3.11.2021

[film] 乱れる (1964)

2月27日、土曜日の午後、Criterion Channelで見ました。だらだら成瀬を見ていくシリーズ。
英語題は”Yearning”。..「あこがれ」はちょっと違うかも。「乱れる」ことが肝心なポイントだから。

戦後、高度成長期の清水市で、地元のスーパーマーケット「しみずや」の宣伝カーが商店街をのしていて、商店街の酒屋 – 森田屋で礼子(高峰秀子)が店番をしている。東北からの勤労奉仕の後に森田屋に嫁いできた彼女は結婚して半年で夫を亡くしてから18年間、ひとり(小僧はいるけど)で店のやりくりをしてきたのだが、スーパーの安売り攻勢には頭が痛い。

そこの次男で礼子の義弟の幸司(加山雄三)は大学を出ても一回就職してすぐ辞めて酒に麻雀に女遊びにぶらぶらしてて、スーパーの従業員と喧嘩して相手の頬っぺたに噛みついて警察の世話になったりしている。この状態のままこれから店をどうするのか、というのは家の誰もが考えていて、義妹の久子(草笛光子)は彼女の夫(北村和夫)と幸司を会わせて、店をスーパーにする計画を持ちかけたりするのだが、幸司は、それをやるなら礼子を重役にすべきだと言って折り合わない。でもこのままで母が死んだら、幸司が結婚したら、とか言っているうちにもう一軒スーパーができる話が流れてきて、もうやってられない、と商店街の麻雀仲間のひとりは首を吊ってしまう。

ある日、礼子は店に来た幸司の恋人るりこ(浜美枝)と喫茶店で会って、そのことで幸司にあなたこれからどうするつもり?と問い詰めると、7つの時にうちに来たときから義姉さんのことをずっと好きだった、結婚しなかったのも東京に行かなかったのも義姉さんの傍にいたかったからだと告白され、仰天して動転して、そんなことを言うのはやめて - やめないのなら出ていきます、って返すのだが幸司の方が出て行ってしまう。

翌日お寺で待ち合わせをして、明日みんなの前でちゃんと言うから、とその翌日礼子は家族全員を集めて、好きな人ができたので出ていくことにしましたお世話になりました、と。幸司は「うそだ」って言って(うそじゃない、死んだ夫のこと、と後でいう)、自分の家族に向かってみんなで邪魔になったから追いだそうとしている、と責めて母はおろおろするのだが礼子はひとり揺るがなくて荷物を纏めて国に帰ると。

帰郷のホームで義母と別れて列車に乗ったら車内に幸司がいて送っていくという。最初は離れて座っていたのが、雑誌を交換したりみかんを食べたり(あのみかんなつかし)近寄っていくふたりの旅は悪くなくて、上野で乗り換えて駅弁を食べて、駅のホームで立ち食いそばを食べる(立ち食いそば食べたい)幸司を見ているうちになにか堪らなくなったのか礼子は次の駅で降りましょう、って降りてバスで温泉街に向かってふたりで宿をとって…

お見合いや結婚や離婚や死別や事故事件といった出来事、あるいは漫然と流れていく日々が登場人物たちの意識や行動を変えていく、そういうメロドラマではなくて、隣にいた男の突然の告白によって「乱れ」てしまった女性がどう乱れていくのか、あるいはその状態をどう収拾させようとするのか、それらの苦悶を描いたドラマ。「流れる」はある地点Aから地点Bまでの距離と時間のなかで起こることだが、「乱れる」はある瞬間の断面 - 例えば感情 - の状態を表すもので、それを「乱れている」と判定するのはその人による。本を積んでいるだけなのに「散らかしている」っていう人がいるのと同じように - ちがうか。

ここで「乱れる」を体現するのは礼子で、彼女をその状態にしてしまったのは彼女を嫁として迎え入れた家の幸司で、それを元の状態に戻すにはどうすればいいのか、幸司には単に「好きだったんだ」の話でも礼子にとっては温泉街で切々と訴えるように「堪忍してちょうだい..」でしかない。

これ、相手の顔立ちが端整な加山雄三だからこんなにしっとりしたメロドラマふうに見えるけど、そうじゃないそこらの男がやったら、成長できない男のストーカー話とか、長男の嫁虐め話にしかならない、それくらいひどく残酷な話(並置されるスーパーマーケットが地元の商店街を壊していくのと同様に)だと思う - 同じように成瀬作品における上原謙の鬼畜っぷりも参照のこと。 なので、ラストがああなるのは悪役が地獄の釜底(だから温泉)に落ちて死んじゃうのと同じ「報い」のようなものなのだと思う。(それか、幸司が宿を出た飲み屋で出会う、そこを60年出たことがないと語るおかみ浦辺粂子の呪いか)

でも、そんなのは一途でやさしい礼子には通用しないし、幸司は決して悪い子ではないので、彼女は「怒る」ことも「流す」こともできなかった。このように自身の「乱れる」状態を内側に抱えたまま遠くに身を置くことが精一杯だった。 自分は「乱れる」状態が許せなかった、でも乱れない状態がもう永遠にやってこないことを知った瞬間の彼女の顔のショットはすさまじい。高峰秀子という女優がいかにとんでもないものかを思い知った。


あの日から10年。 まさかこの国から原発がなくなっていないとは、あんなひどい東電も解体されていないとは。恥を噛みしめつつ、夢のなかで黙祷します。

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