3.15.2021

[film] Un jeu brutal (1983)

3月7日、日曜日の昼間、アメリカのMUBIで見ました。

Jean-Claude Brisseauの作品は2019年、BFIのMaurice Pialat特集でかかった“De bruit et de fureur” (1988) - “Sound and Fury”がとてもおもしろかったので。“Sound and Fury”はこの作品の後に撮られている。 英語題は”A Brutal Game”、邦題は『野蛮な遊戯』。

明るい青のタイトルバックからすでにBrisseau。それに続いて『カラマーゾフの兄弟』からの引用で、なぜ自分が子供たちのケースを取りあげるのかについて、自分はわざとヒューマニティについて語る対象を狭めたのだ、という箇所が。(どの辺だったか?)

冒頭、森のなかで水着の上をとって日光浴をしている少女の上に男が襲いかかって殺害するシーンがあって、それが主人公のChristian Tessier (Bruno Cremer)であることがわかる。(つまりミステリーでもなんでもない) 続いて研究所の建物の前で書類や写真を燃やしているTessierのところに母が心臓発作で倒れて会いたがっているすぐ来い、という電報が入って、彼は実家に向かう。

実家に入る前に年配の男が建物から出てくるのを見て、あとでその人物について、パスツール研究所の上司だったがもう辞めたので友達でもなんでもないと吐き捨てるようにいう。横になっている母を見舞うと、下半身が障害で動かない娘のIsabelle (Emmanuelle Debever)の面倒を見てあげて、そのために生家のSaulièresに帰って一緒に暮らして触れ合ってほしい、と懇願される。

次のシーンで母は棺で冷たくなっていて、葬儀には出ないのかと問われると、もうこうして石のように冷たくなっている - 出たって意味ないだろう、とどこまでも冷たい。 でも遺言通りに召使いのLucienを送って修道院にいたIsabelleを引き取ってSaulièresの家に引き取る。 その前にカフェでIsabelleに再会した父が彼女になにを考えているの? と聞くと、町の人々を見ているの - どこに爆弾を置けばいちばん多くの人を殺せるかって、ひとつめの爆弾はやっぱりマーケットかな、で逃げまどう人たちを狙って2つ目と3つ目を… とか、薄汚れた人間どもめ、とかぶつぶつ言っているのでこれは重症かも、って。

田舎に戻したIsabelleは水辺で虫をいじめたり叩き潰したり残酷で、部屋も散らかり放題で荒れているし、絵を描かせようとしても絵の具を手でこねて遊ぶだけ、ほぼ動物の野生状態なので、朝6時起床で7時朝食で7時夕食で9時就寝とか厳格なスケジュールを書いて、それに従わせるように、部屋も自分で片付けさせて、従わなかったら24時間飯抜き、とか言いつけて、Lucienの他に教育係としてAnnie (María Luisa García)を住み込みにして、傍につけさせる。

AnnieはIsabelleに呼吸法を教えたり、一緒にジャック・プレヴェールの詩を読んだり、彼女の部屋も片付いてきて人間ぽくなっていって、Annieが部屋で裸になって本を読んでいるのを覗いて自分もひとりの時に裸になってみたり。そんなある日、水辺で遊んでいたら(もう虫は殺さない)水のなかに落ちて、それを助けてくれたのがAnnieの弟のPascal (Albert Pigot)で、バイクでいろんなところに連れていってくれる彼に懐いていく。

他方で、町では子供達を狙った第2 - 第3の殺人が起こっていくのだが、犯人の動機も痕跡も不明なまま、TessierとIsabelleの関係は、強い服従を強いるという点では変わらず、ただIsabelleは人間的な分別がつけられるようにはなっていて、そこに大きな貢献をしたPascalは、部屋にGFを連れ込んでいるところをIsabelleに見られて大騒ぎの末追い出されて、単純な愛情 → 成長の物語にはなっていかない。

ある日、Isabelleが持っていた鍵を使って父親の部屋に入ってみると、並べられた知らない子供達の写真に✖️がついていたりして、ひょっとしたらこれは…

仕事で過ちを犯した、として研究所から追い出された男=父と、幼いころから家族に追い出されて隔離されて育った少女=娘がいて、一方は野蛮なふるまいに歯止めが効かなくなっていき、もう一方は徐々に野蛮状態を脱して人間性を獲得していく、というのはたまたまで、それぞれが抱える憎しみも全く別の性質のもので、両者に因果関係はない。一方は大人で他方は子供、というのもたまたまのことで、そこに物語的な必然もなにもない。 人殺しはただ人を殺すし、殺さない人は愛があるから、優しいから殺さない、というわけでもない。 という自然状態からどんな物語的な要素を引き出すことができるのか、という試み。 ここに悲劇的な(文学的な)なにかを読み取ることは難しくて、ただ怖い、ただ美しい(PascalがIsabelleを連れていく山の上とか)、そういうのしかない。 Maurice Pialatの作品に垣間見ることができる人の業みたいなのも希薄だし、これをやり出したらなんでもありになっていってしまわないだろうか、というのは少しだけ。

Bruno Cremerの尖った鼻とものすごく青い目がだんだん怖くなっていく、そのかんじがまた。
 

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