10.27.2023

[film] Die bitteren Tränen der Petra von Kant (1972)

10月17日、火曜日の晩、菊川のStrangerで見ました。
英語題は”The Bitter Tears of Petra von Kant”、邦題は『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』。

6月にFrançois Ozonによるリメイク - ”Peter von Kant” (2022)が公開された際、(たしか)新宿武蔵野館で少しだけリバイバルされて、それを見逃したのであー見たい、と思っていたやつ。

Rainer Werner Fassbinderによる5幕構成の同名戯曲を自身の脚本で映画化したもの。撮影はMichael Ballhaus。音楽はVerdi, The Platters, The Walker Brothersなど。

最初に見たのは90年代のNYのFilm Forumで、これがFassbinderの映画を見た最初の方だったと思うのだが、当時はまだジャンルとしての”queer”などが今ほど明確にあるわけではなかったので、ここで溢れたり滲んだりしてくるあれこれに対してこれはなに?って思いつつもうまく整理する箍がなかったような。だからずっと再見したかった。

Petra von Kant (Margit Carstensen)は成功したファッションデザイナーで、カメラは彼女のベッドルームから外に出ない。プッサンの絵画 - ”Midas and Bacchus” (c.1630)のでっかい複製が掛かっていて、マネキンとレコードプレイヤーがあって、同居しているMarlene (Irm Hermann)が買い物や郵便物からお茶に針仕事まで、寝起きから適当なダンスまで召使のように使われてまくっていて、でも彼女は最後まで表情を変えず何も言わず。

Petraと別れた夫はもう死んでいて、電話してくる母はお金をせびるばかり、従姉妹のSidonie (Katrin Schaake)とは茶飲み話をする程度で、そんなある日彼女から若く快活なKarin Thimm (Hanna Schygulla)を紹介されると、Petraはあっという間にKarinに魅了されて、ずっとここに住んでほしい、って誘う。

シドニーから戻ってきたKarinは粗野で移り気で落ち着きないふうのビッチ系なのだが、亡くなった両親の悲惨な事件とかシドニーに残した夫からの暴力などの身の上話を聞くとPetraはたまんなくなって、わたしがあなたを一流のモデルにしてみせるから、とか、人生は運命づけられている、人は残酷なもので、でも代替も可能だからとか言い、愛しているから、って告げると隅でタイプをしていたMarleneが一瞬ぴきっ、ってなる。

そこから月日は流れて、KarinはPetraのベッドの上で雑誌を読んでだらだらぼーっとするばかりで、朝帰りしてから一緒に寝た黒人男のこととか、別れると言っていた夫からの電話がありやっぱり会いにいくから旅費ちょうだいって言い出したりとか、そのたびにPetraは嫉妬まみれで煮えくり返り、ぐだぐだになって罵声を吐いても、でも出ていかれたくないので強くは出れずに結果はめそめそいじけるか、Marleneへのやつあたりになるか、えんえんSMをやっている。

Petraの誕生日、Karinからの電話を待って転がって吞んだくれているところに娘のGaby (Eva Mattes)とSidonieがやってきて、更に母のValerie (Gisela Fackeldey)も現れるのだが、ここにいてほしいのはあんたらじゃなくてKarinなんだよ~、って八つ当たりして更なる修羅場が展開されて..  でもやがてすべてが収まってPetraもKarinともう会わなくてもよくなった、と思ったら最後にMarleneが。

Petraが信じてしまったKarinとの結ぼれ、それが解けたと思ったら別のも解けて階段落ちのように全員が転げ落ちるリングのようなベッドとそれを囲む絢爛なインテリアでできた聖なる宇宙。何ひとつ難しいものも言葉もなく、愛と嫉妬と呪いの言葉がびゅんびゅん飛び交ってブルース/艶歌が流れて真ん中の3人をきりきりと活かしたり殺したり、ほんのそれだけの124分、のものすごさ。

“La maman et la putain” (1973) - 『ママと娼婦』や最近の”Passages” (2023)にまで連なる一部屋 - 3人関係地獄絵図の最初の、と言ってよいのか。どの作品にも部屋でレコードをかけるシーンがある。あそこで回しているのは世界というルーレットなのではないか、とか。

同性愛がどうした、というのも特に強調されているわけでも薄められているわけでもなく、それはただの愛 - 常に死と隣り合わせで相手を殺したくなるくらいの、同時に誰にでもすげ替え可能で、まずは自分が生きるために必要ななにかを描くことに精一杯だから、というとっても切ない場所で瞬いていたり。

これを見てしまうとFrançois Ozonのあれは、パロディにすらなっていないすかすかのだったなあ、って。 滑稽すぎて笑いが漏れてしまうくらいの軽さの。

10.26.2023

[film] Killers of the Flower Moon (2023)

10月21日、土曜日の午前、Tohoシネマズ日本橋で見ました。IMAXの方がよかったのかもしれないが、Dolby Atmosのでよいことにした。3時間26分。

監督Martin Scorsese、原作はNew Yorker誌のライターだったDavid Grannによる2017年の同名のノンフィクション。 邦題は『花殺し月の殺人』でよかったのに。脚本はEric RothとScorseseの共同、音楽はRobbie Robertson – すばらしいったら。

冒頭、サイレント初期のフォーマットでオーセージ族が油田を掘りだして住民全員が裕福になって町が作られて、の図がさーっと描かれる。1910年代から20年代のお話し。

そこに第一次大戦から戻ってきたErnest Burkhart (Leonardo DiCaprio)が弟のByron (Scott Shepherd)と叔父のWilliam Hale (Robert De Niro)を頼ってオクラホマにやってくる。彼はオーセージ族が中心となってビジネスや政治やマネーを動かしているこの町でそれなりの地位と人脈を築いて土地と家も持っていて、Ernestに自分を”King”と呼んでよい、と言ってまずは運転手の仕事を与える。

この時代のオーセージ郡での大きなふたつの勢力 - オーセージ族と白人 – が支配しているコミュニティの断面と、その勢力図がどう変わっていったかをScorseseの得意とするギャング映画の手法 – 大ボスがどんなふうでどう動いたか、というよりその半端な手下や「ファミリー」がなにをしていって、結果どうなってしまったのか、を中心に描く。ギャング映画なので当然人を殺したり殺されたりが入ってくるのだが、それをはじめから犯罪として描くのではなく、ここに参加する全員が自分の属する組織の倫理や規律に従って動く、そういうかたちで自分たちの領域・領土を広げていっただけなのに、最後にはそれのなにが、どうして悪いのか? を問う法廷まで行って、最終的には国の罪とかありようを問う、というところまで。

この映画についていろんな人たちがすごい、って言っているのは、このような描き方をすることで、いまのアメリカの存立とかあり姿そのものを問うかたち – 本作では細かく描かれていないがここに立ちあがったFBIのミッションがどう関わっていたのか等も - になっていること、だろうか。長すぎるとか、視点が片方に寄りすぎているとかその深さ・粗さとか、いろいろあることはわかるものの、ネガティブなとこも含めて片側から盛れそうなものはぜんぶ盛って、最後に監督自身が喋って締める。いまこれだけの規模と濃度の、絵巻みたいな映画を作れる人はいるのか – で、その先はみんな大好物なScorseseのフィルモグラフィとの対比や解析へと―。

Kingは自分の領土となりそうな周囲を見渡してErnestにMollie Kyle (Lily Gladstone)はどうだ? ってはじめは柔らかく薦めて、彼女の母&姉妹が持っている膨大な土地(石油入り)の権益を - 自分の囲いに含めて持っていこうとする – もちろんそんなことストレートには言わない。ただわかっているよな、っていう言い方と、それを受けてバカ正直なErnestが眉間に皺を寄せてうんうん、って考えてがんばる。

やがてErnestとMollieはめでたく夫婦になって子供もできて、それと並行して彼女の家族 - 母、姉、妹、などが不審な死に方 - フクロウ! - をしたり明らかに殺されたりしていって、その理由や事情をErnestもMollieも、それぞれの「立場」にあるものとしてわかっているのだが、それがふたりの間に決定的な亀裂を生むようなことはない。なぜならふたりは愛しあっていたから、というのと、Mollieには糖尿病があって当時高価だったインスリンの投薬にちょっと細工すれば彼女を殺すのはたやすいことだったから(放っておいても..)。でもそれでもMollieがワシントンDCから捜査官のTom White (Jesse Plemons)を呼ぶと…

自分たち家族に入り込んだ白人たちの謀略を知っていても知らなくても、Mollieはおそらく自分の愛のために、自分が生き残るために別の白人の助けを必要としていることもぜんぶわかっていて、あらゆる裏工作をはねのけてその砲撃が炸裂してすべてをばらばらにする終盤の法廷シーン – 検事John Lithgowと弁護人Brendan Fraserの対決 – は見応えがある。合衆国に別の方角から異なる倫理が持ちこまれて新たな秩序 – というかカオス(by FBI)がぶちこまれ、戦いは次のステージへ(行っていない)… 流れる血の総量はおなじか? みたいな。

これの翌日に日本橋でNTLの『善き人』を見て、国も時代も規模も違うものの、ここでのErnestもKingも、”Good” - 「善き人」としてあろうとしたし、あの世界のあの世界ではそう認知されて幸せに暮らして、それをやりつつ扉の向こうでは民族の大虐殺に加担していた… そういう振るまいが「善き」とされていた、と。

グリーディでおしゃべりで愚鈍な白人、を演じさせた時のLeonardo DiCaprioってますます鉄板の無敵になってきたな、っていうのと、それに対峙するLily Gladstoneの身も心も座った強さとかっこよさと。

最後に献辞がでるRobbie Robertsonの音楽は原油のどろどろと上澄みの乖離と混濁を幾層にも重ねて、それをここ100年のスパンに花のように散らしているかのようだった。

Jack WhiteとかPete Yornも出ていたのね。

10.25.2023

[film] The Creator (2023)

10月20日、金曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。
金曜日の初日に“Killers of the Flower Moon”とこれと(殺人者 or 創造者)どっちを見るべきか、問題はこっちにした。あんま考えなくてよさそうだったから。 『ザ・クリエイター/創造者』

監督は”Rogue One: A Star Wars Story” (2016)のGareth Edwards – デビュー作の“Monsters” (2010)からずっと好き。”Rogue One”も。彼と共同脚本で“American Pie” (1999)や“About a Boy” (2002)のChris Weitz。Gareth Edwardsのランドスケープをまるごと描いて、その地平線を貫いてやってくる怪物とかその足元で抗う異形の – だいたい反体制だったりする - 人たち、という(いかにも、なガキの)構図も含めてなんか好きなの。

2055年、AIがLAで核弾頭を爆発させて、西側諸国はこれをAIによる人類への攻撃とみなして対AI戦争を開始、そこから5年が過ぎて、戦争は止まずに寧ろ広がりAIを平和に活用して共存している“New Asia”を中心としたアジア諸国への戦争・侵略に近いものになっていた – かつてどこかで聞いた/いまも聞こえる - そんなおはなし。

米軍兵士のJoshua (John David Washington)は身重の妻Maya (Gemma Chan)とNew Asiaの海辺の町に平穏に暮らしていたが裏の任務はやばいAIを創り出したクリエーターである”Nirmata”を探し出すことで、その任務がある晩の米軍による急襲によりばれてしまい、取り乱したMayaはひとり船に乗って沖合に逃げだしたものの、軌道上でミサイル爆撃する米軍の最終兵器NOMAD(North American Orbital Mobile Aerospace Defenseだって。デススターとしか思えない)によって一瞬で消されてしまう。

そこから更に5年後、LAのグラウンドゼロで清掃作業員をやっていたJoshuaは軍の幹部に呼ばれてNirmataがNew Asiaで新たに開発したAI兵器を破壊するミッションを打診される。やる気なんてなかったが、Mayaが生きている可能性がある、と証拠らしき動画を見せられる(それをなんで疑わないの?)と彼は軍と一緒に現地に向かって、泥沼のなか敵の施設に入ることに成功して、狙っていたAIロボット「シミュラント」を見つけるのだが、それは穏やかな少女の顔かたちをしていて、すぐに破壊することを躊躇っていると軍がやってきて、Joshuaは自分でもわけわからないままに”Alphie”と名付けた彼女(Madeleine Yuna Voyles)を連れて敵と味方が入り乱れる戦場を突っ切っていく。彼はなんとしてもMayaに会いたい、っていう一心で、戦争がどうなろうが人間が負けようがどうでもよくて、Alphieをつれた子連れ狼になってしまったのもそのせい。

ここから先はJoshuaとAlphieを捕まえようとする圧倒的に多勢の米軍(+NOMAD)と、彼らを匿って一緒に戦うAI+アジアの民の戦争のぐしゃぐしゃで、そのなかでAlphieが両手を合わせてお祈りすると兵器が無効化される能力が明らかにされたりするものの、最後にふたりは捕らえられて米軍の施設に送られて…

”Rogue One”でもそうだったけど、森や林の奥からなんかが出てくるぞ、っていうようなシーンはぞわぞわしておもしろいのだが、それ以外の戦闘描写になるとなんかテンションがもたなくて間延びしてしまうかんじになるのはなんでだろうか?

人物造形があまりに並みでふつうで、悪賢いアメリカ軍、アジア系のピュアな美女、AIまで温かくて優しそうなアジアの人たち、彼らを搾取して支配下に置こうとするアメリカ、軍を蹴っ飛ばして逃げる黒人不良兵 - ってベトナム戦争の頃からずっとあったような構図だなー、とか。この「戦争」にイスラム圏の各国はどう絡んだのか – ぜったい絡んだはずなのに周到に外しているよね、とか。

その辺はきりないので別によいのだが、やはりなんといってもAlphieにもっとどかどか派手に破壊してほしかった、ということに尽きる。(英国に貼ってあったポスターのコピーは、”Created to save us”の”save”に太い赤の取消線が引かれてやはり真っ赤の手書きの”DESTROY”が殴り書きされてて素敵だった) Groguみたいに狙わなくていいから、機械としてクールにぶちかまして破壊しつくしてくれたら、どんなに気持ちよかったことだろう。

これと同じように、Ken Watanabeには”The Last Samurai” (2003)をもう一回やってほしかったのにー。
ロボットだから死なないのね…

あと、AIによる核爆発はコーディングミスだった.. ってまじ? 2050年になってもまだ誰かがコード書いてるってこと?  ← ここが一番お先真っ暗だったかも。

あと、最後はあまりに“Oblivion” (2013) + “Rogue One”すぎて、ここもなんかの症例じゃないか、とか。こんなふうに新しいなんかはまーったくないのだが、でもそれでもどんなにがんばっても大作感のでないジャンクっぽいとことか、好きかも。

10.24.2023

[film] Hunt (2022)

10月15日、雨ざあざあの日曜日の午前、グランドシネマサンシャイン池袋で見ました。
もう他ではやっていなくて。邦題は『ハント』、原題は”헌트”。

「イカゲーム」(みてない)に主演していたLee Jung-jaeが脚本を書いて初監督して主演もしている80年代の朝鮮半島を舞台にしたスパイ・アクションもの。

冒頭の舞台は80年代前半のアメリカで、韓国安全企画部(旧KCIA)の海外班長(対外肩書は次長)Park Pyong-ho (Lee Jung-jae)と国内班長(対外肩書は同じく次長)Kim Jung-do (Jung Woo-sung)が訪米中の韓国大統領の身辺警護にあたっていたのだが、テロリストがなだれこんできて一触即発の間一髪になり – Kimが犯人を射殺した - どこからどうやって場所の情報などが漏れたのか? - ぜったいなんか漏れてる – となり、KCIA内に二重スパイが潜んでいる疑惑が立ちあがり、情報部長はふたりにぜったい突きとめろ大統領になんかあったらどうする、って騒いで、もともと同じ組織のライバル同士だったParkとKimは互いに絶対向こうが怪しい・あいつが黒だ、って思っていて、それぞれのチームを率いてそれぞれに仁義なき探り合い騙し合いを始めて、そこに軍人だったKimの過去とか東京で起こった銃撃事件のこと – そこでの怪しい/謎のままになっている動きや人物、などが次々と明らかにされたり暴発したり、その反対側で決定的な証拠を持っていたり証人になりそうな人はあと少しのところで端から殺されたりいなくなっていたりで闇に消えていく。どこからか覆ってくるそんな闇をずっと相手にしているかんじ。

背景として80年代の北朝鮮と韓国の緊張関係や韓国の民主化運動などがあり(カンヌでのプレミア後、この辺を説明するために会話などが追加編集されたそう)、ここには冷戦時代のような厳格で動かしようのない「壁」があるわけではなく、民族の歴史なども踏まえて単純に善・悪に割ったり振ったりしきれないところもあるのだろうか - エモーショナルなところも含めていろいろ噴きだしていくので、画面上では怒鳴りあったり小競り合いしたり殴りあったり殺し合ったりが続いて相当に混みあっていてやかましい。のと、(自分がわるいのだろうが)中心のふたりが同じように見えてしまうことが多くていちいちえーとこれはどっち? になってしまうのだった。

はじめのうちはややPark寄りの視点で推移していくので、いつKimがその正体を、どのタイミングでどんなふうに現すのか、という重みづけをしつつ見ていくと、終盤の混乱と共にだんだんにわからなくなってきて、クライマックスのアジアのどこかの国での大統領が出席するイベントでのどんぱち – これが本当に起こったら軽く戦争になったっておかしくない – で泥沼的に明らかになって、それはそれはいろんな坩堝の泥沼であることがわかり、あーそうだったのか、と。

あれこれ筋の持って行き方は強引だしごちゃごちゃだし、ジャングルからのも東京の街中での銃撃もあんなふうに起こりうるとは思えないのだが、同じようなスーツを着てどっちがどっちを撃っているのかわかっているように思えない主人公たちの何かに取り憑かれてうなされた熱が終点 - にあるのはなにか? - まで彼らを走らせて、これは付いていけない、になることはない(当時を知る現地の人がどう思うかは.. どうなのかしら?)。

あと少しだけル・カレのスパイものにある非情や冷酷が、巨岩のように唐突に落ちてくる無念や絶望があったら.. って思わないでもなかったが、そもそもまったく異なる土地や人々の話なのだしー。

過去の映画の銃撃シーンやアクション映画からもっと学んだり最近のハリウッドから人を招いたりしてシンプルにスタイリッシュな画にすることだってできただろうし、それができていたら、と思わないでもないが、この最後まで全員がごだごだを抱えてリレーしながら一気に走ってしまう(デビュー作の?)勢い、これはこれですごいのではないか、って。

最近の邦画のしょうもない予告にある、どう見てもなんかの病を抱えているとしか思えない気持ちわるく暗いああいうの(あれってなんなの?)よか10000倍こっちの方がましだと思った。

10.23.2023

[film] James Benning

イメージフォーラムで行われた特集『ジェイムズ・ベニング 2023 アメリカ/時間/風景』から10/7, 9, 11で6本(全8本のうち。”RR”は昔みていた)見ました。

例えば、アメリカ合衆国を撮る、それを写真ではなく映画用のフィルムで撮ろうとなったとき、どんなふうに撮っていくことになるのだろうか? “The United States of America” (1975)や”RR” (2007)のように車に乗った自分が動いていく軌跡を撮る、あるいは自分の前を通り過ぎていく列車を撮る - 写真ではなく、やや高速のスライドショー、というよりある数分間のレンジでの音も含めたその場所や土地の光や音の現れ方、みたいのを捕まえてみること。そこには見る側/見られる側の意図や思惑もあるのだろうが、まずはその風景/ランドスケープ or アメリカ - でもなんでもよいけど、それってそもそもなんでそんなふうに映りこんでくるのか? (What)

そしてそんなふうな風景が目の前にある/いる っていうとき、それはどれくらいの確かさで「ある」って言えるものなのか? それが、いまの自分のまえにあって多少の風や光や天気に揺らされながら、自分の側も同様の不確かさやなんらかの意思や意識や歴史的ななんかなどを携えてカメラを置いてその傍に立つことのありえない、驚異と共にあるかんじ - 更にそうやって撮られたものがはるか彼方の国の映画館の暗がりの中で映写されて、1時間くらい映しだされてそれを縁もゆかりもなさそうな国の「観客」が見る、と。そんなの見てなんになる? の極北、というか。 (Why)

そこには勿論、彼がその風景を撮った政治的なのも含めた意図や構想があり、それが実際の構図や構造として現れて、その繋がりや一貫性が彼を「実験映画」作家たらしめているのだが、そんなことを頭に入れておかなくてもなんだかおもしろいの(後で知ったら二度おいしい)。

撮られた映像(の並び)に全てをこめる.. ではなく、撮られた映像と現時点のありようを結ぶ/結び目が見えるようにしておく – その「現時点」は当然人によってばらばらで構わないし、というほったらかしにしておく風通しのよさ、もある。

James Benningの映画を見ている1時間〜2時間の間というのは彼の映画のなかで吹きまくる風と同じように、こんなふうにいろんな問いが右から左からぶつかってきて普通に景色を眺めるのの数倍のおかしなことが頭の中では起こる(当人比) - ので見る。 デートにはたぶん向かない。


Allensworth (2022)


現時点での最新作。Allensworthは1908年にカリフォルニア州で最初に作られたアフリカン・アメリカンによって統治された自治体があった土地で、そこの1月から12月までの景色を寒そうな荒野から始まって寂しく荒れた墓地まで、5分間 x 12ヶ月で。

途中、8月に公民権運動最中のElizabeth Eckfordがたったひとりで学校に着ていった服(のレプリカ)を着た女生徒がLucille Cliftonの詩を読んだり、Nina Simoneの”Blackbird”やLead Bellyの”In the Pines”が流れたりする。現在の地点から見たかつて何かが起こっていた土地の記憶、とはどんなふうに映像として残されるべきなのか、という考察。


11 X 4 (1977)

タイトルは印画紙のサイズで、1分間のが66のショット、このスタイルで撮りはじめた最初の頃ので、空港とかホテルとか、絵画的なプレゼンスとの対比でなにをどんなふうに映しだすことができるのかについて、まだ散文調 - スケッチ風に並べているような。 Bob Dylanの”Black Diamond Bay” (1976) が2回流れる。


El Valley Centro (1999) ~ Los (2001) ~ Sogobi (2002)

この3本で、The California Trilogyをなす。どれも2分半 x 35ショットの90分で、各作品のエンディングの景色は続く作品のオープニングのそれに繋がっている。

“El Valley Centro”は水源とか農地とか、それらの「供給」の源が既に大企業に囲われた政治経済の景色と化している様を、”Los”はそれらの恵みを受けて、消費と共に広がった都会のイメージを、”Sogobi” - ネイティブアメリカンの言葉で「大地」 - は、改めて振り返る形でそもそものカリフォルニアの土地がどんなだったのか、を示す。よいわるいとかではなく、西海岸… とか。

各ショット2分半、というのがなんか絶妙なサイズで、電車の一駅分くらいの時間が経つと車窓の景色が切り替わっていく – もちろん、それでよいのか? ずっとこれの繰り返しじゃないか? は問われるべき(誰にたいして?)。


Casting a Glance (2007)

1970年4月、ユタ州グレートソルト湖北東部にRobert Smithsonが作成したランド・アート作品”Spiral Jetty”の様子を70年代から00年代まで16回に渡って撮って繋いだもの。水位が高くなって水没しているとき、現れて犬や人が歩いているとき、天気のよいときわるいとき、近くから遠くから、廃船のようだったり古生物の化石のように見えたり、四季が変わっても世紀が変わってもそれでもずっとそこにあって、一見すると自然の一部になってしまったかのような、シダの螺旋のような人工物 – おもしろいなー。

唐突にGram Parsons & Emmylou Harrisの“Love Hurts”が聞こえてきたり。


今回紹介されたのは彼の膨大なフィルモグラフィーのほんの一部でしかないので、もっと見たい - しかないわ。

10.20.2023

[film] The Equalizer 3 (2023)

10月8日、日曜日のごご、Tohoシネマズ日比谷で見ました。
遅れを取り戻すシリーズ。クマ →リチャード三世 → デンゼルという必殺・悶死の流れ。邦題は『イコライザー THE FINAL』?

監督は前2作と同様Antoine Fuqua。もはやキャラクターの説明なんて、なんもいらない。ちりちりした電磁波のような音の波と画面のアブストラクトな暗さが導くところに自動で導いてくれる。

イタリアのシシリーで、ワイナリーの主人Lorenzo Vitaleとその孫が車で自宅のワイナリーに戻る途中、家の近所まで来ると彼は異変を察知したのか孫を車に残してひっそり静かな屋敷に入ると、ホラー/スプラッターで食い散らかされたようにいろんなポーズや表情の死体が転がっているのが見え、来たな、って思うとやっぱりRobert McCall (Denzel Washington)が現れてあっという間にぐさぐさって片付けられてしまう。

で、外に出てきた孫を見かけて、彼には手を出さず車に乗ろうとしたら後ろからこいつに撃たれて(孫はそのまま消える)、こいつは痛いな、って顔をしてから持っていた銃で自殺しようとするのだが弾が切れていたのでついてない、と横になり – 暗転 - 次のシーンでは本土にたどり着いた車から降りて – 暗転 - ベッドで医者に診てもらっている。なんとか助かったらしい。

ここまででRobert McCallとは何者なのか、彼はよき者なのか悪い者なのか – この問いは後で反復されて効いてくる – が一切わからないのだが、この後、医者に助けられた彼がリハビリをしながら階下のカフェでお茶(コーヒーにしなさいよ、って言われる)を飲んだり、通りの魚屋と仲良くなったりしていくシーンを見ていくと、もうああいうことから足を洗った/洗おうとしている過去を捨てた人のように見える。でも魚屋が地元のあんちゃんぽい不良から虐められているのを横目で見て、やがて明らかに放火で焼けだされてしまって嘆き悲しむのを見ているうちに、その不良に小声で静かにやめといたほうが… と言ってうるせーんだよおっさん、てなった後の。🔪

と、冒頭のワイナリーでの殺戮の件の背景や実情が明らかになっていって、やがてCIAのエージェントCollins (Dakota Fanning)のところに匿名の電話が何度もかかって、この件についての指示、とは言わないまでも、ここはこうだからここを当たった方が、のようなことを言われると、”Why Me?” って彼女は返す。あんたは誰? なんであんたはこの番号を?

ここまで - 今回のヤマの全貌が見渡せるようになるまで & 小さな町のちんぴらが山の小ボスに焚きつけられて街角に煮あがってくるまで - が、McCallが町の狭く急な階段を自力でどうにか上れるくらいに回復していくゆったりとしたペースに同期しているかのようですばらしく、しかもそれはいきなり沸騰するのではなく臨界点もなにもなさそうに赤子の手をひねるかのように気がつけば手元で炸裂して相手を魚のように殺してしまうので震えるしかない。病みあがり、というかあんな重症を負った直後なのになんで? 彼はEqualizer – 平らにするひと - だから、という平熱ぺったんこの不気味さとじわじわくる恐怖と。

冒頭のところを除けば、過去に西部劇などで描かれてきた平民を虐めるならず者たちをどこからか現れた流れ者が懲らしめて去っていく構図のそれなのだが、McCallの静けさと不穏さ、総体のやばいかんじは子供だったら我慢できなくて泣きだす(シンプルに怖い)。自分が見たなかだと”Pale Rider” (1985)なんかに近いかも。 ただMcCallの場合は、その土地から去らずにおそらくそこに残る。でもここから先はわかんないよね。あんな素敵な隠し本棚があったアパートを去ってしまったのだから、とか。

でもここに残ったとしても相手はシチリアのマフィアだからそれなりにしぶといはずだし、Denzel WashingtonとDakota Fanningのふたりが約20年前のメキシコでどんなだったかを知っている我々としては、Dakota Fanningを抱きあげて救出するDenzel Washingtonの姿をもういっかい見ないわけにはいかないの。だから”The Final” なんてのはカケラも信じなくてよいのだと思った。

10.19.2023

[film] The Lost King (2022)

10月8日、日曜日の昼、日比谷シャンテで見ました。邦題は『ロスト・キング 500年越しの運命』。

監督はStephen Frears。原作は主役のPhilippa Langley(共著)による"The King's Grave: The Search for Richard III”を、出演もしているSteve CooganとJeff Pope が脚色している。 楽しい音楽はAlexandre Desplat 。 登場人物も含めてぱりぱりの実話、駐車場の下から見つかったリチャード三世の骨、の話はその異様さも含めて結構なニュースになったのでまだ憶えている人も多いのでは。

2人の子供を抱えて会社勤めをしているPhilippa Langley (Sally Hawkins)は自身の障害を抱えてがんばってきたものの会社での昇進はもはや絶望的で、家から出ていった夫のJohn (Steve Coogan)は子供たちの面倒は見てくれるものの生活費の補助までは無理(だから働け)って言ってきてこの先どうしたものか、になっている。

そんなある日、子供の付き添いで行ったシェイクスピアの『リチャード三世』のお芝居を見て、世間的には不細工で傲慢で残忍で王の系譜図のなかではみんなの嫌われもの、とされてきた彼って、そんなような悪意ある対抗勢力の何者かによって捻じ曲げられて見られて伝えられてしまっただけで、本当はそんな人ではなかったのではないか、と、舞台上で彼を演じる役者と目が合った瞬間にふと思ってしまう。

気になってきたのでエジンバラの古書店(あそこたぶん行ったことある)でリチャード三世に関する本を買って、パブでリチャード三世について語りあうおたくのサークルに入ってぶちまけるように話してみると、彼女が思ったことはそんなに間違っていないような気がしてきて、嫌われ者とされてしまった彼の墓が見つかっていない件も気になりだすと、彼のあの目が探してくれ、って訴えているような気がして、自分で調べて専門家にも当たってみると、範囲とやるべきことが絞れてきた気がして、その場所に行ってみるとそこは社会福祉事務所の駐車場でアスファルトで覆われていて、でもそこのある一画の”R”ってマークされたとこ - ただの”Reserved”なんだけど - で何かが彼女に触れた - 気がした。

すべてが「そんな気がして」、に突っつかれて動かされて会社にも行かなくなってしまう彼女の目の端にはあの舞台にいたRichard (Harry Lloyd)が頻繁に現れてこちらをじっと見つめて何かを語らんとしているようになり、周囲は前からそんな気配はあったけどPhilippaはいよいよおかしくなっちゃったのかも、と距離を置くようになっていく。 この辺、客観的に見れば少女漫画的な妄想に突き動かされたちょっとかわいそうな女性の物語、のほうに転がっていくかと思うのだが、Sally “Happy-Go-Lucky” Hawkinsの痛みを抱えつつも笑いが強張ってしまっても前を向いて歩いていくすばらしい演技がひっくり返す、とまでは言わないが有無を言わせずにぐいぐい引っ張っていくので目を離すことができない。

やがて彼女の熱がとうとう考古学者と市当局を(それぞれの思惑はあるものの)動かして駐車場を囲って穴掘り部隊を呼びこみ、その資金が足らなくなってきたらクラウドファンディングが炸裂して補ってくれて、そしてある雨の日、ついに王が…  いつも彼女の視界にやってきたリチャードが馬に乗って堂々と登場するシーンは、ちょっと素敵でいいなー、ってなる。

そして一旦そんな「発見」に値する何かが現れるといろんな連中がやってきて彼女の手から手柄を引き離そうとする - この辺はRalph FiennesとCarey Mulliganの”The Dig” (2021)で描かれたSutton Hooの遺跡のと同じような。 英国における勝手に埋めたくせにわかんなくなって、掘りだして騒ぐ、犬かよ…問題というか。

失われた王の、その失われた何かを発見した女性は、彼女自身の失われた何かも.. っていうドラマの方に安易に持っていくというよりも、単に好きになって見つけたいと心底思ったものをついに見つけたんだ! っていうその不思議なパワーと歓喜の方を見るべきなのではないか、って。

でもそれよりも、なんといってもSally Hawkinsだなー。 彼女が次のPaddingtonに出ないのは本当にかなしい。

10.18.2023

[film] Cocaine Bear (2023)

10月8日、日曜日の午前、Tohoシネマズ日本橋で見ました。
英国に行っている間にいろいろリリースされてしまったのを端から追っかけていくシリーズ。 邦題は『コカイン・ベア』。

1985年12月、ジョージア州捜査局は体重175ポンドのクマがコカインのオーバードーズで死亡しているのを発見する。そのコカインは同年9月11日にパラシュートを身に着けた状態で死亡していた密輸業者が運んでいたものと思われ、彼が持っていたキーはノースカロライナ州で発見された事故機のそれと一致した。

という小さなローカルニュースを膨らませた熊パニック/コメディ – 血が飛び散ったり腸が出たりするけどそんなに怖くない - 映画で、監督はElizabeth Banks – なら見ないわけには。

冒頭、飛んでいる小型機の機内でハイになっている男が陽気にべらべら喋りながら積み荷を次々と投げ下ろし、自分が降りようとしたところで頭をぶつけて落っこちる(ギャグ)。その荷物=コカイン付きで落ちて死亡した男を見た地元の警察官Bob (Isiah Whitlock Jr.)は、こいつが運ぼうとしていた麻薬の取引には麻薬王のSyd (Ray Liotta)が絡んでいると睨み、Sydは取引先 - コロンビアだかエクアドルだか – を怒らせたらやばいのですぐに回収してこい!って部下のDaveed (O'Shea Jackson Jr.)たちに指示をだす。

そんなある日、山中を幸せそうにハイキングしていたOlafとElsaのカップルがテンションのおかしいクマに遭遇し、Elsaはかわいそうに食べられてしまう(Let It Go~♪)。

ジョージアでDee Dee (Brooklynn Prince)と看護婦をしている母のSari (Keri Russell)がいて、絵を描くのが好きなDee Deeは友達のHenryと学校をさぼって森の奥に向かっていくと捨てられたように散っていたコカイン袋を見つけてなにこれ? ってやっていると木陰からクマが。消息を絶ってしまった二人を探してSariはパークレンジャーのLiz (Margo Martindale) と動物保護活動家のPeter (Jesse Tyler Ferguson)と一緒に森に入って子供たちを探し始める。

Sydの指示を受けたDaveedはSydの息子のEddie (Alden Ehrenreich)と山の方に散らばっているであろうコカインを探して森に入って… こんなふうに、いきなりクマにやられる者、コカインに触ってクマに追われてしまう無垢な子供、その子供を探す親たち、コカインそのものを追うギャング、それを追う警察、などなど腹黒いもの善きものが混在して彷徨う森に、コカインにやられてしまったなんも考えていないクマ & 子グマが現れて目の前にいた人たちを襲い始める。

狂ったクマが無差別に人を襲っていくことの恐怖、というよりは、なんの因果か森でそんなのに遭遇してしまってついてないざんねんー、という方に力点があるような気がする。出会って騒げば襲ってくるのは野生動物の正常動作だし、このクマはコカインを求めてなのでしょうがない(ヒトだって同じだろう)、とか。ドラッグはクマもヒトも滅ぼすのでやめようね、というのはどこでも同じで。

シチュエーションとしては巻きこまれ型のコメディで、天からコカインがあんなふうに落とされなければクマもヒトもあんなふうにはならなかったのに。すべてはドラッグがわるい。ゴジラだって原爆が落とされなければあんなことには、だったし。そういう点では、ここのクマはそんなにものすごく狂っていなかった・モンスターではなかったという点は賛否あるかも。でもクマなのだからそれでよいのかも。(えんえん) 

そうしようと思えばできただろうに、森の奥にどす黒い何かが蠢いているかんじはなくて、全体としてはほんのりやさしいかんじもする。この辺はElizabeth Banksさんではないか。

こないだNHKでやっていたOSO18のもこれと同じように、コカインではなく肉の味を覚えてしまったクマの話だよね – かわいそうで見れなかったけど。クマの肉、おいしいと思うけど。

マーマレードにやられてしまったクマが巻き起こす恐怖のファミリーコメディがPaddington、てことよね。

“The Florida Project” (2017)の無敵の娘Brooklynn Princeと”Waitress” (2007), ”Austenland” (2013)のKeri Russellの母娘は最強だと思った。続編にも出てきてほしい。そして、RIP Ray Liotta…

エンドロールではやっぱり”White Line”が流れてやったー、になるのだがなんかかんじがちがう.. って思ったら”(Rerecord)” だって。 オリジナルバージョンをAMラジオの帯域で爆音で流してほしかったなー。


10.17.2023

[film] Theater Camp (2023)

10月7日、土曜日の昼、渋谷のシネクイントで見ました。『シアター・キャンプ』

本作で主演もしているMolly GordonとNick Liebermanの共同監督によるモキュメンタリー/コメディ。今年のサンダンスで絶賛されて、U.S. Dramatic Special Jury Award Ensembleを受賞しているバックステージもの。

NY州の北の方でシアター演劇の上演をテーマとしたサマーキャンプ - だから「シアター・キャンプ」 - が行われていて、それを立ちあげて毎年主宰していたJoan Rubinsky (Amy Sedaris) がキャンプの卒業生のイベントで発光したストロボライトにやられて昏睡状態に陥ってしまう。

彼女の息子で演劇より起業とかそっちに興味があるぼんくらのTroy (Jimmy Tatro)がキャンプにやってくるのだが、Joanの後を継ぐつもりはないしこんなのとっとと畳んだほうがよいくらいに思っていると、母の溜め込んでいた負債の山を発見して、これはもう無理、ってなっているとキャンプ場の土地に興味があるらしい金融コンサル企業がコンタクトしてきてTroyのあほんだらは…

というきな臭い話を背景に、病室にいるJoanのためにもがんばろうよ! ってキャンプの最後に披露するオリジナル・ミュージカルを”Joan, Still” - Joanの一代記に決めて気勢をあげる個性的なスタッフ - ここのキャンプの卒業生で演技指導担当のAmos (Ben Platt)と作曲・歌唱担当のRebecca-Diane (Molly Gordon)のふたり – 元恋人同士だったがAmosがゲイであることがわかって別れた - を中心に集まってきた芸達者のそうでないの、いろんな大人たち子供たちが紹介される。

スタッフの方には配線から小道具までなんでもこなす万能テック屋のGlenn (Noah Galvin)とか、履歴書は嘘まみれなのになぜか生徒を教えはじめている人とか、普段は完全に大人相手のやばい芸人みたいな連中とかいろいろ背負っているようだし、子供たちは子供たちで当然のようにスターを目指している子からぜんぜん演劇好きじゃなさそうな子から、父子の間になにかありそうな子から、既にステージ袖にいてマネージャー面している子から、やはりいろんなのがいっぱい、どたばたのカオスでアナーキーすぎて熱病のようになって目が離せなくて - 台詞はすべて即興で70時間分を撮ったそう - 初めはまったくの他人事で距離を置いていたTroyですらつい手を出して怒られていたり。

キャストを決めて台本と曲を書き始めてから発表まで3週間で、リハーサルと並行して台本や曲を書いていくような自転車操業で、Rebecca-Dianeは曲を書くスピードがいつもより遅くて、最後のリハの時がきてもフィナーレの曲を書けないまま放置して消えてしまうし、主役のJoanを演じるはずだった子は本番直前に別のオファーを受けて嬉しそうに消えちゃうし、地元のお金持ちを集めた資金調達のパーティは大失敗するわ、Troyは金融コンサルの女性と寝た勢いで土地の売買契約にサインしてしまうわ。

これではもう上演不可だな、ぜんぶ終わりー、って天を仰いだところでまさかの修理屋Glennが驚きの変貌を遂げて(これも修理か)奇跡の大団円へ、という、バックステージの底抜け大混沌、こんなキャンプのごたごたこそがとんでもなく演劇的に迫ってくるのでした、と。チラシのヴィジュアルだけ見ても何の話だかちっともわかんないごちゃごちゃで、サマーキャンプにもシアター演劇にも触れたことがない、そんなのどうでもよい人にはなにが楽しいんだか、になるのかも知れないが、大人も子供も自分の好き勝手にやりたい放題 - あまりこの映画用に演技をしているふうには見えない - みんな目を剥いて走り回ってどこにどう落ちるのか予測がつかなくて、こんなのをよく92分に纏めたなー、って。

夏の毎日、みんなで演劇をつくっていくこととかキャンプで過ごすことの楽しさ、ってあるんだろうなー(実際にはひどい虐めもおそらく)、もし子供の頃にこんなキャンプに参加できていたら、もっとよいこになって人生も変わっていたかもなー、って少し思った。そういう勢いのこもった楽しい一本でした。

10.16.2023

[film] Teenage Mutant Ninja Turtles: Mutant Mayhem (2023)

9月23日、土曜日の晩、109シネマズ二子玉川で見ました。
邦題は『ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!』。

監督はJeff Rowe、共同脚本にはSeth Rogen & Evan Goldbergの”Superbad”組の他、”Pokémon Detective Pikachu”を書いたDan Hernandez & Benji Samitなど。

Mutant Ninja Turtlesの劇場公開版としては7つめになるそうだが、過去のはどれも見ていない。どう見ても、あまりにも子供向けだしなんで亀なのか、なんでミュータントの亀が忍者なのか、そんな忍者なのにカンフーをやるのか、等々。今回のは音楽がTrent Reznor & Atticus Rossなので見る、ほぼそれだけ。豚と同じように亀も料理してくれるのではないか、とか。

NYにあるなんかの研究所の重役で悪そうなCynthia Utrom (Maya Rudolph)が突然変異の研究をしながらいろんな変異動物ファミリーを作ろうとしていた狂った科学博士Baxter Stockman (Giancarlo Esposito)の研究成果を横取りすべく部隊を送り込んだらどんぱちになって爆発が起こって、博士は育てていた生物をNYの下水道に流し捨て、そこから15年経つと、そこで育てられた状態からネズミ人間として歳を重ねたSplinter (Jackie Chan)と彼の元で育てられた4人 - Michelangelo – Leonardo – Raphael – Donatelloはミュータントの亀として大きくなってティーンエージャーになっている。(ふつうに考えたら亀がSplinterで忍者の4人がネズミの方がわかりやすかったのではないか。どうでもよいけど)

Splinterはいろいろあった結果、人間(社会)不信になってて外界に出ることはなく、4人にカンフーを仕込んで鍛えてサバイバルできる忍者として仕上げて、夜の町に出て食料を含む物資の調達などは彼らに任せている。Splinterの父親の思いとは反対に、4人はざわざわ賑やかな人間社会を眺めていいなー、っていう憧れを抱きはじめている – 野外シアターでやっていた『フェリスはある朝突然に』(1986) をみんなで見てフェリスがパレードを楽しく乗っ取るシーンのとこでいいなー、になるのは象徴的 – あんなふうになんの違和もなくパレードの波に入ってみんなと一緒に騒ぐことができたらどんなに.. って。

4人は原付バイクを盗まれたティーンのApril O'Neil (Ayo Edebiri)を助けたことから彼女と知り合いになり、彼女が調べていた"Superfly" (Ice Cube)っていう謎の賊による研究所の盗難事件を一緒に追っかけることになる。ジャーナリスト志望のAprilはかつてカメラの前で実況しようとした時に嘔吐してしまって以来、カメラの前に立ってなんか喋ることがトラウマになっていて、そんな彼女と師であるSplinterから決して表通りに出てはいけない、と言われているものの、やっぱりストリートの明るいところを普通に歩きたいんだ、っていう4人とのでこぼこした思いはどう繋がって転がっていくのか…

後半は彼らと同じ薬物で同様の変異をしてミュータント化したSuperflyの手下動物たち(スタテン島が根城。いかにも)との対決になるのだが、結局同じミュータントじゃないかなんで戦う? というところでマグニートーとチャールズのような善悪の彼岸のような対峙が、定型のカンフー活劇(含. 師弟愛)のなかで炸裂しつつも、そこに止まらずにティーンの煩悩と種や人類の存亡(一部)を絡ませて揺らしたりしながら、結果としては太古からある高校生の実存にまつわる暗い動物のような欲望や迷いや悩みを跳ねのけて、それでも前に転がろうとする青春映画になっている。片っ端から落書きのようにいろんなものをぶっこんでせわしないったらない、そんな彼らのMayhem - 騒乱。もっと暗くしてもよかったのに。

既にいろんなところで言われているように描画というかグラフィックは画期的、”Spider-Man: Into the Spider-Verse” (2018)あたりがきっかけになったのだろうか、リアルっぽく見えればなんでもありの変幻自在な少年漫画の動きとやけくその粗さと暗さ、その輪郭の隙間をぬって埋めて画面全体が打ち震えるようなリズムを生み出していく。というか、Reznor & Ross組の自在でぶっといリズムに画全体が乗っているかのような。 こういうことをやらせた時の連中の切れ味は言うまでもなく。

他にもESGの”Dance”やLiquid Liquidの”Cavern”が流れてくるし、4 Non Blondesの”What’s Up?”なんかも。ね、青春映画でしょ?(誰のや)

10.14.2023

[film] Taylor Swift: The Eras Tour (2023)

こっちから先に書く。
10月13日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。チケット絶対取らなきゃ、ってロンドンから戻った晩 - 6日の0:00にネットに入ったらガラガラで簡単に取れて、当日も(初日の一回めなのに)割と空いてるし自分も含めて老人ばかりが目立つ。このエリアだけのことなのかこんなことでよいのか。

ここのところパレスチナのことが本当にきつくてつらくて、こんな文章でも書いていないとやってられない状態から抜けられたらとー.. どっちみちむりだけど。

グローバルでの一斉公開で時間がなかったのか、字幕は一切ついていない。でもせめて開始前に表示されるフラッシュ発光の警告くらいは別に看板立てたりしておくべきでは?

Taylor Swiftが17年間のキャリアを振り返り10枚のスタジオアルバムの内容を網羅した”Eras”ツアー、LAのSoFi Stadiumの3日間のライブを撮って編集したもの。実際のライブは3時間半くらいだったのを衣装替えのパートなどを削って2時間48分にした。John Wick: Chapter 4” (2023)より1分短いけど天国に送った総人数はこっちのが遥かに多いと思われ。

Taylor Swiftはずっと追っかけている、というほどでもないのだが、Taylor’s versionのは買って聴いている。がちのファンと議論なんてできないけど曲がかかったらふんふん♪ くらいはできる。

監督はSam Wrench - Billie Eilish、Lizzie、Brandi Carlisleなどのライブフィルムを撮ってきたひとらしい。技術的なとこも含めていまのライブフィルム最前線、と言ってよいのでは。音響は後からどうとでも、なのかもだけどちっとも揺れずにぐるぐる回って近寄るカメラの動きとか、なにをどうやっているのやら見当もつかない。

それがどーした、かもしれないけどオープニングの登場シーンの演出とか、どっかの国のオリンピック開会式なんか軽く超えている、あんなの相手にもしないかんじの威風堂々で痺れる。

昔のライブフィルムに必ずあった気がするバックステージの様子やリハーサルの光景、インタビューや本人のコメントなどは一切ない。その始めから終わりまで、彼女が歌って演奏してダンサーやバックヴォーカルの人たちと踊る、ステージ上でセットが変わって次々と起こる、目の前で起こっていること、それを見つめて一緒に歌ったり泣いたり笑ったり抱きあったり、映るのはステージの上のそれらと客席のその切り返しのみ。 それを見ているだけなのに何度も泣きそうになる。いまのこの瞬間を永遠にして! 両者のその想いがぱんぱんに充満している。

実際のスタジアムのライブなんて小さくて見えないし周囲の酔っぱらいとかおしゃべりはうるさいし、足は痛くなってくるし、ぜんぜん集中できるもんではないお祭りの雑踏で(自分は)。 でもこのフィルムには彼女がこのツアーで示したかったものがぜんぶ詰まって右から左に広げられっていって、ファンはその波に乗って光に溺れて一緒に歌って踊って、本当に楽しそう。

自分にとって大切なライブフィルムだと、例えば”Madonna: Truth or Dare” (1991)とか”Ziggy Stardust and the Spiders from Mars” (1979)なんかがあって、どちらも偶像とかシンボルをでかでかとぶちあげて巨大化して、その企てや思いも含めた虚構性をぜんぶわかって泣きながらしがみつき、互いに抱きしめるようなところがあった。でもここのTaylor Swiftはそんなのを必要としていない。彼女のこれまで歌ってきたことを、その世界を雲のように森のように絨毯のように広げてみせて、そこにみんながわらわら乗ってくる、それだけ。

楽曲だと”Red”と”1989”からのがよくて(単に好きなだけか)、ヴィジュアルだと”Reputation”のがすごかった - あのヘビ!

エンドロールでのNG集とファンの子達の笑顔の対比もよくて、いいなー、こんな忘れられない夏 - 一生の思い出になるよね、って。

それにしても日本の映画館、静かすぎ。 上映前のくだんないマナー広告ばかり見せられてて、騒いでよいのは応援上映だけ、とか思いこんでない? こんなのきゃーきゃー拍手して騒ぎながら見ないでどうするの?


ああ、でもパレスチナを、子供達を …

10.13.2023

[film] En Corps (2022)

ロンドンの日々を書くのが終わったので少し前に戻る。

9月23日、土曜日の昼、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
邦題『ダンサー イン Paris』(まぁた「パリ」タイトル。舞台はほとんどブルターニュの話なのに。病気か)、英語題は”Rise”。元の題には、たぶん「身体」っていうのと「ダンスをする集団」のふたつの意味がある。監督はCédric Klapisch。

パリのオペラ座バレエのダンサーÉlise (Marion Barbeau)は、同じバレエ団の男性ダンサーと恋仲だったが、本舞台の直前に彼が別の女性ダンサーといちゃいちゃしているのを目撃して動揺し、本番でのジャンプに失敗して足を痛めてしまう。捻挫ではあったが今後踊り続けられるかは微妙、と言われて、失恋も痛かったが、子供のころからずっと続けてきたバレエをこんな形でやめなければならなくなるのもつらいし。ケアをしてくれる整体師と話しながらこれからどうする? を考えて、思いきってパリを離れ、ブルターニュのアーティスト・レジデンスで住み込みキッチンをやる友人夫婦のバンに乗せて貰って、彼らの手伝いで食事を作ったりサーブしたりを始める。

そこにコンテンポラリーダンスのグループがやってきて合宿のリハーサルを始めて、そこにはパリで路上のパフォーマンスをみてやるじゃん、と思っていた男性ダンサーとかもいて、彼らのダンスを横目で眺めつつ日夜を過ごしていると彼女のなかでなにかが湧きあがってきて、少しづつ彼らと一緒に体を動かし始めてー。

みんなよい人で仲良くやさしくしてくれてよい出会いとなってよかったね、って意地悪く見てしまう人もいるだろうが、そこよりは、コンテンポラリーダンスへの目線が少し気になったかも。

身体をどこまでも酷使して極限の美を求めていくクラシックに対して、身体のオーガニックな動きや「気」みたいの(よう知らんが)に着目して活力や癒しを与えてくれるコンテンポラリー、って大昔からある西洋 vs. 東洋と同じような対比でなんかつまんないし、たまたまやってきたグループがそういう動きのをやっていただけよね。コンテンポラリーのなかにクラシックのメソッドに対する懐疑や異議を起点としているものはあるのかもしれないが全部がそうではないし。 でも結局はそれを自分の身体に流し込んだときになにが起こるのか、という観点で見たときにどこまでああそうなのね、って納得できる動きを見せてくれるかどうかで、その点ではÉlise = Marion Barbeauの身体は見ればわかる見事なしなやかさで、”En Corps”としてあって、ここだけでも見る価値はあったかも。

あと、料理がおいしそうだったので何を作っていたのかもっと見せてほしかったなー。


Fashion Reimagined (2022)

同じ23日に、↑のを見た次の回、同じシアターの同じ席で見ました。邦題は『ファッション・リイマジン』?  内容はすごく勉強になるのにねえ..

自身のブランドMother of Pearlが英国で大きな賞を獲った前途洋々の新進デザイナーAmy Powneyが、その賞金で新ブランド“No Frills”を立ちあげて、完全に(どこのどんな羊さん、から)トレーサブルで安全で動物にも環境にも一切の危険・危害を与えないオーガニックな原料をベースとしたファッションラインをやろうと思いたつのだが、それは想定していたのの1000倍くらい大変なことになってしまうのだった。

相棒のChloe Marksと一緒にそういう条件を満たすちゃんとした毛糸を探しまわり、そういうのを生産している羊農家を求めて南米ウルグアイやペルーまで飛んで、彼らと会って話して染料まで確認して、どうにかコレクション発表までたどり着く。そういう旅を通してこれまでの、これからのファッションのありようを考える - (こうすべき、というよりは、こんなのでいいの?って)よい材料になっていると思った。

もちろん、そんなこと考え始めたら織機を動かすための燃料(石油)とか現地に飛んだりする飛行機とか際限なくなるに決まっているし、そういった過剰な手間とかプロセスは当然できあがったものの値段に反映されてしまうので、結局は安く買える服の方に行っちゃうのでは、とか。

でもここまで手を尽くさないとその出所すら追うことができない闇のチェーンやシステムが出来あがっているのって、資本と欲望に任せて肥大したファッション産業とその反動というか帰結というかで現れたファストファッションも含めて、地球によくない仕組みができあがってしまっているということなので、そこはほんとになんとかすべき。なんでこんなことに? についてはおしゃれ万歳!でやってきた自分たちのせい、というのも含めて反省しよう。もう服には本当にお金かけなくなってしまっていて、それでもぜんぜんよいから。

あと、こういうことをやり遂げたAmy Powneyさんの両親 – ドロップアウトして田舎で自給自足暮らしをしている - も素敵で、彼女がこういうとこに向かうのは宿命だったのだなー、とか。

彼女の試みが壁にぶつかって右も左も、になったときに唐突に現れるKatharine Hamnettさんがかっこよい。彼女のスーツ、まだ箪笥のどこかにあるかな。

しかし、あれだけかの地にうじゃうじゃいた英国羊たちの毛って、質がよくなくて絨毯とかにしか使えないって初めて聞いた。だめじゃん、がんばれ。

10.12.2023

[art] London - 0930/1001

9月30日、10月1日の土日、ロンドンの週末、美術館などに行けるとしたらこの二日間しかない。

Gabrielle Chanel. Fashion Manifesto   @ Victoria and Albert Museum

まだ始まったばかりなのにチケットはぜんぶ売り切れていて、こういう場合はどうするかというとメンバーになってしまうことよ。いずれモト(モトってなに?)は取れる、取れるように動くこと。

2017-19のDiorの展示に続く20世紀ファッション・デザイナーの大規模回顧、でよいのか。Diorのが彼の作った「メゾン」の歴史と全体像を網羅していたのに対して、こちらはChanelの「マニフェスト」を、彼女がどう生きて、ファッションを通して何を言わんと/やろうとしていたのかにフォーカスしていて、なのですべての展示がものすごくわかりやすい一貫性でもって迫ってくるのでそこに感動する。(Diorのが物量も含めお城-帝国の凄みを見せつけたのに対し、彼女は一着の服が、それをどう着るかがメッセージになるのだ、って埃をはたくように示してみせた)

だから今回Doirの華やかなドレスがばーんて並んでいたのとChanelのスーツが同様に並んでいたのとはメッセージとしてすこし違うよね、とか。

『去年マリエンバードで』のあの黒のイブニングがあったのには痺れた。


Diva   @ Victoria and Albert Museum

これも土日のチケットは売り切れになっている展示。入口でヘッドフォン(よい音)を貰って中に入って各展示(各Diva別のブース)の前に行くとその人の歌などが流れて聴くことができる。一階はオペラからSarah Bernhardtからオールドハリウッドの女優たち- Clara Bow, Carole Lombard, Joan Crawford – “Mildred Pierce”の衣装! Bette Davis, Judy Garland, Barbra Streisand – “Funny Girl”の衣装! など。

2階は現代における所謂Diva! たちで、誰もが知っている有名どこがいっぱい。ロック系だとSiouxsie SiouxからDebbie HarryからPJ Harveyまであるし、Elton JohnとFreddie Mercuryも入っている。そこに入っていたらどうなのか、というと、Divaなんだからすごいんだから、だけで、それでよいのだと思った。ただもう少し、(その多くが)傷だらけの(を経てきた)Divaアイコンやドラマを求めてしまう現代のスターシステムのありよう、について考えさせる内容にしてもよかったのではないか。


Marina Abramović   @ Royal Academy of Arts

彼女の結構規模の大きい展示は2018年末にフィレンツェで見ていて、それと同規模で、会場のあちこちに大スクリーンとリアル人体による展示(パフォーマンス)もあって圧倒される。女性の身体がこんなふうに置かれたり晒されたり、不機嫌とか暴力(的ななにか)のありようを(しつこく何十遍も)ほら、こーんなにされてきたんだけど!さ! おい! っていう、その生々しさと力強さと。 10/1にはSouthbankのQueen Elizabeth Hallで彼女のトークがあったのだがやっぱり行けなかった..

Herzog & de Meuron   @ Royal Academy of Arts

ここの奥でたまにやっているモダン建築関係の展示。細かければ細かいほどすごいーこんなのどうやって作るんだげろげろー、ってのけぞりつつ変なのーって見てしまう。近くに寄るとめちゃくちゃ精緻な竹籠みたいのがただの箱のようにいっぱい積んであって、潰して燃やしたくなる。


Christian Marclay: Doors   @ White Cube Mason's Yard

展示の最終日だからか結構混んでいた。1階はドアの破片とか刻んだり積んだり圧縮したりしたガラクタみたいなオブジェが展示されていて、メインの地下一階は暗室で彼の”The Clock” (2010)と同様のエンドレス繋ぎ映画 – “Doors”。 ドアを開けて人が出たり入ったりして閉じる、の一連のアクションを拾って異なる映画の場面をえんえん繋いでいく。ドアの向こうには別の世界があり別の人がいる、それがわかるかたちでどこでもドアを介して無限に広がるひとつの世界が示されていって、おもしろくて飽きなくていくらでも見ていられる。どこかで見た映画の断片もあったりするのだが、あれなんだっけ? をやりだすと見過ごしてしまうので、いちいち追わない。


Portraits of Dogs: From Gainsborough to Hockney   @ Wallace Collection


タイトル通り、古今のいろんなわんわんの肖像を集めて並べたもの。昔の宮廷画家が描いた空っぽでかわいいだけのものからHockneyのダックスからLucian Freudからいろいろ。どれもかわいいが、ヴィクトリア女王が描いたお犬さまの絵数点が味があって素敵だった。

あと、映画のあれで、フラゴナールの”The Souvenir” (1776–8)を久々に。場所も変わっていなかった。


Frans Hals  @ National Gallery


National Galleryで始まったばかりの展示。10/1の日曜日、トラファルガー広場は日本まつりをやっていて朝から和太鼓がどかどかうるさい。これってどちらかというとこちらで暮らす日本人のためのお祭りだから好きにすれば、だけど性加害だの汚染水放出だのであれだけ世界から顰蹙を買っているのにしれっと「ただいまー」なんてよく言えたもんだわ。

17世紀のオランダ共和国の小都市ハールレムで貴族などの肖像画を描いたハルスの珍しい回顧展。みんな陽気でころころでくるくるでてかてかオイリーで豚のように肥えててどうだ! ってかんじでこちらを向いていて、華やかで空っぽで、そういう肖像が求められていたのだなー、ってそれだけ。


本は、展覧会のカタログも買わず、雑誌多め(最近円安でほんと高いし)、それでも何冊かは買った。

・Roger A. Deakins: Byways 撮影監督のモノクロ写真集。サイン本だった。Devon生まれだったのね。
・Surreal Spaces: The Life and Art of Leonora Carrington 評伝本。絵と写真いっぱい。

あと本屋のHatchardsが少し配置を変えて、美術系の古書がいっぱい並んでいてやばかった。

レコードは、Rough Tradeに行っても買わない買わないの呪文をかけてて、でもJosef Kの1stの再発 - 何回再発してるのか、そして何枚おなじの買っているのか、って自分に怒った。

10.11.2023

[film] Flora and Son (2023)

10月3日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで”Blackberry”を見終えて出たら21時くらいで、ここの次の枠でこれをやる、って出ていた。Appleの配信で見れることは知っていたものの、でっかい画面のそれであればそっちのがよいし、いまここでホテルに帰ってもパッキングやだようーとかごろごろして落ちたりするだけなので、映画館前のMacでビックマックとコーヒーを買ってシアターに戻る。客はぜんぶで3人くらい。

邦題は『フローラとマックス』だが、原題はクライマックスで登場するバンドの名前でもあるので、ここは変えちゃだめなんじゃないの?

作・監督はJohn Carney - “Once” (2007)、“Begin Again” (2013)、“Sing Street” (2016) - なので、まーたいつもの、に決まってるし実際そうなのだが、べつにいいじゃんアイルランドではこうなのかも、って。

ダブリンに暮らすシングルマザーのFlora (Eve Hewson)は十代で生んだ一人息子のMax (Orén Kinlan)を割とほったらかしてきて、バーで呑んで踊って見知らぬ男と朝までいたり明日の希望も将来の展望もなくぼーっと過ごしていて、ゴミ捨て場でギターを拾ったので息子の誕生日にあげたら誕生日は前日だしラップトップでヒップホップ系の音を作る彼からは興味ない、って言われたのと、TVの素人タレント発掘番組を見て自分にも歌って弾くのはできそうな気がしたので、オンラインの教室を探して西海岸のギター教師 - Jeff (Joseph Gordon-Levitt)とのマンツーマンレッスンにたどり着くのだが、レッスンを始めると彼女は画面上のJeffにぽーっとなってしまい、Jeffにも呆れられてやるきあるの? って怒られ、何度も頓挫しそうになるのだが自分で曲を作って歌いたい、ていう目標をたててがんばる。

Maxは楽器店で機材を万引きしようとしたり不安定なのだが、彼の作った音楽とラップをやるじゃん、て思った母が、彼が好きな彼女に向けたラップビデオを撮ってあげたり(結果惨敗)とか、ずっと放置してきたのにそこまでやる? もあったりするのだが、とにかく最後はFloraの曲がMaxとJeffも繋いでめでたし、になる。それぞれの置かれた場所とやりたいこと、めざすものが最後になんとなくでも実現されるのはとにかくよかったねー、なのだがその中心にある音楽 - 曲がちょっと弱かったかなー。オンラインの向こうにいるJeffはしばしば画面を飛びだしてFloraのとこに現れたりするのだが、彼をダブリンに呼び寄せるくらいの強さがほしかったかも。


No Hard Feelings (2023)

10月4日の帰りのJAL便で見ました。
監督は”Bad Teacher” (2011)や”Good Boys” (2019)を手掛けたGene Stupnitsky – なので大丈夫であろう、と。

モントークの母の遺した家に暮らす32歳のMaddie (Jennifer Lawrence)は借金で首が回らなくなりUberのバイトをしているので車だけは持っていかないで、って旧知の回収屋に泣きを入れたのに差押えられ、ローラーブレードでもういっこのバイト先のバーに通うのはしんどいし、このままでは家も失ってしまうし、まずはなんとしても車を、ってあちこち探していると、クレイグリストに19歳の息子の相手をしてくれたら車をあげる - 求む20代前半女性、というのを見つけて、こいつはカモかも、ってそれを出した彼の両親(Matthew Broderick長髪、Laura Benanti)に会いにいくと、見るからに資産家大金持ちのパパとママはもうじきプリンストンに入る息子がパーティにも酒にも女にも興味がなさそうで困っていて彼の友達になってやってくれないか、と - それってあなたらの子とセックスしろってこと? と聞くと、そうだ、と返すのでがってん、やったる、って。

息子のPercy (Andrew Barth Feldman)のバイト先のアニマルシェルターに乗りこんでいったMaddieは派手な格好をして彼を引っ張り回して誘惑にかかるのだが、彼は何事にもピュアなよいこ過ぎてMaddieの調子が狂っていくのと、肝心なときになると事故だの湿疹だの邪魔が入ってなかなか目的まで辿り着けなくて、やがてPercyが犬のようになついてくるとこんな形で騙したみたいに奪うのではなく、ちゃんとやりたい、って思うようになるのと、やっぱりMaddieと両親の裏取引がPercyにばれてしまい…

80年代より前にはいくらでもあった気がする童貞喪失どたばたコメディで、そこに堂々たる(本当にすごいと思う)Jennifer Lawrence - 少し前ならCameron Diazあたりがやったはず - がぐいぐい引っ張っていく面白さはあるのだが、こういうの今だとハラスメントすれすれに見えてしまう、というかもろハラスメントになってしまうよね。

あと思ったのは、これって”Ferris Bueller's Day Off” (1986)のFerris (Matthew Broderick)が成功した父親になって、その子供がCameron (Alan Ruck)みたいだったら… という設定にしたドラマなのかも。どうやっても大人になれないPercyがパニックを起こすところとか、パパの車(テスラ)を木にぶつけて壊すところとか、そっくりじゃないか?

あと、結果としてPercyはひとり「やった」って思いこんでいるようなのだが、ああいう場合に「やった」ことになる定義って明確にあるのだろうか? どうでもよいけど。


これを見たあとは、”Interstellar” (2014)を流して宇宙を彷徨いながら羽田へ。

10.10.2023

[film] Blackberry (2023)

10月3日、火曜日の晩、出張最後の日の晩があいたのでPicturehouse Centralで見ました。予告編だと公開は確か5日から、だった気がしたがなぜかやっている(ことは割とある)。

最近の若い子には「?」かもしれないが、00年代から10年代初くらいまでビジネス・コミュニケーションの世界を席捲して、iPhoneの登場によって跡形もなく消え去った世界最初(諸説あり)のスマホ – Blackberryが巻き起こした嵐 – というかあれってなんだったのか? をどたばたすちゃらかコメディとして描く。同系の起業ストーリーとしての”The Social Network” (2010)のような格(みたいなの)は微塵もないけど、当時を知るものとしてはあーあったあったわ、とかめちゃくちゃおもしろくてなつかしい(だけ)。

2015年に出版された“Losing the Signal: The Untold Story Behind the Extraordinary Rise and Spectacular Fall of BlackBerry”がベースで、監督は鉢巻メガネおちょぼ口の強烈なキャラで助演もしているMatt Johnson。

1996年、ITバブル噴火前夜にカナダで通信機器のベンチャー RIM – Research In Motionを立ちあげたばかりの見るからにおたくでギークのMike Lazaridis (Jay Baruchel)とDoug Fregin (Matt Johnson)のふたりが見映えゼロの営業をしにいったら会社をクビになった直情噴火型パワハラ野郎のJim Balsillie (Glenn Howerton)と出会って、Jimがやけくそで彼らがUS Roboticsとの間で抱えこんだ膨大な在庫なども含めてRIMを買ってCo-CEOとなり、テック系Mikeたちのアイデアを元に強引にカシオの電卓の殻とかでプロトを作らせて通信業者の間を引きずりまわして、結果爆発的に受注して誰も彼もがBlackberryの端末を持つようになり、問題がでたらその領域のトップの奴らを他から引き抜いて対処させたり、会社はでっかくなったものの、業後にみんなで映画をみるとかゆるゆるでフレンドリーだった会社のカルチャーは失われていって…

それまで携帯とPager(ポケベル)とPalm(電子手帳みたいなの)レベルだったとこに電話とEメールが一体化したのが大きくて、ただ機能レベルでどうというよりウォール・ストリートの銀行系がみんな手にしてバーでも街角でもいつでもどこでも見せびらかすように使い始めたのと、911の混乱時にも切れずに繋がって使えた、というあたりが大きかった – そういうのを見たり聞いたりしてうちもやらなきゃ、ってドミノで爆発的に広がっていったような。でも打ちにくくて指が痛くなるっていうのは割とみんな言っていた。

で、あまりに広がりすぎてVerizonと問題起こしたあたりも思いだしたー。

Blackberryの登場は今や割と当たり前になっている方に生活と仕事を大きく変えて、これのせいで深夜でも土日でも家でふつうにメールを見たり打ったりするようになり、メールを見たらPC開けなきゃいけなくなったりいろんな逃げや言い訳がてきなくなった。ライブの時も集中できなくなった。

iPhoneが出てきた時も端末の値段が高すぎるのと、フラットでボタンがないのはかえって打ちにくい、っていう声があったり懐疑派 – そんなにすぐには変わらないんじゃないか - はいた、けどあっという間に消えちゃったのは(映画を見ると)やはり自滅に近かったのだな、と思ったり。

根無し草インディー/ギークの成功物語、というよりは、なんであんなのが成功することができたのか、ほうらやっぱり転げ落ちてしまった … その失敗というよりその始めから終わりまで誰も止めることができなかったしょうもないかんじを粗々でせわしないドキュメンタリーみたいな画面、映画というよりTVドラマみたい - も含めて一気に撮ってぶちまけたような。悲しみも悔しさも悲壮感もなんもない、賢いやつらは早々にすたこら逃げちゃったようだし。

やろうと思えばイノベーション寄りのテック企業物語にすることもできたはずだが、そっちではなくむしろイノベーションなんてこんな程度のノリ一発なあれでしかなかった、というのを当時のゆるゆる子供 vs 怒髪天ハゲの攻防のなかに描く。今だったらコンプラで通報されて即アウト。個人的な感想だけど、アイスホッケー好きってパワハラ傾向値たかい。

音楽はすばらしくよくて、車内でがんがんにかかっているNOFX “It's My Job To Keep Punk Rock Elite” (1997)から始まり、Elasticaの”Connection” (1995)がほぼ主題歌で、Slintの”Good Morning, Captain” (1991)とか、懐メロのように”Love Will Tear Us Apart”がかかったり、最後には、The Kinksの”Waterloo Sunset”が流れてくる。どうしてこれかというと、オンタリオのWaterlooという町が舞台だから。

10.09.2023

[film] Angelheaded Hipster: The Songs of Marc Bolan & T. Rex (2022)

10月2日、月曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouse - ドキュメンタリーフィルムを専門に上映する部屋 - で見ました。
ここのCurzonはショッピングセンターの中にあって、上映前によく通っていたWaitrose(スーパーマーケット)のなかをうろついていろいろ懐かしくなりフムスを買ったり。ここの並びに新たに中華系食材のマーケットもできていたし、Nando’sもあるし、エリアとしては最強かも。

監督はEthan Silverman、制作はDogwoofで、9月に一晩だけの上映会があった後、月末にリリースされて、いまは普通にストリーミングで見ることができる模様。

流れた予告のなかで見たいと思ったのは、Errol MorrisによるJohn le Carréの生前最後(なのかな?)となったインタビューをふくむ評伝ドキュメンタリー”The Pigeon Tunnel”。

ここんとこDavid Bowieの偉大さばかりクローズアップされている気がするが、わたしは当然のようにMarc Bolanもすばらしいと思っていて、もちろん両者は別々の星からやって来ているので比べられるものではないのだが、グラム - グラマラスとか徒花一代(パンク)というあたりにおいては、やはりMarc Bolanのアウラにかなうものがあろうか、と勝手に思っている。

インタビューやフッテージを繋いだ単なる評伝ではなくて、Hal Willner - 撮影後に亡くなられたので最後に哀悼のメッセージがでる - プロデュースによる同名カバーアルバムのレコーディングの過程とそけに参加したミュージシャンそれぞれにとってのMarc Bolan像が語られる。あとプライベートなところだとパートナーだったGloria Jonesと彼女との間にできたRolan BolanがMarcとの思い出を語ったり。ファン代表としてDef Leppard のJoe Elliott とかThe BongosのRichard Barone - この人ぜんぜん年取らないな - とか。

最初がU2 & Elton John - “Bang a Gong (Get It On)” - で、声はなんとなく似ているんだけどBonoの声ってちっともセクシーじゃなくて、それ言うとU2ってよくもわるくもぜんぶがそう(ガキ向け)なので、あー、になった。 続いてがNick Caveによる”Cosmic Dancer” - で、Hal Willnerさんが顔をくしゃくしゃにして頭抱えたりしていたのはなぜだったのか? Nick Caveだと結局ぜんぶNick Cave節になってしまうということではないか、とか。 こんなかんじであのアルバムに参加している全員が揃って出てくるわけではなく、登場するのはJoan JettとかBeth OrtonとかLucinda WilliamsとかJohn Cameron MitchellとかFather John MistyとかMacy GrayとかMaria McKee (!) とか。

男性だとどうしてもなにか(ってなに?)を意識してしまいがちなのか、女性によるカバーの方が圧倒的にすばらしく、のびのびストレートに届いてくるかんじ。 でもSliderでEasy Actionしたいという最近の若い子達はいないのかしら? Brit以降、ブギーなんて誰もやらないのかねえー。

パンクとの関連だと彼がホストをしていた番組”MARC”で、初期のJamやGeneration Xを紹介する場面も出てくる。自分がMarc Bolanを知ったのもCherry Redから出た”You Scare Me to Death” (1981)だったし、ふつうにパンクの流れに置かれていた人、でもあったの。

彼の楽曲のシンプルだけど人懐っこくへばりついて鼻唄で永久にふんふんできて、でも地を這う重力も磁力も兼ね備えた、その不思議で変な魅力や出会いを登場するみんながそれぞれに語ってくれるのだったが、それはやっぱり宇宙の謎的ななんかを語るのとおなじでとりとめのないものになってしまっていた気がする。それがMarc Bolanの魅力であることは十分にわかっているのだが、なんかあとひとつ欲しかったかも。

あと、映画の最後に紹介されるレコーディングのバックバンドが(曲によるようだが)なかなかびっくりで、ドラムスにPete ThomasとかBudgie、ギターにはWayne Kramer、Marc Ribot、Bill Frisell、あとVan Dyke Parksとか。みんなHal Willner人脈ではあるがー。

Hal Willnerさんは2011年にNYのThe Stoneで一度だけ、Philip GlassとのDuoのライブを見たことがある。Allen Ginsbergの作品を朗読したり歌ったりの会だったのだが、Philip Glassをピアノの前に座らせて小僧のように使っていた。客席ではLou Reedがひとりで大喝采していた。改めて惜しい人を..

Marc Bolanにも”Moonage Daydream” (2022) 級の「強い」ドキュメンタリーが欲しい。彼ならできたっておかしくないー。

10.08.2023

[film] Past Lives (2023)

10月1日、日曜日の夕方、Picturehouse Centralで見ました。
ここも久しぶりだった。何度も潰れ話がでていたシネコン - 相変わらずぼろぼろだったけど、でも続いていてくれてうれしい。宣伝で、日曜日にわんわんを連れてきてよい上映会とかやっているって。犬の方が心配だけど。

A24配給によるアメリカ映画で、監督Celine Songの長編デビュー作。とても評判がよいのも頷ける、めちゃくちゃ切なくすてきな恋物語だった。

冒頭、バーのカウンターに座っている3人 - 少し間を開けてぎこちなく座る東洋人の男女と、その女性の隣にいる西洋人の男 - を捉えた画面の外の声が、あの3人の関係ってどういうもんだと思う? って問う。

と、そこから24年前 - 90年代終わりか00年代初め - の韓国に舞台は移る。 12歳のNa-young (Seung Ah-moon)とHae-sung (Seung Min-yim)は互いのことが好きで、親もそれを認めてて、学校の行き帰りもずっと一緒で、どちらも成績優秀でテストの成績どっちがよかったか、とかそっちのほうで競いあったりしている。やがてNa-youngの一家は映画制作をしている彼女の父の事情でカナダに移住することになって、お別れ会はしたものの互いにさよならを言いたくなかったふたりはなんとなくそのままにしてしまう。

そこから12年が過ぎて、カナダでNa-youngはNora (Greta Lee)となり、脚本の勉強をしているときに、Hae-sungがあんたの消息を探してたよ、と聞いたのでFacebookで探してみると彼は簡単に見つかって、大きくなったHae Sung (Teo Yoo)と軽くビデオ会話をして、わたしのことなんで探してたの? と聞くと、なんか会いたくて、って言われ、変なひとになっていなくて、自分が知ってたHae Sungのままでいてくれてよかった、とちっとも悪い印象なくじゃあまたねー、くらいで別れて。

やがてモントークでのアーティストレジデンシャルプログラムに参加したNoraはやはりそこに参加していた作家志望のArthur (John Magaro)と知り合い、そのまま恋におちて結婚してマンハッタンでふたりで暮らす。Hae Sungも徴兵を経てふつうぽい会社に就職して彼女ができたりしている。

時は現在になり、互いにいろいろあっても細々と連絡を取り続けていたふたりは、言うばかりでずっとつっかえて実行しないままになっていたHae SungのNY行きを実現する - 彼が到着した時は土砂降りだったけどホテルに入ってNoraのアパートまで行ってArthurにも紹介してもらい、ふたりでふつうにNY観光してBrooklynのDUMBOにある回転木馬(乗りたいなー)のとこに行ったり、いろんな話をする。

初めはArthurに気をつかってNoraが間に入って通訳していたのだがそのうちふたりだけ韓国語で会話するようになり、嫉妬と猜疑心まみれになったArthurが刃物を… という方には向かわず、むしろふたりを24年間もこんなふうに結びつけていたもの、いまそれぞれがこうなっていてもなんだか落ち着いてて揺るがないかんじってなんなのだろうね? という問いに韓国の "インユン "という考え方 - Past Lives -前世で恋人同士だった者同士が結ばれるというカルマが示されて、じゃあ次の生でもぼくらはまた出会えるかしら? とか無邪気に聞くので泣きたくなる。 わからないよ、って。 そういうのを抱えたままHae Sungは車を呼んで帰っていくの。

これ、”EEAAO” (2022)で描かれたようなマルチヴァースの話? にしてしまいたくなるかもだけど、そっちじゃないの(どちらかというとWong Kar-Waiの『花様年華』(2000)のほうがまだ近いかも)。

もっと単純な、なんであなたとわたしは出会ってからここまでずっと国とか時差が違ったりしてても、また会おうかーって続いていったりそうでない人はそうならないままになったり、そういうのを可能にする - っていうと強すぎるか、あらしめているのってなんなのだろうね? 単に好きだからでいいじゃん? ていうのとも違って、歳とったりしてこれまでのあれこれを”Past Lives”のように眺めてみえるようになる瞬間があったりすると、なんか。 わかんないけど。 宗教もどきでもなんでもなく。

という、ハッピーエンディングにもバッドなほうにも落ちない、ずっと遠い近くにいてくれる誰かをふと思ってしまうときに吹いたり撫でたりしてくる風みたいなラブストーリーだった。

10.07.2023

[film] 浮草 (1959)

10月1日、日曜日のお昼、BFI IMAXで見ました。
英語題は”Floating Weeds” - これでわかるのかしら? はっぱ取引の話と思われないかしら?

BFIではロンドンを発った4日の晩からLondon Film Festival 2023が始まって、ちょうどその晩にかの地を発ったので、ちぇ、しかない。滞在していた間、ここではずっと小津の生誕120周年の特集とか深田晃司とかをやっていて、なんかついてないなー、って文句を言ってもしょうがないので見たいのを探して見る。

こんなのお客入るのかしら? と思ったら客席は結構埋まっていてびっくり。日曜の昼なのに。

イントロでBFIのキュレーターのIan Haydn Smith氏が少し話をした。これは小津の6本あるカラーフィルムのうちの3本目で、アグファカラーの赤はもちろん、この作品については黄色も印象的であると。50-60年代のカラー作品のなかで必ず金字塔的に挙げられるアントニオーニの”Red Desert” (1964)と比べても遜色ないし、時代と照らし合わせて小津のカラー作品はもっと研究されるべきって - その通りよね。

IMAXの大画面だと小津はどうか、については、もうびっくり、驚異しかない。巨大化した鴈治郎がのしのし歩いてきたり京マチ子や杉村春子や若尾文子がこちらに向かってなんか言ったりする、それだけで背筋が伸びてありがたやー になるよ。

暑い夏、うだるような港町に旅回りの一座が着いてちんどん屋が路地をうねうねしてビラをまいてからいろんな四角や格子や箱がクレーの絵のような強さと的確さでくっきりと迫ってくる。 ざあざあ針金のように垂直に落ちてくる大雨のなか、軒先の中村鴈治郎と京マチ子が檻を挟んで獣(猛獣)のように向かい合ってせめぎ合うシーンの闇と光のとてつもない迫力(ほんとにものすごい)とか。こちらに寄せてくる暑さとクールダウンさせる赤と黒の四角の対照もおもしろくて – まあなにが出ても見えてもぞくぞくしておもしろい。TIFFの小津特集でもこういうのやればいいのに - まだ今年のプログラム見てないけど昨年の田中絹代監督特集を平日の昼間にやられたのでここの企画には一切、金輪際期待しないの(怒)。

一座が着いて公演を始めても客の入りはさっぱりなので、団員みんなもやるきを失っていき、芸者のいる梅廼家とか床屋の小川軒に行ったりするものの誰もが狙いをはずしたりはずれたりぱっとしなくて、でも中村鴈治郎だけは楽しそうに毎日ひょうひょうと出て行って、杉村春子と川口浩の居酒屋に入り浸って幸せそう。川口浩にはおじさんと呼ばせて内緒にしているが、昔に杉村春子に生ませた実子で、怪しいと思った妻の京マチ子が昔からいる人に聞いてみるとやっぱりそうで、頭にきたから一座の若尾文子に川口浩を誘ってみ、ってやらせてみたら若いふたりは簡単に火がついて本気になってしまい、やがてその事情に気づいた鴈治郎は怒り狂うのだが、狂いすぎてなにもかも破壊しつくして、さらについてないことに一座の金を持ち逃げされてもう解散か.. って駅に向かうと同じように行き場を失った京マチ子が…

バックステージものにしては芝居の話もそれに対する情熱もほぼゼロで、年取って癇癪もちになって、ぶち切れて家族を壊して仕事も失って、っていう老いた役者のかわいそう、というより身からサビ、自業自得の破綻話で、同情のしようがなさすぎてしょんぼりしすぎで、ふっ、となんだか元気になってしまうやつ - ラストのふたりとおなじか。

とくに女性の着物と帯の模様とかデザインがほんとクールで素敵で、暑さのなかでほんと気持ちよさそうにあの布を纏って着こなしていて、若いふたりのようにすーっと吸い寄せられるように寄っていって肩に手を回してキスしたくなるのもわかるの。

しかし鴈治郎の癇癪老人って、ここから60年経っているのにぜんぜん古くないな(ほめてない)。いまだにあんな自分に甘々のくそじじい - 周囲もあれで悪いひとじゃないのよ、って甘やかす - がうようよ幅きかせてて、日本の戦後の失敗のひとつは鴈治郎型のくそじじい共を駆除できなかったことよね、って巨大化した彼をみながら思うのだった。

10.06.2023

[theatre] Vanya

9月30日、土曜日の晩、Duke of York’s theatreで見ました。ここのシアターは、2013年にロンドンで初めて芝居を観たとこ - 演目はRupert Everettの独り芝居 ”Judas Kiss”だった。一日の午後に芝居をはしごしたのは初めてだったかも。

泣く子もだまる”Hot Priest” - Andrew Scottによるチェーホフの独り芝居、チケットは全日程売り切れのようだったが、ちょこちょこ見ていたらなんか釣れた。

舞台は真ん中少し奥にドアがある - このドア経由でいろんな人物が出入りする – ふつうのリビングで最後まで、左手に簡素なキッチン、テーブルにはウォッカの瓶、右手には天井から下がったブランコとかピアノなど、ちっちゃな小道具いっぱい。最初に少し胸の開いた青緑のシャツを着た素のようなAndrew Scottが袖からふらーっと現れてタバコに火をつけ、客席を眺めてからいたずらをする目をして自分で客電を消し、奥のほうに回って自分でカーテンを引いていくとそこは鏡になっていて真っ暗な客席と共に奥に広がる世界(の闇)が広がる。

チェーホフの「ワーニャ伯父さん」の登場人物をAndrew Scottがひとりで全部演じ分ける。キャラクターによって声色や喋るトーンを変えたりサングラスをかけたりはするものの、服までは変えず、独り芝居というより立って歩き回り、歌ったりもしながら1時間半(休憩なし)の落語をやっているかんじ。

ここでのAlexanderは「ある時代を代表する」フィルムメーカーで、若い後妻のHelena、先妻との間の若いSonia, 野心的で飲んだくれ医者のMichaelとキザでひねたVanya、そんな彼らの四角関係 - Alexanderは割とどうでもよい - が中心で、どれだけ近づいても必ず誰かが割り込んできたり思いをとげることができない全員が矢印まみれ中間状態のもどかしさのなかにあるのを描くのに独り芝居という形式はうまくはまるのかも知れない。

全員がいけてなくて勝手に中途半端に相手を思っていて、それぞれが自分の置かれた縛り縛られのなかでそれなりにあがくものの結果ぜんぜんどこにも到達できない - どのキャラクターから見て追ってもみんながみんなルーザーのどん詰まりで過去に生きてて誰かがなんか思いきったことをやってくれないか - を待って投げやりの日々を過ごす、それをいろんな役者を置いた中に散らしてバラして点在させるのか、あるいはひとつの身体に集約させて複雑骨折させたり脱臼させたり、あるいはひとつの身体が複数の人物を捕食するように広がるさまを描くのか。

後者の方をやるとなった時のAndrew Scottの発声や身体表現は見事としか言いようがなくて、ラブシーンで体を絡ませる肩にかけられた腕や背中の動きとかキスをするときに立てる音とか、SoniaのMichaelに対する片思いのめらめら燃えるもどかしさとか、個々を演じ分ける、それをできるのは当然として、複数の人物のエモや情動が正面からぶつかった瞬間の、うなりをあげたり空振りしたり萎れたり死にたくなったり、がひとつの身体が物理的にたてる音としてライブで伝わるし聞こえてくるし。

他方でチェーホフの描いた多様かつ多彩に散らかった世界まるごと、をしんみりとしたどん詰まりの共感とともに受けとめて見ているこっちも同じようにしんみりする - いつものあれ - とは当然違っている。古典落語の噺の世界に思いっきり引き込まれて堪能した後に、噺のなかみにというよりは演者である落語家の凄さを思い知らされる、あのかんじに近いかも。 で、それを登場人数多めのチェーホフでわざわざやることの賛否はあるのかも。劇のありようがすでにして落語 – 長屋のいろんな人々を貫く業のたれながし – であるチェーホフであるからしてー。

でもとにかく、Andrew Scottのしなやかな – というのともちょっと違うかも - 身のこなしというか舞台上にいて宙を見ているだけでセクシー(感じ方に個人差はあるのだろうが、他によい形容が思いつかない)な絵や容姿になってしまうのって、なんなのか。彼を目で追う観客のため息とか反応も含めてそういうのを目の当たりにするとこの人すごいかも、って改めて思った。

[theatre] Anthropology

9月30日、土曜日の14:30のマチネーを、Hampstead theatreでみました。Swiss Cottageの駅前にこんなシアターがあったの。評判がよくておもしろそうだったので。

原作はアメリカのLauren Gunderson、演出はオーストラリアのAnna Ledwichで、キャスト4人は全て女性、この公演がワールドプレミアだそう。

ステージ上、がらんとしてなんもない床の上にはラップトップとスマホが2台づつ、投げられたように置かれていて、あとは大きめのディスプレイが一台。

システムエンジニアのMerril (MyAnna Buring)は、妹のAngie (Dakota Blue Richards)が突然失踪してから1年、放心状態になりがちだったが、Angieの残したPCとスマホにあったデータぜんぶをチャットボットに食べさせてバーチャルなAngieを作って、かつて一緒に過ごしていた時のような会話ができるくらいになっていた。会話をしているときのAngieはF wordを連発する元気いっぱいの荒っぽいビッチ系 – AIなのでそういうのも再現する - で、そうであればあるほどMerrilは彼女の不在を嘆いてべそをかいて、ずっと傍にいてくれたらなー、って強く思うようになって、いろんな相談をすればAngieは妹だったらこう言っただろう、というようなことを返してくれる。このAngieはもちろん自分がバーチャルなAIであることもわかっている。

そういう穴が開いた状態で、Merrilの別れたガールフレンドRaquel(Yolanda Kettle)や母Brin(Abigail Thaw)がやってきてバーチャルAngieとも会話をして、Angieを間に挟んだ彼女たちとAIのやりとりを通してみるとそんなものを作らなければやっていけなかったMerrilの弱さとか日々の辛さや疲れ – だからガールフレンドは出ていった – などが明らかになったりする。

そういうなかでAngieは自分はAIだからMerrilが食べさせて作ってくれた自分に関する過去のデータ以降の – つまり自分が失踪した後のデータも掘ろうと思えば掘れるよ、というので、やってみて、と頼んでみる、と。ここから先、ちょっとトーンがミステリーぽくなるのだが書かないほうがよいかも。

よくある自立(律)したAIが勝手に暴走して災厄や面倒をもたらして大変どうしよう… というお話しではなく、ある特定の人格を模したAIがAIであるが故にその本人とのギャップをどんなふうに認知して解消しようとするのか、それがそれを使う人に不幸をもたらすのだとしたらなんでなのかどんな要因によるものなのか、それってAIは人間ではないから、ということに尽きるのだろうが、では、その角度からみた人間っていったいどんなもんなのでしょうか(→人類学)。

AIは特定の、あるいはいくつかの目的を持って開発されたプログラムでしかないので、それがいなくなった人の穴を埋める癒しとして機能してくれればよいのか、それ以上のなにかを求めるのかによって動作(この場合は会話)は変わってくるはずなのだが、使う側はそんなに割り切って指令を出したりするわけではないし、その受け取りかたもAIが想定しているように一様ではない、その辺の – べつにふつうにあるはずの - 揺らぎがMerrilの疲れや孤独と絡まって増幅されてあんなことになっちゃうんだな、という模様はしんみりしょんぼりと理解できてよかったかも。よいこともあるけどわるいこともある。姉妹を演じたふたりの女優さん、押したり引いたりのコントラストがとてもよいと思った。

この部分、ドラマとしてもっと踏み込んでフランケンシュタインのようなホラーやじたばたコメディにすることもできたはずだが、あえて小さめのホームドラマ枠に踏みとどまった、のは賛否あるところかも。このテーマ設定で小津みたいなドラマをリメイクのようにやってみたらぜったいおもしろくなるよ。

いちおう、西海岸のAIの専門家に聞いて作ったりしてはいるようなので、やや類型的すぎるかもだけど、割と地続きのかんじはした。(少なくとも映画”her” (2013)にあったような違和感はない) 今の技術でできなさそうなところには踏みこんでいないような。

最近の仕事のほうだと猫も杓子もチャットボットで、みんないいかげんにしようよバカになっちゃうよ、なのだがそれくらいばかばかしい手仕事が多くてやってらんないということなんだな、ってしみじみしている。ほんとにさー(えんえん)。
 

10.01.2023

[film] Stop Making Sense (1985)

9月27日、水曜日の晩(20:45の回)、英国でいちばんでっかいスクリーン(宣伝文句)のBFI IMAXで見ました。
お仕事とのあれでいうと、この晩はもう既に先約が入っていることにしておいた。それでもなんか言ってくるようだったら具合が(を)わるくして…

久々に訪れたBFI IMAX。始まる前にBen & Jerry'sのアイスクリームを食べようとしたらもう閉まっていてしょんぼりした。ロックダウンを経て少しだけリノベしたっぽい。

A24がクリーニングして4Kリマスターしたあとで、David Byrneがあのでかジャケットをクリーニング屋に取りにいったやつで、もう何度も見てきた1本なので、どうせ見るならIMAXのしかあるまい、と思っていたらちょうどやっていた。この週末からは”The Creator”が大々的に始まってしまうので見るならこのタイミングしかない。

上映前の予告は、BFI Southbankの方でやっている小津安二郎生誕120周年記念特集の – うまく繋いでてなかなかおもしろ - と、エヴァンゲリオン(いつのどのバージョンかはしらぬ)ので、こんな夜遅くに見に来ている年寄りたちの反応は「ははは..」くらい。もう少しちゃんと流すの選べばよいのに。

でっかい音とでっかい画面であの世界 - としか言いようのないあれ、がやってくる。音楽を演奏しているライブを撮影したライブフィルムであることはわかっているのだが、バンドの像を見るのでも個々の曲にひたるわけでもない。最初からじゃーん/がーんと、どうだ! ってくるのではなく、ステージに現れた時点で目がどこか別の世界を彷徨ってて決して笑わない愛想よくない、画面とともに巨大化したDavid Byrneがラジカセとギターいっぽんでじゃかじゃかやりだす、なにひとつお呼びでない異物感がこちら側をじわじわと浸食してきて、なんで自分はここにいるのか? ここにいるべきではないのに! ここってなんだ? ってひとちパニックし始めているその後ろに、ひとりまたひとりと呼んでもいないのに奏者が増えて勝手に音が重ねられてバンドらしきうねりが生まれ、背後のセットも勝手に組みあがっていく。もはやTalking Headsというバンド? ですらない - Tom Tom Clubの曲だってやるし - どこの誰から誰までがメンバーとかどうだってよいしお囃子の音には一切関係ないし - そんな巨大な空虚のまんなかにいるDavid Byrne、その背後にできあがってしまう世界のありようそのものが、そのぜんぶが、”Stop Making Sense” - もう降参しろあきらめろ、ってわんわん言い続けてくるので、あのちゃかちゃかどかすか(たまに)ぴーひゃら - 耳鳴りのようにずっと鳴り続けているリズムにどう対処すべきなのか? だれか教えて! のような不条理の城を抜けて最後まで走っていく。 こうして最後は誰もが踊るしかなくなるのだがその手前というか背後にはこれだけの問いなどが投げられていた、というのを知っていた方がよいのかどうか。これが出た当時にはなんでNYの片隅でがしゃがしゃぎこちない音を鳴らしていた彼らがこんな分厚いポリポリの音をやりだしたのか、こんなのやる必要があるのかの議論がなされたものだったが、いまだとなんかわかるわ。

思えば”American Utopia” (2020)もいま立っている場所や前提をぜんぶ初期化した上に意味がある/ないの境界とか文化的コンテキストの要素や要不要を散らして、そんな場所から音楽やダンスはなにでありうるのか? を問いていたような。それらはすべて正義や倫理のあり姿を、その拠って立つところから問い返そうとしていたような。

とにかくIMAXだと音がぶ厚くてバンドがフル編成になるとあちこちから虫みたいにいろんな音がわんわん跳ねたりぶつかったり、それがたまんないし気持ちよいし。でも、気持ちよいからなんでもいいじゃん、にはしたくないの。これらの音については。

客席のほうもステージと同様に盛りあがっていって普通に勝手にわーわー歌ったり拍手したりしていた。おかしかったのはライブのように席たってトイレに行ったりする人がいっぱいいたこと。ただのトイレだったのかどうか?


9月も行ってしまったが、続けて週末も行ってしまうようー。

[music] PJ Harvey

9月28日、木曜日の晩、Roundhouseで見ました。新譜 - “I Inside the Old Year Dying”のツアー、ここでの2 daysの1日め。

ここにはお仕事で来ているので放課後といえども自由勝手に動きまわることは許されない – 勿論ちゃんと言えば許されるに決まっているのだが、にっぽん人会社の海外拠点における振る舞いというのはばっかみたいにいろんな成分が積み重ね塗り固められてできているので、そこに抵抗したり小細工したりはただの無駄で面倒で郷に入ればで、されるがままに任せるのがぜんぶうまくいく。ただ、向こうが忙しいのでごめんなさいになっている時は別で、いえいえどうぞお気遣いなくー が成立すればこっちのもん。

ただそれは現地に着いてからの勝負となるので、これみたいに前売り時点であっという間にSold Outしていたらどうすることもできない、ゆえにほぼ諦めていた。けどじりじりと観測していたら2日前に何枚かリリースされて、2階の椅子席 – この会場は基本スタンディング - が出ていたので買った。(もういっこ、ちょうどThe Nationalも来ていたので、こちらも横目で眺めつつ)

Pollyを見るのは2017年の6月にKings Placeであった詩の朗読会(+サイン会)以来で、その時に最近はずっと詩を書いたり読んだりしている、と語っていたその成果が(おそらく)物語詩集”Orlam” (2022) として編まれて、9歳の少女Ira-Abel Rawlesの目に映った畏れと驚異に満ちた田舎の1年間をドーセット地方の言葉で綴ったその世界を音楽へと敷延したのが新譜なのだとすれば、こんなの見に行ったほうがよいに決まっている。

前座なし、客入れで掛かる音楽もなく、開始の20時に向けてうっすら流れていたホワイトノイズのような環境音が大きくなっていき、そこに乾いた学校のベルの音が重なって、白の衣装を着たメンバー4人と袖なしの白のロングを着た彼女が現れて、上からの光線のようなスポットに包まれて静かに歌いだす。ステージの端にはお茶のテーブルがあって、花瓶には新譜のジャケットにもあった素っ気ない枝がいっぽん。この辺、前回- 2016-17年の”The Hope Six Demolition Project”のやや粗っぽい墨版画のイメージとはぜんぜん違うのだが、どっちにしても無理して作りこんだかんじはゼロ。

バンドはいつものJohn ParishとドラムスのJean-Marc Buttyが中心にいて、他のふたりはいろんな楽器をとっかえひっかえ彼女の声に寄り添い、どんなに静かで穏やかでもエッジが緩むことはなく、滑らかというよりはきめ細かな糸を紡いで束ねていくその工程が目に見える、見せようとするエナジーに満ちている。 照明も背後の壁紙の目地や色も曲によって細やかにその表情を変えていって、Pollyがギターを持たない時のダンス手前の腕や影の動きにも過剰さはなく詩とともに放出される世界とひとつになっていて、いくらでも見ていられる。 歌声を張りあげたりシャウトしたりすることはないのに、あるトーンをもって世界に立ち向かうドーセットの少女の顔と声がこちらにやって来る。

最初のパートは新譜の12曲を全て通しで - 途中で新譜にも参加していたColin Morganがゲストで参加(..Ben Whishawじゃなかった)し、インタールードではPolly以外のメンバーが真ん中に並んで立って歌って、そこから後半に入ると昔のレパートリー中心となる。

彼女のライブを最初に見たのは”To Bring You My Love” (1995)の時のBeacon Theatreので、そのあと、”Stories from the City, Stories from the Sea” (2000)の時のもNYで見て(この6日後に911が..)、”Uh Huh Her“(2004)のも見て、John Parishとの”A Woman a Man Walked By” (2009)の時のライブも見て、渡英の直前にオーチャードホールで前作のライブも見て、結構追って見てきたつもりなのだが、彼女のライブって、ほんとにぜんぶ違って、ぜんぶ違うので昔の曲はどれも初めて聴いたような生々しさで耳を触ってくる。今回だと”Man-Size” – “Dress” – “Down by the Water”あたりの流れがすばらしくよくて、”Man-Size”のカンカンした冷たい太鼓の鳴りが”Down by the Water”のうねりのなかに溺れて沈んでいくようなとことか、たまんない。

あと、新譜の世界に近いところにあるのか、”Angelene”や”The Desperate Kingdom of Love”の湿り気、最後にやった”White Chalk”の世を突き離して眺めているようなかんじも、これらの小道を歩いてさっきの世界にたどり着いたことが見渡せるセットになっているのだなー。


久々のロンドンの週末となったが、懐かしいもくそもなく、地下鉄とバスで美術館とシアターの間をあっち行ったりこっち来たりするだけで終わってしまった。このちっとも変わらないかんじはなんなのか。