寄っていくのに対してGiuliettaはスピリチュアル – しかも、どう見てもやばい系 – ってなんかねえ、とは思った。だってそんなふうなんだと思うよ、って言われてしまえばそれまでだけど、でもぜったいそんなふうに「あってほしい」、も入っているよね、とか。いやだからそういう集団的無意識が..  とか向こうもなかなかしぶとくて。

自身の抱える存在の希薄さ不確かさを周囲に現れる変なひと(たち)、変な街、夢のような出来事などに溶かしこんで、安心させるのか不安を煽るのか - そこに存在することそのものの危うさとか病(のようなもの)を上空から映し出すのがFellini映画のでっかいテーマとしてあるのであれば、そこに階層やジェンダーといった要素が反映されるは当然なのだと思うけど、あえてcontroversialななにかをぶちこむ、ってやらないのかな。Luis Buñuelなんかはよろこんでやっているように想えるのだけど。

そうはいっても、Giuliettaを真ん中に据えたこの世界が結末も含めてその不安定さをうまく丸めこんだ収まりのよいきれいな物語を作っていることは確かで、いやだからそれこそがー、っていうのもわかるけど、55年前に作られたカラー映画としてはよいのではないかしら。猫もでてくるし。

[film] Amarcord (1973)

9日、日曜日の晩にBFIのFellini特集で見ました。この特集もがんばって見ないと、ってできる限り追っているのだが、彼の映画ってだいたいどれも軽く2時間を超えてて、ぼーっと眺められるようなもんでもないから、なかなか大変なの。 軽くピッツアとかパスタ、って思っていてもその後に当然のように大皿のメインがやって来るの。食べるよね? こんなの食べてあたりまえでしょ、みたいに。

ここまでに上映された特集の作品はだいたい4Kリストアデジタルなのに、この作品だけ何故か35mmでの上映だった。柔らかくふやけて滲んだような色みがとてもよいかんじだった。

Felliniが子供の頃に見たり経験したりした出来事、半径数10メートルの周りにいた人々を四季に沿って網羅して並べていくだけ、と言えばそれだけで、それも解説を読むとそう書いてあるから、というだけだしその男の子の語りが入ったりするわけでもない、そもそもそれらしいそいつが主人公であるかどうかはよくわからないし、主人公ぽい人物を軸にストーリーのようなものが展開していくわけでもないのだが、それでもいいって。知らない宇宙の話ではなさそう。

冒頭の、なにかの綿毛がぼうぼうに散って舞ってもうじき春だよ、っていうところから始まって、ファシストがやって来たり、でっかい船が来たり、椅子を高く積みあげて燃やしたり、いろんな女性がいっぱいいて、バイクに跨ってすっとんでいくのとか怪しい男もいっぱいいて、どれもこれも我々の子供の頃の記憶にすとんとはまるような大きさとか柔らかさで親しげにやってくる。 なんのために? これらの記憶って(夢、でも)なんのために我々の頭の奥に居座って、日々の行動になにを仕掛けようとしているのだろうか。

こんなの答えがあるわけないってわかった上で、Felliniはそれは具体的にはこんなふうなスペクタクルだったり、あんなふうな痴話喧嘩だったり、なんだったんだ… ていう脱力だったり、ていうのを自在に組みあげてミックスして、例えばこれって(「これ」ってなんだよ、と頭のなかは言う)こんなふうじゃなかった? とかマジシャンみたいにひょいひょい出してくる。 小説を読んでいると割と起こるようなことがFelliniの映画でも起こって、それって映画だから当たり前かもだけど具体的な色とか表情とかお天気とかを伴ってやってくるからすごいな、って。 そうやって構築された世界の確かさとか変てこさに触れてしまうと抜け出せなくなってしまうかんじもわかる。プルーストのコンブレーやフォークナーのヨクナパトーファ、それらの土とか水とかと繋がっている、のかな。

こういうのって、たぶん今の世の中でいちばん必要とされていない、役に立たないとされてしまうに違いない情景(.. 情報としてはゼロ。ニル。)で、であればかえって全面的に肯定したくなるし、映画館でスマホをいじりだす若者を縛りつけて、とにかく見ろ、とか。

あと、これを見てしまうと”Jojo Rabbit”なんて、よくもわるくもファストフードだよね、とか。

2.18.2020

[dance] Tanztheater Wuppertal Pina Bausch: Bluebeard. While Listening to a Tape Recording of Béla Bartók’s “Duke Bluebeard’s Castle”

14日、金曜日の晩、Saddler’s Wellで見ました。
Pina Bauschが亡くなってもう10年過ぎているのかー、としみじみしつつ彼女が亡くなってから初めてTanztheater Wuppertalの公演に行った。90年代、ほぼ年次で彼女の新作公演を見ることができた(BrooklynのNext Wave Festival)ので、 彼女のように”Tanztheater”という様式を通して世界のありようを丸ごと見せてくれるのって(あってよさそうなのに)なくなっちゃったよねえ、って改めて。

初演は1977年、英国では今回が初演になるという4日間公演の3日め。 どうでもよいことだが、スチール写真がずっとモノクロだったので、モノクロで展開される世界をイメージしていた(当然そんなことはなかった)。
タイトルをそのまま訳すと『バルトークの「青ひげ公の城」のテープを聴きながら青ひげは.. 』。

舞台上には大量の枯葉が一面に敷き詰められていて、動けばかさかさ音がするし動きが激しくなる後半は捲きあげられた枯葉のよい香りがふわーっと漂う。 そこにBluebeard (Christopher Tandy)と妻のJudith (Silvia Farias Heredia)がいて、Judithは床に仰向けに固まって転がっていて、Bluebeardはテープコンソール台(天井から伸縮する紐で結ばれていて可動)からバルトークの「青ひげ公の城」(1911)を流し、それに合わせるように床のJudithに被さって一緒にずるずる這いずり(彼女の髪の毛は枯葉まみれ)、音楽のある箇所まで来ると慌てて戻って同じ箇所をリピートして同じ動作を繰り返す。このテープオペレータ(DJ?)としてのBluebeardの挙動は最後まで貫かれて、この一幕ものオペラが彼のテーマであり行進曲でありこの世界を統御するために必要な規範のようななにかなのだ、ということがわかる。

一組みの夫婦による一通りの修羅場、加虐 - 被虐の構図が描かれるなか、舞台の後方にゾンビみたいに変な恰好で固まった男女がゆっくりと一列になって侵入してくる。この辺、きたきたきた.. ってかんじでたまんない。で、そこから先、彼ら - 召使なのか幽閉されていた連中なのかが脱いだり脱がされたり、ムキムキを誇示したり絶叫したり抱きあったり、男女間の、あるいは労使間の典型的かつバカバカしい乱痴気騒ぎがところどころランダムに、全体としては整然と指揮され - テープコンソールは舞台上を行ったり来たりして、狂ったDJが催すパーティのようでもあるのだが、そんな宴もいつの間にか終わって、なにかがすっきりしたのか、これからも同じことが繰り返されるのか。

この辺の世界に対する冷めた目線 - 世界(そんなに広くない)には虐める側と虐められる側があって、でもどいつもこいつも変態ばっかしでしょうもなくて、であるが故に脆弱で転覆可能ななにかかも、ていうのと、そこにおいて美とか醜とか妖艶さとかってどんな意味を持ちうるのか、というのがマスの動きとパーソナルな呻きや叫びや悶絶の交錯のなかで描かれる。 それは社会のドラマでありながら個人のドラマの方に転覆しうるなにかとして、それを見つめる客席の方にまで繋がり、拡がってくるの。

いま、Pina Bauschが求められる背景とか必然って、10年前よりも遥かに強くなっている気がする。 “Social”なんてものがいかにろくでもないいんちきのまがい物なのか、彼女の舞台ほど強く、しなやかに叩き割ってくれるのってなかった。

オリジナルメンバーも数名入っていたみたいだけど、もうDominique Mercyとかは見ることできないのかなあ。

帰り際、やっぱり我慢できなくてステージから飛んでいた枯葉を一枚拾ってプログラムに挟んだ。どこで拾ってきた葉っぱなのかしら?

2.17.2020

[film] Emma. (2020)

15日土曜日の昼、CurzonのMayfairで見ました。

公開直後の週末なのだが、ちょうど(先週末に続いて)Storm Dennisっていうのが来るぞ来るぞって風がぼうぼうに吹いてて、ここはただでさえ週末の昼間はひとがいない館なので、この回もでっかいホールに近隣のお年寄りが5~6人いるだけだった。

原作は問答無用のJane Austen。タイトルに”.”が入っているのはなんでかしら?

監督のAutumn de Wildeさんはこれが映画デビューのようだがRilo Kileyをはじめ、The Decemberists, Elliott Smith, Spoon, The Raconteurs, Death Cab for Cutieなど、ある時期のアメリカの最良のバンドたち(この時代ってどのバンドのライブに行っても外れなかったねえ)のジャケット写真やPVを手掛けてきた方なので心配いらない。し、実際まったく心配いらなかった。 春に向けてのとても爽快な一本。

原作を読んでいなくても十分に楽しめるのだが、後でもよいので 本は読んでほしいかも。Jane Austen原作のはTVも含めていっぱい映像化されているけど、100%パーフェクトって言えるのはやっぱり紙の上を流れて行くやつだし、そこを押さえておけば映画でもTVでもあ、ここはそう撮るのね、とか、この役って彼/彼女でいいの? とかえんえんぶつぶつ言えておもしろいし、ここは80点とかここは60点、とか遊べるよ。最近のだと”Love & Friendship” (2016)があるし、いまだに(永遠に)議論になってる”Pride & Prejudice” (2005)とか。 あと”Pride and Prejudice and Zombies” (2016)とかもあったよね。 なかでも“Emma”はストレートにコメディとして楽しめるので大好き。

冒頭には原作通り、”Emma Woodhouse, Handsome, Clever, and Rich..”って出て、その通りのEmma Woodhouse (Anya Taylor-Joy)のつーんと強くて自信たっぷり頼もしい - 時折べそかいたりするけど  - の秋冬春夏を通した大活躍が描かれる。Alexandra Byrneのカラフルな衣装が隅々まで眩しくかっこよく、いろんな女子男子が隊列を組んでざっざっざって横移動していくとこの華やかさとか、ボールルームのダンスシーンのジェットコースターとか、いちいち手に汗にぎって息とめてたまんないの。

ここまでキュートで胸躍るかんじのがやって来るとは思っていなくて、Emmaの黄色を中心としたこれって、そういえば“Clueless” (1995)にもあったやつで、小娘感がなんだかすばらしいぞあんた、のHarriet (Mia Goth)は、Tai (Brittany Murphy)の転生というのか前世というのか、そういうやつとしか言いようがなくて、なんか泣きたくなったり。

あとはEmmaとGeorge Knightley (Johnny Flynn)が恋におちる瞬間、その瞬間がしっかりと刻まれているので、それだけでじゅうぶん。

あとは、ただいるだけでなんもしない - それだけで明らかに尋常ではないかんじの父 - Mr. Woodhouse (Bill Nighy)の佇まい。これってWes Anderson映画におけるBill Murrayと同じような位置付けだろうか。 他の男子 - Mr. Martin (Connor Swindells)も、Mr. Elton (Josh O'Connor)も、Frank Churchhill (Callum Turner)も、その適度かつ絶妙なぼんくら模様がすばらしいったらなくて、Emmaサイドの勝利は明白なの。

↓ の”David Copperfield”といいこれといい”Little Women”といい、まだ古典からいくらでもおもしろい映画は作れるんだし、日本はそういうのの宝庫なんだから、もっとやればいいのにな。もったいないな。

邦題、お願いだから「わたしのエマ物語」とかになりませんように。

2.16.2020

[film] The Personal History of David Copperfield (2019)

13日、木曜日の晩にPicturehouse Centralで見ました。 英国ではLondon Film Festivalで上映されて、1月末に公開されてだいぶ経ってしまっているのだが米国はこれから(5月?)なのね。

いうまでもなくディケンズの”David Copperfield”の映画化で、でも翻訳で読んだのは数十年前だし、ディケンズ掘りでもないのでだいじょうぶかな、だったのだがまーったく問題ない。原作読んでなくてもディケンズ知らなくてもぜったい楽しめると思うし、見たら読みたくなるよ。

大きくなって成功しているらしいDavid Copperfield (Dev Patel)がそんな大きくないホールの壇上で、ひとり自分の生い立ちを語り始めるところから。
そこから先は、ディケンズ好きならこれぞディケンズの.. って大喜びしたくなるかもしれない変人奇人性悪変態 ..  - でも「ふつう」の人々があんま出てこないのでなにをもってそう言うのかわかんなくて、とにかくそういう連中がはばを利かせているのでストーリーもくそもないような行き当たりばったりのなるようになれワールドが転がっていって誰にも止めることができないし止める気もないし。 

登場人物ひとりひとりがどんなふうかを紹介していったらディケンズの本になっちゃうのでやらないけど、ロバをみると狂ってすっとんでいくBetsey Trotwood (Tilda Swinton)とか、”Dumb and Dumber”のJim Carreyにしか見えないUriah Heep (Ben Whishaw) とか、とにかくまともぽい人はあんま出てこない。変な人たちが好き勝手に動いたその果てに浮世離れした世界を作っていく、というとWes Andersonの世界を思い浮かべるし、確かに似たところはある - というかWes Andersonがそもそもディケンズぽいのか - のだが、彼のほどカラフルにスタイリッシュに構築された世界のかんじはなくて、もっとストリートっぽいというか、野蛮で猥雑で雑然としてて危なっかしくて、いろんな人に出会って変わったり変えられたりしてのどきどきと、人はどうしてこんなにも違ってて邪悪だったり善良すぎたりしながら遠くに動いていっちゃうのだろうか、どうなっちゃうのかな、どうすることもできないのかな、って笑いながらも切なさみたいのが来るところはディケンズを読んでいるときの感覚に近いかも。

最後はみんな笑っているのだがそこに説教とか教訓めいたなんかはこれぽっちもなくて、こんなのとにかく乗り切ったりやり過ごしたりするしかないよね、みたいに突っぱねてくるところは今の我々の世の中と繋がっているのだと思った。

ひとりひとりの違いでいうと演じている俳優さんも - Davidはインド系だしMr Wickfield (Benedict Wong)はアジア系だし、その娘のAgnes (Rosalind Eleazar)はアフリカンだし、肌の色なんてそれがなにか? みたいな出し方はなんかよくて、そんなとこ、だれも気にしていないでしょ、っていう世界なの。

原作はこれまで何度も映画化、TV化されているのだが、1935年のGeorge Cukor版は見てみたいなー。

Dev Patelさんの必死さが全身から滲んでくる演技はここでも冴えていて、次はDavid Loweryの新作なのね。

2.15.2020

[music] Pop Crimes: The Songs of Rowland S Howard

12日の晩、Royal Festival Hallで見ました。今年最初のライブ。 最初にライブの告知を見たときは、なんとまあ地味な.. でもあんなでっかいホールが会場でお客入るのかしら? って思って、実際に告知が何回も来たので、売れていないんだろうなー、じゃあ行ってみるか、と行ってみたらほぼ一杯になっていた。

このライブは2009年に50歳で亡くなったRowland S Howardが昨年秋に60歳になったのと彼のソロが再発されたのを記念して、メルボルン~パリ〜ロンドンと回っている。でも一番最初にやったのは2011年のメルボルンで、2013年のATP (なつかし)でもやっているのだそう。

Rowland S Howardは主なバンドだとThe Birthday Party - Crime & the City Solution - These Immortal Souls - Nikki Sudden and the Jacobites (!) などなどを経てきて、今回のライブでもこれまでのバンドの人たち - Mick Harvey, J.P. Shilo, Harry Howard, Genevieve McGuckinなんかが固めている。

自分にとっての彼というとCrime & the City Solutionのひとで、でもライブは見ていない。

客層は見てすぐわかる同年代の、若い頃から今までずっと後ろ向きで萎びたままでやってきた - ねえねえブリットの頃ってみんなどこでなにやってたの? - って問い詰めたくなる枯れた老年層がいっぱい。こんなに居心地よくて異邦感がなくていいのかしら、くらい。

基本のバンドは4~5ピースで、この音がまたすばらしく馴染む。アッパーだったりキャッチーだったりする箇所なんて微塵もなく、重心も目線もひたすら地表を這ってがしゃがしゃがりがり引っ掻いて瘡蓋を作っては剥がしてを繰り返しているだけの、救いようのないルーザーの音なのだが、いまの自分を作ったのは間違いなくこういう音の毛布というかブランケットというかの団子の寝床で、だからいまだに芯から腐っててしょうもないんだな…  はは(脱力)、って。 音に突きあげられたり、音にダイブしたりする必要のまったくないずるずる万年床なの。

でも当時って、The Birthday Partyなんて野蛮人だわ、とか結構酷いこと言ってあまり聴いてなくて、でも最近になって彼らの音を聴くとすごくよかったりする。若いころってやっぱしバカだったんだな … と思うことにしている。

ちょこちょこいろんなゲストが出るのだが、有名なところだとLydia Lunchが出てきて、そこにBobby Gillespieが加わってデュエットして、Bobbyは第二部にも出てきて盛りあげ役をやっていた。Lydia Lunch、元気そうでよかった。最後に彼女を見たのはKnitting Factoryで、横のギターはNels Clineで、最後にJames Chanceが出てきたなー、とか。

真ん中に20分くらいの休憩があって、第二部の頭でNick Cave氏がひとりすたすた出てきたのでびっくりする。そりゃこの方がいらしたっておかしくはないけどさ、告知にはなかったし。Rowlandがどんなにいい奴だったか、どれだけ素敵な思い出を共有しているかを語って、彼はこの曲を16歳の時に書いたんだよ、ってピアノに座って”Shivers” (1979) – The Birthday Partyの前身バンド - The Boys Next Doorの曲なの - を自分の曲のように滑らかに歌って去る。

J.P. ShiloのギターとGenevieve McGuckinの鍵盤がとにかく気持ちよくて、こんな形で自分の音を継いで貰えるのって幸せかも、って少し思った。みんなRowlandへの愛と想いを語り、それらも込みでステージ上に呼びこもうとしていて、で、彼はぜったいあそこに天使になって立っていたの。

2.14.2020

[film] Birds of Prey: and the Fantabulous Emancipation of One Harley Quinn (2020)

11日、火曜日の晩、Picturehouse Centralでみました。 21時過ぎの回だったせいか久々の客ひとり状態。

“Birdman” (2014)もそうだった – “or (The Unexpected Virtue of Ignorance)” -  けど、主人公に鳥を絡めるとなんでタイトルに補足とか言い訳みたいのがいっぱいつくのかしら?

どこのなにをどう攻めたいのかあんまよくわかんなかった“Suicide Squad” (2016)で一番鮮烈でかっこよかったキャラ - Harley Quinn - Harleen Quinzel (Margot Robbie)を主人公に彼女が生まれてから大きくなるまでをアニメと彼女の語りでざっとなめて、JokerにフラれてGothamに放り出されて、チャイナタウンに暮らしてハイエナを飼って、ローラーダービーとかやって、Jokerと暮らしたお城の化学プラントを派手にぶっとばして – ここ素敵 – なんとか生きてますわ、ていうとこから。

闇の世界を仕切っているRoman Sionis (Ewan McGregor)の周辺で、彼に拾われたシンガーBlack Canary (Jurnee Smollett-Bell)とか、上と衝突してざけんじゃねえ、って辞める警部 – Montoya (Rosie Perez)とか、幼い頃に家族を殺されて復讐に燃えるHuntress (Mary Elizabeth Winstead)とか、ダイヤモンドを飲みこんじゃったスリの女の子とか、境遇もばらばらの女性たちが、ゆるゆると撚り合わさっていって、最後に街はずれでRomanの軍団と激突するの。 “Suicide Squad”のように束ねる雇い主がいるわけでも明確な共通の敵がいるわけでもない、Tarantino みたいに漲るなにかがあるわけでもない、それぞれの事情で目の前のうざいのを蹴とばしたりぶん殴ったりしていたやつらがダイヤモンドのまわりに近寄ってきて、よくわかんないノリでだんだんやばくなってきて、結局あいつかー、あれかー、ってどんぱちになだれこむの。

悲壮感とか使命感とか義理人情みたいなところから遠く離れて、Harley Quinnはエモくなる手前の快-不快とかなんか気に食わねえな、とかで怪しく動き回るとこは徹底していて、しかもミソジニー野郎がいちばん嫌がりそうな女の挙動をわざと踏んで貫いていくので素敵ったらない。 しかも銃とかナイフ – 流血 - じゃなくて、接近戦での金属バットとかトンカチの打突とかで相手を凸凹にする肉弾戦で、なんとなく70年代のカンフー映画みたいなのだが、これがとってもよいの。

DCコミックスなので、スーパーヒーロー的なパワープレイがあってもおかしくないのに、そういうので出てくるのはBlack Canaryの超音波くらいで、寄せ集められたやくざの抗争 - というか猛禽が猿とか豚とかをとっちめて舞いあがる、それだけで気持ちいいから、いいんだ。

そしてこの世界はJoaquin PhoenixのJokerがいたあの世界とあまりにも違いすぎる。これも世界の分断とかいうのか。- いや、そうではなくてだからふたりは別れた。それだけのことかも。

それにしても、”Ocean’s 8” (2018)でもそうだったけど、アジア系の女子ってなんであっさりスリ名人になっちゃうのかしら?とか。

あと、Ewan McGregor、とても楽しそうだし、そういう役柄なのかもしれないけど、できればSam Rockwellと差別化してほしい。
あと、ハイエナもっと出して暴れさせればよかったのに。

あとはなんといっても、あのエッグサンドイッチだよね。あれがすべての発端だったのよね。

[film] Bombshell (2019)

3日、月曜日の晩、Leicester Squareのシネコンで見ました。あの邦題じゃだめよねー。

Fox Newsのトップ - Roger Ailes (John Lithgow)によるセクハラ・スキャンダルの顛末を追った実録ドラマ。
2016年大統領選の共和党ディベートでの女性アンカーMegyn Kelly (Charlize Theron)  の振る舞いに上からケチがついて、その辺から亀裂が入ってそこからヒビが広がり、同じ頃にベテラン番組ホストのGretchen Carlson (Nicole Kidman)からも同様の狼煙があがり、そこに上に行きたいと切望する若いアナウンサーKayla Pospisil (Margot Robbie)のエピソードが絡まり、いろんなぐだぐだと共にあんまり楽しくないドラマが展開していく。それがいかにものアメリカンメジャーな右派メディアの中枢で起こった、というところも含めてあーあ、なの。

仕事はしたいし自分の野望もある、けどそれを進めていく途上、上には強大で絶対的な権力があって、そいつの言うことを聞いたり従ったりしないとこの先なにもできなくなる、それは会社社会だと割とどこでもあったりすることだと思うのだが、そこで求められるのが自分にとって嫌なことだったり明らかに犯罪だったりしたときにどうするか - ①それでも飲みこんで上とか自分のやりたいことをめざす、②できるだけ関わらないようにして適当にやりすごす、③ふざけんじゃねえ、って告発する、などなどのやり方があって、この映画でもそれぞれの選択をする(というほど明確ではないけど)女性たちとそのアンサンブルが描かれていて、そこでの彼女たちの強さと連帯(というほどのものではないけど)が#MeTooの盛りあがりがあろうがなかろうが示されてよかったねえ、ていう辺りがこの映画の中心なのだと思う。

ドラマとしてはそれでいいし、実際にあったことだし、それに特に文句をつけてどう、というものでもないのかな。で、見る人は見てCharlize TheronとNicole Kidman、最強だよねって思うし実際そうだし、でもその反対側で、見たくない人はぜったい見ないかんじ(それかSNSに出てくる「自業自得」とかいう訳わかんないコメント吐くだけ)のトーンに出来あがってしまっているのがちょっとだけ。そのうちHarvey Weinsteinのもできるかもしれないけど、それも同じかんじになるよね。 ほんとうはあいつらと同レベルの、会社組織にうじゃうじゃいる腐れた豚野郎どもの目ん玉ひんむいても見せてやれって思うし、更にいうといまの職場環境にいちばん多くいそうな(この映画の)Kate McKinnonみたいな女性たちにも見てほしいし、いろいろ考えてしまった。 映画から少し離れてそんなことばかり思ったりするのはよいことなのかどうなのか。

これっていろいろ絡まった「スキャンダル」として表に出たから見る/見ない、ではなくて、いまどこの職場にもあるハラスメントとかしょうもない圧をどうするのか、っていうことで、この映画ではBombshellの爆風が吹きとばしたわけだが、そんなのそうあるもんでもないし、結局のところ潜在ハラスメント社会/会社(特ににっぽんの)にとってはべつに痛くも痒くもないやつになってしまっていないかしら?

それならいっそのこと、金属バットとかとんかちでぼこぼこに潰していく ↑ みたいなやつのほうがまだ …

2.13.2020

[art] Madrid

1月23日に日帰りでマドリッドに行っていろいろ見てきたやつのうち、主なところを簡単に。

Goya. Drawings. "Only my Strength of Will Remains"

ゴヤのドローイングを約300点、プラド美術館にあるやつだけでなく世界中から集めた展示で、落書きみたいなのから白黒と線だけでひとつの宇宙とか世界を表してしまっているのまで、よくここまで集めたね、というよりやはりよく描いたもんだわゴヤ、としか言いようがない。

この美術館に来ると、いろんなゴヤを3フロアそれぞれで見ることができて、地上階でだれもが知っているド古典の名作たちを見て、その上の階で宮廷画家としての職人技を堪能することができて、その上の階には子供とか動物とかを描くリラックスしたB面というか - でも猫の喧嘩の絵とか大好き - があってとにかくこの美術館でゴヤという画家の深さ恐ろしさを十分に知って好きになって、このドローイング展は、デモやアウトテイク集成、なのかもしれないが、であるからこそゴヤという画家の性格 – 線を引いて塗りつぶしていっぱい描きながら意志の力のみで固めていくような - がまっすぐでていて、これらの流れのなかに彼の画家としてのありようが凝縮されている気がした。

ポートレートはふつうに上手くておもしろいのだが、風俗とか化け物とか死体とかのタッチ、というか思い切りとそれが表出してしまう様がすばらしいの。 そこに北斎のような画狂人の姿を見ることもできるし、わたしは水木しげるかも、とか思った。対象を穴のあくほど見つめて正確に緻密に描こうとするその果てに滲んでしまう歪みとか狂気とか。

A Tale of Two Women Painters: Sofonisba Anguissola and Lavinia Fontana

ルネサンス期のふたりのイタリア人女性画家 - Sofonisba Anguissola (1532 –1625)とLavinia Fontana (1552-1614)の作品を集めた展示で、ほぼ同じ時代に生きたふたりの女性の間に直接の交流はあったのかなかったのか、どちらにしても”A Tale of Two Women Painters”と括らなくたって並べられた作品は瑞々しくて華やかでずっと見ていたくなる。衣装の肌理とか透明なひだひだの緻密さはすばらしいし、こちらを向いた微妙な表情の歪みとかはどこから来るものなのかしら、とか。Sofonisba Anguissolaさんはミケランジェロとかにも会っているんだねえ。すごいなー。

こんなふうにこれまで余りフォーカスされることがなかった気がする女性画家の作品に触れられるのはとてもよいこと。4月からはNational GalleryでArtemisia Gentileschiの展示も始まるよ。

The Impressionists and Photography

プラド美術館でほぼ午前いっぱい潰して、午後にMuseo Thyssen Bornemiszaで見ました。

印象派の作家たちに当時広がりつつあった写真(技術)はどのような影響を与えて、画家たちはそれをどう受けとったりしたのか。 そんなのあったに決まってるじゃん、てふつうに思ってしまうのだが、こうして具体的に並べられると、なるほどねー、とかいろいろ思うところいっぱい。

社会とか自然とか建物とかポートレートとかのカテゴリ別に、当時の代表的な写真作品と、その横に同様のテーマや構図をもった印象派の作品が並べられている。ものによってはもろに写真を見て描いたようなやつもあるし、そうした方が遠近や濃淡を自分で決めたり測ったりして画布に落としていくより簡単だからそうするよね、ていうのと、そういう「省力化」が「見る」行為を含めて印象派絵画の屋内~屋外の網膜に及ぼしたものって小さくないし、それはその先のキュビズム~抽象絵画にも繋がってくるに違いない、って。 絵画論、写真論、批評理論(フーコーのマネ)、いろんなところから考えるネタがてんこもりだったかも。

続いてMuseo Nacional Centro de Arte Reina Sofíaに移動する。いつもマドリッドの3つの美術館はこの順番で歩いて回っているのだが、ここに着くまでに大抵十分へろへろになってて、でもここの企画展は面白いのが常に4つ5つやっているし、常設のゲルニカも見なきゃいけないし、しんどい。 次回はまわる順番を変えてみようかしら。

Ceija Stojka: This Has Happened

Ceija Stojka (1933 – 2013)はオーストリア・ルーマニアの画家で作家で、ホロコーストのサバイバーで、彼女が56歳から描き始めた絵画たちには、一見子供が描いたような素朴さ稚拙さがあって、かわいいーって寄ってみるとものすごく怖い世界が展開されていて … となる。夢でも妄想でもお伽の世界でもない –“This Has Happened”.

Defiant Muses: Delphine Seyrig and the Feminist Video Collectives in France in the 1970s and 1980s

フランスのリールで開催された展示がマドリッドにも来ていて、リールは難しかったけどここなら。だったのだが、彼女の活動を記録したインタビュー映像とか発言の字幕がぜんぶスペイン語だったのは残念だったかも。英語圏でやってくれないものかしら。
TV出演時の(主にフェミニズム関連の)発言とか彼女の活動を時代ごとに追うのと、映画の代表作ごとの展示とかインスタレーションが並ぶ結構規模の大きい展示だった。

いっこ、すごかったのが暗闇に5つ(たしか)のディスプレイが置かれていて、そこに”Jeanne Dielman, 23, Quai du Commerce, 1080 Bruxelles” (1975)の最後、彼女があれをやってしまった後の薄暗い部屋の映像とそこの音をループさせる、というインスタレーション。あの時あそこで彼女が見て聞いていた光景 - あの闇の底で蠢いているのは一体なんだったのか。

おうちに戻ったのは23時くらいでその週の残りはまったく使い物にならなくて。

2.12.2020

[film] Taylor Swift: Miss Americana (2020)

2日の夕方、Prince Charles Cinemaで見ました。
この日の15時くらいに羽田からHeathrowに着いて、おうちに戻って階段をぐるぐるのぼって荷物を出して片づけして買い出しして洗濯してそのままだと寝てしまうので外にでた。

Netflixのやつらしいのだが、ここでだけ1日1回くらい地味に上映しているの。日曜の夕方なので結構入っていて、やはり女性の方が多いかしら。

予告が終わって始まる前に映画のタイトルと彼女の横顔の静止画が出てみんなでわーっとなり、背後に彼女の曲が流れていくのだが、その曲に合わせてみんな小声で – なぜ小声? - ひそひそ歌うのがなんかよかった。ひそひその合唱。

冒頭、ピアノを弾く彼女の鍵盤のとこにパンダ顔の小猫がちょろちょろしてて、それだけで悶絶する( ..そこか)。あの小猫なに? そこから先は彼女の13歳くらいからの音楽キャリアをいろんな動画とかインタビュー映像で繋いでいく。それだけのー。

おもしろいところはいろいろあるのだが、特に2018年の中間選挙のとき、テネシー州の共和党候補者(女性)に我慢ならなくなって自身の政治スタンスを表明(SNSで発信)するところは清々しくてよいの。女性歌手の政治発言というとブッシュの時代、Dixie Chicksの騒動があって、ナーバスになるのもわかるからなおのこと。

わたしが彼女のことを知ったのはRyan Adams(..あーめん)による”1989” (2014) の全曲カバーを聴いたときで、どの曲もすごくよくてびっくりした(失礼ね)のだが、ここで聴こえてくる聴いたことのない曲たちも、どれもとても素敵で。ライブのもスタジオのも、彼女がそこで作って試したり歌ったり、のライブ感に溢れていて止めないでもっと聴かせてよ、になる。

ここに出てくるライブの映像とかを見ると規模とかでかすぎてこれはちょっと無理よね、って思うのだが今の子たちってそんなの気にせず新しい曲とかじゃんじゃか簡単に手にいれてみんなで楽しんでいるんだろうなーいいなー、って。レコード屋通うのもしんどくならない? -  ならないけど。まだ。

今のアメリカの音楽ビジネスの先端がどの辺にあるのか、もう10年くらい前からわからないし関心もなくなっているのだが、この映画での彼女の佇まいは、Miss Americanaというのがしっくりくるかも。 Madonnaとかディーバ系のそれとはやはり違うの。

最近ライブ行けてないので行きたいなー。いまのわたしは約2週間後に迫るおとぼけビ〜バ〜をひたすらじっと待つしかない。 あんまじっとしてないのだが。

[film] Carole Lombard: The Brightest Star -

BFのCarole Lombard特集は1月で終わりだったので、出張から戻った時にはもう毎日のように彼女の映画を見ることはできないんだなあ、と思うととてもかなしい。

Bolero (1934)

17日、金曜日の晩に見ました。1910年代のNYで成功を夢見る草ダンサーのRaoul (George Raft)がいて、ダンスの相手の女性とは恋愛関係になりそうになると仕事とは別、って割り切りながら成りあがってパリまで行って、運命の女性Helen (Carole Lombard)に出会うのだが、やはり別れて、そのうち第一次大戦が始まって従軍して怪我して、でも無理して戻ってきて..
実在したアメリカ人ダンサーMaurice Mouvet (1889-1927)の生涯を基にしていて、最後にふたりがBoleroを踊るシーンは、Mitchell Leisenが撮っているのでそこだけなかなか格調高くてかっこよい。
Carole LombardというよりGeorge Raftかっこいい!の映画。最後がちょっとかわいそうだけど。

Swing High, Swing Low (1937)

18日、土曜日の午後に見ました。 
“Bolero”が踊るCarole Lombardだとすると、こっちは歌うCarole Lombardの映画なの。
パナマ運河でMaggie (Carole Lombard)と除隊直前のSkid (Fred MacMurray)が出会ってSkidはトランペット野郎で、ふたりはぶつかり合いながらも仲良くなり、歌とペットのコンビで盛りあがるのだが、Skidは先にNYに行って別の女性シンガーと組んで大当たりして、でも彼女のいじわるでMaggieとSkidの交信は途絶えて、やがてSkidは落ちぶれて.. 最後はしっとりと終わるメロドラマなのだが、そもそもはぜんぶSkidの自業自得だよね、って。
Carole LombardとFred MacMurrayの組み合わせって、なにが素敵なのかしら、って考えている。適当でやんちゃなアメリカ人青年とタフで一途で揺るがない女性、ってだけだと当たり前すぎてつまんないしな、とか。

Mr. & Mrs. Smith (1941)

19日、日曜日の夕方に見ました。とっても有名なAlfred Hitchcockのコメディ。
結婚3年目でNYに暮らすAnn (Carole Lombard) とDavid(Robert Montgomery)がいて、しょうもない喧嘩ばかりしてて、Annが生まれ変わったらもう一度あたしと結婚する?って聞くとDavidはいやそれは、って返して、しばらくすると彼らは法的に結婚していないことがわかってしまったので、その質問がじんわり効いて雪だるまになり子供みたいに好き放題しまくりのいがみ合い見せつけ合いを始めるの。 結果はわかりきっているのだが。

相手を好きすぎるのでひどい仕打ちの連打によって相手の気を惹いて確かめようとする合戦コメディ映画としては“The Awful Truth” (1937)の方がおもしろいかも。でも冒頭のCarole Lombardの寝起きの挙動とか、それだけでじゅうぶんなの。

To Be or Not to Be (1942)

20日、月曜日の晩に見ました。きれいな35mmプリントだった。 これがこの特集で見た最後の1本で、彼女の遺作で、史上最強のナチおちょくりコメディなの。おおむかし、リュミエール・シネマテークでVHSが出た時はすぐに買ったし、その際に映画館で一度だけ上映された – シネセゾンだっけ? - ときも並んで見たし、その後もどっかで上映があると見ている。 何度見てもいくらでも笑えて、冒頭の「ルビンスキー 〜 クビンスキー 〜 ロミンスキー 〜 ロザンスキー & ポズナンスキー」の韻とか、「シュルツ!」とかが耳に残る。

ナチが侵攻してきた頃のワルシャワで劇団をやっている俳優夫婦 - Josef Tura (Jack Benny)とMaria (Carole Lombard) – がいて、そこにナチスのスパイとか若い英国空軍兵士とか戦争の趨勢を左右するいち大事と夫婦の間の浮気した/しない問題とか、劇団の運命とか、ぜんぶが団子にこんがらがって大博打の大芝居がうたれて...  善玉も悪玉も男共はおろおろばたばたしっぱなしなのに対して、Mariaだけが最後まで女神のようにつーんと輝いていて無敵としか言いようがなくて、そこにくどいくらいに被さってくるハムレットの”To Be or Not to Be” - 命がけなんだってば。とにかくめちゃくちゃおもしろいから見て、しか言えない。

それって彼女の映画ぜんぶに言えることで、とにかく彼女を見て、なんだわ。

2.11.2020

[film] Parasite (2019)

9日、日曜日の昼間にPicturehouse Centralで見ました。

ちょうどこの日の晩がオスカーの授賞式で、ノミネート作品群に対する失望感(女性による作品が少なすぎ)の反動というかなにかでたぶんこれが受賞するんだろうな、という確信のようなのがあった - あとアメリカでの尋常とは思えないウケのよさ(あの現象はなんなのか)とかも。 結果はほらねー、だったし。  英国ではこの週末に公開されたばかりでやはり大騒ぎになっていて、でもこの週末の日曜日、ロンドンにはStorm Ciaraっていう大嵐が来てて、気圧がめちゃくちゃで頭がどよーんて半分くらいしんでて、でもがんばって見たの。

道路から半分地下のとこに暮らして生活に困っている一家がおりまして、ある日そこの坊の金持ち友達から自分が海外に行く間英語の家庭教師をやってくれないかと請われたので証明書一式偽造してその家に行ってみるってえとそれはそれは大層なお屋敷で、こいつあすげえやって妹をそこのうるせえガキのアート教師にでっちあげたらこいつもうまくハマって、それならばと車の運転手をお払いして父親を据え、ではこいつもついでにって常駐メイドにも下がっていただいて母親を呼びこみ、一家全員なかよく金持ち一家にぺったりなりすまし寄生することに成功して、いやぁ極楽極楽ってやっているとお屋敷の底からうちのが先なんですけどってぬうっと浮かんできたもんだからさあ大変っ!

こんなふうに貧乏長屋の落語にしたらぜったい面白いお話(最後のほうは除く)で、こんな落語に変態B級ネタを絡めたような作品がオスカーのど真んなかをかっさらうんだからすごい世の中になったもんだねえ、って。

そういえばもういっこの候補だった“Joker” (2019)もそうだし、賞レースとは関係ないけど”Sorry We Missed You“ (2019)とか、(これも米国ですごくウケた)”Burning” (2018)もそうだった。 アウトサイダーの物語ではない、インにもアウトにもいない、”Sorry We Missed.. ”って言ってしまうくらい見えなくなってしまった(ていう言い方自体が既にあれよね)人々を表面に、映像として引っぱりだしてくる、そういうトレンド。それをされても痛くも痒くもない金持ち階級が慈しみの目をもって上空から眺める、そういう構図。 (この点、この映画で不可視な「匂い」がトリガーになっていたり、Wifiの電波とかモールス信号の届く届かないがポイントになっていたりっておもしろいの)

これらの格差社会映画って最後には主人公が銃とかナイフを手にして.. なのだが、その行動はその格差のありようを根底から揺るがすようなところに決して届くことはなくて、見ている我々も「あ、やっちゃった…」で終わってしまう(”Sorry We Missed You“はちょっと違うけど)。ディストピアにおけるエンターテインメントってこういうもんよね、ってしみじみ。

そしてにっぽんには、どんなに貧しくても見えなくされてもいい、なんか身内でほんわかしていればいいかも、っていう別次元 - グローバルには理解されないかも - の地獄が。

映画はふつうにおもしろかったけど、ほんとうは最後、寄生された側のDa-hye (Jung Ji-so)がKi-woo (Choi Woo-shik)をぼこぼこにしてやるべきだったのではないか。“Stoker” (2013)のMia Wasikowskaみたいに。

2.03.2020

[film] 風の電話 (2020)

1日、土曜日の午後、新宿ピカデリーで見ました。(まだ映画泥棒のCMやってやがる)

一本くらい映画 - 日本の映画 - を見て帰りたいなー、って思って、でもそんなに見たいのはなかったのだが、午前中はシネマヴェーラで『足にさわった女』(1952)を見て – どちらかというとシネマヴェーラに行きたかったかんじ - とてもおもしろくて、午後はこれ。

諏訪監督の作品は、2年間の一時帰国の時に『ライオンは今夜死ぬ』(2017)を見ていて、その前の『ユキとニナ』 (2007)も大好きだったので、今回も当然のように見たいし。

冒頭に主人公のハル(モトーラ世理奈)は2011年の震災による津波で父母弟を失って、広島の叔母と一緒に暮らしている、という説明が出る。

ある朝、叔母があれから時間も経って復興したみたいだし一度大槻に帰ってみない? て誘うとハルは固まってしまい、学校を行くのにも叔母とハグしないと外に出れない、そういう女の子であることが描かれる。で、彼女が学校から戻ると叔母は屋内で倒れていて病院に入って、絶対安静になってしまう。ひとり残された彼女はなんでみんなあたしを置いていくのか、って泣いて叫んで工事現場でぐったり死んでいるとそこを通りかかった公平(三浦友和)に拾われて、彼の家でご飯をいただく。

そこを出てひとりでパンを齧っているいると野蛮な若者たちに襲われそうになって、そこを森尾(西島秀俊)が拾ってくれて、彼の用事に付きあってクルド人コミュニティの人たちと会って一緒にご飯を食べて、森尾の両親にも会ってご飯を食べて、彼は大槻まで行きたいという彼女に付きあって車を走らせてくれて、そんな彼自身も震災で家族を失っていることがわかって。

主人公が広島から大槻まで移動して、途中でいろんな人と出会ってゆっくりと変わっていくロードムービー、と言えばそれだけなのだが、ここには戦後から今までの日本(人)の軌跡とか記憶 - 特に後悔 - みたいのがずらりと並んでいて、それらはみんなどこかでなにかしら繋がっていて - そんなふうに見るのが正しいのではないか。

痴呆が進んでいるらしい公平の母が語る原爆で亡くなった人の骨の話、クルド人コミュニティで入菅に収容されたまま戻ってこない夫/パパの話、歳をとると生まれた場所に戻りたくなるもんだと言う森尾の親(西田敏行)、詳細は語られずそこに暮らしていた家族の痕跡(だけ)が残る森尾の家 - ハルはそこで自身の家族の幻影を見る。 みんな自分のせいではない理不尽な力(+自分のせいだと思わせてしまう理不尽さも)によって家族から引き離されて、家族は向こう側にいて - 生死は不明 - でも自分はなんとか/なんでか生きている。

辛いのは君だけじゃないんだからがんばれ、ではなくて。君の家族を想うことができるのは君だけなんだから、君しかいないのだから生きるしかないの、っていう残された者の使命のようなものが示される。 ラストで、ハルはその決意をもって風(の電話)に向かって話をする。それは吹いてくる風の流れに沿って話す(届きますように)、というより風を正面から受けて自分の輪郭を露わにして、こちらからは見えない風の源に向かって会話を重ねようとする。 そこにはもちろん電話線なんかない、絆とかも関係ない。  別れ際、彼女が森尾に自分の本当の名前を告げるシーンはとても感動するの。

『あれから』(2012)を少し思って、あれも震災が分断したこちら側と向こう側の世界のありようを描いたもので、自分自身が風になろうとする女性のお話だったことを思い出す。でも「あれから」から更に時間が経過して、みんないいかげん疲弊して、もう保てなくなってきているかんじはある。両側からの綱引きがー。
そこで唯一、教訓というか秘訣のように繰り返される言葉、生きるんだったら食べないと、が沁みる。うん、食べること。 食べることができれば。

モトーラ世理奈さんが実にすばらしい。幽霊みたいにいつも同じ服で目を腫らしてふらふらまっすぐ歩けなくて、すぐ横になってしまう。元気の反対側 - ああありたいもの。

目とか鼻から大量の汁が流れでたりするのだが、これらは放っておいてよいものなの。

2.02.2020

[log] February 02 2020

今年もあと11ヶ月をきって、今年内はもうこの国に来なくていいのよねたぶん、というのと、これから戻る先はもう慣れ親しんだEU圏内のあの国ではなくなってるのだわ(やや大げさ)、ていうのを噛みしめつつ、Andy Gillももういないのかー、ってしんみりしつつ、羽田空港まできました。

はじめに予約していた戻りのチケットは1日 - 土曜日発ので、週の中頃、がんじがらめピークの時に日曜日発の席が空いたけどどうします? と言われて、お買物とかもしたいかも、と日曜日発に延ばした。そうしてあいた隙間にいろいろ突っ込んでしまった後に、やっぱなんかしんどいかもと思って、更にleave them all behind 2020がああー、あるのを知って泣きたくなったが、泣いてもしょうがないのでできるところまでじたばたした。 いまはぐったりだけど後悔はしない。でももう二度とやりたくない。

7日間、展覧会7つ、映画2つ。出張だとこれくらいが限界だわ。こういうのって初めはノリと勢いで目指すのはあそこのあれだ! って走っていくのだが途中で突然に冷めてしまうことがあって、でも今回はそこまでのは来なかったかも。あーでも本屋とか食材とか漁ってて、これらどうせすぐには読めないよね食べないよね? が少しだけきた。 でも、持って帰れなくて床に積んどくだけでもその養分はきっとどこかを巡って(殴)。

相変わらず、朝の通勤電車には(最初のうち)恐くて乗れなくて、乗ればがんじがらめの状態の視界に拷問のように腐ったような広告が捻じこまれ、たまらずスマホに目を落とせば同様の「プロモーション」と呼ばれる宣伝がどかどか落ちてくる。 ここまで下世話に過剰に異常にやらないと経済が回っていかないのだとしたらあの国はもう相当やばいし終わっているのだとしか思えない。

あとはとにかく消費税ひどい。本屋で何度も目が点になって明細を見返してしまったのだが、あの値段(支払い金額)だと本なんて月3冊くらいしか買えないし、学生さんにはぜったい無理だろうし、そうやっていろいろ歪んで萎んでいっちゃうよね。ふつうなら一揆起こるよね。

こんなふうに国の経済が疲弊してクビまわらなくてしょうもないけど、しょうもないからせめて国の威信を、みたいにふんぞりかえろうとして笑われているのが今の英国なので、次の一年で叩きのめされてみんなが反省するさまを見ておきたい。 いまの時代、国境に線を引いて指をさすのがどれだけ愚かでみっともないことか、などいろいろ。

今日はGroundhog Dayだねえ。 自分がGroundhogだったらぜったい、当分出てきたくない。

今回少しだけ遊んでくれたみなさま、ありがとうございました。 またそのうち。