2.08.2011

[film] Doomed Love (1978)

土曜日は、ほんとは雪かみぞれのはずだったのにいやったらしい小雨で、なんでいやったらしいかというと、傘をさすべきかささないべきかの判断に迷うくらいの半端な降りぐあいで、みんな傘ささないのでいいかと思っていると結構びじゃびじゃになってしまってうんざりするのと、雨のせいで氷みたいにかちかちだった雪が溶けだしてあたりがぜんぜん美しくない泥水まみれになってしまうことなの。

で、髪を切りにいってご飯をたべて、Museum of the Moving Imageで1本見ました。

Manoel de Oliveiraの78年作品、"Doomed Love" (Um amor de perdicao)、- 英語字幕では"Ill-Fated Love" となっていた - 262分。 間に一回休憩がはいる。

もともとは45分 x 6回のTVシリーズとしてあったようだが、その辺はよくわからず。
リストレーションはオリジナルの16mmフィルムを35mmにブローアップしてて、その堂々とした力強さに叩きのめされる。

19世紀のポルトガルの小説家、Camillo Castelo Brancoの小説”Amor de Perdicao” - 『破滅の恋』(1862) - 読んでない - の映画化。 舞台も18世紀頃のポルトガル。

敵対するふたつの家族の間で引き裂かれた恋、ロミオ&ジュリエット的な悲恋のお話で、ストーリーも登場人物もそんなに複雑ではない。 シモンがテレサに恋をして、でも両家は断固それを許さず、テレサにはそのいとこがアプローチしてくるが、シモンはそいつを撃ち殺して牢獄に幽閉されるの。 あとはシモンに献身的に尽くす鍛冶屋の娘マリアナがいて。 
ずうっと救いのない、どんづまりの恋の顛末がふたりの間の手紙を通して切々と語られ、最後にインドに島流しになるシモンを窓から見送ってテレサは・・・ 

この究極のロマン小説の映画化にあたり、Oliveiraは小説の言葉と世界を安易に映像に置き換えるようなことはせず、小説の語りをそのまま映像のなかにぶちこんでいる。 つまり、主人公たちの会話も、彼らのやりとりする手紙も、小説のナラティブも、全て映画のなかにあって、映画を見るわれわれは、小説のページをめくるのと同じスピードで、同じ密度で、小説世界/映画世界のなかに入りこむことになる。

映像を小説の補完的な役割のなかに置くのではなく、小説が描こうとした絶対的などんづまりの愛を可能な限り緻密に詳細にあぶりだすために、言葉と映像はしっかりと撚りあわされて目の前に提示される。
人物のクローズアップは殆どなく、ナレーションと共に出来事は語られ、手紙は文面と共に読みあげられ、時として主人公たちはこちらに向かって語りかけてくる。

元々16mmだったせいもあるのか、映像は全体にぼうっとした輪郭のなかにあり、暗い室内だとなにが映っているのかよくわからないところもあったりするのだが、それ故にふたりの強い強い意志が、それだけが世界を浮かびあがらせ、絵画のような佇まいのなかにその光をはっきりと認めることができる。
その造形の力強さが、冒頭の格子から建物の中から奥から差し込む光と共に、ずうっと持続していくので、すごーい、って口をあけて見ているしかない。

あと、これはもうしょうがないのだが、喋られるのも語られるのも、とにかくものすごいテキストの量なので、英語字幕を追っかけるのがほんと大変でしぬかとおもった。 

あと、Oliveiraの最近の作品、”Eccentricities of a Blond Hair Girl”とか"The Strange Case of Angelica"のモティーフ、例えば窓越しの眼差しでやられちゃうとか、生死の境を超えて結ばれるなにか、とか、は既にこの時点からあったのだなあ、としみじみした。 
そしてこんなふうな愛とかロマンとかに対する絶対的な服従とか献身とかが、このおじいさんを映画に駆りたてているのだとしたら、それってなんてすごいことでしょう、と。

終わったのが7時前で、ぼろ雑巾以下の状態だったのだが、このまま帰ったら夢でうなされそうな気がしたのでVillageのIFCで音楽ドキュメンタリーを1本見て帰ろうと雨のなか突っこんでいったらチケット売り切れてて唖然。 前の晩の悪夢を思い出したが、ここから先に踏みこんでがんばる気力がでるとは思えなかったので、しょんぼりと帰ったのだった。

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