12.31.2017

[log] 年のおわりに

今年もいちばん最後の1日が来てしまった。
(そうか日本ではもう明けているのね)
昨年のは海外への引越しを前にどうすんだよこれ、と床に無言で積まれて広がる本たちを前に愚痴を並べて悪態をつく、という最悪のやつ(ごめんね)だったが、今年はどうだろうか - 新しいとこに引越してまだ8ヶ月だし、まだ床は埋まってないよね? て思うでしょ? あーらびっくりだわよ。

ものは勝手に散らかるんじゃなくて散らかすひとが散らかすんですよ、て親からさんざん言われた。
そのとおり、としか言いようがないわよね。 いまさら。(居直る)

近所のPeter Jonesていうデパートでふつうにでっかい木の棚(4段)を3つ買った。
そのうちひとつはレコード用で、ふたつは本用のにするはずで、そうなって、日本から来た箱からのとこっちに来てから手にいれたのを鼻歌しながらマージして並べていったのだが、もう空きがほぼなくなりつつあるってのはどういうことか?

新しい棚を追加しなきゃいけない ← ✖️
新しい本とかレコード買うのは控えないといけない ←

ここでふんばって誓いを守らずに、とりあえず、で床にひとつ置き始めるとあっという間に繁殖して蔓延して止められなくなるもんだ、なんてわかりきっているのだが、そんなことしてなんになるのか、そいつを年末に誓ったところでどうなるというのか、って結局開きなおって、次の年もぐだぐだになるというこれ自体がゴミの展開と連鎖をどうにかー。(って誰にお願いしてるんだ?)

現実的な解としては新しいのを買うのを控えつつも全体の量が減っていくことは余りなさそうだから次の棚を考えるか、次の部屋を見つけるか、そういうことなのかしら ← おとなっぽい。
あと、スペースがありさえすれば、箱とか束とか山とかあっというまになくなるんだな、ってあったり前だろぼけー。

オーディオは、とにかく繋がってレコードの音を出せるようになったのはうれしい。
最初に鳴らしたのは、こないだ出た”The Queen is Dead”の箱の。(他になにが?)
電源が違うので日本には持って帰れないからと、安めのプレイヤーにしたら45回転の盤をかけたいときはテーブルを持ち上げてベルトを掛け直さないといけないやつだった。ちょっと面倒くさいのだが、まあいいや。
CDプレイヤーのほうはまだアンプと繋ぐケーブルが見つからない(どこで売ってるのか、どうやって見つけるのか)ので、まだ当分先になりそうかも。このまま1年過ぎたりしてな。

25日のクリスマスは(このところずっと続いている)朝からの暗い雨で、午後に少しだけ止んだので、いつもお散歩するKensingtonの公園の方に行ってみただけ、でもリスも池の鳥たちも相変わらずだった。 ウィーンから戻ってからも16時には暗くなって雨と風がびゅうびゅうになり、それが朝8時過ぎに明るくなっても暫く続いて、午後に少しだけ止んだと思ったらもう日が沈む、これの繰り返し。
とにかく冬至は過ぎたから、少しずつはよくなっていくよね、と思いたい。

2016年はほんとーにひどい一年だった。2017年は前年にひどいことした連中が消えずにのうのうとのさばって、結果いろんな分断や乖離が進んで至るところでテロや暴力が起こって、更にひどいことになった。 あのまま日本にいたら頭がおかしくなっていたかもしれない、それくらいここから見えるあの国の様相はひどくて、来年も楽観できそうなことはちっともないし、臆病なのでおめでとうなんてとても言えないわ、て思う。

でも、新しい出会いはあるし、変わらずに付きあってくれそうなひとがいてくれることを信じて、その人たちに向かって、よいお年を、来年がすばらしい年になりますように、と言います。

ああ本当に、よい一年が訪れますように。

さてこれから、こういうモードのまま、2017ベストを選ぶよ。

[art] Viennaそのた -- December 2017

27日のウィーンはVienna Passていう、大抵の施設に並ばなくてもさっさか入れて貰えるパスと、交通機関も1日券を事前に買っておいて、とにかく見れるのを見れるだけ作戦で突撃しようとしていて、先にベルヴェデーレ宮殿行って、そこからシェーンブルン宮殿行って、これらを午前中にやっつけられればあとは楽勝、とか思っていたのだが、死ぬほどどうしようもなく甘いことがわかった。

Belvedere

朝9時に開くベルヴェデーレ宮殿に9時過ぎに着いて、その頃は霧で下宮の方があまり見えなかったのだが、だんだん日が昇ってくると見渡せるようになった。でっかい。
上の宮の見どころはなんといってもKlimtの”Kuss” - 「接吻」で、その部屋だけ人だかりができていたが、絵自体はどうかしら? なのだった。やたら豪勢だし国宝なのだろうが琳派の絵を見るときに感じる、ふうん〜、がやってきてしまうのはなんでか?
Klimtの絵だったらここに沢山展示されている初期の作品群もすばらしいし、Neue Galerieの”.. Adele Bloch-Bauer” (1907) とかいまSFに行っているプラハの”The Maiden” (1913)とかのほうが...とかつい。

あと、やはり地元だからかどこに行ってもOskar KokoschkaとかついこないだNYで見たRichard Gerstlがあるのもよかった。 Kokoschka、動物や風景を描いたすごくよいのがいくつか。

The Challenge of Modernism: Vienna and Zagreb around 1900
https://www.belvedere.at/exhibition/viennaandzagreb

Belvedereの下宮でやっていた展示。
1900年当時のウィーンとクロアチアのザグレブとの間の交流・交易(というのがあったらし)がもたらした文化面の相互影響を絵画(肖像画)、彫刻、建築、インテリア、服飾に宝飾、様々な角度から掘り下げてみる。作品としてKlimt, Koloman Moser, Robert Auerなどなど。そもそもNeue Galerieあたりが得意としてきた展示の凝縮版のような、でも個々の作品の粒は素敵で。

面白過ぎてカタログ買わないわけにはいかず。

Die Kraft des Alters - Aging Pride
https://www.belvedere.at/aging_pride

その名の通り、歳を取る、重ねることをテーマとした絵画、写真、ビデオ、などなどの包括的な展示。 KlimtにSchiele、PicassoにPina Bausch(”Kontakthof”ね),  Juergen TellerにIshiuchi Miyakoに、モデルや被写体は老人ばかり、新旧アーティストの幅は凄まじく広くておもしろいのだが、時間がない中ではもったいないよう、だった。
Agingのテーマって、常に死と隣り合わせのところに来てしまうので、そことの時間的な、空間的な折り合いとか関係性をどうつけるか、どう見せるかなんだなー、って。 時間かけてみたかった。

あと、少し離れた昔の厩(馬小屋)のところで”Medieval Treasury”って、中世のキリスト教美術の小展示をやっていて、(かつての)馬小屋のなかに朴訥なキリストさんがいっぱいいて、なんかよかった。

Schönbrunn Palace

シェーンブルン宮殿に行ってGrand Tourていう宮殿内の40くらいの部屋をAudio Guideで巡るのに入ろうとしたら時間制なので門のとこの窓口でチケットに替えておいで、と言われて、替えてみたらエントリーの時刻まで1時間半くらいあった、のでその時間で宮殿敷地内のZooに行こう、どっちみち行くつもりだったし、と向かってみたらとんでもなく遠くて、すみません馬車ください、になった。
Belvedereもそうだったがとにかく全体がばか広く見渡すことができて、そこをてくてく歩いているだけで自らの平民ぽさにうんざりしてきて、これこそがMaria Theresiaの狙いなんだわ、て思うのだったがもうなに言ってもおそすぎる。

Zooは、パンダとかクマとかペンギンとか見れればいいや、楽勝だわ、だったのだが、寒いので動物たちはあんま外にいなくて、ああこれが静物と動物の違いなんだわ、で、おまえどこに隠れてんだよ、そっちに行くんじゃねえよ、とか追っかけるのが大変であっという間に時間が過ぎてしまった。絵と生き物はちがう。 パンダ(2頭いた)は笹むしりでご機嫌でよかったけど、それにしても、こんなとこにZooをつくってしまうとはMaria Theresiaのやろうめー、だった。

打刻された予定時間より30分遅れて入ることになった宮殿のなかは、そりゃ凄いわよね、としか言いようのないやつだった。 これまでにChatsworth House見て、Buckingham Palace見て、さっきのBelvedereも見て、ヨーロッパの宮殿(みたいなの)の大筋はわかったつもりになっていたが、ここの各部屋ごとの練り上げかたはちょっと異様なかんじがした。Maria Theresiaの念 - Audio guideでは、彼女はたくさんたくさん子供を作りました、ばっかり強調されていた - だろうか。

次はヴェルサイユ宮殿待ってろ、としか言わない。

Leopold Museum
Museumsquartierていういろんな中小の美術館が固まっている一角(なにあれ?)にある美術館で展示ふたつ。

Vienna 1900: Art from the Leopold Collection

ここの収蔵品から、KlimtにHoffmannにKokoschkaにAlfred Kubin(わーぅ)に。Belvedereの特集展示も1900年だったけど、この時期、ほんとぐじゃぐじゃだよね。 ものすごく洗練されたところと魂が溶けだしたみたいに泥臭いところと、両者が当たり前のように共存していて、そこに「世紀末」なかんじが漂わない(ように見える)のはなんでか。

Egon Schiele: Self-Abandonment and Self-Assertion

最近、ロンドンの地下鉄のホームに少し早過ぎました今でもまだ、て局部を隠したSchieleのかくかく大判絵が貼ってあったりするのだが、それってこの展示と関係あるのかしら?

2014年の秋にNeue Galerieで見た “Egon Schiele: Portraits”ほどの迫力とどぎつい感じはなくて、タイトルの「自我の遺棄、自我の誇示」が示すように彼の視野・視界が捉えた世界を割とストレートに、わかりやすく伝えようとしているかのようなセレクション。
Schieleの絵って、暗いようでいて、実はそんなでもないことが見たあとのかんじも含めてよくわかる構成になっていた。

これを見て外に出ると、もう真っ暗でぐったりしたので一旦宿に戻って仮眠を取って再び外に出る。

Albertina
宿の近所でやっていたので行ってみるか、程度で展示をみっつ。 晩9時までやっているし。

Monet to Picasso

MonetとPicassoの間になんかあったのかしら、と思ったらそういうのではなくて、単に収蔵作品からこの二人の活躍した時代の作品たちを作家別にざーっと並べているだけなのだった。 しかも本当にただ並べているだけかのような雑駁感がすごかった。 デパートの展示即売会かよ、みたいな。
(日本の「特別展」にありがちなやつね)

Raphael

ここで見たかったのはこれで、なのに上の階でやっていた↑があんなだったので大丈夫かしら? だったのだが、これはよかった。 夏にOxfordのAshmoleanで見たRaphaelのドローイング展がなかなかの衝撃で、ここのはあそこでの展示も一部取り入れつつ、”Portrait of Bindo Altoviti” (1514/15)とか、”The Virgin with the Blue Diadem” (1511) とか、”The Virgin and Child” (1508)とか、”The Madonna and Child with the Infant Saint John” (1508)、といった世界中からかき集められたぴっかぴかの油彩群が見事な光を放つ。 ドローイングの間に置かれたそれらの眩しさときたら発掘品がいきなり4Kリストアされてびっくり、のようなかんじで、でももちろんリストアなんかではなくて、こいつらは500年前からずっとこうなんだわ。 神さまが宿っているんだわ、としかー。

Robert Frank

彼の最初期の作品から“The Americans”を経て最近のまで、一挙に並べてあった。
Viennaの人たちに、これら50年代のAmericansはどんなふうに映った/映るのかしら? て少し思った。


Kaiserliche Schatzkammer

28日の朝、9時オープンと書いてあった国立図書館に行ったら10時からと言われて、その横でやっていた美術史美術館の分館のImperial Treasury - 王室宝物館? に入った。 王室の王冠とか宝石とか刀剣とかケープとか燭台とか、王様たちを王様たちたらしめていたじゃらじゃら群がこれでもか、と並んできらきらしてて圧巻だった。こういうのはあんまわからないので、このなかで、王様からひとつ貰えるとしたらなにを貰うか、とか考えながら見たりする。 
いっこ、「ユニコーンの角」ていうのがあって、そいつは欲しいと思った。

Spanish Riding School

ウィーンでなにを見るべきか、を会社のひととかに聞いてみたら、これを教えてくれたひとがいて、お馬さんによるパフォーマンスなのだが、むかしZingaroとか見たし、むかしマラケシュで騎馬のショーも見たし、映画で走る馬を見るのも好きなので、行くことにした。 11時からで、専用の縦長長方形の競技場があって、正面の貴族連中が座るぽい指定席のチケットは€300くらい、立ち見でも€38くらいして、伝統的なものらしい。
なんで”Spanish”かというと15-16世紀頃、スペインの統治下だった頃にスペインの馬と共にその独特な調教法も持ち込まれて、そのメソッドを使って調教の成果を(王様たちの前に)披露した、というのが発端らしい。

ドイツ語と英語で解説してくれるMCのひとの説明の後に、ものすごく毛並みと体躯のしっかりした白く輝くお馬さんが列をつくって現れて、立ち上がったりスキップしたり斜め走りしたり、いろんな技を見せてくれる。 曲芸、というほどアクロバティックではなくて、あくまでも軍隊式の統制を効かせた、調教するライダーとされるお馬の一体感を強調するようなやつ、つまり儀式に近いかんじのあれだった。 お馬さん、たいへんだねえ。

Österreichische Nationalbibliothek

Spanish Riding Schoolの会場の横にあるオーストリア国立図書館、ここのState Hall(大広間)。
でっかい空間に古本がいっぱい並んでいるだけでわーわー嬉しいので静かに狂喜しながら見た。
ちょうど、フリーメーソン300年の展示、ていうのをやっていたが、はまると1時間くらいかかりそうだったので横目で図面とか文書とか眺めた程度にした。

Haus Wittgenstein

ウィーンに来てから、「ウィーン」で頭の奥になんか引っかかり続けるのがあって、そうだ『ウィトゲンシュタインのウィーン』を学校の頃ずっと読んでいたではないか(今の平凡社ライブラリーの前のやつね)、と2日目の昼間に思い出し、そこからそういえばアール・ヴィヴァン(ていう雑誌があったの)の『ウィトゲンシュタインの建築』ていう特集もあったよね、と思い出し、あの建物は見れないのか、と探してみたら車で10分くらいで行けることがわかったので、国立図書館の後に行った。

着いたらドアは鍵がかかってて、ベルを鳴らしても反応なくて、でも負けるもんかと何回かやっていたら鍵が解かれて管理人らしきひとが出てきて握手してくれて、入場料(€5.3)払ったら地下から上まで好きに見ていいから、て言われる。 他には誰もいない。

なんかキッチンとか寝室とか、ふつうの人の家として使われているふうだったのだが、窓の高さとか錠前のデザインとかは昔読んだかんじのままだったので満足した。外はものすごくかんかんに寒くて、そのかんじもぴったりはまっていた。


ここから地下鉄で中心部に戻って、出たところにSt. Stephen's Cathedralがあったので、中に入って神さまにいろいろ感謝して懺悔したお祈りして、ウィーンの旅はおわり。

クリスマスマーケットもいろいろ出ていたけど、あんまなかったのが残念だったねえ。
食べ物は気がむいたらそのうちにー。

[art] Rubens: The Power of Transformation

前にも書いたがここの会社の休みは12月23日から1月3日までと結構長くて、いろんな人からクリスマス(12/25)とNew Year(1/1)のロンドンはなーんにもないよ、と言われ続けて、あまりに何にもないせいか秋口くらいからみんなそれぞれ旅の予約を始めて、日本に里帰りしたり、スペインとかイタリアとか暖かいほうに向かったりいろいろ企画してて、でも人からなんもないって言われれば言われるほどどういうもんか一度は見ておきたいよね、になったのでクリスマスとNew Yearはロンドンにいるつもりなのだが、通してずうっとここにいてもさすがにきついかも、という気がしてきて - 映画もライブも休暇モード - セレクションがどこか安易なの - に入ってしまう - ちょっとだけどこかに行ってみるか、と、ウィーンに行くことにした。

NYに行くたびにNeue Galerieに通っているうちにウィーンは行かなきゃな、になっていたので決めるのは早かったのだが、パリみたいに1泊の弾丸にするかもう少し時間を取るべきかが悩ましくて、リストを作っていったら1泊はどうみても無茶、になったので2泊にした(イタリアやスペインに行けないのはこの悩みがあるからなの)。 で、26日の朝7時のフライトで向こうに行って、28日の夜7時過ぎに戻ってきた。

まだ十分整理できていないのだが、このままだらだら過ごして年を越すとぜんぶ忘れてしまう気もするのでとりあえずざーっと書いておく。 見た順で。

Kunsthistorisches Museum
26日の午後、ウィーン美術史美術館は着いて最初に行った。

昨年の12月に”Das große Museum” (2014) - 『グレート・ミュージアム ハプスブルク家からの招待状』を見たのもあるし、なんにしても美術好きなら必須だし。ただ全部見たら1日かかる気がしたので今回は絵画部門だけ。

Rubens: The Power of Transformation

やっていた企画展がこれ。
RubensはデュッセルドルフのMuseum Kunstpalastに行った時もじっくり見ることができて、見る機会には割と恵まれているのだが、熱狂的に好き、大好物というわけではなくて - 例えばRembrandtとかと比べるとね - でも見れるんだったら見るわ、と。
“The Power of Transformation”のテーマで世界中から集められたドローイングからスケッチからでっかい奴らまで、無名なのも有名なのも約120点を並べる。

Transformation - 変容、ていうのはいくつかの角度から言うことができて、簡単なところでいうと古典彫刻のドローイングから、それを油彩の画布や板絵に展開していくのもそうだし、色彩やフィギュアをよりドラマチックに変容させることもそうだし、風景画であればよりダイナミックにパノラマみたいに拡げてみるのもそうだし、より細かで微細な補正や修正を延々施していくのもそうだし、要するに絵にがーんとした堂々たるインパクトを与えるため - 支えてくださる神さまたちのためにもな - にはなんだってやる、そういうことなのではないか。 カタログのエッセイのタイトルに“Rubens at Work with Scissors and Paste: The Artist as Creative Editor”ていうのがあったが、そういうことかも。 今だったらPhotoshopとか堂々と使ってどうよ、とか平気でいう。

面白かったのは、Tizianoの“The Worship of Venus” (1518/19) とそれを模したRubensの(1635)と、さらにそれが大々的に展開敷延された”The Feast of Venus” (1636/37)が並んでいるところとか。  あとは女性の身体の肉感、その肉肉した豊かな表現はこれでもかと並べられているとすごいなー、って思うし、有名な”Haupt der Madusa” (1617/18) - 「メドューサの首」の置き去りにされている気持ち悪さも同様の、現代のコマーシャル・アートにも通じるぎらぎらした野望みたいのを感じた。 そして、それができてしまったこの時代の巨匠、ていう。

これはカタログ買ってしまったわ。

他の絵画部門の展示もおもしろくて、つまりここに展示されているのは美術(品)だけではなくて美術(史)でもあるのだなー、と。 つまり「美術史」の入り口で問われる「美(術)とは」、「歴史とは」という問題意識が西欧の傾きあれこれと共に揺らいでいった近現代のアートは外してあって、展示経路を追っていくと大凡の流れ(「美術史」のような)を掴むことができるようになっている。 ひとつの建物のなかにそれが実現できるだけの量と内容がある、ていうのはすごいよねえ。 ていうのとやっぱり美術史、もうちょっとちゃんと勉強しておけばなー、というのは(いつも思うこと)。

こうしてDürerもRaffaelloもMichelangeloもArcimboldoもBruegel(バベルの塔、あった)も Bosch(そういえばYaleからCatalogue raisonnéが…)もVelázquezもVermeerも、それも極め付きの名作ばっかし、ざーっと見ることができた。おなかいっぱい。
(ルーブルでここまで集中して見ることができなかったのはなんでなのか?)

今度来たときは、上のフロア(カエル...)も制覇して、あそこのカフェでお茶をしたい。

長くなりそうなので一旦切る。 26日はこことあとは街中をうろうろするだけで終わってしまった。

[film] Les Diaboliques (1955)

10日、日曜日の午後にBFIで見ました。 “Can You Trust Her?” (or Who can you trust? )からの1本。
4K restorationが先月完成したばかりとかで、そのバージョンでの上映。 邦題は『悪魔のような女』。

パリ郊外の寄宿学校に陰険で横暴でものすごく嫌な校長(Paul Meurisse .. またこのひとだわ、やな役ばかりね)がいて、学校のオーナーである妻のChristina (Véra Clouzot)には俺が校長をやっているからなんとかなってると言わんばかりに傲慢なことやりたい放題で彼女は疲れきって具合も悪そうで、更にこいつは学校の教師のNicole (Simone Signoret)とも愛人関係にあって、更に生徒や職員にもしょっちゅう当たり散らしたりするので目一杯嫌われていて、そういういろいろが積もり積もってあまりにひどいので、Christinaの友達でもあるNicoleはもう我慢できないよね、とふたりで計画を立てて、Nicoleは渋々嫌々ながらも協力することにして、少し離れた田舎にあるNicoleの部屋にふたりで出かけて校長をおびき寄せ、酒に入れた薬でぐったりした野郎をふたりしてバスタブの底に沈めて殺してから箱詰めして車に戻ってその箱ごとそのまま学校のプールに沈めてしまう。

誰にも見られてないし気づかれていないし静かになったし、うまくいった気がしていたのだが、しばらくの間はプールから何か浮かんできたり見つかったりしないかとか、どこかで見つかった死体が彼じゃないかとかChristinaはどきどきはらはらで、人探しを手伝いましょうかって現れたねちっこいじいさんにつきまとわれたり、沈めたときに校長が着ていた気がしたジャケットがクリーニング屋から戻ってきたり、生徒からの目撃証言まで現れたりNicoleの心臓によくないことばかり起こって..

これはねえ、完全にやられたねえ。 最初は完全犯罪を狙ったスリラーかと思っていたら途中から学校ホラーになっちゃうのかしら怖いことになるのかしら? になって、そしたらさあー。
あれが立ち上がったとき、場内でも「ひっ」ていう声があがったけど、あのおっかなさはなによ、って。
でもそうだよねえ、冷静に考えたら自分ちの学校のプールに沈めるのってリスク高いし変だったのよねえ、とか思いあたることばかり。

結局全員かわいそうなことになってしまうのでぎりぎりで地獄は回避されている感があるのだが、それでも最後に残るのはこの状態をもたらす悪の根っこみたいなのがのさばる気持ち悪さで、それはどこまで行っても説明されないまま。  

タイトルをそのまま訳すと「悪魔」なんだけど、なんで邦題は『悪魔のような女』になっちゃうのかねえ。悪の根源はどう見たってあの校長なのにねえ。やーねー。

12.25.2017

[film] Dancing with Fred Astaire

5日、火曜日の夕方、BFIで見ました。 映画というより2時間のイベント。
Jonas Mekasさんが新刊本 - “Dancing with Fred Astaire”のリリースを記念して最近の映画日記を上映して、トークをしてサイン会をする、という企画。

おおむかし、大学生のとき、まだ四谷にあったイメージフォーラムで見た”Lost, Lost, Lost” (1976)には見たことなかったものに出会ったときの衝撃を受けて、なんであんなランダムにいいかげんに繋いでいるだけのように見えるのに感傷的で沁みてくるのか謎で不思議で、以降彼の映像も本も追いかけるようになったの。なに見ても読んでもおもしろいし。

Mekas氏の軽い挨拶のあとで、約60分の映像 “the Diaries of a Cinema Maniac” - 案内文の方には”the Notebooks of a Cinema Maniac”とあったけど - が上映される。 映画日記の最新のやつで、いくつかのエピソードが繋げられていくだけなのだが、おもしろかったのはSusan SontagさんがBela Tarrさんとかとおしゃべりしているやつ - 「あたしは自分の電話とかFAXとかはわかるしすきなのよ、でもさー、最近のemailとかonlineなんとかっていうのは一体なんなのよちっともわかんないわよ、でもさー、一番やんなっちゃうのはあいつらってとってもaddictiveなのよ、まったくどうしろってのよ」みたいなことをだらだら喋ってるとこ(Mekasの365 Day Project のなかにある)。
あと、胸元にお猿のぬいぐるみを仕込んだHarmony Korineが変てこなタップ - うまいんだかどうなんだかなかなか微妙 - だけどおもしろ - を披露するやつ (これもYou Tubeのどこかにあった)。
一番受けていたのが、米国からLondonに向かう夜行便の機内で、ファーストクラスにしてもらってご満悦のMekas氏がバーで、ビールとウィスキーを交互に飲んだりしながらこそこそ実況していくやつ - 「周りはビジネスマンばかりだからみんなぐっすり寝ておる - 起きているのは自分だけじゃ - 自分は詩人で、詩人は決して眠らないのじゃ - それにしてもこの酒はうまいのう - 極楽だのう - この変な水はなんじゃ? (なぜか南アルプスの天然水が..)ほんとに誰も起きてこないなあ」 みたいなのをえんえんやってて、止まんないの。

上映後のトークは新刊本にも載っている写真とかをスライドで映しながらその時々のエピソードとかを語っていくやつで、でもおじいちゃんの昔語りなので噛み合わなかったり脱線したりばかりでそれがえんえん止まらなくてなんか絶妙におかしい。
「初めてBrooklynのWilliamsburgに来た時はどんなかんじでしたか?」「天国かとおもったわ」とか。

Q&Aでの「なんで”Dancing with Fred Astaire”なんですか?」という問いには「”A Dance with Fred Astaire”というフレーズを挿入することで生まれてくる効果があって、自分は詩人なのでそういうことをやる、それにぼくは本当にFred Astaireと踊っているんだよ」って。
本当に踊ったエピソードは本の最初のほうに出てくるの。

昨年Spector Booksから出た”Scrapbook of the Sixties; Writings 1954 -2010”は、その通りWritingが中心なのだが、こっちは写真とか記録がいっぱいで楽しく読める。
冬籠りはお片づけしながらこれと”Grant & I: Inside And Outside The Go-Betweens”をぱらぱらめくっていく予定。

そしてなによりもJonas Mekasさん、昨日(24日)の誕生日で95歳、おめでとうございます!

12.24.2017

[film] The Muppet Christmas Carol (1992)

23日土曜日 - イブの前日の午後、Prince Charles Cinemaで見ました。
いま、ここの入り口の看板には”Merry Christmas Ya Filthy Animal” (Home Alone 2 の?) てでっかく書いてある。

このシアターではここんとこ、いろんなクリスマス映画をがんがんやってて、これも定番の1本で、普通の上映の他に、”Sing Along”(みんなで歌おう!)てのもやってて、どうせだからSing Alongの方を見てみよう! て行ってみる。(ちなみにこれのバージョンとして”Mean Girls” (2004) のBitch Alongていうのもあるの)
前方はちびっこを連れた家族連れでぱんぱんで楽しそうなホコリがいっぱい舞ってたので、後ろのほうに小さくなって座る。

時間になって暗くなると酔っ払いの賛歌みたいのを歌いながらマイクを握ったサンタさん(の格好のひと)がなだれこんできて、いろいろ楽しくガイドをしてくれる。 これは思いっきり歌ってよい上映会なのでみんなで歌うんだからね(静かに楽しみたかったひとはちょっとごめんね)、と立ちあがってサイドに分かれての発声練習(どっち側が声でてたかなあ?)とか、でもScroogeてのは憎たらし嫌な奴なのでこいつが出てきたらみんなで思いっきりBooをやるんだからね、とか、クリスマスにちなんだ扮装してきたひとをステージにあげてコンテストしたり、わいわい楽しいことをいっぱいして盛りあげる。 それだけじゃなくて、悲しいお知らせがあるのです… というのでなにかと思ったら、この上映バージョンではかつてVHSには収録されていたBelleの”When Love Is Gone”を歌うシーン(Scroogeをダークサイドに堕とす失恋するとこ)が入っていません、かつてVHSに親しんだレトロなみんなには申し訳ないけど我慢してね(ディズニーのくそったれ)、ていう。
最後の最後には、来てくれたみんなにプレゼントがあります、というのでなんだろ、てどきどきしたら、削除された”When Love Is Gone”のシーンをわざわざ上映してくれて、Scrooge! -そこでなぜ黙ってる? だから彼女は行っちゃうんだ、とか横で突っ込むことも忘れない。 こうして上映前に散々煽ってあげたあとでサンタさんは去っていった。 去り際の通路のとこで「もうこれ以上やれんわ」とぐったり呟いているのがおかしかった。

映画はいいよね。Charles DickensをThe Great Gonzoが演じていて、Bob CratchitをKermit the Frogが演じていて、Emily CratchitをMiss Piggyが演じていて、無慈悲の守銭奴ScroogeをMichael Caineが演じていて、ScroogeがGhostに連れられて過去を旅して自分を見つめ直して改心してめでたしめでたしになるの。

お芝居に関してはMichael Caineひとりがひたすら圧倒的だから、彼を見つめていればなんの心配もいらなくて、あとは病気のTiny Timが出てくるとみんなきゅう、て呻いて、あとはSing AlongのとこでMappetsとおなじように体を揺らして歌っていればひたすら楽しくて、年忘れっていうのはこういうものね、ってしみじみした。

ここで描かれているようなDickensの世界観については、今の時世に照らしてみたとき、いろんな意味でまったくもう、だし、世界中に数万以上いるにきまってるScrooge野郎におまえだよおまえ!って見せてやりたいものだが、少なくともこの場所でこんなふうに家族みんなで歌われているだけでもよいか、って。 これをパパママと一緒に見たよい子はあんなふうな大人にはならないよね。

終わって外にでたら次の回を待つ家族連れが笑顔でシアターをずらっと囲んでいた。


今週に入ってようやくオーディオの機械がばらばら届いて - 最後は面倒になってAmazon - つい先ほど結線をおえてなんとかレコードは鳴るようになった - CDはケーブルがないのでまだ - くらいなので今年のクリスマスソング、新しいのは仕入れてないの。
でもMTV UKのチャートで7位だったこの曲 - リリース30周年をお祝いして。

https://www.youtube.com/watch?v=AtFfhlZPLls

放映のときには”You cheap lousy faggot”の”faggot”はオフにするんだねえ。

みなさんもよいクリスマスを。 世界のいろんなみなさんにも(祈)ー

[film] Meet Me in St. Louis (1944)

今年の会社はおわった。もうなーんも振り返りたくないし思いだしたくないし仕事さん当分のあいだ戻ってこないで。

20日、水曜日の晩、BFIで見ました。『若草の頃』。

この時期になるとどこのシアターでも昔のクリスマス映画の定番を流すようになっていて、NYもその傾向はあるけど、Londonはもっと頑固に強引に押しだしてきて、”It's a Wonderful Life” (1946)とか、”Miracle on 34th Street” (1947)とかこれとか、”Home Alone” (1990)とか、”The Muppet Christmas Carol” (1992)とか、”Elf” (2003) とか、”Love Actually” (2003)とか、”Die Hard” (1988) ? とかがふつうにがんがんかかって、売り切れたりしてるのもある。
でも基本はみんなでわいわい騒いで楽しむ系のばかりで、たとえば”Carol”みたいのはないのな。

クラシックの定番の最初の3本でいうと、わたしは断然この”Meet Me in St. Louis”が大好きで、もう何回でも見るし見てるし。 最初に見た35mmの美しさに驚嘆して、今回の上映はDigitalだったけど(Metrographの上映は35mmだって。ちっ)、でもいいの。とにかくこれはぜったいによいの。

1903年の夏から翌1904年の春 - St.Louisでの世界博覧会までを季節ごとに区切って、一軒家に暮らすパパ、ママ、4人姉妹のいろんな - 隣家の男の子とのあれこれとか、パパのNY転勤話とか、四季の、どこにでもありそうな日々のどたばたを絵葉書 - Norman Rockwell - みたいに切り取って、楽しいみんなの歌で彩って、この場所に暮らすわたしたち家族、いいでしょうー、ていう。娘たちは成長してやがて家族は変わっていくし転勤も引越しもある、町も変わっていくのだろうけど、いまはこんなにも輝いていてすばらしいんだよ、って。 こういうのをクラシック、ていうのだと思うが、とにかくどこを切っても素敵でどこからでもあの世界に入っていくことができる。

変に固まっちゃった髪型でなかなか落ち着かない次女のEster (Judy Garland)が中心なのかもしれないが、この映画を無敵のクラシックに押しあげているのは、四女のTootie (Margaret O'Brien)のハロウィンの突撃とクリスマスの大虐殺で、一家の引っ越しの直前にEsterが猿のオルゴールを手に静かに歌う”Have Yourself a Merry Little Christmas”にべそべそひくひくした後でとつぜん庭に飛びだしびーびー泣きながら雪だるまさんたちをひとりひとりなぶり殺しにしていくTootieの挙動はわかるようでわかんないようで - 俺らがいなくなる家に残しておくのはかわいそうだから、なのか、いなくなった後にSt.Louisを勝手に楽しむんじゃねえよ、なのか、なんにしてもとてつもなく胸に刺さって、それ見たからって転勤をやめてしまうパパもたいしたやろうだと思うが、とにかくTootieが最強であることに異議はない。そしてなんであそこでいつも泣けてしまうのかもわからない。

このガキ娘最強伝説を現代に甦らせたのが”The Florida Project” (2017)のMoonee - Brooklynn Princeさんで、あの作品はすれっからしの今の時代の”Meet Me in Florida”なのだと思った。

12.23.2017

[film] A Matter of Life and Death (1946)

元のトラックに戻る。10日日曜日の午後、BFIで見ました。ここ以外でもリバイバル公開されている。
邦題は『天国への階段』- これはUSのタイトルに沿ったものなのね。

4KリストアされたMichael Powell and Emeric Pressburger監督作品。
予告を見たときからああこれは絶対見なきゃ、なかんじで、それは二人の”The Life and Death of Colonel Blimp” (1943) – とてもよかった - のリストア版のそれを遥かに超えるおもしろさを期待させたからで、果たしてそのとおりだった。

空軍のPeter (David Niven)の飛行機がドイツに行ったあとで爆撃されて、同僚は即死でパラシュートもないので絶対絶命で、その最中にイギリスの米軍基地にいるJune (Kim Hunter)と無線で交信したら切なすぎて互いに好きになってしまう(いいなー)のだが墜落を止めることはできないの。

墜落したPeterは自分でも当然死んだと思っていたのだが、実際には生と死の中間地帯にいて、彼を黄泉の国に送っていく天国のガイドがとんちき野郎で、彼は成仏できない状態のまま自転車に乗ってたJuneと出会って改めて恋に堕ちて、でもやっぱりふつうに死ぬでしょ、なのでそこの中間地帯で彼をどっち側に送るべきかの裁判になって、そこに突然事故で死んじゃったPeterの医師とかも絡んできて、いろんなバックグラウンドをもった検察側と被告側であーだこーだ延々言い合って、こんな奴らが勝手に決めてんじゃねーよ、とも思うのだが、最後はやっぱり愛だよね愛、みたいな、それをいいかげんと呼ぶべきなのか強引と呼ぶべきなのかご都合主義と呼んでよいのかイギリス的なんとかていうのはこういうのか、よくわかんないけど、大風呂敷で、大風呂敷すぎるので案外こういうものかもしれない、と思わせてしまう説得力みたいのは、確かにある。

自分の生と死の一線を引いたり決めたりするのは誰なのか、何なのか、そこに国籍や歴史や法(ってなんだろう?)や因果はどう絡んでくるのか、がその場所を彷徨っている無数の兵士たちの像 - 彼らはどこに行っちゃうのだろう - を背景に議論されて、そういうのがちょっとありえないような上から見下ろしたりでっかく広がったりのパースペクティブと共に漫画(大島弓子)のように描かれる。『四月怪談』の底が抜けた切なさはこれの線上に浮かんでいる、と言ってよいのではないか。

とにかくPeter - David Nivenの軽さと軽妙さが絶妙で、「死んでも誓えるか?」と問われて「はい。でもむしろ今は生きたいのです。」ていうところなんて何度みてもかっこよくて泣きそうになる。
このすばらしい軽さ、天使のような軽さは最近だと”Dunkirk”のTom Hardyが持っていたものかも。

こういうお話 - A Matter of Life and Death - っていつもこんなかんじでみたいのよね。
それにしても、これを1946年にリリースしちゃった、ていうのはすごいねえ。

[log] NYそのた - December 2017

NYのその他あれこれ。あんまないけど。やっぱ短すぎ(泣)。

滞在中の天気は最悪でめちゃくちゃ寒かったのだが、そんなの気にしている暇ないくらいばたばたで、MTAの地下鉄は相変わらず最悪でFはこないは⑥はとろいはLはもうじきなくなっちゃうし、まったくもう、だったのだがそれももうええわ、になりつつある(Londonのとどっちがひどいのかしらん?)。 でもどっちも典型的な冬のマンハッタンだったなあ。

行きの飛行機で見た映画。

Home Again (2017)

西海岸に暮らすAlice Kinney (Reese Witherspoon)はもう亡くなった60-70年代に敬愛された映画監督(モデルは誰だろ – Cassavetes?)の娘で音楽業界で東海岸にいる夫のAustin (Michael Sheen)とは別居状態で、子供ふたりと母(Candice Bergen)と暮らしながらばたばたで、映画製作のスポンサー探しで西に来ていた若者3人組 – 監督になりたいHarry (Pico Alexander)、脚本を書きたいGeorge (Jon Rudnitsky)、俳優になりたいTeddy (Nat Wolff) – とバーで知りあって酔っぱらっていろいろあって、3人はAliceの家でしばらく一緒に暮らすことになる。 Harryにとっては憧れの映画監督の家だし、3人は家のお片づけも修繕も子供たちの相手をするのも得意だし、HarryはAliceに突撃してくるし、心配になったAustinが様子を見にきて、HarryとAliceの恋とか、どうなっちゃうのか。

アラフォーでだめだめのあたしの前に突然現れた3人の万能年下男子、ていう線で目を覆いたくなるような宣伝文句群が浮かんできてしまうのだが、ラブコメとしては悪くなくて、こういう多方向からの投げ縄にはまったときのReese Witherspoonのテンションというか運動神経というかはしみじみすごいって感心した。

たべものとか。

Made Nice  15日の晩

かつてShake Shackを生みだしたEleven Madison ParkのDaniel HummとWill Guidaraがつくったカジュアルなサラダと鶏料理 – Chicken Fritesのお店。 Videoがおいしそうでさあ。

http://www.foodandwine.com/video/hungry-yet-made-nice

天候のせいか時間帯のせいか客があんまいなかったのが気になったけど、鶏はなかなかおいしかった。
価格がちょっとだけ半端に高いかなあ、LondonのNando'sのPERi-PERi chickenまでには行かないかなあ、どうかなあ、とか。

Egg   16日の朝

場所が少し変わったあと、一度昼に行ったらぱんぱんの1時間待ちとかだったのだが、朝早めに行けばじゅうぶん入れた。 アメリカのパンケーキ、アメリカのベーコン、アメリカのコーヒー。 場所が違うんだからそりゃ違うんじゃろ、だけど、Londonのとの違いはどこからどう始まったのかなあ、て思って、ぜんぜん関係ないけどヘーレン・ハンフの『チャリングクロス84番地』を少し思い出した。 アメリカのベーコンとか送ってあげて喜ばれるところ。

Prime Meats  16日の晩

こちらもほんとーに久々。そしていつものようにきちんと地下鉄のFが動いてくれなくて30分くらい遅れた。

隣のコーヒー&骨董&レコード屋もまだやってた。よかった。

http://blackgoldbrooklyn.com/

相変わらず混んでて、でも相変わらずおいしいのねえ。
Niman Ranch(カリフォルニアの牧場)のお肉を使ったSteak Fritesがあったので頼んで、ああアメリカのお肉 - 適度に柔らかくて適度に硬くて熟成なんかとは関係ないすばらしくよい香りとバランスがあって – 泣きながら噛みしめる。
ここドイツ系なんだけど、これまでドイツで食べたどのお肉の風味とも結構ちがう気がする。

Buvette   17日の朝

丁度一年前にGreenwich Villageのここにきて、4月にParisのお店に行って、またここに来た。
(日本にもできるって..  ふうん-。Sarabeth'sといいClinton Street Baking といいeggといいここといい、なんかおかしくね)
日曜の朝早めだったからか普通に座れて相変わらず狭くてごちゃごちゃで落ち着かないのだがおいしいので文句ない。

本、レコードはLondonのアパートの棚とか床が既にどうしようもなくなりつつあるので抑え気味にした。 けどどっちみち焼石だし。順番に書くとStrand行って、Rough Trade行って、AcademyのAnnex行って、WORD行って、McNally Jackson行って、Academyの12th st.行って、Mast Books行った。
でもMast Booksを最後にしたのは大失敗だったわ。最後の最後でなんでこんなのが… みたいのばかり出てきて泣いた。 Joan Didionの”The White Album”の初版サイン本が$500だった(買わない)。あと、昔のFaceとかIDのバックナンバーとか。

あと、Bergdorfの7階のクリスマスのお飾り売り場、相変わらずすばらしかった。
HarrodsもLibertyもよいし、雰囲気はLibertyのに割と近いのだが、Bergdorfって、なんでかデパートの売り場のかんじがあんまりないのよね。よくわかんないものもいっぱい置いてあるし。

帰りの飛行機は何にも食べずに飲まずにかんぜんに落ちて、気がついたら朝7時すぎ - でもまだ暗いHeathrowだった。 地下鉄で戻ったら体力なくなって会社やすんだ。

まだなんかあったようなー。

12.22.2017

[art] Stephen Shore, 他

NYでみた美術関係の主なやつ。

Stephen Shore

15日の夕方、MoMAで。金曜の晩のMoMAは○ニクロさんのおかげでタダになる - ○ニクロばんざい(棒) - ので、”The Last Jedi”のあと、Saks Fifth Aveの壁面ぐるぐるとロックフェラーセンターのツリーを拝んでから行った。

写真家業50年を記念してのレトロスペクティブ。Shoreの写真というと、ぺったんこで漂白されたような風景がまず浮かんでくるが、60年代からのスナップから始まって、結構地道にいろんなことをやりながら写真というメディアの可能性を追っていったひとなのだな、というのがわかる。 写真が見せてくれるもの・残してくれるものは何なのか、あるいは「写真史」がなにをしてきたのか、をそんなに難しく考えこまず大らかに、その結果として眼前に広がってくるでっかい風景を風通しよく提示してくれる。

Londonでポラロイドの展示をやっているWim Wendersが写真家で唯一興味を持てたのがStephen Shore、と言っていたのを思いだした。

これはカタログ買った。

あと、MoMAでこれ見るの忘れて地団駄ふんでる。
“Club 57: Film, Performance, and Art in the East Village, 1978–1983”
4月迄にはなんとしても…

Carolee Schneemann: Kinetic Painting

16日の午後、Williamsburgで”Lady Bird”を見たあと、歩いてRough Trade NYCに行って、そこから歩いてAcademy RecordsのAnnexに行って、そこから歩いてWORD Bookstoreに行って、そこからバスでPS1に行った。歩きながら凍死するかとおもった。

Carolee Schneemannの(信じられないことに「初」だって)大規模回顧展。初期のWillem de Kooningふう抽象表現主義の絵画から入って、絵画のフレームを飛びだして自身の身体、女性の身体を素材としてHappening, Body Art, Performing Art, Media Artの領域にまでぶちまけて、女性の身体をめぐる文化的、政治的、社会意識的なバイアスとか偏見とか無意識とかを掘り起こし、捌いて開いて干して食べてみろ、という。 いわゆるフェミニズム・アートね、と片づけたいひとは見向きもしないのかもしれないけど、その手作りのタッチ・試行錯誤の足取りも含めてすばらしかった。 “Kinetic Painting”とあるように、これらは彼女にとってはセザンヌなんかと同列の絵画なんだろうな、とか。

暗くなり始めた頃にPS1を出て地下鉄を乗り継いでMetropolitan Museum of Artに走る。
ここのクリスマスツリーもこの時期には必ず拝むの。

Balthus - Thérèse Dreaming (1938)

撤去運動があると聞いて、冗談じゃないわよねー、と改めて見にいく。
これ、自分にとっては世界最強の猫絵なんですけど。
Thérèseを夢の世界に誘っているのは画面右下から滑り込んできたごろ猫で、こいつはチェシャ猫だしアルタゴオルだし、これを公開禁止にするんならアリス本を全部発禁にしてみろてめー、なの。
こういう絵を見て妄想を膨らませるひとが悪い、とまで言うつもりはないけど、ほんとに嫌な世の中になったものよね、Thérèseを夢の世界で遊ばせてあげてよ、て思った。


Michelangelo: Divine Draftsman and Designer

Michelangeloは、こないだNational Galleryで見た“Michelangelo & Sebastiano“がなかなか豪勢で強力だったので、見ておくか、程度で行ってみたらこっちもなかなかものすごかった。Michelangelo自身のだけでなく、師匠や弟子のも含めたドローイング(133点)を中心とした包括的な展示。 彫刻に絵画に建築図面みたいのまで、世界中からよく集めたもんだわ、だった。

今年は何故かいろんなドローイングの傑作を見る機会に恵まれているのだが、質量共にこれが一番すごかったかも。 ドローイングって、完成図、最終形の手前の設計図とかデモのようなものだと思うのだが、その段階でここまで世界を、肉や霊(みたいの)を掌握できてしまう驚異。そしてこの人は完成された作品になにを求めていたのか、どこに行こうとしていたのかしら? とか。 神の起案者にして設計師。

カタログは、すこし悩んでやめた。


David Hockney

Michelangelo展の横でやっていたのでついでに見る。 Tate Britainのも含めると5回目くらい。
具体的な点数は確認していないがTateのよか規模は少し小さかったかも。代表作は網羅されているのだが、近年のいくつかとか四季の野道を撮った映像作品とかはなかったし。

あと、Tateは撮影不可だったけど、こっちはOKだった。


Quicksilver Brilliance:  Adolf de Meyer Photographs


Edward Steichenと並ぶ初期ファッション写真の大家の小展示。
サイズは大きくないが、どれも表面が濡れたように光っていてその中で浮かびあがるポージング、その輪郭がかっこよくて、”Quicksilver Brilliance”というタイトルがとてもしっくりくる。 日本の風景写真(なんてあったのね)もなかなか。


Rodin at The Met

本国での没後100年に合わせてMetの所蔵品を中心とした小特集。「考える人」とか”The Tempest”とか定番ばっかりと、書簡とかドローイングとか小物とか。やっぱしパリのGrand Palaisのはすごかったよねえ。

これ見るの忘れて地団駄ふんでる。 2月までかあ…
“Edvard Munch: Between the Clock and the Bed”


12.21.2017

[film] Bombshell: The Hedy Lamarr Story (2017)

17日の日曜日の午前、IFC Centerで見ました。
夕方には空港に行かなくてはならない(やっぱ短すぎだわ)のでパッキングとかもあるし最後の買い物もあるので映画を見るなら早い時間のほうがよくて、Metrographでの11:30からの”Meet Me in St.Louis” - 35mm - にするかこっちにするか、だったのだがより近くて時間も早いほうにした。

Hedy Lamarr (1914-2000), 30-40年代のハリウッドで活躍し、一時は“the most beautiful woman in the world.”と呼ばれたスターで、女優としては”Samson and Delilah” (1949)のDelilah役、くらいしか知らなかったのだが、実はこんなことをしでかした人でした、と。

Hedwig Eva Maria Kieslerは、ウィーンのユダヤ人の銀行家の娘として生まれ、5歳の頃からオルゴールを解体して戻して、のような機械いじりが好きだった少女は30年代に女優になり、Louis B. Mayer - ライオンのMGM - Metro-Goldwyn-MayerのMayer – たぶんこの時代のHarvey Weinstein - の目にとまってハリウッドに渡るとHedy Lamarrていう大スターが誕生する。
(このへん、映画側のコメンテーターとしてはMel BrooksとPeter Bogdanovichが出てくる)

女優としての彼女のキャリアは当時のハリウッドに典型的なそれ – あがってさがってくっついて離れての繰り返し - のようだったのだが、もともと発明大好きだからってHoward Hughesとデートをした際、彼の飛行機のデザインの相談に乗ってあげたりして、Howard Hughesはおもしろがってトレイラーに彼女用のラボを作ってあげて、彼女は撮影の合間に実験とかいろいろやったりしていた、と。

第二次大戦に入って、なんか戦争に貢献したいわと思った彼女は同じユダヤ系で作曲家のGeorge Antheil - “Ballet Mécanique” (1924) の人ね – と組んで、当時敵軍に妨害されまくっていた機雷信号の帯域を頻繁にランダムに遷移させることで妨害フリーにする強固な無線機器を開発して特許を取り、Navyに売り込みにいくのだが軍側は却下して(でも特許が切れた後になってちゃっかり盗用)、この話はそのまま歴史の隅に埋もれてしまう。 でもこの技術ときたら今や誰もが知っていてこれなしでは生きていけないWifi - Bluetoothの原型で、彼女たちがあのまま特許を維持していたらその資産価値は数Billion – いやもっといくでしょ – だったという。

いかにも(怒)だったのは、なんか貢献したい、と彼女が技術を売りに行ったらあなただったらこちらの方へどうぞ、と戦争債の売り込みとか前線基地への慰問とか、そっちの方にまわされた、って。

これが明るみになったのは1990年に雑誌Forbes が掲載した記事が元で、この映画のほとんどはその際に行われた彼女とのインタビューのカセットテープが元だったりするのだが、テープの向こう側で「そうなのよーあたしがやったのよ!」て明るく応える彼女の声が素敵だった。

私生活では結婚 - 離婚を繰り返し(結局結婚6回..)、晩年は万引きでしょっぴかれたり整形が崩れちゃったりいろいろあったようだが、それがどうしただし、かっこよいし、これもまた”Hidden Figures”だよねえ、てしみじみする。 これ、どっかの研究施設のおやじが開発したやつだったらもっときらきらに讃えられて表彰されまくっていただろうに、悔しいよねえ。

ドキュメンタリーとしてはへえ〜、で終わってしまうような薄いものなのだが、史実としておもしろいし「理系女子」が大好きらしい日本でも公開されてほしい。
ちなみに原題は”Bombshell”だからね。わかってるよね?

「ハリウッド」でドラマ化されてもよいと思う。
もんだいは主人公を誰がやるのか、やれるのか、よね。

12.20.2017

[film] Lady Bird (2017)

16日土曜日の昼、WilliamsburgのNitehawk Cinemaで見ました。
お食事しながら映画を見れるここにはずっと行かなきゃと思っていたし、この映画についてはLFFの最終日、Greta Gerwigさんの登場と共にいきなりシークレット上映されるし、2週間前のGreta GerwigさんのトークもあるPrivate Screeningの抽選にも外れるし、ずっと泣かされ続けていたのでLondon公開を待たずに見ちまえで、どっちにしても見る、だったの。

久々にWilliamsburgに行ったらきれいな住宅はいっぱいできてるし、Whole Foodsはあるわ小綺麗なスポーツジムはあるわApple Storeはあるわの別世界になっていた。 なんか捨て台詞を考えていたのだが、もういいわ。

上映前には本編に関係しそうな過去の映画 – “Maggies Plan”とか”Frances Ha”とか”The Meyerowitz Stories (New and Selected)” - ピアノ連弾のとこ - とか - をコラージュして開始まであと何分、とか手作りで楽しくやってくれて飽きさせない。つまんないCMなんて流れないの。
食べ物は初めてだし外れたらかなしーので、念のため近所の(これも久々の)eggでパンケーキ食べてから行って、飲み物だけオーダーした。 上映中にも運んでくれるので便利なのだが、映画に没入したいひとにはちょっとうざいかもしれない。

Lady Bird、当然のようにすばらしかった。2013年のNew Yorker FestivalでのNoah Baumbachとのトークで、やがて自身で監督する可能性についても語っていたが、ここまで見事なものになるとは。

見事といってもストーリーテリングとか編集とか画面構成が巧み、とかそういうことではなくて(いやでも、撮影のSam Levyの柔らかなフィルム撮影のような色味とかすばらしいのよ)、”Greenberg”でも”Lola Versus”でも”Frances Ha”でも”Mistress America”でも”Maggie’s Plan”でも、彼女がこれまで書いたり演じたりしてきたちょっと変わったクセのある女性の像が悩み苦しみあたまをかきむしるひとりの高校生の外観と魂に集約されて統合されて、なおかつそれが高校のときってあんなふうだったよね、とかあんな変わった子いたよね、にきれいに繋がっていって、つまりこの映画のなかにはなんとしても”Lady Bird”と呼ばれたかった02年のサクラメントに暮らすひとりの女の子がくっきりと存在していて、そのポートレートが青春映画の無欠の輝きを運んできてくれて、それを見る我々は彼女のことを畏敬の念をこめて”Lady Bird”と呼ばないわけにはいかない。

冒頭にJoan Didionの引用 - “Anybody who talks about California hedonism has never spent a Christmas in Sacramento.”が出てきて、つまり、Sacramentoで暮らす、というのはそういうことで、そこから出さえすれば、どこにだって行けるしなんにだってなれるんだから、目ん玉ひんむいてようく見ておけ、と。

02年のアメリカ、まだ911の余波で世界がどこに行っちゃうのか誰にも予測がつかなかった頃、Christine “Lady Bird” McPherson (Saoirse Ronan)の家でパパは失職していてママは病院で働いていて家計は苦しいから奨学金とか進学先は悩ましくて、うちのお財布状態でNYの学校なんて行けるわけないでしょ、だし、女子同士のつきあいもいろいろ面倒だし、ボーイフレンドとのつきあい(演劇やっているDanny (Lucas Hedges) – でもゲイだった → バンドやってるKyle (Timothée Chalamet) – でも遊び人だった)もなにをどうしたらよいのかわからんし、煩悶したり衝突したり格闘したり発見したり転落したりアップダウンが激しくて、でも白旗あげたくないので歯をくいしばってやけくそにつっこんでいって、でもどっちにしたって先は見えんし、なの。

全編を通してあはは、って笑って見ていられるのだが、個々のエピソードの内側にどれだけきつい地獄があったか、両親との確執や別れがどれだけしんどいものだったか、じゅうぶん想像できるので胸がいたくなる。(年齢的には親側の目線でも見ることができるはずなのだが、そんな度胸も余裕もないわ)

少女が大人になる話ね、て簡単に言いたいひとは言うのだろうが、「大人」ってなんだよこの糞豚野郎、なにがどうなったら大人になるんだか言ってみろおら、ていう世間との闘いは今もえんえん続いている、その限りにおいてこの映画で描かれた歯を食いしばる彼女の面構えは『大人は判ってくれない』のJean-Pierre Léaudとおなじ普遍不倒の強さを湛えていて、すばらしいったらない。

音楽はAlanis Morissetteの”Hand in My Pocket”とDave Matthews Bandの”Crash into Me”。この2曲が沁みてたまんないというひとは絶対見にいったほうがいい。
彼女の部屋に貼ってあったのはBikini Kill とSleater-Kinney “Dig Me Out” - だったけど..

Saoirse Ronanさんは”Brooklyn” (2015)に続いてまたしても。彼女にしかできない代表作が。

今年はこないだの”Call Me by Your Name”といいこれ – “Call me Lady Bird”といい、すばらしい青春映画と出会えた一年だった。同時に”Lady Macbeth”といいこれといい、すばらしく強い女性映画もいっぱいあった。

そろそろベストを考え始める季節かあ。

12.19.2017

[film] Star Wars: The Last Jedi (2017)

JFKには15日の11:30くらいにランディングして、入国などなどは思っていた以上にすんなり運んで、ホテルには13時前に入ることができたのだが、上映開始の15:30には雪が…  いいけどさ、雪で遊んでる余裕なんてないのよね。

42ndのAMCのシネコン内にあるDolby Theaterていう音響設計からなにからDolby社の仕様でやっている、量質含めていちばん音がとてつもないと思うとこで見た。3D/4DとかIMAXとかよりもここの音に全身没入できるところが個人的には好きで、唯一の難点は思いきりリクライニングできて気持ちよいので寝ちゃうかもしれないこと。

EP8のこと。 ネタバレとかもうどうでもいいよね。
戻ってきた18日(会社休んじゃった)の午後にもLeicester Squareで3Dで再見して、まだあれこれ考えていて、こんなふうに考えさせる - つまりこの話はEP9(以降?)でどう転がっていくのかがあんまし見えないので途方に暮れて考えてしまう - というのは間違いなくよいことで、この途方に暮れたかんじは「帝国の逆襲」を初めて見た直後の感触に近い気がした。

なんでそういう感じを抱いたのかについてはいろいろあって、お話の基本が向こうにやられっぱなしの負け戦なので、全体が悲壮なメロドラマみたいになっていること、そのメインの戦争の流れとは別のところで静かな修行の場 -  洞の奥で敵とか自分を見つめ直す - があって、師匠と弟子の間の確執や伝承があって、明らかにされた思いもよらない事実によって主人公が試されて、そういう内省とは別に捨て身で突撃していくRogue Oneたちがいて、捨て身の恋も生まれて、怪しげな協力者(Lando Calrissian vs DJ)が現れて、戦争とは関係ない変てこ動物がいっぱい出てきて、最後は間一髪で脱出するもののまったく先の見えない機能不全(Lukeの右手 vs 壊れたライトセーバー - に陥った負け陣営のしょんぼりした決意とともに終わる。

ただこれをたんなるdéjà-vuと呼んでしまうのは安易すぎる気がしていて、違うとこもいっぱいある。

Star Warsの9部作ていうのは、Forceの導きにより銀河系に善をもたらすジェダイ騎士団の活躍を中心に描くものだと思っていたのだが、ここにきてそうではなかったのが明らかになった、ていうのは大きいかも。 ジェダイはいなくなった、でも問題はそこではなくてForceのアンバランス状態がもらたす戦争とその悲劇にあって、ジェダイが消えたかに見える今、いったいどの光を頼って、目指していけばよいのか。
(ただもちろん、”Rogue One” ~ ”New Hope”の時代だってジェダイは壊滅状態だったわけだが)

真ん中の3部作でこれでもかと描かれたForceのDarksideを巡る魂の攻防は、割とどうでもよくなっていて、本作で”Darkside”という言葉は数回しか出てこないし、Darksideに墜ちるという言い方も出てこなくて、かわりにあるのは”Conflict”とか”Unbalanced”とか、そういう「状態」への言及と、その状態をもたらすどちら側につくのか、行くのか、来い、などということばかりがRey (Daisy Ridley)とRen (Adam Driver)の間でテレパシーのチャットを通して交わされていく(対話にはなっていない)。そしてその動きは、ほとんど動かず、動けずに凍りついているかのようなLuke Skywalker (Mark Hamill)とLeia Organa (Carrie Fisher)の存在やジェダイのあるべき像、などなどを一切考慮しない身勝手で性急なものだ。そしてもうYodaは地蔵のようになにもしてくれない。

善か悪か、ではなくて両論併記の時代、圧倒的多数 vs レジスタンスの時代、全てがトラッキングされてワープすら許されず、端から同じ色に塗り潰され握り潰されていく時代、最後には自爆テロでもやるか - しかない時代、いまの世のあれこれとこれらの符合についてぶちぶち語るのは野暮というものだろうか?  でもそういうの見ないふりしてStar Warsとか喜んで見てるんじゃねえよ、ていうのはある。

Rian Johnsonの監督作って、これまで”The Brothers Bloom” (2008)と”Looper” (2012)を見ていて、ジャンルはSFだったり時代劇だったりするものの永遠に繰り返されるなにかとか、それが途絶えて失われてしまうことへの刹那をエモーショナルに描くひと、という認識があって、ただエモが膨張しすぎてストーリーを変に不器用に圧迫するようなところがなんかなー、だったのだがこの作品に関してそれはとてもよい方向に機能しているのではないかと思った。 つまりこのSagaは銀河系のヒーローの活躍を描いたものなんかではなく、我々の時代の物語で、我々のこの時代はとてもとてもぶっ壊れていて真っ暗なんだけど、どうするよ? ていう切実さが前面に出ていて −
だからそんなの見たくない、て文句いう人(アートに政治は✖️.. の連中ね)がいっぱいいるのはわかるが、それっていいことだよね。レジスタンスの我々としては。

という見方もあるし、これはLuke Skywalkerという田舎で夕陽を眺めていた孤独な若者がひとり夕陽のなかに消えていく、その終わりようを描いた映画なのだ、ということも言えて、そういう角度から見てもくどくどしていなくてそんな悪くない、よね。

あとはおかまいなしに突っ走るPoe (Oscar Isaac)、わーわー啼いてるだけのPorgが掛け値なしにすばらしい。 Porg、Londonの公園とかにいたらいいのに。

次がJ.J.A.になる(戻る)のは結構心配している。 J.J.A.には今作のようなのは作れないだろうから。
この流れだとRobert Zemeckisあたりにやってほしいんだけどなー。

12.15.2017

[log] December 15, 2017

ここんとこ、割とどうでもいい系のことを書いていなかったので少し書いてみる。
前はよく飛行機乗る前とかにてきとーな思いつきとかを書いて投げたりしていたものだが、最近はぜんぜんそういう余裕がなくなって、飛行機に乗ることは乗るのだがなぜか電車に乗るみたいにばたばたしてしまうし、おうちではそういうの書くかんじにはならなくて、おうちのネタとしてありそうなのはお片づけなのだが、普段手をつけていないことについて書くのは想像力と勇気がいるのとこれは年末のネタにとっておきたいとか、適当に逃げて、じゃあ何について書くんだってばさ?

明日の朝にHeathrowを発ってちょっとだけNew Yorkに行ってくる。 ここんとこの年末の恒例のSWの新しいのにあわせたやつで、それなら木曜の晩に現地に入らないとだめじゃん? なのだが、英国って23日からクリスマスと暮正月の休み - 結構長いよね - に入ってしまうのでなんとなく休みを取りにくいのと、昔みたいになにがなんでもかぶりつく、みたいに強欲ではなくなっていて、どうしてかというと夏くらいの1ヶ月だか2ヶ月間、ケーブルの映画チャンネルでEP1から7までとRogue Oneを朝から晩まで延々流し続けてくれてさすがにもう死ぬほど見て浸かったかんじになったから。(ちなみに同様に、最近だと”Love Actually”をもう30回は見ている)

じゃあそんなら行かないかというと、やっぱり行くのであって、だってLondonのクリスマスとNew Yorkのクリスマスって、ぜんぜんちがうんだもの、ていうのもある。
ものすごい速さで日が短くなっていくのから目をそらしてしまえ作戦なのか知らんが10月の終わりくらいからデパートでは「クリ...」くらいの声が聞こえ始めたと思ったらケーブルTVではクリスマス映画専用チャンネルが立ちあがり、11月にはいろんなイベントとかセールの告知がびゅんびゅん往き来するようになり、その盛りあげかた食いつきかたはどう見ても異様だと思いつつもなんか憎めなくて、それはNYの今年もやってきそうだから電飾とかツリーとか始めるけどあとは各自勝手に楽しむようによろしくー、ていう放任しているようで後からじわじわ追い焚きしていくノリとは違っていて、それぞれに楽しいし、英国のノリはあと数年もしたらとてもとても愛おしいものになっていく気がするのだが、今の時点ではまだ、よくわかんねえけど騒いでやらあーおら騒げ(がんがらがらんー)、みたいな大雑把でとっ散らかったNYのノリが馴染んでてたまらなく恋しいので、渡って、浸ってくるの。

ということで、とりあえずは行く、いや絶対に行くんだから、に決めたものの、10月に仕事でイランのビザを取ってそこに入国していたので、もうあたしのESTAは無効になってて米国のビザを取り直す - ネットでいろんな情報入力して120£くらい払って大使館に行ってインタビューして - のが、なかなかとってもめんどーくさいのだった。
別にどこの国がどこの国を好こうが嫌おうが勝手にやってろだし、経済制裁ていうのはまだわかんなくはないけど、行き来のアクセスを制限することにどんな意味があるのかしら、ほんとばかみたい、って思った。
(もっとわかんないのはサン・フランシスコと大阪のあれよ。ばーっかじゃねえの)
(ここには書いてないけどテヘランはとっても素敵なとこだったよ)

ということで、こっちを金曜の朝 - あと5時間くらい後 - に発って昼頃に着いて、向こうを日曜の晩に発って月曜の朝に戻ってくる - たーったの2泊で、既にもうたったの2泊じゃなんもできねえようー って半分泣いてて、SW以外に見るものについては未だにうううううなりまくってばかりでちっとも決まらない。

BrooklynでLCDがずっと(10 days?)出ているけどなんか高いし、Yo La TengoがBoweryで(祝 復活)Hanukkah祭りをやっているけど、観光客にはHanukkahのかんじでもないし行くんなら毎日通うべきよねとか思うし、美術はMetでもう一回David Hockney行くか? でもないし、ちいさめの展示の見たいのはいっぱいあるんだけどねえ。どうしたもんかねえ、てぶつぶつやっている無駄な時間がとても楽しくて、着いたら着いたでぜんぶどっか行っちゃうのよね。

でも地味に燃えていることは確かで、気分としてはあれ、SWの予告の、ミレニアム・ファルコンの操縦席で雄叫びをあげてるあの丸っこい鳥みたいなやつの ー。

ではまたー。

12.14.2017

[film] One False Move (1992)

3日、日曜日の夕方、BFIで見ました。 "Who Can You Trust?"シリーズからの1本。 35mm上映。

日本では未公開でDVDのみ、そのタイトルは『運命の銃爪』…  こーんなにおもしろいのにな。
製作は"I.R.S. Media"て出て、I.R.S.って、レコードだけじゃなくてこんな映画も作っていたんだよね。

LAで悪者3人組 - 粗野で短気なRay (Billy Bob Thornton)、その恋人のLila (Cynda Williams)、一見知的だけど実は一番凶暴なPluto (Michael Beach) - がある家を襲ってそこにいた一家友人一同を惨殺して現金とコカインを奪って車でHoustonの方に逃げる。
そしたらHoustonで落ち合うはずだった相手にすっぽかされたのでLilaはあきれて、もう抜けて実家に帰るから、ってひとりStar Cityに向かう。 のだがその時に強奪した金さらっていっちゃうの。

で、実はLilaがStar Cityに向かうかもしれないことは犯行前の現場のビデオに少しだけ残されていて、FBIがそこに向かって動きだすのだが、それで張り切っちゃったのが地元で退屈しててなんかでっかいことやりたくてたまらない駐在警官のDale 'Hurricane' Dixon (Bill Paxton)で、実際に地元で重大事件が起こったかのようにはしゃいで落ち着きなくなって、この流れだとこのとんちんかんな張り切り野郎がどたばたでたらめやって無事解決、みたいな方に行ってもおかしくないのだが、そうはいかない。

LilaがStar Cityに戻ってきてから隠れ家で再会(そう、再会になるの)したDaleとのやりとりと、Lilaを追ってきた悪党ふたりと、さらにそれを追うFBIと、全員がどこかしら抜けててまったくもう、なのだが物語としてはあれ以外の行きようはないのかもしれない、って。
LAとかHoustonの近辺をぐるぐる廻っていた輪がだんだんに縮まっていって、ああいう場所でしゅん、てなるのってなんかよいの。

これが80年代中頃に映画されたものであったら、Daleの弾けっぷりも、3人組の狼藉も、DaleとLilaの成り行きも、御都合主義の名のもと、程よく無責任に肯定されて適当なところに着地して、あーおもしろかった、で終わっていたのかもしれない。 Ray - Billy Bob Thornton(脚本も担当している)の救いようのない汚れっぷりも、Daleの弾けきれずに抑えこまれてしまう不機嫌さも気まずさも、Lilaのずるずるした諦めのわるさ、ゆえの生々しさも、どれも80年代の反動 - 90年代のリアル、みたいなところまで思い起こさせるあたり、狙ってはいないにしても、相当きちんと考えて作っているのではないか。

もちろん、そんなこと言ったって何も説明したことにはなっていないし、若い子にははあ? なのだろうけど、これってなんだろうなー、って。
例えばグランジが傷を、リアルをさらす、みたいなところに行って小汚いのが止まらなかったのはなんでなのか、フィルム・ノワールがなんでみんなあんなふうにみんな破滅していっちゃうのかとか、おもしろいねえ。

Bill PaxtonもBilly Bob Thorntonも90年代の顔だなあ、って。

結局、One False Moveってどこの、いつの、なんだったのか? (ぜんぶじゃ)(たとえば)

12.13.2017

[film] Love, Cecil (2017)

2日、土曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。 Cecil Beatonの評伝ドキュメンタリー。

むかしから、美術本や写真集の古本を漁るようになった頃からいちばん謎だったのがCecil Beatonの本て、どれもなんでみんなあんなに高額なのか、ていうことだった。始めはアメリカにいたから? とか思っていたがイギリスに来ても同様で、なんであんな女王陛下が写っていたりLife誌の表紙を飾ったようなポピュラーなやつらなのにびっくりするような値段なの? って。 最近ぽつぽついろんなアンソロジーが出始めたようなのでだんだんに下がっていったり復刊してくれたりすることを望む。

写真家でイラストレーターで映画や演劇のコスチュームやプロダクションデザインもやって、インテリアデザインもやって、要するにどんなものに対してもどんな状況にあっても、そこにある美と醜の間に明確に線を引いて嗅ぎわけて、最高に美しい状態にある何かを引き出したり浮かびあがらせたりすることができる名手で、自分にしかできないやりかたで自身の生活や人生をデザインした(ふつうはそうするよね、でも..)耽美家。

監督は、Lisa Immordino Vreeland - "Diana Vreeland: The Eye Has to Travel" (2011) とか、"Peggy Guggenheim: Art Addict" (2015) を撮っている人 - で、そうするとDiana Vreelandのことも必然的に頭に浮かぶ(彼女は03年生まれ、彼は04年生まれ)。 どちらも美に溺れてめろめろになりつつもそこにうずくまって絶望したり隠遁したりせずに、メジャーなところで自身の「眼」を惜しげもなくあれこれ晒して、美を愉しむこと、その愉しみかたを教えてくれたひと。 危険といったら危険、かもしれない。

映画は生前のインタビュー映像とDiaries(復刊してほしい)をRupert Everettが読みあげつつ、彼の生い立ちや家族のこと、Cambridgeでの目覚め、ガルボへの恋と失敗、 Kinmont Hoitsmaとの恋、写真家としての成功、などなどなど、いま手に入る資料はほぼ網羅しているかんじ。
関係者の証言としてはHamish Bowles、Leslie Caron (Gigi!)、David HockneyにDavid Baileyに。

びっくりするような未知の事実や事情が出てくるわけではなくて、既によく知っている彼の肖像 - ハンサムで、頭が切れて、ナルシストで辛辣で時として獰猛で - を折々の写真や映像と共に紹介していって、その像は整った彫刻のように揺るがないし、彼の多彩な活動の中心にある情動を”Love”と呼んでみることもできるに違いない。ものすごくよくできた、完成されたアイコン。

最後に出てくる白猫Timothyのエピソードだけどこかふつうの人ぽくて。

ドラマにするとしたらCecilを演じるのは誰になるだろう? Armie Hammer? かなあ。

Lisa Immordino Vreelandさんによる本 - *Love, Cecil: A Journey with Cecil Beaton*がABRAMSから出ているのを見つけた。映画にも出てきた資料も網羅した内容で、少し考える。

来年の七夕、The Cureの40th AnniversaryのHyde Parkが発表になった。 これは行かないとだねえ...

12.12.2017

[music] Paul Heaton and Jacqui Abbott

7日の木曜日の寒い寒い晩、少し西のほうのEventim Apolloていうホールで見ました。

The Beautiful Southについては、"0898 Beautiful South"(1992)の後のクアトロ公演(ほんとうにほんとうにすばらしかったのよ)に行って大好きになって、ベスト盤"Carry On up the Charts"(1994)の後のNY公演(Supper Club)も行って、クリップ集のLDだって持っているんだからー。

このふたりのデュオはこないだ6月くらいの週末に彼らの地元のHullのスタジアム(!)でライブがあるのを知り、しかも前座がThe Divine ComedyにBilly Braggだったりしたので行くことを真剣に検討したのだが、結局諦めて泣いていたらロンドンにも来てくれた。 当然他の都市も含めて軒並みSold Outしてて、なんかすげえわ、としか言いようがない。

会場に入ったときは前座の、よくしらないラテンロカビリー歌謡みたいなおにいさん(..ごめんね)が演ってて、20:45くらいに彼らが登場する。 バンドはG,B,D,Kの極めてベーシックな4人。 Paul Heatonがギターを抱えたのは一曲だけだったか。 ふたりの恰好は.. Jools HollandだったかのTVショウに出ていたときもそうだったけど、Paulはサッカー場にたむろしてるおっさんみたいだし、Jacquiはただのジーンズにただのシャツだし、ステージ映えしないこととてつもない。 でもこのふたりがこれ以外の恰好(ドレスとか..)で歌っているところを想像できないこともたしか。

Jacqui AbbottさんはBeautiful SouthのNY公演のときに見ているはずなのだが、とにかく二人とも底抜けに歌がうまくて楽しくて(それらを一切感じさせないような上手さと力の抜け具合と)、聴いてるひと全員から笑顔が絶えないし、みんなずっと一緒に歌って手拍子してるし。
そして、嬉しいことに、このふたりときたら、The Beautiful SouthだけでなくてThe Housemartinsの曲もやってくれるんだよ。

しかもその比重は後半に行くにつれて「わかっているから」、てかんじで高まっていって、"Sheep"をやって"I'll Sail This Ship Alone"をやったあたりから後はもうなにをどうやってもわーわーのお祭りで、でもでもどんちゃん騒ぎで一気に突撃、とか爆発、とかではなくて、みんなその場でにこにこぴょこぴょこしながら歌っているだけなの。
その多幸感ときたら、ABBA(もうじきSouthbankで展覧会がはじまるよ)並みの強さで襲ってくるような無敵感があった。
いまの時代、これはこれで貴重だとおもう。 ぽんこつでも酔っ払いでもいい、歌えるんだったら歌おうかー、って。

本編ラストの"You Keep It All In"の真ん中あたりなんて、ふたりが歌わなくてもみんな勝手に歌ってひとりでに走っていくの。
バンドは極めてタイトで安定していて、昔のモータウンとかスタックスのハウスバンドみたいな凄味のある強靭さ。
で、でっかいクラッカーが吹きあがって花吹雪がぱらぱら舞って、わーってなって、ああ年の瀬だなあー、と。

アンコールは2回、最初のが"A Little Time"と、ついに、やっぱしやってくれたわ、の"Happy Hour"。 2回目は"Song for Whoever"やって、バンド全員のアカペラのドゥーワップで劇甘の"Caravan of Love"をやってしゃんしゃん。

自分にとってのLife saverだなあーって改めて。 なんどでも通いたい。


関係ないけど、Simple MindsとPretendersが一緒にツアーするって。 彼らもういいの?

12.11.2017

[film] One Man's Madness (2017)

1日の金曜日の晩、BFIで見ました。 ここでは月に一回くらい、Sonic Cinemaていう音楽と映像を激突させて楽しんでみようていう上映とかイベントをやっていて、それの12月分。
Madnessのドキュメンタリーの上映後に、同作品の中心人物であるらしいMadnessのLee Thompsonさんと監督のJeff Baynesさんのトークがある。

でも行こうかどうしようか直前まで悩んでいて、だって、Suggsが来るんだったら喜んでいくけど、Lee Thompsonだとさあ、とか、タイトルからして、実は彼ひとりがMadnessの狂った部分をぜんぶ担っていた、みたいに重い内容だったらどうしよう、とかうだうだ。

客層は当然男の、中年以降のでっかいの、ずんぐりはげあがったの、が多め。 終わったらそのまま右から左にパブにじゃぶじゃぶ流れて道端に転がっていきそうな人々。
上映前にもLee氏は現れて、満員になっていない会場を見渡して、ふざけんじゃねえぞおら、みたいにひと暴れして去っていった - なんとなくたけしみたいなノリ。

これ、iMDBにもまだ登録されていなくて、DVDでこれからリリースされるらしい。

バンド結成時からのクリップやライブ映像を交えつつ、家族や関係者へのインタビューを重ねていく、というオーソドックスな構成なのだが、もんだいは、家族とか関係者をLee Thompson自身がひとりで変装したり仮装したりお化粧したり物真似したりして演じていることなの。声だけは本人達のをあてているし、Suggsとかバンドメンバーは本人が出ている(当然)のだが、だれそれのパパとかママとかまで、彼がひとりで真面目に演じていて、さらにバカらしいことに、Lee本人もその背景のどこかでひとりバカなことをやっていたりする。 だから"One Man's Madness"なのだが、なんかめちゃくちゃおかしい。演じられている人がどんな人なのかほとんど知らない、どれくらいの違いがあるのかわからないのにおかしい、ていうのはなかなかのもんで、そんなにMadnessを深く追っかけてきたわけでもないのにこれだけおかしいのだからコアなファンは、というとみんなひーひー泣きながら笑い転げまくっている。

なんでこんなことやってるんですか?とQ&Aで聞かれても、やってみたらおもしろかったから、ってそれだけ。
Welcome to the House of Fun ! - Madnessって、そもそもこんなバンドなのよね、というのは十分に伝わってきて、それがさー結成40年を過ぎたってこうなのよ、と堂々と宣言してくれるところが偉いなあ素敵だなあ、て思った。

最後には仮装されていた本人たちが画面に登場して本人比でどれくらい違っていたかを教えてくれるのだが、誠に残念ながらポイントはそこにはないのだった。 でも、どっちにしたって、どいつもこいつもみーんな変なの。 これが英国の宝(だよね、ぜったい)なのだとしたらすばらしいったら。

上映後のQ&Aも、質問の答えから外れた雑談みたいの - そういえばあんなことがあってよ - がほとんどで、漫談みたいになってしまい、ついでに登壇させられた(としか思えない)おとなしくて真面目そうな監督のひとがかわいそうなくらいだったが、おもしろいのだからまったく文句なかった。

姿を見ることはできなかったが会場にはClive Langer氏がいたし、映画にも登場したStiff RecordsのDave Robinson氏は同じ列にいてマイクを握って、”One Step Beyond"はStiffの収益にはあんま貢献しなかった"、とか発言したので、ああん? てぶちきれたLee氏が、おまえリングにあがってこいや! ていう一触即発状態になったりして楽しかった。

[film] In a Lonely Place (1950)

日曜日は雪で、今日も昼間雪まじりの雨で、朝は7:30でもまっくら。 ロンドンがこんな寒いなんてだれも言ってくれなかった。

11月25日、土曜日の午後、BFIのGloria Grahame特集で見ました。「孤独な場所で」。

これを最初に見たのは確か三百人劇場で、その後、NYでも何回か見た。
でも"Film Stars don't die in Liverpool"でGloria Grahameがあんなひとだったことが見えてわかってしまうとどんなふうに見えてくるのか? いや、評伝映画を見たからといって、そのひとがわかってしまうものではないし、それはそれで危険かも知れないけど、でも。

ハリウッドのスクリーンライターのDixon "Dix" Steele (Humphrey Bogart)がいて、もう落ち目で、ある晩、いつものようにバーでぐだぐだやってからバーのクロークの女性をおうちに連れて帰ったけど疲れたのでひとりで帰らせて、そしたら彼女はその晩に殺されてしまう。彼にも容疑がかかるが、アパートの向いの部屋の女優Laurel(Gloria Grahame)が庇ってくれて、それをきっかけにふたりは仲良くなるのだが、一緒にいるうちに彼の暗いところか癇癪もちなとこがだんだん見えてきて、彼は真剣に結婚しようって言ってくるのだが、あまりに怖いので嫌になってきて、逃げることを考え始めて、やがて。

後半はサイコパスみたいなDixがLauraを追い詰めていくサスペンスに見えなくてもなくて、早く逃げろ、てはらはらしっぱなしで、Laura - Gloriaは本当に恐怖で震えて、逃げようにも逃げられないふうに縛られているようで、でも彼を愛したことは確かだったので、などなど。

Dixが呟く有名な台詞 - "I was born when she kissed me. I died when she left me. I lived a few weeks while she loved me."も彼の実像があんなだとわかってしまうと、ものすごくおっかない別の意味を帯びてきて、Lauraが最後にこれに対して返す"I lived a few weeks while you loved me."は、「あなたが愛してくれた数週間は生きてた」という過去形が、彼が背中を向けて行ってしまった現在にどんな意味を持ってくるのか、よくわからないままで終わる。 愛を喪失しても生きているという状態がどんなものなのかわからない、けど生きているのだからなんかあるのかしら? のような黒でも白でもない灰色の中間状態を"In a Lonely Place"といって、それってあるよねえ、とか思うのだった。

わたしにとってのHumphrey Bogart像というのはこの映画のDixのキャラクターを主成分として作られているので、Humphrey Bogartをかっこいい、とかいう男をみるとあーこいつはやばいわ、て思うようになっている。
あと、Dixの詩にあるような男のロマンチシズムってJim MorrisonからNick Caveに至るまで、なんかえんえんあるよね。 ぜったい死なないくせにさ。

同じ日の午後、"In a Lonly Place"に続けて、これを見ました。

Double Indemnity (1944)

BFIでは10月から12月まで、”Who Can You Trust?”ていう古今のスリラー映画の特集をやっていて、その前のStephen King特集とあわせて、あんたらどんだけ人を怖がらせたいのか、て下を向いてしまうのだが、ちゃんとした予告編とパンフまで作っていろんなのやっているので、がんばって見れるのは見ていこう。

http://www.bfi.org.uk/thriller

この特集ではフィルム・ノワールの古典もいくつかかかって、これらは好きなので見るのだが、フィルム・ノワールって結構見ているはずでもすぐに忘れてしまうのが多くて、映画が始まってから、ああこれはあれだった、とか、そういう掘り起こしを楽しむ、ていうのもあるの。

監督がBilly Wilder、脚本がBilly Wilder & Raymond Chandlerのこれも、冒頭のオフィスので、あああれだわ、て思った。 邦題は「深夜の告白」っていうの。

深夜のオフィスに怪我をしてよろよろと現れた保険屋の営業のWalter Neff (Fred MacMurray)が録音機に向かってなんか告白を始める。

ある日、保険の契約更新で訪れた家で、そこのしなしなした人妻Phyllis (Barbara Stanwyck)に引っ掛かって、誘われるまま言われるままに骨を抜かれて、彼女の旦那を殺して保険金をぶんどる完全犯罪を企むことになって実行して、一度はなんかうまくいったように見えたのだが、Neffの上司のBarton Keyes (Edward G. Robinson)のなかに住むLittle manが立ちあがってしまって、さあどうなっちゃうのか。

ノワールの分類でいうとFemme fataleもの、になっていて、実際Barbara Stanwyckの艶分ときたらすごーい、としか言いようがないのだが、それだけではない犯罪に足をつっこんで泥沼にはまっていく過程とか土壇場でのついてなさとかがとっても生々しくスリリングなので、見ているひとはみんな唸りまくっていて、最後はもう拍手するしかないふうになる。

でもあんなふうに夜明けのオフィスで汗まみれ血まみれのまま死んじゃうのはやだなあ。

12.06.2017

[art] Portrait of the Artist: Käthe Kollwitz, 他

アート関係を纏めて。あんまし纏めてしまいたくないのだが。

Thomas Ruff: Photographs 1979 - 2017

11月11日の土曜日、Whitechapel Galleryで。
"Porträts "のシリーズを始めとして、Ruffのは昨年の国立近代美術館のも見たし、7月にStädel Museumでの"Photographs Become Pictures"でも見ているのだが、今回のは初期の連作"L’Empereur"(1982) が見たかった。 感触は同様に初期の"Interieurs"に近い、室内のもやっとした暖かい光のなかでぐんにゃり折れ曲がって崩れて置物のように放置されている若者 - Ruff自身 - これのタイトルが「皇帝」って、素敵。  彼の写真は表面の肌理の粗さ - 細かさ、暖かさ - 冷たさ、強さ - 弱さ、などを通して見られる対象としての写真の置かれようを問いかけてきて、これって写真というアートフォームに留まらない今のアート全般に関わるでっかい問題で、だからあんなにでっかいのよね、とか思った。

Portrait of the Artist:  Käthe Kollwitz

11月18日の土曜日、電車でバーミンガムに行ってIkon Galleryていうところで見ました。
バーミンガムはロンドンから電車で2時間くらいのところで、こないだの夏、OxfordにRaphaelを見にいったのと同じ少し遠出してみようシリーズ。東京から佐倉とか伊豆とかに行くようなかんじかしら?
初めてなので地図を見ながら歩いていったのだが運河があって、おもしろい建物がいっぱいあった。

ドイツの表現主義に分類される画家、版画家、彫刻家 -  Käthe Kollwitz (1867?1945)の展示。 British Museumとの共催で展示作品の殆どはここから、あとは個人蔵のがいくつか。 作品はエッチングとドローイング、戦争の悲惨をモチーフにしたものとSelf Portraitが殆どで、4バージョンくらいの"Frau mit totem Kind" (Woman with dead child) (1903)の爪で引っ掻いてその傷に酸を練りこんだかのような痛ましさと、Self Portraitに漂うどんよりとした無力感とか凍りついたようななだらかな背中とか。 他には "Vergewaltigt" (Raped) (1907)の凄惨さと。 昔はこういうのあまり見れなかったのだが、今は見なきゃいけないよね、になってきているのはなんでか。
これはカタログ買った。

バーミンガムには他に、Birmingham Museum & Art Galleryていうでっかい美術館があって、ついでに寄ってみる。
ここには、The Pre-Raphaeliteギャラリー、ていうラファエル前派に特化したコーナーがあって、なぜかというとEdward Burne-Jonesがバーミンガムの生まれだったりするから?  

John Everett Millaisの"The Blind Girl" (1856) - 虹! とか、大理石彫刻でAlexander Munroの"Paolo and Francesca"(1851-1852) とか。 じんわりうっとり、それだけでもいいの。

他の展示でおもしろかったのは"The Birth of the British Curry"ていうので、英国で最初にできたカレー屋はロンドンのだとか、当時の厨房の様子とか従業員の寝るスペースとかが並んでいる。 カレーに対する特別な思いみたいのって、どこの国にもあるんだねえ。(あんまよくわかんないけど)

Impressionists in London
11月25日の土曜日、Tate Britainで。
最初に告知を見たときはどういう内容のかよくわかんなかったのだが、1870年代、Franco-Prussian War - 普仏戦争の戦火を逃れてロンドンにやってきたフランスの画家たち -  Monet, Tissot, Pissarro, Sisley - などが描いた当時のロンドンの社交界とか田舎風景とかを纏めたもの。

彼らの描いたロンドン、いいでしょ? でもなく、彼らからしても逃げてきて他にすることないから描いたのよ、程度かも知れず、あんま焦点が定まった展示にはなっていないのだが、19世紀のロンドンの風物(フレンチふりかけ)を絵葉書を見るみたいに眺める、そういう面白さはあったかも。

これらと文脈は異なるものの同時期にロンドンの川を描いたWhistlerの"Nocturne"のシリーズが素敵だった。
あと、おもしろかったのはMonetの"Leicester Square at Night" (1905) - まるでHodgkinみたいな抽象になっていて、このころからあの界隈ってあんなだったのかな、って。

Rachel Whiteread
同じ25日に。 93年にターナー賞を受賞しているRachel Whitereadの回顧展。(いつもつい「ホワイトヘッド」て読んでしまう)
だだっぴろい空間に彼女の彫刻とかオブジェとかがごろごろ置かれていて、その置かれ方も含めてなんだか異物のおもしろさ。
なんで水枕? がこんなふうに置いてあるのか? それを見たときに感じる微妙な違和感はなにから、どこから来るものなのか?
スケールの違い、素材(感)の違い。 それはこっち側(認識、識別)にあるのか、対象のほうにあるのか。

Thomas Ruffの写真を見たときに感じるあれ、と少しだけ近い気がした。
単に「見る」ことだけでは我慢できないような何かが頭の奥を突っついてくる、動くわけがないのに何かが動いてきて、そこにいるの。

あと、Tate Britainでやってた小展示 - 新たに購入した絵で、
William Stott of Oldham(1857-1900)の  "Le Passeur (The Ferryman)" (1881)がすばらしくよかったので今度行くひとは見てみて。
夕暮れ時、女の子ふたりが川を眺めているだけなんだけど。

http://www.tate.org.uk/art/artworks/stott-of-oldham-le-passeur-the-ferryman-t14872

Cézanne Portraits
11月26日、National Portrait Galleryで見ました。 Musée d'Orsayでやっていた展示が巡回してきた(んだよね?)

Cézanneはなんでも見ることにしているので普通におもしろかったのだが、肖像画だと2014-15年にメトロポリタン美術館でやった"Madame Cézanne" - Hortense Fiquet を描いた29作品のうち25枚を集めた展示のほうが勉強になった気がした。
最初期の自画像と最後の自画像との対比(できる距離に置いてほしいのにー)がいろんな意味でおもしろかったかも。
晩年の肖像画たち、描かれた人々の目はほぼ窪んだ虚ろな穴になっていて、亡霊のようで、でもそこにあることは、あるの。
(ヒトを描いているかんじはあまりないかも。 ヒトもリンゴも、割とどうでもよくなっていたのかも)


まだあるのだが長くなりそうなので一旦、きる。
12月は絵をいっぱい見ることになりそう、ていうか、見たいので見るから。

12.05.2017

[music] Alison Moyet

少し前、11月15日の晩、London Palladiumで見ました。2 Daysの2日目、初日の14日はあっという間に売り切れ、これは追加日のやつ。
最近の曲をTVで歌っていたのを見て、いいなー、て思ったのと、やっぱし見ておきたいひとだったし。

それにしても最近は.. いや昔からそうだったのだがスケジュール管理ていうのがぜんぜんだめな子で、電子の予定表複数もなんとか同期させようとしつつ、「ちゃんと同期させること」、ていうTo-Doもどこかに飛んでしまうばっかりで、これも前日くらいになってプライベートの予定表に"am"て書きこまれているのを見つけて、夜の時間帯に"am"とはこれってなんだったかしら? と半日くらい頭の底を掻きだして出てきた。
ぜんぶ紙のチケットだったころはわかりやすかったのに、最近は電子だったり、現地お取り置きだったり、郵送だったりばらばらで、どれがどれだかわかんないのでお手上げでとても困っている。 ← ぜんぶ自分がわるいのに。

というわけで、この日、BFIでの"Jules and Jim" (1962)とダブってしまった自分の頭をトンカチでぶん殴ってからこっちにきた。

直前までおろおろしていたので何時に始まるのか前座があるのかもわからず、しかたがないので早目に行って、珍しく前座のひとからちゃんと見た。

Hannah Peelさんというソロのひとで、手回しオルゴール - テープの穴は自分で開けたという - に長くのびた紙テープをセットして、これをからから手で廻しながら童謡みたいにNew Orderの"Blue Monday"を歌って、これがとてもよくて、あとは鍵盤とバイオリンとエレクトロを束ねたりぶちまけたり、ひとりで空間まるごと押さえこんでいた。

そしてその押さえこみは本編のAlison Moyetでは更にものすごくなって、完全に押さえこまれるふう。
ステージは極めてシンプルで、両脇に男性ふたり - キーボードを中心とした何でも屋風情 - が立っているだけ。

R&Bとかディーバとか、まだそんな形容とか枠とかがまったく存在しなかった頃に出てきたYazooという2人組は、ぜんぜんきらきらしていないそのルックス風体からして異様で、でも一番すげえと思ったのはVince Clarkeの固くて透明なシンセに絡みつくドスの効いた彼女の強い声で、それは一聴すると咆哮のようなのに、ねじ込むように歌としての調性を保ちながらこちらにやってきて、当時そいうのをあんまし聴いたことなかったから夢中になった(すぐさめたけど)。

Yazooが消えたあと、彼女がソロをやっていることは知っていたが、Vince ClarkeのほうはErasureで爆発していることがわかっていたし、それなしでも彼女の歌はじゅうぶん巧いのだからきっといいよね、くらいで止まっていたの。

彼女、6月のGuardian紙のインタビューで“What has been your biggest disappointment?”ていう問いに“I am my biggest disappointment.”て平然と答えていて、ああ変わらないんだわ、て思ったものだが、ライブは極めて安定した力強いシンガーのものだった。

曲は彼女の新しいソロからのが中心で、でもやっぱり”Only You”とかが挟みこまれるぞくぞくわーわーになって、 更に終わりの方の”Situation”になると、みんな前の方に押し寄せてライブハウス状態になる。前に走っていくのは年寄りばっかしで、しかも連中の踊り方ときたら… 目を伏せたくなるようなあの頃の、腕をあげてくねくねするやつで、ああこんなふうに時間は止まるもんなんだねえ、てしみじみ感心した。
そして、もういっこあるよ、と思ったあの曲はやっぱりアンコールの終わりで、”Don’t Go”って、延々終わりそうになくて怖くなったが、結局Goして、でもその翌日までずーっと頭のなかで回っていたの。

12.04.2017

[film] Film Stars Don't Die in Liverpool (2017)

11月19日、土曜日の午後、PiccadillyのPicturehouse Centralで見ました。

81年に亡くなった伝説の(と言っていいよね)ハリウッド女優Gloria Grahameの晩年の恋人だったPeter Turnerが87年に発表した手記を映画化したもので、Gloria GrahameをAnnette Beningが、Peter TurnerをJamie Bellが演じている。

こないだのLFFで、この映画に関連したAnnette Beningのトークがあったのだが、やっぱ行けばよかったなあ、としみじみ後悔している。

81年、劇場(見えたのは『ガラスの動物園』の台本?)のドレッシングルームでGloria (Annette Bening)が倒れたと聞いたPeter (Jamie Bell)はLiverpoolの実家に彼女を引き取って看病をしつつ、彼女との出会いの頃からの日々を振り返っていく。

70年代の末、ロンドンで俳優の修行をしていたPeterは同じフラットで復帰の機会を狙ってがんばっていたGloria Grahameと出会って、ふたりはあーらびっくり恋におちて、途端にいろんなことがいっぱい降ってくる。 どちらかというと田舎のイギリス人とハリウッド慣れしたアメリカ人、29歳という歳の差、これから昇ろうとしているキャリアと一度は頂点(オスカー獲ってるし)まで行ってしまっているキャリアと、結婚したことないのと離婚歴4回と、溝とか壁とか呼ぶのも面倒になるくらいいろんな違いがいっぱい現れて、でもこれはGloriaがえらい、というか天真爛漫のアメリカ(西のほう)人のすごさだと思うのだが、とにかくPeterをLAやNYに引っ張って連れ回して、Peterはびっくりしたりあきれたりしつつも、後半にいくにつれて今度は病気で弱くなっていく彼女を支えて引っ張っていくの。

難病モノのせつなさとかバックステージものの感動もあるのだが、これはやはりふたりの男女がふたりにとって思いがけないようなすばらしい出会いと旅をするラブストーリーで、そしてそれ以上にAnnette BeningとJamie Bellのふたりの俳優の映画でもあるねえ、と思った (ふたりだけじゃなくて、Peterの母を演じるJulie Walters も、Gloriaの母を演じるVanessa Redgraveもすごいの、あたりまえのように。)

最後はもちろん辛いのだが、でもAnnette Beningのすごいのは思いっきり見栄はって背伸びして、べったべたに泣かさないところではないか。Gloria Grahameが実際にそんなふうだったのか、その辺をどれくらいリサーチしたのかわかんないけど、とにかく背筋がのびるかっこよさ、ていうのはこういうのだねえ、と思って、この感覚は"20th Century Women"にも確かにあるよね。
彼女がちょっと上を向いて、頬の奥のほうをかちっ、て乾いた音で鳴らすのが素敵で、一生懸命練習しているのだが、できねえわ。

エンドロールでElvis Costello先生の新曲"You Shouldn’t Look at Me That Way"が流れて、これもすごくよいの。"She"よかぜんぜんよいから。

なんとなく、成瀬巳喜男の役者ものを思い浮かべた。 あそこまで痺れないけど、ほんの少しだけあるかも。

本作の上映を記念して、10月〜12月のBFIではGloria Grahameの特集 - "Good at Being Bad -The films of Gloria Grahame" - をやっていて、このうち"The Big Heat" (1953)と"It's a Wonderful Life" (1946)はふつうの映画館でもリバイバル上映されている。後者のはクリスマスの恒例でもあるけど。

http://www.bfi.org.uk/news-opinion/news-bfi/lists/gloria-grahame-10-essential-films

いまのとこ、この中から ”In a Lonely Place" (1953)と"Human Desire" (1954)を見てきたのだが、映画自身のすばらしさもあるにせよ、François Truffautが彼女を評して書いた"It seems that of all the American film stars, Gloria Grahame is the only one who is also a person."ていうのがとてもしっくりくるなあ、って。 女性の弱さ - ただし男性監督が演出した女性の弱さ - を限りなく肌に近いところで無防備に見せることができるひとだったような。

それにしても彼女、2回目の結婚相手がNicholas Rayで、4回目の結婚相手はNicholas Rayの最初の結婚のときの子、つまり一時は義理の息子だった人とだって、なんかすごいねえ。